最前線の子育て論byはやし浩司(801〜900)


(801〜900)
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最前線の育児論(800〜850)
最前線の子育て論byはやし浩司(800)

●恋愛の寿命

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心ときめかす、恋心。しかしその恋心
にも、寿命がある。

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 その人のことを思うと、心がときめく。すべてが華やいで見える。体まで宙に浮いたようになる
……。恋をすると、人は、そうなる。

 こうした現象は、脳内で分泌される、フェニルエチルアミンという物質の作用によるものだとい
うことが、最近の研究で、わかってきた。恋をしたときに感ずる、あの身を焦がすような甘い陶
酔感は、そのフェニルエチルアミンの作用によるもの、というのだ。

その陶酔感は、麻薬を得たときの陶酔感に似ているという人もいる。(私自身は、もちろん、麻
薬の作用がどういうものか、知らない。)しかしこのフェニルエチルアミン効果の寿命は、それ
ほど長くない。短い。

 ふつう脳内で何らかの物質が分泌されると、フィードバックといって、しばらくすると今度は、
それを打ち消す物質によって、その効果は、打ち消される。この打ち消す物質が分泌されるか
らこそ、脳の中は、しばらくすると、再び、カラの状態になる。体が、その物質に慣れてしまった
ら、つぎから、その物質が分泌されても、その効果が、なくなってしまう。

しかしフェニルエチルアミンは、それが分泌されても、それを打ち消す物質は、分泌されない。
脳内に残ったままの状態になる。こうしてフェニルエチルアミン効果は、比較的長くつづくことに
なる。が、いつまでも、つづくというわけではない。やがて脳のほうが、それに慣れてしまう。

 つまりフェニルエチルアミン効果は、「比較的長くつづく」といっても、限度がある。もって、3年
とか4年。あるいはそれ以下。当初の恋愛の度合にもよる。「死んでも悔いはない」というよう
な、猛烈な恋愛であれば、4年くらい(?)。適当に、好きになったというような恋愛であれば、半
年くらい(?)。

 その3年から4年が、恋愛の寿命ということにもなる。言いかえると、どんな熱烈な恋愛をして
も、3年から4年もすると、心のときめきも消え、あれほど華やいで見えた世界も、やがて色あ
せて見えるようになる。もちろん、ウキウキした気分も消える。

 ……と考えると、では、結婚生活も、4年程度が限度かというと、それは正しくない。恋愛と、
結婚生活は、別。その4年の間に、その2人は、熱烈な恋愛を繰りかえし、つぎのステップへ進
むための、心の準備を始める。

 それが出産であり、育児ということになる。一連のこうした変化をとおして、今度は、別の新し
い人間関係をつくりあげていく。それが結婚生活へとつながっていく。

 が、中には、そのフェニルエチルアミン効果による、甘い陶酔感が忘れられず、繰りかえし、
恋愛関係を結ぶ人もいる。たとえばそれが原因かどうかは別にして、よく4〜5年ごとに、離
婚、再婚を繰りかえす人がいる。

 そういう人は、相手をかえることによって、そのつど甘い陶酔感を楽しんでいるのかもしれな
い。

 ただここで注意しなければならないのは、このフェニルエチルアミンには、先にも書いたよう
に麻薬性があるということ。繰りかえせば繰りかえすほど、その効果は鈍麻し、ますますはげし
い刺激を求めるようになる。

 男と女の関係について言うなら、ますますはげしい恋愛をもとめて、さ迷い歩くということにも
なりかねない。あるいは、体がそれに慣れるまでの期間が、より短くなる。はじめての恋のとき
は、フェニルエチルアミン効果が、4年間、つづいたとしても、2度目の恋のときは、1年間。3
度目の恋のときは、数か月……というようになる。

 まあ、そんなわけで、恋愛は、ふつうは、若いときの一時期だけで、じゅうぶん。しかも、はげ
しければはげしいほど、よい。二度も、三度も、恋愛を経験する必要はない。回を重ねれ重ね
るほど、恋も色あせてくる。

が、中には、「死ぬまで恋を繰りかえしたい」と言う人もいるが、そういう人は、このフェニルエチ
ルアミン中毒にかかっている人とも考えられる。あるいはフェニルエチルアミンという麻薬様の
物質の虜(とりこ)になっているだけ。

 このことを私のワイフに説明すると、ワイフは、こう言った。

 「私なんか、半年くらいで、フェニルエチルアミン効果は消えたわ」と。私はそれを横で聞きな
がら、「フ〜ン、そんなものか」と思った。さて、みなさんは、どうか?
(はやし浩司 恋愛 恋愛の寿命 フェニルエチルアミン ドーパミン効果 麻薬性)


++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

●読者の方から

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マガジン読者の方から、意見、希望などが、届いて
います。紹介させていただきます。

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【浜松市K町のDUさんより】

【 マガジンでは、どんなテーマを希望されますか? 】:

子育てのノウハウ。
教育評論。
政治問題。
社会評論。
宗教問題。
心の問題。
家族の問題。

【 これからもマガジンを購読してくださいますか? 】:できるだけ毎回読む。
【 ご相談をお寄せください。(このままマガジンに掲載することもあります。あらかじめ、ご了解く
ださい。) 】:

【 ご希望をお寄せください。 】:

こんばんは。蒸し暑い夜ですね。
今日のメルマガを読んで、林さんに教えていただきたいことがあり、メールさせていただきまし
た。

お忙しいのは承知の上のこと、申し訳ないと思いつつお願いせずにはいられませんでした。
中国、韓国問題です。

歴史をロクに勉強していないので、アジアの国々と日本について、子供たちに話してやることが
できません。

どうぞ参考になる文献を教えてください。
先日、N図書館で一冊借りて読んでみましたが、台湾出身の方が書いたそれはあまりに偏って
いて怖いほどでした。
オススメのものを教えていただけたなら、幸いです。


++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

【静岡市GNさんより】

【 マガジンを読んでくださっていますか? 】:ほとんど毎回、読んでいる。
【 ホームページをご覧くださっていますか? 】:ときどき見る。
【 マガジンは、おもしろいですか? 】:

たいへんおもしろい。
たいへん、役立っている。
共鳴するところが多い。
林の思想は、常識的だと思う。
林の思想に、90〜100%共鳴する。

【 マガジンでは、どんなテーマを希望されますか? 】:

子育てのノウハウ。
子育てエッセー。
教育評論。
生活一般。
政治問題。
社会評論。
宗教問題。
心の問題。
家族の問題。
私の家族の様子。
夫婦の問題。
親子の問題。
二男の家族(アメリカの生活)
受験問題。
BW教室のニュースなど。

【 これからもマガジンを購読してくださいますか? 】:毎回、必ず読む。

【 ご相談をお寄せください。(このままマガジンに掲載することもあります。あらかじめ、ご了解く
ださい。) 】:

こんにちは!!
もうすぐ、600号ですね。いつも、楽しく、また、ピリッと辛口部分ありで、拝読しています。

何事も、夢中になると、偏向していきやすいので、子育てについて自分自身が、偏らないよう
に、マガジンを読むこと大切と思っています。

子供が小学校に上がり、私自身が幼稚園時代とはまた違うノウハウを、必要としていることを
感じています。自分自身が、立場かわれば、マガジンの深く読む部分、感銘を受ける部分が、
変わってくるので、たとえ、同じ内容でもいいですから、ぜひぜひ、長く続けてほしいです。

小学校も自分自身のときと思うと、比較対象にならないほど変わっていることを、感じていま
す。指導も、とても丁寧(ていねい)です。生活科というものも、私の時代にはなくて・・・今は、そ
の中の一環として、川に生き物を探しに行ったり、公園に行って、遊ぶときの注意事項なども
学んできたりしています。今後どのようにカリキュラムが進んでいくのか、(良くわからないだけ
に)楽しみです。

先生のマガジンの中のBWを指導されている一場面が時々、入っていますが、とても面白いで
す。子供との受け答え、先生自身の指導と狙い、時にお母さんたちの表情などが入り・・・その
中でも、考える子供を育てようとする、先生の取り組みに共感を覚えます。

私自身も家庭で子供を指導するときのヒントにさせてもらったりしています。(先生のようにはも
ちろんうまくいきませんが・・・)

上記のアンケートの思想の標準的と、常識的というのは、いつも迷わされる質問です。
私から見れば、常識的と思いますが、標準的というと、そうなのかどうなのか??? 今の世
の中の標準のほうがちょっと・・・というようなで、最近はこのように答えるようにしています。

さて、むしむしするような今日この頃。これから、本格的な夏を迎えますが、ここ数年の暑さ
は、すごいです。お体に注意して、ご活躍ください。

それでは失礼します。

++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

【DU、GNさんへ、はやし浩司より……】

 ご意見、ありがとうございました。

 マガジンを発行するとき、いつも内心で思っていることは、「できるだけ、政治の話は避けよ
う」「宗教の話は避けよう」ということです。

 しかし意外と意外。ときどき、読者の方から、こうしたメールをいただきますが、みなさん、政
治や宗教の話を求めてくださるのには、驚いています。(以前、1人だけでしたが、「政治の話
は読みたくない」と言う人もいました。)

 ここで少し、回り道をします、ね。

 今、上に、6行ほど、文章を書きました。どこか読みづらく思われませんでしたか? そう、一
つの文章が、長すぎますね。

 そこで、こういうときは、こう書き改めます。

『ご意見、ありがとうございました。

 マガジンを出しているとき、いつもこんなことを心の中で決めています。「できるだけ、政治の
話は、やめよう」「宗教の話はやめよう」とです。

 しかし、意外と意外。みなさん、政治や宗教の話を求めておられるのには、驚きます。以前、
1人だけ、「政治の話は、読みたくない」と言う人もいましたが……。』

 少しだけですが、読みやすくなりましたか?

 さらに読みやすくするためには、こうします。

『ご意見、ありがとうございました。

 できるだけ、政治や宗教の話は、避けるようにしています。しかし意外と意外、みなさん、政
治や宗教の話に興味をもっておられるのには、驚きました。

 以前、1人だけですが、「政治の話は読みたくない」と言った人もいましたが……。』

++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

 生徒たちの作文指導をしているみたいで、ごめんなさい。で、本題!

●宗教

 私自身は、もともと法科の学生ということもあって、政治や宗教には、たいへん興味がありま
す。とくに、カルト(セクト)には、関心があります。

 学生時代は、毎晩のように、その団体の信者たちと、議論ばかりしていました。あの人たち
は、しつこいですね。一度、相手にすると、つぎつぎと、彼らのいうところの(上層部)を送りこん
できます。

 それで、「毎晩のように……」ということに、なりました。

 おかげで、カルト(セクト)には、詳しくなりました。で、結果的に、気がついたときには、5冊の
本を書いていました。あちこちの週刊誌や月刊誌に書いた記事を、まとめたものです。

 が、カルト(セクト)が、それでなくなるわけではありません。雨後の竹の子のように、つぎから
つぎへと生まれてきます。そこである日、気がつきました。

 「カルト(セクト)があるから、信者がいるのではない。それを求める信者がいるから、カルト
(セクト)が生まれるのだ」と。

 だからいくらカルト(セクト)をたたいても、意味がありません。信者たちは、A教団に疑問を感
ずると、今度はA教団からB教団へと、移動するだけです。

 そのうち、いろいろなカルト(セクト)からの攻撃が多くなりました。一時は、毎週のように、10
〜20人の信者たちが、押しかけてきたこともあります。あの人たちは、信仰に「命」をかけてい
ますから、こわいですよ。ふつうの神経では、対処できません。

 しかし、こうした戦いで、得たものも、あります。「勇気」です。それ以後、私は、こわいもの知
らずになりました。その勇気が、こうして自分の意見をマガジンに書く、原動力にもなっていま
す。

 当時は、「今に、お前は、地獄へ落ちる」とか、「気が狂って死ぬ」とか、さんざん脅されました
が、今でも、元気に、平和に暮らしています。

 カルト(セクト)については、ときどき、マガジンの中で書いていますので、また参考にしてくだ
さい。こうしたカルト(セクト)と戦うときの、ゆいいつの武器は、「常識」です。常識こそが、彼ら
を打ち破る、武器です。

 もし、彼らの話を聞いていて、心のどこかに迷いや疑問を感じたら、自分自身の常識に照ら
しあわせて考えてみることです。おかしいと感じたことは、おかしいと思えばよいのです。それで
答が出ます。

 ここで「カルト(セクト)」と書いていますが、日本では、「カルト」といいますが、日本の外では、
「セクト」といいます。要するに、狂信的宗教団体をいいます。

●政治 

 政治、とくに国際政治は、私は、ウラをみるようにしています。政治家たちが見せる表面的な
笑顔にだまされてはいけません。

 そのウラを見ていると、そのまた下に、別のウラが見えてきます。たとえば今回の、6か国協
議を見てみましょう。

 K国の最大の目標は、現在の独裁制の維持です。金xxは、いろいろ言っていますが、あと
は、すべて、こじつけ。あとから理由、です。

 韓国の最大の目標は、K国との戦争を避け、K国の攻撃の矛先(ほこさき)を、日本に向ける
ことです。核兵器問題は、本当のことを言えば、どうでもよいのです。

 中国の最大の目標は、ゆくゆくは、K国と韓国を、自国の政治プラス経済圏内に収めて、対
米、対日の戦略的緩衝(かんしょう)地帯にすることです。同時に、日本からのぼう大な戦後補
償金を、かすめ取る。

 ロシアの最大の目標は、中国と共通していますが、イラン問題、チェチェン問題もからんでき
て、ことは、やや複雑です。あわよくば、K国、韓国を足がかりにして、太平洋に窓口をあけた
いというところかもしれません。

 アメリカの最大の目標は、K国の核兵器開発問題を、国連の安保理に付託すること。同時
に、金xx独裁政権の崩壊です。もし6か国協議が進展するようなことになれば、アメリカ軍は、
韓国から撤退することになるでしょう。当然、米韓関係は、その時点で、終焉(しゅうえん)する
はずです。

 日本の最大の目標は、……? ここがよくわからない。大義名分のない、国際外交。それが
日本外交の特徴です。「自由を守るのか」「平和を守るのか」、それすらも、はっきりしない。マ
ネーだけの国。それが日本? 今は、アメリカにただひたすら追従していくだけ、といった状態
です。

 以上のような前提で、今度の6か国協議を見ていると、何が、ウラで、何が、ウラのウラかが
わかってくると思います。要するに、国際外交の基本は、「相手が、いちばんいやがることを、
先手を取って、こちらが先にする」ということです。

 たとえば今の日本にとって、一番、イヤ〜ナなシナリオは、南北朝鮮が、仲よく、共和制を敷
くことです。もし、そうなれば、日本のすぐとなりに、強大な軍事力(プラス核兵器)をもった、こ
れまた強烈な反日国家が誕生することになります。

 韓国も、K国も、そのあたりの日本の心情を、ヨ〜ク知っています。だから彼らは、日本に対
しては、そういう路線で、国際政治を進めようとします。

 だから日本としては、6か国協議の成功は、望ましくない。アメリカと共同歩調をとって、K国
の核兵器問題を、国連安保理にもちこむことなのです。もちろんその先には、国連によるK国
制裁が待っています。その制裁については、日本政府も、どうやらハラを決めたようですね。

 が、韓国も、K国も、そうなることを避けたがっています。制裁ということになると、朝鮮半島
で、本当に戦争が始まってしまう。いや、実際には、戦争は、始まらない。金xxの目標は、独裁
政権の維持です。戦争をしたら、元(もと)も子も、なくなってしまいます。今のK国には、戦争を
する力もない。

 では、日本は、どうするか?

 ここは音なしの構えで、じっとがまんを重ねながら、事務的に、ことを運ぶ。韓国にせよ、K国
にせよ、日本は、本気で相手にしてはいけない。勇ましい好戦論を説く人もいますが、同時に、
日本国内には、バリバリのK国工作員たちが、すでに200人前後もいることを忘れてはいけま
せん。いわゆる隠れシンパとなると、数千人から1万人以上もいると言われています。

 仮に日朝戦争ともなれば、韓国はもちろん、中国も、K国を支援するはずです。

 そうなれば、日本の政治経済は、メチャメチャ。

 現在、韓国、中国、ロシアは、猛烈な勢いで、6か国協議を成功させようとしています。それに
くらべて、アメリカと日本は、守勢に回っている。カギをにぎるのは、金xxですが、あの人ほど、
わけのわからない人もいない。アメリカの某国務長官ですら、「どんな人?」と聞いたほどです。

 たった一夜にして、6か国協議をつぶしてしまうことだって、ありえないことではありません。

 中国は、すでに、「協議は、1回ではすまない。2回、3回とつづく」と言明しています。しかしア
メリカは、「1回目で、方向性が見えなければ、2回目はしない」という姿勢です。韓国は、すで
に、数十万トンの肥料を支援していますし、加えて、今度は、50万トンの食糧援助をすると言
っています。

 今の日本は、言うべきことは言いながらも、事務的に、協議の結果を見守るしかないようです
ね。

 ただし、一言。日本のK首相よ、Y神社参拝だけは、おやめなさい。今日(7・12)、中国政府
は、改めて日本に警告を発しましたよ。それでも、Y神社を参拝するというのなら、日本は、中
国との戦争を覚悟するしか、ない。今は、そんな状況でしょうね。わかっていますか? Y首
相!

●恋愛の寿命(2)

 少し前、「恋愛の寿命」について、書きました。

 おもしろいですね。あのウキウキした気分さえも、実は、脳ミソの中で、ある物質によって作ら
れた感情だったとは!

 その物質が、フェニルエチルアミン。脳ミソの中のどこかで、スイッチ・オンになると、このフェ
ニルエチルアミンが、どっと分泌されて、脳ミソ全体が、甘〜イ陶酔感に満たされるというので
す。

 ふつうだと、そういう物質が分泌されると、同時に、それを打ち消す物質も分泌されるのだそ
うですが、このフェニルエチルアミンに関しては、それがないそうです。

 ですから、陶酔感は、しばらくはつづきます。が、いつまでもつつくわけではない。脳ミソのほ
うが、やがてそれに慣れてしまうというわけです。その期間は、3年から4年。

 つまりですね、どんな熱烈な恋愛でも、長くても、4年くらいで、冷めてしまうということです。ガ
ッカリ!

 だから若い人たちにあえてアドバイスするなら、恋愛したら、甘い陶酔感が残っているうち
に、はやめに結婚しなさいということ。3年も、4年も、ほっておいたら、熱も冷めてしまうという
こと。

 (そう言えば、長い恋愛期間をおきすぎたため、結婚しないで終わってしまったというカップル
は、多いようですね。)

 しかもですね、ここが重要ですが、最初の1回目が、とくに重要だということです。フェニルエ
チルアミンの効果は、最初のときが絶大だということです。2回目、3回目となると、今度は、免
疫性ができてしまい、効果も薄くなってしまうということ。それに長つづきしない。

 日本を代表する歌手の中にも、そういう女性がいましたね。数年おきに結婚、離婚を繰りか
えしながら、その周期がだんだんと早くなっていった人です。

 きっとフェニルエチルアミンによる陶酔感が忘れられず、それに溺れてしまったのではないで
しょうか。つまりは、フェニルエチルアミンという麻薬の中毒患者!……というわけです。

 いえ、私も、ときどき、電車の中などで、すてきな女性を見かけたりすると、このフェニルエチ
ルアミン効果を感ずることがあります。

 しかし免疫性のほうも、しっかりとできているため、長つづきしない。瞬間だけ、ほんの瞬間だ
け、恋のときめきを感じて、そのまま忘れてしまう。人間も、歳をとると、だんだんと、そうなるも
のなのでしょうか。

 ここ数日は、とくに、この問題について、考えています。おもしろい問題だと思います。

++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

最前線の子育て論byはやし浩司(801)

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子育てについて、考えてみました。

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●谷底の下の谷底

 子どもの成績がさがったりすると、たいていの親は、「さがった」ことだけをみて、そこを問題
にする。その谷底が、最後の谷底と思う。しかし実際には、その谷底の下には、さらに別の谷
底がある。そしてその下には、さらに別の谷底がある。

こわいのは、子育ての悪循環。一度その悪循環の輪の中に入ると、「まだ以前のほうがよかっ
た」ということを繰り返しながら、つぎつぎと谷底へ落ち、最後はそれこそ奈落の底へと落ちて
いく。

 ひとつの典型的なケースを考えてみる。

 わりとできのよい子どもがいる。学校でも先生の評価は高い。家でも、よい子といったふう。
問題はない。成績も悪くないし、宿題もきちんとしている。が、受験が近づいてきた。そこで親
は進学塾へ入れ、あれこれ指導を始めた。

 最初のころは、子どももその期待にこたえ、そこそこの成果を示す。親はそれに気をよくし
て、ますます子どもに勉強を強いるようになる。「うちの子はやればできるはず」という、信仰に
近い期待が、親を狂わす。が、あるところまでくると、限界へくる。

このころになると、親のほうが自分でブレーキをかけることができない。何とかB中学へ入れそ
うだとわかると、「せめてA中学へ。あわよくばS中学へ」と思う。しかしこうした無理が、子ども
のリズムを狂わす。

 そのリズムが崩れると、子どもにしても勉強が手につかなくなる。いわゆる「空回り」が始ま
る。フリ勉(いかにも勉強していますというフリだけがうまくなる)、ダラ勉(ダラダラと時間ばかり
つぶす)、ムダ勉(やらなくてもよいような勉強ばかりする)、時間ツブシ(たった数問を、一時間
かけてする。マンガを隠れて読む)などがうまくなる。

一度、こういう症状を示したら、親は子どもの指導から手を引いたほうがよいが、親にはそれ
がわからない。子どもを叱ったり、説教したりする。が、それが子どもをつぎの谷底へつき落と
す。

 子どもは慢性的な抑うつ感から、神経症によるいろいろな症状を示す。腹痛、頭痛、脚痛、
朝寝坊などなど。神経症には定型がない※。が、親はそれを「気のせい」「わがまま」と決めつ
けてしまう。あるいは「この時期だけの一過性のもの」と誤解する。「受験さえ終われば、すべて
解決する」と。

 子どもはときには涙をこぼしながら、親に従う。選別されるという恐怖もある。将来に対する
不安もある。そうした思いが、子どもの心をますますふさぐ。そしてその抑うつ感が頂点に達し
たとき、それはある日突然やってくるが、それが爆発する。不登校だけではない。バーントアウ
ト、家庭内暴力、非行などなど。

親は「このままでは進学競争に遅れてしまう」と嘆くが、その程度ですめばまだよいほうだ。そ
の下にある谷底、さらにその下にある谷底を知らない。

 今、成人になってから、精神を病む子どもは、たいへん多い。一説によると、二〇人に一人と
も、あるいはそれ以上とも言われている。回避性障害(人に会うのを避ける)や摂食障害(過食
症や拒食症)などになる子どもも含めると、もっと多い。子どもがそうなる原因の第一は、家庭
にある。

が、親というのは身勝手なもの。この段階になっても、自分に原因があると認める親はまず、
いない。「中学時代のいじめが原因だ」「先生の指導が悪かった」などと、自分以外に原因を求
め、その責任を追及する。もちろんそういうケースもないわけではないが、しかし仮にそうでは
あっても、もし家庭が「心を休め、心をいやし、たがいに慰めあう」という機能を果たしているな
ら、ほとんどの問題は、深刻な結果を招く前に、その家庭の中で解決するはずである。

 大切なことは、谷底という崖っぷちで、必死で身を支えている子どもを、つぎの谷底へ落とさ
ないこと。子育てをしていて、こうした悪循環を心のどこかで感じたら、「今の状態をより悪くしな
いことだけ」を考えて、一年単位で様子をみる。あせって何かをすればするほど、逆効果。(だ
から悪循環というが……。)『親のあせり、百害あって一利なし』と覚えておくとよい。つぎの谷
底へ落とさないことだけを考えて、対処する。
(はやし浩司 子供の成績 学力 やる気のない子ども 悪循環)


●何でも握らせる
 
 人類の約5%が、左利きといわれている(日本人は3〜4%)。原因は、どちらか一方の大脳
が優位にたっているという大脳半球優位説。親からの遺伝という遺伝説。生活習慣によって決
まるという生活習慣説などがある。一般的には乳幼児には左利きが多く、三〜四歳までに決ま
るとされる。
 
 それはともかくも、幼児を観察してみると、何か新しいものをさしだしたとき、すぐ手でさわりた
がる子どもと、そうでない子どもがいるのがわかる。さわるから知的好奇心が刺激されるの
か、あるいは知的好奇心が旺盛だから、さわりたがるのかはわからないが、概して言えば、さ
わりたがる子どもは、それだけ知的な意味ですぐれている。これについて、こんな話を聞いた。

 先日、タイを旅したときのこと。夜店を見ながら歩いていたら、中国製だったが、石でできた
球を売っていた。2個ずつ箱に入っていた。そこで私が「これは何?」と聞くと、「老人が使う、ボ
ケ防止の球だ」と。それを手のひらの中で器用にクルクルと回しながら使うのだそうだ。そして
それが「ボケ防止になる」と。指先に刺激を与えるということは、脳に刺激を与え、それが知的
な意味でもよい方向に作用するということは前から知られている。

 もしあなたの子どもが乳幼児なら、何でも手の中に握らせるとよい。手のマッサージも効果
的。生活習慣説によれば、左利きも防げる。(左利きが悪いというのではないが……。)そして
「何でもさわってみる」という習慣が、ここにも書いたように好奇心を刺激し、「握る」「遊ぶ」「作
る」「調べる」「こわす」「ハサミなどの道具を使う」という習慣へと発達する。もちろん指先も器用
になる。

(補足)子どもの器用さを調べるためには、紙を指でちぎらせてみるとよい。器用な子どもは、
線にそって、紙をうまくちぎることができる。そうでない子どもは、ちぎることができない。
(はやし浩司 右利き 左利き 利き手 きき手)


●難破した人の意見を聞く 

 『航海のしかたは、難破した者の意見を聞け』というのは、イギリスの格言。人の話を聞くとき
も、成功した人の話よりも、失敗した人の意見のほうが、役にたつという意味。子育ても、そう。

 何ごともなく、順調で、「子育てがこんなに楽でよいものか」と思っている親も、実際にはいる。
しかしそういう人の話は、ほとんど参考にならない。それはちょうど、スポーツ選手の健康論
が、あまり役にたたないのに似ている。が、親というのは、そういう人の意見のほうに耳を傾け
る。「何か秘訣を聞きだそう」というわけである。

 私のばあいも、いろいろ振り返ってみると、私の教育論について、血や肉となったのは、幼児
を実際、教えたことがない学者の意見ではなく、現場の先生たちの、何気ない言葉だった。とく
に現場で10年、20年と、たたきあげた人の意見には、「輝き」がある。そういう輝きは、時間と
ともに、「重み」をます。

 ……ということだが、もしあなたの子どもで何か問題が起きたら、やや年齢が上の子どもをも
つ親に相談してみるとよい。たいてい「うちもこんなことがありましたよ」というような話を聞い
て、それで解決する。


●入試は淡々と

 入試は受かることを考えて準備するのではなく、すべることを考えて準備する。とくに幼児の
ばあいは、そうする。

 入試でこわいのは、そのときの合否ではなく、仮に失敗したとき、その失敗が、子どもの心に
大きなキズを残すということ。こんな中学生(中二女子)がいた。「ここ一番」というときになると、
必ず決まって、腰くだけになってしまう。そこで私が「どうして?」と理由を聞くと、こう言った。

「どうせ私はS小学校の入試で失敗いたもんね」と。その女の子は、もうとっくの昔に忘れてよ
いはずの、小学校の入試で失敗したことを気にしていた。

 こうしたキズ、つまり子ども自らが自分にダメ人間のレッテルを張ってしまうということは、本
来、あってはならないこと。そのためにも、子どもの入試は、すべることを考えて準備する。もっ
とわかりやすく言えば、淡々と迎え、淡々とすます。(もちろん合格すれば、話は別だが……。)

 実際、子どもの心にキズをつけるのは、子ども自身ではなく、親である。中には、子どもが受
験に失敗したあと、数日間寝込んでしまった母親がいる。あるいはあまり協力的でなかった夫
と、喧嘩もんかになってしまい、夫婦関係そのものがおかしくなってしまった母親もいる。さら
に、長男が高校受験で失敗したとき、自殺をはかった母親もいる。子どもの受験には、親を狂
わせる、恐ろしいほどの魔力があるようだ。

 それはさておき、子どもの入試には、つぎのことに注意するとよい。「受験」「受かる」「すべ
る」という言葉は、子どもの前では使わない。「選別される」という意識を子どもにもたせてはい
けない。ある程度の準備はしても、当日は、「遊びに行こう」程度ですます。あとはあるがままの
子どもをみてもらい、それでダメなら、こちらからその学校を蹴飛ばすような気持ちですます。
そういう思いが子どもに伝わったとき、そのときから子どもはその時点から、また、前向きに伸
び始める。
(はやし浩司 入試 入試のコツ 入試の心構え 心がまえ)

++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

【掲示板への相談から……】

M件にお住まいのCさん(母親)から、こんな相談が届いて
います。みなさんと、いっしょに、この問題を考えてみたい
と思います。
Cさん、相談、ありがとうございました。また掲示板に書き
こみ、ありがとうございました。

++++++++++++++++++++++++

【Cより、はやし浩司へ……】

初めてメールさせていただきます。

小学3年生と、1年生の娘がいます。

3年生の息子が学校で暴力をふるっていると、先生から呼び出しを受けました。連絡帳に1ペ
ージびっしりと先生からの言葉が書いてありました。私の心に響き、どうしたら良いかわからな
くなってしまいました。

女の子にパンチをしたりキックをしたりしたようです。それで女の子が泣くようなことはなかった
と連絡帳には書いてありましたが、女の子のお父様が、とにかく激怒されていたようです。私た
ち両親に土下座をしろとおっしゃったようです。

その怒りの話を担任の先生から聞き、私はショックを受けました。相手の方の強い要望で「今
後絶対に手を出させない、とにかく暴力やめさせる。」書かれていました。

子供に今日いって直ぐに直せるくらいなら、もうとっくに直っています。学校の中は私の目が届
かない場所なので相手の方に絶対に・・といわれた事で、私は子供を学校に行かせることが怖
くなり、3日間お休みをさせてしまいました。

息子は私たちに怒られることを怖がって、正直に本当の話ができないとも言われました。
子供に対して手を挙げたりすることもありましたが、でもそれが学校側には虐待をしているよう
にとられたようです。

私自身、そんなに子供が恐怖を覚える叱り方した覚えがないのですが、先生に注意を受け、
今は反省しています。

私の育て方に問題があったといわれ、恥ずかしい話ですが、ショックを受けながらも、自分の
感情を抑えきれずに、息子にあたってしまいました。すごく傷つく言葉を息子に言ってしまいま
した。まさか私の育てた子供がこんなことをするなんてと、信じられない気持ちと、信じたくない
気持ちとで、私は混乱しました。

直ぐに腕力に訴えてしまう子供にはその背景があるので・・・と言われました。

3日間子供とよく話し合い、学校に送り出しました。
毎朝、不安の中で子供を見送ります。

小学校受験をしてやっと入った学校ですが、一学年一クラスしかないため、一度「悪い」という
レッテルを貼られてしまうと6年間そのままです。

私はこの学校に子供が入学してからというもの、ずっと、とにかく母親たちの目を気にして生活
してきたように思います。

少しのことで噂になり、子供同士で喧嘩をしても、学校ですでに仲直りをしていることでも、親が
出てきては噂話をする。

運の悪いことに、その女の子の弟君が私の下の娘と同級です。

学級懇談会やレクリエーションにも参加し、辛くなってしまいました。

先生の手紙を読み返し、自分の子供に非があることは認めるのですが、全部が手紙のとおり
ではなく、息子がカッとなって手を出すまでにはいろいろな状況があったのだと私は思いたいで
す。

子供のことを信じたくても信じる事ができなくなっている私がいます。

「先生に言ったら殺す」というような脅しをかけていため、ずっと我慢してきたと相手の女の子は
ご両親にも話せずにいたということも書かれていました。でも息子に聞いても、「殺すなんて事
はいっていない」と言い切ります。

息子を信じたい。反論したい。でも。

もう2週間が過ぎようとしています。心が晴れないまま、時間だけが過ぎていきます。
子供を叱るときに手を上げたりしたから、それが原因でこんなことになってしまったのでしょう
か?

だとしたら、私の責任です。甘やかしすぎたことも原因かも・・・未だに一緒に寝てほしいと、甘
えた声で話してくることもあります。「抱っこして」と私のひざに乗ってくることもあります。

「おっぱい頂戴」といってシャツの中に顔を入れてきたりもします。学校や少年野球の時に見せ
る顔とは別人のようです。ぎゅっと抱き締めて「どうか、この子の好いところがみんなにわかっ
てもらえますように。うまくお友達と関わっていけますように。付き合い方が、自己表現が下手
なのだ」と私は祈ります。

でも言われたくないあだ名で呼ばれると、学校でも押さえが利かずカッとなってしまう、と本人は
言います。

家でも自分の思い通りにいかないと、イライラしてカッとなることはあります。
長々と書いてすみません。

++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

【はやし浩司から、Cさんへ……】

 こうした問題では、一番、重要なポイントは、「逃げないこと」です。

 キーパーソンは、言うまでもなく、学校の先生と、相手の女の子の両親です。あなたのお子さ
んのことで、心配になったり、不安になったら、すぐ、学校へ、行きなさい。そして5分でもよいで
すから、時間をつくってもらい、お子さんの様子を聞きなさい。

 家の中で悶々としていると、妄想がふくらんでしまいます。そして一度、その妄想にとりつかれ
ると、自分が何をどうすべきかが、わからなくなってしまいます。

 つぎに、勇気を出して、相手の女の子の家に行きなさい。『負けるが勝ち』と心得て、頭をさげ
て、ていねいに、会うのです。「うちの子は、できが悪くてすみません……(本当は、そうでない
と思っていても、です)」と。

 つまり苦情を、直接、あなた自身に言ってもらえるような、雰囲気をつくっておきます。決し
て、ひとりで、悩まないこと。そしてあなたのお子さんに対してだけ、攻撃の矛先を向けないこと
です。

 勇気を出して、こう電話をしてみてください。

 「ご迷惑をおかけしているようで、反省しています。息子には、いろいろ話して聞かせています
が、不安です。ですから、一度、お話をよくおうかがいして、できることがあれば、しますので、
どうか、教えてください」と。

 コツは、あなたのお子さんのことで、弁解したり、かばったり、反論したりしないこと。よき聞き
役として、相手の両親の話に耳を傾け、「そのようにいたします」と、安心感を覚えてもらうこと
です。

 今のあなたにとっては、たいへんつらいことかもしれませんが、実は、そういう姿勢が、あなた
の人間味を、ぐん深くします。そしていつかこの時期を振りかえってみたとき、あなたという人
が、この時点から大きくなったことを知るでしょう。

 こうした山や谷は、子育てにはつきものです。今は、その渦中にいるからわからないかもしれ
ませんが、まさに日常茶飯事。学校の先生も、それほど、深刻には考えていないはずです。た
だ相手の女の子の両親は、ひょっとしたら、あなた以上に、何かと心配しているかもしれませ
ん。

 しかし小学3年生という時期は、少年少女期から、思春期へ向けて、たいへん心が動揺する
時期でもあります。ときに、幼児ぽくなってみせたり、反対に、おとなびてみせたり……と、で
す、

 コツは、「暖かい無視」と、「求めてきたときが与え時」。それに「ほどよい親」です。

 幼児のようにおっぱいを求めてきたら、静かに抱いてあげればよいでしょうし、手つなぎ、い
っしょの入浴、添い寝なども、してあげればよいでしょう。お子さんが求めてきたら、すかさず、
そうします。

 下の子が生まれてから、ずっと、心のどこかでさみしい思いをしてきたのかもしれません。そ
ういう欲求不満、嫉妬が、お子さんの心を、ややゆがめた可能性は、あります。ですから、妹へ
の何らかの憎しみ、嫉妬が、相手の女の子に向けられている可能性もあります。

 対処のし方としては、Cさんの対処のし方で、じゅうぶんです。満点をあげますよ。あなたはお
子さんを愛しながら、その中で懸命に、もがき、戦っています。その心は、すでに、お子さんにじ
ゅうぶんすぎるほど、伝わっているはずです。

 「自分の子どもが信じられない」という部分については、たとえそうであっても、あなたのお子
さんの前では、決して、そういう様子を見せてはいけません。「あなたはすばらしい子です」と、
自信たっぷりに、そう話しかけてあげてください。

 暴力的行為については、いろいろな欲求不満、ストレスなどが背景にあると考えてよいので
はないでしょうか。家の中では、思いっきり、羽を伸ばせるよう、家庭でのあり方を、ゆるめて
みてください。これからは、家庭は、心を休める場所と、心得てください。

 ぞんざいな態度や、言動があっても、「ああ、うちの子は、学校(=外の世界)でがんばってい
るから、家の中ではこうなのだ……」とです。教育心理学の世界では、この時期(小3前後)を、
問題にしないようですが、私は、一つの盲点ではないかと思います。

 子どもがちょうど、親離れを始める時期がこのころです。同時に、子どもたちの心理状態が、
たいへん不安定になるのも、事実です。しかしそれを問題にしている教育者は、私だけかな
(?)。

 お子さんのイライラ、カッとなることについては、まずしてみるべきことは、海産物中心の食生
活です。Ca、Mg、Kの豊富な食生活に改め、精製砂糖の含まれた甘い食品、リン酸食品を、
避けます。冷蔵庫や、食庫から、一掃します。アイス、ジュース類は、買わないように!

 骨身のある煮干などがよいのですが、錠剤で与えても構わないでしょう。それで、お子さんの
精神状態は、かなり落ちつくはずです。Caは、精神安定剤にもなります。(戦前までは、精神安
定剤として与えられていたようです。)

 あなたのお子さんは、すばらしいお子さんですよ。一番、近くにいるあなたがそう思っている
のですから、まちがいありません。こうしたトラブルは、先にも書いたように、よくあることです。
あとは、時間が解決してくれます。

 重要なことは、本当に重要なことは、親子の「糸」を切らないこと。子供の側からみて、「お母
さんは、いつも、ぼくを守ってくれる」という安心感だけは、決して、なくさないということです。

 家の中で悶々とするような状態になったら、すぐ、学校へ行きなさい。職員室へ行きなさい。
そして担任の先生にこう言いなさい。

 「心配でしたから、様子を見に来ました。いかがですか?」と。あなたがそう心を開く。開いて、
前に向って進む。心を開けば、行動は、あとからついてきます。

 それであなたの心は、軽くなるはずです。決して、ひとりで、悩まないこと。

 今は、たいへんかもしれませんが、私のように子育てが終わってしまった人間からみると、C
さんが、うらやましいです。そういう時期というのは、自分を忘れて、子供のために行動できま
す。

 私も3人の息子がいますが、うち1人は、よく、どこかの親に、怒鳴られました。不謹慎かもし
れませんが、Cさんの話を読んでいて、それを思い出しました。なつかしい思い出の一つです。
(はやし浩司 乱暴な子供 乱暴な子ども 学校でのトラブル 暴力事件)

++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

【Cさんからの追伸】

返信をありがとうございました。
読みながら涙がこぼれてきました。
おっしゃっていることが本当に良くわかります。
馬鹿になることが本当に難しく感じます。
でも一回馬鹿になってしまえばこんなに簡単なことと思えるのかもしれませんね。
子供よりも私が成長しなくてはいけないのかもしれません。
3日後に学級懇談会があるのですが欠席するつもりでしたが、
「逃げないで」私なりにがんばって行ってみます。
子供は十分がんばって学校へ行っているのだか、
私だってがんばらばきゃ。逃げちゃいけない!!そうですよね。
心がこんなに軽くなれたのは久しぶりです。
本心を言えたから先生の言葉がスッーと入ってきました。
自分で考えすぎて物事を重くしないように生活してみます。
またお便りさせていただきます。
ありがとうございました。


++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

最前線の子育て論byはやし浩司(802)

●上の子(娘)のあつかいについて

++++++++++++++++++++++++

上の娘に、手を焼いているお母さんから、相談のメール
が届いています。この問題について、少し、考えてみま
す。

++++++++++++++++++++++++

【福井県S市、NAより】

3歳10ヶ月(幼稚園年少)の娘と、7か月の息子がおります。

ここ数ヶ月、娘の反抗的、甘え、わがままな態度に困っています。下の子へのヤキモチか、幼
稚園のストレスか年齢的なものかと、あれこれ考えて悩んでます。

例えば食事の時、「食べさせて」と言うので、ご飯を食べさせようとしたら、「ご飯はイヤ、おかず
がいいの!」と怒る。着替えも「お母さんが選んで」と言うから、「どれでもいいのかと聞いた上
で選んでも、「それはイヤ、他のがいい」と、怒ったり泣いたりします。

先生のマガジンでよく言われているように、上の子を優先して、スキンシップを大切に思ってい
ますが、あまりの態度に、こちらのほうが辛抱できず、つい言葉を返したりしてしまいます。

親に相談したら「甘やかしすぎ、なんでも親の決めたことを聞かせるように育てないとダメ」と
か、「人間の子も犬の子も同じ、犬の子のしつけの本を読みなさい」と言われ、悲しくなりまし
た。

娘は親には反抗的なので、下の子の世話をしていたら、自分の事を先にやってほしい、と言い
ますが、下の子には乱暴なことをすることもなく、かわいがってくれています。

娘のいいなりのような生活に、むなしくなったり、腹が立ったりの毎日ですが、この先もこのまま
接していけばいいのか、厳しく接するべきなのかわかりません。自分でも情けない親だと思い
ます。

【デリケートな、心の問題】

 上のお子さん(姉)の底流にあるのは、嫉妬(しっと)です。下のお子さん(弟)が産まれてか
ら、そうなったと考えます。たとえて言うなら、ある日突然、あなたの夫が、愛人を連れてきて、
「今日から、いっしょに住むからな」と言って、その愛人と住み始めたようなものです。もしそうい
う状況になったら、あなたはどうするでしょうか。どう行動に出るでしょうか。

 こういうケースは、子どもの欲求不満に準じて、考えます。

●親の心を試す子ども

 子どもは、さまざまな方法を使って、親の自分への愛情を試します。つまり親の忍耐力を試
すわけです。その忍耐力をみながら、自分への愛情の深さをさぐります。

 ですから、このタイプの子どもは、ギリギリのところまではしますが、その一線を超えることは
ありません。(その点では、家庭内暴力に似ています。それ以上のことをしたら、家庭そのもの
が崩壊してしまうかもしれない。それを子ども自身が本能的な部分で察知して、その寸前のと
ころでやめます。)

 上の子どものわがままも、その範囲にあります。わがままを言いながら、どこに、その限界が
あるかを知ろうとしているわけです。

 対処の基本は、子どもの欲求不満に準じて考えます。

 それについて書いた記事を、添付しておきます。

+++++++++++++++++++++++

【子どもの欲求不満】

子どもが欲求不満になるとき

●欲求不満の三タイプ

 子どもは自分の欲求が満たされないと、欲求不満を起こす。この欲求不満に対する反応は、
ふつう、次の三つに分けて考える。

(1)攻撃・暴力タイプ

 欲求不満やストレスが、日常的にたまると、子どもは攻撃的になる。心はいつも緊張状態に
あり、ささいなことでカッとなって、暴れたり叫んだりする。

私が「このグラフは正確でないから、かきなおしてほしい」と話しかけただけで、ギャーと叫んで
私に飛びかかってきた小学生(小四男児)がいた。あるいは私が、「今日は元気?」と声をかけ
て肩をたたいた瞬間、「このヘンタイ野郎!」と私を足げりにした女の子(小五)もいた。

こうした攻撃性は、表に出るタイプ(喧嘩する、暴力を振るう、暴言を吐く)と、裏に隠れてするタ
イプ(弱い者をいじめる、動物を虐待する)に分けて考える。

(2)退行・依存タイプ
 
ぐずったり、赤ちゃんぽくなったり(退行性)、あるいは誰かに依存しようとする(依存性)。この
タイプの子どもは、理由もなくグズグズしたり、甘えたりする。母親がそれを叱れば叱るほど、
症状が悪化するのが特徴で、そのため親が子どもをもてあますケースが多い。
(3)固着・執着タイプ

 ある特定の「物」にこだわったり(固着性)、あるいはささいなことを気にして、悶々と悩んだり
する(執着性)。ある男の子(年長児)は、毛布の切れ端をいつも大切に持ち歩いていた。

最近多く見られるのが、おとなになりたがらない子どもたち。赤ちゃんがえりならぬ、幼児がえ
りを起こす。ある男の子(小五)は、幼児期に読んでいたマンガの本をボロボロになっても、ま
だ大切そうにカバンの中に入れていた。そこで私が、「これは何?」と声をかけると、その子ど
もはこう言った。「どうチェ、読んでは、ダメだというんでチョ。読んでは、ダメだというんでチョ」
と。

子どもの未来を日常的におどしたり、上の兄や姉のはげしい受験勉強を見て育ったりすると、
子どもは幼児がえりを起こしやすくなる。

 またある特定のものに依存するのは、心にたまった欲求不満をまぎらわすためにする行為と
考えるとわかりやすい。これを代償行為というが、よく知られている代償行為に、指しゃぶり、
爪かみ、髪いじりなどがある。別のところで何らかの快感を覚えることで、自分の欲求不満を
解消しようとする。

●欲求不満は愛情不足

 子どもがこうした欲求不満症状を示したら、まず親子の愛情問題を疑ってみる。子どもという
のは、親や家族の絶対的な愛情の中で、心をはぐくむ。ここでいう「絶対的」というのは、「疑い
をいだかない」という意味。

その愛情に「ゆらぎ」を感じたとき、子どもの心は不安定になる。ある子ども(小一男児)はそれ
までは両親の間で、川の字になって寝ていた。が、小学校に入ったということで、別の部屋で寝
るようになった。とたん、ここでいう欲求不満症状を示した。

その子どものケースでは、目つきが鋭くなるなどの、いわゆるツッパリ症状が出てきた。子ども
なりに、親の愛がどこかでゆらいだのを感じたのかもしれない。母親は「そんなことで……」と
言ったが、再び川の字になって寝るようになったら、症状はウソのように消えた。

●濃厚なスキンシップが有効

 一般的には、子どもの欲求不満には、スキンシップが、たいへん効果的である。ぐずったり、
わけのわからないことをネチネチと言いだしたら、思いきって子どもを抱いてみる。最初は抵抗
するような様子を見せるかもしれないが、やがて静かに落ちつく。あとはカルシウム分、マグネ
シウム分の多い食生活に心がける。

 なおスキンシップについてだが、日本人は、国際的な基準からしても、そのスキンシップその
ものの量が、たいへん少ない。欧米人のばあいは、親子でも日常的にベタベタしている。よく
「子どもを抱くと、子どもに抱きグセがつかないか?」と心配する人がいるが、日本人のばあ
い、その心配はまずない。

そのスキンシップには、不思議な力がある。魔法の力といってもよい。子どもの欲求不満症状
が見られたら、スキンシップを濃厚にしてみる。それでたいていの問題は解決する。
(はやし浩司 子どもの欲求不満 子供の欲求不満 スキンシップ カッとなる子供)

++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

【NAさんへ……】

 赤ちゃんがえりの一つと思われます。下の子どもが生まれたことにより、自分への愛情が半
減されたかのように感ずることが原因で、そうなります。

 タイプとしては、同情型、依存型、服従型などがありますが、下の子や親に対して、攻撃的に
出ることもあります。しかし親の前では、いい兄、いい姉を演ずることも少なくありません。

 こういうケースのばあい、表面的には、ものわかりのよい兄、姉に見えますので、つい油断し
ていると、NAさんのお子さんのような症状となって現れることがあります。

 「娘のいいなりになることが心配」ということですが、スキンシップを求めてきたときなどは、す
かさず、ぐいと抱いてあげるだけでも、お子さんの心は落ちつくはずですから、いとわないで、し
てあげてください。

 そのほかの、親の愛情を試すような行為については、(1)根気よく、こんこんと言って聞かせ
ながら、(2)あとは、暖かい無視を繰りかえします。決して短気になったり、その場の雰囲気だ
けで、それがすべてと判断してはいけません。そのつどお子さんの様子に振りまわされている
と、かえってお子さんのほうが、動揺してしまいます。

 子育てには、いつも、「一貫性」が大切です。その一貫性を、守ってください。

 ほかに赤ちゃんがえりの症状がひどいようであれば、一度、生活の基本をすべて、上の子ど
もにもどします。少しずつ、半年単位で、手を抜くようにして、今度は、下の子どものほうへ、分
け与えるようにしていきます。(下のお子さんには、少し、つらいことかもしれませんが……。)

 が、いただいたメールの範囲程度であれば、ここに書いた方法程度で、じゅうぶんではない
かと思います。症状は、5歳過ぎまでつづきますが、そのあとは、何ごともなかったかのように、
終わります。ご安心ください。
(はやし浩司 赤ちゃん返り 赤ちゃんがえり 子供の欲求不満 欲求不満 子どもの欲求不
満 上の子供の問題 上の子の問題 はやし浩司)

++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

最前線の子育て論byはやし浩司(803)

【近ごろ、あれこれ】

●夏バテ

 昨年(04年)、夏バテの恐ろしさを、私は、いやというほど、味わった。そこで今年から、(1)
体重管理に注意する、(2)クーラーにはあたらない、(3)運動を欠かさない。この3点に注意す
ることにした。

 私の適性体重は、60〜62キロくらいだそうだ。しかしこれはあくまでも、計算上の数値。若
い人と同じに考えるわけにはいかない。本当の適性体重は、58〜60キロくらいではないか?

 昨年の夏。気がついたときには、68〜9キロもあった。その上、あの猛暑。「暑い」と言って
は、クーラーにあたってばかりいた。おまけに、夏風邪もひいた。

 この夏風邪が、何と、2週間もつづいた。なおっては、またかかり……、と。

 そのため8月の終わりごろには、朝目をさまして、おきあがるだけでも、たいへん。「もう、こ
のまま寝たきりになるのではないか」と思ったほど。

 今年は、その「愚」を繰りかえさない。

 目下、体重は、63キロ台。目標は、あと1キロ、減量。ここ数日は、朝ごはんは、スイカだけ
で、すませている。

 クーラーについては、最後の最後まで、がんばるつもり。車に乗っても、すぐ窓をあけるように
している。ワイフは、やや不満そうだが、ワイフの健康にとっても、よいはず。

 あとは運動だが、自転車でも、タラタラとこいでいたのでは、運動としての効果はない。グイグ
イと力を入れ、全身で、こぐ。ある程度のスピードを出して走る。

 昨夜も、町から帰ってきたら、全身、汗でビショビショ。それではじめて、運動になる。

 暑い夏は、近い。がんばろう! みなさんも、お体を大切に!


●紫外線対策

 昼間は、紫外線対策を! 私も、自転車に乗るときは、顔や腕など、日光が当たるところに
は、UVカットクリームを、ぬっている。

 あとは、帽子。今度、サングラスも、買うつもり。先日、私の家に遊びに来たオーストラリアの
友人(女医)も、こう言った。「ヒロシ、油断してはだめよ」と。そして私の顔や足のホクロをひと
つひとつ、ていねいに、調べてくれた。

 オーストラリアでは、すでに、20代の若者たちの間でも、皮膚がんが、多発するようになった
という。ますます深刻な問題になりつつあるようだ。

 あれほどまでに、紫外線対策にうるさい国だが、もう1人の友人(男性医師)は、こう言った。
「(そんなオーストラリアでも)、対策を始めるのが、30年は、遅れた」と。

 が、この日本では、まったくの野放し。無防備。この問題だけは、症状が出始めてからでは、
遅い。遅すぎる。病気にたとえるなら、潜伏期間が、20年とか、30年とかもある。とくに幼い子
どものほうが、あぶない。

 そのときたまたま、みんなで金沢を旅行していたが、私が、「おととい、紫外線警報が日本で
も出たよ」と一言、話すと、オーストラリアの友人たちは、みな、いっせいに、バッグや、カバン
から、大きな帽子とサングラスを取り出した。

 それを見ながら、私は、「なるほどなア」と思った。

 野外活動、部活動、体育などなど。いまどき、真っ赤に日焼けするなどということは、自殺行
為。先週も、小中学生たちにこう聞いてみた。

 「君たちの学校で、体育や水泳の時間に、紫外線対策をしているところはあるの?」と。

 すると、全員、「NO!」と答えた。

 お父さん、お母さん、そして学校の先生のみなさん。紫外線は、放射線ですよ! 恐ろしい放
射線ですよ! これだけオゾン層が破壊されている今、こんな無防備でいいのでしょうか?


●UFOの推進力は、プラズマ?

 おもしろい本を、書店で見つけてきた。毎晩、床についてから、眠るまで、少しずつ、読んでい
る。

 何でも、UFOの推進力は、プラズマだというのだ。

 一つの物体に、2つの方向から、強力な電磁波をあてると、その2つの電磁波がぶつかった
ところで、プラズマが発生する。そのプラズマを移動させると、そのプラズマに包まれた物体
が、浮上したり、移動したりするという。

 ただし、プラズマは、超高温。その物体のなかに、人が入っていたら、瞬時にして、真っ黒こ
げになってしまう。

 そこで新しいタイプのプラズマを……ということになるが、何でも、元素117を使って発生させ
たプラズマは、高温にならないそうだ。つまりそれを使えば、いわゆるUFOのような乗り物の動
力源として使えるという。

 「フムフム、ナルホド……」と思いながら、その本を読んでいる。

 話は、ここで終わるわけではない。

 実は、あのアメリカは、すでに、そのプラズマを動力源にした乗り物(飛行機)を完成させてい
るという。ただ、今は、実験段階で、実用的ではないという。が、近く、実用化されるだろう、と
も。

 あまりにもロマンに満ちた話なので、その本の名前は、伏せておく。もう少しよく読んで、信憑
性(しんぴょうせい)を確かめてから、また、みなさんに報告する。


●韓国の輸送艦

 今度、韓国で、大型の輸送艦が、建造された。名前は、「独島」。

 イヤ〜ナ国! ホント! あの国というより、N大統領は、何かならなにまで、反日に結びつけ
ないと気がすまないらしい。ものの考え方が、完全に、うしろ向き。心理学でも、こういうのを、
回顧主義という。

 K国には、腫れ物にでも触れるかのように気をつかいながら、この日本に対しては、まさにや
りたい放題。言いたい放題。

 まあ、ここは、冷静に! 韓国などなくても、日本はやっていかれるが、日本なしでは、韓国
はやっていかれない。すでに、日本の企業のほとんどは、韓国から撤退。韓国の企業も、いく
つかの国営企業をのぞいて、外資の支配下。

 K副首相ですら、「日増しに不況が深刻化している」(C日報・7・12)と認めている。……とい
うより、日本の景気の動向を、そのまま反映した経済構造になっている。

 こうまで日本を怒らせてしまって、(つまり不必要なほどまでに怒らせてしまって)、いったい、
韓国には、どんなメリットがあるというのか。


●日本の規制緩和

在日米国大使館経済担当公使のマイケル・マハラック氏が、日本の規制緩和について、こん
な講演を行っている。「日本の規制緩和は進んではいるが……」とした上で、
 「日本においては、企業を起こそうとする人々に課せられる規制は、時間的にもコスト的に
も、大変厳しく、そのような規制に相当するものは、ウガンダ、アルメニア、インドネシアなどに
見られるだけです。

世界銀行の報告によると、カナダ、米国、ジンバブエ、スリランカ、台湾、ペルー、タイ、そして
インドで採用されている規制は、日本より簡素であり、コストにおいても、より安いものです。

その報告書は、全世界における競争力の点で、日本を21位にランクし、OECD諸国の中では
11位とし、新規事業に課せられた規制の煩雑さの点では、世界中で45番目としています。

たとえば、カナダでは、新しい企業を設立するために要する日数は、わずか2日、手続きはわ
ずか2つ、コストは280ドルです。日本においては、日数は26日、手続きは11、コストは374
2ドルです。

このような、いわゆる「お役所仕事」では、日本は、そのような手続きが、より迅速であり、利用
者にやさしく、すぐにインターネットの利用も可能になりそうな中国や韓国、その他の国々と競
争していくことはできません」(03・12・5・福井県立大学にて)と。

 つまり、日本という社会は、何からなにまで、お役所によって、がんじがらめになっている。氏
はそれを指摘しながら、マハラック氏は、「すぐにインターネットの利用も可能になりそうな中国
や韓国、その他の国々と競争していくことはできません」と、警告している。

++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

最前線の子育て論byはやし浩司(804)

●水色のパンティ

 久しぶりに、山荘で、風呂に入った。草刈りをしたあとの一風呂は、これまた、格別。ほどよ
い筋肉の疲れ。うっとりとした眠気。風呂の窓の外には、折り重なってつづく山々。そしてそれ
をやさしく包む澄んだ青。遠くは、太平洋まで、見渡せる。

 が、ここで突然、異変!

 ワイフがこう言った。「あら、あなたの下着、忘れちゃったア!」と。

 草刈りをするとき、ズボンとか、シャツは、脱いだ。脱いで、作業着にかえた。しかしパンツ
は、そのまま。そのパンツは、汗でビショビショ。

私「かわりのパンツ、ロッカーにないのか?」
ワ「ないわ……」と。

 困った。男というのは、ノーパン状態では、活動ができない。数年に1度くらい、何かの事情
で、ノーパン状態になることはある。が、アレをブラブラさせていると、気分も落ちつかない。そ
ういえば、昔、そのノーパン状態のとき。ズボンのチャックで、アレの袋をはさんでしまったこと
がある。そのとき私は、死ぬほど、痛い目を味わされた。

私「ないと、困るよオ〜」
ワ「いいわよ、私のがあるから。貸してあげるから、それをはけばア?」と。

 正直に告白するが、私は生涯にわたって、一度たりとも、女性のパンティなど、身につけたこ
とがない。絶対に、ない。その私に、女性のパンティをはけだとオ!

私「いやだよ」
ワ「しかたないでしょう、ないんだから……」
私「……どんなの? ……ピンク色は、いやだよ」と。

 ワイフは、水色のパンティをもってきた。細い白いしま模様がついている。悪くはない。が、肝
心の穴がない。

 くつろいでいた気分が、いっぺんに吹っ飛んでしまった。私は風呂から出ると、恐る恐る、ワ
イフのパンティをはいてみた。

私「若い娘のパンティみたいだよ、これは……」
ワ「あら、ちょうどいいみたい。よくはけたわね」
私「シリの大きさは、それほど、ちがわないよ」
ワ「似合うわよ」
私「似合わないよ……」と。

 カガミに映してみると、水着のようにも見える。それほど、かっこ悪くない。

私「しかし、これをはいて、交通事故でも起こしたら、いやだね」
ワ「……そうねえ。それは、やばいわねエ……」
私「看護婦さんが、ぼくの下着を見て、ヘンタイだと思うよ、きっと……」
ワ「そうね、きっと、そう思うわよ。リボンもついているし……」と。

 おかしな気分だった。トランクスにはない、しめつけ感というか、それが、ぐいと股の間を、上
に押しあげる。

私「ついでに、Tバックとか、ハイレグでもいいけど……」
ワ「そんなの、ないわよ」
私「小便をするときは、どうするのかな? 横からは無理だから、上から出すしかないね」
ワ「……」と。

 が、半時間もすると、そのパンティのことは、忘れた。

私「でね、ぼく、もう、あんな子どもがはくようなトランクスは、もういやだよ。もっと、おとなぽい、
ブリーフがいい。あんなトランクスでは、浮気もできないよ」
ワ「あら、浮気をしたいの?」
私「いや、したいというのではないけど、今のトランクスでは、女性に相手にされないよ」と。

 のどかな昼下がり。意味のない会話がつづく。で、無事、その日は終わった。家に帰るとす
ぐ、捨てるようにして、パンティを脱ぎ、いつものトランクスにかえた。が、である。

 さらに驚くべきことが、その翌日に起きた。

 自宅の風呂に入り、その風呂から出てくると、そこに、見なれないブリーフが……? トランク
スとも言えない。しかしブリーフとも言えない。「何だ?」と思ってみると、私のパンツだった。

 色は、茶色。色はともかくも、出入り口に、5つも、ボタンがついている。

私「おい、このパンツ、5つもボタンがついているよ」
ワ「かっこいいでしょう、そのパンツなら……」
私「あのなア、ボタンつきのパンツなんて、はけないよ」
ワ「あら、どうして?」
私「急いでいるとき、いちいちボタンをはずしていたら、間に合わないよ」と。

 しかしおかしなパンツだった。ボタンが5つもついている! それを手にもって、いろいろな方
向から、ながめてみる。

私「あのね、きっと、このパンツね、不倫用のパンツだよ」
ワ「あら、どうして?」
私「ボタンがついているよ」
ワ「どうしてボタンがついていると、不倫用なの?」
私「女性がね、男のパンツをゆっくりとぬがすとき、ボタンを1個ずつはずしていくと、感ずるだ
ろ。そういうパンツだよ」

ワ「女性が、男のパンツをぬがすの?」
私「きっと、そうだよ。1個ボタンをはずすごとに、ドキドキ、ワクワク……。ハハハ。そういうパン
ツだよ、これは……」
ワ「どうして、あなたにそんなことがわかるの……?」
私「……常識だよ。昔、ストリップ劇場の女性たちが、よく、そうしていた……」と。

 ワイフは、そんなパンツをどこで買ってきたのだろう。そんなことを考えながら、私は、だまっ
た。その種の特殊な下着を売る店は、この近くには、ないはず。まさかア……?

 それにしても、ボタンつきのパンツとは!

 で、私は、ボタンをかけないことにした。はずしたままにしておくことにした。このところ、尿意
を感じたとたん、すぐトイレに行きたくなる。それにしても、おかしなパンツだ。

 ……ということで、一言。男性用のパンツには、穴がある。女性用には、ない。しかしよくよく
考えてみると、男性用でも、穴は、必要ないのかもしれない。細めのパンツだったら、そのつ
ど、アレは、上から出せばよい。

 実にくだらないことだが、ワイフのパンティをはいているとき、そんなことを思った。が、この話
は、ここでおしまい。

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

最前線の子育て論byはやし浩司(804)

【子育てメモ】

●寝起きのよい子どもは安心

 子ども情緒は、寝起きをみて判断する。毎朝、すがすがしい表情で起きてくるようであれば、
よし。そうでなければ、就眠習慣のどこかに問題がないかをさぐってみる。

とくに何らかの心の問題があると、この寝起きの様子が、極端に乱れることが知られている。
たとえば学校恐怖症による不登校は、その前兆として、この寝起きの様子が乱れる。不自然
にぐずる、熟睡できず眠気がとれない、起きられないなど。

 子どもの睡眠で大切なのは、いわゆる「ベッド・タイム・ゲーム」である。日本では「就眠儀式」
ともいう。子どもには眠りにつく前、毎晩同じことを繰り返すという習慣がある。それをベッド・タ
イム・ゲームという。

このベッド・タイム・ゲームのしつけが悪いと、子どもは眠ることに恐怖心をいだいたりする。ま
ずいのは、子どもをベッドに追いやり、「寝なさい」と言って、無理やり電気を消してしまうような
行為。こういう乱暴な行為が日常化すると、ばあいによっては、情緒そのものが不安定になる
こともある。

 コツは、就寝時刻をしっかりと守り、毎晩同じことを繰り返すようにすること。ぬいぐるみを置
いてあげたり、本を読んであげるのもよい。スキンシップを大切にし、軽く抱いてあげたり、手で
たたいてあげる、歌を歌ってあげるのもよい。時間的に無理なら、カセットに声を録音して聞か
せるという方法もある。

また幼児のばあいは、夕食後から眠るまでの間、興奮性の強い遊びを避ける。できれば刺激
性の強いテレビ番組などは見せない。アニメのように動きの速い番組は、子どもの脳を覚醒さ
せる。そしてそれが子どもの熟睡を妨げる。ちなみに平均的な熟視時間(眠ってから起きるま
で)は、年中児で一〇時間一五分。年長児で一〇時間である。最低でもその睡眠時間は確保
する。

 日本人は、この「睡眠」を、安易に考えやすい。しかし『静かな眠りは、心の安定剤』と覚えて
おく。とくに乳幼児のばあいは、静かに眠って、静かに目覚めるという習慣を大切にする。

今、年中児でも、慢性的な睡眠不足の症状を示す子どもは、二〇〜三〇%はいる。日中、生
彩のない顔つきで、あくびを繰り返すなど。興奮性と、愚鈍性が交互に現れ、キャッキャッと騒
いだかと思うと、今度は突然ぼんやりとしてしまうなど。(これに対して昼寝グセのある子ども
は、スーッと眠ってしまうので、区別できる。)
(はやし浩司 就眠儀式 ベッドタウムゲーム 子供の寝さかし しつけ)


●指示は具体的に

 子どもに与える指示は、具体的に。たとえば「先生の話をよく聞くのですよ」「友だちと仲よくす
るのですよ」と子どもに言うのは、親の気休め程度の意味しかない。そういうときは、こう言い
かえる。「幼稚園(学校)から帰ってきたら、先生がどんな話をしたか、あとでママに話してね」
「この○○(小さなプレゼント)を、A君にもっていってあげてね。きっとA君は喜ぶわよ」と。

「交通事故に気をつけるのよ」と言うのもそうだ。具体性がないから、子どもには説得力がな
い。子どもに「気をつけろ」と言っても、子どもは何にどう気をつけたらよいのかわからない。そ
ういうときは今度は、寸劇法をつかう。

子どもの前で、簡単な寸劇をしてみせる。私のばあい、年に一度くらい、子ども(生徒)たちの
前で、交通事故の様子をしてみせる。ダンボール箱で車をつくり、その車にはねられ、もがき
苦しむ子どもの様子をしてみせる。コツは決して手を抜かないこと。茶化さないこと。子どもに
よっては、「こわい」と言って泣き出す子どももいるが、それ
でも「子どもの命を守るため」と思い、手を抜かない。

 ほかに、たとえば、「あと片づけをしなさい」と言っても、子どもにはそれがわからない。そうい
うときは、「おもちゃは一つ」と言う。またそれを子どもに守らせる。子どもはつぎのおもちゃで
遊びたいため、前のおもちゃを片づけるようになる。(ただし、日本人ほど、あと片づけにうるさ
い民族はいない。欧米では、「あと始末」にはうるさいが、「あと片づけ」については、ほとんど何
も言わない。念のため。)

 これは私の教室でのことだが、私はつぎのように応用している。

 勉強中フラフラ歩いている子どもには、「パンツにウンチがついているなら歩いていていい」
「オシリにウンチがついているのか? ふいてあげようか?」と言う。

 なかなか手をあげようとしない子どもには、「ママのおっぱいを飲んでいる人は、手をあげなく
ていいよ」と言う。

 こうした言い方をするには、もちろんそれなりの雰囲気が大切である。言い方をまちがえる
と、セクハラ的になる。「それなりの雰囲気」というのは、教師と親の信頼関係と、そうしたユー
モアが理解されるようななごやかな雰囲気をいう。それがないと、とんでもない誤解を招くことが
ある。私もこんな失敗をしたことがある。

 ある日、一人の男の子(小三男児)が、勉強中、フラフラと席を離れて遊んでいた。そこで私
が、「おしりにウンチがついているなら、歩いていていいよ」と声をかけた。ふつうならそこでそ
の男に子はあわてて席につくのだが、そこでハプニングが起きた。横にいた別の男の子が、そ
の立っている男の子のおしりに顔をあてて、こう叫んだ。「先生、本当にこいつのおしり、ウンチ
臭い!」と。

 そのときはそれで終わったが、つまりその言われた子どもも、それなりに笑って終わったが、
その夜、父親から猛烈な抗議の電話が入った。「息子のウンチのことで、息子に恥をかかせる
とは、どういうことだ!」と。
(はやし浩司 子供への指示 しつけ法 育児 育児法 指示の与え方)


●仲のよいのは、見せつける

 子どもに、子育てのし方を教えるのが子育て。「あなたが親になったら、こういうふうに、子育
てをするのですよ」と、その見本を見せる。見せるだけでは足りない。子どもの体にしみこませ
ておく。もっとわかりやすく言えば、環境で、包む。

 子育てのし方だけではない。「夫婦とはこういうものですよ」「家族とはこういうものですよ」と。
とくに家族が助けあい、いたわりあい、なぐさめあい、教えあい、励ましあう姿は、子どもにはど
んどんと見せておく。子どもは、そういう経験があって、今度は自分が親になったとき、自然な
形で、子育てができるようになる。

 その中の一つ。それがここでいう「仲のよいのは、見せつける」。夫婦がたがいに励ましあ
い、助けあい、なぐさめあう姿は、遠慮せず、子どもにはどんどん見せつけておく。仲がよいと
ころも、そうである。

手をつないで一緒に歩く。夫が仕事から帰ってきたら、たがいに抱きあう。一緒に風呂に入っ
たり、同じ床で寝るなど。夫婦というのは、そういうものであることを、遠慮せず、見せておく。ま
たそのための努力を怠ってはいけない。

 中には、「子どもの前で、夫婦がベタベタするものではない」と言う人もいる。しかしそれこそ
世界の非常識。あるいは「子どもが嫉妬(しっと)するから、やめたほうがよい」と言う人もいる。
たしかにそういう問題もないわけではない。父親に嫉妬する息子、母親に嫉妬する娘などの例
がある。

 そういう心配があるなら、「求めてきたときが与え時」と心得て、子どものほうから、それを求
めてきたら、すかさず、子どもの求めに応じてやる。ぐいと力いっぱい抱くだけでも、子どもは、
安心する。

しかし全体としてみれば、子どもにしてみれば、生まれながらにそういう環境であれば、嫉妬す
るということはありえない。「嫉妬する」と考えるのは、そういう習慣のなかった人が、頭の中で
勝手に想像して、そう思うだけ。が、それだけではない。

 子どもの側から見て、「絶対的な安心感」が、子どもを自立させる。「絶対的」というのは、「疑
いをいだかない」という意味。堅固な夫婦関係は、その必要条件である。またそういう環境があ
って、子どもははじめて安心して巣立ちをすることができる。そしてその巣立ちが終わったと
き、結局は、あとに残されるのは、夫婦だけ。そういうときのことも考えながら、親自身も、子ど
もへの依存性と戦う。

 家庭生活の基盤は、「夫婦」と考える。もちろんいくらがんばっても、夫婦関係もこわれるとき
は、こわれる。それはそれとして、まず、家庭生活の基盤に夫婦をおく。子どもの前では、夫婦
が仲がよいのを見せつけるのは、その第一歩ということになる。
(はやし浩司 夫婦と子供 子ども 夫婦の問題 夫婦仲 絶対的な安心感 家庭の役割)


●流れには従う

 世の中には「流れ」というものがある。この流れをどう見極めるか、それも子育てのうちという
ことになる。

 たとえば私が高校生のときは、「赤い夕日が校舎を染めてエ〜」(舟木一夫の「高校三年」)と
歌った。しかし今の親たちは、「夜の校舎、窓ガラス、壊して回ったア」(尾崎豊の「卒業」)と歌
った。この違いは大きい。

 そして今、さらにこの流れが加速され、子どもたちの世界は、大きく変化しつつある。それが
よいのか悪いのかという議論もあるが、中学生にしても、約六〇%の子どもが、「勉強で苦労
するから、進学校には行きたくない」などと言っている(浜松市内のH中学校長談話)。また日
本労働研究機構の調査(二〇〇〇年)によれば、高校三年生のうちフリーター志望が、一二%
もいるという(ほかに就職が三四%、大学、専門学校が四〇%)。職業意識も変わってきた。

「いろいろな仕事をしたい」「自分に合わない仕事はしない」「有名になりたい」など。三〇年前
のように、「都会で大企業に就職したい」と答えた子どもは、ほとんどいない。これはまさに「サ
イレント革命」と言うにふさわしい。フランス革命のような派手な革命ではないが、日本人そのも
のが、今、着実に変わろうとしている。

 ところで親子を断絶させる三要素に、(1)親子のリズムの乱れ、(2)信頼感の喪失、(3)価
値観の衝突がある。このうち(3)価値観の衝突というのは、結局は、子どもの流れについてい
けない親に原因がある。どうしても親は、自分を基準にして考える傾向があり、自分の価値観
を子どもに押しつけようとする。この「押しつけ」が、親子の間にキレツを入れる。

親「何としてもS高校へ入れ」
子「いやだ。ぼくは普通の高校でいい」
親「いい高校に入って、出世しろ。何といってもこの日本では、学歴がモノを言う」
子「勉強は嫌いだ」
親「お前には、名誉欲というものがないのか」
子「そんなもの、ない」と。

 どこの家庭にでもあるような衝突だが、こうした衝突を繰り返しながら、親子の間は断絶して
いく。今、中高校生でも、「父親を尊敬していない」と答えた子どもは五五%もいる(「青少年白
書」平成一〇年)。

「父親のようになりたくない」と答えた子どもは八〇%弱もいる。この時期、「勉強せよ」と子ども
を追い立てるほど、子どもの心は親から離れると考えてよい。
(はやし浩司 青少年白書 平成10年 父親を尊敬する 尊敬しない子供たち)


●なくしてわかる生きる価値

 賢明な人は、そのものの価値をなくす前に気づき、愚かな人は、なくしてから気づく。健康し
かし、人生しかり、そして子どものよさも、またしかり。

 子どものよさには、二つの意味がある。ひとつは、外に目立つ「よさ」。もうひとつは、中に隠
れた、見えない「よさ」。外に目立つ「よさ」は、ともかく、問題は中に隠れた「よさ」。それに親が
いつ気がつくかということ。

 たとえば子どもが何か問題をかかえたとすると、親はその状態を最悪と思い込み、「どうして
うちの子だけが」とか、「なんとかなおそう」と考える。しかしそういうときでも、もし子どもの中
に、隠れた「よさ」を見出せば、問題のほとんどは解決する。たとえばこんな母親がいた。

 その娘(中三)は、受験期だというのに、家では、ほとんど勉強しなかった。そこで母親は毎
日ヤキモキしながら、娘を叱りつづけた。しかしこういう状態が半年、一年もつづくと、母親の精
神状態そのものがおかしくなる。母親はそのつど青白い顔をして、私のところに相談にきた。

「どうしてうちの娘は……?」と。

 しかしその子どもは、私が見るところ、すなおで、明るく、頭の回転も速く、それに性格もおだ
やかだった。ものの考え方も常識的で、非行に走る様子も見られなかった。学校でもリーダー
で、バトミントン部に属していたが、結構活躍していた。もちろん健康で、それにこういう言い方
は適切ではないかもしれないが、容姿も整っていた。私は「そういう子どもでも、親は、健康を
悪くするほど悩むのかなあ」と。それがむしろ不思議でならなかった。

 昔の人は、『上見て、キリなし。下見て、キリなし』と言った。上ばかり見ていると、人間の欲望
や希望には際限がなく、苦労は尽きないもの。しかし一方、自分が最低だと思っても、まだまだ
苦しくて、がんばっている人もいるから、くじけてはいけないという意味だが、子育てで行きづま
りを覚えたら、子どもは、「下」から見る。下(欠点)を見ろというのではない。「今、ここに子ども
が生きている」という原点から見る。そういう視点から見ると、ほとんどの問題は解決する。

 あなたの子どもにもすばらしい点は山のようにある。それに気づくかどうかは、結局は、あな
たの視野の広さと高さによる。子どもを見るときは、その視野を広く、そして高くもつ。
(はやし浩司 賢明な親 子供のよさ 子どもの問題 子供の問題)

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司


最前線の子育て論byはやし浩司(805)

【近ごろ、あれこれ】

●メリル・ストリープの「誤診」

 メリル・ストリープ主演の、「誤診」(原題「First Do No Harm」)を見る。1997年の作品
である。

 内容は、つぎのようなもの。

 メリル・ストリープが演ずる母親の子ども(幼児)が、ある日、突然、幼稚園で倒れる。診断名
は、「てんかん」。

 以後、その子どもに対して、さまざまな薬物治療が試みられる。まだ承認されていない実験
薬も使われる。しかし症状は、はげしい副作用も加わり、日ましに悪化するばかり。

 そこでその母親は、毎日図書館へ通い、独学で勉強。そこで食事療法があることを知る。そ
して母親は、入院先の病院の反対を押し切って、ケトン食療法を実施しているジョンズ・ホプキ
ンス大学の小児神経医大学へ。

 ケトン食事療法では、最初の2日間、その症状のある子どもは、断食をする。その2日間だ
けで、子どもの症状は、改善のきざしを見せる。

 やがて3か月、3年とすぎて、子どもは、何ごともなかったかのように、「てんかん」から、解放
される。ただし映画の中でも説明されているように、ケトン食事療法は、万能ではないらしい。

てんかんのケトン食療法は約3分の1の症例で著効するといわれているが、「しっかりとしたコ
ントロールド・スタディによる医学的エビデンス(証拠)がない」(医学書院HP)ということで、てん
かん治療の主流とはなっていない。

 私は、この映画を見ながら、ふとこう思った。

 アメリカへ行ったことがある人なら、みな、知っていると思うが、アメリカ人の食べる食べ物
は、超の上に超がつくほど、甘い。彼らがつくるケーキにしても、私たち日本人にしてみれば、
一切れを食べるのが、やっと。その一切れでも、たいへん。それくらい、甘い。

 そういう甘い食品を、彼らは、パクパクと平気で食べる。日本流に考えるなら、そんなものを
日常的に食べていて、脳ミソによい影響を与えるはずがない。インスリンの過剰分泌は、低血
糖を招き、同時にセロトニンの過剰分泌をうながす。

 アメリカ国内においてでさえ、甘味食品の過剰摂取による、子どもの過剰行動性が問題にな
っている。その過剰行動性が、ときに、てんかんに似た症状を示すこともあるのではないか
(?)。

 映画の中でも、脳波やCTスキャンで、子どもの脳を調べるシーンが、ある。しかしどこにも異
常がない。(異常が見つからない。)私が知るかぎり、てんかんは、脳の機質障害によるものだ
から、脳波検査で、それがわかるはず。本当に、てんかんなら……。

 日本語名のタイトルが、「誤診」になっている。つまり、てんかんという診断名は、誤診だった
ということになるのか?

 映画を見終わったあと、私は、ワイフにこう言った。「あの子は、もともと、てんかんではなか
ったのかもしれないよ。極端な過剰行動性から、てんかんに似た症状を引き起こしただけかも
しれないよ」と。

 もちろんこれは私の、きわめて個人的な意見にすぎない。憶測である。ただその映画を見な
がら、同時に、私は、あの超甘い、アメリカ人たちが好んで食べる食品を、頭の中に思い浮か
べていた。

 映画としては、★3個。よい映画だった。
(はやし浩司 メリル・ストリープ 誤診 てんかん 過剰行動性 過剰行動児)

++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

●でき愛

 でき愛は、「愛」ではない。代償的愛という。自分の心のすき間を埋めるために、子どもを利
用する。それができ愛。つまりは、愛もどきの、愛。親が、いくたの山や野を越えて、その結果
として感ずる、(真の親の愛)とは、まったく異質のものである。

 しかし子どもをでき愛する親は、そのでき愛でもって、深い親の愛と誤解する。が、繰りかえ
すが、でき愛は、やはり、愛ではない。こんな話がある。

 以前、ある女性のことを、書いた。当時、その女性は、60歳くらい。その女性は、会う人ごと
に、いつも、こう言っていた。

 「息子は、横浜の女性に取られてしまいました」「親なんて、さみしいもんですわ」「子どもなん
て、育てるもんじゃ、ないですわ」と。

その息子が結婚して、横浜に住むようになったことを、その母親は、「取られた」という。私は、
当時、その感覚が理解できなくて、迷った。

 が、それからほぼ、20年あまり。その女性は、80歳くらいになっている。再び、私は、その女
性のうわさを聞いた。が、そのうわさが、すごい!

 その女性は、ことあるごとに、息子に向かって、「あんな女とは離婚しろ」と、つまりは、息子を
取りあって、この20年近く、ものすごい嫁・姑戦争を繰りかえしてきたというのだ。

 それだけではない。「息子を大学へやるのに、総額で、1500万円の学費がかかった。それ
を返せ」「それができなければ、今、住んでいるマンションを売り払って、金をつくれ」と、自分の
息子に迫っているというのである。

 その女性、つまりその母親の言い分はこうだ。

 「目に入れても痛くないほど、かわいがってやったのに、親の私を裏切って、ほかの女性と結
婚してしまった。この恩知らず」と。

 ほかに、その母親は、ことあるごとに、息子に請求書を送っているという。「父親の法事の費
用」「親類の香典」「家の改修費」などなど。息子がそれをしぶったりすると、「先祖を守るのは、
息子の義務! このバチ当り。地獄へ落ちるぞ」と、息子を罵倒しているという。

 たしかにその女性は、息子をでき愛したらしい。そういった話は、その周辺の人たちからも、
よく聞く。「あの母親は、あの子(息子)に、ベタベタでしたから」と。

 もうおわかりかと思う。その女性は、自分の息子をでき愛した。しかしそれは本来の、つまり
は、親としての深い愛に根ざした愛ではない。だからひとたびたがいの関係にヒビが入ると、こ
んどは、それが「嫉妬」、さらには、「恨み」に変る。その一例が、この母親ということになる。

 しかし、悲劇は、ここで終わらない。

 その80歳近くなった母親が、どこかのビルの玄関先で、転倒し、腰の骨を折ってしまった。
女性はたまたま通りかかった人たちによって、近くの病院へ運ばれた。で、そのまま入院。が、
しばらくすると、その母親の兄、つまり叔父から、息子のところに電話がかかってきた。

 ものすごい、怒鳴り声だったという。

 「貴様は、母親が入院したというのに、どうして病院へすぐかけつけないのだ! あれほどか
わいがってもらったのに、親の恩を忘れたのか!」と。

 その叔父も、その女性のでき愛ぶりを、かたわらで見ていたのだろう。しかしでき愛と、「愛」
の区別ができるほど、賢い人ではなかったようだ。息子は、その電話を受けて、あわてて病院
へかけつけたが、その女性(母親)は、ピンピンしていたという。

 息子は、私にこう言った。「母は、他人の前では、いつも弱々しい女性を演じています。多分、
叔父に、あれこれと泣き言を入れたのでしょう。それで叔父から、ああいう電話がかかってきた
のです」と。

 ……こういう例は、多い。本当に、多い。マガジンの読者の方たちからも、似たような話がよく
届く。おとなになりきれないおとなたち。老人になりきれない老人たち。「なりきれない」のではな
く、ある時点で、自分の進歩を止めてしまう。

 自分のカラにこもり、その中だけで、自分の世界を熟成させてしまう。もちろん他人の話など
には、耳を傾けない。本も、読まない。自分にとって、耳ざわりのよい話だけを聞き、それ以外
の話を、排斥する。そしてあとは、お決まりの悪循環。ますますがんこになっていく。

 そういう点では、思想も健康も、よく似ている。「維持する」という程度では、維持できない。常
に、新しい思想に触れ、それをどんどんと、自分の中に補充していかねばならない。

 それはたとえて言うなら、穴のあいたバケツのようなもの。上から水を入れなければ、バケツ
の中の水(つまり思想)は、どんどんと減っていく。だからその減っていく分以上の水を、上から
補充しなければならない。補充しなければ、やがてカラになる。

 しかも年をとればとるほど、バケツの穴は大きくなる。だから、よけい、がんばって、新しい水
(思想)を、注入していかねばならない。

 もし、それを怠ると、あなたも、私も、あのオジチャン、オバチャンたちのようになる。家の中
で、ただゴロゴロしているだけのオジチャン。見るのは、プロ野球中継だけ。電車の中で、ペチ
ャペチャと意味のないおしゃべりを、いつまでもつづけるオバチャン。するのは、たわいもない
世間話だけ、などなど。そういう見本は、あなたの周囲にも、いくらでもいる。(ちょっと失礼か
な?)

 ただよく、誤解されるが、人は、老人になって、がんこになるのではない。自分勝手でわがま
まになるのではない。

 もともと、その人は、がんこで、自分勝手で、わがままなのだ。が、若いころは、そういう自分
を、気力で、ごまかして生きることができる。しかし年をとると、その気力が薄れる。だから、そ
の中身が、外に、そのまま出てきてしまう。だから結果として、その老人が、がんこで、自分勝
手で、わがままになったように見える。

 言いかえると、その人の人格の完成度は、かなり早い時期に決まるということ。30歳より前。
しかし15歳より前ということはない。私の印象では、18〜20歳くらいまでに、ほぼその「形」
は、できあがるということ。この数字に、何かの裏づけがあるわけではない。私の経験から、そ
う思う。

 では、どうするか?

 重要なことは、自分の愚かさに、まず気がつくこと。すべては、ここから始まるが、それについ
ては、また別の機会に考えてみたい。
(はやし浩司 溺愛ママ 子どもを溺愛する親 でき愛 親のでき愛 嫁・姑戦争 嫁姑戦争 
確執 はやし浩司)


+++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩


●子どもの盗み(子供の盗み)

++++++++++++++++++++++

埼玉県S市のKGさんから、子どもの盗みについ
ての相談が入っています。

それについて、考えてみます。

++++++++++++++++++++++

はやし先生

ご無沙汰しております。
いつも情報たっぷり、ボリュームたっぷりなマガジンありがたく読ませていただいております。

先日の読者の方の「小3息子さんの同級生への暴力で」相談を読んでいて、そのままではない
ですが、「わかるナー、私にもあてはまるな。皆、子育てでは悩んでいるんだ」などと見知らぬ
方ですが、自分に置き換えていました。

私の中では、答えはもう出ているのですが、小2の長女のことで、昨日ショックなことがありまし
た。

最近、軽く嘘を言ったりするのが気になっていたので、そのつど細かく注意をしていました。

2週間前に、学校の売店で買う分のお金を持たせたところ、おつりが合わなくて詰めると、とう
とう最後には、

「欲しい鉛筆と消しゴムを買った」と、言って白状しました。

 昨日は、父親が不在の時に、主人の小銭入れから小銭をくすねていました。

私が、家に帰ると、主人に絞られている最中でした。そのときには、しおらしい様子を見せてい
ましたが、すぐに普段に戻って、変に私にこびるような態度をし、それが気になりました。

盗みをした後、こんこんと絞られたら、私だったらとても夕食も喉を通らないくらい、落ち込んで
しまうと思うのですが、"全然"ふつうなのです。

 はやし先生は、「悩んだら、自分の子供の頃を思い浮かべて下さい」とおっしゃいますが、場
合によっては、どうしても私とは違う性格の一面が浮かんでくるのです。

 私の、亡くなった兄は、私が保育園の年中か、年長のころ、兄は小学1、2年だったのです
が、同居の祖母の財布から小銭を取っていました。私がそのことを言うと、「けちなババアから
お金を盗っても、イケナイことではない」と言う様なことを言っていました。

幼いながらも、ショックでした。嘘もいやにあっさりと言ってのけていました。そういうことは、楽
しい思い出よりも、いやにはっきりとした記憶に残るものです。

 長女には兄のことは伏せて、ほんの小さい子供の頃に受けたショックの話をしました。そし
て、何十年たっても忘れないし、多分一生忘れないだろうということも話しました。

 人は、その人の良い所よりも、1度でも悪事をしたら、悪事の方が、いつまでも心に残るもの
だと思います。

小学2年生には、かなり重い話かとは思いましたが、何が何でも嘘と盗みは止めて欲しい一念
で話しました。

 はやし先生の経験豊かな、アドバイスを取り入れ、できるだけ肩の力を抜いた、楽しい子育
てを目指していました。 

学校の面談でも、不登校の友達に手紙を書いたり、勉強でおちこぼれのクラスメートを、助け
てあげたり、「精神面もだんだん、成長してきた」と、担任の先生に褒めてもらった直後だった
ので、私は、すごくがっくり・・・というところです。

盗みを癖にしてはいけないと思うのですが、今後どう接したらよいのか、何かアドバイスをいた
だければすごく嬉しいです。

まとまりの無い文章ですみません、お忙しいと思いますが、宜しくお願い致します。

++++++++++++++++++++

【KGさんへ……】

 お久しぶりですね。お元気ですか。ときどきR天の日記のほうを、お読みくださっていること
は、わかっていました。電話のナンバーディスプレイのように、プロバイダー名だけは、私のほ
うでも、わかるようになっています。

 「xxxx@kxxx.ne.jp」というアドレスを見るたびに、KGさんだと、思いながら、喜んでいま
す。ありがとうございます。

 で、アドバイスですが、子どもは、それぞれの世界で、それぞれちがった顔を見せます。大き
く分けて、三つの世界があります。(家庭)(学校)(友人)の三つの世界です。

 まずKGさんが、評価しなければならない面は、学校での、それです。

 「学校の面談でも、不登校の友達に手紙を書いたり、勉強でおちこぼれのクラスメートを、助
けてあげたり、『精神面もだんだん、成長してきた』と、担任の先生に褒めてもらった」ということ
ですね。

 すばらしいお子さんですよ! すばらしい! わかりますか? すばらしい、お子さんですよ!

 そのすばらしさとくらべたら、「盗み」など、何でもない。子どもの盗みは、いわば熱病のような
もの。経験していない子どもなど、いません。経験していない子どものほうが、はるかに少ない
ということです。(だからといって、盗みを、甘くみろとか、許せとか、いうことではありません。悪
いことは、悪いと、ていねいに説明してやります。)

 ただ、子どもの耳は、長いです。耳から入って、脳ミソに届くまでには、5年とか、10年はか
かります。理由があります。

 物欲を満たすと本能は、それほどまでに、大きく、執拗(しつよう)だということです。しかもお
金によって、一度、それを満たすという喜びを覚えてしまうと、それから抜け出るのは、容易な
ことではなりません。

 (そういう喜びを教えてしまったのは、実は、親なのですから、あまり子どもを、責めないこ
と! それとも、あなたは、子どもに小遣いを渡すとき、いつも、何らかの労役を条件にして渡
していましたか?)

 年の功というか、この種類の相談を、今まで、無数に受けてきました。

 印象に残っている子どもの話をします。

 X子さん(高校生)は、父親の預金通帳と印鑑を持ちだし、ときどき、10万円単位の小遣いを
使っていました。

 Y君(中学生)は、家の金庫を自分であけて、あとでわかるまで、数百万円も使っていました。

 とんでもない(できそこない)を想像するかもしれませんが、X子さんも、Y君も、学校では、想
像もつかないほどの優等生でした。X子さんは、今、女医をしていますし、Y君は、大手の建築
会社で、設計図を引いています。

 だから、一応、子どもを叱りながらも、盗みについては、おおげさに考えないこと。私も子ども
のころ、よく店の現金箱から、10円、20円と、盗んで使っていた覚えがあります。「悪いことを
している」という意識は、はっきりとありました。だからおとなになったとき、その罪の意識をぬぐ
うため、その何十倍、何百倍ものお金で、それを返しました。その「返す」という原動力となった
のは、あのとき感じた、「罪の意識」です。

 同じようなことが、私の息子の一人にも、ありました。本人の人権の問題もありますから、詳
しくは書けませんが、やはり、心のどこかに罪の意識があるのでしょう。今は、極貧中の極貧
の学生生活を、自ら、送りながら、それでいて、不平、不満ひとつこぼさないでがんばっていま
す。

 見るにみかねて、「もう少し、送金しようか」と言っても、いつも、答は、「NO」です。

 そんなわけで、重要なことは、あなたの子どもを信ずることです。最後の最後まで、信ずるこ
とです。繰りかえしますが、「盗み」など、子どもの熱病のようなもの。深刻に考える必要はあり
ません。妄想をふくらませて、先を心配する必要もありません。

 それがわかったとき、しつこく、しつこく、ただひたすら冷静に、説教をしてすませます。あと
は、お金の管理だけは、しっかりとします。

 いいですか、あなたのお子さんは、すばらしいお子さんですよ。たかが鉛筆と消しゴムでしょ
う。しかも勉強道具でしょう。おおげさに考えないこと!
 
 お金にルーズになれということでもないですが、子どもは、(いいかげんな部分)で、羽をのば
し、自分をのばします。もし、そういうことで怒りを感ずるようなら、子どもに大してではなく、政
治や社会に向けてください。

 今の今でも、談合を繰りかえして、国の税金をかすめとっているワルが、ゴマンといますよ。
そういう社会を一方で放置しておいて、子どもに向かって、「お金を盗んではいけません」と、ど
うして、私たちが言えるでしょうか。

 地球温暖化で、人類どころか、あらゆる生物が危機的な状況にあるのに、子どもに向かっ
て、「お金を盗んではいけません」と、どうして、私たちがいえるでしょうか。

 さらに、6か国協議の結果がどうなるかわかりませんが、へたをすれば、そのまま戦争です。
そんな状況をつくってしまった私たちが、子どもに向かって、「お金を盗んではいけません」と、
どうして、私たちがいえるでしょうか。

 ……つまりですね、私たちがおとなとして、戦う相手が違うということです。子どもの視点で見
れば、それがわかるはずです。

 矛盾だらけの世界をつくりながら、「何が、正義だ!」となるわけです。言いかえると、本当に
子どもに、正義を教えたいと思うなら、あなた自身が、もっと巨大な敵に向って、それと戦う姿
勢を示すことです。

 「談合、許せない! お母さんは、許せないから、これから、抗議の手紙を書く」と言って、手
紙を書けばよいのです。そういう姿を見て、子どもは、もっと大きな正義を学びます。と、同時
に、自分のした「盗み」のみじめさに、恥じるはずです。

 話が、大きくなってしまいましたが、あなたがお子さんにした指導で、じゅうぶんです。それ以
上、何もすることはないでしょう。またあなたのお嬢さんも、それでよくわかったはずです。

 あとは、あなたの子どもを信じなさい。だまされているとわかっていても、だまされたフリをして
いればよいのです。バカなフリをしていればよいのです。そうして一方で、子どもの自立を促し
ていきます。

 むしろ息も抜けないほどのギスギスの家庭のほうが、問題です。どこか、いいかげん。どこ
か、無責任。それでいて、どこか、ぬくもりのある家庭。それが子どもにとって、あるべき家庭と
いうことになります。

 随筆家のソローは、こう書きました。『ビロードのクッションより、カボチャの頭』と。それについ
て書いた原稿を、このあとに添付しておきます。参考にしてください。

 最後に、もう一言。あなたのお子さんは、すばらしいお子さんですよ!

+++++++++++++++++++++

●帰宅拒否をする子ども

 不登校ばかりが問題になり、また目立つが、ほぼそれと同じ割合で、帰宅拒否の子どもがふ
えている。S君(年中児)の母親がこんな相談をしてきた。「幼稚園で帰る時刻になると、うちの
子は、どこかへ行ってしまうのです。それで先生から電話がかかってきて、これからは迎えにき
てほしいと。どうしたらいいでしょうか」と。

 そこで先生に会って話を聞くと、「バスで帰ることになっているが、その時刻になると、園舎の
裏や炊事室の中など、そのつど、どこかへ隠れてしまうのです。そこで皆でさがすのですが、お
かげでバスの発車時刻が、毎日のように遅れてしまうのです」と。私はその話を聞いて、「帰宅
拒否」と判断した。原因はいろいろあるが、わかりやすく言えば、家庭が、家庭としての機能を
果たしていない……。まずそれを疑ってみる。

 子どもには三つの世界がある。「家庭」と「園や学校」。それに「友人との交遊世界」。幼児の
ばあいは、この三つ目の世界はまだ小さいが、「園や学校」の比重が大きくなるにつれて、当
然、家庭の役割も変わってくる。また変わらねばならない。子どもは外の世界で疲れた心や、
キズついた心を、家庭の中でいやすようになる。

つまり家庭が、「やすらぎの場」でなければならない。が、母親にはそれがわからない。S君の
母親も、いつもこう言っていた。「子どもが外の世界で恥をかかないように、私は家庭でのしつ
けを大切にしています」と。

 アメリカの諺に、『ビロードのクッションより、カボチャの頭』(随筆家・ソロー)というのがある。
つまり人というのは、ビロードのクッションの上にいるよりも、カボチャの頭の上に座ったほう
が、気が休まるということを言ったものだが、本来、家庭というのは、そのカボチャの頭のよう
でなくてはいけない。あなたがピリピリしていて、どうして子どもは気を休めることができるだろう
か。そこでこんな簡単なテスト法がある。

 あなたの子どもが、園や学校から帰ってきたら、どこでどう気を休めるかを観察してみてほし
い。もしあなたのいる前で、気を休めるようであれば、あなたと子どもは、きわめてよい人間関
係にある。しかし好んで、あなたのいないところで気を休めたり、あなたの姿を見ると、どこか
へ逃げていくようであれば、あなたと子どもは、かなり危険な状態にあると判断してよい。もう少
しひどくなると、ここでいう帰宅拒否、さらには家出、ということになるかもしれない。

 少し話が脱線したが、小学生にも、また中高校生にも、帰宅拒否はある。帰宅時間が不自然
に遅い。毎日のように寄り道や回り道をしてくる。あるいは外出や外泊が多いということであれ
ば、この帰宅拒否を疑ってみる。家が狭くていつも外に遊びに行くというケースもあるが、子ど
もは無意識のうちにも、いやなことを避けるための行動をする。帰宅拒否もその一つだが、「家
がいやだ」「おもしろくない」という思いが、回りまわって、帰宅拒否につながる。裏を返して言う
と、毎日、園や学校から、子どもが明るい声で、「ただいま!」と帰ってくるだけでも、あなたの
家庭はすばらしい家庭ということになる。
(はやし浩司 子供の帰宅拒否 帰宅拒否)

+++++++++++++++++++++++

教育には、そして子育てには、いいかげんさが、
必要である。そのいいかげんさは、たとえて言うなら
車のハンドルの「遊び」のようなもの。その遊び
があなかったら、車の運転はできない。

それについて、以前書いた原稿を添付します。

+++++++++++++++++++++++

●詳しくはわからないが…… 

 情報が不足しているので、詳しくはわからない。しかし最近、こんな事件があった。あくまで
も、新聞などで報道されている範囲で、少し、考えてみる。

 ある中学校に、一人の不登校の子どもがいた。(新聞の報道によれば、そのとき、すでに、
不登校を繰りかえしていたことになる。)

 その不登校の子どもに、ある日、先生が、「だらけ心は、だれにでもある」(記事)と、言ったと
いう。(どういう席で、どういう形で、そう発言したかについては、不明。個人的に言ったのか、
公の場所で、そう言ったのか。一対一の状態で、そう言ったのか?)

 その言葉に憤慨(ふんがい)した親が、学校を訴えた。X〇万円の慰謝料を請求した。そこで
当然、裁判ということになったのだろうが、教師側は、恐らく、示談で話をすませたいと思った
のだろう。ほぼ同額の示談金を用意して、親に渡した。そのお金は、教師が、自腹(ポケットマ
ネー)を切って、用意したものだった。

が、親は、「性格のわからないお金は、受け取れない」と、それを拒否した(以上、報道記事
を、要約。Y新聞、全国版・x年x月末)。

 その親の置かれた立場は、よくわかる。心理状態も、よくわかる。慰謝料を請求したほどだ
から、よほど、腹にすえかねたことがあったのかもしれない。しかし、この記事を読んで、私が、
まず感じたことは、「そんなことで!」であった。

 もっとも新聞報道だから、すべてを報道していないと思う。ほかにも、その子どもや親をキズ
つける言葉が、あったのかもしれない。それまでにも、いろいろないきさつがあったのかもしれ
ない。それについてはわからないが、もし新聞報道のままだとするなら、やはり、「そんなこと
で!」である。

 むしろ、「だらけ心は、だれにでもある」という発言は、その子どもを守った言葉とも、受け取
れる。「だれにでもあるから、そんなに自分を責めてはだめだよ」と。日本でも、昔から、その人
を半ばかばうような意味で、「魔がさした」という言葉を使うときがある。「あの人は、あんなこと
をしたが、きっと、魔がさしたのだろうね」と。

 つまりそう言うことによって、「本当は、あの人は、本当は、いい人なんだよ」という気持をこめ
る。この事件のときも、先生には、「本当は、もう少し深刻な問題かもしれないが、軽く、(怠け)
としておきましょう」という気持があったのかもしれない。(だからといって、その先生の指導が
正しかったと言っているわけではない。念のため。)

 もちろん不登校といっても、内情は、さまざま。「学校拒否症(school refusal)」もあれば、「怠
学(truancy)」もある。私の二男も、ひどい花粉症から、毎年、その季節になると、不登校を繰り
かえした。

Tテレビの報道によれば、その子どもは、小学時代、小児神経症だったという。もしそうなら、こ
の中学生は、怠学よりは、学校拒否症による不登校が疑われる。「怠学」というと、その言葉か
ら受ける印象は暗いが、わかりやすく言えば、「ズル休み」のこと。

 しかし、どうしてこの事件が、こうまで大げさになってしまったのか。しかも報道によれば、教
師がお金を渡したのは、昨年(x年)のx月だという。すでに一年近くもたっている!

 何とも、よくわからない事件である。それにたいへん、残念な事件である。どうしてこうまで、こ
じれてしまったのだろうか。慰謝料を請求するという方法ではなく、もう少し、穏便にすます方法
は、なかったのだろうか。

こういう事件が起きると、親も苦しむが、教師も苦しむ。それに間にいる子どもは、もっと、苦し
む。

ただ心配するのは、こういう事件が重なるたびに、一方で、現場の先生たちが、ますます萎縮
してしまうということ。実際、どこの学校へ行っても、「そんなことで!」と思われるような事件で、
現場の先生たちが、心を痛めている。悩んでいる。苦しんでいる。そしてその分だけ、先生たち
は、萎縮してしまっている。

 今では、子どもの頭を、プリントで叩くことすら、許されない。軽い冗談を、口にすることすら、
許されない。北海道のどこかで起きた事件だが、先生が、「死ぬつもりでがんばれ」と言ったこ
とがある。運動会でのことだったが、この事件も、全国紙で問題にされた。「死ぬつもりとは、何
だ!」と。

たしかに今の先生たちは、サラリーマン化している。(サラリーマン的であることが、悪いと言っ
ているのではない。念のため。)しかし、もともとサラリーマンだから、しかたないではないか。

 そういう先生に、高徳な道徳や正義を求めても、意味はない。中には、先生を、牧師か僧侶
のように思っている人もいる。しかし先生だって、ごくふつうの人間である。あなたや、あなたの
夫(妻)とは、どこもちがわない、ごくふつうの人間である。

 だったら、先生を、そういう前提で考え、また教育のしくみも、それに合わせていく。今のよう
に、教育はもちろんのこと、しつけ、道徳、倫理、はては家庭指導まで、先生に押しつけて、「何
とかしろ」と迫るほうが、おかしい。

 教育というのは、もともとファジー(いいかげん)なものである。ファジーであることが悪いと言
っているのではない。そのファジーな部分で、子どもは、羽をのばし、自分を伸ばす。

 「学校? 行きたくなければ、行かなくてもいいのよ。そのかわり、ママと、いっしょに、図書館
へでも行って、本を読みましょうね」
 「あんな教師、何よ。気にしなくていいわよ。別に怠けているわけじゃ、ないわよね。気にする
ことはないわよ」と。

 先生の一言一句で、子どもがキズつくことはある。それは認める。しかし人間というのは、そ
ういうキズまるけになって、成長する。もちろん意図的に、生徒をキズつけるようなケースは、
許されない。しかし、そうでないなら、もう少し、親のほうも、肩の力を抜いて、気を楽にしては、
どうか?

 「そんなことで!」と書いた、私の気持ちは、そんなところにある。

++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

【再び、KGさんへ……】

 盗みといっても、たとえば神経症の一つとしての「盗み」もないわけではありません。常習的な
万引きがそれですが、そういった盗みには、目的が感じられないのが、ふつうです。

 手当たり次第、何でも……という盗みになります。

 お嬢さんのは、もちろん、それではありません。ご安心ください。

 で、最後にもう一つ。今回の相談とは直接関係ありませんが、お伝えしたいことがありました
ので、原稿を、添付しておきます。

 子どもを叱るにしても、逃げ場がないほどまで、追いこんで叱ってはいけませんよ。

 久しぶりにメールをいただき、うれしかったです。どうか、またメールをください。楽しみにして
います。

++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

●子どもの心を大切に

 子どもの心を大切にするということは、無理をしないということ。

たとえば神経症にせよ恐怖症にせよ、さらにはチック、怠学(なまけ)や不登校など、心の問題
をどこかに感じたら、決して無理をしてはいけない。

中には、「気はもちようだ」「わがままだ」と決めつけて、無理をする人がいる。さらに無理をしな
いことを、甘やかしと誤解している人がいる。しかし子どもの心は、無理をすればするほど、こ
じれる。そしてその分だけ、立ちなおりが遅れる。

しかし親というのは、それがわからない。結局は行きつくところまで行って、はじめて気がつく。
その途中で私のようなものがアドバイスしても、ムダ。「あなた本当のところがわかっていない」
とか、「うちの子どものことは私が一番よく知っている」と言ってはねのけてしまう。あとはこの繰
り返し。

 子どもというのは、一度悪循環に入ると、「以前のほうが症状が軽かった」ということを繰り返
しながら、悪くなる。そのとき親が何かをすれば、すればするほど裏目、裏目に出てくる。

もしそんな悪循環を心のどこかで感じたら、鉄則はただ一つ。あきらめる。そしてその状態を受
け入れ、それ以上悪くしないことだけを考えて、現状維持をはかる。

よくある例が、子どもの非行。子どもの非行は、ある日突然、始まる。それは軽い盗みや、夜
遊びであったりする。しかしこの段階で、子どもの心に静かに耳を傾ける人はまずいない。た
いていの親は強く叱ったり、体罰を加えたりする。しかしこうした一方的な行為は、症状をます
ます悪化させる。万引きから恐喝、外泊から家出へと進んでいく。

 子どもというのは、親の期待を一枚ずつはぎとりながら成長していく。また巣立ちも、決して美
しいものばかりではない。中には、「バカヤロー」と悪態をついて巣立ちしていく子どもいる。

しかし巣立ちは巣立ち。要はそれを受け入れること。それがわからなければ、あなた自身を振
り返ってみればよい。あなたは親の期待にじゅうぶん答えながらおとなになっただろうか。ある
いはあなたの巣立ちは、美しく、すばらしいものであっただろうか。そうでないなら、あまり子ど
もには期待しないこと。

昔からこう言うではないか。『ウリのつるにナスビはならぬ』と。失礼な言い方かもしれないが、
子育てというのは、もともとそういうもの。

++++++++++++++++++++++

(後記)

 はからずも最後のところで、私は、こう書いた。『ウリのつるにナスビはならぬ』と。

 それに早く気づく親を賢明な親という。そうでなく、いつまでも、ムダな抵抗を繰りかえし、悶々
と悩む親を、そうでないという。

 ほとんどの親は、子育ても一段落すると、こう言って、自分をなぐさめる。

 「やっぱり、あんたは、ふつうの子だったのね。考えてみれば、何のことはない。私だって、ふ
つうの人間なのだから」と。

 子育てというのは、そういうもの。ホント! ……これは私自身の経験(?)。

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

●不安

 若い母親たちとの、子育て懇談会をすます(7月・x日)。それが終わって、駐車場へ行くと、
何人かの母親たちが、そこにいた。まだ帰らないで、私を待っていた。そして異口同音に、自
分たちがもつ、不安を私に訴えた。

 まだ大学生のような美しさを輝かせている母親たちが、その一方で、「どうしましょう」「どうし
たらいいでしょう」と、訴える。健康で、幸福の絶頂期にあるはずの母親たちが、何度も、顔を
曇らせる。

 「幼稚園の中に、グループ(派閥)ができて、仲間ハズレにされている」
 「うちの子は、友だちをつくるのが苦手。小学校へ入ったら、どうしよう」
 「父親が、来月から上海へ、単身赴任をすることになった。だいじょうぶでしょうか」

 本来なら、子育てを、一番、楽しめる時期にあるはず。その母親たちが、子どもの将来を心
配し、悩む。このチグハグさは、いったい、どこからくるのか? 理由は、いろいろ考えられる。

(1)子どもたちの先(将来)が見えない。
(2)複雑な人間関係と競争社会。

 目の前には、巨大な「社会」という怪物。しかしその下には、母親の手を握る、まだあどけな
い子どもたち。「はたして、うちの子は、だいじょうぶだろうか?」という思いが、そのまま不安に
変わる。

 仮に将来が見えたとしても、決して、平坦な道ではない。それを思うと、ますます不安になる。

 ひとりの母親は、こう言った。「子どものことよりも、ほかの父母と、うまくやっていかれるかど
うか、それが心配です」と。つまりは、人間関係ということか。

 しかしどうして、子どもたちを取り巻く社会が、こうまでわずらわしくなってしまったのだろうか。
わかりやすいと言えば、わかりやすい。しかしそのあまりのわかりやすさが、子どもたちを取り
巻く社会を、ギクシャクさせる。

 私は、ふと、今、あのアメリカで乗ったタクシーを思い出した。

 朝、モーテルに一台の車が止まった。予約していたタクシーだった。しかし見ると、ふつうの
車。

 車に乗りこむと、運転手の男は、こう言った。「(運転手をしている)ワイフは、ほかのところへ
行っていますので、私が、かわりに来ました」と。

 そのタクシー会社では、その男の妻が運転手をしていた。しかし妻は、ほかのところへ出か
けてしまった。だからかわりに夫が、自分の車を使って、私たちのところへやってきた。

 「今日は、(日曜日で)、私は、オフ(仕事がない)ので……」と。夫は、どこかの会社に勤めて
いるサラリーマンらしい。

私「A児童会館と、B公園を回ってほしい。それと、C中学校へ……。料金は、いくらになります
か?」
男「1人で、30ドル。2人だから、60ドル」と。

 メーターなど、ついていない。

 私は、その車に乗って、あちこちを回った。日本でいえば、白タク。モグリの白タク。が、男
は、それを気にしている様子は、まったくない。公認というか、そんなことをしても、とがめる人
など、いない。

 「この町では、タクシー会社は、うちだけです」と。

 アメリカは、よく競争主義社会だと言われる。事実、そのとおり。しかしその競争主義社会の
中にあっても、こうした(いいかげんさ)が、ちょうど、部屋の中に風を通す穴のように、あちこち
に、あいている。それをアメリカでは、「自由」という。

 どうして、この日本には、そういう風穴はないのか? ……できないのか?

 何かからなにまで、すべてが、ギスギスに管理されている。息苦しいほどまでに管理されてい
る。「日本は、自由の国だ」とよく人はいう。しかし本当に、自由なのか? 自由の国なのか? 
みな、今ある、自由を、自由と思いこんでいるだけではないのか?

 母親たちが訴える不安の、原点は、そこにある。

 子どもたちの前には、1本のレールしかない。はっきり言えば、学校を離れて道はなく、学校
以外に、進むべき道はない。あえて言うなら、それは、ハバの広い川にかかった、丸木の1本
橋のようなもの。

 日本の子どもたちは、その丸木橋に、いやおうなしに、追いつめられていく。つまりは、その
丸木橋を、うまく渡れた子どもが、勝者であり、そうでなければ、敗者。それを若い母親たち
が、本能的な部分で感じ取っている。

 「子どもを育てるのは、私たちですよ。お母さんたち自身が、自分で育てる。育ててもらうので
はなく、自分で育てる。子どものできがよくても、悪くても、自分の子どもでしょう。自分の子ども
を信じて、前に進むしかないのです」と。

 私は、そう言って別れた。が、1人だけ、私のところへもどってきて、こう言った。「これから
も、いろいろ相談にのっていただけますか?」と。

 私は、「いいですよ」と答えた。見ると、あたりは、不思議なほど、のどかだった。白い真夏の
光線が、道路を光らせていた。
(はやし浩司 不安 親たちの不安 親達の不安感)


++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

●クマバチ

 クマバチ……「くまんばち」とも言う。体長が2センチくらい。首のところに黄色い輪をもった、
大きな黒いハチである。

 大きいだけあって、飛んでいるときは、迫力がある。ブォーという羽音。それが庭の中を、縦
横無尽に駆けまわる。

 しかしこのクマバチ。見かけとは違い、性質は、たいへんおとなしい。指でつかむようなことを
しないかぎり、刺されるということはない。それに、ここが、クマバチのおもしろいところ。

 ふつう、ハチは、集団行動をする。しかしクマバチは、単独行動。巣も、1、2匹でつくり、夏の
間に、7〜8匹の幼虫をかえす。

 しかし、ハチは、ハチ。油断は、禁物。そのクマバチが、裏の納屋の中に、巣を作ったとい
う。ワイフが、そう言った。「私、クマバチが、箱の中に、入っていくのを見た」「ずっと見ていた
けど、出てこなかった」と。

 多分、そこに巣があるのだろう。

 クマバチは、ふつうの殺虫剤で、攻撃すればよい。スズメバチのような攻撃性はない。私は、
その日は、夜になるのを待った。

 で、その攻撃性。

 ハチによって、攻撃性は、みな、ちがう。ハチの中でも、一番、攻撃性があるのが、スズメバ
チ。私の印象では、腹が、黄色と黒になっているハチには、攻撃性がある。だから、そういう模
様になったとも言える。目だつ。「オレたちには、注意しろよ」と。工事現場の立て札も、その色
をまねている。

 私は、そのスズメバチに、先日、3か所も、刺された。毒をすぐ出したので、大事にはいたら
なかったが、秋だったら、そうはいかなかっただろう。つまり3か所程度では、すまなかっただろ
う。今ごろのハチは、まだおとなしい。

 しかし考えてみれば、おかしなものだ。ハチによって、攻撃性がちがうとは!

 言いかえると、人間も含めて、その動物がもつ攻撃性というのは、本能として、代々と、子孫
に伝わるものらしい。となると、人間は、どうなのか? 人間のもつ攻撃性は、どうなのか?

 動物の本能といっても、ふつうは、つぎの4つに分けて考える。

(1)種別性(種類によって、ちがう本能)
(2)生得性(その種族が共通してもっている本能)
(3)固定性(学習によっても変えることをしない本能)
(4)不可逆性(順序が狂うと、つづけて同じ行動ができない本能)

 こうして考えてみると、スズメバチというハチの種類は、集団生活をしながら、攻撃性が強い
ということになる。

 一方、クマバチは、単独生活をしながら、攻撃性は、ほとんどないということになる。これは、
種別性本能ということになる。

 こうした視点で考えると、人間は、全体として、もともとは、スズメバチに近い本能をもってい
ることになる。それを人間は、人間固有の知的能力で、コントロールしている。……と、単純に
考えることはできないが、人間は、たしかに、攻撃性が強い。白人も、黒人も、黄色人種も、な
い。こと攻撃性ということになったら、あらゆる動物の中でも、人間がもつ攻撃性は、一番、強
いのではないか。

 そんなことを考えていたら、その日の夜になった。

 私は、ワイフが言った箱に小さな穴をあけると、そこへ殺虫剤を、容赦なく、注入した。もうも
うと白い霧状のモヤがあたりを包んだ。

 それが終わると、その箱を、そのまま、大きなゴミ袋の中へ! そして袋の口をしばると、玄
関の、明るいところへもってきた。

ワ「いる?」
私「いないみたい……」
ワ「おかしいわね」
私「ゴキブリか何かと、見まちがえたんじゃないか?」
ワ「たしかにクマバチだったわ」と。

 袋の中で、箱をあけてみると、その中からゴキブリの死骸が、10匹くらい出てきた。

私「ゴキブリが、こんなにたくさんいたよ」
ワ「……?」と。

 結局、クマバチは見つからなかった。だいたい、クマバチが、箱の中に巣を作ったという話な
ど、聞いたことがない。クマバチは、木に丸い穴をあけて、そこに巣をつくる。

 作業が終わったとき、それに気がついた。ゴキブリにしてみれば、とんだ、災難だったというこ
とになる。
(はやし浩司 動物の本能 本能 攻撃性 種別性 生得性 固定性 不可逆性)

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

●国際結婚

 15〜20年ほど前から、日本の男性が、外国の女性と結婚するというケースが、ふえてい
る。間に立つ、仲介業者も、今では、無数にある。

 相手の女性は、中国の人や、タイやフィリッピンなどの東南アジアの人たち。韓国の人や、台
湾の人も、いる。

 が、国際結婚は、決して、楽な結婚ではない。言葉の問題、習慣の違いの問題など。克服し
なければならない問題が、山のようにある。「同じ人間だから……」「相手は、女性だから……」
という軽い気持ちで、結婚すると、たいてい失敗する。それにたいへん危険。想像もつかないよ
うなトラブルに巻きこまれることも、少なくない。

 概して言えば、日本の女性が、外国の男性と結婚するケースでは、たいてい、うまくいく。しか
し日本の男性が、外国の女性と結婚するケースでは、うまくいくケースは、あまりない。

 日本の男性独特の、男尊女卑思想が、そのつど、顔を出すからである。中には、結婚した外
国の女性を、メイドか、召使いか何かのように考える人もいる。奴隷(どれい)あつかいをする
人も、少なくない。

 こういうケースでは、即、離婚ということになる。当然である。

 で、最近も、ある人(男性)から、そういう相談を受けた。男性である。「中国の河南省に住む
女性との結婚を考えているが、どうか?」と。

 その人のことを、よく知っているが、国際性ということになったら、私は、その人の中に、それ
をほとんど感じない。国際性のある人は、ある種、独特のムードをもっている。包容力という
か、心の広さというか、そういうものである。そういうムードすら、ない。もちろん言葉の問題もあ
る。

 さらに、よく誤解されるが、中国の女性だから、男性に従順であるとか、そういうことは絶対
に、ない。むしろ、男女の同権意識ということになると、日本の女性より、はるかに強い。「夫の
ものは、夫のもの」「妻のものは、妻のもの」と、何でも、はっきりと分ける傾向が強い。

 これはほんの一例だが、こうした(違い)が無数にある。その無数の(違い)を乗り越える力
が、(愛)ということになる。しかしその(愛)を育てるにも、そこには、言葉のカベがある!

 何か、共通の仕事や目的をもっていて、つまりは、自然の成りゆきとして結婚したというケー
スなら、まだ、うまくいく。(それでも、むずかしいが……。)

 いわんや、仲介業者に写真を見せられ、1、2回、見合いした程度で結婚して、うまくいくはず
はない。(……と考えてよいのでは……。)

 そこでその人(男性)だが、私が、「外国生活の経験はありますか?」と聞くと、こう言った。

 「5、6回、旅行で、中国や東南アジアを回ったことがあります」と。

 が、旅行程度では、じゅんぶんとは言えない。だから私は、こう言った。「ぼくの経験では、そ
ういう結婚は、むずかしいと思います」「フィリッピンや、インドネシアの女性なら、まだ、ナィーブ
なところがありますが、中国の女性は、強いですよ。韓国の女性は、もっと、強い。その覚悟は
できていますか?」と。

 そう言えば、ときどきオーストラリアの友人が、私の家に遊びにくるが、みな、こう言う。「日本
の女性は、やさしいね」と。ときには、「アキコサン(=私のワイフ)は、ヒロシのサーバント(奴
隷)みたいで、かわいそう」と言われることもある。

 向こうの人たちから見ると、私のワイフにかぎらず、日本の妻たちは、そう見えるらしい。
(はやし浩司 国際結婚)


++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司


最前線の子育て論byはやし浩司(806)

●電話の口

++++++++++++++++++

あなたは受話器の話し口を手で押さえて、
近くの人と、話をすることはありませんか?

しかし、それはたいへん、危険なこと。
一度でも、それをすると、それが理由で、
相手との人間関係を破壊することになるかも?

++++++++++++++++++

 あなたは今、電話で、だれかと話をしている。だれでもいい。だれかだ。そのとき、あなたは、
近くにいる、子どもか、夫か、あるいは妻と、何か相談しなければならないことができた。受話
器はもったまま、だ。

 そのとき、あなたなら、どうするだろうか。

 一番、安全な方法は、電話機の「保留ボタン」を押すことだ。それを押せば、何らかの音楽が
流れ、会話は、それで完全に、途切れる。

 しかしそこまでは、したくない。その必要は、ない。そういうとき、あなたならどうするだろうか。
……あなたは、多分、電話の話し口(聞き口ではなく、話し口)の方を、手で押さえる。そして小
さな声で、近くにいる人に、顔をしかめながら、こう言うにちがいない。

 「この電話、あの林からよ。いやねエ〜。どうるす?」と。

 あなたは話し口を手でしっかりと押さえている。だから小声で話したことは、相手には、聞こえ
ないと思っている。

 だからそう言い終わると、また手を離して、「そうですねえ、わかりました、林さん」と、明るい
声で話す。

 しかし……だ。最近の電話機は、性能がよい。話し口を手で押さえたくらいでは、会話をさえ
ぎることはできない。あなたの話した言葉は、実は、耳にあてた聞き口からも、相手に伝わる。
話し口も、聞き口も、原理的には、構造は、同じ!

 だから、電話機の口を手で押さえたくらいで、安心してはいけない。最近だが、こんなことが
あった。

 私は、B氏に電話をした。少しこみいった話なので、内容は、省略する。しかしB氏は、留守
だった。(実際には、居留守を使っていた。)かわりにB氏の妻が電話に出た。

私「……では、いつお帰りですか?」
妻「もうすぐ帰ってくると思いますが……」と。

 そのとき、B氏の妻は、受話器の話し口を手で押さえた。その感触というか、手で押さえた感
じが音でわかった。ポンと耳がつまったような感じがした。B氏の妻は、近くにいるB氏に、小声
で、こう言った。「あの林からよ。いやねエ……。この電話、どうする?」と。

 それに答えて、そばにいたB氏は、多分、首を横に振ったのだろう。B氏の妻は、夫の様子を
見て、再び、明るい声で、「ごめんなさいねエ。また帰ってきましたら、林さんから電話があった
ことを、主人に伝えておきますから……」と。

 ……という、この話は、実は、フィクションである。最近、別のところで経験したことを、私の話
にからめて、作ってみた。

 しかし、現実に、こんなことが私に起きたとしたら、私なら、そのB氏とは、絶交する。つきあう
必要は、ない。つきあいたくもない。

 ……ということで、今日は、電話の話。今でも、受話器の話し口を手で押さえて内密な話をす
る人は、少なくない。しかし、それはたいへん危険なこと。あまりにも無防備なこと。それをみな
さんにお伝えしたくて、このエッセーを書いた。

 ……この話が、ウソだと思うなら、だれかに協力してもらって、自分で確かめてみたらよい。
私の言っていることがウソでないことが、わかってもらえるはず。どうか、くれぐれも、ご用心!


++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

●K国問題

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K国の核開発問題を解決するためには、K国を人権問題で
しめあげて、金xx体制を、自己崩壊させることで解決す
るのが、よい。

日本は、あんな国を本気で相手にしてはいけない。相手に
する必要もない。いわんや、あんな国と、心中してはいけ
ない。

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 拉致被害者の方たちの気持ちもよくわかる。しかし「制裁」ということになれば、K国は、すで
に、じゅうぶんすぎるほどの制裁を受けている。この7月から、配給は、1人1日、200グラム
程度だという。経済は、完全にマヒ状態。国民の大半は、飢えと貧困にあえいでいる。

 にもかかわらず、K国が崩壊しないのは、K国自身が、巨大なカルト国家になっているから。
くわえてそれを指導する金xxが、まともではないから。

 だからそんな国を、まともに考えてはいけない。まともに相手にしてはいけない。

 来週から6か国協議が再開されるが、私は、歴史上、かつてこれほどまでの茶番劇を、知ら
ない。金xxが、核兵器開発を、断念するはずはないし、そんなことはありえない。あるいは「断
念する」と言いながら、各国からの支援を取りつけ、あとはお決まりの時間稼ぎ。

 あれこれそのつど、いちいち難グセをつけ、さらなる支援を取りつけ、さらに時間を稼ぐ。

 検証可能な方法で、核開発を断念せよと迫る、日本とアメリカ。
 核開発断念は、「最終目標」「努力目標」と逃げる、K国。
 「同胞」意識をもりあげ、何とか、自国への攻撃を避けてもらいたがっている韓国。
 日本からの戦後補償費を、何とか自分のものにしたがっている、ロシアと中国。

 今、この段階で、K国に、200万キロワットの電力を無償提供し、食糧を援助し、なおかつ戦
後補償を支払ったら、K国は、どうする? どうなる? 自然崩壊どころか、金xx体制は、ます
ます勢いづく。

 この問題は、一日も早く、国連の安保理に付託するのがよい。中国が拒否権を行使するとい
うのなら、勝手にそうさせればよい。世界は、K国も、中国も、同じムジナであると知るだろう。

 だから、K国は、人権問題でしめあげる。制裁でも、武力でもない。人権問題である。

 このほど(7・15)、アメリカ政府は、K国人権問題担当特使に、ジェイ・レフコウィッツ元大統
領次席補佐官を起用することを決めた。人権問題に関しては、最強硬派として知られる人物で
ある。弁護士出身のレフコウィッツ氏は、先代ブッシュ政権で、旧ソ連のユダヤ人問題を担当
したことがある。現ブッシュ政権でも一時、内政担当の次席補佐官をつとめことがある。

 アメリカの選択を、支持したい。


++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

●プラズマ

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ハチソン効果って、知っていますか?
超常現象の一つと考えられています。
しかし、どうも、そうではないような
気がするのですが……?

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 強力な電磁波を、2方向から当てる。(原理的には、3方向でも、4方向でも、あるいはそれ以
上でもよい。)

 その2方向からの電磁波が結ばれたところで、プラズマが発生する。強烈な熱と光をもったエ
ネルギーである。

 このプラズマの中では、モノが無重力状態になり、私たちが知っている慣性の法則も当ては
まらなくなるという。

 たとえば大きな丸い鉄球をつくる。その鉄球の中に、人間を入れる。その鉄球に向けて、2方
向から、強力な電磁波を当てる。エネルギー源としては、原子力しかない。
 
 するとその鉄球は、プラズマの動く方向に、自由に移動するようになるという。電磁波の方向
を、手元で変えればそれでよい。原理的には、その鉄球を、一瞬のうちに、数百キロ、あるい
はそれ以上の距離を移動させることも可能である。

 中にいる人間は、慣性の法則の原理を受けないから、体がバラバラになることもない。(自動
車が、一瞬にして、時速0キロから200キロに加速したら、その中の人間は、ペシャンコになっ
てしまう。慣性の法則が働くからである。)

 が、問題は、熱である。プラズマの熱は、電磁波の強さにもよるが、仮に数千度でも、鉄球の
中の人間は、それだけで真っ黒こげになってしまう。当然である。

 ところが、である。

 電磁波の中にも、いろいろな種類があって、高熱を発生ないプラズマを作ることも、可能だと
いう。すでに、そうした一連の実験をした人もいるという。

 ジョン・ハチソンという人だそうだ。1945年生まれのユダヤ系科学者。ハチソンは、原理的
には、この方法を使い、モノを浮揚させる事件に成功しているという(1988年、カナダのオタワ
で開かれた「新エネルギー会議」)。

具体的には、金属類の物質破壊、異なる金属類の一体化、物体の浮上、無重力化現象、など
の実験が、その場で公開された。

 ウソかホントか?

 私はもちろん科学者ではない。まったくの部外者である。しかし、この話には、興味をもった。
もしこんなことが可能なら、たとえば飛行機にしても、飛行機にエンジンをつけて飛ばす必要
は、まったく、ない。

 飛行機そのものに、2方向から電磁波をあて、その電磁波を移動させれば、それでその飛行
機は移動することになる。しかも、超高速で!

 もっとも、このジョン・ハチソンが偶然発見したとされる「ハチソン効果」は、超常現象の一つと
して片づけられてしまっている。つまり(頭のおかしな人がした、おかしな実験)ということになっ
ている。

 いろいろな反論もある。

 ハチソンが作りあげた実験装置は、そののち、だれかに破壊されてしまっている。そのため、
その実験は、再現することができないという。

 「だからインチキだった」と主張する人もいる。また物体が浮揚したのは、糸でつりあげられた
からだと主張する人もいる。……などなど。

 しかし私は、こういう話が、大好き。既存の常識では、理解できないところがおもしろい。

たとえば昔、コペルニクスは、地動説を唱えたが、発表したのは、迫害を恐れて、死の直前で
あったという。あのマルティン・ルターでさえ、「このばか者は、天地をひっくりかえそうとしてい
る」と、コペルニクスを非難した。ジョルダーヌ・ブルーノのように、地動説を唱えたため、処刑さ
れた人さえいる(1600年)。

 私たち人間は、すべての科学を征服したような顔をしているが、しかし実際には、この数百年
の間、ほとんど、進歩していないのかもしれない。知っていることよりも、知らないことのほう
が、はるかに多い。数千キロの道のりを、数センチ移動したからといって、科学を征服したこと
にはならない。

 もちろんだからといって、ジョン・ハチソンの実験が、本当であったと言っているのではない。
私は、今、いろいろな本を読んでいるが、この話のウラには、何かがありそうな気がする。ただ
のインチキではないような気がする。

 これから近くの書店へ行って、この種の本を、いくつか買ってくるつもり。おもしろそうだ。今日
の日曜日は、その読書をしてすごす。
(はやし浩司 ジョン ハチソン ハチソン効果)


++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

●自爆犯は、だまされていた?

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ロンドン市内で起きた、連続爆破事件について、
当初、自爆攻撃という見方が支配的だった。が、
どうも、そうではなかったのではないか、とい
う意見が出てきた。

私の予想どおり、……というか、まだ確定され
たわけではないが、犯人たちは、あえて自爆犯
に仕立てられてしまったのではないかという、
疑いである。

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7月17日付の、イギリス・サンデー・テレグラフ紙などは、ロンドン同時テロの実行犯4人が、
当日に列車の往復切符を買っていたことなどから、死ぬ気はなかったのに、「自爆」させられた
との見方が出ていると伝えた。

 実は、私も、当初から、そう思っていた。(事件直後から、ワイフには、そう話していた。)犯人
たちは、アラブ系イギリス人ではあったが、イギリスで生まれ、イギリスで教育を受けた若者た
ちである。イラクで自爆攻撃をしかける、無知な自爆犯たちと、いっしょにして考えることはでき
ない。

 たぶん、指導者は、こう教えたのだろう。「電車の中で、スイッチを押せ。爆弾は、5分後に爆
発することになっている。じゅうぶん、逃げる時間はあるから、安心せよ」と。

 しかしスイッチを押したとたん、ドカン!

 もしそうなら、(まだ、そうだと確定されたわけではないが)、テロが何であるか、その本質を、
そこにかいま見る思いがする。自分たちは、安全圏内に身を潜(ひそ)めながら、純粋で、無知
な若者たちを利用して、自分たちの野望を果たす。

 ズルイなどというものではない。その指導者がしたことは、まさに悪魔的。悪魔のしわざ。

私「やっぱり、ぼくが思ったとおりだ」
ワ「そうよね。監視カメラなどに残っていた記録によれば、自爆したという犯人たちは、にこや
かに笑っていたというじゃない。これから自爆しようとする人が、そんなふうに、笑うかしら…
…?」と。

 戦時中、私が住む浜松基地からも、たくさんの特攻隊が、出撃していった。みな、覚せい剤
のようなものを飲まされ、見るからに精神状態は、ふつうではなかったという。いろいろな人か
ら、いろいろな話を聞いているが、しかし、にこやかに笑いながら、飛行機に乗っていったとい
うような若者は、いなかった。少なくとも、そんな話は聞いたことがない。

 自爆攻撃というのは、そういうものである。

 しかし、ズルイ。本当に、ズルイ。もしサンデー・テレグラフの書いているとおりだとするなら、
本当に、ズルイ。

 第二次大戦中の沖縄でも、地元住民たちが、日本軍の防空壕に入れてくれと頼んだら、そこ
にいた兵隊たちは、住民に向って、こう叫んだという。「向こうへ行け! 行かぬと、たたっ切る
ぞ!」(NHK報道)と。

 あの満州でも、ソ連軍から逃れるため、イの一番に逃げたのは、ほかならぬ軍人やその家
族たちであった。

 こういう話は、あちこちで聞く。今の政治家だって、そうだ。1億円もワイロを受け取りながら、
「覚えてない」と逃げてしまう。そういう政治家たちが、別のところで、愛国心を説き、不戦の誓
いとやらをするから、おかしい。

 ……話が、どんどんと、否定的になってしまった。もちろん、住民を守った軍人もいただろう。
まじめな気持ちで、日本の未来を考えている政治家もいるだろう。みながみな、ズルい人という
わけではない。

 しかし私は、今回のサンデー・テレグラフの報道の中に、指導者、なかんずく政治家と呼ばれ
る人たちが、本来的にもつズルさを感じてしまった。たとえば今、民主主義を考えるときも、戦う
べきは、そういうズルさである。私やあなたの中にも、それはある。そのズルさである。その戦
いなくして、民主主義の完成は、ない。

 まだ、サンデー・テレグラフの記事の内容が、確定されたというわけではないが……。
(はやし浩司 民主主義 心のズルさ)


●スペイン在住のIさんから

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BW生だった、Iさんのお父さんから、
こんなメールが届いています。

紹介します。

今年も、スペインは、暑いそうです。
山火事も多いとか……。

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前略 暑中お見舞い申し上げます。

スペインでは暑い日が続いており、今年は山火事がふえています。
浜松はいかがでしょうか。

先週は、ヘミングウェーの小説でも有名なパンプローナの牛追い祭(サンフェルミン
祭)が行われ、テレビで中継されていました。

既にスペインの学校は夏休みに入っており、現在YK子(I氏のお嬢さん)は、6月末から1ヶ月
間、アイルランドのダブリンの近くにホームスティに行っています。

スペインの場合、コストが安く、アイルランド人のオープンな人柄からか、イギリスよりアイルラ
ンドでのホームスティに人気があり、多くのスペイン人学生が、アイルランドに英語を勉強に行
きます。

YK子からの電話によると友達もたくさんでき、エンジョイしているようです。4年も英語で勉強し
ているので会話は、全く問題ないようです。夏期講習のクラスでも、YK子が一番年下なのです
が、授業にも、無理なくこなしているようです。

おそらく、来年帰国する予定ですが、すぐに日本での高校入試が待っています。
英語はともかく、他の教科は日本語で勉強していないので、大変不安です。

8月後半から9月の初めに、浜松に一時帰国しますので、時間があれば、
お会いしたいと思います。

では、お元気で、お過ごし下さい。

草々

Iより
(このI氏からのメールは、去る7月17日に届いたものです。)


++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

最前線の子育て論byはやし浩司(807)

【子育て・新格言】

●名前は呼び捨て

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学校での教師の指導のし方が、大きく、変わっ
てきています。

生徒を、「〜〜さん」「〜〜君」と、「さん・君」
づけで呼ぶ。また教師が何かをしてほしいとき
には、「〜〜しなさい」という命令口調ではな
く、「〜〜してくれませんか?」「〜〜してはど
うでしょうか?」という、依頼型、提案型に
なってきている(静岡県)、など。

教師と生徒は平等……という考え方が基本に
あるようですが、そういう話を聞くと、「学校の
先生も、たいへんだなあ」と思ってしまいます。

今では、そこまで気をつかわねばならないのか、
と、です。

しかし、家庭では、もう少し、気楽に考えて
よいのではないでしょうか。いちいちたがいに
気をつかっていたら、それだけで気が疲れて
しまいますね。

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 よく誤解されるが、子どもをていねいに扱うから、子どもを大切にしていることにはならない。
先日も神奈川県のU市の、ある私立幼稚園で講演をしたら、その園長がこっそりとこう話してく
れた。

「今では昼の給食でも、レストラン感覚で出さないと、親は満足しないのですよ」と。そこで私が
「子どもに給仕をさせないのですか」と聞くと、「とんでもない。それでやけどでもしたら、たいへ
んなことになります」と。

 子どもを大切にするということは、「してあげる」ことではなく、「心を尊重する」ということ。中に
は、「子どもを楽しませること」「子どもに楽をさせること」を、親の愛と誤解している人もいる。

しかし誤解は、誤解。まったくの誤解。子どもというのは、皮肉なもので、楽しませたり、楽をさ
せればさせるほど、ドラ息子(娘)化する。しかし苦労をさせたり、がまんをさせればさせるほ
ど、生活力も身につき、忍耐力も養われる。そしてその分、親子の絆(きずな)も太くなる。言う
までもなく、子どもは(おとなも)、自分で苦労してはじめて、他人の苦労がわかるようになる。

 そういう流れの中で、私は、自分の子どもを、「〜〜さん」とか、「〜〜ちゃん」づけで呼ぶ親を
見ると、「それでいいのかなあ」と思ってしまう。

一見、子どもを大切にしているように見えるが、どこか違うような気がする。それで子どもに問
題がなければよいが、たいていは、そういう子どもにかぎって、わがままで、自分勝手。態度も
大きく、親に向かっても、好き勝手なことをしている。子どもが小さいうちならまだしも、やがて
親の手に負えなくなる。

 子どもを大切にするということは、子どもの心を大切にするということ。英語国では、親子で
も、「おまえは今日、パパに何をしてほしい?」「パパは、ぼくに何をしてほしい?」と聞きあって
いる。

そういう謙虚さが、たがいの心を開く。命令や、威圧は、それに親が勝手に決めた規則は、子
どもを指導するには便利な方法だが、しかしこれらが日常化すると、子どもは自ら心を閉ざ
す。閉ざした分だけ、親子の心は離れる。

 ともかくも、親が子どもを呼ぶとき、「しんちゃん」で、子どもが親を呼ぶとき、「みさえ!」で
は、いくら親子平等の時代とはいえ、これでは本末転倒ではないか(「クレヨンしんちゃん」)。そ
れほど深刻な問題ではないかもしれないが、子どもを呼ぶときは、呼び捨てでじゅうぶん。また
呼び捨てでよい。

【父親の皆さんへ】

たしかに今、教育や子育てのし方が、大きく変わりつつあります。こういう流れの中で、「今まで
のあなたの、父親としての子育て法は、まちがっていました」と、あまり人から言われると、自信
をなくしてしまいますよね。

心理学でいう、「役割混乱」的な不安感を覚える人も少なくありません。私も、いつだったか、エ
プロンをかけて、台所に立ったとき、言いようのない不安感を覚えたことがあります。それだけ
ではありません。「これからは男も、洗濯をしなければいけないのかなあ」「これからは男も、料
理をしなければいけないのかなあ」と考えただけで、憂うつになってしまったことも覚えていま
す。

(今は、平気で、それができるようになりましたが……。)

しかし子育てで重要なのは、実は、「一貫性」なのです。「あなたは、あなた。私は、私」という一
貫性です。

その一貫性があれば、あとは、子どものほうが、それを受け入れ、消化していきます。「うちの
オヤジは、化石のような頭をしているからなあ」とか、「オヤジは、封建時代の亡霊だよ」とか、
そんなふうに言いながら、納得していきます。

決して、理想的な父親になろうと、思わないこと。思う必要もありません。気負いが強すぎると、
かえって、子どもとの関係が、ギクシャクしてきてしまいます。機嫌をとったり、子どもにコビを
売ったりするようになります。

 無理をしてはいけません。

「ぼくが子どものころは、男は、料理や裁縫などしなかった」で、すませばよいのです。無理をし
て、料理をしたり、裁縫をしたりする必要はないのです。この問題は、これから先、何世代もか
けて、少しずつ修正されていけば、それでよいのです。

この問題は、母親である(あなた)にも、当てはまるかもしれません。あなたはあなたでよいの
です。ただし、居直りは、禁物。努力することだけは、忘れないように。

++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

●名前は大切に

 子どもの名誉、人格、人権、自尊心、それに名前(書かれた文字)は、大切にあつかう。

(1)名誉……「さすがだね」「やっぱり、あなたはすごい子ね」「すばらしい」と、そのつど、子ど
もはほめる。ただしほめるのは、努力ややさしさ。顔やスタイルは、ほめない。「頭」について
は、ほめてよいときと、そうでないときがあるので、慎重にする。

(2)人格……要するに子どもあつかいしないこと。コツは、「友」として迎え入れること。命令や
威圧はタブー。するとしても最小限に。「あなたはダメな子」式の人格の「核」に触れるような
「核」攻撃は、タブー中のタブー。

(3)人権……人として生きる権利を認める。家族の愛に包まれ、心豊かに生きる権利を守る。
子どもにもプライバシーはあり、自由はある。抑圧され、管理された家庭環境は、決して好まし
いものではない。

(4)自尊心……屈辱的な作業や、屈辱的な言葉を言ってはいけない。『ほめるときはおおやけ
に、叱るときは内密に』という原則を守る。みなの前で「土下座しなさい」式の叱り方はタブー。
もちろんみなの前で恥をかかせるようなことは、してはいけない。

(5)名前……子どもの名前の載っている新聞や雑誌は、最大限尊重する。「あなたの名前は
すばらしい」「あなたの名前はいい名前」を口グセにする。子どもは名前を大切にすることか
ら、自尊心を学ぶ。ある母親は、子どもの名前が新聞に出たようなときは、それを切り抜いて、
高いところにはったり、アルバムにしまったりしていた。そういう姿勢を見て、子どもは、自分を
大切にすることを学ぶ。

++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

●涙にほだされない

 心の緊張感がとれない状態を、情緒不安という。この緊張した状態の中に、不安が入ると、
その不安を解消しようと、一挙にその不安が高まる。このタイプの子どもは、気を許さない。気
を抜かない。他人の目を気にする。よい子ぶる。その不安に対する反応は、子どものばあい、
大きく分けて、(1)攻撃型と、(2)逃避型がある。
 
 攻撃型というのは、言動が暴力的になり、ワーワーと泣き叫んだり、暴れたりするタイプ。私
はプラス型と呼んでいる。また逃避型というのは、周囲に向かって反応することができず、引き
こもったり、性格そのものが内閉したりする。慢性的な下痢、腹痛、体の不調を訴えることが多
い。私はマイナス型と呼んでいる。(ほかにモノに固執する、固執型というのもある。)

 こうした反応は、自分の情緒を安定させようとする、いわば自己防衛的なものであり、そうし
た反応だけを責めたり、叱っても、意味はない。原因としては、乳幼児期の何らかの異常な体
験が引き金になることが多い。家庭騒動や家庭不和、恐怖体験、暴力、虐待、神経質な子育
て、親の拒否的な育児姿勢など。一度不安定になった情緒は、簡単にはなおらない。

 そこで子どもによっては、この時期、すぐ泣く、よく泣くといった症状を見せることがある。少し
いじめられても、すぐ泣く。ちょっとしたことで、すぐ泣くなど。こうした背景には、子ども自身の
情緒不安があるが、さらにその背景には、たとえば恐怖症や神経症が潜んでいることが多い。

たとえば子どもの世界でよく知られた現象に、対人恐怖症がある。反応はさまざまだが、そうし
た恐怖症が背景にあって、情緒が不安定になるということは珍しくない。親は、「友だちを遊ん
でいても、ちょっと何かをされるとよく泣くので困ります」と言うが、子どもは泣くことで、自分の
情緒を安定させようとする。

 もちろん子どもが泣くときには、原因をさがして、対処しなければならないが、「泣く」ということ
を、あまりおおげさに考えてもいけない。コツは、泣きたいだけ泣かせる。泣いてもムダというこ
とをわからせる、という方法で対処する。

ぐずりについてもそうで、定期的に、また決まった状況で同じようにぐずるということであれば、
ぐずりたいだけぐずらせるのがコツ。泣き方やぐずり方があまりひどいようであれば、スキンシ
ップを濃厚にして、カルシウム、マグネシウム分の多い食生活にこころがける。

 こうした心の問題は、「より悪くしないこと」だけを考えて、一年単位で様子をみる。「去年より
よくなった」というのであれば、心配ない。あせってなおそうとして症状をこじらせると、その分、
立ちなおりがむずかしくなる。

++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

●波間に漂(ただよ)わない

 子どものことで、波間に漂うようにして、フラフラしている人がいる。「右脳教育がいい」という
話を聞くと、右脳教育。隣の子どもが英会話に通い始めたときくと、英語教室。いつも他人や
外からの情報に操(あやつ)られるまま操れられる。私の印象に残っている母親に、こういう母
親がいた。

 ある日、私のところにやってきて、こう言った。「今、通っている絵画教室へこのまま、通わせ
ようか、どうかと迷っている」と。話を聞くとこうだ。

「色彩感覚は、3歳までに決まるというから、あわてて絵画教室に入れた。しかし最近、個人の
絵の先生に習うと、その先生の個性が子どもに移ってしまうから、よくないという話を聞いた。
今の絵の先生は、どこか変人ぽいところがあるので心配です。だから迷っている」と。

 こうしたケースで、まず問題としなければならないのは、子どもの視点がどこにもないというこ
と。「子どもはどう思っているか」ということは、まったく考えていない。そこで私が「お子さんは、
どう思っているのですか」と聞くと、「子どもは楽しんで通っています」と。だったら、それで結論
は出たようなもの。迷うほうが、おかしい。

 「優柔不断」という言葉があるが、この言葉をもじると、「優柔混迷」となる。自分というものが
ないから、迷う。迷うだけならまだしも、子どもがそれに振り回される。そして身につくはずの
「力」も、身につかなくなってしまう。こういうケースは、今、本当に多い。では、どうするか。

 親自身が一本スジのとおった方針をもつのがよいが、これがむずかしい。だからもしあなた
がこのタイプの母親なら、こうする。何ごとにつけ、結論は、3日置いて出す。このタイプの母親
ほど、せっかちで短気。自分の心に問題を秘めて、じっくりと考えることができない。

だから3日、待つ。とくに子どもに関することは、そうする。この言葉を念仏のように心の中で唱
えるとよい。……といっても、簡単なことではない。私のアドバイスが効力をもつのは、せいぜ
い一週間程度。それを過ぎると、またもとに戻ってしまう。もともと子育てというのは、そういうも
のか。その親自身の全人格がそこに反映される。

++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

●『ひまな子どもほど、忙しいと言う』

 『ひまな子どもほど、忙しいと言う』は、イギリスの格言。つまりひまで、時間をもてあましてい
る子どもほど、何かを言いつけたりすると、「忙しいからできない」を口実に、しない。

日本でも、昔から、『大工は、いそがしい大工に頼め』という。いそがしい大工は、それだけ仕
事から手を抜くかといえば、そうではない。反対にヒマそうな大工ほど、それだけよい仕事をし
てくれるのではと思いがちだが、実際には、しない。

 人はある緊張感に巻き込まれると、そのリズムで、仕事をするようになる。わかりやすく言え
ば、「活気」ということか。これは教師についても言える。毎日、忙しそうにキビキビと動いてい
る教師は、そのリズムの中で、どんどんと仕事をこなしていく。仕事ぶりもよい。しかし毎日ひま
そうな教師は、そのリズムで、どんどんと仕事をあと回しにしていく。そのため仕事から、できる
だけ手を抜こうとする。

 子どもを伸ばすコツは、言うなれば、こうした緊張感のあるリズムの中に、子どもを巻き込む
こと。そして子ども自身が、日々の生活をキビキビとこなしていくようであれば、よし。そうでなけ
れば、……と書いたが、この先がむずかしい。一度だらしなくなってしまった生活は、なかなか
もとには戻らない。

たとえば子どもに退行的な生活態度(約束や規則、目標が守れない。時間がルーズになる。生
活習慣が乱れる。だらしなくなる)が見られるようになると、それをなおすのは、容易ではない。
要は、そういう子どもにしないことだが、親が寝そべって、せんべいを食べながら、「あんたはし
っかりしてね」はない。結局は、親の心がまえの問題ということになる。

 そこであなた自身はどうか。毎日、メリハリのある生活を、キビキビとこなしているだろうか。
さらに月単位、年単位で、キビキビとこなしているだろうか。もしそうなら、そうした緊張感は、子
どもによい影響を与えているはずである。そうでなければ、そうでない。

 ふつうキビキビと目標をもって生活している子どもは、「忙しい」とは言わない。「時間がない」
という。だからこのイギリスの格言をもじると、こうなる。

 『忙しい子どもほど、時間がないと言う』と。さて、あなたの子どもはどうか。あなた自身はどう
か。

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

最前線の子育て論byはやし浩司(808)

●重要な提案

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この原稿(マガジン)を読んでくださっている、お母さん方へ
重要な、提案があります。

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●子育てのことで、夫婦げんかをしないこと!

 ときどき、こんなメールをいただきます。

 「夫が、私の子育て法を理解してくれない」「夫にも、林の考え方を理解してもらいたいが、ど
うすればいいか」「夫は、学歴主義者で困っている」「うちの主人は、親絶対教の信者で、マザ
コン。親を批判しただけで、大騒動になってしまう」など。

 こういうときの鉄則は、ただ一つ。

 私(=はやし浩司)の意見など、その場で捨ててください。私の意見は忘れて、あなたの夫の
意見に耳を傾けてあげてください。そしてこう言うのです。「あなたのほうが、正しい」「あなたの
言うとおりにします」と。

 あなたの夫は、たいていのばあい、仕事で忙しく、私が出しているようなマガジンを読んで勉
強している時間は、ないはず。ですから、あなたが知っていることや、あなたが学んでいること
を、あなたの夫に、そのまま理解してもらおうと考えるほうが、無理なのです。

 ですから、まちがっても、「はやし浩司はこう言っている。あなたはおかしい!」などとは、言っ
てはいけません。絶対に、言ってはいけません。賢いあなたなら、なおさら、言ってはいけませ
ん。

 私がこうして原稿を書いているのは、決してあなたの考え方を誘導しようとか、カルト教団の
指導者のように、あなたを洗脳しようとか、そういう目的のためではありません。もちろん、そう
したところで、私には、何も、利益はありません。

 こうしたマガジンを発行する第一の目的は、みなさんといっしょに、考える機会をつくり、とも
に、深く考える人になりましょうということです。もっと言えば、「考えることの楽しさ」を、みなさん
と、分かちあうことです。子育てを考えていくと、その向こうに、自分人身の人生そのものが見
えてくるときがあります。子育ては、あくまでも、その一つのテーマにすぎません。

 ですから、どうか、どうか、家庭の中では、穏便に! 平和に! 安らかに! そのために
は、どうしたらよいかを、第一に考えながら、私の原稿を参考にしてください。またその範囲でと
どめてください。

 くれぐれも、よろしくお願いします。これが、私からあなたへの、重要な提案です。

*******************************重要な提案

●子どもの進路について

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京都府にお住まいの、HUさん(母親)から、
こんな相談のメールが届いています。

みなさんと、いっしょに、この問題を、考えて
みたいと思います。

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【HUより、はやし浩司へ】

【 マガジンを読んでくださっていますか? 】:毎回、欠かさず読んでいる。
【 ホームページをご覧くださっていますか? 】:よく見る。
【 マガジンは、おもしろいですか? 】:
    たいへんおもしろい。
    たいへん、役立っている。
    共鳴するところが多い。

【 マガジンでは、どんなテーマを希望されますか? 】:
    子育てのノウハウ。
    親子の問題。
    受験問題。

【 これからもマガジンを購読してくださいますか? 】:毎回、必ず読む。
【 ご相談をお寄せください。(このままマガジンに掲載することもあります。あらかじめ、ご了解く
ださい。) 】:

 はじめまして、ある掲示板で、はやしさんのことを知る事ができ、いろいろ読ませていただい
ています。

 現在高3の娘と高1の息子を、子育て中です。

上の娘は何でも一人で考えてキチンとこなす子なのですが、下の息子は何をするのも慣れる
まで時間がかかるので、こちらもつい口出しをしてしまいます。母子でいつも大騒ぎしていま
す。主人が転勤族なので子供達も、転校続きでしたが、今まではお友達とそのお母さん方に恵
まれ、悩む事もあまり無く過ごせてきました

 しかし息子の高校受験からちょっと雲行きが怪しくなってきました。高校入学後、部活と通学
に精一杯で、勉強を一切しなくなってしまったのです。

 第一〜第四まで落ちてしまったので、すべり止めで入学した学校ですが、後ろを振り返ったら
何人もいない状態です。受験まで分からない事があると、私が教えていました。

 学生時代、私もそんなに賢かったわけではないので、一緒に勉強しました。これを高校へ入
ってからもやるべきかそれとも放っておくべきか、迷っています。

 娘の時は一切見ていません。
 息子は言われなければ夏休みも部活だけで何もしないでしょう。それをそばで見ないふりを
するのが、彼にとって良いのは分かっています。

 でも取り返しのつかないバカになってしまいそうで、不安です。おかしいですか? 笑ってしま
いますか? 私も書いていて笑ってしまいます。でも真剣です。

 学校は進学校で、受験指導なども真剣にやってくれていますが、息子の心には響かないよう
です。受験失敗の後、いろいろな葛藤があり、それも尾をひいているのかなとも思います。息
子は必死でやった、らしいですが、母親の私の目にはその様に映らなかった。

 でも息子の話を聞くうちにこの子の限界だったのかな、可愛そうだったなという気持ちになり
ました。

 お忙しそうですのでお返事は期待していません。

 何かの機会に高校生の扱い方みたいなことを書いていただけたらと思います。アホな母でし
た。

++++++++++++++++++++++はやし浩司

 子どもは、小学3、4年生を境に、急速に親離れを始め、そのころから、おとなになるため
の、心の準備を始めます。たいていは、不安と心配、孤独と期待の、入りまざった心の状態に
なります。

 「自分が餞別される」というのは、子どもにとっては、恐怖以外の何ものでもありません。それ
に将来に対する、不安もあります。相談を寄せてくださったHUさんも、若いころ、その時代に
は、そうだったと思いますが……。

 が、たいていの親は、それに気づかない。気づかないまま、つまり子離れできないまま、その
ままの関係を維持しようとします。「まだ、何とかなる」「こんなはずは、ない」と、です。

 しかし中学生ともなると、もう子どもは、子どもではない。言いかえると、子どものある部分
は、親の手の届かないところに、行ってしまっている……。子どもというのは、そういうもので
す。

 で、この時代に、夢と希望、それに目標をもっている子どもは、幸福です。その目標に向かっ
て、前に進むことができます。しかし現実には、夢や希望すらない子どものほうが、多いので
す。いろいろな調査結果からみても、夢や希望をもっている子どもは。全体の30%前後(小学
6年生レベル)。約70%の子どもは、毎日を、そこに毎日があるから過ごしているだけというよ
うな、過ごし方をしています。

 これが現実です。

 そこで、多くの親たちは、子どもを受験にかりたてます。

 しかしここで誤解してはいけないことは、目的(?)の学校に、合格することは、ここでいう「子
どもの目的」ではないということです。学歴社会という社会が、勝手につくりあげた(目的)にす
ぎないということです。学歴社会では、それなりのメリットもあり、「目的」となりえるかもしれませ
ん。しかし「学歴があるから、どうなの?」という部分がないまま、学歴を子どもに求めても、今
の子どもたちは、それには納得しないでしょう。

 夢や希望が、ベースにあり、その夢や希望を果たすために、学歴が必要ということなら、子ど
もも、それに納得するだろうということです。たとえば医者になりたいとか、建築士になりたいと
か、あるいは科学者になりたいとか、そういう夢や希望です。

 それがないまま、ただ「勉強しなさい」「いい大学に入りなさい」と、子どもを攻めたてても、子
どもはかえって、反発するだけだということです。

 現に今、地元の中学生にしても、約60%の子どもたちは、「勉強で苦労するくらいなら、部活
動を一生懸命して、推薦で、高校へ入ったほうがいい」「進学校はいやだ。勉強しなければなら
ないから」と考えています。ある中学校の校長が、こっそりと、私にそう話してくれました。

 私たちの世代と、HUさんたちの世代とは、大きく、ものの考え方がちがいます。同じように、
HUさんたちの世代と、HUさんの子どもの時代は、これまた大きく、ものの考え方がちがいま
す。昔のように、「学歴をぶらさげて……」という時代は、終わりつつあるということです。

 (だからといって、決して、学力、学問を否定しているわけではありません。どうか誤解のない
ように!)

 で、全体としてHUさんのメールを読んで感じたことは、今の段階では、もはやHUさんに、で
きることは、ほとんどないということです。あるとすれば、現状を受け入れ、HUさんの子どもを、
信ずるしかないということです。

 実は、私の息子の一人がそうでした。こんなことがあります。その息子は、自分のHPの中
で、「ぼくは、高校時代、落ちこぼれだった」と書いていますが、(私は、決して、そうは思ってい
ませんが……)、私には、自慢の息子です。人格的には、私よりはるかにすぐれた子どもで
す。

 そのエッセー(中日新聞掲載済み)を転載しておきます。

++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

●子どもが巣立つとき

 階段でふとよろけたとき、三男がうしろから私を抱き支えてくれた。いつの間にか、私はそん
な年齢になった。腕相撲では、もうとっくの昔に、かなわない。自分の腕より太くなった息子の
腕を見ながら、うれしさとさみしさの入り交じった気持ちになる。

 男親というのは、息子たちがいつ、自分を超えるか、いつもそれを気にしているものだ。息子
が自分より大きな魚を釣ったとき。息子が自分の身長を超えたとき。息子に頼まれて、ネクタイ
をしめてやったとき。

そうそう二男のときは、こんなことがあった。二男が高校に入ったときのことだ。二男が毎晩、
ランニングに行くようになった。しばらくしてから女房に話を聞くと、こう教えてくれた。

「友だちのために伴走しているのよ。同じ山岳部に入る予定の友だちが、体力がないため、落
とされそうだから」と。

その話を聞いたとき、二男が、私を超えたのを知った。いや、それ以後は二男を、子どもという
よりは、対等の人間として見るようになった。

 その時々は、遅々として進まない子育て。イライラすることも多い。しかしその子育ても終わっ
てみると、あっという間のできごと。「そんなこともあったのか」と思うほど、遠い昔に追いやられ
る。「もっと息子たちのそばにいてやればよかった」とか、「もっと息子たちの話に耳を傾けてや
ればよかった」と、悔やむこともある。そう、時の流れは風のようなものだ。どこからともなく吹
いてきて、またどこかへと去っていく。そしていつの間にか子どもたちは去っていき、私の人生
も終わりに近づく。

 その二男がアメリカへ旅立ってから数日後。私と女房が二男の部屋を掃除していたときのこ
と。一枚の古ぼけた、赤ん坊の写真が出てきた。私は最初、それが誰の写真かわからなかっ
た。が、しばらく見ていると、目がうるんで、その写真が見えなくなった。うしろから女房が、「S
よ……」と声をかけたとき、同時に、大粒の涙がほおを伝って落ちた。

 何でもない子育て。朝起きると、子どもたちがそこにいて、私がそこにいる。それぞれが勝手
なことをしている。三男はいつもコタツの中で、ウンチをしていた。私はコタツのふとんを、「臭
い、臭い」と言っては、部屋の真ん中ではたく。女房は三男のオシリをふく。長男や二男は、そ
ういう三男を、横からからかう。そんな思い出が、脳裏の中を次々とかけめぐる。

そのときはわからなかった。その「何でもない」ことの中に、これほどまでの価値があろうとは!
 子育てというのは、そういうものかもしれない。街で親子連れとすれ違うと、思わず、「いいな
あ」と思ってしまう。そしてそう思った次の瞬間、「がんばってくださいよ」と声をかけたくなる。レ
ストランや新幹線の中で騒ぐ子どもを見ても、最近は、気にならなくなった。「うちの息子たち
も、ああだったなあ」と。

 問題のない子どもというのは、いない。だから楽な子育てというのも、ない。それぞれが皆、
何らかの問題を背負いながら、子育てをしている。しかしそれも終わってみると、その時代が
人生の中で、光り輝いているのを知る。もし、今、皆さんが、子育てで苦労しているなら、やが
てくる未来に視点を置いてみたらよい。心がずっと軽くなるはずだ。 

++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

【HUさんへ(2)】

 そんなわけで、二男は、中学3年から高校3年にかけて、勉強らしい勉強は、ほとんどしませ
んでした。それを許した背景には、いろいろな理由がありますが、私は、「二男は、生きていてく
れるだけでじゅうぶん」という、強い思いがありました。

 それについて書く前に、私は、二男を、二男が幼児のときから、尊敬していました。本当で
す。

 ある朝、いつものように職場の幼稚園へ行くと、園庭で二男が遊んでいました。みなが乗る三
輪車を、うしろから押しているのです。二男の押すその三輪車を待って、10人近い園児たち
が、列をつくって待っていました。

 毎朝、二男がそれをしているものですから、見るに見かねて、ある日、私は二男にこう言いま
した。「なあ、お前、たまには、お前がだれかに押してもらってはどうだ?」と。

 すると二男は、笑いながら、こう言いました。「パパ、ぼくは、そのほうが楽しい」と。幼児のと
きから、二男は、そういう子どもでした。

 何度も、マガジンで取りあげた原稿ですが、「生きていてくれるだけでいい」と思うようになった
背景について書いた原稿が、つぎの原稿です。(中日新聞掲載済み)

++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

●生きる源流に視点を
      
 ふつうであることには、すばらしい価値がある。その価値に、賢明な人は、なくす前に気づ
き、そうでない人は、なくしてから気づく。青春時代しかり、健康しかり、そして子どものよさも、
またしかり。

 私は不注意で、あやうく二人の息子を、浜名湖でなくしかけたことがある。

その二人の息子が助かったのは、まさに奇跡中の奇跡。たまたま近くで国体の元水泳選手と
いう人が、魚釣りをしていて、息子の一人を助けてくれた。

以来、私は、できの悪い息子を見せつけられるたびに、「生きていてくれるだけでいい」と思い
なおすようにしている。が、そう思うと、すべての問題が解決するから不思議である。特に二男
は、ひどい花粉症で、春先になると決まって毎年、不登校を繰り返した。あるいは中学三年の
ときには、受験勉強そのものを放棄してしまった。私も女房も少なからずあわてたが、そのとき
も、「生きていてくれるだけでいい」と考えることで、乗り切ることができた。

 昔の人は、いつも、『上見てきりなし、下見てきりなし』と言っている。人というのは、上を見れ
ば、いつまでたっても満足することなく、苦労や心配の種はつきないものだという意味だが、子
育てで行きづまったら、子どもは下から見る。「下を見ろ」というのではない。下から見る。「子ど
もが生きている」という原点から、子どもを見つめなおすようにする。

朝起きると、子どもがそこにいて、自分もそこにいる。子どもは子どもで勝手なことをし、自分
は自分で勝手なことをしている……。一見、何でもない生活かもしれないが、その何でもない生
活の中に、すばらしい価値が隠されている。つまりものごとは下から見る。それができたとき、
すべての問題が解決する。

 子育てというのは、つまるところ、「許して忘れる」の連続。この本のどこかに書いたように、フ
ォ・ギブ(許す)というのは、「与える・ため」とも訳せる。またフォ・ゲット(忘れる)は、「得る・た
め」とも訳せる。つまり「許して忘れる」というのは、「子どもに愛を与えるために許し、子どもか
ら愛を得るために忘れる」ということになる。

仏教にも「慈悲」という言葉がある。この言葉を、「as you like」と英語に訳したアメリカ人がい
た。「あなたのよいように」という意味だが、すばらしい訳だと思う。この言葉は、どこか、「許し
て忘れる」に通ずる。

 人は子どもを生むことで、親になるが、しかし子どもを信じ、子どもを愛することは難しい。さ
らに真の親になるのは、もっと難しい。大半の親は、長くて曲がりくねった道を歩みながら、そ
の真の親にたどりつく。楽な子育てというのはない。ほとんどの親は、苦労に苦労を重ね、山を
越え、谷を越える。そして一つ山を越えるごとに、それまでの自分が小さかったことに気づく。
が、若い親にはそれがわからない。

ささいなことに悩んでは、身を焦がす。先日もこんな相談をしてきた母親がいた。東京在住の
読者だが、「一歳半の息子を、リトミックに入れたのだが、授業についていけない。この先、将
来が心配でならない。どうしたらよいか」と。こういう相談を受けるたびに、私は頭をかかえてし
まう。

++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

●家族の真の喜び
   
 親子とは名ばかり。会話もなければ、交流もない。廊下ですれ違っても、互いに顔をそむけ
る。怒りたくても、相手は我が子。できが悪ければ悪いほど、親は深い挫折感を覚える。「私は
ダメな親だ」と思っているうちに、「私はダメな人間だ」と思ってしまうようになる。

が、近所の人には、「おかげでよい大学へ入りました」と喜んでみせる。今、そんな親子がふえ
ている。いや、そういう親はまだ幸せなほうだ。夢も希望もことごとくつぶされると、親は、「生き
ていてくれるだけでいい」とか、あるいは「人様に迷惑さえかけなければいい」とか願うようにな
る。

 「子どものころ、手をつないでピアノ教室へ通ったのが夢みたいです」と言った父親がいた。
「あのころはディズニーランドへ行くと言っただけで、私の体に抱きついてきたものです」と言っ
た父親もいた。が、どこかでその歯車が狂う。狂って、最初は小さな亀裂だが、やがてそれが
大きくなり、そして互いの間を断絶する。そうなったとき、大半の親は、「どうして?」と言ったま
ま、口をつぐんでしまう。

 法句経にこんな話がのっている。ある日釈迦のところへ一人の男がやってきて、こうたずね
る。

「釈迦よ、私はもうすぐ死ぬ。死ぬのがこわい。どうすればこの死の恐怖から逃れることができ
るか」と。

それに答えて釈迦は、こう言う。「明日のないことを嘆くな。今日まで生きてきたことを喜べ、感
謝せよ」と。私も一度、脳腫瘍を疑われて死を覚悟したことがある。そのとき私は、この釈迦の
言葉で救われた。そういう言葉を子育てにあてはめるのもどうかと思うが、そういうふうに苦し
んでいる親をみると、私はこう言うことにしている。「今まで子育てをしながら、じゅうぶん人生を
楽しんだではないですか。それ以上、何を望むのですか」と。

 子育てもいつか、子どもの巣立ちで終わる。しかしその巣立ちは必ずしも、美しいものばかり
ではない。憎しみあい、ののしりあいながら別れていく親子は、いくらでもいる。しかしそれでも
巣立ちは巣立ち。親は子どもの踏み台になりながらも、じっとそれに耐えるしかない。

親がせいぜいできることといえば、いつか帰ってくるかもしれない子どものために、いつもドア
をあけ、部屋を掃除しておくことでしかない。私の恩師の故松下哲子先生*は手記の中にこう
書いている。「子どもはいつか古里に帰ってくる。そのときは、親はもうこの世にいないかもしれ
ない。が、それでも子どもは古里に帰ってくる。決して帰り道を閉ざしてはいけない」と。

 今、本当に子育てそのものが混迷している。イギリスの哲学者でもあり、ノーベル文学賞受
賞者でもあるバートランド・ラッセル(一八七二〜一九七〇)は、こう書き残している。

「子どもたちに尊敬されると同時に、子どもたちを尊敬し、必要なだけの訓練は施すけれど、決
して程度をこえないことを知っている、そんな両親たちのみが、家族の真の喜びを与えられる」
と。

こういう家庭づくりに成功している親子は、この日本に、今、いったいどれほどいるだろうか。

++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

【HUさんへ(3)】

 もう一つ、たいへん気になるのは、「バカ」という言葉です。それについても、こんな原稿を書
いたことがあります。どうか、参考にしてください。(最近は、YR氏の書いた「バカのxx」という本
の影響でしょうか、バカという言葉が、たいへん安易に使われるようになりました。とても残念な
ことです。が、私は、もう少し、別の角度から、考えています。

++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

●バカなフリをして、子どもを自立させる

 私はときどき生徒の前で、バカな教師のフリをして、子どもに自信をもたせ、バカな教師のフ
リをして、子どもの自立をうながすことがある。「こんな先生に習うくらいなら、自分で勉強した
ほうがマシ」と子どもが思うようになれば、しめたもの。親もある時期がきたら、そのバカな親に
なればよい。

 バカなフリをしたからといって、バカにされたということにはならない。日本ではバカの意味
が、どうもまちがって使われている。もっともそれを論じたら、つまり「バカ論」だけで、それこそ
一冊の本になってしまうが、少なくとも、バカというのは、頭ではない。

映画『フォレスト・ガンプ』の中でも、フォレストの母親はこう言っている。「バカなことをする人を
バカというのよ。(頭じゃないのよ)」と。いわんやフリをするというのは、あくまでもフリであって、
そのバカなことをしたことにはならない。

 子どもというのは、本気で相手にしなければならないときと、本気で相手にしてはいけないと
きがある。本気で相手にしなければならないときは、こちら(親)が、子どもの人格の「核」にふ
れるようなときだ。

しかし子どもがこちら(親)の人格の「核」にふれるようなときは、本気に相手にしてはいけな
い。そういう意味では、親子は対等ではない。が、バカな親というのは、それがちょうど反対に
なる。「あなたはダメな子ね」式に、子どもの人格を平気でキズつけながら(つまり「核」をキズつ
けながら)、それを茶化してしまう。そして子どもに「バカ!」と言われたりすると、「親に向かっ
て何よ!」と本気で相手にしてしまう。

 言いかえると、賢い親(教師もそうだが)は、子どもの人格にはキズをつけない。そして子ども
が言ったり、したりすることぐらいではキズつかない。「バカ」という言葉を考えるときは、そうい
うこともふまえた上で考える。私もよく生徒たちに、「クソジジイ」とか、「バカ」とか呼ばれる。し
かしそういうときは、こう言って反論する。

「私はクソジジイでもバカでもない。私は大クソジジイだ。私は大バカだ。まちがえるな!」と。子
どもと接するときは、そういうおおらかさがいつも大切である。
  
++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

●高校野球に学ぶこと

 懸命に生きるから、人は美しい。輝く。

価値があるかないかの判断は、あとからすればよい。生きる意味や目的も、そのあとに考えれ
ばよい。

たとえば高校野球。私たちがなぜあの高校野球に感動するかといえば、そこに子どもたちの
懸命さを感ずるからではないのか。たかがボールのゲームと笑ってはいけない。私たちがして
いる「仕事」だって、意味があるようで、それほどない。「私のしていることは、ボールのゲーム
とは違う」と自信をもって言える人は、この世の中に一体、どれだけいるだろうか。

 私は学生時代、シドニーのキングスクロスで、ミュージカルの「ヘアー」を見た。幻想的なミュ
ージカルだった。あの中で主人公のクロードが、こんな歌を歌う。

「♪その人はどこにいる。私たちがなぜ生まれ、なぜ死ぬのか、それを教えてくれる人はどこに
いる」と。

それから三十年。私もこの問題について、ずっと考えてきた。そしてその結果というわけではな
いが、トルストイの「戦争と平和」の中に、私はその答えのヒントを見いだした。生のむなしさを
感ずるあまり、現実から逃避し、結局は減びるアンドレイ公爵。一方、人生の目的は生きること
そのものにあるとして、人生を前向きにとらえ、最終的には幸福になるピエール。そのピエール
はこう言う。

「(人間の最高の幸福を手に入れるためには)、ただひたすら進むこと。生きること」(第五編四
節)と。つまり懸命に生きること自体に意味がある、と。

もっと言えば、人生の意味などというものは、生きてみなければわからない。映画「フォレスト・
ガンプ」の中でも、フォレストの母は、こう言っている。「人生はチョコレートの箱のようなもの。
食べてみるまで、(その味は)わからないのよ」と。

 そこでもう一度、高校野球にもどる。一球一球に全神経を集中させる。投げるピッチャーも、
それを迎え撃つバッターも真剣だ。応援団は狂ったように、声援を繰り返す。みんな必死だ。
命がけだ。ピッチャーの顔が汗でキラリと光ったその瞬間、ボールが投げられ、そしてそれが
宙を飛ぶ。その直後、カキーンという澄んだ音が、場内にこだまする。一瞬時間が止まる。が、
そのあと喜びの歓声と悲しみの悲鳴が、同時に場内を埋めつくす…。

 私はそれが人生だと思う。そして無数の人たちの懸命な人生が、これまた複雑にからみあっ
て人間の社会をつくる。つまりそこに人間の生きる意味がある。いや、あえて言うなら、懸命に
生きるからこそ、人生は意味をもつ。生きる価値がある。

言いかえると、そうでない人に、生きる意味などわからない。情熱も熱意もない。夢も希望もな
い。毎日、ただ流されるまま、その日その日を無難に過ごしている人には、生きる意味などわ
からない。さらに言いかえると、「私たちはなぜ生まれ、なぜ死ぬのか」と、子どもたちに問われ
たとき、私たちが子どもたちに教えることがあるとするなら、懸命に生きる、その生き様でしか
ない。

あの高校野球で、もし、選手たちが雑談をし、菓子をほうばりながら、適当に試合をしていた
ら、高校野球としての意味はない。感動もない。見るほうも、つまらない。そういうものはいくら
繰り返しても、ただのヒマつぶし。人生もそれと同じ。そういう人生からは、結局は、何も生まれ
ない。高校野球は、それを私たちに教えてくれる。

++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

【HUさんへ(3)】

 信ずるということは、疑わないこと。あなたが疑ったとたん、あなたの子どもは、進むべき道
を、本当に、見失ってしまいます。

 そこであなたが今、すべきことは、そして、あなたの子どもに言うべきことは、こうです。

「どんなことがあっても、私はあなたの味方ですよ。どんな道をあなたが選んでも、私は、あな
たを支持しますからね」と。

 最後に、あなたの子どもは、決して、「バカ」ではありません。おかしいとも思いません。悲しい
とも思いません。すばらしいお子さんです。どうか、どうか、自分の子どもを、そういうふうに、考
えるのは、やめてください。

 今、あなたの子どもは、あなたが悩んでいる以上に悩み、苦しんでいます。外からは、それが
見えないだけです。ですからあなたがそんなことを言ったら、あなたの子どもは、どうしたらいい
のでしょうか。

 私も、M物産という会社をやめ、幼稚園の講師になったとき、母は、こう言いました。「浩ちゃ
ん、あんたは、道を誤ったア!」と。母は、ギャーギャーと電話口の向こうで、そう泣き叫びまし
た。

 そのあと私は、一週間の間、自分にこう言って聞かせなければなりませんでした。「浩司、死
んではだめだ」と。

 私は、母だけは、私を支えてくれると思ったのですが、それは、甘い幻想でした。が、もしあの
とき、母だけでも、私を支えてくれていたら、そののちの私の人生は、大きく変わっていただろう
と思います。

 今にして思えば、とても、残念なできごとでした。

 以上ですが、HUさんの何かの参考になれば、うれしいです。

 がんばりましょう! がんばるしかないのです。あとは「許して、忘れる」ですよ!
(はやし浩司 子どもの進路 子供の進路 進学指導 思春期の子供 子供の問題)

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

最前線の子育て論byはやし浩司(809)

【近ごろ・あれこれ】

●笑顔

 昨夜、床について、眠る前に、いろいろな人のことを思い出した。みな、死んでいった人たち
だ。

 しかし不思議なことに、みな、笑っていた。

 K先生も、脂顔(あぶらがお)の太った顔だったが、笑っていた。父も、祖父も笑っていた。叔
父も、叔母も笑っていた。友人だった、S君も、N君も、笑っていた。

 「それほど、よい印象をもっていなかったのに……。どうしてだろう?」と、そのときは、そう思
った。いろいろな人が脳裏に浮かんでは消えたが、どの人も笑っていた。怒って、しかめっ面し
ている人はいなかった。

 私をうらんでいる人もいたはずなのに……、とまた、おかしなことを考えた。が、みな、笑って
いた。

 そうそう最近なくなった、隣のRさんも、笑っていた。ただRさんのばあいは、若いときの顔と、
歳をとったときの顔が混在して、顔がよくわからなかった。しかし笑っていた。

 私も、そのうち笑いだした。みんな、死んでしまったんだねと思ったとたん、何だか、おかしく
なってきた。

不思議な経験だった。そのことをワイフに話してやろうと、横を見ると、ワイフは、もうグーグー
とイビキをかいて、眠っていた。


●HTML

時代が変わったのか? このところ、マガジン読者の数が、ほとんど、ふえない。そこで昨日
(7・18)は、書いた原稿は、ゼロ。書く気が起こらなかった。

 しかしその反面、R天の日記の読者が、ふえている。毎日200人近い人が、読んでくれる。コ
メントを寄せてくれる人も多い。

 で、何となく、このところ、R天の日記のほうに、関心がいくようになった。はじめは、面白半分
+いいかげんな気持ちで書いていたが、今は、そうではない。

 そこでR天のHPを更新することにした。が、こちらのほうは、HTML言語で、直接プログラム
を組むようにしないと、更新することができない。

 それが結構、めんどう。小さな窓(ワクや線)を描くだけでも、あれこれプログラムを組まねば
ならない。それにこちらがねらったように、描くことができない。写真や文字がズレたり、おかし
なところに、色が現われたり……!

 30年前、はじめてパソコンを買ったときのことを思い出しながら、そのプログラムを組む。当
時は、ベーシック言語といって、その言語で、自分でプログラムを打ちこんで、パソコンを使っ
た。

 しかしこれが結構、楽しい。

 そんなわけで昨日は、それだけで、時間をつぶしてしまった。


++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

●自分が嫌いな子どもたち

麻布台学校教育研究所(小中高校の退職校長や現職教員、教育委員会の元職員らが昭和五
十八年に設立した教育研究団体)が、このほど、こんな調査結果を発表した。

 「自分が好きか?」という質問に対して、

「自分が好きではない」と回答したのは

小学生・男子……23%
女子……31%
中学生・男子……50%
女子……63%

この結果をふまえて「中学生の半数以上が自己肯定感を持てないでいることがうかがえた」と
報告している。

 (調査は今年1月から2月にかけて、都内や神奈川県、神戸市の小学五年生400人と中学
二年生654人の合計1054人に実施されたという。05年7月)

 こうした調査結果を分析して、同報告書は、

「子供が自己肯定感をはぐくむうえで、(1)将来への夢や目標、希望をもてるか、(2)自分の
長所への自覚があるか、(3)自分の存在が他人のために役立っていること−の三つが大きな
要素となる」と分析している。

 ほかにも、同調査は、「キレる」「疲れる」についても、報告している。

++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

●この調査結果を読んで……

この調査結果を読んで、最近書いた自分の原稿を思い出した。
あちこちの学校で配布してもらっているレジュメの中に書いた文章である。

++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

【心の抵抗力をつけるために……】

☆(子どもだしたいこと)と、(子どもが現実にしていること)は、一致していますか?

もしそうなら、それでよし。そうでなければ、子どもの心は、やがてバラバラになってしまいま
す。

大切なことは、子どもが、夢や希望をもち、目標に向って、まっすぐ進んでいくことです。

今回の講話では、どうすれば、子どもがその夢や希望をもち、目標に向ってまっすぐ、進むこと
ができるか、私の個人的な経験も踏まえて、話させていただきます。

☆今回は、子どもの(心づくり)に焦点を合わせて、話を進めさせていただきます。

どうか、よろしくお願いします。

●(自分のしたいことをする)……それが子ども自身を伸ばす原動力となります。
●(したいこと)をしている子どもは、生き生きとしています。夢や希望もそこから生まれ、その
先には、目標が生まれます。
●子どもを守るのは、子ども自身の中の、(心の抵抗力)です。目的がしっかりしている子ども
は、その抵抗力も強くなります。

++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

【子どもを伸ばす、18の物語】

●同一性の危機(1)

万引き、自転車盗、薬物濫用、暴走、家庭内暴力、校内暴力、性非行、無断外泊、いじめを、
非行という(会津若松警察書)。子どもは、(自分のしたいこと)と、(現実にしていること)の間に
遊離感を覚えたとき、無意識のうちにも、その距離を、縮めようとする。子どもの耐性にもよる
が、それが一定の限界(個人差は当然ある)を超えたとき、子どもの自我の同一性は、危機に
立たされる。

●夢・希望・目的(2)

 夢・希望・目的は、子どもを伸ばす、三種の神器。これら夢・希望・目的は、(自分のしたいこ
と)と、(現実にしていること)が一致しているとき、あるいは、そこに一体感があるとき、そこか
ら生まれる。「ぼくはサッカー選手になる」「私はケーキ屋さんになる」と。そしてサッカーの練習
をしたり、ケーキを自分で焼いてみたりする。「プロの選手になる」とか、「パン屋さんになる」と
かいう目的は、そこから生まれる。

●子どもの忍耐力(3)

 同一性が危機に立たされると、子どもは、それを修復しようとする。(自分のしたいこと)を、別
のものに置きかえたり、(現実にしていること)を、修正しようとしたりする。あるいは「したくない
が、がんばってやってみよう」と考えたりする。ここで登場するのが、忍耐力ということになる。
子どもにとって、忍耐力とは、(いやなことをする力)をいう。この忍耐力は、幼児期までに、ほ
ぼ完成される。

●同一性の崩壊(4)

 同一性を支えきれなくなると、そこで同一性の崩壊が始まる。子ども自身、自分が何をしたい
か、わからなくなってしまう。また何をしてよいのか、わからなくなってしまう。「私は何だ」「私は
だれだ」と。「私はどこへ行けばよいのか」「何をすればよいのか」と。それは「混乱」というよう
な、なまやさしいものではない。まさに「自己の崩壊」とも言うべきもの。当然、子どもは、目的
を見失う。

●顔のない自分(5)

 同一性が崩壊すると、いわゆる(顔のない自分)になる。で、このとき、子どもは、大きく分け
て、二つの道へと進む。(1)自分の顔をつくるため、攻撃的かつ暴力的になる(攻撃型)。(2)
顔のない自分のまま、引きこもったり、カラに閉じこもったりする(逃避型)。ほかに、同情型、
依存型、服従型をとる子どももいる。顔のない自分は、最悪のケースでは、そのまま自己否定
(=自殺)へとつながってしまう。

●校内暴力(6)

 暴力的な子どもに向かって、「そんなことをすれば、君がみなに嫌われるだけだよ」と諭(さと)
しても、意味はない。その子どもは、みなに嫌われ、怖れられることで、(自分の顔)をつくろうと
する。(顔のない自分)よりは、(顔のある自分)を選ぶ、。だからみなが、恐れれば、怖れるほ
ど、その子どもにとっては、居心地のよい世界となる。攻撃型の子どもの心理的のメカニズム
は、こうして説明される。

●子どもの自殺(7)

 おとなは、生きるのがいやになって、その結果として、自殺を選ぶ。しかし子どものばあいは、
(顔のない自分)に耐えきれず、自殺を選ぶ。自殺することによって、(自分の顔)を主張する。
近年ふえているリストカットも、同じように説明できる。リストカットすることで、自分を主張し、他
人からの注目(同情、あわれみなど)を得ようとする。「贖罪(しょくざい)のために、リストカット
する」と説く学者もいる(稲富正治氏ほか)。 

●自虐的攻撃性(8)

 攻撃型といっても、2つのタイプがある。外に向って攻撃的になる(校内暴力)と、内に向って
攻撃的になる(ガリ勉、猛練習)タイプ。「勉強しかしない」「勉強しかできない」「朝から寝るまで
勉強」というタイプは、後者ということになる。決して、勉強を楽しんでいるのではない。「勉強」と
いう場で、(自分の顔)をつくろうとしていると考えるとわかりやすい。近年、有名になったスポー
ツ選手の中には、このタイプの人は少なくない。

●自我の同一性(9)
 
(子どもがしたがっている)ことに、静かに耳を傾ける。そしてそれができるように、子どもの環
境を整えていく。そうすることで、子どもは、(自分のしたいこと)と、(自分がしていること)を一
致させることができる。これを「自我の同一性」という。この両者が一致している子どもは、夢や
希望もあり、当然、目的もあるから、見た目にも、落ちついていて、どっしりとしている。抵抗力
もあるから、誘惑にも強い。

●心の抵抗力(10)

 「私は〜〜をしたい」「ぼくは〜〜する」と、目的と方向性をしっかりともっている子どもは、心の
抵抗力も強い。外部からの誘惑があっても、それをはねのける。小学校の高学年から中学校
にかけては、その誘惑が、激増する。そうした誘惑をはね返していく。が、同一性が崩壊してい
る子どもは、生きザマが、せつな的、享楽的になるため、悪からの誘いがあると、スーッとその
世界に入ってしまう。

●夢や希望を育てる(11)

 たとえば子どもが、「花屋さんになりたい」と言ったとする。そのとき重要なことは、親は、それ
に答えて、「そうね、花屋さんはすてきね」「明日、球根を買ってきて、育ててみましょうか」「お花
の図鑑を買ってきましょうか」と、子どもの夢や希望を、育ててやること。が、たいていの親は、
この段階で、子どもの夢や希望を、つぶしてしまう。そしてこう言う。「花屋さんも、いいけど、ち
ゃんと漢字も覚えてね」と。

●子どもを伸ばす三種の神器(12)

 子どもを伸ばす、三種の神器が、夢、目的、希望。しかし今、夢のない子どもがふえた。中学
生だと、ほとんどが、夢をもっていない。また「明日は、きっといいことがある」と思って、一日を
終える子どもは、男子30%、女子35%にすぎない(「日本社会子ども学会」、全国の小学生3
226人を対象に、04年度調査)。子どもの夢を大切に、それを伸ばすのは、親の義務と、心
得る。

●役割混乱(13)

 子どもは、成長するにつれて、心の充実をはかる。これを内面化というが、そのとき同時に、
「自分らしさ」を形成していく。「花屋さんになりたい」と言った子どもは、いつの間にか、自分の
周囲に、それらしさを作っていく。これを「役割形成」という。子どもを伸ばすコツは、その役割
形成を、じょうずに育てていく。それを破壊すると、子どもは、「役割混乱」を起こし、精神的に
も、情緒的にも、たいへん不安定になり、混乱する。

●思考プロセス(回路)(14)

 しかし重要なのは、「思考プロセス」。幼いときは、「花屋さんになりたい」と思ってがんばってい
た子どもが、年齢とともに、今度は、「看護婦さんになりたい」と言うかもしれない。しかし幼いと
きに、花屋さんになりたいと思ってがんばっていた道筋、あるいは思考プロセスは、そのまま残
る。その道筋に、花屋さんにかわって、今度は、看護婦が、そこへ入る。中身はかわるかもし
れないが、今度は、子どもは、看護婦さんになるために、がんばり始める。

●進学校と受験勉強(15)

 たいへんよく誤解されるが、「いい高校」「いい大学」へ入ることは、一昔前までは、目的になり
えたが、今は、そういう時代ではない。学歴の権威を支える、権威主義社会そのものが崩壊し
てしまった。親は、旧態依然の考え方で、「いい大学へ入ることが目的」と考えやすいが、子ど
もにとっては、それは、ここでいう目的ではない。「受験が近いから、(好きな)サッカーをやめ
て、受験塾へ行きなさい」と子どもを追うことで、親は子どもの夢をつぶす。「つぶしている」とい
う意識すらないまま……。

●これからはプロの時代(16)

 これからはプロが生き残る時代。オールマイティなジェネラリストより、一芸にひいでたプロの
ほうが、尊重される。大手のT自動車の面接試験でも、学歴不問。そのかわり、「君は何ができ
るか?」と聞かれる時代になってきている。大切なことは、子どもが、生き生きと、自分の人生
を歩んでいくこと。そのためにも、子どもの一芸を大切にする。「これだけは、だれにも負けな
い」というものを、子どもの中につくる。それが将来、子どもを伸ばす。

●大学生の問題(17)

 現在、ほとんどの高校生は、入れる大学の入れる学部という視点で、大学や学部を選んでい
る。もともと、勉強する目的すらもっていない。そのため、入学すると同時に、無気力になってし
まったり、遊びに夢中になってしまう大学生が多い。燃え尽きてしまったり、荷おろし症候群と
いって、いわゆる心が宙ぶらりんになってしまう子どもも多い。当然、誘惑にも弱くなる。

●自我の同一性と役割形成(18)

 子どもをまっすぐ伸ばすためには、(子どもがしたがっていること)を、(現在していること)に一
致させていく。そしてそれを励まし、伸ばす。親の価値観だけで、「それはつまらない仕事」「そ
んなことは意味がない」などと、言ってはいけない。繰りかえすが、子どもが、「お花屋さんにな
りたい」と言ったら、すかさず、「それはすてきね」と言ってあげる。こういう育児姿勢が、子ども
を、まっすぐ伸ばす基礎をつくる。
(はやし浩司●同一性の危機(1)●夢・希望・目的(2)●子どもの忍耐力(3)●同一性の崩壊
(4)●顔のない自分(5)●校内暴力(6)●子どもの自殺(7)●自虐的攻撃性(8)●自我の同
一性(9)●心の抵抗力(10)はやし浩司●夢や希望を育てる●(11)●子どもを伸ばす三種
の神器(12)●役割混乱(13)●思考プロセス(回路)(14)●進学校と受験勉強(15)●これ
からはプロの時代(16)●大学生の問題(17)●自我の同一性と役割形成(18)はやし浩司)


++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

最前線の子育て論byはやし浩司(810)

【子育て新格言】

●肥満傾向は手の甲を見る

 もう三〇年前になるが、仕事で香港へ行くたびに、私は低周波治療器なるものを数台買って
きた。向こうでは五〜六万円のものだったが、日本へもってくると、一〇万円以上で売れた。日
本では針治療や、ハリ麻酔の研究にそれを使った。治療器と言っても、簡単な機械で、ぎょう
ぎょうしい外装とは別に、中身はがらんどうだった。

 その機械を日本でもできないかと考えていたとき、私は皮膚電気抵抗値という言葉を知っ
た。人間の体に微弱な電流(3V程度)を流すと、体の部位によって、抵抗値が違うというのだ。
測定はマイクロアンペア計ですればよい。このアンペア計が、当時、精度のよいもので、四〜
五〇〇〇円。あとはそれに整流体(一方向に電流を流すようにするもの)や抵抗体(電流を、
測定しやすい値に補正するもの)をつければ、それで皮膚電気抵抗値を測定できた。実に簡
単な装置だった。値段も、乾電池を含めても、五〇〇〇円前後だった。私はそれを使って、ハ
リ麻酔の研究をつづけた。

 が、やがてその皮膚電気抵抗値を応用して、体脂肪測定器ができるとは、思ってもみなかっ
た。脂肪分の多い人は、当然抵抗値が大きくなる。脂肪は電気を通さないからだ。一方、脂肪
の少ない人は、それだけ抵抗値が小さくなる。この値を補正すれば、「体脂肪率○○%」と表
示することができる。まちがいなく、私はそのとき皮膚電気抵抗値の研究では、最先端を走っ
ていた。もしそのとき、それに気づいていれば、億万長者になっていたと思う。人生には、そう
いう、つまり、あとで気がついてみるとわかるが、そのときは見逃してしまうチャンスというの
が、ときどきあるものだ。しかしこれは余談。

 その肥満。長い間、子どもの肥満を見ていて気づいたことがある。満四歳前後までは、乳幼
児期の肥満がつづいているが、それ以後、子どもの体形は、少年少女期に向かって、スリム
になっていく。そのとき、肥満傾向がつづく子どもは、手の甲の肉がぷっくりとふくれたような感
じになる。そうでない子どもは、そうでない。もう少し詳しく言うと、こうだ。

 手のひらをぐいとのばしてみる。すると五本の指の付け根に、指からのびる五本の腱が現れ
る。この腱の様子を見れば、子どもの肥満度をある程度、判断できる。

(肥満度一)子どもの肥満傾向が進むと、四肢の末端からその傾向がはっきりとわかるように
なる。たとえば手の甲(てのひらの部分の反対側)が、何となくぷっくりと張れたような感じにな
る。腱そのものが、わかりにくくなる。

(肥満度二)さらに肥満度が進むと、この腱がまったく見えなくなり、かわって、付け根のところ
に、えくぼが現れるようになる。

(肥満度三)さらに肥満度が進むと、手の甲全体が丸くふくらんだようになり、手を伸ばすと、甲
に深いえくぼが現れるようになる。この段階になると、肥満がだれの目にもわかるようになる。

 子どものばあい、肥満は大敵。(太る)→(運動不足になる)→(ますます太る)の悪循環に入
ると、肥満度は一挙に加速する。学習にも大きな影響が出てくる。これはあくまでも見た感じだ
が、脳へ行くべき血流が、どこかほかへ行くような感じになってしまう。そのため集中力や思考
力が弱くなる。

 こうした肥満傾向が見られたら、できるだけ初期の段階で、家庭の中から、食べ物を一掃す
るのがよい。思い切って捨てる。「もったいない」と思ったら、なおさら、そうする。そういう「思
い」が、まちがった買い物習慣を改めさせる。このタイプの親ほど、「うちの子はそれほど食べ
ていません」とか、「食事には注意しています」とか言う。しかしその反面、家の中には、食べ物
がゴロゴロしているもの。基準そのものが、ふつうの家庭と大きくズレていることが多い。

 なおこの手の甲をみる肥満度検査法は、ここにも書いたように、満四歳児以下には応用でき
ない。


●『肥料のやりすぎは、根を枯らす』

 昔から日本では、『肥料のやりすぎは、根を枯らす』という。子育ては、まさにそうだが、問題
は、その基準がはっきりしないということ。

 概してみれば、日本の子育ては、「やりすぎ」。多くの親たちは、「子どもに楽をさせること」
「子どもにいい思いをさせること」が、親子のパイプを太くすることだと誤解している。またそれ
が親の深い証(あかし)と思い込んでいる。しかもそういうことを、伝統的にというか、無意識の
まましてしまう。

 たとえば子どもに、数万円もするテレビゲームを買い与える愚かさを知れ!
 たとえば休みごとに、ドライブにつれていき、レストランで食事をすることの愚かさを知れ!
 たとえば日々の献立、休日の過ごし方が、子ども中心になっていることの愚かさを知れ!
 たとえば誕生日だ、クリスマスだのと、子どもを喜ばすことしか考えない、愚かさを知れ!
 たとえば子育て新聞まで発行して、自分の子どもをタレント化していることの愚かさを知れ!
 たとえば子どもが望みもしないのに、それ英会話、それバイオリン、それスイミングと、お金
ばかりかけることの愚かさを知れ!
 
 こうした生活が日常化すると、子どもは世界が自分を中心に動いていると錯覚するようにな
る。そして自分の本分を忘れ、やがて親子の立場が逆転する。本末が、転倒(てんとう)する。
たまには、高価なものを買うこともあるだろう。たまには、レストランへ連れていくこともあるだろ
う。しかしそれは、「たまには……」のことである。その本分だけは忘れてはいけない。

 こうして、日本の親たちは、子どもがまだ乳幼児期のときに、やり過ぎるほどやり過ぎてしま
う。結果、子どもはドラ息子、ドラ娘になる。あるアメリカ人の教育家はこう言った。「ヒロシ、日
本の子どもたちは、一〇〇%、スポイルされているね」と。「スポイル」というのは、「ドラ化して
いる」という意味だ。

 子どもというのは。皮肉なもので、使えば使うほど、よい子になる。忍耐力も強くなり、生活力
も身につく。さらに人の苦労もわかるようになるから、その分、親の苦労も理解できるようにな
る。親子のパイプもそれで太くなる。そこでテスト。

 あなたの子どもの前で、重い荷物をもって、苦しそうに歩いてみてほしい。そのときあなたの
子どもが、「ママ、助けてあげる」と走りよってくれば、それでよし。しかしそれを見て見ぬフリし
たり、テレビゲームに夢中になっているようであれば、あなたは家庭教育のあり方を、かなり反
省したほうがよい。子どもをかわいがるということは、どういうことなのか。子どもを育てるという
ことがどういうことなのか。それをもう一度、原点に返って考えなおしてみたほうがよい。


●昼寝グセはガムで

 慢性的な睡眠不足とは別に、満五歳をすぎても、昼寝グセが残っているようなら、その時間、
ガムをかませるとよい。(だからといって、昼寝が悪いといっているのではない。もし気になるな
ら、ということ。)

 ここまで書いて気がついたが、本来人間は、生物学的に、昼寝をする習慣をもっているので
はないか。外国へ行っても、昼食後、昼寝する民族は多い。スペインに住んでいる知人も、少
し前メールで、こう教えてくれた。「このあたりでは、昼休みが長く、子どもたちは一度家へ帰っ
て、昼寝する。それで子どもたちも、夜一〇時をすぎても、通りで遊んでいる」と。日本の生活
習慣、あるいは常識が、そのまま世界の生活習慣の基準と考えるのは、正しくない。

 実のところ、私も五〇歳を過ぎるころから、昼寝をするようになった。毎日というわけではない
が、数日おきくらいにそうしている。そういう自分を振り返ってみると、昼寝は悪いものではない
と思うし、それが子どもにあっても、不思議ではない。むしろ現代生活のほうが、人間本来の生
活習慣をねじまげているのではないか?

 話はそれたが、ガムをかむことには、いろいろな利点がある。頭がよくなる(サイエンス誌)と
いう説もあるが、これなどは、素人が考えても、納得できる。あごの運動が、脳の活動を活発
化する。ほかにあごの筋肉を鍛えるということもある。当然、咀嚼(そしゃく=かむ)力が鍛えら
れる。胃腸のためにも、よい、などなど。そんなわけで、子どもにはガムをかませるとよい。が、
これにはいくつか、コツがある。

(1)当然のことながら、菓子ガムは、避ける。
(2)ガムは、一枚与えて、最低でも三〇分は同じガムをかませる。つぎつぎと交換するのは避
ける。
(3)はげしい運動中は、ガムは避ける。息を吸い込んだとき、のどをつまらせる。
(4)子どもの口にあった適量にする。幼児のばあい、ふつうのガムの半分の量でよい、など。

ほかにガムを捨てるときの、マナーを最初に、しっかりと教えておくというのもある。

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司


最前線の子育て論byはやし浩司(811)

【近ごろ、あれこれ】

●ガソリンが高くなった!

 今、このあたりでは、ガソロンが1リットルあたり、120〜122円(レギュラー)(7・20)。

 原油価格があがっているためだが、同時に、今、世界では、おかしなことが起きている。

 まず金価格が、ジワジワと上昇しつづけ、同時に、ユーロが、一時の元気をなくし、さがり始
めている。全体的にみれば、ドルの価値がさがりつつあることを示す。そのドルに対して、さら
に円は、弱ぶくみ。その円だが、現在は、1ドルが、115円弱!

 円の価値がさがれば、輸入品の価格はあがるが、当然、輸出産業は、勢いづく。しかしな
ぜ、ユーロがさがり始めたのか? 私たちの知らない世界で、どうやら、中国が動き始めたた
めらしい。中国が、何らかの理由で、ユーロからドルに、資金をシフトし始めた。

 「やぱり、ドル、あるよ。ユーロ、だめ、あるよ」と。


●悲惨なK国

 雑誌「S」によれば、K国では、この7月に入ってから、360万人もの人たちが、食糧不足の
状態になっているという。95〜6年の食糧危機の状態より、さらにひどいらしい。

 食糧だけではない。「工業も、鉄くず化してしまった」(同S誌)という。

 恐らく今、その水面下では、まさに地獄絵図のような世界が、展開されているにちがいない。
わずかな食料をめぐっての争いはもちろん、強奪、強盗、殺人など。人肉売買さえなされてい
るという。

 さらに、雑誌「S」によれば、権力、権威をカサに着た連中が、貧しい人たちから、お金やモノ
を、容赦なく、搾取(さくしゅ)しているという。もちろん外国からの食糧援助は、まず、上層部が
かすめ取る。残った食糧は、ヤミ市へ。

 こうして貧富の差は、ますます拡大。

 はっきり言えば、K国の国内事情は、メチャメチャ。そのことすら信じられないが、そんな国
が、日本のすぐとなりにあることも、私には、信じられない。仮に、今すぐ、K国が、今の貧困か
ら立ちなおったとしても、その後遺症は、この先、数世代にもわたってつづくことだろう。

 破壊された心は、そんなに簡単には、修復されない。

 腹いっぱい、メシを食べた。ショパンの音楽も聞いた。風呂に入って、やわらかいフトンの上
で寝た。だから翌朝から、文化人……というわけには、いかない。人間の心というのは、そうい
うもの。

 この日本だって、いまだに、あの戦時中、戦後の後遺症を、引きずっているではないか。そ
の後遺症は、いたるところに残っている。それに苦しんでいる人は、多い。


++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

最前線の子育て論byはやし浩司(812)

●子どもへの対処のし方

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浜松市にお住まいの、NEさん(2児の母親)から、
子どもへの対処のし方についての、相談がありまし
た。

今回は、それについて、考えてみます。
(050720)

+++++++++++++++++++++++++
【NEより、はやし浩司へ、マガジンについて……】

【 マガジンでは、どんなテーマを希望されますか? 】:
  子育てのノウハウ。
  子育てエッセー。
  教育評論。
  生活一般。
  社会評論。
  心の問題。
  家族の問題。
  二男の家族(アメリカの生活)
  BW教室のニュースなど。

【 これからもマガジンを購読してくださいますか? 】:
  毎回、必ず読む。

【 ご相談をお寄せください。(このままマガジンに掲載することもあります。あらかじめ、ご了解く
ださい。) 】:

 子供の叱り方について。
 双子の男の子の母です。春に、ようやく小学1年生になりました。年中の時に、林先生の講演
を聴き、メールマガジンの愛読者になり、もう2年目になりました。

 あの頃の自分よりは子育てに生活に余裕が生まれ、ぎこちなさや、完璧主義、過干渉は減っ
てはいます。ただすぐになおったというわけでなく、まだまだ私に問題は多く、いけないことです
が手をあげてしまったり、怒鳴り散らすという事があります。情けないのですが・・・。

 子供も小学生になり、随分しっかりしてきたように思います。

 学区の関係で10分以内で通える小学校ではなく、30分以上もかかる小学校に、毎日汗を
かきながら通っている姿は、本当にけなげに思います。学校は遠い方が丈夫になると簡単に
言ってくれますが、本人達にとっては過酷としか思えません。

 今日のような暑い日には、熱中症にならないかと心配も絶えないし、決して安全とはいえない
道中を歩かせることも、心配です。遊ぶ時間が減ることについても、親としては納得のいかな
いなどと、矛盾した思いでいます。(これは行政の文句ですね!すみません)

 本題ですが、最近S君の方が怒っても、いい加減に聞き流す傾向が強く、言うこともきかない
し、都合が悪いと聞えないふりをしたり、親の顔色をみたり、平気で悪いことを調子に乗ってや
ってのけたりと、目に余る行動が多いのです。

 私もがんじがらめに怒るつもりはないのですが、やはりちゃんとわかってほしいので、しつこく
言ったり、くどくどと話をしたり、ビンタをしたり、そのまま、だんだんと叱り方がひどくなってエス
カレートしてしまいます。

 昨日は、パパに、「そんなに追い込むなよ」とまで言われてしまいました。そのいい加減さや
調子のよさ、ズルさが私としては本当に許せないわけですが。涙を流した後、「ごめんなさい」と
いってしまえば、次の行動では、けろっと忘れてまた同じことをします。甘えて手を握ってきた
り、(私はこれが生理的に許せないのですが)、怒るのも許すのも、相性があるんだなと思いま
す。

 もう片方の子供はわりに素直です。(違った面での問題はありますが)、きっと基本的に自分
に似ているのだと思います。私には適当さと、いい加減さが足りなく、子供にとってはとても窮
屈な子育てであることに違いないと思います。

 今朝、チックのような症状がでていました。あーあ。どうしたものか・・・。そして確実に私の心
から離れていくのを感じます。S君は子犬のように、始終甘えてくっついているくせに、わがまま
で言いたいことを言っています。
 
 反抗期であり、これも自立かと思いますが、どこで線をひき、どこまで干渉していいものか?
 怒られなければ、どんどんやっちゃう所もとても嫌なんですが、多少は寛大にみてる時だって
あるんです。上手く叱る心に残るケジメや正義感、やっていいこと、悪いこと上手くできるコツや
私の反省点があったらアドバイスください。

 直すって言うよりは、きっとこれから心がけていくこと、注意点ってことでしょうか、きっと私も
子供も治るってことではなく、上手くやっていくコツみたいなことだとおもうのです。

 すみません。長々と書いてしまいました。

 夏休み前、毎日イライラして怒るのかと思うとウンザリ。楽しい夏休みにしてあげたくて色々な
予定を入れています。どうなるのでしょう・・・。不安です。

【 とりあげてほしいテーマをお寄せください。 】:

 教室の様子はとても参考になります。

 先生と子供との会話はいつもいきいきとして、心が温かくなります。生の声(ちょっと変?)臨
場感があるといったほうが適切ですね。子育てをしていて、いつも書いて欲しいと思うことは自
分と同じ立場でのケースや、問題解決までのいきさつなど。私はこうしたとかこういう話があっ
たとか、こういうケースではこうだったとかいう情報です。

 また先生は外国ではこういう考え方があるとか幅の広い情報です。自分がどういう子育てを
しているのかや問題点を客観的に考えることが出来ることが、とても必要だと思うのです。

【 ご希望をお寄せください。 】:

 先生も頑張ってください。(単純な言葉ですみません)

 確かに目標達成するのは大変だと思いますが。影ながら応援しつつ、私も愛読し続けていま
す!!

 先生の話は生活そのものの中に答えがあり、テーマもあり、時代を超えて感じるものがあり
ます。

 政治の話は忙しい時には省いて読んでしまうことがあり申し訳なく思ってしますが、無くしてし
まうにはもったいないと思っています。

 また、折角英語ができるので出来ない私にとっては羨ましい限り。よろしかったら子供と楽しく
英語を学ぶ方法(家庭で)参考になる絵本などありましたら紹介してくださいませんか? 自然
に学べる家庭の中で生かせるものがあったらなぁと、思うので。簡単で楽しいって程度でいい
です。(苦笑)まずは英語が楽しく思えること!

+++++++++++++++++はやし浩司

【NEさんへ……】

 子育ては、リズムですね。親子のリズムです。そのリズムが合っていれば、それでよし。そう
でなければ、長い時間をかけて、ギクシャクしてきます。

 S君とのリズムは、あまり合っているとは思われません。恐らくそのはじまりは、ほんのささい
なことだったと思います。生後直後の、ひょっとしたら、NEさん自身すらも忘れてしまっているよ
うなことです。

 「こちらの方の子どもは、むずかしそう……」とか、そんなふとした思いが、どこかで別のリズ
ムを作ってしまいます。

 それについて書いたのが、つぎの原稿です。少し話が、それるかもしれませんが、参考にし
てください。

++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

親子の断絶が始まるとき 

●最初は小さな亀裂

最初は、それは小さな亀裂で始まる。しかしそれに気づく親は少ない。「うちの子に限って…
…」「まだうちの子は小さいから……」と思っているうちに、互いの間の不協和音はやがて大き
くなる。そしてそれが、断絶へと進む……。

 今、「父親を尊敬していない」と考えている中高校生は五五%もいる。「父親のようになりたく
ない」と思っている中高校生は七九%もいる(『青少年白書』平成一〇年)(※)。

が、この程度ならまだ救われる。親子といいながら会話もない。廊下ですれ違っても、目と目を
そむけあう。まさに一触即発。親が何かを話しかけただけで、「ウッセー!」と、子どもはやり返
す。そこで親は親で、「親に向かって、何だ!」となる。あとはいつもの大喧嘩!

……と、書くと、たいていの親はこう言う。「うちはだいじょうぶ」と。「私は子どもに感謝されてい
るはず」と言う親もいる。しかし本当にそうか。そこでこんなテスト。

●休まるのは風呂の中

あなたの子どもが、学校から帰ってきたら、どこで体を休めているか、それを観察してみてほし
い。そのときあなたの子どもが、あなたのいるところで、あなたのことを気にしないで、体を休め
ているようであれば、それでよし。あなたと子どもの関係は良好とみてよい。

しかし好んであなたの姿の見えないところで体を休めたり、あなたの姿を見ると、どこかへ逃げ
て行くようであれば、要注意。かなり反省したほうがよい。ちなみに中学生の多くが、心が休ま
る場所としてあげたのが、(1)風呂の中、(2)トイレの中、それに(3)ふとんの中だそうだ(学
外研・九八年報告)。

●断絶の三要素

 親子を断絶させるものに、三つある。(1)権威主義、(2)相互不信、それに(3)リズムの乱
れ。

(1)権威主義……「私は親だ」というのが権威主義。「私は親だ」「子どもは親に従うべき」と考
える親ほど、あぶない。権威主義的であればあるほど、親は子どもの心に耳を傾けない。「子
どものことは私が一番よく知っている」「私がすることにはまちがいはない」という過信のもと、
自分勝手で自分に都合のよい子育てだけをする。

子どもについても、自分に都合のよいところしか認めようとしない。あるいは自分の価値観を押
しつける。一方、子どもは子どもで親の前では、仮面をかぶる。よい子ぶる。が、その分だけ、
やがて心は離れる。

(2)相互不信……「うちの子はすばらしい」という自信が、子どもを伸ばす。しかし親が「心配
だ」「不安だ」と思っていると、それはそのまま子どもの心となる。人間の心は、鏡のようなもの
だ。イギリスの格言にも、『相手は、あなたが思っているように、あなたのことを思う』というのが
ある。

つまりあなたが子どものことを「すばらしい子」と思っていると、あなたの子どもも、あなたを「す
ばらしい親」と思うようになる。そういう相互作用が、親子の間を密にする。が、そうでなけれ
ば、そうでなくなる。

(3)リズムの乱れ……三つ目にリズム。あなたが子ども(幼児)と通りをあるいている姿を、思
い浮かべてみてほしい。(今、子どもが大きくなっていれば、幼児のころの子どもと歩いている
姿を思い浮かべてみてほしい。)そのとき、

(1)あなたが、子どもの横か、うしろに立ってゆっくりと歩いていれば、よし。

しかし(2)子どもの前に立って、子どもの手をぐいぐいと引きながら歩いているようであれば、
要注意。今は、小さな亀裂かもしれないが、やがて断絶……ということにもなりかねない。

このタイプの親ほど、親意識が強い。「うちの子どものことは、私が一番よく知っている」と豪語
する。へたに子どもが口答えでもしようものなら、「何だ、親に向かって!」と、それを叱る。そし
ておけいこごとでも何でも、親が勝手に決める。やめるときも、そうだ。

子どもは子どもで、親の前では従順に従う。そういう子どもを見ながら、「うちの子は、できのよ
い子」と錯覚する。が、仮面は仮面。長くは続かない。あなたは、やがて子どもと、こんな会話
をするようになる。親「あんたは誰のおかげでピアノがひけるようになったか、それがわかって
いるの! お母さんが高い月謝を払って、毎週ピアノ教室へ連れていってあげたからよ!」、子
「いつ誰が、そんなこと、お前に頼んだア!」と。

●リズム論

子育てはリズム。親子でそのリズムが合っていれば、それでよし。しかし親が四拍子で、子ども
が三拍子では、リズムは合わない。いくら名曲でも、二つの曲を同時に演奏すれば、それは騒
音でしかない。

このリズムのこわいところは、子どもが乳幼児のときに始まり、おとなになるまで続くというこ
と。そのとちゅうで変わるということは、まず、ない。たとえば四時間おきにミルクを与えることに
なっていたとする。そのとき、四時間になったら、子どもがほしがる前に、哺乳ビンを子どもの
口に押しつける親もいれば、反対に四時間を過ぎても、子どもが泣くまでミルクを与えない親も
いる。

たとえば近所の子どもたちが英語教室へ通い始めたとする。そのとき、子どもが望む前に英
語教室への入会を決めてしまう親もいれば、反対に、子どもが「行きたい」と行っても、なかな
か行かせない親もいる。こうしたリズムは一度できると、それはずっと続く。子どもがおとなにな
ってからも、だ。

ある女性(三二歳)は、こう言った。「今でも、実家の親を前にすると、緊張します」と。また別の
男性(四〇歳)も、父親と同居しているが、親子の会話はほとんど、ない。どこかでそのリズム
を変えなければならないが、リズムは、その人の人生観と深くからんでいるため、変えるのは
容易ではない。

●子どものうしろを歩く

 権威主義は百害あって一利なし。頭ごなしの命令は、タブー。子どもを信じ、今日からでも遅
くないから、子どものリズムにあわせて、子どものうしろを歩く。横でもよい。決して前を歩かな
い。アメリカでは親子でも、「お前はパパに何をしてほしい?」「パパはぼくに何をしてほしい?」
と聞きあっている。そういう謙虚さが、子どもの心を開く。親子の断絶を防ぐ。

※……平成一〇年度の『青少年白書』によれば、中高校生を対象にした調査で、「父親を尊敬
していない」の問に、「はい」と答えたのは五四・九%、「母親を尊敬していない」の問に、「はい」
と答えたのは、五一・五%。また「父親のようになりたくない」は、七八・八%、「母親のようにな
りたくない」は、七一・五%であった。

この調査で注意しなければならないことは、「父親を尊敬していない」と答えた五五%の子ども
の中には、「父親を軽蔑している」という子どもも含まれているということ。また、では残りの約
四五%の子どもが、「父親を尊敬している」ということにもならない。この中には、「父親を何とも
思っていない」という子どもも含まれている。白書の性質上、まさか「父親を軽蔑していますか」
という質問項目をつくれなかったのだろう。それでこうした、どこか遠回しな質問項目になったも
のと思われる。

(参考)
●親子の断絶診断テスト 

 最初は小さな亀裂。それがやがて断絶となる……。油断は禁物。そこであなたの子育てを診
断。子どもは無意識のうちにも、心の中の状態を、行動で示す。それを手がかりに、子どもの
心の中を知るのが、このテスト。

Q1
あなたは子どものことについて…。
★子どもの仲のよい友だちの名前(氏名)を、四人以上知っている(0点)。
★三人くらいまでなら知っている(1点)。
★一、二人くらいなら何となく知っている(2点)。
★ほとんど知らない(3点)。

Q2
学校から帰ってきたとき、あなたの子どもはどこで体を休めるか。
★親の姿の見えるところで、親を気にしないで体を休めている(0)。
★あまり親を気にしないで休めているようだ(1)。
★親のいるところをいやがるようだ(2)。
★親のいないところを求める。親の姿が見えると、その場を逃げる(3)。

Q3
「最近、学校で、何か変わったことがある?」と聞いてみる。そのときあなたの子どもは……。
★学校で起きた事件や、その内容を詳しく話してくれる(0)。
★少しは話すが、めんどう臭そうな表情をしたり、うるさがる(1)。
★いやがらないが、ほとんど話してくれない(2)。
★即座に、回答を拒否し、無視したり、「うるさい!」とはねのける(3)。

Q4
何か荷物運びのような仕事を、あなたの子どもに頼んでみる。そのときあなたの心は…。
★いつも気楽にやってくれるので、平気で頼むことができる(0)。
★心のどこかに、やってくれるかなという不安がある(1)。
★親のほうが遠慮し、恐る恐る……といった感じになる(2)。
★拒否されるのがわかっているから、とても頼めない(3)。

Q5
休みの旅行の計画を話してみる。「家族でどこかへ行こうか」というような話でよい。
そのときあなたの子どもは…。
★ふつうの会話の一つとして、楽しそうに話に乗ってくる(0)。
★しぶしぶ話にのってくるといった雰囲気(1)。
★「行きたくない」と、たいてい拒否される(2)。
★家族旅行など、問題外といった雰囲気だ(3)。

+++++++++++++++

15〜12点…目下、断絶状態
11〜 9点…危険な状態
8〜 6点…平均的
5〜 0点…良好な関係
(はやし浩司 親子の断絶 断絶度テスト 断絶 自己診断)

++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

【NEさんへ2】

 子どもは、親のリズムに合わせることはできません。となると、親のあなたのほうが、子ども
のリズムに合わせるしかないのです。

 リズムがあっていない……、それが今、起こりつつあるいろいろな問題の原因です。だから
一つの問題が解決しても、またつぎの問題が起きてきます。モグラたたきのモグラのようにで
す。

 ですからこの問題は、NEさんが、おっしゃっているように、「毎日イライラして怒るのかと思う
とウンザリ。楽しい夏休みにしてあげたくて色々な予定を入れています。どうなるのでしょ
う・・・。不安です」という視点では、解決しないということです。

 解決しないどころか、やがてS君のほうが、あなたから去っていきますよ。あと数年くらいで…
…。が、それだけでは、収まらない。まさに親子断絶の、一歩手前です。

 (もう一人の子どものほうも、油断してはいけません。あなたとS君の関係を横で見ながら、あ
なたの知らないところで、別の心をつくりあげているはずです。あなたは自分では、もう一人と
はうまくいっているはずと思っているかもしれませんが、それは疑ってみてください。)

 ですからアドバイスできることがあるとすれば、

(1)あきらめなさい。「うちの子は、まあ、こんなものよ」とあきらめなさい。
(2)くだらない親意識(悪玉親意識)など、もう捨てなさい。
(3)マイナス面ばかり見ないで、よい面を見たら、すかさず、ほめなさい。
(4)完ぺき主義を捨て、関心を、子どもから、ほかのことに向けなさい。

 チックが出てきたということは、かなり親子関係が、おかしくなっていることを示します。警戒
信号ととらえてください。

 リズム論について、もう1作、ここに添付しておきます。繰りかえしになりますが、今のNEさん
には、とても、重要なことです。

++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

【子育てリズム論】
●子どもの心を大切に
子どものうしろを歩こう
 子育てはリズム。親子でそのリズムが合っていれば、それでよし。しかし親が四拍子で、子ど
もが三拍子では、リズムは合わない。いくら名曲でも、二つの曲を同時に演奏すれば、それは
騒音でしかない。そこでテスト。

 あなたが子どもと通りをあるいている姿を、思い浮かべてみてほしい。そのとき、(1)あなた
が、子どもの横か、うしろに立ってゆっくりと歩いていれば、よし。しかし(2)子どもの前に立っ
て、子どもの手をぐいぐいと引きながら歩いているようであれば、要注意。

今は、小さな亀裂かもしれないが、やがて断絶…ということにもなりかねない。このタイプの親
ほど、親意識が強い。「うちの子どものことは、私が一番よく知っている」と豪語する。

へたに子どもが口答えでもしようものなら、「何だ、親に向かって!」と、それを叱る。そしてお
けいこごとでも何でも、親が勝手に決める。やめるときも、親が勝手に決める。子どもは子ども
で、親の前では従順に従う。そういう子どもを見ながら、「うちの子は、できのよい子」と錯覚す
る。が、仮面は仮面。長くは続かない。

 ところでアメリカでは、親子の間でも、こんな会話をする。

父「お前は、パパに何をしてほしいのか」
子「パパは、ぼくに何をしてほしいのか」と。

この段階で、互いにあいまいなことを言うのを許されない。それだけに、実際そのように聞かれ
ると、聞かれたほうは、ハッとする。緊張する。それはあるが、しかし日本人よりは、ずっと相手
の気持ちを確かめながら行動している。

 このリズムのこわいところは、子どもが乳幼児のときに始まり、おとなになるまで続くというこ
と。その途中で変わるということは、まず、ない。ある女性(32歳)は、こう言った。

「今でも、実家の親を前にすると、緊張します」と。

別の男性(40歳)も、父親と同居しているが、親子の会話はほとんど、ない。どこかでそのリズ
ムを変えなければならないが、リズムは、その人の人生観と深くからんでいるため、変えるの
は容易ではない。しかし変えるなら、早いほうがよい。早ければ早いほどよい。

もしあなたが子どもの手を引きながら、子どもの前を歩いているようなら、今日からでも、子ど
もの歩調に合わせて、うしろを歩く。たったそれだけのことだが、あなたは子育てのリズムを変
えることができる。いつかやがて、すばらしい親子関係を築くことができる。

++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

【NEさんへ3】

 もう一つは、親意識です。NEさん自身も、かなり親意識の強い家庭で、生まれ育っている可
能性が高いです。「親絶対教」の信者のような家庭です。

 くだらないから、本当にくだらないから、親意識(悪玉親意識)など、もう捨てなさい。親風を吹
かして、子どもを自分の支配下で何とかしようなどとは、考えないこと。もっと肩の力を抜いて、
子育てを楽しめばよいのです。

 こんな貴重ですばらしい時期は、もう2度とやってきませんよ。その時期を、NEさんは、ドタバ
タで、ムダにしている。私には、そんな気がします。

 何度も書いてきましたが、「親意識」の原稿も、添付しておきます。

++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

【ああ親意識! されど親意識!】

●子どもの幸福に、嫉妬する親

 子どもの幸福に嫉妬する親は、少なくない。「親をさておいて、自分だけ、幸福になるとは、何
ごとか」と。「親不孝者は、地獄へ落ちる」と、子どもを脅す親もいる。

 もともと精神的に未熟な、依存性の強い親とみる。そういった未熟性に、日本に古来から伝
わる、独特の親意識が重なる。私が「悪玉親意識」と呼んでいるのが、それである。

 この嫉妬は、さまざまな形に、姿を変える。

 息子や娘に対して、攻撃的になる親。弱々しい親を演じ、同情を求める親。子どもにベタベタ
と依存しようとする親。そして子どもに対して、逆に服従的になり、言外に子どもに、「私(親)の
めんどうをみろ」と迫る親、など。

 これらのパターンが、複合化して現れることもある。貧しいフリをして、息子の同情をかい、そ
ういう方法で、いつも息子の財産(マネー)を、まきあげるなど。

 息子が、「母さん、生活はだいじょうぶか?」と、心配して電話をかけると、「心配しなくていい
よ。冷蔵庫には、先日買った、魚の缶詰が、まだ残っているからね」と。

●「産んでやった」と言う母親。「産んでいただきました」と答える子ども

 依存性の強い母親は、いつもどこかで、恩着せがましい子育てをする。無意識のうちにという
か、伝統的な子育て法を、そのまま踏襲する。

 このタイプの母親(父親も)は、子どもに対して、「産んでやった」「育ててやった」を、日常的に
口にすることで、子どもを束縛しようとする。

 一方、子どもは子どもで、それに答えて、「産んでいただきました」「育てていただきました」
と、言うようになる。

 相互にこうした依存関係ができたときには、親子関係も、それなりにうまくいく。たがいにベタ
ベタの親子関係をつづけながら、親は息子(娘)を、「できのいい孝行息子(娘)」と思うようにな
る。息子(娘)は、「私の母親(父親)は、すばらしい人だ」と思うようになる。

 が、もともとそれを支える人間的基盤は、弱い。軟弱。わかりやすく言えば、たがいに自立で
きない人間どうしが、たがいになぐさめあって生きているにすぎない。ちょっとしたことで、この
人間関係は、崩れやすい。

●親・絶対教

「親は絶対である」と、考える人は、多い。だれかが、ほんの少しだけ、その人の親を批判した
だけで、「(オレの)親の悪口を言うヤツは許さない」と、絶叫してみせたりする。

 それがどこかカルト的であるから、私は「親・絶対教」と呼んでいる。

 カルトだから、理由など、ない。根拠もない。「偉いから、偉い」というような考え方をする。そ
れに日本古来の先祖崇拝意識が重なることもある。

 このタイプの人に、そのカルト性を指摘しても、意味はない。反対に、「お前の考え方のほう
がおかしい」と、排斥されてしまう。相手の意見を聞く耳すら、もたない。と、同時に、それがそ
の人の人生観や哲学になっていることも多い。

 親・絶対教を否定するということは、その人の人生を否定することにもなる。だから、このタイ
プの人は、猛烈に反発する。

 「親の悪口を言うヤツは、許さない!」と。「お前ら、人間の道を踏みはずしている」と言った
人もいる。

 あたかもそう叫ぶことが、子どもとしての努めであるというような、行動をとる。

●犠牲心

 こうした親・絶対教の信者に共通するのは、「子育ては、親の犠牲の上に成りたっている」と
いう考え方である。「産んでやった」「育ててやった」という言い方は、そういうところから生まれ
る。

 さらにストレートに、「お前を大学へ出してやった」「高い月謝を払って、ピアノ教室へ通わせて
やった」と言う親さえいる。

 そこで問題は、なぜ、こうした犠牲心が生まれるかということ。もう少し正確には、犠牲的子育
て観が生れるかということ。

 本来、子どもというのは、一組の夫婦の愛の結晶として生れる。そしてその子どもが生れてき
た以上、その子どもを育て、最終的には、その子どもを自立させるのは、親の義務である。

 義務だ!

 その義務を放棄して、「産んでやった」「育ててやった」と言う。つまり、ここに日本型の子育て
の(おかしさ)が、集約されている。事実、英語には、そういう言い方、そのものがない。ないも
のは、ないのであって、どうしようも、ない。

●不幸な家族観

 日本独特の「家」制度は、同時に、個人の自立を、いつもどこかで犠牲にする。またその犠牲
の上に、「家」制度が、成りたっている。

 このことは、その「家」の跡取りとなった、長男をみれば、わかる。今でも、この日本には、「長
男だから……」「長女だから……」という、『ダカラ論』が、色濃く残っている。そのため、そのダ
カラ論にしばられ、悶々と過ごしている長男、長女は、いくらでもいる。

 こうした意識の背景にあるのは、親にしても、自分たちの愛の結晶としての子どもを産むとい
うよりは、自分を離れた(他者)、つまり(家)のために、子どもを作るという意識である。

 「本当は、産みたくなかったが、家のためにしかたないから、産んだ」と。

 ここまで極端なケースは、少ないかもしれないが、まったくないわけではない。が、中には、不
本意な結婚、不本意な出産をした人も多い。このタイプの人は、どうしても、ここでいう犠牲心
をもちやすい。

 「私は子どものために、自分の人生をムダにしている」「したいことも、できず、犠牲になって
いる」と。

 その理由は、人それぞれ。しかし結果として、親は、心のどこかで犠牲心をもってしまう。そし
てそれが、冒頭に書いた、嫉妬へと、いつしか変質する。

●父親の役割

 母子関係と、父子関係は、基本的には、同一ではない。それは母親は、子どもを妊娠し、出
産し、そのあと、乳を与え、命をはぐくむという特殊性のちがいといってもよい。

 一方、父親と子どもの関係は、あくまでも(精液一しずくの関係)でしかない。

 そこでどうしても母子関係は、特殊なものになりやすい。が、特殊であることがまちがっている
というのではない。たとえば人間が原点としてもつ基本的信頼関係は、良好な母子関係がって
はじめて、はぐくまれる。

 この母子関係が不全になると、子どもは、生涯にわたって、その後遺症をひきずることにな
る。

 こうした特殊な母子関係を修正し、調整していくのが、父親の役割ということになる。放ってお
くと、母子関係は、ベタベタの関係になってしまう。子どもは、ひ弱で、自立できない人間になっ
てしまう。

 父親は、そこで、子どもに狩のし方を教え、社会的ルールを教える。こうした操作を繰りかえ
しながら、子どもを、濃密な母子関係から切り離していく。

 この父親の役割があいまいになったとき、えてして母親は子どもを溺愛するようになる。それ
が相互依存関係をつくり、やがてベタベタの人間関係へと、発展していく。

●演歌歌手のK氏

 いつだったか、NHKのテレビ番組に、「母をxx」というのがあった。

 その中で、歌手のK氏は、涙まじりに、こう語っていた。

 「私の母は、女手一つで、私を育ててくれました。私は、その恩に報いたくて、東京に出て、歌
手になりました」と。

 K氏は、さかんに、「産んでいただきました」「育てていただきました」と言っていた。それはそ
れだが、私は最初、「Kさんの母親は、すばらしい母親だ」と思った。しかし5〜10分も見てい
ると、ふと、心のどこかで疑念がわいてくるのがわかった。

 「待てよ」と。

 「本当にK氏の母親は、すばらしい母親だったのか?」と。

 K氏は「すばらしい母親だ」と言っている。それはわかる。しかし、「産んでいただきました」「育
てていただきました」と、思わせたのは、実は、母親自身ではなかったのか、と。

 心理学でいう、「家族自我群」による束縛で、K氏をしばりあげたのは、実は母親自身であ
る、と。

 「女手ひとつ」だったということだから、苦労もあったのだろう。それはわかる。が、K氏の母親
は、そうした恩を、K氏に日常的に着せることで、母親としての自分の役目を果たそうとした
(?)。

 こうした例は、決して、珍しくない。日本人は、ごく当たり前のこととして、それを受けいれてし
まっている。よい例が、窪田聡という人が作詞した、あの『かあさんの歌』である。

 あれほどまでに、お涙ちょうだい、恩着せがましい歌はないと、私は思うのだが、日本人は、
こうした歌を、名曲として、受けいれてしまっている。

●家族自我群からの自立

 こうした問題を考えるとき、私たちは、どうしても親という立場だけで、ものを考えやすい。しか
し本当の問題は、このあと、子どもの側に起きる。

 「産んでいただきました」「育てていただきました」と、子どもの側が、それなりに、親に呼応し
ている間は、たがいの人間関係は、うまくいく。

 しかしその成長過程においても、子どもは、こうした家族自我群からの自立を目ざす。これを
「個人化」という。

 よく誤解されるが、個人化は、家族の否定ではない。家族との調和をいう。

 が、この個人化が、うまく進まないときがある。親の溺愛にはじまって、過干渉、過関心、そし
て過保護など。親の否定的な育児姿勢が、個人化を阻害することもある。家庭崩壊、育児拒
否、冷淡、無視、暴力、虐待なども、個人化を阻害する。

 この個人化が、うまく進まないとき、さまざまな弊害が起きる。

 その一つが「幻惑」(ボーエン)という現象である。

●幻惑

 本来、子どもが自立し始めたら、親は、自分自身も子離れを始めると同時に、子どももまたじ
ょうずに、親離れできるように仕向けなければならない。

 子離れということは、子ども自身に親離れさせることを意味する。

 「あなたは、あなたよ。あなたの人生は一度しかないから、思う存分、この広い世界をはばた
いてみなさい」と。

 子どもは、こうした親の姿勢を感じてはじめて、自分自身を自立させることができる。が、そ
れがないと、子どもは、その「幻惑」に苦しむことになる。

 親離れすることを、罪悪と考えるようになり、家族自我群の束縛と、個人化のはざまで、悩み
苦しむようになる。

 さらにその幻惑が進むと、自らにダメ人間というレッテルを張ってしまい、さらには、自己否定
するようになってしまう。

 親自身が、息子や娘に、このレッテルを張ってしまうこともある。「このできそこない! 親不
孝者め!」と。

●伝統的子育て観

 子育ては本能ではなく、学習によって、決まる。そういう意味でも、子育ては、代々と、親から
子へと繰りかえされやすい。

 そこで日本型の子育ての特徴はといえば、常に子どもが、親、先祖、家に対して犠牲的にな
ることを、美徳としてきたところにある。

 ある母親は、息子夫婦が海外へ赴任している間に、息子の財産(土地)を、勝手に売却して
しまった。

 それについて息子が母親に抗議すると、その母親は、こう答えたという。

 「親が、先祖を守るために、息子の財産を使って、何が悪い!」と。

 こういうケースでは、親が口にする「先祖」というのは、「親」という自分自身のことをいう。まさ
か「親が、自分の息子の財産を使って、何が悪い!」とは言えない。だから「先祖」という言葉を
もちだす。

 それはそれとして、こうした伝統的子育て観が一方にあって、親は、子どもに犠牲を強いるよ
うになる。あるいはそれを強いながら、強いているという意識がないまま、強いる。

 こうして日本独特の子育て観は、代々と、親から子へと受け継がれる。今も、受け継がれて
いる。

●親子の確執

 親子といえども、その関係は、一対一の人間関係で決まる。人間と人間の関係である。

 が、この親子関係が特殊性をおびるのは、ひとえに、文化でしかない。その文化が、親子関
係を特殊なものにする。

 だからといって、それが悪いと言うのではない。人間生活そのものが、その「文化」の上に成
りたっている。文化を否定すれば、人間は、原始の世界の動物に、逆戻りする。

 大切なことは、そういう人間関係に、どういう文化を乗せるかである。あるいはその基礎に、
どういう文化を置くかである。

 その文化に、ズレが生じたとき、親子の間に緊張感が高まり、それが、確執へとつながって
いく。しかも、親子であるがゆえに、その確執のミゾも深くなる。他人なら、たがいに、「はい、さ
ようなら」と別れることができる。しかし親子では、それができない。できないから、もがき、苦し
む。

 たとえば、日本人の多くは、「産んでもらった」、だから、「親のめんどうをみるのが当然」とい
う、相互依存関係をつくりやすい。

 しかしなぜそうなったかといえば、先に書いたように、そこには「家」制度がある。さらには、社
会保障制度の不備もある。最近になって、老人介護という言葉が使われるようになったが、私
が若いころには、そんな言葉すらなかった。

 子どもは親なしでは生きていかれない存在だが、老人もまた、子どもなしでは生きていかれ
ない存在であった。が、問題は、さらにつづく。

●欧米の例

 オーストラリアでもアメリカでも、親が老後の苦労を、子どもにかけないという姿勢が、社会制
度の中で定着している。またそういう社会的制度も、充実している。

 オーストラリアの南オーストラリア州でも、平均的なオーストラリア人は、つぎのような過程を
経て、人生を終える。

 結婚→子育て→子どもの独立→老後は市内のアパート(自分の家)→老人ホーム→死去、
と。

 日本の家族のように、複数世代が、同居するということは、まず、ない。興味深いのは、子ど
もが高校生くらいになると、親自身が、子どもの自立をうながすこと。同じ敷地の中に、バンガ
ローを建てて、そこへ子どもを住まわせる親も、少なくない。

 こうして親は親で、死ぬまで、自分の生活と、その生活する場(人生)を確保する。こどものた
めに自分の人生を犠牲にすることは、まず、ない。

 たとえば大学生にしても、親のスネをかじって大学へ通う子どもなど、さがさなければならな
いほど、少ない。たいていは奨学金を得たり、自ら借金をして通う。

 が、それでいて、人間関係が希薄かというと、そういうことはない。むしろいろいろな統計結果
をみても、手をかけ、金をかける日本の親子関係より、濃密なばあいが多い。

●親自身の自立性 

 あなたと親の関係はともかくも、今度は、あなたと子どもの関係において、あなたという親は、
いつも人間として自立することを念頭に置かねばならない。結局は、そこへすべての結論が、
行きつく。

 親としてではなく、一人の人間として、どう生きるかという問題である。

 その(生きる)部分に、(親意識)を混在させてしまうと、人生そのものが、わけのわからない
ものになってしまう。よくある例が、自分の生きがいを、子どもに託してしまう親である。

 明けても暮れても、考えることは、子育てのことばかり。自分の人生のすべてを、子育てにか
けてしまう。

 一度、こういう状態になると、そこから抜け出るのは、容易なことではない。それなりに親子関
係が順調なときは、それほど問題にはならない。しかしひとたびそれが崩れると、自己犠牲心
は、被害妄想に。愛情は、憎悪へと変身する。……しやすい。

 「親をさておいて、自分だけいい生活をしやがってエ!」と、息子に叫んだ母親がいた。
 「あんたは、だれのおかげで、日本語がしゃべれるようになったか、わかっているの!」と、娘
に叫んだ母親もいた。

 息子が家を新築したことに対して、「親の家を改築するのが、先だろう」と怒った、母親すら、
いた。

 ほかにも、息子が結婚して、郷里を離れたことについて、「悔しい」「悔しい」と泣き明かした母
親もいる。「息子を、嫁に取られてしまった。息子なんて、育てるもんじゃない」と、会う人ごとに
こぼしていた母親もいる。

 こうした親たちに共通する点はといえば、つまりは、自立できない、精神的に未完成な人間性
である。

●では、どうするか?

 今まで、こうしたケースを、私はたくさん経験している。経験したというよりは、多くの相談を受
けてきている。

 その結果というか、結論を先に言えば、こうした親たちを説得するのは、不可能ということ。
先にも書いたように、カルト化している。さらにそういった生きザマ自体が、その人の人生観の
骨格にもなっている。

 それを否定することは、その人自身の人生を否定することに等しい。だからそもそも、別の考
え方を受けいれようとしない。

 で、こういうケースでは、あきらめて、納得し、その上で、妥協して生きるしかない。

 そして自分の問題としては、心理学でいう「幻惑」から、できるだけはやく自分を解放する。

 親が子どもに対して、冷たく「縁を切る」とか、それに類することを口にしたときには、それを
悩むのではなく、「はい、そうですか」と割りきる。この割りきりが、あなた自身を幻惑から解放
する。

 幻惑にとりつかれ、悶々と悩むということは、あなた自身が、すでに親がもつ親意識を、引き
継いでいることを意味する。つまりあなた自身も、すでにマザコンであるということ。そのマザコ
ン性に気がつくことである。

 なぜ幻惑に苦しむかといえば、自分自身の中のマザコン性を、処理できないためと考えてよ
い。

++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

【NEさんへ4】

 あなたのお子さん、S君は、すばらしい子どもですよ。あなたに好かれようと、懸命に、がんば
っているではありませんか。あなたには、それがわかりますか。

 「涙を流した後、『ごめんなさい』といってしまえば、次の行動では、けろっと忘れてまた同じこ
とをします。甘えて手を握ってきたり、(私はこれが生理的に許せないのですが)、怒るのも許す
のも、相性があるんだなと思います)という部分を、他人の目で、もう一度、読みなおしてみてく
ださい。

 生理的に許せないあなたのほうに、問題があるのですよ。わかりますか?

 もう一つアドバイスできることがあるとすれば、(わだかまり論)です。最後に、それを添付して
おきます。参考にしてください。

++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

●不安の原因は、わだかまり

 子育てをしていて、いつも同じパターンで、同じように失敗するというのであれば、あなた自身
の中に潜む、「わだかまり」をさぐってみる。わだかまりは、あなたの心の奥に巣をつくり、あな
たを裏から操る。

 わだかまりがあるということが悪いのではない。ほとんどの人は、何らかのわだかまりをもっ
ている。わだかまりがあるということが悪いのではなく、その「ある」ことに気がつかないまま、そ
れに振り回されるのが悪い。

 望まない結婚であった。望まない子どもであった。妊娠中に大きな不安があった。実家とうま
くいっていない。不幸な家庭生活だった。生活苦がある。夫婦げんかが絶えない。夫婦関係が
ぎくしゃくしている、などなど。こうした「思い」が、わだかまりとなり、それが「子育ての不安」を
増大させる。

 ある母親は、小学一年生の男の子を、「イヤーッ!」と叫んで、手で払いのけていた。長い
間、その理由がわからなかったが、いろいろ振り返ってみると、望まない結婚が原因だったと
いうことがわかった。

 現在の夫(子どもの父親)は、その母親に対して、結婚前、執拗なストーカー行為を繰り返し
ていた。が、その母親は心のやさしい人だった。「実家に迷惑がかかってはいけない」「私ひと
りががまんすれば何とかなる」と考えて、その男と結婚した。が、そんな結婚だから、最初から
うまくいくはずがない。殺伐(さつばつ)とした結婚生活がつづいた。そこでその母親は、「子は
かすがいという。子どもをつくれば何とか、うまくいくだろう」と考えて、その男の子をもうけた。
子どもが「ママ!」とすりよってくるたびに、その母親は、無意識のまま、その男の子を払いの
けていたというわけである。

 こうしたわだかまりは、それに気がつくだけで、消えることはないが、おとなしくさせることはで
きる。そのあと少し時間はかかるが、やがて問題も解決する。そこで大切なことは、冒頭に書
いたように、いつも同じようなパターンで、同じように失敗するというのであれば、このわだかま
りを疑ってみる。何かあるはずである。
(はやし浩司 親子の確執 親子問題 ギクシャクする親子 子供への接し方)


++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司


最前線の子育て論byはやし浩司(813)

【子育て・新格言】

●モノより思い出

 イギリスの格言に、『子どもには、釣りザオを買ってあげるより、いっしょに魚釣りに行け』とい
うのがある。子どもの心をつかみたかったら、そうする。

 親は、よく、「高価なものを買い与えたから、子どもは感謝しているはず」とか、「子どもがほし
いものを買い与えたから、親子のパイプは太くなったはず」と考える。しかしこれはまったくの誤
解。あるいは逆効果。子どもは一時的には、親に感謝するかもしれないが、あくまでも一時的。

物欲をモノで満たすことになれた子どもは、さらにその物欲をエスカレートさせる。小学生のこ
ろは、一〇〇〇円、二〇〇〇円で満足していた子どもも、中学生、高校生になると、一〇万
円、二〇万円、さらに大学生ともなると、一〇〇万円、二〇〇万円のものを買い与えないと、
満足しなくなる。あなたにそれだけの財力があるなら、話しは別だが、そうでないなら、やめた
ほうがよい。

 どこかの自動車会社のコマーシャルに、『モノより思い出』というのがあった。それは子育て
で、まさに核心をついた言葉ということになる。(ただし、息子に自動車を買ってあげたからとい
って、パイプが太くなるとはかぎらない。念のため。)


●よき友になる

 よく、「親は子どもの友か、いなか」という議論がなされる。しかしこういう議論、そのものが、
ナンセンス。友であって、どうして悪いのか。いけないのか。友でないとするなら、親は、いった
い何なのか。

 親には三つの役目がある。ガイドとして、子どもの前を歩く。保護者として、子どものうしろを
歩く。そして友として、子どもの横を歩く。昔、オーストラリアの友人が教えてくれたことだが、日
本人は、子どもの前やうしろを歩くのは得意。しかし横を歩くのが苦手?

 そうでなくても、上下関係のある人間関係からは、良好な人間関係は、生まれない。親子関
係も、つきつめれば、人間関係。「親だから……」「親子だから……」「子どもだから……」とい
う、「ダカラ論」で、人間関係をしばってはいけない。

 総じてみれば、子育てじょうずな親というのは、いつも子どもの横を歩いている。子どもも伸び
やか。表情も明るい。だから……。あなたも「親だから……」と気負う必要はない。気楽に、子
どもといっしょに、もう一度、少年少女期を楽しむつもりで、人生を楽しめばよい。あなたが気
負えば気負うほど、あなたも疲れるが、子どもも疲れる。そしてそれが親子の間に、ミゾをつく
る。


●先輩をもつ
 あなたの近くに、あなたの子どもより、一〜三歳年上の子どもをもつ人がいたら、多少、無理
をしてでも、その人と仲よくする。その人に相談することで、あなたのたいていの悩みは、解消
する。

「無理をしてでも」というのは、「月謝を払うつもりで」ということ。相手にとっては、あまりメリット
はないのだから、これは当然といえば、当然。が、それだけではない。あなたの子どもも、その
人の子どもの影響を受けて、伸びる。

 子育ては、まさに経験がモノを言う。何かあなたの子どものことで問題が起きたら、相談して
みたらよい。たいてい「うちも、こんなことがありましたよ」というような話で、解決する。


●子どもの先生は、子ども

あなたの近くに、あなたの子どもより一〜三歳年上の子どもをもつ人がいたら、その人と仲よく
したらよい。あなたの子どもは、その子どもと遊ぶことにより、すばらしく伸びる。この世界に
は、『子どもの先生は、子ども』という、大鉄則がある。

 私もときどき、子ども(生徒)を、わざと、数歳年上のクラスに入れて、自習させてみることが
ある。「好きな勉強をすればいい」というような指導のし方をする。この方法で数か月も自習さ
せると、子どもに勉強グセができる。上の子どもを見習うためである。子ども自身も、同じ仲間
という意識で見るため、抵抗がない。また、こと「勉強」ということになると、一、二年、先を見な
がら、勉強するということは、それなりに重要である。


●指示は具体的に
 子どもに与える指示は、具体的に。たとえば「あと片づけしなさい」と言っても、子どもには、あ
まり意味がない。そういうときは、「おもちゃは、一つですよ」と言う。「友だちと仲よくするのです
よ」というのも、そうだ。そういうときは、「これを、○○君に渡してね。きっと、○○君は喜ぶわ
よ」と言う。学校で先生の話をよく聞いてほしいときは、「先生の話をよく聞くのですよ」ではな
く、「学校から帰ってきたら、先生がどんな話をしたか、あとでママに話してね」と言う。

 昔、側溝(ドブ)で遊ぶ子ども(幼児)がいた。母親が何度叱っても、効果がなかった。そこで
ある日、母親は、トイレの排水が、どこをどう流れて、その下水溝へ流れていくかを、歩きなが
ら説明した。とたん、その子どもは、下水溝で遊ぶのをやめたという。
(はやし浩司 子どもの指導 子供の指導 指導のし方)


++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

【特集・子どもを勉強好きにさせるためには】

+++++++++++++

子どもからやる気を引き出すには
そうしたらよいか?

そのカギをにぎるのが、扁桃体と
いう組織だそうだ!

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 人間には、「好き」「嫌い」の感情がある。この感情をコントロールしているのが、脳の中の辺
縁系にある扁桃体(へんとうたい)という組織である。

 この扁桃体に、何かの情報が送りこまれてくると、動物は、(もちろん人間も)、それが自分に
とって好ましいものか、どうかを、判断する。そして好ましいと判断すると、モルヒネ様の物質を
分泌して、脳の中を甘い陶酔感で満たす。

たとえば他人にやさしくしたりすると、そのあと、なんとも言えないような心地よさに包まれる。そ
れはそういった作用による(「脳のしくみ」新井康允)。が、それだけではないようだ。こんな実験
がある(「したたかな脳」・澤口としゆき)。

 サルにヘビを見せると、サルは、パニック状態になる。が、そのサルから扁桃体を切除してし
まうと、サルは、ヘビをこわがらなくなるというのだ。

 つまり好き・嫌いも、その人の意識をこえた、その奥で、脳が勝手に判断しているというわけ
である。

 そこで問題は、自分の意思で、好きなものを嫌いなものに変えたり、反対に、嫌いなものを好
きなものに変えることができるかということ。これについては、澤口氏は、「脳が勝手に決めてし
まうから、(できない)」というようなことを書いている。つまりは、一度、そうした感情ができてし
まうと、簡単には変えられないということになる。

 そこで重要なのが、はじめの一歩。つまりは、第一印象が、重要ということになる。

 最初に、好ましい印象をもてば、以後、扁桃体は、それ以後、それに対して好ましい反応を
示すようになる。そうでなければ、そうでない。たとえば幼児が、はじめて、音楽教室を訪れたと
しよう。

 そのとき先生のやさしい笑顔が印象に残れば、その幼児は、音楽に対して、好印象をもつよ
うになる。しかしキリキリとした神経質な顔が印象に残れば、音楽に対して、悪い印象をもつよ
うになる。

 あとの判断は、扁桃体がする。よい印象が重なれば、良循環となってますます、その子ども
は、音楽が好きになるかもしれない。反対に、悪い印象が重なれば、悪循環となって、ますま
すその子どもは、音楽を嫌いになるかもしれない。

 心理学の世界にも、「好子」「嫌子」という言葉がある。「強化の原理」「弱化の原理」という言
葉もある。

 つまり、「好きだ」という前向きの思いが、ますます子どもをして、前向きに伸ばしていく。反対
に、「いやだ」という思いが心のどこかにあると、ものごとから逃げ腰になってしまい、努力の割
には、効果があがらないということになる。

 このことも、実は、大脳生理学の分野で、証明されている。

 何か好きなことを、前向きにしていると、脳内から、(カテコールアミン)という物質が分泌され
る。そしてそれがやる気を起こすという。澤口の本をもう少しくわしく読んでみよう。

 このカテコールアミンには、(1)ノルアドレナリンと、(2)ドーパミンの2種類があるという。

 ノルアドレナリンは、注意力や集中力を高める役割を担(にな)っている。ドーパミンにも、同
じような作用があるという。

 「たとえば、サルが学習行動を、じょうずに、かつ一生懸命行っているとき、ノンアドレナリンを
分泌するニューロンの活動が高まっていることが確認されています」(同P59)とのこと。

 わかりやすく言えば、好きなことを一生懸命しているときは、注意力や集中力が高まるという
こと。

 そこで……というわけでもないが、幼児に何かの(学習)をさせるときは、(どれだけ覚えた
か)とか、(どれだけできるようになったか)とかいうことではなく、その幼児が、(どれだけ楽しん
だかどうか)だけをみて、レッスンを進めていく。

 これはたいへん重要なことである。

 というのも、先に書いたように、一度、扁桃体が、その判断を決めてしまうと、その扁桃体が、
いわば無意識の世界から、その子どもの(心)をコントロールするようになると考えてよい。「好
きなものは、好き」「嫌いなものは、嫌い」と。

 実際、たとえば、小学1、2年生までに、子どもを勉強嫌いにしてしまうと、それ以後、その子
どもが勉強を好きになるということは、まず、ない。本人の意思というよりは、その向こうにある
隠された意思によって、勉強から逃げてしまうからである。

 たとえば私は、子どもに何かを教えるとき、「笑えば伸びる」を最大のモットーにしている。何
かを覚えさせたり、できるようにさせるのが、目的ではない。楽しませる。笑わせる。そういう印
象の中から、子どもたちは、自分の力で、前向きに伸びていく。その力が芽生えていくのを、静
かに待つ。

 (このあたりが、なかなか理解してもらえなくて、私としては歯がゆい思いをすることがある。
多くの親たちは、文字や数、英語を教え、それができるようにすることを、幼児教育と考えてい
る。が、これは誤解というより、危険なまちがいと言ってよい。)

 しかしカテコールアミンとは何か?

 それは生き生きと、顔を輝かせて作業している幼児の顔を見ればわかる。顔を輝かせている
その物質が、カテコールアミンである。私は、勝手に、そう解釈している。
(はやし浩司 子供のやる気 子どものやる気 カテコールアミン 扁桃体)

【補記】

 一度、勉強から逃げ腰になると、以後、その子どもが、勉強を好きになることはまずない。
(……と言い切るのは、たいへん失礼かもしれないが、むずかしいのは事実。家庭教育のリズ
ムそのものを変えなければならない。が、それがむずかしい。)

 それにはいくつか、理由がある。

 勉強のほうが、子どもを追いかけてくるからである。しかもつぎつぎと追いかけてくる。借金に
たとえて言うなら、返済をすます前に、つぎの借金の返済が迫ってくるようなもの。

 あるいは家庭教育のリズムそのものに、問題があることが多い。少しでも子どもがやる気を
見せたりすると、親が、「もっと……」「うちの子は、やはり、やればできる……」と、子どもを追
いたてたりする。子どもの視点で、子どもの心を考えるという姿勢そのものがない。

 本来なら、一度子どもがそういう状態になったら、思い切って、学年をさげるのがよい。しかし
この日本では、そうはいかない。「学年をさげてみましょうか」と提案しただけで、たいていの親
は、パニック状態になってしまう。

 かくして、その子どもが、再び、勉強が好きになることはまずない。
(はやし浩司 やる気のない子ども 勉強を好きにさせる 勉強嫌い)

【補記】

 子どもが、こうした症状(無気力、無関心、集中力の欠如)を見せたら、できるだけ早い時期
に、それに気づき、対処するのがよい。

 私の経験では、症状にもよるが、小学3年以上だと、たいへんむずかしい。内心では「勉強
はあきらめて、ほかの分野で力を伸ばしたほうがよい」と思うことがある。そのほうが、その子
どもにとっても、幸福なことかもしれない。

 しかしそれ以前だったら、子どもを楽しませるという方法で、対処できる。あとは少しでも伸び
る姿勢を見せたら、こまめに、かつ、すかさず、ほめる。ほめながら、伸ばす。

 大切なことは、この時期までに、子どものやる気や、伸びる芽を、つぶしてしまわないというこ
と。


++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

●子どもの指しゃぶり

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なぜ、幼児は、(おとなも)、指しゃぶり
をするか。

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 子どもがふつうでない行為を、習慣的に繰り返すようであれば、代償行為を疑う。心の緊張
感をほぐすためにする、代わりの行為と考えるとわかりやすい。よい例が、指しゃぶり、貧乏ゆ
すり、ものいじり、髪いじりなど。ふつう、はたから見ると、「どうしてそんなことをするのだろう」と
思われる行為が多い。こうした行為を無意識のうちにも繰り返すことにより、子どもは自分の
心(情緒)を安定させようとする。

 一般論として、体の一部に刺激を加えると、その刺激は神経を通って、大脳の皮質部にとど
く。そしてその刺激が長くつづくと、体は刺激をやわらげるため、脳や脊髄の神経細胞からエン
ドリフィンや、エンケファリンなど、数一〇種類の麻薬様の物資が放出される。この物質が脳に
陶酔感を引き起こす。それを利用したのが、針麻酔ということになる。

 針麻酔では、体のいくつかの部位に針を刺し、そこに低周波電流を断続的に通電し、麻酔効
果を得る。体験者の話では、「しばらくすると、甘く、けだるい感じに襲われる」という。それはさ
ておき、こうした代償行為は、もともと不安定な心(情緒)を自ら落ちつけようとする行為のた
め、しかっても意味がない。そればかりか、無理にやめさせようとすると、かえって子どもの心
(情緒)を不安定にすることになるから注意する。子ども自身に罪の意識をもたせないように、
配慮する。

 ところで話はそれるが、こうした陶酔感は、性行為によっても同じように得られるという(「脳の
しくみ」新井康允)。そして神経細胞から放出される麻薬様の物質ため、中毒性や習慣性が生
まれることもあるという。あるいはそれをやめると、禁断症状も出てくることもあるという。そう言
えば……ということでもないが、私の知人の中には、五〇歳を過ぎたというのに、いまだに女性
をとっかえ、ひっかえ、不倫を繰り返している男性がいる。ヒマなときは、テレクラでアルバイト
をしているという。その男の妻は、そういう男を、「病気ですから……」とあきらめている。

 事実、ここに書いたような行為(指しゃぶりなど)をしている子どもを観察すると、実に気持ち
よさそうな表情をするのがわかる。陶酔感に浸(ひた)っているという感じである。子どもの指し
ゃぶりには、そういう意味も含まれる。
(はやし浩司 指しゃぶり 子供の指しゃぶり 代償行為 貧乏ゆすり 髪いじり 爪かみ もの
いじり 子供の心理 幼児の心理 はやし浩司)


++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

●マイナスのストローク

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子どものやる気を引き出すには、
どうしたらよいのか。

一つの例を出して、考えてみる。

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当時の記録には、こうある。

 「A君。年中児。何を指示しても、『いや』『できない』と逃げてしまう。今日も、絵を描かせよう
としたが、もぞもぞと、何やらわけのわからない模様のようなものを描くだけ。積み木遊びをし
たが、A君だけ、作ろうともしない。一事が万事。先日は、歌を歌わせようとしたが、『歌いたくな
い』と言って、やはり歌わなかった」(19XX年9月)と。

 このA君が印象に残っているのは、母親の視線が、ふつうではなかったこと。母親は、一見お
だやかな表情をしていたが、視線だけは、まるで心を射抜くように強かった。ときにビリビリとそ
れを感じて、授業がやりにくかったこともある。

 こうしたケースで困るのは、まず母親にその自覚がないということ。「その自覚」というのは、A
君をそういう子どもにしたのは、母親自身であるという自覚のこと。つぎに、私はそれを母親に
説明しなければならないのだが、どこからどう説明してよいのか、その糸口すらわからないとい
うこと。A君のケースでも、私と母親の間に、私は、あまりにも大きな距離を覚えた。

 が、母親は、こちらのそういう気持など、まったくわからない。「どうしてうちの子は……?」と
相談しつつ、私の説明を満足に聞こうともせず、返す刀で、子どもを叱るだけ。「もっと、しっか
りしなさい!」「あんな問題、どうしてできないの!」「お母さん、恥ずかしいわ!」と。

 あのユング(精神科医)は、人間の自覚について、それを、意識と、無意識に区別した。そし
てその無意識を、さらに個人的無意識と、集合的無意識に区別した。個人的無意識というの
は、その個人の個人的な体験が、無意識下に入ったものをいう。フロイトが無意識と言ったの
は、この個人的無意識のことをいう。

 集合的無意識というのは、人間が、その原点としてもっている無意識のことをいう。それにつ
いて論ずるは、ここでの目的ではないので、ここでは省略する。問題は、先の、個人的無意識
である。

 この個人的無意識は、ここにも書いたように、その個人の個人的な体験が、無意識の世界
に蓄積されてできる。思い出そうとすれば、思い出せる記憶、あるいは意図的に封印された記
憶なども、それに含まれる。問題は、人間の行動の大半は、意識として意識される意思による
ものではなく、無意識からの命令によって左右されるということ。わかりやすく言えば、この個人
的無意識が、その個人を、裏から操(あやつ)る。これがこわい。

 A君(年中児)の例で考えてみよう。

 A君の母親は、強い学歴意識をもっていた。「幼児期から、しっかり教育すれば、子どもは、
東大だって入れるはず」という、迷信とも言えるべき信念さえもっていた。そのため、いつも「子
どもはこうあるべき」「子育てはこうあるべき」という、設計図をもっていた。ある程度の設計図
をもつことは、親として、しかたのないことかもしれない。しかしそれを子どもに、押しつけては
いけない。無理をすればするほど、その弊害は、そのまま子どもに現れる。

 一方、子どもの立場でみると、そうした母親の姿勢は、子どもの自我の発達を、阻害する原
因となる。自我というのは、「私は私という輪郭(りんかく)」のこと。一般論として、乳幼児期に、
自我の発達が阻害されると、どこかナヨナヨとした、ハキのない子どもになる。何をしても自信
がもてず、逃げ腰になる。失敗を恐れ、いつも一歩、その手前で止めてしまう。ここでいうA君
が、まさに、そういう子どもだった。

 これについて、B・F・スキナーという学者は、「オペラント(自発的行動)」という言葉を使って、
つぎのような説明している。

 「条件づけには、(1)強化(きょうか)の原理と、(2)弱化(じゃくか)の原理がある」と。

 強化の原理というのは、ある行動を人がしたとき、その行動に、プラスのストローク(働きか
け)が加わると、その人は、その行動を、さらに力強く繰りかえすようになるという原理をいう。

 たとえば子どもが歌を歌ったとする。そのとき、まわりの人が、それを「じょうずだ」と言ってほ
めたり、自慢したりすると、それがプラスのストロークとなって、子どもはますます歌を歌いたが
るようになる。

 これに対して弱化の原理というのは、ある行動を人がしたとき、その行動にマイナスのストロ
ークがかかると、その人は、その行動を繰りかえすのをやめてしまうようになるという原理をい
う。あるいは繰りかえすのをためらうようになる。

 たとえば子どもが歌を歌ったとする。そのとき、まわりの人が、「こう歌いなさい」と言って、け
なしたり、笑ったりすると、それがマイナスのストロークになって、子どもは歌を歌わなくなってし
まう。

 A君のケースでは、母親の神経質な態度が、あらゆる面で、マイナスのストロークとなって作
用していた。そしてこうしたマイナスのストロークが、ここでいう個人的無意識の世界に蓄積さ
れ、その無意識が、A君を裏から操っていた。親の愛情だけは、それなりにたっぷりと受けてい
るから、見た目には、おだやかな子どもだったが、A君が何かにつけて、逃げ腰になってしまっ
たのは、そのためと考えられる。

 が、ここで最初の、問題にもどる。そのときのA君がA君のようであったのは、明らかに母親
が原因だった。それはわかる。が、私の立場で、どの程度まで、その責任を負わねばならない
のかということ。与えられた時間と、委託された範囲の中で、精一杯の努力をすることは当然と
しても、しかしこうした問題では、母親の協力が不可欠である。その前に、母親の理解がなけ
れば、どうしようもない。

 そこで私はある日、意を決して、母親にこう話しかけた。

私「ご家庭では、もう少し、手綱(たすな)を、緩(ゆる)めたほうがいいですよ」
母「ゆるめるって……?」
私「簡単に言えば、もっとA君を前向きにほめるということです」
母「ちゃんと、ほめています」
私「そこなんですね。お母さんは、その一方で、A君に、ああしなさいとか、こうしなさいとか言っ
ていませんか?」
母「言っていません。やりたいようにさせています」
私「ハア、そうですか……」と。

 実際のところ、問題意識のない母親に、問題を提起しても、ほとんど意味がない。たいてい
は、「うちでは、ふつうです」「幼稚園では、問題ありません」などと言って、私の言葉を払いのけ
てしまう。さらに、何度かそういうことを言われたことがあるが、こう言う母親さえいる。昔、幼稚
園で働いていたときのことだ。「あんたは、黙って、うちの子の勉強だけをみてくれればいいで
す」と。つまり「余計なことは言うな」と。
 
 ……と、書いて、私も気づいた。私にも、弱化の原理が働いている、と。問題のある子どもの
母親を前にすると、「母親に伝えなければ」という意思はあるのだが、別の心がそれにブレーキ
をかけてしまう。

こういった仕事というのは、報われることより、裏切られることのほうが、はるかに多い。いやな
思い出も多い。さんざん、不愉快な思いもした。そうした記憶が、私を裏から操っている? 「質
問があるまで、黙っていろ」「あえて問題を大きくすることもない」「言われたことだけをしていれ
ばいい」「余計なことをするな」と。

 「なるほど……」と、自分で感心したところで、この話は、ここまで。要するに、子どもは、常に
プラスのストロークをかける。かけながら、つまりは強化の原理を利用して、伸ばす。とくに乳幼
児期はそうで、これは子育ての大原則ということになる。
(はやし浩司 子どものやる気 子供のやる気 弱化の原理 強化の原理)


++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

【近況・あれこれ】

●ダイエット、達成!

 65〜6キロあった体重を、1、2週間で、62キロ台にした。苦しい戦いだった。しかしやった
ア!

 わずか2〜3キロと思うかもしれないが、2リットル入りのペットボトル1本分の体重である。そ
れがいかなる重さかを知るためには、自転車の荷カゴの中に、そのペットボトルを入れて走っ
てみればよい。

 たった1本(2キロ)でも、自転車の動きが、まるでちがう。2本(4キロ)も入れて走ると、自転
車がフラつく。

 あとは、この状態を保ちつつ、クーラーにはできるだけ、あたらないようにする。それに1日、
最低でも1時間の運動は、欠かさない。たっぷりと汗をかく。

 しかし毎日、食事をしながら、つぎの食事の献立を考えているのも、つらい。今日も、ワイフと
朝食をとりながら、こんな会話をした。朝食といっても、キャベツとスイカ。それにバナナと煮干
をのせた白いご飯。茶碗に、4分の1。

私「今日の昼は、何にする?」
ワ「何にする、って、今、朝食を食べているところよ」と。

 たまたま新聞の折り込みチラシに、どこかのレストランの広告が入っていた。それをテーブル
の上に広げながら、「これを見ながら、食べていると、それなりにご馳走(ちそう)を食べている
気分になれるね」と。

 何とも、わびしい、食生活。しかしそれも、これからやってくる猛暑と戦うためには、やむをえ
ない。がんばろう!


●モニターが、よく見えない

 このところ、乱視が少し、進んだようだ。老眼かもしれない。モニターを少し離せば、それなり
に写真などは、鮮明に見える。が、しかし遠くにあるため、やはり、文字は小さくて、よく見えな
い。

 そのため、誤字、脱字が多いのが、よくわかる。あとで自分の書いた原稿を読みなおしてみ
ると、それがわかる。

 今、主に使っているのが、F社のパソコン。17インチのワイドだが、実際には、横に広いとい
うだけで、15インチモンターより、縦には、1〜2インチほど、狭い。

 今度買うときは、思いきって、19インチモニターにしよう……と、心に決めている。


●ワイフの料理

 ワイフがつくる料理で、一番、好きなのは、サバの醤油煮。これが格別に、うまい! もう一
つは、肉じゃが。ほかにもいろいろあるが、昨夜は、そのサバの醤油煮だった。

 ダイエット中だというのに、ご飯を2杯も食べてしまった。おかげで、今朝、体重を測(はか)っ
てみると、1キロの増量! 

 どうして、こうなるのだ! 食べたら、食べた分だけ、私は太ってしまう。恐らく体中が、飢えた
状態になっているらしい。ほんの少量の食事でも、すべてを、体重に変えてしまう。つまりこうし
てリバウンドが、始まる。

 今朝は、スイカだけ。そう決めた。(今、時刻は、午前7時ちょうど。)

 それからワイフのつくるスキヤキも、絶品! あちこちでスキヤキを食べる機会もあるが、し
かしやはりワイフのつくるスキヤキにまさるスキヤキはない。うまい。

 しかしほめてばかりいては、評論家の名がすたる。あえて言うなら、天丼。ワイフがつくると、
どうしても、水ぽくなってしまう。先日も、いっしょに買い物をしながら、ワイフは、ふと、こうもらし
た。「私、揚げ物は、苦手なのね……」と。

 「そんなことないよ」と励まそうと思ったが、「そうだよなあ……」と思ったとたん、その言葉は、
口から消えてしまった。

 油の温度の問題だと、私は、思うのだが……。


●宇宙

 満点の星空。大きな月。その向こうに広がる、どこまでも無限で、深遠な闇に包まれた宇宙
……。「この広い宇宙……」と言いたいが、実は、「広い」という概念ほど、まったく、アテになら
ないものはない。距離などというものは、「光」が勝手につくりあげた虚構の概念。もし「光」がな
ければ、距離すらも、存在しない。

 今、こうして見えている目の前の世界にしても、光が勝手につくりあげた、虚像。その虚像
を、脳の中の視覚野(脳のモニター)が、映し出しているだけ。それを脳ミソが、刺激を受けて、
感じているだけ。

 そこに見えるから、存在するということにはならない。見えないから、存在しないということにも
ならない。

 本当の宇宙は、ひょっとしたら、私やあなたの握りこぶしほどの大きさしかないのかもしれな
い。いや、私が、そう言っているのではない。あのホーキング博士が、そう言っている。

 私たちが住んでいるような宇宙は、そこにも、ここにも、いたるところにあって、まるでアワ(バ
ブル)のように、ぎっしりとつまっているという。

 そうした別の宇宙が見えないのは、私たちが、その中に住んでいないから。その別の宇宙の
中に、住めば、見える。今の私たちが、この宇宙を見ているように、だ。もともと今、私たちが
住んでいるこの宇宙にしても、まったくの(無)が、二つに分かれて、それでできあがった世界だ
という。

 何とも不可思議な世界ではないか。

 ただ一つ、はっきりしていることは、もし、私が死ねば、この宇宙もろとも、すべてが消えると
いうこと。どこかにはある……というだけでも、二度と、この宇宙を見ることも、さわることもでき
ない。ちょうど、目の前にある、無数の別の宇宙を、見ることも、さわることもできないように、
だ。

 ……しかしとなりの別の宇宙にも、私たちが住んでいるような惑星があるのだろうか。その惑
星には、私たち人間のような生物が住んでいるのだろうか。

 いつの世か、人間は、そういう無数の別の宇宙を、自由に行き来できるようになるかもしれな
い。そうなれば、まさに人間は、時空を越えた存在となる。……が、ふつうの方法では、無理だ
ろう。

 たとえば体も心も、電子エネルギーのようなものに変換できるようにでもならないと、無理で
はないか。しかしそうなればなったで、人間が見る世界は、まったくちがったものになるはず。

 体全体が、電子のモヤのようになる。大きさは、ハバが、数百キロ。そして数億キロ離れた友
人と、宇宙をただよいながら、こんな会話をする。

私「゜"#$$#"""""""&&'&%&」
友「''&&&%&%##"$#"!!」と。

想像するだけでも、楽しくなる。

【追記】

 「時間」にしても、これまたアテにならないものはない。

 時計を見ていると、コチコチと、1秒ずつ時の流れをきざんでいるが、この1秒の間に、300
0万年分もの時代を生きる生物だっているかもしれない。

 事実、「フェムト秒」という単位がある。

 以前、書いた日記にこんなのがある。

++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

●フェムト秒

 ある科学の研究者から、こんなメールが届いた(02年9月)。いわく……

「今週は、(今日ですと先週と言うのでしょうか)、葉山の山の上にある国際村センターで、日独
のジョイントセミナーがありました。私の昔からの親しい友人(前にジャパンプライズを受けたノ
ーベル賞級の人)が来ると言うので、近くでもあるし、出させてもらいました。 今は固体表面に
吸着した分子一個一個を直接見ながら、それにエネルギーを加えて反応を起こさせたり、フェ
ムト秒単位(一秒を10で15回繰り返して割った短い時間)で、その挙動を追っかけたり、大変
な技術が発達してきました」(TK先生)と。

 このメールによれば、(1)固体表面に吸着した分子を直接見ることができる。(2)フェムト秒
単位で、その分子の動きを観察できる、ということらしい。それにしても、驚いた。

ただ、(1)の分子を見ることについては、もう20年前から技術的に可能という話は聞いていた
ので、「へえ」という驚きでしかなかった。しかし「フェムト秒単位の観察」というのには驚いた。
わかりやすく言うと、つまり計算上では、1フェムト秒というのは、10の15乗倍して、やっと1秒
になるという時間である。反対に言えば、1000兆分の1秒ということになる。さらに反対に言え
ば、1000兆秒というのは、この地球上の3100万年分に相当する。計算するだけでも、わけ
がわからなくなるが、1フェムト秒というのは、そういう時間をいう。

こういう時間があるということ自体驚きである。もっともこれは理論上の時間で、人間が観察で
きる時間ではない。しかしこういう話を聞くと、「では、時間とは何か?」という問題を、考えざる
をえなくなってしまう。もし人間が、1フェムト秒を、1秒にして生きることができたら、そのたった
の1秒で、3100万年分の人生を生きることになる! ギョッ!
(はやし浩司 フェムト秒)


++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

●日本相撲協会に異義あり!

 内容はよくわからないが、T花元横綱が、協会の改革を訴えた。それに対して、日本相撲協
会が、T花元欲綱に、「厳重注意した」という。

 相撲人口、つまり相撲を支えるファンや支持者は、確実に減っている。私が子どものころとく
らべると、激減というか、それに近いほど、減っている。

 こうした現実があるにもかかわらず、日本相撲協会は、旧態依然のまま。スポーツと言いな
がら、どこにもスポーツの要素がない。「国技?」ということだから、それなりの保護も必要かも
しれない。

 しかし億単位のお金が乱舞しているのを見ると、だれしも、「これでいいのか?」と思う。また
場所が始まると、NHK(BS)では、午後1時ごろから、夕方6時近くまで、連続で実況中継して
いる。しかし、そんな必要があるのだろうか。

 まさに「笛吹けど、踊らず」の状態といってよい。

 ためしに、小学生たちに聞いてみた。「相撲を見る」と答えた子どもは、ゼロ。「相撲が好き」
と答えた子どもも、ゼロ(小1〜6、約20人)。

 私たちの知らないところで、有形、無形のばく大な税金が、ムダに使われているのでは? 
最近では、私は、そんな疑問をもち始めている。

 T花元横綱は、小中高の、相撲一貫校をつくりたいなどというようなことを提案したという(テレ
ビ報道)。が、発想そのものが、現実離れしている。国技は国技だが、しかしそれほどまでにし
て守らねばならない、国技でもない。

 ことあるごとに、日本相撲協会は、「国技」という言葉を使い、また別の機会では、「スポーツ」
という言葉を使う。それらを巧みに使い分けながら、私たちを煙に巻く。

 しかし相撲は、基本的には、「興行」である。金もうけのための興行である。野球もサッカー
も、興行だが、相撲ほどの、公的保護は、受けていない。

 「税金のムダづかい」という観点から、日本相撲協会のあり方を、もう一度考えなおすべき時
期にきているのではないだろうか。


●いよいよ6か国協議(7月21日記)

 来週から、いよいよ、中国の北京で、6か国協議なるものが、開かれる。K国の核開発を、ど
う放棄させるかが、その協議の焦点だが、20日(昨日)、ロングズワース副局長(核安全保障
局(NNSA))が、こんなことを言い出した。

 「査察範囲を民間研究機関にも拡大し、未申告の疑惑施設への事実上の(抜き打ち査察)を
可能とした、国際原子力機関(IAEA)追加議定書を適用する」と。そしてその上で、「強制力あ
る査察・検証体制を追求していく」(共同通信)と。

 つまり核査察の方法について、(抜き打ち検査)を未申告の疑惑施設に対しても、する、と。

 しかしこんなこと、K国が、OKするはずがない。

 OKしたら、たいへんなことになる。金xxが、世界に見られたくないものが、K国には、山のよ
うにある。

 ニセ札工場
 覚せい剤製造工場
 化学兵器工場
 生物兵器工場
 ミサイル工場
それに強制収容所などなど。

 それこそ白骨化した死体が、何十万人分と出てくるかもしれない。あるいは100万人分を越
えるかもしれない。みんな、政治犯(?)として処刑された人たちである。

 まあ、ブッシュ政権の読みとしては、ネバリにネバっていれば、そのうち、K国の代表団が怒
って、席を蹴って出て行くだろうということ。そうなれば、しめたもの。

 あとは、中国とロシアの協力を得て、この問題は、国連の安保理に付託すればよい。同時
に、アメリカ軍は、韓国から、完全撤退する。

 もちろんそうなれば、窮地に立たされるのが、韓国。韓国は、体を張って、それに抵抗するだ
ろう。しかし日本以上に、今、孤立しているのが、韓国。N大統領は、そのあたりのことが、まっ
たくわかっていない。

 そのあと、K国は、核実験でもするかもしれない。あるいは日本にあれこれちょっかいを出し
てくるかもしれない。

 が、日本は、相手にしない。すでにK国は、ゾンビのような国である。存続していること自体、
ありえない国である。雑誌「S」によれば、この7月に入って、360万人もの国民が、飢餓状態
にあるという。

 ふつうの、つまりまともな政治家なら、自ら責任をとって、引きさがるだろう。が、金xxは、引き
さがらない。

 だから日本は、K国など、本気で相手にしてはいけない。冷静に、ただひたすら冷静に、やる
べきことは事務的に、かつ、冷静にすればよい。あとは、国際世論を背景に、ことの推移を見
守ればよい。
(この原稿は、去る7月20日に書いたものです。)
 

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

最前線の子育て論byはやし浩司(814)

●掲示板の投稿相談より

++++++++++++++

保育園へ行きたがらない……。
そんなとき、親は、どう構えた
らよいのか?

++++++++++++++

こんにちは。いつもマガジンを読んでいます。
3歳9ヶ月の長男について相談させてください。
1歳6ヶ月の弟と二人兄弟で、父親とは生まれた時から別居中、私の両親、妹と同居していま
す。

今年の4月に年少組に入園しました。クラスは17人(男8人女9人)です。

同じクラスにいるA君がかなりやんちゃというか乱暴な子で、ことばもきつく、叩いたり、つねっ
たりということもよくあるようです。

特に私の長男にだけ、ということではないようですが、本人は「A君はどうしてすぐに怒るんだろ
う」などと言って、保育園に行きたがりません。

少人数なので、他の子と遊んでいればいいという問題でもないような気がします。
いっそ、転園をしたほうがいいのだろうかとも思います。それとも行きたくない間は、家で私が
一緒に過ごしていればいいのでしょうか?

今日も、朝、「お母さんがいい」といって園の入り口で泣いてしまったのですが、先生に抱っこさ
れて無理やり連れて行かれてしまいました。

そういう姿を見るのも本当に辛いです。なぜ、そんな風にしてまで保育園に行かせるのだろう、
と。

なかなか朝、出発しようとしない長男をみて、私の両親は、「甘やかしてる」と思っているようで
す。

でも、本人が「行こう」と思えないのに無理に連れて行くのは、どうしてもかわいそうでできませ
ん。

もうすぐ夏休みの希望保育がはじまるので、8月は半分以上お休みです。そういう話をしなが
ら、「今日は行ってこようか」と気持ちを奮い立たせているような毎日です。

できるだけ、彼が不安定にならないように、スキンシップも心がけているつもりですが、足りてい
ないのかもしれません。

私の気持ちが不安定なことが、悪い影響を与えているかもしれません。

正直なところ、どうしていいのか分りません。

保育園など、行かなくてもいいという気持ちがあるのですが、
やはり同年代の子ども達と遊んだり、ケンカしたりすることも大切なことだと思うのですが。
(和歌山県T市 AEより)

++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

●子どもの心の問題は、消去法で……

 「保育園(幼稚園)へ行きたがらない……」という子どもをみるときは、まず、(1)理由が、はっ
きりしているばあい。(2)理由が、はっきりしていないばあいに分けて、考えます。

 つぎに、同時に、もっとも心配なケースから、消去法で、一つずつ削りながら、子どもの心をさ
ぐっていきます。これは病院のドクターが、その人の病気を診断する手法と似ています。つまり
一番、心配なケースから順に、「これでなければ、これ」「これでなければこれ」……と、考えて
いきます。

 AEさんのケースでは、いろいろな理由が考えられます。心配な(1)ノケースから、順に並べ
てみると、つぎのようになります。

(1)不登校に準じた、恐怖症
(2)対人(集団)恐怖症
(3)怠学に準じた、不登園
(4)神経症
(5)母子分離不安
(6)軽い情緒不安
(7)怠け
(8)わがまま

 AEさんが疑問にもっておられるように、「毎日、行かせなければならない」と考えるほうが、お
かしいのです。同感です。オーストラリアなどでは、子どもが少しずつ集団生活に慣れるよう
に、たとえば、月水金だけ、あるいか火木土だけ通うというように、週3日制の幼稚園も珍しく
ありません。

 どうして日本だけ、いきなり、週5日も行かねばならないのでしょうか? 最初は、週1日だ
け。2年目からは、週3日だけ。3年目からは、週5日……という方法も、とられてもよいのでは
ないでしょうか。

 また、よく子どもが幼稚園などを休むと、先生から電話がかかってきて、「後(おく)ますから…
…」と言われますね。いやな言葉です。本当に、いやな言葉です。

 で、AEさんのばあいは、(1)〜(8)から順に様子を判断していきます。(1)〜(4)の状態です
と、ほかにも、心身症(神経症)による症状が、出ているはずです。夜尿、腹痛、潔癖症などな
ど。もしそういう症状も見られるなら、心の安静を大切にしてください。(私のHPのあちこちに書
いてありますので、参考にしてください。)

 こういうケースでは、「A君がいやだ……」というのは、口実(ターゲット)にすぎませんから、あ
まりその言葉に振り回されないように! A君を排除すると、今度は、B君になります。

 私は、AEさんの家庭の状況から考えて、下の子どもが生まれたことが引き金となって、赤ち
ゃんがえりから情緒が不安定になり、そのあと、(5)の母子分離不安が起きたのではないかと
疑います。(母親から離れてしまい、そのあと、何ごともなく過ごすようであれば、母子分離不安
と考えてよいのではないでしょうか。)もしそうであれば、言うまでもなく、スキンシップを濃厚に
して、安定的な愛情を大切にします。

 対処のし方としては、『求めてきたときが与え時』と考えて、「ママ〜」と甘えてきたら、すかさ
ず、抱いてあげるとか、ぐいと手をつないであげるとかしてあげます。すかさずするのが、コツ
です。「待っていてね」とか、「今は、ダメ」式の応じ方をしてはいけません。

 転園を考える前に、まず、「適当に行く」ということを考えてください。週3日行けば、上(じょう)
できと考えるようにします。残りの日は、いっしょにハイキングでもして、すごします。無理をしな
いこと。(私なら、そうします。また実際、そうしました。)

 保育園へ行かなくてもよい状態かもしれませんが、しかし母子だけで親子のパイプを作ってし
まうのも、好ましくありません。母子関係を調整する人がいればいいですが、そうでないと、濃
密になりすぎてしまいます。

 母親側としては、それでよいかもしれませんが、子どものほうに、いろいろと問題が起きてき
ます。幸いにも、ご両親と同居ということですから、そのあたりの調整をうまくしてください。

 年齢的にも微妙なときですから、無理をせず、様子を見られてはどうでしょうか。もうすぐ夏休
みですし、これから半年くらいの間に、子どもも、どんどんと変わっていきます。とくに4・5歳〜
からは、いよいよ少年期への移行期に入ります。

 今のうちに、よく使い、よく手伝いをさせ、社会性を身につけさせてあげてください。5歳をすぎ
ると、それができなくなります。今は、(しつけ)の適齢期とみてください。

 いつも、励ましのメール、ありがとうございます。AEさんの相談には、いつも最優先で、返事
を書きます。(これは恩着せ!+お礼!)

【追記】

 A君のことは、まず、先生に相談してみてください。先生との連絡を密にすることが、重要で
す。

 あとは、子ども自身の解決法に任せます。これから先、この種の問題は、モグラたたきのモ
グラのように起きてきます。

 大切なことは、問題そのものよりも、問題を解決するための、プロセスを子どもの中に作って
おくことです。技法といってもよいかもしれません。

 親としてはつらいところですが、がまん、がまん。そして先生に、相談、です。AEさんと、お子
さんの会話は、すばらしいです。今のやり方を支持します。

 A君を叱るのではなく、何か、A君の好きそうなものを、お子さんにもたせ、A君に与えてみて
はどうでしょうか。あるいは、家へ招待してあげるとか。A君には、悪いことをしているという意
識はありません。ですからA君を責めても、この時期、意味はありません。

 押してだめなら、引いてみます。これは幼児指導の鉄則の一つです。


++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司


最前線の子育て論byはやし浩司(815)

●あるがままの……

 まず、あるがままの自分を見る。知る。認める。納得する。

 すべては、そこから始まる。

 過去の業績が何であれ、家族や家系が何であれ、夢や希望が何であれ、私は、私。あなた
は、あなた。

 昔、あるテレビ局で、脚本を書いていたときのこと。私は、下請けプロダクションの、そのまた
下請けライターにすぎなかった。が、こんなことがあった。

 そのテレビ局のコピー室で、何かの印刷物をコピーしていたときのこと。2人の若い社員が、
私の仕事を終わるのを待ちながら、こんな会話を始めた。

 「今度、○○番組では、あのAを使ってみますか?」
 「……う〜ん、私は、Bのほうが、いいと思いますよ」と。

 2人は得意げだった。しかし私が驚いたのは、そのA氏にしても、B氏にしても、すでによく知
られた評論家であり、小説家であったこと。

 そういう人物について、まるで、商品か何かの品定めでもするかのように、話しあっている。し
かも、呼び捨て!

 私はその2人を見ながら、「自分たちは、何様のつもりだろう?」と思った。

 で、そのときのA氏もB氏も、やがてなくなった。が、今でも、そのA氏をしのんだ本や写真集
がときどき、出版される。B氏にしても、B氏が書いた旅行記が、最近、再び、話題になってい
る。

 が、その呼び捨てにしていた若い社員のうわさは、(当然のことだが)、それ以後、耳にしたこ
とがない。

 しかし、その社員を思い起こさせるような人に、最近、出会った。その人をX氏(65歳)として
おく。彼はある大手の出版社で、書籍の編集部長をしていた。今は、その出版社の子会社の、
「XX出版研究会」で、何かの仕事をしているらしい(?)。

 その彼が、私にこう言った。過去の華々しい業績を、あれこれ語ったあと、「あのC氏(日本で
も、10本の指に入る、テレビタレント)なんか、ぼくが育ててやったようなものだよ」とか、など。

 私はその話を聞きながら、内心では、「では、あなたは何なのか?」と思った。「XX出版研究
会」といっても、中身は、何もない。要するに、その会社を定年退職した元重役級の人たちが
集まる、社交場にすぎない。

 X氏は、過去の業績をあれこれと私に話しながら、「だから、オレは、すごいだろ」ということが
言いたかったのだろう。しかし私には、ただの老人。ただの退職者。

 「あるがままの……」というのは、そういう意味である。とくに、私の年代の人間のように、退
職した人たちは、まず、その「あるがままの自分」を、見なければならない。知らなければならな
い。認めなければならない。納得しなければならない。

 で、ないと、そこから先、前に進めなくなってしまう。

 実は、これは私の世代の、つまりは、私たち、ジジイどもの話。しかし同じことが、今度は、子
どもついても、言える。

 自分の子どもを見るときは、まず、あるがままの自分の子どもを見る。知る。認める。納得す
る。

 親が、ちょうど過去の亡霊にしばられた定年退職者のように、「まだ、何とかなる」「そんなは
ずはない」「うちの子にかぎって」などとがんばれば、がんばるほど、親は、自分の子どもの姿
を見失う。

 親も苦しむが、子どもも、それ以上に苦しむ。が、それだけではない。子ども自身が、自分の
進むべき道を、見失ってしまう。

 子どもというのは、不思議なもの。親が、「まだ、何とかなる」「そんなはずはない」「うちの子
にかぎって」と思っている間は、伸びない。が、その親が、「まあ、うちの子は、こんなものよ」
「親が親だから、しかたないでしょう」と割り切ったとたん、伸び始める。表情も明るくなる。

 さて、あのときの2人の若い社員も、今ごろは、退職しているはず。日本のどこかで暮らして
いるはず。しかしうまく、過去の亡霊を断ち切ることができただろうか。私の印象としては、そん
な世界で、何十年も仕事をしていれば、そういう亡霊を断ち切ること自体、不可能ではないかと
思う。

 だから今ごろは、こんな会話をしているにちがいない。

 「あのAもBも、ぼくが、育ててやったようなものだよ」と。

【追記】

 よいことであっても、悪いことであっても、過去の亡霊を引きずっていたのでは、前に進めな
い。亡霊は、足かせのようにあなたの足にからんで、あなたが前に進むのを、妨害する。

 たとえば子どもでも、小学校の入試に失敗したことを、その(足かせ)にしてしまう子どもがい
る。「ここ一番!」というときになると、決まって、「どうせ、ぼくは、S小学校に入れなかったもん
ね」と。そのまま、戦意を喪失してしまう。

 「もう、そんなこと、忘れろ!」と私は言う。しかしそういう亡霊は、いつまでも、その子どもにと
りつく。とりついて、その子どもを苦しめる。

 似たようなケースだが、一度、離婚した男性(40歳くらい)がいた。その男性も、すっかり自信
をなくしてしまっていた。

 「どうせ、ぼくは、だめな人間だ」「再婚しても、またすぐ女房に、逃げられる」と。

 過去の亡霊というのは、そういうもの。

 もちろん、前向きに伸びている間は、それは、それでよい。しかしそういうときでも、同時に、
私たちは、別の心の中で、その亡霊をつくっていることを忘れてはならない。

 よく学歴をカサに着ていばっている人ほど、(あるいは学歴コンプレックスをもっている人ほ
ど)、自分の子どもの勉強にきびしいという。

 子どもが、それなりの成績を出していれば、その人の心は落ちついている。しかしそうでない
とき、とたんに、亡霊が顔を出して、その人を苦しめる。その子どもを苦しめる。

 ところで、私は学生時代、生活費のほとんどを、家庭教師で稼いでいた。

 その家庭教師をしているときのこと。私はいつも、自分の能力を基準にしてものを考えていた
から、高校時代に自分ができた問題を、その子どもができなかったりすると、すぐ、こう言って
しまった。

 「君は、こんな問題もできないのか!」「こんな問題ができなくて、君は、どうするのだ!」と。

 今から思うと、ひどい家庭教師だったと思う。つまり私自身が、そのとき、高校時代、中学時
代の亡霊を引きずっていたことになる。

 亡霊……。それは何も、オカルトの世界の話ではない。亡霊は、実は、あなたの脳ミソの中
にいる。そしていつも、あなたの進むべき道の前に現われて、あなたの進むべき道を、見誤ら
せる。

 その「亡霊」論については、また別の機会に、ゆっくりと考えてみたい。
(はやし浩司 亡霊 亡霊論 過去の亡霊 あるがままの自分)


++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

●これは本当の話。

 昔、ある町に、一人の産婦人科医がいた。その産婦人科医は、男女の産み分けができると
いうことで、その地方では、結構、有名な医師だった。

 私は、その医師のゴーストライターをしていた人物から、直接、こんな話を聞いたことがある。
そのライターは、そのときまでに、その医師のために何冊か、本を書いていた。そんなある日、
その産婦人科医が、そのライターに、こう話したという。

 精子には二種類ある。男になるY遺伝子をもったY精子と、女になるX遺伝子をもったX精子
である。これらの精子は、女性の膣内のPH(ペーハー)濃度(酸性・アルカリ度)によって、それ
ぞれ、影響の受け方がちがう。そこで膣内のPH度を、調整することによって、男女の産み分け
が可能、と。

 今から思うと、とんでもない理論だが、当時は、それなりに説得力があった。で、そのライター
が、それについての本を書いているとき、その医師が、こんな話もしてくれたという。そのライタ
ーが、「産み分けは、何%の確率で、成功するのですか?」と聞いたときのことである。

 その医師は、「本当は、100%だよ。しかし一応、相談してくる女性には、90%と話すことに
している」と。

 そのライターは、その数字に驚いた。「では、どうして、100%と言わないのですか?」と。

 するとその産婦人科医は、笑いながら、こう話したという。かなり酒を飲んでいて、思わず、口
がすべってしまったのだろう。

 「君、男児がほしいと言ってくる女性のカルテには、『女児、希望』と書く。女児がほしいと言っ
てくる女性のカルテには、『男児、希望』と書く。

 そのとき、私は、こう言うんだよ。『私の産み分け方は、完ぺきではない。今まで、90%前後
は、成功している。が、10〜20%の確率で、はずれることがある。それを、あらかじめ、承知
しておいてほしい』と。

 で、もしその女性が、女児を希望し、希望通りの女児が産まれたら、『成功しました。よかった
ですね』と話す。しかし反対に男児が産まれたら、カルテを見せながら、『おかしいな。あなたは
男児希望と、私に話したはずだが……』と言う。

 しかし生まれてしまえば、子どもは、子ども。だれも文句を言ってくる女性はいないよ。最初
に、私の産み分け方は、完ぺきではない。10〜20%の確率ではずれることもあると、断って
いるしね」と。

 当時は、医師といっても、まだそういうことが、平気で(?)できるような時代だったらしい。

 で、その産み分け法について、その医師は、指導料の名目で、通常の出産費用のほかに、
プラス20万円ほどの料金を、現金で徴収していたという。もし産み分け法で、希望通りの子ど
もが生まれなかったばあいは、その金額は、返金すると言っていた。

 一見、良心的に見える方法だが、この方法は、詐欺(さぎ)そのものといってよい。男児か女
児かということになれば、何もしなくても、50%の確率で、希望通りの子どもが生まれるはず。
つまり50%の確率で、その20万円を、その医師は自分のものにすることができる。

 それに、この産み分け法で、はずれた女性に、20万円を返したとしても、その医師にとって
は、痛くもかゆくもない。

 (そんな悪徳医師だったから、その町の医師会で、ある日、その医師の除名処分の緊急動
議が出されたこともあるという。その医師が、たまたまヨーロッパかどこかに旅行している最中
のできごとだった。この緊急動議は、かろうじて否決されたそうだが、当然、除名されるべき医
師だったと、そのライターは、ずっとあとになって、そう言っていた。)


++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

【BW教室から……】

●男児と女児、どちらが多くなるか?

 今、男児か、女児かということになれば、女児を希望する女性がふえているという。もし男女
の産み分け法が完ぺきにできるようになったら、男性より、女性のほうが、多くなってしまう。

 で、そこで問題。もし、日本中の女性が、女児を望み、女児が生まれるまで、子どもを産んだ
としたら、男児と女児のどちらの方が、多くなるだろうか。

 たとえば、第一子で、女児が生まれたら、そこでストップ。が、第一子で、男児が産まれたら、
もう一人子どもを産む。そのとき、女児が生まれたら、そこでストップ。が、そのときまた男児が
生まれたら、もう一人、子どもを産む……。最後に女児が生まれるまで、出産を繰りかえす。

(1)男児のほうが多くなる。
(2)女児のほうが多くなる。
(3)男児、女児ともに、数は、同じ。

 この問題を、BW(私の教室)の生徒たちに、出してみた。小学4〜6年生といっても、全員(6
人)、飛び級で、中学1〜3年生レベルの勉強をしている。

 一度、あなたの子どもにも、この問題を出してみるとよい。ヒントとして、下の表を見せてもよ
い。(ただし、これはダマし用。)

(1)子どもが1人のとき……女(子どもは、1人で、ストップ)
(2)子どもが2人のとき……男 女(子どもは、2人で、ストップ)
(3)子どもが3人のとき……男 男 女(子どもは、3人で、ストップ)
(4)子どもが4人のとき……男 男 男 女(子どもは、4人で、ストップ)
(5)子どもが5人のとき……男 男 男 男 女(子どもは、5人で、ストップ)

 ここまでの合計で、男児は、10人。女児は、5人となる。

 つまり正解は、(1)の男児が多くなるということになる……と言いたいが、実際には、この答
は、まちがってる。だれしも、50%の確率で、男児を産み、50%の確率で、女児を産む。その
ため、

 (1)の段階で、女児を産む確率は、50%。
 (2)の段階で、男児→女児と産む確率は、25%。
 (3)の段階で、男児→男児→女児と産む確率は、12・5%と、確率は、半減していく。

 たとえば100人の女性について、考えてみよう。

 (1)100人の女性が子どもを産んだとする。すると最初の段階で、男児が50人。女児が50
人となる。

 つぎの(2)の段階では、男児を産んだ50人の女性だけが、2番目の子どもをつくることにな
る。生まれてくる子どもは、男児が25人。女児が25人となる。

 さらに(3)の段階では、男児を産んだ25人の女性だけが、3番目の子どもをつくることにな
る。生まれてくる子どもは、男児が12・5人、女児が、12・5人となる。

 ずっと、これを繰りかえしていくが、(3)までの段階で、男児の合計は、87・5人。女児の合計
も、87・5人。つまり、同数なのである。

 一見すると、男児のほうが多くなるように見えるのは、「それぞれの段階で、男児、女児が生
まれる確率が、50%」ということを無視しているからである。それを無視するから、男児のほう
が、多くなるように見える。 

 さらに、数学的な錯覚がつづく。

●男児ばかりを4人もつ確率は、4分の1?

 同数であることは、組み合わせを見てもわかる。子どもの数ごとの、男児、女児の組み合わ
せは、つぎのようになる。

(1)子どもが1人のとき……男 か 女 
(2)子どもが2人のとき……男男 男女 女女
(3)子どもが3人のとき……男男男 男男女 男女女 女女女 
(4)子どもが4人のとき……男男男男 男男男女 男男女女 男女女女 女女女女
(5)5人以上は、省略

(1)〜(4)までの合計でみると、男児は、20人。女児は、20人。

 つまり、同数である。正解は、やはり、(3)男児、女児ともに、数は、同じ、ということになる。

 しかしここでまた、おかしな問題にぶつかる。というより、ここまで説明したら、小5のK君が、
こう言った。

 「先生、4人の子どもをもつとき、男児ばかりになる確率は、4分の1?」と。

 もう一度、表を見てほしい。4人の子どもをもつとき、男男男男となるのは、一見すると、4分
の1の確率で、そうなるように見える。

 しかし実際には、男児ばかりを4人産む確率は、16分の1である。(2分の1の4乗)。しかし
この表をながめていると、4人の子どもがいる家庭では、4分の1の両親が、男男男男をもつこ
とになるように見える(上記(4)を参照)。となると、4人の男児をもつ確率は、4分の1というこ
とになる。どうしてだろう。

 どちらが正しいのだろうか。

 私が迷ったフリをしてみせると、みな、「ワォー、頭が混乱してきた!」と言い出した。

 つまり、その女性が、個人として、男児をつづけて4人産む確率は、16分の1のはずだが、
この表を見ると、4分の1になるように見える。

 「しかし、先生、子どもが4人いる家庭では、4軒に1軒が、男ばかりになるということ? で
も、そんなこと、ありえないよオ!」と。つまり子どもが4人いる家庭では、その4分の1の家庭
では、男児ばかりということになる、と。……そう、そんなことは、ありえない。

つまり、その子どもは、確率と組み合わせ※を、混同していたようである。確率と、組み合わせ
の数※は、ちがう。

 「組み合わせは、4通りだが、しかし確率となると、そこに生まれてくる順序の問題が入ってく
るから、それを計算に入れなければいけないよ。

 たとえば(男男女)の3人の兄弟のばあいでも、生まれてくる順序を考えに入れると、(男男
女)(男女男)(女男男)と、3通りもあるからね」と。

 ここまで話したとき、ついでにこんなパラドックス問題を思い出した。生徒たちには、話さなか
ったが、書きとめておく。


●パラドックス

 ある日、あなたの夫が、愛人を家に連れてきた。そしていきなり、あなたにこう言った。

 「これから、私がすることを、おまえが言い当てたら、オレは、この女(愛人)と、今すぐ、この
場で、きっぱりと別れてやる。もしハズれたら、オレは、この愛人とこの家を出て行く」と。

 するとあなたは、しばらく考えてこう答えた。

 「あなたは、これからその女(愛人)と、この家を出て行きます」と。

 それを聞いて、あなたの夫は、身動きがとれなくなってしまった。もし夫が、愛人と家を出て行
くとすると、あなたの言ったことは、夫の行動を言い当てたことになり、夫は、愛人と別れねば
ならない。

 しかし夫が、「お前の言ったことは、ハズれた」と言えば、夫は、「愛人と家を出て行かない」と
いうことになる。つまり、夫は、大ジレンマの中に、陥(おちい)ることになる。あなたの夫は、ど
ちらの行動も、とれなくなってしまう。

 そこで愛人は、立ち往生している夫を見ながら、「どうするのよ?」と迫った。「私と出て行く
の、それとも、ここに残るの?」と。

 が、夫は、身動きが取れない。それを見て、愛人のほうが、先に業(ごう)を煮やして、先に家
から出て行ってしまった。夫がとほうにくれていると、それを見て、妻も、家から出て行ってしま
った。

 最後に、2人の女性に見捨てられた夫だけが、家に残された。

+++++++++++++++

 くだらない話だが、頭の体操と思って、許してほしい。

++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

注※(組み合わせ)

男→男→男→男と、4人、男児をつづけて産む確率は、16分の1ということ。

(1)男児ばかり、つづけて産む産み方は、男→男→男→男の1通り。

ほかにも、たとえば(2)女児1人、男児3人産むばあいは、割合としては、女児1人、男児3人
ということになるが、産む順序まで考えると、

女→男→男→男
男→女→男→男
男→男→女→男
男→男→男→女の4通りがある。

こうして考えていくと、ほかに、4人の子どもを産むばあい、

(3)男児2人、女児2人のときは、

男→男→女→女
男→女→男→女
男→女→女→男
女→男→男→女
女→男→女→男
女→女→男→男の6通りがある。

(4)男児1人、女児3人のときは、

女→女→女→男
女→女→男→女
女→男→女→女
男→女→女→女の4通りがある。

(5)女児4人のばあいは、

女→女→女→女の1通り。

以上、4人の子どもをもつとき、その順序まで考えると、子どもの産まれ方は、(1)〜(4)の、
計16通りあることになる。つまり、男児ばかり、4人もつ家庭は、やはり、4人の子どもがいる
家庭だけを見ても、16家族のうちの1つにすぎないということになる。

 久しぶりに、分野のちがうことを考えて、頭の中が、スッキリした。そんな感じだった。

【補記】

 ところで、最近の入試問題は変わってきました。ご存知ですか?

 以前のように、学校の勉強だけしっかりしていれば、できる……というような問題は、少なくな
りました。(年を追うごとに、どんどんと減っていますよ。)

 たとえばA私立中学校(東京)の入試問題は、こうです。

【問1】縦に3等分された旗がある。6色の色を使って、この旗を塗り分ける方法は、何通りある
か。ただし(1)隣どうし、同じ色を使ってはいけない。(2)旗を裏返したとき、同じに見える旗
は、1つの旗とする。

【問2】ABCAB x 9 = DDDDDD になった。A、B、C、Dは、それぞれ、いくつか。

 もう、おわかりですね。

 これからは、文字が書ける、計算ができるというような、(できる子)が、重要視されるのでは
なく、(考える子)が、重要視されるようになるということ。しかしこんなことは、50年前からの常
識。その当時から、「詰め込み教育はおかしい」と、すでに批判されていました。

その常識に、あえて背を向けつづけてきたのが、日本の文部省。が、それではいけないと、み
なが、気がつき始めた。これでやっと、日本も、一人前! 今までの教育や、入試問題のほう
が、おかしかったのです。

 さあ、あなたも、子育てでは、(自ら考える子)(考えることが好きな子)をめざして、がんばりま
しょう! 自信をもって!

 以上、支離滅裂な話で、すみませんでした! 何かの参考になれば、うれしいです。

【補記2】

 ハハハ、ついでにもう一言。

 あなたの子どもを、考える子どもにするには、まず、親のあなたが、考える姿勢を子どもに見
せなければならないということ。これは重要なことです。あなた自身が、考えることを習慣としま
す。そういう雰囲気が、いつも子どもの周辺になければなりません。

 決してむずかしいことではありません。

 たとえば子どもが何かをあなたに問いかけてきたようなとき、「そうねえ……」と、ふといっしょ
に考えてあげる。本で、調べてあげる。それでよいのです。そういう習慣が、あなたの子ども
を、(考える子)にします。

 
++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

●人生の選択

 死の直前まで、今の仕事をつづける。そして死がやってきたら、いさぎよく、死ぬ。それも一つ
の選択。

 もう一つは、健康なうちに、仕事をやめ、そのあとは、好き勝手なことをして暮らす。それも一
つの選択。

 ワイフは、ときどき、こう言う。「あなたが60歳になったら、仕事をゼーンブ、やめて、外国へ
行かない?」と。

 ワイフが「外国へ行く」というのは、「しばらく定住する」という意味である。そのアイディアその
ものは、私がときどき、口にしていることである。残りの人生を、あと20年とするなら、その20
年を、どうすごすか。……すごすべきか。

 20年といっても、ずっと、健康なままということは、ありえない。よくて、せいぜい、10年。残り
の10年は、寝たきりということも、ありえる。

 で、私の夢は、オーストラリアに移住することだった。しかし実家の生活費を補うという責務
(?)が、私にはあった。そのため、それが足かせとなって、今の仕事に、結局は、36年もしば
られてしまった。

 その今の仕事にしても、本当に望んだ仕事というよりは、……もっとはっきり言えば、本当に
したかった仕事というよりは、ただ何となく惰性に流されてしてきた仕事。今から思うと、そんな
感じがする。仕事といっても、収入を得て、生計を立てる。それが目的だった。そんな感じがす
る。

 が、それを死ぬまでつづけてよいものなのか。つづけるべきものなのか。

 ワイフは、こう言う。「あと5年もすると、そういう元気もなくなるから、今のうちよ」と。「子育て
から解放されときこそ、私たちのチャンスよ」とも。

 いろいろ考える。

 私の姉の義理の叔父は、長い間、名古屋市内で、レコード店を開いていた。が、10数年前、
すべての権利を売りはらい、あの屋久島に移り住んだ。そのあと、屋久島は、世界遺産に登録
された。一度、「住んでいる土地の値段が、買ったときの10倍以上になった」と、そんな話を、
姉を通じて、聞かされたことがある。

最近、その叔父はなくなったということだが、そういう人も、身近にいる。きっと、すばらしい人生
だったに、ちがいない。

 その人にしてみれば、死ぬまで、名古屋市内でレコード(CD)店をしていてもよかったのかも
しれない。大半の人は、そういう形で、自分の人生を終える。

 しかし、それでよいのか。それがあるべき、私やあなたの人生なのか。

 いろいろ考える。

【参考】

 2004年度の日本人の平均寿命は、
 男性……78・64歳
 女性……85・69歳

 前年度にくらべ、男性は、0・28歳、女性は、0・26歳、のびた。

 日本人女性の平均寿命は、20年連続の、世界一を更新しつづけている。(男性は、アイスラ
ンドの78・8歳についで、世界第二位。)

 死因の第一は、(1)がん、(2)心疾患、(3)脳血管疾患、(4)肺炎だ、そうだ。
 (日本人の平均寿命……厚生労働省、05年7月22日公表)


++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

●見えるものを、信じてよいのか?

+++++++++++++++

見えるものを、信ずるな。
見えないものを、信じろ。
今の、この「ワク」から、
自分を解放するために!

+++++++++++++++ 

 いきなりこんな話をしても、多分、あなたは信じないだろう。私だって、信じなかった。ワイフだ
って、信じなかった。しかし事実は、事実だ。

 ヨ〜ク、聞いてほしい。

 あなたの姿をカガミに映してみる。そのとき、カガミに映った(あなた)は、左右が反対なは
ず。(あなたが右手にリンゴを持っていると、カガミの中の自分は、左手に持っているように見
える。しかし、本当は、左右を、反対に映しているのではなく、前後を反対に映しているだけな
のだが、目の錯覚によって、ともかくも、左右が、反対に見える。)

 こんなことは当たり前のこと! だれも、それを疑わない。カガミというのは、そういうもの。あ
なたの(左右)を、反対に、映す。

 しかし、では、なぜ、カガミは、同時に、あなたの(上下)を、反対、つまり、逆さまに映さない
のか。あなたは、それについて、考えたことがあるだろうか。

 いや、上下を反対に映す方法がないわけではない。大きなカガミを、天井か、床の上に置い
てみればよい。そうすれば、あなたの姿は、上下は反対になる。(このばあいも、本当は、目の
錯覚で、そう見えるだけ。)

 そこで昔、ある学者が、こんな実験をした。この世界では、よく知られた実験である。

 プリズムを利用したメガネをつくり、それをしばらくかけたままにしておく。プリズムを利用した
メガネをかけると、その瞬間、すべてが、逆さまに見える。

 最初、そのメガネをかけたときには、すべてが逆さまに見えるため、世界の上下が逆転した
ように見える。空が下で、大地が上に見える。

 しかしそんなメガネでも、半日、長い人でも、数日もかけていると、今度は、目のほうがそれ
に慣れてしまい、メガネをかける前と同じように生活ができるようになる。ちゃんと、空は上
(?)に見えるし、大地は下(?)に見える。

 そしてそうなった状態で、つまり、目が、上下逆さまの世界に慣れてしまった状態で、いきなり
そのメガネをはずすと、今度は、そのとき、(上下)が、反対、つまり、すべてのものが、逆さま
に見える。

 しかし理屈から考えると、こちらのほうが、本来の見え方ということになる。

 つまり、私たちが今、見ている世界は、すでにすべてが、左右が反対になった上、逆さまにな
っているということ。目の構造からして、そうなっている。あなたも、子どものころ、ピンホール・
カメラのようなものを作って、遊んだことがあるだろう。小さな穴を通して、その像を箱のうしろ
の薄い紙に映してみると、像がさかさまになって見える。

 目の網膜でも、同じことが起きている。目の網膜に映った外の世界は、左右反対、上下反対
になっている。だから本来なら、目に見える世界は、左右反対、上下反対でなければならな
い。

 が、一応、「正常」(?)に見える。が、しかしそれは、そう見えるだけ。脳ミソのほうが、勝手
に、そう見えるように、人間の脳ミソをだましている。

 実は、ここに、(見えるもの)の、不思議さが隠されている。実は、見えているものすべては、
本当は、上下、左右、反対に見えてこそ、それが正常な像ということになる。

 が、私たちの目には、そう見えない。上下は、ちゃんと上下に見える。が、しかし、それはそう
見えるだけ。

 だから、私たちは、見えるものを、そのまま、信じてはいけない。あるいは、見えるものを、も
う一度、疑ってみるとよい。本当に、この世界は、この世界なのか、と。

 そこで話を、もう一歩、進める。

 イルカは、超音波のようなものを頭の先から発信して、その反射波を受けて、周囲の様子を
知ることができるという。いわば、レーダーに似たような装置を、もっている。だから真っ暗な海
の底でも、自由に動きまわることができる。

 で、そのときは、イルカたちが受け取る(像)は、そのままのハズ。左右も、上下も反転してい
ないはず。右にあるものは、右から反射波がくる。上にあるものは、上から反射波がくるはず。

 イルカは、そういう反射波を、頭の中で合成しながら、像を見る。

 そこでもし、人間もそんなことができたとしたら、どうなるだろうか。「光」ではなく、「超音波」
で、この世界を見ることができるとしたら、どうなるだろうか。

 ここから先は、あくまでも、私の想像だが、人間が使うレーダーのように、そこに映る像には、
まず、色がないということ。(当然である。色まで識別できるレーダーは、今のところ、まだない
はず。反射率に応じて、あとで着色することは、できる。)

 (形)はわかるが、しかし、そのものが、硬いか、やわらかいかによっても、像はちがうはず。
しかも、反射波といっても、イルカが、何十頭もいれば、それぞれが発する超音波が、雑音の
ように、頭の中に勝手に像を結ぶかもしれない。

 想像するだけでも、楽しい世界だが、しかしイルカはイルカで、何一つ、不自由なく、それで生
活しているはず。イルカの脳ミソが、それに慣れてしまっている。

 が、ここでまた、おもしろい問題にぶつかる。

 人間の男女は、光の世界の中で生きている。たとえば男性が女性を好きになるときも、その
女性の容姿や顔、そういったもので、相手を選ぶことが多い。

 しかしもし、人間が、光ではなく、イルカが発するような超音波で、相手を見たとしたら、どうだ
ろうか。実際、ある種のイルカは、泥水のような川の中で生活していて、目が退化してしまった
のもいる。

 そういうイルカが、超音波で、相手を選ぶとしたら、どういうところで、相手を好きになったり、
嫌いになったりするだろうか。

 「あなたの輪郭(りんかく)、ステキ!」
 「君の発する超音波は、ぼくの心を溶かすよ……」とか?

 ……何とも、わけのわからない話になってしまったが、私たちの身のまわりには、こうした、一
度は疑ってみるべき世界が、山のようにある。あまりにも、それを当たり前と思ってしまうあま
り、それを疑うことすら、しない。そういう世界が、山のようにある。

 しかしひょっとしたら、ものごとの真実は、そういう世界の向こうに隠されているかもしれない。
科学の世界だけではない。心理学にせよ、哲学にせよ、ありとあらゆるものについて、だ。

そういう思いを心の中に描きながら、このエッセーを書いてみた。


++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

●逆説(パラドックス)

++++++++++++++++

【問】この中に、まちがっているものが、2つある。
   どれとどれか?

 (1)3+2=5
 (2)5−2=2
 (3)4+1=5

+++++++++++++++++

 あなたはこの問題を、解けるだろうか。ヨ〜ク、考えてみてほしい。が、あなたはやがて、こう
答えるだろう。

 「まちがっているのは、(2)の5−2=2の、1つだけ。問題がまちがっている」と。

 そう、その問題が、まちがっている!

 だから正解は、「この中に、まちがっているものが、2つある」という問題そのものと、「5−2
=2」の、2つということになる。

 こういうのを、逆説という。「逆説」というのは、「外見上、同時に真であり、かつ偽である命題」
(「広辞苑」)をいう。一見すると、正しいが、よく考えてみると、おかしい。まちがっている。

 たとえば私は、よくワイフとこんな口げんかをする。

私「逆らうな!」
ワ「何も、逆らってないでしょ!」と。

 ワイフは、「私は逆らってない」と言いながら、私に逆らっている。ワイフの言っていることは、
一見、正当性がある。しかしよく考えてみると、やはり、おかしい。もちろん、その反対のことも
ある。

 よく逆説の例としてあげられるのに、『急がば、回れ』というのがある。「急いでいるなら、回り
道をして、確実な方法で、前に進んだほうがよい」という意味である。「広辞苑」には、こうある。

 「危険な近道よりも、安全な本道を回ったほうが、結局は目的地に早く着くの意」と。

 これなどは、一見、まちがっているように見えるが、よくよく考えてみると、正しいということに
なる。

 さて、冒頭の問題だが、問題そのものがまちがっているということになると、正解は、ないとい
うことになる。

 ……というふうに、考えるのは、やはり、(頭の遊び)でしかない。オーソドックスに考えれば、
「この問題がまちがっている」「【問】この中に、まちがっているものが、1つある。どれかと、書く
べきである」ということになる。

 しかし子どもたちは、こういう(遊び)が大好き。ウソだと思うなら、あなたの子どもに、この問
題を出してみるとよい。あなたの子どもは、目を輝かせて、あれこれ反論してくるはず。


++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

●不安がデマを呼ぶ

 毎年、受験期が近づくと、いろいろなデマが飛び交うようになる。興味深いのは(失礼!)、毎
年、同じデマだということ。親にしてみれば、その年一回だけだから、それがわからない。しか
し毎年みていると、それがわかる。もっと言えば、毎年親や子どもは移り変わるが、親や子ども
の質は変わらないということ。

 S小学校の入試についても、今までこんなデマがあった。

○今年は受験者数が多い。男子(もしくは女子)が、とくに多いので、不利。
○学校の内部資料(合格基準)が漏れている。x00万円出せば、手に入る。
○幼稚園から内申書が行くようになった。幼稚園の先生には、よくしておいたほうがよい。
○不合格者も、x00万円寄付すれば、合格にしてもらえる。
○親の職業が重要視される。母子家庭の子どもは合格できない。
○S小学校の現役(もしくは退職)教師が、個人レッスンをしている。受けたほうが有利。

 さらに具体的になると、「ハサミやホッチキスが使えない子どもは合格できない」「あいさつが
きちんとできなければ、不利」「野菜の名前をすべて知っていないと、合格できない」などなど。
これらすべてが、デマ(ウソ)だから、すさまじい。

 こうしたデマの背景には、親の不安がある。その不安が、正常な判断力をなくし、ふつうなら
(?)と思うような話まで、信じてしまう。そしてそれが人から人へと伝わるうちに、勝手にどんど
んとふくらんでいってしまう。

 「受験」という制度は避けては通れないものかもしれないが、しかし合格したからといって、そ
の人が優秀だとか、反対に不合格だったから、その人が劣っているということにはならない。

だいたいにおいて、基準そのものが、いいかげんである。どこがどう「いいかげんか」ということ
になると、話が長くなるが、ともかくも、いいかげんである。そういうものを基準にして、人間の
価値まで決められたら、たまらない。

 もっとも親が不安になるのは、親の勝手。デマを飛ばしあうのも、親の勝手。しかしその不安
を子どもにぶつけてはいけない。あるいはそのデマで、子育てを見失ってはいけない。私はと
きどき親たちにこう言う。

「あるがままの子どもを育てましょう。そういう子どもがダメだというのなら、こちらからそんな学
校は、蹴飛ばしてやりましょう!」と。親が子どもの心を守らなかったら、だれが守る? そんな
心構えも、子どもの受験には必要だということ。

【補足】

不安が心を襲うようになると、人は、その不安にこだわるようになる。これを「固着」という。

一度、そういう状態になると、それ以外の脳の部分が、思考を停止するようになる。一つの問
題が起きたとき、本来なら、四方八方からその問題を考える。しかしそれができなくなる。

不安感が強ければ強いほど、そんなわけで、その人は、理性的にものを判断したり、合理的に
ものを考えることができなくなってしまう。通常なら、「おかしい」と思うようなことでも、おかしいと
思わなくなってしまう。

この方法は、カルト教団とよばれる宗教団体が、よく使う手法である。まず、相手を不安にさせ
る。そしてそのあと、ふつうの状態なら、だれも信じないようなバカげたことを、その相手に信じ
こませてしまう。

足の裏でも、どこでもよいが、それを見て、「あなたは2年後に、がんで死ぬ」と言って、まず、
相手を、極度の不安状態にする。そのあと、天声だとか何とか言って、その相手に、巨額の献
金をさせる。最近、そういうインチキをしていたカルト教団の主宰者が、裁判で有罪判決を受け
た。

実は、子どもの受験の世界にも、似たようなことがある。まず、模擬テストか何かをして、「この
ままでは、おたくの子どもは落ちこぼれてしまう」と言って、親を不安にさせる。そしてそのあと
……。

このつづきは、話が長くなるので、またの機会に!


●夫婦円満は、教育の要

 子どもは絶対的な安心感のある家庭で、心をはぐくむことができる。「絶対的」というのは、疑
いを抱かないということ。そのためには、子どもの前では、夫婦は円満に。よく誤解されるが、
夫婦が子どもの前でベタベタする姿を見せるのは、悪いことではない。悪いことでないことは、
外国へ行ってみればわかる。(ただし、子どもが嫉妬するケースもあるので、注意する!)

欧米の夫婦は、(もちろん仲のよい夫婦だが)、日常的にベタベタしている。日本人の私たちが
見ていても、恥ずかしいほどだが、だからといって、子どもがどうこうということはない。子どもた
ちは子どもたちで、ごく日常的な光景として、それを受け入れてしまっている。

 一般論として、心豊かな家庭で、親の愛情をたっぷりと受けて育った子どもは、どっしりとした
落ち着きがある。態度も大きく、ばあいによっては、ふてぶてしい。そうでない子どもは、どこか
セカセカいて、愛想はよいが、心を許さない。許さない分だけ、心をゆがめやすい。ひねくれ
る、いじける、ひがむ、つっぱるなど。が、夫婦が円満であることには、もっと大切な意味があ
る。

 子どもは親たちが、助けあい、いたわりあい、慰めあい、励ましあい、教えあう姿を見て、自
分の中に、あるべき家庭像や夫婦像をつくる。つまりそういう家庭で育った子どもは、いつか自
分が親になったとき、自然な形で、よい家庭や夫婦関係を築くことができる。そうでなければそ
うでない。

これも一般論だが、不幸にして不幸な家庭に育った人ほど、夫婦関係や親子関係が、ぎくしゃ
くしやすい。「親像」「家庭像」が、脳にインプットされていないとみる。このタイプの人は、「いい
家庭をつくろう」「いい親にならなければ」という気負いばかりが先行する。いわゆる「気負い先
行型」の子育てというのは、こういう子育てをいうが、親が気負えば気負うほど、親も疲れる
が、子どもも疲れる。この疲れが、たがいの間に、ミゾを入れる。

 ……だからといって、不幸な家庭に育った人が、すべてよい家庭作りに失敗するというので
はない。人間は、学習によって、あるべき夫婦や、あるべき家庭の姿を学ぶことができる。友
人や知人の家庭を見たり、親類や映画の中の家庭を見たりして、それを自分のものにするこ
とができる。いろいろ回り道をすることはあるかもしれないが、幸福な家庭や、よい親子関係を
築いている人は、いくらでもいる。

 ともかくも、子どもの前では、夫婦は円満に。中には、「夫婦げんかは子どもに見せろ。意見
の対立を教えるにはよい機会だ」(C大元教授)と、とんでもないことを言う人もいる。夫婦で哲
学論争でもするならともかくも、ほとんどの夫婦げんかは、とるにたりない痴話げんか。そんな
ものは子どもに見せる必要はない。見せてはならない。

 
●子どもの自立

 アメリカには「要保護者遺棄罪」という、恐ろしい法律がある。子どもを家に残し、夫婦だけで
外出したりすると、その罪に問われる。アメリカに住む二男がそのことについて、「日本はいい
国だね」と言った。何でもアメリカでは、子どもだけで外へ遊びに行くということすら、考えられな
いというのだ。「そんなことをすれば、すぐ誘拐されてしまう」と。

 しかし日本では、そこまでうるさくない。そういう意味では安全な国だ。ここで書くことは、その
「安全」を前提にしてでのことだが、私は以前、『夫婦で外出』という格言を考えた。子どもがあ
る程度大きくなり、子どもたちだけで何となく生活ができるようになったら、できるだけこまめ
に、夫婦だけで外出するとよい。親にすれば、子離れの準備ということになるし、子どもに対し
ては、親離れをうながすということになる。

 一般的に、子どもは、小学三〜四年生ごろ、親離れを始める。それまで学校でのできごとを
話していた子どもも、急に話さなくなる。親と一緒に、入浴しなくなる。家族と一緒の外出をしぶ
るようになる。あるいは自分だけの部屋を求めるようになる。こうなれば親離れの時期は近い
とみる。ただそのとき、子どもの情緒は不安定になり、幼児期にもどったり、あるいは妙におと
なびてみせたりする。それを繰り返す。幼児にもどれば、幼児に、おとなびたりしてみせたら、
それなりにおとなに扱う。いきなりあるときからおとなあつかいをするとか、反対に幼稚ぽくなっ
たりすることを、叱ったりしてはいけない。

 コツは、成長することを喜ばせながら、そのつどおとなあつかいをする。「あんたも、おとなの
スカートがはけるようになったね」とか、「一度、ネクタイをしめてみるか」などと言ってみる。親
どうしが外出したあとも、きちんと家の管理ができていれば、それをほめる。「あんたももう、一
人前ね」と。こうした前向きな指導が、子どもを伸ばす。

 さらにそれができるようになったら、金銭的な自立、生活的な自立をうながす。ひとりで祖父
母の家まで旅をさせる。親どうして、子どもを交換するという方法もある。ただし無理をしないこ
と。無理をすると、夜中に迎えに行くということになりかねない。またこれは私の個人的な経験
だが、こんな方法も効果的である。

 私は思い立ったとき、息子たちを連れてよく、「目的なしの思いつき旅行」に連れていった。行
き先は、その先々で子どもたちと相談して決める。が、いつもうまくいくとは限らない。ある夜な
どは、泊まる宿をさがして、夜中の一時ごろまで、その小さな町をさまよい歩いた。しかしそうい
う旅をするごとに、子どもたちが精神的にたくましくなっていくのを、肌で実感することができた。
結構、お金のかかる旅になるが、子どもの自立をうながすという意味では効果がある。


++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司


最前線の子育て論byはやし浩司(816)

●男女の性差別(ジェンダー)

++++++++++++++++

男の子は、男の子らしく、女の子は
女の子らしくあるべき。

そんな時代錯誤的、逆行的な意見
が、またまた、台頭してきた。

男と女を差別することは、基本的
に、まちがっている。

もちろん生理的な違いというのは
ある。父親と母親との役割の違い
もある。

しかし「男」と「女」を区別する
必要は、まったくない。また、し
てはならない。

男女は、100%、同権であるべ
きである。どうして同権であって
はいけないのか?

++++++++++++++++

●仕事を失う女性たち

 女性は、子どもを産んで、みな、母親になる。が、母親になったとたん、女性は、それまでの
「顔」を失う。

 たとえば私の教室へ連れてくる母親たちを見てみよう。教室の横ですわっている母親を見れ
ば、ごくふつうの母親たちである。しかしそのうち、そのうちの何割かは、たいへんな経歴の持
ち主であることがわかる。

 国際線の元スチュワーデス。
 国体の元選手。
 元商品デザイナー。
 バイクの元女性テストライダー。
 女子短大の元講師、などなど。
 現時点において、そういう人たちが、「母親」をしている。

 話を聞いて、「ハア?」と、私のほうが、驚くほどである。そういう女性たちが、結婚し、子ども
をもうけることで、「仕事」から離れる。しかしそれから受ける、挫折感というか、中断感には、
相当なものがある。

 そう、それまでキャリアを生かして仕事をしていた女性が、結婚と同時に、その仕事をやめ、
家庭に入る。いくら納得した結婚であっても、だ。しかも職種の華々しさだけが、問題ではな
い。看護婦や幼稚園の教師をしていた人でも、その挫折感というか、中断感は、同じである。

 今、家庭に入り、それなりに幸福そうに見える女性でも、不完全燃焼のまま、悶々としている
女性は、多い。

 こうした女性も、ある意味で、役割混乱を起こしているのではないか。あるいはその心理状態
に近いのではないか。今、ふと、そう思った。

 私は、そういう母親たちに出会うたびに、「どうして?」と思ってしまう。「どうして、仕事をやめ
たのか?」ではなく、「どうして仕事をやめなければならないのか?」と。

●ジャンダー

肉体的な性差を「セックス」。社会的、文化的、伝統的な性差を「ジェンダー」という。もちろん男
女の間には、越えがたいセックスがある。それはそれとして、問題はジェンダー。

このジェンダーについては、それ自体、意味がなく、それから生まれる偏見と誤解をなくすの
が、今、世界の常識にもなっている。

 ただ生理学的に、男らしさ、女らしさを決めるのが、アンドロゲンというホルモンであること
は、よく知られている。

男性はこのアンドロゲンが多く分泌され、女性には少ない。さらに脳の構造そのものにも、ある
程度の性差があることも知られている。そのため男は、より男性的な遊びを求め、女はより女
性的な遊びを求めるということはある。(ここでどういう遊びが男性的で、どういう遊びが男性的
でないとは書けない。それ自体が、偏見を生む。)

 ただ子どものばあい、こうした性差が明確でなく、時期的に、男児が女児の遊びを求めたり、
女児が男児の遊びを求めたりすることは、よくある。

私も小学3年生くらいのとき、人形がほしくてたまらなかったことがある。そこで伯母に内緒で
作ってもらい、毎晩抱いて寝たことがある。だからといって、今、どうこうということはない。こうし
た現象は半年単位で、様子をみるのがよい。また同性愛者になるかならないかは、もっと本質
的な理由によるという。

 しかし現実には、男児の女児化は、著しい。世の中の人たちは、どういうところを見て、「男ら
しく……」「女らしく……」という言葉を使うのか、よくわからない。今では、幼稚園や小学校(低
学年児)でも、いじめられて泣くのは男の子。いじめて泣かすのは、女の子という図式が定着し
ている。

 腕白(わんぱく)で、昔風にたくましい男児となると、10人に1人とから2人しかいない。とくに
最近の男の子は、どこかナヨナヨしていて、ハキがない。

 「男の子らしく」ということになれば、皮肉なことに、最近の女児のほうが、よっぽど(男のらし
い)。

●なぜ女性は、家庭に入るのか?

いまだに女性、なかんずく「妻」を、「内助(=夫の不随物)」程度にしか考えていない男性が多
いのは、驚きでしかない。

いや、男性ばかりではない。女性自身でも、「それでいい」と考えている人が、2割近くもいる。

たとえば国立社会保障人口問題研究所の調査(2000)によると、「掃除、洗濯、炊事の家事
をまったくしない」と答えた夫は、いずれも50%以上。「夫も家事や育児を平等に負担すべき
だ」と答えた女性は、77%いる。が、その反面、「(男女の同権には)反対だ」と答えた女性も2
3%もいる!

 ある農村地域でこのジェンダーについて話したら、担当者(教育委員会課長)が、「そういう話
はまずいです。そうでなくても、どの家も、嫁の問題で頭をかかえているのだから」と。「夫が家
事をするというのも、現実的な話ではない」とも。この話に私は驚いた。

 それはともかくも、こんな現状に、世の女性たちが満足するはずがない。夫に不満をもつ妻も
ふえている。「第2回、全国家庭動向調査」(厚生省・98年)によると、「家事、育児で夫に満足
している」と答えた妻は、52%しかいない。

この数値は、前回93年のときよりも、約10ポイントも低くなっている(93年度は、61%)。
「(夫の家事や育児を)もともと期待していない」と答えた妻も、53%もいた。なお、アメリカでは
裁判闘争が多いのは事実だが、これは裁判制度の違いによるもの。(正解?)

 で、こうした(違い)は、外国の夫婦と比較してみると、すぐわかる。

 先月も、オーストラリア夫婦が、2組、我が家に、ホームステイをした。ちょうど1か月あまり滞
在していった。

 その夫婦。家事については、たがいに見事なほど、分担しているのがわかった。掃除や洗濯
はもちろんのこと、食後のあと片づけなどなど。日本の男性諸君のように、食後、デ〜ンと、テ
ーブルの前に座っている夫は、いない。

 食事が終わると、さっと立って、食器を洗い、それを拭いて、戸棚へしまう。しかも2人とも、夫
は、その地方では、著名なドクターたちである。

 そういう現実を見せつけられると、日本の男たちがもつ、基本的なおかしさというか、女性に
対する偏見を、強く感ずる。これは別のオーストラリア人男性の話だが、やはり我が家にホー
ムステイしたとき、洗濯をいつもしていたのは、夫のほうだった。

 で、私のワイフが見るに見かねて、それを手伝ったほどだが、その夫いわく、「オーストラリア
では、50%くらいの夫は、自分で洗濯をする」とのこと。「50%」という数字を聞いて、私は、心
のどこかで、ほっとしたのを覚えている。

 そうそう 私の家の近くに、小さな空き地があって、そこは近くの老人たちの、かっこうの集会
場になっている。風のないうららかな日には、どこからやってくるのかは知らないが、いつも七
〜八人の老人がいる。

 が、こうした老人を観察してみると、おもしろいことに気づく。その空き地の一角には、小さな
畑があるが、その畑の世話や、ゴミを集めたりしているのは、女性たちのみ。男性たちはいつ
も、イスに座って、何やら話し込んでいるだけ。

私はいつもその前を通って仕事に行くが、いまだかって、男性たちが何かの仕事をしている姿
をみかけたことがない。悪しき文化的性差(ジェンダー)が、こんなところにも生きている!

++++++++++++++++++

少しむずかしい話がつづきました
ので、以前、息子の一人に書いた
手紙を、そのままここに転載しま
す。

ジャンダーを考える、一つのヒン
トになれば、うれしいです。

++++++++++++++++++

●ジェンダーは、文化か?

 人間がつくりあげた文化というのは、こまかい(約束ごと)の集まりだよ。無数の(約束ごこと)
が、それぞれ複雑にからんで、文化をつくる。

 「有機的」といういい方は、どこかあいまいな言い方だが、しかし「生きている」という意味で、
文化は有機的にからんでいる。だから一面だけを見て、つまりそれが矛盾しているからといっ
て、それを否定してはいけない。

 トイレを例にあげて、考えてみよう。

 お前は、男女別のトイレしか知らないが、オーストラリアの列車では、おとな用と子ども用に分
かれている。足の長さが問題になるからね。

 それから日本では、公衆トイレのドアは、みな、閉まっている。しかしアメリカでは、使用してい
ないトイレは、開けておく慣わしになっている。

 少し前まで、イギリスでもオーストラリアでも、公衆トイレには、ドアはなかった。通路を歩くと、
みなが用を足している姿が、外から丸見えだった。

 この日本でも、トイレができたのは、江戸時代も、終わりになってからではないのかな。平安
時代には、天皇ですらも、廊下から庭先に向けて、小便をしていたというよ。女性たちは、部屋
の中に置かれた、(おまる)の中で、それをしていた。

 ぼくが子どものころでさえね、女性は、服(着物)を上にまくって、立ったままお尻を便器のほ
うに向けて、小便をしていたよ。そういう光景をよく見たし、何ら違和感もなかった。

 しかし無数の(約束ごと)が集合化してくると、そこに文化が生まれる。あるいはそれがときに
は、それが偏見になったり、誤解を生んだりする。セックスという言葉は、肉体的なちがいをさ
す言葉だが、ジェンダーというのは、そういった文化的な背景から生まれたちがいを意味する
言葉だよ。

 そういうジェンダー(文化的性差)も、生まれた。

 それが正しいとか、正しくないとかいう判断は、こういうケースのばあい、ほとんど、意味がな
い。男性がするネクタイにせよ、女性がはくスカートにせよ、「それはおかしい」と思うのは、そ
の人の勝手かもしれないが、否定してはいけない。

 もちろん個人的な立場で、それを批判するのは自由だけどね……。

 というのも、こうした文化というのは、ここにも書いたように、それぞれが、たがいに複雑に、
かつ有機的にからんでいる。そしてその結果として、今、ぼくたちがここに見る文化というもの
をつくりあげた。

 一つを否定すると、つまりは、別の多くの面で、さらに大きな問題が起きてくる。たとえば、「公
衆トイレの男女別はおかしい」と主張して、お前が、女性トイレに入ったとすると、どうなるか。
その結果は、お前にだって、想像できると思うよ。アメリカだったら、銃で射殺されるかもしれな
い……。

 とくにトイレの問題は、そこに「男」と「女」という問題がからんでくる。この問題は、人間の種族
保存本能とからんでくるだけに、やっかいな問題といってもよい。もしそこまで否定してしまう
と、結婚という制度そのものまで、おかしくなってしまう。

 子どもにせよ、「他人の子どもも、自分の子どもも、子どもは子ども。人類の共通の財産」な
どと考えられなくもないが、そこまで自分の魂を、昇華する(=もちあげる)ことができるようにな
るまでには、まだまだ時間がかかる。

 同じように、「男も女も、同じ。同じ、トイレを使えばいい」と考えられるようになるまでには、ま
だまだ時間もかかる。あらゆるジェンダーにまつわる問題が解決されてからのことだろうと、ぼ
くは、思う。

 しかしね、ぼくは最近、こうした不完全で、矛盾だらけの文化に、どこか愛着を感ずるようにな
ってきたよ。おもしろいというか、楽しいというか。

 たとえば映画『タイタニック』にしても、ジャックとローズがいたからこそ、おもしろい映画になっ
た。もしあの映画の中に、ジャックとローズがいなければ、あの映画は、ただの、本当にただ
の、船の沈没映画でしかなかった。ちがうだろうか。

 つまりね、そのジャックとローズが、「男」と「女」というわけ。そしてその先に、公衆トイレがあ
るというわけ。

 高校生が、アメリカでは、アルバイトで、車を洗う。水着を着ている。お前は、それをおかしい
と思う。ぼくも、同じような疑問をもつことは多い。たとえば下着のシャツでホテルの中を歩くこと
はできない。しかしそのシャツに色をつけ、ガラを描き、Tシャツとしたとたん、ホテルの中を歩く
ことができる。

 同じ、シャツなのにね。

 つまりこれが、ぼくがいう、(無数の約束ごと)の一つというわけ。

 もちろんだからといって、こうした(約束ごと)は、普遍的なものでもなければ、絶対的なもので
はない。時代とともに、変りえるものだし、どんどん変っても、少しもおかしくない。国によって
も、ちがう。お前が言うように、「用足し・プライベートという二つの機能を分けた空間」にしても
よい。

 お前が、建築家なら、そういう提案をして、世に問うてみればよい。あとの判断は、大衆に任
せるしかないけどね。

 しかしね、ぼくには、こんな苦い経験がある。

 あるときね、男子トイレの大便ボックスに入っていたときのことだよ。ぼくが、K大学で学生だ
ったときのことだよ。

 そのボックスは、隣の女子用トイレと共同になっていた。つまりその一つだけが、女子用トイ
レに食いこむ形で、そこにあった。

 そのボックスにかがんでいるとね、その前のボックスに、一人の女子学生が入ってきた。トイ
レの壁の下のほうに、数センチ程度のすきまがあった。

 ぼくは、音を出すのはまずいと感じて、そのまま静かにしていた。何となく、遠慮したのだと思
う。

 ところがだよ、その女子学生は、うしろのボックスにぼくがいるとも知らず、ブリブリブー、グシ
ャグシャと、大便をし始めた。

 その臭いことと言ったらなかった。猛烈な悪臭が、壁の下のすき間から、容赦なく、ぼくのボッ
クスのほうに流れこんできた。ものすごい悪臭だった!

 その女子学生は、それから用を足して、出て行った。ぼくは、そのとき、「あんな臭いのをする
のは、どんなヤツだ」と思って、急いで、自分の用を足し、外へ出てみた。

 ぼくは、その女子学生を見て、ア然としたね。

 急いで廊下に出てみると、その女子学生はすました表情で、廊下を向こうに歩いていくところ
だった。

 で、なぜ唖然としたかって……?ハハハ。実は、その女子学生は、ぼくが好意をもっていた、
文学部のMさんだったからだよ。英文科の学生でね。ぼくが、デートを申し込む、寸前の女性
だった。

 いいかな、ここが文化なんだよ。ぼくは、その日以来、そのMさんには、別の印象をもってし
まった。顔を見るたびに、あの悪臭を思い出し、どうしてもそれ以上のアクションを起こすことが
できなくなってしまった。

 やっぱりね、公衆トイレは、男女別々のほうがいいよ。お前は、同じでも構わないと言うけど、
ぼくは、そうは、思わない。わかるかな、この気持ち。

 しかし問題意識をもつことは、とても重要だよ。またお前のエッセーに、あれこれコメントをつ
けてみるよ。

 そうそう社長には、あいさつをしたほうがいいよ。下から見ると、雲の上の人に見えるかもし
れないが、上から見ると、そういうふうに見られるのが、いやなものだよ。そういう気持は、今の
お前にはわからないかもしれないけど……。

 「ハロー、いつもお世話になっています」くらいは、言えばいいのさ。

 ではね。こちらは、明日から、凧祭り。にぎやかになるよ。

 Have a nice day!

++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

●男女共同参画事業

話が、少し脱線してきたが、もう少し、深刻な問題もある。

 男と女を区別するのは、その人の勝手だし、「男は、仕事、女は家事」と考えるのも、その人
の勝手。

 しかし、これからの日本では、現実問題として、そんなことを言っていることはできなくなる。

 言うまでもなく、少子化による労働力の不足である。そういう深刻な問題がある一方で、家
事、子育てを押しつけられた女性たちの悲鳴も、これまた大きい。

日本労働機構の調査によれば、専業主婦、就業主婦(被雇用主婦)にかかわらず、約80〜8
5%の女性が、「育児にストレスや不安を感じている」という。その中でも、「ひんぱんにある」と
答えた人が、30%前後もいる。

 子育ては重労働である。一瞬たりとも気が抜けない。動きのはげしい子どもをもつ親にとって
は、なおさらである。ちょっとした油断が、大事故につながるということも、少なくない。

 この問題を解決するための最善の方法は、男女共同参画事業の拡充である。男女のカベを
破り、ジェンダー(性差別)を解消する。はっきり言えば、夫に、もっと育児を負担させる。その
意識をもってもらう。その一方で、女性たちにも、仕事をしてもらう。

 そこで政府は、「2020年には、指導的立場になる女性が、30%前後になることを目標とす
る」(細田官房長官の私的懇談会)という方針を打ちだした。夫にその分だけ、家事、育児を負
担してもらおうというわけである。

(女性の社会進出によって、女性の負担を減らそうというのではなく、その分、男性にも、家事
や育児に、もっと目を向けてもらおうという考え方による。)しかしこの方針には、もう一つ、重
要な意味が隠されている。

 女性の負担を減らすことによって、現在進行中の少子化に歯止めをかけようというわけであ
る。言うまでもなく、少子化の最大の原因は、(母親の不安と心配)。その不安と心配が解消さ
れないかぎり、少子化に、歯止めをかけることができない。

 みんなで進めよう、男女共同参画事業! 日本のために! ……と少し、力んだところで、も
う少し、先を考えてみよう。

●役割混乱

 子どもは、成長するとともに、自分らしさを、つくりあげていく。

 わかりやすい例としては、「男の子らしさ」「女の子らしさ」がある。

 服装、ものの考え方、言い方など。つまりこうして自分のまわりに、男の子としての役割、女
の子としての役割を形成していく。これを「役割形成」という。
 
 こうした「役割」を感じたら、その役割にそって、親は、子どもを伸ばしていく。これが子どもを
伸ばすコツということになる。

 子どもが「お花屋さんになりたい」と言ったら、すかさず、「あら、そうね。すてきな仕事ね」と。
ついで、「じゃあ、今度、お庭をお花でいっぱいにしようね」などと言ってやるのがよい。

 こうして子どもは、身のまわりに、「お花屋さんらしさ」をつくっていく。自然と、植物に関する本
がふえていったりする。

 しかしこの役割が、混乱することがある。

 私のばあいだが、私は、高校2年の終わりまで、ずっと、継続的に、大工になるのが夢だっ
た。それがやがて、工学部志望となり、建築学科志望となった。しかし高校3年になるとき、担
任に、強引に、文学部コースへと、変えられてしまった。当時は、そういう時代だった。

 ここで私は、たいへんな混乱状態になってしまった。工学部から、文学部への大転身であ
る!

 当時の、つまり高校3年生当時の写真を見ると、私は、どの顔も、暗く沈んでいる。心理状態
も最悪だった。もし神様がいて、「お前を、若いころにもどしてやる」と言っても、私は、あの高
校3年生だけは、断る。私にとっては、それくらい、いやな時代だった。

 この役割混乱について、ある講演会で、話をさせてもらった。それについて、そのあと、ある
一人の男性が、こう聞いた。「役割混乱って、どういう心理状態でしょうかね?」と。

 私は、とっさの思いつきで、こう答えた。

 「いやな男性と、いやいや結婚して、毎日、その男性と、肌をこすりあわせているような心理
状態でしょうね」と。

 そう答えたあと、たいへん的をえた説明だと、自分では、そう思った。

 もしあなたなら、そういう結婚をしたら、どう思うだろうか。それでも、そういう状態を克服して、
何とか相手とうまくやっていこうと思うだろうか。それとも……。

役割混乱というのは、そういう状態をいう。決して、軽く考えてはいけない。

 ただし一言。よく「有名大学へ……」「有名高校へ……」と、子どもを追い立てている親がい
る。

 しかし有名大学や有名高校へ子どもを入れたからといって、その子どもの役割が確立するわ
けではない。「合格したから、どうなの?」という部分がないまま、子どもを大学へ送りこんでも、
意味はないということ。

 もう10年ほど前だろうか、こんなことがあった。

 2人の女子高校生が、私の家に遊びに来て、こう言った。

 「先生、私たち今度、SS大学に行くことになりました」と。

 関東地方では、かなり有名な大学である。そこで私が、「いいところへ入るね。で、学部は…
…?」と聞くと、すこしためらった様子で、「国際カンケイ学部……」と。

 そこでさらに、「何、その国際カンケイ学部って? 何を勉強するの?」と聞くと、二人とも、
「私たちにも、わかんない……」と。

 大学へ入っても、何を勉強するか、わからないというのだ!

 しかしその姿は、私自身の姿でもあった。私は高校を卒業すると、K大学の法学部(法学科)
に入った。しかしそこで役割混乱が収まったわけではない。そのあと、大学を卒業したあと、商
社へ入社したときも、役割混乱は、そのままだった。

 まさに(いやな女房と、いやいや結婚したような状態)だった。

 つまり(本当に私が進みたいコース)と、(現実に進みつつあるコース)の間には、大きなへだ
たりがあった。このへだたりが、私の精神状態を、かなり不安定にした。やがて、私は、幼稚園
で、自分の生きる道をみつけたが、その道とて、決して、楽な道ではなかった。

 ……ということで、子どもの役割形成と、役割混乱を、決して、安易に考えてはいけない。私
自身が、その恐ろしさを、いやというほど、経験している。

●幼児を見ると……

 満5歳を超えるあたりから、子どもたちは、急速に「性」への関心をもち始める。性器はもちろ
ん、性的行為についても、それらが何か特別な意味をもっていることを知る。

 男児が女児を意識し、女児が男児を意識するようにもなる。「男」と「女」を、区別することがで
きるようにもなる。もちろん父親が男であり、母親が女であることも知る。

 そのため、この時期、重要なことは、その「性」に対して、うしろめたさを持たせないようにする
こと。性について、ゆがんだ意識や、暗いイメージをもたせないようにすること。男と女の差別
意識(ジェンダー)については、もちろん、論外である。

 幼児教育では、「男はすぐれている」「女は賢い」といった教え方は、タブーである。「男は強
い」「女は弱い」も、タブーになりつつある。

子ども「先生は、どうしてチューするの?」
私「チューイ(注意)するのが、いやだからね」
子ども「注意のほうがいいよ」
私「注意しても、どうせ、君たちは、ぼくの言うことなど、聞かないだろ」
子ども「聞く、聞く、ちゃんと、聞く」
私「そう? だったら、チューはしないよ」と。

●ジェンダーは、なぜ生まれるのか?

 男と女。その間には、生理的な違いはある。その違いまで、乗り越えて、男と女が平等である
ということは、ありえない。「性欲」の問題が、そこにからんでくる……。

 ……と、考えるのも、最近は、どうかと思うようになった。

 フィンランドに留学している、オーストラリア人の女子学生がこんなことを話してくれた。

 彼女は、フィンランドで、建築学の勉強をしている。22歳である。いわく、「みな、サウナが大
好き。サウナでは、混浴が、ふつう。老若男女の区別はしない。タオルで肌を隠したりすること
もしない」と。

 そういう話を聞くと、「本当ですか?」と、何度も聞きかえさなければならないほど、日本人の
性意識には、独特のものがある。つまりフィンランドでは、30〜40歳の男性と、10〜20歳の
女性との混浴(サウナ)が、ごく日常的なこととして、公然となされているという。

 となると、(性意識)とは、何か? さらに(性差)とは、何か?

 文化論、遺伝子論、民族論などが、混在している。そしてそれぞれの人たちが、自分の立場
で、「ジェンダーは、おかしい」「ジャンダーは、必要だ」などと、説く。最近では、むしろ、「男は
仕事、女は家事という、日本民族がもつ独特のよさ(?)を、再確認しよう」と説く集団まで、現
れた。政治家の中にも、そういう考え方をする人は多い。

 その根底には、日本古来の、独特の男尊女卑思想がある。「男が上、女が下」という、あの
男尊女卑思想である。

 このところ、皇室の皇位継承問題もからんで、ジェンダー論が、にぎやかになってきた。昨日
の新聞(中日新聞)も、この問題について、特集記事を並べていた。

 で、私の結論。

 だいたいにおいて、男と女を、人間として区別するほうが、おかしい。まったく、おかしい。男
の子は、男の子らしく育てるとか、女の子は女の子らしく育てるという考え方、そのものも、おか
しい。

 そんなことは、当の子どもたちが、そのときどきの文化の中で決めていくことであって、社会
の問題でもなければ、教育の問題でもない。

 この問題で、もっとも重要なことは、男であるから、女であるからという理由だけで、人間的、
社会的差別を、人は、受けてはならないということ。すべては、その一点に、結論は集約され
る。

++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

最後に、話はまったく関係ないが、『マディソン郡の橋』について
書いた原稿を添付します。

私が好きな原稿の一つです。

++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

女性がアイドリングするとき 

●アイドリングする母親

 何かもの足りない。どこか虚しくて、つかみどころがない。日々は平穏で、それなりに幸せの
ハズ。が、その実感がない。子育てもわずらわしい。夢や希望はないわけではないが、その充
実感がない……。

今、そんな女性がふえている。Hさん(32歳)もそうだ。結婚したのは二四歳のとき。どこか不
本意な結婚だった。いや、二〇歳のころ、一度だけ電撃に打たれるような恋をしたが、その男
性とは、結局は別れた。そのあとしばらくして、今の夫と何となく交際を始め、数年後、これまた
何となく結婚した。

●マディソン郡の橋

 R・ウォラーの『マディソン郡の橋』の冒頭は、こんな文章で始まる。

「どこにでもある田舎道の土ぼこりの中から、道端の一輪の花から、聞こえてくる歌声がある」
(村松潔氏訳)と。

主人公のフランチェスカはキンケイドと会い、そこで彼女は突然の恋に落ちる。忘れていた生
命の叫びにその身を焦がす。どこまでも激しく、互いに愛しあう。つまりフランチェスカは、「日
に日に無神経になっていく世界で、かさぶただらけの感受性の殻に閉じこもって」生活をしてい
たが、キンケイドに会って、一変する。彼女もまた、「(戦後の)あまり選り好みしてはいられない
のを認めざるをえない」という状況の中で、アメリカ人のリチャードと結婚していた。

●不完全燃焼症候群

 心理学的には、不完全燃焼症候群ということか。ちょうど信号待ちで止まった車のような状態
をいう。アイドリングばかりしていて、先へ進まない。からまわりばかりする。Hさんはそうした不
満を実家の両親にぶつけた。が、「わがまま」と叱られた。夫は夫で、「何が不満だ」「お前は幸
せなハズ」と、相手にしてくれなかった。しかしそれから受けるストレスは相当なものだ。

昔、今東光という作家がいた。その今氏をある日、東京築地のがんセンターへ見舞うと、こん
な話をしてくれた。

「自分は若いころは修行ばかりしていた。青春時代はそれで終わってしまった。だから今でも、
『しまった!』と思って、ベッドからとび起き、女を買いに行く」と。「女を買う」と言っても、今氏の
ばあいは、絵のモデルになる女性を求めるということだった。晩年の今氏は、裸の女性の絵を
かいていた。細い線のしなやかなタッチの絵だった。私は今氏の「生」への執着心に驚いた
が、心の「かさぶた」というのは、そういうものか。その人の人生の中で、いつまでも重く、心を
ふさぐ。

●思い切ってアクセルを踏む

 が、こういうアイドリング状態から抜け出た女性も多い。Tさんは、二人の女の子がいたが、
下の子が小学校へ入学すると同時に、手芸の店を出した。Aさんは、夫の医院を手伝ううち、
医療事務の知識を身につけ、やがて医療事務を教える講師になった。またNさんは、ヘルパー
の資格を取るために勉強を始めた、などなど。

「かさぶただらけの感受性の殻」から抜け出し、道路を走り出した人は多い。

だから今、あなたがアイドリングしているとしても、悲観的になることはない。時の流れは風の
ようなものだが、止まることもある。しかしそのままということは、ない。子育ても一段落するとき
がくる。そのときが新しい出発点。アイドリングをしても、それが終着点と思うのではなく、そこを
原点として前に進む。

方法は簡単。

勇気を出して、アクセルを踏む。妻でもなく、母でもなく、女でもなく、一人の人間として。それで
また風は吹き始める。人生は動き始める。
(中日新聞東掲載済み)
(はやし浩司 ジェンダー)

【付記】

●「自民保守派が、ジェンダー否定」(中日新聞・05・07・26夕刊)

 世界的にみても、この分野で一番、遅れている日本で、さらに「ジェンダー否定」の動きが出
てきたというのは、たいへん興味深い。

 自民党保守派の人たちが、「男女共同参画社会はおかしい」と言い出した。新聞報道によれ
ば、「自民党の関連プロジェクトチームが、参画社会の基本計画の柱である、ジェンダーの否
定に乗り出した」(同新聞)とある。「ねらいは、男女共同参画社会基本法の改廃」である、と。

 いろいろな識者の意見が並べられている。

 男女の違いは、文化だ。いや違う、生物学的なものだ、などなど。「男は、男らしく、女は、女
らしくというのは、少しもおかしくない」という意見まで。

 「個」という観点を基本におけば、「男だから……」「女だから……」という、『ダカラ論』そのも
のが、まちがっている。日本人は、本当に、この『だから論』が好きなようだ。社会のみならず、
個人の生き方まで、この『ダカラ論』で決めてしまう。

 もう、そんな時代は、とっくの昔に終わったと、私は思っているが……。
(はやし浩司 男女の平等 共同参画社会 

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

●男女共同参画社会VS父親の育児参加

 今度、H市の教職員組合支部の研修会で、講師をすることになった。あわせてテーマをもらっ
た。メールには、つぎのようにあった。

 「私たちの活動の重点は、男女共同参画社会の教育の在り方を見つけていくことです。現
在、私たちがおかれている職場環境、家庭環境もさることながら、学校教育、家庭教育におい
てどのようなことをしていくことが、これからの男女共同参画社会を築いていくことになるのか、
それを勉強していきたいと考えています。
 
先生は、主に、子育てについてご講演されることが多いかと思いますが、父親が積極的に子育
てに関わっていくことも今の時代大切なことだということをこの会の中でも、話してくださるので
はないかと期待しております」と。

 この中には、いくつかの重要なキーワードがある。

 (1)男女共同参画社会、(2)父親の積極的な育児参加など。

 私はこうした新しいテーマをもらうと、モリモリと元気がわいてくる。スリルや緊張感を覚える。
何というか、登山家が高い山を、目の前にしたときの気持ではないか。あるいはヨットで大海原
(うなばら)に出航するときの気持ではないか。どちらも私には経験のない世界だが、しかし私
は似ていると思う。あのニュートンは、こんな有名な言葉を残している。

 『真理の大海は、すべてのものが未発見のまま、私の前に横たわっている』(ブリューター「ニ
ュートンの思い出」)

 新しい真理を求めて出発するということは、まさに大海に向けて出航することに等しい。ゾク
ゾクする。ワクワクする。

 ……と、長い前置きはここまでにして、男女共同参画社会について。要するに、男女平等と
いうこと。要するに、「性」にまつわる差別や、偏見を撤廃するということ。

 最初に思いついたのが、ベッテルグレン女史という女性だった。スウェーデンの性教育協会
の、元会長である。そのベッテルグレン女史について書いたのが、つぎの原稿である。

+++++++++++++++++++++

●男女平等

 若いころ、いろいろな人の通訳として、全国を回った。その中でもとくに印象に残っているの
が、ベッテルグレン女史という女性だった。スウェーデン性教育協会の会長をしていた。そのベ
ッテルグレン女史はこう言った。

「フリーセックスとは、自由にセックスをすることではない。フリーセックスとは、性にまつわる偏
見や誤解、差別から、男女を解放することだ」「とくに女性であるからという理由だけで、不利益
を受けてはならない」と。それからほぼ三〇年。日本もやっとベッテルグレン女史が言ったこと
を理解できる国になった。

 実は私も、先に述べたような環境で育ったため、生まれながらにして、「男は……、女は…
…」というものの考え方を日常的にしていた。高校を卒業するまで洗濯や料理など、したことが
ない。たとえば私が小学生のころは、男が女と一緒に遊ぶことすら考えられなかった。遊べば
遊んだで、「女たらし」とバカにされた。そのせいか私の記憶の中にも、女の子と遊んだ思い出
がまったくない。が、その後、いろいろな経験を通して、私がまちがっていたことを思い知らされ
た。その中でも決定的に私を変えたのは、次のような事実を知ったときだ。

つまり人間は男も女も、母親の胎内では一度、皆、女だったという事実だ。このことは何人もの
ドクターに確かめたが、どのドクターも、「知らなかったのですか?」と笑った。正確には、「妊娠
後三か月くらいまでは胎児は皆、女で、それ以後、Y遺伝子をもった胎児は、Y遺伝子の刺激
を受けて、睾丸が形成され、女から分化する形で男になっていく。分化しなければ、胎児はそ
のまま成長し、女として生まれる」(浜松医科大学O氏)ということらしい。

このことを女房に話すと、女房は「あなたは単純ね」と笑ったが、以後、女性を見る目が、一八
〇度変わった。「ああ、ぼくも昔は女だったのだ」と。と同時に、偏見も誤解も消えた。言いかえ
ると、「男だから」「女だから」という考え方そのものが、まちがっている。「男らしく」「女らしく」と
いう考え方も、まちがっている。ベッテルグレン女史は、それを言った。

 これに対して、「夫も家事や育児を平等に負担すべきだ」と答えた女性は、七六・七%いる
が、その反面、「反対だ」と答えた女性も二三・三%もいる。つまり「昔のままでいい」と。男性側
の意識改革だけではなく、女性側の意識改革も必要なようだ。ちなみに「結婚後、夫は外で働
き、妻は主婦業に専念すべきだ」と答えた女性は、半数以上の五二・三%もいる(厚生省の国
立問題研究所が発表した「第二回、全国家庭動向調査」・九八年)。こうした現状の中、夫に不
満をもつ妻もふえている。

「家事、育児で夫に満足している」と答えた妻は、五一・七%しかいない。この数値は、前回一
九九三年のときよりも、約一〇ポイントも低くなっている(九三年度は、六〇・六%)。「(夫の家
事や育児を)もともと期待していない」と答えた妻も、五二・五%もいた。 

+++++++++++++++++++++
家庭とは、本当に天国か?
世の男たちは、そう思っているかもしれないが、
家庭に閉じ込められた女性たちの重圧感は、
相当なものである。それについて書いたのが
つぎの原稿です。
+++++++++++++++++++++

●家庭は兵舎

 「家庭は、心休まる場所」と考えるのは、ひょっとしたら、男性だけ? 家庭に閉じ込められた
女性たちの重圧感は、相当なものである。

 心的外傷論についての第一人者である、J・ハーマン(Herman)は、こう書いている。

 「男は軍隊、女は家庭という、拘禁された環境の中で、虐待、そして心的外傷を経験する」
と。

 つまり「家庭」というのは、女性にとっては、軍隊生活における、「兵舎」と同じというわけであ
る。実際、家庭に閉じ込められた女性たちの、悲痛な叫び声には、深刻なものが多い。「育児
で、自分の可能性がつぶされた」「仕事をしたい」「夫が、家庭を私に押しつける」など。が、最
大の問題は、そういう女性たちの苦痛を、夫である男性が理解していないということ。ある男性
は、妻にこう言った。「何不自由なく、生活できるではないか。お前は、何が不満なのか」と。

 話は少しそれるが、私は山荘をつくるとき、いつも友だちを招待することばかり考えていた。
で、山荘が完成したころには、毎週のように、親戚や友人たちを呼んで、料理などをしてみせ
た。が、やがて、すぐ、それに疲れてしまった。私は、「家事は、重労働」という事実を、改めて、
思い知らされた。

 その一。客人でやってきた友人たちは、まさに客人。(当然だが……。)こうした友人たちは、
何も手伝ってくれない。そこで私ひとりが、料理、配膳、接待、あと片づけ、風呂と寝具の用
意、ふとん敷き、戸締まり、消灯などなど、すべてをしなければならない。その間に、お茶を出し
たり、あちこちを案内したり……。朝は朝で、一時間は早く起きて、朝食の用意をしなければな
らない。加えて友人を見送ったあとは、部屋の片づけ、洗いものがある。シーツの洗濯もある。

 で、一、二年もすると、もうだれにも山荘の話はしなくなった。たいへんかたいへんでないかと
いうことになれば、たいへんに決まっている。その上、土日が接待でつぶれてしまうため、つぎ
の月曜日からの仕事が、できなくなることもあった。そんなわけで今は、「民宿の亭主だけに
は、ぜったい、なりたくない」と思っている。

 さて、家庭に入った女性には、その上にもう一つ、たいへんな重労働が重なる。育児である。
この育児が、いかに重労働であるかは、もうたびたび書いてきたので、ここでは省略する。が、
本当に重労働。とくに子どもが乳幼児のときは、そうだ。これも私の経験だが、私も若いころ
は、生徒たち(幼児、四〇〜一〇〇人)を連れて、季節ごとに、キャンプをしたり、クリスマス会
を開いたりした。今から思うと、若いからできたのだろう。が、三五歳を過ぎるころから、それが
できなくなってしまった。体力、気力が、もたない。

 さて、「女性は、家庭で、心的外傷を経験する」(ハーマン)の意見について。「家庭」というの
は、その温もりのある言葉とは裏腹に、まさに兵舎。兵舎そのもの。そしてその家庭から発す
る、閉塞感、窒息感が、女性たちの心をむしばむ。たとえばフロイトは、軍隊という拘禁状態の
中における、自己愛の喪失を例にあげている。つまり一般世間から、隔離された状態に長くい
ると、自己愛を喪失し、ついで自己保存本能を喪失するという。

家庭に閉じ込められた女性にも、同じようなことが起きる。たとえば、その結果として、子育て
本能すら、喪失することもある。子どもを育てようとする意欲すらなくす。ひどくなると、子どもを
虐待したり、子どもに暴力を振るったりするようになる。その前の段階として、冷淡、無視、育
児拒否などもある。東京都精神医学総合研究所の調査によっても、約四〇%の母親たちが、
子どもを虐待、もしくは、それに近い行為をしているのがわかっている。

東京都精神医学総合研究所の妹尾栄一氏らの調査によると、約四〇%弱の母親が、虐待も
しくは虐待に近い行為をしているという。妹尾氏らは虐待の診断基準を作成し、虐待の度合を
数字で示している。妹尾氏は、「食事を与えない」「ふろに入れたり、下着をかえたりしない」な
どの一七項目を作成し、それぞれについて、「まったくない……〇点」「ときどきある……一点」
「しばしばある……二点」の三段階で親の回答を求め、虐待度を調べた。その結果、「虐待あ
り」が、有効回答(四九四人)のうちの九%、「虐待傾向」が、三〇%、「虐待なし」が、六一%で
あったという。

 今まさに、家庭に入った女性たちの心にメスが入れられたばかりで、この分野の研究は、こ
れから先、急速に進むと思われる。ただここで言えることは、「家庭に入った女性たちよ、もっ
と声をあげろ!」ということ。ほとんどの女性たちは、「母である」「妻である」という重圧感の中
で、「おかしいのは私だけ」「私は妻として、失格である」「母親らしくない」というような悩み方を
する。そして自分で自分を責める。

 しかし家庭という兵舎の中で、行き場もなく苦しんでいるのは、決して、あなただけではない。
むしろ、もがき苦しむあなたのほうが、当たり前なのだ。もともと家庭というのは、J・ハーマンも
言っているように、女性にとっては、そういうものなのだ。大切なことは、そういう状態であること
を認め、その上で、解決策を考えること。

 一言、つけ加えるなら、世の男性たちよ、夫たちよ、家事や育児が、重労働であることを、理
解してやろうではないか。男の私がこんなことを言うのもおかしいが、しかし私のところに集まっ
てくる情報を集めると、結局は、そういう結論になる。今、あなたの妻は、家事や育児という重
圧感の中で、あなたが想像する以上に、苦しんでいる。
(030409)

●「男は仕事、女は家庭」という、悪しき偏見が、まだこの日本には、根強く残っている。だから
大半の女性は、結婚と同時に、それまでの仕事をやめ、家庭に入る。子どもができれば、なお
さらである。しかし「自分の可能性を、途中でへし折られる」というのは、たいへんな苦痛であ
る。

Aさん(三四歳)は、ある企画会社で、責任ある仕事をしていた。結婚し、子どもが生まれてから
も、何とか、自分の仕事を守りつづけた。しかしそんなとき、夫の転勤問題が起きた。Aさん
は、泣く泣く、本当に泣く泣く、企画会社での仕事をやめ、夫とともに、転勤先へ引っ越した。今
は夫の転勤先で、主婦業に専念しているが、Aさんは、こう言う。「欲求不満ばかりがたまって、
どうしようもない」と。こういうAさんのようなケースは、本当に、多い。

私もときどき、こんなことを考える。もしだれかが、「林、文筆の仕事やめ、家庭に入って育児を
しろ」と言ったら、私は、それに従うだろうか、と。育児と文筆の仕事は、まだ両立できるが、Aさ
んのように、仕事そのものをやめろと言われたらどうだろうか。Aさんは、今、こう言っている。
「子どもがある程度大きくなったら、私は必ず、仕事に復帰します」と。がんばれ、Aさん!

++++++++++++++++++++++

●男女共同参画基本法より

内閣府の「男女共同参画基本計画」では、つぎのようになっている。

★男女の人権の尊重

男女の個人としての尊厳を重んじましょう。男女の差別をなくし、「男」「女」である以前にひとり
の人間として能力を発揮できる機会を確保していきましょう。

★社会における制度又は慣行についての配慮

固定的な役割分担意識にとらわれず、男女が様々な活動ができるよう、社会の制度や慣行の
在り方を考えていきましょう。

★政策等の立案及び決定への共同参画

男女が、社会の対等なパートナーとして、いろいろな方針の決定に参画できるようにしましょ
う。

★家庭生活における活動と他の活動の両立

男女はともに家族の構成員。お互いに協力し、社会の支援も受け、家族としての役割を果たし
ながら、仕事をしたり、学習したり、地域活動をしたりできるようにしていきましょう。

★国際的協調

男女共同参画社会づくりのために、国際社会と共に歩むことも大切です。他の国々や国際機
関とも相互に協力して取り組んでいきましょう。

++++++++++++++++++++++++

こうした流れの中で、男女共同参画基本法が制定された。

●夫の暴力に対する対処(配偶者からの暴力の防止及び被害者の保護に関する法律)

殴ったり蹴ったりするなど、直接何らかの有形力を行使するもの。
刑法第204条の傷害や第208条の暴行に該当する違法な行為であり、たとえそれが配偶者間
で行われたとしても処罰の対象になります。
■平手でうつ 
■足でける
■身体を傷つける可能性のある物でなぐる
■げんこつでなぐる
■刃物などの凶器をからだにつきつける
■髪をひっぱる
■首をしめる
■腕をねじる
■引きずりまわす
■物をなげつける
====================
心無い言動等により、相手の心を傷つけるもの。
精神的な暴力については、その結果、 PTSD(外傷後ストレス障害)に至るなど、刑法上の傷
害とみなされるほどの精神障害に至れば、刑法上の傷害罪として処罰されることもあります。
■大声でどなる
■「誰のおかげで生活できるんだ」「かいしょうなし」などと言う
■実家や友人とつきあうのを制限したり、電話や手紙を細かくチェックしたりする
■何を言っても無視して口をきかない
■人の前でバカにしたり、命令するような口調でものを言ったりする
■大切にしているものをこわしたり、捨てたりする
■生活費を渡さない
■外で働くなと言ったり、仕事を辞めさせたりする
■子どもに危害を加えるといっておどす
■なぐるそぶりや、物をなげつけるふりをして、おどかす

====================
嫌がっているのに性的行為を強要する、中絶を強要する、避妊に協力しないといったもの。
■見たくないのにポルノビデオやポルノ雑誌をみせる
■いやがっているのに性行為を強要する
■中絶を強要する
■避妊に協力しない

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【世の夫諸君へ】

 妻だから、ワイフだから……という甘えを捨てよう。夫婦とて、長い目で見れば、人間対人間
の関係。ちなみにオーストラリアあたりで、夫が妻に向かって、「おい、お茶!」などとでも言おう
ものなら、それだけで離婚事由になる。中に、日本人の離婚率は、アメリカより低いなどとうそ
ぶいている男がいるが、それは妻が夫に満足しているからではなく、がまんしているからにほ
かならない。これから先、女性の意識が高まるにつれて、日本の離婚率も、アメリカ並になる。
あるいはそれを超えるかも。世の夫諸君よ、今日からでも遅くないから、妻には、やさしく、微
笑作戦を展開しよう!

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●家事をしない男たち

 特別な事情のある男は別として、五〇歳以上の男について言うなら、彼らは、掃除、料理、
洗濯などの家事を、ほとんどしない。この年代は、旧態依然の男尊女卑思想、あるいは男女
差別思想にこりかたまっている。中には、「男には威厳が必要だ」「夫は、一家の主(あるじ)
だ」「存在感があればよい」などと、居直っている男さえいる。

 しかしこんな意識は、バカげている。またそういう意識にしがみついたからといって、伝統を守
ることにはならない。

 少し前まで、あのアフガニスタンでは、女性は教育を受けることも、仕事につくことも許されな
かった。外出するときは、あのマスクで顔を隠さねばならなかった。そういう報道を見聞きする
と、日本人は、「私たちは違う」と胸を張る。「私たちの国は、先進国だ」と。しかし、本当にそう
か。本当にそう言いきってよいか。

 私の家の近くには、小さな空き地があり、そこは近所の老人たちの、かっこうの、たまり場に
なっている。天気のよい、おだやかな日には、いつも、七、八人の老人が集まっている。そうい
う風景を目にするようになって、もう一〇年以上になる。

 しかし、だ。男たちは、ただイスに座って、何やら話しているだけ。草を取ったり、竹を切った
り、畑の世話をしているのは、女性だけ。私はこの一〇年以上の間、男たちが、ゴミを集めた
り、掃除したりしている姿を、一度も見たことがない。

 見なれた光景とはいえ、いつも大きな違和感を覚える。少し前までは、「男も、何か仕事をす
ればいい」と思った。しかし最近は、「つまらない男たち」と思うになった。そういう男たちのやる
ことと言えば、せいぜい、竹やぶに生えてくる竹の子の管理だけ。見知らぬ人が竹やぶに入っ
てきて、竹の子を取ろうとすると、集会場の男たちがやってきて、あれこれ文句を言う。

 しかしこのたまり場は、まさに日本の社会を、象徴している。「社会」というより、「男と女の関
係」を、象徴している。しかし意識とは恐ろしい。おそらくそういう関係をつくりながらも、そのた
まり場の男はもちろん、女も、それをおかしいとは思っていない。……だろう。が、それは、ちょ
うど、少し前までのアフガニスタンの人たちが、自分たちの社会をおかしいと思わなかったの
と、同じ? あるいはどこがどう違うというのか。

●意識改革 

 こうした男たちや女たちの意識を変えることは、不可能に近い。意識というのは、それが無意
識であればなおさら、脳のCPU(中央演算装置)に関係する。それを変えるということは、それ
までの生きザマを否定することにもなる。たとえば「任侠(にんきょう)」とか、「義理人情」とか、
そういうものにこりかたまっている人に向かって、「これからはそういう時代ではありません」な
どと言おうものなら、その人は猛烈に反発する。へたをすれば、こちらの腹を刺してくるかもし
れない。

 指導でできることがあるとすれば、せいぜい、習慣として、「家事を男に手伝わせる」ことでし
かない。あるいは「そういう意識では、いけない」ということを、わからせることでしかない。ある
いは、そのほかに、どんな方法があるというのか。そのことは、自分のこととして考えてみれ
ば、わかる。

 私も、昔風の、きわめて男女差別のはげしい家庭環境で育った。小学時代は、女の子と遊ん
だ経験がない。家庭でも、私が台所へ入っただけで、母などは、「男がこんなところにいるもん
じゃない!」と私を叱った。だから高校を卒業するまで、洗濯や料理など、ほとんどしたことがな
かった。掃除といっても、せいぜい、自分の部屋の掃除程度。

 その私が大きく変わったのは、留学時代があったからだが、もし留学していなければ、今の
私はあの私のままだったと思う。そして今も、家事は、いっさいしないでいると思う。とくに山荘
のほうでは、掃除、料理、家事一般、ほとんどすべて私がしている。が、だからといって、私の
意識が変わったというのではない。家事をするといっても、どこか趣味的にしている感じがす
る。もっとわかりやすく言えば、おとなのままごとをしているような感じがする。地に足がついて
いない?

 つまり私という人間は、外見こそ変わったが、中身は、ほとんど変わっていない。今でもふと
油断をすると、心のどこかで、「男は仕事……」と考えてしまう。男女は平等といいながら、男と
しての気負いが消えたわけではない。そういう私を見て、ワイフは、ときどき、(今でも)、こう言
う。「あんたは、私たちに気をつかいすぎよ」と。

 ワイフが言う「気をつかいすぎ」というのは、私の気負いをいう。私はいつもどこかで、「家族を
支えていくのは、私の役目」と考えている。ときにそれが重圧となって、私を苦しめる。ワイフ
は、それを言う。

 かたい話がつづいたので、少し前に書いた原稿を掲載する。

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●真昼の怪奇

 Gというレストランに女房と入った。食事がほぼ終わりかけたとき、隣の席に、明らかに大学
生と思われる、若い男女が座った。そのときだ。

 やや太り気味の男は、イスにデンと座ったまま。恋人と思われる女が、かいがいしくも、水を
運んだり、ジュースを運んだり、スープを運んだりしていた。往復で、三度は行き来しただろう
か。私はただただそれを見て、あきれるばかり。

その間、男のほうは、メニューをのぞいたり、少し離れたところにあるプラズマテレビの画面を
ながめたりしているだけ。その女を手伝おうともしない。いや、そんな意識は、毛頭もないといっ
たふうだった。

 私はよほどその男に声をかけようと思った。そしてこう聞きたかった。「あなたはどういうつも
りですか?」と。

 日本では見慣れた光景かもしれない。そしてそういう光景を見ても、だれもおかしいとは思わ
ない。「そういう仕事は、女がするものだ」と、男は思っている。そして女自身も、「そういう仕事
は女がするものだ」と思っている。が、それこそ、まさに世界の非常識。そういう非常識が、日
常的にまかりとおっているところに、日本型の社会の問題がある。

 いや、その男女が、五〇歳代とか六〇歳代とかいうのなら、まだ話はわかる。しかしどうみて
も大学生。そういう若い男女が、いまだにその程度の意識しかもっていないとは!

 あとで女房とこんな会話をした。「家庭教育が問題だ」と。いや、教育というよりは、その男女
にしても、家庭の中で見慣れた光景を、そのレストランで繰り返しているにすぎない。教育とい
うよりは、私たち自身の意識の問題なのだ。先日も、ある講演先で、「家事を夫も手伝うべき
だ」というようなことを言ったら、ある男性から反論のメールが届いた。いわく、「男は仕事で疲
れて帰ってくる。その男が家に帰って、家事を手伝うというのは現実的ではない」と。

 しかし言いかえると、世の男たちは、仕事にかこつけて、何もしない。「仕事」はあくまでも、方
便。方便であることは、その若い男女を見ればわかる。大学生といえば、たがいに平等のは
ず。その大学生の段階で、男の側にはすでに家事を手伝うという意識すらない。きっとあのレ
ストランの男も、いつか仕事から帰ってくると、妻にこう言うようになるだろう。「オイ、お茶!」
と。妻を奴隷のようにあつかいながら、その意識すらもたない。それは仕事で疲れているとか、
いないとかいうこととは関係、ない。

 私はまさに、真昼の怪奇を見せつけられた思いで、そのレストランを出た。

++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

●終わりに

 男と女の関係は、(1)育児(2)家庭、(3)社会の3者の中で、基本的に違う。違って当然であ
る。

 こうした(違い)を無視して、つまりいっしょくたににして、ジェンダーを論じても意味はない。

 たとえば育児の場においては、父親と母親の役割は、まったくと言ってよいほど、違う。母子
関係は、子どもの心をつくる基本であって、母子関係の不全は、そののち、その子どもの精神
の発育に、決定的ともいえるほど、大きな影響を与える。

 が、母子だけに、育児を任せればそれでよいかというと、そうでもない。

 今度は、そこに父親の役割が、介入していくる。子どもを産み、子どもに命を授けるのが、母
親の存在であるとするなら、社会性を教え、人間としての生きザマを教えるのが、父親の存在
ということになる。わかりやすく言えば、父親は、子どもを外の世界に連れ出し、狩のし方を教
える。

 もちろん家庭の中でも、ある程度の役割分担は、ある。しかしそれは『ダカラ論』によって生ま
れるものであってはならない。100世帯の家庭があれば、100種類の夫婦関係がある。どれ
もちがう。

 妻が外で働いて、夫が家事を分担したところで、何ら、おかしくない。それぞれの家庭が、そ
れぞれの事情の中で、決めていくことである。

 しかし男であるにせよ、女であるにせよ、一歩、外に出て、社会的人間として生きるときに
は、性による差別は、ぜったいにあってはいけない。

 その不快感は、差別されたものでないと、恐らく理解できないだろう。形こそ違うが、私は、学
生時代、オーストラリアで、人種差別なるものを経験している。その人種差別と同じにすること
はできないが、ジェンダーも、それと同列に考えてよい。差別される側が受けるショックは、差
別する側のものにとっては、理解できないものかもしれない。

 日本の女性たちが、男女同権を訴えるなら、その前提として、差別というものが、どういうも
のか知らねばならない。それを知らない女性に向って、ジェンダーを説いても、あまり意味はな
い。「私は、かわいい女よ」と、「女」であるという下位の立場に甘んじている女性に、ジェンダー
を説いても、あまり意味はない。

 ジェンダーを説くときには、こうした意識(男も女も)改革を、まず先行させなければならない。

 そうでなくても、欧米社会から見ると異端の国、日本。その日本が、「男女共同参画社会基本
法」を改廃するなどというのは、まさに愚の骨頂としか、言いようがない。

 日本の女性たちよ、目ざめよ! そしてもっと怒れ!

 以上、ジェンダーについて考えてみた。

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

最前線の子育て論byはやし浩司(817)

【学力】

+++++++++++++++++

「ゆとりある教育」が、今、見なおされ始めている。
再び、学力をつける教育への転換へと、日本の教育
は、大きくカジをきろうとしている。

しかし、学力をつけるだけで、よいのか。それで本当
に日本の将来は、よくなるのか?

++++++++++++++++

●学力の低下

 たしかに最近の子どもたちの学力は、低下している。改めて具体的データなど、出すまでもな
い。

 が、だからといって、最近の子どもたちが、その分だけ、以前の子どもたちより、劣っている
かというと、そうとは言えない。

 いわゆる(学校でする勉強)については、成績が落ちている。それは、事実。しかし今の子ど
もたちの世界は、以前とは比較にならないほど、多様化している。それに広くなっている。学校
で習う勉強だけが勉強という、そういう時代では、もうなくなった。

 もちろん、娯楽もかぎられていた。行動半径もかぎられていた。スポーツにしても、野球と相
撲だけ。それにプロレス。とくにプロレスの人気には、ものすごいものがあった。

 私の時代においてですら、つまり今から45年も前のことだが、学校でする勉強と、自宅で自
分がしていることとの間に、大きなギャップを感じたことがある。とくによく覚えているのは、音
楽について、である。

 学校ではバッハのミサ曲やシューベルトの歌曲を歌い、家では、西郷輝彦や舟木一夫の歌
謡曲を歌った。さらに(学校で与えられること)と、(自分のしたいこと)の間には、大きなギャッ
プを感じた。

 私は、飛行機に興味があった。将来の夢は、大工になることだった。しかしそういったことに
ついての勉強は、ほとんど、なかった。そういう時代の学力と、現在の学力を同一レベルで考
えることはできない。

 よく覚えているのは、中学2年のときに、三角関数を学んだこと。現在、三角関数は、高校2
年で学ぶことになっている。英語にしても、中学2年で、関係代名詞を学んだ記憶がある。が、
だからといって、当時の教育レベルが、今より高かったなどとは、だれも、思っていない。

 「おい、わかったか」「では、つぎ」式の詰めこみ教育……、毎日が、その連続だった。

 ただ今の時代と違っていたのは、教師による体罰などというものは、日常茶飯事。英語の教
師などは、剣道で使う竹刀(しない)を、いつも教室へもってきていた。その竹刀で、宿題をして
なかった子どもや、教師の質問に正しく答えられない子どもは、容赦なく、バシッ、バシッと頭を
たたかれた。頭から血を流した子どももいた。

 「古き、よき時代」などと言おうものなら、今の親たちに、袋だたきにあいそうだが、ともかく
も、私たちの時代は、そういう時代だった。

 が、今は、違う。当時の様子を、モノクロのスチール写真にたとえるなら、現在は、カラービデ
オの時代。まさに何でもござれの時代になった。それくらいの違いはある。

 そこで本来なら、教育も、もっと多様化すべきであった。しかし遅れること、30年? 40年?
 いまだに「基礎学力」とか何とかいうわけのわからないものが、大手を振って、教育界をのさ
ばり、歩いている。

 みながみな、その道の学者になるわけでもないだろうに……。

 そんな日本の教育の現状を書いたのが、つぎの原稿である。ただしこの原稿を書いたのは、
今から4年前の、2001年のはじめ。それから4年、その前後に、「総合的な学習」が始まり、
「学校5日制」も始まった。「ゆとり」の名のもとに、学習教科の3割削減も実施された。

 そういうことも念頭に入れながら、この原稿を読んでほしい。

++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

【日本の教育レベル】

●日本の教育レベルは165カ国中、150位? 

 東大のある教授(理学部)が、こんなことを話してくれた。

「化学の分野には、1000近い分析方法が確立されている。が、基本的に日本人が考えたも
のは、一つもない」と。

あるいはこんなショッキングな報告もある。世界的な標準にもなっている、TOEFL(国際英語
検定試験)で、日本人の成績は、165か国中、150位(99年)。

「アジアで日本より成績が悪い国は、モンゴルぐらい。北朝鮮とブービーを争うレベル」(週刊新
潮)だそうだ。

オーストラリアあたりでも、どの大学にも、ノーベル賞受賞者がゴロゴロしている。しかし日本に
は数えるほどしかいない。あの天下の東大には、一人もいない(99年当時)。

ちなみにアメリカだけでも、250人もの受賞者がいる。ヨーロッパ全体では、もっと多い。「日本
の教育は世界最高水準にある」と思うのは勝手だが、その実態は、たいへんお粗末。今では
小学校の入学式当日からの学級崩壊は当たり前。はじめて小学校の参観日(小一)に行った
母親は、こう言った。「音楽の授業ということでしたが、まるでプロレスの授業でした」と。

●低下する教育力

 こうした傾向は、中学にも、そして高校にも見られる。やはり数年前だが、東京の都立高校
の教師との対話集会に出席したことがある。その席で、一人の教師が、こんなことを言った。

いわく、「うちの高校では、授業中、運動場でバイクに乗っているのがいる」と。すると別の教師
が、「運動場ならまだいいよ。うちなんか、廊下でバイクに乗っているのがいる」と。そこで私が
「では、ほかの生徒たちは何をしているのですか」と聞くと、「みんな、自動車の教習本を読んで
いる」(※1)と。

さらに大学もひどい。大学が遊園地になったという話は、もう15年以上も前のこと。今では分
数の足し算、引き算ができない大学生など、珍しくも何ともない。

「小学生レベルの問題で、正解率は59%」(国立文系大学院生について調査、京都大学西村
和雄氏)(※2)だそうだ。日本では大学生のアルバイトは、ごく日常的な光景だが、それを見た
アメリカの大学生はこう言った。「ぼくたちには考えられない」と。

大学制度そのものも、日本のばあい、疲弊している! つまり何だかんだといっても、「受験」
が、かろうじて日本の教育を支えている。もしこの日本から受験制度が消えたら、進学塾はも
ちろんのこと、学校教育そのものも崩壊する。

確かに一部の学生は猛烈に勉強する。しかしそれはあくまでも「一部」。内閣府の調査でも、
「教育は悪い方向に向かっている」と答えた人は、26%もいる(2000年)。98年の調査よりも
8%もふえた。むべなるかな、である。

●規制緩和は教育から

 日本の銀行は、護送船団方式でつぶれた。政府の手厚い保護を受け、その中でヌクヌクと
生きてきたため、国際競争力をなくしてしまった。しかし日本の教育は、銀行の比ではない。護
送船団ならぬ、丸抱え方式。教育というのは、20年先、30年先を見越して、「形」を作らねば
ならない。

が、文部科学省の教育改革は、すべて後手後手。南オーストラリア州にしても、すでに15年以
上も前から、小学3年生からコンピュータの授業をしている。

メルボルン市にある、ほとんどのグラマースクールでは、中学1年で、中国語、フランス語、ドイ
ツ語、インドネシア語、日本語の中から、1科目選択できるようになっている。もちろん数学、英
語、科学、地理、歴史などの科目もあるが、ほかに宗教、体育、芸術、コンピュータの科目もあ
る。芸術は、ドラマ、音楽、写真、美術の各科目に分かれ、さらに環境保護の科目もある。もう
一つ「キャンプ」という科目があったので、電話で問い合わせると、それも必須科目の一つとの
こと(メルボルン・ウェズリー・グラマースクール)。

●規制緩和が必要なのは教育界

 いろいろ言われているが、地方分権、規制緩和が一番必要なのは、実は教育の世界。もっと
はっきり言えば、文部科学省による中央集権体制を解体する。

だいたいにおいて、頭ガチガチの文部官僚たちが、日本の教育を支配するほうがおかしい。
日本では明治以来、「教育というのはそういうものだ」と思っている人が多い。が、それこそまさ
に世界の非常識。あの富国強兵時代の亡霊が、いまだに日本の教育界をのさばっている!

 今まではよかった。「社会に役立つ人間」「立派な社会人」という出世主義のもと、優良な会社
人間を作ることができた。「国のために命を落とせ」という教育が、姿を変えて、「会社のために
命を落とせ」という教育に置きかわった。企業戦士は、そういう教育の中から生まれた。が、こ
れからはそういう時代ではない。

日本が国際社会で、「ふつうの国」「ふつうの国民」と認められるためには、今までのような教育
観は、もう通用しない。いや、それとて、もう手遅れなのかもしれない。よい例が、日本の総理
大臣だ。

●ヘラヘラする日本の首相

 G8だか何だか知らないが、日本の総理大臣は、出られたことだけを喜んで、はしゃいでいる
(2000年春)。本当はそうではないのかもしれないが、私にはそう見える。一国の代表なのだ
から、通訳なしに日本のあるべき姿、世界のあるべき姿を、もっと堂々と主張すべきではない
のか。

が、そういう迫力はどこにもない。列国の元首の中に埋もれて、ヘラヘラしているだけ。そういう
総理大臣しか生み出せない国民的体質、つまりその土壌となっているのが、ほかならぬ、日本
の教育なのである。言いかえると、日本の教育の実力は、世界でも150位レベル? 政治も1
50位レベル? どうして北朝鮮の、あの悪政を、笑うことができるだろうか。

※1……東京都教育委員会は、「都立高校マネジメントシステム検討委員会」を設置した(01
年6月)。これはともすれば経営感覚を無視しがちな学校運営者(校長)に、経営感覚をもって
もらおうという趣旨で設置されたものだが、具体的には、各学校に進学率などの数値目標を設
定させ、目標達成に向けた校内体制を整備させようというもの。

つまり進学率や高校への応募倍率、さらには定期考査の平均点などで、学校が評価されると
いう。またこれに呼応するかのように、東京都では「代々木ゼミナール」などの予備校での教員
研修を始めている(01年10月より)。

※2……京都大学経済研究所の西村和雄教授(経済計画学)の調査によれば、次のようであ
ったという。

調査は99年と2000年の4月に実施。トップレベルの国立五大学で経済学などを研究する大
学院生約130人に、中学、高校レベルの問題を解かせた。結果、25点満点で平均は、16・8
5点。同じ問題を、学部の学生にも解かせたが、ある国立大学の文学部1年生で、22・94
点。多くの大学の学部生が、大学院生より好成績をとったという。

さらに西村教授は四則演算だけを使う小学生レベルの問題でも調査したが、正解率は約五
九%と、東京の私立短大生なみでしかなかったという。

●学力は世界第五位※

 国際教育到達度評価学会(IEA、本部オランダ・99年)の調査によると、日本の中学生の学
力は、数学については、シンガポール、韓国、台湾、香港に次いで、第5位。以下、オーストラ
リア、マレーシア、アメリカ、イギリスと続く。理科については、台湾、シンガポールに次いで第3
位。以下韓国、オーストラリア、イギリス、香港、アメリカ、マレーシアと続く。

 ここで注意しなければならないのは、日本では、数学や理科にあてる時間数そのものが多い
ということ。たとえば中学校では週4〜5時間を数学の時間をあてている(静岡県公立中学
校)。アメリカのばあい、単位履修制を導入しているので、日本と単純には比較できないが、週
3〜4時間。さらにアメリカでもオーストラリアでも、ほとんどの学校では、小学一、二年の間
は、テキストすら使っていない。

●今の改革でだいじょうぶ?

また偏差値(日本……世界の平均点を500点としたとき、数学579点、理科550点)だけを
みて、学力を判断することはできない。

この結果をみて、文部科学省の徳久治彦中学校課長は、「順位はさがったが、(日本の教育
は)引き続き国際的にみてトップクラスを維持していると言える」(中日新聞)とコメントを寄せて
いる。

東京大学大学院教授の苅谷剛彦氏が、「今の改革でだいじょうぶというメッセージを与えるの
は問題が残る」と述べていることとは、対照的である。

ちなみに、「数学が好き」と答えた割合は、日本の中学が最低(48%)。「理科が好き」と答えた
割合は、韓国についでビリ2あった(韓国52%、日本55%)。学校の外で勉強する学外学習
も、韓国に次いでビリ2。一方、その分、前回(95年)と比べて、テレビやビデオを見る時間
が、2・6時間から3・1時間にふえている。

同じような調査だが、ベネッセコーポレーションの「第三回学習基本調査」によれば、次のよう
になっている(01年5月と6月に小、中、高校生約8700人について調査)。

学習時間が三〇分以下……小学生 40・3%
            中学生 30.7%
            高校生 37・1% 

家ではほとんど勉強しないと答えた中、高校生……23・1%

 日本の中学生たちがますます勉強嫌いになり、かつ家での学習時間が短くなっていること
が、これらの調査でわかる。
(はやし浩司 日本の子供 学力 子供の学力 レベル)

++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

●では、どうするか?

 では、どうするか? 批判ばかりしていても、始まらない。

 日本の教育を、明日に向けて救うためには、教育の自由化しかない。北海道の北端から、沖
縄の南端まで、金太郎アメのような教育をすることが、教育ではない。子どもの多様化に合わ
せて、教育も多様化する。

 つぎの原稿は、3年ほど前に書いた原稿だが、今でも、新鮮さを、まったく失っていない。内
容的に、先の原稿とダブる点があるが、許してほしい。

++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

●公立小中学校・放課後補習について

 文部科学省は、公立小中学校の放課後の補習を奨励するため、教員志望の教育学部の大
学生らが児童、生徒を個別指導する「放課後学習相談室」(仮称)制度を、二〇〇三年度から
導入する方針をかためた(〇二年八月)。

 文部科学省の説明によれば、「ゆとり重視」の教育を、「学力向上重視」に転換する一環で、
全国でモデル校二〇〇〜三〇〇校を指定し、「児童、生徒の学力に応じたきめ細かな指導を
行う」(読売新聞)という。「将来、教員になる人材に教育実習以外に、実戦経験をつませる一
石二鳥の効果をめざす」とも。父母の間に広まる学力低下への懸念を払しょくするのがねらい
だという。具体的には、つぎのようにするという。

 まず全国都道府県からモデル校を各五校を選び、(1)授業の理解が遅れている児童、生徒
に対する補習を行う、(2)逆に優秀な児童、生徒に高度で発展的な内容を教えたり、個々の学
力に応じて指導するという。

 しかし残念ながら、この「放課後補習」は、確実に失敗する。理由は、現場の教師なら、だれ
しも知っている。順に考えてみよう。

第一、学校での補習授業など、だれが受けたがるだろうか。たとえばこれに似た学習に、昔か
ら「残り勉強」というのがある。先生は子どものためにと思って、子どもに残り勉強を課するが、
子どもはそれを「バツ」ととらえる。「君は今日、残り勉強をします」と告げただけで泣き出す子
どもは、いくらでもいる。「授業の理解が遅れている児童、生徒」に対する補習授業となれば、
なおさらである。残り勉強が、子どもたちに嫌われ、ことごとく失敗しているのは、そのためであ
る。

第二、反対に「優秀な児童、生徒」に対する補習授業ということになると、親たちの間で、パニ
ックが起きる可能性がある。「どうしてうちの子は教えてもらえないのか」と。あるいはかえって
受験競争を助長することにもなりかねない。今の教育制度の中で、「優秀」というのは、「受験
勉強に強い子ども」をいう。どちらにせよ、こうした基準づくりと、生徒の選択をどうするかという
問題が、同時に起きてくる。

 文部科学省よ、親たちは、だれも、「学力の低下」など、心配していない。問題をすりかえない
でほしい。親たちが心配しているのは、「自分の子どもが受験で不利になること」なのだ。どうし
てそういうウソをつく! 

新学習指導要領で、約三割の教科内容が削減された。わかりやすく言えば、今まで小学四年
で学んでいたことを、小学六年で学ぶことになる。しかし一方、私立の小中学校は、従来どおり
のカリキュラムで授業を進めている。不利か不利でないかということになれば、公立小中学校
の児童、生徒は、決定的に不利である。だから親たちは心配しているのだ。

 非公式な話によれば、文部科学省の官僚の子弟は、ほぼ一〇〇%が、私立の中学校、高
校に通っているというではないか。私はこの話を、技官の一人から聞いて確認している! 「東
京の公立高校へ通っている子どもなど、(文部官僚の子どもの中には)、私の知る限りいませ
んよ」と。こういった身勝手なことばかりしているから、父母たちは文部科学省の改革(?)に不
信感をいだき、つぎつぎと異論を唱えているのだ。どうしてこんな簡単なことが、わからない!

 教育改革は、まず官僚政治の是正から始めなければならない。旧文部省だけで、いわゆる
天下り先として機能する外郭団体だけでも、一八〇〇団体近くある。この数は、全省庁の中で
もダントツに多い。文部官僚たちは、こっそりと静かに、こういった団体を渡り歩くことによって、
死ぬまで優雅な生活を送れる。……送っている。

そういう特権階級を一方で温存しながら、「ゆとり学習」など考えるほうがおかしい。この数年、
大卒の就職先人気業種のナンバーワンが、公務員だ。なぜそうなのかというところにメスを入
れないかぎり、教育改革など、いくらやってもムダ。

ああ、私だって、この年齢になってはじめてわかったが、公務員になっておけばよかった! 死
ぬまで就職先と、年金が保証されている! ……と、そういう不公平を、日本の親たちはいや
というほど、思い知らされている。だから子どもの受験に狂奔する。だから教育改革はいつも
失敗する。

 もう一部の、ほんの一部の、中央官僚が、自分たちの権限と管轄にしがみつき、日本を支配
する時代は終わった。教育改革どころか、経済改革も外交も、さらに農政も厚生も、すべてボ
ロボロ。何かをすればするほど、自ら墓穴を掘っていく。

その教育改革にしても、ドイツやカナダ、さらにはアメリカのように自由化すればよい。学校は
自由選択制の単位制度にして、午後はクラブ制にすればよい(ドイツ)。学校も、地方自治体に
カリキュラム、指導方針など任せればよい(アメリカ)。設立も設立条件も自由にすればよい(ア
メリカ)。いくらでも見習うべき見本はあるではないか!

 今、欧米先進国で、国家による教科書の検定制度をもうけている国は、日本だけ。オースト
ラリアにも検定制度はあるが、州政府の委託を受けた民間団体が、その検定をしている。しか
し検定範囲は、露骨な性描写と暴力的表現のみ。歴史については、いっさい、検定してはいけ
ないしくみになっている。

世界の教育は、完全に自由化の流れの中で進んでいる。たとえばアメリカでは、大学入学後
の学部、学科の変更は自由。まったく自由。大学の転籍すら自由。まったく自由。学科はもち
ろんのこと、学部のスクラップアンドビュルド(創設と廃止)は、日常茶飯事。そういう現状が、
世界では、常識であるにもかかわらず、なぜ日本の文部科学省は、自由化には背を向け、自
由化をかくも恐れるのか? あるいは自分たちの管轄と権限が縮小されることが、そんなにも
こわいのか?

 改革をするたびに、あちこちにほころびができる。そこでまた新たな改革を試みる。「改革」と
いうよりも、「ほころびを縫うための自転車操業」というにふさわしい。もうすでに日本の教育は
にっちもさっちもいかないところにきている。このままいけば、あと一〇年を待たずして、その教
育レベルは、アジアでも最低になる。あるいはそれ以前にでも、最低になる。小中学校や高校
の話ではない。大学教育が、だ。

 皮肉なことに、国公立大学でも、理科系の学生はともかくも、文科系の学生は、ほとんど勉強
などしていない。していないことは、もしあなたが大学を出ているなら、一番よく知っている。そ
の文科系の学生の中でも、もっとも派手に遊びほけているのが、経済学部系の学生と、教育
学部系の学生である。このことも、もしあなたが大学を出ているなら、一番よく知っている。い
わんや私立大学の学生をや! そういう学生が、小中学校で補習授業とは!

 日本では大学生のアルバイトは、ごく日常的な光景だが、それを見たアメリカの大学生はこう
言った。「ぼくたちには考えられない」と。大学制度そのものも、日本の場合、疲弊している!

 何だかんだといっても、「受験」が、かろうじて日本の教育を支えている。もしこの日本から受
験制度が消えたら、進学塾はもちろんのこと、学校教育そのものも崩壊する。確かに一部の
学生は猛烈に勉強する。しかしそれはあくまでも「一部」。内閣府の調査でも、「教育は悪い方
向に向かっている」と答えた人は、二六%もいる(二〇〇〇年)。九八年の調査よりも八%もふ
えた。むべなるかな、である。

 もう補習をするとかしなとかいうレベルの話ではない。日本の教育改革は、三〇年は遅れ
た。しかも今、改革(?)しても、その結果が出るのは、さらに二〇年後。そのころ世界はどこま
で進んでいることやら! 

日本の文部科学省は、いまだに大本営発表よろしく、「日本の教育レベルはそれほど低くはな
い」(※1)と言っているが、そういう話は鵜呑みにしないほうがよい。今では分数の足し算、引
き算ができない大学生など、珍しくも何ともない。「小学生レベルの問題で、正解率は五九%」
(国立文系大学院生について調査、京都大学西村和雄氏)(※2)だそうだ。

 あるいはこんなショッキングな報告もある。世界的な標準にもなっている、TOEFL(国際英語
検定試験)で、日本人の成績は、一六五か国中、一五〇位(九九年)。「アジアで日本より成績
が悪い国は、モンゴルぐらい。北朝鮮とブービーを争うレベル」(週刊新潮)だそうだ。オースト
ラリアあたりでも、どの大学にも、ノーベル賞受賞者がゴロゴロしている。しかし日本には数え
るほどしかいない。あの天下の東大には、一人もいない。ちなみにアメリカだけでも、二五〇人
もの受賞者がいる。ヨーロッパ全体では、もっと多い(田丸謙二氏指摘)。

 「構造改革(官僚主導型の政治手法からの脱却)」という言葉がよく聞かれる。しかし今、この
日本でもっとも構造改革が遅れ、もっとも構造改革が求められているのが、文部行政である。
私はその改革について、つぎのように提案する。

(1)中学校、高校では、無学年制の単位履修制度にする。(アメリカ)
(2)中学校、高校では、授業は原則として午前中で終了する。(ドイツ、イタリアなど)
(3)有料だが、低価格の、各種無数のクラブをたちあげる。(ドイツ、カナダ)
(4)クラブ費用の補助。(ドイツ……チャイルドマネー、アメリカ……バウチャ券)
(5)大学入学後の学部変更、学科変更、転籍を自由化する。(欧米各国)
(6)教科書の検定制度の廃止。(各国共通)
(7)官僚主導型の教育体制を是正し、権限を大幅に市町村レベルに委譲する。
(8)学校法人の設立を、許認可制度から、届け出制度にし、自由化をはかる。

 が、何よりも先決させるべき重大な課題は、日本の社会のすみずみにまではびこる、不公平
である。この日本、公的な保護を受ける人は徹底的に受け、そうでない人は、まったくといって
よいほど、受けない。

わかりやすく言えば、官僚社会の是正。官僚社会そのものが、不公平社会の温床になってい
る。この問題を放置すれば、これらの改革は、すべて水泡に帰す。今の状態で教育を自由化
すれば、一部の受験産業だけがその恩恵をこうむり、またぞろ復活することになる。

 ざっと思いついたまま書いたので、細部では議論もあるかと思うが、ここまでしてはじめて「改
革」と言うにふさわしい。ここにあげた「放課後補習制度」にしても、アメリカでは、すでに教師の
インターン制度を導入して、私が知るかぎりでも、三〇年以上になる。オーストラリアでは、父
母の教育補助制度を導入して、二〇年以上になる(南オーストラリア州ほか)。

大半の日本人はそういう事実すら知らされていないから、「すごい改革」と思うかもしれないが、
こんな程度では、改革にはならない。少なくとも「改革」とおおげさに言うような改革ではない。
で、ここにあげた(1)〜(8)の改革案にしても、日本人にはまだ夢のような話かもしれないが、
こうした改革をしないかぎり、日本の教育に明日はない。日本に明日はない。なぜなら日本の
将来をつくるのは、今の子どもたちだからである。
(02−8−28)※

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(注※1)
 国際教育到達度評価学会(IEA、本部オランダ・一九九九年)の調査によると、日本の中学
生の学力は、数学については、シンガポール、韓国、台湾、香港についで、第五位。以下、オ
ーストラリア、マレーシア、アメリカ、イギリスと続くそうだ。理科については、台湾、シンガポー
ルに次いで第三位。以下韓国、オーストラリア、イギリス、香港、アメリカ、マレーシア、と。

この結果をみて、文部科学省の徳久治彦中学校課長は、「順位はさがったが、(日本の教育
は)引き続き国際的にみてトップクラスを維持していると言える」(中日新聞)とコメントを寄せて
いる。東京大学大学院教授の苅谷剛彦氏が、「今の改革でだいじょうぶというメッセージを与え
るのは問題が残る」と述べていることとは、対照的である。

ちなみに、「数学が好き」と答えた割合は、日本の中学生が最低(四八%)。「理科が好き」と答
えた割合は、韓国についでビリ二であった(韓国五二%、日本五五%)。学校の外で勉強する
学外学習も、韓国に次いでビリ二。一方、その分、前回(九五年)と比べて、テレビやビデオを
見る時間が、二・六時間から三・一時間にふえている。

で、実際にはどうなのか。東京理科大学理学部の澤田利夫教授が、興味ある調査結果を公表
している。教授が調べた「学力調査の問題例と正答率」によると、つぎのような結果だそうだ。

この二〇年間(一九八二年から二〇〇〇年)だけで、簡単な分数の足し算の正解率は、小学
六年生で、八〇・八%から、六一・七%に低下。分数の割り算は、九〇・七%から六六・五%に
低下。小数の掛け算は、七七・二%から七〇・二%に低下。たしざんと掛け算の混合計算は、
三八・三%から三二・八%に低下。全体として、六八・九%から五七・五%に低下している(同じ
問題で調査)、と。

 いろいろ弁解がましい意見や、文部科学省を擁護した意見、あるいは文部科学省を批判し
た意見などが交錯しているが、日本の子どもたちの学力が低下していることは、もう疑いようが
ない。

同じ澤田教授の調査だが、小学六年生についてみると、「算数が嫌い」と答えた子どもが、二
〇〇〇年度に三〇%を超えた(一九七七年は一三%前後)。反対に「算数が好き」と答えた子
どもは、年々低下し、二〇〇〇年度には三五%弱しかいない。

原因はいろいろあるのだろうが、「日本の教育がこのままでいい」とは、だれも考えていない。
少なくとも、「(日本の教育が)国際的にみてトップクラスを維持していると言える」というのは、も
はや幻想でしかない。

++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

【追記】

 この原稿を書いてから、数年。この数年の間に、日本の教育事情は、大きく変わりつつあ
る。「自由化」とまではいかないにしても、とくに私立中学、私立高校における変化が、すさまじ
い。

 私たちが子どものころには、絶対的であったカリキュラムにしても、現在、それを順守してい
る学校は、ほとんどない。中1で、中2の教科内容にふみこんでみたり、あるいは前後を、その
つど、入れかえてみたりするという授業が、ごくふつうのこととしてなされるようになってきてい
る。

 教科書をほとんど使わず、それぞれの教師が用意したテキストを使って、自由に教育をして
いる学校も少なくない。補習用というよりは、受験用だが、しかしそういう意味での、自由化は、
たしかに進んでいる。

 入試問題の内容も、大きく様変わりしている。だいたいの学力は、学校が用意する内申書を
見て判断し、本番の入学試験では、(考える力)を試すという問題が多くなった。

 たとえば、「沼で、ザリガニをつかまえようと思います。どんな方法がありますか。ザリガニの
つかまえ方を、具体的に書いてください」(H市N高中等部入試問題・05年)、など。

 こうした傾向は、今後、さらに全国的に広がっていくものと思われる。

 だから、全世界共通の、つまりは、今まで私たちがイメージとしてもっている(学力の概念)
は、これから先、大きく変わってくる。先に書いたような、(学力の国際比較)そのおのが、それ
ほど、意味をもたなくなる。

 ある中国人の女性(北京出身)は、こう言った。「中国では、小学1年で、掛け算を教える。日
本は、2年で教える。中国の教育水準は、高い。日本の教育水準、低い、あるね」と。

 しかし今は、そういうことで、学力を比較する時代ではない。
(はやし浩司 学力 子供の学力 教育の自由化 何が学力か)


++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司


最前線の子育て論byはやし浩司(818)

【夏休み・子ども用・読み物】(しおちゃんのために……)

短編byはやし浩司

++++++++++++++++++

しおちゃんへ

いつも小説を書いて見せてくれてありがとう。
お返しに、ぼくも、小説を書いてみました。
楽しんでください。

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★不思議な親子

●足洗い橋

 私は毎年、夏になると、その川にやってくる。岐阜市から、バスで、3時間あまり。イ長良川の
本流というか、そのあたりの人はK川と呼んでいる。そのK川の、そのまた本流? 川の名前は
知らないが、そんな山の中にあって、そのあたりだけは、いつも豊かな水量をためて、ゆっくり
と流れている。

 私は、その川を包む風景が、好きだった。一番遠くに、日本アルプスの青い山脈をいだき、
その手前には、幾重にも重なった山々が連なっていた。それを前にして立つと、心の底まで洗
われるような、神々しささえ感ずる。

 私が歩くコースは、いつも決まっていた。「足洗い橋」というバス停でおりる。そこから、川に沿
って、下流に向って歩く。距離にすれば、10キロ前後か。山道だから、実際には、もう少し長い
かもしれない。

 山奥に一軒だけの温泉宿と、小さな部落がある。そのため、その道を走る車は、ほとんど、
ない。バスも、昼間は、数時間に1本あるかないかというところ。私は、足洗い橋でバスをおり
ると、大きく、腕を広げて、深呼吸を繰りかえした。

 岐阜市で、気温は、30度を越えていた。しかしこのあたりまでくると、森のひんやりとした冷
気で、どことなく寒さを感ずる。私は背中の荷物をもう一度確かめたあと、川下に向って、歩き
始めた。わたしにとっては、まさに、至極の時である。

 そうそう言い忘れたが、私の名前は、斉藤武志(さいとうたけし)。年齢は32歳。仕事は、妻
と2人で、名古屋市内で、司法書士事務所を開いている。子どもは、いない。一応、「斉藤司法
書士事務所」という看板をあげているが、資格をもっているのは、妻のほうで、私ではない。夫
の私が、妻の事務員というわけ。

 しかしほとんどの仕事は、私がしている。

 妻もそういう私の立場をよく理解しているらしい。私が、「旅に出かける」と言うと、何も言わ
ず、お金だけ、渡してくれる。そして私は、そのお金をもって、こうして旅に出る。

●川を流れる子ども

 私は、橋の上に立った。足洗い橋というのは、その橋をいう。山の中の橋だというのに、場違
いなほどに、広く、がんじょうにできている。ふつう橋というのは、川幅が狭くなったところに建て
られるもの。しかしその橋は、むしろ、広くなったところを選んで、建てられたようだ。

 ときどき大水が流れる。その大水から、橋を守るために、わざとそうしたらしい。

 橋はともかくも、その橋の上から見る景色は、すばらしい。左右のバランスがよい。どんな画
家でも、ここまで調和のとれた山水画を描くことはできないだろう。ほどよく曲がりくねった川。
まっ白な川原。澄んだクリスタル色の水。

 私は、橋の欄干(らんかん)に体を寄せると、川上のほうを、目で、たどった。流れくる川の動
きを、つぎつぎと見やりながら、またその先を見る。音もなく、ゆるやかな波をくねらせながら、
ゆったりと流れる川。しばらく見ていると、心臓の鼓動までが、それに合わせて鼓動を始める。

 5分……、10分……。一度、明るい日差しを避けるために、帽子をかぶりなおしたが、私
は、そのまま、そこに立っていた。と、そのとき、ぞっとするようなものを、私は見た。「まさ
か!」と思ったが、そのまさか、だった。

 小さな子どもが、まっすぐ顔を上に向けたまま、しかし体全体を水につけた状態で、川上から
川下へと、流れていく! 右手には釣りざおをもっているが、その釣りざおの先だけが、水面か
ら顔を出していた。

 「人形か?」とも思った。しかしちょうどその子どもが、橋の真下にきたとき、私は、それはま
ちがいなく、人間の子どもだった。それを知った。心なしか、どこかニコニコ笑っているふうでも
あった。

 私は橋の反対側に走った。走りながら、背負ったリュックサックを、そこへ投げ捨てた。

 そしてもう一方の欄干の下をのぞくと、その子どもがちょうど、橋の下から顔を出して、川下
へ流れていくところだった。私はそのまま、足から、川の中へ飛び込んだ。

 ズシーンというアワの衝撃を受けた。私はすぐさま、手で前をこいだ。身を切るような冷たさ。
しかし子どもは、その間にも、さらに、10メートル近く先へと進んでいた。私は、手で、川の水を
こいだ。足は、重いズボンのせいか、動かない。

 が、驚いたことに、泳いでいないはずの子どもは、まるでレールに乗った電車のように、身動
き一つしないまま、スーッと、私から離れていく。年齢は、1歳くらいか。もっと小さいかもしれな
い。

 私は、もがくようにして、懸命に泳いだ。しかし子どもとの距離は、遠ざかるばかり。釣りざお
の先を見ながら、その方向に泳ぐのだが、体が思うように動かない。息がつづかない。私は身
の危険を感じて、そのまま川岸のほうへ身を寄せた。

 そして近くの岩に手をのばすと、その上に立った。立って、釣りざおの先をさがした。が、太陽
の光線を、逆行にあびて、釣りざおの先は、もう見えなかった。私は、どうすることもできなかっ
た。ただぼんやりと、その方向を見やるしかなかった。

●親子連れ

 私はズボンと、シャツを脱いだ。そしてそれをしぼると、岩から岩へとつたい、しげみを乗りこ
えて、小さな空き地へ出た。

 言いようのない虚脱感が私を襲った。「あれは人形だった」と何度も、自分に言ってきかせ
た。が、人形のはずはない。そんな思いがすぐ頭の中に浮かび、私の中にある迷いを、打ち消
した。

 「たしかに人間だった。人間の子どもだった」と。

 と、そのとき、川の上の道に、人の気配を感じた。見ると、そこに、母親らしき女性と、2人の
子どもが立っていた。1人は、小学5年生くらいの女の子。もう1人は、2年生くらいの男の子。

 私はそれを見ると、すぐ大きな声で、叫んだ。

 「今、小さな子どもが流れていきました。すぐ、警察に連絡してください」と。

 しかしその親子は、とくに動く様子でもなく、こちらをじっと見ている。警察といっても、このあ
たりにあるはずもない。それに、どうすれば、連絡がとれるのか? 見ると、私の携帯電話は、
胸のポケットの中で水につかっていた。

 私は、ぬれたズボンをはきなおすと、道に向って、岩を登り始めた。途中、小さなヤブがあっ
たが、最後の草を手でかき分けると、そのまま道に出た。

 「子どもが流されていきました!」と言いながら、その姉らしき子どもの手を見ると、そこに私
が橋で脱ぎ捨てたリュックサックがあった。

●会話 

私「子どもが……」
女の子「このあたりは、父が、生まれ育ったところです」
私「いや、そうではなく、今、子どもが川を流れていきました。まるで泳ぐように、スーッとです」
女「わかっています」
私「わかっています?、って……?」
女「気にしないでください」

 私は、その女の子の言うことが信じられなかった。母親のほうをみると、母親のほうは、さし
て気にしているふうでもなく、ニコニコと笑っている。もしあの川を流れていった子どもが、その
母親の子どもであったとしたら、笑っているばあいではない。

 すると、今度は、男の子が、声をかけた。「これで、いい。さあ、帰ろうか」と。

 生意気な言い方だった。私には、そう聞こえた。すると、姉らしき女の子も、そして母親らしき
女性も、それにうなずいた。

私「……やはり、あれは人形だったのですか?」と。

 しかし母親らしき女性は、何も答えなかった。気まずい雰囲気が流れた。

 私は彼らのうしろをついていくようにして、山の道を、川下に向って歩き始めた。

男の子「で、あなたは、どちらまで……」
私「とにかく、今日は、これで帰ります」
男「それは残念ですね」
私「とても、景色を楽しむ気分にはなれません」
男「で、どちらまで?」
私「一度、松本まで出て、そこから名古屋へ帰ります」

 相変わらず、乾いた白い光線だけが、あたりを明るく照らし出していた。私は母親らしき人に
向って、声をかけた。

私「このあたりに住んでいらっしゃるのですか?」
母親「そうよ。ずっと、ね。おじいちゃんも、喜んでいると思うわ」
私「おじいちゃんって?」
母親「おじいちゃんよ……」

 すると、女の子が、会話をさえぎった。

女「いいのよ。そんなこと言わなくても……」と。

●つぎのバス停まで

 バスの本数は少ないのに、バス停の数だけは、多かった。500〜800メートルごとに、それ
はあった。帰りの時刻を確かめると、つぎの松本行きのバスは、40分後にそのあたりを通る
はず。

 私は、頭の中で時間を計算した。

 できるだけ歩いていこう。ちょうどよいところで、バスに乗ろう。それまでに、服は乾くだろう、
と。

 私の頭から、あの子どもの顔が、離れなかった。あどけない顔をしていた。それに水の中に
顔を埋めたまま、どこかニコニコと笑っていた。おだやかな、やさしい顔をしていた。歩きながら
も、私の視線は、川のほうに釘づけになったままだった。

男の子「どこまで、歩いていくのですか?」
私「できるだけ先まで歩いて、そこでバスに乗ります」
男「じゃあ、そこまでいっしょに行きましょうか。これも、何かの縁ですから……」

 子どもが、「縁」という言葉を使ったのには、驚いた。「そうだ」と思いながら、「そうですね」とい
う言葉が、口から出てこなかった。

 生意気な子どもだと、また思った。年齢にしては、ませている。

 いくつかのバス停を通りすぎた。つぎのバス停でまっていれば、ほどよくバスがくるはず。そん
なことを思いながらも、視線だけは、川から離れない。どこかにその子どもが、流れ着いている
かのように、思えた。

 しかしどこにも子どもの姿はなかった。釣りざおもなかった。

●八草曲

 私はまがりくねった道を、その親子といっしょに、歩いた。おかしな親子だった。母親が、いち
ばん元気そうで、道の両側を行ったりきたり……。ときどき、夏草に隠れて咲く花をみつけて、
キャッ、キャッと喜んでいる。

 娘らしき女の子と、息子らしき男の子は、それを見ても、何も言わない。ただ黙々と、私の前
を歩いている。

私「私はつぎのバス停で、バスに乗りますから……」
女の子「八草曲(やくさまがり)ですね」
私「はあ、そういう名前ですか」
女「あそこには、薬草がたくさんあって、ときどき、薬草をとりにきます」
私「薬草のことを知っているの?」
女「もともとは薬草曲(やくそうまがり)と言っていたのですが、それがいつの間にか、八草曲に
なりました」
私「はあ……」

 すると女の子が言ったとおり、山の角を曲がると、そこは深い草々がおいしげる、広場になっ
ていた。ところどころに、沼も見える。何度も通ったはずなのに、今まで私は、その沼には気づ
かなかった。

 「今年は雨が多かったから、沼ができたのだろう」と、私は思った。

 バス停は、そこにあった。小さいが、イスも、そこにあった。時刻表どおりなら、バスは、あと
数分でくるはずだった。

 「ここでお別れします」と、私は母親らしき女性に声をかけたが、その母親は、返事をしなかっ
た。

 かわりに、男の子が、声をかけてきた。

男の子「あなたに、あんなところを見られるとは思ってもいませんでした。まずいものをお見せ
したようで、すみません」
私「何を、ですか?」
男「めったに人の来ないところですから……」
私「ですから、何を……?」

男「そろそろ、バスが来ますね。……実は、あなたが見た、あの子どもは、私の父なんです。こ
こにいる女性。多分、あなたは、この女性を、私の母親とでも思っているのでしょう。人間の世
界では、常識ですから。でも、本当は、私の娘なんです」
私「父親!?……娘!?」

男「実は、私たちは、カッパ族のものなのです。おとなで、生まれて、やがて、子どもになって、
死んでいく。だんだんと若くなって、そして死ぬんです。人間の世界とは、反対なんです。

いえ、私たちも、生まれたときは、このあたりに住んでいたのですが、いろいろ事情があって、
もっと山奥に住むようになりました。昔は、道路もなく、静かないいところだったのですが……

 私の父はこのあたりで、生まれ育ちました。それで父が死んだら、このあたりの川に流してや
ろうと、そう考えて、父をここへ連れてきました。

 死んだ人に、釣りざおをもたせるのは、私たちカッパ族の、昔から伝わる、風習なんです。ど
うか、気にしないでください。いや、どうか、これ以上、心配しないように。父は、これで安らかに
天国へ行ったと思います。

 しばらくすると、私たちカッパ族のものは、川の水に溶けてしまうのです」と。

 そのとき、背後から、バスがきた。私は何かに追いたてられるようにバスに乗った。乗って、
すぐうしろを振りかえってみたが、もうそこには、だれもいなかった。白い道だけが、よけいに白
く見えた。その白い道だけが、どんどんと、うしろへ、うしろへと、遠ざかっていった。
(はやし浩司 短編小説 K・しおちゃんのために)


++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

最前線の子育て論byはやし浩司(819)

●『深い川は静かに流れる』

 『深い川は静かに流れる』は、イギリスの格言。日本でも、『浅瀬に仇(あだ)波』という。つまり
思慮深い人は、静か。反対にそうでない人は、何かにつけてギャーギャーと騒ぎやすいという
意味。

 子どももそうで、その子どもが思慮深いかどうかは、目を見て判断する。思慮深い子どもの
目は、キラキラと輝き、静かに落ち着いている。会話をしていても、じっと相手を見据えるような
鋭さがある。が、そうでない子どもは、そうでない。

 私は先日、ある女性代議士の目をテレビで見ていて驚いた。その女性は何かのインタビュー
に答えていたのだが、その視線が空を見たまま、一秒間に数回というようなはやさで、左右、
上下にゆれていたのだ。それはまさに異常な視線だった。

その女性代議士は、毒舌家として有名で、言いたいことをズバズバ言うタイプの人だが、しかし
それは知性から出る言葉というより、もっと別のところから出る言葉ではないのか。私はそれを
疑った。これ以上のことはここには書けないが、そういうどこかメチャメチャな人ほど、マスコミ
の世界では受けるらしい。

 が、この時期、親というのは、外見的な派手さだけを見て、子どもを判断する傾向が強い。た
とえば本読みにしても、ペラペラと、それこそ立て板に水のように読む子どもほど、すばらしい
と評価する。しかし実際には、読みの深い子どもほど、一ページ読むごとに、挿絵を見たりし
て、考え込む様子を見せる。読み方としては、そのほうが好ましいことは言うまでもない。

 これも子どもをみるとき、よく誤解されるが、「情報や知識の量」と、「思考力」は、別。まったく
別。モノ知りだから、頭のよい子どもということにはならない。子どもの頭のよさは、どれだけ考
える力があるかで判断する。同じように、反応がはやく、ペラペラと軽いことをしゃべるから、頭
のよい子どもということにはならない。

むしろこのタイプの子どもは、思考力が浅く、考えることそのものから逃げてしまう。何か、パズ
ルのような問題を与えてみると、それがわかる。考える前に、適当な答をつぎからつぎへと口
にする。そして最後は、「わからない」「できない」「もう、いや」とか言い出す。

 その「考える力」は、習慣によって生まれる。子どもが何かを考える様子を見せたら、できる
だけそっとしておく。そして何か新しい考えを口にしたら、「すばらしいわね」「おもしろいね」と、
それを前向きに引き出す。そういう姿勢が、子どもの考える力を伸ばす。


●不自然さは要注意

 子どもの動作や、言動で、どこか不自然さを感じたら、要注意。反応や歩き方、さらにはしぐ
さなど。「ふつう、子どもなら、こうするだろうな」と思うとき、子どもによっては、そうでない反応
を示すことがある。最近、経験した例をいくつかあげてみる。

○教室へ入ってくるやいなや、突然大声で、「先生、先週、ここにシャープペンシルは落ちてい
ませんでしたか!」と。「気がつかなかった」と答えると、大げさなジェスチャでその女の子(小
五)は、あたりをさがし始めた。しばらくすると、「先生、今日は、筆箱を忘れました」と。そこで
私が、「忘れたら忘れたで、最初からそう言えばいいのに」とたしなめると、さらに大きな声で、
「そんなことはありません!」と。そして授業中も、どうも納得できないというような様子で、とき
おり、あたりをさがすマネをしてみせる。私が「もういいから、忘れなさい」と言うと、「いえ、たし
かにここに置きました!」と。

○A君(小三男児)が、連絡ノートを忘れた。そこでまだ教室に残っていたB君(小三男児)にそ
れを渡して、「まだA君はそのあたりにいるはずだから、急いでもっていってあげて!」と叫ん
だ。が、B君はおもむろに腰をあげ、のんびりと自分のものを片づけたあと、ノソノソと歩き出し
た。それではまにあわない。そこで私が「いいから、走って!」と促すと、こちらをうらめしそうな
顔をして見るのみ。そしてゆっくりと教室の外に消えた。

○R子(小六)が教室に入ってきたので、いつものように肩をポンとたたいて、「こんにちは」と
言ったときのこと。何を思ったからR子は、いきなり私の腹に足蹴りをしてきた。「この、ヘンタイ
野郎!」と。ふつうの蹴りではない。R子は空手道場に通っていた。私はしばらく息もできない
状態で、その場にうずくまってしまった。そのときR子の顔を見ると、ぞっとするような冷たい目
をしていた。

 こうした「ふつうでない様子」を見たら、それを手がかりに、子どもの心の問題をさぐってみ
る。何かあるはずである。が、このとき大切なことは、そうした症状だけをみて、子どもを叱った
り、注意してはいけないということ。何か原因があるはずである。だからそれをさぐる。

たとえばシャープペンシルをさがした女の子は、異常とも言えるような親の過関心で心をゆが
めていた。B君は、いわゆる緩慢行動を示した。精神そのものが萎縮している子どもによく見ら
れる症状である。また私を足蹴りにした女の子は、そのころ父親から性的虐待を受けていた、
など。

 一方、心がまっすぐ伸びている子どもは、行動や言動が自然である。「すなお」という言い方
のほうがふさわしい。こちらの予想どおりに反応し、そして行動する。心を開いているから、や
さしくしてあげたり、親切にしてあげると、そのやさしさや親切が、スーッと子どもの心にしみて
いくのがわかる。そしてうれしそうにニコニコと笑ったりする。「おいで」と手を広げてあげると、
そのままこちらの胸に飛び込んでくる。そこであなたの子どもを観察してみてほしい。何人か子
どもが集まっているようなところで観察するとわかりやすい。もしあなたの子どもの行動や言動
が自然であればよい。しかしどこか不自然であれば、あなたの子育てのし方そのものを反省し
てみる。子どもではない。あなた自身の、だ。


●質素を旨(むね)とする

 『見せる質素、見せぬぜいたく』という格言を考えた。子どもには、質素な生活は、どんどん見
せる。しかしぜいたくは、するとしても、子どものいないところで、また子どもの見えないところで
する。子どもというのは、一度、ぜいたくを覚えると、あともどりできない。だから、子どもにはぜ
いたくを、経験させない。

 質素とケチは、よく誤解される。質素であることイコール、貧乏ということでもない。質素という
のは、つつましく生活をすることをいう。身のまわりにあるものを大切に使いながら、ムダをで
きるだけはぶく。古いカーテンを利用して、枕カバーを作ったり、古いイスを修理して、子どもの
イスに作りかえたりする、など。そういう「工夫」のある生活をいう。

 人間関係もそうで、冠婚葬祭のような、はでな交際を「ぜいたく」とするなら、近所の人と、も
のを分けあって食べるような生活は、「質素」ということになる。要するに、こまやかな心が通い
あう生活を、質素な生活という。

●うしろ姿を押し売りしない

 生活のためや、子育てのために苦労している姿を、「親のうしろ姿」という。日本では、うしろ
姿を子どもに見せることを美徳のように考えている人がいるが、これは美徳でも何でもない。

子どもというのは、親が見せるつもりはなくても、親のうしろ姿を見てしまうかもしれないが、し
かしそれでも、親は親として、子どもの前では、毅然(きぜん)として生きる。そういう前向きの
姿が、子どもに安心感を与え、子どもを伸ばす。

 中には、うしろ姿を押し売りするだけでなく、さらに子どもに恩を着せる人がいる。「産んでや
った」「育ててやった」「大学を出してやった」と。このタイプの親は、依存心の強い、つまりは自
立できない親とみる。子育ての第一目標は、子どもを自立させること。親が自立しないで、どう
して子どもが自立できるのか。そういう意味でも、子どもには、親のうしろ姿は、見せない。

●死は厳粛に

 死があるから、生の大切さがわかる。死の恐怖があるから、生きる喜びがわかる。人の死の
悲しみがあるから、人が生きていることを喜ぶ。どんな宗教でも、死を教えの柱におく。その反
射的効果として、「生」を大切にするためである。

 子どもの教育においても、またそうで、子どもに生きることの大切さを教えたかったら、それ
がたとえペットの死であっても、死は厳粛にあつかう。もしあなたが、ペットが死んだようなとき、
それをゴミのようにあつかえば、あなたの子どもは、生きることそのものも、ゴミのようにあつか
うようになるかもしれない。

しかしあなたが、その死をいたみ、悲しめば、あなたの子どもは、そういうあなたの姿から、生
きることの大切さを学ぶようになるかもしれない。ここで「……しれない」と書くのは、あくまでも
そうするかどうかは、子どもの問題ということ。しかし子どもがどう判断するにせよ、その大前提
として、子どもの前では、死は厳粛にあつかう。


●一喜一憂しない

 子育ての度量の大きさは、(たて)X(横)X(高さ)で決まる。(たて)というのは、その人の住む
世界の大きさ。(横)というのは、人間的なハバ。(高さ)というのは、どこまで子どもを許し、忘
れるかという、その深さのこと。

 (たて)については、親の住む世界は、大きければ大きいほどよい。大きな目標をもち、多く
の人と接する。趣味を多くもち、交際範囲も広くする。

 (横)については、たとえば川のハバにたとえるとよい。人間的なハバの広い親は、一喜一憂
しない。そうでない親はそうでない。たとえばとなりの子どもが英語教室へ入ったと知ると、「さ
あ、たいへん」とばかり、自分の子どもも英語教室へ入れたりする。

 (高さ)というのは、つまるところ、親の愛の深さということになる。どこまで子どもを許し、どこ
まで子どもを忘れるかで、親の愛の深さは決まる。もちろんだからといって、子どもに好き勝手
なことをさせろということではない。要するに、あるがままの子どもを、どこまで受け入れること
ができるかということ。


●「今」を大切に

 過去なんてものは、どこにもない。未来なんてものも、どこにもない。あるのは、「今」という現
実。だからいつまでも過去を引きずるのも、また未来のために、「今」を犠牲にするのも、正しく
ない。「今」を大切に、「今」という時の中で、最大限、自分のできることを、懸命にがんばる。明
日は、その結果として、必ずやってくる。

 だからといって、記憶としての過去を否定するものではない。また何かの目標に向かって努
力することを否定するものでもない。しかし大切なのは、「今」という現実の中で、自分を光り輝
かせて生きていくこと。

たとえば子どもについても、幼稚園教育は小学校へ入学するため、小学校教育は中学校へ入
学するために、さらに高校教育は大学へ入学するためにあるのではない。こうした未来のため
に、いつも現在を犠牲にする生き方をしていると、いつまでたっても、「今」という時を、自分の
ものにできなくなってしまう。

 それではいけない。子どもは、小学生のときは小学生として、中学生のときは中学生として、
精一杯、自分を輝かせて生きる。そこに子どもの生きる価値がある。それともあなたは、今、
豊かな老後のために生きているとでもいうのか。しかし、そうは問屋がおろさない。老人に近づ
けば近づくほど、健康があやしくなる。頭の回転も鈍くなる。「やっと楽になったと思ったら、人
生も終わっていた」と。もしそうなれば、何のための人生だったか、わからなくなってしまう。だ
から、「今」を大切に。「今」という時のなかで、自分を完全に燃焼させながら生きる。繰りかえ
すが、明日は、その結果として、必ず、やってくる。


●『休息を求めて疲れる』

 イギリスの格言である。愚かな生き方の代名詞のようにもなっている格言である。つまり「い
つか楽になろう、楽になろうとがんばっているうちに、疲れてしまい、結局は何もできなくなる」と
いうこと。

 私も昔、商社に勤めていたころ、帰りには、大阪の阪急電車に乗っていた。しかしあの電車。
長い通路を歩いていると、発車ベルが鳴るしくみになっていた。そこであわてて走り出し、電車
に飛び乗るのだが、しかしそうして乗った電車には空席がなかった。で、ある日、私は気がつ
いた。一つだけ、つぎの電車を待てば、座席に座ることができる、と。時間にすれば、たったの
一五分である。

 今でも、多くの人は、毎日、毎日、あわてて電車に乗るような生活をしている。早く家に帰って
休息したいと思ってそうするが、しかし電車に飛び乗るために、最後のエネルギーを使いはた
してしまう。疲れてしまう。そして何もできなくなってしまう。しかしほんの少し考え方を変えれ
ば、あなたの生活はみちがえるほど、豊かになる。方法は簡単。あなたも一五分だけ、時間を
あとにずらせばよい。


●生きる源流を大切に

 「子どもがここに生きている」という源流に視点をおくと、子育てにまつわるあらゆる問題は、
解決する。

 私は、三人の息子のうち、あやうく二人の息子を、海でなくしかけたことがある。とくに二男が
助かったのは、奇跡中の奇跡だった。だからそのあと、二男に何か問題が起きるたびに、私
は「こいつは生きているだけでいい」と思いなおすことで、すべての問題を解決することができ
た。

不登校を繰りかえしたときも、受験勉強を放棄したときも、「いいよ、いいよ、お前は生きている
だけで」と。そういうおおらかさが、かえって、二男を伸びやかにした。

 あなたももし、子育てをしていて、行きづまりを感じたら、この源流から、子どもを見てみると
よい。それですべての問題は解決する。


●友を責めるな(中日新聞発表済み)

 あなたの子どもが、あなたから見て好ましくない友人とつきあい始めたら、あなたはどうする
だろうか。しかもその友人から、どうもよくない遊びを覚え始めたとしたら……。こういうときの
鉄則はただ一つ。『友を責めるな、行為を責めよ』、である。これはイギリスの格言だが、こうい
うことだ。

 こういうケースで、「A君は悪い子だから、つきあってはダメ」と子どもに言うのは、子どもに、
「友を取るか、親を取るか」の二者択一を迫るようなもの。あなたの子どもがあなたを取ればよ
し。しかしそうでなければ、あなたと子どもの間には大きな亀裂が入ることになる。

友だちというのは、その子どもにとっては、子どもの人格そのもの。友を捨てろというのは、子
どもの人格を否定することに等しい。あなたが友だちを責めれば責めるほど、あなたの子ども
は窮地に立たされる。そういう状態に子どもを追い込むことは、たいへんまずい。ではどうする
か。

 こういうケースでは、行為を責める。またその範囲でおさめる。「タバコは体に悪い」「夜ふか
しすれば、健康によくない」「バイクで夜騒音をたてると、眠れなくて困る人がいる」とか、など。
コツは、決して友だちの名前を出さないようにすること。子ども自身に判断させるようにしむけ
る。そしてあとは時を待つ。

 ……と書くだけだと、イギリスの格言の受け売りで終わってしまう。そこで私はもう一歩、この
格言を前に進める。そしてこんな格言を作った。『行為を責めて、友をほめろ』と。

 子どもというのは自分を信じてくれる人の前では、よい自分を見せようとする。そういう子ども
の性質を利用して、まず相手の友だちをほめる。「あなたの友だちのB君、あの子はユーモア
があっておもしろい子ね」とか。「あなたの友だちのB君って、いい子ね。このプレゼントをもっ
ていってあげてね」とか。

そういう言葉はあなたの子どもを介して、必ず相手の子どもに伝わる。そしてそれを知った相
手の子どもは、あなたの期待にこたえようと、あなたの前ではよい自分を演ずるようになる。つ
まりあなたは相手の子どもを、あなたの子どもを通して遠隔操作するわけだが、これは子育て
の中でも高等技術に属する。ただし一言。

 よく「うちの子は悪くない。友だちが悪いだけだ。友だちに誘われただけだ」と言う親がいる。
しかし『類は友を呼ぶ』の諺どおり、こういうケースではまず自分の子どもを疑ってみること。祭
で酒を飲んで補導された中学生がいた。親は「誘われただけだ」と泣いて弁解していたが、調
べてみると、その子どもが主犯格だった。……というようなケースは、よくある。

自分の子どもを疑うのはつらいことだが、「友が悪い」と思ったら、「原因は自分の子ども」と思
うこと。だからよけいに、友を責めても意味がない。何でもない格言のようだが、さすが教育先
進国イギリス!、と思わせるような、名格言である。


●仕事に誇りを

 あなたが母親なら、子どもの前ではいつも、父親(夫)の仕事をたたえる。ほめる。「あなたの
お父さんは、すばらしい仕事をしているのよ」「私は、お父さんを尊敬しているのよ」「お父さんし
か、その仕事はできないのよ」と。まちがっても、あなたは父親(夫)の仕事を批判したり、けな
してはいけない。これは家庭教育の、大原則。それが世間一般の基準からしても、だ。(世間
一般の基準など、気にしてはいけない。)

 ある母親は、自分の息子に、「お父さんの仕事は汚(きたな)いから、いやね」といつも言って
いた。父親の仕事は、井戸掘り職人だった。何かにつけて、家の中が汚(よご)れた。それをそ
の母親は嫌った。また別の母親は、娘に対して、いつもこう言っていた。

「あんたのお父さんは、会社の倉庫番よ。ただの倉庫番」と。しかしそういうことを言ったところ
で、それが何になるのか? 言う必要もないし、言ったところで、マイナスになることはあって
も、プラスになることは、何もない。それだけではない。子どもはやがて、父親はもちろんのこ
と、母親の指示にも、従わなくなる。

 親は親として、自分の仕事に誇りをもち、前向きに生きる。そういう姿勢が、子どもに安心感
を与え、子どもを伸ばす。

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これに関連して、中日新聞掲載記事から
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●未来を脅さない

 赤ちゃんがえりという、よく知られた現象が、幼児の世界にある。下の子どもが生まれたこと
により、上の子どもが赤ちゃんぽくなる現象をいう。急におもらしを始めたり、ネチネチとしたも
のの言い方になる、哺乳ビンでミルクをほしがるなど。定期的に発熱症状を訴えることもある。

原因は、本能的な嫉妬心による。つまり下の子どもに向けられた愛情や関心をもう一度とり戻
そうと、子どもは、赤ちゃんらしいかわいさを演出するわけだが、「本能的」であるため、叱って
も意味がない。

 これとよく似た現象が、小学生の高学年にもよく見られる。赤ちゃんがえりならぬ、幼児がえ
り、である。先日も一人の男児(小五)が、ボロボロになったマンガを、大切そうにカバンの中か
ら取り出して読んでいたので、「何だ?」と声をかけると、こう言った。「どうせダメだと言うんで
チョ。ダメだと言うんでチョ」と。

 原因は成長することに恐怖心をもっているためと考えるとわかりやすい。この男児のばあい
も、日常的に父親にこう脅されていた。「中学校の受験勉強はきびしいぞ。毎日、五、六時間、
勉強をしなければならないぞ」「中学校の先生は、こわいぞ。言うことを聞かないと、殴られる
ぞ」と。こうした脅しが、その子どもの心をゆがめた。

 ふつう上の子どものはげしい受験勉強を見ていると、下の子どもは、その恐怖心からか、お
となになることを拒絶するようになる。実際、小学校の五、六年生児でみると、ほとんどの子ど
もは、「(勉強がきびしいから)中学生になりたくない」と答える。そしてそれがひどくなると、ここ
でいうような幼児がえりを起こすようになる。

 話は少しそれるが、こんなこともあった。ある母親が私のところへやってきて、こう言った。「う
ちの息子(高二)が家業である歯科技工士の道を、どうしても継ぎたがらなくて、困っています」
と。それで「どうしたらよいか」と。そこでその高校生に会って話を聞くと、その子どもはこう言っ
た。

「あんな歯医者にペコペコする仕事はいやだ。それにうちのおやじは、仕事が終わると、
『疲れた、疲れた』と言う」と。そこで私はその母親に、こうアドバイスした。「子どもの前では、家
業はすばらしい、楽しいと言いましょう」と。結果的に今、その子どもは歯科技工士をしている
ので、私のアドバイスは、それなりに効果があったということになる。さて本論。

 子どもの未来を脅してはいけない。「小学校では宿題をしないと、廊下に立たされる」「小学校
では一〇、数えるうちに服を着ないと、先生に叱られる」などと、子どもを脅すのはタブー。子ど
もが一度、未来に不安を感ずるようになると、それがその先、ずっと、子どものものの考え方
の基本になる。そして最悪のばあいには、おとなになっても、社会人になることそのものを拒絶
するようになる。事実、今、おとなになりきれない成人(?)が急増している。二〇歳をすぎて
も、幼児マンガをよみふけり、社会に同化できず、家の中に引きこもるなど。要は子どもが幼
児のときから、未来を脅さない。この一語に尽きる。

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●逃げ場を大切に

 どんな動物にも、最後の逃げ場というのがある。もちろん人間の子どもにもある。子どもがそ
の逃げ場へ逃げ込んだら、親はその逃げ場を荒らしてはいけない。子どもはその逃げ場に逃
げ込むことによって、体を休め、疲れた心をいやす。たいていは自分の部屋であったりする
が、その逃げ場を荒らすと、子どもの情緒は不安定になる。ばあいによっては精神不安の遠
因ともなる。

あるいはその前の段階として、子どもはほかの場所に逃げ場を求めたり、最悪のばあいに
は、家出を繰り返すこともある。逃げ場がなくて、犬小屋に逃げた子どももいたし、近くの公園
の電話ボックスに逃げた子どももいた。またこのタイプの子どもの家出は、もてるものをすべて
もって、一方向に家出するというと特徴がある。買い物バッグの中に、大根やタオル、ぬいぐる
みのおもちゃや封筒をつめて家出した子どもがいた。(これに対して目的のある家出は、その
目的にかなったものをもって家を出るので、区別できる。)

 子どもが逃げ場へ逃げたら、その中まで追いつめて、叱ったり説教してはいけない。子ども
が逃げ場へ逃げたら、子どものほうから出てくるまで待つ。そういう姿勢が子どもの心を守る。
が、中には、逃げ場どころか、子どものカバンの中や机の中、さらには戸棚や物入れの中まで
平気で調べる親がいる。仮に子どもがそれに納得したとしても、親はそういうことをしてはなら
ない。こういう行為は子どもから、「私は私」という意識を奪う。

 これに対して、親子の間に秘密はあってはいけないという意見もある。そういうときは反対の
立場で考えてみればよい。いつかあなたが老人になり、体が不自由になったとする。そういうと
きあなたの子どもが、あなたの机の中やカバンの中を調べたとしたら、あなたはそれを許すだ
ろうか。プライバシーを守るということは、そういうことをいう。秘密をつくるとかつくらないとかい
う次元の話ではない。

 むずかしい話はさておき、子どもの人格を尊重するためにも、子どもの逃げ場は神聖不可侵
の場所として大切にする。


●守護霊にならない

 昔、『砂場の守護霊』という言葉があった。今でも、ときどき使われる。子どもたちが砂場で遊
んでいるとき、その背後で、守護霊よろしく、子どもたちを見守る親の姿をもじったものだ。

 もちろん幼い子どもは、親の保護が必要である。しかし親は、守護霊になってはいけない。た
とえば……。

 子どもどうしが何かトラブルを起こすと、サーッとやってきて、それを制したり、仲裁したりする
など。こういう姿勢が日常化すると、子どもは自立できない子どもになってしまう。できれば、親
は親どうしで勝手なことをしたらよい。

 ……と書きつつ、こうした親どうしの世界にも、一定のルールがあるという。たとえば母親たち
にも序列があって、その母親たちがすわるベンチの位置、場所も、決まっているという。さらに
服装、マナーまで。ある母親がそれを話してくれたが、何とも息苦しい世界に思えた。

 それはともかくも、子どもの世界のことは子どもに任せる。そういうニヒリズムが、子どもを自
立させる。


●同居は、出産前に

ずいぶんと前だが、「好かれるおじいちゃん、おばあちゃん」というテーマで、アンケート調査を
してみた。結果わかったことは、(1)子どもの教育に口を出さない、(2)健康であることがわか
った。ついでにした調査では、こんなこともわかった。

 「祖父母との同居をどう思うか」という質問だったが、総じてみれば、子どもが生まれる前から
同居した例では、「うまくいっている」。しかし子どもが生まれたあと同居した例では、「うまくいっ
ていない」だった。そんなわけで、祖父母と同居するにしても、子どもが生まれる前から同居し
たほうがよい。

 なお、子どもをはさんでの、嫁と舅(しゅうと)姑(しゅうとめ)との争いは、この世界ではよくあ
る。相談も多い。そういうときは、別居もしくは離婚が考えられないようであれば、母親(嫁)が
あきらめて、舅、姑に迎合するのがよい。そして母親は母親で、勝手なことをすればよい。「お
ばあちゃんたちがいらしてくださるから、本当に助かります」と。

 おじいちゃん子、おばあちゃん子にも、たしかにいろいろ問題はある。あるが、全体としてみ
れば、マイナーな問題。デメリットよりも、メリットのほうが多い。だから「あきらめる」。もちろん
そうでなければ、別居もしくは離婚を考える。しかしこれは、最終手段。


●許して忘れる
 『許して忘れる』の子育て論は、はやし浩司のオリジナルの持論。今では、あちこちで言われ
るようになった。うれしいことだ。

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もう、一〇年近く前に書いた原稿を転載します。
中日新聞に掲載済み
++++++++++++++++++++++

●生きる源流に視点を

 ふつうであることには、すばらしい価値がある。その価値に、賢明な人は、なくす前に気づ
き、そうでない人は、なくしてから気づく。青春時代しかり、健康しかり、そして子どものよさも、
またしかり。

 私は不注意で、あやうく二人の息子を、浜名湖でなくしかけたことがある。その二人の息子が
助かったのは、まさに奇跡中の奇跡。たまたま近くで国体の元水泳選手という人が、魚釣りを
していて、息子の一人を助けてくれた。以来、私は、できの悪い息子を見せつけられるたびに、
「生きていてくれるだけでいい」と思いなおすようにしている。

が、そう思うと、すべての問題が解決するから不思議である。特に二男は、ひどい花粉症で、
春先になると決まって毎年、不登校を繰り返した。あるいは中学三年のときには、受験勉強そ
のものを放棄してしまった。私も女房も少なからずあわてたが、そのときも、「生きていてくれる
だけでいい」と考えることで、乗り切ることができた。

 昔の人は、いつも、『上見てきりなし、下見てきりなし』とよく言った。戦前の教科書に載ってい
た話らしい。人というのは、上を見れば、いつまでたっても満足することなく、苦労や心配の種
はつきないものだという意味だが、子育てで行きづまったら、子どもは下から見る。「下を見ろ」
というのではない。下から見る。「子どもが生きている」という原点から、子どもを見つめなおす
ようにする。

朝起きると、子どもがそこにいて、自分もそこにいる。子どもは子どもで勝手なことをし、自分
は自分で勝手なことをしている……。一見、何でもない生活かもしれないが、その何でもない生
活の中に、すばらしい価値が隠されている。つまりものごとは下から見る。それができたとき、
すべての問題が解決する。

 子育てというのは、つまるところ、「許して忘れる」の連続。この本のどこかに書いたように、フ
ォ・ギブ(許す)というのは、「与える・ため」とも訳せる。またフォ・ゲット(忘れる)は、「得る・た
め」とも訳せる。

つまり「許して忘れる」というのは、「子どもに愛を与えるために許し、子どもから愛を得るため
に忘れる」ということになる。仏教にも「慈悲」という言葉がある。この言葉を、「as you like」と英
語に訳したアメリカ人がいた。「あなたのよいように」という意味だが、すばらしい訳だと思う。こ
の言葉は、どこか、「許して忘れる」に通ずる。

 人は子どもを生むことで、親になるが、しかし子どもを信じ、子どもを愛することは難しい。さ
らに真の親になるのは、もっと難しい。大半の親は、長くて曲がりくねった道を歩みながら、そ
の真の親にたどりつく。楽な子育てというのはない。

ほとんどの親は、苦労に苦労を重ね、山を越え、谷を越える。そして一つ山を越えるごとに、そ
れまでの自分が小さかったことに気づく。が、若い親にはそれがわからない。ささいなことに悩
んでは、身を焦がす。先日もこんな相談をしてきた母親がいた。東京在住の読者だが、「一歳
半の息子を、リトミックに入れたのだが、授業についていけない。この先、将来が心配でならな
い。どうしたらよいか」と。こういう相談を受けるたびに、私は頭をかかえてしまう。
 

●三種類の愛

 親が子どもに感ずる愛には、三種類ある。本能的な愛、代償的な愛、それに真の愛である。

本能的な愛というのは、若い男性が女性の裸を見たときに感ずるような愛をいう。たとえば母
親は赤ん坊の泣き声を聞くと、いたたまれないほどのいとおしさを感ずる。それが本能的な愛
で、その愛があるからこそ親は子どもを育てる。もしその愛がなければ、人類はとっくの昔に滅
亡していたことになる。

 つぎに代償的な愛というのは、自分の心のすき間を埋めるために子どもを愛することをいう。

一方的な思い込みで、相手を追いかけまわすような、ストーカー的な愛を思い浮かべればよ
い。相手のことは考えない、もともとは身勝手な愛。子どもの受験競争に狂奔する親も、同じよ
うに考えてよい。「子どものため」と言いながら、結局は親のエゴを子どもに押しつけているだ
け。

●子どもは許して忘れる

三つ目に真の愛というのは、子どもを子どもとしてではなく、一人の人格をもった人間と意識し
たとき感ずる愛をいう。その愛の深さは子どもをどこまで許し、そして忘れるかで決まる。

英語では『Forgive & Forget(許して忘れる)』という。つまりどんなに子どものできが悪くても、
また子どもに問題があっても、自分のこととして受け入れてしまう。その度量の広さこそが、ま
さに真の愛ということになる。

それはさておき、このうち本能的な愛や代償的な愛に溺れた状態を、溺愛という。たいていは
親側に情緒的な未熟性や精神的な問題があって、そこへ夫への満たされない愛、家庭不和、
騒動、家庭への不満、あるいは子どもの事故や病気などが引き金となって、親は子どもを溺愛
するようになる。


++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司


最前線の子育て論byはやし浩司(820)

【近ごろ・あれこれ】

●K会(仏教系宗教団体)で逮捕者!

 テレビニュース。どこかの仏教系宗教団体の信者が、逮捕された。その信者の属する教団
が、家宅捜索を受けた。強引な、布教活動をしたらしい。何でも、若い人を監禁して、「入信す
れば、幸福になれる。入信を断れば、地獄へ落ちる」と、脅(おど)したらしい。

 その少し前だが、1人の少女が、ある教団の内部で、死亡したという事件も起きている。もと
もと小児糖尿病の患者だった。その少女に、「病気がなおる」と言って、その教団では、「?」な
薬だけを与えていたらしい。

 ともに詳しい内容は、わからないので、これ以上のコメントは、できない。前の、監禁事件に
ついては、今でこそ、少なくなったが、少し前まで、こうした勧誘方法は、どこの教団でもしてい
た。ほとんど誘拐(ゆうかい)に近い形で、信者を勧誘していた宗教団体もあった。

 つぎの少女死亡事件についてだが、その家族は、その教団で、葬儀をあげたという。娘が死
んでしまった以上、今さら「私たちがまちがっていました」とは、とても言えなかったのだろう。そ
れを認めると、娘を殺したのは、自分たちだということになってしまう。

 親としてはつらいところだが、(地獄)まで、いっしょに、ついていくしかない。

 で、地獄論。

 この地獄論については、もう何度も、書いてきた。それはそれとして、そこらの宗教団体の信
者ごときに、幸福になれるとか、地獄へ落ちるとか、どうしてそんなことがわかるのか。相手に
向って、どうしてそんなことが言えるのか。

 だいたいにおいて、「地獄論」を口にする宗教団体は、あやしげな宗教団体と、まず疑ってか
かってみてよい。仮に地獄があるとしても、相手がその地獄へ落ちそうになったら、その人が
地獄へ落ちないように祈ってやるのが、信仰というもの。

 自分のために、自分の利益を祈って信仰するのは、信仰ではない。ただの、気休め。おまじ
ない。

 K会には、K会の考え方があるのだろう。親が自分の娘の病気を、その教団に託したのにも、
その親なりの考え方があるのだろう。情報不足なので、これ以上のことはここには書けない。

 しかし、これだけは言える。

 こうした宗教団体があるから、こうした信者が生まれるのではない。そういう宗教団体を求め
る信者がいるから、そういう宗教団体が生まれる。だから宗教団体を批判したり、否定しても、
意味はない。

 私たち1人ひとりがもつ、心のすき間というか、もろさがあるかぎり、これからも、こうした事件
は、つぎつぎと起きる。まさにモグラたたきの、モグラのように……。


●6か国協議

 北京で開かれている6か国協議が、今日(29日)で、4日目に入った。ロシアの代表団は、
「進展なし」と、一時帰国をにおわせている。

 韓国は、「日・米・韓の結束は、バラバラ。(アメリカの態度が硬化しているのは)、日本が、ウ
ラで根回しをしているため」(C日報)と報道している。

 アメリカは、「核開発の放棄を明言するのが先」と言っているし、K国は、「韓国のみならず、
極東から、核兵器をすべて取りのぞけ」というようなところまで言い出している。

 日本は、絶対に、アメリカとK国の間で、平和条約(=不可侵条約)を結ばせてはならない。
体を張ってでも、結ばせてはならない。

 もしそうなれば、日米安保条約そのものが、死文化する!

 つまり日本とK国が、戦争状態になっても、アメリカは、何も手出しできなくなる。K国は、それ
をねらっている!

 さらに今朝のヤフーニュースを見ると、「K国は、核兵器をまだもっていないかもしれない」(共
同通信)という報道もある。つまり、K国の核兵器は、(かかし=おどし)である、と。

 ますますわけがわからなくなってきた。もし、それが本当なら、K国は、核兵器をもっている
と、世界をおどしながら、プレゼントをだまし取ろうとしている? そんな疑惑すら、わいてきた。

 明日のことはわからないが、ブッシュ大統領も、それほど、気の長い人ではない。韓国を切り
捨てた上、北京から帰ってしまうかもしれない。一方、K国の金xxは、今回にかぎり、自分から
席を蹴って立つことはないはず。

 「これが最後」と、金xx自身も、知っているからだ。その山場を、今日、迎えるという。

 日本の安全を最優先に考えるなら、もう6か国協議など、どうでもよい。一刻も早く、この問題
は、国連の安保理に付託して、そこで討論してもらうこと。人権問題を、最前面に立てればよ
い。韓国はいやがるだろうが、もはや、韓国のN政権に遠慮だてする必要は、まったくない。


●暑い夏休み

 体というのは、不思議なものだ。(そんな大げさな話ではないかもしれないが……。)

 昨日も、暑さのせいで、午前中は、ダラダラ。自分の体をもてあましながら、「どうしたもの
か?」と思い悩んでいた。

 が、ひとたび、自転車にまたがると、そのダラダラが、吹き飛んでしまう。「軽快に……」とまで
はいかないにしても、体がスイスイと動く。

 30分も走っていると、汗が心地よい。体がどんどんと軽くなっていくのが、わかる。

 で、子どもたちも、夏休みに入った。

 こういうとき、親たちは、「自分の子どもを、勉強で、しぼってほしい」と思うかもしれない。しか
し最近の子どもたちは、そういう方法では、しぼれない。学力を伸ばすことはできない。

 子ども自身の中に、やる気(灯)をともして、その力で、自ら自分を引き出す(エデュース)する
ように仕向けなければならない。指導法も、欧米化してきている。

 ……というわけでもないが、7月の最終日ということで、今週は、子どもたちには、工作をさせ
ている。が、これが結構、たいへん。予定では、10〜20分ほどで、みなそれぞれの作品を完
成させると思っていたが、いざ、させてみると、中学生でも、30〜40分もかかってしまう。

 しかたないので、結局は、私が手伝うハメに……。

 もともと工作は嫌いではない。しかし一度に、何個もの工作を押しつけられると、うんざり。…
…ということで、今度は、教室の中で、汗、ダクダク。

 暑い夏休みが始まった! がんばろう! がんばります!

++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

●自己概念vs現実自己

心理学の世界には、自分で思い描く自分の姿を、「自己概念」という。そして現実の姿、つまり
は、他人から見た自分の客観的な姿を、「現実自己」という。

 この二つは、一致していればいるほど、よい。精神は、安定する。それだけではない。(自分
のしたいこと)と、(していること)が、一致すると、そこから夢や希望も生まれる。生きザマその
ものが、前向きになる。その一致した状態を、「自我の同一性」(アイデンティティ)という。

 この2つが、大きく食い違ってくると、おかしなことになる。そのことは、今のK国や韓国をみれ
ば、わかる。

 300万人以上もの飢えた人々。人口の約3分の2が、栄養失調状態(WHO)。工業は壊滅
状態。「工場は、すべて鉄くずと化した」(週刊・S誌)と。

 そんな状態で、何が、核兵器だ。朝鮮半島の非核化だ。

 韓国についても、同じことが言える。

 視点を、アメリカに移してみよう。アメリカのワシントンに移してみよう。

 ワシントンに住む人たちで、日本や韓国がどこにあるか、地図上で、正確にそれを指摘でき
る人は、まず、いない。大学生でも、いない。

 こと韓国について言うなら、(日本も、そうだが)、その韓国を、K国や、そのバックにいる中国
から守っているのは、ほかならぬアメリカである。韓国も、日本も、戦後、アメリカ軍が駐留して
いなければ、何度、戦禍に見舞われたことか!

 「日本の平和は、日本人が守った」と言う人がいる。しかしそんな見方は、世界では通用しな
い。もしアメリカ軍が日本に駐留していなければ、戦後の日本は、そのつど、スターリン・ソ連、
毛沢東・中国、李承晩・韓国、金日成・K国、金xx・K国の攻撃にさらされていた。

 「日本は、アメリカ軍によって廃墟にされたではないか」と説く人もいる。しかし仮にあの戦争
で、アメリカ軍に勝っていたとしても、そのあとすぐ、日本は、世界によって、あとかたもなく、解
体させられていたであろう。事実、あのナチス・ドイツは、敗戦と同時に、あとかたもなく、解体さ
せられてしまった。

 日本はともかくも、韓国にしても、事情は、同じ。最近では、「ビッグ・コリア」妄想にとりつか
れ、自分たちこそが、極東アジアの盟主であるようなことを言い出した。が、それは許せる。

 しかし一方で、自由主義貿易体制の中に身を置きながら、反米、反日を唱える、この矛盾
を、彼らは、いったい、どう説明するのか。

 一方で、米韓軍事同盟に守られながら、ことごとくアメリカに反発し、それにあきたらず、K国
や中国にすりよる、この矛盾を、彼らは、いったい、どう説明するのか。

 今回のK国の核問題にしても、本来なら、イの一番に、アメリカが抜けても、おかしくない問題
である。私が、アメリカ人なら、そうする。「K国の核問題は、日本や韓国の問題だ」「私たちに
は、関係ない」「どうぞ、ご勝手に」と。

 でないとするなら、どこのどの国が、K国の核問題を解決してくれるのか。ロシア? 中国? 
ドイツ? フランス? お人好しのアメリカだからこそ(失礼!)、極東のアジアまでノコノコやっ
てきて、いろいろ節介を焼いてくれる。

 K国もK国なら、韓国も韓国。現実の自分というものが、まるでわかっていない。世界は、朝
鮮半島を中心にして回っていると錯覚している?

 K国よ、韓国よ、現実を、もっとしっかりと見ようではないか。

 日本の山陰地方のS県、あるいはT県ほどのGDP(国力)しかないK国。日本の関東地方の
3分の1ほどのGDP(国力)しかない韓国。坊主(=日本)が憎いのは、わかる。理解できる。し
かし袈裟(けさ)まで憎んで、どうする?

 今回の6か国協議にしても、本来なら、日本や韓国が頭をさげて、アメリカにこう言うべきであ
る。

 「とても、あの国は、私たちの手に負えません。すみませんが、力を貸していただけません
か?」と。

 にもかかわらず、日本はともかくも、韓国は、K国側や中国側に立って、日本やアメリカに、こ
とごとく反発。北京での宿舎にしても、自分たちだけは、別のホテルに泊まっている。「韓国は、
日本やアメリカとは一線を画す」と。

 今回の6か国協議の流れを見ていると、アメリカは、本当に、よくやってくれている。かねてか
ら、K国は、そのつど、公式の場で、「核兵器開発は、日本向けのもの」「日本という国は、(こ
の地球に)存在させてはならない国」と、公言している。

 もし、今ここで、アメリカがいなければ……。想像するだけでも、ゾッとする。

 数年前のこと。日本とK国の緊張感が、極度に高まったとき、オーストラリアの国防省に勤め
るK君は、こうメールを書いてきてくれた。

 「ヒロシ、安心せよ。日本がK国に攻撃されたら、オーストラリアは、国連軍の名のもとに、た
だちにK国に反撃することになっている」と。

 それから数年後。そのオーストラリアは、イラクに駐留する自衛隊を守るために、軍隊まで派
遣してくれた。K君の言葉は、ウソではなかった。そこで私は考えてみる。

 もし反対の立場だったら、日本や韓国は、アメリカやオーストラリアのために、そこまでするだ
ろうか、と。

 あの韓国は、こう言っている。「仮に米朝戦争になっても、韓国は中立を守る」(N大統領)。と
んでもない意見だが、その(とんでもなさ)に、N大統領自身が、気がついていない?

 大統領選挙の演説中に、アメリカ国旗を手で破ってみせた。大統領に就任すると同時に、ワ
シントンへ特使を送り、在韓米軍の撤退を訴えた。

 そこでアメリカが、「我々は、望まれない地域には、軍隊(アメリカン・ボーイズ)を置かない」と
言ったとたん、「撤退は待ってほしい」「アメリカは、韓国を裏切るのか」の大合唱。

 今回の会議でも、K国は、在韓米軍の撤退を、一つの条件にしている(7・29)。しかしアメリ
カは、すでに、在韓米軍の撤退を開始している。完全に撤退するのも、もう時間の問題。アメリ
カ国防省ですら、「韓国がもつ戦略的意味は、なくなった」と公言している。

 が、そうなったとき、へたをすれば、韓国が、K国にのみこまれてしまう。現に今、もし南北合
同の大統領選挙が行われたら、K国の金xxが当選するだろうとさえ言われている。

 韓国の内部においてですら、金xxの支持者が、ふえている。

 韓国もK国も、(そして日本も)、他国から見た自国の客観的な姿が、まるでわかっていない。
つまりは、自分で思い描く自己概念と、現実の自分とが、完全に遊離している。しかしこれは日
本にとっては、たいへん、危険なことでもある。

 人間1人についていうなら、同一性の危機ていどの問題ですむ。が、国どうしのこととなると、
そのまま戦争の火種にすらなりかねない。実際、このままいけば、仮に、今回の6か国協議
で、K国の核問題は解決できたとしても、そのあとに日本を待ちかまえているのは、莫大な戦
後補償問題。そしてそれが決裂すれば、日本対南北朝鮮の全面戦争である。

 とても残念なことだが、日本は、今、私たちの意思とは無関係に、たいへん危険な状態に向
いつつある。

 そこで今、日本がすべきこと。

 冷静に、ただひたすら事務的に、かつ淡々と、人権問題を前面に押しだして、アメリカと共同
歩調をとることでしかない。あとは金xx体制の自然崩壊を待つしかない。

ここ数日の北京での会議が、日本の将来の命運を決めるといっても、過言ではない。

(この記事は、6か国協議のさなか、05年7月30日に書いたものです。発表時には、国際情
勢は、大きく変わっているかもしれません。)

(資料)

●世界のGDP(05年)

 アメリカ  ……  11兆6675億ドル
 日本    ……   4兆6234億ドル
 ドイツ   ……   2兆7144億ドル
 中国    ……   1兆6493億ドル
 韓国    ……     6797億ドル
    (世界銀行調べ・04年)

K国のGDP ……      150億ドル(00年)※

※注、これはK国の公式通貨レートによる推定概算。実際には、K国のGDPは、もっと低い?
 高い? K国のGDPは、218億ドル(97年推計)という説もある(一橋大イノベーションセンタ
ー)。 

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

●太陽系に10番目の惑星

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 この太陽系で、第10番目の惑星が見つかったそうだ。
 発見したのは、アメリカ・カルフォルニア工科大学の教授。
 1930年に、冥王星が発見されて以来の、「快挙」(中日新聞)
 だ、そうだ。

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 中日新聞は、つぎのように伝えている(05年7月30日)。

 「カリフォルニア工科大の天文学者、マイク・ブラウン教授らの研究チームは、29日、太陽系
で十番目となる「新惑星」を発見したと発表した。すでに国際天文学連合に申請しており、認め
られれば、1930年に冥王星が発見されて以来、75年ぶりの快挙となる。

 新惑星は、カイパーベルトと呼ばれる小惑星帯の中にあり、太陽の周りを楕円(だえん)を描
いて周回。最も外側では、太陽から地球の距離の97倍に当たる約150億キロに達し、冥王
星と比べても三倍以上も離れている。

 直径は、冥王星(約2300キロ)の1・5倍以上と推定。地球(約1万2700キロ)より小さい。
冥王星同様、岩と氷でできているとみられ、太陽を、560年かけて周回する。

 もう少しわかりやすく、データを、整理してみると、こうなる。

(1)直径は、約3450キロ(冥王星の、約1・5倍)以上。
(2)冥王星に似て、岩と氷でできている。
(3)太陽を、560年かけて周回する。
(4)他の惑星と軌道の傾きが、45度ちがう。
(5)長楕円を描いて、太陽系の中を、周回する。

 この第10番目の惑星発見の報道で、まっ先に思いだしたのが、シュメール人たちが書き残
した古文書。それについて詳しく書いているのが、ゼラリア・シッチンという人が著した、「謎の
惑星(ニビル)と火星超文明」(著・学研)という本。

それによれば、シュメールの古文書には、すでに第10番目の惑星のみならず、この太陽系が
生まれる過程が書いてあったという。年代的には、5500年ごろ前ということになるだろうか。

 しかしそんな時代に、どうして、そんなことが、シュメール人たちには、わかっていたのか。そ
ういう議論はさておき、まず、シュメール人たちが考えていたことを、ここに紹介しよう(要約)。

(1)最初、この太陽系には、太陽と、ティアトマと水星しかなかった。
(2)そのあと、金星と火星が誕生する。
(3)(中略)
(4)木星、土星、冥王星、天王星、海王星と誕生する。
(5)そこへある日、ニビルという惑星が太陽系にやってくる。
(6)ニビルは、太陽系の重力圏の突入。
(7)ニビルの衛星と、ディアトマが、衝突。地球と月が生まれた。(残りは、小惑星帯に)
(8)ニビルは、太陽系の圏内にとどまり、3600年の楕円周期を描くようになった、と。

 シュメール人が残した古文書によれば、地球と月は、ティアトマという惑星が、太陽系の外か
らやってきたニビルという惑星と衝突してできた、ということになる。

にわかには信じがたい話だが、東洋や西洋に伝わる天動説よりは、ずっと、どこか科学的であ
る。それに現代でも、望遠鏡でさえ見ることができない天王星や海王星、さらには冥王星まで
シュメール人たちが知っていたとは!

 どうしてシュメールの人たちは、そんなことを知っていたのだろうか。肉眼で見えるのは、せい
ぜい土星まで。天王星や海王星などは、近代になって発見された。冥王星が発見されたの
は、ごく最近のことである。

 もちろん、今回発見された惑星X(「X」には、10番目という意味もある)が、シュメール人たち
が言った、「ニビル」のことだとはかぎらない。ただ類似点は、多い。

 とくに、太陽系内を、長楕円を描いて周回するという点。それに軌道の傾きが、45度、傾い
ているという点。

 シッチンは、つぎのような文書があることを証拠に、惑星ニビルも、他の惑星とは違った傾き
で、周回していたと説明する。

 惑星マルドゥク
 出現は水星
 30度上昇して木星
 天上の戦いの場に立つときは
 ニビル、と。

 意味がよくわからないが、シッチンの解釈によれば、こういうことだそうだ。

 「水星の位置に出現したニビルは、天弧(てんこ)を、30度上昇して、木星の位置に移動す
る。このような動きは、ニビルの軌道平面が、黄道面に対して、30度傾いているからこそ、可
能である」(同書(下)P204)。

 何とも、ロマンに満ちた話ではないか。おまけにシュメール人の伝説によれば、この惑星ニビ
ルこそが、我々地球人を生みだした知的生物が住んでいる星だという。少なくともシッチンは、
そう書いている。

 惑星Xは、はたしてその惑星ニビルなのか? 本当に知的生物が、住んでいるのだろうか?
 

 それを考えていると、暑い夏の夜も、結構、楽しくなる。

 ところで、この地球は、シュメールの古文書によれば、「第7番目の惑星」だそうだ(同、
(下)、P135)。

 シュメール人が残した円筒印章には、地球は、7つの点で表されている。(火星は、6角形の
星で表されている。)

 太陽を中心に、太陽から数えると、地球は、水星、金星……と、第3番目の惑星ということに
なる。

 しかし反対に外から、冥王星、天王星……と数えていくと、火星は、第6番目の惑星。地球
は、第7番目の惑星ということになる。視点そのものが、太陽系の外にあるのが、おもしろい。
その惑星の間を、ニビルは、長楕円の軌道上を周回していることになる。

 百歩譲って、シュメール人たちが、天王星、海王星、冥王星の存在をすでに知っていたという
だけでも、驚きである。そのあたりのことについて詳しく書くのは、またの機会にして、ともかく
も、今回の第10番目の惑星が発見されたというニュースは、謎とロマンに満ちた、楽しい話で
あることには、ちがいない。

+++++++++++

私が、シュメール人に興味を
もつようになったのは、実は
東洋医学の勉強をしていたと
きのことである。

シュメールでは、「神」のこと
を「ディンギル(dingir)」
と呼んでいた。

楔形文字で、「米」に似た文字を
書く。

同じく中国でも、「帝」のこと
を、甲骨文字で、「米」に似た
文字で書いていた。

今でも、「帝」は、「di」と発音
する。

ともに星(米は、星を意味する)
からきた人を意味する。

つまり文字の意味、発音、形の
三つが、たいへんよく似ている
ということ。

これは偶然の一致といってよいの
だろうか?

ちょうど2年前に書いた原稿を
そのまま、ここに転載する。

+++++++++++++++

●謎の書物、黄帝内経(こうていだいけい)

 若いころ、東洋医学の勉強をしているとき、私は、こんなことに気づいた。「ひょっとしたら、東
洋医学のバイブルと言われている、『黄帝内経(こうていだいけい)』は、人間によって書かれた
ものではないのではないか」と。言うまでもなく、東洋医学は、この黄帝内経に始まって、黄帝
内経によって終わる。

 とくに、黄帝内経・素問(そもん)は、そうである。しかしもともとの黄帝内経は、そののち、多く
の医家たちによって、原型をとどめないほどまでに、改ざん、加筆されてしまった。今、中国に
残る、黄帝内経は、その結果だが、皮肉なことに、原型に近い黄帝内経は、京都の仁和寺(に
んなじ)に残っている。

 その仁和寺の黄帝内経には、いくつか不思議な記述がある。それについて書くのが、ここの
目的ではないので、省略するが、私はいつしか、中国の「帝王」と、メソポタミアの「神」が、同一
人物でないかと思うようになった。黄河文明を築いた、仰韶(ヤンシャオ)人と、メソポタミア文
明を築いた、シュメール人には、ともに、不可思議な共通点がある。それについて書くのも、こ
この目的ではないので、省略する。

 むずかしい話はさておき、今から、約5500年ほど前、人類に、とてつもないほど、大きな変
化が起きたことは、事実のようだ。突然変異以上の、変異と言ってもよい。そのころを境に、サ
ルに近い原始人が、今に見る、人間になった。

 こうした変化の起爆剤になったのが、何であるのか、私にはわからない。わからないが、一
方、こんな事実もある。

●月の不思議

 月の南極の写真を見ていたときのこと。ちょうど南極付近に、きれいな円形の二つのクレータ
ーがあることを知った。「きれいな」と書いたが、実際には、真円である。まるでコンパスで描い
たような真円である。

 そこで二つのクレーターの直径を調べてみた。パソコンの画面上での測定なので、その点は
不正確かもしれないが、それでも、一方は、3・2センチ。もう一方も、3.2センチ! 実際の直
径は、数10キロはあるのもかもしれない。しかしその大きさが、ピタリと一致した!

 しかしこんなことが、実際、ありえるのだろうか。

 もともとこのあたりには、人工的な構造物がたくさん見られ、UFO研究家の間でも、よく話題
になるところである。実際、その二つのクレーターの周囲には、これまた謎に満ちた影がたくさ
ん写っている。

 そこでさらに調べてみると……というのも、おかしな言い方だが、ともかくも、あちこちのサイト
を開いてみると、こうした構造物があるのは、月だけではないことがわかった。火星はもちろ
ん、水星や、金星にもある。エウロパやエロスにもある。つまりいたるところにある。

 こうした写真は、アメリカのNASAから漏れ出たものである。一説によると、月だけでも、NA
SAは、数一〇万枚の写真をもっているという。公開されているのは、そのうちの数パーセント
にすぎないという。しかも、何かつごうの悪い写真は、修整されたりしているという。しかし、クレ
ーターまでは、消せない。それが、ここに書いた、二つのクレーターである。

●下からの視点、上からの視点

 地球上に、それこそカビのようにはいつくばって東洋医学の勉強をした私。そしてその私が、
天を見あげながら、「ひょっとしたら……」と考える。

 一方、宇宙には、すでに無数のエイリアンたちがいて、惑星間を回りながら、好き勝手なこと
をしている。中には、月そのものが、巨大なUFOだと主張する科学者さえいる。

 もちろん私は、宇宙から地球を見ることはできない。しかし頭の中で想像することはできる。
そしてこれはあくまで、その想像によるものだが、もし私がエイリアンなら、人間の改造など、何
でもない。それこそ、朝飯前? 小学生が電池をつないで、モーターを回すくらい簡単なこと
だ。

 この二つの視点……つまり下から天をみあげる視点と、天から人間を見る視点の二つが、
合体したとき、何となく、この問題の謎が解けるような気がする。「この問題」というのは、まさに
「人間に、約5500年前に起きた変化」ということになる。

 その5500年前を境に、先に書いたように、人間は、飛躍的に進化する。しかもその変化
は、メチャメチャ。その一つが、冒頭にあげた、『黄帝内経』である。黄帝というのは、司馬遷の
「史記」の冒頭を飾る、中国の聖王だが、だからといって、黄帝内経が、黄帝の時代に書かれ
たものと言っているのではない。

 中国では古来より、過去の偉人になぞらえて、自説を権威づけするという手法が、一般的に
なされてきた。黄帝内経は、そうして生まれたという説もある。しかし同時期、メソポタミアで起
きたことが、そののち、アッシリア物語として記録され、さらにそれが母体となって旧約聖書が
生まれている。黄帝内経が、黄帝とまったく関係がないとは、私には、どうしても思われない。

●夏の夜のロマン

 あるとき、何らかの理由で、人間が、エイリアンたちによって、改造された。今でいう、遺伝子
工学を使った方法だったかもしれない。

 そして人間は、原始人から、今でいう人間に改造された。理由はわからない。あるいはエイリ
アンの気まぐれだったかもしれない。とりあえずエイリアンたちが選んだ原始人は黄河流域に
住んでいた原始人と、チグリス川、ユーフラテス川流域に住んでいた原始人である。

 改造された原始人は、もうつぎの世代には、今でいう現代人とほとんど違わない知的能力を
もつようになった。そこでエイリアンたちは、人間を教育することにした。言葉を教え、文字を教
えた。証拠がないわけではない。

 中国に残る甲骨文字と、メソポタミアに残る楔形(くさびがた)文字は、たいへんよく似てい
る。形だけではない。

 中国では、「帝」を、「*」(この形に似た甲骨文字)と書き、今でも「di」と発音する。「天から来
た、神」という意味である。一方、メソポタミアでは、「神」を、同じく、「*」(この形に似た楔形文
字)と書き、「dingir」と発音した。星という意味と、神という意味である。メソポタミアでは、神(エ
ホバ)は、星から来たと信じられていた。(詳しくは、私が書いた本「目で見る漢方診断」(飛鳥
新社)を読んでいただきたい。)

 つまり黄河文明でも、メソポタミア文明でも、神は「*」。発音も、同じだったということ。が、こ
れだけではない。言葉の使い方まで、同じだった。

 古代中国では、「帝堯(ぎょう)」「帝舜(しゅん)」というように、「位」を、先につけて呼ぶならわ
しがあった。(今では、反対に「〜〜帝」とあとにつける。)メソポタミアでも、「dingir 〜〜」とい
うように、先につけて呼んでいた。(英語国などでも、位名を先に言う。)

 こうして今に見る人間が生まれたわけだが、それがはたして人間にとって幸福なことだったの
かどうかということになると、私にも、よくわからない。

 知的な意味では、たしかに人間は飛躍的に進化した。しかしここでも、「だからどうなの?」と
いう部分がない。ないまま進化してしまった。それはたとえて言うなら、まさにサルに知恵だけ
与えたようなものである。

 わかりやすく言えば、原始的で未発達な脳の部分と、高度に知的な脳の部分が、同居するこ
とになってしまった。人間は、そのとたん、きわめてアンバランスな生物になってしまった。人間
がもつ、諸悪の根源は、すべてここにある?

 ……これが私の考える、秋の大ロマンである。もちろん、ロマン。SF(科学空想)。しかしそん
なことを考えながら天の星々を見ていると、不思議な気分に襲われる。どんどんと自分が小さく
なっていく一方で、それとは反比例して、どんどんと自分が大きくなっていく。「人間は宇宙のカ
ビ」と思う一方で、「人間は宇宙の創造主」と思う。相矛盾した自分が、かぎりなく自分の中で、
ウズを巻く。

 あさっても、天気がよければ、望遠鏡で、月をのぞくつもり。山荘から見る夜空は、どこまでも
明るい。

【補記・05年7月31日・記】

 同じような真円に近いクレーターが、たとえば、火星の衛星のフォボスにもある。それについ
ては、以前に書いた。

 私は、こうしたクレーターは、たとえば隕石の衝突のようなものでできたのではないと思う。つ
まり人工的なものだと思う。

 では、何のためか?

 私はある種の、推進装置ではないかと思っている。「推進装置」という言い方も、少しヘンだ
が、つまりこういうこと。

 このクレーターの中心部で、大きな爆発を起こす。するとクレーターそのものが、推進装置と
なって、月にせよ、フォボスにせよ、反対側にそれを動かす力となって、働く。

 いつか人類が、宇宙へ飛び出したとき、もっとも安全な宇宙船は、といえば、こうした隕石を
改造した宇宙船である。

 大きな隕石を、宇宙のどこからかもってきて、中をくりぬく。そしてその中に、居住空間をつく
る。

 そうすれば、有害な放射線や、こまかい隕石やゴミから、中に住む人類を保護することがで
きる。建造費も、安くすむ。適度な引力があれば、さらに住みやすい。

 で、そのとき、その隕石型宇宙船の推進装置として働くのが、ここでいうクレーター型の推進
装置である。この中央で、何らかの爆発を起こせば、その宇宙船は、その反作用で、反対側に
動き出す。どこか原始的な方法に見えるかもしれないが、もっとも、確実で、簡単な方法であ
る。

 ……以上、私の勝手な空想。夏の夜のロマンに、この話も加えてほしい。

(写真などは、楽天日記・05年7月31日付けに収録しておきました。
興味のある人は、どうか、そちらで見てください。)

++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

●暑い!

++++++++++++++

暑いですね!
暑中、お見舞い申しあげます!

(05年7月盛夏)

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 山荘のある山の中から、町(浜松市)へもどってくる。距離は、車で、30分前後。しかし体感
気温は、まるでちがう。

 山荘のほうは、風そのものが、どこかひんやりとして、冷たい。しかし町のほうは、風そのも
のが、熱気をおびていて、ドカッとした感じ。扇風機をそばでかけても、涼しさを感じない。

 緑の大切さというか、重要性を、改めて、強く認識する。

 ところで、暑さのせいか、それとも、頭がボケ始めたせいか、ここ数日、思考力がかなり減退
しているのが、自分でもよくわかる。何かの文章を読んでいても、理解しないまま、突っ走って
しまうといったふう。

 いよいよ私もボケてきたか……?

 そういえば、昨日、浜松市の中心部にある中学校区で講演をさせてもらった。そのときも、頭
の中が、ボーッとした感じになってしまった。冷房がきいていて、暑くはなかったはずだが…
…。

 よく、ボケの初期症状は、もの忘れだといわれる。もの忘れをするようになったら、あぶない、
と。しかしもの忘れをするようになるのは、かなり症状が進行してからではないか。

 それ以前の症状として、(これはあくまでも、私がこの先ボケるという前提での話だが……)、
(1)考えがまとまらない、(2)考えることが、おっくうになる、(3)考えが堂々巡りして、前に進ま
ない、(4)思考能力が浅くなる、などが、ある。

 このことは、少し頭のボケた老人たちの会話を横で聞いていると、わかる。くだらない話を、
何度も何度も、繰りかえし、しゃべっている。

 そこで、私は、こんなことを思いついた。ボケた状態がどんな状態か、それを実体験してみた
かったら、サウナか何かに入ってみればよいのではないか、と。

 フーフー、ハアハアと、その熱気と戦いながら、ものを考えてみる。その状態で、本を読んで
みる。はたしてその状態で、ものを考えたり、本を読んだりすることができるだろうか?

 今度、サウナにでも入ってみたら、そんな実験をしてみよう。

 しかしそれにしても、今日は、暑い。町へ早めにもどってきたのが、失敗だった。もう少し、長
く、夕方まで、山荘にいればよかった。

 そうそう、山荘では、あのヒグラシが鳴いていた。夜がほんの少しだけ白みを帯びてくるころ、
どこか遠慮がちに、ヒグラシたちが鳴き始める。

 カナカナカナ……、カナカナカナ……、カナカナカナ……、と。あとでワイフに聞いたら、午前
4時半ごろだったということだが、時間的には、そんなところだ。

 ヒグラシの鳴き声が聞こえるかどうか。それによって、自分の住んでいるところが、都会か、
それとも自然の残る田舎かを、判断することができるのでは……。そのヒグラシの声を懸命に
思い出しながら、この原稿を書いている。

 それにしても、今日は暑い! 毎朝、毎晩、ヒグラシの鳴き声が聞こえるようなところに、私
は、住みタ〜イ!

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

最前線の子育て論byはやし浩司(821)

●管理・規則は家庭教育の敵

 イギリスの格言に、『無能な教師ほど、規則を好む』というのがある。これをもじると、『無能な
親ほど、規則を好む』ということになる(失礼!)

 家族にはいろいろな役割がある。助けあい、励ましあい、わかりあい、教えあい、守りあい、
いやしあうなど。そのどの一つをとっても、管理や規則は、その役割を、そこなうことになる。つ
まり子どもの側からみて、思う存分、心を休めることができるから家庭という。

 ……こう書くと、子どもは管理されるべきだし、規則があってもいのではと反論する人がい
る。しかし、それでも、管理や規則は、必要最小限にとどめる。たとえば子どもの門限につい
て。

 「外出はいいが、夜、一〇時まで」と決めている家庭は多い。しかいこのばあいでも、大切な
のは、親子の信頼関係。一応「一〇時」とは決めていても、たまには、一〇時を過ぎるときもあ
る。そのとき親子の信頼関係があれば、「どうしたの?」「ごめん!」ですむ。しかしその信頼関
係がないと、「約束が守れないのか!」「うるさい!」の大げんかになってしまう。むしろ問題な
のは、信頼関係がないまま、子どもの行動をしばるために、管理や規則を強化すること。そう
なれば、ますます信頼関係は崩壊する。

 が、それだけではない。

 子どもに何か問題が起きると、親は、その状態を「最悪」と思うかもしれない。しかしその最悪
の下には、さらに二番底、三番底がある。(門限を破る)→(外泊する)→(家出をする)と、対処
のし方をまちがえると、子どもはあとは、坂をころげ落ちるかのようにして、つぎつぎと落ちてい
く。そうならないためにも、管理や規則を問題にする前に、まず信頼関係を築く。もちろん家族
の絆(きずな)を守るための管理や規則は、問題ない。たとえば「誕生日のプレゼントは買った
ものはダメ」「借りたものは、必ず、返す」「小遣いは、一か月○千円」など。

+++++++++++++++++++++++++
これに関して、以前書いた原稿(中日新聞発表ずみ)を
ここに転載します。
++++++++++++++++++++++++++

親が子どもを叱るとき 

●「出て行け」は、ほうび

 日本では親は、子どもにバツを与えるとき、「(家から)出て行け」と言う。しかしアメリカでは、
「部屋から出るな」と言う。もしアメリカの子どもが、「出て行け」と言われたら、彼らは喜んで家
から出て行く。「出て行け」は、彼らにしてみれば、バツではなく、ほうびなのだ。

 一方、こんな話もある。私がブラジルのサンパウロで聞いた話だ。日本からの移民は、仲間
どうしが集まり、集団で行動する。その傾向がたいへん強い。リトル東京(日本人街)が、その
よい例だ。この日本人とは対照的に、ドイツからの移民は、単独で行動する。人里離れたへき
地でも、平気で暮らす、と。

●皆で渡ればこわくない
 この二つの話、つまり子どもに与えるバツと日本人の集団性は、その水面下で互いにつなが
っている。日本人は、集団からはずれることを嫌う。だから「出て行け」は、バツとなる。一方、
欧米人は、束縛からの解放を自由ととらえる。自由を奪われることが、彼らにしてみればバツ
なのだ。集団性についても、あのマーク・トウェーン(「トム・ソーヤの冒険」の著者)はこう書い
ている。『皆と同じことをしていると感じたら、そのときは自分が変わるべきとき』と。つまり「皆と
違ったことをするのが、自由」と。

●変わる日本人

 一方、日本では昔から、『長いものには巻かれろ』と言う。『皆で渡ればこわくない』とも言う。
そのためか子どもが不登校を起こしただけで、親は半狂乱になる。集団からはずれるというの
は、日本人にとっては、恐怖以外の何ものでもない。この違いは、日本の歴史に深く根ざして
いる。日本人はその身分制度の中で、画一性を強要された。農民は農民らしく、町民は町民ら
しく、と。それだけではない。

日本独特の家制度が、個人の自由な活動を制限した。戸籍から追い出された者は、無宿者と
なり、社会からも排斥された。要するにこの日本では、個人が一人で生きるのを許さないし、そ
ういう仕組みもない。しかし今、それが大きく変わろうとしている。若者たちが、「組織」にそれほ
ど魅力を感じなくなってきている。イタリア人の友人が、こんなメールを送ってくれた。「ローマへ
来る日本人は、今、二つに分けることができる。一つは、旗を立てて集団で来る日本人。年配
者が多い。もう一つは、単独で行動する若者たち。茶パツが多い」と。

●ふえるフリーターたち

 たとえばそういう変化は、フリーター志望の若者がふえているというところにも表れている。日
本労働研究機構の調査(二〇〇〇年)によれば、高校三年生のうちフリーター志望が、一二%
もいるという(ほかに就職が三四%、大学、専門学校が四〇%)。職業意識も変わってきた。

「いろいろな仕事をしたい」「自分に合わない仕事はしない」「有名になりたい」など。

三〇年前のように、「都会で大企業に就職したい」と答えた子どもは、ほとんどいない(※)。こ
れはまさに「サイレント革命」と言うにふさわしい。フランス革命のような派手な革命ではない
が、日本人そのものが、今、着実に変わろうとしている。

 さて今、あなたの子どもに「出て行け」と言ったら、あなたの子どもはそれを喜ぶだろうか。そ
れとも一昔前の子どものように、「入れてくれ!」と、玄関の前で泣きじゃくるだろうか。ほんの
少しだけ、頭の中で想像してみてほしい。

※……首都圏の高校生を対象にした日本労働研究機構の調査(二〇〇〇年)によると、

 卒業後の進路をフリーターとした高校生……12%
 就職                ……34%
 専門学校              ……28%
 大学・短大             ……22%

 また将来の進路については、「将来、フリーターになるかもしれない」と思っている生徒は、全
体の二三%。約四人に一人がフリーター志向をもっているのがわかった。その理由としては、

 就職、進学断念型          ……33%
 目的追求型             ……23%
 自由志向型             ……一5%、だそうだ。

●フリーター撲滅論まで……

 こうしたフリーター志望の若者がふえたことについて、「フリーターは社会的に不利である」こ
とを理由に、フリーター反対論者も多い。「フリーター撲滅論」を展開している高校の校長すら
いる。しかし不利か不利でないかは、社会体制の不備によるものであって、個人の責任ではな
い。実情に合わせて、社会のあり方そのものを変えていく必要があるのではないだろうか。い
つまでも「まともな仕事論」にこだわっている限り、日本の社会は変わらない。

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司


最前線の子育て論byはやし浩司(822)

【近ごろ・あれこれ】

●談合

 ある知人(58歳)が、こんな話をしてくれた。

 彼は、ある大都市の市役所で、部長クラスの仕事をしている。こう言った。

 「林さん、談合というと、みな、だれしも、悪(あく)と考えるでしょう。しかし悪い面ばかりではな
いのです。

 業者どうしに過当競争させると、かえって弊害も生まれるのです。過当競争させれば、その分
だけ、工事の質も、落ちます。だから仕事を均等に回して、業者を守る。談合には、そういう利
点もあるのです」と。

 そしてその知人は、こんなことも話してくれた。

 「談合はさておき、接待の問題もあります。よく中央から官僚が、やってきますよね。しかし
3、4日、かかっても片づかなかった仕事でも、一晩、いっしょに飲み歩くと、それで片づくという
ことも、よくあるのです。

 3、4日も費やすと、経費も、バカになりません。その経費のことを考えると、一晩、どこかで
接待したほうが、安くあがるのです。酒でも飲んで、パアッとお金を使う。それで仕事が片づく。
つまりその分だけ、税金を、節約できるというわけです」と。

 彼だけの話を聞いていると、「そういうものかなあ」と思う。そして思わず、「談合も接待も、頭
から否定してはいけないのかな?」と思ってしまう。

 しかし、やはり、おかしい。その知人の言っていることは、おかしい。つまり、その知人の言っ
ている話の中には、どこにも、一般庶民の視点がない。まったく、ない。

 たしかに以前から、過当競争の弊害は、指摘されている。入札制度を、厳格に実施すると…
…、つまり厳格に実姉しすぎると、役人と業者の間で、贈収賄(ぞうしゅうわい)行為がふえ、ス
パイもどきの活動が活発化するというのだ。

 しかしこれについては、談合をきびしく監視している自治体の担当者から、さまざまな反論が
出されている。工事の質が落ちるということについても、0・2%以下(某大学教授資産)という
意見もある。

 実は、私にも、こんな苦い経験がある。

 ある建設会社に、庭の工事を頼んだことがある。庭の周囲を、コンクリートで土留めしてもら
うことにした。で、会社に電話をすると、電話に出た相手が、すぐやってきた。あれこれ見積も
ったあと、「○百○十万円でします」と、その相手は言った。

 私はその場で、仕事を頼んだ。そして工事は、順調に進み、無事、終わった。

 で、その代金を払おうと、その会社の担当者(?)に電話をかけると、担当者は、不在。かわ
りに別の女子事務員が電話に出た。「仕事を頼んだ、I町の林というものです。○○さんは、お
られますか?」と。するとその女子社員は、「おかしいですね、うちではそんな仕事をしていませ
んが……」と。

 つまりその仕事を頼んだ相手は、私が頼んだ仕事を、会社を通さず、勝手に、自分のアルバ
イトとしてしまった。自分で仕事を請け負ったことにして、自分の仲間内だけで、工事をした。
で、私がもう少し強引に会社に押しかけたりしていれば、インチキがバレ、その相手は、確実
に、クビになったはず。

 しかしこうしたインチキ行為は、どこの建設会社でも、よくあるとのこと。会社に入ってきた仕
事を、自分の仕事として、請け負ってしまう。とくに、私のように、どこか無知で、善良に見える
(?)庶民ほど、いいカモだそうだ。

 つまり、建設業界そのものが、何かしら、大きな黒い霧に包まれている。それがこの日本で
は、常識になっている。「上が上なら、下も下」ということか? 談合というインチキを、会社の上
部がしていて、どうして下の社員に向って、「誠実に仕事をしろ」といえるだろうか……ということ
になる。

 もちろん、大半の建設会社は、そうでない。良心的な会社も、多い。しかしそういう会社ほど、
地味で目立たない。が、私たちには、その見きわめがむずかしい。どうしても、派手な看板や
宣伝に、目を奪われてしまう。

 工事そのものは、ていねいにしてもらったので、私としては、文句はないのだが……。何とも
言えない割り切れなさだけが、そのとき残った。
 

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

●6か国協議

 7月31日、6か国協議も、共同声明の草案づくりに入った。

 その草案をみるかぎり、日本にとって、よいことは、何もなし。

 得失点を、評価してみると、つぎのようになる。

 中国   得点  +2
 ロシア      ±0
 韓国       +1
 アメリカ     ±0
 日本       −3
 K国       +3

 今回の会議のマイナス部分は、すべて、日本が負うことになる。日本は、今後、ミサイルにお
びえながら、莫大な戦後補償金を請求される。日朝会議を開くとしても、その会議に、助っ人
は、もういない。へたをすれば、韓国、中国が、K国の後ろ盾となって、日本を攻めたててくる
かもしれない。どうやら、そういう雲行きになってきた。

 もちろん拉致問題は、うやむやのまま。今ここで、日本がK国に制裁措置をとれば、そのまま
それは日朝戦争へと、発展するかもしれない。

 ゆいいつの頼みのツナは、アメリカだが、どうやらそのアメリカも、日本を見捨て始めている。

 在日米軍の移転問題が起きるたびに、各地で「基地移転、反対!」の大合唱。牛肉の輸入
問題にしても、あれほどライス国務長官が頭をさげたにもかかわらず、「NO!」。背景には、い
ろいろ事情は、あるのだろうが、アメリカ人にいわせれば、「どうしてそんな日本を、守らなけれ
ばならないのか」ということになる。(だからといって、在日米軍の移転に賛成しているのでも、
BSE問題を軽くみろと言っているのではない。どうか、誤解のないように!)

 悲しいかな、今の日本は、四面楚歌。日本の味方になってくれる国は、もう、ない。

 これについて、ワイフは、こう言った。「今まで、日本は、ほかの国々を助けてきたのに、どう
して?」と。

私「あのね、お金(マネー)の力には、限界があるということ」
ワ「そうかもね」
私「お金を貸してあげたとする。そのときは、相手は、感謝するかもしれない。しかしそれは一
時的。長つづきしない。今度は、相手は、借金返済という重圧に耐えなければならない」
ワ「感謝されるのは、そのときまでね」
私「そうだよ」と。

 重要なことは、日本人が、もっと、弱者の心理を理解すること。たとえば札束で相手の頬をた
たくような行為は、かえって相手の反発を買う。悲しいかな、戦後の日本が一貫して、してきた
国際政治は、それに似たものだった。

 もちろん、私たちには、その意識がない。しかしこんな例で考えてみたらどうだろうか。

 あなたは今、今、かろうじて生きている。明日の生活費も、ない。家はボロボロ。

 そこであなたは隣の金持ちの家に行く。そしていくらかのお金を貸してほしいと頼む。が、そ
の家の中をみると、世界の料理が山のようになっている。電気はつけっぱなし。テレビを見る
と、見るからに低俗そうなお笑いタレントたちが、ギャハハ、ギャハハと、各地の名物料理に、
舌鼓(したつづみ)をうっている。

 隣人のたった1日分の生活費で、自分たちは、1か月を生きられることを知る。が、その隣人
が、どこか控えめな様子で、あなたにこう言う。

 「いくら、お貸ししましょうか?」と。

 あなたは頭をさげて、「○○ドルで結構です」と。隣の金持ちは、少しためらった様子を見せな
がらも、大きな金庫からそのお金を取りだして、あなたに渡す。あなたは頭をさげて、それを受
け取る。

 そういうあなたは、それで隣人に感謝するだろうか。「よかった」と喜ぶだろうか。答は、「N
O!」。

 「世界は、強者が作ったルール(論理)で、強者につごうがよいように動いている」(アフリカで
エイズ問題と戦っている、ある牧師の言葉)。これは動かしがたい事実であって、どうしようもな
い。

 それに対してあなたはこう言うだろう。

 「努力した人間が、報われるのは当然ではないか。力のある人間が、豊かな生活をするの
も、当然ではないか」と。

 しかし本当にそうだろうか。本当に、そう言い切って、よいだろうか。この世の中には、(10)
の努力しかしないのに、100ドルも、200ドルも稼ぐ人がいる。一方、同じ(10)の努力をして
いるのに、1ドルとか、2ドルしか稼げない人もいる。

 この日本においてですら、年々、不公平感が高まりつつある。

 何もK国の肩をもつわけではないが、つぎつぎと無理難題を吹っかけてくるK国の代表団の
気持ちも、わからないわけではない。国民の3分2が、栄養失調状態にある。かたや隣の日本
は、飽食状態。食べたいだけ食べては、みな、ダイエット。K国の人たちにすれば、この世界
は、何と矛盾に満ちたものに見えることか。

 そういう心情を少しは、察してやらねばならない。つまりそういう心情を察することもなく、「助
けてやったのに」と言っても、相手の心には、響かない。

 私も、アメリカへ行ったとき、それを感じた。

 地方の都市だが、郊外へ行くと、それこそ御殿(ごてん)のような家が並んでいるところがあ
る。お城のような家と言うべきか。日本にも、立派な家がふえたが、日本の家の比ではない。

 そういう家々を道路から眺(なが)めながめていると、思わず、ついこう言いそうになる。「アメ
リカよ、日本へ、借金を返せよ!」と。

 ご存知のように、日本は、アメリカの莫大なドルを、外貨として蓄えている。しかしそれを自由
に使うことすら、できない。わかりやすく言えば、塩漬け。日本は、アメリカのドルを買い支えて
やっている。そのおかげで、アメリカは、強いドルを維持することができる。私が見た御殿のよ
うな家々は、あくまでも、その結果の一部でしかない。

 もし日本が、自分たちで稼いだお金を、自分たちのために使うことができたら、日本人は、も
っと楽な生活ができるはず。……というような矛盾を、だれもが感じている。中国も、韓国も、そ
してK国も。

 今回の6か国協議は、結果だけを見ると、日本にとって、よいことは何もない。完敗と言って
もよい。本来なら、日本が、イの一番に席を蹴って立ってもおかしくない協議だった。が、それ
もできない。

 戦後の、あのごまかしにごまかしを重ねながらやってきた、日本外交のツケが、ここに集約さ
れたともとれる。何とも情けない話しだが、これが今の日本の現状ということになる。

 マイナス3というのは、(1)日本の主張が何も通らなかった。(2)負債ばかり、背負わされる
ハメになった。(3)ますます仲間はずれが、顕著になった。それでマイナス3!
(05年7月31日現在)


++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

最前線の子育て論byはやし浩司(823)

【常識の敵】

●幻想、幻惑、誤解、無知

 人の常識を狂わすものに、4つある。

 幻想、幻惑、誤解、無知。

(1)幻想

 幻想は、あらゆるものに、ついて回る。夢や希望も、基本的には、幻想と考えてよい。さらに
その幻想がふくらんだものが、妄想ということになる。

 夢や希望があるから、人は生きられる。目的も、そこから生まれる。だから大きな夢や希望
をもつことは、悪いことではない。大切なことは、どこまでが現実であり、どこから先が、幻想で
あるか、その一線をしっかりと心の中に引くことである。

 たとえば私は、今、UFOに関する本を、何冊か買ってきて読んでいる。しかしだからといっ
て、どこかのUFO教団のように集会に参加してみたいとか、あるいは交霊会よろしく、UFOと
のコンタクトを試みる会に、参加してみたいとは思わない。

 「ホホー」と楽しむのは、そのときだけ。本を閉じたとたん、UFOのことは忘れる。

(2)幻惑

 人間が勝手につくりあげた「関係」や「組織」の中で、精神的にしばられるということは、よくあ
る。私がよく取りあげる、『ダカラ論』も、その一つ。

 「親だから……」「家族だから……」「兄だから……」と。

 その相手との関係が良好であれば、『ダカラ論』も、うまく働く。幻惑といっても、たいていのば
あい、よりよき人間関係をつくる基盤となって働く。しかし、ひとたびその関係にヒビが入ると、
今度は、その人を苦しめる原因となってしまう。

 幻惑は、いわば両刃の剣ということになる。

 この幻惑が強く働くようになると、よいばあいも、悪いばあいも、常識の基準がわからなくな
る。

 「お前は長男だから、家のあとを継げ」と言われたとする。それを言う方にとっては、常識かも
しれないが、言われたほうにとっては、それが足かせになることもある。そして無理に家を飛び
出したりすると、自由を得るのと引きかえに、今度は、その幻惑に苦しむことになる。

 ある地方では、そうして家を飛び出した人を、「親捨て」と呼ぶ。そうでない地方の人には、た
だの言葉かもしれないが、その地方では、そうでない。一度、「親捨て」のレッテルを張られる
と、親戚、兄弟はもとより、近所の人たちからも、白い目で見られるようになるという。

(3)誤解

 あらゆる事実には、誤解が、ある。まず、そう疑ってかかってみてよい。この世の中には、誤
解のないものはない。知り尽くしたと思っても、その前には、まだ先がある。自分の歩いてきた
道を振りかえってみても、そこは穴ぼこだらけ。その空白部分から生まれるのが、誤解というこ
とになる。

 誤解から解放されるためには、どうすればよいのか。先日も、ある講演先からの帰り道、ふ
と、ワイフに、こう言った。

 「このところ、講演をしていても、以前のように自信たっぷりに、ものを話せなくなってしまっ
た」と。

 ワイフは、「年のせいよ」「元気がなくなってきたせいよ」とか言って、なぐさめてくれる。

 しかし本当のところは、自信がなくなってきた。たとえば5年前、10年前に話したことを思い
浮かべてみると、こんなふうに、思う。「よくまあ、あんなまちがいだらけのことを、堂々としゃべ
ったものだ!」と。

 そんなわけで、講演となると、どうしても、最大公約数的な部分だけを、遠慮がちに話すという
ことになってしまう。最近の私は、とくにそうだ。誤解のもつ恐ろしさというか、それを人に伝える
ことの恐ろしさというか、それがわかるようになった。

(4)無知

 無知は、それ自体が、罪悪である。無知であることを、居直ってはいけない。無知であること
に、無関心であってはいけない。

 無知であることを、もっと、人は、謙虚に恥じなければならない。それだけではない。無知は、
さらに大きな害毒を産む。

 が、その無知の中でも、一番警戒しなければならないのが、自分への無知。この(自分)とい
うのは、その自分を知れば知るほど、ますます、その自分がわからなくなる。よく「私のことは、
私が一番よく知っています」と言う人がいる。

 しかしそう言う人にかぎって、実は、自分のことが何もわかっていない。私はこのことを、子ど
もの世界を通して、知った。

 ある母親が、あるとき、こう言った。「うちの息子のことは、私が一番、よく知っています」と。

 しかしその母親は、何も、わかっていなかった。その子どもの心が、母親が原因で、病み始
めていることすえら、気づいていなかった。そこでやんわりと、それとなくそれを指摘すると、そ
の母親は、こう言った。

 「この子は、生まれつき、ああです」と。

 生まれつきそうなのだから、私の責任ではないと言いたかったのか。その母親は、「機質的
な問題」という言葉も使った。

 そこで「無知の知」という言葉が生まれた。「無知であることを知る」という意味である。ソクラ
テス自身が述べた言葉という説もあるし、ソクラテスにまつわる話という説もある。どちらにせ
よ、「私は何も知らないということを知ること」を、無知の知という。

 ソクラテスは、「まず自分が何も知らない」ということを自覚することが、知ることの出発点だと
言った。

 実際、そのとおりで、ものごとというのは、知れば知るほど、その先に、さらに大きな未知の
分野があることを知る。あるいは新しいことを知ったりすると、「どうして今まで、こんなことも知
らなかったのだろう」と、自分がいやになることもある。

 話が繰りかえしになってきたので、この話はここまでにしておく。要するに、無知であることを
居直ってはいけない。無知は、それ自体、罪悪である。
(はやし浩司 常識の敵 無知の知 幻想 幻惑 誤解 無知)

+++++++++++++++++

無知の知について書いた原稿があります
ので、ここに、掲載します。
文章が、少し(荒い)ですが、どうか
お許しください。

+++++++++++++++++

●生きることの意味

 生きることの意味について、考えた。

 その意味は、いくつかある。それらを分類すると、こうなる。

(1)人との触れあい
(2)自然とのかかわり
(3)未来への展望性

(1)の「人との触れあい」というときの「人」には、家族、兄弟、親類、友人、社会人、その他、も
ろもろのすべての人が含まれる。

 こうした人たちと、心豊かな関係を結ぶ。それが第一。

 つぎに(2)「自然とのかかわり」。この世に生きるということは、すなわち、この世とのかかわ
りをいう。五感で感ずる世界、すべてをいう。「自然」という言葉を私は使ったが、その世界とい
うのは、私たちの体や心を包む、すべての世界をいう。

 三つ目に、(3)「未来への展望性」。私たちがなぜ生きるかといえば、私たちの経験や知識
を、つぎの時代の人たちのために、生かすことである。子育ては、その中でも、もっとも身近
な、一つの例ということになる。が、それだけでは、足りない。

 今の「私」や、「あなた」が、なぜ心豊かに生きることができるかといえば、それはすなわち、
先人たちが、その経験や知識を私たちに、残してくれたからである。

「先人」といっても、100年前、1000年前の人たちをいうが、つまり、今度は、私たちが、それ
をつぎの世代のために残す。そうすることによって、つぎの世代が、さらに心豊かな人生を送る
ことができる。

 私たちは、数十万年という、まさに気が遠くなるほどの年月を経て、ここまで進化した。しかし
その進化は、ここで完成されたわけではない。言うなれば、まだその途中。あるいはやっと、大
きな山のふもとにたどりついたような状態かもしれない。

 しかし不完全で、未熟であることを、恥じることはない。大切なことは、不完全で、未熟である
ことを、自ら認めることである。決して、傲慢(ごうまん)になってはいけない。おごり高ぶっては
いけない。

 私たちは、不完全で、未熟なのだ! それをすなおに認め、謙虚に反省する。そしてその上
で、自分のあるべき姿を、組みたてる。

 これからも人間は、うまくいけば、このあとも、何千年、何万年と生きていかれる。決して今
を、最高と思ってはいけない。頂点と思ってもいけない。さらに人間は、前へ前へと進む。

 しかし、この地球には、実にオメデタイ人がたくさんいる。

 まるで自分が、神や仏にでもなったかのように、ふるまう人たちである。しかしそんなことは、
ありえない。1000年後でも、1万年後でも、ありえない。ありえないことは、人間というより、地
球、地球というより、宇宙の歴史をみればわかる。あるいは、この宇宙の広大さをみれば、わ
かる。

 ……と考えていくと、生きる意味の中で、もっとも大切なのは、この三番目の「未来への展望
性」ということになる。

 もし私やあなたが、私だけの人生を生き、あなただけの人生を生きたとしたら、それはほとん
ど意味がない。ないことは、そういう生き方をした人をみれば、わかるはず。そういう生き方をし
て、死んだ人をみれば、わかるはず。彼らはいったい、何を残したか?

 つまりその「残す」部分に、生きる意味がある。

 悲しいかな、もっとはっきり言えば、私たちは、たとえていうなら、リレー競技で使う、バトンに
過ぎない。過去の人たちから受け取り、そしてそれを、つぎの世代の人たちに渡していく。それ
以上の意味はないし、またそれができれば、まさに御(おん)の字。じゅうぶん。たくさん。いや、
それを超えて、私たちは、いったい、何を望むのか。何を望むことができるのか。

 そこで私たちが、今、すべきことは、先人たちの経験や知識に、謙虚に耳を傾け、よりよい人
間関係をつくり、よりよい環境を、身のまわりにつくることである。

 もっとも、これは100年単位、1000年単位の話である。30年とか60年とかいう、一世代、
二世代単位の話ではない。身のまわりの、ささいな変化にだまされてはいけない。私たちが考
えるべきことは、「100年前の日本人より、より心豊かな生活ができるようになったか」というこ
と。「1000年前の人間より、より心豊かな生活ができるようになったか」ということ。そういう視
点で、ものを考える。

 若い人は、その年齢に達すると、いきおい、「生きる意味」を求める。私もそうだった。多分、
あなたもそうだったかもしれない。「なぜ、私は、ここにいるのか」「なぜ、私は、生きているの
か」と。

 しかしその答は、永遠に人間は、知ることはないだろう。が、もし、視点を変えて、「私はバト
ンだ」と思えば、その答は、何のことはない、すぐ私やあなたのそばにあることを知る。

 私やあなたは、今、ここにこうして生きている。少なくとも、この文章を読んでいる、あなたは、
ここにこうして生きている。もし生きる意味があるとするなら、今を懸命に生きて、そしてそれか
ら得られた知識や経験を、ほんの少しでもよいから、つぎの世代に伝えることである。

 いつか、その時期はわからないが、いつか、人間が、すべて神や仏のようになる日が、やっ
てくる。必ず、やってくる。1万年後か、10万年後か、それはわからない。しかしその日をめざ
して、私たちは、とにかく前に向って進む。進むしかない。それが「生きる意味」ということにな
る。

 このつづきは、もう少し、時期をおいてから考えてみたい。
(はやし浩司 生きる意味 意義 生きる目的)


●三つの自己中心性

 自己中心性は、それ自体が、精神の未発達を意味する。(精神の完成度は、他人への同調
性、他人との協調性、他人との調和性で知ることができる。自己中心性は、その反対側に位
置する。)

 つまり自己中心的であればあるほど、その人の精神の完成度は、低いとみる。

 これについては、もう何度も書いてきたので、ここでは、その先を書く。

 この自己中心性は、(1)個人としての自己中心性、(2)民族としての自己中心性、(3)人間
としての自己中心性の三つに、分かれる。

 たとえば、「私が一番、すぐれている。他人は、みな、劣っている」と思うのは、(1)の個人とし
ての自己中心性をいう。つぎに「大和民族は、一番、すぐれている。他の民族は、みな、劣って
いる」と思うのは、(2)の民族としての自己中心性をいう。そして「人間が宇宙の中心にいる、
唯一の知的生物である」と思うのは、(3)の人間としての、自己中心性をいう。

 この中でも、一番、わかりやすいのは、(3)の人間としての、自己中心性である。

 しかし人間は、宇宙の中の、ゴミのような星に、かろうじてへばりついて生きている、つまり
は、(カビ)のような生物にすぎない。だれだったか、少し前、(地球に張りつく、がん細胞のよう
なもの)と表現した人もいる。

 (だからといって、人間がつまらない生物だと言っているのではない。誤解のないように!)

 たとえば、今、私たちの視点を、宇宙へ置いてみよう。すると、ものの見方が、一変する。

 この広大な宇宙には、無数の銀河系がある。そしてそれぞれの銀河系には、これまた無数
の星がある。その数は、浜松市の南にある、中田島砂丘にある、砂粒の数より多いといわれ
ている。(実際には、その数は、わからない?)

 太陽という星は、その中の一つにすぎない。

 で、私たちが住む、この地球は、その太陽という星の、これまたチリのような惑星に過ぎな
い。

 これが現実である。疑いようもない、現実である。

 こういう現実を前にして、「人間が宇宙の中心にいる、唯一の知的生物である」と言うのは、
実にバカげている。

 で、こういう視点で、こんどは、民族としての自己中心性を考えてみる。……と、考えるまでも
なく、民族としての自己中心性は、実にバカげているのが、わかる。こんな小さな地球上で、大
和民族だの、韓民族だの、さらには、白人だの黒人だのと言っているほうが、おかしい。

 さらに、個人の自己中心性となると、バカげていて、話にならない。

 そこで話をもとにもどす。

 宇宙的視点から見ると、細菌とアメーバの知的レベルが、私たち人間には、同じに見えるよ
うに、人間とサルの間には、知的レベルの差は、まったくない。人間は、「自分たちはサルとは
違う」と思っているかもしれないが、まさにそれこそ、人間が、人間としてもっている自己中心性
にすぎない。

 人間としての完成度は、人間が、他の動物たちと、どの程度までの同調性、協調性、調和性
をもっているかで決まる。

たとえば森に一本の道を通すときでも、どの程度まで、そこに住む、ほかの動物たちの立場で
ものを考えることができるかで、その完成度が決まる。「ほかの動物たちのことは、知ったこと
か!」では、人間としての完成度は、きわめて低いということになる。

 さらに話を一歩進めると、こうなる。

 私たち人間は、バカである。アホである。どうしようもないほど、未熟で、未完成である。「万
物の霊長類」などというのは、とんでもない、うぬぼれ。その実体は、まさに畜生。ケダモノ。

 そういう視点で、私たちが自らを、謙虚な目で、見なおしてみる。たとえば人間としての、欠
陥、欠点、弱点、盲点、そして問題点を、洗いなおしてみる。少なくとも、私たち人間は、(完成
された動物)ではない。そういう視点で、自分を見つめてみる。

 つまりは、それこそが、人間としての自己中心性を打破するための、第一歩ということにな
る。

【追記】

 『無知の知』という言葉がある。ソクラテス自身が述べた言葉という説もあるし、ソクラテスに
まつわる話という説もある。どちらにせよ、「私は何も知らないということを知ること」を、無知の
知という。

 ソクラテスは、「まず自分が何も知らない」ということを自覚することが、知ることの出発点だと
言った。

 実際、そのとおりで、ものごとというのは、知れば知るほど、その先に、さらに大きな未知の
分野があることを知る。あるいは新しいことを知ったりすると、「どうして今まで、こんなことも知
らなかったのだろう」と、自分がいやになることもある。

 少し前だが、こんなことがあった。

 子ども(年長児)たちの前で、カレンダーを見せながら、「これは、カーレンジャーといいます」
と教えたら、子どもたちが、こう言って、騒いだ。「先生、それはカーレンジャーではなく、カレン
ダーだよ」と。

 で、私は、「君たちは、子どものクセに、カーレンダーも知らないのか。テレビを見ているんだ
ろ?」と言うと、一人の子どもが、さらにこう言った。「先生は、先生のくせに、カレンダーも知ら
ないのオ?」と。

 私は、ま顔だったが、冗談のつもりだった。しかし子どもたちは、真剣だった。その真剣さの
中に、私はソクラテスが言ったところの、「無知」を感じた。

 しかしこうした「無知」は、何も、子どもの世界だけの話ではない。私たちおとなだって、無数
の「無知」に囲まれている。ただ、それに気づかないでいるだけである。そしてその状態は、庭
に遊ぶ犬と変らない。

 そう、私たち人間は、「人間である」という幻想に、あまりにも、溺れすぎているのではない
か。利口で賢く、すぐれた生物である、と。

 しかし実際には、人間は、日光の山々に群れる、あのサルたちと、それほど、ちがわない?
 「ちがう」と思っているのは、実は、人間たちだけで、多分、サルたちは、ちがわないと思って
いる。

 同じように人間も、仮に自分たちより、さらにすぐれた人間なり、知的生物に会ったとしても、
自分とは、それほど、ちがわないと思うだろう。自分が無知であることにすら、気づいていない
からである。

 何とも話がこみいってきたが、要するに、「私は愚かだ」という視点から、ものを見ればよいと
いうこと。いつも自分は、「バカだ」「アホだ」と思えばよいということ。それが、結局は、自分を知
ることの第一歩ということになる。
(はやし浩司 ソクラテス 無知の知)


++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

最前線の子育て論byはやし浩司(824)

●スチューデント・アパシー

 無気力、無表情、無感動の状態を総称して、「アパシー」という。そのアパシーが、若者を中
心に、部分的に現れることがある。とくに、男子学生に多い。それを、「スチューデント・アパシ
ー」(ウォルターズ)という。

 このスチューデント・アパシーが、燃えつき症候群や、荷おろし症候群とちがう点は、ここにも
書いたように、学業なら学業だけというように、アパシーになる部分が、かぎられているという
点。学業面では、無気力でも、アルバイトや、交友、遊びは、人一倍、活発にする。

 が、大学の講義室に入ったとたん、別人のように、無気力状態になる。反応もなく、ただぼん
やりとしているだけ。眠ってしまうこともある。

 こうした症状も、(本人がやりたいこと)と、(現実にしていること)のギャップが、大きいことが
原因でそうなると考えると、わかりやすい。「大学へは入ってみたが……」という状態である。と
くに、目標もなく、ただ点数をあげるためだけの受験勉強をしてきたような子どもに、多く見られ
る。

 このタイプの学生は、まず本人自身が、何をしたいかを正確に知らなければならない。しかし
たいていのケースでは、それを知るという気力そのものすら、消えていることが多い。

 「本当は、何をしたいのか?」
 「わからない」
 「でも、何か、やりたいことがあるだろ?」
 「ない……」
 「でも、今のままでいいとは、思わないだろ?」
 「……」と。

 こうした症状は、早い子どもで、小学校の高学年児でも、見られるようになる。概して言えば、
従順で、まじめな子どもほど、そうなりやすい。遊ぶときは活発なのだが、教室へ入り、机に向
かってすわったとたん、無気力になってしまう。

 こうした症状が見られたら、できるだけ初期の段階で、それに気づき、子どもの心を取りもど
す。よく誤解されるが、「いい高校に入りなさい」「いい大学に入りなさい」というのは、子どもに
とっては、(したいこと)ではない。一見、子どものためを思った言葉に聞こえるかもしれない
が、その実、子どもの心を破壊している。「入学したら、どうなの?」という部分がないまま、子
どもを、追いたててはいけない。

 で、今、目的の高校や大学へ入ったとたん、燃え尽きてしまったりして、無気力になる子ども
は、本当に多い。市内の有数の進学高校でも、5〜10%が、そうでないかと言われている(教
師談)。大学生となると、もっと多い。
(はやし浩司 無気力 無気力症状 ステューデント アパシー スチューデント アパシー 無
気力症候群)
 
+++++++++++++++++++++はやし浩司

●おかしな、おかしな世界

 昼食をとりながら、ワイフと、テレビのワイドショーを見る。その中で、「Z」という、ある団体が
紹介されていた。一見すると、カルトのようだが、宗教団体ではない。宝石の販売を目的とす
る、株式会社だ、そうだ。

 その会を主宰する男性は、自らを、「ナポレオン」と呼んでいた。で、彼がその会を主催する
目的は、日本に軍国主義を復活させ、世界を再構築するためだという(05年8月1日)。番組
の中では、100人近い男女が、剣を振り回して、何やら踊りのようなことをしていた。

 それぞれの人は、それぞれの主義、主張をもつ。それは自由だし、その人がどんな主義、主
張をもったところで、私は驚かない。

 が、私が驚いたのは、そういう団体であっても、何百人という会員がいて、すでにそれなりの
活動を始めているということ。主宰する男性は、剣を振りまわしながら、「私たちの目的は、中
国を抹殺することだ」というようなことを言っていた。(テレビからの見聞きなので、内容は正確
ではない。)

 それについて、レポーターが、「そんなことをすれば、戦争になりますよ」と言うと、その男性
は、「当然だ」と。

 これ以上のコメントは、私にはできないが、どうして今、ナポレオンなのか、私には、理解でき
なかった。その番組によれば、そういう儀式(?)を通して、宝石を販売するのが、会の目的ら
しい。より高額の宝石を買えば買うほど、その会でのステータス(地位)があがるという。が、そ
の一方で、すでに被害者の会も、発足しているという。

 あまりにも、その会が現実離れしていたので、私は、思わず笑ってしまった(失礼!)。もう少
し若ければ、私も、本気になってその会について調べる気も起きただろう。が、この話は、笑っ
て、おしまい。

私「それにしても、ナポレオンねえエ〜」
ワイフ「ナポレオン?」と。

 しかし今、どうしてナポレオンなのだろう。ただただ、?????。


++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

●作られる反日感情

 韓国で、このほど、親日度に関する、アンケート調査がなされた。それによると、日本に親し
みを覚えている人は、28%程度にすぎないという(中日新聞)。

 N政権になってから、韓国の人が感ずる親日度は、急速に、低下している。理由がないわけ
ではない。

 たとえば、ここ数日の、東亜N報(韓国を代表する新聞)をみても、反日的な表現が、ズラリと
並ぶ。

★身元確認可能な韓半島出身者の遺骨、名古屋市は無断で粉砕

日本の名古屋市が、韓半島出身の徴用犠牲者で、身元の確認が可能な12人の遺骨を含め
て、121人の徴用犠牲者の遺骨を粉砕処理してしまった事実が明らかになった。在日本大韓
民国民団(民団)と、在日本朝鮮人総連合会(総連)は、非人道的なやり方だとして糾弾してい
る。

★扶桑社の歴史教科書、明日から一般向け販売へ

産経新聞は31日、日本の極右団体「新しい歴史教科書をつくる会」が主導した扶桑社版・中
学校課程の歴史・公民教科書が8月2日.より一般向けに販売されることになった。

★日本、無人偵察機導入へ 域内国の軍事動向監視

東京新聞は26日、日本政府が北朝鮮のミサイル基地をはじめ、韓国や中国などの近隣諸国
の軍事動向を監視するため、無人偵察機を取り入れることにしたと報じた。日本の防衛庁は
弾道ミサイル迎撃のためのミサイル防御(MC)体制の一つとして、無人偵察機を取り入れると
いう方針を固め、来年度の予算に研究調査費を割り当てることにした。 
無人偵察機の主な任務は、地対空ミサイルの射程外である20km上空を長期間飛行しなが
ら、北朝鮮内陸部のミサイル基地を観測する。実際にミサイルが打ち上げられたなら、赤外線
感知器で捕捉し、日本の自衛隊本部に伝達する。また、光学カメラと高性能レーダーなどを搭
載して、海上の工作船を追跡するとか、韓国や北朝鮮、中国などの近隣諸国の軍事施設を撮
影する機能も持つことになる。
++++++++++++++++++

 韓国の新聞は、ことあるごとに、日本のアラさがしばかりしているといった感じがする。どんな
ささいなことでも、そこに、(被害的要素)を感ずると、それを即、反日感情に結びつけてしまう。

 無人偵察機については、日本政府は、「対K国用」と明言している。が、そんなニュースでも、
韓国では、「韓国や北朝鮮、中国などの近隣諸国の軍事施設を撮影する機能ももつことにな
る」と報道する。

 また名古屋市が、遺骨を処分したことについても、「身元確認可能な韓半島出身者の遺骨、
名古屋市は無断で粉砕」と。「粉砕」(東亜N報)という言葉を使うところが、恐ろしい。あたかも
悪意をもって、そうしたという印象を、韓国の人たちに与えてしまう。

 またどうして日本も、そして韓国も、教科書に、これほどまでにこだわるのか? いまどき教
科書といっても、子どもたちにとっては、情報の一部にすぎない。私立学校などでは、教科書を
ほとんど使わないで授業を進めているところも多い。

 そういう(現実)を、韓国の人も、もう少し正確に知ったらよいのではないだろうか。教科書の
内容イコール、日本人の思想とはかぎらない。また今は、教科書に、そんな力は、ない。

 歴史認識については、たしかに問題がある。両国の間には、大きなズレがある。しかしある
一定以上のズレについては、それは日本の責任というよりは、韓国側によって誇張され、作ら
れたズレであると言えなくもない。

 まさに『坊主憎ければ……』式の、反日運動の中で生まれたズレもないわけではない。その
一例が、こうした報道姿勢にある。とくに「韓国の軍事施設の監視」という文言にいたっては、
被害妄想もよいところ。

 戦後、一時はよくなりかけていた対日感情だが、N政権になってから、大きく変わった。その
結果が、ここでいう28%という数字である。ある在日韓国人の大学教授は、こう書いている
(「月刊S誌7月号」)。

 「とても残念なことだが、今の韓国は、日本にとっては、たいへん危険な国になりつつある」
と。

 逆に、それを認識している日本人は、いったい、どれくらいいるのか。

 サンケイWEBコラムは、つぎのように書いている。

「日韓国交正常化から7月22日で40周年になる。現在の日韓関係は、日本では"ヨン様"に
象徴されるような韓国ブームが起きるほど韓国に対する好意的な関心が広がっている。40年
前には想像もできなかった変化だ。 

 韓国でも街に日本語の看板が見られるなど、日本に対する拒否感は大幅に後退した。40年
前には、日本人が街で日本語をしゃべることさえはばかられたほどだった。 

 国交正常化当初は年間2万人だった人の往来も、今や1日1万人の往来になっている。本当
に仲が悪ければこんなに人の往来があるはずはない。 

 変わらないのは韓国の「反日」である。それも政治やマスコミが主導し、わざわざ国民を刺激
しているように見える」(05年7月)と。

 まさに同感である。


++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

●6か国協議

 北京で行われている6か国協議は、2週目に入った。

 全体の印象としては、中国と韓国のしくんだワナに、アメリカがはまったという感じ。結局はK
国の思惑どおりの、米朝交渉が主体になってしまった。

 中国と韓国は、そのウラで、K国に、さかんにこう説得しているにちがいない。

 「日本から、莫大な戦後補償金を、いっしょにとってやるから、ここは少し、がまんしろ」と。

 私は決して、憶測でものを言っているのではない。すでに中国は、過去において何度も、その
補償額を、日本に打診してきている。アメリカ議会の推定によれば、50〜100億ドルと言われ
ているが、とても、そんな額ではすまない。

 03年の12月に、K国が中国を通して打診してきた戦後補償額が、何と、400億ドル! 日
本円にして、約4兆1000億円! もうメチャメチャな数字といってよい。

 このお金を使って、K国は、何をするつもりなのだろうか。どこから、何を買うつもりなのだろう
か。

 それはさておき、日本としては、そのあたりまで読みながら、6か国協議を進める必要があ
る。核問題、拉致問題、ミサイル問題だけが、問題ではない。もっとはっきり言えば、つまり日
本の国益を最優先に考えるなら、6か国協議など、まったく意味がない。だいたいにおいて、古
今東西、この種の軍縮会議が、(すでに軍縮会議の様相をおび始めているが……)、うまくいっ
たためしがない。

 まさにキツネとタヌキの化かしあい。日本だって、戦前、さんざん、してきたではないか。

 今の金xx独裁政権に、400億ドルものお金を渡せば、どうなるか? そんなことは、少し頭を
冷やして考えれば、だれにでも、わかること。それで韓国やK国の対日感情が、好転するなど
ということは、ありえない。

 日本が今、すべきことは、人権問題を旗印にあげながら、K国の核問題は、国連の安保理に
付託すること。中国や韓国は、それをいやがっているが、それこそがまさに正攻法。その上
で、金xx政権を、自然崩壊に追いこむ。

 これから先、6か国協議は、どう進むか。私は、三つのシナリオが考えられる。

(1)中国主導で、きわめて簡単な共同声明が発表されて、おしまい。
(2)アメリカが、先に、席を蹴って立つ。
(3)K国が、先に、席を蹴って立つ。

 (3)番目のシナリオは、ほとんど、ありえない。もしそんなことをK国がすれば、K国の核問題
は、そのまま国連の安保理に付託されてしまう。中国も、K国制裁の決議案に拒否権を発動で
きなくなってしまう。K国は、それをよく知っている。

 (2)番目のシナリオは、ないとは言えない。しかしそのときは、米韓関係は、崩壊し、米中関
係は、緊張状態に置かれる。アメリカは、日本などと協調して、K国の核問題を、国連の安保
理に付託する。中国が拒否権を使っても、無視して、対K国の経済制裁に走る。

 (1)番目のシナリオで、ことが運べば、結局は、再び、K国に、時間稼ぎの口実を与えること
になる。「つぎの6か国協議は、06年に1月に……」とかなんとか。つまり何も問題が解決しな
いまま、K国は、各国から援助だけは受け取る。その公算が強い。仮にそのあと日朝交渉とい
うことになっても、K国は、日本に対して、言いたい放題のことを言ってくるだろう。今回の6か
国協議で、K国は、一応、アメリカの動きを封じこめることができる。アメリカはアメリカで、「戦
後補償問題は、日朝間の問題。アメリカには関係ない」と逃げてしまう。

 日本としては、2つの選択がある。

 一つは、金xx独裁政権を、自然崩壊に導くという方法。

 もう一つは、莫大な戦後補償金を支払いつつ、これから10〜20年にわたって、中国、韓
国、K国の動向にビクビクしながら、生きていく。

 ある程度の危険(戦争)を覚悟するというのなら、先の選択ということになる。しかしどこまで
も、平和主義を貫くというのなら、あとの選択ということになる。ただし一言。中国軍部の中で
は、つぎのような動きが出てきたということも忘れてはならない。

 「アメリカとの核戦争も辞さない」と。

経済発展の中で、どちらかというと影が薄くなり始めた軍部の、いわば勢力誇示とも考えられ
なくはない。しかしそういう動きがあることも忘れてはならない。
(05年8月2日記)


++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

●脳梗塞(のうこうそく)

 私の知人に、こんな人がいた。

その人は、毎朝、白いご飯の上に、生卵を2個かけて、食べていた。そのせいかどうかは知ら
ないが、(それも原因の一つだと思うが)、その話を聞いてからしばらくしてからのこと。通りで
会うと、その人は、車イスに乗っていた。奥さんが、うしろから押していた。あとで別の人に聞い
たところ、脳梗塞で、ほぼ全身が、マヒしてしまったという。

 あまりにも痛々しい姿だったので、ただ、ぼう然とするばかり。私は、その場では、声をかけ
ることができなかった。

 言い忘れたが、その知人は、そのとき、60歳くらい? 会社を退職した直後にそうなったとい
う。

 もう1人の知人は、たしか40歳になる前に、脳梗塞で倒れた。その知人のばあいは、心臓に
何かの欠陥があって、そこでできたカス(血栓)のようなものが、脳の血管をふさいで、そうなっ
てしまったそうだ。しかしそのときは、「そんな若い人でも、脳梗塞になるのか?」と、私は驚い
た。

 健康というのは、そういうものか。つまり、健康であるときは、健康の意味すらわからない。健
康であることが、当たり前。自分の体をながめながら、「動かなくなる」ということのほうが、想像
できない。

 そこでこんなふうに考えてみる。

 今、私は、髪の毛を自分の意思で動かすことができない。髪の毛を、右に動かしたり、左に
動かしたりすることができない。恐らく、脳梗塞を起こし、運動障害が残った人の状態というの
は、そういうような状態をいうのだろう。

 ただ脳梗塞といっても、梗塞を起こした部分によって、症状は千差万別。運動能力だけがマ
ヒするわけではない。時計が読めなくなる、方向がわからなくなる、言葉が話せなくなるなど、い
ろいろある。中には、人格そのものが、おかしくなる人もいるそうだ。もちろん、思考能力その
ものが、大きな影響を受けることもある。

 ……では、なぜ、今、ここで、脳梗塞なのか?

 実は、私はこのところ、ときどき体の不調を感ずることがある。今朝も、そうだった。パソコン
のキーボードをたたき始めたときのこと。右手の動きが、どこか、にぶい。しびれたような感じも
あった。

 居間におりていって、ワイフにしばらくマッサージをしてもらったら、かなり楽になった。それを
ワイフに話すと、「脳梗塞の初期症状かもしれない……」と、恐ろしいことを言った。

 それで、脳梗塞の話になった。

私「おととい、カニとエビを食べただろ。あれで脳の血管がつまったのかもしれない」
ワ「ああいうものは、コレステロールが多いから、もう食べないほうがいいのかもね」
私「そうだね」と。

 脳梗塞の予防法というのは、あるのだろうか。あるとすれば、どんなことに気をつければよい
のだろうか。とりあえず、食事に気をつける。水分を多くとり、血液をサラサラにする、など。血
液中のコレステロール値に気をつけることは、言うまでもない。

 素人の私が考えた方法なので、正しくないかもしれない。そこでインターネットを使って、あち
こちのサイトを調べてみた。

●脳梗塞予防法

 脳梗塞や心筋梗塞のように、血管がつまって引き起こされる病気を、「血栓症」というそうだ。
(ナルホド、そのほうがわかりやすい!)

 で、脳梗塞の初期症状というよりは、軽症のばあいには、つぎのような症状があるという(「ナ
ットウキンネット」から引用)。

ろれつが回らない
言葉がしゃべれない
半身がしびれる
半身に力が入らない
フラフラしてまっすぐ歩けない
ものが見にくい

 同じサイトによると、数ミリ単位の脳梗塞ということになると、

   40代で、4人に1人
   50代で、3人に1人
   60代で、2人に1人
   70代で、ほぼ全員に、発生するという。

 原因としては、

   高血圧
   コレステロール
   アルコール
   タバコ
   肥満
   糖尿病
   ストレスが、あるという。

 さらにたとえば、けがなどで、血管を傷つけたりすると、その血管を修復しようと、血小板が凝
固する。その凝固した血小板(フィブリン)が、血栓となって、血栓症を引き起こすこともあると
いう。

 若いころは、その血栓は、血液の中で溶けてしまうのだが、年齢が高くなると、その力が弱く
なるという。ストレスが多い生活をしている人ほど、危険度も高いという。高血圧やコレステロー
ル値に気をつけなければならないこともさることながら、ストレスにも、注意。

 初期症状については、「ナットウキンネット」のほうにのっているので、興味のある方は、そち
らで読んでみたらよい。私が感じた、手のしびれも、その症状の一つになっていた。(ゾーッ!)

 まあ、とりあえずの対策として、心配なのは、肥満とストレス。(私は低血圧症、酒は飲めない
し、タバコは吸わない。糖尿病とは無縁。コレステロール値は、この春の検診では、問題なかっ
た。)

 しかし油断大敵。そこでこの夏の健康法。心配なのは、生活がだらしなくなる、夏休み。約10
日、ある。

【夏休みの間の健康法】

(1)毎日、最低でも、1時間は、自転車に乗って、汗をかく。
(2)近くの店へ買い物に行くときは、かならず、歩く。
(3)食べ物に注意する。
(4)クーラーにはあたらない。寝るときも、扇風機だけ。
(5)体重に気をつける。

 改めて、自分に、そう言って聞かせる。

 みなさんも、どうか、健康には、くれぐれも、ご注意! 年をとったら、血管を傷つけるようなケ
ガも、血栓を作る原因となるそうです。


+++++++++++++++++++++++はやし浩司

●迷信

 私の母は、今でもそうだが、迷信のかたまりのような人だった。何かにつけて、迷信を信じ、
ことあるごとに、息子の私に押しつけた。

 とくにこだわっていたのが、運勢や、まじない。食事にしても、私はある時期、青い(緑)色の
菜を食べさせてもらうことができなかったのを覚えている。理由は覚えていない。みそ汁などの
中に、それがあると、母は、こまめにそれを取り除いて、私に食べさせていた。

 よく覚えているのは、新しい靴を買ったときのこと。靴を買う日まで、決まっていた。「縁起の
悪い日に買うと、事故にある」とか何とか……。母はそう言っていた。そしていくら私が頼んで
も、「夜に新しい靴をおろしては、いかん」と、私を強く叱った。「新しい靴は、朝か、昼に、おろ
せ」と。

 「おろす」というのは、地元の言葉で、「地面におろして、はじめて使う」ことを意味する。

 で、そうした母の考え方が、私には、かえって反面教師になった。私はもの心つくころから、そ
うした迷信には、ことごとく反発するようになった。そのため、母とのけんかも、よくした。

 迷信。根拠や論理性のない信仰をいう。たいていは、その人の思いこみで始まり、その思い
こみが肥大化して、妄想となった状態をいう。そういう意味では、自己中心性の強い人ほど、迷
信を信じやすいのではないか。つまりは、それだけ精神の完成度が低いということになる。

 ……といっても、何も自分の母を批判しているのではない。母は大正のはじめの生まれで、し
かも山奥の田舎育ち。今から思えば、ちゃんとした教育を受けていなかった。自分でものを考
えるという習慣すら、なかった。当時の日本という国は、まだそういう状態だった。

 こんなことがあった。

 私が小学2、3年生のころだが、頭に、できものができた。「タムシ」というできものである。そ
れができると、頭がかゆくてしかたない。そこで手でかいたりしていると、ばい菌がはいって、化
膿する。とたん、症状が、一気にひどくなる。

 今なら、簡単な薬で治るが、当時は、そうではなかったらしい。母は毎日、頭に、近くの神社
でもらってきた水を私の頭につけ、何やら呪文のような言葉を唱えていた。しかしそんな水で、
治るはずがない。

 そこで母は、私を、愛知県のY町にある、Y観音様という神社へつれていった。電車を乗りつ
いで、片道、3時間ほどかかった。(この「3時間」という時間は、今でも、3時間ほどかかるとい
うことで、3時間にした。)

 そこでも、やはり水をもらった。そして毎日のように、母は、私の頭に、その水をつけた。それ
が、私の日課になってしまった。

 私の頭のタムシは、ますますひどくなった。で、最終的には、G市(G県の県庁所在地)にある
医院で、薬をもらって、それで治ったが、おかげで、私の頭には、無数の丸いハゲが残った。
数えたことはないが、大小、100個くらいはあるのではないか。

 いつしか私は、母をうらむというよりは、迷信のほうを、うらむようになった。「迷信?」と感じ
たときには、それをことごとく否定するようになった。占いやまじないは、もちろんのこと、手相、
家相、姓名判断などなど、すべてである。そしてその分野では、私は、まさに「百戦錬磨(れん
ま)の勇者」になった。

 若いときは、ことあるごとに議論にのぞみ、そういうことを口にする相手と、とことん戦った。私
の反カルトの精神は、そういうとことで培(つちか)われた。その精神は、今でも、それは生きて
いる。

 ただ母との議論は、ほとんど、したことがない。とくに、母が年をとってからは、したことがな
い。言いたいように言わせ、私は適当にそれに合わせている。どうせ理解できるような相手で
はないし、また今さら、道理をわからせようとしても、意味はない。母には、母の人生がある。

 が、母のほうは、今でも、ときどき、私には、こう言う。

 「お前だけは、地獄へ落ちると思って心配していたが、地獄へは、落ちなんだな」と。私の母と
いうのは、そういう人である。
 
++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

●迷信(2)

 考えることには、ある種の苦痛が、ともなう。寒い朝、ジョギングにでかける前に感ずるよう
な、そんな苦痛である。

 しかしジョギングにでかけてしまえば、その苦痛は消える。

 同じように、ものを考えるときも、そうだ。が、いったん、考え始めてしまうと、その苦痛は消え
る。つまり、(考える人)と、(考えない人)のちがいは、ここにある。

 で、考えることを苦痛と感ずる人は、多い。「私は、考えるのが大きらい」と、平気で口に出し
て言う人さえいる。自分で考えようとする前に、逃げてしまう。が、そういう人は、自ら、脳ミソの
健康を、放棄(ほうき)しているようなもの。

 はっきり言おう。

 占いや、運勢など、あんなもの信じるほうが、どうかしている。最近はやりの、占星術や、四
柱S命にしても、そうだ。そんなことは、宇宙という視点から、地球をながめてみれば、わかる。

 宇宙から見れば、地球上に住む人間は、それこそ顕微鏡でも使わないと見えない。カビのよ
うなものである。

 そんなカビの一匹、一匹(失礼!)に、彼らがいうところの、宇宙のパワーが、それぞれ、
別々の影響を与えることなど、ありえない。が、迷信を信ずる人は、そうではない。「私だけは、
特別の存在」と考える。つまりは、この極端なまでの自己中心性が、迷信の本質と言ってもよ
い。

 もし人間に運命があるいうのなら、それはその個人を包む、大小さまざまの社会的環境をい
う。そのさまざまな社会的環境が、無数の糸となって、その人をがんじがらめにしている。

 その結果として、その個人のあり方が、決まる。それが運命である。

 しかしいくら運命があるといっても、最後の最後で、ふんばって生きるのは、私たち個人であ
る。そのふんばって生きるところに、生きる人間の美しさがある。無数のドラマもそこから生ま
れる。

 ある男性(37歳)は、「自分は、地獄へ落ちる」と、毎日、ビクビクしながら、過ごしている。自
分の妻が、それまでいっしょに信仰していた教団を抜けたからである。その教団では、「途中
で、信仰を捨てると、地獄へ落ちる」と、ことあるごとに信者に教えている。

 こう書くと、その男性の知力を疑う人もいるかもしれない。しかしその男性は、ある国立大学
の工学部を出たような人である。そんな人でも、迷信の世界にハマると、そうなる。

 (ついでに言うと、「この教団を抜けると、地獄へ落ちる」とか、「不幸になる」とか教える教団
は、カルトと断言してよい。カルトの特徴は、アメ(ご利益)と、ムチ(バチ)を、同時に信者に示
しながら、信者の脳ミソを洗脳していくところにある。)

 こうした迷信と戦うためには、まず、自分で考える習慣を身につけること。そして自分の中に
ある常識を、みがくこと。おかしものは、おかしいと思う。そういう常識をみがくこと。

 その常識をみがくことは、それほど、むずかしいことではない。

 ごくふつうの人として、ふつうの生活をすればよい。とくに重要なのは、他人との良好なかか
わりと、そして自然との調和である。人間は、こうして何十万年も生きのびてきた。これからも、
その常識に従えば、生きのびることができる。

 かつて人間は、火山が爆発すれば、山の神のたたりと恐れ、洪水が発生すれば、水の神の
たたりと恐れた。しかし今どき、そんなことを本気で信じている人はいない。子どもでも、いな
い。

 だから迷信も、その分だけ、巧妙になってきた。最近では、宇宙のパワーなるものと結びつけ
る傾向が強くなってきた(?)。迷信にも、宇宙時代がやってきたというわけか。

 ともかくも、迷信は、理性や道理を曇らす。かえって自分の進むべき道を、誤らせる。さらに
迷信にハマればハマるほど、時間をムダにする。人生をムダにする。山の神に、一生を捧げ
たとしても、地震はなくならない。水の神に、一生を捧げたとしても、洪水はなくならない。

 ところで、最近、こんな相談をもらった。Y県のXさんからのものとしておく。

 「私の夫の実家は、悪霊にたたられています。その家から出た、兄弟、親類のほとんどが、
家族の中で、大きな不幸を経験しています。

 たいてい長男が、病死か、自殺。精神を病んでいるのもいます。ざっと数えて、10家族ほど、
現在いますが、例外がありません。

 で、私の夫は、その家から出た、二男です。ですから、今のところ、大きな不幸はありませ
ん。

 ところがです。最近、夫が、実家へ帰ったおり、小さな馬の置き物をもらって帰ってきました。
ずっと、実家の仏壇の横の床の間に飾ってあったものです。とたん、その数日後、私の息子
が、自転車に乗っていて、事故にあってしまいました。

 私は、これはその置き物のたたりではないかと、思います。心配です。夫には、置き物を実
家へ返すようにと言っているのですが……」と。

 仮にたたりだとするなら、だれが、それをコントロールしているというのか?

 病気や事故などというものは、偶然と確率の問題。信仰しているから起こらないものでも、信
仰していないから起こるものでもない。数か月前だが、こんな話も聞いた。

 その男性(60歳)は、この10年間、不幸つづきだという。家業の土建業は、倒産。年に、数
回は、交通事故を起こしている。さらに最近、肝臓を悪くし、入退院を繰りかえし、仕事もできな
くなってしまった、と。

 それについて、その男性は、近くの神社の神主におうかがいをたててみたところ、「あなたの
家はたたられているから、今すぐ、お祓(はら)いをしなさい」と、忠告されたという。

 しかしその男性に不幸がつづいたのは、たたりのせいではない。何度か、いっしょに車に乗
って、あちこちへ言ったことがあるが、その男性の乱暴運転には、あきれるものがあった。

 信号無視は、あたりまえ。ときには、県道のような道でも、100キロ以上でとばす。暴飲暴食
というか、5〜10分おきにタバコを吸い、毎晩、一升瓶をあけるほど、酒を飲んでいた。

 そんな生活をしていれば、注意力も散漫になる。当然、病気にもなる。しかしその男性は、そ
うした自分自身の中の(原因)には、気づいていない。とくに、注意力が散漫になった部分(=
思考力が低下した部分)については、気づいていない。それに気づく思考力さえない。

 で、その男性は、神主の言うとおりに、お祓いをしてもらったそうだが、それでその男性の不
幸が止まるわけではない。(現在は、入院中なので、一応、平穏だが……。)

 迷信というのは、そういうもの。理性そのものまで眠らせてしまう。

 で、先のメールをくれた人には、こう返事を書いた。

 「昔は、乳幼児の死亡率が、極端に高かったため、どこの家でも、長男や長女を、病気で失
うことが多かったようです。戦前には、30%前後の子どもが、満6歳くらいまでに死んだという
話を、どこかで聞いたこともあります。ですから、過去をほじくりかえして、そういう事実をつなぎ
あわせても、意味はありません。

 たたりなどというものは、ありません。

 むしろこわいのは、そういうたたりがあると思いこんで、自分で、そのたたりを作ってしまうこと
です。ささいなことまで、たたりのせいにして、「やっぱりたたりはある」と思いこんでしまうことで
す。こういうのを、心理学の世界でも、「誇大化」といいます。

 これから先、社会情勢の不安定化、環境問題などで、不安なことがつぎつぎと起きてきます。
不安になると、脳ミソの活動が固定化され、ますます思考力が低下します。前頭連合野の活動
が鈍くなると説く学者もいます。

 じゅうぶん、注意してください」と。

 さあ、あなたも勇気を出して、迷信と戦おう! 

 迷信こそが、常識の敵!

【補記】

●カルトの特徴

 カルトの特徴を、箇条書きにしてみた。

神秘化……過去の人物にかこつけ、その宗教に神秘性をもたせる
誇大化……その宗教が、すべてと信者に思いこませる。
妄信化……絶対的な善であると、信者に妄信させる。
美化正当化……命をかけるに足りる宗教であると、信じこませる。
非現実化……現実遊離、現実逃避の思想を注入する。
社会逃避性……社会的なもの、人間的なもの、ついでに金銭は無意味と教える。
組織化……信仰が個人というワクをはずれ、組織化する。
隷属化……組織の中では、上下関係を明確にし、下位信者は、上位信者に隷属する。
上位下達化……思想、思想は、常に、上層部から、下層部へと一方的に伝えられる。
信者の愚鈍化……その信仰以外のことは考えさせない。
固執化……その信仰を離れたら、バチが当たるとか、不幸になるとか教える。
排他性……自分たちの信仰以外のものは、まちがっていると排斥する。
閉鎖性……外部との接触を、禁止する。

 これらの項目にあてはまれば、その宗教は、カルトと考えてよい。信仰といっても、「教え」に
よってするもの。しかしその基盤は、人間が人間としてもっている常識である。どんな信仰をす
るにしても、その常識の目を曇らせてはいけない。
(はやし浩司 カルト カルトの特徴 迷信 たたり たたり論)


++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

●意識のちがい

+++++++++++++++++

意識ほど、やっかいなものはない。
そこはまさに、映画「マトリックス」の世界。
一方の側から見ると、一方の側がまちがって見える。
しかしその相手の側から、今度は自分を見ると、
それまでの自分が、まちがって見える。

意識には、そういう側面がある。

+++++++++++++++++

 意識のちがいを知る、一番よい方法は、「裸」文化を知ることである。「裸」に対する意識ほ
ど、国によって、ちがうものはない。

 たとえば36年前、私はオーストラリアへ行って、それを知った。当時、向こうの女学生で、ブ
ラジャーをつけているものは、ほとんど、いなかった。薄い、それこそ乳首が見えそうなくらい薄
いシャツを着て、平気で、通りを歩いていた。

 今でこそ笑い話になるが、私にも、こんな経験がある。

 金沢での学生時代のこと。よく通訳のアルバイトをした。そんなあるとき、カナダ人だったと思
うが、一組の夫婦が、娘を連れて、金沢へやってきた。が、その娘が、今でいうタンクトップの
ような服を着ていた。年齢は、18歳くらいではなかったか。当時の日本の女性で、そんな服装
で街を歩く女性はいなかった。

 私は通訳をしながら、ときどき、歩けなくなってしまったのを、覚えている。目のやり場がない
というのは、そういうときの状態をいう。恥ずかしいなどというものではなかった。どうして私が
歩けなくなったかは、改めてここに書くまでもない。

 で、先週、イギリスのロンドンで、こんなことがあった。

 ある芸術家の呼びかけで、数千人の一般市民が、素っ裸で、ロンドンの街の中を行進したと
いう。男も女もない。写真でみるかぎり、老いも若きもない。欧米人が、日本人とはちがった裸
文化をもっているということは、若いころから知っていた。それを改めて、私は、思い知らされ
た。

 ……ということを書くのが、ここでの目的ではない。

 私たちは、それぞれのことがらについて、それぞれの意識をもっている。

 家族意識、夫婦意識、仕事意識、仲間意識など。「同じ人間だから、それほどちがわないだ
ろう」と思いたいが、こうした意識は、時代、国、地域によって、みな、ちがう。子育てに対する
意識とて、例外ではない。

 私たちが今もっている意識というのは、そういうもの。またそういう前提で考えないと、ときに
は、まちがった意識をもってしまう。そしてそのまちがった意識に、振りまわされてしまう。

 たまたま今夜も、数人の母親たちと、こんな会話をした。みな、小学生の子どもをもつ母親た
ちである。

 このところ、再び、受験戦争が過熱し始めている。夏休みに入って、子どもたちは、毎日、午
前と午後、計5時間の勉強をしているという。母親たちは、その話をした。「夏休みになったの
に、学校の勉強より、きびしいです」と。

 しかし意識というのは、こわい。

 どの親も、目が前にしかついていない。前だけしか見ない。見えない。子どもを伸ばす(?)こ
とだけしか考えていない。

 親として、それは当然かもしれないが、その一方で、子どもの心を破壊していることには、気
づいていない。どの母親も、「うちの子にかぎって……」「まさか……」と思っている。が、そうい
う受験競争の中で、キズつき、もがいている子どもは、多い。そしてそのうちの何割かの子ども
は、途中で、ドロップアウト。夜な夜な、コンビニの前で三角すわりをしながら、タバコを吸うよう
になるかもしれない。そういう危険性には、気づいていない。

 私は、ただ「慎重にしたほうがいいですよ」とだけ言ったが、どこまでわかってもらえたことや
ら? 子どもを決して、競走馬の馬のようにしてはいけない。時間はかかるかもしれないが、子
どものやる気をじょうずに育てながら、子ども自身がその目的に向かって進むようにする。

 が、それでも、だめなら……、つまり親の期待からはずれていくようなら、あとは、あきらめ
る。あきらめて、「まあ、うちの子はこんなもの」と、割り切る。子どもというのは不思議なもの
で、「まだ何とかなる」「こんなはすはない」と、親ががんばっている間は、伸びない。しかし親が
あきらめたとたん、そのあとしばらくしてから、伸び始める。

 私たちには、私たちの意識がある。子育てというのは、こういうものという意識。教育というの
は、こういうものという意識。しかしこうした意識は、決して、普遍的なものでもなければ、また
世界の標準でもない。

 日本人がもつ意識が、まちがっているとか、おかしいというのではない。ただ、ときには、そう
いう意識も、疑ってみる必要があるということ。方法は、簡単。

 「本当に大切なものは、何か」「その本当に大切なものを、守り育てていくためには、私たち
は、どうあるべきか」と、それを自分自身に問いかけてみる。

 もちろんこの日本には、歴然たる受験戦争がある。この受験戦争がなくなったら、日本の教
育そのものが、崩壊するかもしれない。

 しかしなぜ、こうした受験戦争があるかといえば、これまた歴然たる不公平社会がある。努力
し、能力のある人が、それなりの生活をするのは、しかたないことかもしれない。しかしそうでも
ない人たちが、一般庶民の何倍もの給料を手にして、楽をしている。人生の入り口で、たった
数日の試験で合格したというだけで、それが大きな差となって現れる。だから親たちは、自分
の子どもを、受験勉強に、しむける。「勉強しなさい!」と。

 が、そのときでも、心のどこかで、いつも「何が大切か」を考える。その小さなブレーキが、い
つかやがて子どもの心を守る。親子の絆(きずな)を守る。

 私はよくオーストラリアの友人たちと、子育てについて、話しあう。しかしいつも、その意識の
ちがいには、驚かされる。結論を先に言うと、彼らは、子どもを、生まれたときから、1人の独
立した人間とみて育てる。またそういう意識が強い。子どものできが悪くても、それを親の責任
と考える人は少ない。一方、日本では、親は、子どもを、自分のモノのように考える。だから子
どものできが悪かったりすると、それを親の責任と考える人が多い。

 こうした意識のちがいが積み重なって、結果的に、教育に対する考え方そのもののちがいと
なって現れる。

 それについて書いた原稿(中日新聞発表ずみ)が、つぎの原稿である。

++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

●日本の常識、世界の標準? 

 『釣りバカ日誌』の中で、浜ちゃんとスーさんは、よく魚釣りに行く。見慣れたシーンだが、欧
米ではああいうことは、ありえない。たいてい妻を同伴する。

向こうでは、家族ぐるみの交際がふつうで、夫だけが単独で外で飲み食いしたり、休暇を過ご
すということは、まず、ない。そんなことをすれば、それだけで離婚事由になる。

 困るのは『忠臣蔵』。ボスが犯罪を犯して、死刑になった。そこまでは彼らにも理解できる。し
かし問題はそのあとだ。彼らはこう質問する。「なぜ家来たちが、相手のボスに復讐をするの
か」と。

欧米の論理では、「家来たちの職場を台なしにした、自分たちのボスにこそ責任がある」という
ことになる。しかも「マフィアの縄張り争いなら、いざ知らず、自分や自分の家族に危害を加え
られたわけではないのだから、復讐するというのもおかしい」と。

 まだある。あのNHKの大河ドラマだ。日本では、いまだに封建時代の圧制暴君たちが、あた
かも英雄のように扱われている。すべての富と権力が、一部の暴君に集中する一方、一般の
庶民たちは、極貧の生活を強いられた。もしオーストラリアあたりで、英国総督府時代の暴君
を美化したドラマを流そうものなら、それだけで袋叩きにあう。

 要するに国が違えば、ものの考え方も違うということ。教育についてみても、日本では、伝統
的に学究的なことを教えるのが、教育ということになっている。欧米では、実用的なことを教え
るのが、教育ということになっている。しかもなぜ勉強するかといえば、日本では学歴を身につ
けるため。欧米では、その道のプロになるため。日本の教育は能率主義。欧米の教育は能力
主義。

日本では、子どもを学校へ送り出すとき、「先生の話をよく聞くのですよ」と言うが、アメリカ(特
にユダヤ系)では、「先生によく質問するのですよ」と言う。

日本では、静かで従順な生徒がよい生徒ということになっているが、欧米では、よく発言し、質
問する生徒がよい生徒ということになっている。

日本では「教え育てる」が教育の基本になっているが、欧米では、educe(エデュケーションの
語源)、つまり「引き出す」が基本になっている、などなど。

同じ「教育」といっても、その考え方において、日本と欧米では、何かにつけて、天と地ほどの
開きがある。私が「日本では、進学率の高い学校が、よい学校ということになっている」と説明
したら、友人のオーストラリア人は、「バカげている」と言って笑った。そこで「では、オーストラリ
アではどういう学校がよい学校か」と質問すると、こう教えてくれた。

 「メルボルンの南に、ジーロン・グラマースクールという学校がある。チャールズ皇太子も学ん
だことのある由緒ある学校だが、そこでは、生徒一人一人に合わせて、カリキュラムを学校が
組んでくれる。たとえば水泳が得意な子どもは、毎日水泳ができるように、と。そういう学校をよ
い学校という」と。

 日本の常識は、決して世界の標準ではない。教育とて例外ではない。それを知ってもらいた
かったら、あえてここで日本と欧米を比較してみた。 

 意識のちがいというのは、そういうもの。
 

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

●K国の食糧事情

++++++++++++++

BLOGに書いた意見は、そのまま
瞬時に、相手に伝わる。

韓国の中央N報社のBLOG(日本語版)
をのぞいてみた。

過激な意見が、ズラリと並んでいた。
もちろん日本人の私たちが書いた意見である。

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 韓国に、中央N報という新聞社がある。その中央N報は、日本語で、日本人向けに、BLOG
を開設している。

 05年8月4日現在、そのBLOGで、K国の食糧事情を特集している。それによれば、「 世界
食糧計画(WFP)は8月2日、緊急報告を通じて、国際社会からの新しい支援がなければ、今
年後半、食糧の支援を受ける北朝鮮住民数が、460万人から190万人へと、270万人が減
るだろう」と。

 問題は、それにつづく、書きこみの内容である。BLOGというのは、すでにご存知の方も多い
と思うが、読んだ人が、そのまま意見を書きこむことができるようになっている。

 その内容を、最新のものから、順にいくつか紹介する。

+++++++++++++++++

★地球規模じゃ、人口増えてるんだから、270万位死んでもどうってことない、アフリカ等の本
当に支援が必要なところに金を使えばよい、軍事に金を使い国民の貧困などお構いなしの国
には、支援なんて必要なのか? 未来永劫、日本人は朝鮮人(韓国人含む)と仲良くはできな
い、そんな金をどぶに捨てる話しあいなど不要。(O氏)

★朝鮮人肉でも喰え。(O氏)

★ 「馬鹿なK国人は飢えて死ね。金xxは高級ワインをため込んでいるぞ。K国人が死のうがど
うしようが、金xxはおいしいワインを飲む。でも、飢えた人民にはやらん」。韓国のS統一部長
官が金正日との6月の面会の際、1本25万ウォンのチリ産高級ワイン5本をプレゼントした。
金正日がワイン愛好家であることは有名な事実で、フランスなど全世界の「高級ワイン1万本
ほどを貯蔵庫に保管」していることが知られている。・・・とか。(I氏)

+++++++++++++++

 こうした過激な意見がほとんどで、それが8月4日現在、120件を超えた。当然、このBLOG
に書かれたことは、韓国語に翻訳され、韓国の人たち、さらには、K国の人たちに読まれてい
る。

 みなさんは、こういう書きこみ記事を読んで、どう、判断なさるだろうか。どう、感じられるだろ
うか。書きこみをしている人たちには、それなりの考えがあるのだろう。だから、これらの記事
についてのコメントは、さしひかえたい。

 ただ、私も、だまってはおれない。こういう意見が、日本人の意見だとは、思いたくないし、ま
た韓国の人たちにも、思ってほしくない。つぎのような書きこみを、私は、した。なお、投稿は、
一回の投稿に、字数制限があるため、いくつかに分けてした。

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【HH1】

●強者の論理だけで、ものを考えてはいけない。たまたま今の日本人が、腹いっぱい食べら
れるからといって、それをおごってはいけない。K国の人たちが、今、食糧不足で苦しんでいる
のも、同じ(たまたま)そうなっただけ。●もちろんその責任のほとんどは、金独裁者にある。し
かし忘れてならないのは、金独裁者がいるから、今のK国があるのではない。金独裁者を支え
る人たちがいるから、金独裁者がいる。

【HH2】

●日本の国内にも、在日朝鮮人の人たちがたくさんいるはず。そういう人たちの中には、今回
の一連の拉致事件で、心を痛めている人もいるはず。●さらに、親戚、縁者を、K国にもってい
る人も多いはず。そういう人たちの苦しみや悲しみを、日本人の私たちは、もっと理解してやら
なければならない。またそうすることによって、私たち日本人は、彼らより一歩、上に出ることが
できる。

【HH3】

●先のサッカー。アジアカップ杯のことを思い出してみようではないか(04年夏)。決勝戦は、
北京で、日本対中国の間で行われた。あのとき、中国側サポーターたちは、日本側サポーター
に向って、「殺せ!」「殺せ!」と、ビンやものを投げた。●しかし日本人側サポーターたちは、
「日中友好」と書いた、日章旗をあげて見せた。そういう行為そのものが、まさに、日本人の精
神が、彼らの精神を超えたことを意味する。

【HH4】 

●もっと世界の人の良心を信じよう。世界の人たちは、リアルタイムで世界の動きを見ている。
●今回、あのG8サミットには、中国は招待されなかった。中国各地で起きた、反日暴動を見
て、世界の要人たちは、「中国は異質の国」と判断したからだ。●日本人は、そういう世界の人
の善意を信じて、もっと、賢く、冷静になろう。

【HH5】

●日本は、決して孤立していない。韓国はだめだから……、K国はだめだから……と、感情的
に考えるのではなく、もっと大きく、目を外に向けよう。韓国がだめでも、インドがある。ブラジル
がある。これらの国々は、日本に友好的である。●すでに中国からは、約3分の1の日系企業
が撤退、もしくは撤退の過程にある。政治はともかくも、毎日、1万人もの人たちが、日本と韓
国の間を行き来している。大切なことは、仲良くすることであって、敵対することではない。ここ
は、冷静に。私たちも、韓国の人たちの良心を信じようではないか。

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

最前線の子育て論byはやし浩司(825)

●言論の自由

+++++++++++++++

このところ、私のHPはマガジンに
対して、励ましや、感謝のメールが
急速にふえてきた。

子育てについての相談も、多い。

うれしいことだ。

が、その一方で、ときどき、
抗議や、中傷的なメールも届く。

しかたのないこと。

しかし気に入らなければ、読まなければ
いいと、私は率直に思うのだが……。

まあ、この世界、いろいろある。

しかしこれこそが、言論であり、
こうして自由にものを言いあうのが、
言論の自由というもの。

++++++++++++++++

 ものを書くとき、一番、警戒しなければならないことは、(あくまでも、私のばあいだが……)、
自己愛的傾向である。

 わかりやすく言えば、自己中心性。

 私も含めて、それぞれの人は、まず(自分)を書く。それは当然のことである。が、ここで最初
に注意しなければならないのは、独断と偏見。しかし実際には、それと戦うのはむずかしい。

 どうやって、自分の独断を知るか?

 どうやって、自分の偏見を知るか?

 正しいと思って書いていても、あとでまちがっていたと気づくことは多い。勉強不足、情報不足
は、「限界」として、いつも、そこにある。つまりものごとを知り尽くしてから書くということは、本
来、ありえない。

 で、あるところで、見切り発車的に、ものを書く。が、そのとき、独断と偏見が、そこに入りこ
む。

 そこで大切なことは、そうした自分の意見に対して、批評、批判を寄せてくれる人に対して謙
虚になること。辛らつなことを言ってくる人もいるが、そういう人の意見が、自分の独断や偏見
を、軌道修正してくれることもある。

 「なるほど、そういう意見もあるのか」と。

 心理学的には、自己愛者ほど、他人の批評、批判を許さないという。自分の中の完ぺき性
が、そうさせるらしい。その完ぺき性が、自己愛者の一つの特徴にも、なっている。

 「自分は正しい」と思うのは、その人の勝手だが、その返す刀で、「あなたはまちがっている」
と、断言する。私にも、多分に、その自己愛者的なところがある。だから今は、もう、いちいち反
論しない。「私は、私」「あなたは、あなた」と考えるようにしている。つまりそういう形で、自分の
中の自己愛的な部分と戦う。

 それに……。もう、いちいち、特定のだれかを相手にしている時間も、ヒマもない。私は私で、
自分の道を進むしかない。もう少し若ければ、少し寄り道をしてでも、その相手と議論もしただ
ろうが、正直言って、それも疲れた。

 ……ということで、ひょっとしたら、私の独断と偏見は、ますます強くなっているかもしれない。
だから、ときどき、ワイフにこう聞く。

 「ぼくの書いていること、偏向(へんこう)していないか?」「常識的か?」と。

 するとワイフは、わかっているのか、わかっていないのかは知らないが、「あなたはあなたで、
いいんじゃなア〜イ」と言う。

 ちなみに、今年(05年)に入ってから、私のHPへの訪問者は、2万1000人(FC2カウント
数、1月〜7月期)。マガジンの読者数は、現在計、1850人。R天日記の訪問者は、毎日、2
00人前後になっている。

 全体的にみれば、まだ小規模なHPであり、マガジンだが、月ごとに読者数がふえているの
は、心強い。読者のみなさん、これからもよろしくお願いします。

 あなたのお知りあいの方で、マガジン(無料)に興味をもってくださいそうな人がいらっしゃれ
ば、くれぐれも、よろしくお伝えください。

 言論の自由、バンザーイ!

++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

●コンビニ

++++++++++++++++++

最近は、コンビニでも、私と同年齢の
女性が働いているのを、よく見かける。

私が行きつけの、「S11」でも、2人の
女性が働いている。1人は、55歳くらい。
もう1人は、60歳くらい。

すっかり顔なじみになった。いろいろと
便宜をはかってもらっている。

++++++++++++++++++

 顔なじみになって、得をしたと思うのは、そのつど、あれこれ無理がきくということ。たとえば私
はコンビニへ行くと、たいてい、何らかのおもちゃを買うことにしている。

 最近では、「艦船シリーズ」とか、「飛行機シリーズ」というのがある。小さな模型である。値段
は300〜400円だが、それがよくできている。「ホオー」と感心するほど、よくできている。

 が、外のパッケージからでは、中に何が入っているかわからない。そこでコンビニの女性に、
ハカリを貸してもらう。

女性「何に使うの?」
私「重さで、中に何が入っているか、わかるでしょ」
女「なるほどね」
私「同じものは、買いたくないから」と。

 その艦船シリーズ。重さをはかってみると、微妙に、ちがう。42・5グラム。46・3グラム、4
5・4グラム……、と。

 その重さによって、中に何が入っているか、だいたいわかる。

 ……こうしたノウハウは、私は、子どものころ、身につけた。当時は、どこの横丁にも、駄菓
子屋というのがあった。いろいろなお菓子や、おもちゃを売っていた。クジや、何と表現したらよ
いのか、今で言う、福袋を小さくしたようなものもあった。

 袋の中には何が入っているかわからない。そこで私たちは、手でそれを押さえたりしながら、
中のものが何であるか知った。

 今は、それがハカリになった。

私「これは重いから、軍艦だよ」
女「これは、ほかのと重さがちがうわよ」
私「そう、それがなかなか出ない、レアだよ」
女「何かしら……?」
私「小型モーターだと思うよ」と。

 重さと、箱のウラの見本とを、そのつど見比べながら、中身を推察する。

私「ところでさ、このコンビニ、冷房、ききすぎだと、思わない?」
女「そう?」
私「こんな冷えたところで働いていると、生理不順になるよ」
女「ははは、ごちそうさま」と。

 陽気な人たちだ。この前のバレンタイン・ディーのときは、その日が終わってから、売れ残り
のチョコレートを、私にくれた。私が「愛しているよ」と言ってやったら、「わあ、うれしい」と。

 今日も、これからそのコンビニへ行くつもり。では、そんなわけで、今朝は、ここまで! みな
さんも、よい一日を!

 そうそう台風9号が近づいてきているそうです。今のところ、K国直撃コースを進みつつあるよ
うですが、みなさんも、どうか、ご用心を!
(050804)

++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

最前線の子育て論byはやし浩司(826)

【絶望論】

++++++++++++++++

人は、なぜ絶望するのか。
またその絶望から自分を
脱出させるためには、ど
うしたら、よいのか

++++++++++++++++

●限界状況

 「私はこういう人間だ」と、自分で思い描く自分。これを自己概念というが、その自己概念をも
とに、人は、一歩話を進めて、今度は、「私は、こういう人間でありたい」と思うようになる。しか
しそこにはいつも、(現実)というカベが立ちはだかる。

たとえば、いくらプロのシンガーになりたいと思っても、そこにいたる道は、けわしい。そこで多く
の人は、そういう夢や希望をもちながらも、いたるところにカベ(壁)を感じ、やがて自分の(限
界)を知る。

 こうした自分の置かれた状況を、限界状況というが、この限界状況に入ると、人は、さまざま
な選択をしながら、自分が崩壊するのを、食い止めようとする。

 わかりやすい例では、失恋がある。

 いくらこちらがその相手に好意をもっていても、相手が、「YES」と言わなければ、恋愛は成り
たたない。そこで相手が、「NO」と言ったとき、その人は、その相手との間に、越えがたいカベ
を感ずる。

 で、そのとき、もしそれがあなたなら、どういう反応を示すだろうか。

(1)「どうせ、あんな男、くだらない男よ」と、自分をなぐさめる。(=合理化)
(2)また別の男を、さがし始める。(=代用代償)
(3)いじけてしまって、引きこもってしまう。(=逃避)
(4)その男に似た、タレントや俳優を好きになる。(=置き換え)
(5)男のことは忘れて、さらに自分をみがく。(=補償)

 ほかにもいろいろあるだろう。愛と憎しみは紙一重というから、その相手を、今度はうらみつ
づけるようになるかもしれない。

 つまりこうして人は、そこにカベ(限界)を感じたとき、それによって、自分が崩壊するのを、防
ごうとする。これを心理学の世界でも、「防衛機制」という。

 しかし失恋くらいなら、それほど、その人には、大きな影響を与えない。ショックは大きいだろ
うが、それはある意味で、熱病のようなもの。だれしも経験するし、まただれしも、一度は、乗り
越えなければならないカベということになる。

 が、もう少し深刻なカベもある。自分の力では、乗り越えられないカベである。家族や友人の
死、大病、経済的破綻など。そういう重い(限界)をそこに感ずると、ここでいう防衛機制が働か
なくなる。

●現実の自分

ところでこの、(自己概念)に対して、(現実の自分)がある。この両者、つまり(自己概念)と(現
実の自分)が、一致していれば、精神は、きわめて安定した状態になることが知られている。

 私は若いころ、川の中で魚を釣っている人を見て、それを発見した。

 魚釣りの好きな人は、冷たい川の中でも、じっとがまんして、立って魚を釣っている。私は最
初、それがよく理解できなかった。「そんなことまでして、魚がほしいのか」と思ったこともある。
また、よく誤解されるが、そういうことができるからといって、その人が、忍耐力のある人という
ことにはならない。魚釣りをする人の中には、結構、短気な人が多い。

 (自分のしたいこと)をしているから、それができる。つまりその釣り人は、釣りをしながら、自
分で自分のしたいことをしながら、自分を、現実の自分と、一致させている。

 子どもの世界でも、同じことを経験する。自分のしたいことを、したいようにしている子ども
は、それがどんなことであれ、精神的には、きわめて安定している。

 が、そういう状態が、混乱するときがある。子どもの世界の話をしたので、子どもの世界で考
えてみよう。

 A君(小5)は、サッカーが好きだった。地域のクラブにも所属し、それなりに活躍していた。
が、いよいよ受験が押し迫ってきた。が、このところ成績が、おもわしくない。そこである日、A
君の母親は、A君にこう言った。

 「サッカークラブをやめて、塾へ入って勉強しなさい」と。とたん、A君は、パニック状態になっ
てしまった。が、母親は、A君の希望を、受けいれてくれなかった。「プロのサッカー選手になる
のは、東大へ入学することより、むずかしいのよ!」と。

 そこでA君は、泣く泣く、クラブをやめ、進学塾へ通うことにした。A君にしてみれば、(自分の
したいこと)が、できなくなったというだけの問題ではない。今度は、(したくないこと)を、押しつ
けられたことになる。

 言うなれば、見るのも、声を聞くのも、体に触れらるのもいや。そんな男と、なりゆきで結婚し
てしまった女性の心理に似ている。A君は、そういう状態になった。

●自己概念の喪失

 絶望感が強まると、脳の機能そのものが、変調してくる。たとえば人間の脳ミソの中でも、(や
る気)をつかさどるのは、辺縁系の中でも、帯状回という組織だそうだ(伊東正男氏、新井康允
氏ほか)。

この部分が、大脳からほどよい信号を受け取ると、やる気を引き起こすという。もう少し具体的
には、帯状回が、モルヒネ様の物質を放出し、それが脳内に、心地よさを引き起こすということ
か。つまり、大脳からのほどよい信号こそが、その人のやる気を決めるというわけである。

 が、うつ状態になると、帯状回そのものの働きを鈍らせ、さらにそれが悪循環となって、うつ
状態は、さらに進行する。

 うつ状態になったとき、こわいのは、思考力の低下に合わせて、脳の管理能力そのものまで
低下すること。自分で自分をコントロールできなくなる。かわって、ささいなことにこだわり、悶々
と悩んだりする。頭から離れなくなる。

 こうした現象、これを「固着」というが、こうした現象が起きると、正常な判断力ができなくなる
ばかりではなく、記憶力の低下、妄想性、集中力の欠如などが起きてくる。

 つまりこうしてますます客観的に自分を見ることができなくなってしまう。たとえばストレスがが
たまると、免疫細胞からサイトカインという物質が放出されるという。うつ状態でも、同じような
現象が起きることが、最近の研究でもわかってきた。

もう少し詳しく書くと、こうなる。

ある程度のストレスは、生活に活力を与える。しかしそのストレッサー(ストレスの原因)が、そ
の人の処理能力を超えると、免疫細胞と言われる細胞が、サイトカインという特殊な物質を放
出して、脳内ストレスを引き起こすとされる。

そのため副腎機能の更新ばかりではなく、「食欲不振、性機能の低下、免疫機能の低下、低
体温、胃潰瘍などのさまざまな反応」(新井康允氏)が引き起こされるという。その反応は、「う
つ病患者のそれに似ている」(同)とも言われている。

●自分らしさ

 こうして自分を支えるものがなくなると、自分から、自分らしさが消える。他人の視点からすれ
ば、「その人らしさ」ということになる。子どもの世界では、(つかみどころ)ということになる。

自分らしさ、それを「自我」というが、その自我の明確な子どもは、人格の(核)が、はっきりして
いる。外から見ても、わかりやすい。が、その自我があいまいになってくると、いわゆる(何を考
えているか、わからない子ども)といった、感じになる。

 ついでながら、自我というのは、「自己であるという強い認識」(「精神分析」河出書房新社版)
をいう。「これが私だ」という(核)をいう。

で、このタイプの子どもは、従順で、おとなしいが、それは見かけ。陰では。人の目を盗んで、こ
そこそと悪いことばかりする。さらにその状態が進むと、自我そのものが、崩壊することもあ
る。

こんな話を、あるドクターから、聞いた。診療内科医院を経営しているが、その横の建物で、ボ
ランティア活動のひとつとして、心に問題をもった人の世話をしている。

●Kという男性

 不登校児や、育児ノイローゼになったような母親たちが集まっている。その中に、こんな男性
(35歳)がいるという。その青年は、長い間、母親から、断続的に虐待を受けていた。

 その男性の名前を、Kとしておく。

 その活動の中では、みなが、力をあわせて昼食を作ることになっている。が、Kは、何もしな
い。みなが作業にかかる時間になると、トイレのとなりにある小さな部屋に隠れてしまう。

 そこでヘルパーが、つれもどしに行くと、その途中で、バタンと倒れてしまうという。わざと転ん
でみせるわけである。そこでヘルパーが、「そんなところで、わざところんでもだめ」と言うと、バ
ツが悪くなったのか、そのまま這って、大部屋までもどってきたという。

 「長い間、母親に虐待されたため、自我そのものが崩壊してしまったと考えるべきでしょう。約
束は守れない、目標は守れない、規則は守れない。その上、たいへんな怠け者。何か仕事を
させると、とたんにパニック状態になってしまいます。

 先日も、みんなでハイキングの行くということで、ポットから水筒にお茶を注がせたのですが、
それだけ、突然キレて、そのポットを割ってしまいました。『手がすべった』と、本人は言ってい
ましたが、それを見ていた人の話では、『わざとだった』と言うのです」と。

 同じような経験を、私は、飼っていた犬で経験している。

 その犬は、保健所で処分される寸前の犬だった。私たちがもらい受けたときは、小さなカゴに
入っていた。が、それまで、1週間とか、2週間とか、あるいはそれ以上の間、そのままの状態
だったようだ。

 人なつこく、愛くるしい犬だったが、だれにでもシッポを振り、番犬にはならなかった。それに
ほんの少しでもスキがあると、そのまま外へ出て行ってしまった。忠誠心は、ゼロ。約束も守ら
ない。だからしつけもできない。そんな状態で、その犬は、14、5歳まで生きて、昨年、死ん
だ。

 それだけ長く生き、私たちと生活をともにしたにもかかわらず、そんなわけで心の交流は、ほ
とんどできなかった。その犬の心は、最後の最後まで、閉じたままだった。だから私たち飼い主
にしても、ただ毎日、その犬の世話だけをしているという飼い方だった。かわいそうな犬だった
とは思うが、死んだとき、心のどこかで、ほっとしたのも、覚えている。

 話をもどすが、先のKという男性のばあい、「本来なら、自殺していたとしてもおかしくない状
態です」(ドクターの言葉)という。しかし彼は、自ら、その前に、自我を崩壊させてしまった。「い
つも意味のわからない笑みを浮かべています。ニコニコというのではなく、ニタニタ。あるいは、
ニヤニヤといった感じの笑みです」と。

●絶望

 自分を防衛することもできない。現実に適応することもできない。人格がバラバラになってし
まって、自分を統合することもできない。

 こうして人は、絶望という、深くて暗い穴の中に落ちていく。実は、私も、一度、経験している。
22、3歳のころである。幼稚園で講師として、働くようになって、しばらくのことだったと思う。

 いきさつはともかくも、そのときは、「死んではだめだ」と、毎日、自分に言ってきかせなけれ
ばならなかった。一度、こういう心理状態になると、ビルの窓の外を見ても、「ここから飛び降り
れば、それですべてが解決する」とか、そんなふうに考えるようになる。

 道を歩いていても、注意力そのものがなくなってしまう。車にぶつかれば、死んでしまうかもし
れない。「死にたい」とまでは思わなかったが、「死んでもいいや」という気持になった。「こちら
から車の中に飛びこものは、いやだが、向こうからぶつかってくるのなら、構わない」と。自暴
自棄というのは、そういう状態をいう。

 そのときの自分を、今、こうして振りかえってみると、いくつかの特徴があるのがわかる。あく
までも私のケースで考えてみる。

(1)防衛機制の停止。……いわゆる心理学でいう防衛機制(合理化、反動形成、同一視、代
償行動、逃避、補償などなど)の機能が、いっさい、働かなくなる。どこかへ逃げこみたいという
衝動(逃避)は、あったが、その逃げこむ場所すらなかった。だいたいにおいて、やる気そのも
のが、なくなってしまった。どんな食事をとっても、食べているというよりは、胃の中にモノをつっ
こんでいるという感じだった。

(2)現実感の喪失。……自分が何をしたいのか、何をしているのか、またどういう人間なの
か、さっぱりわからなくなってしまった。一応人前では、ふつうの人間を装うのだが、それが苦
痛だった。疲れた。人と会うことから生まれる疲労感は、相当なものだった。人と会っていない
ときは、ただボンヤリと天井をながめながら、寝ころんでいるしかなかった。

(3)現実への適応能力の喪失。……そのとき、すでに今のワイフと知りあっていたが、ただ交
際しているだけという状態だった。将来への展望性もなかったし、夢も希望もなかった。ただ毎
朝、起きたら、その日にやるべきことをこなすだけという感じだった。ときどきムラムラと、おか
しな怒りが自分の中にわいてきたこともある。今から思うと、かなり妄想的な怒りだったと思う。
何かに、カッとなって、八つ当たりしたこともある。

(4)管理能力の喪失。……ここにも書いたように、人格がバラバラになってしまった。一度、そ
の間に香港へ仕事に行ったことがある。そのとき、空港の手違いで、私の手荷物が、どこかへ
消えてしまった。空港職員は、あれこれあやまっていたが、私は、それが許せなかった。まるで
大金でも盗まれたかのように、怒り、怒鳴り散らしたのを覚えている。自分で自分をコントロー
ルできなくなってしまった。

全体としてみると、(自己概念)と、(現実自己)が、大きくかけ離れてしまい、そこに自分ではど
うすることもできないカベ(限界)ができてしまったことになる。そしてそのカベがあまりにも、大
きいため、戦うことすら、やめてしまった。

 つまり、それが「絶望」という状態ということになる。

●脱出

 が、そんな暗い日は、長くはつづかない。「死ぬことができなければ、生きるだけ」と、そんな
ふうに考えるようになった。ただ幸いなことに、(今でも、そうだが)、私の仕事は、幼児と接する
ことである。

 今から思うと、こういう職業(?)を選んで、本当によかったと思う。いつかどこかで、「天職」と
いう言葉を使ったが、幼児を教えるというのは、まさに、私にとっては、天職だった。

 朝、幼稚園の園庭に立つと、園児たちが、ワーッと集まってくる。そのエネルギーが、私を救
ってくれた。加えて、私は、私はもともと楽天的というよりは、無責任型。わかりやすく言えば、
どこかいいかげんなところがある。そういう自分が、やがて、心の中に、風を通してくれるように
なった。

 また今のワイフとの出会いも、よかった。当時の私を思い出しながら、今でもワイフは、ときど
き、こう言う。

 「あのときのあなたは、いつ死ぬかと、そればかりを心配していたわ。だから、私、あなたをほ
うっておけなかったの」と。

 つまり私たち夫婦は、愛情で結ばれた夫婦というよりは、自暴自棄になった私と、それを見る
にみかねて同情したワイフという関係でできた夫婦ということになる。しかしそういう意味では、
今のワイフには、感謝している。

 で、どうやって、その絶望から、はい出たか?

 それについてはよく覚えていないが、とにかくやるべきことは、した。ときに、自分の足を鉄の
ように重く感じたこともあるが、やるべきことはした。そのやるべきことをやりながら、少しずつ、
自分の調子を取りもどしていった。

 そうそう自分にこう言って聞かせたことがある。

 「どうせお前は、死ぬこともできない。意気地(いくじ)なしめ。だったら、あきらめて、生きるし
かないだろ」と。

 それともう一つは、つまり私の支えになってくれたのは、オーストラリアの友人たちであり、あ
の留学時代である。あの時代が、今でもそうだが、心の中の灯台として、いつも、私が進むべ
き道を示してくれた。

 私にとっては、つらくて苦しい時代だった。毎晩、ふとんの中にもぐると、ラジオの短波放送に
耳を傾けた。オーストラリアのABC国際放送が聞きながら、自分の心を休めた。

 そういう経験から、絶望から脱出するためには、こんなことは言えるのではないか。

(1)とにかく、朝起きたら、やるべきことを始める。あとのことは考えない。そしてそういう状態
を、1か月つづける。1か月でだめなら、2か月つづける。2か月でだめなら、3か月つづける。
こうして自分の調子を少しずつ、取りもどしていく。

 それができたら、

(2)少しずつ、自分をまわりに適応させていく。そういえば、そのころのことだったが、私は翻訳
のアルバイトもしていた。わずか数時間の仕事で、数日分の日当をもらえることもあった。そう
いうお金は、すべてその日のうちにワイフと使ってしまった。真夜中のドライブも、よくした。今
から思うとメチャメチャな生活だったが、それがどういうわけか、なつかしい。

 つまりそういう形で、自分の心や体をがんじがらめにしているクサリを、解き放つことも大切
かもしれない。『まず、心を解き放て! 体はあとからついてくる!』(アメリカの格言)ということ
か。つまり、

(3)あとは、自分のしたいことをする。自由きままに、生活する。それにまさる絶望のからの脱
出法は、ないのかもしれない。
(はやし浩司 絶望 絶望論 絶望からの脱出法 現実自己 絶望の心理 自己概念)

(追記)今は、昔とちがって、心療内科というのもでき、薬も著しく進歩している。心の変調を感
じたら、あまり深刻に考えずに、心療内科の門をくぐってみたらよい。私の時代には、「精神科
へ相談に行く」というだけでも、大きな抵抗感を覚えた。が、今は、そういう時代ではない。体の
病気と同じように、心だって、病気になることはある。絶望感を覚えたら、そういう視点でも、考
えてみるとよいのでは……。


++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

●気候のコントロール

+++++++++++++++++

地球温暖化の問題を解決するためには、
人類が、気象、気候をコントロール
するための、科学的ノウハウを
身につければよい。

しかし一方で、そんなことができるように
なったら、各国の利害がするどく
対立し、それこそ地球規模の戦争は
起こるようになるかもしれない。

地球温暖化も問題だが、醜い戦争も
これまた問題である。

つまりは、人類は、地球温暖化に
に対して、なすすべもなく、この
まま、自滅の道を選ぶしかないのか?

++++++++++++++++++

 台風9号が、石垣島を直撃したあと、さらに北上をつづけている。当初は、K国を直撃かと思
われたが、途中で、左折。このあたりまでくると、台風はいつも左折して、中国大陸へと向う。

 日本へ来る台風は、みな、右折して、日本列島を縦断するコースをとる。どうして台風は、こ
のあたりで左折したり、反対に右折したりするのか。実際には、太平洋上の高気圧のあり方
で、そうなるそうだが、この際、それはどうでよい。

 私は、テレビの天気予報を見ながら、ふと、こんなことを考えた。

 もし人間が、気象をコントロールできるようになったら、どうなるか、と。地球規模の気象でなく
ても、地域的な気候でもよい。

 恐らく台風がこのあたりまできたら、日本と中国の間で、大げんかが始まるにちがいない。
「お前のほうに、台風を向けろ」「いや、お前のほうにこそ、台風を向けろ」と。そこへ韓国やK
国が、割りこんでくる。きっと、その時点で、大騒動になるはず。

 そこで私は、気象をコントロールできないほうが、今の世界では、よいのではと考える。が、こ
こで一つ、大きな問題にぶつかる。

 地球温暖化の問題である。

 地球温暖化は、もうだれの目にも明らかなほど、急速に進んでいる。毎月のように、「気象観
測史上はじめて……」という言葉が聞かれる。耳のほうがなれっこになってしまって、いまで
は、もう、だれも驚かない。

 で、この地球温暖化を防ぐためには、とにかく科学の力で、気象とまではいかなくても、簡単
な気候くらいは、コントロールできるようにならなければならない。40度を超えるような猛暑に
なりそうだったら、それをコントロールして、40度以下に保つ、とかなど。

 が、ここで、私たち人間は、大きなジレンマに陥(おちい)ることになる。

 気候がコントロールできるようになれば、各国の利害がそこにからみ、へたをすれば、戦争
になるかもしれない。「お前が、勝手に台風を、こちらに向けたから、こちらは大被害をこうむっ
た。損害を、補償せよ」と。

 つまり気候をコントロールできそうにようになったら、こうした「各国」との摩擦(まさつ)をどう
解決するか、それを同時に考えなければならない。できれば、「各国」というときの、「国」という
概念そのものを、改めなければならない。もう少し踏みこんで言うと、地球温暖化の問題を、気
象レベルで解決しようとしたら、その前に、「国」という考え方を捨てなければならない。

 が、それができないとしたら、つまり現状のままの「国」という概念が残るようなら、気候のコン
トロールはしないほうがよいということになる。先に書いたように、そのつど、大騒動になる。と
いうことは、つまり、地球温暖化の問題を、気象レベル、あるいは人間がもつ科学の力で解決
するというのは、方法論としてではなく、現実問題として、たいへんむずかしいということにな
る。

 が、地球温暖化が今以上に進み、やがて、どうにもこうにもならなくなってきたら、人間は、ど
うするだろう。私は、つぎの二つの道のうちの一つを選択するのではないかと思う。

 一つは、地獄絵図を繰りかえしながら、人類は、自滅していく。各国の利害が、はげしく対立
し、地球規模の大戦争が、各地で発生する。

 もう一つは、国という概念を捨て、人類が全体として、一つになり、それに立ち向かう。あるい
は、何らの方策を考える。

 後者のほうがよいことは、言うまでもない。しかし気候をコントロールできるようになると同時
に、世界は、一つの「世界」として、まとまることができるだろうか。まとまることができなけれ
ば、結局は、人類は前者の道を歩むことになる。

 さて今、多くの科学者たちが、どうすれば、地球温暖化を防ぐことができるか、それを懸命に
考えている。私がしるかぎり、すでに1970年に開かれた、「ローマ会議」の席で、この問題は、
論じられている。

 すでにそのとき、もっとも簡単な方法として、つまり地球温暖化を防止するための方法とし
て、化石燃料(石油、石炭)の使用を制限するという話も出ていた。しかし2005年になった今
でさえ、その話しあいは、難航している。

 豊かな国の人たちは、「今のままで、これ以上、化石燃料を使うのをやめよう」と主張する。
貧しい国の人たちは、「我々も、化石燃料を同等に使って、豊かになる権利がある」と主張す
る。

 が、それと同時進行で、世界が一つになることも、考えなくてはいけない。地球温暖化は、全
人類の問題というよりは、地球に住む、全生物の問題でもある。そんな説は信じたくないが、一
説によると、2100年までに、地球の気温は、400度Cまで上昇するという。(400度Cだ
ぞ!)

 こんな時期に、日本だ、中国だと言っているほうがおかしい。ロシアだ、アメリカだと言ってい
るほうが、おかしい。

 が、最初の話に戻るが、仮に台風をコントロールできるようになったら、それだけで、国どうし
の利害問題がからみ、大騒動になる。……ということは、気候のコントロールは、できないとい
うよりは、しないほうがよいということになる。

 つまりは、人類は、このまま、なすすべもなく、静かに自滅の道を選ぶしかないのかもしれな
い。

 天気予報の解説者(NHK)は、日本上空を、棒で指し示しながら、「日本上空には、強い高気
圧が居座っています。今日も全国各地で、35℃を超える、きびしい暑さとなるでしょう」と報じて
いた(8月5日)


++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

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ます。これからも、ご購読、よろしくお願いします。


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++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

●6か国協議(8月6日朝記)

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6か国協議が、こう着状態にはいった。

先に席を蹴って立ったほうが負け。
今は、そういう状況である。

さて、この行く末は、どうなるか?

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 8月5日現在、6か国協議は、こう着状態にはいってしまった。「平和利用を認めろ」と主張す
るK国。「ならぬ」と主張するアメリカ。

 しかしK国が、核開発を放棄するはずがないことは、最初からわかっていた。核あってのK
国。それがなければ、ただの、独裁国家。ミャンマーの軍事政権と同じ。あるいは、それ以下。

 しかしこうまでがんこに、がんばるところをみると、K国の核開発は、相当のレベルまで進ん
でいることがわかる。恐らく、映画『007』に出てくるような、地下要塞研究所が、全国各地にあ
るのだろう。そういうウワサは、前から外に流れている。

 ただ一つ、ここで見誤ってはいけないのは、独裁者の金xxは、まともな人ではないというこ
と。またそういう前提で、ものを考え、6か国協議の行く末を考えなければならない。

 そこで現在は、「先に席を蹴って立ったほうが、負け」という状況になっている。アメリカが先
に席を蹴って立てば、アメリカの負け。K国が先に席を蹴って立てば、K国の負け。その点、今
回のヒル国務次官補の外交手腕は、実に、おみごと。すばらしい。さすが外交先進国のアメリ
カ。中国に責任を押しつけつつ、5か国をうまくまとめ、K国包囲網を築いた。

 ここでK国が先に席を蹴って立てば、あとは、国連安保理へK国の各開発問題をそのまま付
託することができる。そのときは、ロシアも中国も、もう、拒否権を行使することはできない。ア
メリカの最終的な目標は、そこにある。

 が、同時に、韓国は、準内戦の危機に立たされる。戦争にならないまでも、米韓関係の崩壊
と同時に、外資は逃避。そのまま韓国経済も、崩壊する。そのせいか、韓国のソン首席代表の
表情を見ていると、かわいそうなくらいに、顔が、引きつっているのがわかる。

 私の印象では、北京で会談しているK国代表の金外務次官自身は、世界の良識と、母国の
わからず屋の間で、板ばさみになっているのではないかと思われる。ひょっとしたら、今回のK
国代表団は、まるごと、そのまま韓国へ亡命してしまうかもしれない。私には、そんな気配すら
感じられる。

K国の金外務次官「いやあ、まあ、ここだけの話なんですが、私も困っているんですよ。どうや
ってウチの親分を説得したらいいか、わからんのですわ」
アメリカのヒル国務次官補「わかりました。お宅の事情もよくわかっていますから、ここは気長
に待つことにしましょう」
金「このまま、K国に帰ったら、私たち全員、収容所送りですわ」
ヒル「同情します。何なら、アメリカへ亡命しませんか」と。

 「YES、NO」だけをはっきりと言いながら、相手側の挑発的な発言には、動じない。ソフトに、
ただ淡々と事務的に、会談を進める。今回のヒル国務次官補の外交姿勢は、先にも書いたよ
うに、実におみごと。すばらしい。ポーカーフェイスだけでは、あそこまでできない。

 が、アメリカのもくろみは、ただ一つ。

 中国とK国を切り離し、金xx政権を崩壊へ導くこと。その意図は、日本も同じ。へたに合意が
まとまるようなことになれば、K国は、日本から巨額の賠償金を手にいれ、近代兵器をつぎつ
ぎと購入することができるようになる。

 そうなれば、日本のみならず、在韓米軍、在日米軍が、K国の軍事的脅威にさらされることに
なる。忘れてならないのは、なぜ、K国が、アメリカとの間に、不可侵条約的な条約を結びたが
っているか、ということ。

 もし米朝の間に不可侵条約的な条約が結ばれれば、K国は、日本に対して好き勝手なこと
ができるようになる。その時点で、日米安保条約は、対K国については、死文化する。仮に日
本とK国が戦争になっても、アメリカは、手も足も出せない。K国は、それをねらっている。

いくら金xxがまともではないとしても、アメリカと戦争すればどうなるかぐらいのことは、金xxで
も、わかっているはず。言うまでもなく、金xxの目的は、日本との戦争である。「核兵器開発
は、日本向けのもの」と、K国の高官たちは、ことあるごとに、公式の場で、公言している。

そんなわけで、日本としては、絶対に、そういう動き、つまり米朝不可侵条約的な条約の締結
するような動きがあれば、体を張ってでも、阻止しなければならない。

 つまり日本が、6か国協議に出ているのは、そのためと考えてよい。また今回も、K国が、6
か国協議から、日本を、さかんに、はずしたがった理由も、ここにある。

 さて、今日、8月6日。「休会」という動きも出てきた。が、今度、休会になったら、もうつぎはな
い。が、それだけではない。K国は、ロシアからも、中国からも、見離される。K国も、それをよく
知っている。だから、最後の最後まで、K国は、がんばるだろう。がんばるしかない。

 アメリカは、「6か国協議をつぶしたのは、K国」ともっていきたい。かたや、K国は、「6か国
協議をつぶしたのは、アメリカ」ともっていきたい。

 だから先に席を蹴って立ったほうが、負け。

 いろいろな外交交渉を見てきたが、今回の6か国協議ほど、歴史の中で、特筆すべき外交
交渉はない。

 私としては、当然のことながら、100%、アメリカの味方。当然のことではないか。がんばれ、
ヒル国務次官補。負けるな!

【補足】

 K国は、核の平和利用と口にする。しかしKEDOの例を見るまでもなく、自分でそれをする能
力も、お金もない。ないにもかかわらず、「平和利用」を口にする。このおかしさに、金xxは、気
づいていないのだろうか。

 この7月からさらに食糧事情は悪化し、8月になれば、さらに悪化するという。このところの豪
雨つづきで、農産物について、相当の被害も出ているはず。

 すなおに、「すみません、世界のみなさん、どうか助けてください」と頭をさげれば、それです
むものを、いばって、つっぱって、かたくなになる。

 何が、こうまで彼らをして、閉鎖的にさせるのか。

 金xxは、その政権を維持する過程で、すでに数万人から、数10万人もの人たちを、粛清(し
ゅくせい)、つまり殺害しているという。さらに先週は、フィリピン政府から、日本政府に対して、
こんな通告があった。

 「K国が、さらに精巧な、ニセの1万円札を東南アジアでバラまくという情報がある。気をつけ
ろ」と。

 何も、核や、ミサイルや、覚せい剤だけではないようだ。金xxは、こうした悪事が、明るみにな
るのを恐れている(?)。

 日本が今、すべきこと。ただひたすら冷静に、事務的に、人権問題を前面に立て、少しずつ、
金xx政権を追いつめていくこと。決して感情的になってはいけない。また制裁論も、騒がしい
が、あんなK国を、今以上に、制裁して、それでどうなるというのか?

 重要なことは、とにかく、K国とは、戦争をしないこと。日本の平和と安全を守ること。本気でK
国を相手にして、日本が得るものは何もない。日本は、絶対に、あんな国と心中するようなこと
だけは、してはいけない。


++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

●韓国の教育事情(2)

++++++++++++++++++++++

少し前、「韓国の教育事情」について、書いた。
お隣の韓国では、教育が、かなり深刻な状態に
なっている。……らしい。

金持ちが有利な受験体制。
能力のある学生たちが、海外へどんどんと移住
している。

しかも外貨をそのまま、もち出している。

韓国の動きを理解するためには、こうした
ウラの教育事情を知らなければならない。

かつての日本の日教組以上に、過激で、かつ
社会主義を信奉する韓国の教員組合。

強烈な反日教育の先頭に立っているいるのは、
こうした左翼的な教師たちだが、かえって
そのことが、韓国の経済そのものを、破壊し
ていることに、彼らは、まだ気づいていない。

その国の教育を見れば、その国の将来がわかる。
はたして、韓国は、今後、どうなるのか?

++++++++++++++++++++++

【韓国の教育事情】

 5月16日付けの、韓国・東亜日報は、現在の韓国の教育事情を、つぎのように報告してい
る。ポイントだけを、大きくまとめると、つぎのようになる(アメリカ・シンクタンクのランド研究所
報告)。

(1)過熱する海外留学ブーム

 韓国では今、小中学生による、早期留学が、一つのブームになっている。1995年に、225
9人だった、これら早期留学生たちは、04年には、1万人を超えた。その費用は、約2兆500
0億ウォン(=2500億円)。

(2)ソウル江南(カンナム)に集中する教育インフラ

 私教育が、ソウルの江南に集中している。そのため、高級人材は、この地を離れたがらず、
離れて仕事をするばあいも、家族を江南に残し、家族と離れて生活するケースが目立つとい
う。

たとえば三星(サムスン)電子の忠南天安(チュンナム・チョナン)LCD団地には、ソウルから
通勤する役職員が少なくないという。

(3)失敗する教育政策

 ソウル大学の調査によると、高所得者1万人中、ソウル大学へ入学する学生は、85年に
は、8・2人にすぎなく、一般家庭の1・3倍だったが、最近(05)では、それが16・8倍にまで上
昇した。

(4)少子化

 日本と同じように、韓国でも、少子化が問題になっている。その理由の第一は、「子どもの教
育費の負担」(韓国女性開発院)で、28%の既婚女性が、それをあげている。

(5)大学教育の停滞

 スイス国際経営開発院(IMD)が最近発表した国家競争力評価のうち、「大学教育の社会要
求に対する一致度」では、韓国は60ヵ国のうち52位にとどまったという。

 以上、これらの事実を総合すると、つぎのような韓国の教育事情が、浮かびあがってくる。

 現在、富裕層を中心に、小中学生の海外留学が、さかんであるということ。またその教育イン
フラが、ソウル江南に集中しているため、子どもの教育を考えて、その地を離れたがらない親
が多いということ。

 さらに韓国でも少子化が始まっているということ。理由の第一は、子どもの教育費。ソウル大
学入学者についても、富裕層ほど年々、有利になりつつあるということ。

 また大学教育も、日本以上に権威主義的であり、そのため硬直した教育体制の中で、想像
的な教育ができなくなっているということ……らしい。

 また、この調査とは別だが、現在、多くの若者たちが、韓国を離れ、海外へ移住を始めてい
るという事実もある。(出稼ぎではなく、定住を目的とした移住である点に注意。)

 韓国では、ここ数年、毎年、1万4000人前後が、アメリカを中心として、海外へ移住してい
る。海外定住をめざした留学生も、02年末までに、34万人を越えた。そのため、外貨の流出
も、大きな問題になっている。

 (仮に韓国で大学を卒業して学位を取得しても、アメリカでは通用しない。そのため、アメリカ
へ移住しても、単純肉体労働につくケースがほとんどだろいう。)

 ご存知のように、今、韓国では、一部の大企業のみが、巨額の経常黒字をあげている。その
代表的なものとして、S電子工業や、H自動車工業がある。

 しかしこれらの企業は、いわゆる「国策企業」であり、国の保護を徹底的に受けている企業で
ある。(国営とまではいかないが、しかし民営とは言えないという点で、「国策企業」と呼ばれて
いる。)

 が、何よりも深刻なのは、「海外定住をめざした留学生も、02年末までに、34万人を越え
た」という事実。日本の人口に換算すると、約120万人ということになる。

 もし日本の若者たちが、120万人も、海外定住を目ざして日本を離れるようになったら、その
とき日本は、どうなるか? それだけでも、たいへんな社会問題になるだろう。しかも、そういう
若者たちは、当然のことながら、多額の外貨をもちだす。そのため韓国政府は、一時期、その
持ち出し額(送金額)を制限したほどである。

またご存知のように、1997年、韓国は、国家破綻(デフォルト)した。その年も終わろうとして
いた、11月21日、時のイム・チャン・ヨル副首相は、こう宣言した。

「今の難局を乗り切るには、IMFの誘導調整資金の援助を受けるしかない」と。

 そのときから、韓国の国家経済は、IMFの管理下に入ることになったが、その機会を利用し
て、韓国は、財閥を解体した。その結果、それまで33行あった主要銀行は、最終的には、3行
になった。

 また現在、韓国では、事実上の定年が、38歳ということになっている。58歳や、48歳ではな
い。38歳である。

 それまでは韓国も、日本にならって、終身雇用、年功序列型の社会システムを営んできた。
しかし国家破綻をきっかけに、38歳とした。

 これはほんの一例だが、こうして韓国は、そのあと、世界でもまれに見る、競争型社会へと激
変した。日本のように、受験勉強だけして、合格すれば、あとは死ぬまで安泰という社会を、自
ら破棄したわけである。

 そのことが、よかったのか、それともかえって悪かったのか。その結果は、もう少し先を見な
いとわからない。しかし現実に、多くの若者たちが国を去り、富裕層たちがこぞって子どもたち
を、海外へ早期留学をさせているところをみると、韓国の未来は、それほど明るいものとはい
えないのではないか。

 一方、この日本でも、ジニ指数が、0・5に近づいてきた(厚生労働省が04年6月に発表)。ジ
ニ指数というのは、世帯ごとの所得格差を示す数字である。

 0・5という数字は、高所得者の4分の1の世帯が、全所得の4分の3を占め、残りの4分の3
の人たちが、残った4分の1の所得を分けあうという数字である。つまり貧富の格差をそのまま
示す数字といってよい。

 もう少しわかりやすい数字で説明しよう。

 仮に、100人の人が、1億円を稼いだとしよう。上位25人の人が、そのうちの7500万円を
自分たちのものにする。平均して、1人あたり、300万円。

 残った75人の人が、残った2500万円を分ける。平均して、33万円と少しということになる。
単純に見ても、貧富の格差は、10倍ということになる。これが今の日本の現状である。

 このままこうした状態を放置すれば、日本は、どうなるか? この先は、みなさん自身で考え
たらよい。「競争社会だから、しかたない」とあきらめるか、「おかしい」と思って、行動に移す
か。それは、私たち1人ひとりの問題である。

 韓国は、日本と比較して、国家規模も小さく、同じように経済規模も小さい。さらに教育インフ
ラは、ソウルに、かたよっている。そういう意味では、韓国を見れば、日本の教育の将来がわ
かる。

 そういう意味で、韓国の教育事情について、考えてみた。
(はやし浩司 韓国 韓国の教育事情 ジニ指数 38歳定年制 韓国の教育 教育)

【補足】

 韓国の若者たちが、海外移住をすることになった背景には、それにいたるまでのいくつかの
要因(ファクター)がある。

 韓国は、97年のはじめには、通貨危機を経験している。そしてそのあとの、国家破綻(デフ
ォルト)へと、つづく。それ以前にも、メキシコ、アルゼンチン、ソ連などが、国家破綻に追いこま
れているが、韓国の国家破綻は、官と民の両方が破綻したという点で、特徴的である。

 その結果、当然のことながら、失業者が増大した。

 98年の資料によれば、97年だけでも、以下の主だった会社群が、倒産、閉鎖に追いこまれ
ている(韓国公正取引委員会)。

 現代(解体)
 大宇(破綻)
 双龍(破綻)
 起亜(破綻)
 韓宝(破綻)などなど。

 そのため、ちまたには、失業者があふれ、物価は上昇した。失業者は、150万人。その他の
生活物資は、30%前後の値上がり。たとえばガソリン、35%、灯油、77%、食料品、27%な
ど。

 こうして韓国は、社会そのものが、不安的になり、犯罪も増加した。現在、日本へやってくる
強盗段、スリ集団は、そういう不安を背景にして生まれた犯罪集団と考えてよい。

 韓国の国家破綻は、もちろん教育にも、大きな影響を与えた。

 韓国のそれまでの受験競争は、日本の比ではなかった。が、この国家破綻によって、そのあ
と、「大学は出たけれど……」という状態になってしまった。国家破綻後、大学生の就職率は、
20%前後までさがってしまった。つまり5人に1人しか、就職できなくなってしまった。

 そこで「就職がダメなら、大学院進学、弁護士などの資格取得、あるいは海外留学しかない」
(藤井巌喜氏・「国家破綻後の世界」)ということになってしまった。

 これが「空前の海外留学ブーム」(同)へとつながった。

 藤井氏の本によれば、

 2001年度の韓国からの移民者数……1万3953人
 以後、同じ水準で、移民がつづいているとのこと。

 これらの移民の特徴は、いわゆる低所得者層の出稼ぎ的移民ではなく、ある程度の知識層
の、人材流出であるという点である。しかも移民先は、日本とかアメリカはもちろんのこと、中
南米にも「相当数」(同)が行っているところにあるという。

 藤井氏は、97年の国家破綻が、韓国の社会構造そのものを変えてしまったと説く。しかしそ
れは同時に、日本の近未来の姿と考えてもよい。

さあ、韓国よ、韓国の人たちよ、

それでも君たちは、反米、反日を唱え、あの独裁者国家に、すり寄っていくのか? そろそろ君
たちも、「現実」という世界に向って、目を開いたらどうだろうか。
(参考、藤井巌喜氏・「国家破綻後の世界」光文社)

【追記】

 この私の意見に対して、Nさんという方から、掲示板にこんな書き込みがありました。そのま
ま紹介させていただきます。Nさん、ご意見、ありがとうございました。

+++++++++++++++++

ごもっともです。本当に 世界中どんな国のどんな田舎でさえ、韓国人に出会えます。必ず留
学生いてキリスト系牧師が宣教に来ていて、日曜日には韓国人だけの教会に集合し 、キム
チやコチュジャン等の韓国食材店や韓国ビデオレンタルショップがあり、独自のリトルコリアを
作ってたりしますね。韓国語しゃべれれば、英語通じない地域含めて、世界中旅しても、不自
由しない位ですよ。

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司


最前線の子育て論byはやし浩司(827)

●郵政民営化法案

+++++++++++++++++++++

郵政民営化法案は、可決されるか、それとも
否決されるか?

いよいよ明日、その決断がくだされることになる。

なぜ小泉内閣は、「殺されてもかまわない」とまで
言って、成立に向けて、がんばるのか。

ここで否決、解散ということにでもなれば、
自民党は解体してしまうかもしれない。

なぜ自民党の中の反対勢力は、そこまで覚悟して、
郵政民営化法案に反対するのか。

(05年8月7日記)

++++++++++++++++++++++

 ワイフが、こう聞いた。「郵政民営化法案って、何?」と。

 素朴な疑問である。

 わかりやすく言えば、郵便局を民営化するということ。現在、郵便局には、郵便物を配達する
という仕事のほか、郵便貯金業務、簡易保険業務の2つの仕事を、受けもつ。

 これらの、いわゆる郵政三事業を、民営化するというのが、今回の郵政民営化法案というこ
とになる。

ワイフ「どうして、自民党の中にも、反対者がいるの?」
私「ハハハ、お金だよ、お金。いいか、郵便貯金残高が、現在227兆円もある。国家税収の約
5倍だよ。この巨額な郵便貯金残高が、出口のところで、無数の特殊法人をつくっている。そ
の特殊法人が、日本の国家経済をゆがめている。その特殊法人に、それぞれの政治家が、
複雑に自分の利権をからませている。それを民営化によって、小泉さんは、是正しようとしてい
る」

ワイフ「民主党の中にも、反対する声が強いのは、どうして?」
私「自民党議員たちとは、事情が少しちがう。同じく現在、日本郵政公社には、本社、付属施
設、地方組織を合わせて、計約27万3000人もの、職員が働いている。これらの人たちは、
国家公務員ということになる。これらの人たちは、国家公務員として、いわば、手厚く保護され
ている。これらの人たちが、民営化されると、国家公務員としての特権を、失うことになる」

ワイフ「どんな特権があるの?」
私「まず、給料。民間金融機関の約2倍弱とみていい。そのほか、国家公務員としての、特別
の待遇が与えられている。地位も、保全されている。とくに特定郵便局のばあい、独自の採用
試験で、採用されるしくみになっている。もちろん、転勤はない」

 そこで小泉内閣は、(1)窓口ネットワーク(郵便局網)、郵便事業、郵便貯金、簡易保険の4
つの機能を、それぞれ民営化することを決めた。目的は、(2)それぞれを、民間と同じ土俵に
立たせ、これらの各事業を、自立させ、効率よく仕事をさせるためということになる。

 たとえば郵便貯金のばあい、民間の銀行が払っている預金保険料などは、郵政省は払わな
くてもよいことになっている。つまり民営化されると、郵政公社は、これらの特権を失うことにな
る。

 さらに民営化されると、手紙やハガキの配達業務まで、現存の民間宅配会社ができるように
なる。つまりその分だけ、これまた競争が激化する。

 が、本音の本音を言えば、郵便局職員たちが、はげしい競争社会に立たされることを怖れて
いる。いやがっている。今までは、温室の中で、ぬるま湯につかってきたようなもの。今の状態
で、郵便事業にせよ、郵便貯金にせよ、簡易保険にせよ、どれ一つをとっても、民企業と競争
しても、勝ち目は、ない。

 たとえば、小包を例にあげて考えれば、それがわかる。

 民間の宅配会社では、相手が自分宛に送ってくれた小包について、電話一本で、それが今、
どこにあるか、コンピュータシステムの中で、わかるようになっている。こちらが不在でも、時間
さえ指定すれば、何度でも、配達してくれる。

 日曜日でも、真夜中でも、配達してくれる。

 郵便局のばあいは、わざわざ、こちらが郵便局まで出向かないと、小包を渡してくれない。こ
うしたサービスの差は、歴然としている。つまり民営化されると、郵便局の職員も、そうしたサー
ビスを強いられることになる。

 が、最大の問題は、郵便貯金と、簡易保険。これらのお金は、俗にいう、「財投」として、いわ
ば日本のウラ財政として機能してきた。あの道路公団の資金源にもなっている。しかも大半
が、すでに焦げついてしまっている。回収が不能という状態になっている。このことは、自民党
の中でも、どういう議員たちが、郵政民営化に反対しているかを見れば、わかる。

ワイフ「民営化は、必要なの?」
私「必要とか、必要でないとかいうレベルの問題ではない。時代の流れというか、当然、今、し
なければならない」
ワイフ「離島の郵便局はどうなるのかとか、過疎地域の郵便局はどうなるのかとか、それを心
配している人も多いわ」

私「そういう問題もあるけど、本当に、それを心配しているのかな? そういうときばかり、『国
民の利益』『国民のため』と、ぼくたちを利用する。口実にする。ぼくは、それが不愉快でたまら
ない」
ワイフ「郵便局の問題ではないということ?」
私「結局は、そういうことだろうね。旧国鉄が民営化されたときも、大きな衝突があった。そのと
きも、過疎地の人たちの交通手段を奪うとか何とか言って、反対する人がいた。で、結局、民
営化され、今のJRになった。かえって、サービスは、よくなった。が、それ以上に、ぼくたちが
日本の未来のためにしておかねばならないことは、公務員の削減だよ」と。

 現在、国家公務員と地方公務員の人件費だけで、日本政府は、年間38兆円も使っている。
国家税収が、42兆円程度だから、そのほとんどが、公務員の人件費に消えていることにな
る。こんなメチャメチャな財政運営をしている国は、世界中のどこをさがしても、ない。

 わかりやすく言えば、残りの4兆円で、道路をつくり、国家を防衛し、学校を建設し、通信網を
整備し、老人福祉をし……ということになる。しかし4兆円で、何ができる?

 そこで政府は、毎年、ぼう大な赤字国債という借金を重ねて、かろうじて、日本の国家財政を
運営している。その借金がたまりにたまって、もうすぐ、1000兆円になる。これはたとえていう
なら、年収420万円のサラリーマンが、1億円の借金をかかえているようなもの。

 そのツケは、すべて、つぎの世代の子どもたちにのしかかってくる。

 郵政三事業が民営化されれば、そこで働く職員は、民間企業と同じ土俵に立つわけだから、
仕事は、今よりはるかにきびしくなる。が、決して克服できない問題ではない。

 が、本当の、つまりは、隠された本当の問題は、227兆円という郵便貯金である。これらの
お金は、湯水のごとく、各種特殊法人の財源として使われてきた。しかも道路公団の例をみる
までもなく、そのほとんどが、回収不能。わかりやすく言えば、郵便局に預けた貯金のほとんど
は、現在、紙くず同然になっている。

もし今のまま、日本郵政公社を、国営のままにしておいたら、ますますそのキズ口は、深くな
る。(もうすでに、取りかえしがつかないほど、深くなっているが……。)

 いよいよその結果が、明日(8月8日)、参議院で出る。どうなることやら? いや、その評決
のことを心配しているのではない。私は、日本の将来のことを心配して、そう言っている。

++++++++++++++++++

【民営化の基本方針by小泉内閣】

(1)民営化後においては、郵便貯金、郵便(簡易)保険の新規契約については、政府保証を廃
止する。(既存契約分については、引きつづき、政府が保証する。)

(2)国家公務員としての身分の保証を廃止する。
(3)郵便事業では、法律での義務づけを継続し、全国一律サービスを維持する。

 これらの基本方針のもと、郵便貯金、簡易保険、郵便事業、窓口ネットワークの4つの機能
については、それぞれを分社化して、持ち株制度にする。わかりやすく言えば、新しい銀行、新
しい保険会社、新しい宅配会社に生まれ変わらせるということ。

 ただし、07年の民営化後も、しばらくは、これらの4つの業務は、一体化されたまま、つまり
現状維持のまま、運営される可能性が高い。
(はやし浩司 郵政民営化 郵政三事業民営化法案)

++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

【国家・破綻】

 小泉首相は、当初、こう言っていた。「新規国債の発行ワクを、30兆円にする」と。しかしそ
のうち、それが不可能だとわかり始めると、「たいした問題ではない」と言い出した。

 そして実際には、「05年度も、財政再建に努める」と言いながら、36兆7000億円もの、新
規国債を発行してしまった。

 そればかりではない。日本政府は、「借換債」というのまで発行している。

 これは償還時期がきた国債の利息さえ払えなくなったため、その利息分まで、国債(借金)で
まかなおうというものである。その借換債の額だけでも、05年度には、100兆円を突破してし
まった。

 ここにも書いたように、現在、国がかかえる公的債務(借金)は、700〜800兆円とも言われ
ているが、このほかにも、日本には、財政投融資(財投)や特殊法人などがかかえる、いわゆ
る「隠れ借金」がある。

 これらの借金を含めると、軽く1000兆円を超えてしまう。

 はっきり言えば、もう日本の財政運営は、にっちもさっちもいかないところまで、きてしまって
いる。しかしほとんどの日本人は、そういうことを知らされることもなく、「だいじょうぶだろう」「だ
れかが何とかしてくれるだろう」と、平然としている。

 これでは、まるで、戦前の日本人と同じではないか! ウソだらけの大本営発表を信じこまさ
れ、ノー天気なまま、その日、その日だけを、何とか生きている。

 最後に原爆が落とされて、はじめて、日本人は、目がさめた。同じように、原爆級の爆弾(=
国家破綻)が落とされないかぎり、日本人は、今の現状に、目がさめないというのか? 

 いや、すでにそれに気がついている人たちがいる。

 私は、それが小泉首相自身ではないかと思っている。

 あのどこか投げやり的な、しかもニンマリと笑っている顔を見ていると、そんな気がする。は
からずも、小泉首相は、昨日(8月6日)、広島市での会見で、「私は殺されてもいい」というよう
なことまで言っている。

 日本の国家破綻を念頭に置いた言葉とも、受け取れる。つまり自民党を解体し、仮に民主党
に政権を渡しても、それ以上の危機的な状況になっているから、「私は、かまわない」と。ある
いは、国家破綻になる前に、逃げてしまおうという魂胆かもしれない。

 私の感触では、日本という国家が、破綻する時期は、もう、そこまできていると思う。ただ不
思議な平穏さだけがつづいている。不気味といえば、不気味。どこかでだれかが火をつけた
ら、この平穏さは、一気に崩れ去る。

 よい例が、九州のS銀行。03年の終わり、「つぶれるかもしれない」というウワサが流れただ
けで、約500億円ものお金が、S銀行から引き出されてしまった。

 もしそれが全国規模で起きたとしたら……。考えるだけでも、ゾッとする話だが、これは決し
てありえないことではない。

 こういう時期、いまだに「1000万円までの貯金は、保護される」とか、「郵便貯金は安全」と
か、そんなことを信じている人たちの気が知れない。国家破綻ともなれば、ペイオフ制度も、郵
便貯金制度もない。日本中の札が、紙くずと化す。

 わかっているのか、みなさん!

 今回の郵政民営化法案のゴタゴタは、まさにその序曲にすぎない。これは私の推測だが、
(あくまでも推測)、小泉首相がいう「私の腹」というのは、こうではないかと思う。

 「国家は、もうすぐ破綻する。そのとき、その破綻処理をするのは、自民党ではない。民主党
にやらせようではないか。そのための解散であるなら、私はかまわない」と。
(05年8月7日記)

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

●政治の話

 教育の世界では、宗教や政治の話は、タブーということになっている。講演の前などでも、主
催者から、よく、こうクギを刺される。「宗教と政治の話だけはしなでくださいね」と。

 で、私のHPやマガジンを読んだことのある教職関係者の方たちからは、ときどき、こう言わ
れる。「あんなこと、書いても、だいじょうぶですか?」「あなたのように自由にものが書ける人
が、うらやましい」と。

 もちろん学校の先生が、生徒に向って、宗教や政治の話をするのは、「禁止」である。しては
ならない。それはわかる。もちろん私も、生徒たちの前では、この種の話は、いっさい、しない。

 しかし私は、そういう立場ではない。

 反対に、私のような立場の人間が、モノを言わなくなったら、この日本は、どうなる? 国民す
べて、(従順なモノ言わぬ民)でよいのか?

 教育の問題は、即、宗教や政治の問題とからんでくる。紙一重というのではなく、有機的に結
びついている。もちろん心理学や、生理学とも結びついている。私が教育論を書きながら、宗
教や政治の話を書くのは、当たり前のことではないか。

 もちろん私は、政治家ではない。宗教家でもない。だから宗教や政治について書いたところ
で、それが直接、私の利権につながるということは、ない。まったく、ない。

 ただこれだけは、いつも念頭に置いて、モノを書いている。

 子どもをもつ親たるもの、子育てを考えるなら、同時に、子どもの未来や将来を考えるべきで
はないか、と。当然のことながら、そこには、宗教や政治がからんでくる。「自分の子どもさえよ
ければ」という観点では、いつか必ず、子育てそのものが、行きづまる。極端な例としては、戦
争がある。

 いつか、東京のど真ん中で、原子爆弾がドカンと爆発してから、政治を考えても、遅いという
こと。自分の息子や娘が、狂信的なカルト教団の餌食(えじき)になってからは、遅いというこ
と。そのとき自分たちの無知を嘆いても、遅いということ。モノを考えるなら、「今」ということにな
る。宗教についても、そうだ。

 もちろんほとんどの宗教には、問題はない。しかしその陰で、現在の今も、カルト教団と呼ば
れる宗教団体が、あなたやあなたの子どもを、虎視眈々(こしたんたん)とねらっている。

 幸いにも、私のマガジンについて、多くの人たちが、「政治についても、もっと書いてほしい」と
いう意見を寄せてくれている(マガジンのアンケート調査より)。宗教についての意見は少ない
が、カルト教団と戦うためには、私たち1人ひとりが、より賢くなることでしかない。

 幸いにも、マガジンの読者が、少しずつだがふえている。「マガジンの世界では、読者が減ら
ないだけでも、ありがたいことだと思わなければならない」と、教えてくれた人もいる。最近で
は、インターネットの主流は、HPやマガジンから、BLOGへと、移行しつつある。

それだけみなさんが、関心をもち始めているともとれるし、教育だけを考えていたのでは、子ど
もたちを包む問題が、どうにもならないことに、気がつき始めているともとれる。

 だから、私は、書く。がんばって書く。いろいろ批評、批判はあるが、それでも書く。私の書い
ていることが、少しでも、みなさんの役にたてば、うれしい。


++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

最前線の子育て論byはやし浩司(828)

【子育て・思いつくまま】

●ブーメラン効果

 子どもを説教しているとき、かえって逆効果に感ずることがある。ときに、子ども自身が、こち
ら側の下心を読んでしまうときがある。そうなると、いくら説教しても、効果がないばかりか、か
えって子どもの反発心をかってしまう。

 たとえば時間つぶしをしている子どもがいる。時計ばかり気にして、少しも勉強しない。私の
前では、まじめに勉強しているフリをしているだけ。

 そういうとき、私が、ふと、「では、まじめに勉強して人から順に、採点して、今日のレッスン
は、終わります」と言ったとする。そう言えば、たいていのばあい、子どもたちは、自らに拍車を
かけて、勉強し始める。

 が、そういうとき、時間つぶしをしている子どもは、先に、私の下心を読んでしまう。「ぼくに、
勉強させたいために、先生は、そう言っている」と。

 とたん、それまでのフリをやめ、堂々と、勉強をサボり始める。「どうせ、ぼくが最後になるん
だろ!」とか言ったりする。

 こういうのを、(ブーメラン効果)という。こちらの意図したことが、逆効果となって、返ってきて
しまう。

 子どもと接するときは、いつも本音で接するようにする。下心はもたない。子どもとの信頼関
係を守るためにも、そうする。
(はやし浩司 ブーメラン効果)


●欲

 「こうであってほしい」と思う描く自分。しかしそこには、現実の自分がいる。この両者のギャッ
プが大きいとき、そこから「渇望感」が生まれる。

 この「渇望感」のでわかりやすいのが、性欲。フロイトも、リビドーという言葉を使って、それを
説明している。「性欲こそが、生きるためのすべてのエネルギーの根源である」と。

 性欲が、ムラムラと起きてきたとき、そこに性のはけ口としての、相手がいれば、その時点
で、性欲は解消される。しかし相手がいないとき、相手をもとめられそうにないとき、渇望感
は、さらに強くなる。

 渇望感は、性欲だけには、かぎらない。しかしこの渇望感が、姿を変えて、外の世界に向って
は、「欲」となって現れる。

 名誉欲、金銭欲、支配欲、独占欲などなど。

 そういう意味で、「欲」があるからこそ、人は自分らしさを保つことができるのかもしれない。食
欲にたとえていうなら、空腹感という渇望感を満たす、食物のようなもの。欲があるから、人は
生きられる。

 しかしこの渇望感を、悪と考えてはいけない。渇望感は、性欲にかぎらず、その人を動かす
原動力となる。子どもの世界にも、「満腹児」(この名称は、私がつけた)と呼ばれる子どもがい
る。

 あらゆる面で満たされているため、渇望感がない。そのため、いつも満足げで、おっとしりし
ている。欲がないというというだけではなく、生活力もない。ハキもない。

 子どもをじょうずに伸ばすためには、子どものどこかに、この渇望感を用意するとよい。実
際、伸びる子どもというのは、あらゆる方向に触覚がのびていて、好奇心が旺盛である。
(はやし浩司 渇望感 欲 欲望 欲望の原点)


●匿名メール(書きこみ)は、無視

 インターネット時代になって、匿名の人からの、中傷や非難が、ふえた。しかもさらに最近で
は、無料アドレスサービスを使って、BLOGや掲示板に、あれこれと書きこんでくる。

 自分の名前(本名)を出してモノを書くのと、どこのだれともわからない匿名(偽名)を使ってモ
ノを書くのとでは、自ずと、文章に対する責任感がちがう。

 匿名で、しかも身元がバレないように、無料のアドレスサービスを使って書いてくる。

 この種の、中傷や非難は、無視して、即、削除するのがよい。返事を書く必要もないし、反論
する必要もない。言葉のゴミ。そういうことが平気でできる人というのは、もともと気が小さく、卑
怯(ひきょう)な人と考えてよい。

 私も最初のころは、この種の書きこみが気になったが、今は、ちがう。最初の1回だけは、バ
カていねいな礼状を書いて、それで、すますことにしている。

「貴重なご意見、ありがとうございました。今後の私の著作活動の参考にさせていただきます」
とか、何とか。あとは、アドレスをフィルターに登録して、そのまま削除リストに格納する。こうす
れば、二度と、その人からのメールが、届くことはない。

(メール仲間にそのことを話すと、「そういうメールや書きこみは、完全に無視するとよい」と教
えてくれた。また別の友人は、そのつど、「ごちそうさま」と書いているとか。)

 ここから先は、私から、インターネット業界への要望ということになるが、

(1)掲示板やBLOGへの書きこみについて、通常の電話のように、相手方にメールアドレス通
知、非通知の区別ができるようにしてほしい。そして非通知のメール(書きこみ)は、受領拒否
ができるようにしてほしい。

 今の技術をもってすれば、何でもないことのように思うのだが……。

 
●責任転嫁

 何かを失敗したとき、すぐ他人のせいにする子どもと、自分のせいにする子どもがいる。

 他人のせいにする子どもを、「外的帰属型」(外的統制型)という。自分のせいにする子ども
を、「内的帰属型」(内的統制型)という。

 おおまかに言うと、つぎのような特徴がある。

(1)外的帰属型

 何かにつけて、責任転嫁がうまい。花瓶を割っても、「ママがこんなところへ置いておくから、
悪い」「この前は、パパだって、割った」と。

 このタイプの子どもは、内にストレスをためないため、楽天的。何かあっても、「運が悪かっ
た」「偶然、そうなった」と逃げてしまう。

 自分という人間は、外的要因によって動かされていると考えるため、運勢だとか、占いを信じ
やすい。

(2)内的帰属型

 何か失敗すると、その責任を、自分に求める。自分の能力不足や、努力不足を責める。そう
いうわけで、概して責任感が強く、また他人に責任を求めないため、友人にも好かれ、友人も
多い。

 しかしこのタイプの子どもは、内にストレスをためるため、その分だけ、悶々と悩んだり苦しん
だりする。

 自分の「力」を信ずる傾向が強く、運勢だとか、占いを信じない。「生きるのは、私」という考え
方を原点に置く。

 こうしたちがいは、年長児くらいでわかるようになる。どちらがよいとか、悪いとかいうことでは
ない。それぞれに一長一短がある。大切なのは、「うちの子は、そういう子だ」と認めた上で、
対処する。
(はやし浩司 外的帰属 内的帰属 外的統制型 内的統制型 帰属の理論)


●自殺する子ども

 自殺を考える子どもというと、イメージとしては、静かで、暗い。ハキがなくて、おとなしい。た
いていの人は、そういう子どもを頭に思い浮かべる。しかし、実際には、そうではないのではな
いか。むしろ、自殺を考える子どもほど、実は、ふつうの子どもよりも、「生きたい」という意識
が強いのではないか。

その「生きたい」という意識が、無数のカベ(限界)とぶつかったとき、それが(生きていたくな
い)という意識へと変化する……? つまり(生きたい)という意識と、(生きていたくない)という
意識が、交互に、はげしく葛藤する子どもほど、自殺を考えるのではないか。……と思う。

 自分のことで恐縮だが、私の年齢は、いわゆる(自殺危険年齢)だ、そうだ。現在、私の年代
の人たちの自殺が急速にふえている。

 たとえば私も、ときどき、自殺を考える。しかしそのとき、「死にたい」と考えるから自殺を考え
るのではなく、「生きているのがいや」と考えるから、その結果として、自殺を考える。もう少し具
体的には、こうだ。

 「もう生きているのがいやになった」と思うことは、ときどきある。そういうとき、道をトボトボと
歩いていると、自分がかぎりなく小さくなっていくのがわかる。

 で、そんなとき、私の横を、猛スピードで車が通りすぎたりしたとする。そのとき、ふと、こう思
う。「自分から、車の中に飛びこんでいく勇気は、私には、ない。しかし相手の車が、私に向って
突進してきてくれるなら、それはそれでかまわない」と。

 自殺するといっても、かなり勇気のいることだ。(ホント!)「死」には、口では言いがたい恐怖
感がともなう。その恐怖感を乗り越えなければ、自殺することはできない。そこで最初の話にも
どす。

 もともと「生きたい」という意識が軟弱な人は、同時に、「死にたい」という意識も軟弱。「生き
たい」という意識が、無数のカベ(限界)にぶつかったとき、「生きているのがいや」という意識に
かわる。

 だから皮肉なことに、自殺を考える人は、それだけ、「生きたい」という意識が強い人と考えて
よい。その「生きたい」という意識が転じて、「死を選ぶ勇気」になる。

 ……これはあくまでも、私の個人的な見解で、異論、反論をもつ人も多いだろうと思う。しかし
こう考えることによって、なぜ、私たちの年代に、自殺者が多いのか、その理由が説明できる
のではないか。

 私たちの年代は、戦後のあの時代を、がむしゃらに生きてきた。猛烈社員、企業戦士ともて
はやされ、日本の高度成長期を支えてきた。が、そういう私たちを待ちかまえていた老後は、
決してバラ色ではなかった。

リストラにつづくリストラ。用なしと、クビを切られる。が、まだ、仕事はできる。生きることはでき
る。そういうとき、仕事や家庭の問題で、進むべき道さえ、ふさがれてしまう。病気や借金苦に
陥(おちい)ることもある。

 が、それでも「生きたい」。この「生きたい」という猛烈な意識が、そのまま、つまりは、死を選
ぶ原動力になるのではないか、と。

 事実、さらに年をとり、「生きたい」というエネルギーそのものが弱くなってしまった人というの
は、自殺を考えない。具体的には、50〜60代を境に、今度は、自殺する人が急速に減ってく
る。

 こうした考え方を、そのまま子どもの世界にあてはめて考えることはできない。が、しかし自
殺を選ぶ子どもの心理を、理解するためのヒントにはなる。もともと無責任で、日ごろから「どう
でもいいや」「どうにでもなれ」と考えながら生きている子どもは、自殺など考えない。私は、そう
思う。
(はやし浩司 自殺 自殺する子どもの心理 自殺する子ども)


●知性と品性

 今日、郵政民営化法案が、参議院で否決された。そのため、K首相は、衆議院に解散を宣
言した。

 で、その参議院での評決を前にして、自民党の長老と呼ばれる人たちが、K首相にあれこれ
説教したらしい。その中の1人が、X元総理大臣だった。

 現職のころから、ときどき、知性を疑われた人である。たとえば沖縄サミットでのこと。ハイビ
ジョンテレビを各国の首脳に披露するとき、スイッチの押し方がわからなくて、側近の人の助け
を求めたという。

 しかし昨夜のニュースを見て、私は驚いた。テレビのニュースなので、X元首相が言った言葉
としては、不正確かもしれない。が、X元首相は、こう言った。

 「夕方、K首相に会って、解散を思いとどまるように説得してみた。しかしだよ、夕食くらいは
出してくれると思っていたら、ビールとウーロン茶だけだったよ。それにかたいチーズ。こんな
失敬な話はない!」と。

 M元首相は、手でつぶしたあとのあるビールの空き缶をもっていた。チーズももっていた。そ
れをカメラマンたちに見せていた。

 それを見て、まず、ワイフが、こう言った。「M元首相は、ジェントルマンではないわね」と。

 そう、言っていることの内容が、あまりにも低レベル。あきれてものも言えないほど、低レベ
ル。私は「あんな人が、首相だったのか」と、同じ日本人として、自分がなさけなくなった。

 同時に、私は、昔、ある幼稚園に、こう叫んでいた年配の女性教師がいたという話を、思い
出した。その女性教師は職員室へ飛びこんでくるやいなや、そこにいた先生たちに向って、こう
言ったという。

 「あの親め、あれだけ子どもの世話をしてやったのに、盆暮れのつけ届け一つ、よこさないの
よ!」と。

 とても残念だが、X元首相が言ったことは、元首相という人が口にするような言葉ではない。
こうして文章にすると、そのときのX元首相の表情とか、言葉のニュアンスがわからないかもし
れないが、私には、低レベルに見えた。(失礼!)

 問題は、なぜ、元首相ともあろう人物が、こうまで低レベルなのかということ。X元首相は、こ
こにも書いたように、沖縄サミットも主催している。各国の最高の政治家と、食をともにし、議論
もしている。

 X元首相は、そういう活動を通して、何を学んだのか。何を身につけたのか。

 ……と考えていくと、その人の知性や理性、さらに言えば、品性のようなものは、それ以前の
段階で、身につくものということがわかる。20代とか、10代とか、あるいはさらにそれ以前かも
しれない。少なくとも、30代をすぎてからは、手遅れ。マネごとはできるようになるかもしれない
が、身にはつかない。

 私はX元首相の、取り乱した姿を見ながら、そう感じた。

 ところで、今日、その郵政民営化法案は、参議院で否決され、廃案になった。
(はやし浩司 知性 理性 品性)


●幼稚園への訪問者

 ある私立幼稚園の経営者(理事長)が、こんな興味のある話をしてくれた。何でも、「職員室
へ入ってくる母親の姿を見ると、子どもの、でき、ふできがわかる」という。

 何か用事があると、遠慮もなく、ズカズカと職員室へ入ってくる母親もいれば、わざわざ「中へ
入ってもいいですか?」と断って入ってくる母親もいるという。

 で、全体としてみると、ズカズカと入ってくる母親の子どもは、概して、ドラ息子、ドラ娘。でき
が悪い。他方、ていねいに断りながら職員室へ入ってくる母親の子どもは、概して、人間的に
も、できがよい、よい。

 つまりは、教育に対する姿勢がちがう、ということか。

 私もその経営者と同じような立場にあるので、これ以上のことは書けない。少なくとも私の世
界では、スポンサーである親の悪口を書くのは、一応タブーということになっている。しかしその
経営者の言っていることには、一理ある。

 子育てがじょうずな親というのは、子どものみならず、先生や幼稚園に対して、謙虚。そうで
ない親というのは、ごう慢でわがまま。態度も大きく、横柄。先生が、その子どもの問題点を指
摘しようとしたりすると、「うちの子のことは、私が一番よく知っています」などと言ったりする。自
分より学歴の低い若い先生だったりすると、相手にもしない。

 一般論から言うと、ここに書いた話とは、関係ないかもしれないが、「親や先生の前で、いい
子ぶる子どもほど、要注意」と考えるとよい。

 親や先生の前では、ネコの皮をかぶったように、静かで、おとなしい。しかし、親や先生がい
ないところでは、とんでもないことばかりしている。ウソも平気でつく。強圧的な親や先生をもつ
と、子どもは、そうなりやすい。

 「私は教育については、よくわからない」「私の子どものことがよくわからない」という謙虚な姿
勢が、先生の口を開かせる。ついで、あなたの子どもの心を開かせる。そしてその結果として、
あなたの子どもの表情は、明るくなる。
(はやし浩司 謙虚な親 ごう慢な親)

++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

最前線の子育て論byはやし浩司(829)

【郵政民営化法案は、廃案になったが……】

●小さな政府

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郵政民営化法案は、否決され
廃案になった。しかし本当に、
これでよかったのか?

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 もちろん、1人ひとりの公務員の人に責任があるわけではない。しかし日本の公務員は、多
すぎる。

 地方公務員数……308万3000人(平成16年4月1日)
 国家公務員数……約82万人(99年度)

 地方公務員と国家公務員だけをみると、合計で、約400万人弱。アメリカとくらべても、人口
比にしても、半分以下ということになっている。しかし、これはまっかなウソ!

 日本には、このほか、準公務員と呼ばれる人たちがいる。こういう人たちを加えると、その数
は、650〜900万人になるとされる。公務員が加入する、共済組合人の総数は、約1000万
人。つまり日本の人口で、約16人に1人は、国家公務員もしくは、地方公務員と、その家族と
いうことになる。

 この1000万人に、さらに準公務員と呼ばれる人たちや、その家族を加えると、いったい、そ
の総数は、いくらになるのか? (日本では、公務員と準公務員を切り分けることによって、公
務員の数を、数字の上では、少なく見せかけている。どうか、日本のみなさん、こういう数字に
は、注意してほしい。)

 で、何度も繰りかえすが、国家公務員と地方公務員だけで、国家税収(約42兆円)のうち
の、38兆円を、人件費として使っている。それにアメリカでは、公務員の給料といえば、コンビ
ニで働く店員より、安いのが相場。

 こうした事実だけではないが、すでに日本の国家経済は、破綻している。郵政民営化に始ま
る行政改革にしても、本来なら、こうなる前に、何か手を打たなければならなかった。しかし、先
送り、その場しのぎ、ごまかしの政策が、つもりにつもって、日本を、とうとうここまで追いこんで
しまった。

 竹中大臣は8月8日、夜の会見で、「この改革(=郵政民営化)ができないようでは、私は日
本の社会、経済の将来は暗いものになると思う。きょうの否決はその意味では日本の経済に
対して、非常に大きな損失であると思う」と述べ、将来の少子高齢化に備えて、「小さな政府」を
実現するため、「郵政民営化は避けて通れない」と強調した。

 竹中氏の沈痛な表情は、そのまま日本の現状と、未来を暗示しているものとみてよい。

++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

●新しいタイプの社会主義国家?

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公務員の人も、準公務員の人も、どうか
怒らないで聞いてほしい。
これは日本全体の問題だから……。
3年前に書いた原稿を、ここに添付する。

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●公務員志望が、ナンバーワン

 02年度の冬のボーナス予想が、出そろった。それによると、民間企業は、昨年度より、全体
に4〜5%の下落。しかしこの大恐慌下にあっても、公務員のボーナスだけは、反対にふえつ
づけている。全体に3〜4%の増加!

 数年前、財団法人日本青少年研究所(千石保理事長)などが東京、ソウル、ニューヨーク、
パリの中学2年生と高校2年生、計約3700人を対象に実施。その結果、希望する職業は、日
本では公務員や看護婦などが上位。米国は医師や政治家、フランスは弁護士、韓国は医師
や先端技術者が多かった。

人生の目標では、日本の生徒は「人生を楽しむ」が61・5%と最も多く、米国は「地位と名誉」
(40・6%)、フランスは「円満な家庭」(32・4%)ということがわかった(2000年7月)。

 それぞれの公務員の人に、責任があるわけではない。またそういう人の、責任を追及してい
るわけでもない。ただしかし、このままでよいかということ。こうまで日本で、公務員や準公務員
がふえ、またこうまでこうした人たちが優遇されると、日本の社会そのものが、活力をなくしてし
まう。もちろん経済力も落ちる。そのことは、旧ソ連を見ればわかる。今の北朝鮮をみればわ
かる。

 私の周囲でも、民間の企業ですら、官僚体制への依存度を高めている。何かにつけて、「○
○をすれば、補助金が出ます」とか「○○で申請すれば、交付金が出ます」とか、そんなことば
かり言っている。お金は天から降ってくるものではない。地からわいてくるものでもない。しかし
この日本では、そんなわかりきったことすら、わからなくなってきている? 

H市の市役所に勤めるE氏(四五歳)は、はからずもこう言った。「デフレになったおかげで、私
ら、生活が楽になりました」と。

●知事も市長も、国会議員も、元官僚

 本来なら、政治によって、日本の流れを変えなければならないが、その政治そのものが、官
僚の思うがままに動かされている。総理大臣以下、野党の党首すら、元中央官僚。全国47の
都道府県のうち、27〜9の府県の知事は、元中央官僚。7〜9の県では副知事も元中央官
僚。7〜9の県では副知事も元中央官僚(〇〇年)。

さらに国会議員や大都市の市長の多くも、元中央官僚。明治の昔から、全国の津々浦々ま
で、官僚が日本を支配するという構図そのものが、すでにできあがっている。こういう国で、構
造改革、つまり官僚体制の是正を期待するほうが、おかしい。

その結果、国の借金だけでも666兆円(国の税収は47兆円)。そのほか、特殊法人の負債額
が266兆円(〇〇年)。「日本は新しいタイプの社会主義国家」と言う学者もいる。が、だ。さら
に驚くべきことは、こういう日本にあっても、公務員や準公務員、さらに官僚体制にぶらさがる
団体の職員数は、減るどころか、今の今も、肥大し続けている!

●日本はこれでよいのか?

 この国がこれから先、どうなるか、そんな程度のことなら、中学生や高校生でもわかる。日本
は、やがて行きつくところまで、行く。が、こうなってしまったのは、結局は、日本人が、そのつ
ど、「考える」ということを放棄してしまったからではないのか。その責任は、政府にあるのでは
ない。官僚にあるのでもない。私たち自身にある。

もう15年も前になるだろうか。明日は国政選挙の日というとき、1人の子ども(小5男児)が、こ
う言った。「明日は、浜名湖で、パパとウィンドサーフィンをする」と。私が「お父さんは、選挙に
は行かないのか?」と聞くと、「あんなの行かないって、言っている」と。こういう無関心が、積も
りに積もって、今の日本をつくった。

 選挙のたびに、低投票率が問題になるが、その低投票率をもっとも喜んでいるのは、皮肉な
ことに、官僚たちではないのか。国民の政治意識が薄くなればなるほど、好き勝手なことがで
きる。

 また私のようなものが、こんなことを訴えても、何にもならない。彼らにしてみれば、その立場
にない私の意見など、腹から出るガスのようなものだ。その立場にある人でも、この日本では、
反官僚主義をかかげたら、それだけで、排斥されてしまう。仕事すら回ってこない。

あるいはこれだけ公務員や準公務員が多くなると、あなたの家族の中にも、一人や二人は、
必ずそういう人がいる。あるいはあなた自身がそうかもしれない。そういう現実があるから、内
心ではおかしいと思っていても、だれも反旗をひるがえすことができない。へたに騒げば、自分
で自分のクビをしめることになる。

 公務員が、人気業種ナンバーワンというのは、そういう意味でも、実に悲しむべき、現象と考
えてよい。あなたもこの問題を、一度、じっくりと考えてみてほしい。
(02−11−10記)

(補記)すこし前、K県A高校の校長が、「フリーター撲滅論」を唱えた。「フリーターというのは、
まともな仕事ではな」と。「撲滅」というのは、「たたきつぶす」という意味である。

私はこの言葉に、猛烈に反発した。その校長が言うところの、「まともな仕事」というのは、どう
いう仕事のことを言うのか。仕事にまともな仕事も、まともでない仕事も、ない。

私は幼稚園講師になったとき、さんざんこの言葉を浴びせかけられた。母にも言われた。叔父
にも言われた。高校時代の担任にも言われた。その言葉で、私はどれほど自信をなくし、キズ
ついたことか。具体的には、30歳をすぎるまで、自分の職業を隠した。

しかし社会的なきびしさという点では、自分で選んだ道とはいえ、その校長とは、比較にならな
い。そういうきびしさが、日本を下から支えているのだ。決して、こういう校長が、日本を下から
支えているのではない。

それがわからなければ、一度でよいから、この大不況下で、職業安定所を出入りする元サラリ
ーマンの気持ちになって考えてみることだ。それともリストラにあった人は、「まともな人間では
ない」とでも、言うのだろうか?


++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

新・子育て格言(6)

●マンネリは、知能発達の敵

「アレッ」と思う意外性が、知恵の発達をうながす。その瞬間、子どもの脳は、全開状態にな
る。そしてその意外性に対応していくことで、思考の柔軟性が生まれ、知能が発達する。このこ
とは、大脳生理学の分野でも、つぎのように説明される。

 人間の大脳には、約一〇〇億の神経細胞がある。そしてそれぞれの神経細胞は、約10万
個のシナプス(細い回線)をもっている。その数だけで、10の15乗、つまり1000兆本になる。
しかし遺伝子がこれらすべてを管理しているかといえば、そうではない。

遺伝子の中のDNAは、多くても、10の10乗程度といわれている。つまり脳のシナプスは、そ
れだけ柔軟性をもっていると同時に、その人個人の、置かれた環境、教育、努力によって影響
を受けるということになる。が、それだけではない。

 シナプスどうしが、複雑にからみあい、連絡しあうことによって、人間はより複雑な思考をする
ことができるようになる。たとえば脳の神経細胞の数は、生まれてから死ぬまでほとんど同じで
も、大脳皮質は成長にともなって厚くなる。

神経細胞自体がふえるわけではないのに、大脳皮質が厚くなるのは、細胞自体が大きくなり、
「樹状突起も複雑に分岐し、繁茂した状態になること。脳のほかの部分の成長にともなって、た
くさんの入力繊維が入ってくること。

グリアが増殖することによる」(新井康允氏)ためだそうだ。専門用語ばかりでわかりにくい
が、、要するに、それだけ回線が複雑になるということ。この回線をふやすのが、意外性であ
る。意外性が、新しい回線の発達をうながし、そしてその意外性を処理するために、回線どうし
がつながり始める……。

 そこで子どもには、いつも意外性のある環境を用意する。たとえば少し前、オーストラリア人
の夫婦が、私の家にホームステイしたことがある。そのときのこと。毎朝、まずそうな顔をして
朝食を食べていたので、半ば冗談のつもりで、「チョコレートでも出そうか?」と言うと、「オー、
イエス!」と。あいにくチョコレートがなかったので、ココアを出すと、彼らはそのココアと砂糖
を、あの白いご飯の上にかけ、さらにその上からミルクをかけて食べていた。

そのときのことだ。私は頭の中で、バチバチと、脳細胞がショートして火花を放つのを感じた。
それがここでいう「意外性」である。

 そこで具体的には、こうする。

(1)何でも体験させる……よく誤解されるが、「お金をかけろ」ということではない。ごく日常的な
ことで、いろいろ体験させる。郵便局へ行っても、切手を買わせ、それをハガキや封筒にはら
せる。電車に乗るときも、自分で切符を買わせるなど。コツは一歩退いた状態で、子どもに任
すようにする。

(2)家の中に変化を求める……いつも家の様子や、もように変化をつける。イスや机、テーブ
ルの配置など。子どもが外から帰ってきたとき、「アレッ」と思うようにしむける。以前、こんな女
子中学生がいた。年がら年中、いつも自分の机とイスをもって、家の中を移動しているというの
だ。母親は、「ヤドカリみたいです」と笑っていたが、その子どもは、頭のよい子どもだった。ほ
かによく「転勤族の子どもは、頭がいい」と言う。それも、やはり、こうした環境の変化が、よい
方向に作用しているためと考えられる。

(3)どこへでも、連れていく……子どもは外へ出すにかぎる。そのときも、できるだけ歩くように
するとよい。車というのは便利だが、やはり汗をかきながら受ける刺激と、そうでない刺激に
は、大きな違いがある。たとえばテレビで見る、アメリカのグランドキャニオンと、実際に見るグ
ランドキャニオンとでは、受ける印象は、まったく違う。

(4)同じことを繰り返さない……これは親の努力目標ということになる。いつも違った刺激を与
えるようにする。食事でも、何でも。ある母親は、娘のために、一日とて同じ弁当をつくらなかっ
たという。その女性はやがて、日本を代表するような女流評論家になったが、母親のそういう
姿勢が、そういう女性をつくったとも考えられる。

(5)ユーモアを大切に……日本人は、欧米人とくらべても、ユーモアがたいへん少ない民族と
考えてよい。生真面目(きまじめ)といえば、まだ聞こえはよいが、その実、頭がカタイ? 子ど
もが、「お母さん、雨だよ!」と言ったら、「私が、飴(あめ)? なめてみてごらん?」くらいのジョ
ークは、いつも会話の中にあってほしい。

 あとは、子どもといっしょに、意外性を楽しめばよい。たまには、おもちゃのトラックをよく洗
い、その中に寿司を並べてもよい。たまには、料理を大きな皿に並べて、絵を描いてみてもよ
い。そういう意外性が、子どもを伸ばす。
(はやし浩司 遺伝子 DNA 子供を伸ばす)

++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

●見栄は、目つぶし

狭い世界に住んでいると、どうしても見栄をはる。だいたい、人間というのは、自分と対等の相
手を、気にする。言いかえると、今、自分がどんな人間を相手にしているかがわかれば、それ
があなたのレベルということになる。そこであなたは、どんなとき、どんな相手に見栄をはるか、
少しだけ頭の中に、思い浮かべてみてほしい。そしてその相手が、レベルの高い人であればよ
い。しかしレベルの低い人であれば、長い時間をかけて、あなたもそのレベルの低い人になる
から、注意する。

 もっとも、見栄などはっても、意味はない。もっと言えば、自分のない人ほど、見栄をはる。自
分をかざる。ごまかす。隠す。あなたのまわりにも、見栄をはる人は多いと思うが、そういう人
ほど、自分がない。あるいは心のさみしい、つまらない人とみてよい。

 実のところ、私の息子の一人が、O国から帰国後、しばらく、就職先が決まらなく、道路工事
の旗振りの仕事をしたことがある。「もっと楽な仕事があるだろう」と、私とワイフは息子にそう
言ったが、息子はこう言った。「こういうきびしい仕事をしておけば、あとはどんな仕事をしても、
楽になる」と。

私ができることと言えば、せいぜい日焼け止めクリームを、そっと用意してあげることでしかな
かった。そのときのことだ。息子はこう言った。「パパは、ぼくがこんな仕事をするのを恥ずかし
くないか?」と。

 私には、もう「恥ずかしい」という意識は、どこにもない。あるわけがない。だいたい、だれに
恥ずかしがらなければならないのか。近所の人にしても、親類にしても、私の生徒の親にして
も、私が相手にしなければならないレベルではない(失礼!)。私も小さな人間だが、そういう人
たちを、とっくの昔に超えている(失礼!)。そこで私は息子にこう言った。「がんばれるだけが
んばれ。だれかがお前を笑ったら、私がそいつを、たたきのめしてやる!」と。

 見栄を気にすると、自分の姿が見えなくなる。そして自分の子どもを見失う。見栄はめつぶ
し。わかりやすく言えば、「見栄など、クソ食らえ!」ということか。私は私で生きる。あなたはあ
なたで生きる。そういうわかりやすさが、私を光らせ、あなたを光らせる。つまるところ、生きる
ということは、いかに自分であるかで決まる。他人の目の中で生きれば生きるほど、自分を失
うことになる。はたから見ても、それほどつまらない人生はない。

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●ミルクは泣いてから与える

子育てはリズム。そのリズムが、子どものリズムと合っていればよし。そうでなければ、子ども
が親のリズムに合わせることができない以上、親が子どものリズムに合わせるしかない。

 たとえば赤ん坊が泣いてから、ミルクを与える親がいる。泣く前にミルクを与える親もいる。

 たとえば子どもが、「行きたい」とせがんでから、英語教室へ入れる親がいる。子どもが求め
る前に、英語教室へ入れる親がいる。

 たとえば子どもが、「もっと勉強したい」と言ってから、塾へ入れる親がいる。子どもが望む前
から、塾へ子どもを押し込む親がいる。

 こんな親がいた。あと少しで夏休みというときのこと。母親が分厚いパンフレットをもってき
て、こう言った。「先生、うちの子(小3男児)は、ああいうグズな子でしょ。だから夏休みの間、
洋上スクールへ入れようと思うのですが、どうでしょうか?」と。そこで私が、「本人は行きたが
っているのですか?」と聞くと、「いえね、先生、それで困っているのです。本人は、行きたくない
と言って、私を困らすのです」と。

 こうしたリズムは、一度できると、それがずっとつづく。一生つづくといっても、過言ではない。
親は、いつまでたっても、心配先行型の子育てをする。その結果、子どもはいつもそういう親
に、引き回されるだけ。自立心の弱い子どもになる。あるいは自分で自分を律することができ
ないから、どこか常識ハズレになりやすい。親から見れば、「グズな子」ということになる。

 そこでテスト。もしあなたの子どもが、ベッドで寝る直前になって、「明日の宿題をやっていな
い」と言ったとする。そのとき、あなたはどうするだろうか。

 子どもを起こし、宿題をいっしょに片づけてやる親もいる。あるいは反対に、「あなたが悪い
から、明日、学校で先生に叱られてきなさい」と言って、そのまま寝させる親もいる。これもリズ
ムで決まるが、もしあなたのリズムが、子どものそれと違っているようなら、今日からでも遅くな
いから、子どものリズムで歩いてみるとよい。方法は簡単。子どもを子どもとしてみるのではな
く、友として、その横を歩くようにすればよい。そしていつも「あなたは何をしてほしい」「あなた
は何をしたい」と静かに語りかければよい。

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●みんな、不安

子育てをしていて、不安でない人のほうが少ない。前提として、みんな、不安と考えてよい。つ
まり、不安なのは、あなただけではない。

 「うちの子は、ちゃんとおとなになれるかしら」「ひとりで、だいじょうぶかしら」「交通事故は?」
「けがは?」と。学校へ入れば、今度は「勉強は、だいじょうぶかしら」「いじめれれるのではな
いかしら」「不登校児になるのではないかしら」「落ちこぼれるのではないかしら」と。

さらに、このところ国際情勢もあやしくなってきた。経済情勢も悪い。子どもを取り巻く環境は、
悪化することはあっても、よくなることは何もない。「紫外線は?」「化学物質は?」「環境ホルモ
ンは?」などなど。その上、連日のように、暗い事件がつづく。コンビニの前を通ると、どうも素
性のよくないような若者が、たむろしている。「うちの子はだいじょうぶかしら?」と。

 こうした不安と戦う唯一の方法は、自分の子どもを信ずること。また信じられるように、親側
の心を整える。またそういう子どもに、子どもを育てる。「うちの子は、うちの子で、たくましく、何
とかやっていくだろう」という思いが、親の不安を解消する。が、それがないと、あとは、何をし
ても、その不安から解放されることはない。

 しかし、実のところ、自分の子どもを信ずることは楽ではない。簡単なことでもない。それ自体
が、子育ての大きな「柱」といってもよい。つまり子育ての目標のすべてが、ここに集約される。
しかし方法がないわけではない。

(1)子育てを楽しむ……「子どもを育てる」「育ててやる」と考えるのではなく、「子どもといっしょ
に、友として、人生を楽しむ」という視点で、子育てを組み立てる。私も長男が生まれたとき、
「いつかこの子と、会話ができるようになればいい」と本心からそう思った。

(2)「あなたはいい子」を口グセにする……いつも「あなたはいい子」を口グセにする。子どもと
いうのは不思議なもので、親の口グセどおりの子どもになる。長い時間をかけてそうなる。あな
たが「うちの子はグズだ」と思っていると、あなたの子どもは、そのグズな子どもになる。が、「い
い子」と思っていると、そのいい子になる。最初はウソでもよいから、そう言う。言いつづける。

(3)親子のパイプを大切にする……同じような不安を感じても、親子のパイプが太いうちは、い
っしょにそれを乗り越えることができる。助けあい、励ましあい、いたわりあい、なぐさめあう。そ
ういう意味で、家庭は、子どもにとっては、いこいの場、いやしの場とする。子どもがある程度、
大きくなったら、こまごまとしたしつけを、家庭の中ではしていはいけない。

(4)なるように任せる……子どもというのは、何とかしようと思っても、そうならないときは、なら
ない。しかし何もしなくても、自分の力で育っていくもの。自分のことならともかくも、親としては、
子ども自身の中に感ずる、子どもの運命に、任すしかない。さからってもムダ。流れを変えよう
としても、ムダ。あるがままを認め、そのあるがままの中から、子どもを引き出す。仮に子ども
が不登校児になっても、「まあ、そういうこともあるわね」「うちの子はうちの子」という思いが、
子どもの心を守る。あなた自身の心を守る。

(5)「今日」を維持する……大切なことは、こうした不安を感じたら、「今日」の状態をより悪くし
ないことだけを考えて、明日にそれをもっていく。その今日が無事なら、明日も無事。来週も、
来月も、来年も無事。今日があるように、明日も同じようにやってくる。決して不安になること
も、心配することもない。流れに静かに身を任せば、明日は必ずやってくる。自分のことならと
もかくも、子どものことではそうする。

(6)視野を広く、大きく……こうした不安は、視野がせまく、低くなったとき、倍加する。だからい
つも視野を広く、高くもつ。子育てをしていると、つぎからつぎへと、いろいろな問題が起きてく
る。しかしそのとき、そういう問題に、同じレベルで巻き込まれると、自分を見失ってしまう。こ
れはまずい。どんなばあいも、自分をできるだけ高い位置から見おろす。そのために、日ごろ
から、子育てについて考える習慣をなくしてはいけない。

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●自分の運命、他人の運命

久しぶりに、大阪へ行ってきた。外回り線という電車に乗った。で、そこで、そこが大阪とわか
るのは、大阪弁という方言があるから。まわりの人たちがみな、どこか聞きなれない方言で、ペ
チャペチャと早口でしゃべっている。

それをのぞいたら、東京と大阪の区別はつかない。「この電車は山手線です」とだれかが言っ
ても、私は、それを信じてしまうだろう。つまり、大阪の人も、東京の人も、それぞれが、「私た
ちは東京とは違う」「大阪とは違う」と思っていても、外の「私」から見れば、オ・ナ・ジ。

 この話は、運命論と関係している。他人を、「私」から見ると、それぞれが決まったパターんの
中で、決められた未来に向かって動いているように見える。まさに運命を感ずるときは、そのと
きだ。大阪の人も、東京の人も、ある一定のワクの中にいるのがわかる。私が「区別はつかな
い」と書くのには、そういう意味も含まれる。

 同じように、こうまで長く、そのときどきにおいて、たとえば不登校の子どもを扱っていると、ど
の子どもも同じに見えてくる。10年前に経験した不登校児も、20年前に経験した不登校児
も、そして今、経験している不登校児も、同じに見えてくる。区別はつかない。そしてそれぞれ
の子どもが、ほぼ同じようなコースをたどって、いつか、何ごともなかったかのようにして、おと
なになっていく。私はそういう流れの中に、やはり運命を感ずる。つまり、「決められたコース」
を、だ。

 そこで私は、運命をふたつに分ける。ひとつは、自分の運命。もう一つは、他人の運命。ここ
に書いたのは、どれも他人の運命だが、もし運命というものがあるなら、それは「他人の運命」
をいう。で、問題は、自分の運命だ。はたして、自分の運命は、あるのか?

 そこで視点を、まず「私」からはずす。はずして、その視点を、より高いところにおき、そこから
自分をながめてみる。そうすると、不思議なことだが、私が大阪で、そしてあの電車の中で見
た、大阪の人のように、自分を客観的にみることができる。と、同時に、自分自身の運命を知
ることができる。

 私が考える自分の運命というのは、まず、まあ、このまま浜松市の郊外のボロ家で、一生を
終えるだろうなという事実。ひとり、何だかんだと、犬の遠吠えのようなことを繰り返して、一生
を終えるだろうなという事実。そのうち、ワイフか私が先に大きな病気になり、深い悲しみや苦
しみを味わうだろうな事実。たいしたこともできず、まあ、そこそこの人生をその時点で、終える
だろうな事実。それを運命といえば、運命ということになる。

 が、今度は、視点をずっと下におろして、自分の中から、運命をみてみる。すると、視野が一
転する。「私は私、運命などない」という考え方に、一転する。仮にそういうそういう運命がある
としても、私は今、こうして懸命にふんばって生きている。「このまま終わるだろうな」という人生
であってはいけないという思いも強い。だから懸命に、それと戦っている。つまり「自分にとっ
て、自分の運命はない」ということになる。もっと言えば、私の道は、私が決める。

 そこで結論から言えば、人は「運命」という言葉を口にするとき、ひょっとしたら、この二つを
混同しているのではないかということ。中の世界から見る自分の運命と、外の世界からみる他
人の運命を混同している。だから話がややこやしくなる。おかしくなる。さらにもっと言えば、外
から見る他人の運命というのは、あくまでも結果であって、それは運命ではないということにな
る。話がわかりにくくなってきたが、そもそも、運命などというものはないのではないか。またそ
う考えたほうがわかりやすい。

 この問題は、もう少し先でもう一度考えてみるが、今のところ、そういう結論になる。仮にそう
いう運命が、それぞれに人にあるとしても、最後の最後のところで、ふんばって生きるのが人
間。そこからドラマが生まれ、生きる人間の価値が生まれる。美しさが生まれる。決して、自分
の人生を、運命論で、安易にかたづけてはいけない。

(付記)きわめて卑近な話になるが、こう考えても、運勢だとか、占いだとか、占星術だとか、タ
ロットだとか、そういうことを言っている人の気が知れない。はっきり言って、バカげている。道
に迷ったら、自分で考える。それが人間ではないか。

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●夢中こそ、力

子どもが何かのことで、夢中になる様子を見せたら、そっとしておく。子どもは夢中になること
で、集中力を養い、思考力を養う。一般論として、「頭をよくする」ためには、今まで使っていな
かった脳の部分を使えばよい。つまりできるだけ変わった分野に進出すればするほど、頭はよ
くなる。子どもについて言えば、できるだけ変わった経験をさせればよい。させればさせるほ
ど、頭はよくなる。

 ……ということは、もう15年も前に出した本(「子育て格言」(山手書房新社))の中で書いた。
が、私はここまで書いて、ふと考えてしまった。私自身はこの一〇年の間に、新しい分野に進
出したか、と。そしてそこで、さらに考えてしまった。今、思いつくものが、何もない。これといっ
て、「新しいことをした」という部分が、何もない。生活そのものも、一〇年前と、ほとんど変わっ
ていない?

 そう言えば、このことは、先日会った、恩師とも話題になった。それについて恩師はこう言っ
た。「責任ある仕事をしなさい。そういう仕事をすれば、またいろいろな人に会える。会うこと
で、自分をみがくことができる」と。

つまり変わった分野とは、それ相当の人に会うことだ、と。そこで私が、「具体的に何をすれば
いいですか?」と聞くと、「H市の市長ぐらいにはなりなさい」と。私は、「先生は、冗談が好きで
すね」と笑ったが、つづけて私はこう言った。「そういう仕事をすれば、自分の時間がなくなる。
そうでなくても、自分の時間が足りないと思っているのに、あんな忙しい仕事をさせられたら、た
まりません」と。

 これは私の負け惜しみでも何でもない。もし政治家をめざしていたとしたら、とっくの昔になっ
ていた。そういうチャンスは、何度かあった。しかし同時に、今の私に一番欠けるものといえ
ば、緊張感かもしれない。「責任」ということになると、私には社会的責任は、ほとんどない。気
楽といえば気楽だが、しかしこの気楽さこそが、私が求めてきたものである。自由の原点も、そ
こにある。そんなわけで、この「気楽さ」を、簡単に放棄するわけにはいかない。

 で、子どもの話に、もどる。子どもは未経験な存在だから、いろいろな経験をさせる。これは
子育てにおいては、たいへん重要なことである。決して、小さな世界に閉じ込めてはいけない。
コツはある。親自身が、新しい世界につぎつぎとチャレンジしていく。そしてそれから生まれる
緊張感の中に、子どもを巻き込んでいくようにする。親が居間で寝そべりながら、「あなたは外
で遊んできなさい」は、ない。

 ただし、子どもの夢中にも、条件がある。その(1)反復作業はさせない。(2)興奮性の強い
夢中は、避ける。

(1)反復作業はさせない……よい例が、反射運動だけをためすようなテレビゲームなど。ある
いは黙々と、単純作業を繰り返す。同じことを、何度も繰り返したり、それにこだわったりする。
同じ夢中でも、こうした夢中は、子どもの性格を自閉させる。以前、小さな丸だけをつなげて
黙々と絵を描いていた女の子(年中児)がいた。親や先生は、「根気のあるいい子です」と言っ
ていたが、しかしそれは自閉症の初期症状だった。

(2)興奮性の強い夢中……幼児期に避けなければならない感情に、嫉妬(しっと)と、攻撃心
がある。この二つは、おそらく人間が原始的な生物であった時代からもっていた感情で、この
二つをいじると、子どもの性格がゆがむことがある。そのため子どもが嫉妬するような場面
は、できるだけ避ける。またゲームでも、スポーツでも、俗にいう、「頭に血がのぼるような興奮
性」は、好ましいものではないこの興奮性が強くなればなるほど、理性的にものを考えることが
できなくなる。以前、こんな子ども(年長男児)がいた。私が、「ブランコを横取りされました。あ
なたはどうしますか」と聞いたときのこと。その子どもは、こう言った。「そういうヤツはぶん殴っ
てやる。どうせ口で言ってもわかんねえ」と。そういうようなものの考え方をするようになる。

 さてまた、私の話。私はそのつど、いろいろなものに夢中になる。宗教論の本を書いたときに
は、日本中の寺をあちこち回った。(この本はペンネームで書いた。)木工にもこったし、山荘
を建てるときは、家以外の工事は、ほとんど私とワイフがふたりでした。小さな教室をもってい
るが、その教室の机やイスなど、備品にいたるまで、すべて私が自分でつくった。

私の趣味は、定期的に変化するのが特徴で、だいたい数か月から数年単位で変化していく。
本を書くときも、多い年は、1年で10冊あまり出版したこともある。今は、電子マガジンづくりが
おもしろい。私は何かに夢中にならないと、すぐ退屈してしまう性格らしい。のんびりとブラブラ
しているということが苦手。先に、「生活そのものも、10年前と、ほとんど変わっていない?」と
書いたが、こうして改めて考えなおしてみると、結構、「変わった部分」もあるのかもしれない。
ただ、どうしても、それを実感として、つかむことができない。
(はやし浩司 夢中 子供の興奮性 興奮する子供 興奮する子ども)


●休暇

 夏休みになった。毎年そうだが、夏休みといっても、とくに何かをするわけではない。この時
期は、行楽地は、どこも混雑している。それに暑い。

 で、夏休みになると、かえって行動半径が狭くなる。しかたがないので、こういうときは、原稿
の書きだめとか、情報の収集とかをする。……と思っていたが、人間というのは、おかしなもの
だ。

 ヒマになると、かえってものを考えられなくなる。ものが書けなくなる。脳ミソの活動が鈍くな
る。「暑い」「暑い」とこぼしては、ソファに寝そべっているだけ。

 それに今は、三男が夏休みで、帰省中。何かをしてやるわけではないが、しかし息子だけを
残して、どこかへ行くということもできない。息子は、「気をつかわなくていい」と言ってくれるが、
しかしやはり気が引ける。ワイフはワイフで、いろいろと息子の世話をしなければならない。

 ただ運動だけは、サボるわけにはいかない。昨日は、10キロ近く歩いた。今日も、やはり10
キロ近く歩いた。それをしないと、脳ミソの活動が、ますます鈍くなる。

 ……ということで、今、私は、退職後の自分を、模擬体験している。

 退職をしたからといって、目標をもつことは大切。やるべきことをもつことは、もっと大切。脳ミ
ソの働きを維持するためだけではなく、精神の状態を、安定させるためにもそうする。決して、
ボケーッと、一日を過ごしてはいけない。

 ということで、夏休みに入ってから、どうも、私の精神状態は、よくない。落ち着かないという
か、ささいなことで、すぐイライラしてしまう。私は、もともと不安神経症。それが休みになると、
さらに倍化する。

 よく人は、「お前は貧乏性だな」という、が、そういうのではない。昨日も、息子が、交通事故
にあった友人を、病院へ見舞った。

 そういう話を耳にすると、とたんに気が滅入ってしまう。そして知らなくてもよいと思うのだが、
「どうしてそうなった?」「どこでそうなった?」「相手は、どんな人だった?」と、つい聞いてしま
う。

 安っぽい好奇心から、聞くのではない。「明日は、我が身」と思うから、聞く。

 で、そういう話が、一日中、頭から離れない。何でもその息子の友人は、30分近く、脳に酸
素が届かない状態だったいう。それで病院では、植物状態だったという。私の年齢になると、
自分の息子も、他人の息子も、区別できなくなる。(多分、みな、そうではないかと思う。)「うち
の息子でなくてよかった」などという、自己中心的なものの考え方は消える。

 「さぞかし、親はつらい思いをしているだろうな」と思ったとたん、その親が、私自身になってし
まう。

 やはり、私は、仕事をしていたほうが、気分がよい。仕事をすることで、仕事以外のことを忘
れることができる。それに、運動も、しっかりとできる。

 そのことをワイフに話すと、ワイフも、こう言った。

 「あなたは、本当に貧乏性ね」と。

 自分でも、つくづくそう思う。何とも、サエない夏休み。明日も、多分、こんな調子で、一日が
過ぎるのだろう。いやだな。


++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

最前線の子育て論byはやし浩司(830)

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H市内にお住まいの、Yさん(母親)から、
こんな近況報告が届いています。

楽しい夏休みを過ごしておられるようです。

それを紹介させていただきます。

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【Yより、林へ……】

はやし先生へ

暦の上では『秋』ですが…
ホントに連日、暑い日が続きます。

子供が夏休みに入ってから、学校の方の行事が
いろいろとありました。

その行事も今日の午前で、やっと終了いたしました。
親子共々、ほっとしました。


まず、三者面談についてです。
一学期の様子についてのお話が、担任の先生からありました。

長女のK子「わたしね、今回初めて成績表をもらうのが楽しみなの。」
母 「へ〜、そうなのそれはいいことね〜。」

こんな会話を学期末していました。
実際成績表を手にしてみて…
本当に「すごい!」と思わず声が出てしまいました。
かなり、上がったのです。

先生「とても良い成績なので二学期も油断しないように。
   特に、学習面も友達関係も問題なし。良好ですよ。」

とのことでした。


弟のT男は、『ミスター前向き』が、ぴったりな男のようです。
とにかく取っつきがよく、張り切っているようです。
先生には、とても気に入られているようで安心いたしました。

友達も多く、学習面もまあまあ良いでしょうとのことでした。
かなり、お調子者のようです。

二人とも、それぞれ成長が見られまずまずの三者面談でした。


8月5日は、バイオリンの発表会でした。
これがまた、緊張しました。
半年ほど練習を重ねた上の発表です。

しかも、今回は娘がどうしても、と強い意志で
選曲した難度の高いものでした。

春休みから必死に練習して、低迷の時期もありました。
前日のリーハーサル。
緊張から全く思うように弾くことができませんでした。

本番当日。
私は、祈るように、聴き入りました
ひとフレーズごとに心臓が波打つようでした。

最後の音が鳴り終えて。
よし!  ふう〜〜。よかった〜。 
練習以上の成果を披露することができました。

よくぞ、ここまで…と、熱いものがこみ上げてきました。

娘は、五年生だった昔の私を、はるかに上回っています。
技術はもちろんのこと。
意志が強いこと。
それに向かってやり遂げようとするところ。
結果やり遂げてしまうところ。

私は、娘の母であることに酔っていた時間でした。
良い思いをさせてくれてホントありがとうです。

近く、リコーダーコンテスト予選があります。
立候補で学校の代表として演奏しました。
以前の娘からは、『立候補』などという選択肢は
皆無な、目立たない女の子でした。

しかし、本当に変わってきました。
暑い中、学校まで徒歩で出かけよく練習しました。

今日の本番も堂々と、良い演奏をしていました。
審査結果月末のようです。
予選が通過できると良いのですが…。

とりあえず、これでノルマはおしまい。

明日から家族で駒が岳へ出かけます。

T男の夏休みはカブトムシ・クワガタ一色です。
主人と一緒に早朝五時前に起床し、観察・世話の毎日です。

幼虫から育てた雌のカブトムシに先日お婿さんを
捕まえてきました。

お互いに気に入ったようで産卵までいきそうな気配です。

主人がかなり思い入れて世話をしていますので
T男はそれに引っ張られ、汚れ物の処理や
世話をよくやっています。

ただいま、我が家は一部屋 『カブト&クワガタ』専用の
空間になっています。
気温の設定もなされ人間が住む部屋より快適です。

子供のお陰で、自分が子供の頃にできなかったことを
今、体験できるので結構楽しい毎日です。

特に主人の感覚は、私には経験の無いものなので
新鮮です。

はやし先生のアドバイス・マガジンが私の道しるべです。

暑いですが、元気を出してがんばりましょう。

      Y子より

++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

●拉致問題と、お役所仕事

 日本では、拉致問題が、大きな社会問題になっている。今日(10日)、M号が入港する港が
ある新潟市では、約8000人が集まり、入港阻止と、経済制裁の発動を求める決議を採択し
たという。

 しかし韓国では、この拉致問題を、別の視点からとらえているようである。それがどういう視
点であるかは、つぎの、記事を読むと、わかる。

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●(日本側の)徴用者遺骨調査、日本は「調べる振り」だけ

 『韓日両国は昨年12月の首脳会談で、「朝鮮人徴用者の遺骨調査問題を円満に解決する」
ことで一致したが、実際、日本政府の調査作業は、「するふり」をするレベルにとどまっているこ
とが、分かった。 
9日、東亜(トンア)N報が入手した日本総務省の文書は、文書の形式が「調査依頼」となって
いて、何の拘束力もなく、強制徴用者を雇用した企業名はもちろん、所在地の住所もきちんと
記されていない』(以下省略)。と。

+++++++++++++++++++++

 つまり朝鮮人雇用者の遺骨問題に関して、日本の役所は、「調べるフリをしているだけ」と。

 東亜N報は、その理由の内容をことこまかく報道しているが、当然のことながら、日本人の私
たちには、そういう事実はまったく知らされてない。ニュースにもなっていない。

 しかしこうした報道のズレというか、意識のズレが、日本と韓国の関係に、大きなヒビを入れ
る。今回の6か国協議でも、日本側は、韓国側に、拉致問題を含む、人権問題で、あれこれと
協力を求めた。が、韓国側の姿勢は、一貫して、冷淡だった。

 が、こうした冷淡さの背景に、こうした遺骨問題があると考えると、韓国側を一方的に責める
こともできない。「日本人は、調べる、調べると約束しながら、フリをしているだけではないか」
「誠意がまったく感じられない」「なのに、どうして、拉致問題で、協力を求めてくるのか」「その
資格はあるのか」と。

 当然のことながら、韓国の人たちは、韓国の新聞を読みながら、自分たちの対日感情をつく
っていく。

 この記事を読んだ韓国の人たちは、そしてK国の人たちは、どういう感情をもつだろうか。こ
の記事をそのまま読んだ韓国の人たちは、「やはり、日本人は、信用できない民族だ」と思うに
ちがいない。

 拉致被害者の人たちは、懸命に、拉致された人たちの返還運動をしている。しかしその一方
で、日本のお役所は、型どおりの、お役所仕事しかしていない。簡単な、調査とも言えないよう
な調査をして、それですませている。少なくとも東亜N報の記者は、そうみている。そういう事実
も知らないまま、拉致問題を、K国にぶつけても、あまり意味がない。

 そう言えば、K国に日本人が拉致されたときも、当時のお役所は、型どおりの調査しかしなか
ったと聞く。その結果、拉致被害者を、ふやしてしまった。つまり拉致被害者をつくったのも、お
役所なら、拉致問題を、こじらせてしまったのも、お役所、ということになる。もっと言えば、日本
独特のお役所仕事に原因があるのでは……?、ということになる。

 やるべきことは、やる。しかしそれ以外のことはしない。それがお役所仕事?

 韓国の人たちは、きっと、日本人の私たちに向って、こう言いたいのだ。

 「お前たち、被害者意識をもつのもよいが、同時に、オレたちにとっては、加害者であることも
忘れるな。まず加害者の責任を果たしてから、被害者としての立場を主張せよ」と。

 それにしても、韓国の新聞も、毎日、毎日、日本のアラさがしばかりしていないで、もう少し、
目を外に向けて、前向きにものごとを考えてはいかがなものか? ……と思う。

【補足】

 おたがい、自分にとって耳ざわりのよい話には、耳を傾ける。しかしそうでない話からは、耳
をそらす。さらにそこに悪意(?)をもった先入観が、入ると、事実そのものが、ゆがめられてし
まうことがある。

 東亜N報の記者は、「フリ」という言葉を使った。「総務省が、全国に発信した調査依頼」など
というものは、ただの依頼でしかない。真剣味が感じられない。だから「フリだ」と。

 「そうかな?」という部分もあれば、「そうとも言えないのではないか?」という部分もある。善
意に解釈すれば、「日本政府も、調べ始めていてくれる」というふうにもとれるし、悪意に解釈す
れば、「フリにすぎない」というふうにもとれる。

 拉致被害者の心情を思いやるに、あまりあまるものがある。つらいだろうと思う。しかしその
責任の一部は、拉致をみすみす許してしまった、日本政府にもある。海岸警備を、もっとしっか
りとしていれば、拉致事件は、起きなかったはず。

 あるいは警察が、もっと早く腰をあげていれば、被害者を、最小限にできたはず。

 で、その「制裁」についてだが、私は、もう少し、時期を待つべきだと思う。今、ここで私たちが
感情的になると、とりかえしのつかないことになるような気がする。相手は、まともな国ではな
い。まともな論理が通ずる相手ではない。そういう前提で、ものを考えなければならない。

 私たちと同じ人権意識をもった、良識ある人と考えてはいけない。社会的価値観そのもの
が、ちがう。もちろん意識もちがう。さらにその底流には、戦前の、あの暗くて長い歴史があ
る。

 やがてK国の核問題は、国連の安保理に付託されるだろう。そのとき、K国への制裁も検討
される。必ず、そうなる。それまで、日本は、事務的に、ただひたすら事務的に、冷静かつ沈着
に、言うべきことは言えばよい。そして静かに、金xx体制を、崩壊へと導く。

 日本の平和と安全を第一に考えるなら、それがベストではないか。

 
++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司


最前線の子育て論byはやし浩司(831)

【近況あれこれ】

●暑さと思考能力

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暑いと、考えるのも、おっくうに
なる。

考えようとしても、集中力がつづかない。

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 暑いと、思考能力は低下する。経験的には、わかりきったことだが、しかしどうしてだろう。

 人間の思考能力というのは、それだけではないが、いいかげんなものだ。環境のみならず、
そのときどきの心理的状況や感情によっても、大きな影響を受ける。しかしこのいいかげんさ
が、人間の思考能力を、より柔軟なものにしている。人間らしさを作っている原点にもなってい
る。もし人間の思考能力が、ギスギスになってしまったら、人間は、それこそ、ロボットのように
なってしまうかもしれない。

 ところで人間の脳の中には、100億個とも、1000億個以上とも言われる神経細胞があると
言われている。(その数は、研究が進めば進むほど、ふえるという傾向がある。)この神経細胞
は、「ニューロン」とも呼ばれている。

それぞれの神経細胞には、情報の入力部(樹状突起)と、情報の出力部(軸索の先端)があ
る。

 ここでたいへん興味深い点は、それぞれの神経細胞は、直接つながっているのではないとい
うこと。効率を考えるなら、直接つながっていたほうが、ずっとよい。電気的信号は、そのまま、
神経細胞から神経細胞へと、伝達される。が、実際には、直接には、つながっていない。神経
細胞と神経細胞の接合部は、「シナプス」と呼ばれている。が、このシナプスの働きが、これま
た複雑である。

 ふつうなら、先にも書いたように、神経細胞どうしは直接しながっていたほうがよい。そのほう
が、効率はよい。が、実際には、一つの神経細胞からつぎの神経細胞に情報を伝えるとき、そ
の間で、脳間伝達物質と呼ばれる、ある種の化学物質が、化学反応を起こしながら、受け取っ
た情報を、つぎの神経細胞に伝えている。

 私たちの脳ミソは、そのつど、いちいち、情報(電気的信号)を、化学反応にかえながら、つぎ
の神経細胞に伝えているというわけである。わかりやすく言えば、電気を流すとき、1本の電線
で流すのではなく、そのつど、その途中で、複雑な化学反応を繰りかえしながら、つぎの電線に
電気を流しているということになる。

 それをさらにわかりやすくしたのが、下の図である。

(軸索からの電気的信号)→(化学物質)→(神経細胞の樹状突起)→(電気的信号)→(軸索)
→(軸索からの電気的信号)→(化学物質)→……と。

 なぜ、こんなめんどうなことをするかといえば、これはあくまでも、私の推理だが、反対に、神
経細胞どうしが、直接つながってしまったばあいのことを考えてみると、わかる。

 もし神経細胞どうしが、直接つながってしまったら、いわゆる(人間的なあいまいさ)が、なくな
ってしまうことになる。

 悩んでいるときも、さみしいときも、悲しいときも、脳細胞は、そうした感情に左右されることな
く、能率よく、しかし機械的に働くことになる。もしそうなれば、あるいは、ひょっとしたら、感情そ
のものが、なくなってしまうかもしれない。

 つまり神経細胞は、その情報を、つぎの神経細胞に伝える過程で、化学反応を介在させるこ
とで、(あいまいさ)を、わざとつくっていることになる。この(あいまいさ)こそが、(人間らしさ)の
原点になっている。

 暑いときは、化学物質の分泌が、少なくなる(多分?)。そうすると、神経細胞から神経細胞
への情報の伝達が、とどこおるようになる。そしてものを考えるのが、おっくうになる。

 もしこのとき、神経細胞どうしが、直接つながっていたら、暑いときも、寒いときも、何ら影響さ
れることなく、脳ミソは活動できるはずである。脳ミソの効率という点では、それでよいかもしれ
ない。が、しかしそうなればなったで、人間は、機械的になってしまう。たとえて言うなら、ただの
計算機か、コンピュータのようになってしまう。が、それでは、かえってつまらないのでは……?

 つまりは、人間的な(あいまいさ)を、わざとつくるために、神経細胞どうしは、化学物質を通じ
て、つながっている……ということになる。そこで最近、とくに注目されてきたのが、脳内ホルモ
ンだが、それについては、別のところで、また考えてみたい。この脳内ホルモンが、化学物質
の変化(反応)に、微妙な影響を与え、その人らしさを作っているというのである。

 「今日は、暑い」と感じた、知覚細胞からの情報が、脳ミソのどこかで、(イライラホルモン)を
分泌する。そのイライラホルモンが、神経細胞どうしをつなぐ化学物質の化学反応を、鈍らせ
る。つまりその結果として、思考能力は低下する。

 今の私の脳ミソは、そういう状態にあると考えてよい。

【補記】

 コンピュータには、感情はない。それはコンピュータの神経細胞にあたる部分が、すべて電
線でしっかりと結ばれているからである。

 そこでコンピュータに感情をもたせるために、こんなふうにしてみたらどうだろうか。

 電線のそれぞれの途中で、化学反応による伝達部分をつくる。暑いときは、化学反応を遅く
したり、仕事の量が多いときは、化学反応を、拡散させたりする。電線どうしを混線させるのも
よい。ワードで作業をさせていたら、突然、エクセルの表が、その上に現われたりする。そこで
ユーザーが、「バカ!」とキーボードをたたくと、画面上に、「ごめんなさい」「まちがえました」な
どと表示されたりする。

 そうすれば、コンピュータも感情をもつようになるかもしれない。あるいは、「今日は、暑いか
ら、仕事はここまで」とか、そんな言葉が画面に表示されるようになるかもしれない。もちろん、
コンピュータとしての効率は悪くなるが、しかしそんなコンピュータは、想像するだけも、楽しい。
(はやし浩司 神経細胞 ニューロン 樹状突起 シナプス 軸索)



++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

最前線の子育て論byはやし浩司(832)


【ゲーム脳】

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ゲームばかりしていると、脳ミソがおかしくなるぞ!

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最近、急に脚光を浴びてきた話題に、「ゲーム脳」がある。ゲームづけになった脳ミソを「ゲー
ム脳」いう。このタイプの脳ミソには、特異的な特徴がみられるという。しかし、「ゲーム脳」と
は、何か。NEWS WEB JAPANは、つぎのように報道している(05年8月11日)。

『脳の中で、約35%をしめる前頭葉の中に、前頭前野(人間の拳程の大きさで、記憶、感情、
集団でのコミュニケーション、創造性、学習、そして感情の制御や、犯罪の抑制をも司る部分)
という、さまざまな命令を身体全体に出す司令塔がある。

この司令塔が、ゲームや携帯メール、過激な映画やビデオ、テレビなどに熱中しすぎると働か
なくなり、いわゆる「ゲーム脳」と呼ばれる状態になるという。それを科学的に証明したのが、東
北大のK教授と、日大大学院のM教授である』(以上、NEWS WEB JAPAN※)。

 つまりゲーム脳になると、管理能力全般にわたって、影響が出てくるというわけである。この
ゲーム脳については、すでに、さまざまな分野で話題になっているから、ここでは、省略する。
要するに、子どもは、ゲームづけにしてはいけないということ。

 が、私がここで書きたいのは、そのことではない。

 この日本では、(世界でもそうかもしれないが)、ゲームを批判したり、批評したりすると、もの
すごい抗議が殺到するということ。上記のK教授のもとにも、「多くのいやがらせが、殺到してい
る」(同)という。

 考えてみれば、これは、おかしなことではないか。たかがゲームではないか(失礼!)。どうし
てそのゲームのもつ問題性を指摘しただけで、抗議の嵐が、わき起こるのか?

 K教授らは、「ゲームばかりしていると、脳に悪い影響を与えますよ」と、むしろ親切心から、
そう警告している。それに対して、(いやがらせ)とは!

 実は、同じことを私も経験している。5、6年前に、私は「ポケモンカルト」(三一書房)という本
を書いた。そのときも、私のところのみならず、出版社にも、抗議の嵐が殺到した。名古屋市
にあるCラジオ局では、1週間にわたって、私の書いた本をネタに、賛否両論の討論会をつづ
けたという。が、私が驚いたのは、抗議そのものではない。そうした抗議をしてきた人のほとん
どが、子どもや親ではなく、20代前後の若者、それも男性たちであったということ。

 どうして、20代前後の若者たちが、子どものゲームを批評しただけで、抗議をしてくるのか?
 出版社の編集部に届いた抗議文の中には、日本を代表する、パソコン雑誌の編集部の男性
からのもあった。

 「子どもたちの夢を奪うのか!」
 「幼児教育をしながら、子どもの夢が理解できないのか!」
 「ゲームを楽しむのは、子どもの権利だ!」とか何とか。

 私の本の中の、ささいな誤字や脱字、どうでもよいような誤記を指摘してきたのも多かった。
「貴様は、こんな文字も書けないのに、偉そうなことを言うな」とか、「もっと、ポケモンを勉強し
てからものを書け」とか、など。

 (誤字、脱字については、いくら推敲しても、残るもの。100%、誤字、脱字のない本などな
い。その本の原稿も、一度、プロの推敲家の目を経ていたのだが……。)

 反論しようにも、どう反論したらよいかわからない。そんな低レベルの抗議である。で、そのと
きは、「そういうふうに考える人もいるんだなあ」という程度で、私はすませた。

 で、今回も、K教授らのもとに、「いやがらせが、殺到している」(同)という。

 これはいったい、どういう現象なのか? どう考えたらよいのか?

 一つ考えられることは、ゲームに夢中になっている、ゲーマーたちが、横のつながりをもちつ
つ、カルト化しているのではないかということ。ゲームを批判されるということは、ゲームに夢中
になっている自分たちが批判されるのと同じ……と、彼らは、とらえるらしい(?)。おかしな論
理だが、そう考えると、彼らの心理状態が理解できる。

 実は、カルト教団の信者たちも、同じような症状を示す。自分たちが属する教団が批判され
たりすると、あたかも自分という個人が批判されたかのように、それに猛烈に反発したりする。
教団イコール、自分という一体感が、きわめて強い。

 あのポケモン全盛期のときも、こんなことがあった。私が、子どもたちの前で、ふと一言、「ピ
カチューのどこがかわいいの?」ともらしたときのこと。子どもたちは、その一言で、ヒステリー
状態になってしまった。ギャーと、悲鳴とも怒号ともわからないような声をあげる子どもさえい
た。

 そういう意味でも、ゲーム脳となった脳ミソをもった人たちと、カルト教団の信者たちとの間に
は、共通点が多い。たとえばゲームにハマっている子どもを見ていると、どこか狂信的。現実と
空想の世界の区別すら、できなくなる子どもさえいる。たまごっちの中の生き物(?)が死んだ
だけで、ワーワーと大泣きした子ども(小1女児)もいた。

これから先、ゲーム脳の問題は、さらに大きく、マスコミなどでも、とりあげられるようになるだ
ろう。これからも注意深く、監視していきたい。

 ところで、今日の(韓国)の新聞によれば、テレビゲームを50時間もしていて、死んでしまっ
た若者がいるそうだ。たかがゲームと、軽くみることはできない。

注※……K教授は、ポジトロンCT(陽電子放射断層撮影)と、ファンクショナルMRI(機能的磁
気共鳴映像)いう脳の活性度を映像化する装置で、実際にゲームを使い、数十人を測定した。
そして、2001年に世界に先駆けて、「テレビゲームは前頭前野をまったく発達させることはな
く、長時間のテレビゲームをすることによって、脳に悪影響を及ぼす」という実験結果をイギリ
スで発表した。

この実験結果が発表された後に、ある海外のゲーム・ソフトウェア団体は「非常に狭い見識に
基づいたもの」というコメントを発表し、教授の元には多くの嫌がらせも殺到したという(NEWS
 WEB JAPANの記事より)。
(はやし浩司 ゲーム ゲームの功罪 ゲーム脳 ゲームの危険性)

++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

●ゲーム脳(2)

【M君、小3のケース】

 M君の姉(小5)が、ある日、こう言った。「うちの弟、夜中でも、起きて、ゲームをしている!」
と。

 M君の姉とM君(小3)は、同じ部屋で寝ている。二段ベッドになっていて、上が、姉。下が、
M君。そのM君が、「真夜中に、ガバッと起きて、ゲームを始める。そのまま朝まで、しているこ
ともある」(姉の言葉)と。

 M君には、特異な症状が見られた。

 祖父が、その少し前、なくなった。その通夜の席でのこと。M君は、たくさん集まった親類の人
たちの間で、ギャーギャーと笑い声で、はしゃいでいたという。「まるで、パーティでもしているか
のようだった」(姉の言葉)と。

 祖父は、人一倍、M君をかわいがっていた。その祖父がなくなったのだから、M君は、さみし
がっても、よいはず。しかし、「はしゃいでいた」と。

 私はその話を聞いて、M君はM君なりに、悲しさをごまかしていたのだろうと思った。しかし別
の事件が、そのすぐあとに起きた。

 M君が、近くの家の庭に勝手に入り込み、その家で飼っていた犬に、腕をかまれて、大けが
をしたというのだ。その家の人の話では、「庭には人が入れないように、柵がしてあったのです
が、M君は、その柵の下から、庭へもぐりこんだようです」とのこと。

 こうした一連の行為の原因が、すべてゲームにあるとは思わないが、しかしないとも、言い切
れない。こんなことがあった。

 M君の姉から、真夜中にゲームをしているという話を聞いた母親が、M君から、ゲームを取り
あげてしまった。その直後のこと。M君は狂ったように、家の中で暴れ、最後は、自分の頭をガ
ラス戸にぶつけ、そのガラス戸を割ってしまったという。

 もちろんM君も、額と頬を切り、病院で、10針前後も、縫ってもらうほどのけがをしたという。
そのあまりの異常さに気づいて、しばらくしてから、M君の母親が、私のところに相談にやって
きた。

 私は、日曜日にときどき、M君を教えるという形で、M君を観察させてもらうことにした。その
ときもまだ、腕や顔に、生々しい、傷のあとが、のこっていた。

 そのM君には、いくつかの特徴が見られた。

(1)まるで脳の中の情報が、乱舞しているかのように、話している話題が、めまぐるしく変化し
た。時計の話をしていたかと思うと、突然、カレンダーの話になるなど。

(2)感情の起伏がはげしく、突然、落ちこんだかと思うと、パッと元気になって、ギャーと騒ぐ。
イスをゴトゴト動かしたり、机を意味もなく、バタンとたたいて見せたりする。

(3)頭の回転ははやい。しばらくぼんやりとしていたかと思うと、あっという間に、計算問題(割
り算)をすませてしまう。そして「終わったから、帰る」などと言って、あと片づけを始める。

(4)もちろんゲームの話になると、目の色が変わる。彼がそのとき夢中になっていたのは、N
社のGボーイというゲームである。そのゲーム機器を手にしたとたん、顔つきが能面のように無
表情になる。ゲームをしている間は、目がトロンとし、死んだ、魚の目のようになる。

 M君の姉の話では、ひとたびゲームを始めると、そのままの状態で、2〜3時間はつづける
そうである。長いときは、5時間とか、6時間もしているという。(同じころ、12時間もゲームをし
ていたという中学生の話を聞いたことがある。)

 以前、「脳が乱舞する子ども」という原稿を書いた(中日新聞発表済み)。それをここに紹介す
る。もう4、5年前に書いた原稿だが、状況は改善されるどころか、悪化している。

++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

子どもの脳が乱舞するとき

●収拾がつかなくなる子ども

 「先生は、サダコかな? それともサカナ! サカナは臭い。それにコワイ、コワイ……、あ
あ、水だ、水。冷たいぞ。おいしい焼肉だ。鉛筆で刺して、焼いて食べる……」と、話がポンポ
ンと飛ぶ。頭の回転だけは、やたらと速い。まるで頭の中で、イメージが乱舞しているかのよ
う。動作も一貫性がない。騒々しい。

ひょうきん。鉛筆を口にくわえて歩き回ったかと思うと、突然神妙な顔をして、直立! そしてそ
のままの姿勢で、バタリと倒れる。ゲラゲラと大声で笑う。その間に感情も激しく変化する。目
が回るなんていうものではない。まともに接していると、こちらの頭のほうがヘンになる。

 多動性はあるものの、強く制止すれば、一応の「抑え」はきく。小学2、3年になると、症状が
急速に収まってくる。集中力もないわけではない。気が向くと、黙々と作業をする。30年前には
このタイプの子どもは、まだ少なかった。が、ここ10年、急速にふえた。小1児で、10人に2人
はいる。今、学級崩壊が問題になっているが、実際このタイプの子どもが、一クラスに数人もい
ると、それだけで学級運営は難しくなる。あちらを抑えればこちらが騒ぐ。こちらを抑えればあ
ちらが騒ぐ。そんな感じになる。

●崩壊する学級

 「学級指導の困難に直面した経験があるか」との質問に対して、「よくあった」「あった」と答え
た先生が、66%もいる(98年、大阪教育大学秋葉英則氏調査)。

「指導の疲れから、病欠、休職している同僚がいるか」という質問については、15%が、「1名
以上いる」と回答している。そして「授業が始まっても、すぐにノートや教科書を出さない」子ども
については、90%以上の先生が、経験している。ほかに「弱いものをいじめる」(75%)、「友
だちをたたく」(66%)などの友だちへの攻撃、「授業中、立ち歩く」(66%)、「配布物を破った
り捨てたりする」(52%)などの授業そのものに対する反発もみられるという(同、調査)。

●「荒れ」から「新しい荒れ」へ

 昔は「荒れ」というと、中学生や高校生の不良生徒たちの攻撃的な行動をいったが、それが
最近では、低年齢化すると同時に、様子が変わってきた。

「新しい荒れ」とい言葉を使う人もいる。ごくふつうの、それまで何ともなかった子どもが、突然、
キレ、攻撃行為に出るなど。多くの教師はこうした子どもたちの変化にとまどい、「子どもがわ
からなくなった」とこぼす。

日教組が98年に調査したところによると、「子どもたちが理解しにくい。常識や価値観の差を
感ずる」というのが、20%近くもあり、以下、「家庭環境や社会の変化により指導が難しい」(1
4%)、「子どもたちが自己中心的、耐性がない、自制できない」(10%)と続く。そしてその結果
として、「教職でのストレスを非常に感ずる先生が、8%、「かなり感ずる」「やや感ずる」という
先生が、60%(同調査)もいるそうだ。

●原因の一つはイメージ文化?

 こうした学級が崩壊する原因の一つとして、(あくまでも、一つだが……)、私はテレビやゲー
ムをあげる。「荒れる」というだけでは、どうも説明がつかない。家庭にしても、昔のような崩壊
家庭は少なくなった。

むしろここにあげたように、ごくふつうの、そこそこに恵まれた家庭の子どもが、意味もなく突発
的に騒いだり暴れたりする。そして同じような現象が、日本だけではなく、アメリカでも起きてい
る。実際、このタイプの子どもを調べてみると、ほぼ例外なく、乳幼児期に、ごく日常的にテレビ
やゲームづけになっていたのがわかる。ある母親はこう言った。

「テレビを見ているときだけ、静かでした」と。「ゲームをしているときは、話しかけても返事もし
ませんでした」と言った母親もいた。たとえば最近のアニメは、幼児向けにせよ、動きが速い。
速すぎる。しかもその間に、ひっきりなしにコマーシャルが入る。ゲームもそうだ。動きが速い。
速すぎる。

●ゲームは右脳ばかり刺激する

 こうした刺激を日常的に与えて、子どもの脳が影響を受けないはずがない。もう少しわかりや
すく言えば、子どもはイメージの世界ばかりが刺激され、静かにものを考えられなくなる。その
証拠(?)に、このタイプの子どもは、ゆっくりとした調子の紙芝居などを、静かに聞くことができ
ない。

浦島太郎の紙芝居をしてみせても、「カメの顔に花が咲いている!」とか、「竜宮城に魚が、お
しっこをしている」などと、そのつど勝手なことをしゃべる。一見、発想はおもしろいが、直感的
で論理性がない。ちなみにイメージや創造力をつかさどるのは、右脳。分析や論理をつかさど
るのは、左脳である(R・W・スペリー)。

テレビやゲームは、その右脳ばかりを刺激する。こうした今まで人間が経験したことがない新し
い刺激が、子どもの脳に大きな影響を与えていることはじゅうぶん考えられる。その一つが、こ
こにあげた「脳が乱舞する子ども」ということになる。

 学級崩壊についていろいろ言われているが、一つの仮説として、私はイメージ文化の悪弊を
あげる。

(付記)
●ふえる学級崩壊

 学級崩壊については減るどころか、近年、ふえる傾向にある。99年1月になされた日教組と
全日本教職員組合の教育研究全国大会では、学級崩壊の深刻な実情が数多く報告されてい
る。「変ぼうする子どもたちを前に、神経をすり減らす教師たちの生々しい告白は、北海道や
東北など各地から寄せられ、学級崩壊が大都市だけの問題ではないことが浮き彫りにされた」
(中日新聞)と。「もはや教師が一人で抱え込めないほどすそ野は広がっている」とも。

 北海道のある地方都市で、小学一年生70名について調査したところ、
 授業中おしゃべりをして教師の話が聞けない……19人
 教師の指示を行動に移せない       ……17人
 何も言わず教室の外に出て行く       ……9人、など(同大会)。

●心を病む教師たち

 こうした現状の中で、心を病む教師も少なくない。東京都の調べによると、東京都に在籍する
約6万人の教職員のうち、新規に病気休職した人は、93年度から4年間は毎年210人から2
20人程度で推移していたが、97年度は、261人。さらに98年度は355人にふえていること
がわかった(東京都教育委員会調べ・99年)。

この病気休職者のうち、精神系疾患者は。93年度から増加傾向にあることがわかり、96年
度に一時減ったものの、97年度は急増し、135人になったという。

この数字は全休職者の約五二%にあたる。(全国データでは、97年度は休職者が4171人
で、精神系疾患者は、1619人。)さらにその精神系疾患者の内訳を調べてみると、うつ病、う
つ状態が約半数をしめていたという。原因としては、「同僚や生徒、その保護者などの対人関
係のストレスによるものが大きい」(東京都教育委員会)ということである。

●その対策

 現在全国の21自治体では、学級崩壊が問題化している小学1年クラスについて、クラスを1
クラス30人程度まで少人数化したり、担任以外にも補助教員を置くなどの対策をとっている
(共同通信社まとめ)。

また小学6年で、教科担任制を試行する自治体もある。具体的には、小学1、2年について、
新潟県と秋田県がいずれも1クラスを30人に、香川県では40人いるクラスを、2人担任制に
し、今後5年間でこの上限を36人まで引きさげる予定だという。

福島、群馬、静岡、島根の各県などでは、小1でクラスが30〜36人のばあいでも、もう1人教
員を配置している。さらに山口県は、「中学への円滑な接続を図る」として、一部の小学校で
は、6年に、国語、算数、理科、社会の四教科に、教科担任制を試験的に導入している。大分
県では、中学1年と3年の英語の授業を、1クラス20人程度で実施している(01年度調べ)。
(はやし浩司 キレる子供 子ども 新しい荒れ 学級崩壊 心を病む教師)


++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

●失行

 近年、「失行」という言葉が、よく聞かれるようになった。96年に、ドイツのシュルツという医師
が使い始めた言葉だという。

 失行というのは、本人が、わかっているのに、できない状態をいう。たとえば風呂から出たと
き、パジャマに着がえなさいと、だれかが言ったとする。本人も、「風呂から出たら、パジャマに
着がえなければならない」と、理解している。しかし風呂から出ると、手当たり次第に、そこらに
ある衣服を身につけてしまう。

 原因は、脳のどこかに何らかのダメージがあるためとされる。

 それはさておき、人間が何かの行動をするとき、脳から、同時に別々の信号が発せられると
いう。行動命令と抑制命令である。

 たとえば腕を上下させるときも、腕を上下させろという命令と、その動きを抑制する命令の二
つが、同時に発せられる。

 だから人間は、(あらゆる動物も)、スムーズな行動(=運動行為)ができる。行動命令だけだ
と、まるでカミソリでスパスパとものを切るような動きになる。抑制命令が強すぎると、行動その
ものが、鈍くなり、動作も緩慢になる。

 精神状態も、同じように考えられないだろうか。

 たとえば何かのことで、カッと頭に血がのぼるようなときがある。激怒した状態を思い浮かべ
ればよい。

 そのとき、同時に、「怒るな」という命令も、働く。激怒するのを、精神の行動命令とするなら、
「怒るな」と命令するのは、精神の抑制命令ということになる。

 この「失行」についても、精神の行動命令と、抑制命令という考え方を当てはめると、それなり
に、よく理解できる。

 たとえば母親が、子どもに向かって、「テーブルの上のお菓子は、食べてはだめ」「それは、こ
れから来る、お客さんのためのもの」と話したとする。

 そのとき子どもは、「わかった」と言って、その場を去る。が、母親の姿が見えなくなったとた
ん、子どもは、テーブルのところへもどってきて、その菓子を食べてしまう。

 それを知って、母親は、子どもを、こう叱る。「どうして、食べたの! 食べてはだめと言った
でしょ!」と。

 このとき、子どもは、頭の中では「食べてはだめ」ということを理解していた。しかし精神の抑
制命令が弱く、精神の行動命令を、抑制することができなかった。だから子どもは、菓子を食
べてしまった。

 ……実は、こうした精神のコントロールをしているのが、前頭連合野と言われている。そして
この前頭連合野の働きが、何らかの損傷を受けると、その人は、自分で自分を管理できなくな
ってしまう。いわゆるここでいう「失行」という現象が、起きる。

 前述のWEB NEWSの記事によれば、「(前頭連合野は)記憶、感情、集団でのコミュニケ
ーション、創造性、学習、そして感情の制御や、犯罪の抑制をも司る部分」とある。

 どれ一つをとっても、良好な人間関係を維持するためには、不可欠な働きばかりである。一
説によれば、ゲーム脳の子どもの脳は、この前頭連合野が、「スカスカの状態」になっているそ
うである。

 言うまでもなく、脳には、そのときどきの発達の段階で、「適齢期」というものがある。その適
齢期に、それ相当の、それにふさわしい発達をしておかないと、あとで補充したり、修正したり
するということができなくなる。

 ここにあげた、感情のコントロール、集団におけるコミュニケーション、創造性な学習能力と
いったものも、ある時期、適切な指導があってはじめて、子どもは、身につけることができる。
その時期に、ゲーム脳に示されるように、脳の中でもある特異な部分だけが、異常に刺激され
ることによって、脳のほかの部分の発達が阻害されるであろうことは、門外漢の私にさえ、容
易に推察できる。

 それが「スカスカの脳」ということになる。

 これから先も、この「ゲーム脳」については、注目していきたい。

(補記)大脳生理学の研究に先行して、教育の世界では、現象として、子どもの問題を、先にと
らえることは、よくある。

 たとえば現在よく話題になる、AD・HD児についても、そういった症状をもつ子どもは、すでに
40〜50年前から、指摘されていた。私も、幼児に接するようになって36年になるが、36年前
の私でさえ、そういった症状をもった子どもを、ほかの子どもたちと区別することができた。

 当時は、もちろん、AD・HD児という言葉はなかった。診断基準もなかった。だから、「活発型
の遅進児」とか、「多動性のある子ども」とか、そう呼んでいた。「多動児」という言葉が、雑誌な
どに現れるようになったのは、私が30歳前後のことだから、今から、約30年前ということにな
る。

 ゲーム脳についても、最近は、ポジトロンCT(陽電子放射断層撮影)や、ファンクショナルM
RI(機能的磁気共鳴映像)いう脳の活性度を映像化する装置などの進歩により、脳の活動そ
のものを知ることによって、その正体が、明らかにされつつある。

 しかし現象としては、今に始まったことではない。私が書いた、「脳が乱舞する子ども」という
のは、そういう特異な現象をとりあげた記事である。
(はやし浩司 脳が乱舞する子ども 子供 ゲーム脳 前頭連合野 管理能力 脳に損傷のあ
る子ども 子供 失行 ドイツ シュルツ 医師 行動命令 抑制命令 はやし浩司)

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

●メチル水銀

 マグロの食べ過ぎは、妊婦というか、胎児に悪影響を与えるという。

 TBSのi−NEWSは、つぎのように、伝える。

「バチマグロやクロムツなど16種の魚介類について、これを食べ過ぎると含まれているメチル
水銀が、胎児に影響を与える場合があるとして、厚生労働省は妊娠中の女性ための新たな呼
びかけをまとめた」と。

 今度は、メチル水銀! しかもマグロに! 

 私はマグロのような魚は、食品としても、もっとも安全な食べ物とばかり、思っていた。しかし
それも危険ということになると……。

 どうして、こうまで、つぎからつぎへと、いろいろな問題が起きてくるのだろう。しかも、メチル
水銀とは? 私もメチルアルコールや、メチルエーテルのことは知っているが、メチル水銀のこ
とは知らない。

 そこでグーグルの検索機能を使って調べてみると、それを指摘しているのが、厚生労働省医
薬局食品保険部・食品衛生審議会食品衛生分科会乳肉水産食品・毒性合同部会であること
がわかった。

 長い! ものすごい長い名前! その最後のところに「毒性合同部会」とある。つまり「メチル
水銀は、毒性をもっている」ということになる。しかしなぜ、そのメチル水銀が、マグロの体の中
に入るのか。あるいは、どのような毒性をもっているかなどについては、書いてない。

 要するに、あの水俣病の原因になったのが、メチル水銀と思えばよいということか。同・合同
部会のQ&Aコーナーでは、つぎのように説明している。

 「自然界に存在する水銀を食物連鎖の過程で、体内に蓄積するため、特定の地域等にかか
わりなく、一部の魚介類等については水銀濃度が他の魚介類と比較して、高いものも見受けら
れます。このため、水銀による胎児への悪影響を防ぐ観点から、妊婦等については魚介類等
を通じた水銀の摂取に、一定の注意が必要と考えられます」と。

 つまりメチル水銀が蓄積するのは、人為的なものではなく、「自然界の食物連鎖のよるもの」
と。

 もしそうなら、太古の昔から、マグロは、危険な魚だったということになる。しかし実際には、
同・合同部会も認めているように、魚介類の中に含まれるメチル水銀は、年々、ふえている。
「ただ今回は、国際的な、許容基準が引き上げられたので、危険ということになった」(要約)と
いうことらしい。

 これから先も、こうした問題は、つぎからつぎへと、起きてくるだろう。やがて主食の米もあぶ
ない、パンもあぶない、水もあぶない……と、そんな状況になるかもしれない。

 みなさん、今から、覚悟しておこう!
(はやし浩司 メチル水銀 水俣病 退治への影響)


++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

●何でもかんでも、反日運動! 

 何をしても、また何もしなくても、すべて反日。韓国の新聞記事を読んでいると、どうしてこうま
で、毎日、毎日、反日キャンペーンを繰りひろげているのか、私には理解できない。

 たとえば今日(8月14日)も、こうだ。

『元韓国人徴用工への手当 日本政府、60年前の額面で支給』(東亜N報)と。

 つまり元韓国人の徴用工が、日本政府に、未払い分の手当てを請求したところ、60年前の
額面で支給したというのだ。いわく、

 『第2次世界大戦当時、日本に徴用され酷使された韓国人元徴用工らが、厚生年金の脱退
手当金を請求したところ、日本政府が、60年前の額面通りの脱退手当金を支給したことがわ
かった。 
12日付の朝日新聞によると、1943年、新日鉄の前身にあたる旧日本製鉄の大阪製鉄所で
起重機操作係として働いていたという、ソウル在住のY氏(82)には、昨年11月、日本の社会
保険庁から、「脱退手当金316円を振り込んだ」とする通知が届いた。Y氏は、「独立当時なら
牛が6頭買えた額。今ではうどん1食分にしかならない」と憤慨した』と。

 要するに、「韓国人をバカにするな」という記事である。この記事を読んだら、韓国人なら、怒
るだろう。怒って、当然。それはよくわかるが、では、なぜ、今ごろY氏が、厚生年金の脱退手
当金を請求したのかということについては、一言も触れられていない。

 しかも316円は、賃金ではなく、手当てである。しかもその事実があったのは、昨年の11
月。それから、すでに、9か月もたっている。つまりこうして、韓国の新聞は、韓国内に、反日感
情をもりあげていく。

 もうウンザリというか、毎日、毎日、重箱の底をほじくりかえすような記事ばかり。N政権にな
ってから、それがとくに顕著になった。ものの考え方が、完全にうしろ向き。戦後、日本が、過
去の植民地支配時代を補償するため、いかに莫大な補償金を支払い、それを当時の韓国政
府が、いかに使ったなどという事実は、すべて伏せられたまま。

 わかりやすく言えば、日本が支払った補償金のほとんどを、当時の韓国政府は、国民には分
配せず、国家再建に使用した。その結果、「漢江の奇跡」と呼ばれる経済復興が起こり、今の
韓国の基盤ができあがった。

 今回の記事でも、こうした記事を書く前に、東亜N報は、「手当て」の内容を、よく調べるべき
ではなかったのか。しかも、その請求権は、60年も、放置されていた!

 日本の民法によれば、売り掛け金などによる債権の消滅時効は、2年。一般の貸し金による
債権の消滅時効にしても、10年である。さらに、こんな話も、ある。

 今から、30年近くも前の話だが、こんなことがあった。私の記憶によるものなので、内容は、
不正確かもしれない。が、おおむね、こんな内容である。

 戦時中、日本政府は、外国で、兌換紙幣(だかんしへい)というものを、発行した。兌換紙幣
というのは「いつか、正式の紙幣と交換します」という、つまりは仮の紙幣をいう。戦時中の混
乱期には、紙幣の発行もままならなかった。

 で、その兌換紙幣が、戦後、紙くず同然になってしまった。

 が、当時、つまり30年ほど前に、香港へ行くと、その兌換紙幣を、猛烈な勢いで買い集めて
いるブローカーたちがいた。それこそ紙くず同然になった兌換紙幣を、二束三文で買い集めて
いた。しかも、新聞広告まで出して、買い集めていた。

 理由は、すぐわかった。

 そのブローカーたちは、兌換紙幣を集めるだけ集めると、今度は、当時の日本政府に、兌換
紙幣の換金を求めるキャンペーンを始めた。しかも、戦時中のレートではなく、その当時のレ
ート(戦後30年も経てからのレート)で補償するように求めた。

 私は、そのころ、毎週のように日本と香港の間を行き来していたので、そのあたりの(動き)
をよく知っている。

 で、その抗議団が、日本まで押しかけてきた。涙まで流して、「換金してほしい」と訴えた。そ
れがすべて演技だったとは言わないが、しかし当時は、香港でも、かなりリッチな人でなけれ
ば、日本へは来られなかったはず。そのときの様子は、連日、新聞などでも報道されたので、
記憶に残っている人も多いと思う。

 そこで日本政府が出した結論は、「兌換紙幣を、現在のレートで補償する」だった。つまり兌
換紙幣を買い集めた、ブローカーたちは、ばく大な補償金を手にすることができた。(たしか、
ブローカーたちは、買い集めた値段の数千倍の値段で、日本政府に、それを買い取らせたの
ではなかったか……。よく覚えていないが……。)私はそれを知ったとき、「日本政府は、何と、
マヌケなのだろう」と思った。

 もちろん中には、善良な中国人もいただろうと思う。本当に困って、兌換紙幣を補償してほし
いと訴えた人もいただろうと思う。しかしそのときですら、戦後、すでに30年近く、たっていた。

 つまりもし、ここで日本政府が、そのY氏(82)に、現在のレートに換算して、つまり牛が6頭
買えるだけの金額を支払ったとしたら、どうなる? 60年もたってから……。恐らく、「我も、我
も……」と、日本政府に押しかける人が続出して、それこそ収拾がつかなくなってしまうだろう。

 同じ日本人がしたことだから、日本人も、反省すべき点は、反省しなければならない。それは
よくわかっている。しかし何もかも、その裏も考えないで、反日運動に結びつけてしまうのは、ど
うか? 報道機関として、それがあるべき姿勢なのか?

 私は、かつてUNESCOの交換学生として韓国に渡った。帰国後は、大の韓国びいきとして、
それなりの活動もしてきた。とくに金大中氏の拉致事件のときは、連日、韓国大使館に電報を
打ったり、電話をかけたりした。手紙も書いた。

しかし今、私の心境は、大きく変化した。数年おきに同窓会なるものもあるが、ここ20年、出た
こともない。出たくもない。好きか嫌いかと言われれば、今の私は、個人的には、K国も、韓国
も、好きではない。とても、残念なことだが……。
(050814記)


++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司


最前線の子育て論byはやし浩司(833)

●マインドコントロール

 心、つまり感情と思想を操作する……それがマインドコントロール。そのマインドコントロール
のこわいところは、その人の脳のCPU(中枢部分)に影響を与えるため、コントロールされなが
らも、その人自身は、それに気づかないところにある。

 さらにそのコントロールを解除しようとするためには、高度な知識と、高度な技法が必要とな
るということ。

 が、ふつう、コントロールから解除されると、その人自身が、かえって混乱状態におちいること
が多い。

 たとえばある人を、カルト教団から抜けさせたとする。が、そのあと、その人は、たいていの
ばあい、極度の精神不安状態になる。見るからに、ふつうでない状態になる。

 そのため、その人は、ふとしたきっかけで、またもとの教団にもどったり、同じような別の教団
に入信したりする。あるいは、頭の中では、「この教団はおかしい」と思っていても、極度の精
神不安状態になるのがこわくて、そのまま教団に残るケースも少なくない。

 ほとんどのカルト教団では、このマインドコントロールを、たくみに応用して、信者の心を操
(あやつ)る。方法としては、

(1)隔離……たいていは外の世界からの情報を遮断するため、隔離された場所で行う。
(2)反復……同じ文句を何度も繰りかえさせたりして、思考能力を喪失させる。
(3)飢餓……食事などを制限し、軽い飢餓状態にしたり、睡眠不足状態にする。
(4)注入……周囲のものたちが、同じ思想を何度も繰りかえし、思想を注入する。

(Fさんのケース)

 Fさん(女性・35歳)は、その教団に、24歳のときに入信。10年近く、活動をしていたが、そ
の教団が、社会的事件を起こし、脱会。夫や、家族の強い説得もあった。

 しかし脱会したあと、Fさんは、重度の虚脱感に襲われ、「私は、地獄へ落ちる」と、おびえて
暮らすようになった。現在は、心療内科で処方された薬をのんで、少しずつだが、自分を取りも
どしつつある。

(Y氏のケース)

 Y氏(男性・33歳)。入信時は不明だが、やはり教団内のごたごたに巻きこまれ、そのまま脱
会。その教団の中では、活動派として、活躍していた。しかしマインドコントロールから抜け出す
ことができず、同じようにして脱会した仲間たちと、別の教団を設立。現在は、九州北部を拠点
にして、同じような宗教活動をしている。

(U氏のケース)

 U氏(男性・28歳)の父親は、富山県でも、よく知られた、ある部品メーカーの社長をしてい
る。U氏は、狂信的な信仰団体として知られた、仏教系のE会に入信。社員はもちろんのこと、
外部からやってくる客にまで、入信を勧誘するようになった。それを知った父親が、激怒。U氏
は、そのまま家出。

 現在は、そのK会の修行道場にこもりきりになり、実家には、この数年、帰っていない。

 夫にせよ、妻にせよ、家族のものが、カルト教団に入信したりすると、その家庭は、その段階
で、崩壊する。基本的な部分で、たがいの価値観が、相容れられなくなる。家庭内騒動、ある
いは家庭内宗教戦争へと発展することも少なくない。

 ほとんどのケースでは、一度、その人がカルト教団に入信すると、その信仰に、(命をかけ
る)状態になる。そのため、信仰を、すべての価値に優先させるようになる。ある夫は、入信を
しぶる妻にこう言ったという。

 「この信仰を、オレといっしょにしないなら、離婚する。オレか、離婚か、どちらかを選べ」と。

 なお、このマインドコントロールと同じように使われる言葉に、「洗脳」という言葉がある。しか
し洗脳というのは、もともと、政治的思想を注入するために使われ始めた言葉で、宗教的洗脳
を意味する、マインドコントロールという言葉とは区別して考えるようになってきている。念のた
め。
(はやし浩司 マインドコントロール 洗脳 カルト)

(補足)

 学歴信仰も、カルトと考えてよい。ただふつうの信仰的意識とちがう点は、明治時代以来、国
策として、日本人の心の中に、しみこんでしまっていること。それだ代々、親から子へと引きつ
がれている。

 そのため、親子関係、さらには家族そのものを破壊しながらも、それに気づかない親は、多
い。子どもの受験勉強を、すべてのものに、優先させる。ある母親は、泣き叫んで勉強に抵抗
する子ども(小4)に向って、こう言ったという。

 「今は、わからないかもしれないけど、いつか、あんたも、私に感謝するときがくるのよ!」と。

 「いい学校(大学)へ入ったら、どうなのだ」という部分がないまま、子どもを受験勉強に駆りた
てても、意味がない。現在、確たる目的もないまま、大学へ入り、そのまま、宙ぶらりん(燃え尽
き、荷卸し、アパシー症候群)になってしまう子どもは、多い。大半がそうではないかと思われる
ほど、多い。

 が、その程度ですめば、まだよいほう。中には、精神そのものを病むようになる子どももい
る。

 受験勉強は、避けて通れない道かもしれないが、そんな危険性もあるということを知りなが
ら、子どもを指導することも大切。

(補足2)

 子どもの受験競争に狂奔する親は、一見、子どもを深く愛しているかのように見えるが、それ
は「愛」ではない。親自身の不安や心配を解消するための道具として、子どもを利用しているだ
け。

 そういう愛を、代償的愛という。いわば愛もどきの愛。ストーカー行為を繰りかえすような人が
口にする「愛」に、共通している。相手がいくら迷惑だと訴えても、それには耳を貸さない。「自
分こそが、相手を一番、愛している」「相手には、自分が必要」「いつか、相手も自分の愛の深
さに気づいてくれる」と、勝手に思いこむ。思いこんで、相手を、追いかけまわす。 

 親をして、子どもの受験競争に駆りたてる原動力となっているのが、ここでいう、学歴信仰と
いうことになる。
(はやし浩司 学歴信仰 代償的愛 子供の受験競争 子どもの受験競争)


++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

●右脳教育

++++++++++++++++++++++

右脳教育は、果たして安全なのでしょうか?
まだその安全性も、確認されていない段階で、
幼児の頭脳に応用する危険性。みなさんは、
それを、お考えになったことがありますか。

たった一晩で、あの百人一首を暗記してしま
った子ども(小学生)がいました。

しかしそんな能力を、本当にすばらしい能力
と安易に評価してよいのでしょうか。

ゲームづけになった子どもたち。幼いころか
らテレビづけになった子どもたち。今さら、
イメージ教育は必要ないと説く学者もいます。

それに右脳と左脳は、別々に機能しているわけ
ではありません。その間は、「交連繊維」と呼ば
れる神経線維で結ばれ、一番大きな回路である、
「脳梁(のうりょう)」は、2億本以上の繊維
でできています。

右脳と左脳は、これらの繊維をとおして、交互
に連絡を保ちながら、機能しています。

脳のしくみは、そんな単純なものではないよう
です。

そうそう、言い忘れましたが、一晩で百人一首
を暗記したのは、あの「少年A」です。

イメージの世界ばかりが極端にふくらんでしま
うと、どうなるか。そのこわさを、少年Aは、
私たちに教えてくれました。

++++++++++++++++++++++++

 アカデミックな学者の多くは、「右脳教育」なるものに、疑問を抱いています。渋谷昌三氏もそ
の1人で、著書「心理学」(西東社)の中で、こう書いています。

 「なにやら、右脳のほうが、多彩な機能をもっていて、右脳が発達している人のほうが、すぐ
れているといわんばかりです。

 一時巻き起こった、(現在でも信者は多いようですが)、「右脳ブーム」は、こういった理論から
生まれたのではないでしょうか。

 これらの説の中には、まったくウソとはいえないものもありますが、大半は科学的な根拠のあ
るものとは言えません」(同書、P33)。

++++++++++++++++++++++++++

●右脳教育への警鐘

 論理的な思考力をなくす子どもたち。ものの考え方が直感的で飛躍的。今、静かにものを考
えられる子どもが、少なくなってきています。

 そうした危惧感を覚えながら書いたのが、つぎの原稿です(中日新聞発表済み)。

+++++++++++++++++++++

親が右脳教育を信奉するとき

●左脳と右脳

 左脳は言語をつかさどり、右脳はイメージをつかさどる(R・W・スペリー)。その右脳をきたえ
ると、たとえば次のようなことができるようになるという(七田眞氏)。

(1)インスピレーション、ひらめき、直感が鋭くなる(波動共振)、
(2)受け取った情報を映像に変えたり、思いどおりの映像を心に描くことができる(直観像
化)、
(3)見たものを映像的に、しかも瞬時に記憶することができる(フォトコピー化)、
(4)計算力が速くなり、高度な計算を瞬時にできる(高速自動処理)など。こうした事例は、現
場でもしばしば経験する。

●こだわりは能力ではない

たとえば暗算が得意な子どもがいる。頭の中に仮想のそろばんを思い浮かべ、そのそろばん
を使って、瞬時に複雑な計算をしてしまう。あるいは速読の得意な子どもがいる。読むというよ
りは、文字の上をななめに目を走らせているだけ。それだけで本の内容を理解してしまう。

しかし現場では、それがたとえ神業に近いものであっても、「神童」というのは認めない。もう少
しわかりやすい例で言えば、一〇〇種類近い自動車の、その一部を見ただけでメーカーや車
種を言い当てたとしても、それを能力とは認めない。「こだわり」とみる。

たとえば自閉症の子どもがいる。このタイプの子どもは、ある特殊な分野に、ふつうでないこだ
わりを見せることが知られている。全国の電車の発車時刻を暗記したり、音楽の最初の一小
節を聞いただけで、その音楽の題名を言い当てたりするなど。つまりこうしたこだわりが強けれ
ば強いほど、むしろ心のどこかに、別の問題が潜んでいるとみる。

●論理や分析をつかさどるのは左脳

 そこで右脳教育を信奉する人たちは、有名な科学者や芸術家の名前を出し、そうした成果の
陰には、発達した右脳があったと説く。しかしこうした科学者や芸術家ほど、一方で、変人とい
うイメージも強い。つまりふつうでないこだわりが、その人をして、並はずれた人物にしたと考え
られなくもない。

 言いかえると、右脳が創造性やイメージの世界を支配するとしても、右脳型人間が、あるべ
き人間の理想像ということにはならない。むしろゆっくりと言葉を積み重ねながら(論理)、他人
の心を静かに思いやること(分析)ができる子どものほうが、望ましい子どもということになる。
その論理や分析をつかさどるのは、右脳ではなく、左脳である。

●右脳教育は慎重に

 右脳教育が脳のシステムの完成したおとなには、有効な方法であることは、私も認める。し
かしだからといって、それを脳のシステムが未発達な子どもに応用するのは、慎重でなければ
ならない。脳にはその年齢に応じた発達段階があり、その段階を経て、論理や分析を学ぶ。右
脳ばかりを刺激すればどうなるか? 一つの例として、神戸でおきた『淳君殺害事件』をあげる
研究家がいる(福岡T氏ほか)。

●少年Aは直観像素質者

 あの事件を引き起こした少年Aの母親は、こんな手記を残している。いわく、「(息子は)画数
の多い難しい漢字も、一度見ただけですぐ書けました」「百人一首を一晩で覚えたら、五〇〇
〇円やると言ったら、本当に一晩で百人一首を暗記して、いい成績を取ったこともあります」
(「少年A、この子を生んで」文藝春秋)と。

 少年Aは、イメージの世界ばかりが異常にふくらみ、結果として、「幻想や空想と現実の区別
がつかなくなってしまった」(同書)ようだ。

その少年Aについて、鑑定した専門家は、「(少年Aは)直観像素質者(一瞬見た映像をまるで
目の前にあるかのように、鮮明に思い出すことができる能力のある人)であって、(それがこの
非行の)一因子を構成している」(同書)という結論をくだしている。

 要はバランスの問題。左脳教育であるにせよ右脳教育であるにせよ、バランスが大切。子ど
もに与える教育は、いつもそのバランスを考えながらする。

++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

●才能とこだわり

 自閉症の子どもが、ふつうでない「こだわり」を見せることは、よく知られている。たとえば列
車の時刻表を暗記したり、全国の駅名をソラで言うなど。車のほんの一部を見ただけで、車種
からメーカーまで言い当てた子どももいた。クラッシック音楽の、最初の一小節を聞いただけ
で、曲名と作曲者を言い当てた子どももいた。

 こうした「こだわり」は、才能なのか。それとも才能ではないのか。一般論としては、教育の世
界では、たとえそれが並はずれた「力」であっても、こうした特異な「力」は、才能とは認めない。
たとえば瞬時に、難解な計算ができる。あるいは、20ケタの数字を暗記できるなど。あるいは
一回、サーッと曲を聞いただけで、それをそっくりそのまま、ピアノで演奏できた子どももいた。
まさに神業(わざ)的な「力」ということになるが、やはり「才能」とは認めない。「こだわり」とみ
る。

 たとえばよく知られた例としては、少し前、話題になった子どもに、「少年A」がいる。あの「淳
君殺害事件」を起こした少年である。彼は精神鑑定の結果、「直観像素質者※」と鑑定されて
いる。直観像素質者というのは、瞬間見ただけで、見たものをそのまま脳裏に焼きつけてしま
うことができる子どもをいう。

少年Aも、一晩で百人一首を暗記できたと、少年Aの母親は、本の中で書いている(「少年A、
この子を生んで」文藝春秋)。そういう特異な「力」が、あの悲惨な事件を引き起こす遠因になっ
たとされる。

 と、なると、改めて才能とは何かということになる。ひとつの条件として、子ども自身が、その
「力」を、意識しているかどうかということがある。たとえば練習に練習を重ねて、サッカーの技
術をみがくというのは才能だが、列車の時刻表を見ただけで、それを暗記できてしまうというの
は、才能ではない。

 つぎに、才能というのは、人格のほかの部分とバランスがとれていなければならない。まさに
それだけしかできないというのであれば、それは才能ではない。たとえば豊かな知性、感性、
理性、経験が背景にあって、その上ですばらしい曲を作曲できるのは、才能だが、まだそうし
た背景のない子どもが、一回聞いただけで、その曲が演奏できるというのは、才能ではない。
 
 脳というのは、ともすれば欠陥だらけの症状を示すが、同じように、ともすれば、並はずれ
た、「とんでもない力」を示すこともある。私も、こうした「とんでもない力」を、しばしば経験してい
る。印象に残っている子どもに、S君(中学生)がいた。

ここに書いた、「クラッシック音楽の、最初の一小節を聞いただけで、曲名と作曲者を言い当て
た子ども」というのが、その子どもだが、一方で、金銭感覚がまったくなかった。ある程度の計
算はできたが、「得をした」「損をした」「増えた」「減った」ということが、まったく理解できなかっ
た。

1000円と2000円のどちらが多いかと聞いても、それがわからなかった。1000円程度のも
のを、200円くらいのものと交換しても、損をしたという意識そのものがなかった。母親は、S
君の特殊な能力(?)ばかりをほめ、「うちの子は、もっとできるはず」とがんばったが、しかしそ
れはS君の「力」ではなかった。

 教育の世界で「才能」というときは、当然のことながら、教育とかみあわなければならない。
「かみあう」というのは、それ自体が、教育できるものでなければならないということ。「教育する
ことによって、伸ばすことができること」を、才能という。が、それだけでは足りない。その方法
が、ほかの子どもにも、同じように応用できなければならない。またそれができるから、教育と
いう。つまりその子どもしかできないような、特異な「力」は、才能ではない。

 こう書くと、こだわりをもちつつ、懸命にがんばっている子どもを否定しているようにとらえられ
るかもしれないが、それは誤解である。多かれ少なかれ、私たちは、ものごとにこだわること
で、さらに自分の才能を伸ばすことができる。

現に今、私は電子マガジンを、ほとんど2日おきに出版している。毎日そのために、数時間。
土日には、4、5時間を費やしている。その原動力となっているのは、実は、ここでいう「こだわ
り」かもしれない。

時刻表を覚えたり、音楽の一小節を聞いただけで曲名を当てるというのは、あまり役にたたな
い「こだわり」ということになる。が、中には、そうした「こだわり」が花を咲かせ、みごとな才能と
なって、世界的に評価されるようになった人もいる。あるいはひょっとしたら、私たちが今、名前
を知っている多くの作曲家も、幼少年時代、そういう「こだわり」をもった子どもだったかもしれ
ない。そういう意味では、「こだわり」を、頭から否定することもできない。
(02―11−27)※
(はやし浩司 右脳教育 右脳教育への疑問 こだわり 少年A イメージが乱舞する子ども 
子供 才能とこだわり 思考のバランス)


++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

最前線の子育て論byはやし浩司(834)

●自尊感情

 2つの中学校がある。一流校と呼ばれるS中学校と、二流校と呼ばれるC中学校である。そ
の町には、2つの中学校しかない。

 そこでX君(小6)は、今、究極の選択に迫られている。

 一流校と言われるS中学校に入学して、ビリの座に甘んじるか、それともニ流校と呼ばれるC
中学校に入学して、トップの座を維持するか。

 ……というのは、極端な例で、実際には、こういうケースはありえない。X君の能力にしても、
決して、一元的なものではない。英語と社会は得意だが、数学は苦手。しかしスポーツには自
信がある。

 しかしこれに似た選択は、子どもの世界では、よく経験する。たとえば無理に無理を重ねて、
有名進学校のS中学校へは入ってみたものの、そのレベルには、ついていけず、毎日、悶々と
した気持ちで学校生活を過ごしている子どもは、少なくない。

 このタイプの子どもにとっては、「学校は、まさに監獄」(イギリスの格言)となる。が、何よりも
心配されるのは、勉強そのものよりも、自尊感情が、キズつけられるということ。2年とか、3年
とか、学校に通ううちに、自らに、「ダメ人間」のレッテルを張ってしまう。そしてことあるごとに、
「ぼくは、落ちこぼれ」を、口にするようになる。

 自尊感情……わかりやすく言えば、プライドをいう。自尊心ともいう。この自尊感情には、大
きく分けて、2つの働きがある。

(1)自己の防衛と、(2)自己の高揚である。

 たとえば悪の道からの誘いがあっても、自尊感情をしっかりともっている子どもは、それを払
いのける。「私は、そういう低レベルのことはしない」という思いが、その子どもの心を守る。

 もう一つは、「私はすばらしい人間」と思うことが、前向きに生きる原動力となる。チャレンジ
精神も、そこから生まれてくる。

 が、自尊感情が強すぎるのも、決して好ましくない。あまりにも高い自己概念をもちすぎて、
現実の世界かた遊離してしまうこともある。が、子どものうちは、この自尊感情は、ないよりは、
あったほうがよい。多少自尊感情が強すぎるくらいのほうが、子どもはよく伸びる。

 そこで大切なことは、この自尊感情をつぶしてしまわないこと。とくに子どもの人格に触れるよ
うな、「核」攻撃は、タブー。「あなたは、ダメな子」「生まれてこなければよかった子」「何をやっ
ても、だめね」式の言い方は、子育てにおいては、タブー中のタブー。

 ただしほめるのは、この時期、やさしさと努力。その範囲でとどめる。頭については、慎重
に。ほめ過ぎるのもよくない。時とばあいをよく考えて、効果的にほめるとよい。
(はやし浩司 自尊感情 自尊心 プライド)


++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

●謎が解けた!

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なぜ、韓国のN大統領は、反日キャンペーンに
狂奔するのか?

なぜ、そうまで反日が、重要なのか?

その謎を解くカギが、N大統領自身の過去
にあった……。

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 なぜ、韓国のN大統領が、こうまで反日的であり、同時に親北的なのか? その秘密を解くカ
ギが、N大統領自身の過去にあった。

 少し前、私は、韓国系の新聞による、連日の反日キャンペーンについて、書いた。その中で、
韓国の新聞は、重箱の底をほじくり返すような記事ばかり書いていると、私は批判した。しかし
つぎの事実を知れば、日本の読者も、なぜそうなのか、その理由がわかるはず。

 これらの情報は、韓国の某公的団体の事務総長をしていた人物から、私の友人(日本人)を
経て、もたらされたものである。私がUNESCOの交換学生で、韓国へ渡ったとき、韓国側で、
私たちの世話人をしてくれた人でもある。

(1)N大統領の父親自身も、日本の植民地時代に、日本に徴用された経験がある。
(2)終戦後は、N大統領の父親は、韓国内の共産党の下働きをして、生計を立てていた。
(3)N大統領は、その共産党の顧問弁護士として、名をはせ、財力を身につけた。

 さらに筆者のもとには、驚くべき情報がもたらされている。今は、あくまでも、「?」の情報とし
てここに、書きとめておく。

(4)金大中氏は、日本とアメリカに亡命中に、K国の金xxから、資金援助を受けていた可能性
があるという。(情報を寄せてくれた人は、そう断言しているが……)
(5)前回、金大中氏が、K国の金xxと、P市で会談したおり、金大中氏は、金xxに、5億ドルの
食糧援助のほか、G財閥を通して、20億ドル相当の現金を渡した可能性があるという。(情報
を寄せてくれた人は、そう断言しているが……。)

 さらに……。

(6)南北朝鮮の統一を、日本は、恐れているが、それ以上に、恐れているのが、中国。
(7)そこで米中で、すでに話しあいが始まっていて、統一後は、朝鮮は、中国の支配下に置くこ
とで、米中は、合意している。(中国は、鴨緑江をはさんで、その向こうに、親米国家ができるこ
とを、何よりも、恐れている。)
(8)韓国内にあった、(反政府)地下組織は、すべて地上に出てきてしまっている。
(9)携帯電話の普及とともに、韓国国内の情報は、すべてK国に筒抜けになってしまってい
る。韓国の世界に名だたる、諜報活動は、すでに、有名無実化している。

 そしてここが、一番重要だが、

(10)N政権は、反日を旗印にあげないことには、政権の基盤を失うことになる、と。

 韓国と言えば、戦後、反共一辺倒でつき進んできた国である。その韓国が、K国に、資金援
助までしてきたとあっては、N政権は、その政権基盤そのものを失うことになる。だから、N政
権は、反共を、反日に置きかえねばならなかった、と。

 (1)〜(10)は、あくまでも、「?」の情報である。伝聞で得た情報である。しかし、もしここに
書いたことが事実であるとするなら、……というより、逆に、「そうだったのか!」と、納得するこ
とばかり。「そうだったからこそ、今のN政権は、連日、反日キャンペーンを展開している」と。

 ついでながら金大中氏は、P市での会談のあと、ノーベル平和賞を受賞している。かつて、日
本の佐藤栄作氏も、同じノーベル平和賞を受賞しているから、ノーベル賞といっても、平和賞に
ついては、その程度の(賞)と考えてよいのかもしれない。

 が、もしそうなら、つまり、20億ドルの裏金が事実とするなら、金大中氏は、ノーベル平和賞
を、金で買ったことになる。そう言われても、おかしくない。あくまでも、ここに書いたことが、事
実であるとするなら、という前提での話だが……。

 これら(1)〜(10)の事実は、すでに日本の外務省あたりは、把握しているのだろう。しかし
日韓関係にキレツを入れることを恐れて、公表しないでいるのかもしれない。

 ナルホド、そうだったのか! ……ということで、この話は、ここでおしまい。

 これじゃあ、いくら6か国協議を開いても、うまくいくはずがない。韓国イコール、K国と考えて
行動しないと、日本は、彼らが共同でしくんだワナに、まんまとはまることになる。

 日本よ、日本人よ、気をつけよう!

 なお、これらの情報を提供してくれた人物は、「だからといって、親日派ではない」(友人談)と
のこと。「日本のことを心配して、情報を提供してくれたのではなく、昔のよしみとして情報を提
供してくれた」ということか。

 これから先、N政権がつづくかぎり、韓国内では、反日運動は、さかんになるだろう。そこで日
本としては、そうした運動に動ずることなく、冷静に、事務的に、ことを運ぶしかない。

 N政権がどうであれ、日韓の間では、毎日、1万人もの人たちが行き来している。たがいの経
済活動も、さかんになってきている。ごくふつうの日本人が、韓国政府の動向に興味がないよう
に、ごくふつうの韓国人も、また、日本政府の動向に興味などない。

 政府が、国民を先導する時代は終わり、国民が、新しい国家をつくり、国と国の関係をつくっ
ていく。そういう時代になりつつある。またそういう時代にしなければならない。いつまでも過去
にこだわって、憎しみあっていても、しかたないではないか。戦後生まれの私ですら、今年、58
歳になる。

 戦争責任を問う側も、問われる側も、戦争そのものを、知らない。そういう時代になりつつあ
る。

【補記】

 これからの極東アジアは、つぎのようになると思う。

(1)南北朝鮮の相互の融和政策は、ますます加速する。金xxが死亡したあと、南北朝鮮は、
共和制を敷く。ただし、統一は、ずっと先。
(2)アメリカ軍は、やがてまもなく韓国から撤退する。韓国から、親米色は、ますます薄くなる。
かわって親中派が、韓国の大勢を占めるようになる。
(3)韓国は、やがて中国の経済圏に入る。その傾向を強める。(「明治維新以前の、中国と朝
鮮の関係になる」(友人談)ということか。)
(4)日本は、その反動として、親米色を強める。日米同盟は、さらに強固なものとなる。
(050815日記)

【追記】

 情報をもたらしてくれた、M君、ありがとう! これで謎が解けたというか、頭の中がスッキリ
しました。複雑なパズルを解いたあとのような気分です。


++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

【日本の将来】

++++++++++++++++++

衆議院は解散された。
さあ、選挙!

今度の選挙は、郵政民営化選挙だと、
K首相は言う。

「郵政三事業の民営化は、構造改革の
要(かなめ)である」(T財務長官)と。

構造改革というのは、行政改革をいう。
行政改革というのは、言うまでもなく、
1940年からつづいた、官僚体制の是正に
ある。

遅れに遅れた、行政改革。だが、やるしかない。
やらなければ、日本に未来は、ない。
日本は、今、その正念場を迎えつつある。
(050816記)

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●日本は官僚主義国家

 ほとんどの人は、日本は、民主主義国家だと思っている。世界に名だたる民主主義国家だと
思っている。

 しかし日本は、官僚主義国家である。外国の大学生が使うテキストには、「日本は、君主
(Royal)官僚主義国家(bureacratism)」となっている。英語で、「bureacratism」というときは、
「官僚独裁主義」という意味が含まれる。

 私はそのことを、1970年に、オーストラリアの大学へ行って、はじめて知った。それから、3
5年になるが、この状態は、いまだに変わっていない。この35年間においてですら、さらに、ひ
どくなった。

●官僚制度の効率性

 もともとこの官僚主義制度というは、フランスで生まれた。16世紀から17世紀にかけてで、
このときイギリスは、今でいう、「高度成長期」に入った。それを見たフランスは、何としても、イ
ギリスに追いつかねばならなかった。

 官僚制度というと、悪いことばかりではない。国が一つとなって、一つの目標に向って進むと
きには、たいへん効率のよう制度となって機能する。よい例が、1940年からの日本である。
いわゆる「1940年体制」というのが、それ。このときから、日本人は、すべて、国家管理のもと
に入ることになった。

 その結果、日本は、軍事官僚独裁の時代に入り、まさに一丸となって、戦争に向った。

 さらに戦後は、日本は、世界でも類をみないほどの、経済的発展を遂げた。その基盤となっ
たのが、官僚制度。つまり、官僚制度というのは、ヘビにたとえるなら、頭の部分ということにな
る。それにつづく体(=国民)は、その頭についていけばよい。

 しかしこの官僚制度そのものは、いわば、後進国の国家制度と考えてよい。どこかに目標が
あり、その目標に向って、「追いつけ、追い越せ」という状況では、たいへん効率よく、機能す
る。しかし、機能するのは、そこまで!

●官僚制度の弊害

 その目標を達成してしまうと、今度は、官僚制度は、社会そのものを硬直化させてしまう。社
会システムそのものが、融通性をなくし、機動性をなくす。わかりやすく言えば、息苦しいほどま
での、管理国家。何をするにも、認可だの許可だの資格がいる。お役人にたてついたら、小さ
な食堂一つ、開くことができない。

しかし、なぜ社会は、硬直化するのか。

官僚が官僚であるための、第一の要件は、(1)権限と管轄、それに(2)情報のコントロールで
ある。

 権限、つまり利権と既得権にぶらさがり、管轄内のことはするが、それ以外のことは、いっさ
い、しない。また自分が手にした情報は、絶対に、外には、出さない。出すとしても、小出し。官
僚から情報を奪ったら、何も残らない。「情報こそ、命」と、豪語する官僚さえいえる。

 言うなれば、一般国民を、情報の外に置くことによって、自分たちは、特権の上に、あぐらを
かくことができる。無知な民ほど、あつかいやすいものはない。その一例が、官僚たちが作りに
作った、借金である。その額、驚くなかれ、すでに1000兆円に達している。

 日本の労働人口を約1億人として、その数で割れば、一人当たり、その借金額は、1000万
円。もしあなたの家族が、4人家族なら、4000万円ということになる。この額を、国家財政とい
う視点でみるなら、日本という国が1年間に稼ぐ額(=約42兆円)の、24倍の額ということにな
る。

 家計にたとえていうなら、年収420万円の人が、1億円の借金をかかえているのに、等しい。

●操作される情報

 こうした情報を、官僚たちは、自分たちの内部だけで管理し、決して、外には漏らさない。そう
いうしくみができてあがってしまっている。その結果、どうなったかといえば、国家公務員と地方
公務員の人件費だけで、38兆円。つまり国家税収、42兆円の、実に90%を、自分たちだけ
で、食いつぶしていることになる。

 もちろん給料は、最高!

 平成13年度の国民経済計算年報によれば、公務員の人件費は、1人あたり、1014万円
と、ダントツに高い。

 電気、ガス、水道などの公益団体で働く、いわゆる準公務員という人たちの人件費、795万
円が、それにつづく。

 当時「高級取り」で問題になった、民間の金融、銀行、保険業の行員ですら、人件費は、678
万円。

 これらの額を、あなたやあなたの夫が民間会社で働いて手にする額と、くらべてみるとよい。
おおかたの人は、300〜400万円のハズ。それよりも低賃金の人も、少なくない。

 が、官僚制度の本当の問題は、こうした財政の問題ではない。官僚制度が硬直化すればす
るほど、国そのもの、さらに国民そのものが、いわゆる「機動性」を失う。今の郵政事業のあり
方を見るまでもない。今どき、郵政事業の民営化は、常識ではないか。それを「過疎地の郵便
局を守れ」「離島の郵便局を守れ」と、理由にもならない理由をこじつけて、反対する。

 むしろ怒るべきは、過疎地や離島に住む人たちである。そういうときだけ、つごうのよいうよう
に、自分たちが利用される。あるいは過疎地や離島に住んでいる人たちで、1000万円以上も
の給料を手にしている人は、郵便局員をのぞいて、何%いるというのか? 

 同じような反対運動は、あの国鉄民営化のときも、起きた。しかし、それにかわって、バスが
走るようになった。私の住む近辺でも、H湖鉄道は廃止になると、さんざん脅された。が、今で
も、第3セクター方式で、ちゃんと電車は、走っている!

 が、私が、本当に危惧するのは、ここにも書いたように、「機動性」がなくなってしまったこと。
若い人たち自身から、(野生臭)が消えてしまったこと。大卒の人気就職業種のナンバーワン
が、公務員というのは、しかたないとしても、彼らから、(働いて、金を稼いで、生きる)という原
点そのものが、消えてしまった。

 もうつぎの原稿を書いてから、5年になる。今、読みなおしても、「古い」という感じが、まったく
しない。それをここに転載する(中日新聞掲載済み)。

++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

【日本の将来を教育に見るとき】 

●人間は甘やかすと……?

 官僚の天下りをどう思うかという質問に対して、ある大蔵官僚は、「私ら、学生時代勉強で苦
労したのだから、当然だ」「国のために仕事ばかりしているから、退職後の仕事をさがすヒマも
ない。(だから国が用意してくれるのは、当然だ)」(NHK報道・九九年春)と答えていた。

また別の女子学生は、「卒業しても就職先がないのは、社会の責任だ。私たちは言われるま
ま、まじめに勉強してきたのだから」(新聞投稿欄)と書いていた。人間は甘やかすと、ここまで
言うようになる。

●最後はメーター付きのタクシー

 私は以前、息子と二人で、ちょうど経済危機に見舞われつつあったタイを旅したことがある。
息子はともかくも、私はあの国にたまらないほどの懐かしさを覚えた。それはちょうど40年前
の日本にタイムスリップしたかのような懐かしさだった。あの国では誰もがギラギラとした脂汗
を流し、そして誰もが動きを止めることなく働いていた。若者とて例外ではない。タクシーの運
転手がこんな話をしてくれた。

若者たちは小銭ができると、まずバイクを買う。そしてそれで白タク営業をする。料金はその場
で客と交渉して決める。そこでお金がたまったら、「ツクツク」と呼ばれるオート三輪を買って、
それでお金をためる。さらにお金がたまったら、四輪の自動車を買って、それでまたお金を稼
ぐ。最後はメーター付き、エアコン付のタクシーを買う、と。

●日本には活気があった

 形こそ多少違うが、私たちが子どものころには、日本中に、こういう活気が満ちあふれてい
た。子どもたちとて例外ではない。私たちは学校が終わると磁石を持って、よく近くの小川へ行
った。そこでその磁石で金属片を集める。そしてそれを鉄くず屋へ持っていく。それが結構、小
づかい稼ぎになった。父の一日の稼ぎよりも多く、稼いだこともある。

が、今の日本にはそれはない。「生きざま」そのものが変わってきた。先日もある大学生が私
のところへやってきて、私とこんな会話をした。

学「どこか就職先がありませんか」、
私「君は何ができる?」、
学「翻訳ぐらいなら、何とか」、
私「じゃあ商工会議所へ行って、掲示板に張り紙でもしてこい。『翻訳します』とか書いてくれ
ば、仕事が回ってくるかもしれない」、
学「カッコ悪いからいやだ」、
私「なぜカッコ悪い?」、
学「恥ずかしい……。恥ずかしいから、そんなこと、できない」

 その学生は、働いてお金を稼ぐことを、「カッコ悪い」と言う。「恥ずかしい」と言う。結局その
学生はその年には就職できず、一年間、カナダの大学へ語学留学をすることになった。もちろ
んその費用は親が出した。

●子どもを見れば、未来がわかる

 当然のことながら日本の未来は、今の若者たちが決める。言いかえると、今の日本の若者
たちを見れば、日本の未来がわかる。で、その未来。最近の経済指標を見るまでもない。結論
から先に言えば、お先まっ暗。

このままでは日本は、このアジアの中だけでも、ごくふつうの国になってしまう。いや、おおかた
の経済学者は、2015年前後には、日本は中国の経済圏にのみ込まれてしまうだろうと予想
している。

事実、年を追うごとに日本の影はますます薄くなっている。たとえばアメリカでは、今では日本
の経済ニュースは、シンガポール経由で入っている(NBC)。どこの大学でも日本語を学ぶ学
生は急減し、かわって中国語を学ぶ学生がふえている(ハーバード大学)。

私たちは飽食とぜいたくの中で、あまりにも子どもたちを甘やかし過ぎた。そのツケを払うの
は、結局は子どもたち自身ということになるが、これもしかたのないことなのか。私たちが子ど
ものために、よかれと思ってしてきたことが、今、あちこちで裏目にでようとしている。

(参考)

●日本の中高生は将来を悲観 

 「21世紀は希望に満ちた社会になると思わない」……。日韓米仏4カ国の中高生を対象にし
た調査で、日本の子どもたちはこんな悲観的な見方をしていることが明らかになった。現在の
自分自身や社会全体への満足度も一番低く、人生目標はダントツで「楽しんで生きること」。学
校生活で重要なことでは、「友達(関係)」を挙げる生徒が多く、「勉強」としたのは四か国で最
低だった。

 財団法人日本青少年研究所(千石保理事長)などが2000年7月、東京、ソウル、ニューヨ
ーク、パリの中学二年生と高校二年生、計約3700人を対象に実施。「21世紀は希望に満ち
た社会になる」と答えたのは、米国で85・7%、韓仏でも6割以上に達したが、日本は33・8%
と際立って低かった。自分への満足度では、米国では9割近くが「満足」と答えたが、日本は2
3・1%。学校生活、友達関係、社会全体への満足度とも日本が四カ国中最低だった。

 希望する職業は、日本では公務員や看護婦などが上位。米国は医師や政治家、フランスは
弁護士、韓国は医師や先端技術者が多かった。人生の目標では、日本の生徒は「人生を楽し
む」が61・5%と最も多く、米国は「地位と名誉」(40・6%)、フランスは「円満な家庭」(32・
4%)だった。

 また価値観に関し、「必ず結婚しなければならない」と答えたのは、日本が20・2%だったの
に対し、米国は78・8%。「国のために貢献したい」でも、肯定は日本40・1%、米国七六・
四%と米国の方が高かった。ただ米国では「発展途上国には関心がない」「人類全体の利益
よりわが国の利益がもっと重要だ」とする割合が突出して高く、国際協調の精神が希薄なこと
も浮かんだ。

 千石理事長は「日本の子どもはいつの調査でもペシミスティック(悲観的)だ。将来の夢や希
望がなく、今が楽しければよいという現在志向が表れている。1980年代からの傾向で、豊か
になったことに伴ったのだろう」と分析している。

++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

 この原稿が、マガジンに載るころには、選挙は、終わっている。しかしその結果がどうであ
れ、こうまで官僚制度が進んでしまった今、これから先、どうやって行政改革(=官僚制度の是
正)をしていくのだろう。あるいは、国民から消えてしまった、(野生臭)を、どうやってとりもどし
ていくのだろう。

 今もまた、私の頭の中に、尾崎豊の「♪卒業」が、聞こえてきた。このエッセーのしめくくりに、
その原稿(中日新聞掲載済み)。

++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

●尾崎豊の「卒業」論
●若者たちの声なき抗議
学校以外に学校はなく、学校以外に道はない。そんな息苦しさを、尾崎豊は、「卒業」の中でこ
う歌った。
「♪…チャイムが鳴り、教室のいつもの席に座り、何に従い、従うべきか考えていた」と。「人間
は自由だ」と叫んでも、それはしくまれた自由に過ぎない。現実にはコースがあり、そのコース
に逆らえば逆らったで、負け犬のレッテルを張られてしまう。尾崎はそれを、「♪幻とリアルな気
持ち」と表現した。

 宇宙飛行士のM氏は、勝ち誇ったようにこう言った。「子どもたちよ、夢をもて」と。しかし夢を
もてばもったで、苦しむのは、子どもたち自身ではないのか。つまずくことすら許されない。ほん
の一部の、M氏のような人間選別をうまくくぐり抜けた人だけが、そこそこの夢をかなえること
ができる。大半の子どもはその過程で、あがき、もがき、挫折する。尾崎はこう続ける。「♪放
課後街ふらつき、俺たちは風の中。孤独、瞳に浮かべ、寂しく歩いた」と。

 日本人は弱者の立場でものを考えるのが苦手。目が上ばかり向いている。たとえば茶パツ、
腰パン姿の学生を、「落ちこぼれ」と決めてかかる。

しかし彼らとて精一杯、自己主張しているだけだ。それがダメだというなら、彼らにはほかに、
どんな方法があるというのか。そういう弱者に向かって、服装を正せと言っても、無理。尾崎も
こう歌う。

「♪行儀よくまじめなんてできやしなかった」と。彼にしてみれば、それは「♪信じられぬおとなと
の争い」でもあった。実際この世の中、偽善が満ちあふれている。年俸が二億円もあるような
ニュースキャスターが、「不況で生活がたいへんです」と顔をしかめて見せる。いつもは豪華な
衣装を身につけているテレビタレントが、別のところで、涙ながらに難民への寄金を訴える。

こういうのを見せつけられると、この私だってまじめに生きるのがバカらしくなる。そこで尾崎は
そのホコ先を、学校に向ける。「♪夜の校舎、窓ガラス壊して回った…」と。もちろん窓ガラスを
壊すという行為は、許されるべき行為ではない。が、それ以外に方法が思いつかなかったのだ
ろう。いや、その前にこういう若者の行為を、だれが「石もて、打てる」のか。

 この「卒業」は、空前のヒット曲になった。CDとシングル盤だけで、二〇〇万枚を超えた(CB
Sソニー広報部)。この数字こそが、現代の教育に対する、若者たちの、まさに声なき抗議とみ
るべきではないのか。
(はやし浩司 日本の将来 官僚主義 官僚主義国家 中高生の将来像)


++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司


最前線の子育て論byはやし浩司(835)

【近ごろ・あれこれ】

●犬の名誉

 ハナ(犬)と散歩に行く。散歩といっても、自転車で、1時間ほど、あちこちを走りまわる。

 冬はともかくも、犬は、夏に弱い。少し走ると、すぐハーハーと、あえぎ出す。そこでスピードを
落として、ハナの速さに、こちらの速度をあわせる。

 そんなとき、どこかの犬が、ワンワンとほえたりする。すると、ハナは、とたん、背筋をのば
し、スタスタと走り始める。犬には、犬なりの、プライドというものがあるらしい。

 「無理するなよ」と話しかけてやる。ハナは、声のする方を、チラチラと見やる。明らかに、相
手を意識している。が、その犬の視界から消えるころになると、また、ヨタヨタとした走り方に、
もどる。

 そんなハナを自転車の上から見ながら、こんなことを考える。「人間も、同じだな……」と。

 スポーツ選手、タレント、学者、画家、音楽家……。みんな、他人の目を意識している。それ
が悪いというのではない。そういう他人の目があるからこそ、人は、がんばることができる。もし
自分のまわりから、他人の目が消えてしまったら……。果たしてその人は、自分の能力を超え
てまで、がんばることができるだろうか。

 そのハナも、もうすぐ10歳になる。人間にたとえるなら、50歳くらいか。そういうたとえはあま
り好きではないが、しかし口のまわりのヒゲに、白髪がまざるようになった。犬の寿命は、15〜
20年というから、こうして一緒に、散歩できるのも、それほど、長くはないかもしれない。

 で、ふとまた、こんなことを考える。

 犬は犬の名誉を果たして、死ぬ。人間は、人間の名誉を果たして、死ぬ。犬と人間は、ちがう
というが、基本的には、それほど、ちがわない。犬のしていることには、価値がなく、人間のして
いることには、価値がある。人間はそう思いたいかもしれない。しかし本当のところは、どうな
のか?

 その寿命にしても、人間は、80年とも100年ともいう。犬より多少長いというだけで、「長い
からどうなの?」と聞かれると、これまた困ってしまう。無益に、ただ生きながらえているだけと
いう人は、多い。そんな人生に、どのような意味があるのか。……というのは、言い過ぎかもし
れない。わかっている。

 しかしハナの横顔を見ながら、「こいつは、何のために生きているのだろう」と考えたとたん、
その疑問は、そのまま、私自身に対する疑問へと変わる。

 「私は、何のために生きているのだろう」と。

 そういう意味では、犬も人間も、同じ。生きているから、生きているだけ。それ以上の意味も
なければ、それ以下の意味もない。ただその途中で、他人の目を意識したとき、そこに自分が
いることを知る。

 いや、何を隠そう。私とて、すてきな女性とすれちがうときは、心なしか、背筋がピンとのび
る。足にぐいと力が入る。ぶざまなかっこうは、見せたくない。つまるところ、人生というのは、そ
ういうものか。

 そんなわけで、ハナと散歩をしながら、改めて、こう思う。「犬も、人間も、やっていることは、
同じだなあ」と。


●パソコン用めがね

 今では、パソコン用めがねというものもある。知らなかった。

 近くのめがね屋で、自分の症状をあれこれ言うと、特別に、パソコン用めがねというものを、
作ってくれた。

 手元のキーボードを見るときと、モニターの画面を見るときとでは、視線の角度がちがう。そ
こで一枚のレンズの中で、上部と下部とでは、度数がちがうレンズにする。少し前の遠近両用
のレンズとちがい、境目はない。なだらかに、徐々に焦点距離が変化するようになっている。

 それだけではない。

 店員さんが、「モニターと目の距離は、どれくらいですか」「キーボードとの距離は、どれくらい
ですか」と聞いてきた。

 つまり、その距離まで、計算に入れて、私の目にあった、レンズを調整してくれる。

 私が「ヘエ〜」と感心していると、店員さんが、「最近のレンズは、ここまで進歩しました」「この
タイプのレンズは、最近できたものです」と話してくれた。再び、「ヘエ〜」と。

 むかし、中学生のとき、私は、一応、天文観測部に所属していた。「一応」というのは、天文観
測部といっても、名前だけ。望遠鏡そのものがなかった。そのため私たち部員がすることとい
えば、毎日、ただひたすら、レンズを磨くことだけ。そんなわけで、レンズ磨きのむずかしさとい
うか、苦労を、いやというほど、知っている。

 が、今では、恐らくコンピュータか何かで、その人の視力と、視力の特徴に合わせて、特性の
レンズを、その場でみがいて作ってしまうのだろう。以前のように、既製品の中から、選んで…
…というのではないらしい。

 というのも、加えて、私には、乱視がある。その乱視まで計算に入れたら、前もって既製品の
レンズを用意するとなると、たいへんなことになる。恐らく、数千種類のレンズを用意しておいて
も、足りない。これは経営的に、きわめて効率が悪い。

 で、その1週間後。つまり、今日、そのめがねが、できてきた。

 さっそく、使ってみた。が、驚いた。本当に、驚いた。手元のキーボードも、そしてモニターの
画面も、スッキリと見える。ただ全体に、近視の度数を落としてあるとかで、遠くをみるときは、
ぼやける。あくまでも、このメガネは、パソコン用ということになる。

 またまた、「フム〜」と感心しながら、この文章を書いている。


●リス

 私の家の周辺に、リスが出没するようになって、もう15年になる。最初は、「かわいい」と思っ
た。ペットショップで餌を買ってきて、庭にまいてやった。「リスがいる」というだけで、そこに温も
りのある(自然)を感じた。

 しかし誤解してはいけない。リスというのは、シッポの大きな、ネズミ。やがてそれが、わかる
ようになった。

 リスが出没するようになってから、環境が変わってきた。野鳥が、巣作りをしなくなった。ここ
1、2年、ドバト(野生の鳩)も、どこかへ引っ越してしまった。もちろん、キーウィなども、すべて
リスの餌。ゴミをあさるなどの、いたずらも、する。

 もともとは、だれかがペットとして飼っていたものらしい。それが逃げたか、捨てられた。体長
が40〜50センチもあるような大きなリスである。

 たった今も、窓の外の電話線の上を、横切っていった。何をしているか知らないが、また何
か、悪さをしているのだろう。

 繰りかえすが、リスは、シッポの大きなネズミ。家の中に隠れて住むのがネズミとするなら、
家の外で、堂々と住むのがリス。中には、「あっ、リスがいる!」と喜ぶ人もいるが、こと私たち
に関して言えば、そういう気持は、とっくの昔に消えた。決して歓迎すべき動物ではない。


●夫を嫌う妻

 女性というのは、(男性もそうかもしれないが……)、ひとたびその人を嫌い始めると、とこと
ん、その人を嫌うようになるものらしい。これは女性の、どういう特性によるものなのか。好きと
嫌いの境界線が、はっきりしている。ファジー(あいまい)な部分がない。

 ワイフも、ときどき、そう言う。「女性は人を嫌うときは、生理的に嫌いになるものよ」と。

 男性のばあいは、精子を打ちこむ側だから、打ちこんでしまえば、それでスッキリする。あま
り、相手を選ばない。ほどよい女性であれば、だれとでも、セックスをすることができる。そうい
う点では、ずいぶんと無責任な立場にある。

 が、女性は、そうではない。そのあとにつづく、妊娠、出産、育児を考えたら、男性のように
は、いかない。男性選びも、当然、慎重になる。つまり、この(ちがい)が、女性にしかない特性
をつくるのではないか。

 ある女子高校生は、自分の下着が、父親のものといっしょに洗われるのを、いやがる。いや
がるなんていうものではない。それがわかると、もう一度、母親に洗濯をやりなおさせるという。
その女性高校生に言わせると、「オヤジの、何もかも、嫌い!」ということになる。

 「男は、そこまで気にしないなア……」と、私は、その話を聞きながら、そう思った。

 親子なら、まだよい。これが夫婦となると、そうはいかない。そのまま離婚へと、つながる。

 夫が、使った食器を洗うだけで、いや。
夫が、便器を少しよごしただけで、いや。
夫が、鼻くそをほじっているだけで、いや。
夫が、ソファの上に寝そべっているだけで、いや。
もう、何もかも、いや、と。
 
 もちろん、夫が、手先で、自分の肌をさわっただけで、いや。ぞっとする。動作も気に食わな
いし、話し方も、声も、いや。

 が、立場上、離婚することもできない。いろいろなしがらみが、自分の体にクモの糸のように
からんでいる。が、こういう状態は、長くは、つづかない。

 Aさん(40歳、女性)は、夫の浮気を知った。相手は、夫が勤める会社の部下の女性。それ
までに、月に2、3回、その女性と密会していたらしい。

 それを知ったとたん、Aさんは、夫の何もかもがいやになった。そこで、家庭内別居。寝室も、
別々にした。洗濯をするときも、別々。食事の時間も、できるだけ、ずらした。実際には、夫だ
け、先に食べさせ、そのあと、自分でまた別の料理をして、食べた。

 ゆいいつ幸いなことに(?)、夫は、朝早く仕事にでかけ、夜遅く、帰ってくる。Aさんは、Aさん
で、パートの仕事をもっていた。趣味も豊富で、近所に友だちも多かった。

 しかし夫を嫌っている様子は、だれにでもわかった。夫の話になると、とたんに、顔をしかめ
た。多弁になり、ことこまかく、夫の行状を、話した。

 「私が使っているハンカチで、この前、自分の顔を拭いているのよ。私、ぞっとしたわ」「おか
ずを、ちゃんと、2人分に分けておいても、さっと、私の皿のほうへ、箸を入れてくるのよ。いや
になっちゃう」とか、など。

 その話を聞いた人は、「そんなことで……」と思うかもしれない。(実は、私も、そう思ったが…
…。)Aさんには、深刻な話である。夫に、自分のハンカチを使われることも、自分の皿に、夫
が箸を入れてくることも、Aさんにとっては、いやなことなのだ。

 こういう状態が長くつづくと、どうなるか?

 私が知るかぎり、いろいろなケースがある。

(1)現状維持型……夫を無視して、淡々と生きる。
(2)開放型……どんどん、自分勝手に、前向きに生きていく。
(3)内閉型……抑うつ感が蓄積し、うつ状態に、陥(おちい)る。

 (1)(2)はともかくも、(3)の状態になると、ことは深刻になりやすい。夫の職業によっては、
毎日の生活を、いっしょにしなければならないこともある。がまんするといっても、限度がある。
そのままやがて、精神を病んでしまう人もいる。

 実は、私の周囲にも、そういうケースがある。

 それまでは、「生理的に嫌い」という状態だけだったのだが、夫が、リストラや定年で、妻とい
っしょに生活をするようになった。とたん、夫婦関係は破綻。そして離婚。

 夫が定年で退職をするから、妻たちは離婚するのではない。夫と、四六時中、顔をあわせて
いるのがいやだから、離婚する。しかもその火種は、それまでに、長いあいだ、ずっとくすぶっ
ていた。

 そこで簡単なテスト。

( )あなたの妻は、あなたが使う食器を、はっきりと区別している。
( )あなたの妻は、アイスなど、あなたの残した食べ物を、そのまま捨ててしまう。
( )あなたの妻は、洗濯物を、あなたのとは分けて、洗う。
( )あなたの妻は、あなたといっしょに、入浴するのを、いやがる。
( )あなたの妻は、セックスをいやがる。あるいは、しても事務的。
( )ともに休みの日でも、行動は別々。趣味も、別々。仲間も別々。

 もし、こういう状態なら、かなりあぶない……ということになる。

 ……というような話を、20年来の、仕事で知りあった友だち(男性・57歳)に話したら、その
友だちは、こう言った。

 「おい、林、みんな、どこの夫婦も、そうだよ。オレのうちなんか、もっとひどいよ。ときには、
1、2週間、口をきかないこともあるよ」と。

 私の家庭のことは書けないが、(ワイフが、怒るので……)、その話を聞きながら、「そういうも
のかなア……」と思ってみたり、「そういうものだろうなア……」と思ってみたりする。いろいろ考
えさせられる。

++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

【浮気の会】

 ウソかホントが、知らないが、(浮気の会)というのがある。(夫婦交換の会)というのや、(混
浴の会)というのもある。

 このところ、つまりインターネットの時代になって、そういう会からの勧誘メールが、私のところ
にも、頻繁(ひんぱん)に入るようになった。さらに、「私たち夫婦がセックスをしているのを、横
で見ていてくれませんか」というもの、あった。「よろしかったら、いっしょに、妻を楽しませてあ
げてくれませんか」というのも、あった。

 しょせん、セックスは、「無」。一線を越えるというか、割り切るというか、それをしてしまえば、
あとはもう、何でもござれ。この文章を読んでいる人の中にも、そういう世界で、すでにセックス
を楽しんでいる人も、多いはず。

 が、悪いばかりではないらしい。

 ある男性の告白記には、こうあった。

 「それまで年に数回あるかどうかというセックスだったのですが、目の前で、妻がほかの男に
だかれ、恍惚状態になっているときを見たとき、妻がたまらなく、いとおしく感じました。その会
のおかげで、夫婦の仲は、よくなりました」と。

 ある夫婦交換会に出た男性の手記だそうだ。

 そう言えば、10年近く前、こんなことがあった。

 私が、ひとりで、ある温泉の露天風呂に入っていたときのこと。まず、ひとりの男性(40歳くら
い)が入ってきた。そして私に寄ってきて、こう言った。「妻も、いっしょに入っていいですか」と。

 露天風呂といっても、男性用と女性用に分かれていた。私のワイフは、その女性用のほうに
入っていた。

 「はあ……」と答えると、男性が何か合図をした。すると、彼の妻が、タオルをかけて入ってき
た。私は背を向けて、その女性のほうは見ないように心がけた。が、その男性と女性のほう
が、私にあれこれ話しかけてくる。

 「いい湯ですね」とか、何とか。目のやり場はないし、どういう態度をとったらよいかもわからな
い。が、ところがである。そのあと、私の目の前で、信じられないことが起きた。

 何とその女性が、あらわもないかっこうで、平泳ぎを始めたのである。ときどき、体を起こし
て、私や、夫のほうを見ながら笑う。

 そのあと、夫は、こう言った。「はじめてのときは、いやがりましたが、今では、妻のほうが、混
浴を求めるようになりました。私のほうから女性用に入ることはできないでしょう。それで妻が、
こうして男性用に入るのです」と。

 しかし念のため、申し添えるなら、いわゆる卑猥(ひわい)感などというものは、まったくなかっ
た。明るいというか、サバサバとしているか……。健康的であるようにも、見えた。

 あとで、このことを私のワイフに話すと、ワイフは驚いた。「お前も、今度、混浴してみるか?」
と聞くと、私のワイフは、「私は、いや〜よ」と言った。

 どうも、この世界のことが、私には、よくわからない。

 どこからどこまでが、本能で、どこから先が、文化なのか。それがよくわからない。

 読者のみなさんは、どう思いますか?

【補記】

●ゆがめられた(しつけ)

 「性」には、そもそも、快感がともなう。その快感は、善なのか、それとも悪なのか……。

 子どもの世界で、「ゆがめられたしつけ」という言い方をするときがある。

 たとえばある子どもが、ピアノのレッスンをいやがって、泣いたとする。そのとき親が、それを
「わがまま」と決めつけて、子どもを叱ったとする。すると、子どもは、(いやがる)ことイコール、
(わがまま)と誤解する。

 で、今度は、その子どもが、だれかほかの仲間に、意地悪をしたとする。そのときその相手
の子どもは、それをいやがったとする。が、その子どもには、(いやがる)ということが理解でき
ない。それを(わがまま)ととる。だから、ますます意地悪をする。意地悪をしても、意地悪をし
ているという意識がない。

 こうした(ゆがめられたしつけ)が、もっとも顕著に現れるのが、「性」の問題である。

 幼児は、その年齢になると、性器をいじると、気持ちがよいことを知る。男児も女児も、例外
はない。

 そこである女児(年長児)は、人目もはばからず、オナニー(自慰)をするようになった。友だ
ちが近くにいても、平気。机の角や、イスの角に性器をあて、そこを刺激した。

 そのときすでにそれがその子どもにとっては、習慣になっていた。無意識のうちに、そうして
いた。

 が、ある日、母親がそれに気づいた。父親も気づいた。そしてその子どもを、2人で、はげしく
叱った。

 その子どもは、やがて、そういう快感を得ることは、悪いことだと知った。だからできるだけ、
そういう快感を、自分の中に、封印するようにした。つまりこうしてその子どもは、「性」に対し
て、罪悪感をもつようになった。

 そこで問題。

 こうした快感を覚えることは、本当に、罪悪なのか?

 私は、子どものころから、いろいろな場面で、そういう罪悪感を、徹底的にたたきこまれてき
た。だれに、ということではない。どこで、ということでもない。その当時の社会的環境の中で、
そうたたきこまれてきた。

 そしてその結果、「性」に対して、ある種の罪悪感を身につけてしまった。しかしその罪悪感と
いうのは、(ゆがめられたしつけ)ではなかったのか。

 そのことは若いとき、横浜の港へ行ったときに知った。そこには、横須賀の米軍基地に住む
若者たちが、たくさんきていた。そしてそういう若者たちが、ところかまわず、抱きあったり、キ
スをしたり、そしてたがいの体を、さわりあっていた。年齢的には、12、3歳〜16、7歳くらいで
はなかったか。

 夜にするとか、隠れてするとか、そうではない。

 日中、開けっぴろげで、そうする。私は、そういう光景を見て、驚くと同時に、「何という、はし
たない連中だ」と思った。

 しかし考えてみれば、私がもった印象のほうが、おかしいのでは(?)。というのも、そのとき
すでに、私は、別の心で、こう思ったのを覚えている。「うらやましいな」「ぼくも、同じことをして
みたいな」と。

 ゆがめられた(しつけ)の例として、根本橘夫氏という学者は、著書「心配性の心理学」(講談
社現代新書)の中で、つぎのような例をあげている(P128)(本書の中では、ゆがめられたしつ
けを、「しつけの隠された意味」と表現している。)

 「(浣腸)とは、(親の意見と食い違うことである)という奇妙な、誤りを信じ込んでいた事例が、
外国で報告されています。

 この子の親は、子どもが反抗したり、意見が違ったりすると、『おなかに悪いものがいるの
で、追い出さなければならない』といって、浣腸していたのです。

 そのために、子どもにこのような奇妙な意味づけがなされてしまったのです」と。

 こういう例は、実は少なくない。

 「勉強ができないヤツは、落ちこぼれ」
 「成績が悪いヤツは、バカだ」
 「S中学校の連中は、頭もよく、優秀だ」と。

 さらには、親でも、「勉強ができる子どもイコール、人格的にもすぐれている」と思いこんでい
る人は、多い。

 これも、いわば、ゆがめられたしつけの例と考えてよい。日本独特の学歴制度や学歴信仰、
さらには受験神話が、日本人のものの考え方まで、ゆがめてしまった。

 しかし本当の悲劇は、その子ども自身にある。

 「ぼくは勉強ができないから、ダメな人間だ」と思いこんでしまうケースは、少なくない。こうした
(ゆがめられたしつけ)の中で、キズつき、苦しむ。

 話がそれたが、こうして考えてみると、私たちが(性)に対してもっている(常識)などいうもの
は、ひょっとしたら、ここでいう(ゆがめられたしつけ)かもしれない。

 夫婦交換(スワッピング)にしても、ヌーディストクラブにしても、欧米では、ごくふつうのサーク
ル活動として、みなが、楽しんでいる。たがいに罪悪感はない。集団ヌード会や、混浴サウナ会
となると、いたるところに、それがある。

 老若男女の区別はない。オーストラリアの友人の属しているヌーディストクラブでは、10歳く
らいからの女児まで、入っているという。親が、連れてくるらしい。

 そういう事実があることを知ると、それが道徳的にどうとか、倫理的にどうとか、そういうことを
考えるほうが、おかしいのかもしれない。その道徳にせよ、倫理にせよ、ここでいう(ゆがめら
れたしつけ)によって、作られた可能性がある。

 前にも書いたが、私の近所にも、こんな会がある。(これは本当だぞ!)ワイフが、ある友人
から、仕入れてきた話である。事実であることは、確認が取れている。

 ある男性(50歳くらい)が、若い人妻たちに、セックスの手ほどきを教えているという。口コミ
で、結構、会員が集まっているという。

 女性のほうは、裸になって、本番スレスレの指導まで、受けるという。私が「それは不倫では
ないのか?」と聞くと、「不倫ではない。女性のほうが、お金を払っているから」と。もちろん売春
でもない。

 で、そこでレッスンを受けた人妻たちは、それを自分の夫に応用するのだそうだ。そしてその
結果、その夫婦は、よりハッピーになるという。

 私は、そういう会があることよりも、こんな地方都市にも、そんな会ができたことに驚いた。

 今は、そういう時代なのかもしれない。またそういう流れは、ますます大きくなるかもしれな
い。つまりは、それは、(ゆがめられたしつけ)への、抵抗ということになる。そしてその結果とし
て、こうした(しつけ)は、どんどんと、破壊されていく。

 もしあなたが、「セックスをすることは、悪いこと」と思っているなら、それは「浣腸とは、親の意
見とは違うこと」と思っているのと、同じ(?)ということになるかもしれない。

 さて、あなたの子どもは、だいじょうぶか? あなた自身は、だいじょうぶか?
(はやし浩司 ゆがめられたしつけ しつけの隠された意味 性の問題 子どもの性 子供の
性)

++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

●兄弟の性格

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同じように(?)育てても、
第1子と末っ子では、性格も性質もちがう。

それについて……。

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 第1子と、末っ子の性格について。いろいろなことが言われているが、私なりに、それを、まと
めてみた。

【第1子の特徴】

(1)生活態度が防衛的
(2)仮面をかぶりやすく、ものわかりがよい。あるいは、反対にわがまま、自分勝手
(3)全体に、他人の意見に対して、受動的。比較的、おとなしい。
(4)完ぺき主義で、神経質
(5)まじめで、几帳面(きちょうめん)
(6)「兄だから……」「姉だから……」というプレッシャの中で、心をゆがめやすい。

【末っ子の特徴】

(1)生活態度が攻撃的
(2)したい放題で、無責任。比較的、伸びやか。
(3)全体に、他人の意見を無視し、自己主張が強い
(4)どこかズボラで、いいかげん
(5)自由気ままで、短気
(6)外交的な反面、気前よく、ものに執着しない。

 こうしたちがいは、もちろん親の養育姿勢の中で、つくられていく。第1子についていえば、親
は、どうしても神経質になりやすい。親のもつ不安や心配が、そのまま子育てに反映される。

 加えて「あなたはお兄ちゃんだから……」「お姉ちゃんだから……」という、『ダカラ論』の中
で、自らに、プレッシャをかけることが多い。そのため、仮面をかぶりやすく、心をゆがめやす
い。(子どもの表面的な様子に、だまされてはいけない。この時期、「ものわかりのよい子ども
ほど、心配」と覚えておくとよい。)

 ある女性(長女)だった女性は、こう書いてきた。

 「私は、親の目から見て、いい子であることだけを考えてきた。いつも、親に好かれることだけ
を考えていたよう。自分であって、自分でないような、そんな子ども時代だった」と。

 ここで「防衛的」と書いたのは、要するに、ケチだということ。下の子どもが生まれるまでは、
(すべて)が自分のものであった。が、下の子どもが生まれたことによって、それが、半減され
る。

 親から見れば、「平等」ということになるが、第1子にしてみれば、その平等ということに、納得
できない。嫉妬心や、ねたみ心は、こうして生まれる。その結果として、もちろんケチになる。

 ある男性(3子の中の二男)は、こう言った。

 「若いときから、兄のケチには、困ったものです。親戚や、兄弟が集まった席でも、自分では
1円も出しません。出そうともしません。そういう出費は、すべて私たち弟の役目だと思っている
のですね」と。

 こうした(ちがい)は、そのままその子どもの性質として定着してしまう。そのため、ほぼ、一
生、つづくと考えてよい。

 そういう(ちがい)をつくらないためには、つぎのことに注意したらよい。

(1)上、下の上下関係を、子どもの間につくらない。(子どもの名前は、名前で呼ぶ。)
(2)下の子を妊娠したときから、上の子教育を始める。下の子が生まれるのを、上の子が楽し
みにするようにしむける。
(3)上の子が生まれたとき、心のどこかで、下の子がいることを想定しながら、育てる。過度に
甘やかしたり、神経質にならないように、注意する。
(4)下の子が生まれても、突然、フィフティ、フィフティの平等にするのではなく、様子を見なが
ら、1、2年単位で、平等にもっていく。
(5)「あなたはお兄ちゃんだから……」という「ダカラ論」を、上の子に押しつけない。
(6)上の子がかぶる、仮面に注意する。ものわかりのよい兄、姉を演ずるようなら、かなり要
注意。反動形成として、親の前では、よい子ぶるケースは、たいへん多い。つまりその分だけ、
心をゆがめる。

 ほとんどの親は、「同じように育てても、兄弟、姉妹、みな、性格がちがいますね」と言う。しか
し本当は、同じように育てていない! 親が勝手に、そう思いこんでいるだけ。

 育て方のちがいが、ちがった性格の子どもをつくる。第1子と、末っ子のちがいも、その一つ
にすぎない。
(はやし浩司 第1子 末っ子 兄弟 姉妹 育て方 長男 長女 特徴)


++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

●フランスにお住まいの、Sさんからのメール

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フランスにお住まいの、Sさんから
メールが届いています。

そのメールを読んで、いろいろ考え
させられました。

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【Sより、林へ……】

(前段部、前略)

X月末に、我が町で、「環境問題」というテーマで、国際会議がありました。

私は日本から来ている、ジャーナリストさん男性一人について、街のガイド、運転、 通訳をした
のですが、カルチャーショックを受けました。

ちょうど、はやし先生のマガジンで、オーストラリアからいらした夫婦の話を読んでいたときだっ
たので、よけいにショックを受けました。

男性は56歳なのですが、フランス人女性が好きなのか、レストランとかに入るとすぐ、サービ
スの女性にむかって手を握ったり、ジュッテーム(好きだよ)と言ったり。

写真をあちこちのテーブルに向かって撮ったり、ワインなど飲み物を私につげという合図をあ
ご?、でするんです。

(こちらではサービスの人か男性の人が飲み物をつぐので・・・・)

7日間一緒だったのですが、街を観光しても、ただひたすら写真をとっているだけという感じな
のです。

撮ったら移動、撮ったら移動。ゆっくり見ているという暇もなし。

食事の最中でも、タバコを吸ったり・・・。夜は女の子のいるところ、日本で言うカラオケがある
スナックに行きたいという。(私は全然知らないので、案内できなかったのですが……。)名刺
には沢山肩書きがかいてあったのですが、とても残念でした。

久しぶりに日本語で、いろんな話が出きると思っていたので、本当にびっくりしました。いろんな
日本人がいるんですね。

10月にはまたオランダで、会議があるそうです。そこにも、行くそうです。

話が長くなってスイマセン。

そう、6月下旬にリンカラン(Sony Music)という雑誌の取材があり、16日に発売されました。

夫、DDの実家を中心にたくさんブルターニュのことがのっているらしいです。
よかったら見てください。

http://www.lingkaran.jp/home.html

がHPで、今月の案内が

http://www.lingkaran.jp/current/index.html

です。

私はまだ見ていないのですが、母が家族全員載っていたというので、息子のTの大きくなった
姿も見られるようようです。

もし、本屋で立ち読みする機会があったら、ちらっと見てみてください。こんなところに住んでい
ます。

あと奥様に報告です。

1週間前からK(長男)が自分の部屋で、ひとりで寝るようになりました。

なんでも3歳上の男の友達から、大きくなったら一人で寝るんだぞ!、と言われたらしいので
す。

私たちがいずれ・・・・と思っていたので、急に今日から寝る!、というようになって 、驚きまし
た。

はやし先生の言っていたように、年上の友達と一緒に遊ぶというのは大切なことだなと、つくず
く感じました。

奥さまが心配しなくても、大丈夫よ!、といった言葉を思いましました。

本当に長くなってスイマセン。
くれぐれもお体にはお気をつけ下さいませ。マガジン無理なさらないでくださいね。私はいつも
マガジンが来ていると一番で読んで、(ときには涙して、ときには笑って)、元気を頂いていま
す!!

奥様にもよろしくお伝え下さい。 

【Sさんへ、はやし浩司より】

 いただきましたメールの前段部については、また別の機会に、返事を書きます。我が家も同
じような問題をかかえて、目下、た・い・へ・ん・です。まあ、ものごとは、前向きに考えていきま
しょう。

 要するに、人間は、無料では死ねないということですね。いやですね。

 で、そのジャーナリスト様について。日本でも、まったく、同じです。マスコミ全盛の時代という
か、マスコミ関係の人たちは、いばっていますよ。(私は、マスコミ人間が、あまり好きではあり
ません。)少し前も、電話一本だけの、実に簡単なアポイントだけでやってきて、いきなり、私
に、あれこれ取材。名刺も出さない。そこで私が名刺を要求すると、プイと態度を硬化させまし
た。

 だいたい、服装が、だらしない。人に会うなら、いくら取材でも、またディレクターでも、もう少
し、まともな服装をしてくるべきです。ヨレヨレの作業着に、ジーパン姿ですよ! それがマスコ
ミ人間のあるべき服装とでも、思っているのでしょうか。

 日本でも、よく海外取材番組が紹介されます。が、そういう番組でも、「カメラがうしろになかっ
たら、そんなことはしないだろうな」というような場面を、よく見かけます。態度がでかいという
か、現地の人を下に見ているというか……。

 昨日も、東南アジアのある国を、日本のお笑いタレントたちが、訪問するという番組がありま
した。露天の前で、露骨にギャーギャーと騒いだり、「何だ、これ!」と笑って見せたり……。あ
まりの低俗ぶりに、驚くやら、同じ日本人として、なさけないやら……。

 「オレたち、先進国の、日本人様だア!」というような雰囲気でしたよ。その国に対して、一片
の知識も、畏敬(いけい)の念もない。あいさつの言葉すら、知らない。

 で、「テレビ局が来た」「新聞社が来た」というだけで、大騒ぎをする、一般庶民にも、問題が
ありますよね。そうやってチヤホヤするものですから、彼らは、ますます図に乗るだけ。私はこ
の10年、とくにこの5年、マスコミにコビを売るのをやめました。(おかげで、マスコミ関係から
の仕事は、途絶えましたが……。ハハハ。)

 フランスあたりまで行って、「カラオケだ」「女だ」と言っている、日本人様のアホの気が知れま
せん。カルチャショックを受けられて、当然です。

 私も、35前に、オーストラリアにいたころ、よく日本の代議士先生たちを、案内したことがあり
ます。中には、まじめというか、政治を真剣に考えている人もいましたが、一方、中には、「女を
紹介してくれんかね」「そういう遊びをするところはあるかね」と聞いてくる人もいました。

 しかしそれは35年前の話。Sさんのメールを読んで、「今でも、そうなのかア」と思い、少しが
っかりしました。日本人は、この豊かになった世界で、何を学び、何を身につけたというのでし
ょうか。ひょっとしたら、脳ミソの中身だけは、戦後直後のまま?

 食事中にタバコ? これにも驚きました。多分、フランスでは、どこでも禁煙のはず? また、
あちこちのテーブルに向かって写真をとった? とんでもないほど無礼な行為ですよね。でも、
そういうジャーナリストでも、日本へ帰ってくると、これまた偉そうな顔をして、話をする……。

 そうそう、同じころ、つまり35年前のことですが、友人の牧場を訪れたときのこと。その友人
の両親たちの社交態度が、日本の大使館の人たちよりも、洗練されていたのには、驚きまし
た。

 農業を営んでいましたが、夜は、父親が、チェロを私に弾いてみせてくれました。(文化のち
がい)というのは、そういうところに出てくるのですね。

 これから先、日本人も、やがてそうなるのでしょうが、しかしまだまだ、時間がかかりそうで
す。それこそ50年単位の年月が必要かもしれません。しかしここであきらめるわけには、いき
ません。日本人も、やるしかないのです! 前に進むしかないのです!

 (しかし私の近所の人たちの中には、外国人との交流を深めながら、自宅で、個展を開いた
りする人も、いますよ。ですから、みながみな、レベルの低い人というわけではないと思います
が……。そういう人たちが、もっと、ふえてくるといいですね。)

 それからK君が、ひとりで寝るようになって、よかったですね。『子どもの先生は、年上の子ど
も』です。1、2歳年上で、めんどうみがよく、知的な子どもでしたら、無理をしてでも、いっしょ
に、遊んでもらえるようにするとよいですよ。

 親どうしが友だちになったり、家に食事に呼んであげたり……。あなたの子どもは、その子ど
もの影響を受けて、すばらしく伸びるはずです。

 で、今度は、日本の話題。

 今、大きな話題は、選挙です。といっても、何がなんだか、わけのわからない選挙になってき
ました。最後の悪あがきというか、大混乱というか……。このまま日本は、巨億の負債をかか
えて、破綻へとまっしぐらに進む。今度の選挙は、その前兆のような気がしてなりません。

 一家族にたとえるなら、巨額の借金をかかえて、夫と妻が、「しかたないだろ」「どうするのよ」
と、けんかしているような状態です。一応、200兆円以上あるはずの郵便貯金も、どこかへ消
えてしまったまま。

 今どき、小包を、郵便局にもっていく人は、ほとんど、いません。(海外は、別。しかしその海
外も、最近は、宅配便を利用する人がふえてきました。)サービスも悪いし、値段も高い。手紙
やハガキにしても、今は、インターネットの時代。私の家でさえ、手紙といえば、市役所や電話
局などからの、請求書のようなものだけ。私的なハガキとなると、月に数枚、くるかこないかと
いう程度。

 にもかかわらず、郵政局の職員は、27〜8万人もいる! 私には、郵政民営化に反対して
いる人たちの気が知れないのです。彼らは、そうまでして、何を失うことを恐れているのでしょう
か。

 一般のサラリーマンたちは、もっと、もっと、プラス、もっときびしい世界で生きています。あの
ニュージーランドは、市町村の行政まで、ほとんど民営化してしまったのですよ。お役所仕事
は、役所でしかできないと思いこんでいるのは、日本人だけではないでしょうか。

 でね、最近では、お役所も、一般庶民と接する部所だけは、忙しくみせるという、小細工をす
るようになりました。一歩、そのドアをくぐって、中の部屋に入ると、まるで別世界。本当に、別
世界。まあ、こんなことを書き始めたら、キリがありませんから、この話は、ここまで。

 1人ひとりの公務員の方に、責任があるわけではありませんが、こんなバカげた国家運営を
していたら、日本は、本当に破綻してしまいます。そのことを、ほんの少しだけでも、公務員の
方たちにも、自覚してほしいのです。それだけのことです。

 今度の選挙で、その結果が出ると思います。

 あとは、今月末に開かれる、6か国協議。一般の人たちの関心が、恐ろしく低いというのは、
驚きでしかありません。ノー天気な人たちは、「私たちは平和を守ります」「平和を愛します」と
言っていますが、相手の国が、攻めてきたら、どうするのでしょうか。そのときでも、そんなノー
天気なことを、言っておられるのでしょうか。

 ロシアと中国は、東シナ海で、合同の軍事演習をします。韓国は、K国とともに、中国への同
化をもくろんでいます。台湾があぶない。もし台湾に中国軍が進駐するようなことになれば、自
動的に、日本も、戦場になります。今の今でも、もしアメリカ軍が日本にいなかったら、韓国とK
国の合同軍が、日本へ攻めいってくるでしょう。ロシアだって、だまっていない。

 ああああ……というのが、私の本音です。

 しかしたいはんの日本人は、何も考えていない。「私には関係ない」と、話をそらしてしまいま
す。私は、この政治的無関心(ゼノフォービア)のほうが、信じられないのです。フランスなどで
も、「あなたはゼノフォービアだ」と言われたら、それだけで軽蔑されたのと同じことになります
よね。

 ……などなど。少し頭が熱くなってきましたので、この話は、ここまで。今ごろ、Sさんは、スヤ
スヤと夢でも見ておられるころですね。こちらは、ジワジワと暑くなってきました。ちょうど、今、
セミが鳴き始めました。時刻は、10:30AMちょうどです。

 それから、また、いただいたメールのマガジン(R天の日記)への転載をよろしくお願いしま
す。事後報告になってすみません。

 ご家族のみなさんに、よろしく。日本へおいでの際には、また、私の山荘でいっしょに、食事を
しましょう。息子さんたちの笑顔が忘れられません。


++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司


最前線の子育て論byはやし浩司(836)

●共存社会と依存性

 何をもって、「村(むら)」と定義するか。もともとは、「人が群(むら)がるところ」という意味か
ら、「村」という言葉が生まれたという説もある。

 現代では、「都会」と「田舎」というような、分け方をする。その「村」をあえて定義するなら、「人
の出入りの少ない、共存社会性の強い地域」ということになる。

 その村には、独特の、村意識がある。そうした村意識を、思いついたまま、まとめてみたの
が、つぎである。

(1)団結性……外部の者(よそ者)に対しては、集団、徒党を組んで対立する。
(2)閉鎖性……外部の文化、伝統を拒否し、内部の習慣、風習を優先させる。
(3)独善性……自分たちの村が最高であり、自分たちのしていることは正しいと思う。
(4)中心性……自分たちの村を中心にして、世界は、回っていると錯覚する。
(5)集団性……単独行動をしない。その一方で、仲間の単独行動を許さない。
(6)仮面性……無害なよそ者に対しては、親切で、やさしい。仮面をかぶる。
(7)依存性……相互依存性が強く、いつも、どこかで見返りを求めて行動する。
(8)詮索性……たがいにたがいの生活を、詮索しあう。干渉しあう。
(9)曖昧性……ものごとの白黒を、はっきりさせない生きザマこそ、大切と考える。
(10)虚言性……軽いウソなら、平気でつく。ウソをついているという意識すらない。

 こうした「村」に生まれ、そこに長く住むと、心理学でいうところの、いわゆる自我そのものが、
押しつぶされてしまう。自我の確立が、できなくなってしまう。村社会の中では、「私は私」という
生き方をすると、それだけで、その村社会から、はじき飛ばされてしまう。現実には、不可能。

 私は、このことを、「村」の人たちと、会話をしていて、気がついた。彼らは、独特の言い方を
する。

(1)他人の口を借りる……「私はいいんですが、Aさんが、何と言うでしょうかねエ……」と。自
分の言いたいことを、他人の口を借りて言う。たとえば林の中に、1本の道をつける話が出たと
する。そのとき、その人自身は、道をつけてほしくないと思っている。そういうときは、こういう言
い方をする。

 「私は、道があっても、かまいませんが、しかしあのAさんが、何というでしょうかねエ。きっと
黙っていないと思いますよ」と。

 あるいは、自分が大きな仕事を押しつけられて困っているようなときは、こう言う。

 「息子たちが、私の体を心配してくれましてね。『オヤジには、その仕事は無理だ』と言うので
す。私はどうしたらいいでしょうかねエ」と。

(2)世間体を前面に出す……いつも他人の目を気にした言い方をする。「世間が許さない」「世
間が笑う」と。反対に、世間体を利用することもある。

 たとえば、自分の息子や娘に向って、何かをしてほしいときは、こう言う。「オレは、構わない
が、お前たちが、世間の笑いものになるだけだ」と。そして結局は、息子や娘を、自分の思いど
おりに、誘導してしまう。

 いわゆる「恥論」も、こうした世間体意識を背景にして、生まれる。たとえば私が住む山荘の
近くに、こんど、特別養護老人ホームができた。しかし地元の人たちには、すこぶる評判が悪
い。

 「老後の親のめんどうは、息子や娘がみるべきだ。そういう施設へ親を入れるのは、恥ずか
しいことだ」と。そして親は親で、そういう施設へ入ることを、「恥ずかしい」という。だからその施
設に入ってくる人というのは、別の地域に住む、町からの人が多い。

(3)古い因習論を前面に出す……当然のことながら、村社会ほど、封建時代の亡霊が生き残
っている。

 長子存続、家制度など。親子、夫婦、兄弟間の、上下意識も強い。江戸時代が終わって、す
でに150年近くもたつというのに、日本人がもつ意識というのは、それほど変わっていない。そ
れが村社会の中では、より強く残っている。

 こんな話を聞いた。

 78歳の父親が死んだときのこと。多額ではないが、借金を残して死んだ。その父親には、5
0歳になる娘と、48歳になる息子がいた。その娘が、「葬式費用を出すのは、男のお前の役目
だ」と言った。息子のほうは、「半々で出しあうのが、当たり前だ」と言った。

 もしこの段階で、父親がいくらかの財産を残していたら、会話の内容も、ちがっていただろう。
きっと、こうなっていたにちがいない。

 「私は姉だから、財産は私のものだ」と。「それはおかしい。兄弟だから、半々で分けあうの
が、当たり前だ」と。

 こうしてざっと考えてみると、村社会に住んでいる人ほど、「私」がない。「私は、こうだ」という
「私」がはっきりしない。それが悪いと言うのではない。村社会では、何よりも、たがいの共存性
が重要視される。その共存性がなければ、生きていかれない。

 たとえば田んぼの水取りがある。今でも、田んぼの水取りで、その時期になると、村どうしが
戦争状態になるところも、少なくない。話せば長くなるが、笑い話になるような珍劇まがいの話
も、私のところには、届いている。

 で、こうした共存性が、「私」を犠牲にする。長い時間をかけて、「私」を押しつぶしてしまう。だ
から村社会に住む人に向って、「あなた自身は、どう考えているのですか?」「あなた自身は、
どうしたいと思っているのですか?」と聞いても、あまり意味がない。そういうふうに考える習慣
そのものがない。

 が、人間のもつ意識というのは、あくまでも、相対的なもの。

 今度は、反対に、村社会に住む人から、都会に住む人をみると、こうしたものの見方が、18
0度、ひっくりかえる。それについては、また別の機会に考えることにして、つまりは、都会の人
からみると、田舎の人のものの考え方は、おかしいということになるし、反対に、田舎の人から
みると、都会の人のものの考え方は、おかしいということになる。

 私自身は、田舎で生まれ育ち、そのまま、外国へ出て、都会に住むようになったので、その
(ちがい)がよくわかる。その私だが、このところ、田舎に住む人たちと、会話をするのが、どう
も苦手。あの遠まわしで、イライラするような言い方が、どうも、私の体質になじまない。

 私自身は、「私は私」という生きザマをしっかりともっている人のほうが、話をしやすいのだが
……。
(はやし浩司 村意識 邑意識 共存社会 共存性)

++++++++++++++++++

ここまで書いて、「飛騨の昼茶漬け」の
話を思い出した。

その原稿を添付します。

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●あなたは裁判官

(ケース)Aさん(四〇歳女性)は、Bさん(四五歳女性)を、「いやな人だ」と言う。理由を聞くと、
こう言った。

AさんがBさんの家に遊びに行ったときのこと。Bさんの夫が、「食事をしていきなさい」と誘った
という。そこでAさんが、「食べてきたところです」と言って断ったところ、Bさんの夫がBさんに向
かって、「おい、B(呼び捨て)!、すぐ食事の用意をしろ」と言ったという。

それに対して、Bさんが夫に対して、家の奥のほうで、「今、食べてきたと言っておられるじゃな
い!」と反論したという。それを聞いて、AさんはBさんに対して不愉快に思ったというのだ。

(考察)まずAさんの言い分。「私の聞こえるところで、Bさんはあんなこと言うべきではない」「B
さんは、夫に従うべきだ」と。Bさんの言い分は聞いていないので、わからないが、Bさんは正直
な人だ。自分を飾ったり、偽ったしないタイプの人だ。だからストレートにAさんの言葉を受けと
めた。

一方、Bさんの夫は、昔からの飛騨人。飛騨地方では、「食事をしていかないか?」があいさつ
言葉になっている。しかしそれはあくまでもあいさつ。本気で食事に誘うわけではない。相手が
断るのを前提に、そう言って、食事に誘う。

そのとき大切なことは、誘われたほうは、あいまいな断り方をしてはいけない。あいまいな断り
方をすると、かえって誘ったほうが困ってしまう。飛騨地方には昔から、「飛騨の昼茶漬け」とい
う言葉がある。昼食は簡単にすますという習慣である。

恐らくAさんは食事を断ったにせよ、どこかあいまいな言い方をしたに違いない。「出してもらえ
るなら、食べてもいい」というような言い方だったかもしれない。それでそういう事件になった?

(判断)このケースを聞いて、まず私が「?」と思ったことは、Bさんの夫が、Bさんに向かって、
「おい、B(呼び捨て)!、すぐ食事の用意をしろ」と言ったところ。そういう習慣のある家庭では
何でもない会話のように聞こえるかもしれないが、少なくとも私はそういう言い方はしない。

私ならまず女房に、相談する。そしてその上で、「食事を出してやってくれないか」と聞く。ある
いはどうしてもということであれば、私は自分で用意する。いきなり「すぐ食事の用意をしろ」
は、ない。

つぎに気になったのは、言葉どおりとったBさんに対して、Aさんが不愉快に思ったところ。Aさ
んは「妻は夫に従うべきだ」と言う。つまり女性であるAさんが、自ら、「男尊女卑思想」を受け
入れてしまっている! 本来ならそういう傲慢な「男」に対して、女性の立場から反発しなけれ
ばならないAさんが、むしろBさんを責めている! 女性は夫の奴隷ではない!

私はAさんの話を聞きながら、「うんうん」と返事するだけで精一杯だった。内心では反発を覚
えながらも、Aさんを説得するのは、不可能だとさえ感じた。基本的な部分で、思想の違いを感
じたからだ。さて、あなたならこのケースをどう考えるだろうか。
(はやし浩司 都会 田舎 意識の違い)

+++++++++++++++

同じような原稿ですが、
別の機会に書いたものです。

+++++++++++++++

●飛騨の昼茶漬け

 日本人は、本当にウソがうまい。日常的にウソをつく。たとえば岐阜県の飛騨地方には、『飛
騨の昼茶漬け』という言葉がある。あのあたりでは、昼食を軽くすますという風習がある。しかし
道でだれかと行きかうと、こんなあいさつをする。

 「こんにちは! うちで昼飯(ひるめし)でも食べていきませんか?」
 「いえ、結構です。今、食べてきたところですから」
 「ああ、そうですか。では、失礼します」と。

 このとき昼飯に誘ったほうは、本気で誘ったのではない。相手が断るのを承知の上で、誘う。
そして断るほうも、これまたウソを言う。おなかがすいていても、「食べてきたところです」と答え
る。

この段階で、「そうですか、では、昼飯をごちそうになりましょうか」などと言おうものなら、さあ、
大変! 何といっても、茶漬けしか食べない地方である。まさか昼飯に茶漬けを出すわけにも
いかない。

 こうした会話は、いろいろな場面に残っている。ひょっとしたら、あなたも日常的に使っている
かもしれない。日本では、正直に自分を表現するよりも、その場、その場を、うまくごまかして先
へ逃げるほうが、美徳とされる。ことを荒だてたり、角をたてるのを嫌う。何といっても、聖徳太
子の時代から、『和を以(も)って、貴(とうと)しと為(な)す』というお国がらである。

 こうした傾向は、子どもの世界にもしっかりと入りこんでいる。そしてそれが日本人の国民性
をつくりあげている。私にも、こんな苦い経験がある。

 ある日、大学で、一人の友人が私を昼食に誘ってくれた。オーストラリアのメルボルン大学に
いたときのことである。私はそのときとっさに、相手の気分を悪くしてはいけないと思い、断るつ
もりで、「先ほど、食べたばかりだ」と言ってしまった。で、そのあと、別の友人たちといっしょ
に、昼食を食べた。そこを、先の友人に見つかってしまった。

 日本でも、そういう場面はよくあるが、そのときその友人は、日本人の私には考えられないほ
ど、激怒した。「どうして、君は、ぼくにウソをついたのか!」と。私はそう怒鳴られながら、ウソ
について、日本人とオーストラリア人とでは、寛容度がまったく違うということを思い知らされ
た。

 本来なら、どんな場面でも、不正を見たら、「それはダメだ」と言わなければならない。しかし
日本人は、それをしない。しないばかりか、先にも書いたように、「あわよくば自分も」と考える。
そしてこういうズルさが、積もりに積もって、日本人の国民性をつくる。それがよいことなのか、
悪いことなのかと言えば、悪いに決まっている。

●私はウソつきだった

 実のところ、私は子どものころ、ウソつきだった。ほかの子どもたちよりもウソつきだったかも
しれない。とにかく、ウソがうまかった。ペラペラとその場を、ごまかして、逃げてばかりいた。私
の頭の中には、「正直」という言葉はなかったと思う。

その理由のひとつは、大阪商人の流れをくんだ、自転車屋の息子ということもあった。商売で
は、ウソが当たり前。このウソを、いかにじょうずつくかで、商売のじょうずへたが決まる。私は
毎日、そういうウソを見て育った。

 だからあるときから、私はウソをつくのをやめた。自分を偽るのをやめた。だからといって、そ
れですぐ、正直な人間になったわけではない。今でもふと油断をすると、私は平気でウソを言
う。とくにものの売買では、ウソを言う。自分の体にしみこんだ性質というのは、そうは簡単には
変えられない。

 そこであなたはどうかということを考えてみてほしい。あなたは自分の子どもに、どのように接
しているかを考えてみてほしい。あるいはあなたは日ごろ、あなたの子どもに何と言っているか
を考えてみてほしい。もしあなたが「正直に生きなさい」「誠実に生きなさい」「ウソはついてはい
けません」と、日常的に言っているなら、あなたはすばらしい親だ。人間は、そうでなくてはいけ
ない。……とまあ、大上段に構えたようなことを書いてしまったが、実のところ、それがまた、日
本人の子育てで、一番欠けている部分でもある。そこでテスト。

 もしあなたが中央官僚で、地方のある大きな都市へ、出張か何かで出かけた。そして帰りぎ
わ、一〇万円のタクシー券を渡されたとする。そのとき、あなたはそれを断る勇気はあるだろう
か。

さらに渡した相手に、「こういうことをしてはいけないです」と、諭(さと)す勇気はあるだろうか。
私のばあい、何度頭の中でシミュレーションしても、それをもらってしまうだろうと思う。正直に
言えば、そういうことになる。つまり私は、子どもときから、そういう教育しか受けていない。つま
りそれは私自身の欠陥というより、私が受けた教育の欠陥といってもよい。さてさて、あなた
は、子どものころ、学校で、そして家庭で、どのような教育を受けただろうか。
(03−1−7)

【補記】日本人のこうした国民性は、長くつづいた封建制度の結果というのが、私の持論であ
る。今のK国のような時代が、300年以上もつづいたのだから、当然といえば当然。「自分に
正直に生きる」ということそのものが、不可能だった。

それについては、もう何度も書いてきたので、ここでは省略する。ただここで言えることは、決し
て、あの封建時代を美化してはいけないということ。もちろん歴史は歴史だから、それなりの評
価はしなくてはいけない。しかし美化すればするほど、日本人の精神構造は、後退する。
(はやし浩司 日本人の精神構造 封建時代の遺物)

++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

●依存性

 依存心の強い子どもは、独特の話し方をする。おなかがすいても、「○○を食べたい」とは言
わない。「おなかが、すいたア〜」と言う。言外に、(だから何とかしろ)と、相手に要求する。

 おとなでも、依存心の強い人はいくらでもいる。ある女性(67歳)は、だれかに電話をするた
びに、「私も、年をとったからねエ〜」を口グセにしている。このばあいも、言外に、(だから何と
かしろ)と、相手に要求していることになる。

 依存性の強い人は、いつも心のどこかで、だれかに何かをしてもらうのを、待っている。そう
いう生きざまが、すべての面に渡っているので、独特の考え方をするようになる。つい先日も、
ある女性(60歳)と、K国について話しあったが、その女性は、こう言った。「そのときになった
ら、アメリカが何とかしてくれますよ」と。

 自立した人間どうしが、助けあうのは、「助けあい」という。しかし依存心の強い人間どうしが、
助けあうのは、「助けあい」とは言わない。「なぐさめあい」という。

一見、なごやかな世界に見えるかもしれないが、おたがいに心の弱さを、なぐさめあっているだ
け。

総じて言えば、日本人がもつ、独特の「邑(むら)意識」や「邑社会」というのは、その依存性が
結集したものとみてよい。「長いものには巻かれろ」「みんなで渡ればこわくない」「ほかの人と
違ったことをしていると嫌われる」「世間体が悪い」「世間が笑う」など。こうした世界では、好ん
で使われる言葉である。

 こうした依存性の強い人を見分けるのは、それほどむずかしいことではない。

●してもらうのが、当然……「してもらうのが当然」「助けてもらうのが当然」と考える。あるいは
相手を、そういう方向に誘導していく。よい人ぶったり、それを演じたり、あるいは同情を買った
りする。「〜〜してあげたから、〜〜してくれるハズ」「〜〜してあげたから、感謝しているハズ」
と、「ハズ論」で行動することが多い。

●自分では何もしない……自分から、積極的に何かをしていくというよりは、相手が何かをして
くれるのを、待つ。あるいは自分にとって、居心地のよい世界を好んで求める。それ以外の世
界には、同化できない。人間関係も、敵をつくらないことだけを考える。ものごとを、ナーナーで
すまそうとする。

●子育てに反映される……依存性の強い人は、子どもが自分に対して依存性をもつことに、ど
うしても甘くなる。そして依存性が強く、ベタベタと親に甘える子どもを、かわいい子イコール、で
きのよい子と位置づける。

●親孝行を必要以上に美化する……このタイプの人は、自分の依存性(あるいはマザコン
性、ファザコン性)を正当化するため、必要以上に、親孝行を美化する。親に対して犠牲的で
あればあるほど、美徳と考える。しかし脳のCPUがズレているため、自分でそれに気づくこと
は、まずない。だれかが親の批判でもしようものなら、猛烈にそれに反発したりする。

依存性の強い社会は、ある意味で、温もりのある居心地のよい世界かもしれない。しかし今、
日本人に一番欠けている部分は何かと言われれば、「個(=自我)の確立」。個人が個人とし
て確立していない。

あるいは個性的な生き方をすることを、許さない。いまだに戦前、あるいは封建時代の全体主
義的な要素を、あちこちで引きずっている。そしてこうした国民性が、外の世界からみて、日本
や日本人を、実にわかりにくいものにしている。つまりいつまでたっても、日本人が国際人の仲
間に入れない本当の理由は、ここにあるのでは?
(03−1−2)

●人情は依存性を歓迎し、義理は人々を依存的な関係に縛る。義理人情が支配的なモラルで
ある日本の社会は、かくして甘えの弥慢化した世界であった。(土居健郎「甘えの構造」の一
節)

+++++著作権BYはやし浩司++++++copy right by Hiroshi Hayashi+++++ 
  
●日本人の依存性

 日本人が本来的にもつ依存心は、脳のCPU(中央演算装置)の問題だから、日本人がそれ
に気づくには、自らを一度、日本の外に置かねばならない。それはちょうどキアヌ・リーブズが
主演した映画『マトリックス』の世界に似ている。

その世界にどっぷりと住んでいるから、自分が仮想現実の世界に住んでいることにすら気づか
ない……。

 子どもでもおなかがすいて、何か食べたいときでも、「食べたい」とは言わない。「おなかがす
いたア、(だから何とかしてくれ)」と言う。子どもだけではない。私の叔母などは、もう40歳のと
きから私に、「おばちゃん(自分)も、歳をとったでナ。(だから何とかしてくれ)」と言っていた。

 こうした依存性は国民的なもので、この日本では、おとなも子どもも、男も女も、社会も国民
も、それぞれが相互に依存しあっている。

こうした構造的な国民性を、「甘えの構造」と呼んだ人もいる(土居健郎)。たとえば海外へ移住
した日本人は、すぐリトル東京をつくって、相互に依存しあう。そしてそこで生まれた子ども(二
世)や孫(三世)は、いつまでたっても、自らを「日系人」と呼んでいる。依存性が強い分だけ、
その社会に同化できない。

 もちろん親子関係もそうだ。この日本では親にベタベタと甘える子どもイコール、かわいい子
とし、そのかわいい子イコール、よい子とする。

反対に独立心が旺盛で、親を親とも思わない子どもを、親不孝者とか、鬼っ子と言って嫌う。そ
してそれと同時進行の形で、親は子どもに対して、「産んでやった」「育ててやった」と依存し、
子どもは子どもで「産んでもらった」「育ててもらった」と依存する。

こうした日本人独特の国民性が、いつどのようにしてできたかについては、また別のところで話
すとして、しかし今、その依存性が大きく音をたてて崩れ始めている。

イタリアにいる友人が、こんなメールを送ってくれた。いわく、「ローマにやってくる日本人は、大
きく二つに分けることができる。旗を先頭にゾロゾロとやってくる日本人。年配の人が多い。もう
一つは小さなグループで好き勝手に動き回る日本人。茶髪の若者が多い」と。

 今、この日本は、旧態の価値観から、よりグローバル化した新しい価値観への移行期にある
とみてよい。フランス革命のような派手な革命ではないが、しかし革命というにふさわしいほど
の転換期とみてよい。それがよいのか悪いのか、あるいはどういう社会がつぎにやってくるの
かは別にして、今という時代は、そういう視点でみないと理解できない時代であることも事実の
ようだ。

あなたの親子関係を考える一つのヒントとして、この問題を考えてみてほしい。
(はやし浩司 依存性 依存心 甘えの構造 日本人の依存性 依存 だから何とかしてくれ言
葉)

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

最前線の子育て論byはやし浩司(837)

【近況・あれこれ】

●光る虫

 夜、8時ころ、山荘に着く。門のクサリを解いていたときのこと。ふと足元を見ると、何やら光
っている。緑がかった、青白い光! 大きさは、米粒くらい。私は思わず、「ホタル!」と叫んで
しまった。

 が、その光は、すぐ消えてしまった。

 たしかにホタルだった。私はそのあたりを、目をこらして見つづけた。すると数分後、また、現
れた! 淡く、どこか元気のない光だった。

 そのとき、ワイフも、横にいた。「ホタルかもね……」「しかし……」。

 このあたりでは、夏になると、ホタルが見られる。しかし見られるといっても、それは7月の第
1〜2週目のころ。今は、8月の中旬を過ぎている。

 私は光る何かが、枯れ草の上に乗っているのを確認したあと、両手でそのあたりをすくった。
そしてそのまま、山荘へ。手の中で、その何かは、光を消そうとしているところだった。

 私はガラスコップの中に、そのままそれを入れた。そして少しずつ、まわりの枯れ草を、指で
つまんで、外へ出した。

 いた!

 見ると、体長が1センチよりやや長い虫。寿司屋で食べる、シャコのような姿をしていた。色
も、シャコそっくり。

私「何だか、気味悪いな」
ワイフ「エイリアンかもしれないわよ」
私「宇宙からやってきた、エイリアンか?」
ワ「そんな感じ……」

 私はそれをコップに入れたまま、しばらく観察して見るとことにした。足は6本だが、お尻の部
分が長いため、その部分は、尺取虫のようにして歩く。そのお尻の最後の部分に、白っぽいと
ころがある。どうやら、そこが光るらしい。

私「見たことないよ、こんな虫。枯れ葉そっくりだよ。昼間見ても、気がつかないだろうね」
ワ「ホタルの幼虫かしら……?」
私「ホタルの幼虫が、枯れ草の間にいるという話は聞いたことがないよ」
ワ「何でしょう?」
私「何だろう?」と。

 私は虫には詳しくない。子どもたちの間では、「虫キング」とか何とかという遊びが大流行して
いる。いつもなら、そういう遊びを教えてもらうのだが、今度ばかりは、あまり、興味がない。ど
んなふうにして遊ぶのかも知らない。もともと、虫は、あまり好きではない。

 紙と鉛筆を取り出し、さっそくその虫をスケッチ。

 その図は、R天の日記のほうに、載せておく。

 どなたか、この虫の正体を知っている人はいませんか? もしご存知の方がいらっしゃれれ
ば、どうか、教えてください。


●盗聴疑惑

 2000年4月10日。K国の首都P市で、韓国の大統領、金大中と、K国の国防委員長、金xx
との間で、歴史的な南北首脳会談が開かれた。このニュースは、日本のみならず、世界を驚
かせた。

 そのときのこと。K国の金xxは、金大中を空港まで出迎え、そのあと、2人だけで、P市内に
ある、白花園迎賓館へ向った……。その時間、約45分。

 実は、その45分の間のできごとについて、当初から、こんな盗聴疑惑が、関係者の間で、さ
さやかれていた。どこかハリウッド映画みたいな話だが、間接的な裏づけは、一応、取れてい
る。その裏づけを話す前に、まず、そのハリウッド映画みたいな話。

 金大中と金xxは、2人だけで、その迎賓館に向った。その間、かかった時間は、ここにも書い
たように、約45分。

 その車を、宇宙から監視していた、スパイ衛星があった。アメリカのスパイ衛星である。そし
てそのスパイ衛星は、車の中の2人の会話を、盗聴するのに成功していたという。実はこの部
分が、ハリウッド映画みたいということになるが、決して、ありえない話ではない。

 この盗聴疑惑事件とは別に、現在、アメリカのCIAがもっている盗聴技術には、ものすごいも
のがある。5、6年前に聞いた話だが、そのときすでに、ビルの中でなされる会話ですらも、アメ
リカのCIAは、宇宙から盗聴することができたという。たとえば日本の通産省(当時)のビルの
中で、だれかがだれかに電話をかけたとする。その電話の内容くらいなら、簡単に盗聴できた
という。私がそのとき聞いた話は、そんな内容だったが、まさにケタ違いの、盗聴技術と言って
よい。

 で、その車の中で金大中が、金xxに話した内容を、アメリカの国務長官(当時)が、何かの席
で、ふと外部の者に漏らしてしまった。それでその「45分間の盗聴」が、本当にあったことが、
外部の者に、わかってしまった。それが先に書いた、ここでいう(裏づけ)ということになる。

 何でも、その車の中で、金大中は、「xxxxxxxには、お世話になりました。xxxxxxxxxxx、あり
がとうございました。私はxxxxxxxxxxxxxxxxxx」と、しゃべったというのだ。

 盗聴疑惑もさることながら、金大中は、本当にそんなことをしゃべったのかという疑問も、そ
の当時、なかったわけではない。しかしその会談につづく、金大中の対K国政策、さらには、N
大統領になってからの対K国政策を見ていると、そのとき交わされた会話どおりの筋書きで、
ことが運んでいるのがわかる。

つまり、やはり、その盗聴疑惑は、(疑惑)ではなく、本当にあったということになる。

 やり方としては、極超短波のマイクロ波を、車の屋根にあて、その返ってくる振動の変化を読
み取ることで、車の中の会話を聞くという方法などが、あるそうだ。簡単な装置なら、すでに東
京の秋葉原あたりでも、一般に市販されているという。それにしても、驚くべき技術ではない
か!
 
 あなたや私には、関係のない話だが……。


●ターゲットの移動(育児ノイローゼ)

 自称、「私は育児ノイローゼです」という女性と、話をする。

 たしかに、そうだった。声も口調も、ハイテンポ。多弁だったが、どこか、とらえどころがなかっ
た。で、その女性は、「子育てが重荷でならない」と言った。しかし自分で、それと自覚している
なら、それほど、問題はない。こういうのを、精神医学の世界では、「病識」という。「私の頭は
おかしい」と思っている人は、病識がある、つまりそれほど、重症ではない。「私は正常」と思っ
ている人ほど、病識がない、つまり重症である。

 で、その人と話しをしていて、一つ、気づいたことがある。つぎからつぎへと、ターゲットが移
動していくということ。たとえば、こうだ。

 たとえばその子ども(8歳男児)に、何か問題が起きたとする。するとその母親は、異常なま
での思いすごしと、取り越し苦労を重ねながら、悶々と悩む。

 で、しばらくしてその問題が解決したとする。が、同時に、そのときから、今度は、別の問題で
悩み始める。これを(悩みの連鎖)という。もう少し、具体的に説明しよう。

 自分の子ども(ここに書いた人とは、関係ない)に、何かの知的障害がみられたとする。する
と、その母親は、子どもの知的障害に悩み、あちこちの施設を回る。そしてやっとのことで、そ
の子どもを、週3回、めんどうをみてくれる施設を探し当てたとする。

 ほっとしたのも、つかのま、今度は、その費用のことで悩み始める。で、実の母親(子どもの
祖母)に相談。かなりまとなった額を、援助してもらえることになった。で、費用の問題は解決し
たことになるのだが、今度は、施設への、送り迎えがたいへんと、悩み始める。

 こうしてその母親は、つぎからつぎへと問題をつくっては、解決し、解決するとまた、つぎの問
題をつくっては、悩む。あとは、これを繰りかえす。

 こうした(悩みの連鎖)の背景にあるものはといえば、要するに、子育てが負担だということ。
もっと言えば、子どもへの愛情そのものが、欠落している。公式の調査によっても、今、自分の
子どもを愛することができないと悩んでいる母親は、7〜10%はいる。その母親も、そうだっ
た。

 実は、育児ノイローゼと言われる人たちを見ていると、同じような症状を感ずることが多い。
このタイプの母親たちは、本来なら、つまり基本的な部分で愛情さえしっかりしていれば、ノイロ
ーゼになるような問題ではないことで、悩んだり、苦しんだりしている。

 言いかえると、本来の問題をおおい隠しながら、「こういう問題がある」「ああいう問題もある」
と、悩んだり、苦しんだりしている。

 だから、たとえばあまり、くどくどと、母親が自分の悩みを訴えるときは、私は、こう言うように
している。

 「要するに、あなたは、子育てをしたくないということですね。だったら、正直に、そう言えばい
いのです。子どもが好きになれなかったら、好きではないと言えばいいのです。自分の心をご
まかしているから、悩んだり、苦しんだりするのです。いい母親ぶるから、悩んだり、苦しんだり
するのです。もっと、自分にすなおになることです」と。

 もちろん育児ノイローゼといっても、千差万別。家庭問題、夫婦問題、経済問題、家族の問
題、病気などがからんでくることもある。決して、一様ではない。

 しかし育児ノイローゼを訴える人たちに、共通して見られる症状として、こうした(悩みの連
鎖)があることも、事実。それに気づいたので、ここに書きとめておくことにする。
(はやし浩司 悩みの連鎖 育児ノイローゼ 病識 育児問題)

++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

母親が育児ノイローゼになるとき

●頭の中で数字が乱舞した    
 
それはささいな事故で始まった。まず、バスを乗り過ごしてしまった。保育園へ上の子ども(四
歳児)を連れていくとちゅうのできごとだった。次に風呂にお湯を入れていたときのことだった。
気がついてみると、バスタブから湯がザーザーとあふれていた。しかも熱湯。すんでのところ
で、下の子ども(二歳児)が、大やけどを負うところだった。

次に店にやってきた客へのつり銭をまちがえた。何度レジをたたいても、指がうまく動かなかっ
た。あせればあせるほど、頭の中で数字が勝手に乱舞し、わけがわからなくなってしまった。

●「どうしたらいいでしょうか」

 Aさん(母親、36歳)は、育児ノイローゼになっていた。もし病院で診察を受けたら、うつ病と
診断されたかもしれない。しかしAさんは病院へは行かなかった。子どもを保育園へ預けたあ
と、昼間は一番奥の部屋で、カーテンをしめたまま、引きこもるようになった。食事の用意は何
とかしたが、そういう状態では、満足な料理はできなかった。

そういうAさんを、夫は「だらしない」とか、「お前は、なまけ病だ」とか言って責めた。昔からの
米屋だったが、店の経営はAさんに任せ、夫は、宅配便会社で夜勤の仕事をしていた。

 そのAさん。私に会うと、いきなり快活な声で話しかけてきた。「先生、先日は通りで会ったの
に、あいさつもしなくてごめんなさい」と。私には思い当たることがなかったので、「ハア……、別
に気にしませんでした」と言ったが、今度は態度を一変させて、さめざめと泣き始めた。そして
こう言った。

「先生、私、疲れました。子育てを続ける自信がありません。どうしたらいいでしょうか」と。冒頭
に書いた話は、そのときAさんが話してくれたことである。

●育児ノイローゼ

 育児ノイローゼの特徴としては、次のようなものがある。

(1)生気感情(ハツラツとした感情)の沈滞、
(2)思考障害(頭が働かない、思考がまとまらない、迷う、堂々巡りばかりする、記憶力の低
下)、
(3)精神障害(感情の鈍化、楽しみや喜びなどの欠如、悲観的になる、趣味や興味の喪失、
日常活動への興味の喪失)、
(4)睡眠障害(早朝覚醒に不眠)など。さらにその状態が進むと、Aさんのように、
(5)風呂に熱湯を入れても、それに気づかなかったり(注意力欠陥障害)、
(6)ムダ買いや目的のない外出を繰り返す(行為障害)、
(7)ささいなことで極度の不安状態になる(不安障害)、
(8)同じようにささいなことで激怒したり、子どもを虐待するなど感情のコントロールができなく
なる(感情障害)、
(9)他人との接触を嫌う(回避性障害)、
(10)過食や拒食(摂食障害)を起こしたりするようになる。
(11)また必要以上に自分を責めたり、罪悪感をもつこともある(妄想性)。こうした兆候が見ら
れたら、黄信号ととらえる。育児ノイローゼが、悲惨な事件につながることも珍しくない。子ども
が間にからんでいるため、子どもが犠牲になることも多い。

●夫の理解と協力が不可欠

 ただこうした症状が母親に表れても、母親本人がそれに気づくということは、ほとんどない。
脳の中枢部分が変調をきたすため、本人はそういう状態になりながらも、「私はふつう」と思い
込む。あるいは症状を指摘したりすると、かえってそのことを苦にして、症状が重くなってしまっ
たり、さらにひどくなると、冷静な会話そのものができなくなってしまうこともある。Aさんのケー
スでも、私は慰め役に回るだけで、それ以上、何も話すことができなかった。

 そこで重要なのが、まわりにいる人、なかんずく夫の理解と協力ということになる。Aさんも、
子育てはすべてAさんに任され、夫は育児にはまったくと言ってよいほど、無関心であった。そ
れではいけない。子育ては重労働だ。私は、Aさんの夫に手紙を書くことにした。この原稿は、
そのときの手紙をまとめたものである。
(はやし浩司 育児ノイローゼ 症状 対処法)

++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

●マザコンの果てにあるもの

++++++++++++++++

マザコンについて、補記します。

++++++++++++++++

 子どもをでき愛する親は、少なくない。しかしでき愛は、(愛)ではない。自分の心のすき間を
埋めるために、親は、子どもをでき愛する。自分の情緒的不安定さや、精神的欠陥を補うため
に、子どもを利用する。つまりは、でき愛の愛は、愛もどきの、愛。代償的愛ともいう。

 これについては、何度も書いてきたので、ここでは、省略する。

 でき愛する親というのは、そもそも、依存性の強い親とみる。つまりそれだけ自立心が弱い。
で、その結果として、自分の子どもがもつ依存性に、どうしても、甘くなる。このタイプの親は、
自分にベタベタ甘えてくれる子どもイコール、かわいい子イコール、いい子と考えやすい。

 そのため自分にベタベタ甘えるように、子どもを、しむける。無意識のまま、そうする。こうして
たがいに、ベタベタの人間関係をつくる。

 いわゆるマザコンと呼ばれる人は、こういう親子関係の中で生まれる。いくつかの特徴があ
る。

 子どもをでき愛する親というのは、でき愛をもって、親の深い愛と誤解しやすい。でき愛ぶり
を、堂々と、人の前で、誇示する親さえいる。

 つぎにでき愛する親というのは、親子の間に、カベがない。ベタベタというか、ドロドロしてい
る。自分イコール、子ども、子どもイコール、自分という、強い意識をもつ。ある母親は、私にこ
う言った。

 「息子(年中児)が、友だちとけんかをしていると、その中に割りこんでいって、相手の子ども
をなぐりつけたくなります。その衝動をおさえるのに、苦労します」と。

 本来なら、こうした母子間のでき愛を防ぐのは、父親の役目ということになる。しかし概して言
えば、でき愛する母親の家庭では、その父親の存在感が薄い。父親がいるかいないかわから
ないといった、状態。

 で、さらに、マザコンというと、母親と息子の関係を想像しがちだが、実は、娘でも、マザコン
になるケースは少なくない。むしろ、息子より多いと考えてよい。しかも、息子がマザコンになる
よりも、さらに深刻なマザコンになるケースが多い。

 ただ、目だたないだけである。たとえば40歳の息子が、実家へ帰って、70歳の母親といっし
ょに、風呂に入ったりすると、それだけで大事件(?)になる。が、それが40歳の娘であったり
すると、むしろほほえましい光景と、とらえられる。こうした誤解と偏見が、娘のマザコン性を見
逃してしまう。

 ……というようなことも、何度も書いてきたので、ここでは、もう少し、先まで考えてみたい。

 冒頭にも書いたように、でき愛は(愛)ではない。したがって、それから生まれるマザコン性も
また、愛ではない。

 子どもをでき愛する親というのは、無私の愛で子どもを愛するのではない。いつも、心のどこ
かで、その見返りを求める。

 ある母親は、自分の息子が、結婚して横浜に住むようになったことについて、「嫁に息子を取
られた」と、みなに訴えた。そしてあちこちへ電話をかけて、「悔しい、悔しい」と、泣きながら、
自分の胸の内を訴えた。

 で、今度は、その反対。

 親にでき愛された子どもは、息子にせよ、娘にせよ、親に対して、ベタベタの依存性をもつ。
その依存性が、その子どもの自立をはばむ。

 よく誤解されるが、一人前の生活をしているから、自立心があるということにはならない。マザ
コンであるかどうかというのは、もっと言えば、親に依存性がもっているかどうかというのは、心
の奥の内側の問題である。外からは、わからない。

 一流会社のバリバリ社員でも、またいかめしい顔をした暴力団の親分でも、マザコンの人は
いくらでもいる。

 で、このマザコン性は、いわば脳のCPU(中央演算装置)の問題だから、本人自身が、それ
に気づくことは少ない。……というより、まず、ない。だれかが、その人のマザコン性を指摘した
りすると、こう答えたりする。

 「私の母は、それほどまでにすばらしい人だからです」「私の母は、世の人のためのカサにな
れと教えてくれました」と。

 つまりマザコンの人は、息子であるにせよ、娘であるにせよ、親に幻想をいだき、親を絶対視
しやすい。美化する。親絶対教の信者になることも少なくない。つまり、自分のマザコン性を、
正当化するために、そうする。

 で、その分だけ、親を愛しているかというと、そうでもない。でき愛で愛された子どももまた、同
じような代償的愛をもって、それを(親への深い愛)と、誤解しやすい。

 本来なら、子どもは、小学3、4年生ごろ(満10歳前後)で、親離れをする。また親は親で、子
どもが中学生くらいになったら、子離れをする。こうしてともに、自立の道を歩み始める。

 が、何らかの理由や原因で、(多くは、親側の情緒的、精神的問題)、その分離がままならな
くなることがある。そのため、ここでいうベタベタの人間関係を、そのまま、つづけてしまう。

 で、たいていは、その結末は、悲劇的なものとなりやすい。

 80歳をすぎて、やや頭のボケた母親に向って、「しっかりしろ」と、怒りつづけていた息子(50
歳くらい)がいた。

 マザコンの息子や娘にしてみれば、母親は絶対的な存在である。宗教にたとえるなら、本尊
のようなもの。その本尊に疑いをいだくということは、それまでの自分の生きザマを否定するこ
とに等しい。

 だからマザコンであった人ほど、母親が晩年を迎えるころになると、はげしく葛藤する。マザ
コンの息子にせよ、娘にせよ、親は、ボケてはならないのである。親は、悪人であってはならな
いのである。また自分の母親が見苦しい姿をさらけ出すことを、マザコンタイプの人は、許すこ
とができない。

 そして母親が死んだとする。依存性が強ければ強いほど、その衝撃もまた、大きい。それこ
そ、毎晩、空をみあげながら、「おふくろさんよ、おふくろさ〜ん」と、泣き叫ぶようになる。

 さらにマザコンタイプの男性ほど、結婚相手として、自分の母親の代用としての妻を求めるよ
うになる。そのため、離婚率も高くなる。浮気率も高くなるという調査結果もある。ある男性(映
画監督)は、雑誌の中で、臆面もなく、こう書いている。

 「私は、永遠のマドンナを求めて、女性から女性へと、渡り歩いています」「男というのは、そう
いうものです」と。(自分がそうだからといって、そう、勝手に決めてもらっては、困るが……。)
自ら、「私は、マザコンです」ということを、告白しているようなものである。

 子育ての目的は、子どもをよき家庭人として自立させること。子どもをマザコンにして、よいこ
とは、何もない。
(はやし浩司 マザコン 息子のマザコン 娘のマザコン 代償的愛 親の美化 偶像化)

【補記】

【マザコンの問題点】

(親側の問題)

(1)情緒的未熟性、精神的欠陥があることが多い。
(2)その時期に、子離れができず、子どもへの依存性を強める。
(3)生活の困苦、夫婦関係の崩壊などが引き金となり、でき愛に走りやすい。
(4)子どもを、自分の心のすき間を埋めるための所有物のように考える。
(5)親自身が自立できない。子育てをしながら、つねに、その見返りを求める。
(6)父親不在家庭。父親がいても、父親の影が薄い。
(7)でき愛をもって、親の深い愛と誤解しやすい。
(8)親子の間にカベがない。子どもがバカにされたりすると、自分がバカにされたかのように、
それに猛烈に反発したり、怒ったりする。
(9)息子の嫁との間が、険悪になりやすい。このタイプの親にとっては、嫁は、息子を奪った極
悪人ということになる。

(息子側の問題)

(1)親に強度の依存性をもつ。50歳をすぎても、「母ちゃん、母ちゃん」と親中心の生活環境
をつくる。
(2)親絶対教の信者となり、親を絶対視する。親を美化し、親に幻想をもちやすい。
(3)結婚しても、妻よりも、母親を優先する。妻に、「私とお母さんと、どちらが大切なのよ」と聞
かれると、「母親だ」と答えたりする。
(4)妻に、いつも、母親代わりとしての、偶像(マドンナ性)を求める。
(5)そのため、マザコン男性は離婚しやすく、浮気しやすい。
(6)妻と結婚するに際して、「親孝行」を条件にすることが多い。つまり妻ですらも、親のめんど
うをみる、家政婦のように考える傾向が強い。

(娘側の問題)

(1)異常なマザコン性があっても、周囲のものでさえ、それに気づくことが少ない。
(2)母親を絶対視し、母親への批判、中傷などを許さない。
(3)親絶対教の信者であり、とくに、母親を、仏様か、神様のように、崇拝する。
(4)母親への犠牲心を、いとわない。夫よりも、自分の生活よりも、母親の生活を大切にする。
(5)母親のまちがった行為を、許さない。人間的な寛容度が低い。母親を自分と同じ人間(女
性)と見ることができない。
(6)全体として、ブレーキが働かないため、マザコンになる息子より、症状が、深刻で重い。
(はやし浩司 マザコン マザコンの問題点 娘のマザコン マザコン息子 マザコン娘)


++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

●シャドウ

++++++++++++++++

仮面をかぶっても、仮面をぬぐことも
忘れないこと。

その仮面をぬぎ忘れると、たいへんな
ことになりますよ!

++++++++++++++++

 もともと邪悪な人がいる。そういう人が仮面をかぶって、善人ぶって生きていたとする。すると
やがて、その人は、仮面をかぶっていることすら、忘れてしまうことがある。自分で、自分は善
人だと思いこんでしまう。

 このタイプの人は、どこか言動が不自然。そのため簡単に見分けることができる。さも私は
善人……というように、相手に同情して見せたり、妙に不自然な言い方をする。全体に演技ぽ
い。ウソっぽい。大げさ。

 こういう話は、以前にも書いた。

 そこでこのタイプの人は、長い時間をかけて、自分の中に、もう1人の自分をつくる。それが
シャドウである。ユングが説いたシャドウとは、少し意味がちがうかもしれないが、まあ、それに
近い。

 このシャドウのこわいところは、シャドウそのものよりも、そのシャドウを、時に、身近にいる
人が、そっくりそのまま受けついでしまうこと。よくあるのは、子どもが、親の醜いところをそっく
りそのまま、受けついでしまうケース。

 ある母親は、近所の人たちの間では、親切でやさしい女性で通っていた。言い方も、おだや
かで、だれかに何かを頼まれると、それにていねいに応じていたりした。

 しかし素性は、それほど、よくなかった。嫉妬深く、その心の奥底では、醜い欲望が、いつも
ウズを巻いていた。そのため、他人の不幸話を聞くのが、何よりも、好きだった。

 こうしてその女性には、その女性のシャドウができた。その女性は、自分の醜い部分を、そ
のシャドウの中に、押しこめることによって、一応は、人前では、善人ぶることができた。

 が、問題は、やがて、その娘に現れた。……といっても、この話は、20年や30年単位の話
ではない。世代単位の話である。

 その母親は、10数年前に他界。その娘も、今年、70歳を超えた。

 その娘について、近所の人は、「あんな恐ろしい人はいない」と言う。一度その娘にねたまれ
ると、とことん、意地悪をされるという。人をだますのは、平気。親類の人たちのみならず、自分
の夫や、子どもまで、だますという。

 その娘について、その娘の弟(現在67歳)は、こう教えてくれた。

 「姉を見ていると、昔の母そっくりなので、驚きます」と。

 話を聞くと、こうだ。

 「私の母は、他人の前では、善人ぶっていましたが、母が善人でないことは、よく知っていまし
た。家へ帰ってくると、別人のように、大声をあげて、『あのヤロウ!』と、口汚く、その人をのの
しっていたのを、よく見かけました。ほとんど、毎日が、そうではなかったかと思います。母に
は、そういう2面性がありました。私の姉は、その悪いほうの1面を、そっくりそのまま受け継い
でしまったのです」と。

 この弟氏の話してくれたことは、まさに、シャドウ論で説明がつく。つまり、これがシャドウのも
つ、本当のおそろしさである。

 そこで重要なことは、こうしたシャドウをつくらないこと。その前に、仮面をかぶらないこと。と
いっても、私たちは、いつも、その仮面をかぶって生きている。教師としての仮面。店員として
の仮面。営業マンとしての仮面。

 そういう仮面をかぶるならかぶるで、かぶっていることを忘れてはいけない。家に帰って家族
を前にしたら、そういう仮面は、はずす。はずして、もとの自分にもどる。

 仮面をとりはずすのを忘れると、自分がだれであるかがわからなくなってしまう。が、それだ
けではない。こうしてできたシャドウは、そのままそっくり、あなたの子どもに受けつがれてしま
う。
(はやし浩司 仮面 ペルソナ シャドウ)

++++++++++++++++++

 少し前に書いた、「シャドウ論」を、
もう一度、ここに添付しておきます。
内容を少し手なおしして、お届けします。

++++++++++++++++++

●仮面とシャドウ

 だれしも、いろいろな仮面(ペルソナ)をかぶる。親としての仮面、隣人としての仮面、夫として
の仮面など。もちろん、商売には、仮面はつきもの。商売では、いくら客に怒鳴られても、にこ
やかな顔をして、頭をさげる。

 しかし仮面をかぶれば、かぶるほど、その向こうには、もうひとりの自分が生まれる。これを
「シャドウ(影)」という。本来の自分というよりは、邪悪な自分と考えたほうがよい。ねたみ、うら
み、怒り、不満、悲しみ……そういったものが、そのシャドウの部分で、ウズを巻く。

 世間をさわがすような大事件が起きる。陰湿きわまりない、殺人事件など。そういう事件を起
こす子どもの生まれ育った環境を調べてみると、それほど、劣悪な環境ではないことがわか
る。むしろ、ふつうの家庭よりも、よい家庭であることが多い。

 夫は、大企業に勤める中堅サラリーマン。妻は、大卒のエリート。都会の立派なマンションに
住み、それなりにリッチな生活を営んでいる。知的レベルも高い。子どもの教育にも熱心。

 が、そういう家庭環境に育った子どもが、大事件を引き起こす。

 実は、ここに(仮面とシャドウの問題)が隠されている。

 たとえば親が、子どもに向かって、「勉強しなさい」「いい大学へ入りなさい」と言ったとする。
「この世の中は、何といっても、学歴よ。学歴があれば、苦労もなく、一生、安泰よ」と。

 そのとき、親は、仮面をかぶる。いや、本心からそう思って、つまり子どものことを思って、そ
う言うなら、まだ話がわかる。しかしたいていのばあい、そこには、シャドウがつきまとう。

 親のメンツ、見栄、体裁、世間体など。日ごろ、他人の価値を、その職業や学歴で判断して
いる人ほど、そうだ。このH市でも、その人の価値を、出身高校でみるようなところがある。「あ
の人はSS高校ですってねえ」「あの人は、CC高校しか出てないんですってねえ」と。

 悪しき、封建時代の身分制度の亡霊が、いまだに、のさばっている。身分制度が、そのまま
学歴制度になり、さらにそれが、出身高校へと結びついていった(?)。街道筋の宿場町であっ
たがために、余計に、そういう風潮が生まれたのかもしれない。その人を判断する基準が、出
身高校へと結びついていった(?)。

 この学歴で人を判断するという部分が、シャドウになる。

 そして子どもは、親の仮面を見破り、その向こうにあるシャドウを、そのまま引きついでしま
う。実は、これがこわい。「親は、自分のメンツのために、オレをSS高校へ入れようとしている」
と。そしてそうした思いは、そのまま、ドロドロとした人間関係をつくる基盤となってしまう。

 よくシャドウ論で話題になるのが、今村昌平が監督した映画、『復讐するは我にあり』である。
佐木隆三の同名フィクション小説を映画化したものである。名優、緒方拳が、みごとな演技をし
ている。

 あの映画の主人公の榎津厳は、5人を殺し、全国を逃げ歩く。が、その榎津厳もさることなが
ら、この小説の中には、もう1本の柱がある。それが三國連太郎が演ずる、父親、榎津鎮雄と
の、葛藤(かっとう)である。榎津厳自身が、「あいつ(妻)は、おやじにほれとるけん」と言う。そ
んなセリフさえ出てくる。

 父親の榎津鎮雄は、倍賞美津子が演ずる、榎津厳の嫁と、不倫関係に陥る。映画を見た人
なら知っていると思うが、風呂場でのあのなまめかしいシーンは、見る人に、強烈な印象を与
える。嫁は、義理の父親の背中を洗いながら、その手をもって、自分の乳房を握らせる。

 つまり父親の榎津鎮雄は、厳格なクリスチャン。それを仮面とするなら、息子の嫁と不倫関
係になる部分が、シャドウということになる。主人公の榎津厳は、そのシャドウを、そっくりその
まま引き継いでしまった。そしてそれが榎津厳をして、犯罪者に仕立てあげる原動力になっ
た。

 子育てをしていて、こわいところは、実は、ここにある。

 親は仮面をかぶり、子どもをだましきったつもりでいるかもしれないが、子どもは、その仮面
を通して、そのうしろにあるシャドウまで見抜いてしまうということ。見抜くだけならまだしも、そ
のシャドウをそのまま受けついでしまう。

 だからどうしたらよいかということまでは、ここには書けない。しかしこれだけは言える。

 子どもの前では、仮面をかぶらない。ついでにシャドウもつくらない。いつもありのままの自分
を見せる。シャドウのある人間関係よりは、未熟で未完成な人間関係のほうが、まし。もっと言
えば、シャドウのある親よりは、バカで、アホで、ドジな親のほうが、子どもにとっては、好ましい
ということになる。
(はやし浩司 シャドウ 仮面 ペルソナ 復讐するは我にあり シャドウ論 参考文献 河出書
房新社「精神分析がわかる本」)


++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司


最前線の子育て論byはやし浩司(838)

●古里

+++++++++++++++++

みなさんにとって、古里というのは、
どんなところですか?

心温まる、古里ですか?
それとも、……?

+++++++++++++++++

 この浜松に住むようになって、もう、36年になる。私の人生の62%を、この浜松で過ごした
ことになる。そんなわけで、私は、とっくの昔に、浜松人ということか。ときどき、郷里のG県のM
市に帰ることはあるが、今では、浜松の方言のまま、みなと話すことが多くなった。

(少し前までは、M市に帰れば、M市の方言で、話をしたものだが……。)

 人によっては、定年退職をするような年齢になっても、自分の出身地に、強い地縁を感ずる
が人がいるようだ。現在住んでいるところは、あくまでも仮の住所(?)。60歳になっても、70
歳になっても、だ。

 私はもともと、周囲を山に囲まれたあの町が、好きではなかった。どこか息苦しかった。だか
ら、M市を飛び出した。そのせいかどうかは知らないが、古里を忘れるのも、はやかった。浜
松に住んで5年にもならないうちに、高校野球でも、静岡県の代表チームを応援するようになっ
た。

そんなころ、静岡県の代表チームと、G県の代表チームが対戦することがあった。多少の迷い
はあったが、私は、静岡県の代表チームを応援している私を知った。私は、そうすることで、あ
えて、心のどこかで、古里を、吹っ切っろうとしていたのかもしれない。

 その私が、今、ときどき、G県に帰る。そして親類や、昔の仲間と、会話をする。そのときのこ
と。遠い昔の私がそこにいるのは、わかる。が、遠い昔の私は、大きな、ビニールシートのよう
なものでおおわれている。私の子ども時代は、そのシートの下にある。

 子ども時代の私と、今の私が、どこかで途切れている(?)。

 そういう私を、批判する人も、少なくない。「浩司、古里というのは、そういうものではないぞ」
「死ぬまで、古里を大切にしろ」と。

 しかし、(思い)というのは、人、それぞれ。私には私の、生まれ育った環境というものがあ
る。今の私が、正しいとか、そうでないとか言われても困る。今の私は、今の私。その私が、そ
う感ずるのだから、それはそれでしかたのないことではないか。

 そこで改めて考えてみる。先にも書いたように、老人になっても、古里にこだわる人は少なく
ない。最近なくなったが、近くに住んでいたK氏も、遺言で、「骨は、N県のS村に埋めてほしい」
と言い残していたという。そのS村を離れて、60年以上にもなる。

 こうしたちがいは、どうして生まれるのか。

 古里にこだわる人。まったくこだわらない人。

 ひとつ言えることは、年をとればとるほど、回顧性が強くなるということ。若いときは、先祖の
墓参りなど、ほとんどしなかった人でも、ある年齢がくると、墓参りをするようになったりする。
「死への準備」ととらえる人もいるが、どうも、それだけではないようだ。

 ひょっとしたら、人間にも、魚のサケに似た、帰趨(きすう)本能のようなものがあるのかもし
れない。何万キロも大海を旅したあと、またもとの生まれ故郷にもどってくる……。

 そういう本能にすなおに従う人もいれば、そうでない人もいる。本来なら、すなおに従えば、気
も楽なのかもしれない。しかしそれぞれの人には、そして私にも、それぞれの複雑な事情という
ものがある。本能がそうであるからといって、それを自分以外の人間に押しつけるのも、どうか
と思う。

 このところ、何かにつけて、古里のことを、よく考える。そういう意味では、私も、回顧性が強く
なってきたのかもしれない。今の(思い)が、絶対だとは言えないが、今は、ワイフや息子たち
には、こう言っている。

 「私が(ワイフより)、先に死んだら、遺灰の扱いは、ワイフに任せる。葬式などしなくてもいい
し、墓もいらない。ワイフも死んだら、そのあとのことは、息子たちに任せる。それ以上のこと
は、まったく、何も考えていない」と。

●ちがいがわかる

これは、あくまでも、余談だが、そのせいか、G県の人たちの、独得のものの考え方というか、
そういうものが、よくわかる。G県の人たちを、外の世界から、客観的に見るからではないか。
「昔は、私もああだったなあ」と思うと同時に、「私も、変ったな」と。そういうふうに交互に考えて
いると、そこにG県の人たちの姿が見えてくる。

 全体としてみると、G県の人たちは、よい意味では、義理、人情に厚い。悪い意味では、自立
心に欠け、たがいへの依存性が強い。だからときどき、浜松の人があまり使わない、言いまわ
しに気がつくことが多い。

 たとえば、G県の人たちは、こういう言い方をする。

(1)「悪いけどもオ〜」……実際には、「悪いけどなも〜」という言い方をする。たとえば「悪いけ
どなも、ひとつ、お願いしたいことがあるけどなも」と。

 そういう言い方をされると、今の私は、「悪いと思っているなら、言うな」と、つい言いそうにな
ってしまう。「だいたいにおいて、悪いと思っていることを、人に頼むのは、失敬ではないか!」
と。

 最初にあやまっておけば、相手も、気を悪くしないだろうという配慮から、そう言うのだろう。し
かし浜松の人たちは、そういう言い方をあまりしない。

 そこでワイフに聞いてみる。ワイフは、生粋(きっすい)の浜松っ子である。

 「浜松でも、そういう言い方をすることもあるけど……」とのこと。

 ほかの地方でのことは知らない。しかし私自身は、そういうどこか、卑屈な言い方は、好きで
はない。そういう意味では、浜松の人は、ものの考え方が、G県の人たちよりは、ストレート。は
っきりしている。

(2)「私はいいのですが」……実際には、「私はいいけど、世間がねえ……」というような言い方
をする。

 そういう言い方をされたときも、つい、私は、こう言いそうになる。「じゃあ、あなた自身は、どう
なのか?」と。「あなた自身の意見を聞いたい」と。つまりはこうした言い方というのは、責任の
がれの言い方ということになる。

 全体的に見ると、G県の人は、比較的、世間体を気にする。浜松の人は、比較的、世間体を
気にしない。そうしたちがいが、こうしたものの言い方のちがいとなって出てくる……?

 それについては、以前、私にこう教えてくれた人がいた。「浜松は昔から、街道筋の宿場町と
して、栄えた。そのため人の出入りがはげしく、世間体という概念が、育たなかったのでは…
…」と。
 
 そういう意味では、浜松の人たちは、外の世界から、いつも何かを吸収している。外から入っ
てくるものに対して、違和感をもたない。よい意味では、開放的。悪い意味では、文化を守り育
てない。古いものを、それを「古いから」という理由だけで、平気で捨ててしまう。

 その浜松にくらべて、G県のほうは、人の出入りが少ない。人相にしても、とくにM町の人たち
は、どくとくの顔つきをしている。そして驚くべきことに、人口3万人に満たない小さな町なのだ
が、話し方によって、その人がどの地域に住んでいるいる人かさえもわかる。町内ごとに、方
言があるような感じ。(本当だぞ!)

 それぞれの地方には、それぞれの特色がある。それがよいとか悪いとか言う前に、少なくと
も、私には、この浜松のもつ気風が、肌に合っている。

 I love Hamamatsu!

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4年前に書いた原稿を、
添付します。同じく、
私の古里(故郷)について
書いたものです。

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ふるさと

かつて室生犀星(むろうさいせい・詩人、小説家・1889〜1962)は、こう歌った。「♪ふるさと
は遠きにありて思うふもの」と。

 犀星の生活はかなり苦しかったらしい。故郷の金沢を出るときも、生活苦もあって、追われる
ようにして出ていったと聞いている。だから「♪遠きにありて思ふもの」と。

私は学生時代、合唱団の一員として、この歌を何度も歌ったことがある。なつかしい歌だ。今
でもこの歌を口ずさむと、あのころの私が、ありありとよみがえってくる。

  ふるさとは遠きにありて思ふもの
  そして悲しくうたふもの
  よしや
  うらぶれて異土の乞食となるとても
  帰るところにあるまじや
  ひとり都のゆふぐれに
  ふるさとおもひ涙ぐむ
  そのこころもて
  遠きみやこにかへらばや
  遠きみやこにかへらばや
                       [小景異情ーその二] より

 それはさておき、「ふるさと」という言葉には、独特の響きがある。それはちょうど、数千キロ
の旅を経たサケを、生まれ故郷の川に引き戻すような「響き」ではないか。「本能的な郷愁」と
言ってもよい。

人間のばあいは、「水」だけではなく、風土、風習、方言、食べ物すべてが、体にしみついてい
る。実際、そういうものを自分の中で断ち切ることは不可能と言ってもよい。ふるさとからどれ
だけ遠く離れて住んでも、自分という人間は、いつも心のどこかでそのふるさととのつながりを
求めている? ……こう断言するのは危険なことかもしれないが、大多数の人にとっては、そう
ではないかと思う。

 ただ、そのふるさとが、その人にとっていつも心温まるものであるかどうかとなると、それは、
一概にはそうとは言えない。自分のふるさとを忌み嫌っている人も少なくない。たとえば犀星も
この歌の中で、「(ふるさとは)悲しく歌ふもの」と表現している。

つまりふるさととのつながりを切ることもできないが、さりとて、すなおな気持ちで受け入れるこ
ともできない、と。これはそういう思いをもった人には、たいへんな葛藤(かっとう)と言ってもよ
い。

 私も故郷の岐阜県のM市を離れて、もう37年になる。もともと出たくて出たくてしかたなかっ
た町だから、ほとんど未練はない。同窓生とのつきあいも、1人、2人をのぞいて、まったくな
い。

たまに中学校や高校の同窓会に出たりするが、私の居場所すらない。たいていは儀礼的なあ
いさつと、中身のない会話をして、それで終わってしまう。それにこれは私だけの印象かもしれ
ないが、どこかみな、虚栄の張りあいをしているように感ずることも多い。もう少しすなおに、た
がいの心を開きあったら、同窓会も楽しいものになるのだろうが、37年という年月は、それに
しても長すぎる。少し前までは、盆踊りでよく歌われる「かわさき」(岐阜県郡上郡の民謡)を聞
いたりすると、それなりになつかしく思ったものだが、このところはそれもない。それに私のばあ
い、ここに書いたように、あの町から出たくて出たくてしかたなかった。

 加えて、私のばあい、家庭の中にすら、自分の居場所がなかった。街中の小さな自転車屋
で、二面を道路に面していた。自分の部屋どころか、家族が憩う、憩いの場所すらなかった。
台所も居間(居間と言えるような居間ではなかった)も、そのまま人が通る通路になっていた。

そんなわけで私は毎日、真っ暗になるまで、外で遊んでいた。今から思い出しても、当時はどこ
の家もそうだったが、どこかの貧しい国の貧しい家そのものだった。

 おまけに私の父は酒乱で、数日おきに酒を飲んでは、家の中で暴れた。今でも赤い夕日を
見ると、言いようのない不安感に襲われるのは、そのためだ。その時刻になると、いつも父が
酔っぱらって、通りをフラフラ歩いていた。私は子どもながらに、夕方になるたびに、「今日は、
酒を飲むのではないか」と、ハラハラしていた。

いや、それ以上につらかったのは、自分のプライドが、ズタズタにされたことだった。だから、私
にとってのふるさとは、ほとんどの人がもつふるさととは、違ったものだと思う。あるいは犀星が
歌ったふるさとに、近い。私にとってのふるさとは、まさに「♪ふるさとは遠きにありて思ふも
の。そして悲しくうたふもの」ということになる。

 ただ残念なのは、そういう私の心とは裏腹に、私を知る人が、「ふるさとはなつかしいハズだ」
と私の心を決めてかかることだ。実のところ、私の母もそう言っている。しかし私は、私のワイ
フや子どもに、いつもこう言っている。「私が死んでも、どうか遺骨は、あのふるさとの墓地にだ
けは入れないでほしい」と。日本の法律では許されないことかもしれないが、死んだら日本の領
海外でもよいから、私は自分の遺骨を、あの広い海に捨ててほしいと願っている。

 ふるさとに対する思いというのは、人それぞれではないのか。今、室生犀星の「ふるさと」を思
い出したので、この文を書いた。


++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

●BW教室から……

 今日、生徒たちとこんな会話をした。

 私が、何かの会話のついでに、ふと、「M君のお母さんって、すてきな人だね。好きだよ」と言
ったときのこと。別に深い意味があったわけではない。M君の母親は、気品があって、美しい
人だった。するとすかさず、G君(小5)が、こう言った。

「先生、それって、不倫じゃ、ない?」と。

 そこで私も、こう言ってやった。

私「君は、サッカーが好きか」
G[そう、好きだよ]
私「じゃあ、君は、サッカーと不倫をするのか?」
G「そんなの、こじつけだよオ」
私「好きだからといって、すべて不倫というわけじゃない。好きなものは、好き。M君のお母さん
の、ファンということ。それだけのこと」と。

 すると、それを横で聞いていた、M君がこう言った。

 「あのなア、林、おいらのママと不倫したら、あんたは、おいらのパパに殺されるよ。わかって
いるの?」と。

 その言葉に、私も、ドキッとした。今どきの子どもたちは、何でも知っている!

 すると、そこへ、本当に、M君の母親が、入ってきた。何とも気まずい雰囲気になった。G君
も、M君も、そして私も……。

私「こんにちは」
M君の母親「こんにちは」と。

 しかしこういう話は、誤解を招きやすい。私のほうから、M君の母親に、それまでの会話を説
明した。

私「今どきの子どもたちは、何でも知っていますね」
M君の母親「フフフ……」と。

 私も子どものころは、かなり先を行く子どもだったように思う。しかし「不倫」とか「浮気」などと
いう言葉さえ、知らなかった。が、今はちがう。ドロドロした人間関係が、そのまま、子どもの世
界にまで、入りこんでいる。

 それはそれでしかたのないことかもしれない。しかしそういう子どもたちを見ていると、一つだ
け、心配なことがある。つまり、倫理観や道徳観がともなわないまま、知識や情報だけが、どん
どんと子どもたちの世界に、なだれこんでいるということ。

 「不倫」という言葉を知りつつ、また「不倫」というのが、どういうことか知りつつ、それを倫理的
に考えたり、道徳的に考える力そのものがない。たとえて言うなら、金銭欲にとりつかれなが
ら、そのお金を稼ぐためには、それなりの努力や苦労が必要だということがわかっていない。
そんな感じがする。

 別れるとき、G君を呼びとめて、私は、こう聞いた。「なあ、G君、フリンって、何だ?」と。

 すると、G君は、こう言った。「知ってるくせに。そんなこと、子どものオイラに、聞くもんじゃな
いよ」と。

 わかりました。


++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

●BW教室から……(2)

 Cさん(母親)は、小学校の教員をしている。今は、下の子が生まれ、育児休業とかで、子育
てに専念している。そのCさんが、こう話してくれた。

 「来年、4月から、職場に復帰しますが、いろいろと不安なことや、心配なことがあります」と。

 そこでいろいろな話をする。

私「……そうですね。私の教室では、フラフラと立って歩く子どもがいますね。そういうとき、『お
しりがかゆいのか?』と、からかってやります。もしそんなことを、学校の先生が言ったら、それ
だけで、クビが飛んでしまいますよね。新聞ザタになるかもしれない。

 しかし私の教室では、かまわない。親たちが、いつも見ている。そのときの雰囲気をよく知っ
ている。冗談が、冗談として、そのままわかってもらえます」

C「そこなんですね。学校で子どもたちを教えているとき、一番、神経をつかうのは……。どこま
で言っていいのか、悪いのか。それにいつも、悩みます」と。

 ささいな会話でも、一度、子どもを介して親に伝わると、そうでなくなるときがある。おおげさに
なるというか、思わぬ方向に飛び火してしまうことがある。親自身がもつ被害妄想と、からんで
しまうことも少なくない。

 少し前だが、近くの小学校で、こんな事件があった。

 先生が、子どもの頭をたたいたというのだ。話をよく聞くと、そのときその先生は、プリントか
何かを丸めて、子どもの頭をポンポンとたたいただけということらしい。が、その子どもは、そ
の先生のことを、よく思っていなかった。親も、子どもの話だけを一方的に聞くだけで、やはり、
よく思っていなかった。

 そこでその親は、それを「体罰」ととらえた。それでおおげさになってしまった。「教師が、うち
の子に体罰を加えた!」と。

 その話をしてくれた校長は、こう言った。「だから、今、先生たちが、みな、萎縮してしまってい
ます。先日も、母親学級のほうで、『失敗しない子育て』というテーマを、みなで考えました。

 すると『失敗とは何だ! 失礼ではないか!』と怒ってきた両親がいました。その両親の子ど
もは、ある障害をもっていました。自分のことを言われたと思って、頭にカチンときたのでしょう
ね」と。

 要するに、今の先生たちは、四方八方から、がんじがらめになっているということか。Cさん
は、「それが不安です……」と。


++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

●DNA鑑定

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これからは、悪いこともできないぞ!
犯罪捜査は、今、ここまで進んでいる!

++++++++++++++++

 今日の新聞によれば、2年前の殺人事件の犯人が、検挙されたという。決め手は、DNA鑑
定。

 そのDNAが、今度、データベース化されるという。(すでにかなり、データベース化されている
はずだが……。)そして犯罪の重要な捜査手段の一つになるという。しかし私は、その記事を
読んで、ぞっとした。

 こういうことだ。

 今回の事件を例にあげて、考えてみよう。

 犯人は、そのとき、高校3年生だったという。現場には、脱ぎ捨てたサンダルがあった。捜査
当局が、どこでどのようにして、その犯人のDNAを採取したかについては書いてない。

 しかしそれから2年後。新聞記事によれば、その少年のDNAによく似たDNAをもつだれか
が、何かの事件を起こしたらしい。それでそのDNAをもつ周辺の人を調べていったら、その少
年が、容疑者として、浮かびあがってきたという。

 もう少しわかりやすく説明しよう。

 たとえば私が、ある犯罪を犯して、現場に、髪の毛1本でもなんでもよいが、そういったもの
を、何か、残したとする。捜査当局は、その髪の毛から私のDNAを採取する。そしてそれをデ
ータベース化する。が、その私は、まんまと捜査当局の目をかいくぐり、逃げ切ったとする。が、
それで安心してはいけない。

 今度は、その10年後。私の息子が、何かの犯罪を犯して、逮捕されたとする。そのとき息子
のDNAが採取されたとする。DNAは、コンピュータの中に、データベース化されているから、瞬
時に、類似した私のDNAが呼び出される。そして私の息子の周辺に、10年前の事件を犯した
犯人がいることを、捜査当局は知る。

 そのDNA鑑定を手がかりに、捜査の手は、やがて私に及んでくることになる。

 さらに、こんなことも……。

 いくつかの犯罪を犯しながらも、捜査当局の目を、無事(?)、かいくぐったとしても、これま
た、安心してはいけない。

 いつか、小さな事件で逮捕され、そこでDNAが採取されたとする。すると、それをもとに、イモ
づる式に、過去の犯罪すべてが、明るみになってしまう。すでに、そういう形での、DNA鑑定
は、実用化されているという。裁判所でも、証拠能力が認められているという。

 で、そのDNAだが、そのDNAを残さないで、犯罪を犯すことは、ほぼ100%、不可能と考え
てよい。髪の毛1本どころか、表皮一枚、あるいはだ液一滴からでも、DNAを採取することが
できる。

 言いかえると、これからのこの種の犯罪捜査は、DNA鑑定が主流になると考えてよい。が、
それがよいことなのか、悪いことなのか、私にはよくわからない。ただ、ここで言えるのは、これ
からの世界は、そのため、ますます、息苦しくなると考えてよいということ。

 たとえば、どこかの犯罪現場で、DNAが採取されたとする。そこで捜査当局は、そのDNA鑑
定をする。

 すると、そのDNAが、浜松市の林家周辺の者のDNAと似ていることがわかる。そこで捜査
当局は、私の家族の周辺に焦点を当てて、捜査を開始する。そしてやがて、そのDNAが、林
浩司のものであることを知る。

 それだけではない。ついでに、私が犯してきた犯罪すべてが、同時に、ズルズルと、わかって
しまう。

 私はこの記事を読みながら、ふと、あの由比正雪が起こした事件を思い浮かべた。

由比正雪らが起こしたとされる「慶安の変」では、事件の所在があいまいなまま、その刑は縁
者すべてに及んだという。親、兄弟、家族は言うに及ばず、親類、縁者まで、処刑されたとい
う。ズルズルっと、みんなだ。

同じように、これからは、血のつながりのあるだれかが1人、何かのことで逮捕されると、DNA
鑑定で、その周辺の人が犯した犯罪まで、すべて明るみになってしまう。そういう時代になる。

別に悪いことをしたいとは思わないが、しかし別の心で、「これからは、悪いこともできないな」
と、私は思った。

 みなさんも、くれぐれも、ご用心のほどを!
(はやし浩司 DNA鑑定 DNA捜査 DNA データベース化)

 
++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

最前線の子育て論byはやし浩司(839)

●あとから権威

 「あとから理由」という言葉がある。私がこの言葉をはじめて知ったのは、20歳も、半ばをす
ぎたころ。それまでは、知らなかった。

 つまりは、自分を正当化するために、あとから、何か理由をこじつけて言うことをいう。たとえ
ば、不注意でテーブルの上にあった、コップを落して割ったとする。そのとき、自分の不注意を
棚にあげて、こう言う。「カミナリが鳴ったから、驚いた。その拍子に、落してしまった」と。

 実際には、カミナリが鳴ったのは、コップを落したあとのことだった。

 同じような言葉に、「あとから権威」というのがある。

 コツコツと努力する。それが実を結んで、その道の権威になる。ふつうは、そういう過程を経
る。ところが、最初に、何かのことで、有名になってしまう。その道の権威者になってしまう。そう
なったあと、適当に知識を身につける。権威者のフリをする。

 そういうのを「あとから権威」という。教育の世界には、この「あとから権威」によって、その道
の権威者になった人は、多い。……ということを書くのが、このエッセーの目的ではない。

 あとから理由にせよ、あとから権威にせよ、そのつど、冷静にそれを見ぬく力をもたないと、
結局は、その人にだまされてしまうことになる。

 若いころ、こんな経験をした。

 私はある時期、ハリ麻酔に、たいへん興味をもった。最初は、軽い好奇心だったが、やが
て、ハマってしまった。

 そんなある日、願ってもないチャンスがやってきた。4、5人のドクターたちが、D市にある、N
医師を訪問するというのだ。N医師というのは、すでにそのとき、ハリ麻酔をつかって、10数例
近い、外科手術に成功したという実績をもっていた。あちこちの学会で、それを発表していた。

 私は、そのドクターたちに頼みこんで、同行させてもらうことにした。

 で、D市に向かった。ハリ麻酔については、私は、まだ、半信半疑だった。雑誌『ニューズウィ
ーク誌』に、中国でのハリ麻酔が紹介されてから、x年もたっていないころだった。

 で、N医師は、私たちを、まっすぐ、手術室に案内してくれた。そしてこう言った。「では、実験
してみせましょう。だれか、実験台になってくれる人はいませんか?」と。私は迷わず、サッと手
をあげた。そして、そのまま、上半身、裸になり、手術台の上に、横になった。

 はじめに、つまり手足の先にハリを刺す前に、N医師は、私の腹に指を突き刺しながら、こう
言った。「痛いですか?」と。私は、「痛い」と言った。N医師は、親指の爪をまっすぐ、私の腹に
向けて刺していた。痛いに決まっている!

 そしてハリ麻酔、開始。

 手足の、計、12〜3か所にハリを刺し、つづいて、そのハリに、低周波電流を流した。当時と
しては、ごくふつうの方法である。低周波電流発生器のパルス音に合わせて、小刻みに、手足
の筋肉が痙攣(けいれん)した。

 10分、20分とたち、予定の40分ちかくになった。その間、N医師は、ハリ麻酔のメカニズム
を、自分なりの解釈で、あれこれ説明していた。当時は、神経ブロック説が有力だった。ハリに
よって、体の部位と、脳ミソをつなぐ神経がブロックされるという考え方である。(最近の研究で
は、ハリの刺激により、脳内で麻薬様の物質が放出され、それがその部位の神経をマヒさせる
というのが、通説になっている。)

 で、その40分がたったときのこと。N医師は、再び、私の腹に指を立てた。しかし今度は、そ
の親指を、まっすぐではなく、内側に曲げて、指を立てた! 実験の前には、親指をまっすぐ立
てていた。しかし今度は、親指を、内側にまげている。腹に爪はあたっていない! 手術台を
上からのぞいているほかの医師たちからは見えなかったかもしれないが、手術台に寝ている
私の位置からは、それがよくわかった。

 で、N医師は、私にこう聞いた。「痛いですか?」と。私は正直に、「痛くないです」と答えた。
が、それ以上のことは、何も言えなかった。N医師は指を、私の腹の肉の中にめりこませてい
た。その感触は、ちゃんと、あった。

 私は、「インチキだ」と思った。手品師でも、もう少しましな手をつかっただろう。あまりのお粗
末さに、私はあ然としてしまった。が、まわりにいたドクターたちは、「ウォー」と、感嘆の声をあ
げた。

 私の印象では、そのとき、ハリ麻酔は、私にはかかっていなかったと思う。あの状態で、腹を
切ったら、私は、飛びあがって、それを痛がっただろう。当時の記録を見ると、N医師は、「硫
酸ANという、薬物麻酔と、ハリ麻酔を半々ずつ使って、ハリ麻酔によるxxx術を成功させた」
と、論文などには書いている。しかし硫酸ANを使ったら、それこそ神経がブロックされてしま
い、脳に、ハリによる刺激は伝わらないことになる。

 N医師は、0・5+0.5=1を考えたのだろうが、0・5+0・5=0・5ということなってしまう。

 そののちも、ずっと、N医師は、その世界の権威として君臨しつづけた。その前後に、電磁場
麻酔とか、静電界麻酔というのも、学会などで発表している。今から思うと、まことにもって、SF
的な麻酔法だが、もちろん、「?」な麻酔法である。その後の経緯をみると、今ここで、インチキ
だったと断言してよい。私は、N医師の活躍ぶりを聞くたびに、「?」を重ねた。

 実は、教育の世界にも、これに似た話は、多い。外国のインチキ大学で、博士号や、名誉教
授職名を、お金で買って、それを売り物にしている人は、いくらでもいる。つまりまず、自分を権
威者に仕立てあげた上で、そのあと、権威者として、ものを書いたり、言ったりする。

 実際、そういう名前だけの大学は、外国には、いくらでもある。アメリカやカナダに多い。50
〜80万円も出せば、名誉教授号。100万円前後で、博士号を買うことができる。

 こうしたインチキをのさばらせないための、唯一の方法は、「権威」そのものを否定すること。
認めないこと。どこかで、その権威を感じたら、自分の目と耳で、それを確かめること。

 日本人は、昔から、その権威に弱い。そのよい例が、あの水戸黄門である。三つ葉葵の紋
章を見せつけられただけで、周囲のものたちは、ハハーと頭をさげる。しかし考えようによって
は、あれほど、バカげた世界もない。つまり権威が、その人の地位と肩書きを支える柱になっ
ている。

 つまりそれがなくならないかぎり、日本に、真の民主主義は、育たない。人間が、人間の中身
だけを見て判断する。そういう世界にならないかぎり、いつまでも、愚劣な権威主義社会はつづ
く。

 ……といっても、もちろん学問まで、私は否定する者ではない。ただ、今の日本のように、そ
の人生の入り口で、1、2回の試験に合格しただけで、あとは死ぬまで安泰という世界は、おか
しいと、私は言っている。競争社会を肯定するならするで、その競争は、フェアなものでなけれ
ばならない。

 たとえばどこかの役所で、公務員をしていた人が、横すべりで、公営の健康センターの所長
になったりする。とたん、自分なりの健康論を説き、その道の権威者になりすます。そういう例
は、あなたのまわりにも、1つや2つは、必ずあるはず。それこそまさに、あとから権威ではな
いのか。

 話がそれたが、教育の世界には、この「あとから権威」が、あまりにも多い。それでここで、そ
の「あとから権威」について、考えてみた。
(はやし浩司 後から権威 後から理由 あとから権威 あとから理由)


++++++++++++++++++はやし浩司

【近況・あれこれ】

●アレッ?

 どこかの電話会社から、DMが、届いた。国際電話を専門にしている、電話会社である。

 「K社、ご利用の皆様へ、電話代が高くても、気にならない? ……YESの人は、〜〜。NO
の人は、つづきを、中を開いてご覧ください!」と。

 つまり「YESの人は、このDMを無視してください」「NOの人は、お得な情報ですから、中を開
いてください」ということになる。

 しかしこのばあい、「YES」と「NO」の意味は、逆になる。「YES」を選んだ人は、「気になる」イ
コール、「高いから、何とかしてほしい」。「NO」を選んだ人は、「気にならない」イコール、「高い
とは、思っていない人」ということになる。

 国際電話を扱っている会社なのだから、この程度の英語の知識は、基本中の基本だと思う
のだが……。それで、私は、「アレッ?」と思った。

 ここまで書いて思い出したのが、コンピュータ英語。昔、何かのファイルを削除しようとしたと
き、こんな表示が現れた。それを見て、私は、ハタと困ってしまったことがある。

 (すべて、はい)(はい)(いいえ)(すべて、いいえ)と。

 私はその表示を見ながら、ウウ〜ンと、そのまましばらく、考えこんでしまった。ほかにも、コ
ンピュータを相手にしていると、ときどき、「?」と思う表現に、よく出くわす。

 最初に訳をつけた人が、あまりコンピュータを知らないまま、訳をつけたからではないか。

【補記】

 同じように、よくまちがえる英語に、「Do you mind me smoking here?」(私がここでタバコを吸
ってもいいですか?)という表現。直訳では「私がここでタバコを吸うことを、あなたは気にする
か」となる。

 そのため、「いいです」と答えるときは、「No」と言う。「だめです」と答えるときは、「Yes」と言
う。「mind」.は、もともと「気にとめる」という意味である。


●相乗効果(恵まれた子どもたち)

 私が教えている、夜の1クラスに、こんなクラスがある。小学3年生から6年生までの子どもた
ちが、6〜7人、集まっている。

 みんな、めぐまれた子どもたち(gifted children)である。頭がよい。聡明で、好奇心が旺
盛。それにみんな、幼稚園の年中児のときから、私の教室に来てくれている。

 しかしこういう子どもたちが、6〜7人も集まると、そこで相乗効果が生まれる。私が何も教え
なくても、子どもどうしが刺激しあい、勝手にどんどんと伸びていく。

 しかも、だ。私が「もう時間だから、今夜は、やめよう」と声をかけても、やめない。昨夜も、一
応、8時30分には、終わる予定だったが、最後に帰った子どもは、9時近くになっていた。

 一度、こういう状態になると、つまりクラス全体がこういう状態になると、1〜2時間程度の学
習で、学校の教科書(上)程度なら、半分以上も、自分でやりこなしてしまう。実際には、1か月
程度で、その学年の学習を終えてしまう。

 だから飛び級などという、ものではない。みんな、2、3学年先の勉強をしている。自分でして
いる。おかしなことだが、私のほうが、ときどき、ブレーキをかけることがある。数学パズルの本
を買ってあげたりして、横道にそれたり、回り道をしたりしている。

 で、肝心の私は、机の前にすわって、ただ監督しているだけ。子どもたちは、そのつど、わか
らないところだけを、もってくる。そこで私がすることとは、ただポイントを教えるだけ。飲みこみ
も、早い。だから、あっという間に理解してくれる。

 ところで、別のクラスだが、小学1年生で、こんな問題を解いた子どもがいた。N君という。そ
の子どもは、小学3年生レベルクラスで、勉強している。

(問)「お母さんが、あなたの大好きなピザを、9分の7、あげようか。それとも、5分の4、あげ
ようかと聞きました。あなたは大きいほうのピザを食べたいと思っています。どちらを選びます
か?」と。

 私は、こうした問題を、ときどき、子どもたちに出す。できる・できないは重要なことではない。
子どもたちが、どう考えはじめるかが、重要である。私は、そういう子どもの様子を横で見てい
るのが、正直言って、楽しくてならない。

 そこでN君は、こんなことを始めた。

(1)コンパスで、同じ大きさの円を2つ、描いた。(ピザのつもりである。)
(2)2つの円の直径を、ものさしで、はかった。そして両方を、直径10センチと、仮定した。
(3)まず、10÷9で、1・11という答をだす。そしてそれを7倍して、7・77とした。
(4)同じように、もう一方のピザも、10÷5で、0・2という答を出す。そしてそれを4倍して、0・
8とした。
(5)そして私にこう言った。「先生、5分の4のほうのピザが、大きい」と。

 いろいろな子どもを見てきたが、小学1年生で、ここまでできる子どもは、少ない。小学3年生
でも、少ない。

 私としては、N君を、先の飛び級クラスに入れたいのだが、まだ体力的に無理。もう少し様子
を見てから、先のクラスへ入れたいと考えている。

 ただ誤解がないように、言っておきたい。

 このタイプの子どもたちには、ガンガンと教える必要は、まったく、ない。子どもたちがしたい
ように、させる。あとは、ほうっておく。私のほうから、何も言わなくても、自分で勉強をしてくれ
る。楽といえば、これほど、楽な授業は、ない。

 あとは、ほめるだけ。昨夜も、小学4年生の女の子が、中学2年生の学習を終えてしまった。
そこで私が、「中学3年生の教科書を買っておいたよ」と言って渡すと、ニコニコとうれしそうに
笑った。

 その子は、その教科書を、しばらく大切そうに、ながめていた。そしておもむろに、教科書を、
開いて、それを読みはじめた。私は、それを見て見ぬフリ。私がすることは、せいぜい、その程
度。

 めぐまれた子どもたち(gifted children)というのは、そういう子どもたちをいう。

【子どもたちを伸ばすために……】

 幼児時代は、とにかく(考えることを好き)にさせること。右脳教育のような刺激では、その(考
えることが好きな子ども)は、生まれない! 考えるということは、ものごとを静かに分析し、論
理的に思考を組み立てられる子どもいう。

 そのためには、(1)いろいろな刺激を与え、(2)考えることは楽しいことだということを、徹底
的に、理解させる。その時期は、年中児から年長児にかけて、である。
(はやし浩司 恵まれた子ども 恵まれた子供 gifted children 才能教室 英才教室 英才教
室 浜松 はやし浩司)


++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

●韓国N政権の大失政

 韓国国内でも、N大統領の「失政」が指摘されるようになってきた。N政権が、反日、親北政権
であることは、よくわかる。しかしどうして、今、反米なのか?

 N大統領のしていることは、はっきり言って、まともではない。

「日本の植民地下の反民族行為真相特別法」なるものを制定したり、「真実・和解のための過
去史清算基本法」なるものも制定したりしている。それに合わせて、国家情報院、警察、国防
部などが、独自の過去史解明委員会を稼動している。

 もう、日本たたきのためなら、何でもござれ、といった感じ。

 しかしこれとて、国民の目を、容共から、そらすためではないのか。今まで、さんざん、反共で
つき進んできた韓国。が、ここにきて、突然、容共(?)。あるいは自分の失政を、日本のせい
にしている……?

 おかげで、経済は、年率5%の成長から、3%台に。さらに今年に入ってからは、1・5%台
に、失速。

 そのため、現在、大統領の支持率は、たったの20%台(東亜N報)。与党の支持率は、さら
に低く、たったの10%台(同)。日本でこんなことが起きたら、即、内閣不信任案が可決され、
総選挙。

 N大統領よ、もう過去に固執するのは、おやめなさい! アメリカや日本を、これ以上、怒ら
せて、あなたの得になることは、何もない。反対に、今のK国と組んで、一体、何を得するという
のか?

 「同胞意識」も結構だが、こうした誇張された民族主義(アインシュタイン)こそが、世界平和
の敵であることも、忘れてはいけない。

 「K国の核問題は、ワレワレが解決してみせる」と、大見得を切って登場したものの、何も解
決していない。していないばかりか、反対に、K国に核兵器開発を擁護したり(統一相)、資金を
援助したりしている。

その結果、韓国では、ここ数年、毎年、1万4000人前後が、アメリカを中心として、海外へ移
住している。海外定住をめざした留学生も、02年末までに、34万人を越えた。国民が、韓国
そのものを、捨て始めている。

さらに、若者の間でも、求職をあきらめたものが、15万人。貧困層にいる人が、720万人弱
(朝鮮N報)。これは全人口の15%に相当する。

さらに、いくつかの国策企業(S電子、H自動車など)をのぞいて、ほかの企業は、軒並み、お仲
間であるはずの中国に、このところ、やられっぱなし。N大統領は、こうした事実を、どう考えて
いるのか。

 今なら、まだまにあう。日米韓の同盟に、もどることができる。しかし今回の6か国協議が決
裂してからでは、もう遅い。すでに、決裂の様相を見せ始めているが、しかし、今なら、まだ間
にあう。

 すでに、アメリカは、韓国を、見放しつつある。日本企業も、どんどんと撤退を開始している。

 N大統領。あなたが仲間になろうとしている、K国の金xxは、共産主義者ではない。ただの独
裁者。どうか、それを忘れないでいただきたい。
(05−08−28記)


++++++++++++++++++++++はやし浩司

●動画と音声

 やっと私のHPに、動画と音声をのせることができるようになった。以前から、何とかしたいと
思っていたので、うれしかった。

 興味のある方は、私のHPのトップページから、「声で朗読」へと進んでみてほしい。まだプロト
タイプ(試作品)の段階なので、お見苦しい点は、多いと思う。が、これが私にとっての(はじめ
の一歩)。

 これから先は、動画を編集したり、静止画をまぜたりして、より楽しいものにしていきたいと思
っている。

 ぜひぜひ、一度、のぞいてみてください。

(補記)

 しかしみなさん、これでインターネットが、とうとう新聞や、テレビの領域を、超えましたね。テ
レビのもつ力には、まだまだ……といった感じかもしれませんが、それも時間の問題です。が、
新聞の時代は、確実に、終わりつつあるように思います。

ところで、昨日から、息子に教えられて、グーグル・トークというのにも加入しました。

 無料電話のようなものです。……ということは、インターネットは、電話の世界も超えてしまっ
た。アメリカにいる息子と、30分近く、話をしましたが、これが無料でした。

 これはまさに、産業革命。知的産業革命です。今、私たちは、そういう時代を、まのあたりで、
経験しつつあるのですね。すごいことです。


++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

最前線の子育て論byはやし浩司(840)

【子どもの力・あれこれ】

●計算力と「数」の力

子どもにとって、計算力と、「数」の力は、別のものと考えてよい。たとえば(3+4=7)は、計算
力があればできる。しかし「7は、5と□」という問題は、計算力だけでは、カバーできない。ほ
かに「3と□で、6」「□は、3と4」など。小学1年生の問題だが、それができる子どもは、スラス
ラとできる。しかしできない子どもは、何度説明しても、できない。それがここでいう「数」の力と
いうことになる。
(はやし浩司 子供の計算力)


●「遊び」を大切に

自動車のハンドルでも、「遊び」があるから、運転できる。その「遊び」がなく、ギスギスだった
ら、運転できない。子どもの勉強も、その運転に似ている。多くの親たちは、「勉強」というと、
机に向かって黙々とするものだという偏見と誤解をもっている。しかしそれは大学の研究者の
ような人がする勉強であって、少なくとも、子どもの勉強ではない。小学校の低学年児だった
ら、30分机に向かって座って、10分、勉強らしきことをすれば、よしとする。


●子どものリズムをつかむ 

子ども自身がもつ、学習のリズムは、みな、ちがう。数分きざみに、騒いだり、しゃべったりする
子どももいれば、5分くらい静かに作業したあと、1〜2分、休んだりする。勉強にとりかかるま
でに、10分以上かかる子どももいれば、すぐ、勉強に入れる子どもいる。大切なことは、それ
ぞれのリズムに合わせて、指導するということ。とくに子どもが小さいうちは、そうする。


●ささいなミスは、許す

たとえば20問、計算問題をする。そのとき、1、2問くらいなら、まちがっていても、何も言わな
い。「よくがんばったね」と、ねぎらう。そして大きな丸を描いてすます。とくに子どもが、懸命にし
たときは、そうする。正解よりも、この時期大切なのは、達成感。その達成感が、子どもを伸ば
す。こまごまとした神経質な指導は、一見、親切に見えるが、かえって子どもの伸びる芽をつん
でしまうこともあるので注意する。


●テーマは、一つ

子どもに何かを教えようとするときは、いつも、テーマは、一つにする。あれこれ、同時に指示
を与えても、意味がないばかりか、かえって、「二兎を追うもの、一兎……」ということになりか
ねない。たとえば作文練習のときは、作文の内容だけを見て、文字のまちがいなどは、無視す
る。作文の内容だけを見て、判断する。


●子どもを伸ばすのは、子ども

子どもを伸ばすのは、子ども。しかしその子どもをつぶすのも、これまた子ども。とても残念な
ことだが、「質」のよい子どももいれば、そうでない子どももいる。質がよいというのは、おだや
かで、知性的。自己管理能力もしっかりしていて、もの静か。そういう子どもは、そういう子ども
どうし集まる傾向がある。で、もしあなたの子どもが、そういう子どもであれば、努力して、そう
いう子どもどうしが集まれるような環境をつくってやるとよい。あなたの子どもは、さらに伸び
る。
(はやし浩司 子供の冴え)


●冴(さ)えを伸ばす

子どもが、「アレッ」と思うようなヒラメキを示したときは、すかさず、それをほめて、伸ばす。こ
の時期、あとあと子どもほど、思考が柔軟で、臨機応変に、ものごとに対処できる。趣味も多
く、多芸多才。興味の範囲は広く、何か新しいことを見せると、「やる!」「やりたい!」と食いつ
いてくる。この時期、することと言えば、テレビゲームだけ。友だちも少ないというのは、子ども
にとっては、望ましいことではない。


●一歩手前で、やめる

子どもが30分ほど、勉強しそうだったら、20分くらいのところで、やめる。ワークを10ページく
らいしそうだったら、7〜8ページくらいのところで、やめる。子どもを伸ばすコツは、無理をしな
い。強制をしない。もしあなたが、「子どもというのは、しぼればしぼるほど伸びる」とか、「子ど
もの勉強には、きびしさが必要」と考えているなら、それは、とんでもない誤解。どこかの総本
山での、小僧教育ならともかくも、今は、そういう時代ではない。


●バカなフリをして伸ばす

おとなは、決して、おとなの優位性を子どもに、見せつけてはいけない。押しつけてはいけな
い。子どもにとって、最大の喜びは、父親や、母親を、何かのことで、負かすことである。親の
立場でいえば、子どもに負けることを、恥じることはない。反対に、ときには、バカな親のフリを
して、子どもに自信をもたせる。「こんな親では、アテにできない」と子どもが思うようになった
ら、しめたもの。


●集中力も「力」のうち

よく、「うちの子は、集中力がありません。集中力をつけるには、どうしたらいいでしょうか」とい
う質問をもらう。しかし集中力も、「力」のうち。頭をよくする方法が、そんなにないように、集中
力をつける方法というのも、それほど、ない。あれば、私が知りたいくらいである。ただ指導の
し方によって、子どもを、ぐいぐいとこちらのペースに引きこんでいくことはできる。しかし集中力
のある・なしは、子どもの問題ではなく、指導する側の問題ということになる。
(はやし浩司 子供の集中力)


●一貫性

内容がどうであれ、よき親と、そうでない親のちがいといえば、一貫性のある、なしで、決まる。
権威主義的なら権威主義的でもかまわない。(本当は、そうでないほうがよいが……。)親にそ
の一貫性があれば、やがて子どものほうが、それに合わせる。私の叔父の中には、権威主義
のかたまりのような人がいた。しかし私は、その叔父は叔父として、認めることで、良好な人間
関係をつくることができた。それなりに尊敬もしている。子どもの前では、いつも、同じ親である
こと。それが子どもの心に、大きな安定感を与える。
(はやし浩司 一貫性)


++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司


最前線の子育て論byはやし浩司(841)

●老人介護の問題

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介護の問題が、ますます深刻になってきている。
そしてその悲鳴は、いたるところ、今では、ど
こかからも聞こえてくる。

しかしこれは、決して他人の問題ではない。
あなたの近未来の問題である。

+++++++++++++++++++++

 老人と同居している家庭は、多い。しかしそれ以上に、老夫婦だけとか、老人ひとり住まいの
家庭も多い。事情は、100の家庭があれば、100、ちがう。1つとて、同じ、家庭はない。

 痴呆老人をかかえている家庭。
 病弱な老人をかかえている家庭。
 何かの精神的な病をもつ老人をかかえている家庭など。

 わがままな老人をかかえて四苦八苦している家庭も、多い。さらに介護費用や、世話の負担
にあえいでいる家庭もある。遺産問題、介護の分担で、息子、娘たちが、醜い争いをしている
家庭となると、ゴマンとある。

 私のところに寄せられる相談やメールを読んでいると、この問題が、いかに深刻なものか
が、わかる。しかもこの問題だけは、だれしも、避けては通れない。老人の問題とは言うもの
の、それは、あなたや私たち自身の問題でもある。

 あなたも、いつか、かならず、その老人になる。その上、さらに深刻なことに、もうすぐ、3人に
1人が老人という世界が、やってくる。そうなったとき、あなたは、この問題を、「私には関係な
い」と、はたして、そう言い切ることができるだろうか。

 で、今、その老人の介護で苦労している人は、みな、こう言う。

 「ときどき、ふと、死んでしまいたくなることがある」
 「自分が老人になったら、みんなに迷惑をかける前に、死にたい」
 「生きているのがいやになることがある。気がついてみたら、フラフラと、道路の真ん中を歩
いていたことある」と。

 まだ、40代、50代の若い女性たちが、そう言う。つまりここに、老人介護のもつ深刻さがあ
る。それがいかに重労働であるかは、老人介護をしたことがあるものでないと、わからない。そ
れを、「先の見えない介護」と表現した女性(40歳くらい)もいた。

 しかしなぜ、こうまで、老人介護が、介護をする人たちに、負担をかけてしまうのか。

 第一に考えられるのは、家族そのものがもつ、重圧感。心理学の世界でも、「幻惑」という言
葉を使って、それを説明する。子どもは、生まれながらにして、親子の絆(きずな)を、本能的な
部分で、刷りこまれてしまう。

 最近の研究では、人間にも、鳥類に似た、刷りこみ(インプリンティング)がなされることがわ
かってきた。この刷りこみが、生涯にわたって、その人の親子関係の基本をつくる。そして一
度、その刷りこみがなされると、その介護の問題を合理的に考えることすら、できなくなる。本
能に近い部分にまで、深く、しっかりと刷りこまれるからである。

 本来なら、親はそのつど、じょうずに子離れをしながら、子どももまた、じょうずに親離れでき
るように、仕向けなければならない。しかしこの日本では、ベタベタの親子関係をむしろ奨励す
るようなところがある。またそういう親子関係であればあるほど、よい親子と評価する。

 もっとも、良好な親子関係を築いている家庭も、ないわけではない。たがいに尊敬しあい……
というような家庭である。しかしそんな家庭は、今では、さがさなければならないほど、少ない。

 とくに介護の重圧感に苦しむのは、実の息子や娘ではなく、義理の息子や娘である。直接的
な血縁がないだけに、介護をしながらも、大きなジレンマに襲われる。ある女性は、義理の母
親に、毎日のように、罵倒(ばとう)されている。

 「お前は、ワシの財産目当てに、息子と結婚したのだろ!」
 「息子を、横取りしやがって、このヤロウ!」と。

 多少のボケがあるとは言え、そんな言葉を、義理の母親から毎日のように浴びせかけられた
ら、だれだって、気がヘンになる。が、そういう呪縛から逃れることもできない。「私は、まるで義
理の父母の世話をするために、今の夫と結婚したようなものです」「家政婦以下? それともホ
ームヘルパー?」と言った女性もいた。

 しかしそのときでも、夫の暖かい愛情や理解があれば、まだ救われる。しかしそういう家庭ほ
ど、夫は無関心。理解もない。「家庭の問題は、妻の仕事」と逃げてしまう。妻が、義父や義母
のことで、相談をもちかけただけで、怒りだしてしまう夫も、少なくない。

 夫自身が、親絶対教の信者、もしくは、マザコンであるなら、なおさらだ。

 そこで追いつめられた女性は、もがき、苦しむ。が、先にも書いたように、それは、まさに「先
の見えない苦しみ」。明日が今日よりよくなるという保証は、どこにも、ない。ないばかりか、明
日は、今日より、確実に悪くなる。

 本音を言えば、「介護なんて、こりごり」「あんなクソジジイ、クソババアなど、早く死んでしま
え」ということか。しかしそれを口に出したら、お・し・ま・い! 

 だからがまんする……。「死にたくなる」という思いは、そういうところから生まれる。

 ……と考えていくと、この問題は、実は、私たち自身の問題であることに、気づく。

 あなたも、私も、確実に、老人になり、老後を迎える。ふつうどおりに健康であれば、例外は、
ない。で、そのとき、あなたは、自分自身の老後を、どのように考えているだろうか。

 こんな例がある。

 老人になればなるほど、住み慣れた場所に、住みたがるものだという。が、年齢には勝てな
い。その女性は、今年、85歳になった。ボケもさることながら、気位が高く、がんこ。その程度
のことなら、どんな老人でも、そうかもしれない。が、ここに、その老人特有の、人生観や価値
観がからんでくる。

 ある老人は、「老人ホームへ入ることを、恥」と考えていた。また別の老人は、地元から都会
へ出て行く仲間たちを、「負け組み」と、いつもあざ笑っていた。

 こういう老人が、老人用の施設に入ったり、自分の住んでいる地域を離れて、別の地域に住
むようになるということは、敗北を認めるようなもの。自己否定につながることもある。

 だから、動かない。絶対に、動かない。ある女性は、東京から、京都に迎えに来た息子夫婦
に対して、こう叫んだという。「私を京都から連れ出すなら、殺してからにしろ。さもなくば、電車
に飛びこんで、死んでやる」と。

 マンガのような話だが、当の本人たちにとっては、深刻な話である。かといって、放置しておく
こともできない。老人によっては、徘徊(はいかい)、放火などの病癖をもっていることもある。
近所の人たちに迷惑をかけているケースとなると、さらに多い。

 で、あなたや私が、そういう老人にならないという保証は、どこにもない。むしろ、そういう老人
になる可能性は、きわめて高い。

 では、どうすればいいのか。どうあるべきなのか。

 オーストラリア(南オーストラリア州)では、すでに一定のコースができあがっている。

 健康な間は、働く。55歳前後の定年期を迎えたら、老人は、町中のマンション(フラット)に移
る。近隣の人たちが、その老人のめんどうをみる。さらに病弱になれば、老人ホームへ入居す
る。そこで、最期のときを、迎える。

 ほとんどの人たちがそうしているから、それが一つのコースのようにも、なっている。仮に息
子や娘が町の中にいても、同居はしない。近くのマンションに住む。「子どもたちに迷惑をかけ
たくない」という配慮からではなく、「自分の親たちも、そうしてきたから」という考え方をする。

 ごく自然な形で、みな、そうしている。

 が、この日本には、そういうコースすら、まだない。冒頭にも書いたように、家庭によって、事
情が、みな、ちがう。老人や老人介護に対する考え方も、みな、ちがう。それに日本独特の、伝
統や土着文化がからんでくる。家庭によっては、事情がこじれにこじれ、何がなんだか、わけ
がわからなくなってしまっているというケースも、少なくない。

 そこで私たちは、自ら、自分たちの老後がどうあるべきかについて、考えておかねばならな
い。このばあいでも、「老後は、息子や娘たちの世話になる」と、もしあなたが考えているなら、
そういった考え方は、今すぐ、捨てたほうがよい。世話になってはいけないと言っているのでは
ない。

 しかしこうした安易な依存性こそが、やがて、ジワジワと、真綿でクビをしめるかのように、あ
なたの子どもたちを苦しめ、結局は、あなた自身も、それで苦しむことになる。

 さらにもしあなたが、老後を、老人ホームで暮らすことは恥ずかしいことだとか、老後は、孫
の世話でもしながら……と、考えているなら、そうした考え方も、今すぐ、改めたほうがよい。

 もちろん息子や娘たちのほうから、「めんどうをみる」と言ってくるときは、話は別である。しか
しそのときでも、どこかに一線を引いておかないと、あなたの子どもたちを苦しめ、結局は、あ
なた自身も、それで苦しむことになる。

 はっきり言おう。介護保険制度など、アテにならない。ならないことは、現状をみれば、わか
る。介護保険制度は、すでに破綻している※。介護を必要としている人が、その制度を受けら
れるようなしくみになっていない。それこそ、寝たきりのような、要介護4か5くらいにならない
と、施設にも入れない。

 しかし人は、いきなり、そういう状態になるのではない。5年単位、10年単位で、そうなる。そ
ういう状態になったときのことを、今から、考えておく。

 が、若いあなたにとっては、ずっと先の話かもしれない。で、とりあえずは、こんなことに注意
したらよい。

 どうすれば、役にたつ老人になれるか。どうすれば、健康な老人になれるか。そしてどうすれ
ば、新しい価値観をもつ老人になれるか。それを考える。考えながら、自分の老後を組み立て
ていく。

 日本人の約3分の1が、老人になる時代は、もう、すぐそこまできている。どうしてそんな時代
に、若い人たちに向って、「私たちのめんどうをみてほしい」などと、言うことが、私たちに、でき
るだろうか。
(はやし浩司 老人介護)

※注……多くの病院が、今、急性期病院を選択している。そのため、こうした病院では、長期
入院ができないしくみになっている。それこそ応急処置だけをして、そのまま患者を家に帰して
しまう。あとは在宅治療ということになる。

 しかしその一方で、こういう手間のかかる(?)老人は、介護施設には入れない。その結果、
結局は、こうした重度の病気をもった老人は、二重、三重の負担となって、家族に重くのしかか
ってくる。

 知人の義理の父親は、2日おきに、腎透析を受けている。認知症もかなり進行している。しか
しそういう老人を、引き受けてくれる病院もなければ、介護施設もない。おかしなことだが、介
護施設で受けいれてくれる老人は、一応、健康な老人にかぎられている。が、介護を必要な老
人で、健康な老人というのは、いるのだろうか。

 また介護度によって、支給上限額が決められている。

 要支援 …… 6万5800円
 要介護1……16万5800円
 要介護2……19万4800円
 要介護3……26万7500円
 要介護4……30万6000円
 要介護5……35万8300円

 額だけながめると、手厚い保険制度に見えるかもしれない。しかし今、認定基準は、ますます
きびしくなってきている。よほどひどくないと、要介護1にも、認定されない。が、その一方で、要
介護5クラスの老人ともなると、とても、この額では、足りない。

 さらに慢性的な病気をもっている老人ともなると、介護施設への入居そのものを断られてしま
う。もちろん、病院へも、入院できない。これでは、いったい、何のための介護制度かということ
になる。


++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

●不器用な生き方

 不器用といっても、手先の不器用さのことではない。生き方の不器用さを、いう。

 世渡りのうまい人がいる。が、その一方で、世渡りのヘタな人がいる。実直で、ウソがつけな
い。口もヘタ。そういう人を、不器用な人という。

 融通性にかける。臨機応変に対処できない。頭がかたい。がんこ。クソまじめ。いつも自分
で、重荷を背負いこんでしまう。損をすることは、あっても、得をすることはない。映画の『喜び
も悲しみも幾年月』の中の、佐田啓二演ずる、有沢四郎に、そのイメージをい思い浮かべる。
すばらしい映画だった。今でも、あの歌を口ずさむと、目頭がジンと熱くなる。

 監督、原作、脚本は、木下恵介。音楽は、木下忠司。

 最後のシーンで、燈台守の有沢と、娘夫婦が乗る汽船が、たがいに汽笛を交わしあうところ
がある。そこでは、観客は、みな、人目もはばからず、涙を流した。

 ……と、考えていくと、不器用であることは、何ら、恥ずべきことではない。むしろ、長い人生
を振りかえってみたとき、不器用だった人のほうが、心にぬくもりを与えてくれる。そういう人ほ
ど、人生が何であるかを、教えてくれる。

 が、現代社会では、不器用な人ほど、生きにくい。社会から取り残されるだけではなく、社会
のスミに、追いやられてしまう。その一方で、世渡りのうまい人ほど、成功者として、もてはやさ
れる。

 人を見る目というか、価値観そのものが、ズレてしまった。私には、そんな感じがする。そこで
重要なことは、私たち1人ひとりが、そのズレたものの考え方を、少しずつ、軌道修正していくこ
と。みなが、少しずつ、それをすれば、やがてそれが大きな力となる。

 しかし、それは可能なのか?

 一つだけ不安なのは、その木下恵介だが、晩年になればなるほど、権力への志向性が強く
なったというか、どこか、庶民性をなくしていったように思う。これはあくまでも、私の印象なの
で、異論のある方も多いと思う。しかし晩年の作品には、『喜びも悲しみも幾年月』に見られた
ような、あの透きとおるような純粋さは、もう感じられなくなってしまった。

 ……ということを、ワイフに話すと、ワイフは、こう言った。「あの監督は、もともと、器用な人だ
ったということよ」と。つまり「監督になるような人だから、不器用な人では、監督にはなれない」
と。ナルホド!

 話はそれたが、しかし『喜びも悲しみも幾年月』は、名作中の名作であることは、だれの目に
も疑いようがない。私がその映画を見たのは、子どものときだった。そんな私ですら、夫婦とい
うのは、こういうものだということを、教えられた。

 その原点で光り輝いているのが、やはり、有沢四郎の不器用さ、である。息子の臨終の際に
も、有沢四郎は、灯台を守った。父親として、どうあるべきだったかということについては、議論
もあるだろう。が、有沢四郎にしてみれば、灯台を放り出して、病院へかけつけることはできな
かった。

 そうした不器用さは、今の私には、痛いほど、よく理解できる。もし私が、有沢四郎の立場だ
ったら、私も、同じようにしただろう。

 器用に生きる……。その典型的な例が、今を騒がせている、リフォーム詐欺である。「リフォ
ームする」と言っては、老人たちをだまし、高額のリフォーム代を請求する。しかし私たちが「ビ
ジネス」と呼んでいるものは、多かれ、少なかれ、そのリフォーム詐欺のようなもの。「私のして
いる仕事は、リフォーム詐欺とはちがう」と、胸を張って言える人は、いったい、何人いるだろう
か。

 私たちは、生きていく上で、いつも、心のどこかで良心をねじまげ、誠意を犠牲にし、自分を
ごまかしている。また、そうでないと、この現代社会では、生きていくことすら、おぼつかない。

 それが平気でできる人のことを、器用な人という。そうでない人を、不器用な人という。が、不
器用であることが悪いというのではなく、不器用がもつ、美徳のようなものに、私たちは、もう少
し、敬意を払ってもよいではないだろうか。それが、このエッセーの結論ということになる。

【付記】受験生でも、器用な受験生ほど、スイスイと、受験社会を渡り歩いていく。受験勉強しか
しない。受験勉強しかできない。頭の中は、センター試験の数字だらけ。

 一方、不器用な受験生というのも、いる。受験期に入ったというのに、学校祭のために、毎
晩、学校から帰ってくるのは、真夜中。で、やっと始めた受験勉強にしても、どこか、トンチンカ
ン。要領がわからないために、回り道ばかりしている。

 「お前なあ、そんなところは、試験には出ないよ」と教えてやるのだが、「先生、いいよ、いい
よ」と言っては、そこばかり勉強している。つまりは、この段階から、現在社会では、器用な子ど
もは得をし、不器用な子どもは損をする。そういうしくみが、すでにできあがってしまっている。

 そんな感じがする。
(はやし浩司 不器用 器用)

 
++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

【近況・あれこれ】

●ビデオ

 アメリカに、CUBE社という、無料で、ビデオを登録してくれる会社がある。一作につき、100
MBまで無料で、登録してくれる。すごい。さっそく、いくつかのビデオを登録してみた。

 まず自分の本を朗読し、それをビデオに収めてみた。そしてそれを恐る恐る、アップロード。
そのアップロードに少し時間がかかるが、それでも、無事、終了! あとは、そのアドレスにア
クセスするだけで、自分が登録したビデオを自由に、呼びだすことができる。

 とたん、おもしろさが、100倍! 今まで、何度もビデオ編集に挑戦してみたかったが、その
機会がなかった。本当は、あきらめていた。

 一度、自分のHPに、動画や音声をのせようとしたことがある。数年前のこと。しかし私の入っ
ているプロバイダーでは、HPの容量は、30MBまでと決められている。(当時は、たったの10
MB!) それ以上になると、30MBごとに、年間、1万円の費用がかかる。

 動画や音声は、メモリーを、メチャメチャ消費する。数分間、自分の声を入れただけで、10M
Bほど。だから、あきらめた。

 しかし1作につき、100MBとなると、かなりの量のビデオを、登録することができる。128M
Bのメモリーカードで、約15分間ほど、映像と音声を録画できるので、ほぼそれくらいのもの
を、登録できることなる。(私のデジカメのばあい……。)

 そんなわけで、またまた、パソコンショップ通いが始まった。新しい編集ソフトをながめたり、
雑誌を読んだり。この世界も、結構、奥が深そう? しばらくこの世界で、道をきわめてみた
い。

 一部は、私のHPから、呼び出せるようにした。興味のある人は、どうか見てほしい。+笑って
ほしい。

 しかしHPに、映像や音を、自由にのせられるとなると、使い勝手も、大きく変わってくる。たと
えばQ&Aコーナーなども、直接、映像と音声で、読者の相談に答えられるようになる。さらに
……。

 考えているだけで、ワクワクしてくる。さあ、どうしようか?


●「右」と「左」

 「右」という漢字と、「左」という漢字は、書き順がちがう。

 「右」は、まず縦棒を先に書いて、つぎに横棒を書く。
 「左」は、まず横棒を先に書いて、つぎに縦棒を書く。

 しかし、だ。私は何度、覚えても、この書き順をすぐ忘れてしまう。そこで、「左」に焦点をあ
て、「左・横」と暗記する。「左という漢字は、横棒を先に書く」という意味である。「右」は、その
反対ということになる。

 しかし、それも忘れてしまう。どうでもよくなってしまう。ホント! 

 どうしてこんな書き順があり、それが重要なことなのだろうか。どちらか先に書こうが、どうで
もようではないか。私が、まちがった書き順で書いていると、すかさず生徒たちが、こう叫ぶ。
「書き順が、ちがうよ!」と。

 そこで私はこう言ってやる。ぼくたちが小学生のころには、先生によって、書き順がみな、ち
がったよ。それを、ぼくたちが小学3、4年生のときに、統一されたんだよ。だから、書き順とい
っても、絶対的なものではない。大切なことは、読めればよいということ。文字ではなく、その中
味なんだ」と。

 しかし一応、生徒たちの前では、正しい書き順で書かねばならない。内心では、「バカくさい」
と思っていても、それを口に出して言ったら、おしまい。

 で、そういう思いでいる学校の先生たちも、多いはず。みんなで力をあわせて、こういう、ま
あ、どうでもよい慣行と戦っていきたいと思う。少なくとも、トメ、ハネ、ハライは、もうなくしたらよ
い。毛筆で字を書く時代は、とっくの昔に終わった。


●熱い頭

 前から、そのことは、わかっていた。前から、そのことを、一度は、親たちに話してみたかっ
た。しかしその機会もなく、今日までになった。が、今日、はじめて、私は、親たちの前で、こう
話した。たまたま、その話になった。

 年中児たちのクラスでのこと。

 私は、教えているとき、よく子どもたちの頭をなでる。ほめるために、そうする。そのときのこ
と。頭の熱い子どもと、そうでない子どもがいるのがわかる。

 10人のうち、40度近い高熱を発する子どもは、2、3人はいる。実際に、測定したことがない
ので、わからないが、実感としては、それくらい、熱く感ずる。まったく熱くならない子どもも、2、
3人はいる。自分の頭と、さわりくらべてみれば、それがわかる。

 今日も、何かの作業をしているとき、順に、子どもたちの頭をなでながら、席を回った。そのと
き、1人、とくに熱く感ずる子ども(男児)がいた。「風邪をひいている」とその子どもが言ったら、
即、家に帰したであろう。もちろん、風邪など、ひいていない。

 そこで横で参観をしていた、その子どもの母親を呼んだ。そしてこう言った。「ちょっと、頭にさ
わってみてください」と。

 母親は言われるまま、自分の子どもの頭に手を置いた。「ね、熱いでしょう?」と声をかける
と、「ホント!」と、大きな声で、驚いた。

 「ほかの子どもたちの頭とくらべてみてください」と言うと、その母親は、私がいつも子どもをほ
めるようなしぐさをしながら、順に、子どもたちの頭にさわった。

私「冷たいからといって、頭を使っていないということではありません。しかし頭を、フル回転で
使っている子どもの頭は、熱くなります」
母「パソコンと同じですね」
私「そうです。酸素を、頭の中で猛烈に消費しているのです。だから熱くなります」と。

 そのあとだ。私が言いたかったことが、私の口から出てきた。

 「大切なことは、子どもたちの頭を熱くすることです。それが私の教育法の要(かなめ)です。
熱くなっているということは、脳の神経細胞から、無数のシナプスが、からみあいながら、その
子どもの頭をよくしているということです」と。

 「子どもの頭を熱くさせるには、どうすればよいかということになりますね。それには、子ども
の頭を、四方八方から、刺激すればよいのです。しかも間を置かないようにして、リズミカル
に、子どもの頭を刺激していく。わかりやすく言えば、子どもを、知的な意味で、興奮状態にし
ます」

 「こんな言い方は失礼になるかもしれませんが、年中児のときから、私の教室へ入った方
は、本当にラッキーだと思いますよ。年長児にもなると、方向性は、ほぼかたまってきます。し
かし年中児だと、その方向性そのものを、いじることができる」

 「この時期に、論理的な思考性を養っておくと、その子どもの思考力は、飛躍的に発達しま
す。子どもの発達には、適齢期というものがありますが、満4・5歳から5・5歳というのは、そう
いう意味では、とくに重要な時期です」

 「さらに一言、つけ加えれば、こういうことです。年中児を教えるのは、たいへんな作業です。
年長児の、2、3倍のエネルギーを消耗します。損とか、得とか、そういう言い方は、あまり好き
ではありませんが、本来なら、年中児のばあい、年長児の2倍以上の月謝をもらいたいくらい
なんですよ」と。

 親たちは、笑っていたが、これは事実。学年を追うごとに、教えるのは楽になる。たとえば中
学校の受験生など、眠っていても、教えられる。しかし幼稚園児となると、そうはいかない。年
中児となると、なおさら。

 そこまで言い終わって、私は、胸の中がスカッとしたのを感じた。今まで、私はこのことを言い
たくても、だれにも、言えなかった。しかし今なら、自信をもって言うことができる。ここに書いた
ことは、100%、事実だからである。

 ちなみに、いやいや勉強している子どもの頭にさわってみるとよい。頭が氷のように冷たくな
っているのが、わかる。が、それでは、いくら時間ばかりかけて、勉強しても、意味はない。
(はやし浩司 熱い頭 頭をよくする方法 頭を良くする方法)


●オーストラリア

 2007年の春、ワイフとオーストラリアへ行くことにした。滞在期間は、未定だが、たぶん、1
週間前後になる予定。

 今時、オーストラリアくらいなら、だれだって行く。格安旅行ともなると、4泊5日程度なら、10
万円程度で行くことができる。しかし私にとって、オーストラリアというのは、特別の意味があ
る。たとえていうなら、宗教者にとっての聖地のようなもの。簡単には、行きたくない。行けな
い。

 そのことをワイフに話すと、ワイフは、心底、喜んでくれた。「おまえに、ぼくの青春時代のす
べてを見せてあげたい」と。

 私にとっての、あの時代は、まさに「灯台」のような時代である。そのあと、ずっと、私の進む
べき方向を、あの時代が、示してくれた。つらいときや、悲しいとき、必ずといってよいほど、私
の足元を照らしてくれた。

私「ハウスで2泊、しよう。今でも、ゲスト・ルームがあるはずだ」
ワ「ほかには?」
私「メルボルンでも、最高級のホテルに泊まろう」
ワ「ほかには……?」
私「トラム(電車)に乗って、メルボルンの市内中を回ろう」

ワ「それから……」
私「パークビルの角には、今でもミルクバーがあるはずだ。あそこでミルクセーキを飲もう」
ワ「今でも、あるかしら?」
私「E(息子)の話では、今でもあるそうだ」と。

 あの時代を、私の人生の(スタート)とするなら、2005年のX月は、私の人生の(ゴール)とい
うことになる。長くて、短い人生だった。私自身は、いつも、心のどこかで、「私がオーストラリア
へ行くときは、自分にとっては、最期のときだ」と、思っていた。「それを最後に、死んでも悔い
はない」と。

 そのときが、やってきた。ついにやってきた。たいした人生ではなかったが、しかし私は、いつ
も気高く生きることができた。今から思うと、あの時代は、毎日が夢のようだった。その時代
に、再び、私は、もどることができる。最愛のワイフに、それを見せることができる。

 再び、「行こうね」と声をかけると、ワイフも、「行くわ」と行った。うれしかった。

【補記】

 飛行機恐怖症。一度、羽田で飛行機事故にあってから、私は、飛行機恐怖症になってしまっ
た。飛行機に乗れなくなってしまった。飛行機の乗ると思っただけで、足がすくんでしまった。

 しかしそういう状態は、数年のうちには、なおった。しかし今度は、飛行機には乗れるのだ
が、先方の相手国へ行くと、極度の不眠症に悩まされるようになった。たとえば3泊4日の仕事
で、台湾へ行ったとしても、現地で、眠ることができない。それで結局、飛行機に乗る機会は、
少なくなってしまった。

 が、2007年。オーストラリアへ行く。その私は、ある意味で、死ぬ覚悟ができたとも言える。
そうでない人には、少しおおげさな言い方に聞こえるかもしれないが、私にとっては、そうだ。

 では、なぜ、2007年かって? 三男が、いよいよ大学を卒業して、社会に巣立つから。つま
り、私とワイフが、死んでも、もうだいじょうぶ(?)ということ。だから2007年にした。


●涼しくなったぞ、さあ、選挙だ!

 テレビのニュースは、今度の衆議院議員選挙一色。昨夜、それについて、A氏(某幼稚園理
事長)と、30分ほど、話す。

 内容は、ただいま、選挙中なので、ここに書くことはできない。

 が、国民の関心は、かつてないほど、高いようだ。投票率も高くなるだろう。しかし私の胸中
は、複雑。どの政党に投票するかは、だいたい決めたが、しかし……。

 A氏とは、そのあとは、もっぱら、韓国問題と、中国問題について話しあう。A氏も、韓国が理
解できなくて、困っているようだった。ホント!

 N大統領の支持率は20%程度。そのN大統領率いる、与党の支持率も、これまた10%! 
当然といえば、当然。N大統領は、自分の国を、どこへもっていこうとしているのか?

 中国にしても、民主化の流れは、もう止まらない。今どき、一党独裁の共産主義国家というこ
と自体、おかしい。そのおかしさが、いつ崩壊するか? 党幹部があがけばあがくほど、中国
国内は、混乱する。

 N大統領も、中国も、結局は、自国の矛盾を、反日、反米に結びつけていくしかないのか? 
日本こそ、えらい、迷惑。

 ……というような話をした。

 私はA氏のように、主義主張が、はっきりしていて、一貫性のある人が大好き。議論していて
も、竹をスパスパ割るようで、機もちよい。近く、会いに行くつもり。


●勉強しよう!

 年をとればとるほど、みなさん、勉強しよう! 私の年代でも、本や雑誌をまったく読まない人
が、多い。いいのかなあ……?、と思うことがある。

 勉強するということは、知識や情報を吸収するということ。それに、考えるということ。私の年
代になると、脳ミソの底に、穴があく。

 せっかく覚えたことでも、少し、放っておくと、その穴から、下へ、どんどんとこぼれてしまう。だ
からこぼれていく以上に、どんどんと補っていかねばならない。

 が、こんな簡単なメカニズムすら、わからない人が多い。「私は完成された人間だ」と錯覚して
いる人すら、いる。

 しかし完成された人間など、いない! とくに人間性については、そうだ。

 むしろ、体力や気力が弱くなってくるので、中身が、オモテに、モロに出てきてしまう。これが
こわい。若いときは、その体力や気力でごまかすことができる。しかし年をとると、それができ
なくなる。

 ……かくして、年をとればとるほど、愚劣になっていく人は、多い。愚劣になるというよりは、
中身が、オモテに出てきてしまう。

 だから、みなさん、がんばって、勉強しよう。勉強して、自分をみがこう。これは健康論と同
じ。少し運動を怠けていると、その時点から、病気に向って、まっしぐら! 同じように、少し勉
強を怠けていると、その時点から、ボケに向って、まっしぐら!

 イヤだね。本当に、イヤだね。


++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

●好き嫌いのはげしい子ども

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福井県にお住まいの、Hさん(母親)から、
「うちの子は、好き嫌いがはげしくて困ります」
という相談をもらった。

それについて、考えてみたい。

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 好き嫌いが、はげしい子どもがいる。このタイプの子どもは、それだけ、心の寛容性に乏しい
子どもということになる。このタイプの子どもには、つぎのような特徴が見られる。

(1)相手のささいな言動に、敏感。そのささいな言動に左右されやすい。
(2)そのささいな言動に、理由をこじつけ、自分を正当化する。
(3)嫌い方がはげしい一方、好きになると、徹底的にその相手を偶像化する。
(4)感情の起伏が、全体としてはげしい。いつも心が不安定で、動揺しやすい。
(5)相手の言葉にキズつきやすく、悶々と悩んだりする。
(6)とくに批判的な言葉には、異常なまでに敏感に反応する。
(7)敵、味方の区別を、はっきりと分けて行動する。
(8)嫌いな相手には、攻撃的になりやすく、暴言をあびせかけたりする。
(9)他人との良好な人間関係が結びにくい。
(10)自分を、すなおに、さらけ出すことができない。仮面をかぶりやすい。

 この時期、好き嫌いがはげしいというのは、好ましいことではない。こうした好き嫌いが、一定
の限度を超え、とくに人間関係で支障をきたすようになったケースを、境界型人格障害(O・カ
ーンバーグ)と位置づける学者もいる。

 原因のほとんどは、乳幼児期の母子関係にあるとみる。

 子どもの側からみて、絶対的な安心感を得られない家庭環境に育つと、子どもの心は、さま
ざまな形で、ゆがみやすい。「絶対的」というのは、「疑いをいだかない」という意味。この絶対
的な安心感があってはじめて、子どもは、自分のすべてをさらけ出すことができる。

 言いたいことを言い、したいことをする。一見、態度は横柄だが、それだけ、子どもの心は落
ちついているとみる。

 しかしその(絶対感)がゆらぐと、子どもの心は、不安定になる。とくに0歳〜2歳期までに、一
度、こうした不安感が形成されると、それが基底不安となって、生涯にわたって、その子どもの
人格に影響を与えるようになる。

 で、好き嫌いのはげしい子どもは、教える側からしても、指導のしにくい子どもということにな
る。特定の教師を理想化し、偶像化して、徹底的に服従したかと思うと、今度は一転、ちょっと
したことで、徹底的に嫌い始めたりする。ときに、はげしい絶望感を覚え、自暴自棄になること
もある。「すべて(オール)か、ゼロか(ナシング)か」という状態になる。

 で、子どもがこういう症状を見せたら、できるだけ早い時期にそれに気づき、(10)に書いた
ことを参考に、自分を、すなおにさらけ出させるようにする。ありのままの自分を、まず、さらけ
出させる。

 好き嫌いをはっきりさせることと、すなおに自分をさらけ出すことは、一見、矛盾しているよう
に見えるが、まったくの別問題。このタイプの子どもは、ここにも書いたように、人前では、仮面
をかぶりやすい。いつもどこかで、本当の自分を押し殺してしまうようなところがある。

 好き嫌いがはげしいのは、それだけ、こだわりの強い子どもとみる。この時期、こうしたこだ
わり(がんこ、自閉傾向、固執、固着)が見られたら、何らかの心の病気の前兆症状ととらえ
て、警戒する。

 幼児期であれば、とくに母親の心暖かい愛情を大切にする。もう少し大きくなれば、スポーツ
などをとおして、自分の感情を発散させる。ワーワーと大声で騒いだり、笑うのも、効果的。(私
の教室では、そうして指導している。)
(はやし浩司 好き嫌いの激しい子供 好き嫌いのはげしい子ども O・カーンバーグ さらけ出
し 基底不安 はやし浩司)


++++++++++++++++++++++++++はやし浩司 

●運命

 それぞれの人には、それぞれ、無数の糸がからんでいる。家族の糸、兄弟姉妹の糸、親類
の糸、地域や国の糸。さらに健康や病気の糸、生い立ちや環境の糸などなど。

 こうした無数の糸が、その人にからみあって、その人の進むべき道や方向性を決めている。
私は、それを「運命」と呼ぶ。

 これについては、もう何度も書いてきた。そこでここでは、もう一歩、話を進める。

 こうした個人というワクを超えて、無数の個人が、これまた集団となって、全体の運命を決め
ることがある。海にたとえるなら、大きなうねりのようなもの。個人というのは、そのうねりの上
に浮かぶ、草のようなものでしかない。

 この大きなうねりを「業(ごう)」という。

 この業は、その人個人を超えたところで、その人の運命を左右する。で、この業のこわいとこ
ろは、つまりは、その人個人の力では、どうにもならないということ。だから、必ずしも、善人
が、幸福になれるわけではない。一方、悪人が、不幸になるというわけでもない。

 人によっては、生まれながらにして、不幸のかたまりのような人は、いくらでもいる。いくらが
んばっても、いくらもがいても、不幸だけが、つぎからつぎへとやってくる。

 その一方で、悪いことをし放題。人をだますのは、朝飯前。そんな人でも、結構、豪勢、よい
生活をしている。そういうケースも、これまた多い。

 そこで大切なことは、そうした表面的な一部だけを見て、業を判断してはいけないということ。
運命を判断してはいけないということ。

 が、その業にせよ、運命にせよ、受けいれてしまえば、意外と、何でもない。人が、なぜ、業
や運命を前にして、もがき、苦しむかと言えば、それを受けいれるのを、こばむからである。
「そんなはずはない」「まだ何とかなる」「どうして私だけが……」と。

 「これが私の人生だ」と割りきってしまえば、自分自身を、業のうねりや運命の流れの中に、
静かに、自分を置くことができる。が、それができないとき、人は、業や運命をのろい、不平、
不満をならべ、もがき、苦しむ。

 だからといって、業にせよ、運命にせよ、それが業だ、運命だといって、あきらめろということ
ではない。人間の生きる美しさは、そうした与えられた業や、運命と戦うところから生まれる。
生きる尊さも、そこから生まれる。無数のドラマも、そこから生まれる。

 しかしやはり、どうにもならないこともある。私という個人を超えた部分で、他人がからんでくる
ときだ。それが近親者であれば、なおさらである。そういうとき、自分をのろっても、しかたな
い。不平や不満を並べても、しかたない。

 こうした不平や不満には、連鎖性がある。つぎからつぎへと、不平や不満が、並ぶ。一つの
問題を解決したからといって、それで不平や不満が終わるわけではない。大本(おおもと)の、
問題が、何も解決していないからである。

 では、どうするか。

 業にせよ、運命にせよ、一見、個人をはるかに超えた、大きな力のように見える。どうにもな
らないように見える。しかし、それは、あくまでも、そう見えるだけ。たとえて言うなら、暴力団の
親分のようなもの。もっと言えば、悪魔のようなもの。

 一見、強そうで、こわく見えるが、その実、気は小さく、ビクビクしている。自分が弱いことを知
っているから、虚勢を張って、強く見せているだけ。
 
 そこで、こうした業や、運命と戦うには、(戦うというほど、大げさなものではないが……)、
日々のほんのささいなところから、業や、運命に、小さな「根」を打ちこんでいけばよい。

 それを「善根(ぜんこん)」という。

 小さな約束を守る。小さな誠意を守る。まじめに生きる。ルールを守る。無理をすることはな
い。今、そこにある心を大切にする。

 そうした日々の積み重ねが、月となり、月々の積み重ねが、年となり、やがてその人の人格
となる。そうした人格が、運命を変え、そうした無数の運命が集まって、うねりとなり、今度は業
すらも、変える。

 「善根」があれば、もちろん「悪根」もある。

 そこで善悪論ということになる。よいことをするから、善人というわけではない。悪いことをしな
いから、善人というわけでもない。人は、悪と戦ってはじめて、善人になる。

 あなたの周囲に、その悪根を感じたら、私たちは、その悪根とは、戦わねばならない。見て見
ぬフリをするのも、そのまま悪をのさばらせるのも、結局は、その悪根と同罪ということになる。
が、それだけではすまない。

 こうしたズルさは、あなた自身の運命を狂わすだけではなく、今度はそれが悪業となって、つ
ぎの世代の人や、周囲の人を巻きこんでいく。そうした人たちすらも、不幸にする。根が深いだ
けに、その不幸の根も深い。

 朝食をとりながら、ここまで話したら、ワイフが、私にこう聞いた。「そういうときは、どうすれば
いいの?」と。

 答は簡単。実にシンプル。

 「それに気がつけばよい」と。

 多くの人は、自分の業や運命にすら、気がつかない。気がつかないまま、それに作用され
て、右往左往する。しかしそれに気がつけばよい。「悪魔」という言い方は適切ではないかもし
れないが、わかりやすいので、その言葉を使う。

 悪魔は、いつも善人の顔をして、あなたに近づいてくる。あなたの味方であるかのようなフリ
をして、あなたに近づいてくる。しかしそのとき、あなたがその正体を見破れば、悪魔は、向こう
のほうから、あなたから遠ざかっていく。コソコソと、シッポを巻いて、逃げていく。

私「悪魔に呑(の)みこまれてしまうと、自分がどこにいるかさえ、わからなくなってしまうよ。そし
て本来なら、悩まなくてもよいような問題で、悩んだり、苦しんだりするようになるよ」
ワ「悪魔は、気が小さく、おく病なのね」
私「そうさ。だからそれを感じたら、『お前は悪魔だ』と言ってやればいいのさ。そうすれば、自
分の心の中から、それは出て行く。自分からね……」と。

 何とも観念的な話になってしまったが、もしあなたが心のどこかで、ふと、自分の不幸を感じ
たら、この話を思い出してみてほしい。きっと、あなたの心も軽くなるはずである。
(はやし浩司 運命論 業 悪業 悪魔論)


++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司


最前線の子育て論byはやし浩司(842)

●アイルランドの妖精(エルフ)

 「妖精(ようせい)」と聞くと、どこか、ロマンチックな響きを感ずる。そこでまず連想するのが、
かわいい女の子。「森には、指ほどの大きさの妖精がいて……」と。

 しかしそういった常識をひっくりかえしてくれたのが、下楠昌哉氏著の、『妖精のアイルランド』
(平凡社・760円)。この本を読むとわかるが、日本に伝わっている妖精のイメージ、つまり私
たちがもっている妖精のイメージは、多分に、イギリス本土で、脚色、変形されたものということ
になる。

 アイルランドの妖精は、こわい! ホント!

 下楠氏は、本書の中で、「取り替え子(チェンジリンク)」の例をあげて、アイルランドの妖精に
ついて書いている。わかりやすく言えば、アイルランドの妖精たちは、人間を誘拐する! 相手
は、子どもとはかぎらない。おとなの女性も、である。そのため事件に発展することも珍しくな
い。(当然だが……。)

 第一章で、「ブリジッド・クリアリー焼殺事件」、第三章で、「ブラム・ストーカー、吸血鬼の顔を
もつ男」とつづく。

 最初の部分を読んでいて、私の頭に思い浮かんだのが、日本の天狗(てんぐ)。あの天狗
も、よく子どもをさらった。が、日本の天狗が誘拐したのは、もっぱら、女の子。一説によれば、
あの長い鼻は、男の勃起したペニスを象徴しているとか? 天狗は、無垢(むく)な女の子をさ
らっては、犯し、そして殺した。

 だから私が子どものころは、ある日突然、子ども(とくに女の子)がいなくなったりすると、「天
狗にさらわれた」とか言った。(今とちがって、田舎のほうでは、子どもが、ある日突然いなくな
ることは、決して、珍しくなかった。「神隠し」という言葉も、日常的によく使われていた。)

 が、本書で、何よりも興味深かったのは、第5章の、あのラフカディオ・ハーンについての部
分。彼のルーツというか、彼の書いた小説のルーツが、実は、アイルランドにあったということ
が、この本でわかった。「なるほど」と思い当たる部分も、多い。ハーンは、日本の第一印象
を、こう書いている。

 「小さな妖精の国……人も物も、みな、小さく風変わりで神秘をたたえている」(P171)。ハー
ンは、日本を見て、そこにアイルランドの妖精のイメージをダブらせたらしい。

 どこか陰湿で、どこか不気味さをともなうハーンの『怪談』。その原型は、まさしく、アイルラン
ドの妖精にあったということになる。

 そういう意味では、ハーンの研究者には、必読の書と言ってもよい。こぎみのよい、読みやす
い文章。声に出して読んでも、よどみなく、読むことができる。自然な文体がすばらしい。

 さて、本書とは関係ないが、天狗の話。

 私は子どものころ、その天狗の存在を信じていた。田舎へ行くと、おとなたちが、まことしやか
に、天狗の話をした。「天狗を見た」「女の子を、小脇にかかえて、木から木へと、ピョンピョンと
渡り歩いていた」と。

 男の子だからといって、安心していてはいけない。ときには、「まちがえて」、男の子をさらうこ
ともあったという。男の子は、天狗の食用になるということだった。ゾーッ!

 さて、私自身は、アイルランドが大好きである。学生時代は、オーヘンリーの小説をよく読ん
だ。アメリカ人の作家だったが、「オー」が名前のトップにつく人は、アイルランド出身の人を意
味する。(「オー」というのは、「ヘンリー家の……」という意味である。)

 また学生時代、オーストラリアで、仲のよかった女性に、ジリアン・マックグレゴーという人が
いた。名前は、スコットランド系の名前だったが、生粋(きっすい)のアイルランド人。彼らは、
「W」の発音を、少し長くのばして発音する。「What」は、「ウォ〜アッ」となる。その英語で、よく
アイルランドの民謡を歌ってくれた。(「マック」というのは、スコットランドで、やはり「グレゴー家
の……」という意味である。)

 ダンスパーティでも、アイルランドの人たちは、すぐ円陣を作ったり、何列かに並んで、踊り出
す。そういえば、映画『タイタニック』の中にも、そんなシーンがあった。覚えている人も多いかと
思う。

 下楠氏の本を読んで、アイルランドの歴史も、恥ずかしながら、はじめて知った。序章の部分
が、それにあたる。もっとはやく知っていればよかったと思った。アイルランドを見る目も、少し
はちがっていただろう。

 (年をとればとるほど、新しい知識に出会うのが、こわくなる。「こんなことも知らなかったの
か」と、自分で自分がなさけなくなることもある。この本の序章を読んでいたときも、それを感じ
た。)

 アイルランドのことを、あれこれ思い浮かべながら読んだ。……イーニャ(エンヤ)も、アイル
ランド人。ときどき意味のわからない歌詞で歌を歌うが、あれがケルト語か。ほかに、映画だっ
たが、『ライアンの娘』というのもあった。日傘が風に舞って、砂浜に落ちていくシーンが、印象
的だった。
(はやし浩司 妖精のアイルランド 下楠昌哉 ラフカディオ・ハーン ラカディオ・ハーン)

【本書の紹介】

 妖精のアイルランド
 下楠昌哉著
 平凡社新書、760円

++++++++++++++++++++++はやし浩司

●脳みその穴

 数日前、「脳みその穴」について、書いた。「脳みそには、穴があって、そこから、情報や知識
が、どんどんと外へこぼれ出てしまう」と。何とも非科学的な言い方だが、実感としては、それほ
ど、まちがってはいないと思う。

 その脳みその穴。ここ数日、そのことを、ずっと考えていた。「年をとればとるほど、その穴は
大きくなる」と。つまりそれまでに蓄積した、情報や知識が、どんどんと外へこぼれ出てしまう。
わかりやすく言えば、人間は、年をとればとるほど、愚かになる。バカになる。

 そこで穴があるのは、しかたないとしても、ただ指をくわえて見ているだけではいけない。が、
それを防ぐためには、方法は、一つしかない。

 こぼれ出る量よりも多くの、情報や知識を、脳みその中に、詰めこんでいく。10個の情報や
知識がこぼれ出たら、20個の情報や知識を、新しく詰めこむ。20個の情報や知識がこぼれ
出たら、40個の情報や知識を、新しく詰めこむ。

 それを怠ると、どうなるか? そのサンプルのような老人は、あなたの周囲にも、いくらでもい
るはず。老人でなくてもよい。40代の人でも、50代の人でもよい。本や雑誌など、読んだこと
もない。仕事から帰ってくると、見るのは、プロ野球の実況中継か、バラエティ番組だけ。たま
の休みには、魚釣りか、パチンコ。

 そんな人生を、20年も30年もつづけていたら、どうなるか……? 

 この脳みその穴のこわいところは、ある年齢を境に、急速に大きくなるということ。たとえばよ
く、英語の単語が、ひきあいに出される。

 10代、20代のころに覚えた英語の単語は、比較的、脳みその中に、しっかりと残っている。
しかしそんな単語でも、そのままにしておけば、どんどんと忘れる。が、30代、40代のころに
覚えた英語の単語となると、忘れるのも早い。しかも何度、覚えなおしても、すぐ忘れてしまう。

 頭の中にある情報や知識も、それと同じと考えてよい。が、それだけではない。

 人間が生きる上で重要な、倫理観や道徳観まで、その穴から外へこぼれ出てしまう。よく誤
解されるが、人は年をとればとるほど、賢く利口になるというのは、誤解。誤解というより、ウ
ソ。自分が、その年をとってみて、それがわかった。

 むしろ人間は、年をとればとるほど、愚かになり、醜くなる。下劣になる人もいる。見た目の
(完成度)にだまされてはいけない。いかにすれば、自分がすぐれた人間に見えるようになる
か、その技術だけを、懸命にみがいている人も、少なくない。

 そこで一つの目安として、その老人の周囲を見てみればよい。日常的にどんな活動をしてい
るかを、知ればよい。そのことを、ワイフに話すと、ワイフは、こんなことを言った。

 「他人との交流があればいいということ?」と。

 しかし私は、そうは思わない。交流するにしても、相手にもよる。

 人間というのは、本能的な部分で、自分と同レベルの人と交流しようとする。そのほうが、居
心地がよいからである。賢明な人のまわりには、賢明な人が集まる。そうでない人のまわりに
は、そうでない人が集まる。

 そこで重要なことは、人も、ある程度の年齢に達したら、友を選ぶということ。その友を選びま
ちがえると、とんでもないことになる。その人がもつ、低劣さというか、低俗さに、巻きこまれてし
まうこともある。

 たとえばいつも、不平、不満、グチばかり言う人とつきあったとしよう。しばらくすると、あなた
自身も、その人と同じように、不平、不満、グチばかり言うようになる。

 だから年をとったら、自分をみがく上でも、さらに上だけを見て、前に進む。時間にはかぎり
がある。ムダにできる時間は、ますます少なくなる。

 ワイフに、15年ほど前に読んだ本の話をした。その本は、余命いくばくもない、ある若者が書
いた本である。その若者は、HIVに感染し、エイズをすでに発症していた。その彼は、こう書い
ていた。

 「私は、ムダなつきあいをしない。ムダな人とつきあっている時間は、もうない」「真の友だけ
と、最後の時間を、静かに過ごしたい」と。

 その若者のような極限状態に置かれた人でないと、そういう心境を理解することはできない。
「いろいろな人とつきあうことも、大切ではないか」という意見もあろうかと思う。しかし極限状態
に置かれたこともない人が、そういう意見をいくら言っても意味はない。勝手な推測にすぎな
い。

 私は、その若者の言ったことのほうが、正しいとい思う。だからワイフには、こう言った。

 「これからは、ムダなつきあいは、もうやめよう。他人が、あれこれ批判しても、気にすること
はない。言いたいように、言わせておけばいい。そうでなくても、脳みその穴からは、どんどんと
情報や知識が流れ出ていく」と。

 かなり話が脱線したが、要するに、年をとればとるほど、人は、勉強しなければいけないとい
うこと。自らにムチを打ってでも、新しい情報や知識を吸収して、脳みその穴から流れ出ていく
分を補わなければならない。立ち止まった、そのときから、その人の人間性や人格は、後退し
始める。

 がんばるぞ! がんばります!


+++++++++++++++++++++++はやし浩司

●親絶対教の信者 

 私より年配の人と話しているとき、よく、こんなことを感ずる。

 「この人に、私が考えていることを説明しても、はたして理解できるだろうか?」と。

 たいていのばあい、「理解できそうもないから、やめよう」と思って、口をつぐんでしまう。しか
しこれは、あくまでも、私の問題。

 今度は、反対に、相手の人が、私に対して、そう思うときがあるかもしれない。「こんな話を、
林にしても、ムダ。どうせ、林なんかには、理解できないだろう」と。

 しかし私には、そうした相手の心が、わからない。『知らぬが仏』というか、わからないから、
平気でいられる。しかしもし、相手がそう考えていると知ったら、多分、大きなショックを受ける
だろう。

 そこで私は、最近は、「理解できないだろう」とわかっていても、一応、その相手には、言うだ
けのことは言ってみるようにしている。そのときは理解できなくても、相手の脳ミソのどこかに残
って、いつか役にたつかもしれない。親切心からそうしているのではない。自分をごまかすの
が、いやだから、そうする。

 最近も、ある女性と話をした。60歳少し前の女性だが、話を聞いていると、完全なマザコン。
何かにつけて、「お母さん」「お母さん」と、80歳を過ぎた母親を、絶対視しているのがわかっ
た。

 ふつうマザコンというと、男性を思い浮かべるが、女性のマザコンもいる。しかも男性よりも、
性質(たち)が悪い。このタイプの女性にとっては、自分の母親は、宗教者が信ずる本尊のよう
なもの。絶対視するのは、かまわないが、いつも、母親に無謬性(むびゅうせい=一点のまち
がいもないこと)を求める。
 
 しかしその母親が少し、このところ、ボケてきた。そのため、その女性は、あたかも本尊が否
定されたかのような状態になっている。情緒がきわめて不安定。このタイプの女性にしてみれ
ば、「母親がボケるなどということは、絶対にあってはならないこと」。その大ジレンマに苦しん
でいる。

 そこで私は、ふと、こう言ってやった。「理解できるだろうか」という不安感は覚えたが、しかし
だまっていることもできない。

 「あなたは、かなりマザコンタイプの女性のようですね。お気づきですか?」と。

 すると、その女性は、私の言葉に猛烈に反発した。「私の母は、すばらしい人です! 私はマ
ザコンではありません!」と。

 やはり、その女性は私の言ったことを理解できなかった。しかし胸の中を、スーッと風が通り
抜けるのを、私は感じた。

 しかしその女性にとって、それに気がつくことは、今の状況から抜け出す、第一歩になる。で
ないと、いつまでも、悶々と悩むことになる。さらに、仮にやがてその母親がなくなったりする
と、そのショックから立ちなおれなくなる可能性すら、ある。残りの人生を、母親の墓参りか、法
事のためだけに過ごすようになるかもしれない。

 そしてそうすることが、子どもの義務であり、親孝行のカガミであると、思うようになるかもしれ
ない。心理学的にいえば、親への強度の依存性が、そうした儀式に、形を変えているだけ。し
かしこのタイプの人に、それを説明しても、理解できない。

 一般論からすれば、親絶対教の信者というのは、精神的に未熟で未完成。精神的に自立で
きていない人とみてよい。こうした精神構造を、「甘えの構造」(土居健郎氏)と呼んでいる人も
いる。

 それはさておき、今度は、反対の立場で、私たちは、いつも脳ミソを開いておかねばならな
い。私が知っていることよりも、この世の中には、私が知らないことのほうが、はるかに多い。
その知らないことを、相手の人が、教えてくれるときがある。

 たとえばだれかが私に、「林、お前は、マザコンだな」と言ったとする。批判されるのは、だれ
にとっても、いやなものだ。が、大切なことは、そういう人の意見にこそ、よく耳を傾けること。相
手の人が、それを言いやすい人間にならなければならない。

 相手の言うことに耳を閉ざすのも、悪いことだが、相手をして、口をつぐませるのも、同じくら
い、悪いことと考えてよい。

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以前書いた、「親絶対教」の原稿を
少し、手なおして、お届けします。

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【親・絶対教】

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「親は絶対」と思っている人は、多いですね。
これを私は、勝手に、親・絶対教と呼んでいます。
どこかカルト的だから、宗教になぞらえました。

今夜は、それについて考えてみます。

まだ、未完成な原稿ですが、これから先、この原稿を
土台にして、親のあり方を考えていきたいと
思っています。

          6月27日

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●親が絶対!

 あなたは、親に産んでもらったのです。
 その恩は、忘れてはいけません。
 親があったからこそ、今、あなたがいるのです。

 産んでもらっただけではなく、育ててもらいました。
 学校にも通わせてもらいました。
 言葉が話せるようになったのも、あなたの親のおかげです。

 親の恩は、山より高く、海よりも深いものです。
 その恩を決して忘れてはいけません。
 親は、あなたにとって、絶対的な存在なのです。

 ……というのが、親・絶対教の考え方の基本になっている。

●カルト

 親・絶対教というのは、根が深い。親から子へと、代々と引き継がれている。しかも、その人
が乳幼児のときから、徹底的に、叩きこまれている。叩きこまれるというより、脳の奥深くに、し
みこまされている。青年期になってから、何かの宗教に走るのとは、わけがちがう。

 そもそも「基底」そのものものが、ちがう。

 子どもは、母親の胎内で、10か月近く宿る。生まれたあとも、母親の乳を得て、成長する。
何もしなくても、つまり放っておいても、子どもは、親・絶対教にハマりやすい。あるいはほんの
少しの指導で、子どもは、そのまま親・絶対教の信者となっていく。

 が、親・絶対教には、もともと根拠などない。「産んでやった」という言葉を口にする親は多
い。しかしそれはあくまでも結果でしかない。生まれる予定の子どもが、幽霊か何かの姿で、親
の前に出てきて、「私を産んでくれ」と頼んだというのなら、話は別。しかしそういうことはありえ
ない。

 少し話が飛躍してしまったが、親・絶対教の基底には、「親がいたから、子どもが生まれた」と
いう概念がある。親あっての、子どもということになる。その概念が基礎になって、親は子ども
に向かって、「産んでやった」「育ててやった」と言うようになる。

 それを受けて子どもは、「産んでいただきました」「育てていただきました」と言うようになる。
「恩」「孝行」という概念も、そこから生まれる。

●親は、絶対!

 親・絶対教の信者たちは、子どもが親にさからうことを許さない。口答えなど、もってのほか。
親自身が、子どもは、親のために犠牲になって当然、と考える。そして自分のために犠牲にな
っている、あるいは献身的につくす子どもをみながら、「親孝行のいい息子(娘)」と、それを誇
る。

 いろいろな例がある。

 父親が、脳内出血で倒れた夜、九州に住んでいたKさん(女性、その父親の長女)は、神奈
川県の実家の近くにある病院まで、電車でかけつけた。

 で、夜の9時ごろ、完全看護ということもあり、またほかにとくにすることもなかったので、Kさ
んは、実家に帰って、その夜は、そこで泊まった。

 が、それについて、妹の義理の父親(義理の父親だぞ!)が、激怒した。あとで、Kさんにこう
言ったという。「娘なら、その夜は、寝ずの看病をすべきだ。自分が死んでも、病院にとどまっ
て、父親の容態を心配するのが、娘の務めではないのか!」と。

 この言葉に、Kさんは、ひどく傷ついた。そして数か月たった今も、その言葉に苦しんでいる。

 もう一つ、こんな例がある。一人娘が、嫁いで家を出たことについて、その母親は、「娘は、親
を捨てた」「家をメチャメチャにした」と騒いだという。「こんなことでは、近所の人たちに恥ずか
しくて、外も歩けない」と。

 そうした親の心情は、常人には、理解できない。その理解できないところが、どこかカルト的
である。親・絶対教には、そういう側面がある。

●子が先か、親が先か

 親・絶対教では、「親あっての、子ども」と考える。

 これに対して、実存主義的な立場では、つぎのように考える。

 「私は生まれた」「生まれてみたら、そこに親がいた」「私がいるから、親を認識できる」と。あく
までも「私」という視点を中心にして、親をみる。
 
 親を見る方向が、まったく逆。だから、ものの考え方も、180度、変ってくる。

 たとえば今度は、自分の子どもをみるばあいでも、親・絶対教の人たちは、「産んでやった」
「育ててやった」と言う。しかし実存主義的な考え方をする人は、「お前のおかげで、人生を楽し
く過ごすことができた」「有意義に過ごすことができた」というふうに、考える。子育てそのもの
を、自分のためととらえる。

 こうしたちがいは、結局は、親が先か、子どもが先かという議論に集約される。さらにもう少し
言うなら、「産んでやった」と言う親は、心のどこかに、ある種の犠牲心をともなう?

たとえばNさんは、どこか不本意な結婚をした。俗にいう「腹いせ婚」というのかもしれない。好
きな男性がほかにいたが、その男性が結婚してしまった。それで、今の夫と、結婚した。

そして、今の子どもが生まれた。その子どもどこか不本意な子どもだった。生まれたときから、
何かにつけて発育が遅れた。Nさんには、当然のことながら、子育てが重荷だった。子どもを
好きになれなかった。

そのNさんは、そんなわけで、子どもには、いつも、「産んでやった」「育ててやった」と言うように
なった。その背景にあるのは、「私が、子どものために犠牲になってやった」という思いである。

 しかし親にとっても、子どもにとっても、それほど、不幸な関係はない。……と、私は思うが、
ここで一つのカベにぶつかる。

 親が、親・絶対教の信者であり、その子どももまた、親・絶対教であれば、その親子関係は、
それなりにうまくいくということ。子どもに犠牲を求めて平気な親と、親のために平気で犠牲にな
る子ども。こうした関係でも、親子関係は、それなりにうまく、いく。

 問題は、たとえば結婚などにより、そういう親子関係をもつ、夫なり、妻の間に、他人が入っ
てくるばあいである。

●夫婦のキレツ

 ある男性(55歳)は、こう言った。「私には、10歳、年上の姉がいます。しかしその姉は、は
やし先生が言うところの、親・絶対教の信者なのですね。父は今でも、元気で生きていますが、
父の批判をしただけで、狂ったように、反論します。『お父さんの悪口を言う人は、たとえ弟でも
許さない』とです」と。

 兄弟ならまだしも、夫婦でも、こうした問題をかかえている人は多い。

 よくある例は、夫が、親・絶対教で、妻が、そうでないケース。ある女性(40歳くらい)は、昔、
こう言った。

 「私が夫の母親(義理の母親)と少しでも対立しようものなら、私の夫は、私に向って、こう言
います。『ぼくの母とうまくできないようなら、お前のほうが、この家を出て行け』とです。妻の私
より、母のほうが大切だというのですね」と。

 今でこそ少なくなったが、少し前まで、農家に嫁いだ嫁というのは、嫁というより、家政婦に近
いものであった。ある女性(70歳くらい)は、こう言った。

 「私なんか、今の家に嫁いできたときは、召使いのようなものでした。夫の姉たちにすら、あご
で使われました」と。

●親・絶対教の特徴

 親・絶対教の人たちが決まってもちだすのが、「先祖」という言葉である。そしてそれがそのま
ま、先祖崇拝につながっていく。親、つまり親の親、さらにその親は、絶対という考え方が、積も
りにつもって、「先祖崇拝」へと進む。

 先祖あっての子孫と考えるわけである。どこか、アメリカのインディアン的? アフリカの土着
民的? 

 しかし本当のことを言えば、それは先祖のためというよりは、自分自身のためである。自分と
いう親自身を絶対化するために、また絶対化してほしいがために、親・絶対教の信者たちは、
先祖という言葉をよく使う。

 ある男性(60歳くらい)は、いつも息子や息子の嫁たちに向って、こう言っている。「今の若い
ものたちは、先祖を粗末にする!」と。

 その男性がいうところの先祖というのは、結局は、自分自身のことをいう。まさか「自分を大
切にしろ」とは、言えない。だから、少し的をはずして、「先祖」という言葉を使う。

 こうした例は、このH市でも見られる。21世紀にもなった今。しかも人口が60万人もいる、大
都市でも、である。

中には、先祖崇拝を、教育理念の根幹に置いている評論家もいる。さらにこれは本当にあった
話だが、(こうして断らねばならないほど、ありえない話に思われるかもしれないが……)、こん
なことがあった。

 ある日の午後、一人の女性が、私の教室に飛びこんできて、こう叫んだ。「あんたは、先祖を
粗末にしているようだが、そういう教育者は、教育者と失格である。あちこちで講演活動をして
いるようだが、即刻、そういった活動をやめなさい」と。

 まだ30歳そこそこの女性だったから、私は、むしろ、そちらのほうに驚いた。彼女もまた、
親・絶対教の信者であった。

 しかしこうした言い方は、どこか卑怯(失礼!)ではないのか。

 数年前、ある寺で、説法を聞いたときのこと、終わりがけに、その寺の住職が私たちのこう言
った。

 「お志(こころざし)のある方は、どうか仏様を供養(くよう)してください」と。その寺では、「供
養」というのは、「お布施」つまり、マネーのことをいう。まさか「自分に金を出せ」とは言えない。
だから、(自分)を、(仏様)に、(お金)を、(供養)に置きかえて、そう言う。

 親・絶対教の信者たちが、息子や娘に向って、「お前たちのかわりにご先祖様を祭ってやる
からな」と言いつつ、金を取る言い方に、よく似ている。

 実際、ある母親は、息子の財産を横取りして、使いこんでしまった。それについてその息子
が、泣きながら抗議すると、その母親は、こう言い放ったという。

 「親が、先祖を守るため、自分の息子の金を使って。何が悪い!」と。

 世の中には、そういう親もいる。

●親・絶対教信者との戦い

 「戦い」といっても、その戦いは、やめたほうがよい。それはまさしく、カルト教団の信者との戦
いに似ている。親・絶対教が、その人の哲学的信条になっていることが多く、戦うといっても容
易ではない。

 それこそ、10年単位の戦いということになる。

 先にも書いたように、親・絶対教の信者であっても、それなりにハッピーな人たちに向って、
「あなたはおかしい」とか、「まちがっている」などと言っても、意味はない。

 人、それぞれ。

 それに仮に、戦ったとしても、結局は、その人からハシゴをはずすことで終わってしまう。「あ
なたはまちがっている」と言う以上は、それにかわる新しい思想を用意してやらねばならない。
ハシゴだけはずして、あとは知りませんでは、通らない。

 しかしその新しい思想を用意してやるのは、簡単なことではない。その人に、それだけの学
習意欲があれば、まだ話は別だが、そうでないときは、そうでない。時間もかかる。

 だから、そういう人たちは、そういう人たちで、そっとしておいてあげるのも、私たちの役目と
いうことになる。

たとえば、私の生まれ故郷には、親・絶対教の信者たちが多い。そのほかの考え方ができな
い……というより、そのほかの考え方をしたことがない人たちばかりである。そういう世界で、
私一人だけが反目しても、意味はない。へたに反目すれば、反対に、私のほうがはじき飛ばさ
れてしまう。

 まさにカルト。その団結力には、ものすごいものがある。

 つまり、この問題は、冒頭にも書いたように、それくらい、「根」が深い。

 で、この文章を読んでいるあなたはともかくも、あなたの夫(妻)や、親(義理の親)たちが、
親・絶対教であるときも、今、しばらくは、それに同調するしかない。私が言う「10年単位の戦
い」というのは、そういう意味である。

●自分の子どもに対して……

 参考になるかどうかはわからないが、私は、自分の子どもたちを育てながら、「産んでやっ
た」とか、「育ててやった」とか、そういうふうに考えたことは一度もない。いや、ときどき、子ども
たちが生意気な態度を見せたとき、そういうふうに、ふと思うことはある。

 しかし少なくとも、子どもたちに向かって、言葉として、それを言ったことはない。

 「お前たちのおかげで、人生が楽しかったよ」と言うことはある。「つらいときも、がんばること
ができたよ」と言うことはある。「お前たちのために、80歳まで、がんばってみるよ」と言うこと
はある。しかし、そこまで。

 子どもたちがまだ幼いころ、私は毎日、何かのおもちゃを買って帰るのが、日課になってい
た。そういうとき、自転車のカゴの中の箱や袋を見ながら、どれだけ家路を急いだことか。

 そして家に帰ると、3人の子どもたちが、「パパ、お帰り!」と叫んで、玄関まで走ってきてくれ
た。飛びついてきてくれた。

 それに今でも、子どもたちがいなければ、私は、こうまで、がんばらなかったと思う。寒い夜
も、なぜ自転車に乗って体を鍛えるかといえば、子どもたちがいるからにほかならない。

 そういう子どもたちに向かって、どうして「育ててやった」という言葉が出てくるのか? 私はむ
しろ逆で、子どもたちに感謝しこそすれ、恩を着せるなどということは、ありえない。

 今も、たまたま三男が、オーストラリアから帰ってきている。そういう三男が、夜、昼となく、ダ
ラダラと体を休めているのを見ると、「これでいいのだ」と思う。

 私たち夫婦が、親としてなすべきことは、そういう場所を用意することでしかない。「疲れた
ら、いつでも家にもどっておいで。家にもどって、羽を休めなよ」と。

 そして子どもたちの前では、カラ元気をふりしぼって、明るく振るまって見せる。

●対等の人間関係をめざして

 親であるという、『デアル論』に決して、甘えてはいけない。

 親であるということは、それ自体、たいへんきびしいことである。そのきびしさを忘れたら、親
は親でなくなってしまう。

 いつかあなたという親も、子どもに、人間として評価されるときがやってくる。対等の人間とし
て、だ。

 そういうときのために、あなたはあなたで、自分をみがかねばならない。みがいて、子どもの
前で、それを示すことができるようにしておかなければならない。

 結論から先に言えば、そういう意味でも、親・絶対教の信者たちは、どこか、ずるい。「親は絶
対である」という考え方を、子どもに押しつけて、自分は、その努力から逃げてしまう。自ら成長
することを、避けてしまう。

 昔、私のオーストラリアの友人は、こう言った。

 「ヒロシ、親には三つの役目がある。一つは、子どもの前を歩く。ガイドとして。もう一つは、子
どものうしろを歩く。保護者(プロテクター)として。そしてもう一つは、子どもの横を歩く。子ども
の友として」と。

 親・絶対教の親たちは、この中の一番目と二番目は得意。しかし三番目がとくに、苦手。友と
して、子どもの横に立つことができない。だから子どもの心をつかめない。そして多くのばあ
い、よき親子関係をつくるのに、失敗する。

 そうならないためにも、親・絶対教というのは、害こそあれ、よいことは、何もない。

【追記】

 親・絶対教の信者というのは、それだけ自己中心的なものの見方をする人と考えてよい。子
どもを自分の(モノ)というふうに、とらえる。そういう意味では、精神の完成度の低い人とみる。

 たとえば乳幼児は、自己中心的なものの考え方をすることが、よく知られている。そして不思
議なことがあったり、自分には理解できないことがあったりすると、すべて親のせいにする。

 こうした乳幼児特有の心理状態を、「幼児の人工論」という。

 子どもは親によって作られるという考え方は、まさにその人工論の延長線上にあると考えて
よい。つまり親・絶対教の人たちは、こうした幼稚な自己中心性を残したまま、おとなになったと
考えられる。

 そこでこう考えたらどうだろうか。

 子どもといっても、私という人間を超えた、大きな生命の流れの中で、生まれる、と。

 私もあるとき、自分の子どもの手先を見つめながら、「この子どもたちは、私をこえた、もっと
大きな生命の流れの中で、作られた」と感じたことがある。

 「親が子どもをつくるとは言うが、私には、指一本、つくったという自覚がない」と。

 私がしたことと言えば、ワイフとセックスをして、その一しずくを、ワイフの体内に射精しただけ
である。ワイフにしても、自分の意思を超えた、はるかに大きな力によって、子どもを宿し、そし
て出産した。

 そういうことを考えていくと、「親が子どもを作る」などという話は、どこかへ吹っ飛んでしまう。

 たしかに子どもは、あなたという親から生まれる。しかし生まれると同時に、子どもといえで
も、一人の独立した人間である。現実には、なかなかそう思うのも簡単なことではないが、しか
し心のどこかでいつも、そういうものの考えた方をすることは、大切なことではないのか。

【補足】

 だからといって、親を粗末にしてよいとか、大切にしなくてよいと言っているのではない。どう
か、誤解しないでほしい。

 私がここで言いたいのは、あなたがあなたの親に対して、どう思うおうとも、それはあなたの
勝手ということ。あなたが親・絶対教の信者であっても、まったくかまわない。

 重要なことは、あなたがあなたの子どもに、その親・絶対教を押しつけてはいけないこと。強
要してはいけないこと。私は、それが結論として、言いたかった。
(はやし浩司 親絶対教 親は絶対 乳幼児の人工論 人工論)

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以前、こんな原稿を書いたことがあります。
内容が少しダブりますが、どうか、参考に
してください。

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●かわいい子、かわいがる

 日本語で、「子どもをかわいがる」と言うときは、「子どもにいい思いをさせること」「子どもに楽
をさせること」を意味する。

一方、日本語で「かわいい子ども」と言うときは、「親にベタベタと甘える子ども」を意味する。反
対に親を親とも思わないような子どもを、「かわいげのない子ども」と言う。地方によっては、独
立心の旺盛な子どもを、「鬼っ子」として嫌う。

 この「かわいい」という単語を、英語の中にさがしてみたが、それにあたる単語すらない。あえ
て言うなら、「チャーミング」「キュート」ということになるが、これは「容姿がかわいい」という意味
であって、ここでいう日本語の「かわいい」とは、ニュアンスが違う。もっともこんなことは、調べ
るまでもない。「かわいがる」にせよ、「かわいい」にせよ、日本という風土の中で生まれた、日
本独特の言葉と考えてよい。

 ところでこんな母親(76歳)がいるという。横浜市に住む読者から届いたものだが、内容を、
まとめると、こうなる。

 その男性(43歳)は、その母親(76歳)に溺愛されて育ったという。だからある時期までは、
ベタベタの親子関係で、それなりにうまくいっていた。が、いつしか不協和音が目立つようにな
った。きっかけは、結婚だったという。

 その男性が自分でフィアンセを見つけ、結婚を宣言したときのこと。もちろん母親に報告した
のだが、その母親は、息子の結婚の話を聞いて、「くやしくて、くやしくて、その夜は泣き明かし
た」(男性の伯父の言葉)そうだ。

そしてことあるごとに、「息子は、横浜の嫁に取られてしまいました」「親なんて、さみしいもので
すわ」「息子なんて、育てるもんじゃない」と言い始めたという。

 それでもその男性は、ことあるごとに、母親を大切にした。が、やがて自分のマザコン性に気
づくときがやってきた。と、いうより、一つの事件が起きた。いきさつはともかくも、そのときその
男性は、「母親を取るか、妻を取るか」という、択一に迫られた。

結果、その男性は、妻を取ったのだが、母親は、とたんその男性を、面と向かって、ののしり始
めたというのだ。「親を粗末にする子どもは、地獄へ落ちるからな」とか、「親の悪口を言う息子
とは、縁を切るからな」とか。その前には、「あんな嫁、離婚してしまえ」と、何度も電話がかかっ
てきたという。

 その母親が、口グセのように使っていた言葉が、「かわいがる」であった。その男性に対して
は、「あれだけかわいがってやったのに、恩知らず」と。「かわいい」という言葉は、そういうふう
にも使われる。

 その男性は、こう言う。

「私はたしかに溺愛されました。しかし母が言う『かわいがってやった』というのは、そういう意味
です。しかし結局は、それは母自身の自己満足のためではなかったかと思うのです。

たとえば今でも、『孫はかわいい』とよく言いますが、その実、私の子どものためには、ただの
一度も遊戯会にも、遠足にも来てくれたことがありません。母にしてみれば、『おばあちゃん、
おばあちゃん』と子どもたちが甘えるときだけ、かわいいのです。

たとえば長男は、あまり母(=祖母)が好きではないようです。あまり母には、甘えません。だか
ら母は、長男のことを、何かにつけて、よく批判します。私の子どもに対する母の態度を見てい
ると、『ああ、私も、同じようにされたのだな』ということが、よくわかります」と。

 さて、あなたは、「かわいい子ども」という言葉を聞いたとき、そこにどんな子どもを思い浮か
べるだろうか。子どもらしいしぐさのある子どもだろうか。表情が、愛くるしい子どもだろうか。そ
れとも、親にベタベタと甘える子どもだろうか。一度だけ、自問してみるとよい。

●独立の気力な者は、人に依頼して悪事をなすことあり。(福沢諭吉「学問のすゝめ」)

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今でも、親風を吹かす人は多いですね。
しかしもうそんな風を吹かすのは、
やめにしましょう。いかがですか?

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●親風、親像、親意識

 親は、どこまで親であるべきか。また親であるべきでないか。

 「私は親だ」というのを、親意識という。この親意識には、二種類ある。善玉親意識と、悪玉親
意識である。

 「私は親だから、しっかりと子どもを育てよう」というのは、善玉親意識。しかし「私は親だか
ら、子どもは、親に従うべき」と、親風を吹かすのは、悪玉親意識。悪玉親意識が強ければ強
いほど、(子どもがそれを受け入れればよいが、そうでなければ)、親子の間は、ギクシャクして
くる。

 ここでいう「親像」というのは、親としての素養と考えればよい。人は、自分が親に育てられた
という経験があってはじめて、自分が親になったとき、子育てができる。そういう意味では、子
育てができる、できないは、本能ではなく、学習によって決まる。その身についた素養を、親像
という。

 この親像が満足にない人は、子育てをしていても、どこかギクシャクしてくる。あるいは「いい
親であろう」「いい家庭をつくろう」という気負いばかりが強くなる。一般論として、極端に甘い
親、反対に極端にきびしい親というのは、親像のない親とみる。不幸にして不幸な家庭に育っ
た親ほど、その親像がない。あるいは親像が、ゆがんでいる。

 ……というような話は、前にも書いたので、ここでは話を一歩、先に進める。

 どんな親であっても、親は親。だいたいにおいて、完ぺきな親など、いない。それぞれがそれ
ぞれの立場で、懸命に生きている。そしてそれぞれの立場で、懸命に、子育てをしている。そ
の「懸命さ」を少しでも感じたら、他人がとやかく言ってはいけない。また言う必要はない。

 ただその先で、親は、賢い親と、そうでない親に分かれる。(こういう言い方も、たいへん失礼
な言い方になるかもしれないが……。)私の言葉ではない。法句経の中に、こんな一節があ
る。

『もし愚者にして愚かなりと知らば、すなわち賢者なり。愚者にして賢者と思える者こそ、愚者と
いうべし』と。つまり「私はバカな親だ」「不完全で、未熟な親だ」と謙虚になれる親ほど、賢い親
だということ。そうでない親ほど、そうでないということ。

 一般論として、悪玉親意識の強い人ほど、他人の言葉に耳を傾けない。子どもの言うことに
も、耳を傾けない。「私は正しい」と思う一方で、「相手はまちがっている」と切りかえす。

子どもが親に向かって反論でもしようものなら、「何だ、親に向かって!」とそれを押さえつけて
しまう。ものの考え方が、何かにつけて、権威主義的。いつも頭の中で、「親だから」「子どもだ
から」という、上下関係を意識している。

 もっとも、子どもがそれに納得しているなら、それはそれでよい。要は、どんな形であれ、また
どんな親子であれ、たがいにうまくいけばよい。しかし今のように、価値観の変動期というか、
混乱期というか、こういう時代になると、親と子が、うまくいっているケースは、本当に少ない。

一見うまくいっているように見える親子でも、「うまくいっている」と思っているのは、親だけという
ケースも、多い。たいていどこの家庭でも、旧世代的な考え方をする親と、それを受け入れるこ
とができない子どもの間で、さまざまな摩擦(まさつ)が起きている。

 では、どうするか? こういうときは、親が、子どもたちの声に耳を傾けるしかない。いつの時
代でも、価値観の変動は、若い世代から始まる。そして旧世代と新生代が対立したとき、旧世
代が勝ったためしは、一度もない。言いかえると、賢い親というのは、バカな親のフリをしなが
ら、子どもの声に耳を傾ける親ということになる。

 親として自分の限界を認めるのは、つらいこと。しかし気負うことはない。もっと言えば、「私
は親だ」と思う必要など、どこにもない。冒頭に書いたように、「どこまで親であるべきか」とか、
「どこまで親であるべきではないか」ということなど、考えなくてもよい。無論、親風を吹かした
り、悪玉親意識をもったりする必要もない。ひとりの友として、子どもを受け入れ、あとは自然
体で考えればよい。

 なお「親像」に関しては、それ自体が大きなテーマなので、また別の機会に考える。
(はやし浩司 親像 親絶対教 親・絶対教 親風 親意識 封建制度 先祖崇拝)


++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司


最前線の子育て論byはやし浩司(843)

【よりよい親子関係のために……】

●さらけ出し

 たがいの信頼関係を結ぶためには、たがいに(さらけ出し)、そしてそれを、たがいに(受け
入れ)なければならない。

 この(さらけ出し)と、(受け入れ)があってはじめて、その上に、信頼関係が、結ばれる。

 ここで「たがいに」という言葉を使ったが、それは一方的なものであってはいけない。相互的
なものでなければならない。たとえば親子の関係で、考えてみよう。

 たとえば母親が、子どもの前で、プリプリと、ガスを放出したとしよう。これはいわば、母親の
(さらけ出し)になる。

 そのときその臭いをかいだ子どもが、「ママ、臭いよ! こんなところでしないで!」と叫んで
笑えば、子どもは、それを(受け入れた)ことになる。

 一方、今度は、子どもが、ガスを放出したとする。同じように母親が、「臭いわねえ。こんなと
ころでしないで!」と子どもを叱り、子どもも、ヘラヘラと笑ってすませば、(さらけ出し)と、(受け
入れ)が、できたことになる。

 わかりやすいので、ガスを例にあげたが、私がいう(さらけ出し)と、(受け入れ)とは、こういう
ことをいう。

●さらけ出しの障害

このさらけ出しは、ここにも書いたように、相互的なものでなければならない。しかしそのさらけ
出しが、たがいにうまくできないときがある。何らかの障害があって、どこかで心にブレーキを
かけてしまうようなばあいである。私は、その障害として、二つのものを考える。

その二つというのは、物理的障害と、精神的障害である。何だか、理科の学習のようになって
きたが、ほかによい言葉が、思い浮かばなかったので、この言葉を使う。

 物理的障害というのは、たとえば親側の威圧、権威主義、あるいは育児拒否、冷淡、無視
で、子どもの側から、さらけ出しができないことをいう。母親の中に潜む、何かのわだかまり
や、こだわりが原因となることが多い。望まない結婚であったとか、望まない子どもであったと
か、など。家庭騒動や、経済問題、健康問題が、「わだかまり」になることもある。

 この物理的障害が、子どもの(さらけ出し)の障害になる。

 精神的障害というのは、母親自身の心に問題があって、子どもの側からの(さらけ出し)を、
受け入れることができない状態をいう。あるいは母親自身が、自分をさらけ出すことができない
状態をいう。

 母親自身が、不幸にして不幸な家庭に育てられた、など。そういう意味で、子育てというの
は、世代を超えて、親から子どもへと、連鎖しやすい。母親自身が、子どものころ、その親に、
何かの理由があって、自分をさらけ出すことができなかった。だから今度は、自分の子どもに
対して、自分をさらけ出すことができない……というようにである。

 この精神的障害が、子どもの(さらけ出し)の障害になる。

●母子関係の不全
 
 母子関係の不全が、子どもにいかに大きな影響を与えるか。今さら、ここで改めて言うまでも
ない。

 たとえば乳幼児期の母子関係の不全が、そのあと、子どもの心のみならず、身体の発育に
も、深刻な影響を与えるということがわかっている。たとえば乳児院や孤児院での、子どもの死
亡率が高いなどの事実は、以前から、指摘されている。

こうしたことから、J・ボウルビーらは、「母親の愛情は、子どもの精神衛生の基本である」と説
いた。

 さらにR・A・スピッツや、W・ゴールドファーブらは、知的な発育にも、悪影響があることを指
摘している。

 ここで問題になるのは、母子関係は、ここに書いたとおりだが、では、父親と子どもの、父子
関係はどうかということ。

 これについては、母子関係と、父子関係は、平等ではない、つまり同じ親子関係でも、異質
のものであるというのが、通説と考えてよい。

 母親というのは、妊娠期間の間、子どもを、自分の体内に宿す。そして子どもが生まれたあと
も、乳を与えるという意味で、子どもの「命」を育てる。つまり母子関係は、その当初から絶対
的なものであるのに対して、父子関係は、あくまでも「(精液)一しずく」の関係でしかない。

 フロイトも、そうした父子関係を指摘しながら、「血統空想」という言葉を使って、母子関係と父
子関係の基本的な違いを説明している。

 つまり自分と母親との関係を疑う子どもはいない。しかし自分と父親の関係を疑う子どもは、
多い。「私(ぼく)は、ひょっとしたら、あの父親の子どもではないぞ。私(ぼく)は、もっと血筋の
いい父親の子どもかもしれない」と。こうした空想を、フロイトは、「血統空想」と名づけた。

 わかりやすく言えば、母子関係は、その当初から、絶対的な関係で始まる。しかしそれに比
較して、父子関係は、不安定な関係で始まる。だから、ここでいう(さらけ出し)と、(受け入れ)
は、母子の間では、きわめて自然になされるのに対して、父子の間では、そうではないことが
多い。

 (だからといって、母子の関係が絶対であるとか、父子の関係は、そうでないと言っているの
ではない。現実に、約七%の母親は、自分の子どもを愛することができないと、人知れず、悩
んでいる(※1)。一方、母親以上の愛情を、子どもの感じている父親も少なくない。しかし総合
してみれば、母子の関係は、父子の関係より、濃密であり、その絆(きずな)は、太い。)

 たとえばウンチを考えてみる。「自分のクソは、いい臭い」と言ったのは、あのソクラテスだ
が、母親にとって、自分の子どものクソは、(自分のクソのクソ)ということになる。だからほとん
どの母親にとって、赤ん坊のウンチは、自分のウンチと同じということになる。

 しかし父親が、母親と同じ心境になるためには、いくつかのハードルを越えなければならな
い。その「越えなければならない」という部分が、母子関係と、父子関係の違いということにな
る。
(はやし浩司 ボウルビー 血統空想 母子関係 基本的信頼関係 スピッツ フロイト)

●基本的信頼関係

信頼関係は、母子の間で、はぐくまれる。

絶対的な(さらけ出し)と、絶対的な(受け入れ)。「絶対的」というのは、「疑いをいだかない」と
いう意味である。こうした相互の関係が、その子ども(人)の、信頼関係の基本となる。

 つまり子ども(人)は、母親との間でつくりあげた信頼関係を基本に、その関係を、先生、友
人、さらには夫(妻)、子どもへと応用していくことができる。だから母親との間で構築される信
頼関係を、「基本的信頼関係」と呼ぶ。

 が、母子との間で、信頼関係を結ぶことに失敗した子どもは、その反対に、「基本的不信関
係」に陥(おちい)る。いわゆる「不安」を基底とした、生きザマになる。そしてこうして生まれた
不安を、「基底不安」という。

 こういう状態になると、その子ども(人)は、何をしても不安だという状態になる。遊んでいて
も、仕事をしていても、その不安感から逃れることができない。その不安感は、生活のあらゆる
部分に、およぶ。おとなになり、結婚してからも、消えることはない。夫婦関係はもちろんのこ
と、親子関係においても、である。

 こうして、たとえば母親について言うなら、いわゆる不安先行型、心配先行型の子育てをしや
すくなる。

●基底不安

 親が子育てをしてい不安になるのは、親の勝手だが、ほとんどのばあい、親は、その不安や
心配を、そのまま子どもにぶつけてしまう。

 しかし問題は、そのぶつけることというより、親にその自覚がないことである。ほとんどの親
は、不安であることや、心配していることを、「ふつうのこと」と思い、そして不安や心配になって
も、「それは子どものため」と思いこむ。

 が、本当の問題は、そのつぎに起こる。

 こうした母子との間で、基本的信頼関係の構築に失敗した子どももまた、不安を基底とした
生きザマをするようになるということ。

 こうして親から子どもへと、生きザマが連鎖するが、こうした連鎖を、「世代連鎖」、あるいは
「世代伝播(でんぱ)」という。

 ある中学生(女子)は、夏休み前に、夏休み後の、実力テストの心配をしていた。私は、「そん
な先のことは心配しなくていい」と言ったが、もちろんそう言ったところで、その中学生には、説
得力はない。その中学生にしてみれば、そうして心配するのは、ごく自然なことなのである。
(はやし浩司 基本的信頼関係 基底不安)


●人間関係を結べない子ども(人)

人間関係をうまく結ぶことができない子どもは、自分の孤独を解消し、自分にとって居心地の
よい世界をつくろうとする。その結果、大きく分けて、つぎの四つのタイプに分かれる。

(1)攻撃型……威圧や暴力によって、相手を威嚇(いかく)したりして、自分にとって、居心地
のよい環境をつくろうとする。
(2)依存型……ベタベタと甘えることによって、自分にとって居心地のよい環境をつくろうとす
る。
(3)服従型……だれかに徹底的に服従することによって、自分にとって居心地のよい環境を
つくろうとする。
(4)同情型……か弱い自分を演ずることにより、みなから「どうしたの?」「だいじょうぶ?」と同
情してもらうことにより、自分にとって、居心地のよい世界をつくろうとする。

それぞれに(プラス型)と、(マイナス型)がある。たとえば攻撃型の子どもも、プラス型(他人に
対して攻撃的になる)と、マイナス型(自虐的に勉強したり、運動をしたりするなど、自分に対し
て攻撃的になる)に分けられる。

 スポーツ選手の中にも、子どものころ、自虐的な練習をして、有名になった人は多い。このタ
イプの人は、「スポーツを楽しむ」というより、メチャメチャな練習をすることで、自分にとって、
居心地のよい世界をつくろうとしたと考えられる。

●子どもの仮面

 人間関係をうまく結べない子ども(人)は、(孤立)と、(密着)を繰りかえすようになる。

 孤独だから、集団の中に入っていく。しかしその集団の中では、キズつきやすく、また相手を
キズつけるのではないかと、不安になる。自分をさらけ出すことが、できない。できないから、相
手が、自分をさらけ出してくると、それを受入れることができない。

 たとえば自分にとって、いやなことがあっても、はっきりと、「イヤ!」と言うことができない。一
方、だれかが冗談で、その子ども(人)に、「バカ!」と言ったとする。しかしそういう言葉を、冗
談と、割り切ることができない。

 そこでこのタイプの子どもは、集団の中で、仮面をかぶるようになる。いわゆる、いい子ぶる
ようになる。これを心理学では、「防衛機制」という。自分の心がキズつくのを防衛するために、
独特の心理状態になったり、独特の行動を繰りかえすことをいう。

 子ども(人)は、一度、こういう仮面をかぶるようになると、「何を考えているかわからない子ど
も」という印象を与えるようになる。さらに進行すると、心の状態と、表情が、遊離するようにな
る。うれしいはずなのに、むずかしい顔をしてみせたり、悲しいはずなのに、ニンマリと笑って
みせるなど。

 この状態になると、一人の子ども(人)の中に、二重人格性が見られるようになることもある。
さらに何か、大きなショックが加わると、人格障害に進むこともある。

●すなおな子ども論

 従順で、おとなしく、親や先生の言うことを、ハイハイと聞く子どものことを、「すなおな子ども」
とは、言わない。すなおな子どもというときには、二つの意味がある。

一つは情意(心)と表情が一致しているということ。うれしいときには、うれしそうな顔をする。い
やなときはいやな顔をする。

たとえば先生が、プリントを一枚渡したとする。そのとき、「またプリント! いやだな」と言う子
どもがいる。一見教えにくい子どもに見えるかもしれないが、このタイプの子どものほうが「裏」
がなく、実際には教えやすい。

いやなのに、ニッコリ笑って、黙って従う子どもは、その分、どこかで心をゆがめやすく、またそ
の分、心がつかみにくい。つまり教えにくい。

 もう一つの意味は、「ゆがみ」がないということ。ひがむ、いじける、ひねくれる、すねる、すさ
む、つっぱる、ふてくされる、こもる、ぐずるなど。

ゆがみというのは、その子どもであって、その子どもでない部分をいう。たとえば分離不安の子
どもがいる。親の姿が見えるときには、静かに落ちついているが、親の姿が見えなくなったとた
ん、ギャーとものすごい声をはりあげて、親のあとを追いかけたりする。その追いかけている様
子を観察すると、その子どもは子ども自身の意思というよりは、もっと別の作用によって動かさ
れているのがわかる。それがここでいう「その子どもであって、その子どもでない部分」というこ
とになる。

 仮面をかぶる子どもは、ここでいうすなおな子どもの、反対側の位置にいる子どもと考えると
わかりやすい。

●仮面をかぶる子どもたち

 たとえばここでいう服従型の子どもは、相手に取り入ることで、自分にとって、居心地のよい
世界をつくろうとする。

 先生が、「スリッパを並べてください」と声をかけると、静かにそれに従ったりする。あるいは、
いつも、どうすれば、自分がいい子に見られるかを、気にする。行動も、また先生との受け答え
のしかたも、優等生的、あるいは模範的であることが多い。

先生「道路に、サイフが落ちていました。どうしますか?」
子ども「警察に届けます」
先生「ブランコを取りあって、二人の子どもがけんかをしています。どうしますか?」
子ども「そういうことをしては、ダメと言ってあげます」と。

 こうした仮面は、服従型のみならず、攻撃型の子どもにも見られる。

先生「君、今度のスポーツ大会に選手で、出てみないか?」
子ども「うっセーナア。オレは、そんなのに、興味ネーヨ」
先生「しかし、君は、そのスポーツが得意なんだろ?」
子ども「やったこと、ネーヨ」と。

 こうした仮面性は、依存型、同情型にも見られる。

●心の葛藤

 基本的信頼関係の構築に失敗した子ども(人)は、集団の中で、(孤立)と(密着)を繰りかえ
すようになる。

 それをうまく説明したのが、「二匹のヤマアラシ」(ショーペンハウエル)である。

 「寒い夜だった。二匹のヤマアラシは、たがいに寄り添って、体を温めようとした。しかしくっつ
きすぎると、たがいのハリで相手の体を傷つけてしまう。しかし離れすぎると、体が温まらない。
そこで二匹のヤマアラシは、一晩中、つかず離れずを繰りかえしながら、ほどよいところで、体
を温めあった」と。

 しかし孤立するにせよ、密着するにせよ、それから発生するストレス(生理的ひずみ)は、相
当なものである。それ自体が、子ども(人)の心を、ゆがめることがある。

一時的には、多くは精神的、肉体的な緊張が引き金になることが多い。たとえば急激に緊張す
ると、副腎髄質からアドレナリンの分泌が始まり、その結果心臓がドキドキし、さらにその結
果、脳や筋肉に大量の酸素が送り込まれ、脳や筋肉の活動が活発になる。

が、そのストレスが慢性的につづくと、副腎機能が亢進するばかりではなく、「食欲不振や性機
能の低下、免疫機能の低下、低体温、胃潰瘍などの種々の反応が引き起こされる」(新井康
允氏)という。

こうしたストレスが日常的に重なると、脳の機能そのものが変調するというのだ。たとえば子ど
ものおねしょがある。このおねしょについても、最近では、大脳生理学の分野で、脳の機能変
調説が常識になっている。つまり子どもの意思ではどうにもならない問題という前提で考える。

 こうした一連の心理的、身体的反応を、神経症と呼ぶ。慢性的なストレス状態は、さまざまな
神経症による症状を、引き起こす。

●神経症から、心の問題

ここにも書いたように、心理的反応が、心身の状態に影響し、それが身体的な反応として現れ
た状態を、「神経症」という。

子どもの神経症、つまり、心理的な要因が原因で、精神的、身体的な面で起こる機能的障害)
は、まさに千差万別。「どこかおかしい」と感じたら、この神経症を疑ってみる。

(1)精神面の神経症…恐怖症(ものごとを恐れる)、強迫症状(周囲の者には理解できないも
のに対して、おののく、こわがる)、不安症状(理由もなく悩む)など。

(2)身体面の神経症……夜驚症(夜中に狂人的な声をはりあげて混乱状態になる)、夜尿症、
頻尿症(頻繁にトイレへ行く)、睡眠障害(寝ない、早朝覚醒、寝言)、嘔吐、下痢、便秘、発
熱、喘息、頭痛、腹痛、チック、遺尿(その意識がないまま漏らす)など。一般的には精神面で
の神経症に先立って、身体面での神経症が起こることが多く、身体面での神経症を黄信号とと
らえて警戒する。

(3)行動面の神経症……神経症が慢性化したりすると、さまざまな不適応症状となって行動面
に現れてくる。不登校もその一つということになるが、その前の段階として、無気力、怠学、無
関心、無感動、食欲不振、引きこもり、拒食などが断続的に起こるようになる。

●たとえば不登校

こうした子どもの心理的過反応の中で、とくに問題となっているのが、不登校の問題である。

しかし同じ不登校(school refusal)といっても、症状や様子はさまざま(※)。私の二男はひどい
花粉症で、睡眠不足からか、毎年春先になると不登校を繰り返した。

が、その中でも恐怖症の症状を見せるケースを、「学校恐怖症」、行為障害に近い不登校を
「怠学(truancy)」といって区別している。これらの不登校は、症状と経過から、三つの段階に
分けて考える(A・M・ジョンソン)。心気的時期、登校時パニック時期、それに自閉的時期。こ
れに回復期を加え、もう少しわかりやすくしたのが、つぎである。

(1)前兆期……登校時刻の前になると、頭痛、腹痛、脚痛、朝寝坊、寝ぼけ、疲れ、倦怠感、
吐き気、気分の悪さなどの身体的不調を訴える。症状は午前中に重く、午後に軽快し、夜にな
ると、「明日は学校へ行くよ」などと、明るい声で答えたりする。これを症状の日内変動という。
学校へ行きたがらない理由を聞くと、「A君がいじめる」などと言ったりする。そこでA君を排除
すると、今度は「B君がいじめる」と言いだしたりする。理由となる原因(ターゲット)が、そのつ
ど移動するのが特徴。

(2)パニック期……攻撃的に登校を拒否する。親が無理に車に乗せようとしたりすると、狂っ
たように暴れ、それに抵抗する。が、親があきらめ、「もう今日は休んでもいい」などと言うと、
一転、症状が消滅する。ある母親は、こう言った。「学校から帰ってくる車の中では、鼻歌まで
歌っていました」と。たいていの親はそのあまりの変わりように驚いて、「これが同じ子どもか」
と思うことが多い。

(3)自閉期……自分のカラにこもる。特定の仲間とは遊んだりする。暴力、暴言などの攻撃的
態度は減り、見た目には穏やかな状態になり、落ちつく。ただ心の緊張感は残り、どこかピリピ
リした感じは続く。そのため親の不用意な言葉などで、突発的に激怒したり、暴れたりすること
はある(感情障害)。この段階で回避性障害(人と会うことを避ける)、不安障害(非現実的な不
安感をもつ。おののく)の症状を示すこともある。が、ふだんの生活を見る限り、ごくふつうの子
どもといった感じがするため、たいていの親は、自分の子どもをどうとらえたらよいのか、わか
らなくなってしまうことが多い。こうした状態が、数か月から数年続く。

(4)回復期(この回復期は、筆者が加筆した)……外の世界と接触をもつようになり、少しずつ
友人との交際を始めたり、外へ遊びに行くようになる。数日学校行っては休むというようなこと
を、断続的に繰り返したあと、やがて登校できるようになる。日に一〜二時間、週に一日〜二
日、月に一週〜二週登校できるようになり、序々にその期間が長くなる。

●前兆をいかにとらえるか

 この不登校について言えば、要はいかに(1)の前兆期をとらえ、この段階で適切な措置をと
るかということ。たいていの親はひととおり病院通いをしたあと、「気のせい」と片づけて、無理
をする。この無理が症状を悪化させ、(2)のパニック期を招く。

この段階でも、もし親が無理をせず、「そうね、誰だって学校へ行きたくないときもあるわよ」と
言えば、その後の症状は軽くすむ。一般にこの恐怖症も含めて、子どもの心の問題は、今の
状態をより悪くしないことだけを考える。なおそうと無理をすればするほど、症状はこじれる。悪
化する。 

※……不登校の態様は、一般に教育現場では、(1)学校生活起因型、(2)遊び非行型、(3)
無気力型、(4)不安など情緒混乱型、(5)意図的拒否型、(6)複合型に区分して考えられてい
る。

 またその原因については、(1)学校生活起因型(友人や教師との関係、学業不振、部活動な
ど不適応、学校の決まりなどの問題、進級・転入問題など)、(2)家庭生活起因型(生活環境
の変化、親子関係、家庭内不和)、(3)本人起因型(病気など)に区分して考えられている(「日
本教育新聞社」まとめ)。しかしこれらの区分のし方は、あくまでも教育者の目を通して、子ども
を外の世界から見た区分のし方でしかない。

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【参考】

●学校恐怖症は対人障害の一つ 

 こうした恐怖症は、はやい子どもで、満四〜五歳から表れる。乳幼児期は、主に泣き叫ぶ、
睡眠障害などの心身症状が主体だが、小学低学年にかけてこれに対人障害による症状が加
わるようになる(西ドイツ、G・ニッセンほか)。集団や人ごみをこわがるなどの対人恐怖症もこ
の時期に表れる。ここでいう学校恐怖症はあくまでもその一つと考える。

●ジョンソンの「学校恐怖症」

「登校拒否」(school refusal)という言葉は、イギリスのI・T・ブロードウィンが、一九三二年に最
初に使い、一九四一年にアメリカのA・M・ジョンソンが、「学校恐怖症」と命名したことに始ま
る。ジョンソンは、「学校恐怖症」を、(1)心気的時期、(2)登校時のパニック時期(3)自閉期
の三期に分けて、学校恐怖症を考えた。

●学校恐怖症の対処のし方

 第一期で注意しなければならないのは、本文の中にも書いたように、たいていの親はこの段
階で、「わがまま」とか「気のせい」とか決めつけ、その前兆症状を見落としてしまうことである。
あるいは子どもの言う理由(ターゲット)に振り回され、もっと奥底にある子どもの心の問題を見
落としてしまう。しかしこのタイプの子どもが不登校児になるのは、第二期の対処のまずさによ
ることが多い。

ある母親はトイレの中に逃げ込んだ息子(小一児)を外へ出すため、ドライバーでドアをはずし
た。そして泣き叫んで暴れる子どもを無理やり車に乗せると、そのまま学校へ連れていった。
その母親は「このまま不登校児になったらたいへん」という恐怖心から、子どもをはげしく叱り
続けた。

が、こうした衝撃は、たった一度でも、それが大きければ大きいほど、子どもの心に取り返しが
つかないほど大きなキズを残す。もしこの段階で、親が、「そうね、誰だって学校へ行きたくない
ときもあるわね。今日は休んで好きなことをしたら」と言ったら、症状はそれほど重くならなくて
すむかもしれない。

 また第三期においても、鉄則は、ただ一つ。なおそうと思わないこと。私がある母親に、「三
か月間は何も言ってはいけません。何もしてはいけません。子どもがしたいようにさせなさい」
と言ったときのこと。母親は一度はそれに納得したようだった。しかし一週間もたたないうちに
電話がかかってきて、「今日、学校へ連れていってみましたが、やっぱりダメでした」と。

親にすれば一か月どころか、一週間でも長い。気持ちはわかるが、こういうことを繰り返してい
るうちに、症状はますますこじれる。

 第三期に入ったら、(1)学校は行かねばならないところという呪縛から、親自身が抜けるこ
と。

(2)前にも書いたように、子どもの心の問題は、今の状態をより悪くしないことだけを考えて、
子どもの様子をみる。

(3)最低でも三か月は何も言わない、何もしないこと。子どもが退屈をもてあまし、身をもてあ
ますまで、何も言わない、何もしないこと。

(4)生活態度(部屋や服装)が乱れて、だらしなくなっても、何も言わない、何もしないこと。とく
に子どもが引きこもる様子を見せたら、そうする。よく子どもが部屋にいない間に、子どもの部
屋の掃除をする親もいるが、こうした行為も避ける。

 回復期に向かう前兆としては、(1)穏やかな会話ができるようになる、(2)生活にリズムがで
き、寝起きが規則正しくなる、(3)子どもがヒマをもてあますようになる、(4)家族がいてもいな
くいても、それを気にせず、自分のことができるようになるなどがある。こうした様子が見られた
ら、回復期は近いとみてよい。

 要は子どものリズムで考えること。あるいは子どもの視点で、子どもの立場で考えること。そ
ういう謙虚な姿勢が、このタイプの子どもの不登校を未然に防ぎ、立ちなおりを早くする。

●不登校は不利なことばかりではない

 一方、こうした不登校児について、不登校を経験した子どもたち側からの調査もなされてい
る。文部科学省がした「不登校に関する実態調査」(二〇〇一年)によれば、「中学で不登校児
だったものの、成人後に『マイナスではなかった』と振り返っている人が、四割もいる」という。不
登校はマイナスではないと答えた人、三九%、マイナスだったと答えた人、二四%など。そして
学校へ行かなくなった理由として、

友人関係     ……四五%
教師との関係   ……二一%
クラブ・部活動  ……一七%
転校などでなじめず……一四%と、その多くが、学校生活の問題をあげている。  

+++++++++++++++++ 

●自己診断

 子育てにおいて、母子関係の重要性については、今さら、改めて言うまでもない。そしてその
中でも、母子の間で構築される「基本的信頼関係」が、その後、その子ども(人)の人間関係の
みならず、生きザマにも、決定的な影響を与える。まさに「基本的」と言う意味は、そこにある。

 そこで子どもの問題もさることながら、親である、あなた自身が、その基本的信頼関係を構築
しているかどうかを、一度、疑ってみるとよい。

 あなたは自分の子どものときから、いつも自分をさらけ出していただろうか。またさらけ出す
ことができたただろうか。もしつぎのような項目に、三〜五個以上、当てはまるなら、ここに書い
たことを参考に、一度、自分の心を、冷静に見つめてみるとよい。

 それはあなた自身のためでもあるし、あなたの子どものためでもある。

○子どものころから、人づきあいが苦手。遠足でも、運動会でも、みなのように楽しむことがで
きなかった。今も、同窓会などに出ても、よく気疲れを起こす。
○他人に対して気をつかうことが多く、敬語を使うことが多い。気を許さない分だけ、よそよそし
くつきあうことが多い。
○ひとりで、静かに部屋の中に閉じこもっているほうが、気が楽だったが、ときどきさみしくなっ
て、孤独に耐えられないこともあった。
○いつも他人の目を気にしていたように思う。そして外の世界では、いい子ぶることが多かっ
た。無理をして、精神疲労を起こすことも、多い。
○夫(妻)や子どもにさえ、自分の心を許さないときがある。過去の話や、実家の話でも、恥ず
かしいと思うことは、話すことができない。
○言いたいことがあっても、がまんすることが多い。その反面、他人の言った言葉が、気にな
り、それでキズつくことが多い。
○自分は、どこかひねくれていると思う。他人の言葉のウラを考えたり、ねたんだり、嫉妬(しっ
と)することが多い。
○子どものころから、親に対しても、言いたいことが言えなかった。どこか遠慮していた。親や
先生に気に入られることばかりを、考えていた。

●勇気を出して、自分をさらけ出してみよう!

 もしあなたがここでいう「信頼関係」に問題がある人(親)なら、勇気を出して、自分をさらけ出
してみよう。

 まず、手はじめに、あなたの夫(妻)に対して、それをしてみるとよい。言いたいことを言う。し
たいことをする。身も心も、素っ裸になって、体当たりで、ぶつかってみる。何も、セックスだけ
が、さらけ出しということにはならないが、夫婦であることの特権は、このセックスにある。

 そのとき大切なことは、自分をさらけ出すのと同時に、夫(妻)の、どんなさらけ出しにも、寛
容であること。つまり受入れること。「おかしい……」とか、「変態とか……」とか、そういうふうに
考えてはいけない。

 あるがままを、あるがままに受入れて、あなたがた夫婦だけの問題として、処理すればよい。

 で、こうした夫婦の絆(きずな)を、伸ばす形で、つぎに精神面でのさらけ出しをする。思った
ことを話し、考えたことを伝える。

 これは私のばあいだが、私は、ある時期まで、講演をするたびに、ものすごい疲労感を覚え
た。そのつど、聖人ぶったりしたからだ。自分を飾ったり、つくったりしたこともある。

 しかしそれでは、聞きに来てくれた人の心をつかむことはできない。役にもたたない。

 そこでは私は、講演をしながら、その講演を利用して、自分をさらけ出すことに心がけた。あ
りのままの自分を、ありのままに話す。それで相手が、私のことを、「おかしい」と思っても気に
しない。そのときは、そのとき。

 自分に居直ったわけだが、そうすることで、私は自分にすなおになることができた。そう、もと
もと、私は、どこかゆがんだ人間だった。(今も、ゆがんでいる?)私のこうした生きザマが、ギ
クシャクした親子関係で悩んでいる人のために、一つの参考になればうれしい。

【注】この原稿は、W小学校区の教員研修会のための資料として書き始めたものです。まだ公
表できるような段階ではないかもしれませんが、マガジンにこのまま掲載します。時期をおい
て、また書き改めてみます。

(※1)実際には、人知れず子どもを愛することができないと悩んでいる母親は多い。「弟は愛
することができるが、兄はどうしてもできない」とか、あるいは「子どもがそばにいるだけで、わ
ずらわしくてしかたない」とかなど。

私の調査でも子どもを愛することができないと悩んでいる母親は、約10%(私の母親教室で約
200人で調査)。東京都精神医学総合研究所の調査でも、自分の子どもを気が合わないと感
じている母親は、7%もいることがわかっている。そして「その大半が、子どもを虐待しているこ
とがわかった」(同、総合研究所調査・有効回答500人・2000年)そうだ。

同じく妹尾栄一氏らの調査によると、約40%弱の母親が、虐待もしくは虐待に近い行為をして
いるという。妹尾氏らは虐待の診断基準を作成し、虐待の度合を数字で示している。

妹尾氏は、「食事を与えない」「ふろに入れたり、下着をかえたりしない」などの17項目を作成
し、それぞれについて、「まったくない……0点」「ときどきある……1点」「しばしばある……2
点」の3段階で親の回答を求め、虐待度を調べた。その結果、「虐待あり」が、有効回答(494
人)のうちの9%、「虐待傾向」が、30%、「虐待なし」が、61%であったという。

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

最前線の子育て論byはやし浩司(844)

【近況・あれこれ】

●台風(ハリケーン)

 台風14号が、いつものコースを通って、九州めざして進んでいる(9・3)。大型の非常に強い
台風だそうだ。このまま進めば、九州をそれてくれるかもしれない。しかし例年だと、この先、急
にUターン。突然、日本(本州)に向う。

 ところで、先週、超大型のハリケーンの(カトリーナ)が、アメリカの南部の都市を襲った。死
者は、数千人にもなるかもしれないという。日本へやってくる台風とは、規模が、ちがう。……ち
がった。

現在、台風14号は、940ヘクトパスカル。日本に到達するころには、945ヘクトパスカルにな
っているはず(気象庁の予報)。しかしカトリーナは、アメリカに上陸したときは、900ヘクトパス
カル、ギリギリ。「地球湯温暖化が原因」と唱える人もいるが、今のところ、因果関係は、まだ、
はっきりしていない。

 あのアメリカで、こうした自然災害が起きるということ自体、考えられない。それなりの予測も
きちんとしていただろうに……。言いかえると、これから先、この種の自然災害は、いつどこで
起きても、不思議ではないということになる。この日本とて、例外ではない。

 台風はともかくも、地震。

 今度、駿河湾地震、東海沖地震、東南海地震などが起きたとすると、私が住んでいる地域
は、壊滅的な打撃を受けるという。一連の三つの地震が同時に起きれば、津波の高さは、10
〜15メートル(報道)にもなるかもしれないという。

 もしそうなら、浜松市内全域のみならず、太平洋沿岸全域が、海の底に沈むことになる。地
震の振動で、大部分の家が被害をこうむった上での、津波である。アメリカで起きたことが、そ
のまま、この日本で起きる。そう考えても、何ら、おかしくない。


●家父長社会の崩壊

 日本でも今、家父長社会が、猛烈な勢いで崩壊しつつある。いまどき、「男は女より上」「夫は
妻より上」などと言っていたら、家族から、はじき飛ばされてしまう。が、お隣の韓国では、この
問題は、日本より、さらに深刻。

 韓国で、(電話の相談)を受けつけている、李(イ)氏は、こう言っている(東亜N報)。

 「家父長的な価値観の影響を受けて育った男性たちが、準備ができていない状態で迫ってき
た変化を前にして、混乱している。もちろん男女不平等によって、多くの女性たちが受けてきた
不利益に比べて、男性たちの苦痛は小さいものかも知れない。が、危機と変化への順応能力
が女性に比べて、大きく落ちるため、男性側の苦痛がなおさら重く感じられるようだ」と。

 日本でも、こうした社会の変化に順応できない男性は多い。(順応しようとしないばかりか、か
えって抵抗勢力となっている男性も、少なくない。)

 そこで重要なのは、価値観の転換。訂正と言ってもよいし、修正と言ってもよい。だいたいに
おいて、人間に上下意識があること自体、おかしい。そのおかしさに気づいたら、そんな意識
は、さっさと捨てればよい。

 ……といっても、一度つくりあげた価値観を、転換するのは、容易なことではない。まず、自
分自身がもっている価値観に、気づかねばならない。つぎに、その価値観の問題点に気づか
ねばならない。転換するのは、そのあとの問題ということになる。

 が、こうした(学習)をしている人は、少ない。田舎のほうへいくと、いまだに、旧態依然の家
父長制度の亡霊を見ることが多い。女性自身が、それを受けいれてしまっているケースも、少
なくない。

 もっとも、そういう人たちと争っても、意味はない。その人の価値観というのは、そういうもの。
それがわかったら、その人に合わせるしかない。

 で、その韓国だが、日本と同様、中高年の自殺者がふえているという。韓国の総計庁による
と……

40〜49歳の男性自殺者は、01年の1039人から、02年の1308人、03年のの1681人と
ふえた。

50代の男性自殺者も01年の842人から、03年の1241人とふえたという。この2年間で、と
もに、約50%の増加ということになる。

 こういう話を聞いていると、クラーイ気分になってくる。


●介護設備

 これから先、老人が、どんどんとふえてくる。そのため、老人による、事故も、ふえてくる。そこ
でこれからのことも考えて、住宅設備は、どうあるべきかを、考えてみたい。

(1)バリヤーフリーは、常識
(2)玄関ドアなどは、しめると同時に、ロックするようにする。
(3)水、湯のコックは、手を放すと、自然に止まるようにする。
(4)風呂の湯などは、一定量以上には、出ないようにする。
(5)ガスは、火がついていないときは、自動停止するようにする。
(6)空だきを防ぐため、一定時間(5分程度)で、自動消化するようにする。
(6)電話は、番号方式ではなく、名前などが表示されている、表示形式にする。番号は、あら
かじめ、登録しておく。
(7)トイレについては、大幅に改良の余地あり。

 とくに問題なのは、トイレ。洋式トイレのほうがよいのは、言うまでもない。しかし老人は、注意
力が散漫になる。そのため、小便を、よくこぼす。女性にしても、尿取りパッドなどを、よく落す。

 ではどうしたらよいかということは、今すぐには、思いつかないが、(1)全体に、トイレをもっと
大きくする。(2)床などを、もっと清掃しやすいようにする。(3)大型のパッドを落としても、トイ
レが、つまらないようにする。

 もう少し知恵を働かせば、インターネットなどを使った監視設備も可能だが、そういった方面
の研究は、これから先、どんどんと進むだろうと思う。

 ところで、フランスの事情についての情報が、届いた。フランス在住のSさんからのものであ
る。

「介護の話はメルマガを読んで本当に大変だと思いました。
義父も何回も市から派遣の人がきて、どのくらいの重度か
市からの援助が決まる前に永眠ということになってしまったようです。

今、義母が肩の調子が悪く、なかなか力が入らないということで
週に2回、1時間、市から派遣のお手伝いさんに来てもらうようになりました。
買い物をしてきてもらってもよし、お掃除、荷物の片づけ・・・・
個人負担は、1時間2ユーロ(約260円)。
あとは市からの援助だそうです。

老人が増えてきているので、市が貸す一軒家、アパートなどの建築も
最近は、ふえてきました」と。


●翻訳ソフト

 この原稿は、9月30日号に、載せる予定。(今日は、9月3日。) ところで、新しい、翻訳ソフ
トを買ってきた。値段は、1980円。安い! (e frontier S社製、スキルアップ「翻訳」) シャー
プ電気の、翻訳エンジンを搭載したソフトということだそうだ。収録辞書数は、ウソかホントか、
60万語。

 ためしに、翻訳をしてみることにした。どの程度の能力があるか? (私の英語力も、このとこ
ろ低下する一方。偉そうなことは言えないが……。)

 まず、簡単な日本文を書いてみる。以下の日本文が、それ。

+++++++++++++++

(日本文1)

 今日は、台風が近づいているせいか、空は、どんよりと曇っている。
 おかげで涼しい。
 時刻は、今、午前9時、ちょうど。もうすぐワイフが、朝食の用意ができたと、私を呼びにくるこ
ろだ。今日は土曜日。朝食のあとは、草刈り機をなおして、草を刈らねばならない。

(上の日本文の翻訳結果)

今日は、台風が近づいているせいか、空はどんよりと曇っている。
Today, because a typhoon approaches, the sky is cloudier than どん.

おかげで涼しい。
It is cool with the thanks.

時刻は、今、午前9時、ちょうど。
As for the time, now, at 9 a.m., exactly.

もうすぐワイフが、朝食の用意ができたと、私を呼びにくるころだ。
It is when it comes to call me when ワイフ could do the preparation of breakfast soon.

今日は土曜日。
Today, Saturday.

朝食のあとは、草刈り機をなおして、草を刈らなければならない。
Still the rest of breakfasts do a mower, and you must crop grass.

++++++++++++++++++++

 翻訳ソフトに、翻訳させるときには、独特の日本語、つまり(機械)にも、わかる日本語にしな
ければならないようだ。たとえば「朝食のあとに」は、「朝食を食べたあとは」とするなど。

 それでもう一度、実験してみる。それがつぎの結果。

++++++++++++++++++++++

【実験2】

台風が近づいている。
A typhoon approaches.

そのためか、空は、曇っている。
That benefit or the sky is cloudy.

しかし、おかげで、今日は、涼しい。
But, it is cool today with the thanks.

時刻は、今、午前9時、ちょうど。
As for the time, now, at 9 a.m., exactly.

もうすぐ妻が、「朝食の用意ができました」と、私を呼びにくるだろう。
It will come so that a wife may call "It was ready." and me soon.

今日は土曜日。
Today, Saturday.

朝食を食べたあとは、草刈り機をなおさねばならない。
After breakfast is eaten, still you must さ a mower.

それは故障している。
That is out of order.

それをなおしたら、家のまわりの草を刈らなければならない。
If still that is done, you must crop grass around the house.

+++++++++++++++++++++++

 だんだん、コツがわかってきた。翻訳ソフトを使うときは、めんどうでも、英語式に、主語をき
ちんと、入れてやらなければならないようだ。ナルホド!

+++++++++++++++++++++++

【実験3】

台風が近づいている。
A typhoon approaches.

そのためか、空は、曇っている。
That benefit or the sky is cloudy.

しかし、おかげで、今日は、涼しい。
But, it is cool today with the thanks.

時刻は、今、午前9時、ちょうど。
As for the time, now, at 9 a.m., exactly.

もうすぐ妻が、「朝食の用意ができました」と、私を呼びにくるだろう。
It will come so that a wife may call "It was ready." and me soon.

今日は土曜日。
Today, Saturday.

朝食を食べたあとは、草刈り機をなおさねばならない。
After breakfast is eaten, still you must さ a mower.

それは故障している。
That is out of order.

それをなおしたら、家のまわりの草を刈らなければならない。
If still that is done, you must crop grass around the house.

++++++++++++++++++++++

フーム!!??

まあ、この程度か。ついでに、IBM社の「翻訳のO様」でも、翻訳してみる。

++++++++++++++++++++++

【実験4】(実験3の日本語を英文に翻訳させてみた。)

The typhoon is approaching. 
Probably for the reason, empty is becoming cloudy. 
However, it is cool by favor today. 
time -- now, 9:00 a.m. -- exactly . 
A wife will already come to call me "ready [ breakfast ]" immediately. 
It is Saturday today. 
You have to repair a lawn mower, after eating breakfast. 
It is out of order. 
If it is corrected, you have to cut the grass around a house. 

+++++++++++++++++++

英文にしてみた感じでは、IBM社の「翻訳のO様」は、笑いたくなるほど、メチャメチャ。(どちら
も、同じようなものか?)

+++++++++++++++++++

 そこで私の脳ミソの中にある、翻訳エンジンを使って、翻訳してみる。もうすぐ58歳になる。
かなりサビついてはいるが、挑戦してみる。

+++++++++++++++++++

 Typhoon is coming soon and therefore, I think, it is more cloudy than usual for the time of 
this season.

 It is much cooler, however, with the thanks of this weather.

 The time is now just 9 o'clock sharp. I suppose my wife will call me , saying, "Breakfast is 
ready!".

 It is Saturaday today and I will fix up the mower, which is out of order. Then I will mow the 
grasses around my house.

++++++++++++++++++++

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司


最前線の子育て論byはやし浩司(845)

●ちょっと、おかしいぞ?

 まずは、つぎのコラムを読んでほしい。あなたは、このコラムを読んで、どう感ずるだろうか。
 
……60年前の昨日、日本は、東京湾の艦上で、降伏文書に調印して、世界は大戦の恐怖か
ら解放された。「過去の流血と蛮行から、自由、寛容、正義の実現のための世界が、うち立て
られることこそ、人類の望み」。連合国軍最高司令官マッカーサーの声明は、日本側にも大き
な感銘を与えた。だが、流血と蛮行はその後も絶えず、今はイラクで顕著だ……。

 地元のC新聞朝刊に書かれた、第1面下段のコラムである。

 私はこの文章を読んだとき、頭の中で、脳ミソ(シナプス)がショートしたのを感じた。バチバ
チと火花が出た。

 とくに、「日本は、東京湾の艦上で、降伏文書に調印して、世界は大戦の恐怖から解放され
た」という部分。この文章を、日本以外の、どこかの国の新聞記者が書いたというのなら、まだ
話は、わかる。しかし大戦の恐怖を与えた当の日本人が、「大戦の恐怖から解放された」と
は、いったい、どういうことなのか!?

 私も、いろいろな記事を書く。あの戦争は、まちがっていたと書くことはある。しかし「日本が
負けてよかった」と書いたことは、一度も、ない。しかしこの文章を読むと、あたかも、言外で、
「日本が戦争に負けてよかった」と言っているようにも聞こえる。

 視点そのものが、おかしい。

 「過去の流血と蛮行」をしていた国というのは、どこの国のことなのか。マッカーサーの言葉を
聞いた日本側に、大きな感銘を与えたというのは、どういうことなのか。(この部分も、仮にそう
であったとしても、本来なら、「マッカーサーの言葉に、日本側は、大きな感銘を受けた」と書く
べきである。)

 私は、右翼でも、左翼でもない。自称、中立派である。(勝手にそう思いこんでいるだけかもし
れないが……。)しかしこの文章は、右翼や左翼の人にはもちろんのこと、中立派の人たちに
さえ、受け入れらないだろう。

 もう少し、わかりやすく説明してみよう。

 日本は、降伏文書に調印した。つまり戦争に負けた。しかしいくら戦争に反対しても、「負け
ればいい」と思っていた日本人は、いなかったはず。負けたのは、あくまでも結果。そしてさらに
その結果をとらえて、このコラムの筆者は、「世界は大戦の恐怖から解放された」と。

 この文章をそのまま読むと、まるで日本が、世界の人を、大戦の恐怖から解放したかのよう
にも聞こえる。しかも降伏文書に調印することで……?

 しかしこの意識のズレこそが、今、世界で問題になっている。「世界の人たちに大戦の恐怖を
与えたこと」について、一片の反省も謝罪の念すら、ない。ないばかりか、まるで他人ごとのよ
うにとらえている。

 本来なら、もし、あの戦争に、正義や大義名分があったのなら、降伏文書に調印してからで
も、アメリカ軍と戦うべきだった。ゲリラ戦でも、何でもよい。しかし負けたとたん、「大きな感銘」
を「与えた(=受けた)」と。

 そしてこのコラムは、「流血と蛮行はその後も絶えず、今はイラクで顕著だ……」とつづく。

 戦争に負けたとたん、日本は、今度は、「平和の使者」となった。過去の流血と蛮行は、清算
された。日本人としては、そう思いたいのかもしれないが、世界は、そうは見ていない。そんな
ことは、ほんの少しだけ、視点を中国に置いてみればわかる。被害者の立場で考えてみれば、
わかる。

 C新聞という、中部地方を代表する新聞だけに、このコラムは、残念でならない。

 ついでにあのイラク戦争について言うなら、あの戦争には、もともと無理があった。その無理
をゴリ押しして、アメリカは、戦争を始めてしまった。今、イラクで起きている、流血と蛮行は、あ
くまでもその無理の変形でしかない。

 しかしアメリカという同盟国が戦争を始めてしまった以上、日本としては、アメリカを支持する
しかない。むずかしい戦争だとは思うが、「アメリカが負ければいい」とは、思っていない。何と
か、丸く、おだやかにすむ方法はないものかと思っている。


++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

●ビデオ編集

 本格的なビデオ編集ソフトを購入。さっそく、いろいろ試してみる。が、これが結構、……とい
うより、たいへん、おもしろい。

 が、こういうことをしていると、時間のたつのが早い。あっという間に、2、3時間は、過ぎてし
まう。どういうことだろう。

 ほかにも、たとえばこんなことがある。

 朝、6時ごろ、起きる。パソコンに電源を入れて、Eメールを読んだり、ニュースを読んだりす
る。たったそれだけのことしかしていないはずなのだが、それだけで、1時間ほど、過ぎてしま
う。自分の原稿を書き始めるのは、そのあと。

 インターネットの時代になって、ものごとが瞬時、瞬時に、処理できるようになった。昔なら手
紙を一往復させるだけで、1週間はかかった。外国なら、2週間はかかった。それが今では、
瞬時。

 時間は短縮されたはずなのに、それから生まれる心の余裕は、かえって狭くなってしまった。
そんな感じがする。

 で、その3時間もかけて、やっと、10分足らずのビデオを1本、編集してみた。音楽を入れた
り、タイトルを書きこんだり……。何ごとも、はじめの一歩のときは、時間がかかる。

 ところでビデオ編集するについては、当然、ビデオカメラ……ということになるが、パソコンシ
ョップの店員さんに相談すると、意外なことを教えてくれた。

 「ビデオカメラは、売れませんから、取りあつかっていません」と。

 私は「エッ?」と驚いた。理由を聞くと、こういうことだそうだ。

 パソコンを使って動画を編集するような人には、ビデオカメラよりも、動画撮影機能(今では、
ほとんどのカメラにそれがついている)のある、デジタルカメラのほうが、使い勝手がよいとのこ
と。

 なるほど、そういうことだったのか!

 とくに動画を、インターネットを使って配信するようなときには、そうかもしれない。1秒あたり、
10〜15コマ程度でじゅうぶん。画像サイズが大きすぎると、アップロードするにも、ダウンロー
ドするにも、時間がかかってしまう。

 そこで急きょ、今まで集めたビデオカメラのパンフレットは、ゴミ箱行きに! そしてどこかキ
ズまるけになり始めた、愛用のデジタルカメラを、ハンカチでみがきなおす。

 ビデオ編集だから、ビデオカメラが必要……という発想は、まちがっていた!

 ……ということで、こうして毎日パソコンをいじるのは、ボケ防止のためのようなもの。ワイフ
には、いつも、そう説明している。

 で、2日目の今日。かなりのところまで、ソフトを使いこなせるようになった。これから、近くの
公園に行って、素材となるような写真+MOVIEを撮ってくる。

 では、みなさん、乞う、ご期待!


++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

●がんばるための原動力

 家族や家庭の問題で、苦労を重ねている人は、多い。子育てにしても、しかり。しかしそういう
緊張感があるからこそ、人は、がんばることができる。「チクショー!」と。そのがんばるための
原動力になっているのが、緊張感である。

 私たち夫婦は、国民年金など、はなからアテにしていない。していないが、それを手にするま
では、どうしても、がんばらなくてはいけない。あと、8年。その8年は、がんばらなくてはいけな
い。

 それだけではない。息子の一人が、大学を卒業するまでに、まだ1年半もある。が、おかげ
で、夢ができた。

 いつか息子がパイロットとなって、機長となったら、私は、ワイフと2人で、その初飛行に同乗
する。「初飛行のときは、家族は、招待されるよ」とのこと。どうしても、それまでは健康でいた
い。生きていたい。

 こうした緊張感があるからこそ、私は、がんばることができる。

 そう言えば、私は若いときから、実家に欠かさず、生活費を入れてきた。冠婚葬祭だけは、
ハデにやる土地柄で、そのたびに、私の貯金通帳は、カラになった。しかしカラになるたびに、
私は、それ以前にもまして、働いた。

 もしそうした緊張感がなければ、そうまでは働かなかったと思う。

 今も、そうだ。母の介護だ、兄の介護だと、○十万円ずつの出費がつづく。しかしそのたび
に、内心では、「チクショー」と思う。そう思うことが、何というか私の体の中に、新しいパワーを
満たす。

 たとえば、「健康だけは、奪われてたまるか!」という思いが、私をして、運動にかりたてる。
昨日は土曜日だったが、自転車で、10キロも走った。今日も、10キロ近く、歩いた。その原動
力となっているのが、ここでいう緊張感である。

 私は、まだ、倒れるわけにはいかない。病気になるわけいにはいかない。そこで、今日、ワイ
フとこんな会話をした。

「苦しいことや、つらいことがあるからこそ、がんばろうという気持ちがわいてくる。もし、平和で
満ち足りた生活に、安穏としてしまったら、その時点で、ぼくの人生は終わる」と。

 よく誤解されるが、親が、子どもを育てるのではない。子どもが、親を育てる。子どもが、親
に、生きる活力を与えてくれる。子どもたちがまだ、幼いころ、私が家に帰ると、みな、「パパ、
お帰り!」と、私の胸の中に飛びこんできてくれた。

 そのとたん、一日の疲れが、消えた! が、それだけではない。背水の陣を敷いているから
こそ、家族が力を合わせることができる。これはワイフの意見だが、ワイフは、こう言った。

 「不幸が、家族をまとめるのよ」と。

 幸福であることは、それ自体、すばらしいことだが、その幸福になれてしまうと、その時点か
ら、人は、まっさかさまに、不幸のドン底へと落ちていく(?)。家族は、バラバラになってしまう。
生きることには、そんな皮肉な面が、いつも、ついてまわる。

 そして今……。老後の緊張感が、私に、生きる力を与えてくれる。いろいろ問題はあるが、そ
ういう問題があるからこそ、がんばろうという気持ちがわいてくる。つまり、これが人生。私の人
生。最後の最後で、足をふんばって、がんばる。「チクショー、負けてたまるかア!」と。

 みなさん、いっしょに、がんばりましょう! 


++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

●もうすぐ、58歳!

 10月は、私の誕生月。もうすぐ、私は、58歳になる。もう、じゅうぶんすぎるほど、クソジジイ
の年齢である。

 心理学者のペックという人は、中年期の危機として、つぎの4つをあげている(「心理学用語
がわかる本」)。

つまり中年期から老年期にかけて、人は、質的に変化しなければならない。その変化をうまく、
自分の中で消化できれば、それでよし。そうでなければ、つまり変化に対応できなければ、そ
れはそのまま(中年期の危機)となる。

(1)身体的活力の危機
(2)性的能力の危機
(3)対人関係構造の危機
(4)思考の柔軟性

 で、この4つについて、自分なりに考えてみたい。

(1)身体的活力の危機

 腕力や体力では、もう若い人たちには、かなわない。(ただし、私のばあい、今でもときどき、
自転車では、ムキになって、若い人たちと競争することがある。)「かなわない」と思いが、自信
喪失につながったり、落ちこむ原因となったりする。そこでそれを防ぐためには、その腕力や体
力にかわるものを、自分の中で、用意する。

 つまり、身体的活力を、何か別のものに置きかえることで、腕力や体力の衰えを補完する。

 それが経験であり、知識であり、知恵ということになる。が、そうした変化にうまく対応できな
いと、衰えゆく自分の姿や体力を見ながら、毎日、毎晩、悶々と苦しむことになる。

 こうした傾向は、女性ほど、強いのえは……? たとえば(肉体的な美しさ)にしても、若い人
にかなわない。そこで女性は、年をとればとるほど、そうした肉体的な美しさを、何か別のもの
に置きかえなければならない。外見的な美しさの追求から、内面的な美しさへの追求へと、方
向転換するのも、その一つ。

しかし、そのトランジット(乗り換え)が、うまくできないと、40代になっても、50代になっても、若
い女性と張りあって、ムダな抵抗を繰りかえすことになる。50歳を過ぎて、赤いミニスカートを
はいていた女性がいた。が、それがあるべき老後の姿かというと、それは、疑わしい。

(2)性的能力の危機

 性的能力は、50歳を過ぎるころから、たしかに弱くなる。弱くなるというより、そういうことを考
えるのが、おっくうになる。(私のばあい、反対に、「若いころは、どうしてああまで、女性に狂っ
たのか」と、思うことがある。)

 数日前も、ある若い男性のBLOGを読んでいたら、そこには、こう書いてあった。「かわいい
女の子の、おxxxを、一晩中、なめていたい」と。

 私も、そう思ったことがある。しかし今の私は、「どうして、そんなふうに思ったのか」と、反対
に、自分に問いかけることが多い。

 そこで性的能力の質的な変化について、考えてみる。これはあくまでも、私の個人的な変化
である。

(1)女性と男性の区別が、あいまいになった。
(2)性的に興奮する時間が、短くなった。
(3)性的エネルギーが、行動力につながらなくなった。
(4)肉体だけのセックスに、意味を感じなくなった。

 女性と男性の区別が、あいまいになったというのは、「男も、女も、同じだなあ」と思うことが多
くなったということ。男もスケベだが、女もスケベ。いつも考えていることは、ともに、同じ。

 (2)と(3)については、解説はいらないだろう。若いころのように、「女性を求めて、がむしゃ
らに……」ということは、少なくなった。

(4)の肉体だけのセックスに、意味を感じなくなったというのは、若い女性のヌード写真などを
見たときに、強く思う。「セックスをしてみたい」とは思うが、そういった女性は、精子を排泄する
ためだけの肉体でしかない。わかりやすく言えば、公衆トイレの便器のようなもの(失礼!)。恐
らく、射精したとたん、その女性の、体を放したくなるだろう。

 しかしその一方で、セックスに(心)を入れたら、たいへんなことになる。浮気が浮気でなくなっ
てしまう。それこそ、夫婦関係を崩壊させ、家庭を崩壊させることにもなりかねない。

 そこで性的能力に、何かの意味を置こうとする。あるいは意味を考えようとする。若いときの
ように、無我夢中で、頭の中をカラッポにしてセックスをするということは、もうない。できない。
人間的なつながりを、どうしても、そこに求めようとする。

 少し前、産婦人科医をしている友人(当時、50歳くらい)が、こう言った。「ぼくらは、浮気とい
っても、女性の体を求めて浮気するのではない。心を求めて、浮気する」と。それに近い心境
になる(?)。

(3)対人関係構造の危機

 現役時代に役職や肩書きをもっていた人ほど、この危機に陥(おちい)りやすい。家柄や学
歴にこだわっている人も、同じ。

 現役時代には、みなが自分に頭をさげた。みなが、自分の意見に耳を傾けた。しかし退職し
たと同時に、ただのオジサン、オバサン。だれも、自分の意見に耳を傾けない。しかしこれは
当の本人にしてみれば、許しがたいほど、屈辱的なことでもある。

 そのため、現役時代の役職や肩書きにこだわる人は多い。しかしこだわればこだわるほど、
対人関係は、ギクシャクしてくる。人が、近寄らなくなる。

 そこで老齢期を迎えたら、一度、裸になる。裸になって、自分を見なおす。現役時代の自分を
引きずれば引きずるほど、周囲の人たちと同化できなくなってしまう。「弧高」と言えば聞こえは
よいが、その実態は、「孤独」。

 要するに、現役時代の役職や肩書きなど、クソ食らえということ。まず、それに気がつくこと。

(4)思考の柔軟性

 価値観は、世代とともに、大きく変化する。そういう変化に気づいたら、臨機応変に、それに
順応していく。その柔軟性のある人は、より豊かな老齢期を送ることができる。そうでない人
は、そうでない。

 中には、反対に、自分の価値観に固執し、その価値観を、若い人に押しつける人がいる。そ
ういう人たちがよく口にする決まり文句が、「今の若いものは……」という言葉。「今の若いもの
は……」と、若い人たちを批判することで、自分の優位性を保とうとする。

 しかし古今東西、古い世代の価値観が、若い世代の価値観に、勝ったためしはない。理由は
簡単。古い世代ほど、先に、死ぬからである。

 だから結局は、つまり豊かな老齢期を過ごそうとするなら、若い世代の価値観に、自分を合
わせていくしかない。そしてそのためにも、思考は、いつも柔軟でなければならない。

 新しいことにいつも興味をもち、挑戦していく。異質の思想や文化を理解し、それを自分の中
に取り入れていく。情報や知識については、どんどんと自分の中に、注いでいく。忘れる分よ
り、多く、取り入れていく。

 こうして柔軟性を、保つ。

 さてさて、もうすぐ、58歳。この10年間だけでも、私は、かなり退化している。何よりも強く感
ずるのは、集中力が弱くなってきたということ。根気がつづかない。……というより、これも体力
的な衰えが原因かもしれない。

 たとえば気温が高かったりすると、体がその暑さに耐えられなくなる。その結果として、集中
力がつづくかなくなる。脳ミソの集中力そのものは、それほど、衰えていないのかもしれない。
その証拠に、涼しくなったりすると、以前と同じようにものを書くことができる。

 こうして、いろいろと考える。「中年の危機」は、だれしも、迎えるもの。それをうまく乗り切るか
どうかで、そのあとの老後の生活のあり方が決まってくるということ。私にとっては、今が、その
トランジットの時期ということになる。
(はやし浩司 中年の危機 老後の危機 ペック 老後のあり方 老後への転換)

【補記】

 それぞれの人は、それぞれの方法で、中年の危機を乗り切っているようである。たとえば体
力的、知的能力の低下は、だれしも、避けがたいもの。が、それだけではない。社会的地位や
評価も、さがる。当然、収入も、減る。対人関係にしても、行動半径にしても、範囲が狭くなる。

 ときどき私も、「もう、ぼくの時代は終わった」と思うことがある。

 が、まだまだあきらめるわけには、いかない。そこでそういう状態から、つぎのステップへと、
自分を昇華させなければならない。またそうしないと、ここでいう中年の危機を乗り越えること
はできない。そこで私なりに、いくつかのコツを考えてみた。

(1)ありのままの自分で生きる……頭がハゲても、白髪になっても、そのままの姿で生きる。い
くら5歳若く見せても、5年後には、5年後の私になる。年齢の変化を、すなおに、受け入れる。

(2)精神生活(内面世界)の充実をはかる……若い人たちと張りあってもしかたない部分につ
いては、さっさとあきらめる。あきらめて、若い人たちにはできないことをさがす。そしてそれを
追求する。

(3)新しいことに挑戦する……どんどんと新しいことに挑戦していく。そういう意味では、パソコ
ンは、おもしろい道具である。日々に進歩し、変化する。最初は「できるかな?」と戸まどうこと
も多いが、あきらめてはいけない。出費もかさむが、ボケ予防のためと考えれば、安いもの。

(4)運動をする習慣を大切に……運動は、5年後、10年後を考えてする。習慣の中に、運動
を取り入れる。そうすれば、否応なしに、運動することになる。

 以上、私の努力目標ということになる。


++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

●ここが米国? 信じられない

 韓国の東亜N報が、「ここが米国? 信じられない」というタイトルの記事を、トップで報道し
た。いわく、「米国の羞恥心、ハリケーン被災地に文明はなかった」(アメリカの恥、ハリケーン
被災地には文明はなかった)と。

 今度のハリケーンで、1000人以上もの人たちが、死んだ。水面下には、まだ数千人の人が
死んでいるかもしれないという。アメリカは、今、懸命の救助活動をつづけている。そんな最
中、その一部の写真を掲載して、東亜N報は、「ここが米国? 信じられない」と。

 韓国は、いったい、どこへ行ってしまったのか? 「米国の羞恥心、ハリケーン被災地に文明
はなかった」というのは、いくら何でも、少し、言い過ぎではないのか。これではけがをして苦し
んでいる人のキズ口に、塩を塗りこむようなもの。

 アメリカといっても、実は、アメリカという国は、ない。少なくとも私たちがもっている「国」の概
念とはちがう。アメリカは、移民国家。世界中から多種多様な民族が集まっている。そういう民
族を、アメリカという「国」は、受け入れている。もちろん日系人も多いが、それ以上に、韓国系
アメリカ人も多い。

 今回も、その地域に住む韓国系アメリカ人、約3000人が、被害をこうむっている。「1人当
たりの最高被害額が600万ドルを超えるものと推算される」(東亜N報)とし、「被害を復旧する
のに数年かかり、在米韓国人たちの事業基盤が大きく揺らぐだろう」(同)とのこと。

しかも現在、韓国の平和と安全を守っているのは、アメリカ軍ではないのか。何ら、救援活動を
手助けしていないにもかかわらず、さらに「ここが米国? 信じられない」とは! 

 韓国が台風で被害を受け、懸命の救助活動をしている最中、どこかの国のマスコミが、同じ
ような言い方で、韓国をヤユしたら、韓国は、いったい、どのように反応するだろうか。もしそれ
が日本のマスコミだったら、それこそ、狂ったように日本を攻撃するだろう。

 私は最初、この記事を読んだとき、K国の新聞記事かと思った。まだ、それなら理解できる。
アメリカとK国は、敵対関係にある。しかし同盟国であるはずの、韓国が!

 繰りかえす。韓国は、いったい、どこへ行ってしまったのか?
(050905記)

【補記】

 韓国に反日、反米、プラス親北政策、ここに極まったという感じがする。少なくとも現在のN大
統領率いる韓国は、日本にとって、たいへん危険な国である。ただ、ゆいいつの救いは、N大
統領の支持率が20%前後、N大統領率いる、与党の支持率が10%前後しかないということ。
こうした意見は、決して、韓国の大多数の人たちを代表したものではないということ。

 私は、そういう大多数の韓国の人たちの良識を信じたい。と、同時に、日本政府は、N大統領
は、そういう大統領であるという前提で、本腰を入れて、対峙しなければならない。


++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

●ミイラ取りがミイラに……

 姉からこんな話を、聞いた。

 介護の世界では、よく、ミイラ取りがミイラになるというようなことがあるそうだ。よくある例が、
認知症の老人を介護しているうちに、その人自身が、認知症になってしまうケース。

 ほかにも、いろいろある。

 ある女性は、ときどき両親の世話をしていた。嫁ぎ先から、車で、10分ほどのところに、両親
が住んでいた。その女性は、何かの買い物をしたついでに、実家へ寄り、簡単な料理を作った
りしていた。

 その女性は、いつも、こうこぼしていた。「父と母は、仲が悪くて困ります。顔さえ合わせれ
ば、けんかばかりしています」と。

 父親は母親の悪口を言い、母親は父親の悪口を言っていたらしい。そこでその女性が、どち
らかの味方をすると、もう一方が、たいへん機嫌をそこねたという。

 が、数年前、その父親が死んだ。で、今は、その女性は、母親のほうの介護をしている。が、
その女性と母親の間が、年を追うごとに、おかしくなってきた。顔を合わせるたびに、けんかば
かりしているという。それを見たその女性の兄は、「まるで、父の亡霊が、乗り移ったみたい」
と。

 ほかにも、こんな例がある。

 育児ノイローゼならぬ、介護ノイローゼになる人も多いという。そのノイローゼが高じて、うつ
病。さらには、自殺未遂を起こす人もいるという。子育てとちがって、介護には、(未来)がな
い。そのため、一度、どこかで歯車が狂うと、とことん、狂う。が、狂うだけではない。

 そのとたん、介護すること自体が、巨大な重(おも)しとなって、その人を苦しめる。実の親で
あるにせよ、義理の親であるにせよ、親子であるがゆえに、心理学でいうところの「幻惑」にし
ばられる。それは恐ろしいほどの苦しみといってよい。わかりやすく言えば、「幻惑」というの
は、「板ばさみ」のこと。「親である……」「子である……」という、その板ばさみの中で、もがき
苦しむ。

 が、世の中には、そういう苦しみを、理解できない人も多い。安易な『ダカラ論』だけで、もの
ごとを、片づけようとする。「あなたは子どもだから……」「相手は親だから……」と。

 しかしこの問題だけは、つまり介護の問題だけは、その『ダカラ論』だけで、考えることはでき
ない。100の家庭があれば、100の、1000の家庭があれば、1000の事情がある。そして
それぞれの家庭が、他人には絶対に理解できない、複雑な事情をかかえている。

 ものの考え方もちがう。宗教観も、哲学も、ちがう。「自分がそうだから」という理由だけで、
「相手もそうあるべきだ」と考えるのは、たいへん危険なものの考え方といってよい。

 さて、またまた平均寿命がのびた。それはそれとして、ありがたいことだが、しかしその分だ
け、介護する側の人たちの年齢も、高くなっている。70歳の老人が、90歳の両親の介護をす
るということも、理屈の上では、ありえないことではない。しかし現実問題として、70歳の老人
が、両親の介護をするなどということは、可能なのだろうか。70歳の息子のほうが、90歳の母
親より、先にボケてしまうというケースだって、少なくない。

 もちろん収入のない人だって、多い。いろいろな心の問題をかかえている人も多い。家族や
家庭の問題をかかえている人も、これまた多い。親子といっても、他人以上に、憎しみあってい
る親子だっている。だからミイラ取りがミイラになってしまう。

 しかしどうして、この日本では、老後の問題、介護の問題を考えると、こうまで暗くなってしまう
のだろうか。「私はだいじょうぶ」と思っている人も、今のままの状態を、20年後、30年後に、
置きかえてみるとよい。あなたははたして、そのときでも、「私はだいじょうぶ」と言い切ることが
できるだろうか。

 年をとればとるほど、夢や希望を、明日につなげていくのが、むずかしくなる。進むべき道す
ら、わからなくなる。今はかろうじて健康でも、その健康も、いつまでつづくかわからない。そう
いったものが、混然一体となって、老後の不安や心配となって、私たちにのしかかってくる。

 姉の話を聞いていたとき、別の心で、私は、そんなことを考えていた。


++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

●女の子の体にさわる(?)

 今日、レッスンのとき、Mさん(小5の女の子)が、こう言った。「先生(=私のこと)は、女の子
の体にさわる。いやらしい」と。

 そこで私は、こう言った。「いつ、どこで、だれにさわった?」「そういうことは、軽々しく、言って
ほしくない」「ぼくの仕事では、そういううわさは、うわさだけでも、たいへんな問題になる」と。

 Mさんは、頭もよく、このところ、急速に、女の子らしくなってきた。こういう言い方は不謹慎に
聞こえるかもしれないが、美人で、容姿も端麗。

M「さわったわよ?」
私「どこに……」
M「どこにって……。女の子の体によ」と。

 それを横で聞いていた、別の女の子も、「さわった」「さわった」と騒いだ。

私「そりゃあ、ほめるときに頭や、握手するときに手にさわることはある。しかしほかにさわった
ことはない。この35年間、一度も、ない」
M「フ〜ン、背中にさわった……」
私「背中?」
M「そうよ、背中にさわったことがある」
私「姿勢が悪いときに、そういえば、背中をたたくことがある。しかしそれは、さわったということ
にはならない」と。

 で、どういうわけか、Mさんは、この2、3か月、同じ話題をもちだしては、私を困らせる。で、と
うとう、昨日、キレた!

 私は、Mさんの顔を真剣に見つめて、こう言った。

 「いつ、どこで、どのようにして、ぼくが、女の子の体にさわったか、それを言ってみろ。もしそ
んなことが事実なら、今月で、ぼくの教室を閉める。君にとっては、冗談でも、この世界には、
冗談で通らないことがある。それがわかったら、二度と、そういうことを口にするのではない!」
と。

 で、そのあと、Mさんの母親に、教室にきてもらった。Mさんは、顔をまっかにはらして、シクシ
クと泣いていた。Mさんの母親は、「うちでは、そういう話をしませんが……」と。

 この年齢になると、女の子も、急速に、性的な好奇心にめざめるようになる。「さわる」という
意味もよくわからないまま、その言葉を使う。体の中でうずく、性的欲求が、そうさせるのかもし
れない。あるいは、何らかの欲求不満が、心の底で、うずを巻いているのかもしれない。Mさん
も、むずかしい年齢に入りつつある。

 無視すれば、怒る。相手にすれば、「ヘンタイ!」「エッチ!」と騒ぐ。ささいなことで、嫉妬した
り、それを別の意味にとらえたりする。だから私としては、淡々と接するしかない。が、それで
も、子どもたちの方から、からんでくることもある。今回のケースも、そうだった。

 たまたまそこへワイフが、私を迎えにきた。外は、雨模様。台風が近づいていた。

 Mさんと、Mさんの母親が帰ったあと、ワイフが、部屋の掃除をしながら、こう言った。

 「女の子っていうのは、むずかしいのよ。デリケートなのよ……」と。

 私にも、心の油断があったのかもしれない。しかし私は、ワイフにこう言った。「幼児のときか
ら教えているとね、その子どもに、『女性』を感ずることは、ないよ。まず、ないね。自分の子ど
もと同じだよ。しかしね、父親のように、その子どもを、抱くことができない。抱いたら、誤解され
るからね。でも、生徒のほうは、ぼくに対して、父親のように感ずるのかもしれない。スキンシッ
プを求めているのかもしれない。それが欲求不満につながるのかもしれないね」と。

 Mさんの気持ちもよく理解できたが、しかしこのあたりが、私の限界。Mさんも、つらいだろう
が、こうしたつらさをのり越えながら、Mさんも、やがておとなの女性になる。

 別れ際、私は、Mさんの母親にこう言った。「あと、1、2年もすると、初恋をして、ボーイフレン
ドもできますよ。そうすれば、落ちついてきますよ」と。

【補記】

 同じ欲求不満でも、幼児のそれと、思春期の子どもが経験する、いわゆる性的な欲求不満
は、異質のものと考えてよい。

 ところで、人間は、2度の(急激な発達)を経験すると言われている。1度目は、生後2年目ま
でくらいのころ。そして2度目が、13歳以後の思春期。この2度目の(急激な発達)を、「思春期
スパート」と呼ぶ学者もいる。

 つまり、このころの発達には、めざましいものがある。とくに扁桃腺やリンパなど、「リンパ型」
と呼ばれる部分の発達が、めざましい。スキャモンの発達曲線を見ても、満11歳から12歳に
かけて、ピークを迎える。

 さらに13歳前後から、生殖型は急速に発達を開始し、精巣(男子)、卵巣(女子)は、ほぼ完
成し、おとなのそれになる。が、心のほうは、それと並行して、発達するわけではない。そのチ
グハグさが、(揺れ動く、子どもの心)をつくる。

 ときに、甘えてみたり、あるいは反対に突っ張ってみたり……。子ども扱いをすると、不機嫌
になる。しかしおとなに見ることもできない。

 Mさんも、ときおり、ふと、もの思いに沈んだ様子を見せたりする。目がうつろになり、夢を見
ているかのようになったりする。思春期前の子どもが、よく見せる症状である。

こういうときは、そっとしておいてやるのが、一番よい。
(はやし浩司 思春期 思春期の子どもの問題 思春期スパート スキャモンの発達曲線 スキ
ャモン リンパ 生殖型 リンパ型)


【補足】

●スキャモンの成長曲線

 スキャモンは、子どもの成長を、(1)神経型(脳や神経など)、(2)一般型(骨格、筋肉、内臓
器官)、(3)生殖型(精巣、卵巣)、(4)リンパ型(リンパ、扁桃腺)の4つに分け、それぞれの発
達の度合は、グラフ化した。

 それによれば、神経型は、満10歳までに、ほぼ100%完成し、一般型は、満20歳までに、
ほぼ完成する。しかしリンパ型は、満11歳前後までに、一度、190%近くまで完成し、その
後、低下して、満20歳ごろ、おとなの標準値になる。

 生殖型は、満13歳ころから急速に発達し始め、満20歳前後で完成するという。

 こうした発達曲線は、人間特有のものと考えてよい。ほかの動物とちがって、人間は、大き
く、0〜2歳のころと、13歳〜以後の、2度、急速に発達する時期を迎える。
(はやし浩司 スキャモンの発達曲線 子供の発達曲線 子どもの発達 生殖型 リンパ型 
子供の成長曲線 子どもの成長曲線 はやし浩司)

++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

【思春期の男子】

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男子は、どのようにして、性にめざめるよ
うになるのか。

私の経験をまじえながら、それについて書
いてみたい。

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●私の個人的な体験

 私の個人的な体験が、そのまま、すべての男子に当てはまるとは、かぎらない。しかし私が、
ごく平均的な男子だったとするなら、私の個人的な体験を話すことは、男子をもつ親、とくに母
親たちにとって、何かの役に立つかもしれない。

 そんな視点で、「男子が性にめざめるころ」について、書いてみたい。しかし内容が内容だけ
に、そのまま書くわけにはいかない。それに当時と今とでは、時代もちがう。環境もちがう。くわ
えて、私が生まれ育った環境は、それほど、恵まれたものではなかった。戦後のあのドサクサ
が、まだ色濃く残っていた時代でもある。

 私は、小学3、4年生ごろまで、平気で女湯に入っていた。銭湯での、話である。一応、男湯
の脱衣所から銭湯にはいるものの、隣の女湯のほうに、母や姉がいたりすると、番台の前を
すりぬけて、女湯の方へ走っていったりした。

 が、当然のことながら、そこでは、卑猥(ひわい)な感じは、まったく覚えなかった。今、頭の中
をさがしても、思い出として残っているシーンは、何もない。

 むしろ、あるとき、湯船の中央に、ポッカリと、だれかがした大便が浮かんでいたのは、よく覚
えている。私が、小学2、3年生のころではなかったか。

 それともう一つ、これは鮮明に覚えているが、だれかが、立ったまま、体を前にかがめて髪の
毛をゆすいでいるところ。その女性の尻が、ちょうど、私の目の高さのところにあった。私は、
その女性の性器を、まじまじと見てしまったわけだが、美しいものを見たという覚えはない。くし
ゃくしゃのシワだらけ……といった印象をもった。

 あとは、ない。

●お医者サンごっこ

 が、そんな私だが、別のところでは、女子の体に興味をもつようになった。当時は、(今もそう
だが)、そうした遊びは、「お医者サンごっこ」と呼ばれていた。患者にみたてた女子を裸にし
て、その女子の体のあちこちを調べた。

 最初に私が、それをしたのは、小学3,4年生くらいのときではなかったか。相手の女の子
は、小学1、2年生だったと思う。まわりに、3、4人の男子だったか、女子だったか、よく覚えて
いないが、いたように思う。記憶の中では、黒い影のようになっている。

 私は、その女の子の股(また)に指を入れたが、しかし、その指が、耐えられないほど、臭くな
ったのを覚えている。そんなわけで、女性器に対する第一印象は、あまりよくなかった。

●初恋

 初恋をしたのも、そのころ。同じクラスの、Aさんという女の子が、好きになった。と、言って
も、「好き」という感覚が、まだよく理解できなかった。その女の子を独占したかった。その女の
子に関心をもってほしかった。その女の子が、ほかの男と親しげに話していたりすると、言いよ
うのない、胸騒ぎを覚えた。

 そんなわけで、私のAさんに対する行為は、かなりいびつなものだった。私に関心を示さない
Aさんに対して、私は、意地悪をした。無視したり、わざとAさんが、いやがることをしたりした。

 あるときは、Aさんのいないときに、Aさんのノートに落書きをしたこともある。恐らくAさんは、
なぜ私がそういう行為をするのか、理解できなかっただろうと思う。私の脳裏に焼きついている
Aさんは、私にいじめられて、シクシクと泣いているAさんである。

 もちろん性的好奇心というのは、男子のばあい、女性器そのものに集中する。私も、そうだっ
た。しかし初恋した相手の女性器に興味をもったわけではない。女性器に興味をもつことと、
女の子に恋をするという行為は、別々のものである。心の中で融合するということは、なかっ
た。恋は恋であり、女性器は女性器であった。

●貧弱な時代

 しかし当時は、情報源が、決定的に不足していた。町の本屋にしても、その種の本を置いて
ある店はなかった。あったとしても、上半身ヌードの写真の載っている雑誌程度。しかしその雑
誌を盗み見することで、かなりの興奮状態になることができた。

 当時の私は、女性器よりも、女性の豊かな胸のほうに、興味をもった。

 そんな時代だったが、いくつかの事件(?)が、あった。

 どこかの病院へ行ったときのこと。待合室で並んでいると、隣の席にすわった女性が、赤ん
坊に乳を与え始めた。私はそのとき、心臓が止まるのではないかと思うほど、ショックを受けた
のを覚えている。小学6年生くらいのころではなかったか。

 つぎに、こんなこともあった。

 私が、ひとりで風呂に入っていると、突然、近所の女性が、「いっしょに、はいるよ」とか何とか
いって、湯船に飛びこんできた。私が中学1年生のときのことで、その女性は、まったくといって
よいほど、そういうことに無頓着な人だった。

 そのとき、その女性は、20歳前後。今でも、名前も知っている。ときどき会うこともある。大き
な胸が、強烈すぎるほどの衝撃を私に与えた。私は、勃起したペニスを隠すのに、たいへんな
苦労をした。

 で、そのあとも、1年周期くらいの間隔で、好きな女の子ができた。が、デートをしてみたいと
思ったことはあるが、しかしセックスまでは考えなかった。そういうのを、あとになって、「プラト
ニックラブ」と呼ぶということを知った。

●恋とセックス

 恋が、セックスと一致するようになるのは、男子のばあい、もう少しあとではないか。私の経
験では、高校生から、大学生にかけてのこと。そのころになると、恋イコール、セックスと考える
ようになる。

 で、女子に初潮があるように、男子にも、射精がある。時期的には、男子の射精は、女子の
初潮よりも、1、2年ほど遅れるということらしい。私のばあいも、はじめての射精は、中学1年
のころではなかったか。

 近所に、たいへんスケベな女の子がいた。年齢は、10歳くらいだった。私より、3、4歳、年
下だった。その女の子が、ある日、いっしょにテレビを見ていると、私のパンツの中に手を入れ
てきた。

 その女の子にしてみれば、ただの遊びだったかもしれない。子どものころ、その女の子とは、
ときどき、お医者サンごっこをしたこともある。私はその女の子の、するままにしていた。が、そ
のとき、突然、意識が、スーッと穴の中に落ちて行くように感じた。

 とたん、下半身がドクドクと、波打っているのがわかった。それまでに感じたことのない快感だ
った。が、射精したとまでは、思っていなかった。ただそのとき、その女の子が、こう言ったの
は、覚えている。「おしっこを漏らしたア?」と。

 以来、どれだけ射精を繰り返したかは、覚えていない。高校生になるころは、毎晩ではなかっ
たか。簡単な空想だけで、ペニスは勃起し、しばらく刺激を与えると、そのまま射精した。

 それがとても、気持ちよかった。甘ったるい、体が溶けるような陶酔感というのは、そのとき
覚える感覚をいう。が、それは決して許されるべき陶酔感ではない。男子が射精するときは、
いつもそこに「女」を想定する。モノとしての、女である。そのため、いつも、射精するときは、あ
る種の罪悪感を覚える。「してはいけないこと」という罪悪感である。

 たとえばのぞき見という行為がある。銭湯で、入り口に立つと、ときとして、女湯のほうの脱衣
所で、衣服を脱いだ女性を見ることがある。しかしのぞきは、悪いこと。頭の中では、それがわ
かっている。しかし、見たい……。それが、姿を変えて、罪悪感に変化する。

 ……こうして、私は、思春期を迎え、性にめざめた。が、これはあくまでも、男子のばあい。女
子については、よく知らない。わからない。

●まとめ

 で、そういう自分を、客観的にまとめてみると、こうなる。

(1)女性器に強い関心をもつ。
(2)女性の体、とくに乳房に、強い関心をもつ。
(3)関心をもっただけで、勃起が始まる。
(4)こうした関心は、恋心とは、まったく無関係。
(5)男子のばあい、射精には、いつも罪悪感がともなう。
(6)最初の射精は、夢精で始まることが多い。
(7)一度、射精の陶酔感を覚えると、毎日でも、オナニーをするようになる。
(8)そうした思いが、積もりに積もって、いよいよ実行(初体験)ということになる。

 そこであなたの子どもが、思春期を迎えたら、こんなことに注意したらよい。

(1)罪悪感をもたせないようにする。……子どもの性的な好奇心を、笑ったり、茶化したりしな
い。
(2)ごく自然な行為として無視する。……見て見ぬフリというか、暖かく、包みこむように、無視
する。もちろん、親のほうから助長する必要はない。

 あとのことは、子ども自身が自分で考え、決めて、行動する。人間の遺伝子の中には、あな
たの指導を超えた、プログラムがすでに組みこまれている。それに静かに従う。

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子どもに嫉妬する、母親について
書いた原稿を、添付します。

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●愛

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昨夜、ワイフと、ふとんの中で、
こんな会話をした。

「愛にも、いろいろあるね」と。

たとえば溺愛ママと呼ばれる人の中には、、
自分の息子が初恋でもしたりすると、
半狂乱になる人がいる。

溺愛は、愛ではない。自分勝手で、
わがままな愛……。それはわかるが、
では、溺愛ママは、なぜ子どもを溺愛するのか?

そこでもう一度、愛について、
考えなおしてみる。
================

 以前、自分の息子が結婚した夜、「悔しい」「悔しい」と泣き明かした母親がいた。あるいは嫁
いで出た娘に、ストーカー行為を繰りかえしていた母親がいた。その母親は、娘に、「お前をの
ろい殺してやる」と言っていた。

 そしてこんなこともあった。

 ある夏の日のことだった。一人の母親が、私のところに来て、こう言った。「息子が恋をしまし
た。何としてもやめさせてほしい。今は、高校受験をひかえた大切なときですから」と。

 相手の女性は、五、六歳年上の女性だという。本屋で店員をしていた。

 で、私が「恋の問題だけは、私でも、どうにもなりません」と言うと、その母親は、バッグの中
からその女性の写真を何枚か出し、こう泣き叫んだ。「こんな女ですよ!」「こんな女のどこが
いいのですか!」と。

 それはまさに嫉妬に狂う、女の姿だった!

+++++++++++++++++++

 「愛」にも三種類、ある。本能的な愛、代償的愛、それに真の愛である。

 さらに、心理学者のリーは、人間がもちうる恋愛感情を、つぎの六つに分けた。

(1)エロス……肉感的な愛。女性の乳房や、男性の男根に強い性欲を覚える。
(2)ストーゲイ……異性との友情的な愛。
(3)アガペ……絶対的な献身を誓う愛。命すらも捧げる愛。
(4)ルダス……遊びとしての愛。ゲーム感覚で、恋愛を楽しむ。
(5)マニア……愛がすべてになってしまう。はげしい嫉妬や恋慕をいだくことが多い。
(6)プラグマ……実利的な目的をもって、損得の計算をしながら、異性とつきあう愛。

 これは異性間の恋愛感情だが、親子の間の愛も、同じように分類することができる。

(1)エロス……息子や娘を、異性として意識する。肉欲的な感情を、自分の子どもに覚える。
(2)ストーゲイ……自分の子どもと、友情関係をもつ。子どもというより、対等の人間として、子
どもをみる。
(3)アガペ……子どものためなら、すべてを捧げる愛。命すらも惜しくないと感ずることが多
い。
(4)ルダス……子育てをしながら、毎日、子どもと人生を楽しむといったふう。いっしょに料理を
したり、ドライブに行ったりする。
(5)マニア……子どもを自分の支配下におき、自分から離れていくのを許さない。
(6)プラグマ……家計を助ける。あるいは老後のめんどうをみてくれる存在として、子どもを位
置づける。

 これは私が思いつくまま考えた愛なので、正しくないかもしれない。しかしこうして親が子ども
に感ずる愛を分類することによって、自分が子どもに対して、どんな愛をいだいているかを、知
ることができる。

 ふとんの中で、ワイフが、こう言った。

ワ「私は、息子たちに恋人ができたときでも、嫉妬しなかったわ」
私「あたりまえだ。しかしぼくたちに娘がいて、その娘に恋人ができたら、ぼくは、どうだっただ
ろうね」
ワ「あなたのことだから、嫉妬したと思うわ」
私「そうだな……」

ワ「愛があるから、嫉妬するの?」
私「いろいろな愛があるからね。親の世界にも、代償的愛というのがある。いわば愛もどきの
愛ということになる。自分の子どもを、自分の支配下において、自分の思いどおりにしたいとい
う愛をいう。子どもの受験勉強に狂奔している親というのは、たいていこの種類の親と考えてい
い。代償的愛というのは、もともと身勝手なものだよ」

ワ「じゃあ、どういうのが、真の愛なのかしら?」
私「親子の愛というのは、実感しにくいものだよ。しかし子どもが、大きな病気になったり、事故
にあったときなどに、それがわかる」
ワ「ふつうのときは?」
私「要するに、どこまで子どもを許し、どこまで子どもを忘れるか。その度量の深さこそが、愛
の深さということになるよ」

ワ「じゃあ、私が、あなたに、『私にほかに好きな人ができました。離婚してください』と言った
ら、どうなるのかしら?」
私「『お前の幸福のためなら、ぼくは、引きさがるよ』というのが、真の愛ということになるのか
な。ぼくには、できないけど……」
ワ「そりゃあ、そうでしょう。そうすると、夫婦の愛と、親子の愛は、ちがうのかしら?」

私「ぼくの印象では、人間の脳は、それほど器用にできていないと思う。だから愛を使い分ける
ことはできないはず。同じと考えていいと思う」
ワ「じゃあ、夫婦の間でも、溺愛夫婦というのが、いるのかしら?」
私「いると思うよ。たがいにベタベタの夫婦がね」
ワ「でも、そういう夫婦は、真に愛しあっていることにはならないわね」

私「その可能性は、高い。たがいにたがいの心のすき間を埋めるために、愛しあっているだけ
かもしれない」
ワ「そういう夫婦のときは、どちらか一方が、不倫でもしたら、たいへんなことになるわね」
私「そうかもね……」と。

 実のところ、私は、本当にワイフを愛しているかどうかということになると、あまり自信がない。
だからときどき、ワイフにこう聞くときがある。

 「お前は、ぼくのために犠牲になっているだけではないのか?」「無理をするなよ」と。するとワ
イフは、いつもこう答える。「私は、家族のみんなが、それぞれ幸せなら、それでいいの」と。

 いつかそういうワイフを見て、二男が、こう言った。「ママの生き方はすばらしい」と。しかし私
には、そういう犠牲心というのは、あまりない。リーの分類法によれば、私がもっている愛は、
マニア(嫉妬しやすい愛)と、プラグマ(実利的な愛)を合わせたようなものかもしれない。

 日本的に言えば、独占欲の強い、自分勝手な愛ということになる。

 そこで育児論。

 本能的な愛については、さておき、ほとんどの親は、代償的愛をもって、真の愛と誤解してい
る。つまりは、薄っぺらい愛なのだが、問題は、いつ、その「薄っぺらさ」に、気がつくかというこ
と。

 自分の息子が結婚した夜、「悔しい」「悔しい」と泣き明かした母親。あるいは嫁いで出た娘
に、ストーカー行為を繰りかえしていた母親。

 こうした母親は、そういう意味では、実に薄っぺらい。しかしこうした母親にかぎって、「私は息
子を愛している」「娘を愛している」と公言して、はばからない。

 あのマザーテレサは、こう書いている。

●We can do no great things; only small things with great love.
(偉大なことなど、できませんよ。ただ偉大な愛をもって、小さなことができるだけ。)
 
●I have found the paradox, that if you love until it hurts, there can be no more hurt, only 
more love. 
(それがあなたをキズつけるまで、人を愛するとね、もう痛みはなくなるものよ。ただより深い愛
が残るだけ。皮肉なパラドックスね。)

 恋人であるにせよ、夫婦であるにせよ、そして親子であるにせよ、真の愛というのは、そうい
うものかもしれない。

 子どもの受験勉強で、カリカリしているお父さん、お母さん。少しだけ立ち止まって、今、本当
にあなたは、自分の息子や娘を、愛しているのか、それを考えてみてほしい。

 ひょっとしたら、あなたはただ、自分が感じている不安や心配を、息子や娘にぶつけているだ
けかもしれない。しかしそれは、もちろん、ここでいう真の愛ではない。

 ……ということで、「愛」についての話は、ここまで。問題は、あとは、それをどう実行していく
かということ。それがむずかしい。ホント!

+++++++++++++++++

●子どもを愛するために……

あなたの疲れた心をいやすために、
もう、あきらめなさい。あきらめて、
あるがままを、受け入れなさい。

がんばっても、ムダ。無理をしても、ムダ。
あなたがあなたであるように、
あなたの子どもは、あなたの子ども。

あとは、ただひたすら、許して、忘れる。
あなたの子どもに、どんなに問題があっても、
どんなにできが悪くても、ただ許して、忘れる。

問題のない子どもは、絶対にいない。
その子は、どの子も、問題がないように見える。
しかしそう見えるだけ。みんな問題をかかえている。

あとは、あなたの覚悟だけ。
あなたも、一つや二つ、三つや四つ、
十字架を背負えばよい。

「ようし、さあ、こい!」と。そう宣言したとたん、
あなたの心は軽くなる。子どもの心も軽くなる。
そのとき、みんなの顔に微笑みがもどる。

あなたはすばらしいい親だ。
それを信じて、あとは、あきらめる。
それともほかに、あなたには、
まだ何かすることがあるとでもいうのか?
(はやし浩司 愛 真の愛 リー エロス アガペ)


++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

【子どもを愛せない親たち】

 その一方で、子どもを愛せない親がいる。全体の10%前後が、そうであるとみてよい。

 なぜ、子どもを愛することができないか。大きくわけけて、その理由は、二つある。

 一つは、自分自身の乳幼児期に原因があるケース。もう一つは、妊娠、出産に際して、大き
なわだかまり(固着)をもったケース。しかし後者のケースも、つきつめれば、前者のケースに
集約される。

 乳児には、「あと追い、人見知り」と言われるよく知られた現象がある。生後5〜7か月くらい
から始まって、満1歳半くらいまでの間、それがつづく。

 ボウルビーという学者は、こうした現象が起きれば、母子関係は、健全であると判断してよい
と書いている。言いかえると、「あと追い、人見知り」がないというのは、乳児のばあい、好まし
いことではない。

 子どもは、絶対的な安心感の中で、心をはぐくむ。その安心感を与えるのは、母親の役目だ
が、この安心感があってはじめて、子どもは、他者との信頼関係(安全感)を、結ぶことができ
るようになる。

 「あと追い、人見知り」は、その安心感を確実なものにするための、子どもが親に働きかけ
る、無意識下の行動と考えることができる。

 で、この母子との間にできた基本的信頼関係が、やがて応用される形で、先生との関係、友
人との関係へと、広がっていく。

 そしてそれが恋愛中には、異性との関係、さらには配偶者や、生まれてきた子どもとの関係
へと、応用されていく。そういう意味で、「基本的(=土台)」という言葉を使う。

 子どもを愛せない親は、その基本的信頼関係に問題があるとみる。その信頼関係がしっかり
していれば、仮に妊娠、出産に際して、大きなわだかまりがあっても、それを乗りこえることが
できる。そういう意味で、ここで、私は「しかし後者のケースも、つきつめれば、前者のケースに
集約される」と書いた。

 では、どうするか?

 子どもを愛せないなら、愛せないでよいと、居なおること。自分を責めてはいけない。ただ、一
度は、自分の生い立ちの状況を、冷静にみてみる必要はある。そういう状況がわかれば、あな
たは、あなた自身を許すことができるはず。

 問題は、そうした問題があることではなく、そうした問題があることに気づかないまま、その問
題に引き回されること。同じ失敗を繰りかえすこと。

 しかしあなた自身の過去に問題があることがわかれば、あなたは自分の心をコントロールす
ることができるようになる。そしてあとは、時間を待つ。

 この問題は、あとは時間が解決してくれる。5年とか、10年とか、そういう時間はかかるが、
必ず、解決してくれる。あせる必要はないし、あせってみたところで、どうにもならない。

【この時期の乳児への対処のし方】

 母子関係をしっかりしたものにするために、つぎのことに心がけたらよい。

(1)決して怒鳴ったり、暴力を振るったりしてはいけない。恐怖心や、畏怖心を子どもに与えて
はならない。
(2)つねに「ほどよい親」であることに、心がけること。やりすぎず、しかし子どもがそれを求め
てきたときには、ていねいに、かつこまめに応じてあげること。『求めてきたときが、与えどき』と
覚えておくとよい。
(3)いつも子どもの心を知るようにする。泣いたり、叫んだりするときも、その理由をさぐる。
『子どもの行動には、すべて理由がある』と心得ること。親の判断だけで、「わがまま」とか、決
めてかかってはいけない。叱ってはいけない。

 とくに生後直後から、「あと追い、人見知り」が起きるまでは、慎重に子育てをすること。この
時期の育て方に失敗すると、子どもの情緒は、きわめて不安定になる。そして一度、この時期
に不安定になると、その後遺症は、ほぼ、一生、残る。
(はやし浩司 子どもへの愛 子供への愛 エロス ストーゲイ アガペ ルダス マニア プラ
グマ 子供を愛せない親 愛せない母親 はやし浩司)


++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

●もう、やめてくれ!

++++++++++++++++

 毎日、毎日、スケベメール。
よくもまあ、こういうスケベメールが、
届くものだ!

++++++++++++++++

★認証されました
★お待たせしました
★今夜、貢(みつ)ぐ、心の準備ができました
★連絡、遅れてすみません
★私たちのメンバーから、お好きな人を選んでください
★あなたは選ばれた男性です
★緊急の連絡、などなど。

 1日に、20〜40通は、届く。そのたびに、フィルターにかけて処理している。が、それでも、
減らない。手を変え、品を変え、届く。アドレスも、つぎからつぎへと変えてくる。

 もとから、私は、モテる男ではない。だから女性から、このようなメールが届くはずがない。そ
れがわかっているから、相手にしない。

 そこで問題なのが、こうしたメールに混ざって、知人や友人、マガジンやHPの読者からのメ
ールも、入ってくるということ。

 そこで私は、そういう方には、(1)HPのほうから、「フォーム」を使って、メールをくださるか、
(2)件名のところに、簡単な住所と、名前を書いてくださるように、お願いしている。

 が、それでも、困ることがある。先日も、「件名:連絡が送れてすみません。鈴木です」という
のが、あった。

私はそのメールを見ながら、開くべきか、どうか、かなり迷った。「鈴木さんねエ……?何の連
絡だろう……? どこの鈴木さんだろう……?」と。が、結局は、心を鬼にして(?)、そのメー
ルは、削除した。

しかしこうまで毎日たくさんのスケベメールが届くと、感覚が、マヒしてくる。「本当に、女性から
のものだろうか?」とか、「本当に、こうした女性は、男を求めて、いるのだろうか?」と。

ウソか本当か、ウソに決まっているが、ときどき、こんなものもある。「ご迷惑は、おかけしませ
ん。一晩、相手をしてくださったら、15万円、さしあげます。費用は、すべて私もちです」と。

 バカめ! 私なんかに、15万円も払って、セックスするもの好きな女性が、どこにいる!

 改めて、みなさんにお願い!

 私へのメールには、件名のところに、簡単な住所とお名前を書いてください。それがないメー
ルは、そのまま削除。仮に開いたとしても、本文の中に、住所、お名前のないメールには、返
事を書くということは、ありえません。どうか、よろしくご協力ください。


++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

●ビデオ編集(2)

 インターネットで、ビデオを配信するようになって、もう1週間が過ぎた。その間、ビデオ編集
用のソフトを購入したりした。

 で、やっと、今、たいていの編集なら、できるようになった。が、いくつか、問題がある。

 写真やビデオは、自分で撮影したものを、載せればよい。本の朗読にしても、私の書いた原
稿なら、問題は、ない。しかし問題は、BGM。

 以前は、……といっても、もう15年以上も前のことだが、そのころは、自分で音楽を作曲して
遊んでいた。が、そのころの曲は、ほとんど、残っていない。

 そこでパソコンショップで、使用フリーのCDつきの本を購入。値段も結構高いが、実際、ビデ
オに載せてみようとしても、なかなか、載らない。ビデオ編集用ソフトととの相性が、あまりよくな
い。で、やはり、作曲は、自分でしてみることにした。

 最近は、鼻歌で歌ったメロディーを、そのまま採譜、演奏してくれるソフトもある。それですれ
ば、問題は、ない。さっそく、今日にでも、仕事の帰りにパソコンショップに寄って、そのソフトを
購入してみるつもり。

 ……おかげで、このところ、肝心の原稿は、ほとんど、書いていない。本来なら、今ごろは、1
0月7日号の配信予約を入れなければならない。しかし10月号には、まったく、手をつけてい
ない。どうしようか?

 今朝(9月7日)、Eマガの読者の数を調べたら、何と、5人もふえていた! マガジンは、これ
からも大切にしていこう。モリモリとやる気が出てきた。今日、会員になってくださったみなさん、
そして今まで、ずっと会員でいてくださったみなさん、どうもありがとうございます。

 ビデオ編集が一段落したら、また原稿を書きます。プラス、どうか、一度、「声で朗読コーナ
ー」も、のぞいてみてください。最新作ほど、いろいろ凝った手法を用いて、編集してあります。

 これからも、どんどん力作(?)を載せていきます。どうか、ご期待ください。


++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司


最前線の子育て論byはやし浩司(846)

【家族自我群による幻惑(板ばさみ)】

+++++++++++++++++++

なぜ、親子関係は、特殊なのか。
独特の親意識は、なぜ、生まれるのか。
独特の子意識は、なぜ、生まれるのか。
そしてその意識の中で、なぜ、親は苦しみ、
子は、苦しむのか?

+++++++++++++++++++

●敏感期をとおしてなされる、刷り込み(インプリンティング)

 家族であるということにより、人は、生まれながらにして、特殊な意識を、いわば本能に近い
形で、脳の中に、刷り込まれる。人間にも、鳥類に似た、刷り込み(インプリンティング)がある
ことが、最近の研究でも、わかってきた。この刷り込みのなされる時期を、「敏感期」と呼んでい
る。

 こうして親子の間には、本能に近い関係ができあがる。「切っても、切れない関係」が、できあ
がる。

 しかしここで誤解していけない点は、2つある。

(1)刷り込みによってできる人間関係は、あくまでも子どもの側から、親に対してのものである
ということ。(これに対して、同時期を通して、親側にも、同じような刷り込みがなされるという説
もある。)

 少なくとも、コンラット・ローレンツが発見した、刷り込みというのは、そういうものである。最初
に聞いた、音を、自分の親の声と思い込んだり、最初に見たモノ(生き物でなくてもよい)を、自
分の親と思い込んだりする。

 この刷り込みをとおして、子どもは、自分の親を、絶対的な存在としてとらえるようになる。
が、親側にも、それと同じだけの刷り込みがなされるとはかぎらない。わかりやすく言えば、子
どもが親を絶対的と思うほど、親は、子どもを絶対的と思うということはないということ。

 親なしでは、子どもは生きていかれないが、「親だから、子どもを愛しているはず」という常識
(?)は、あくまでも、一般論にすぎない。

 この意識のズレが、さまざまな問題の原因となることがある。あとに書く、ある息子の話が、
その一つである。

(2)こうした刷り込みがなされるためには、ごく平均的な、育児環境が必要不可欠であるという
こと。刷り込みがなされる段階で、親側に、育児拒否、冷淡、無視、愛情不足、家庭騒動など
があると、刷り込みそのものが、じゅうぶん、なされないことがある。

 「子どもだから、親のことを慕っているはず」という常識も、あくまでも、一般論にすぎない。

●強烈な幻惑

 こうしてなされる刷り込みには、強烈なものがある。ここに書いた、「本能に近い関係」という
のは、それをいう。

 一度、その刷り込みがなされると、その人は、「子」として、生涯にわたって、がんじがらめに
拘束される。こうした「自我意識」を総合して、「家族自我群」という。

もちろん親子関係が、それなりに良好であれば、問題はない。ベタベタの親子関係であろう
が、あるいはまた淡白な親子関係であろうが、それはそれとして、家族自我群は、家族をまと
め、団結させる原動力となる。

 しかしひとたび、親子関係が変調してくると、こんどは、その家族自我群が、その親子(とくに
子ども)を、苦しめる元凶となる。子どもは、悶々とした苦しみの中で、まさに悶絶する。これを
「幻惑」という。わかりやすく言えば、「板ばさみによる苦悩」ということになる。

 こうした例は、多い。

 ある父親(65歳前後)には、収入がなかった。それで、ときおり息子(40歳前後)の会社まで
やってきて、金をせびった。息子は、そのつど、いくらかの金を渡して、父親を帰した。

 そこへ叔父(父親の弟)が、割って入ってきた。「子なら、ちゃんと親のめんどうをみろ」と。

 しかしその息子には、それができなかった。その理由も、言えなかった。

 父親が一度、息子の家に泊まったときのこと。結婚して間もないころのことだった。父親は、
息子がいないときに、息子の妻(嫁)を、うしろから抱きあげ、レイプしてしまった。息子が、妻
(嫁)から、その話を聞いたのは、事件があってから、1年くらいたってからのことだった。

 息子の妻(嫁)は妻で、自分にスキがあったことに、苦しんでいた。話せば話したで、夫は不
快な思いをするだろう。だから1年近くもだまっていた。が、その父親が、そのあとも、たびた
び、息子の家に寝泊りするようになった。金もせびるようになった。それで、ある夜、妻(嫁)
は、意を決して、すべてを息子(夫)に話した。

 「あなたのお父さんだったから、抵抗できなかった……」と。

息子は息子で、その話を妻(嫁)から聞いたあと、毎晩、寝る前になると、熱にうなされるような
症状が出るようになった。苦しんだ。そういう状態が、10か月近く、つづいた。

 「他人なら、この野郎!、と殴って、しまいにすることができますが、親となると、そうはいきま
せん。日中は、それを忘れていることができるのですが、夜になると、それを思い出し、苦しみ
ました」と。

 そうした事情も知らず、叔父は、息子に「親のめんどうをみろ」と。

●意外な展開

 その息子は、「母にだけは……」と思い、機会があれば、母にそのことを話すつもりでいた。
が、その日は、すぐやってきた。

 息子の実家が、台風で被害を受けた。かなりの補習費が必要になった。その大半を、負担す
るように、母親が、息子に言ってきた。息子が30歳くらいのときのことだった。

 が、息子の実家への思いは、すでに消えていた。「被害を受けた部分を取り壊せばいい」「家
を半分の大きさにすればいい」と、息子は、主張した。が、これに対しても、叔父が口をはさん
できた。

 「先祖を守るのは、子孫の義務だ。実家の補習ひだ。借金をしてでも、金を出せ」と。

 しかしその息子は、その叔父との縁も、切りつつあった。叔父は、あちこちに多額の借金をか
かえていた。そのときすでに、隠し子(愛人との間にできた子)がいることも、周知の事実になり
つつあった。軽蔑すべき人間ではあっても、とても尊敬できる人間ではなかった。

 そこで息子は、母親に、話した。

 「実は、妻の○○子が……、おやじに……」と。

 息子は、その話を聞いて母親が激怒するかと思った。父親に対して、だ。しかし母親の反応
は意外なものだった。

 母親は、息子にこう言った。「うちの父ちゃん(父親)が、そんなことするはずがない。○○子
さん(妻の名前)の、作り話に決まっている。○○子さんは、結婚したときから、私や父ちゃん
(夫)を嫌っていたから、そういうウソを平気で言う。そんな女なんかとは、サッサと、離婚してし
まいなさい!」と。

 その息子は、自分の中で、母親との関係も、音を出して崩れていくのを感じた。そこで「そん
なことを言うなら、ぼくは、母さんとの縁を切る」と迫った。が、母親は、こう言って、高笑いした
という。

 「親子の縁などというものは、切れるもんじゃないのよ。切れるものなら、切ってごらん。ハハ
ハ」と。

 その一言で、息子は、母親との縁を切った。

●母の死別

 それからさらに数年後。母親の死は、突然、やってきた。

 父親(息子の父親)が、二階の寝室へ行ってみると、母親は鏡台を前に、伏せたまま、死ん
でいたという。くも膜下出血だったという。

 「その朝は、町内の会合があるとかで、化粧をするため、二階へあがっていきました。なかな
か下へおりてきないので、見に行ったら、もう死んでいました」と。

 あっけない死だった。

 が、その死が、これまた息子を苦しめた。家の改築費をしぶったことに合わせて、その前の
数年間、一度も、実家には帰っていなかった。それまでは、盆暮れには、必ず、実家へ帰り、
墓参りをしていた。

 息子は、自分が、母親を殺してしまったかのように、感じた。葬儀のときも、重く、暗い気分
が、悶々と息子の心をふさいだ。妻がレイプされた話を聞いて以来、精神安定剤は、欠かせな
い薬になっていた。ときどき、うつ病の薬ものんでいた。

 そんな葬儀の席で、またあの叔父が、親戚の人たちを前にして、こう宣言した。息子の了解
など、まったく、なしに、だ。

 「これからは、この△△男(息子)が、父親と、この家のめんどうをみる!」と。そして繰りかえ
し、息子を、なじった。

 「お前は、盆にも正月にも、帰らなかったというではないか。この親不孝者め!」と。

 父親も、母親も、息子から、毎月、5〜8万円の仕送りを受けていることを、だれにも話してい
なかった。もちろん、叔父にも。そのかわり、ことあるごとに、母親は、弱々しい声で、叔父たち
に泣き言を話していた。

 「私の両親というのは、そういう人です。お金もないのに、財産家ぶって、虚栄の世界だけで
生きてきたような人たちです」と。

●幻惑(板ばさみ)

 それでその息子の、幻惑が収まったわけではない。父親が生きている間は、その幻惑は、
悶々とつづく。

 それは恐ろしいほどの重圧感と言ってよい。息子は、こう言う。「この重苦しさは、それを経験
したものでないと、わからないでしょうね。一日とて、気が晴れることはありません。その父親
も、このところ、急速に足腰が弱くなってきました。それに、頭も少しボケてきました。

 施設に入れるといっても、まだ介護申請がとれないので、月に17〜8万円もかかります。か
といって、私の家に連れてくることもできません。妻は、おやじの顔を見ただけで、体に震えを
覚えると言っています。

 しかしあの実家に置いておくわけにもいきません。このところ、何かと、近所の人たちに迷惑
をかける事件もふえてきています。それで、お金がなくなると、今でも、会社の前までやってき
て、私に金をせびります」と。

 こうした幻惑、つまり、「親である……」「子である……」という、板ばさみ状況の中で、もがき
苦しんでいる人は、多い。本当に、多い。世の中の、何割かの家庭で、同じような現象が起き
ていると言っても、過言ではない。

 しかしこれは「子」である、あなたの問題ではない。やがて「親」になる、あなたの問題と考え
たほうがよい。

 親は親であり、子は子である。しかしその親子関係で、重要なことは、親は親として、いつ
か、子どもを、あなたがもつ家族自我群から解放してあげねばならないということ。これは親の
義務といってもよい。

 わかりやすく言えば、刷り込みに甘えてはいけない。いつまでも、ベタベタの親子関係に甘え
てはいけない。

 子どもがある年齢に達したら、子どもが、じょうずに親離れできるように、親のほうが、それを
促し、励ましてやらねばならない。そしてそれ以上に重要なことは、親は親として、しかし親であ
ることを忘れ、自立していかねばならない。

 でないと、結局は、家族自我群にせよ、幻惑にせよ、こうした「本能に近い関係」は、子どもを
苦しませることになる。
(はやし浩司 家族自我群 幻惑 刷り込み 敏感期)

【補足】

●刷り込み(インプリンティング)

 中学生が使う英語の教科書に、「インプリンティング(刷り込み)」の話が出ていた。オーストリ
ア人の動物学者のコンラット・ローレンツ(1973年にノーベル医学・生理学賞受賞者)という学
者の体験談である。

もう15年近く前のことだが、私は、それまでインプリンティングのことは、知らなかった。最初
に、「ほほう、そんなおもしろいことがあるのか」と感心しながら、辞書を調べたのを覚えてい
る。

 が、当時は、英語の辞書にも、その説明はなかったように思う。だから子どもたちには、「そ
んなこともあるんだね」というような言い方で、教えていたと思う。

 刷り込み……アヒルやカモなど、孵化後、すぐ歩き始める鳥類は、最初に見たり、聞いたりし
たものを、親や、親の声だと思うようになるという。しかしその時期は、孵化後すぐから、24時
間以内だという。その短時間の間に、脳の中に、刷り込まれるという。

 そしてここが重要だが、一度、その刷り込みが行われると、それ自体が、やりなおしがきかな
くなるという。だから「刷り込み」のことを、(やりなおしのきかない学習)と呼ぶ学者もいる。その
鳥は、生涯にわたって、その刷り込みに支配されるようになる。

 実は、人間にも、そういう刷り込みに似た現象が起きていることが、わかっている。生後直後
から、数週間の間だと、いわれている。「敏感期」と呼ばれる時期がそれである。新生児は、生
後直後から、この敏感期に入り、やがてすぐ、どの人が自分の親であるかを、脳の中に刷り込
むと言われている。

 が、それだけではない。その刷り込みと同じに考えてよいのかどうかはわからないが、新生
児特有の現象に、「アタッチメント(愛着)」がある。

 子どもは生まれるとすぐから、母親との間で、濃密な情愛行動を繰りかえしながら、愛情の絆
(きずな)を築く。アタッチメントという言葉は、イギリスの精神科医のボウルビーが使い出した
言葉である。

 しかし何らかの理由で、この愛着の形成に失敗すると、子どもには、さまざまな精神的、肉体
的な問題が起こるといわれている。ホスピタリズムも、その一つ。日本では、「施設児症候群」
と呼ばれている。

ホスピタリズムというのは、生後まもなくから、乳児院や養護施設など、親の手元を離れて育て
られた子どもに広く見られる、特有の症状をいう。

 このホスピタリズムには、つぎの10項目があるとされる(渋谷昌三「心理学辞典」・かんき出
版)。

(1)身体発育の不良
(2)知能の発達の遅れ
(3)情緒発達の遅滞と情緒不安定
(4)社会的発達の遅滞
(5)神経症的傾向(指しゃぶり、爪かみ、夜尿、遺尿、夜泣き、かんしゃく)
(6)睡眠不良
(7)協調性の欠如
(8)自発性の欠如と依存性
(9)攻撃的傾向
(10)逃避的傾向

 親の育児拒否、冷淡、無視などが原因で、濃密な愛着を築くことに失敗した子どもも、似たよ
うな症状を示す。そして一度、この時期に、子どもの心にキズをつけてしまうと、そのキズは、
一生の間、子どもの性癖となって残ってしまう。

 先に書いた刷り込みと、どこか似ている。つまり一度、そのころ心が形成されると、(やりなお
しのきかない学習)となって、その人を一生に渡って、支配する。

 ……と書くと、実は、この問題は、子どもの問題ではなく、私たちおとなの問題であることに気
づく。その「やりなおしのきかないキズ」を負ったまま、おとなになった人は、多い。言いかえる
と、私たちおとなの何割かは、新生児の時代につけられたキズを、そのまま、引きずっている
ことになる。

 たとえば今、あなたが、体が弱く、情緒が不安定で、人間関係に苦しみ、睡眠調整に苦しん
でいるなら、ひょっとしたら、その原因は、あなた自身というより、あなた自身の乳幼児期にあ
るかもしれないということになる。

 さらに反対に、おとなになってからも、あなたの母親との濃密すぎるほどの絆(きずな)に苦し
んでいるなら、その絆は、あなたの乳幼児期につくられたということも考えられる。

 実は、私が話したいのは、この部分である。

 そうした(あなた)は、はたして(本当のあなた)かどうかということになる。

 少し前、(私)には、(私であって私でない部分)と、(私であって私である部分)があると書い
た。もしあなたという人が、その新生児のころ作られたとするなら、その(作られた部分)は、
(あなたであって、あなたでない部分)ということになる。

 仮に、あなたが、今、どこか冷淡で、どこか合理的で、どこか自分勝手だとしても、それは(あ
なた)ではない。反対に、あなたが、今、心がやさしく、人情味に厚く、いつも他人のことを考え
ているとしても、それも(あなた)ではないということになる。

 あなたは生まれてから、今に至るまで、まわりの人や環境の中で、今のあなたに作られてき
た。……と、まあ、そういうふうに考えることもできる。

 このことには、二つの重要な意味が含まれる。

 一つは、だから、育児は重要だという考え方。もう一つは、では「私」とは何かという問題であ
る。

 かなり話が、三段跳びに飛躍してしまった感じがしないでもない。しかし子どもを知れば知る
ほど、その奥深さに驚くことがある。ここにあげたのが、その一例ということになる。

 そこであなたの中の「私」を知るための、一つのヒントとして、あなた自身はどうだったかを、
ここで思いなおしてみるとよい。あなたの乳幼児期を知ることは、そのままあなた自身を知る、
一つの手がかりになる。

 まとまりのない原稿になってしまったので、ボツにしようかと考えたが、いつか再度、この原稿
は、書きなおしてみたいと思っている。それまで、今日は、この原稿で、ごめん!
(はやし浩司 アタッチメント ホスピタリズム 敏感期 刷り込み インプリンティング 刷りこ
み)

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

最前線の子育て論byはやし浩司(847)

【BWきょうしつから】

 3人のドラエもんを描いた紙と、4人のドラエもんを描いた紙を、子どもたち(年長児)に、同時
に、見せる。見せながら、こう質問する。

私「あわせて、ドラエもんは、何人ですか?」と。

 すると、いつもはあまり手をあげない、A子さんが、「ハイ!」と言って、手をあげた。

私「A子さん!」
A「6人!」
私「すばらしい! よくできました!」と。

 すると、ほかの子どもたちが不満そうな顔をしながら、「先生〜。7人だよ……」と。

 そこで私は、こう言う。

 「いいの、6人で。だいたい合っていあれば、BW(私の教室)では、いいの。6人でも、7人で
も、そんなにちがわないだろ?」

 そのやり取りを、心配そうに見ていたA子さんが、小さな声で、こう言った。

A「やっぱり、7人……」
私「そう、7人だった……? じゃあさア、みんなで、いっしょに数えてみようよ」と。

 そこで私が、1、2、3、4、5、6と、わざと、1人とばして、数える。

私「ネッ、やっぱり、6人だよ」と。

 すると、教室は、蜂の巣をつついたような大騒ぎになった。「先生、ずるい!」「7人だ!」「1
人、とばした!」と。

 そこで私はとぼけて、「そうだった……? じゃあ、もう一度、数えてみようね。わかったア?」
と。

 1、2、3、4、5、6、7……。「ハハハ、やっぱり、7人じゃないかア。だれだア、6人と言った
のはア?」と。

子どもたち「先生だア」「まちがえたのは、先生だア!」
私「ぼくじゃないよ。ぼくは、最初から、7人と言ったよ」
子どもたち「ウソだ。先生は、6人と言ったよ」
私「あのね、先生が、こんな問題、まちがえるわけがないだろ。ぼくは、最初から7人って、言っ
たよ。ぼくは、先生だよ」
子どもたち「ウソだ」「ウソだ」と。

私「わかった。じゃあ、ちょっと待ってね。計算機で計算してみるから……」
子「計算機なんか使わなくても、わかるよ」
私「年をとるとね、みんな、計算機を使うの。わかる?」と。

 そこで計算機を取りだして、パチパチと、計算をするフリをする。

私「あれっ、これ、ハリー・ペッターの計算機だよ。グリフィンドール、ホグワァーツって、書いて
あるよ」
子「ハリー・ペッターじゃなくて、パリー・ポッターだよ」
私「魔法の計算機だよ。みんなの未来が、わかるよ」

子「ぼくの、未来を調べてよ!」
私「いいよ……。で、君の名前は、エエ〜と。ヤマダ・タロウ……ね。山田太郎君の30年後は
……」

 パチパチと計算機をいじる。

私「すごい、すごい。君は、日本一の科学者になっているよ。30年後の今日は、アメリカのワシ
ントンの学会で、研究を発表しているよ」と。

 すると、みなが、「私も、調べて」「私も……」と言い出す。

 みなの未来を、それぞれ計算してみせる。

私「で、エート、最後に、ぼくの20年後を計算してみるね……」
子どもたち「フフフ……」
私「はやし・ひろし(パチパチ)の……20年後は……ええと……。ワーッ!!!」
子どもたち「どうしたの、先生?」
私「ワーッ!!! こんなのひどい!」
子どもたち「どうしたの?」
私「言えない」

子どもたち「言ってよ!」「言え!」

私(泣きまねをしながら)、「クスン、……20年後の林 浩司はね、クソじじいになって、死んで
いるって」と。

 子どもたち、みな、うれしそうに、笑う。ゲラゲラと大声で、笑う。

 ……こうして、BWの時は、流れる。いつものように……。それが私の教え方。

 しかし少し前、同じようなレッスンをしたときのこと。そのあと、こう言った女の子がいた。

 「あんた、それでも、先生?」と。そういうこともある。

【コツ】

●おとなの優位性を、子どもたちに押しつけてはいけない。
●子どもに、いつも自信をもたせる。
●まちがえても、まちがえたというマイナスの意識をもたせない。
●子どもたちには、いつも、言いたいことを言わせる。
●頭の中を、いつも、興奮状態にさせる。
●未来に、いつも明るい希望をもたせるようにする。


++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

●Mさんへ

 コメント、ありがとうございました。

 ご心配なさるといけないので、コメントは、すべて削除しておきました。ご安心ください。

 親意識(家父長意識)の強い人は、いつでもどこで、親風を吹かせます。ものの考え方が、万
事にわたって、権威主義的。200年前の江戸時代ならともかくも、今でも、その亡霊は、あちこ
ちに残っています。Mさんの、家も、そうです。

 で、実は、この浜松市にも、残っています。Mさんの住んでおられるG県よりは、ずっと開放的
な町ですが、それでも、残っています。意識というのはそういうものですね。代々と、親から子へ
と伝わってしまう……。

 いつか、だれかが、どこかでそれを切らないかぎり、つづいてしまいます。親意識の強い人ほ
ど、「親は絶対」というものの考え方をします。さらに言えば、「子は、親のためなら、犠牲になっ
て当然」という考え方をします。そういう意識が、つづいてしまいます。

 こういう人たちは、「当然」というより、何も疑わないで、子どもに犠牲を強いてきますよね。

 私のばあいも、母が、派手な冠婚葬祭や、法事をするたびに、貯金通帳が、カラになってしま
ったのを覚えています。で、だれかに訴えたくても、その訴える相手が、いない。叔父、叔母は
もちろん、義兄、姉まで、同じように考えていますから。かえって、私のほうが、はじき飛ばされ
てしまいました。

 でもね、今でも、ときどき、こう思うことがあります。

 もし、ぼくも、あのまま、あの田舎に住んで、暮らしていたら、今ごろは、あの地域の人たちと
同じような価値観をもっていただろうな、とです。今ごろは、バリバリの親絶対教の信者になっ
ていたかもしれません。

 が、幸か不幸か、ぼくは、外の世界を見てしまった。そしてそのつど、意識のちがいというか、
その落差のちがいに、驚かされたというわけです。

 ただ、今、Mさんに言えることは、こういうことです。

 親であるにせよ、義理の親であるにせよ、親に対する幻想のようなものは、もう捨てなさいと
いうこと。親といっても、ただの人間。自分が、その年齢になってみて、はじめて、それがよくわ
かりました。

 「親だから、こうあってほしい」「親なら、こんなことはしないはず」「親だから、わかってくれる
はず」と。

 こういう幻想をもちつづけるかぎり、結局は、親子の確執は、消えないだろうと思います。

 私も、その幻想を消すのに、結構、苦労をしました。しかしあるとき、気がつきました。「親だ
って、ただの人間ではないか」とです。ただの人間であることが悪いといっているのではありま
せんよ。ただの人間でいいのです。それを美化したり、絶対化するから、話がおかしくなる…
…。

 この日本では、年長者(年配者)イコール、人格的にも完成された人間と考える傾向が、強い
ですね。しかしこれはまったくの、ウソ。どこか、アフリカの土着民族的、あるいは、アメリカのイ
ンディアン的。日本も、今でこそ、見た目には、文明国の一員ですが、もとを正せば、極東のア
ジアの島国。小さな小さな島の、土着民族。

 そんな小さな世界で、どこかまともでない、民族意識を、熟成させてしまった部分もないとは
言えません。その一つが、冒頭に書いた、親意識(家父長意識)です。

 しかしまあ、こんな意識は、ぼくたちのつぎの世代では、姿を消すことになるでしょう。日本人
の意識も、ここ10年、ものすごい勢いで変わりつつあります。ものすごい勢いです。1、2年お
きに、いろいろな調査結果が発表されますが、そのつど、私のほうが、驚くくらいです。

 私は、こうした変化を、「意識革命」と呼んでいます。

 また、私の家も、同じような問題をかかえています。ほんの少しだけ、みなが、意識を変えれ
ば、もっと、何かにつけて楽になるはずなのに、古い価値観に固執するため、ムダなことで、み
なが、苦しむ。そんな状態です。

 親意識の強い人は、どうしても、「家」にこだわりますから……。人間より、家のほうが、大切
なのですね。きっと……。今どき、先祖崇拝意識など……と、ぼくは思うのですが、しかしご注
意!

 この種の意識は、そのまま、その人の個人的な信仰とからんでいますから、それを否定する
と、たいへんなことになります。わかりやすく言うと、その人を否定することになりかねません。

 だから、彼らは抵抗するでしょうね。もしそれを認めてしまうと、自分自身が、自己否定の世
界に入ってしまいますから。つまり、自分の一生を、棒に振ったことを知ることになってしまう。
だから、死ぬまで、認めるわけにはいかないのです。

 だから、そっとしておいてやるしかないようです。相手の意識を変えようとしても、無理。不可
能。

 「そうです、そうです、そのとおりです」と言いながら、ぼくたちはぼくたちで、意識を変えてい
く。そういう人たちを、反面教師にすればいいのです。しかしMさんも、たいへんですね。同情し
ます。

 またゆっくりと返事を書きます。昨晩から、風邪ぎみで、どうも調子が悪いです。今日は、これ
でごめんなさい。

 ときどき、メールをくださるのですが、アドレスが一定しません。どこに返事を書いたらよいの
か、わかりません。「会社のパソコンにつながったら、たいへん」とか、「ご家族の方に読まれた
らたいへん」とか、考えているうちに、返事が遅れてしまいます。一度、ご連絡ください。


++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

●子どものウンチ

++++++++++++++++++

群馬県にお住まいの、Aさん(母親)から、
子ども(小3男児)のウンチについての
相談がありました。

それについて、考えてみたいと思います。

++++++++++++++++++

【Aさんより、はやし浩司へ】

小学3年の息子について、相談します。下に、2歳ちがいの妹がいます。

息子のパンツにですが、1年程前から下着に、便がつくようになったのです。
それを見て、私も主人もつい強く叱ってしまい、
本人には、よほどショックだったと思います。

それ以来、トイレへ行きたくなってもガマンするようになって、
その結果また下着を汚す、といった感じです。

学校でも、授業中に行きたくなっても、ガマンし、下着にもらしてしまうようです。
何も言わずそのまま授業をしているようです。きっと臭いがしていたと思います。

家に帰ってきた時は、すごい臭いでしたので……。
それでも気持ち悪くないのか、着替えようともせず、
2階に行こうとしたので、引き止めたんです。

「なんでガマンするの!」「何度言ったらわかるの!」と、つい言ってしまいました。
今、考えたら、私に叱られるのがいやで、2階で着替えようとしていたんだと思います。

これまで息子には、「ガマンはよくない」「朝は出なくても必ずトイレに座りなさい」
「行きたくなったときは先生やママにちゃんといいなさい」などと、
話してきましたが、なおったと思ったチックも、また、少しでてきました。

お腹は弱いほうですが、下痢はあまりしません。
今日も下着を見たらやはり汚れていました。

息子は「いつでたのかわからない。気がついたら汚れてた」と言いました。

言い訳なのか、本当なのか・・・?

息子にどのように言ってあげればいいのでしょうか。
このままでは友達にも嫌がられないかと心配です。
どうかアドバイスをお願いします。

【はやし浩司より、Aさんへ】

 お子さんを、N君とします。

 私には、そのN君の、声なき悲鳴というか、悲しみが、よく理解できます。Aさん、あなたに
は、その悲鳴が聞こえますか?

 言いたいことも言えない。したいことも、できない。排便という、人間が一番、自由にしていい
ことさえ、できないでいるのです。

 トイレへ行きたかったら、「トイレへ行ってきます」ですむ話です。が、それさえも、N君は、自
分の中で押し殺してしまっています。

 ご相談の件は、あくまでも表面的な症状にすぎません。病気にたとえるなら、発熱のようなも
のです。ですから「熱」だけをみて、それを何とかしようとしても、意味がありません。病気など、
なおるはずもないのです。

 つまりこの問題は、「根」が深いということです。最初に考えられるのは、下の子(妹)が生ま
れたあとから始まった、愛情飢餓。それに端を発する、欲求不満。赤ちゃんがえりもあったかも
しれません。

 N君は、人知れず、あなたたち両親の気がつかないところで、たいへんさみしい思いをしてい
たはずです。

 はっきり言いましょう! ウンチなど、何でもないではないですか! パンツにウンチがついて
いても、どうして、それが悪いことなのですか? 臭くてもいいじゃ、ないですか。

 授業中、便意をもよおしても、「トイレへ行きたい」と言うこともできず、がまんしている子ども
の苦しみが、あなたには、わかりますか? その子ども、つまり学校で、じゅうぶんすぎるほど
苦しんだ子どもを、また家に帰ってきてから、親が叱る。

「ウンチをもらすことは悪いこと」……? どうしてそういう視点でしか、N君を見ることができな
いのか、私には理解できません。

 「あなたは、がまんしたのね。さぞかし、つらかったでしょうね」と、私なら、そう言ってやります
よ。

 さらに、年齢的には、肛門期のしつけが、じゅうぶんでなかったことも考えられます。ちょうど
そのころ、下の子ども(妹)が生まれています。どこかで排便に対して、おおきなわだかまり(固
着)をもってしまったのかもしれません。

 実は、私も、子どものころ、自分の家で便をするのが、こわくてたまりませんでした。家の中
の一番奥の、暗いところにそれがありました。トイレの壁のシミが、私には、動いているように
見えました。

 それを何度も、親に訴えたことがあるのですが、だれも、耳を貸してくれませんでした。ですか
ら私は、子どものころ、多分、4、5歳のときは、新聞紙を下に敷き、その上で、便をしていまし
た。トイレに対して、大きなわだかまりができたのは、そのころです。

 以来、トイレに関しては、神経質になりました。

 N君は、恐らく、人前では、仮面をかぶり、いい子ぶっていると思います。つまり無理をしてい
ると思います。基本的に、自分をすなおにさらけ出すことができないでいると思います。大便の
問題は、あくまでも、その一部でしかありません。

 そこでこうしてみてください。

(1)大便の問題は、一度、学校の担任の先生に、よく相談してみる。そのつど、声をかけても
らうようにする。先生の協力を、とりつける。

(2)子どもの欲求不満に準じて考え、スキンシップを濃厚にして、暖かい愛情で、もう一度、N
君を包んであげる。

(3)で、ここが重要ですが、「叱らない」こと。子ども自身の判断力を超えた問題については、子
どもを叱らないのが、大鉄則です。叱ってもなおりませんし、叱れば、かえって逆効果です。

 先にも書いたように、「がまんして、つらかったでしょう」と、子どもの立場で、なぐさめてあげま
す。そしてあとは、「暖かい無視」に、こころがけます。「臭い」とか、「嫌われる」とかいう言葉
は、禁句です。そうした言葉は、古傷に、塩を塗りこむようなものです。

 (学校で悪い点数を取ってきた子どもを、叱るようなものです。さんざん、いやな思いをしてき
たのに、また家に帰って、親に叱られる……。それがわからなければ、こういう状況を考えてみ
てください。

 あなたの夫が、会社でヘマをした。上司に、叱られた。いやな思いをして家に帰ったら、また
妻にガミガミ言われた……。私なら、そんな家なら、逃げ出してしまうでしょうね。)

 なお、もう一つ、疑ってみるべきは、なぜ、あなたがこうまでN君に対して、神経質になってい
るかということ。結婚当初、出産当初に、何か、わだかまりをつくるようなことはありませんでし
たか? 子育てをゆがめるほど、大きな、わだかまりです。一度、あなたの心の中をのぞいて
みてください。それが不安先行型、心配先行型の子育てになったとも考えられます。現在の過
関心、神経質な子育ては、そのあたりから生まれています。

 で、それに気がつけばよいです。気がつけば、あとは時間が解決してくれます。

 ただ年齢的には、N君は、これから先も、今のままでいくと思います。なおそうといっても、簡
単には、なおらないということ。これから先、N君は、自分の仮面に、悩み、苦しむだろうと思い
ます。だからこそ、よけいに、叱ってはいけません。

 N君が、ウンチをつけて帰ってきたら、だまって、始末してあげればいいでしょう。しかしウン
チをつけてこなかったら、ほめる。「あら、今日は、ちゃんと、トイレへ行けたのね。よかったね。
ママ、うれしいわ」と。これはオネショを、なおすときの方法です。

 ところで、伸びやかな子どもは、先生の前でも、平気で、おならをします。わざと近寄ってき
て、先生の顔に向けて、ブリッとです。私なども、毎週のように、だれかにやられています。小
学3年生なら、その程度のいたずらをしても、よい年齢です。

 ついでながら、幼稚園児で、排便障害のある子どもが、ふえています。原因は、紙おもつと推
定されています。以前書いた原稿を、添付しておきます。少し話が脱線しますが、お許しくださ
い。

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【子どもが環境に影響されるとき】 

●オムツがはずせない子ども

 今、子どもたちの間で珍現象が起きている。4歳を過ぎても、オムツがはずせない。幼稚園
や保育園で、排尿、排便ができず、紙オムツをあててあげると、排尿、排便ができる。

6歳になっても、大便のあとお尻がふけない。あるいは幼稚園や保育園では、大便をがまんし
てしまう。反対に、その意識がないまま、あたりかまわず排尿してしまう。

原因は、紙オムツ。最近の紙オムツは、性能がよすぎる(?)ため、使用しても不快感がない。
子どもというのは、排尿後の不快感を体で覚えて、排尿、排便の習慣を身につける。たとえば
昔の布オムツは、一度排尿すると、お尻が濡れていやなものだった。この「いやだ」という感覚
が、子どもの排尿、排便感覚を育てる。

 このことをある雑誌で発表しようとしたら、その部分だけ削られてしまった(M誌・98年)。「根
拠があいまい」というのが表向きの理由だったが、実は同じ雑誌に広告を載せているスポンサ
ーに遠慮したためだ。根拠があるもないもない。こんなことは幼稚園や保育園では常識で、そ
れを疑う人はいない。紙オムツをあててあげると排尿できるというのが、その証拠である。

●流産率は39%!

 ……というような問題は、現場にはゴロゴロしている。疑わしいが、はっきりとは言えないとい
うようなことである。

その一つが住環境。高層住宅に住んでいる子どもは、情緒が不安定になりやすい……? 実
際、高層住宅が人間の心理に与える影響は無視できない。こんな調査結果がある。

たとえば妊婦の流産率は、6階以上では、24%、10階以上では、39%(1〜5階は5〜
7%)。流・死産率でも6階以上では、21%(全体8%)(東海大学医学部逢坂文夫氏)。

マンションなど集合住宅に住む妊婦で、マタニティブルー(うつ病)になる妊婦は、一戸建ての
居住者の四倍(国立精神神経センター北村俊則氏)など。母親ですら、これだけの影響を受け
る。いわんや子どもをや。が、さらに深刻な話もある。

●紫外線対策を早急に

 今どき野外活動か何かで、まっ赤に日焼けするなどということは、自殺的行為と言ってもよ
い。私の周辺でも、何らかの対策を講じている学校は、一校もない。無頓着といえば、無頓
着。無頓着すぎる。

オゾン層のオゾンが1%減少すると、有害な紫外線が2%増加し、皮膚がんの発生率が、4〜
6%も増加するという(岐阜県保健環境研究所)。

実際、オーストラリアでは、92年までの7年間だけをみても、皮膚がんによる死亡件数が、毎
年10%ずつふえている。日光性角皮症や白内障も急増している。そこでオーストラリアでは、
その季節になると、紫外線情報を流し、子どもたちに紫外線防止用の帽子とサングラスの着
用を義務づけている。

が、この日本では野放し。オーストラリアの友人は、こう言った。「何も対策を講じていない? 
信じられない」と。ちなみにこの北半球でも、オゾンは、すでに10〜40%(日本上空で10%)
も減少している(NHK「地球法廷」)(※)。

●疑わしきは罰する

 法律の世界では、「疑わしきは、罰せず」という。しかし教育の世界では、「疑わしきは、罰す
る」。子どもの世界は、先手先手で守ってこそ、はじめて守ることができる。害が具体的に出る
ようになってからでは、遅い。たとえば紫外線の問題にしても、過度な日焼けはさせない。紫外
線防止用の帽子を着用させる、など。あなたが親としてすべきことは多い。
(はやし浩司 子供の排便異常 排便障害 紙おむつ 紙オムツ)

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ついでに、子どもの欲求不満について

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●子どもの欲求不満

 欲求不満に対する、子どもの反応は、一般的には次の三つに分けて考える。

 (1)攻撃、暴力タイプ……欲求不満やストレスが日常的にたまると、子どもは攻撃的になる。
突発的にカッとなることが多く、弟を逆さづりにして、頭から落とした子ども(年長男児)がいた。
そしてその攻撃性は、表に出るタイプ(喧嘩する。乱暴になる)と、裏に隠れるタイプ(いじめ、
動物への虐待)に分けて考える。

 (2)退行、依存タイプ……理由もなく、ぐずったり、赤ちゃんぽくなる(退行)。あるいはネチネ
チと甘える(依存性)。優柔不断になることもある。このタイプの子どもは、いわゆる「ぐずな子
ども」という印象を与える。

 (3)固着、執着タイプ……いつまでも同じことにこだわったり、あるいは特定のもの(毛布の
切れ端、ボタン、古い雑誌、おもちゃ)に執着する。情緒的な不安定さを解消するための、代償
的行為(心を償うためにする代わりの行為)と理解するとわかりやすい。オナニー、髪いじり、
指しゃぶり、爪かみも同じように考える。

 子どもがこうした症状を見せたら、まず愛情問題を疑ってみる。親や家族への絶対的な安心
感がゆらいでいないか。親の愛に疑問を抱いていないか。あるいは下の子どもが生まれたこと
などで、その子どもへの愛が減っていないか、など。

ここで「絶対的」というのは、「疑いを抱かない」という意味。はげしい家庭内騒動、夫婦不仲、
日常的な不安感、無理な学習、きびしいしつけなどが原因となることもある。よく誤解される
が、子どもにとって愛情というのは、落差の問題。

たとえば下の子どもが生まれると、上の子どもが赤ちゃんがえりを起こすことがある。そういう
とき親は、「上の子も下の子も、平等にかわいがっています」と言うが、上の子にしてみれば、
今まで100の愛情を受けていたのが、50に減ったことが、不満なのだ。特に嫉妬に関する問
題は、慎重に扱うこと。これは幼児指導の大原則。

 こうした欲求不満が原因で、情緒が不安定になったら、スキンシップをふやし、子どもの心を
安心させることに心がける。叱ったり説教しても意味がない。脳の機能そのものが、変調して
いるとみる。

また似たような症状に、「かんしゃく発作」がある。乳幼児の抵抗的な行動(突発的なはげしい
怒り)をいう。たいていはささいな刺激が引き金となって、爆発的に起きる。デパートなどで、ギ
ャーギャーと泣き叫ぶのが一例。

原因の第一は、家庭教育の失敗とみる。ただし年齢によって、症状が違う。1歳前後は、ダダ
をこねる、ぐずる、手足をバタバタさせるなど。1歳半を過ぎると、大声で泣き叫び、その時間
が長くなる。満2歳前後では、言葉による抵抗、拒絶が目立つようになる。自分の体をわざと傷
つけることもある。

こうしたかんしゃく発作が見られたら、家庭教育のあり方そのものを反省する。権威主義的(押
しつけ)な子育てや、強圧的(ガミガミ)な子育てになっていないかなど。「わがまま」と決めつけ
て、叱っても意味がない。あるいは叱れば叱るほど、逆効果。あとは欲求不満に準じて、対処
する。

++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

【再び、Aさんへ】

 この時期、子どもに何か問題が起きると、親は、その原因を子どもの中に求めようとします。
そして、子どもを、なおそう(?)として、叱ったり、説教したりします。しかしこうした育児姿勢
は、正しくありません。

 原因のほとんどは、まず、家庭環境、とくに、Aさん自身にあると考え、まず、自分を見つめな
おしてみてください。あなたは、N君のウンチを臭いと言いますが、本当に、そうでしょうか?

 私も結婚当初は、ワイフの腸内ガスの臭いがいやでした。しかし35年もいっしょにいると、そ
うでなくなりました。今では、自分のそれと同じように、認め、納得できるようになりました。「臭
いな〜」とか言って、フトンをはたいて、終わりです。

 ですから、Aさんも、あまり深刻に考えないで、もう少しおおらかに考えてはいかがでしょうか。
この時期の子どもは、みんな臭いですよ。ウンチ臭、口臭、体臭、汗臭などなど。生理が始まっ
たばかりの女児などは、本当に、臭いです。ウンチの臭いなど、何でもありません。子どもたち
は、よく話題にはしますが、本気で、気にしているふうでもないようです。

 数週間前ですが、市内の中学校の廊下に、ウンチが落ちていたことが、子どもたちの間で話
題になったことがありました。多分、トイレに間にあわなかった、女子が、その途中でもらしたの
ではないかと思います。

 よくあることです。

 が、それでも気になるようでしたら、それはN君の問題ではなく、Aさん、あなた自身の心の問
題ということになります。あなたは、自信をもって、「私は、N男を愛している」と言うことができま
すか。

 そうであるなら、それでよし。もしそうでないなら、今からでも間にあいますから、もう一度、あ
なた自身の愛を、確認してみてください。方法は、簡単。

 「許して、忘れる」です。あとは、ほどよい親に心がけ、暖かい無視を繰りかえします。

 かなりきついことを書きましたが、どうか、許してください。あなたとN君のためと思い、書きま
した。
(はやし浩司 子供の大便 大便のしつけ うんち ウンチ 大便を漏らす)

【Aさんより、はやし浩司へ、返信】

お返事ありがとうございました。
私には、実の兄(37歳)と弟(30歳)がいます。

兄は知的障害者で、父と母は、兄のことでケンカばかりしていました。
私自身も小学校5年生の時、兄のことで、いじめられたり、
中学に入ってからも、兄と同じ学校に通うのが苦痛でした。

高校卒業と同時に一人暮らしをはじめ、今の主人と知り合い3年後に結婚し、すぐに息子を授
かったのです。

とても嬉しくて可愛くてしかたありません。
ですが、大きくなるにつれて、実の弟から顔が兄に似ていると言われたのがきっかけで・・・
どうしても必要以上に干渉していた自分がいました。

先生のアドバイスを最後まで読ませていただいて、
私は息子を押さえつけていたんだと。
兄は兄、息子は息子なのに。。。

ほんとうに窮屈な思いをさせてしまって。
先生、私はいつも息子を監視していたかも知れません、
だから息子も私の目をきにして何も言えなかったのだと・・・
自分の素直な気持ちを声に出して言えるように
静かに見守っていきたいです。

ありのままの息子を受け入れ、スキンシップもしっかりしていきたいです。
「まだ遅くはない」という先生の言葉に、とても救われました。

ほんとうにありがとうございました。


++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司


最前線の子育て論byはやし浩司(848)

【雑学・あれこれ】

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最近知った、雑学を、いくつかまとめてみた。

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●寿司のおいしさは、何と言っても、米

 寿司のおいしさは、何といっても、米で決まるという。しかしブランド米だけでは、まずい。そこ
でおいしい寿司屋では、ブランド米であるのは、もちろんのことだが、粘り気のある米とそうでな
い米を混ぜて使うそうだ。

 つぎにポイントは、ネタ。どこか水っぽさを感じたら、解凍したネタと考えてよいとのこと。解凍
も、じょうずにやれば、水っぽさは消えるという。しかしあわてて解凍したりすると、水っぽくな
る。

 ほかに、醤油、ワサビの味をみて、決める。


●ファースト・フード店では、ランチ1本

 最近では、ファースト・フード店でも、価格破壊が起きている。ハンバーグランチなどでは、ス
ープ付で、360〜380円という店もある。おまけに帰りには、ドリンクの無料券までつけてくれ
るところまである。

 しかしこれでは、店は、もうかるはずがない。そこで料理の量をやや少なめにして、ほかのも
のを、客に注文させるようにする。その一つが、デザート。店員は、注文をとるとき、「デザート
は、どうなさいますか?」と聞く。ランチのほうで割安感があるため、「では……」といって、デザ
ートを注文する人が、多い。

 が、このデザートが曲者(くせもの)。値段的には、280円とか、290円とか、どこか中途半
端な値段。ランチよりは、安いが、合計すれば、700〜800円。ふつうの値段になってしまう。

 こうして店は、何とか、利益を出そうとする。だからある母親は、こう言った。「ファースト・フー
ド店では、余計なものは注文しないこと」と。


●格安チケットの盲点

 このところ、飛行機事故がふえてきた。安いから、いいだろうと思って、格安チケットを買う
と、あとで、泣きをみることになる。

 たとえば事故にあったとき、航空会社によって、支払われる補償金は、みな、ちがうという。
日本の航空会社のばあいは、補償金の限度額を撤廃している。国際線のみならず、国内線
も、である。

 だからその人の(価値)に応じて、ばあいによっては、1億円とか2億円とかいう補償金が支
払われる。

 が、アジア各国の航空会社の中には、1500万円以下というところもあるそうだ。さらに中に
は、300万円以下というところもあるそうだ。「安いからいい……」などと言って、格安チケット
を買うのも、考えものである。

 で、絶対に乗ってはいけない航空会社が、あのK国のK航空。今度、フランス上空を飛ぶこと
さえ、禁止された。K航空に乗って死んでも、補償金は、一円も出ない……らしい。


++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

●雑学の重要さ

 こうした雑学には、重要な意味がある。雑学に興味をもつことで、それまで刺激を受けたこと
がない脳みその、別の部分が、刺激を受ける。内容はともかくも、刺激を受けることが重要な
のだ!

 ここに書いた、米のねばり、ファースト・フードのデザート、さらには、命の値段についても、そ
れぞれ調べてみたら、おもしろいテーマである。実益はないが、脳みその中に、ある種の広が
りを、作ってくれる。

 反対に、この(広がり)のない人を見ると、その(広がり)の大切さが、わかる。いつも取りあげ
るテーマは同じ。話す内容も、考える内容も、これまた同じ。そういう人は、少なくない。

 そういう人と話していると、実に薄っぺらい感じがする。しかも情報といっても、脳の表面に飛
来する情報を、思いついたまま、そのまま口にしているだけ。

 では、こういうカベを破るには、どうしたらよいのか? 自分がそうならないためには、どうした
らよいのか? 年をとればとるほど、生活範囲が狭くなる。しかしこれはとても、危険なことであ
る。そこで……。

 一つの方法は、自分で、調べるということ。

 で、さっそく、私も、調べてみることにした。

(1)米のねばり

 清酒を製造している、N盛のHPには、こうある。

「お米は、粘り、柔らかさ、見た目、香りと甘さが、大切な基準。特に粘りと甘さが、美味しさの
ポイントで、料理に合ったごはんが実現されます。炊きあがりの食味に関しても、コシヒカリ、あ
きたこまち等、銘柄ごとの食味特性を活かした組みあわせによる新食感が、高価格米の食感
を上回ることもあります」と。

 重要なのは、ねばりと甘さだそうだ。しかも風説のように、ブランド米を、ブレンドすると、おい
しい米になるという。

 そこでそうしたねばりや、甘さは、どうすればわかるのか。

 さらに調べてみると、ねばりを決めるのは、でんぷんの質ということがわかった。そのでんぷ
んには、ねばりの少ない、アミロースというものが、あるそうだ(農業研究センター)。つまりアミ
ロースが少なければ、少ないほど、その米は、ねばりをもった米ということになる。

 そこで最近では、遺伝子工学なども使って、低アミロースの米も作られるようになったという。
「ミルキークイーン」という品種も、その一つ。

 簡単な見分け方があるそうだ(同、センター)。

 低アミロースの米は、玄米の段階で、白く、濁っているそうだ。同センターのHPには、その比
較写真が載せられている。

http://nics.naro.affrc.go.jp/ine/ineiku/MQ&MP/milky.htm

 素人の感覚では、透明でガラスのように透きとおった米のほうが、高級で、おいしそうに見え
るものだが、実は、そうではないらしい。今度、ショッピングセンターへ行ったら、このあたりを
ポイントにして、米を選んでみたい。

 みなさん、米は、低アミロースのものを、選ぶんですよ!


(2)ファースト・フード

 ほとんどのファースト・フード店は、チェーン化している。同じ名前の店なら、全国どこへ行って
も、ほぼ、同じものを食べることができる。

 しかし最近では、……といっても、もう20年近く前から常識だが、個人のレストランでも、食材
は、専門の食材会社から手に入れている。そのほうが、手間もはぶける。値段も安い。安定し
た「味」を、客に提供することができる。

 たとえば、そのころ私が、いつも行っていたレストランのカレーライスは、いつも同じ味だっ
た。つまりそのレストランでは、どこかで仕入れてきたカレーライスを、温め、客の私たちに出し
ていた。

 結構、おいしかったが、ある日、突然、味が変わった。色も変わった。ほかのメニューも、す
べて、だ。あとでわかったが、そのときそのレストランは、それまでの取り引き先を、A社からB
社に変えた。

 ファースト・フード店では、こうした方式で、全国のチェーンのレストランを統括している。味も
研究しつくしている。値段も、1円単位で、計算している。だから、360〜380円という、ランチ
も可能、ということになる。

 しかしそのねらいは、何なのか。まさかボランティアで、そうしているわけではないだろう。何
かしらの(利益)があるから、そうしているにちがいない。

 仮に1食売って、100円の純利益があがったところで、100人で、たったの1万円。忙しさを
考えたら、とてもできる仕事ではない。

 これについては、今度、近くのレストランへ行ったら、徹底的に研究してみたい。

(3)交通安全協会費

 ここまで書いて、昨日、ワイフが、話題にしたことを思い出した。格安チケットの話は、また別
の機会に考えることにして、ここでは、あの交通安全協会費について考えてみる。

 私たちが、免許証の更新に行くと、窓口の女性が、こう言う。「交通安全協会費は、どうします
か?」と。

 しかしあの交通安全協会費ほど、あやしげな費用もない。それが、つい先日、NHKテレビの
報道番組の中で、話題として、取りあげられたという。で、私が思ったとおり、県によっては、窓
口の女性のノルマ制になっているところもあるという。ナルホド!

 その上、あの交通安全協会は、警察官たちの、もっとも重要な天下り先機関にもなっている
という。いろいろそのウラには、私たちが知らないカラクリがあるらしい。

 つぎの原稿は、2年ほど前に書いた原稿である。

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●免許証の更新

 今日(10・13)、警察署へ行って、免許証の更新をしてきた。そこでおもしろいことに気がつ
いた。

 受けつけで手続きをすませると、最初に、更新料金を徴収される。そのとき、同時に、交通安
全協会費というのを、やんわりと請求される。「やんわりと」だ。

 この交通安全協会費(年額400円、5年分で2000円)は、強制ではない。払いたくなけれ
ば、払わなくてもよい。

 その様子を見ていたときのこと。窓口の女性の表情が、払う人に対してと、払わない人に対し
てとでは、かなり露骨に変化するのだ。

 その女性が、交通安全協会費を請求する。そのとき、気前よく支払いに応じた人には、その
女性は、そのまま笑顔を絶やさない。しかしそれを断ったりすると、ムッとした表情になる。態
度そのものが、ぞんざいになる。

 私は、その様子を見て、「この女性は、すばらしい女性だ」と思った。そのことを横にいたワイ
フに話すと、「どうして?」と。

私「いいか、その女性は、公務員だ。免許証を更新にきた人が、協力費を払っても、払わなくて
も、自分の給料には、関係ないはず。だったら、協力費を払っても、払わなくても、同じこと。

 しかしあの女性は、払う人には、笑顔を、払わない人には、一瞬、ムッとして見せる。ぼくは、
自分の職業にああまで、心をこめて仕事をしている公務員を、見たことがない」

ワイフ「だからね、あなた、あの窓口には、いちばん笑顔の美しい女性を置いているのよ。美人
に、『いかがいたしますか?』と言われば、みんな断れないでしょう?」
私「そうだな。ぼくは、断ってみようか。どんな表情をするか、楽しみだな」
ワイフ「そうね、私、あの女性が、どんな顔をするか、よく見てみるわ」と。

 やがて私の整理番号が呼ばれた。そして前の人たちと同じように、「更新料は、xx00円で
す。で、協力費はいかがしましょうか。年額400円です」と告げられた。

私「で、いくらですか?」
女性「400円です」
私「400円ですか?」
女性「5年分で、2000円です」
私「断ります」と。

 そのときその女性は、私にも、ムッとした表情をして見せた。露骨な変化だった。書類の置き
方も、どこか投げやり的な感じがした。

 席にもどると、すかさずワイフが、「やっぱり、態度が変わったわねエ」と。

私「だろ……。そうなんだよな。あの女性は、明らかに、警察署の収入を考えている。ああいう
職業意識をもっている人は、こういう世界では、珍しいよ」
ワイフ「私は、そうは思わないは……」
私「どういうこと?」
ワイフ「きっとノルマになっているのよ。野球の打率みたいにね。Aさんのときは、承諾率、5
6%。Bさんのときは、74%。だからBさんの勝ち。Bさんのボーナスは、10%アップとか…
…。きっと、そうなっているのよ」
私「そうかもしれないな」と。

 もちろん内部のことは、私にはわからない。そうであるかもしれないし、そうでないかもしれな
い。しかし、さすが、ワイフ。女性の心理を読むのが、ス・ル・ド・イ。

 どちらにせよ、私は、今年はじめて、あの交通安全協会費というのを、断った。このS県でも、
警察署ぐるみの、裏金づくり事件が発生している。それに、どうも、あのお金の使われ方が、よ
くわからない。あくまでも聞いた話だが、道路わきに立てる安全標識にしても、一本、百数十万
円もの費用がかかっているそうだ(週刊誌などの記事)。

 一本、百数十万円だぞ!

 そういう標識が、私の家の周辺だけでも、数本。道路ごとに、やはり数本ずつ立っている。ほ
とんど、車など、通らないのに道路なのに! それもほとんど意味のない標識ばかり。「シルバ
ーゾーン」「歩行者優先」「いたわりゾーン」とか。まわりは雑草のはえる荒地ばかりなのに、「駐
車禁止」の標識や、「一旦停車」の標識も立っている。(明日にでも、写真をとってこよう※。)

 ……という反発心が心のどこかにあったから、すんなりと支払いを断ることができた。心のど
こかに、「払っておけばよかったな」という思いもあったが……。

 帰りに、警察署の近くのレストランにより、そこで食事をした。予算は、2000円。結構、おい
しい料理を食べることができた。

注※……今、調べてきたら、うちの角だけでも、バックミラーも含めて、9本も立っていた。9本
だぞ! 証拠の写真は、HTML版のほうで紹介。それにしても、多すぎる! こういう標識1本
が、120〜30万円とか。ざっと計算しても、この写真にある分だけで、1000万円以上! ゾ
ーッ!)


++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

●役割混乱

 役割が混乱してくると、自分が何をしたいのか、何をすべきなのかが、わからなくなってくる。
これを、「自我同一性(アイデンティティ)の拡散」と言うらしい。

 私も、高校時代の後半に、この「拡散」を経験している。(と言っても、そのとき、それがわか
っていたわけではない。今から思い出すと、そうだったということになる。)

 自分で、自分の進むべき方向性を見失ってしまった。

 自信喪失、集中力の欠如、精神的不安、それに抑うつ感に悩まされた。自意識も過剰にな
り、人前に出たりすると、失敗してはいけないという思いばかりが先にたち、かえって何も話せ
なくなってしまったこともある。

 私は、「私が何をしたいのか」さえ、わからなくなってしまった。ただ毎日、学校へ行くだけ。勉
強するだけ。そんな生活になってしまった。今、思い出しても、おもしろいと思うのは、当時、心
のどこかで、ヤクザの世界に、あこがれたこと。あるいは戦争か何かが起きて、日本中が、こ
なごなにこわれてしまえばよいと思ったこと。生きザマが、かなり否定的になっていたようであ
る。

 しかしこうした現象は、決して、私だけのものではない。今でも、多くの中学生や高校生は、
同じような悩みをかかえて、苦しんでいる。

 本来なら、そういう状態に子どもを追いこまないようにする。そのためにも、思春期に入るこ
ろから、子どもの方向性をみきわめ、その方向性に沿った子どもの生きザマを、子ども自身が
もてるように、指導する。

 私のことだが、私は、高校2年生の終わりまで、ずっと大工になるのが、夢だった。そのため
大学にしても、工学部建築学科を考えていた。

 その私が、高校3年生になるとき、文学部へと進路を変更した。つまりこのとき、私に、「拡
散」という現象が襲った。自我同一性、つまり「私」が、大混乱してしまった。

 そんな私だが、今でも、ときどき、こう思う。あのとき、ニ流でも三流でもよい。どこかの大学
の工学部へ入学していたら、そののちの私は、もっと生き生きと、自分の人生を生きることが
でいたのではないか、と。大工でもよかった。子どものころから、泥んこ遊びが大好きだった。
そういう仕事でもよかった。

 今、多くの子どもたちを指導している。しかしときどき、こう思う。私がしたような失敗だけは、
してほしくない、と。だから幼稚園児にせよ、小学生や中学生にせよ、子どもが、「〜〜になりた
い」と言ったら、すかさず、私は、こう言うようにしている。「それは、いい。すばらしい仕事だ。そ
の仕事は、君にピッタリだ」と。

 そういう前向きのストロークをいつも、子どもにかけていく。それがあって、子どもは、自分の
進むべき道を、自分で選ぶことができるようになる。自己の同一性を、確立することができる。
(はやし浩司 役割混乱)


++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

●自意識過剰
 
 自意識が過剰の人は、少なくない。

 だれも注目など、していないのに、自分では注目されていると思いこんでしまう。みなが、自
分に関心をもち、自分のことを気にしていると、思いこんでしまう。

 このタイプの人は、もともと人間関係がうまく調整できない人とみてよい。自分を、すなおにさ
らけ出すことができない。だからますます、自意識だけが、過剰になっていく。

 この自意識は、悪玉なのか。それとも善玉なのか。昔からよく議論されるところである。しかし
自意識がまったくないのも、困る。しかし過剰なのも、困る。ほどほどの自意識が、好ましいと
いうことになる。

 自意識のおかげで、私たちは、自分をコントロールすることを学ぶ。「他人の中の自分」を意
識することができる。しかし度を超すと、今度は、かぎりなく自分だけの世界に入ってしまう。

 そこでその自意識が過剰な人を分析してみると、その人の幼稚な自己中心性と関係している
のが、わかる。

 「私は私」と考える原点にあるのが、自意識ということになる。しかし「私は私。だから私は絶
対」と考えるのは、自己中心性の表れということになる。その自己中心性がさらに肥大化し、そ
の返す刀で、他人の価値を認めなくなってしまうと、自己愛へと発展する。

 自分は完ぺきと思うところから、完ぺき主義に陥ることもある。そしてそれが転じて、自意識
過剰となる(?)。自己愛の特徴の一つに、この完ぺき主義が、よく取りあげられる。

 むずかしい話はさておき、自意識が過剰になると、社会生活(学校生活)に支障をきたすよう
になる。こんなことがあった。

 A君(小5)を何かのことでほめたときのこと。突然、そのうしろにすわっていたB君が混乱状
態になり、「ぼくだって、できているのに!」と言って、怒り出してしまった。B君の顔は、どこか
ひきつっていた。

 そのときは、ただ単なるねたみか、誤解かと思った。B君は、何かにつけて目だちたりがり屋
で、かつ、そうでないと、すぐ不機嫌になるタイプの子どもだった。

 そこで自己診断。

 つぎのような項目に、いくつか当てはまれば、自意識過剰な人(子ども)とみてよい。

(  )いつも自分は目立った存在でありたいと思う。またそのように振る舞う。
(  )自分をだれかが軽く扱ったり、軽く見たりすると、バカにされたと思う。
(  )意見などを求められたとき、すばらしい意見を言わなくてはと、かえって
    何も言えなくなる。自分で何を言っているかわからなくなってしまう。
(  )いつも世間が、自分の注目しているように思う。自分は、そうした世間
    の期待に答える義務がある。
(  )私の価値は、私が一番よく知っている。それを認めない世間のほうが、
    まちがっている。
(  )自分が絶対正しいと思うことが多い。みなは、自分に従うべきと思う。
(  )他人がほめられたり、他人の作品が賞賛されたりするのを見ると、自分
    のほうが、すぐれているとか、自分ならもっとうまくできると思うこと
    がある。

 ほかにもいろいろ考えられるが、自意識過剰な人は、それだけ精神の発達度が、低い人と
みてよい。

 反対に精神の発達度が高い人ほど、他人の喜びや悲しみを、すなおに受けいれることがで
きる(共鳴性)。たとえばAさんが、「Bさんって、ステキな人ね」とあなたに話しかけたとする。

 その瞬間、自意識の過剰な人ほど、「私のほうが……」という反発心を覚えやすい。「そうね」
と言う前に、それを否定するような発言をする。「でもねえ……」と。だから結果的に、自意識の
過剰な人は、他人から嫌われるようになる。だからますます、他人から孤立することになる。あ
とは、この悪循環。

 自意識も、ほどほどに……ということになる。
(はやし浩司 自意識 自意識過剰)

++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

●自己概念

 「自分は、人にどう思われているか」「他人から見たら、自分は、どう見えるか」「どんな人間に
思われているか」。そういった自分自身の輪郭(りんかく)が、自己概念ということになる。

 この自己概念は、正確であればあるほどよい。

 しかし人間というのは、身勝手なもの。自分では、自分のよい面しか、見ようとしない。悪い面
については、目を閉じる。あるいは人のせいにする。

 一方、他人というのは、その人の悪い面を見ながら、その人を判断する。そのため(自分が
そうであると思っている)姿と、(他人がそうであると思っている)姿とは、大きくズレる。

 こんなことがあった。

 ワイフの父親(私の義父)の法事でのこと。ワイフの兄弟たちが、私にこう言った。

 「浩司(私)さん、晃子(私のワイフ)だから、あんたの妻が務まったのよ」と。

 つまり私のワイフのような、辛抱(しんぼう)強い女性だったから、私のような短気な夫の妻と
して、いることができた。ほかの女性だったら、とっくの昔に離婚していた、と。

 事実、その通りだから、反論のしようがない。

 で、そのあとのこと。私はすかさず、こう言った。「どんな女性でも、ぼくの妻になれば、すばら
しい女性になりますよ」と。

 ここで自己概念という言葉が、出てくる。

 私は、私のことを「すばらしい男性」と思っている。(当然だ!)だから「私のそばにいれば、ど
んな女性でも、すばらしい女性になる」と。そういう思いで、そう言った。

 しかしワイフの兄弟たちは、そうではなかった。私のそばで苦労をしているワイフの姿しか、
知らない。だから「苦労をさせられたから、すばらしい女性になった」と。だから、笑った。そして
その意識の違いがわかったから、私も笑った。

 みんないい人たちだ。だからみんな、大声で、笑った。

 ……という話からもわかるように、自己概念ほど、いいかげんなものはない。そこで、私たち
はいつも、その自己概念を、他人の目の中で、修正しなければならない。「他人の目を気にせ
よ」というのではない。「他人から見たら、自分はどう見えるか」、それをいつも正確にとらえて
いく必要があるということ。

 その自己概念が、狂えば狂うほど、その人は、他人の世界から、遊離してしまう。

 その遊離する原因としては、つぎのようなものがある。

(1)自己過大評価……だれかに親切にしてやったとすると、それを過大に評価する。
(2)責任転嫁……失敗したりすると、自分の責任というよりは、他人のせいにする。
(3)自己盲目化……自分の欠点には、目を閉じる。自分のよい面だけを見ようとする。
(4)自己孤立化……居心地のよい世界だけで住もうとする。そのため孤立化しやすい。
(5)脳の老化……他者に対する関心度や繊細度が弱くなってくる。ボケも含まれる。

 しかしこの自己概念を正確にもつ方法がある。それは他人の心の中に一度、自分を置き、そ
の他人の目を通して、自分の姿を見るという方法である。

 たとえばある人と対峙してすわったようなとき、その人の心の中に一度、自分を置いてみる。
そして「今、どんなふうに見えるだろうか」と、頭の中で想像してみる。意外と簡単なので、少し
訓練すれば、だれにでもできるようになる。

 もちろん家庭という場でも、この自己概念は、たいへん重要である。

 あなたは夫(妻)から見て、どんな妻(夫)だろうか。さらに、あなたは、子どもから見て、どん
な母親(父親)だろうか。それを正確に知るのは、夫婦断絶、親子断絶を防ぐためにも、重要な
ことである。

 ひょっとしたら、あなたは「よき妻(夫)であり、よき母親(父親)である」と、思いこんでいるだけ
かもしれない。どうか、ご注意!
(はやし浩司 自己概念)

++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

●ありのままの自分

 (現実の自分)と、(そうでありたいと思う自分)。この二つが遊離すればするほど、その人は、
心理的に緊張状態におかれ、内面世界で、はげしく葛藤することが知られている。

 よい例が、「役割形成」である。(本当の私)と、(現実にしている私)が、大きくちがったりする
と、精神状態は、きわめて不安定になる。大嫌いな男性と、無理やり結婚させられ、毎晩その
男性に肌をさわられるような状況を思い浮かべてみればよい。そういった精神状態になる。

 遊離する理由は、いくつかある。

(1)理想の自分を描き過ぎる。(こうでありたいという思いが強過ぎる。)
(2)そうでなければという思い込みが強過ぎる。(自意識が強力すぎる。)
(3)自分をさらけ出すことができない。(人間関係をうまく結べない。)
(4)いい子ぶる。世間体、見栄を気にする。(仮面をかぶる。無理をする。)
(5)自分に自信がもてない。(悪く思われることに、恐怖心をもつ。)

 こうした状態が慢性的につづくと、ここでいう遊離が、始まる。が、それは心の健康のために
は、たいへん危険なことでもある。

 そのため、(現実の自分)と、(そうでありたいと思う自分)は、できるだけ、近ければ近いほ
ど、よい。ある程度の仮面は、必要だが、その仮面を、夫(妻)や、子どもにかぶるようになった
ら、お・し・ま・い。

 だから良好な夫婦関係、良好な親子関係をつくりたかったら、まず、ありのままの自分をさら
け出す。が、一見、簡単そうだが、実は、これがむずかしい。ばあいによっては、生活のリズム
そのものを、根本的な部分で変えなければならないこともある。

 しかも、この問題は、脳のCPU(中央演算装置)にからんでいるだけに、自分で気がつくのが
むずかしい。本当の自分を知ったときはじめて、それまでの自分が、本当の自分でなかったこ
とを知る。それまでは、わからない。

 私たちの体には、無数のクサリが巻きついている。同じように、心にも無数のクサリが巻きつ
いている。本当の自分の姿が見えないほどまでに、巻きついている。そういうクサリの一本、一
本を知る。そしてそれらを、やはり一本、一本、ほぐしていく。本当の自分が見えてくるのは、そ
のあとである。


++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

最前線の子育て論byはやし浩司(849)

●痴漢行為

+++++++++++++++

約3分の2の若い女性たちが、
電車の中で、痴漢行為を経験
しているという。

それについて……。

+++++++++++++++

 NHKのテレビ番組を見る。テーマは、「痴漢をどうやって、防ぐか」。

 ざっと見ただけだが、(したがって、記憶もあいまいだが……)、朝夕の通勤電車の中で、痴
漢行為の被害にあったことのある女性が、約3分の2もいるそうだ(東京都内)。

 番組は、NHKの司会者と、お笑いタレント、それに何人かのコメンテイターで、どこかおもし
ろおかしく、しかしどこか深刻さを漂わせながら、進行していった。が、私は、その番組を見な
がら、「?」を、あちこちで、感じた。

 その第一。司会者やタレントたちは、さも、「私たちは、絶対にそういうことをしません」「したこ
ともありません」という立場で、ものをしゃべっていた。立場上、それは当然だとしても、しかし本
当に、そうだろうか?

 私も男だから、男どうしの、というか、男のスケベ心を、本能的に、かぎ分けることができる。
そういう目で見たとき、司会者はともかくも、番組の中に出てきた男たちについて、ふと、私は、
こう思った。「自分でも、やってるんじゃ、ないの?」と。

 理由がある。

 3分の2という数字は、何も、被害者の女性だけの数だけではない。単純に、ごく単純に、こ
の数字を見れば、反対に、約3分の2の男性が、痴漢行為をしているということにもなる。(実
際には、1人の痴漢が、毎日、何人もの女性を相手に痴漢行為を働いていると考えたほうがよ
い。)

 しかし痴漢行為をする人と、痴漢行為をしない人の間に、はっきりとしたカベがあるわけでは
ない。「私は痴漢行為をしない」と言う人でも、「してみたい」「機会さえあればしてみたい」「頭の
中では、想像したことがある」という人となると、いくらでもいる。(……と思う。)

 (思い)と(実際の行動)との間には、距離がある。その距離を作るのが、倫理であり、道徳と
いうことになる。しかしその距離は、個人によって、みな、ちがう。この世界には、絶対的な悪人
はいない。同時に、絶対的な善人もいない。いわゆる灰色ゾーンで、うごめいている人となる
と、いくらもいる。ほとんどの男が、そうではないか。

 性欲というのは、そういうもの。

 私も仕事で、よく東京に行く。朝のラッシュアワーは避けるが、それでも、混雑した電車に乗り
あわせることがある。

 夏場ともなると、目のやり場のない服装の女性が、多くなる。あらわにむきだした、腕や胸。
薄いシャツに、スカート。正常な人間なら、だれでも、ムラムラと欲情を覚える。覚えて当然。

 そういうとき、ここに書いた、(思い)と(実際の行動)のはざまで、男の心理は、微妙に、動揺
する。胸を上から、のぞいてみたい。スカートの下から、のぞいてみたい……。

 しかしそう(思う)ことが、どうして悪いことなのか。そういう(思い)は、私を超えた、本能の(思
い)である。その(思い)があるからこそ、人間は、この何十万年もの間、生き延びてくることが
できた。

 そこで(実際の行動)ということになる。それをするかしないかは、その人の倫理観や道徳観
による。しかしそうした倫理観や道徳観といったものは、その人自身の内部から、わき出てくる
もの。そういうことをしそうな人は、いかにも、そういうことをしそうな雰囲気を漂わせている。そ
うでない人は、そうでない。

 そういう目で見ると、番組に出てきた男性の中には、いかにも、そういうことをしていそうな人
も、何人か、いた。いかにも、低劣。低俗。「善人ぶってはいるが、ただ化けているだけ」と。中
には、「被害者の女性の立場で考えると、卑劣な行為としか言いようがない」というようなことを
言っていた人もいた。

 たしかに卑劣な行為だが、問題の根本は、痴漢行為にあるのではない。問題の根本は、体
をギシギシにすり合わせなければ乗れない、電車そのものにある。満員電車そのものに、あ
る。そういう状況を一方で、放置しておいて、何が、痴漢だ!

 話は変わるが、たとえば道路に万札がぎっしりと入ったサイフが落ちていたとする。あたりに
は、だれもいない。夜の道だ。

 そういうとき、あなたなら、どうするだろうか。テレビの司会者なら、(みんながテレビを見てい
るという手前上)、「交番へ届けます」と、シャーシャーと言うだろう。しかし実際には、どうだろう
か? 本当に、交番へ届けるだろうか。

 私は、人間の心というものを、あまり信用していない。よい例が、あのドイツだ。ゲーテや、シ
ラー、ベートーベンを生み出したあのドイツですら、そのあと、ユダヤ人の大虐殺をしている。
「日本人は、平和を愛する民族だから、ドイツ人がしたようなことはしない」と言うのは、どう
か? 本当に、そうか? そう、言い切れるか? 戦時中、日本軍は、満州で、そのナチスドイ
ツの残虐行為に、まさるとも劣らないほどの残虐行為を繰りかえしていた。

 話をもどす。

 こうした番組を見ていて不愉快なのは、登場してくる人たちはみな、「私だけは善人です」「そ
ういう痴漢行為には興味はありません」と、さも言いたげな顔をしているということ。もう一歩、
ほりさげて、「私もしてみたいと思ったことがある」「しかし私にはできない」というような議論があ
れば、それなりに私も納得しただろう。

 が、そういう話は、いっさい、出てこなかった。

 そこで、重要なことは、「どうすれば、痴漢行為を防げるか」ではなく、「どうすれば、自分の行
為にブレーキをかけることができるか」だ。その方法を論じたほうが、はるかに生産的である。

 で、防ぐ方法など、簡単。

(1)体が触れあうような満員電車は、なくせばよい。
(2)電車の内部に、監視カメラを、無数に設置すればよい。
(3)男女別の車体を、厳格に分け、もっとふやせばよい。

 最後に、私は言いたい。痴漢行為を非難するのは、簡単。私にだってできる。しかし、だれ
が、そういう痴漢を、石持て、打てるのか? もし、そういう痴漢行為には興味がありませんと
いう男がいたら、本当に男かどうか、まず疑ってみたほうが、よい。

【追記】

 (思い)と(実際の行為)を、へだてるのは、その人がもつ、倫理であり、道徳である。その距
離感のある人を、善人といい、ない人を、悪人という。その倫理や道徳は、日々の絶えまない
研鑽(けんさん)のみによって、つくられる。

 それは健康論に似ている。究極の健康法などといったものはない。その健康法を実践したか
ら、生涯にわたって健康ということは、ありえない。健康は、日々の絶えまない、運動によって
のみ、つくられる。立ち止まったそのときから、その人は、病気に向って、まっしぐらに進んでい
く。

 同じように、倫理や道徳にしても、立ち止まったとたん、そのときを境に、後退していく。よく
「私は悟りを開いた」などと言う人がいる。本来、そんなことは、ありえない。究極の健康法など
ないのと同じように、究極の悟りの境地など、ない。

 だからあの釈迦は、「精進」という言葉を使った。「人間は死ぬまで、前に進むのだ」と。


++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

●杉原千畝副領事のビザ発給事件

 1940年、カウナス(当時のリトアニアの首都)領事館の杉原千畝副領事は、ナチスの迫害
から逃れるために日本の通過を求めたユダヤ人6000人に対して、ビザ(査証)を発給した。

これに対して1985年、イスラエル政府から、ユダヤ建国に尽くした外国人に与えられる勲章、
『諸国民の中の正義の人賞(ヤド・バシェム賞)』を授与された(郵政省発行20世紀デザイン切
手第9集より)。

 ナチス・ドイツは、ヨーロッパ全土で、1100万人のユダヤ人虐殺を計画。結果、アウシュビッ
ツの「ユダヤ人絶滅工場」だけでも、ソ連軍による解放時までに、400万人ものユダヤ人が虐
殺されたとされる。

杉原千畝副領事によるビザ発給事件は、そういう過程の中で起きたものだが、日本人はこの
事件を、戦時中を飾る美談としてとらえる。郵政省発行の記念切手にもなっていることからも、
それがわかる。が、しかし、この事件をたたえること自体、日本にとっては偽善そのものと言っ
てよい。

 当時日本とドイツは、日独防共協定(1936年)、日独伊防共協定(37年)を結んだあと、日
独伊三国同盟(40年)を結んでいる。こうした流れからもわかるように、杉原副領事のした行
為は、まさに越権行為。日本政府への背信行為であるのみならず、軍事同盟の協定違反の疑
いすらある。

いや、だからといって、私は杉原副領事のした行為がまちがっているというのではない。問題
は、その先と言ったらといのか、その中味である。日本人は今になって、善人のふりをしている
が、当時の日本といえば、ドイツ以上にドイツ的だった。しかも今になっても、その体質はほと
んど変わっていない。

 もし仮にこの日本に、100万人単位の外国人不法入国者がやってくるようになったとしよう。
そしてそれらの不法入国者が、もちまえの勤勉さで、日本の経済を動かすまでになったとしよ
う。さらに不法入国者が不法入国者を呼びこみ、日本の人口の何割かを占めるようになったと
しよう。そしてあなたの隣に住み、あなたよりリッチな生活をし始めたとしよう。

もうそのころになると、日本の経済も、彼らを無視するわけにいかない。が、彼らは日本には同
化せず、彼らの国の言葉を話し、彼らの宗教を信じ、さらに税金もしっかりと払わない……。そ
のとき、あなたはどうする? あなた自身のこととして考えてみてほしい。あなたはそれでも平
静でいられるだろうか。

ヒットラーが政権を取ったころのドイツは、まさにそういう状況だった。つまり私が言いたいこと
は、あのゲーテやシラー、さらにはベートーベンまで生んだドイツですら、狂った。この日本が狂
わないという保証はどこにもない。現に2000年の夏、東京都のI都知事は、「第三国発言」を
して、物議をかもした。そして具体的に自衛隊を使った、総合(治安)防災訓練までしている(2
000年9月)。石原都知事のような文化人ですら、そうなのだから、いわんや我々をや。

 ついでながらI都知事の発言を受けて、アメリカのCNNは、次のように報道している。「日本人
に『我々』意識があるうちは、日本の発展はこれ以上望めない」と。日本が杉原副知事をたた
えるのは、あくまでも結果論。どうもすっきりしない。石原都知事の発言は、「自分たち日本人
も、外国で迫害されても文句は言いませんよ」と言っているの等しい。

 杉原千畝副領事のした行為は、歴史に残る美談になった。しかしだからといって、日本人が
犯した罪が、それで清算されるわけではない。しかし日本人は、自分たちのしたことはさておい
て、こうした美談にしがみつくことにより、自分たちの罪を、どこかへ葬り去ろうとする。

 杉原千畝副領事の生まれ故郷には、杉原千畝副領事の銅像まで建てられたという。しかし、
そうしたたたえ方そのものが、私には、どうも偽善にしか思えない。もし杉原千畝副領事が生き
ていたら、彼は、それについて、何と言うだろうか。多分、杉原千畝副領事なら、こう言うだろ
う。

 「やめてくれ! 私は、ただ、見るにみかねて、そうしただけだ」と。
 
++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

最前線の子育て論byはやし浩司(850)

●涼しくなった!

 涼しくなった! 快適だ! ハハハ!

 先ほど、ちょいと昼寝をしたため、少し頭が痛かったが、簡単な頭痛薬でなおった。原稿がス
イスイと書ける。この喜び。楽しさ。

 で、いろいろ考える。

 まず、群馬県に住んでいる、Mさんのこと。義理の父親が、かなり権威主義的な人で、Mさん
は、かなり困り果てているらしい。しかし年齢を聞くと、その父親は、もうすぐ80歳とか。そうい
う人は、相手にしないほうがよい。

 脳細胞の何割かが、死滅しているとみてよい。脳梗塞をしたこともあるというのなら、なおさ
ら。私も、いろいろな人と議論はするが、基本的には、60歳を過ぎた人とは、議論など、しな
い。しても意味がない。

 つぎに考えるのは、これから山荘に行くこと。草刈り機が故障してしまった。それをなおさね
ばならない。新しく買うと、2万円前後もかかる。今月は、もうこれ以上予算が、ない。……しか
し、秋になったというのに、草だけは、まだのびる。

 そうそうMさんへ……。

 もっと、本音で生きなさい。いやだったら、いやだと言えばいい。私は、そうしている。たとえば
こうして毎日、原稿を書いているが、心のどこかでその人を思い浮かべながら、その人を批判
したような文章を書いたときは、もう、その人とは、交際しない。儀礼的な交際をするとしても、
最小限。

 それを、Mさんは、毎日、ごまかしながら、生きている。地域性もあるのでしょうが、私なら、も
うごめん。自分の人生に、かぎりが見えてきた。みんなにいい顔はできない。いい顔をしても、
意味がない。

 「ぼくのことを悪く思いたければ、思えばいい」と。知ったことではない。

 それにしても、人を接待するのも、たいへん。

 私もときどき、山荘へ人を招待するが、本当に親しい人だけにしている。とくに50歳以上の
男たちは、何も、手伝ってくれない。たまの土日で、接待をすることで、かえって、疲労感が倍
化してしまう。

 料理に、風呂の用意。ふとんに、寝具。その間にも、茶を出したり、お菓子を出したり。客が
帰ってからも、掃除に洗濯。あと片づけ。

 Mさんは、よくやりますね。ホント!

 私も、自分でそれがわかるようになってからは、どこへ行っても、そこでの家事は、すべて手
伝うことにしている。決して、客になってはいけない。そう思う。

 Mさんのように、仕事をもっている主婦のところへ、休みにやってきて、寝泊りする人の神経
って、いったい、どんな神経なのでしょうか。かまわないから、追い出しなさい。

 「今日は、お帰りください」と。

 本音で生きるということは、そういうこと。それができないから、Mさんは、今日もまた、悩む。
苦しむ。

 それにしても、Mさんの義理の父親もたいへんですね。私の親類にも、そっくりの人がいま
す。まあ、無視して、生きるしかないですね。私は、そうしています。

 ……つぎに考えることは、やはり、ビデオ編集のこと。さきほど、ワイフと外出したおり、佐鳴
湖の写真をとってきた。

 まぶしいほど、青と緑が、美しかった。それを写真にとった。ビデオにも、収めた。そして先ほ
ど、編集を終え、TUBE社のフリー・ストリ−ミングに、アップロードした。読者のみなさんには、
私のHPから、見ていただけるようにした。

 「佐鳴湖って、すばらしい」と思ってもらえれば、うれしい。

 そうそう、まったく関係のないことだが、今年は、クリが大豊作。あと、1、2週間もすると、収
穫できる。楽しみ!


**********以上、最前線の子育て論byはやし浩司850*********


 はやし浩司 林浩司 林浩 子供の悩み 幼児教育論 育児論 子育て論 はやし浩司 林
浩司 教育評論家 評論家 子供の心理 幼
児の心理 幼児心理 幼児心理学 子供の心理 子育て問題 はやし浩司 子育ての悩み 
子供の心 育児相談 育児問題 はやし浩司
 幼児の心 幼児の心理 育児 はやし浩司 育児疲れ 子育てポイント はやし浩司 静岡
県 浜松市 幼児教育 岐阜県美濃市 金沢
大学法文学部卒 はやし浩司 教育評論家 幼児教育評論家 林浩司 静岡県 浜松市 幼
児教育 岐阜県美濃市生まれ 金沢大学法
文学部卒 教育評論家 はやしひろし 林ひろし 静岡県 浜松市 幼児教育 岐阜県美濃市
生まれ 金沢大学法文学部卒 教育評論家
 はやし浩司・林浩二(司) 林浩司 静岡県 浜松市 幼児教育 岐阜県美濃市生まれ 金沢
大学法文学部卒 教育評論家 Hiroshi 
Hayashi / 1970 IH student/International House / Melbourne Univ. writer/essayist/law 
student/Japan/born in 1947/武義高校 林
こうじ はやしこうじ 静岡県 浜松市 幼児教育 岐阜県美濃市生まれ 金沢大学法文学部
卒 教育評論家 ハローワールド(雑誌)・よ
くできました(教材) スモッカの知恵の木 ジャックと英語の木 (CAI) 教材研究  はやし浩
司 教材作成 教材制作 総合目録 はやし
浩司の子育て診断 これでわかる子育てアドバイス 現場からの子育てQ&A 実践から生まれ
たの育児診断 子育てエッセイ 育児診断
 ママ診断 はやし浩司の総合情報 はやし浩司 知能テスト 生活力テスト 子どもの能力テ
スト 子どもの巣立ち はやし浩司 子育て
診断 子育て情報 育児相談 子育て実践論 最前線の子育て論 子育て格言 はやし浩司
 子どもの問題 子供の問題 育児相談 子
どもの心 子供の心 子どもの心理 子供の心 はやし浩司 不登校 登校拒否 学校恐怖症
 はやし浩司 子育て実例集 子育て定期
検診 子どもの学習指導 はやし浩司 子供の学習 学習指導 子供の学習指導 はやし浩
司 子どもの生活指導 子供の生活 子ども
の心を育てる 子供の心を考える 発語障害 浜松中日文化センター BW教室 はやし浩司
の才能教室 幼児教室 幼児知能教室 浜
松市 BWこどもクラブ はやし浩司 子育て診断 育児アドバイス 子育てアドバイス 子育て
情報 育児情報 育児調査 はやし浩司 子
育ての悩み 育児問題 育児相談 はやし浩司 子育て調査 子育て疲労 育児疲れ 子ども
の世界 中日新聞 Hiroshi Hayashi 
Hamamatsu Shizuoka/Shizuoka pref. Japan 次ページの目次から選んでください はやし浩
司のホームページ 悩み調査 はやし浩司
の経歴 はやし浩司 経歴 人物 子どもの叱り方 ポケモンカルト ポケモン・カルト 子ども
の知能 世にも不思議な留学記 武義高・武
義高校同窓会 古城会 ドラえもん野比家の子育て論 クレヨンしんちゃん野原家の子育て論
 子育て教室 はやし浩司 浜松 静岡県 
はやし浩司 子どもの指導法 子どもの学習指導 家族主義 子どものチェックシート はやし
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司 静岡県 浜松市 幼児教育 岐阜県美濃市生まれ 金沢大学法文学部卒 教育評論家 はやしひろし 林ひろし 静岡県 浜松市 幼
児教育 岐阜県美濃市生まれ 金沢大学法文学部卒 教育評論家 はやし浩司・林浩二(司) 林浩司 静岡県 浜松市 幼児教育 岐
阜県美濃市生まれ 金沢大学法文学部卒 教育評論家 Hiroshi Hayashi / 1970 IH student/International House / Melbourne Univ.
writer/essayist/law student/Japan/born in 1947/武義高校 林こうじ はやしこうじ 静岡県 浜松市 幼児教育 岐阜県美濃市生まれ
 金沢大学法文学部卒 教育評論家 ハローワールド(雑誌)・よくできました(教材) スモッカの知恵の木 ジャックと英語の木 (CAI) 
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労 育児疲れ 子どもの世界 中日新聞 Hiroshi Hayashi Hamamatsu Shizuoka/Shizuoka pref. Japan 次ページの目次から選んでく
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