最前線の子育て論byはやし浩司(301〜400)


(301〜400)
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最前線の育児論(301〜350)

最前線の子育て論byはやし浩司(301)

●理想的な夫像?

 夫を、どの角度からみるかによって、その夫像も変わってくる。

 まず、常識的な尺度でみたのが、つぎの表である。

 夫を、家族的かどうかでみるのが、(F)軸。
 夫を、仕事ができるかどうかでみるのが、(W)軸。

                    W
     仕事はするが         *     仕事もするが
     家庭をかえりみないタイプ   *     家庭も大切にするタイプ
      *******************************F
     仕事もしない。        *     仕事はしないが、
     家庭も大切にしないタイプ   *     家庭を大切にするタイプ

 理想タイプとしては、右上の(仕事もするが、家庭も大切にするタイプ)ということになる。

 問題は、(仕事もしない。家庭も大切にしないタイプ)。このタイプの夫は、少なくない。家計は
いつも火の車。にもかかわらず、仕事はしない。家にも帰らず、いつもどこかで趣味ざんまい。
あるいは女遊び。

 ……と書くのは、簡単なこと。教育的には、もう少し、ちがった見方をする。

 いつか書いたように、善人も悪人も、それほど、ちがわない。ほんの少しの方向性のちがい
が、長い時間をかけて、善人を善人にする。悪人を悪人にする。仕事をしたくても、その仕事
がない。あるいは何をやっても、うまくいかない。失敗ばかり。

 こういうことが重なると、とたんにやる気をなくす。その上、安らぐはずの家庭にいても、妻
は、不平、不満をぶつけるだけ。

 こういう状態の中で、ここでいう(仕事もしない。家庭も大切にしないタイプ)の夫が生まれる。
そういうケースは、たいへん、多い。

 そういう意味では、家庭に入った妻の役目は、どこか教育者に似ている。アメリカでは、こう
言う。

 「夫は、頭。妻は首。決断するのは、夫の役目だが、その方向を決めるのは、妻の役目」と。

 なかなか的(まと)を得た言葉ではないかと思う。(どこか男尊女卑的な感じがしないでもない
が……。)

 私は夫の立場にいるから、どうしても夫の立場で、ものを考えてしまう。その上、いつも挫折
感を味わってばかりいる。だから、自分で、自分に反論するのもおかしな話だが、あえて、こん
な表も考えてみた。

 夫に対して、協力的かどうかでみるのが、(C)軸。
 夫に対して、理解があるかどうかでみるのが、(U)軸


                    C
     協力はするが、        *     協力はするし、
     夫を理解しないタイプ     *     夫を理解するタイプ
      *******************************U
     協力もしない。        *     協力はしないが、
     夫を理解しないタイプ     *     夫を理解するタイプ

 理想タイプとしては、右上の、(夫に協力的で、夫を理解するタイプ)ということになる。

 問題は、(協力もしないし、夫を理解しないタイプ)。このタイプの妻は、「仕事をして、収入を
得るのは、夫の役目」と、夫を突き放した上、夫の仕事を理解しようとしない。昔、夫の仕事に
ついて、「うちのダンナは、ただの倉庫番でね。収入も少なくて、たいへんなの」と吐き捨てるよ
うに言った女性がいた。

 少なからず好意を感じていた女性だったが、私は、こう思った。「こういう女性と結婚しなくて、
よかったア」と。(相手も、私に対して、そう思ったかもしれない。こういう思いというのは、双方
向性がある。)

 要するに、妻をつくるのは、夫。夫をつくるのは、妻ということになる。「夫が……」「妻が……」
と論じても、あまり意味がない。

 話はぐんと現実的になるが、ショッピングセンターなどで、夫婦で歩いている人を見ると、中に
実によく似た夫婦がいるのがわかる。

 服装から、しぐさ。それに雰囲気まで! 服装が似るのは、たいていは妻が、夫の衣服を買
いそろえているから。しかしその上、しぐさや雰囲気まで! 昔から「似たもの夫婦」というが、
夫婦も、10年、20年としていると、たがいによく似てくる。

 どこかヤクザ風の夫をもつと、妻も、どこかそれ風になる。そうそう、体型も似てくることがあ
る。夫も妻も、丸々と太っていたりする。これは食べ物が同じためだからではないか。

 そんなわけで、もしあなたが今、夫(妻)にあれこれ不満があるなら、その原因は、妻(夫)で
ある、あなた自身にあると考えてよい。一方的に夫(妻)を責めても意味はない。また責めては
いけない。

 以上、教育的にみた、夫婦論。おしまい。(自分でも、こうまで耳の痛いエッセーを自分で書
いたことがない。ホント!)

+++++++++++++++++++++

●母親の病識

 うつ病といっても、症状は、軽重さまざま。理由も原因も、これまたさまざま。が、母親が、そ
のうつ病になったら、どうなるか。子どもに、どのような影響を与えるか。

 この時点で、母親に、「私は病気だ」という意識、つまり病識があれば、まだ救われる。しかし
その病識がないときは、どうなるか。子どもに、どのような影響を与えるか。

 Aさん(40歳・女性)は、長野県の山村から、このH市に移り住んできた。H市は、名古屋市
につぐ、東海地方では、第二の大都市である。それが原因のすべてとは言えないが、しかしA
さんには、どうしてもこのH市が、なじめなかった。

 Aさんは、二番目の子どもを妊娠するころから、うつ病になった。……といっても、正式に、そ
う診断されたわけではない。夫や、夫の両親が、さかんに病院へ行くようにと説得したが、Aさ
んは、それをがんと、拒否した。「私は、何でもない!」「私は、病気ではない!」と。

 Aさんの奇行(?)は、二番目の息子が生まれたころから始まった。1、2週間もの間、一歩も
部屋を出なかったことがあるかと思うと、突然、買い物に出かけたりするなど。色ちがいだが、
同じ洋服を何枚も買ったこともある。あるいはささいなことで、カッとなって、二人の息子(4歳と
1歳)に、ものを投げつけたこともあった。

 夫の収入は、それほど多くはなかった。それでAさんは、夫の両親、つまり義理の両親から、
家計を補助してもらっていた。そのこともあって、Aさんの生活は、ますます派手になっていっ
た。

 ……という話をここに書くのが目的ではない。

 それから数年後。Aさんの長男は、小学2年生になった。が、その長男に、精神障害が現れ
始めた。ふとしたことで黙りこくったかと思うと、意味のわからない言葉をブツブツ言いながら、
ニヤニヤ笑いだすなど。

 これまたAさんのうつ病が原因で、長男がそうなったとは言えない。しかし関係がないとは、も
っと言えない。

 こういうケースは、つまり、似たようなケースは、今、たいへん多い。虐待とまでは言えない
が、しかしそれに近い。しかし、虐待とは、言えない。本来なら、子どもを母親から切り離したほ
うがよいのだが、その理由が見つからない。無理に切り離せば、母親は、ますますその病状を
悪化させてしまうかもしれない。そんなケースである。

 ここで、先にも書いたように、母親に、その病識があれば、まだ救われる。しかしこのタイプの
母親にかぎって、それがない。

 ささいなことで激怒し、子どもを罵倒したかと思うと、そのつぎの瞬間には、涙声で、「ごめん
なさい。ママが悪かった」と、子どもにあやまったりする。このつかみどころのなさが、子どもを
不安にする。

 そこで登場するのが、父親ということになる。が、みながみな、母親のそういう心の病気に対
して、理解があるわけではない。仕事に追われ、家庭をかえりみない父親も、多い。そのため
母親はますます孤立し、病状を悪化させる。

 Aさんの夫も、どこかだらしないAさんの生活ぶりを見て、「なまけ病だ」「仮病だ」「わがまま
だ」と、Aさんを責めた。

 さらに不幸は重なる。二番目の息子に、もっとはげしい精神障害が現れ始めた。小学校に入
るころには、異常な過食が始まった。食べるものがないと、近所のゴミ箱をあさって、食べてい
たというから、ふつうではない。ゲーゲーとものを吐き出すまで、ものを食べることも、しばしば
あった。

 Aさんはそれを知って、これまたはげしく叱ったが、もちろん効果はなかった。やがて二番目
の息子は、家出、火遊びを繰りかえすようになった……。

 こういうケースを知ったとき、あなたなら、どうするだろうか? どう考えて、どう行動するだろ
うか?

 しかし率直に言おう。こういう問題とて、子育てにまつわる無数の問題の一つにすぎない。そ
れはたとえて言うなら、波打ちぎわに打ち寄せる大波のようなもの。つぎからつぎへと、やってく
る。「何とかしなければ……」と考えているうちに、つぎの大波が、またやってくる。

 話がそれたが、私ができることは、こういう問題があることを、一人でも多くの読者に伝えるこ
と。そして今は、その病識がなくても、その傾向のある人に、自ら、それに気づいてもらうこと。
ここにも書いたように、病識があれば、まだこの問題は、解決できる。「私は、おかしい」と自覚
するだけでも、子どもに対する接し方が変わってくる。

 たとえばAさんのケースでも、Aさんのほうから、「では、どうしたらいいでしょうか?」という相
談があれば。話もしやすい。相談に、のることもできる。しかしそもそも、その病識のない人に
対しては、それをすることもできない。「あなたは、少し、おかしいですよ」と、言うことなど、絶対
に、できない。

 
●子どもの不適応症状

 心の病気の二大前兆は、(1)不安感と、(2)抑うつ感である。

 この二つの症状が、子どもに見られたら、親は、家庭教育のあり方そのものを、猛省する。

 放置すれば、神経症からうつ病、さらには、不登校、学校恐怖症などの不適応症状となっ
て、子どもに現れる。

 ただ不適応症状といっても、内容はさまざま。大きく、つぎの4つに分けて考える。

(1)攻撃型、(2)服従・依存型、(3)逃避型、(4)同情型。

(1)の攻撃型というのは、学校におけるツッパリ児や、家庭内暴力を繰りかえす子どもを想像
すればよい。が、こうして外の世界に向う攻撃型を、プラス型とするなら、内に向う攻撃型もあ
る。

 猛烈なガリ勉をする子どもや、あまり意味のないスポーツの練習を一日中するのが、それ。

 このタイプの子どもは、自虐的に自分を攻撃することで、自分のまわりに居心地のよい世界
をつくろうとする。

 (2)の服従・依存型は、集団非行を繰りかえす子ども、(3)の逃避型は、不登校児に、よく見
られる。さらに(4)の同情型というのは、わざと病弱で、弱々しい自分を演ずることによって、自
分にとって居心地のよい世界をつくることをいう。みながあれこれ心配してくれるような状況を、
自分のまわりにつくっていく。いつも何らかの病気や、体の不調を訴えるのが、その特徴であ
る。

 これらのタイプの子どもは、要するに、まわりの環境にうまく適応できないため、それを補う形
で、こうした行動に出ると考えるとわかりやすい。

 が、実際問題として、こうした症状が出てくるような段階では、すでに、手遅れとみる。
たいていの親は、(それはある意味ではしかたのないことかもしれないが)、こうした症状が出
てきて、はじめて、自分の子育てに問題があったと気づく。「まだ何とかなる」「うちの子にかぎ
って……」「そんなはずはない」と思って無理をすればするほど、それが悪循環となって、深み
にはまってしまう。

 そこで今、あなたの子どもは、どういう状況なのか、冷静に観察してみてほしい。不安を訴え
ることはないだろうか。悶々と悩むようなことはないだろうか。ため息をもらしたり、ぼんやりとも
の思いにふけるようなことはないだろうか。

 もしそうなら、家庭教育のあり方そのものを、一度、反省してみてほしい。

【ある失敗例】

 勉強を、子どもをしごく手段にしている親は、少なくない。

 もう20年ほど前のことだが、こんなことがあった。

 小学1年生のクラスで、足し算の計算問題を、20問ほどやらせたことがある。で、私のばあ
い、その子どもが懸命にしたかどうかで、子どもを判断する。そのときも、そうだった。

 Nさんという女の子だった。もともと計算が得意な子どもではなかった。が、そのときも、懸命
にそれをした。

 で、丸をつけるときになってプリントを見ると、20問にうち、4、5問の答がちがっていた。しか
し私は大きな丸をつけ、「よくやったね」とほめた。

 が、その夜、母親から電話がかかってきた。いわく、「先生は。どうしてまちがっている答に
も、丸をつけるのか。今、娘に、やりなおさせている。いいかげんな丸をつけないでほしい」と。
つまり、「しっかりと丸をつけろ!」と。

 そこで様子を聞くと、N子さんは、涙をポロポロとこぼしながら、それをしているという。

 こういうのは、まずい。本当に、まずい。子どもから、やる気を奪ってしまう。そればかりか、
やがて勉強嫌いにし、ついでに、親子の関係も、破壊してしまう。だいたい、小学1年生のとき
から、そんなにギスギス教える必要は、ない。

 それを母親に伝えると、母親は、こう反論した。

 「今から、しっかりと教えていかなければ、いいかげんな子どもになってしまいます」と。

 今でも、こういう親は、珍しくない。しかし本当に、そうだろうか。このテーマは、「正しい答をい
つも出すことが、それほどまでに大切なことなのか」という問題にまで行きつく。だいたいにおい
て、人生に、正しい答など、ない。絶対に、ない。

 で、予想どおりというか、N子さんの表情は、ますます暗くなっていった。私も、その一見以
来、神経質になってしまった。で、そのあと、N子さんが、どうなったか? 改めてここに書くまで
もないことだと思う。


●子どもの書く、文字

 ある学校の校長が、私にこう言った。「(漢字の)書き順は、最初から、しっかりと教える必要
があります。一度、へんなクセが身につくと、なおすことができないからです」と。

 いろいろな意見があるだろう。こういう意見に対して、「そうだ」と言う人も多いはず。しかし本
当のところ、何が大切で、そうでないかを、もう一度、私たちは原点から問いなおしてみる必要
がある。

 文字がなぜあるかといえば、それは自分の思想を、相手に伝えるためである。文字をどう書
くかは、つぎのつぎの目的。あるいは目的にもならないかもしれない。現に今、私は、文字を書
いていない。キーボードをたたくことで、瞬時に文字を画面に呼び出している。

 書き方のことを言うなら、これほど、まちがった書き方はない。たとえば「口」の字を、3画どこ
ろか、瞬時に、四角を書いているようなもの。ハネ、ハライ、トメにいたっては、なぜそんなもの
が今どきあるのか、私には、どうしても理解できない。

 おかしなことばかりにこだわっているから、子どもは、考えることしのものから、逃げてしまう。
作文にしても、「作文が好き」と答える子どもは、学年を経るごとにどんどんと減る。中学生にも
なると、大半の子どもが、「作文は嫌い」という。「大嫌い」と答える子どもも、何割もいる。

 もともとこの社会は、いいかげんなもの。いいかげんであることが悪いのではない。子ども
は、そして人は、そのいいかげんな部分で、羽をのばす。無数のドラマも、そこから生まれる。

 そういう社会を背中に背負いながら、子どもたちのだけ、ギスギスの(正確さ)を、押しつけて
も、意味はない。もともと思想には、流儀はない。文章には、流儀はない。だから文字にも、流
儀はない。

(注)長男のときはともかくも、私は、二男、三男には、いっさい、書き順を教えなかった。だか
ら三男は、中学生のときも、たとえば、「口」という字も、クルクルと四角を書いていた。私はい
つも、「書きたいように書けばいい」と教えてきた。

 ただ他人の子どもについては、そうばかりは言っておれないので、一応、正確に書くように指
導している。あああ……。こうした矛盾は、どうやって克服すればいいのか!


●二男のWebsite(ホームページ)

 二男が、自分のホームページを、全面的につくりなおした。二男は、こうしたホームページを、
C言語をつかって、自ら作る。(私は、ホームページ用に開発されたソフトを使って、つくる。)

 しかも二男は、自分でプロバイダー(サーバー)を、運営している。仲間のために、無料で、運
絵しているという。

 興味のある人は、二男のサイトを訪問してみてほしい。

 で、そのサイトに書いてある英文を読んで、いくつか、「?」と思ったたことがある。

 まずトップページに、「Picture this」とある。

 「写真はここで」という意味らしい。私の習った英語では、「Pictute Here」というのが、正し
いということになる。

 また「Say hello to・・・」というのも、おかしい。これでは、「私のホームページにようこそ」と
いう意味よりは、だれか、ほかの人によろしくという意味になってしまう。

 さらに、「最近掲載した写真」という意味で、「Last changed」とある。正しくは、「Recently 
changed」ではないのか?

 で、さっそく、メールを送る。「私の知っている文法では、これらの英文は、おかしいと思うが、
これでいいのか?」と。すると、すぐ、デニーズから返事が届く。一応、州立大学で、アメリカ文
学の学位を取っている。首席で、卒業している。

 いわく、

All of the English grammar issues you mentioned are technically incorrect as far as 
standard rules are concerned. However, they are normal phrases in modern American 
slang. "Picture this" is what you say to someone when you want them to visualize a 
concept--we decided to use the play on words for our photo album. "Say hello to" is a 
slang way of introducing people. They say this on television game shows a lot when 
introducing guest contestants. "Last changed" is the way most people here say that 
something is most recently changed. We apologize for all of the confusion.

 現代英語文法でみるかぎり、あなたが指摘したことは、正しくありません。「Picture this」と
いうのは、「ここを見てください」という意味で、広く使われています。「Say hello」というのは、
人々を紹介するために使う、スラングです。テレビ番組などでも、広く使われています。また「L
ast changed」も、「最近かえた写真」という意味で、広く使われています(要約)。

 英語の達人にたてついた、私が愚かだった。私は、英文も、二男が考えたものと思ってい
た。二男の英語は、あまり信用していない。

 しかし、言葉はまさに生き物。英語も、どんどんと変化しているようだ。と、同時に、懸命に二
男をかばうデニーズが、いじらしい。「いい夫婦でよかった」と、別の心で、そう思った。

 どうか、二男のサイトを訪問してやってください。誠司(孫)も、先日、満2歳になりました。


●雑談

 子どものころ、「♪かきに、赤い花、咲く……」という歌を歌った。その「かき」というのは、「柿」
のことだと思った。しかし柿の花は白い。そこである日、「あの歌の歌詞はまちがっている」と思
ったことがある。が、「かき」というのは、「垣根」の「垣」のことだった。

 同じように、「♪おわれて見たのは、いつの日か……」という歌も歌った。私は子どもながら
に、「どうして追われたのだろう」と思った。ちょうど毎日のように、どこかの畑に、大根泥棒に
入って遊んでいたころだった。私たちもよく農家の人に、追われた。それでその歌に、自分の
体験が重なった。

 本当は、「負われて」という意味だった。「おんぶされて見た」という意味。それを知ったのは、
ずっとあとになってからのことだった。

 さらにこんなことも。「♪……こえ、かけた。こえ、かけた」という歌も歌った。そのときも、「お
日様が、どうして、肥(こ)えをかけたのか?」と、不思議に思った。当時は、し尿有機肥料のこ
とを、「肥え」と言った。

 本当は、「声」という意味だった。

 ……というような話を、今日、ドライブをしているとき、車の中でした。それを聞いてワイフは、
「あんたは、単純な人だったのね」と。「お前は、そういうことはなかったのか?」と聞くと、「私
は、なかったわ」と。

 ワイフは、かなり想像力が弱い子どもだったらしい。

 そう、こんなことも、よく覚えている。小学2年生のときのこと。音楽の時間に、私たちは、ハー
モニカを練習した。そしてやっとのことで、「秋の虫」をひけるようになった。が、二番のひきかた
がわからない。そこで先生のところへ行って、「二番は、どうやってひくのですか?」と聞いた。

 すると先生は、笑いながら、「二番も、一番と同じだよ」と教えてくれた。

 そのとき受けた感動は、今も忘れない。どういうわけか、私は感動したが、今から思うと、どう
してああまで感動したのか、よくわからない……。

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司


最前線の子育て論byはやし浩司(302)

●UFO(未確認飛行物体)

☆UFOだ!

 最初、声をあげたとき、自分でも半信半疑だった。しかし私は、こう叫んだ。「UFOだ!」と。

 それは上角、40〜35度のところにあった。長い、直線的な、青白い尾を引いていた。その
言葉に驚いて、ワイフが、車を路肩にとめた。私は、車の外に飛び出した。

 「UFOだ。UFOだ!」と。

 そう言いながらも、私は、まだ自分の目を疑っていた。色は、あとで何度も確認したが、コバ
ルトブルー、緑がかった、青白。美しい色だった。あやしげな色だった。信号の緑によく似てい
たが、それ以上に、美しかった。

 気がつくと、ワイフが横に立っていた。「飛行機雲じゃないの?」と。

 何でも一度は否定してみせるのが、ワイフのくせ。「こんな時刻に、飛行機雲が見えるはずが
ないだろ」と。時刻は、時計を見たわけではなかったが、夜の9時を過ぎているはず。飛行機雲
とちがって、そのもの自体が、光っていた。

 不思議な興奮を覚えた。「見ておくんだ」「しっかりと見ておくんだ」と、私は、何度も自分に言
ってきかせた。ワイフにも、そう言った。「よく見ておこう」と。

 ちょうど台風16号が、日本に近づきつつあるときだった。まだらな雲が、幾重にも重なって、
空をおおっていた。が、まったくの曇天でもなかった。一つだけだが、明るい星が、雲の切れ目
に見えていた。その光の線は、その星のななめ左下から、下の方にのびていた。

私「隕石だろうか?」
ワイフ「どうして青白いの?」
私「高熱を発しているからだろ……」
ワ「大気圏内? それとも大気圏の外?」
私「きれいな直線だから、大気圏の外だろ」と。

 私は、即座に、いろいろなことを考えた。そして横にいる、ワイフにこう言った。

「もし大気圏の中なら、光り方がちがうと思う。それに飛行機雲のように、風の影響を受けるは
ず。その影響を受けていない。きれいな直線だ」と。

ワイフ「隕石でも大気圏の中に入れば、燃えるよね」
私「そうだよ。燃え方がちがう」と。

 静かな時間が流れた。5分……、10分……と。私とワイフは、道路のすみに立って、その不
思議な光に見とれた。が、ときどき、その光は、厚い雲に隠れた。

私「まだ見える……」
ワイフ「まだ、見えるわ……」
私「まだ見える……」
ワ「まだ見えるわ……」と。

☆二人の高校生

 ちょうどそのとき、二人乗りの自転車が横を通り過ぎようとしていた。見ると、男子高校生たち
だった。私は、声をかけた。

私「君たち、あそこに光がみえるだろ」
高校生たち「うん、見える、見える」
私「よく見ておくんだよ。ぼくは人生を50年以上生きてきたけど、あんな不思議な光を見るの
は、はじめてだ」
高「不思議だ」「何だろう」「不思議だ」「何だろう」と。

 光はまだそこにあった。一度は雲の向こうに隠れたが、その下から、また光をのぞかせた。
色は変わらなかった。それにきれいな、まるで定規で描いたような、きれいな直線をしていた。

 そのとき、ほんの瞬間だが、下方の先端に、やや丸みをおびた光のかたまりが見えた。それ
がその光の先頭部分だったか、どうかはわからない。しかしそういうふうに見えた。目ざとくワイ
フも、それを見つけて、「あれが頭じゃない?」と言った。私は、だまって、うなずいた。

 私は自分の心の中をさぐった。不思議なものを見たとき、人間の心はどう反応するのか。自
分の理性や知性で処理できないものを見たとき、人間の心はどう反応するのか。私は、そんな
ことまで考えていた。

 「よく見ておくんだ」と、私は何度も自分に言って聞かせた。が、それは決して心地よいもので
はなかった。心のどこかで不安を感じた。「もし隕石だったら、たいへんなことになる」「地上に
落下したら、大爆発を起こすかもしれない」と。

私「隕石だったら、たいへんなことになる」
ワイフ「そんな情報は、どこからも聞いてないわ」
私「そうだよな。もし隕石なら、だれかがそれを前もって言うはずだ」
ワ「宇宙船じゃないの?」
私「ありえる。たとえばスペースシャトルが、爆発しながら飛行しているとかね」と。

 念のために繰りかえすなら、その光は、絶対に飛行機雲のようなものではなかった。ワイフに
時刻を聞くと、すでにそのとき、夜の9時30分を過ぎていた。私たちは、その20分も前から、
その光を目で追っていた。それにこの浜松の上空は、民間飛行機の航路の中継点になってい
る。ひっきりなしに飛行機が飛び交っている。

 その飛行機雲と、見まちがえるはずがない。私はワイフに、またこう言った。「よく見ておこう。
二度と見られないかもしれないよ」と。

 私とワイフは、ぼんやりとその光に見とれていた。

ワイフ「きれいな色ね」
私「ホント。きれいだね。コバルト色だ」
ワ「昔、UFOを見たけど、あのときは、何がなんだかわからないまま終わってしまったわ」
私「そうだ。だから今度は、しっかりと見ておこう」と。

☆バンも止まった

 すると、今度は、一台の大型のバンが横に止まった。数人の若い男女が車からおりてきた。
そして横から、「あれは、何ですかねえ」と、親しげな言い方で、話しかけてきた。

私「まさに未確認飛行物体ですね。あそこを何かが飛んでいるのは確かです」
男「さっきより、低くなりましたね」
私「あなたがたも、ずっと見ていたのですか」
男「いや、さっき、ここを通り過ぎたんです。そのとき、あなたたちが空を見ていたので、私たち
もそちらを見たのです」
私「それで、もどってきたのですか?」
男「ええ、それでここへ、もどってきました」と。

 そのバンの男女は、一度私たちの車の横を通りすぎた。そして私たちが見ている方向に、青
い光を見た。それでまたどこへもどってきたという。

私「ぼくも、あんな光を見るのははじめてです」
男「何でしょうね?」
私「わかりません。でも、さっき、写真をとっておきました」
男「うつりましかね?」
私「多分、だめでしょう。デシタルカメラですから」と。

 言い忘れたが、私はたまたまもっていたデジタルカメラで、3枚、写真をとった。フラッシュが
自動的についたが、とてもそんなフラッシュでとれるような光ではなかった。

 光は、最初に見たときと比べると、かなり低くなっていた。薄い雲があったが、その雲を通り
抜けるほど、強烈な、しかしあやしげで静かな光を放っていた。

私「かなり明るいですね」
男「明るいなあ」
私「雲がなかったら、まぶしいほどかもしれない」
男「そうだなあ」と。

 光は、直線的だった。先にも書いたが、定規で空に線を引いたような感じだった。ところどこ
ろ、線が途切れているように見えるのは、雲のせいだろう。雲が薄くなったようなところから、断
続的に直線的な光が、見え隠れしていた。

 どこか不安だった。得体の知れないものを見たときに感ずる、不安だった。ふと「K国のミサ
イルかもしれない」と思った。「核兵器を積んだロケットだったら、どうしよう」とも。

 何かよいものというよりは、何か不吉なもの。そんな感じがした。だいたいにおいて、よいもの
のはずがない。それに30年前に、ワイフと二人で見たUFOとは、まったく異質のものだった。
私たちが、今見ているものは、ただの光。物体的な固体性を まるで感じさせない、ただの光。
そんな感じだった。目に見える動きも、なかった。

 私は何度も、「飛行機雲ではない」と、自分に言って聞かせていた。同時に、集中力が消えそ
うになる自分を必死でこらえながら、その光を見つづけた。「もう、じゅうぶん見た」「見あきた」
と言いそうになる自分が、こわかった。

☆やがて、見えなくなった

 が、光の線は、どんどん低くなり、同時に、厚い雲の向こうで、弱くなった。

私「まだ、見える」
ワイフ「どこ?」
私「ほら、あの電線と電線の間だ」と。

 私たちは、少し車を移動した。一度は、わき道に入り、その光を正面にとらえながら、前に進
んだ。光は、雲の様子で、数分間隔で、強くなったり、弱くなったりした。その光自体は、安定し
ていた。

私「だれも、道路で見てないなんて、おかしいね」
ワイフ「ホント。どうして外に出て見ないのかしら」
私「気がつかないのかもね」
ワ「あんなはっきりした光よ。気がつかないなんて、おかしいわよ」と。

 車は引佐町(いなさちょう)の町へと入りつつあった。しかし通りは、ウソのように静かだった。
だれも、外に出て、光を見ている人はいなかった。私には、むしろそちらのほうが、ありえない
ことのように思われた。

私「みんなに、知らせようか」
ワ「だれも、気にしないのかしら」
私「おかしな感じがする」
ワ「そうね」と。

 それからもう一度だけ、雲の間に、光がかすかに見えた。それを見ながら、「あんな雲をつっ
きって光っている。きっと、ものすごい光だよ」と。

 やがて車は、山々に囲まれた谷間の県道へと入った。「ひょっとしたら……?」という淡い期
待をもって、そちらの方角を見たが、目の前には、高い山があって、視界をさえぎった。

ワイフ「晴れていたら、もっとしっかり見えたのにね」
私「この雲じゃあ、ねエ〜」と。

山荘へ着くと、私はすぐ、パソコンに電源を入れた。入れてすぐ、この原稿を書き始めた。記録
として、つまり記憶が新鮮なうちに書き留めておくためである。

(目撃時刻)2004年8月28日、午後9時10分ごろから、10時ごろまで。

(方角)浜松市の北、都田町から、まっすぐ西の方角。

(形状)均一的な直線。両先端が、細く、鋭かった。飛行機雲のような、ボソボソしたような感じ
ではなく、ノートに一気に描いた直線のような感じがした。遠ざかっていったので、全体としては
小さくなっていったようだが、それ自体の大きさは、変わらなかったと思う。

(大きさ)距離にもよるが、空の上としても、つまり飛行機が飛ぶ高さとしても、長さは、数キロ
から10キロ前後。が、もし大気圏の外とするなら、とてつもなく長いということになる。数百キロ
とか、もっと……!

(色)美しく澄んだコバルトブルー。信号の緑によく似ていた。はっきりとそれ自体が光っている
ような、強い光を放っていた。ただ宇宙の外だったら、白い光は、大気圏の空気を通り抜ける
から、コバルト色(ちょうど空の色)に見えることになる。それ自体が、コバルト色の色を発光し
ていたとは、断言できない。

(動き)かなり高い位置から、30分後には、かなり低い位置に移動していた。直線全体が、そ
のまま移動していったというような感じ。ワイフは、「細長い蛍光灯のような感じがした」と、あと
で言った。線状の細長いUFOと、だれかが言っても否定できないような形をしていた。近くの明
るい星からは、遠ざかっていったので、それ自体の動きはあったと考える。

(否定的見解)夜の9時〜10時に、西の空に見えたということから、かなり高い上空にあった、
何かの帯状のものが、太陽光線に反射していたとも考えられる。が、国際線の飛行機が飛
ぶ、高度1万メートルとか、そんな高さではない。その時刻に、太陽光線を反射する高さとなる
と、数万メートルは必要である。現にいつもなら、その時刻になると、いつもなら、飛行機がライ
トを点滅させながら、飛んでいるのがわかる。

 以上、横にすわっているワイフに誓って、ここに書いたことがすべて真実であることを、改め
て確認する。

 長く生きていると、ときどき不思議な体験をする。今夜見た、UFOは、私の人生の中でも特
筆すべきものになった。

【補足】

 映画『未知との遭遇』の中で、その地域の人たちが一か所に集まって、UFOが飛んでくるの
を待っているシーンがある。みな、どこか放心状態だった。

 私たちも、それに似た状況に置かれたわけだが、しかしはっきりとUFOと自覚していたわけ
ではない。「UFOかもしれない」という、あやふやな状態で、それを見ていた。だから放心状態
にはならなかった。

 今でもよく覚えているのは、自分のもてる知力と情報を、総動員していたこと。それは将棋か
何かをしていて、あらゆる方向から、つぎの一手を考えているときの様子に似ている。つぎつぎ
と新しい可能性を考え、「これはどうだ」「これはどうだ」と、それを確認していくという作業であ
る。

 しかし数学の問題を解くのとちがって、答があるのかどうかさえわからない。あのとき大きな
不安感を覚えたのは、そのためかもれない。どこからどうつついても、「わからない」というカベ
にぶつかってしまう。そういうはがゆさも、覚えた。

 その距離についても、ワイフは、あとになって、「飛行機が飛ぶくらいの高さの、空の上」と言
うが、私は、大気圏の外だったような気がする。あるいはもっと遠くだったかもしれない。その
距離すら、わからない。

 二人の結論としては、線のように細長いUFOではなかったかということ。何かの光跡だったと
するなら、宇宙をゆっくりと飛ぶ隕石ということになる。となると、あのコバルトブルーの色は、
何だったのかということになる。

 とにかく不思議な光だった。考えれば考えるほど、堂々巡りになってしまう。そんな光だった。
(040829)

【近い将来のこと】

 近い将来、宇宙に住む知的生命体が、この地球へ姿を現すことになる。それはもう時間の問
題と考えてよい。「そんなものは、いない」と言う人もいるが、私とワイフは、巨大なUFOを、実
際に、目撃している。

 このことについては、以前、何度も書いた。地元の中日新聞にも発表させてもらったこともあ
る。もしあの夜見たものが、目の錯覚だとか、飛行機だとか言う人がいたら、それは絶対にち
がう。

 いるかいないかということになれば、この宇宙には、人間の知的能力をはるかに超えた、知
的生命体が、いる。あの夜見た、UFOが、その証拠である。

 では、いつ、どのような形で、それは現れるのか?

 私は、地球自体が破滅するのがはっきりわかる、その直前だと思う。破滅するとわかった段
階では、手遅れだし、しかしまだ破滅しないかもしれないという段階では、早すぎる。そのギリ
ギリのところで、現れる。

 言いかえると、まだ知的生命体が姿を現さないでいるということは、人間には、いちるの望み
があるということになる。しかし姿を現したとなると、すでに人間というより、地球そのものが、破
滅の段階に入ったことを意味する。

 このことは、反対の立場で考えてみれば、わかる。

 あなたが、もし、宇宙に住む知的生命体だったら、どのようなときに、どのような行動をとるだ
ろうか。それを考えてみれば、わかる。破滅するかどうかわからない段階で、姿を現せば、地
球は、大混乱する。

 しかし破滅するとわかれば、隠れている必要は、もうない。

 ただ人間が、そのあとも生き残る価値があるかどうかということになると、同じ人間として、私
には自信がない。人間は、あまりにも貪欲で、攻撃的である。こんな人間が、宇宙へ飛び出し
たら、それこそたいへん。宇宙は、めちゃめちゃになってしまう。

 小さな隕石を取りあって、「これは竹星だ。おれたちの星だ」「いや、これはチェジュ星だ。お
れたちの星だ」と、言いあって、戦争を始めるかもしれない。もしあなたが、宇宙に住む、知的
生命体なら、どうするだろうか。そういう人間を、自分たちの世界に、暖かく迎え入れるだろう
か。

 私が宇宙に住む知的生命体なら、人間など、絶対に、自分たちの世界には迎え入れない。
それはたとえて言うなら、日光の山奥に住むサルたちを、都会の一角に住まわせるようなもの
である。

 が、それでも、宇宙に住みたいというのなら、私たち自身が、それにふさわしい知的生命体に
なるしかない。宇宙に住む知的生命体から見ても、「これなら、だいじょうぶ」と思われるような
生命体にならなければならない。

 私の印象では、宇宙に住む知的生命体は、そういう人間の動きを静かに監察している最中
ではないかと思っている。「やはり人間は、だめだな」という意見が大勢をしめる中、「まだ希望
があるから、もう少し待ってやろう」という意見もある。そういう状態ではないかと思っている。

 では、どうすれば、私たち人間も、その宇宙の知的生命体の仲間に入ることができるか。

 方法は、簡単。

 考える。ただひたすら考える。人間は考えるから人間である。だから考える。その先に何があ
るか、だれにもわからない。しかし考える。人間がサルとちがうところは、人間のほうが、多少
なりとも、より考える力があるから。同じように、宇宙の知的生命体と対抗するためには、私た
ち人間は、ただひたすら考えるしかない。

 時間は、それほど、残されていないのではないか。100年とか、200年とか、そんなに長くあ
るわけではない。私たちは急がねばならない。急いで、考える人間に変身しなければならな
い。

 ……とまあ、とんでもない文章を書いてしまった。「思いこみ」も、ここまで強いと、妄想と言っ
てもよい。

 しかし今夜、見た、あの光のことを思い浮かべると、どうしても、ここまで考えてしまう。それに
しても不思議な光だった。

 そうそう、デジタルカメラで写真をとるとき、カバーをどこかへ落としてしまった。それだけ気が
動転していたからではないか。余計なことだが……。

【さらに補記】

 そのUFOを目撃してから、もう数日になる。今日は、9月1日。

 で、冷静になってみると、こういうふうにも考えられる。

 あの光跡は、大気圏外を、何かの煙を出して飛んでいた、飛行物体ではないかということ。そ
れが太陽光線をあびて、光っていた。そしてそれが空の青さを通り抜けたため、地上からは、
コバルトブルーに見えたのではないかということ。

 飛行物体というのは、たとえばロケットのようなもの。あるいはたまたまアメリカのNASAで
は、マッハ7で飛ぶ飛行機の実験をしていたという。中国のロケットだったかもしれない。

 いろいろほかにも、考えられる。


+++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩
司 

最前線の子育て論byはやし浩司(303)

●心の訓練

 「相手の心の中に入って、相手の立場でものを考える」というのは、とても大切なことである。
このことについては、もう何度も書いた。

 そこで私は、こうした訓練を、教育の場でできないものかと考えている。言うまでもなく、こうし
た訓練は、できるだけ早い時期にするとよい。子どもが、まだ、小学2年生とか、3年生のうち
に、である。もっと早い時期でもよい。

 そのころに、こうした「芽」を作っておく。あるいは方向性を作っておく。

 方法は、たがいに対峙して座らせ、たがいの心の中を言いあうといった程度のことでよい。一
度、相手の立場に自分を置いて、ものを考えるという訓練をする。

 もちろんこうした訓練は、家庭の中でもできる。が、その前に、あなた自身が、それを自分で
してみるとよい。ものの見方、考え方が、一変するはずである。つまり、あなた自身が、他人の
心の中に自分を置くことの(すばらしさ)を、まず実感する。

 たとえばあなたが、夫(妻)と並んで食事をしていたとする。そのとき、あなたは、頭の中で、
夫が、何をどう見ているかを想像するだけでよい。何をどう考え、どう思っているかを想像する
だけでよい。

 最初は、小さなとまどいがあるかもしれないが、それを過ぎると、いつでも、どこでも、それが
できるようになる。そして相手の悲しみや苦しみはもちろんのこと、ときには、怒りや不満まで、
わかるようになる。

 すると、それまでは、「なぜ?」「どうして?」と思っていた、相手の心が、そのまま理解できる
ようになる。たとえば今、あなたがあなたの夫(妻)のことで、どうしても理解できない部分があ
ったとする。あるいは、何度言っても、理解してもらえない部分があったとする。

 そういうとき、まず、相手の心の中に、自分を置いてみる。そしてそこから反対に、あなた自
身の姿をとらえてみる。すると、それまでわからなかったことが、わかるようになる。

 この技法は、子どもを指導するときも、たいへん効果的である。

 たとえばある子どもが、忘れ物をしたとする。もう何度も注意した。が、それでもまた忘れ物を
したとする。

 そういうとき、指導する側にいる私としては、頭から、それを叱ったりしやすい。「忘れ物をして
はだめだ!」と。が、そのとき、子どもの心の中に、自分を置いてみる。すると、ものの考え方
が、一変する。子どもへの接し方も、一変する。

 子ども自身は、叱られることを、恐れている。忘れ物をしたのは、意図的な行為というより
は、うっかりしたためである。その上、このところ、何かと忙しい。暑い。風邪気味だ。……とい
うようなことが、わかる。

 そういう視点に一度、自分を置いてみると、もう子どもを叱れなくなる。叱れなくなるかわり
に、こんな言い方が、口から出てくる。

 「いろいろ、忙しかったんだね」「このところ暑いからね」「別に叱らないから、先生を、こわが
らなくてもいいよ」「先生だって、よく忘れ物をするんだよ」と。

 ためしに、この方法を、あなたの夫(妻)にためしてみてほしい。いつも同じようなパターンで
口論が始まり、夫婦げんかになるというのであれば、なおさらである。

【補記】

 昔の人は、こうして相手の心の中に自分を置き、その相手の立場でものを考えることを、「思
いやり」と呼んだ。

 すばらしい言葉である。英語になおすと、「同情(sympathy)」から、さらに「慈悲(mercy)」。
さらに「愛(love)」という言葉になる。

 相手を広く、深く、思いやることができる人を、人格の完成度の高い人という。そうでない人
を、完成度の低い人という。

 皮肉なことに、人格の完成度の高い人からは低い人が、よくわかる。しかし低い人からは、
高い人がわからない。

(だからといって、私がその人格の高い人ということではない。誤解のないように。それに、人
格の完成度には、際限がない。あくまでも相対的なものである。)

このばあいも、思いやりのある人からは、思いやりのない人が、よくわかる。しかし思いやりの
ない人からは、思いやりのある人がわからない。ただのお人好しか、バカに見える。

 子どもの世界でも、似たようなことはよくある。

 ずいぶんと前だが、私にこんなことを言った、男子高校生がいた。

 「先生、学校祭の準備委員をするようなヤツはアホだよ。受験勉強ができなくなる」と。

 こういうものの考え方をする高校生ほど、この世界では、成功者(?)になる可能性が高い。
しかし、同時に、こういう高校生ほど、やがて孤独に苦しむようになる。

 孤独がいかに恐ろしいものかは、若い人にはまだわからないかもしれない。しかし孤独は、
まさに地獄。無間の地獄。この孤独に耐えられる人は、いない。絶対に、いない。あのイエス・
キリストも、孤独(飢え)に苦しんだ。マザーテレサが、そう言っている。

 今までに、何度もとりあげた文章だが、もう一度、ここでマザーテレサの言葉を、確認してお
きたい。

+++++++++++++
When Christ said: "I was hungry and you fed me," he didn't mean only the hunger for bread 
and for food; he also meant the hunger to be loved. Jesus himself experienced this 
loneliness. He came amongst his own and his own received him not, and it hurt him then and 
it has kept on hurting him. The same hunger, the same loneliness, the same having no one to 
be accepted by and to be loved and wanted by. Every human being in that case resembles 
Christ in his loneliness; and that is the hardest part, that's real hunger. 

キリストが言った。「私は空腹だった。あなたが食事を与えてくれた」と。彼はただ食物としての
パンを求める空腹を意味したのではなかった。彼は、愛されることの空腹を意味した。キリスト
自身も、孤独を経験している。つまりだれにも受け入れられず、だれにも愛されず、だれにも求
められないという、孤独を、である。彼自身も、孤独になった。そしてそのことが彼をキズつけ、
それからもキズつけつづけた。どんな人も孤独という点では、キリストに似ている。孤独は、もっ
ともきびしい、つまりは、真の空腹ということになる。

 「先生、学校祭の準備委員をするようなヤツはアホだよ」と言った高校生だが、では、それだ
け勉強していたかというと、そうでもない。ヒマな時間がたっぷりとある子どもほど、勉強をしな
い。これは、子どもの世界では、常識。

 それはさておき、ここでいう人格の完成度と、その人の学歴とは、まったく関係がない。ビジ
ネスの世界で成功した人が、それだけ人格の完成度が高いかというと、それもない。むしろ、
実際には、はげしい受験勉強や、ビジネスの世界を渡り歩いた人ほど、人格の完成度は、低
い(?)。

 「他人を蹴落としてでも……」という冷徹な人生観が、その人の思いやりの心を閉ざしてしまう
からである。またそういう冷徹な人生観がないと、こういった狂騒主義の社会では、成功(?)で
きない。そう決めてかかることはできないが、そういう部分も多い。子どもの受験競争を例にあ
げるまでもない。

 戦後の日本の教育がおかした、最大のミスは、ここにある。……というのは、少し大げさに聞
こえるかもしれないが、それほど、まちがっていないと思う。つまり、勉強のできる子どもイコー
ル、頭がよい子イコール、人格的にもすぐれた子どもと誤解した。
 
 その誤解の上に、戦後の日本の教育が成りたっている? ……私は、どうしても、そんな感じ
がしてならない。

 もちろん親や子ども、そして教師に責任があるわけではない。みんな一生懸命してきただけ。
しかし、どこかで歯車が狂った。その結果が、「今」ということになる。

 本来、教育というのは、「思いやり」を教えることに主眼を置かねばならない。それがいつの
間には、知識教育に置きかわり、さらに、受験教育に置きかわってしまった。戦後の日本の経
済的発展は、そういう教育の上に乗っているが、しかしその弊害も無視できない。

 日本に住んでいる以上、日本の競争社会は避けて通れない。が、どこかで、ここでいう人格
の完成を、考えることは、大切なことだと思う

【物質的な繁栄】

 物質的な繁栄が、そのまま心の豊かさにつながるとは、かぎらない。いわんや人格の完成に
つながるとは、かぎらない。

 昨日も、ワイフとドライブをしていたら、見るからに高級な外車(イギリスのJ車)が、私たちの
車の前を、横切っていった。めちゃめちゃな運転だった。見ると、まだ20代の前半と思われ
る、若い男だった。

 「どうして、あんな若い男が、あんないい車に乗れるのかねえ?」と私が声をかけると、ワイフ
も、「へえ……」と言ったきり、黙ってしまった。「きっと、親のスネをかじっているんだよ」と私が
言うと、「そうよねえ。いくら何でも、あんな車、買えるわけがないもんねえ」と。

 見るからに軽薄そうな若者と、見るからにチグハグな高級車。この組みあわせが、どこか日
本の社会全体を象徴しているかのようにも、思える。たしかに日本は、物質的には豊かになっ
たが、中身がついてきていない。そんな感じがする。

 もっとも、中身を豊かにするのは、これからのこと。今が、ダメだからといって、それが結論と
いうわけではない。20代そこそこの若者が、高級車に乗ってはいけないと言っているのでもな
い。ただ、物質的な繁栄のまま、終わらせてはいけないということ。

 そういう若者が、そういう高級車に乗り、どこかの景色のよいところに車を止め、音楽を聞い
たり、本を読んだりするようになれば、すばらしい。そういう若者が、人生を語り、善と悪につい
て論ずるようになれば、すばらしい。もしそうなれば、つまりそういう若者が、そういうことをする
ようになれば、この日本も、さらにすばらしい国になる。

 その部分に、期待したい。


●台風16号

 ただ今(8・30・朝10時)、台風16号が、九州を直撃中。ワイフの話だと、家の土台だけ残し
て吹き飛ばされた家もあるという。(私は、朝のニュースを見ていない。)

 大型の台風だ。

 私は、この台風が日本に近づきつつあると知ったとき、その台風が、K国に向うことを願っ
た。「K国へ行けばいい」と。

このところK国は、ますますわけのわからないことばかり、言い出している。自分たちは好き勝
手なことを、言い放題言っておきながら、相手の言ったことについては、針小棒大にとらえて、
大騒ぎをする。

 被害妄想性と過剰行動性。今のK国を、一言で批評すると、そういうことになる。

 が、こんなことを表立って言ったら、たいへんなことになる。(すでに表立って言っているが…
…。)しかし台風などというものは、私たちが願ったところで、そちらへ行くものではない。願わ
なくても、こちらへくることもある。

 まさにお天気!

 が、やはり私の言っていることは、おかしい。仮に台風が、K国へ行くとしても、困るのは、弱
い立場にいる一般民衆。大理石の立派な家に住んでいる人には、台風は、関係ない。

 そのK国だが、国連環境計画(UNEP)の報告によれば、農地の劣化、森林の破壊などのよ
り、食糧不足がますます深刻化しているという。干ばつ、洪水は、年中行事。首都のP市を流
れるD江にしても、汚水や工場廃水などはたれ流しで、かなり汚染されているという。さらに都
市部では、石炭を燃料にしているため、環境汚染も深刻化しているという(8・27)。

 まさにいいことなしの、K国!

 で、いよいよK国は、日本に向って、言い出した。「過去を清算しろ!」(8・29)と。

 一方で、今度の9月9日には、K国は、核保有宣言をするかもしれないという。(核実験をして
みせるという情報も流れている。)つまりは、核でおどして、日本から、金をとる。そういう段取り
のようである。

 そういう流れの中にあるから、私は、冒頭に書いたように願った。へたな経済制裁より、台風
一つがもたらす経済的損失のほうが、はるかに大きい。日本のばあい、台風に対して、まだ抵
抗力があるが、K国は、そうではない。「降れば洪水、降らなければ干ばつ」という国である。

 が、やはり、相手の不幸を願うのは、フェアではない。事実、今、九州地方は、大被害を受け
つつある。そしてその台風16号を追いかけるように発生した、台風18号は、日本の本州を直
撃するコースに入った。

 決して、人ごとではない! やはり他人が不幸になることを願ってはいけない。そのシッペが
えしは、結局は、自分のところにもどってくる。

 しかしあえて一言。「台風18号よ、どうかどうか、日本を避けて、ほかへ行ってほしい」と。ど
こへ行けとは言わないが、どこか、ほかへ、行ってほしい。


●論理

 国際オリンピック委員会(IOC)は8月29日、アテネ五輪の陸上男子ハンマー投げで優勝し
た、AA選手(ハンガリー)をドーピング(禁止薬物使用)違反により、失格とし、金メダルを剥奪
(はくだつ)すると発表した。


何とも不愉快な事件である。室伏K(29)という日本の選手が、銀メダルだったということだけ
ではない。何とも往生ぎわが悪いというか、すっきりしないというか……。

 しかし最初から、AA選手の言動は、おかしかった。もし潔白なら、こうするだろうということに
ついて、AA選手は、ことごとく、その逆の反応をしてみせた。ああでもない、こうでもないと理由
にもならない理由をつけて、検査をのがれた。そればかりか、AA選手は、「IOCのドーピング
検査は、信用できない」というようなことまで、言いだした(報道)。

 もしドーピングをしていないのなら、何度でも、堂々と、尿検査に応ずればよい。仮にもし、そ
れで陽性が出たとしても、あちこちへ尿サンプルを送って、再検査してもらえばよい。たかが
「尿」である。

 AA選手は、「疑われたこと自体、不愉快だ」というようなことを言っていた(報道)。しかしいく
ら不愉快でも、失格となって、金メダルを剥奪されることとくらべたら、何でもない。むしろ身の
潔白を証明してみせることこそ、AA選手のためになる。

 結局、AA選手の出した尿サンプル(検体)のうち、二本について、それぞれ別人のものらしい
ということまでわかってきた※(30日)。AA選手は、ドーピング検査で、どういうわけか、少なく
とも、1回は、別人のものを提出したらしい。

 (だからといって、うち一本が、AA選手のものとはかぎらない。二本とも、別人のものである
可能性が高い。)

 もしそうなら、AA選手は、なぜそんな小細工をしたかということを説明しなければならない。
仮に陰性という結果が出たとしても、だ。

 私の推察では、こうだ。

 AA選手は、試合の前後に4回、ドーピング検査を受けたという(報道)。が、AA選手は、それ
ら検査すべてで、他人の尿を使った。だから今回、自分の尿をサンプルとして出すことができ
なかった。もし出せば、その4回とも、自分の尿でないことが、バレてしまう。

 これはドーピングしたかどうかという問題より、考えようによっては、深刻な問題である。それ
でAA選手は、聴聞会にすら出席できなかった。……しなかった。

 AA選手は、金メダルを剥奪(はくだつ)された上、オリンピック競技会から追放された。当然
である。
 
※AA選手は規律委員会の聴聞会に出席せず、ハンガリー陸連関係者が出席。IOCは理事会
終了後、アヌシュの検体は、競技前と競技後のものは、別人のものだったと発表した(ヤフー・
ニューズ)。


●お金がたいへん!

 日本では、公的な補助金は、法人に対してはなされるが、個人に対しては、なされない。アメ
リカでも、EUでも、基本的には、助成金(補助金)は、まず、子どもをもつ親に支払われる。

 しかしこの日本では、幼稚園や保育園など、法人に対して、なされる。個人への助成金という
のは、微々たるもの。大阪府の例では、保育園児をもつ親の助成金は、3歳児をもつ家庭の
みで、しかも年額たったの2万3000円。(年額だぞ!)

 こうしたおかしな税金の使われ方に対して、だれも声をあげないのは、なぜか? だれしもそ
の時期は、おかしいと思う。しかしその時期を通りすぎると、忘れてしまう。「私は関係ない」と、
つっぱねてしまう。

 かくして、約40%の若い母親たちが、「子育てにお金がかかる」と不安に思っている(大阪府
私立幼稚園連盟調査・04年)。そして少子化が進む理由として、約90%の人が、「経済的な
負担」をあげている。当然だ。

●少子化? 当然だ! 

少子化? 当然だ! 都会へ今、大学生を一人出すと、毎月の仕送りだけで、月平均11万7
000円(99年東京地区私大教職員組合調べ)。もちろん学費は別。が、それだけではすまな
い。

アパートを借りるだけでも、敷金だの礼金だの、あるいは保証金だので、初回に40〜50万円
はかかる。それに冷蔵庫、洗濯機などなど。パソコンは必需品だし、インターネットも常識。…
となると、携帯電話のほかに電話も必要。入学式のスーツ一式は、これまた常識。世間は子ど
もをもつ親から、一体、いくらふんだくったら気がすむのだ! 

 そんなわけで昔は、「子ども育ち盛り、親、貧乏盛り」と言ったが、今は、「子ども大学生、親、
貧乏盛り」と言う。大学生を二人かかえたら、たいていの家計はパンクする。

 一方、アメリカでもオーストラリアでも、親のスネをかじって大学へ通う子どもなど、さがさなけ
ればならないほど、少ない。たいていは奨学金を得て、大学へ通う。企業も税法上の控除制度
があり、「どうせ税金に取られるなら」と、奨学金をどんどん提供する。

しかも、だ。日本の対GNP比における、国の教育費は、世界と比較してもダントツに少ない。
欧米各国が、7〜9%(スウェーデン9・0、カナダ8・2、アメリカ6・8%)。日本はこの10年間、
毎年4・5%前後で推移している。大学進学率が高いにもかかわらず、対GNP比で少ないとい
うことは、それだけ親の負担が大きいということ。

日本政府は、あのN銀行という一銀行の救済のためだけに、4兆円近い大金を使った。それだ
けのお金があれば、全国200万人の大学生に、一人当たり200円ずつの奨学金を渡せる!

 が、日本人はこういう現実を見せつけられても、誰(だれ)も文句を言わない。教育というのは
そういうものだと、思い込まされている。いや、その前に日本人の「お上」への隷属意識は、世
界に名だたるもの。戦国時代の昔から、そういう意識を徹底的に叩(たた)き込まれている。

いまだに封建時代の圧制暴君たちが、美化され、大河ドラマとして放映されている!日本人の
この後進性は、一体どこからくるのか。親は親で、教育といいながら、その教育を、あくまでも
個人的利益の追求の場と位置づけている。

 世間は世間で、「あなたの子どもが得をするのだから、その負担はあなたがすべきだ」と考え
ている。だから隣人が子どもの学費で四苦八苦していても、誰も同情しない。こういう冷淡さが
積もりに積もって、その負担は結局は、子どもをもつ親のところに集中する。

 日本の教育制度は、欧米に比べて、30年はおくれている。その意識となると、五十年はおく
れている。かつてジョン・レノンが来日したとき、彼はこう言った。「こんなところで、子どもを育て
たくない!」と。

「こんなところ」というのは、この日本のことをいう。彼には彼なりの思いがいろいろあって、そう
言ったのだろう。が、それからほぼ30年。この状態はいまだに変わっていない。もしジョン・レ
ノンが生きていたら、きっとこう叫ぶに違いない。「こんなところで、孫を育てたくない」と。

 私も三人の子どもをもっているが、そのまた子ども、つまりこれから生まれてくるであろう孫の
ことを思うと、気が重くなる。日本の少子化は、あくまでもその結果でしかない。

【もっと、賢くなろう!】

 H元首相が、日本I会から、1億円の闇献金を受けていた。1億円だぞ! が、本人は、「覚え
ていない」と、しらばくれている!

 ……といっても、政治家が悪いのではない。そういう政治家を選ぶ、私たちが悪い。さらに言
えば、私たち日本人は、民主主義がどういうものかさえ、本当のところ、よくわかっていないの
では……?

 こうした政治にストップをかけるのは、結局は、私たち一人ひとりの、知性と理性ということに
なる。少数の人がリーダーになるのではなく、みんなでその底辺をレベルアップしていく。

 そのためにも、もっともっと、みんなで考えよう。考えて、賢くなろう。日本の政治を変えていく
ためには、その方法しかない。日本をよくするためには、その方法しかない。

 武器は、常識。その常識をみんなでみがこう! おかしいものはおかしいと、みんなで声をあ
げよう!

 おかしな政治家による、おかしな政治家のための、おかしな政治家の政府。その結果が、今
の日本の少子化ではないのか。第二東名高速道路に11兆円(11兆円だぞ。国家税収の4分
の1以上だぞ!)もかけるくらいなら、子どもをもつ親を、もっと助成しろ!

 11兆円もあれば、全国、500万人の親たちに、200万円以上もの、助成金が配れる。立派
な公共施設は、もういい。そんなものを作れば作るほど、そのツケは、今の子どもたちに回る
だけ。

 この私ですら、3人の息子の子育てがほとんど終わった今、こう言う。

 「子どもは、1人か2人にしなさい。3人はおよしなさい。生活費や学費がたいへんですよ」と。

今に見る、少子化は、あくまでも、その結果でしかない。
 
++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

最前線の子育て論byはやし浩司(304)

【娘の家出】

******************************

神奈川県に在住の方から、娘の家出についての、相談があった。
子どもは、現在、13歳。

家族構成は、母親(相談者)、父親(亭主関白風の権威主義な
ところがある。)ほかに妹2人、弟1人。

(メールの掲載を許可していただけませんでした。)

******************************

【林先生へ、GSより……】

 夏休みが終わったとたん、娘が家出をしました。
 夏休みの間、門限を破ったりして、父親にはげしく
 叱られたりしたことが、理由ではないかと思います。

 家出をして、数週間になります。
 今は、どこにいるかわかりませんが、携帯電話で
 連絡をとりあっているような状態です。

 毎日が、たいへん苦しいです。
 どうしたらいいでしょうか。

 (神奈川県 Y市、GSより)

*******************

【GSさんへ、はやしより……】

 子どもの巣立ちは、必ずしも、美しいものではありません。親を罵倒し、けんかして、別れて
いく例も、少なくありません。しかしだれしも、そんな結末を望むものではありません。みんなそ
れぞれの夢や希望をもって、子育てを始めます。が、どこかで狂う。狂って、GSさんのようにな
る……。

 遠因を言えば、2歳ちがいの妹が、生まれたときから始まったのかもしれません。どこか権威
主義で、亭主関白な父親にあったのかもしれません。あるいは、どこか過干渉ぎみで、子ども
の心を見失った、GSさん、あなた自身にあったのかもしれません。

 この際、原因はともかくも、現状として、娘さんは、家出をしてしまった。怠学から不登校、お
決まりの夜間外出、そして家出です。

 こういうケースでは、二つの方向から、ものを考えます。

 ひとつは、今の状態を最悪だと思わないこと。(GSさんは、最悪だと思っているかもしれませ
んが、さらに底の下には、底があるということ。)つぎに、こういう状態を、もとに戻そうと思わな
いこと。「今の状態を、これ以上悪くしないことだけ」を考えて、対処するということです。

 13歳ということで、大きな不安や心配を感じておられることが、よくわかります。しかも女の子
です。私の立場では、「どうしてこうまでこじらせてしまったのか」ということになりますが、しか
し、ケースとしては、よくあることで、決して、珍しくありません。

 また症状としては、引きこもり、家庭内暴力、心の病気などとくらべても、非行は、予後もよ
く、一過性の問題として、今の対処の仕方さえまちがえなければ、やがて笑い話になるもので
す。さらに決して、家出などの非行を奨励するわけではありませんが、こうしたサブカルチャ(下
位文化)を経験した子どもほど、あとあと常識豊かな子どもになることも、よく知られています。

 ものごとは、悪いほうへ、悪いほうへとばかり、考えないこと。一つだけ、はっきり言えば、あ
なたはぜんぜん、子どもの立場で、ものを考えていないということ。どこか自己中心的で、押し
つけがましい子育てをしている。だから、子どもの心が読めない。つかめない。もっと言えば、
自分の心配や、不安を、子どもにぶつけているだけ。

 つまりあなたが心配すればするほど、子どもは、それを「うるさい親の干渉」ととらえるわけで
す。一方、あなたはあなたで、「私の子ども」という、「私の……」という幻想と、「子ども」という幻
想にとりつかれている。そして「まだ何とかなる」「こんなはずではない」「うちの子にかぎって…
…」と、悩んでいる。

 何が原因かと言えば、まずもって、あなたは自分の子どもを、信じていない。その理由と原因
はともかくも、今の段階で、それであなたはかまわないかもしれませんが、相手の子どもの立
場で考えてみたことがありますか。

 親にも信じてもらえない子どもの苦しみというか、はがゆさというか……。

 本来なら、家庭で、その怒りや不満を、直接、あなたにぶつけてみたいのかもしれません。し
かしそれをあなたの父親が、力づくで、おさえこんでしまった(?)。下には、妹や弟もいる…
…。

 そこで家出、ということになったわけです。

 一般的な方法としては、(1)まず、学校の先生に、相談する、です。事件性があれば、警察と
いうことになりますが、先生から校長、校長から、各種相談機関へ、話が進むはずです。

 が、この段階で、あなたの子どもは、必ず、一度は、家に帰ってきます。問題は、そのあとで
す。

 あなたの子どもが、家に帰ってきたら、(1)暖かい無視と、(2)ほどよい家庭にこころがけてく
ださい。「求めてきたら、与えどき」と心得ます。説教したり、叱ったり、あれこれ指示するのは、
禁物。とにかく、無視、です。

 学校へは行かないものと、あきらめてください。進学塾は、もちろんのことです。この問題は、
親があきらめたとたん、その解決の糸口が現れるものです。「あなたの好きにしなさい」と宣言
し、親は親で、「今の状態を、今以上に悪くしないことだけ」を考えて対処します。

 こういうケースでは、もうひとつ、深刻な問題が、現れてきます。妹と弟の問題です。

 対処の仕方をまちがえると、妹や弟たちも、同じ経過をたどることになります。理由は、あな
たの子どもにあるからでは、ないからです。あなたの子育てのリズムが、そうなっているからで
す。

 あなたの子どもが帰ってきたら、あなたは、子どもに、こう言います。「あなたも、つらかった
のね」「お母さんもあなたの気持ちがわからず、悪かった」と。あとは、ただひたすら、許して、
忘れる。これだけを繰りかえしてください。

 あなたの子どもが、今の家庭に居場所さえ見つかれば、もう家出をする必要はないはず。そ
の居場所を、つくってあげます。根気のいる作業です。半年とか、1年単位の時間がかかりま
す。すでにあなたの子どもの心は、かなりキズつき、病んでいると思ってください。家庭環境を
改めたから、すぐなおる……という問題では、ありません。

 会話もなくなるでしょう。いたたまれないような緊張感も、漂うようになるでしょう。はりつめた
雰囲気が、家庭を重くふさぐかもしれません。

 が、それでも許して、忘れます。その度量が、いつか、あなたの子どもの心に風穴をあけま
す。そしてここにも書いたように、それがいつか、すぐ、笑い話になります。今のあなたにはわ
からないかもしれませんが、必ず、笑い話になります。それを信じて、前に進んでください。

 今、あなたの子どもは、あなたが苦しんでいる以上に、もがき、苦しんでいます。あなた以上
に、不安で、将来を憂えています。しかしどうしようもないから、それをあえて、別の形で、表現
しているのです。一見、わがままに見えるかもしれませんが、そうするしか方法がないのです。

 が、やがてこの時期は、すぎます。長くて2年。早ければ、明日にでも、です。幸いにも、メー
ルでの交信ができているということですから、その交信手段は、切らないように。説教したり、
命令がましい言い方は、避けるのが鉄則です。

 あくまでも子どもの立場に立った、メールを送ります。どんなに迷っても、腹立たしく思っても、
そこは、がまん。ただひたすら、がまん。今こそ、あなたの忍耐力と、子どもへの愛情が試され
るときと、覚悟してください。お産のときの苦しみを思いだしてください。

 あのときは、肉体をこの世に産み出す苦しみでしたが、今は、心を生み出す苦しみです。あ
なたがそれに耐えたとき、あなたの子どもはもちろん、あなたも、すばらしい人間に変身できま
す。つまり、今度は、あなたの子どもが、あなたを育てているのです。わかりますか? この親
子のもつ、生命の深遠さを!

 最後に。あなたの子どもは、あなたが思っている以上に、おとなです。いろいろ心配な点があ
るかもしれませんが、少なくとも、今日までは、無事です。ですから必ず、明日も、無事です。
今、あなたができることは、子どもがいつもどってきてもよいように、部屋を掃除して、窓をあけ
ていることだけです。

 いつか、あなたの子どもは、今の時期を振りかえるときがきます。そのとき親子をつなぐ絆
は、「母は、私を信じてくれた」「守ってくれた」「許してくれた」という思いです。どうか、長いスパ
ン(時間的尺度)でも、今の問題を考えてください。

 こういう月並みな言い方で失礼かもしれませんが、こういうケースは、珍しくありません。ある
意味で、どこにでもあるケースです。一部の悪い事件ばかりが目立ちますが、それは例外で
す。

 あなたの子どもは、子どもというよりひとりの人間として、結構、しっかりと生活していますよ。
それがわからなければ、あなた自身の13歳のときを、思い出してみてください。

 そうそうたまたま数日前ですが、N市に住んでいる中学校の先生の妻から、こんなメールが
入っていました。

 「夫は、今夜も、午前1時に帰ってきました。家出した生徒を、さがすために、N市の繁華街
中を歩き回ったためです」と。そのときは先生の立場だけで、その先生に同情しましたが、今
は、反対の立場に立たされ、複雑な心境です。

 とにかく、一度、担任の先生に相談なさることです。

 では、あまりよいアドバイスになっていないかもしれませんが、参考意見の一つとして、ご利
用ください。

                           はやし浩司
(はやし浩司 家出 子どもの家出)
+++++++++++++++++++++

参考までに、以前書いた原稿を添付します。

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子どもへの愛を深める法(子どもは下から見ろ!)

親が子どもを許して忘れるとき

●苦労のない子育てはない

 子育てには苦労はつきもの。苦労を恐れてはいけない。その苦労が親を育てる。親が子ども
を育てるのではない。子どもが親を育てる。

よく「育自」という言葉を使って、「子育てとは自分を育てること」と言う人がいる。まちがっては
いないが、しかし子育てはそんな甘いものではない。親は子育てをしながら、それこそ幾多の
山や谷を越え、「子どもを産んだ親」から、「真の親」へと、いやおうなしに育てられる。

たとえばはじめて幼稚園へ子どもを連れてくるような親は、確かに若くてきれいだが、どこかツ
ンツンとしている。どこか軽い(失礼!)。バスの運転手さんや炊事室のおばさんにだと、あいさ
つすらしない。しかしそんな親でも、子どもが幼稚園を卒園するころには、ちょうど稲穂が実っ
て頭をさげるように、姿勢が低くなる。人間味ができてくる。

●子どもは下からみる

 賢明な人は、ふつうの価値を、それをなくす前に気づく。そうでない人は、それをなくしてから
気づく。健康しかり、生活しかり、そして子どものよさも、またしかり。

 私には三人の息子がいるが、そのうちの二人を、あやうく海でなくすところだった。とくに二男
は、助かったのはまさに奇跡中の奇跡。あの浜名湖という広い海のまん中で、しかもほとんど
人のいない海のまん中で、一人だけ魚を釣っている人がいた。あとで話を聞くと、国体の元水
泳選手だったという。

私たちはそのとき、湖上に舟を浮かべて、昼寝をしていた。子どもたちは近くの浅瀬で遊んで
いるものとばかり思っていた。が、三歳になったばかりの三男が、「お兄ちゃんがいない!」と
叫んだとき、見ると上の二人の息子たちが流れにのまれるところだった。私は海に飛び込み、
何とか長男は助けたが、二男はもう海の中に沈むところだった。

私は舟にもどり、懸命にいかりをたぐろうとしたが、ロープが長くのびてしまっていて、それもで
きなかった。そのときだった。「もうダメだア」と思って振り返ると、その元水泳選手という人が、
海から二男を助け出すところだった。

●「こいつは生きているだけでいい」

 以後、二男については、問題が起きるたびに、「こいつは生きているだけでいい」と思いなお
すことで、私はその問題を乗り越えることができた。花粉症がひどくて、不登校を繰り返したと
きも、受験勉強そっちのけで作曲ばかりしていたときも、それぞれ、「生きているだけでいい」と
思いなおすことで、乗り越えることができた。

私の母はいつも、こう言っていた。『上見てキリなし。下見てキリなし』と。人というのは、上ばか
りみていると、いつまでたっても安穏とした生活はやってこないということだが、子育てで行きづ
まったら、「下」から見る。「下」を見ろというのではない。下から見る。「生きている」という原点
から子どもを見る。そうするとあらゆる問題が解決するから不思議である。

●子育ては許して忘れる 

 子育てはまさに「許して忘れる」の連続。昔、学生時代、私が人間関係のことで悩んでいる
と、オーストラリアの友人がいつもこう言った。「ヒロシ、許して忘れろ」(※)と。英語では
「Forgive and Forget」という。

この「フォ・ギブ(許す)」という単語は、「与えるため」とも訳せる。同じように「フォ・ゲッツ(忘れ
る)」は、「得るため」とも訳せる。しかし何を与えるために許し、何を得るために忘れるのか。
私は心のどこかで、この言葉の意味をずっと考えていたように思う。が、ある日。その意味が
わかった。

 私が自分の息子のことで思い悩んでいるときのこと。そのときだ。この言葉が頭を横切った。
「どうしようもないではないか。どう転んだところで、お前の子どもはお前の子どもではないか。
許して忘れてしまえ」と。

つまり「許して忘れる」ということは、「子どもに愛を与えるために許し、子どもから愛を得るため
に忘れろ」ということになる。そしてその深さ、つまりどこまで子どもを許し、忘れるかで、親の愛
の深さが決まる。もちろん許して忘れるということは、子どもに好き勝手なことをさせろというこ
とではない。子どもの言いなりになるということでもない。

許して忘れるということは、子どもを受け入れ、子どもをあるがままに認めるということ。子ども
の苦しみや悲しみを自分のものとして受け入れ、仮に問題があったとしても、その問題を自分
のものとして認めるということをいう。

 難しい話はさておき、もし子育てをしていて、行きづまりを感じたら、子どもは「生きている」と
いう原点から見る。が、それでも袋小路に入ってしまったら、この言葉を思い出してみてほし
い。許して忘れる。それだけであなたの心は、ずっと軽くなるはずである。

※……聖書の中の言葉だというが、私は確認していない。

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

最前線の子育て論byはやし浩司(305)

●起立! 気をつけ! 礼! 着席!

 「起立! 気をつけ! 礼! 着席!」
 「起立! お願いします! 着席!」
 「起立! ありがとうございました! 着席!」

 学校によって多少、あいさつの仕方はちがうが、どこの学校でも、授業の前とあとには、この
ようなあいさつをしている。日本ではよく見られる、ごくあたりまえの光景である。

 しかし世界広しといえども、授業の前後に、こうしたあいさつをしている国は、台湾と韓国、そ
れに日本だけである。

 が、その韓国も、こうしたあいさつを、「日本帝国主義(植民地)時代の遺物※」として、政府
通達で、廃止することにした(04年)。残るは、台湾と、日本だけ!

 日本に住み、日本しか知らないと、そのおかしさに気づかないということは、よくある。

 もう15年以上前のことだが、アメリカにニューヨーク州から来ていた、女性の教師が、こんな
ことを話してくれた。

 何でも、「不気味だった」と。

 話を聞くと、こうだった。

 その教師が、近くのH湖へ水泳に行ったときのこと。どこかの女子高校生たちが、水泳の実
習授業に来ていたという。「その光景が、不気味だった」と。

 理由を聞くと、「みな、紺色の同じ、水着を着ていたから」と。

 私はそのときは、その女性の言っていることが、よく理解できなかった。日本では、ごくあたり
まえのことである。そこで「アメリカでは、どうだ?」と聞くと、「アメリカでは、みな、ちがった水着
を着ている」と。

 さらに今度は、同じくアメリカ人の男性教師だが、こんなことを言った人がいた。

 「朝礼が終わって、教室へ子どもたちがもどるとき、みな、並んで教室へもどってきた。それを
見たとき、ゾッとした」と。

 こうした感覚、それはある種のカルチャ・ショックと言えるものだが、この日本に住んでいる人
には、理解できない。(だからといって、日本の教育がまちがっていると言っているのではな
い。どうか、誤解のないように!)

 同じように、授業の前後の、あいさつ。韓国政府は、「権威主義的慣習」と評していたが、何
がどう権威主義的かということも、日本を一歩、離れてみないと理解できない。

 さて、日本、どうする?

 繰りかえすが、残るは、台湾と日本だけ。それでも、「必要」と感じて、こうしたあいさつを残す
か。それとも、世界の常識に合わせるか。これからの日本の教育のなりゆきを、注視したい。

※……韓国・ソウル市の教育庁は、日本の「起立」「礼」にあたる、教師へのあいさつを、廃止
する運動を始めた。
 「自由で多様な価値観を認める」という立場から、学校の教育現場から、権威主義的な慣習
を取りのぞくことを目的としている。
 韓国では、日本の植民地時代から、授業の前後には、「チャリョ(起立)」「キョンレ(敬礼)」
と、教師にあいさつをするのが、慣例になっていた。これを改め、たとえば「さわやかな朝です
ね」と、やわらかいあいさつにするという(以上、西日本夕刊)。


●ハンガリー

+++++++++++++++++++++++++

ハンガリーにお住まいの、SZさんから、つぎのような
メールが届きました。転載許可をいただけましたので、
紹介します。

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【SZより、はやし浩司へ】

メール、ありがとうございました。
皆、元気にしています。

YK子は、アメリカンスクールと日本人補習校の両方に通っています。
今は大変ですが、4月に全日制の日本人学校が開校する予定です。

英語は、かなり理解できるようになりました。話す方はまだまだですが、
先生の言っていることはわかるそうです。
YK子はとてもたくましく(先生の教え子だからでしょうか?)、英語の
環境にすんなりと入っていきました。
彼女は、分からないことが分かる喜びを、強く感じるようです。

男子ハンマー投げのことです。

夫の会社のハンガリー人たちは、AA選手の金メダル、室伏選手
の銀メダルについて、最初から一切話題にしなかったそうです。
いつもは何でも自慢したがるのに、何故だろうと夫と話していました。
ドーピングの事実を皆、知っていたのかもしれません。

ハンガリーで起こる様ざまなトラブルを考えると、AA選手のとった
行動は理解でき、納得できます。ハンガリー人は、精神的に弱く刹那
的な面があり、怠け者です。何かトラブルが起こると、なし崩し的に処
理し、解決をするために努力をしないことが多いです。

この国の歴史を紐解いていけば、もっと色々なことが分かるかもしれ
ません。


下記のメールは1年前に林先生に送るために書いたものです。
幼稚園のことを書いたので多少の参考になるかもしれないと思い
直し、今更、送ります。

+++++++++++++++++

子供たちがインターナショナル幼稚園へ通い始めました。
YK子は、新しい環境にわくわくしながら、楽しくてたまらないようです。
YK子は、もともと好奇心旺盛な子供でしたが、BW教室に1年半通っ
たことも大きいと思っています。

この幼稚園の先生方の経歴や国籍は様ざまです。

心理学を学んだ先生、幼児教育と英語教育を学んだ先生、スペイン語
と英語の先生、一家そろってダンサーで本人もバレリーナだった先生
など、幼児教育を学んだ人とは限りません。

YK子の先生は、ペルー人とフランス人&スウェーデン人の両親をも
つハンガリー人の2人です。

秋になります。ハンガリーの秋は短く、すぐに冬になるそうです。
9月になって、突然寒くなりました。

日本の幼稚園では、秋になると運動会と生活発表会が行われます。
YK子は、これらの練習が大嫌いでした。

こちらの大イベントはハロウィンですが、9月の第4週目に、
−School Sprit Week-という行事があります。

(月曜日) おもしろい(ちぐはぐな)コーディネートで登園する日
(火曜日) おもしろい頭(かつらやフェイスペインティングなど)で登園する日
(水曜日) スポーツディ
(木曜日) パジャマで登園して、ごろごろする日
(金曜日) 真っ赤で登園して、みんなで赤いものを持ち寄る日

きっと子供たちは大興奮するでしょう。子供たちが楽しんでいる様子を
想像するだけで、わくわくします。

SZより 


【SZさんへ、はやし浩司より】 

 メール、ありがとうございました。いただきましたメールについて、マガジンへの転載許可を、
よろしくお願いします。AA選手のドーピング事件ですが、改めて、「なるほど、そうだったのか」
と思っています。日本の読者の方にも、何かの参考になると思います。

 日本では、オリンピックも終わり、今、H元首相の、1億円受領問題、K国の核問題、雅子妃
の心の問題などなどが、大きな話題になっています。教育の世界は、このところ、静かです。少
し前、小学校児童による殺傷事件もありましたが、最近は、あまり話題にならなくなりました。

 全体的にみると、またまた受験競争が過熱してきたようにも、思えます。不景気も一段落した
というところでしょうか。

 それにしても、今度のオリンピックでは、日本人選手たちは、よくがんばりましたね。この私で
すら、勇気づけられました。「やれば、できるもんだ」とです。とくに水泳の世界では、体格的な
コンプレックスを感じていました。「日本人の体格では、無理だ」と、です。それを、今度のオリ
ンピックで、はねかえしてくれました。すばらしいことです。

 今、悩んでいるのは、「あいさつ」、です。

 私の教室でも、伝統的に、レッスンのあとには、私に向っては、「さようなら」。つづいて参観に
来ている親たちに向かっては、「ありがとうございました」と、子どもたちにあいさつをさせていま
す。

 しかし、それがよいのかどうかと、今、迷っています。で、昨日、4、5人の母親たちに、「どう
思いますか?」と聞いてみました。

 しかしいきなり、そんな質問をした私が、愚かでした。みなさん、「?」というような表情でした。
つまりこうしたあいさつは、日本では、ごく当たり前のことなんですね。ハンガリーでは、もちろ
んしないと思います。

 で、私のBW教室では、どうするか? こうしたあいさつは、たしかに権威主義的です。そうそ
う、最近、この浜松市でも、先生による命令的口調が、おさえられています。

 「〜〜しなさい」ではなく、「〜〜してくれませんか」「〜〜しては、どうでしょうか」というような言
い方に、改まってきたようです。日本の教育も、今、大きく変わろうとしています。日本の権威主
義については、私はもう10年以上も前から戦ってきました。この権威主義が、日本の社会を
ゆがめ、つづいて、日本の社会をゆがめました。

 実に愚かな、意味のない主義です。が、なくなったわけではありません。

 いまだに、「男が上、女が下」「夫が上、妻が下」「親が上、子が下」「教師が上、生徒が下」と
考えている人は、少なくありません。それにゆがんだ職業意識も、問題です。「大学の教授が
上で、幼稚園教師は下」「大企業の社員が上、個人営業は下」とです。

 日本人は、その人の中身を見ない。これも、悪しき、権威主義の弊害ではないでしょうか。ま
だまだ私の戦いは、つづきます。

 今朝は、午前4時に起きました。昨日はいろいろあって、早く床についたからです。で、いくつ
かのメールに返事を書いて、原稿を書いて、そして今、です。時刻は、6時を回ったところで
す。台風一過、静かな朝にもどりました。幸い、浜松地方は、被害はありませんでした。よかっ
たです。

 私は子どものころ、台風が好きでした。どこかスリリングで、子どもながらに、ワクワクしたの
を覚えています。しかしそれはだれにも話せない、私だけの秘密でした。

 しかし最近の子どもたちは、すなおですね。「台風が来るよ」と話しかけたりすると、「ヤッタ
ー!」「休校になる!」と、飛びあがって喜んだりします。私たちが子どものころには、そういうこ
とを自由に言える雰囲気が、まだなかったように思います。

 では、今日はこれで……。これから10月1日号のマガジンの予約を入れます。

 またどうか、ハンガリーの様子を教えてください。よろしくお願いします。

                        浜松    はやし浩司

+++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司※

最前線の子育て論byはやし浩司(306)

【最近の話題から……】

●インターネットの普及

 「パソコンを使ったインターネットの利用度」は、03年度、小学校で、99・4%。中・高校で、9
9・8%にもなった(文科省)。

 ほぼ、100%と、みてよい。

 しかし問題がないわけではない。ひとつは、いかに利用するかということ。もう一つは、いかに
その悪影響から、子どもを守るかということ。悪影響の中には、インターネットの利用度が肥大
化するにつれて、ほかの分野の教育が、なおざりになることも含まれる。

 インターネットは、いわば、超巨大な図書館である。その図書館が、デスクにのったと思えば
よい。それはすばらしいことだ。私自身も、インターネット時代になって、ほとんど図書館へ行か
なくなった。

 もう一つは、メール交換である。昔は、一人単位、一日単位で動いていた、手紙による人間
関係が、それこそ、数分単位で、動くようになった。砂浜に打ち寄せる波のように、ザザー、ザ
ザーと、人とのつきあいが、広く、浅くなった。

 それがよいことなのか、悪いことなのか、まだ私にはよくわからない。しかし一つだけ言えるこ
とは、あまりにもそのスピードがはやすぎて、対応しきれていないということ。ひとつの問題が起
きて、それにかまっている間に、別の問題が、つぎからつぎへと生まれてくる。そんな感じであ
る。

 文科省も、つぎのように認めている。

 「教師や保護者の関心は、ITより、学力低下にある。現場の教師は、その対応に追われてい
るのが実態で、なかなか情操教育、モラル教育に力を注げないでいるのではないか」(西日本
新聞・04・6)と。


●うちの子、自閉症?

 自閉症の最大の特徴は、スムーズな人間関係が、結べないこと。「机をはさんで、向かいあ
った人に、ささやき声で話すかと思えば、ぎょっとするほど、近くに寄って、突然、大声で質問し
たりする。人が指でさしたもののほうには、目をやらず、その人の指先を見つめる」(京都大
学・十一教授指摘)と。

 十一教授は、「基本的な、人間関係という、本能というべき部分に、問題がある」と述べてい
る。さらに最近の研究では、脳の中の、扁桃体(へんとうたい)に問題があるということまで、わ
かってきている。つまり脳の機能障害説が有力になってきている。

 滋賀県のHさん(母親)より、「うちの子は、自閉症ではないか」という相談をもらった。

 いろいろ症状が書かれていたが、心配なら、一度、専門の機関に相談してみるとよい。つぎ
のような機関がある。

 日本自閉症協会……電話(03―3232−6355)
 
 ホームページも用意されている。

 http://www.autism.or.jp/images/index1.jpg

++++++++++++++++++++++++

自閉症の診断基準について……
(日本自閉症協会・案内パンフより、転載)

●自閉性障害 (Autistic Disorder)

A.(1),(2),(3)から合計6つ(またはそれ以上)、うち少なくとも(1)から2つ、(2)と(3)から1つずつの
項目を含む。

(1)対人的相互反応における質的な障害で、以下の少なくとも2つによって明らかになる:

(a)目とめで見つめ合う、顔の表情、体の姿勢、身振りなど、対人的相互反応を調節する多彩
な非言語性行動の使用の著明な障害。
(b)発達の水準に相応した仲間関係をつくることの失敗。
(c)楽しみ、興味、成し遂げたものを他人と共有すること(例:興味のあるものをみせる,もって
来る、指さす)を自発的に求めることの欠如。
(d)対人的または情緒的相互性の欠如。

(2)以下のうち少なくとも1つによって示される意志伝達の質的な障害:

(a)話し言葉の遅れまたは完全な欠如(身振りや物まねのような、代わりの意志伝達の仕方に
より補おうという努力を伴わない)。
(b)十分会話のある者では、他人と会話を開始し継続する能力の著明な障害。
(c)常同的で反復的な言葉の使用または独特な言語。
(d)発達水準に相応した、変化に富んだ自発的なごっこ遊びや、社会性を持った物まね遊びの
欠如。

(3)行動、興味および活動が限定され、反復的で常同的な様式で、以下の少なくとも1つによっ
て明らかになる:

(a)強度または対象において異常なほど、常同的で限定された型の、1つまたはいくつかの興
味だけに熱中すること。
(b)特定の、機能的でない習慣や儀式にかたくなにこだわるのが明らかである。
(c)常同的で反復的な衒奇的運動(例えば、手や指をぱたぱたさせたり、ねじ曲げる、または複
雑な全身の動き)
(d)物体の一部に持続的に熱中する。

B.3歳以前に始まる、以下の領域の少なくとも1つにおける機能の遅れまたは異常:
(1)対人的相互作用、(2)対人的意志伝達に用いられる言語、または(3)象徴的または想像的遊
び。

C.この障害はレット障害または小児期崩壊性障害ではうまく説明されない。
(DSM−IV 精神疾患の分類と診断の手引より)
(はやし浩司 自閉症 診断基準 DSM―IV)


●子ども部屋、欧米の常識VS日本の常識

 おおざっぱにみて、欧米の子ども部屋には、ベッドとクロゼットがあるのみ。勉強机はない。
一方、日本の子ども部屋には、学習机が置いてあるのがふつう。

 おおざっぱにみて、欧米の子ども部屋には、カギがかかるようになっている。一方、日本の子
ども部屋には、カギがない。母親が、掃除などの理由で、子ども部屋に入る姿は、日本では、
日常的な光景。

 おおざっぱにみて、欧米のほとんどの子ども部屋には、テレビは、ない。一方、日本の子ども
部屋には、テレビがある。

 ……詳しくは、北浦かほる著、「世界の子ども部屋」(井上書院発行)を、ご覧になっていただ
きたい。

 「子ども部屋悪玉論もあるが、子どもがひとりきりになれる世界も必要」というのが、北浦氏の
意見である。まったく、同感である。

 私のばあいは、昔風の家に生まれ育ったということもあって、すべてが、母親の管理下に置
かれていた。高校生になって、やっと自分の部屋らしきものを与えられたが、家族のタンスもそ
こにあった。人の出入りは、もちろん自由。プライバシーも、何も、あったものではなかった。

 そういう自分の経験から、つまり家庭の中に、自分の居場所がなかったという経験から、私
は、「子ども部屋悪玉論」には、どうしても賛成できない。言うまでもなく、子ども部屋悪玉論を
説く人たちは、「そのために、家族のコミュニケーションが希薄なる」と説く。

 しかし実際には、家族のコミュニケーションが希薄になるのは、子ども部屋の子どもが閉じこ
もるからではなく、もっと、ほかの要因によるものである。たとえばプライバシーが筒抜けだった
の私のばあい、それだけ家族のコミュニケーションが、濃厚だったかといえば、そういうことは、
決してなかった。

 なお、欧米では、(アメリカでも、EUでも)、生まれるとすぐ、自分の個室を子どもに与えるの
が、全体的な習慣になっている。

 そこで私なりの子ども部屋論について。

(1)子どもが小学生になったら、子ども部屋を与える。兄弟の相部屋は、避ける。
(2)子ども部屋には、ベッド(寝具)とクロゼットを置く。あくまでも睡眠の場所と、位置づける。
(3)学習机は、置くとしても、平机。心身を休める机にする。低学年のうちは、学習は台所のテ
ーブルなどを利用する。
(4)子ども部屋は、子どもの管理に任す。掃除などでも、子どもの許可を求めてからする。子
ども部屋は、親でも足を踏み入れることができない、神聖不可侵の空間と心得ること。
(5)テレビ、ステレオなどの、娯楽機器は、置かない。娯楽機器は、家族全員が触れることが
できるように、居間に置く。

 基本的には、そういう考え方をしながら、あとは、それぞれの家庭の事情と、子どもの希望に
そって、考えればよい。

【補記】

 私は北浦氏の本を読んで、一つ、思い当たることがあった。

 先日、知りあいの中国人が、部屋を改装した。子ども部屋を改装したと、その母親は言って
いた。

 が、見ると、大きな部屋(20畳くらい)の部屋の中央に、大きなソファと、テーブル。二人の子
どもの机は、部屋のまわりに、カベにつけて配置してあった。

 私はそれを見たとき、「これじゃあ、毎日、子どもが親に監視されているみたいだ」と思った。
しかし北浦氏の本によれば、それが標準的な中国人の子ども部屋ということになる。

 このことをあとでワイフに話すと、ワイフは、こう言った。「中国では、子どもはその親の財産と
いう考え方をするからではないかしら」と。「少し前の、日本もそうだったわ」とも。

 それがよいとか悪いとか言っているのではない。ただ子どもの考え方、子ども部屋の考え方
というものは、国によっても、ちがうということ。

 今、日本は、急送な欧米化のもと、子ども部屋に対する考え方も、これまた急速に欧米化し
ている。今は、その過渡期ということになるのかもしれない。


●いつも夫婦げんかをしている人へ……

 数日前、私のマガジンへのアンケート調査の中で、「マガジンを読むようになったおかげで、
夫婦げんかがなくなりました」と、書いてきてくれた人がいた(女性、40代、大阪府在住)。うれ
しかった。思わぬところで、思わぬ効果をもたらしたようだ。

 理由は、「夫の心の中に、自分を置いて考えることができるようになったこと」だ、そうだ。私
は、どちらかというと、親子のつながりを、切らないために、そうしたらよいと書いたのだが…
…。

 たしかに一度、相手の心の中に自分を置いて考えみると、怒りがしずまることがある。相手
の立場になってものを考えるから、怒りそのものが生まれてこない。

 言いかえると、相手が夫であるにせよ、子どもであるにせよ、イライラしたり、カッカしたりする
というのは、それだけ、こちら側が、自己中心的であることを意味する。自分を中心にものを考
えるから、怒りが生まれてくる。

 が、相手の心の中に自分を置くと、すぐ、「私ならどうか?」「私ならできるか?」という発想に
変わる。「どうして夫や子どもは、そうするのか?」ということまで、わかってくる。

 たとえば定期テストが近いにもかかわらず、息子が、居間でゴロゴロしていたりする。そういう
ときたいていの母親は、自分の不安や心配を子どもにぶつける。「勉強しなさい!」と。

 しかしそのときでも、ふと、子どもの心の中に、自分を置いて考えてみる。「どんな気分だろ
う?」「どんなふうに考えているのだろう?」「なぜゴロゴロしているのだろう?」と。とたん、怒り
が消える。不快感が消える。

 そしてそのかわり、「たいへんなのね」とか、「ごくろうさま」という、ねぎらいの言葉が、口から
出てくる。つまり結果として、親子げんかは消える。

 が、逆の意見もあった。

 「夫が、権威主義者で困ります。子どもに対して、頭ごなしにあれこれ命令したりします。私
は、それではいけないと、間に割って入るのですが、そのたびに、夫婦げんかになってしまいま
す」と。

 その母親は、私のマガジンの熱心な読者ということだった。しかしこういう話を聞くと、申しわ
けない気持ちになる。私のマガジンが、夫婦げんかの原因になっているように感ずるからであ
る。

 こういうときどこかの宗教団体なら、「そういう抵抗にもめげず、前に進みなさい。必ず、夫
は、いつかあなたの正しさに、頭をさげるでしょう」と、信者に教えるのだろう。が、それはおか
しい。

 私は、こう思う。

 子育てのことで、夫や妻と対立したら、まず、夫や妻に、妥協しなさい、と。

 子育ての問題には、その人の人格はもちろんのこと、人生観や哲学、さらには、その人の過
去や歴史が、すべてからんでくる。だからこの種の問題は、一度、対立すると、とことんこじれ
る。こじれることの弊害を考えるなら、一時的な妥協など、何でもない。だから妥協する。

 大切なことは、両親が、一枚岩となること。楽しく過ごすこと。子どもとの間で、一対一の関係
を築くこと。三角関係(心理学でいう、「三角関係」)は、決定的にまずい。

 もしあなたが賢い妻(夫)なら、そうする。というのも、仮に対立したとしても、政治問題のよう
な深刻な問題ではないからである。たかが、(こういう言い方は失礼な言い方に聞こえるかもし
れないが)、一家庭の問題である。

 だから、「そうね、そういう考え方もあるわ」「あなたは、あなたの考え方をつらぬけばいいの
よ」と、言って、すます。そもそも全人格をかけて戦わねばならないような問題ではない。もしそ
んなエネルギーがあるなら、外の世界に向って、それを発散すればよい。政治的な不正を怒っ
たり、環境破壊と戦ったらよい。

 どうか、どうか、家庭は、平和に! 安穏に! 安らかに!


●自己中心性

 ある日、突然、ある心理カウンセラーのところに、電話がかかってくる。そしていきなり、自分
の娘(中3)の相談をしてくる。「夜遊びが、ひどくなった」「よからぬ男性とつきあっているよう
だ」「学校へ行かないで、どこかへドライブに行ったりしている」「何とかしてほしい」と。

 そこでそのカウンセラーなりに、あれこれ、相談にのる。しかし実際には、夏休みになると、こ
の種の相談が、がぜん、多くなる。そこでそのカウンセラーは、「一度、学校の先生に相談して
みたら」とアドバイスしたあと、こう言った。

 「その程度なら、がまんしなさい。ここで問題をこじらせると、さらに二番底から、三番底に落
ちていきます。家出、さらには妊娠……と進みますよ。今の状態を、これ以上悪くしないことだ
けを考えて、対処してください」と。

 が、どこでどう誤解したのか、この一言が、その母親を激怒させた。「他人の子どもだと思っ
て、あんたも、よく言うね。心理カウンセラーの看板をかかげているなら、困った人を助けるの
は、あんたの義務でしょう。がまんしなさいとは、どういうことヨ!」と。

 そのカウンセラーは、自分の立場を説明し、あやまるしかなかった。

 しかし、だ。どうして、カウンセラーが、あやまらなければならないのか。カウンセラーといって
も、ほとんどボランティア。が、問題は、そのことではない。なぜ、その娘は、夜になると、遊び
に出かけるのか。みなさんなら、もうその理由は、おわかりかと思う。

 その母親は、自分のことしか考えていない。こうした自己中心性は、生活のあらゆる場面で、
共通する。そのカウンセラーに対して自己中心的であるのと同じように、娘に対しても、自己中
心的であるにちがいない。

 人間の心は、それほど、器用にはできていない。相手によって、自分の生きザマを変えると
いうようなことはできない。

 その自己中心性が、娘を遠ざけた。そんな母親と顔を合わせて、家にいても、おもしろくない
からだ。

 実際、自己中心的な人というのは、つきあえない。表面的には、いくら愛想よく見えても、別
の心でこちらの心を計算しているようなところがある。窮屈。退屈。それに息苦しい。その母親
も、そうだった。

 「なぜ、娘が夜遊びに行くか」という心理を、その母親は、まず考えなければならない。同時
に、その相談を受けるカウンセラーの立場も考えなければならない。その母親は、混乱状態に
ある。それは、よくわかる。しかし、それをそのまま、他人であるカウンセラーにぶつけてはい
けない。

 「あなたのどうしようもない、自己中心性。それが改まらないかぎり、あなたはあなたの娘さん
の心をつかむことはできませんよ」と、そのカウンセラーは言いかけたが、やめたという。その
母親との間に、ものすごい距離を感じたからだ。

 で、そのあと、2度ほど、その母親から、電話がかかってきた。よほど怒りが収まらなかったと
みえる。

 「他人のあんたに、がまんしろと言われた。相談をした私が、バカだった。何で、他人のあん
たに、そこまで言われなければならないのか!」と。

 この世界では、よくあるトラブルである。どうか、みなさん、心、安らかに!

【補足】

 心理学の世界には、「転移」という言葉がある。これはある人への感情が、別のだれかに乗
り移ることをいう。

 たとえば幼いころ、父親に虐待されたとする。その記憶は、それほど残らなかったにしても、
いつかおとなになったとき、父親以外のだれかに対して、父親への憎悪感を、無意識のうちに
再現することがある。

 このケースでも、自分の娘に対する憎悪感、夫に対する不平、不満が、そのカウンセラーに
対して爆発したのかもしれない。感情の転移という現象が起きたわけである。日本語にも、『八
つ当たり』という言葉がある。それに近い。

 しかしこうした感情の転移が怒るということは、それだけその人の精神が、未発達であること
を示す。自己管理能力が弱いとみる。

 人格の完成度は、他者への共鳴性、自己管理能力、他者の良好な人間関係によって、判断
する。それができる人を、人格の完成度の高い人という、そうでない人を、低い人という。


●わずらわしさとの戦い

生きているから、わずらわしいのか。わずらわしいから、生きているのか。

 どちらにせよ、できれば、そのわずらわしさから、解放されたい。しかし生きている以上、その
わずらわしさから、解放されることはない。

 たとえば生きるためには、それだけの収入を得なければならない。しかし収入を得るというこ
とは、容易なことではない。当然のことながら、そこで、無数の人たちとの欲得と、衝突する。

 わずらわしさは、そこから生まれる。

 しかしそれはたとえて言うなら、打ち寄せる波のようなもの。若いときは、その波もまた楽し
い。波がなければ、つまらない。あるいはあえて波を求めて、海へ入る。
 
 しかし体力や気力が弱ってくると、そうはいかない。小さな波を越えるだけでも、たいへん。フ
ーッとため息をもらしたりする。しりごみしたり、避けようとしたりする。波がこわくなることもあ
る。

 ときどき、このわずらわしさから解放されるためには、死ぬしかないのではないかと思うこと
がある。「このまま静かに死ぬことができたら、どんなに気が楽になるだろう」とも。しかしここで
また、冒頭に書いた状態にもどる。

 生きているから、わずらわしさが生まれる。しかし人間は、わずらわしいから、生きているとい
うことにもなる。もし私やあなたから、そのわずらわしさを取り去ってしまったとしたら、はたし
て、私たちは生きていると言えるのか、ということになる。

 たとえば今日も、こうして町まで、仕事にやってきた。できれば、家のソファーの上で、寝そべ
っていたい。何も考えず、ぼんやりとしていたい。本当のことを言えば、人に会うのもいや。疲
れる。しかしもしそんな生活を、何か月とか、何年もつづけたら、私はどうなるのか。そういう生
活に耐えられるのか。

 まず、体がもたない。ついで、頭がボケる。そうなっても、はたして生きていたいと、私は思う
だろうか。

 仕事は、たいへんだ。ときにつらいと思う。しかし私は、この仕事をやめるわけにはいかな
い。恐らく、死ぬまで、……というより、死ぬ直前まで、今の仕事をつづけるだろう。つまり死ぬ
まで、このわずらわしさから、解放されることはない。

 だったら、わずらわしさとは、うまくつきあうしかない。それはいわば、持病のようなもの。それ
とも与えられた運命のようなもの。どうにもならないことは、ならないこととして、あきらめ、受け
入れるしかない。

 今日も、そのわずらわしさと、私は、つきあう。つきあうしかない。それにしても、クーラーのき
いた寝室で、ゴロリと横になることだけが、楽しみとは! これでよいとは思っていないが、しか
し現実にそうである以上、どうしようもない。


●中学生が、エイズに!

とうとう、ここまで来たか! まさか! しかし、それにしても!

 私たちは、いつもどこかで、この不安を感じながら、生きている。「うちの子どもは、だいじょう
ぶだろうか?」「しかしまさか、うちの子にかぎって、そういうことはないだろう」「が、油断はでき
ない」と。

 しかしそれが現実の問題になったとき、それから受ける衝撃には、はかり知れないものがあ
る。自分の問題でなくても、身近で、そういうことが起きると、それから受ける衝撃には、はかり
知れないものがある。

 S市に住む、Sさん(母親)から、電話がかかってきた。何でもSさんの中学校の女子生徒(中
学1年生)が、HIV(エイズ)検査で、陽性反応が出たというのだ。「娘も、同じ中学校に通ってい
るので、心配でならない」と。

 ことのいきさつは、こうだ。

 その女子生徒は、小学6年生になるころから、学校をさぼって、遊び歩くようになった。父親
は、実業家。母親の実家は、S市でも1、2を争う財産家。ともに仕事が忙しくて、女子生徒を
放任。それをよいことに、女子生徒は、毎晩、夜中の1時、2時に、帰宅。

 言い忘れたが、その女子生徒は、姉。下に3歳ちがいの弟がいる。Sさんの話によれば、そ
の女子生徒は、外国人の男性から、どうやらエイズをうつされたらしいという。本人自身が、医
師に、「私、エイズをうつされたかもしれない」と相談していたという。

 そこで検査。多分、その前に、何らかの症状が出ていたのだろう。その娘は、検査もかねて、
S市の総合病院に、1か月近く、入院していたという。今から半年ほどの前のことである。

 風邪をひいたが、熱がさがらない。「肺炎か?」と思って病院へ行ったら、そのまま総合病院
へ。そこでエイズと診断された。……ということらしい。

 もっとも今では、対処法も確立されていて、「エイズはこわくない病気」(市内Iセンター・Y医
師)とのこと。「発症さえ、おさえれば、ふつうの生活ができる。ただし、薬がどれも高額なので、
それだけは問題」とも。

 両親は、そんなわけで、ともにリッチ。とくに父親は、S市でも、有名な実業家だそうだ。郊外
に大邸宅をかまえ、外車を数台も並べているという。そういう家庭のどこにどういう問題があっ
たのか? それはSさんの電話だけでは、知る由もない。しかし、中学生が、エイズに! 時代
は、もうここまできている!

 が、その子どもが、被害者かというと、どうも、そうではないようだ。さらに深刻な話がつづく。

 その女子生徒は、その前後に、10人以上もの男性や、中高校生とも、性交渉を重ねていた
という。相手の名前すら知らない男性も含まれているという。つまり被害者であると同時に、加
害者というわけである。

 それで、その子どもの周辺が、パニック状態になってしまった。エイズに対する偏見も、強
い。親たちが、「うちの子はだいじょうぶか?」「学校のトイレでうつされたのではないか?」と、
大騒ぎになってしまった。

 しかし、この程度は、まだ序の口かもしれない。これから先、この日本でも、HIVの陽性反応
者は、爆発的にふえると予測されている。あなたの子どもが、幼児なら、その子どもが20代に
なるころには、100人に一人とか、それ以上の確率で、エイズに感染する可能性がある。さら
にその10年後となると、もっと多くなる。

 もしあなたが、「うちの子にかぎって……」と思っているなら、それは甘い。甘いことは、この一
例をもっても、わかるはず。

 では、どうするか?

 私が繰りかえし提唱しているように、子どもは、自ら考える子どもにする。それで万全とは言
えないが、子どもの心の中に、精神的な抵抗力をつくっておく。またそういう子育てをめざす。

 もしあなたが、こうした問題について、「だれかが何とかしてくれるだろう」「学校で教育してく
れるだろう」と考えているとしたら、それも甘い。

 今夜も、私は、ワイフとこんな会話をした。

私「子どもが幼児のころは、そのかわいさに負けて、目一杯のことをしてしまう。甘やかすだけ
甘やかしておいて、少し大きくなったら、今度は、受験勉強でしごく。こういうアンバランスさが、
子どもの心をゆがめる」
ワ「乳幼児期の、育て方に問題があるというのね?」
私「そうだよ。いつになったら、親たちも、それに気がつくのだろうね」と。

 こういう問題は、学校の教育だけでは、どうにもならない。世の親たちよ、まずそれをしっかり
と自覚しようではないか。

【補足】

 あなたのまわりにも、ハレンチ文化が氾濫(はんらん)しているはず。そういう文化とひとつず
つ、戦っていこう。そういう努力が、長い時間をかけて、結局は、あなたの子どもを守る。またそ
ういう親の姿を見て、子どもは、精神的な抵抗力を、身につける。

 つまり親たちの何気ない、日常的な会話の中から、子どもは何かを学んでいく。しかしそれは
演技ではいけない。親たち自身が、ハレンチ文化への批判力をもち、それを子どもたちに語っ
ていかねばならない。

 はっきり言おう。

 一方で、意味のないバラエティー番組を、ギャーギャーと笑いながら見ながら、どうして子ども
に向かって、高い独特や倫理を語ることができるだろうか。子どもを考える子どもにすることが
できるだろうか。そのあたりから、もう一度、私たちは、家庭教育のあり方を、考えなおそうでは
ないか。

 先日も、ある母親から、こんな相談があった。何でも、12歳の娘が家出をしたという。それに
ついて母親が、それを責めると、その娘は、こう答えたという。

「ポケモンのさとしも、ハンターハンター(アニメ)のゴンたちも、10歳くらいで、旅に出ている」
と。

 こういう愚かな現実を、おとなの私たち自身が作り出していることを、忘れてはならない。

【補記】

 たまたまBW教室では、こんなことが起きた。

 私の自慢は、「BW教室の生徒は、交通事故にあったことがない」だった。幼児クラスでは、と
きどき、しかし徹底的に、交通事故の恐ろしさを話す。

 だからこの35年間、交通事故にあった子どもは、いない。確率からしても、ありえないことで
ある。

 が、とうとう、一人、交通事故にあってしまった。どこかのスポーツクラブへ行く途中、自転車
に乗っていて、車と正面衝突してしまったという。

 自転車はクシャクシャになったが、幸い、けがは、足の捻挫(ねんざ)程度。しかしその事故
はともかくも、私が感じた挫折感は、大きかった。内心で感じていた、(誇り)のようなものが、そ
の話を聞いたとき、こなごなに崩れてしまった。

 しかし一人の中学生が、エイズに感染したという話を聞いたとき感じた、挫折感は、そんなも
のではなかった。家の中に、ダンプが飛びこんできたような衝撃である。とたん、その交通事故
にあった子どもの話しなど、忘れてしまった。

 こういった話でこわいのは、免疫性ができてしまうこと。

 今は強い衝撃を受けているが、やがて、ここでも、あそこでも……という状態になる。そうなっ
たとき、私たちは、その恐ろしさを忘れてしまう。そのためにも、今、ここでしっかりと、心にブレ
ーキをかけておかねばならない。

 今では、大学生や、高校生のエイズ感染は、それほど、珍しくない。が、そのうち、小学生で
すら、性行為で、感染するようになるかもしれない。そういう現実をつくらないためにも、今、こ
こでしっかりと、心にブレーキをかけておかねばならない。

 もし今、あなたが、「うちの子にかぎって……」と思っているなら、そういう考えそのものが、す
でにつぎの現実をつくる布石になっている。それをどうか、忘れないでほしい。

 
●負けることの、美しさ

 負けることには、不思議な美しさがある。その美しさは、勝ったときの美しさに、まさる。その
美しさは、負けたものでないとわからない。

 簡単な例で考えてみよう。

 車が、細い路地に入った。そのとき、向こうから、車がやってきた。こちらのほうが、先に路地
に入っている。しかも向こうの車のすぐうしろには、車を寄せるだけのじゅうぶんなスペースが
ある。

 そういうとき、あなたなら、どうするだろうか。

 当然(?)あなたは、向こうの車に、引きさがることを求める。しかし簡単には、そうはいかな
い。向こうは向こうで、何かの言い分がある。そんな雰囲気である。

 そういうとき、すなおに負けてみる。こちらが、車をさげてみる。深く考える必要はない。プライ
ドがキズつけられたとか、そんなふうに考える必要もない。仮にそれで相手が、何もあいさつも
せず通りすぎたとしても、気にすることはない。

 それが「負ける」ということである。

 この美しさは、反対の立場で考えてみればわかる。

 当然、こちらが引きさがらなければならないような場面を考えてみよう。

 そのとき相手が、そのまま車を引きさげたとする。あなたは相手の度量の深さに驚くだろう。
が、それだけではない。ふと、そのとき、自分の心のせまさを思い知らされる。それが相手の
「美しさ」である。

 こうした場面には、いつも、出会う。日常的に経験する。

 そういうときは、すなおに負けてみる。意地を張ったり、がんばったりする必要はない。無理を
してもいけない。「ああ、そうですね」と、負けてみる。

 もちろん人間は、がんばるところでは、がんばる。しかしそれはあくまでも、自分に対してのこ
と。あるいは社会的正義や、平等、自由に対してのこと。自分以外のものに、がんばっても、意
味がない。ささいなものにがんばっても、意味がない。ないばかりか、かえって自分の住む世界
を、小さくしてしまう。

 さあ、あなたも勇気を出して、負けてみよう。最初は、本当に勇気がいる。しかし一度くらいな
ら、実験のつもりで、そうしてみる。それで気まずさが残るようなら、私の言っていることがまち
がっていると思えばよい。

 しかしあなたも、もし勇気を出して負けてみるなら、そのすばらしさに、気がつくはず。昔か
ら、『負けるが勝ち』という。負けることによって、あなたは、自分の心を広くすることができる。
そしてそれまで気がつかなかったものに、気がつくことができる。

 勇気を出して、あなたも、一度、負けてみよう。いろいろ悔しい思いをすることもあるかもしれ
ない。しかしそんなときは、ハハハと笑ってすませばよい。ハハハと、だ。

【補記】

 よくそのスジの男が、「ガン(眼)をつけた」とか、「肩が当たった」とか言って、おかしな因縁を
つけて、からんでくることがある。もともとノーブレインな人間。サル同然の人間だから、相手に
しない。

 そういう男というのは、本当の勇気というものがどういうものであるかを知らない、つまりは、
おく病な人間ということになる。そういう意味でも、真の勇気は、勝ったときに試されるのではな
い。負けたときに試される。


++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司
 
最前線の子育て論byはやし浩司(307)

【近況・あれこれ】

●ワイフのケガ

 ワイフが、テニスのボレーの練習をしていたときのこと。左目にボールをまともに受け、その
ため、左目の内側付け根あたりが、赤黒くはれた。

 「今日は、そんな顔で買い物に行くの?」と聞くと、「サングラスをかけていくからいい」と。

 そういうことを、まったく気にしないのが、ワイフ。ふつうなら、「恥ずかしい」とか、何とか、考
えるのに……。仕方ないので、近くの薬局で、眼帯を買ってきてやった。「これをして行きな」と
言うと、「片目じゃ、かえって見にくいから」と。しかし、しぶしぶ、したがってくれた。

 で、案の定というか、近所に住む友人に、こういわれたと言う。

 「ダンナに、奥さん、殴っちゃあ、だめって、言っときな」と。

 それを聞いて、私はワイフにこう言った。

 「あのなあ、ほっぺたに、これは、ボレーを受けそこねてできたアザですとでも、書いておけ
よ」と。

だから、眼帯を買ってきてやったのに……。だれだって、夫婦喧嘩でできたアザだと思うに決ま
っている……。


●美容院

 最近は、床屋へ行っても、美容院へ行っても、自動髪の毛洗い機というのがあって、それで
髪の毛を洗ってくれる。

 便利な機械らしいが、ああいうので洗ってもらうと、かえって頭中が、かゆくなる。ボソボソジャ
ージャーと、何というか、洗っているのか、洗っていないのかわからないまま、終わってしまう。

 そのあと美容師の人が、「かゆいところはありませんか?」と。思わず、「全部、かゆい」と言
いそうになるが、それは言わない。「いえ、ありません」と。


●体重

 このところ、どうも体が重いと思っていたら、体重が、68キロを超えていた。いつもより、2〜
3キロ、オーバー。あわててダイエット開始! 2〜3キロといえば、ペットボトル一本分。

 そこで朝は、パン一切れ程度。昼は、ざるそば程度。夕食は、ダイエット食。おかげで、数日
で、適正の66キロ前後に復帰。しかしそのせいか、体が、だるくなってしまった。

 食事のあと、総合ミン剤と、カルシウム剤、それにビタミンCを、大量にのんだ。とくに理由が
あるわけではない。食卓の上に、いつも置いてあるから、それをのんだ。

 で、今日になってやっと、少し体が軽くなった。……と自分で、そう思いこんでいるだけかもし
れない。しかし夏のダイエットは、たいへん。そうでなくても、健康管理がむずかしい。


●明日は休み

 「明日は休みだから、どこかへ行こう」と、ワイフが言った。「どこがいい?」と聞くと、「伊豆の
ねえ……」と言い出した。

 「伊豆は遠すぎるよ。行くだけで疲れてしまうよ」と私。

 で、今夜は、いつもより早く寝た。時刻は、9時。ワイフは、「こんなに早く寝るなんて……」と、
ぶつぶつ言っていった。が、床に入るとすぐ、もうイビキ。

 肝心の私は、眠りそこねてしまった。1時間ほどゴロゴロしていて、結局は、起きてしまった。
一度、眠りそこねると、なかなか寝つかれない。

 しかたないので、そのまま書斎へ。そしてこうして今、パソコンのキーボードをたたいている。


●掲示板

 掲示板にいくつかの書き込みがあった。あとでその中の一つを、考えてみたい。

 みんな、いろいろな問題をかかえて、懸命に生きている。幸福な人は、みな、よく似ている
が、不幸な人は、みな、ちがう。だれしも幸福になりたいと思っているのに、あれよあれよと思
っているうちに、不幸になってしまう。

 幸福などというものは、不幸と不幸の間の、つかの間のやすらぎにすぎないのか。幸福だと
思っても、その下では、不幸が、おいで、おいでと、手招きしている。そういう意味でも、生きる
ということは、薄い氷の上を、恐る恐る歩くようなもの。

 ちょっとした油断が、その人を、不幸のドン底に、突き落とす。

 そう、幸福を、どこかで感じたら、あとはそれにしがみついて生きていくしかない。大切に、大
切に、手で守りながら、生きていくしかない。

+++++++++++++++++++++++++++++

【掲示板より……】

【MYさんより、第1信】

はじめまして。「育児」で検索していたら偶然林さんの随筆集に行き当たり、この2〜3日いろい
ろと拝読させていただきました。

現在私は2歳11ヶ月と8ヶ月の二男児の32歳の母です。(入籍していない)子ども達の父親
は、長男誕生時から別居中。現在は実家で私の両親と妹と生活をしています。

以前より、自分自身が幼少期の経験から心のケアが必要ということは感じていました。私の父
は、林さんの言う「親・絶対教」のタイプで、大変威圧的な人間です。未だにたわいない会話も
顔を見てはできません。

その一方、母は父に服従しており、未だに「お父さんに聞いてから」「お父さんがいいと言った
ら」というタイプの女性です。

私には、幼少期の記憶はほとんどありませんが、覚えているのは、小学2年生のとき、妹が超
未熟児で生まれたのですが、(その1年前に弟が7ヶ月で死産でした)、部屋でラジオかカセット
を聴いていたときに、音が大きかったのか、突然背後から頭を殴られ、一言「うるさい!」と怒
鳴られたこと。

それも小学校1年生か2年生の頃だったと思いますが、くわがたに指をはさまれ1時間近く涙
をこらえて我慢して、母がやってきて笑いながらm「なにやってるの? 自分でさっさととればい
いじゃない」と言ったことくらいです。

小学校を卒業するまではいわゆる「優等生」で、成績もクラスで1番か2番でした。幼い頃どん
な子どもだったのかと聞くと、「手のかからないいい子だった」という返答です。

ですが、中学校に入学した後、まず言葉遣いが荒れました。自分のことを「俺」と言ってほとん
ど男言葉で話していました。でも当時は気の合う友人がいてくれたので、学校にも行き、勉強も
していました。成績は相変わらずよい方でした。

高校進学時は、就職も自分自身では考えたのですが、先生や親に説得されるまま学力に応じ
た進学校を受験し、大した努力もせずに合格してしまいました。

高校時代はいよいよ適応できなくなり、服装も乱れ、遅刻や早退を繰り返しましたが、先生に
恵まれ、無事に3年間で卒業できました。

親との断絶はピークになり、17歳で離れに移り住み、卒業と同時に働きながら通える専門学
校に進み、家を出ました。

その後、専門学校のカリキュラムの中で半年間ヨーロッパでの海外研修に行き、卒業と同時に
東京へ就職、25歳で一旦実家へ戻りました。

高校の頃から両親を「お父さん、お母さん」と呼べなくなり、(実は今でもまだ呼べないのです
が)父親とはそこから約10年間、ほとんど会話らしい会話をしませんでした。高校時代には本
気で父を殺したいとまで思いました。

でもどこかでそういう自分に罪悪感を感じていたのも事実です。苦しみました。わかってほしい
と思う気持ちと、親の期待に応えられない自分との間で、苦しかったのだと思います。

多分セックス依存症でもあったのだと思います。年上の男性といると安心したのは、そこに理
想の父を求めていたのかもしれません。母はサービス過剰な人ですが、そうすることで自分の
居場所を作っているのかもしれないと思うようになりました。

自分自身は本当に居場所がなくて、いつも色々な自分を演じていた気がします。本当の自分な
どはじめからいないと思うくらいに。楽しいときに笑えない、だから悲しいときにも泣けないし、
感情をもてあましてしまうことが今でもよくあります。

思いを言葉にしようとすればそれだけで涙が出てしまうこともたびたびでした。おそらく「基底不
安」「情緒不安」なのですよね。

長くなってしまいましたが、「世代連鎖」は私で終わりにしたいと願っています。あまり意地にな
って「理想の親」にこだわるのもよくないと思いつつ、「自然に」子どもを「子どもらしく」育てるた
めのアドバイスや注意をいただけたらと思い書き込みさせていただきました。

子どもの父親である彼は、私と出会うずっと以前に結婚、離婚を経験していて、(年齢は私と同
じです)、女の子が二人います。彼自身、両親の離婚を14歳のときに経験していて、父親と弟
との三人での生活をして、高校を半年ほどで中退後一人で生活をするようになったと聞いてい
ます。

過去の話を聞いたときに、同じ悲しみを抱えているのかもしれないと思いました。この人なら、
同じ痛みを分け合えるかもしれないと思いました。

でも、私の「理想の親像」があまりにも強く、彼に押し付けすぎてしまったようで、現在はあまり
連絡を取っていません。でも、彼の痛みや苦しみを分け合いたいと思う気持ちは変わっていま
せん。

一度「俺には家族は無い」ともらしたことがありましたが、そういう気持ちの人はもうそのままな
のでしょうか。変わることはないのでしょうか。息子達が「父親像」を学習することなく、経験する
ことなく「父親」にならなければいけないのは不幸なのでしょうか。

ここまで読んでいただき、ありがとうございました。
御身体くれぐれもご自愛くださいませ。 


【MYさんより、第2信】

相変わらず、いろいろと思いをめぐらせています。
幼い頃の記憶をたどってみたり・・・32年かかって現在のわたしが
ここにいるわけですから、心を閉じた時期がいつごろなのかはっきり
わかりませんが、4、5歳と考えても27、28年間そうやって生きてきた
ことになります。

でも、それで「今」のわたしが在り、子供達に
恵まれたのですよね。その子供達が、私に感情を表現することは
自然であり、自由であり、当然のことなのだと教えてくれたような気が
しています。この子達には自分のような、感情を抑え込んでしまう。

(楽しさも嬉しさも悲しみも寂しさも愛おしさも)ような状況には、させたく
ないと強く思います。

現在の私は過去の私の結果であり、また同時に未来の自分の原因である。
結果を変えることはできないけれど、原因は自分の気持ちひとつでいかにでも
変えられる。

私達の周りで起きている事象には、かならずその理由があると考えています。
両親がわたしに上手く愛情を伝えることができなかったことも、何か彼らの
原因・理由があるのだろうと思えるようになってきました。

「許して忘れる(Forgive and Forget)」がよいのだろうと思います。
でも、「許す」ためには何を許すのかを自分自身が見つめなければ
なりません。

実は、先日父が長男の頭をはたきました。食事中に、うどんのつけつゆを
自分でおわんにいれていてこぼしてしまった時のことです。
私の中で、小学2年生のときの嫌な思い出がフラッシュバックしました。
息子は突然頭をたたかれたショックで部屋へ行き布団に突っ伏してしまいました。

私はただただ息子を抱きしめ、「大丈夫よ。じいじは、おつゆがこぼれて
びっくりしてたたいちゃっただけだから。あなたのことが嫌いでたたいたんじゃ
ないよ。」と繰り返しました。

あの日、私は父に嫌われていると思い込んだのです。そして自分は必要ない人間かも
しれないと、自分には居場所がないと思うようになっていったのです。

優等生でいることで、自分の居場所をなんとか確保しようとしていた小学校時代
だったのでしょうか。

+++++++++++++++++++++

【MYさんへ、はやし浩司より】

 このところ、自分に自信がなくなってきました。何というか、自分自身が、だれかに助けを求
めたいような気分です。「自分でさえ、救えないのに、どうして他人を救えるか」と、です。

 生きるということは、さみしいことですね。いえね、きっかけは、中学生の女子が、HIVで陽性
(エイズ)になったという話を聞いてからです。

 最初は、「とうとう、日本もここまできたか!」と思いましたが、そのうち、その女子中学生の両
親の心の中に、自分を置いて、ものを考えるようになってしまいました。「さぞかし、つらいだろ
うな」とか、「自分なら堪えられないだろうな」とか、そんなふうに考えるようになってしまいまし
た。

 その女子中学生も、その両親も、私とはまったく関係のない人です。しかしどういうわけか、
そのせいで、この数日、気が滅入る一方。おかしなことに、食欲までなくなってしまいました。

 ワイフは、「あんたは、バカねえ。日本中を、一人で背負っているみたい」と、言います。自分
でもそう思うのですが、しかし、「ぼくには、関係ない」と、どうしても割り切ることができません。

 こういう原稿を書いているのも、ホームページを開いたり、マガジンを出しているのも、結局
は、よりよい未来を、子どもたちのために残すためです。しかし、その未来が、どんどんと悪い
ほうに向っていく……。

 無力感というか、虚脱感のようなものを、感じてしまいました。

 MYさんが、今の私を直接見たら、「どうして、こんな弱々しいジジイに、相談なんかしたのか」
と、後悔すると思います。頼りなく、どこかいいかげん。そう、私は、いいかげんな人間です。自
分でも、それがよくわかっています。MYさんの相談を受けながら、別の心では、わずらわしさ
を感じています。

 本当なら、どこか親切そうに、それらしく善人のふりをしながら、返事を書くのがよいのでしょ
うが、そういう仮面をかぶるのも、疲れました。そういう意味では、私も、優等生のふりをしてい
るだけかもしれませんね。他人によい人間に思われようとしているだけ?

 またそう演ずることで、自分の立場をとりつくろっているだけ? もともと人間関係がうまく結
べないタイプの人間です。私は……。

 MYさんと私の共通点は、そのあたりにあります。つまり母子関係の不全というか、基本的信
頼関係が結べないというか、他人に対して、心を開けないのですね。どこか、不安で、どこか心
配。「こんなことをすると、嫌われるのではないか」とか、「自分の価値をさげるのではないか」と
か、そんなふうに考えてしまうのですね。

 で、私のばあいは、あるときから、自分を飾るのをやめました。ありのままの自分をさらけ出
すことにしました。「他人が、どう思おうが、知ったことか」とです。「どうせ、残りの人生も短いこ
とだし、好き勝手に生きてやれ」とです。

 それで、ずいぶん、気が楽になりました。居直ったわけです。講演会でも、ときどき、「ぼくは
悲しいことがあると、ワイフのおっぱいを口に含んで寝ます」などと、言うことがあります。意外
とみなさん、シーンとした雰囲気で聞いてくれます。

 それが人間なのかもしれませんね。

 そして私とMYさんのもう一つの共通点は、幸福な家庭を築こうという、気負いばかりが強く
て、それで結局は、失敗しやすいということです。子育てというのは、そして家庭作りというの
は、本能ではなく、学習によるものなのですね。親像がない人には、子育てはできない。幸福な
家庭を知らない人には、幸福な家庭を築くことができない。

 しかし、ですね。私はある日、気がつきました。MYさんの時代とはちがって、私の世代だと、
幸福な家庭で、両親の愛情に恵まれて、何一つ、不自由なく育った人のほうが少ないのです。
みんな、だれしも、大きなキズというか、十字架を背負って生きているのだと、です。

 で、あの戦争が悪い。本当に、悪い。この話をし始めたら、キリがありませんが、原因は、そ
こへ行きます。

 で、私も、そうだった。今のMYさんも、そうだった。今も、そうかもしれない。気負いばかりが
強く、それでいて、「これでいいのか?」と不安ばかりが先に立ってしまう……。MYさんが、セッ
クス依存症になったのも、恐らく、裸になってすべてをさらけ出しているときだけ、自分でいられ
たからではないでしょうか。

 私も、そうだったような気がします。若いころは、セックスばかりしていました。もっとも、あまり
もてるタイプではなかったので、それなりの苦労は、いつもしていましたが……。

 MYさんに今、アドバイスできるとしたら、どこに自分がいるかを知り、それがわかったら、あり
のままの自分を、さらけ出すということです。時間はかかりますが、いつか、必ず、できるように
なります。

 今も、父親をうらみたかったら、うらめばよいのです。心のどこかで、「そうであってはいけな
い」とか何とか、自分をごまかすから、疲れるのです。あなたの父が、息子をたたいたら、その
場で、「たたかないでよ」と言えばよいのです。

 その点、私はよく引き合いに出しますが、クレヨンしんちゃんの中の、母親のみさえさんの生
き方が、参考になります。(テレビのアニメのほうではなく、コミック本のV1〜5、6まであたり
が、参考になります。)

 しかしあなたは、すでに、自分の中の「私」に気がつき始めています。若い方なのに、すばら
しいことです。私の印象では、自分を振りかえるようになるのは、特別な事情がないかぎり、50
歳を過ぎてからではないかと思っています。

 それまでは、わからない。が、あなたはすでに、自分の過去や、自分にまつわる問題点を、
冷静に、かつ客観的に見ておられる。私は、それがすばらしいことだと言っているのです。

 今すぐというわけにはいかないかもしれませんが、あなたは、確実に、幸福に向った道を歩
み始めています。自信をもって、前に進んだらよいと思います。幸福に向うのに、正道も王道も
ありません。常識的な道というのもありません。

 あなたはあなたの道を進めばよいのです。むしろ私は、あなたの生きザマの中に、すがすが
しいものを感じます。新しい女性というか、人間の生き方というか、そういうものです。

 いつかあなたは、あなたの子どもに、自分の生きザマを語るときがくると思います。そのとき
のために、今は今で、懸命に生きていきましょう。いつか、語るに恥ずかしくない人生であれ
ば、それでよいのです。勲章やメダルなど、なくても、よいのです。

 それを理解するかしないかは、あくまでも、子ども。子どもの問題。今、あなたはひょっとした
ら、今度は、子どもの前で、「いい親」ぶろうとしている。しかし、もうやめたらよいのです。あり
のままを見せて生きたらよいのです。

 そのかわり、別のところで、子どもにさらけ出しても、恥ずかしくない自分をつくっていく……。
その努力は、忘れてはいけません。

 長い返事になりました。先ほどから、こんな長い返事(文)は、掲示板にのるかどうかと、そん
なことを心配しています。まあ、よろしかったら、トップページから、直接、メールをください。ま
た、返事を書きます。

(約束はできませんが、努めて、書くようにします。このところ、どうも、調子がよくありません。
集中力が、長く続かないというか……。頭がボケてきたというか……。)

 では、また。

【MYさんへ、追伸】

 「許す」というのは、相手の心の中に自分を置き、相手の立場で考え、その相手の悲しみや
苦しみを共有するということです。

 もともと「愛」ほど、つかみどころのない感情はありません。が、「許して、忘れる」ことイコー
ル、愛と考えると、ずっと、わかりやすくなります。が、ここで注意しなければいけないことは、愛
という感覚がないからといって、自分は失格だとか、そういうふうに考える必要は、ないので
す。

 私たちは、神に帰依した、クリスチャンではないのですから。

 いえ、以前、あるクリスチャンの女性と、電話で話したことがあります。クリスチャンといって
も、カルト教団と言われている教団に属していた女性ですが、やたらと、「愛」という言葉を使う
のには、閉口しました。

 「私は夫を愛しています」
 「娘たちを愛しています」
 「父や母を愛しています」と。

 ふつうは、そんなことは、言いませんよね。ふつうの電話ですから……。私はその女性が、愛
という言葉を口にするたびに、「?」マークを重ねました。「本当に、この女性は、愛が何である
のか、わかっているのか?」とです。「ただ狂信的に、そういう言葉を繰り返しているだけではな
いのか?」とです。

 ですから、愛の概念は、それぞれ、みなが、自分の解釈で考えればよいのです。ただ、よく使
う言葉だから、それなりに、自分の考え方をもつのは、大切なことだと思います。別に、どこか
の牧師の言うことに従う必要も、ないのですが……。

 だからよく、「私は、子どもを愛することができません」とか、そういう相談をもらうと、「ふう
ん?」と思ってしまうのも、事実です。「要するに、子どもを、受け入れることができないのだな」
とか、そんなふうに、勝手に解釈しながら、です。

 だからすぐ、私は、「無理をしなくてもいいのに……」「好きになれなかったら、好きになること
もないのに……」と、思ってしまいます。しかたないでしょう。この問題だけは……。

 しかしそんな私でしたが、ある日、気がつきました。こういう仕事をしているものですから、あ
る日、ある中学生(男子)と話しているとき、それに気がついたのです。

 その中学生が、私にこう言いました。

 「先生、ぼくには、すばらしい力があると思う。しかし、親も、学校の先生も、それを認めてくれ
ない」と、です。

 そこで私は、「自分の力を認めてもらうには、何らかの形にしなければいけない。ただ自分
で、『力がある』と思っているだけでは、足りない」と。

 その中学生は、まわりの人たちに、(してもらうこと)だけを求めていたのですね。まわりの人
たちに、(してあげること)は、まったく考えていない……。しかしそれは、まさに自分の姿そのも
のだと、気がついたのです。

 私はさみしい。だれにも、相手にされない。孤独だ。だれも、私を救ってくれない、と。

 しかし他人の気持ちになって、その他人のさみしさや、孤独を救ったことがない人が、どうして
自分のさみしさや、孤独を救ってくれと、人に言うことができるでしょうか。もっと言えば、他人に
ほどこしたことがない人が、どうして他人に向って、自分にほどこしてくれと言うことができるでし
ょうか。

 私の知りあいに、こんな女性(60歳くらい)がいます。

 とにかく、ケチなんですねえ。本当にケチ。「私のものは、私のもの。あなたのものも、私のも
の」と考えるようなケチなんです。で、ある日、私は、その女性が、どうしてそうまでケチなのか
ということに気がつきました。

 その女性は、まさに利己主義のかたまり。異常なまでの依存性もあります。いつも、まわりの
人は、自分のために動くべきだというような、考え方をします。が、その女性自身は、人のため
には、まったく動かない。何もしないのです。

 他人のために動くということは、損だと考えている。そんな雰囲気です。

 だからその女性の口ぐせは、一つ。「さみしい」です。「親なんて、さみしいものだ」「この世間
なんて、さみしいものだ」「生きるというのは、さみしいものだ」と。「渡る世間は、鬼ばかり」「他
人を見たら、泥棒と思え」も、口ぐせでした。

 当然ですよね。さみしいのは……。

 つまり、私は、こう気がついたのです。「孤独というのは、向こうからやってくるものではない。
自分でつくるものだ」とです。

 では、どうしたらよいのか? もうその答は、おわかりですね。

 相手の立場で、一度、相手の心の中に自分を置いて、その悲しみや苦しみを共有すればよ
いのです。私がよく使う、「利己から利他への転換」というのは、そういう意味です。また心理学
の世界でも、それができる人を、人格の完成度の高い人と言います。子どもの心の成長過程
をみるときも、同じように考えます。

 「内面化」という言葉をつかいますが、他者との共鳴性、協調性、共感性のできる子どもを、
人格の完成度の高い子どもとみるわけです。自分勝手でわがままで、自己中心的な子ども(お
となも!)は、それだけ、内面化の遅れた子どもとみます。

 勉強ができるとか、できなとかいうことは関係がありません。むしろ、学歴の高い人ほど、そ
の内面化が遅れる傾向があります。その理由は、もうおわかりですね。

 で、その「相手の立場で、一度、相手の心の中に自分を置いて、その悲しみや苦しみを共有
する」ということですが、これが意外と、簡単なことなのですね。ウソのように簡単! 本当に簡
単!

 ちょっとした訓練でできるようになります。

 静かに目を閉じて、相手の心の中に一度入って、その人から見える自分の姿を想像すれば
よいのです。最初は、「相手からは、どんなふうに見えるのだろう」と、そういうふうに考えれば
よいのです。

 これを繰りかえしていると、その相手が何を考え、どう思っているかが、手に取るようによくわ
かるようになります。とたん、その人の悲しみや苦しみがわかるようになるだけではなく、相手
に対してもっていた、怒りや不快感などが、すべて消えてしまいます。

 長い前置きになりましたが、それが「許す」ということなのですね。

 許すといっても、相手に好き勝手なことをさせることではありません。自分ががまんして、不愉
快な思いをすることでもありません。許すというのは、一度、相手の心の中に入って、相手の立
場で、悲しみや苦しみを共有することなのですね。

 その相手が、子どもであれ、夫(妻)であれ、そして親であれ、友人であれ、だれでも、です。

 が、ここで重要なことは、決して、見かえりを求めないということです。無条件というか、無我と
いうか、そういう状態で、することです。「してあげる」とか、「してやる」とかいう意識をもっては
いけません。反対に、「してあげたのに」とか、「してやったのに」という意識も、もってはいけま
せん。

 どこまでも無条件です。

 その度量の広さが、あなたの心を豊かにします。そして同時に、あなたは、孤独から解放さ
れます。真の自由、さらに真の幸福感は、その孤独から解放されたときに、手にすることがで
きます。

 ……と言っても、今の私が、それができるということではありません。私自身も、やっと、その
糸口をつかんだというか、入り口に達したというか、そういう状態なのです。口で言うのは簡単
なことです。いつでも、そうです。

 しかし、実際、それを実行するのは、たいへんなことです。自分でも、よくわかっています。
が、ここであきらめるわけにはいかない。また立ち止まっているわけにも、いかない。前に進む
しかない。

 今の私の心の状態は、そこに何かモヤモヤとしたものを感じながら、懸命にもがいていると
いう状態です。「あと一歩で、わかるのだが……」とです。「あと一歩で、今まで、追い求めてき
たものが、わかるのだが……」とです。はがゆい思いでいます。

 以上、わけのわからないことを書いたかもしれませんが、MYさんが言うように、『許して、忘
れる』というのは、本当にすばらしい言葉です。それは事実ですから、その言葉を、これからも
大切に! 何かのことで行きづまったりしたら、この言葉を思い出してみてください。きっと、そ
の先に、トンネルの出口を見ることができますよ。

 そうそう、あなたの父親にしても、一度、あなたの父親の立場で、その心の中に入ってみてあ
げてください。そうすれば、あなたの父親が、小さく、どうしようもないほど、つまらない人に見え
てくるはずです。(だからといって、あなたの父親を軽蔑しているとか、そういうことではなりませ
ん。あなた自身が、父親のもつ虚像というか、幻想から、解放されるということです。

 「何だ、父も、ただのふつうの人だったんだ」とです。

 一度、試してみてください。


【MYさんより、第3信】

こんばんは。はやしさん、お返事ありがとうございました。とてもうれしいです。

でも、今ははやしさんご自身の心があまりお元気ではないようですね。お返事をいただけること
は大変うれしく、ありがたく思いますが、どうかご無理をされませんように。

放っておけない性分だとご自身でおっしゃっている方に対してこんな勝手なお願いはいけない
のかもしれませんが、私へのお返事は本当に気の向いたときだけで結構です。私はこうして書
き込むことだけでも十分自己満足していますから。

直接メールを送ることも考えたのですが、なぜ、私が掲示板に書き込んだのか、その理由を書
いておこうと思います。

掲示板であれば、同じ悩みや不安を抱えた人、もしくは今まさに両親との関係に悩んでいる子
供達がロムして、参考になることがあるかもしれないと思ったからです。

「自分」を見つけられないということは本当に苦しいことです。生きていることの意味がわからな
くなります。自分を大切に思えない人間は、他人も大切に思えません。感情を押し殺していると
表現していますが、では本当の自分がどう感じているかさえわからないのです。うれしいのか、
楽しいのか、悲しいのか・・・。それぞれの感情がどういうことなのかを体験していないということ
は哀れです。理性で判断するしかないのです。だから、本心から笑わない、笑えない。

SEX依存症についての
>裸になってすべてをさらけ出しているときだけ、自分でいられたからではないでしょうか。

というのは違います。SEXをしていても、快感を得ることはありませんし、どちらかといえば苦痛
でした。涙を流しながらしていたこともあります。身体は道具でした。寂しさをまぎらわすため
の、誰かにそばにいてもらうための道具でした。SEXさえすれば、特別扱いしてくれる、優しくし
てくれる、だからSEXをするのです。今思えば、一種の自傷行為に近い行動だったと思いま
す。リストカットしたこともあるくらいですから・・・。

つまり、自分自身の存在価値を自分自身が感じられないために、人より頑張り、他人の目の
中でしか自分をみられず、いつも「幸せって何だろう」と考えながら生きてきたのです。気分が
落ち込んで、マイナス思考に傾くと「自分などいなくてもよい」、「いないほうがよい」となり、自傷
行為にはしるのです。もともとは楽天的なのか、気分のよいときは「他人を見返してやる」という
気持ちの下でどんな努力も厭わず行動しています。

「いい親」を演じるのはやめるようにします。「私らしい親」が自然にできるようになればいいなと
思っています。こどもの幸せを祈る気持ちには嘘偽りがないことはしっかり感じていますから。

時間がかかっても、未来の私がすなおな人間になれるように原因を作っていこうと思います。

はやしさん。少なくとも私ははやしさんに救われました。人間は自分自身のことが一番わからな
いのではないでしょうか。鏡を見なければ自分の顔が見えないように・・・。

だから、どうぞ自信をお持ちください。未熟だから未完成だから助け合って生きていくのではな
いでしょうか。「ネバー・エンディング・ストーリー」の中でも「虚無」が世界を暗黒にしてしまうの
を「勇気」と「希望」で阻止して物語は続いていきました。

わたし達人間の生命もそういうものなのではないかと思います。あきらめてしまったらそこで終
わってしまう。誰がどう思おうと、何と言おうと、「未来の子供達のためによりよい世界を残す」
ことは決して間違いではないのですから。最後の一人になったとしてもあきらめずに生き抜くこ
とが、子ども達にしてやれる唯一のことではないでしょうか。

国内でも海外でも心の痛む事件ばかりが毎日あります。一日も早く、地球上のすべての子ども
達が安心して生活できる、「幸せ」を肌で感じられる日がやってくることを切に祈りながら、自分
に出来ることが何なのか、問いかけながら生きていこうと思います。

本当にありがとうございました。

元気出してくださいね。


++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司
 

最前線の子育て論byはやし浩司(308)

●子どもの世界を守るために……

 性にめざめるころ、そのまま性の世界にのめりこんでしまう女の子と、そうでない女の子がい
るのがわかる。

 どちらがよいとか、悪いとか、そんなことを言っているのではない。

 ただ、現代という時代においては、子どもたちを取り巻く環境が、ますます劣化しているという
こと。売春や援助交際は、すでに日常化している。「出会い」と呼ばれる、フリーセックスも、今
では珍しくも、何ともない。

 が、問題は、性病。その中でも、エイズの問題がある。

 「まさか……」「うちの子にかぎって……」と思っているうちに、自分の娘が、そのエイズに感染
する。それはもう、病気という病気ではない。十字架という、十字架ではない。もしあなたが、「う
ちの娘や、息子は、そういう病気とは無縁」と思っているなら、その考えは、甘い。改めたほう
がよい。

 2015年までには、この日本でも、エイズ感染者は、若者を中心に、数万人以上になると、予
測されている。が、それで止まるわけではない。さらに感染者数は、ふえる。発症者もふえる。
そして死亡者も、ふえる。

 そこであなたは、「学校で……」「教育で……」と考えるだろう。しかしこの問題だけは、学校
や教育では、どうにもならない。はっきり言えば、学校や教育の、その外の世界の問題であ
る。性にめざめる子どもを、おさえる方法など、ない。それは道徳や倫理を超えた世界の問題
である。

 が、対処方法はないわけではない。

 子どもは、自ら、考える子どもにする。以前、こんな子ども(小3女子)がいた。

 たまたまバス停で、出会った。そばに、自動販売機があった。そこでその女の子に、「缶ジュ
ースを買ってあげようか」と声をかけると、その女の子は、こう言った。

 「いいです。今、ジュースを飲んだら、お母さんがつくってくれた、夕食を食べることができなく
なります」と。

 少ないが、そういう子どももいる。また、私たちは、自分の子どもを、そういう子どもにしなけ
ればならない。

 コツは、ただ一つ。欲望に耐えられる子どもにする、こと。

 が、現実は逆である。

 子どもが生まれると、親はもちろんのこと、親類縁者たちが集まってきて、「蝶よ、花よ」と、子
どもに手をかける。お金をかける。時間をかける。

 目一杯、子どもの欲望を満足させてしまう。こうした安易な子育て観が、子どもをして、欲望に
対して、抵抗力のない子どもにしてしまう。性にめざめるころ、その性にのめりこんでしまう子ど
もというのは、そういう子どもをいう。

 これは私のあくまでも印象だが、小学5、6年生を境に、いわゆる「飛んでしまう女の子」に
は、それ以前に、ある一定の特徴がある。

 その第一は、どこか派手になる。第二に、妙におとなびていて、それでいて、おとなをなめる
ような言動が見られるようになる。第三に、それなりに「女」としての魅力を、自ら、意識してい
る。

 概して言えば、頭がよいほうに属する。あるいは何かにつけてませていて、物知り。どこか、
チャカチャカしている。ファッションにも敏感。そんな感じである。

 このタイプの子どもは、小学5、6年生になると、急速におとなびてくる。目つきまで、変わって
くる。以前だが、私にこんなことを言った女の子(中学2年生)がいた。

 「先生は、まじめエ?」と。そこで私が、「まじめだよ」と答えると、「何、言ってるの。子どもが
いるくせに」と。

 そのときは、その意味がわからなかった。しかししばらくしてから、その意味がわかった。そ
の女の子は、「先生は、セックスをしているのか?」という意味で、私にそう聞いた。その女の
子のいう、「まじめ」というのは、そういう意味だった。

 で、その女の子も、いつも携帯電話を片手に、男遊びを繰りかえしていた。が、ここで大きな
問題にぶつかる。そういう事実を、親に伝えるべきかどうかという問題である。

 この世界には、「内政不干渉」という大原則がある。私の仕事は、親から委託された仕事を、
委託された範囲でする。それ以外のことは、相談や、質問があるまで、しない。またしてはなら
ない。親に伝えれば、伝えた段階で、私と生徒の信頼関係は、そのまま崩壊する。

 それに確たる証拠があるわけではない。遊んでいるらしいというのは、あくまでも、カンであ
る。目つきとか、あやしげな言い方、そういうもので、それがわかる。その女の子も、筆箱の中
に、金製の飾りをもっていた。多分、どこかの男に買ってもらったものだろう。

 私が、それを指でつまみながら、「これは、何だ?」と声をかけると、「ウフン〜。いいじゃア〜
ン……」と。なまめかしい声だった。

 が、こういうケースでも、つまり性にめざめたとしても、それはそれ。おとなになるために、だ
れしも経験する、「春」である。関門である。中学生だから早いとか、高校生だから遅いとかいう
判断をしている間に、そういう子どもも、あっという間に、おとなになる。おとなの仲間入りをす
る。

 が、エイズは、そうではない。そうはいかない。体の中に、時限爆弾をかかえるようなもので
ある。しかも感染という方法で、まわりの人たちを、どんどんと不幸にしていく。

 S市内のある中学校で、一人の女の子がエイズに感染しているとわかったときのこと。その
話は、生徒から生徒へと、またたく間に、広がってしまった。もちろん親たちにも。

 とたん、その学校は、パニック状態。その女の子が、その学校の男子生徒の何人かとも、関
係していたからである。さらにこれは、アメリカのある州立大学での話だが、その大学のフット
ボ−ルクラブの学生、60人について調べたところ、何と、15人もの学生に陽性反応が出たと
いう。

 15人といえば、25%である。いくらエイズ大国とはいえ、これには、大学当局も驚いた。そし
てそのあと、その大学は、その対策に追われ、とても授業どころではなくなってしまったという。

 そういう現実が、この日本でも、もう目の前に迫っている。

 では、どうするか?

 私たち一人一人の親が、賢くなるしかない。その賢さで、子どもを包むしかない。もっとわかり
やすく言えば、自ら考え、行動し、責任をとる子どもにする。その見本を、日常生活の中で、私
たち親が示す。

 子どもの世界を守るためには、もう、それしかない。

 そうそう、こんな話も、もれ伝わってきている。

 そのS市で、エイズになった中学生の親だが、娘がエイズとわかったとき、近くの神社へ行
き、(オハライ)なるものをしてもらったという。そしてその神社の神主の指示に従い、神棚の位
置をかえ、子ども部屋には、別の大きな神棚を置いたという。

 この話からも、その親が、いかに狼狽(ろうばい)し、理性を失ったかがわかる。


+++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司※

最前線の子育て論byはやし浩司(309)

【近ごろ・あれこれ】

●脱北者の人たち

 またまた北京の日本人学校に、29人もの脱北者が、かけこんできたという。全員、韓国行き
を希望しているという。

(韓国側の報道によれば、「韓国行きを要求」とある(朝鮮日報)。報道姿勢にも、微妙なちが
いがあるようだ。)

 これに対して、K国は、国連難民高等弁務官事務所(UNHCR)と、赤十字国際委員会に書
簡を送り、脱北者の韓国亡命を阻止するよう措置を求めたという(8・4)。

 つまりアメリカや韓国が、そそのかしているから、みな、脱北するのだ、と。ものは考えようだ
が、ここまで事実認識がずれていると、理解に苦しむ。ホント!

 で、その脱北者たちだが、韓国へ来ても、自由主義社会への同化に、苦しむようだ。

 K国では、ものを共有する意識が強いため、脱北者たちは、「平気で近所の桃を食べたりす
る」(北海道新聞)そうだ。ほかに税金とか、利益という概念が理解できない、など。韓国の大
統領が弾劾(だんがい)裁判にかけられたときには、「反乱ではないかと、(韓国に住む脱北者
たちは)、驚いていた」(北海道新聞)という。

 こうした意識のズレを知るとき、同時に、「では、私たち日本人は、だいじょうぶか」という問題
にぶつかる。

 たとえば「日本は、人身売買で、監視対象国になっている」(読売新聞・04年8月)となってい
るという。

 アメリカ国務省の発表によれば、「日本は、世界の女性や子どもを、性産業に従事させるた
めの目的地になっている」「日本政府は、じゅうぶんな対応能力がありながらも、適切な措置を
怠っている」と。

 そういえば、10年ほど前、女子中高校生の援助交際が問題になったとき、アメリカ人の友人
も、驚いていた。「日本では、子どもの売春が、野放しになっている!」と。

 一方、家庭の女性たちも、甘い。毎週のように、そういう場所へ、酒を飲みに行くダンナに対
して、一言も、反対しない。文句も言わない。酒を飲みながら、何をしているか、知らないはず
はないのだが、知らぬフリをしている。見て見ぬ、フリをしている。

 こういう世相の中で、日本では、今、エイズの感染者が爆発的にふえつつある。アメリカでも、
オーストラリアでも、そしてタイでも、エイズの感染を、おさえこむことに成功した。が、この日本
では、ふえつづけている!

 日本人というのは、自分に火の粉がかぶってこないかぎり、動こうとしない。長くつづいたあ
の封建時代の圧制の後遺症によるものだが、しかしこういう意識とて、外国へ出てみて、はじ
めてわかること。

 それにしても、あのK国を見ていると、いろいろと考えさせられる。何というか、ときには日本
の姿を、映しだしてくれるカガミのようにも思える。戦前の日本そのものを、あのK国に見るとき
さえある。

 徹底した鎖国主義。言論統制。大本営発表。独裁制。軍国主義などなど。朝鮮人の強制連
行という暗い歴史をひきずっているから、日本人が拉致されても、表立って、文句を言うことす
ら、できない。

 そのK国だが、10月には核実験をするかもしれないという。そして今は、後継者問題で、国
内が揺れているという。さてさて、どうなることやら……。本当に、いろいろと、考えさせられる。


●スケベな話

 ワイフが、こう言った。「若いときは、毎日、発情期のようなものだけど、年をとると、発情期
も、1か月に1回くらいになるわね。男は、どう?」と。

 男のばあいは、年をとっても、その気になれば、毎日だって、発情することができる。ただし、
その持続力が弱くなる? すぐ関心が、ほかのことにそれてしまう?

 ……と、私を基準にしてものを考えてはいけないが、発情はしても、シャボン玉のように、すぐ
はじけてしまう。しかしこんな心理を、ワイフに説明するのもめんどうだから、口を合わせて、
「男だって、1か月に一回くらいかなア……」と。

 「ただね、このところ、男と女の区別がつかなくなってしまった」と私。

ワイフ「どういうこと?」
私「相撲取りの、あのおっぱいを見ていると、ときどき、女性のおっぱいより美しく見えるときが
あるよ」
ワ「あら、気持ち悪い」
私「だから、相撲取りも、ブラジャーをつければいい」
ワ「ますます、気持ち悪い」と。

 生物学的には、男も女も、それほど、ちがわない。性器にしても、もともとは、女体だった体
が、アンドロゲンというホルモンの作用で、クリトリスが、ペニスになる。子宮がおりてきて、睾
丸になる。そのとき、女性の大唇陰の皮ふが、睾丸を包む、陰嚢(いんのう)になる。

 構造的にも、つまり色にしても、感触にしても、ちがうと考えるほうがおかしい。クレヨンしんち
ゃんがよくするように、ペニスを、内股へはさめば、見た目には、女性も男性も区別がつかな
い。

 「若いときは、女性というのは、宇宙人ほど、男の自分とはちがうと感じた。しかし今は、そう
でない。同じ人間と言うより、男と女を、区別して考えるほうがおかしい」と。

 しかし、男も、女性を意識しなくなったら、おしまい。ただ私のばあい、母親という女性たちの
世界に身を置いて仕事をしているから、実のところ、それもめんどうになってきた。恐らく今の
私なら、若い女性と混浴風呂に入っても、平気で雑談ができると思う。

 「今度、どこかの温泉で、若い女性といっしょに、混浴にでも入ってみるか」と言うと、すかさ
ず、ワイフが、こう言った。

 「バカねえ。だからあんたは、オメデタイのヨ。相手の女性がいやがることが、どうしてわから
ないの!」と。

 なるほど! そうだった! ハハハ。


●Ambitious Japan

 今、東海道新幹線(JR)の車両の横に、「Ambitious Japan」と書いてある。

 「Ambitious」と言えば、W・クラーク博士。明治10年、札幌農学校(現在の北海道大学)を
退任するときに、クラーク博士は、「Boys, be ambitious!」と言ったという。

 日本では、「少年よ、大志を抱け」と翻訳されている。

 その後、この翻訳は、正しくないという議論が、あちこちから起きた。実は、私も、そう思う。つ
まり、正しくないと思う。「ambitious」というと、「野心的な」という意味。反対に、小さな世界で、
こじんまりと生きている人のことを、「ambitious」とは、言わない。

 そういう意味での、「ambitious」である。「大志」というと、どこか出世主義のにおいが、プン
プンとする。明治という時代は、そういう時代だったかもしれないが、しかしアメリカ人のクラー
ク博士に、そういう意識があったかどうかは、疑問である。

 あえて訳すなら、「生徒たちよ、こじんまり生きないで、もっと元気を出せ」という意味ではない
のか。英語で、「ambitious」というと、どこか「他人を蹴落としてでも、前に進め」というニュアン
スを感ずる。どこか荒々しく、乱暴。

 たとえば会話でも、「He is an abitious man.」と言ったときは、その彼をほめるという
よりは、「彼はやり手」という意味で使う。

 私のpoorな英語力で、こういう解釈を加えるのは、危険なことかもしれないが、少なくとも、
「大志を抱け」という意味ではない。

 で、その新幹線。私は、「Ambitious Japan」という言葉が好きである。この不況下。みん
な、どこか元気をなくしている。自信をなくしている。

 しかしあの新幹線が、轟音とともに走りすぎるのを見るたびに、「日本も、まだまだがんばって
いるな」と思う。「捨てたものではないな」と思う。

先日も、オーストラリアの友人が、日本へ来て、新幹線が走っていることよりも、すでにその新
幹線が、35年以上も前から走っていることに、驚いていた。

 韓国の新幹線は、やっと今年になってから走った。中国は、これからである。が、日本では、
35年以上!

 「さあ、日本よ、元気だそう。まだ俺たちには、パワーがある」という意味での、「Ambitious 
Japan」である。

 多分、JRのことだから、その道の英語の達人を、アドバイザーにしながら、この言葉を考え
たのだろう。けだし、正解である!

 で、一つだけ心配するのは、あの「Ambitious Japan」という英語を見て、中には、「日本
よ、大志を抱け」と翻訳する人も、いるのではないかということ。それについては、ここで、「その
訳は、まちがっている」ということを、改めて、確認しておきたい。

 さあ、みんな、元気を出して、前に進もう! Let's be ambitious!


●内側論

 ある女性(H市、KYさん)から、こんなメールをもらった。

「……少し考えてみました。
私は内側を向いて生活しています。
内側とは自分自身それから主人、子供側ということです。
例えばPCも夜はある程度で閉店、家族一緒に
お風呂・夕食をするために、18:00以降の予定は入れないとか。

ある意味では、すごく自己中心的だと思いますが
我が家では、いつしか定着した日常です。

この内側向きの積み重ねが今です。
悪くないです。」と。

私も、考えた。とくにこの中の「内側」という言葉に、心がひかれた。

 KYさんが言う「内側」というのとは、「家庭を守り、家族を大切にする」という意味である。その
中で、KYさんは、たとえば「午後6時以後は、予定を入れない……」などと、書いている。

 こうした家族どうしの取り決めは、家族を守るためには、とても重要なことかもしれない。で、
私のばあいを考えてみた。英語でも、「ハウス・ルール」という。たとえば前にも取りあげたが、
「クリスマスにせよ、誕生日にせよ、家族どうしのプレゼントは、買ったものはだめ」というのも、
それにあたる。

 ほかに、土日は、仕事の予定を入れないとか、夕食はいっしょに食べるとか、いろいろあっ
た。「あった」というのは、息子たちがまだ小さかったときのことをいう。今は、とっくの昔に崩壊
している。また、一応、私の家もそう決めてはいたというだけで、しかし必ずしも、守っていたわ
けではない。

【ハウス・ルール】

第一条総則

 家族は、守りあい、助けあい、教えあい、いたわりあい、いっしょに住む。家族が困ったときに
は、力を貸し、知恵をだしあう。

第二条、約束

 家族は、家族どうしでした約束の実現に向けて、最大限努力する。ウソをつかない、自分を
飾らない、そして自分の心を偽らない。

第三条、尊重

 家族の上下意識をなくし、たがいの命令はしない。干渉はしない。子ども部屋や机の中はの
ぞかない。たがいの悪口は、言わない。

 ほかにもいろいろあるが、こうしたルールを、しっかりとつくっておくことは、大切なことではな
いか。

 さて、KYさんについて。

 私のワイフも、よく似たところがある。ときどき、「お前には、やりたいことがないのか?」と聞く
と、ワイフは、「みんなが幸福なら、それでいい」などと答える。これは私のワイフのばあいだ
が、ワイフは、名誉や地位には、まったくと言ってよいほど、関心がない。若いころからテニス
をしているが、まったく上達しない。

 そこである日、「どうせ練習するなら、ウインブルドンにでも出る覚悟でしたら? ミセス・シニ
ア杯というのもあるのでは?」と言うと、やはり、「私はみんなと楽しくやれば、それでいい」と。

 すべてを先回りで、悟っているとか、そんな雰囲気である。多分、KYさんも、そうかもしれな
い。

 その点、男というのは、バカなところがある。私も含めてだが、価値のあるものを粗末にし、
一方、それほど価値のないものに、執着する。あとは、その繰りかえし。何のことはない、私た
ちが求めている幸福というのは、すぐそばにある。すぐそばにあって、私たちに見つけてもらう
のを、息をひそめて、静かに待っている……。

 何気ない言葉だが、私は、KYさんのメールを読んで、心を少し洗われたような気分になっ
た。忘れかかっていた何かを、ふと思い起こされたような気分である。

 KYさん、ありがとう! 私ももう一度、内側を見つめなおしてみます!


●学習意欲の低下
 
 子どもたちの学習意欲が、低下しているという。

 ベネッセ未来教育センターの調査によると、

 子どもの学力が低下していると思うか……かなりそう思う。(6・2%)
                      やや思う。(47・0%)

 子どもの学習意欲が低下していると思うか……かなりそう思う。(16・3%)
                      ややそう思う。(51・1%)

 家庭の教育力が低下していると思うか……かなりそう思う。(50・5%)
                    ややそう思う。(40・8%)

 この調査は、全国の市区町村の、3225人の教育長を対象になされた(03年9月〜10
月)。

 この調査結果からわかることは、全国の教育長は、「家庭の教育力については、91%近く
が、低下していると思い、67%が、子どもの学習意欲が低下している」と思っているというこ
と。

 このことは、私も実感している。が、考えてみれば、これはおかしなことだ。

 少子化の流れの中で、出生率は、1・29にまでさがっている。一人の女性が、生涯に産む子
どもの数が、1・29人(2003年度、厚生労働省)だという。

 子どもの数が減った分だけ、それだけ子どもの教育に対する密度が濃くなるはず。またそれ
だけ、ていねいになるはず。が、現実は、その逆である。なぜか?

 これはあくまでも私の実感だが、今、家庭教育は二極化が進んでいると思う。ていねいで、ま
すます密度が濃くなる家庭がある一方で、放任で、ますます無責任な家庭がふえているという
こと。たとえばどこの学校に講演に行っても、必要以上に教育に熱心な親が話題になる一方
で、家庭崩壊、育児崩壊の家庭が、話題になる。

 ある学校の校長は、こう話してくれた。

 「熱心は、熱心なのですが、どこかピントがずれている親が多いのも、事実です」と。たとえば
ささいな問題を、針小棒大に考えて、結局は、大局を見失ってしまうと。

 「たとえば茶髪の子どもがいたとしますね。それで茶髪は好ましくないと、親に伝えると、『個
人の自由だ』『個性だ』と、反論してきます。そこで何度か、その親と面談して、説得にかかるの
ですが、中には、まったく応じてくれない親もいます。

さらに、子どもどうしのちょっとしたけんかを、そら、いじめと騒いだり、先生のちょっとした言葉
の言葉尻をつかまえて、教師の言葉としては、不適切だとか……。実際に、こういうことを繰り
かえしていると、現場の教師は萎縮してしまいます」と。

 今、現場の先生たちは、本当に悲鳴をあげている。通常の学力指導のほか、本来なら家庭
で親がすべき家庭教育まで、押しつけられている。ベネッセ未来教育センターのした調査結果
の裏には、こんな事実が隠されている。
(はやし浩司 学力 子どもの学力 学力低下)


●授業料

 長引く不況のせいか、「私立より公立」と考えている親が、ふえているという。しかし実態は、
どうなっているのか? 

 そこでインターネットを使って、どうか、調べてみた。まず、学費についてだが、文部科学省の
2002年度の調査によると、つぎのようになっている。

 公立中学校の年間平均授業料は、 43万7000円。
 私立中学校の年間平均授業料は、123万2000円、だそうだ。

 この数字を見るかぎり、私立中学校の年間平均授業料は、公立中学校の約3倍ということに
なる。決して、安い額ではない。月平均になおすと、私立中学校では、10万円ということにな
る。が、実際には、これではすまない。すまないことは、親なら、だれでも知っている。

 さらに調べてみると、実際には、私立を希望する親がふえているという(日能研)。

 2004年度の首都圏の私立中学校受験率は、14・8%。この数字は、15年前にくらべると、
5%もふえているという(横浜市で調査)。「私立のほうが、よりよい授業を受けられそう」という
ことだそうだが、実際には、公立中学校の教育力の低下が理由の第一と考えてよい。

 こういった数字を並べてみると、日本の親たちは、「私立は、学費が高いから、できるだけ公
立を。しかし子どもの将来を考えると、やはり私立を」と考えているのがわかる。しかしそれは、
そのまま、親たちの迷いととらえてよい。

 しかしそれにしても、本当に、この日本では、子育てに、お金がかかる。私は、この問題を、
すでに20年以上も前から取りあげているが、一向に改まる気配がない。政治の貧困という
か、無責任というか……。このままでは、日本の少子化は、ますます進む。進まざるを、えな
い。

 だれがこんな国で、子どもを育てたいと思う? ほんの少しだけ、ものごとは、冷静に考えて
みろ!

【補記】

 出生率(合計特殊出生率)が、1・29人になった。が、それ以上に、実は問題になっているの
が、女性の「第1子出生年齢」。第1子をもうける女性の平均年齢が、年々、高くなっている。

 1950年代……平均24・4歳
 1970年代……平均25・6歳
 1990年代……平均27・0歳
 2003年 ……平均28・6歳(厚生労働省・人口動態統計)

 たった半世紀で、約4・2歳も、遅くなってきている。経済的理由、晩婚など、いろいろ理由は
あるのだろう。しかしその分だけ、つまりより高齢化する分だけ、第2子が産みづらくなる。少子
化の背景には、こんな問題も隠されている。
(はやし浩司 少子化 晩婚 出生率)


●夢のない子どもたち

 ロシア・北オセチア共和国のベスランで起きた学校占拠事件は、小学生たちにも、強い衝撃
を与えた。

 どの小学生も、顔をあわせると、その話を始める(9月6日)。「みんな殺された」「裸にされ
た」「爆弾で吹っ飛ばされた」と。

 こういう話は、決して好ましいものではない。やがて子どもたちの心を、ボディブローのよう
に、むしばみ始める。おとなたちのへの不信感、未来への不安感となって、はねかえってくる。

 そこで私は、「そんな事件は例外だよ」「この日本では、ありえないよ」と、必死になって、それ
を打ち消す。が、焼け石に水!

 そうでなくても、子どもたちから、夢が消えつつある。「明日は、きっといいことがある」と思っ
て、一日を終える子どもは、男子30%、女子35%にすぎない(「日本社会子ども学会」、全国
の小学生3226人を対象に、04年度調査)。

 子どもだから、明日という未来に向かって、夢や希望をいだきながら生きているというのは、
もはや幻想でしかない。

 が、否定的なことばかりを言っていてはいけない。

 私たちは、親として、子どもの夢や希望を前向きにとらえていく。これを発達心理学の世界で
も、役割形成という。子どもが「花屋さんになりたい」と言ったら、すかさず、「そうね、すてきな
仕事ね」と言ってあげる。

「明日は庭に、花を植えてあげましょうね」「今度、テーブルを花で飾ってあげましょうね」と。

 こういう前向きなストローク(強化)が、子どもに夢をもたせる。そしてそれが子どもをさらに前
向きに、ひっぱっていく。

 つまりは、子どもたちに夢をもたせるのは、親の役目ということになる。決してむずかしいこと
ではない。が、実際には、世の親たちは、子どもの夢を破壊しながら、それに気づいていない。

 「あなたも、Mさんのような宇宙飛行士になるのよ」「でも、今の成績では無理ね」「もっと勉強
しなければ、S中学校へは入れないわよ」と。

 こうして子どもたちは、役割混乱を起こす。心理的にも、情緒的にも、きわめて不安定な状態
になる。その役割混乱の深刻さについては、たびたび書いてきたので、ここでは省略する。

 子どもたちから夢が消えたのは、あくまでも、その結果でしかない。今度のベスランで起きた
学校占拠事件は、さらに、それに拍車をかけた?


●もの知りの子どもより、深く考える子どもを!

 心の抵抗力は、「考える力」によって、決まる。その抵抗力が、子ども自身を、守る。

 たとえばインターネットや、携帯電話を使った、「出会い系サイト」というのがある。凶悪犯罪
の温床にもなっている(04年度、「青少年白書」)。

 こうした出会い系サイトは、もはやコントロール不能状態にあるとみてよい。それはたとえて
言うなら、性病のようなもの。もう、この日本には、出会い系サイトにしても、性病にしても、そ
れらからのがれる場所は、ない。方法も、ない。

 そこで最後の砦(とりで)は、子ども自身の「力」ということになる。「抵抗力」と言ってもよい。
つまりは、子ども自身を、「自ら考える子ども」にするしかない。 

 が、いまだに幼児教育というと、知育教育と考えている人が多い。知識を身につけさせること
が、幼児教育というわけである。英会話を覚えさせ、掛け算の九九を暗記させる。それが幼児
教育、と。

 決してムダだとは思わないが、しかしそれだけでよいとは、だれも思っていない。とくにこれか
らの日本では、そうだ。

 で、どうしたらよいのか? 子どもを自ら考える子どもにするのは、どうしたらよいのか?

 方法は、もう一つしかない。親自身が、自ら考える姿勢を、子どもに見せることである。そうい
う環境で、子どもを包む。親が、意味もないバラエティ番組を見てゲラゲラと笑っていて、どうし
て子どもを考える人間に育てることができるだろうか。

 ちなみに、「子どもに見せたくない番組」(PTA全国協議会調査)としては、つぎのような番組
があげられている。

 ロンドンxxx(テレビ朝日系)
 水xx!(フジテレビ系)
 クレヨンxxちゃん(テレビ朝日系)
 めちゃ2xxxxッ(フジテレビ系)などがある。

 こういう番組を、あなたの子どもが好んで見ているようなら、あなたの子どもに将来はない(失
礼!)。


●文字の誤解

 インターネット時代になって、文字による誤解が、問題になっている。会話とちがって、文字に
は、独特の雰囲気がある。わかりやすく言えば、文字は、それを読む、読む人側の心理状態
で、読む。

 たとえばあなたがAさんに対して、あまりよい印象をもっていなかったとする。そういうAさんか
らメールが届く。

 内容は、こうだ。

 「せっかくだけど、今度の同窓会、やめるわ。気分を悪くしないでね。じゃあ、バ〜イ!」と。

 あなたは、このメールを、礼儀を知らない、失礼なメールだと思う。そしてこう憤慨(ふんがい)
する。「いやなヤツ!」と。つまりその時点で、Aさんに対する印象を、さらに悪くする。

 こういう例は、多い。本当に多い。だから、私のばあい、返事を書くのも、おっくうになる。てい
ねいに書くのもめんどうだし、さりとて、簡潔な返事を書けば、このAさんのように、私を誤解す
るかもしれない。

 さらに携帯電話の延長のようなメールも、多い。会話そのままというようなメールである。こう
なると、さらに誤解が多くなる。

 私はすでに旧世代の人間かもしれない。しかし住所や名前のわからない人に返事を書いて
いると、言いようのない不安感に襲われる。だから実際には、返事を書かない。(若い人は、そ
の点、平気なのかもしれない。今度、みんなに聞いてみようと思っている。)

 情報のやりとりが、それだけ気楽になってきているということか。だからこそ、やはり、それだ
け、誤解が多くなるということ。だからこそ、ますます慎重にならざるをえないということになる。

 さらに文字情報の限界というか、何人かの人と同時に交信していると、頭の中で混乱し、区
別がつかなくなることがある。

 たとえば「min-ton」という名前の人から、メールが届く。そしてその人に何かと、不愉快な思
いをさせられたとする。(実際には、私の誤解によるものだと思うが……。)

 つぎに今度は、「cha-san」という人からメールが届いたとする。どこか雰囲気が似ている
(?)。そう思っただけで、その人への印象が決まってしまう。

 さらに困るのが、子育て相談。北海道のXさんの相談に答えているとき、九州のYさんから相
談のメールが入る。同時に相談に返事を書いていると、何がなんだか、わけがわからなくなっ
てしまう。

 で、それで終わればよいのだが、数日後、Xさんから、「先日の件で……」とあると、さあ、た
いへん! さらに「あの件で……」とか、「あれからあのことは……」とあると、さらにたいへん!
 もう、何がなんだか、わけがわからなくなってしまう。

 どこかで顔を見たとか、会話をしたとかいうことがあれば、頭の中で、その人のイメージをつく
ることができる。つくりながら、返事を書き、そのまま頭の中を整理することができる。しかしイ
ンターネットでは、それができない。だから余計に混乱する。

 こうした誤解が、事件につながることもあるという。(こわいぞ!)どこかの小学校で起きた、
児童による殺傷事件の背景にも、インターネットがあったと言う人もいる。決して、この問題
は、安易に考えてはいけない。

 さて、みなさんは、こうした問題を、どう処理しているだろうか。それとも、この問題は、ボケが
始まった、私の個人的な問題なのだろうか。(ゾーッ!)何かよい方法はないものかと、あれこ
れ考えている。

【補記】

 あちこちの「相談サイト」などをのぞいてみたが、「相談」を受けつけているサイトは、今のとこ
ろ見つかっていない。たいていはそれぞれが掲示板に書きこんで、それにだれかが返事を書く
というシステムになっているよう。

 やはり、私のようなサイトで、相談を受けつけることには、いろいろ問題があるということか。
今後の活動については、要検討課題。

 みなさんも、できれば相談ごとは、掲示板のほうに書きこんでください。よろしく、お願いしま
す。

【補記2】

 以前、電話相談を受けつけていたときも、同じような経験をした。そのためある時期、午前中
のほとんどが、それでつぶれてしまったことがある。大半の方は、私のこうした活動を好意的に
理解してくれた。

 しかし中には、時間をかまわず電話してくる人がいた。名字くらいはみなさん、話してくれた
が、ほとんどの人は、住所など言わない。こちらも、事情が事情だから、聞かない。中には、明
らかに偽名という人もいた。

 そこで電話相談は、午前中のみとしたが、それを知らない人は、土日とか、真夜中に、電話
をかけてきた。

 そこで心を鬼にして、03年の4月1日からは、すべての電話相談を断ることにした。そのか
わり、今度は、インターネットでの相談に、力を入れることにした。が、今度は別の問題が起き
てきた。ここに書いた問題は、その一つである。

 やがて、テレビ電話のようになり、相手の顔や、子どもの様子をみながら、たがいに連絡を取
れるようになるのかもしれない。そうなれば、文字情報がもつ限界というカベを破ることができ
るかもしれない。今は、その過渡期ということか。

***********************

【無料マガジンをご購読のみなさんへ】

できれば、有料版「まぐまぐプレミア」を
ご購読ください。一か月200円の負担と
いうことになります。

今のところ、無料版、有料版ともに内容は
ほとんど、同じです。

よろしくお願いします。

***********************

●自己愛者

 自己愛が肥大化するから、自己中心的になるのか。それとも、自己中心性がきわまるから、
自己愛者になるのか。

 どちらにせよ、自己愛者は、生活のあらゆる面で、ものの考え方が、自己中心的になる。
が、ここで重要なことは、自己愛者自身が、自分がそうであっても、それに気づくことはまず、な
いということ。

 このことは、自己中心的な人を見ればわかる。自己中心的でありながら、その人が、それに
気づくことは、まずない。自分が自己中心的であるということは、その人が、自己中心的でなく
なったときはじめて、わかる。

 生きザマというのは、そういうもの。脳のCPUに関係しているから、自分の生きザマを客観的
に知るということ自体、たいへんむずかしい。

 その自己愛の特徴として、ここであげる(1)異常なまでの自己中心性のほか、(2)他人を信
じない完ぺき主義、(3)他人の批判を許さない。批判されると、極度の緊張状態に置かれるな
どがある。

 こうした現象は、子どもの世界では、顕著に現れる。というのも、子どもというのは、成長とと
もに、自己中心性から、利他的思考へと、自分を転換させる。(自己中心的なまま、おとなにな
る子どもも、少なくないが……。)

 総じてみれば、幼児は、すべて自己愛者である。その幼児が、成長とともに、その自己愛か
ら、他人の立場でものを考えることができるようになる。

 こんなことがあった。

 幼児から、小学生にかけて、かなりはげしい多動性を示した子どもがいた。幼稚園でも、そし
て小学校に入学してからも、毎日のように問題を引き起こした。

 しかしそんな子どもでも、小学3、4年生を境に、少しずつだが、落ちつきを見せるようになっ
た。自己意識で、自分をコントロールできるようになったからである。

 その子どもが、中学3年生になり、いよいよ卒業ということになったときのこと。私は恐る恐
る、その子どもにこう聞いてみた。

 「君は、小さいころ、先生や友だちに、かなり迷惑をかけたが、それを覚えているか?」と。

 するとその子どもは、ケロリとした表情で、こう答えた。

 「ううん、ぼくは何も悪いことをしてないよ。先生も、みんな、ぼくが何も悪くないのに、毎日、目
のカタキにして、ぼくばかりを怒った」と。

 その子どもは、自分のことが何もわかっていなかった。私はその子どもを見ながら、改めて、
自分を知ることの難しさを、思い知らされた。恐らく、その子どもは、おとなになっても、自分が
多動性のある子どもだったと気づくことはないだろう。教職の道に入り、ADHD児についての研
究者になっても、自分に気づくことはないだろう、と。

 自分を知るということは、そういうことをいう。

 ところで、話は、ぐんとそれるが、ブルース・ウィリス主演の映画に、『シックス・センス』という
映画がある。自分はすでに死んでいるのに、自分が死んでいるということに、最後まで気がつ
かないという、あの映画である。

 あの映画では、最後に、ブルース・ウィリス演ずる、小児科医のマルコム・クロウは、実は自
分自身が幽霊であったことを知る。私はあの映画を見たとき、そういった衝撃というのは、日常
の生活の中では、よくあることではないかと知った。

 たとえばあのソクラテスは、『無知の知』という、有名な言葉を残している。「自分は無知であ
るということを知る」という意味である。それなども、その一つである。

 あるとき自分がより高度な知恵を手に入れたとき、それまでの自分が、いかに無知であった
かを思い知らされる。あるいは、ある男性は、こう言った。「マザコンというのは、他人のことと
ばかり思っていましたが、自分がそのマザコンだったと知ったときは、強いショックを受けまし
た」と。そういうことは、よくある。

 同じように、自己中心的な生き方をしていた人が、ある日、何かのきっかけで、その自分の
自己中心性を思い知らされることがある。とたん、それまでの自分の生きザマが、つまらないも
のであったかを知る。

 これなども、どこかあの『シックス・センス』に似ている。……という意味で、あの映画をとりあ
げてみた。

 実は最初にも書いたように、自己愛者は、自分がその自己愛者であることに、気づくことはま
ず、ない。自分が、自己愛から離れてみて、それまでの自分が、自己愛者であったことに、はじ
めて気づく。

 そこで自己診断ということになるが、つぎの点で、いくつか自分に当てはまることがあるなら、
あなたは、その自己愛者と思ってよい。

( )完ぺき主義で、他人に仕事を任せられない。
( )何でもかんでも、自分の思いどおりにならないと気がすまない(完ぺき主義)
( )この世界では、当然のことながら、「私」が一番、大切。
( )自分がいちばん正しい。ふだんの会話も、命令口調が多い。
( )まわりが自分を認めないときは、逆恨みしたり、不平不満をもちやすい。
( )他人に批判されたり、批評されるのを好まない。
( )他人に批評されたりすると、狼狽したり、混乱状態になる(自己の無謬性)。
( )独断性が強く、わがまま、自分勝手、自己中心的(自己中心性)。
( )孤独で、さみしがりや。友人が少なく、他人に気を許せない。
( )他人に心を許すことができない。そのためどうしても、ウソが多くなる。
( )ときとして常識ハズレ、過激な行動にでやすい(社会性の欠落)。
( )自分を飾り、仮面をかぶることが多い。よい人に見せる。
( )そのため他人と交際すると、必要以上に神経疲労を起こしやすい。

 こうした自己愛が自分に見られたら、利己から利他への転換をはかる。他人の心の中へ一
度、自分を置き、その状態から、その人の目を通して、あなた自身をみつめてみる。その訓練
を繰りかえす。

 これを繰りかえしていると、自分から自分が離れ、相手の立場になって、ものごとを考えられ
るようになる。と、同時に、自己愛から、自分を解放させることができる。

 自己愛そのものは、孤独な生き方である。そして自己愛者の多くは、自己愛的に行きなが
ら、それが「私らしい生き方」と、誤解している。しかし自己愛は、決して、個性的な生き方では
ない。もちろん望ましい生き方ではない。

 自己愛者が孤独なのは、いわば自業自得。しかし同じように、その周囲の人も、孤独にな
る。親子や夫婦でありながら、心の通わない状態がつづく。私の印象では、自己愛者の親ほ
ど、子どもと断絶しやすい。あるいは夫か妻か、どちらか一方が自己愛者であると、離婚しや
すい。統計的な数字があるわけではないが、実感として、そう思っている。

 実際問題として、自己愛者の人というのは、つきあうのに苦労する。一見、愛想がよく、ひと
づきあいもそれなりにうまい。しかし心は、閉じたまま。本人も疲れるが、その緊張感を感じた
とき、つきあう側も、疲れる。

 ただここにも書いたように、自己愛者が、自分が自己愛的であることに気づくことは、まずな
い。自分が自己愛的であるかどうかは、自分自身が、利己から利他へ、転換できたときに、は
じめてわかる。

 もしあなたが、ここでいう自己愛者であるなら、私が書いたことを参考に、自分の姿を客観的
に知るのもよいだろう。あの『シックス・センス』の中でブルース・ウィリスが覚えたような衝撃
(?)を、あなたも経験するのではないだろうか
(はやし浩司 自己愛者 自己愛 シックス・センス ブルース・ウィリス)

 【ある自己愛者】

 自己愛者の最大の特徴は、その自己中心性である。自分のことしかしない。自分のことしか
考えない。自分にとって利益のあることは、仮面をかぶってでも、それをする。しかし自分が損
をすることは、まったくしない。

 ときに他人に対して献身的に行動することはあるが、それ自体も、どこかで自分の利益を誘
導するため。自分のことをよい人だと思っている人の間では、すこぶるよい人を演ずる。しかし
その一方で、自分のことを批判する人や、批評する人を許さない。ときに、徹底的に、その人
を攻撃したり、排斥したりする。

 自己愛者は、自分をよく見せるために、細心の注意を払う。仮面をかぶることも多いし、当
然、ウソも多い。だから他人に気を許せない。気を抜かない。どこかピンとした緊張感が走る。
この緊張感が、まわりの人を、息苦しくする。

 が、自己愛者は、孤独。さみしがりや。他人との良好な人間関係を築くことができない。その
ため、神経疲労を起こしやすい。他人と少しまじわっただけで、神経をすり減らす。偏頭痛など
を訴える。他人に対して心を開けない分だけ、集団行動が苦手。

 その一方で、気を許した人の間では、わがまま、独断、命令口調が多くなる。その人を自分
の思いどおりに動かそうとする。そのため、完ぺき主義に陥りやすい。

 S氏(60歳)が、そういう人だった。今は、もうなくなってしまったが、自分のことしかしない、自
分勝手で、わがままな人だった。奥さんや子どもにすら、自分の心を開くことはなかった。どこ
か権威主義で、家父長意識が強かった。死ぬまぎわまで、「葬式だけは、しっかりとしてくれよ」
が、口ぐせだった。

 が、実際には、S氏の葬儀ほど、静かで、ものわびしいものはなかった(知人の弁)。通夜に
訪れた人も、ほとんどいなかった。たぶん、S氏には、それがわかっていたのではないか。自
己愛者というのは、そういう人のことをいう。

+++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司※

最前線の子育て論byはやし浩司(310)

【近況・あれこれ】

●モデムがおかしい?

 このところ、ADSLが、断線することが多くなった。プロバイダーの不調かと思ったが、あちこ
ちへ電話をかけてみると、どうやらモデムのほうに、原因があることがわかってきた。T電話会
社の管轄である。

 さっそく、新しいモデムを送ってもらうことにした。が、ふと、言いようのない不安感。

 以前、電話回線からADSLに切り替えたときの悪夢が、どんと襲ってきた。簡単にはことは
運ばない。あのときも、ああでもない、こうでもないと、四苦八苦している間に、数日がたってし
まった。

 「簡単に交換できますか?」と聞くと、「マニュアルどおりにしてくだされば……」と。

 この「マニュアルどおり」という言葉が、くせもの。しかし、交換するしかない。今日当たり、そ
のモデムが、送り届けられてくるはず。それにしても何かしら、いやな予感!

 (もし、楽天日記の配信が止まるようなことがあれば、ADSLの調整ミスと、思ってください。)


●父親と風呂の入る娘

 三重県のKさん(母親)から、メール。「中学生にもなった娘が、いまだに父親といっしょに風
呂に入っています。だいじょうぶでしょうか?」と。

 そこでインターネットを使って調べてみる。

 それにしても便利になったものだ。昔なら、1日がかりの調査が、瞬時にできる。しかも図書
館へ行く必要がない。どこかへ電話をかける必要もない。

 日記を配信してもらっている、楽天での調査結果をヒットした。

 それによると、

 360人の父親のうち、11%が、娘をもちながら、「いっしょに風呂に入ったことはない」と答え
ている一方、「娘が12歳以上になった今も、いっしょに入っている」と答えた人が、13%もいる
ことがわかった(インフォシーク社調査、04年5月)。

 この調査によると、50歳以上の父親は、娘と入ったことがないと答える一方、若い父親ほ
ど、娘が大きくなっていっしょに入る傾向が大きいことがわかった。

 ちなみに、
 
  7歳以上〜10歳未満……38%
  5歳以上〜 7歳未満……20%
 10歳以上〜12歳未満……17%
 12歳以上      ……4%、だそうだ。

 つまり中学生の女子のうち、約100人のうち、4人は、父親といっしょに風呂に入っているこ
とになる。三重県のKさん、安心しましたか?

 ただ近親相姦とか、そういう問題もないわけではない。私のところにも、よく、「娘のころ、父
親に性的虐待を受けました」というメールが届く。

 しかしいっしょに風呂に入る間がらでは、問題はないのでは……。私もかなりスケベなほうだ
が、自分の教え子には、まったく色気を感じない。(本当に感じない。)

それは、おそらく幼児のときからの生徒だからではないのか。ただ誤解を招くといけないので、
女児(女子)のばあいは、頭と手以外は、触れたことがない。

 これはこの世界に入るとき、当時の幼稚園の園長に、きびしく言われたからである。「どんな
ことがあっても、女の子を抱いたり、さわったりしてはいけない!」と。その教えは、今でも、しっ
かりと守っている。

【補注】

 男児のばあいは、私は平気で、抱いたりすることができる。「先生は、チューイ(注意)はしな
いぞ。チューをするぞ」と、男児を追いかけまわすこともある。

 実際、チューをしたことも何度かある。が、誤解しないでほしいのは、横で母親が参観してい
るとき、その母親の了解を求めた上で、そうしている。

私「お母さん、A君にチューしますよ」
母「いいです、いいです。してあげてください」
私「さあ、チューするぞ、チューするぞ」
子「やれるもんなら、やってみろ!」と。

 ふざけて遊びながら、子どもの心をほぐすことも、時には必要。しかしときどき、私は、こう思
う。

 「もし、学校の先生がこんなことをしたら、一回で、クビが吹っ飛ぶだろうな」と。

 信頼関係というのは、そういうもの。それに甘えてはいけないが、私の教室には、その信頼
関係が、充満している。ホント!


●幼児

 幼児といっても、2、3歳児と、4、5歳児は、まったく別人種と考えてよい。さらに0〜2歳児
と、2、3歳児は、まったく別人種と考えてよい。

 私は、4〜6歳児のことなら、よく知っているが、0〜4歳児のこととなると、まったくと言ってよ
いほど、わからない。本で読んだり、今の仕事の延長として、常識的なことを知っているにすぎ
ない。

 そういう前提で考えるなら、幼稚園の3歳児入園には、いろいろと問題がある。「今までは4
歳児入園だったが、今度から3歳児入園にします」と、つまりそうは、簡単にはいかないという
こと。

 たとえば3歳児のばあい、保育園などでは、排便のしつけが、大きな問題になる。「排便」で
ある。

 もともと「教育」を売り物にする幼稚園が、「排便」である。こうした矛盾というか、現場のとまど
いは、どこの幼稚園にもある。

 今度、政府は、構造改革特区に、幼稚園の3歳児入園を認めることにした(03年度より)。構
造改革特区として認められたのは、長野県の一部、岩手県の一部、佐賀県の一部、山口県の
一部である。が、現場の先生たちの評判は、よくない。

 その理由の一つが、ここにあげた、排便のしつけ、など。「まだ最低限の生活習慣が身につ
いておらず、指導に手が回らない」(文部科学省)ということらしい。幼児を知らない人は、2、3
歳児も、4、5歳児も、幼児は幼児。同じと考えるかもしれないが、冒頭にも書いたように、まっ
たく別人種と考えたほうがよい。

 さらに4、5歳児と、小学生は、まったく別人種。どこがどうちがうかと書き始めたらキリがない
が、「小学校の先生だから、幼児のことぐらい知っているだろう」とか、その反対に、「幼稚園の
先生だから、小学生のことを知っているだろう」と考えるのは、まったくの誤解。誤解というよ
り、幻想。

 このあたりにも、私は、幼児教育に対する無知と偏見が、蔓延(まんえん)していると思う。そ
の重要性から考えたら、幼児教育は、中学、高校の教育よりはるかに重要。奥が深い。子ども
が進むべき方向性のことを考えたら、この時期にすべてが決まる。

 中学、高校、さらには大学の教育などというのは、まさに幼児教育の燃えカスのようなもの。
これが35年以上、満4、5歳児から、高校3年生までみてきた私の、偽らざる実感である。

 (私としては、それがわかってもらえなくて、歯がゆくてならないのだが……。)

 こうした幼稚園の入園時期の緩和は、定員割れしている幼稚園の救済策と考えてよい。少子
化で、園児が少なくなった。だから3歳児入園というわけである。

 04年度からは、鳥取県の一部など、全国の18地域でも、緩和されることになった。


●熟睡できぬ恐怖

 このところ、私の最大の悩みは、睡眠調整がうまくできないこと。ちょっとしたことで、この睡
眠規則が、乱れてしまう。そして一度乱れると、あとは乱れっぱなし。もとにもどすのに苦労す
る。

 たとえば病院で出してもらった、睡眠導入剤がある。俗にいう、睡眠薬である。この睡眠薬に
も、いろいろあるらしい。

 のむと、眠くなる薬。明け方まで、ぐっすりと眠れる薬。さらに長時間、眠れる薬など。

 私のばあい、明け方までぐっすりと眠れる薬ということらしいが、丸々1錠ものむと、あとがた
いへん。いつもなら、6、7時間で目が覚めるが、それをのむと、9、10時間も眠ってしまう。

 しかも明け方から目を覚ますまでの間、幻覚症状が現われる。夢か現実か、わけがわからな
くなってしまう。(自分でもおもしろいと思うのは、目を覚ます夢を見ること。目を覚まして、起き
て、朝食を食べるのだが、それが夢だったりする。)

 そこでその1錠を、ナイフで、5分の1から、10分の1ほどに、割って、舌の先で溶かしての
む。が、それでも、眠りすぎてしまう。が、そのあとまた別の問題が起きる。

 翌日は、一日中、神経がピリピリする。さらにその反動というか、つぎの夜、床についても、眠
れなくなってしまう。体のほうが、勝手に、「昨日はよく眠ったから……」と、判断してしまうため
ではないか。(多分?)そう思って、自分をなぐさめる。「足して2で割ればいい……」などと、考
えることもある。

 だから結局は、その薬の世話になることは、めったにない。

 そういう私をよく知っているから、たとえば何かのアレルギー症状で、夜、熟睡できない子ども
の話を聞いたりすると、胸がつまる。本当に、つまる。何というか、生きているのもかわいそうと
いう感じにすら、なる。

 私自身も、20代のはじめから、50歳になるころまで、あの花粉症で苦しんだ。2月の終わり
から、5月の連休まで、例外なしの、毎年、である。あの苦しみは、花粉症になった人でない
と、わからないだろう。一時は、沖縄への移住すら、考えた。沖縄には、杉の木がないと言わ
れている。

 50歳になる少し前、どういうわけか、ウソのように花粉症は消えたが、今度は、睡眠障害
(?)である。ワイフは、「夜遅くまで、原稿を書いているからよ」とよく、言う。それも理由の一つ
かもしれない。

 しかし私のばあい、こうして頭の中のモヤモヤを、文章にしてたたき出さないと、かえって寝つ
かれなくなってしまう。だから、書く。

 で、そのアレルギー症状だが、相変わらず、患者がふえているという。

 厚生労働省の「2003年保健福祉動向調査」によると、アレルギー症状に苦しんでいる人
が、国民全体の3人に1人もいるという。

 アレルギーのような症状あり……35・9%(うち、14・7%は、診断あり)
 アレルギーのような症状なし……59・1%

 その中でも、大都市に住む子どもの患者が、ふえているという。原因は、いろいろ考えられて
いる。環境汚染、住環境の特殊性など。しかしこれらの子どもの多くが、睡眠障害で苦しんで
いることを忘れてはならない。

 私のよく知っている子どもに、N君(小3男児)という子どもがいる。そのN君は、ぜん息で苦し
んでいる。睡眠不足と、服薬で、いつもボーッと青白い顔をしている。そういうN君を見るたび
に、本当に胸がつまる。「苦しいか?」と声をかけると、一応、にっこりと笑って見せるが、それ
は私自身の姿でもある。

 少し話が飛躍するかもしれないが、文明というのは、生活をたしかに便利にはした。しかしそ
の一方で、何かしら同時に、もっと大きなものを犠牲にしたような気がする。その一つが、ここ
で考える「静かで、豊かな眠り」である。

さて、実は、今朝も、午前4時に目を覚ましてしまった。このところ、一連の地震が起きている。
今朝は、それが直接の理由だが、しかしそれだけではない。

 で、いつも不思議に思うのは、私のワイフには、睡眠障害がないということ。ふとんの中に入
ったら、すぐ熟睡。しかも朝まで、ほとんど目を覚まさない。ときどき、「夜中に目を覚ました」と
言うことはあるが、私のように起きてしまうことは、ない。

 性格のちがいというよりは、脳ミソの構造そのものが、ちがうように思う。

ああ、それにしても、一晩でよいから、朝まで、ぐっすりと、何ものにもじゃまされず、熟睡して
みたい。……と言いつつ、これからまたふとんの中にもぐるつもり。一応、合計で、7、8時間に
なるよう、毎日、睡眠時間を調整している。
(040909)

【補記】
 こうした早朝覚醒は、初老性のうつ病の一症状と言う人もいる。そうかもしれない。男性にも
更年期というのがあって、そのうつ病になる人が多いという。今度、それについて、調べて原稿
を書いてみたい。今朝は、このまままた眠る。

【補記2】
 こうした私の生活の反動というか、ワイフのとの日常的な会話は、まさにダジャレの連続。ワ
イフと会話をしていると、どうしても、まじめに考えることができない。

 昨夜も、近くのドラグストアに散歩しながら、こんな会話をした。

ワイフ「散歩するときは、大きく手を振って歩くといいそうよ」
私「いいよ、ぼくは、いつもチンチンを振って歩いているから」
ワ「どうやって、振るのよ?」
私(チンチンを振ってあるく様子を見せながら)「お前は、おっぱいを振って歩くといいよ」
ワ「振れるほど、大きくはないわよ。あんたのチンチンだって、振るほどもないでしょ」

私「そんなことないよ。ちゃんと振れるよ」
ワ「フニャ・チンだから?」
私(ますます大きくチンチンを振って歩く様子を見せながら)、「あのね、チンチンは、膨張率
で、性能が決まるんだぞ。ふだんは、フニャ・チンでいいの。悔しかったら、お前のオッパイを、
膨張させてみろ」

ワ「そんなこと、できないわよ」
私「フニャ・パイのくせに」
ワ「フニャ・パイじゃ、ないわよ。まだプリプリしてるわよ」
私「いいか、こうしてオッパイというのは、振るんだ」
(私、おっぱいを振る様子をして見せる……。)
ワ「あんたは、本当にMr・ビーンね。Mr・ビーン、そっくり!」と。


●私の就眠儀式(ベッドタイムゲーム)

 子どもは、毎晩、同じ儀式を繰りかえして、就眠するということは、よく知られている。同じよう
に、おとなでも、毎晩、同じ儀式を繰りかえして、就眠する人は多い。

 私のばあいは、まず、床について、飛行機の雑誌に目をとおす。それから飛行機の模型をい
じったあと、電子製品やパソコンのカタログを読む。軽い雑誌を読むこともある。

 そのあと、電気を消して、ワイフと、10〜30分、その日にあったことを話す。長いときは、1
時間ほど話す。たいていその間に、どちらか一方が、眠ってしまう。

 で、実は、私には、おもしろい空想癖がある。

 私は眠られない夜は、いつも、こんなことを考えて眠る。今回、はじめて公開する。

(宇宙船の設計を頼まれた?)

 私は、人類を救済するための、宇宙船の設計を頼まれた。……という前提で、その宇宙船の
空想を始める。そして毎晩、少しずつ、その宇宙船のパーツを、頭の中で空想する。

 考えてみれば、もう数年にわたって、それをしているので、かなりの部分まで、完成(?)して
いる。たとえば昨夜は、緊急脱出ポッド(小型宇宙船)の設計をした。おとといは、着陸ギアの
改良をした。その前は、ええと、たしか、新型のエレベーター装置。

 ……毎晩、そんなふうにして、頭の中で、宇宙船の空想を繰りかえす。そしていつの間にか、
眠ってしまう。

 ところでその宇宙船だが、直径が、20キロ近くもある、円盤型。この地上と同じ、住空間があ
る。一つの宇宙船には、約10万人の人が定住することができる。全体としては、その住空間
のほか、食糧生産工場、研究施設、観測施設、管理施設などに分かれている。

 実にたわいもない空想だが、ほどよい眠りを誘うには、ちょうどよい。よく「ヒツジが一匹…
…、ヒツジが二匹……」と数えるとよいと言う人もいるが、私には、効果がない。かえって頭がさ
えてしまうことがある。


●「あの人が生きていれば……」

 昨日、ワイフと、X氏(56歳男性)の話をする。ワイフもそのX氏のことを、よく知っている。

 そのX氏、ことあるごとに、「Aさんが生きていれば……」「Bさんが生きていれば……」を、口
ぐせにする。

 X氏にしてみれば、何でもない会話だが、私がワイフに、ふと、「ぼくは、ああいう言い方をし
たことがないよね」と言うと、「そう言えば、Xさんは、いつも、そういう言い方をするわね」と。

 たとえばX氏の周囲で、何か問題が起きたとする。すると、X氏は、「あのCさんが、こういうと
き生きていれば、何とかしてくれるのだがね」と。

 X氏の発想が正しいとか、まちがっているとか、そういうことを言っているのではない。私には
ない発想なので、それで、話題になった。

私「ぼくは、死んだ人のことは、思い出としてはするけど、『今、生きていれば……』というふうに
は、ほとんど、考えたことがないよ」
ワイフ「私も、ないわ」
私「どうしてだろう?」
ワ「どうしてかしら?」と。

 先祖崇拝意識の強い人は、そういう発想をするのではないか。いつもものの考え方が、過去
へと向いている。復古主義というか、回顧性が強いというか……。

私「そう言えば、Xさんの家には、先祖代々の家系図が、かかげてあるよ」
ワ「昔は、武家か何かだったの?」
私「ちがうと思う。Xさんの祖父は、農家から出た人だと聞いている」
ワ「じゃあ、どうして家系図なんか、あるの?」
私「まあ、Xさんは、そういう意味で、先祖を大切にする人なんだろうね」と。

 一般論から言えば、その人の依存性は、その人に応じて、ある特定の方向性をもつ。財産や
家柄、学歴や過去など。名誉や地位に依存する人もいる。知人の中には、80歳をすぎたとい
うのに、いまだに現役時代の肩書きをひきずって生きている人もいる。

 その中でも、自分の両親、祖父母をとおして、先祖に依存する人も、少なくない。「私」という
生きる基盤を、そこに求める。「ご先祖様がいるから、今の私があるのだ」と。私が言う、『親・
絶対教』も、そこから生まれる。そしてそれが転じて、マザコンになったり、先祖コンプレックス
になったりする。

 しかし本人は、それでかまわないが、そういう家庭へ嫁いだ、妻なり、嫁は、苦労する。価値
観が一致すればそれでよいが、そうでないケースのほうが多い。親・絶対教の人は、妻にせ
よ、嫁にせよ、その家の(道具)くらいにしか考えない。

 実際、現在の妻と結婚するにあたって、「ぼくの母親のめんどうをみること」を条件にした男性
がいる。さらに自分の母親と妻が、対立したとき、妻に向って、「オレの母とうまくやっていかれ
ないようなら、この家を出て行け」と言った、男性すらいる。

 どこか本末が転倒しているのだが、このタイプの人には、それがわからない。

私「先祖を大切にする人は、結局は、自分自身を、息子や娘たちに、大切にしてもらいたいか
ら、無意識のうちに、そうしているのではないだろうか」
ワ「親を大切にする姿を、わざと自分の息子や娘に見せつけながら、『お前たちも、私にこうす
るのだぞ』とね」
私「それはあると思うよ。そしてその発想が、『産んでやった』『育ててやった』というあの独特の
ものの言い方になるんじゃないだろうか」と。

 私自身は、「自分が死んだら、おしまい」と考える。だからすでに死んだ人のことは、アテにし
ない。それは、たとえはあまりよくないかもしれないが、落としてなくしたサイフのようなものでは
ないか。

 落としてなくしたサイフのことなど、あれこれ考えても、しかたない。同じように、死んでいなくな
った人のことを、あれこれ考えても、しかたない。

 大切なことは、「今」というこの時を、それぞれの人が、懸命に生きること。結果は、あとから
必ず、ついてくる。ほうっておいても、明日は、必ず、やってくる。それがわからなければ、反対
の立場で、つまりあなたが死んで、その先祖になったときのことを想像してみればよい。

 あなたのことをいつまでも思って、「先祖様」と、するよってくる息子や娘、さらに孫たちを見な
がら、あなたはそれでよいと思うだろうか。それとも、こう言うだろうか。

 「さあ、息子や娘たちよ、それに孫たちよ、私のようなくだらない人間は相手にしないで、前向
きに、この世を生きていきなさい。まだまだこの世には、お前たちの、わからないこと、知らない
ことが山のようにある。それに向って、前向きに生きていきなさい」と。

 ここから先は、その人の生きザマの問題になってくるから、私がとやかく言うことではない。し
かしあなたの周囲にも、冒頭に書いた、X氏のような人が、一人や二人は、いるはず。そういう
人たちが、日ごろ、どのような人生観をもって生きているか、それを知ることは、決して、ムダで
はないと思う。
(040910)


●無線ルーターの故障

 未知なるものの故障ほど、不気味なものはない。その「故障」を前にすると、ときに、絶望感
すら、覚える。

 昨日が、そうだった。

 このところ、ときおり、インターネットがつながらなくなることが、つづいた。最初は、プロバイダ
ー(サーバー)の不調かと思った。しかしそれにしても、回数が多い。

 そこでプロバイダーに電話をしてみると、「そういうことはありません。モデムの故障ではない
ですか」と。

 そこでモデムを管轄している、T電気会社へ。で、さっそく、モデムを、新品と、交換してもらう
ことにした。そしてそれが昨日届いて、交換……。

 で、案の定というか、その設定がたいへん! マニュアルだけでも、20〜30ページ近くもあ
る。で、やっとのことで、その設定を終えた。が、ナ、何と、つながらない!

 で、またプロバイダーのほうに電話をすると、「簡易設定を説明した、青い用紙があるはずで
す。それに設定は、フロッピーディスクがあるはずですから、それでしてください」と。

 高まる不安感と戦いながら、あちこちをさがすと、たしかにその簡易設定用の説明用紙と、フ
ロッピーディスクが出てきた。が、その設定をしたパソコンには、フロッピーディスクドライブがつ
いてない。

 しかたないので、別のパソコンで、再設定をしようと思ったが、先に設定したデータが、そのま
ま残っている。が、削除というか、クリア(初期化)の仕方までは、書いてない。

 ……とまあ、こうしてプロバイダーに電話すること、4、5回。

 で、やっとのことで、モデムと直接ケーブルでつないだパソコンでは、インターネットがつなが
るようになった。が、ほかのパソコンは、反応なし。

 見ると、無線ルーターが、不規則な点滅を、こきざみに繰りかえしている!

 私はこの無線ルーターをつかって、あちこちのパソコンとつないでいた。つまり、故障の原因
は、プロバイダーでも、モデムでもなかった! 無線ルーターだった! あああ!

 しかしこの無線ルーターの設定もたいへん。前回、設定したときは、それだけで数日もかかっ
てしまった。……とまあ、いろいろあった。

 何という絶望感! 虚脱感! 

 そこで私が出した結論。

 モデムから、HUBへつなぎ、そのHUBからは、各パソコンへは、ケーブルでつなぐ。無線ル
ーターは、もう使わない。

 で、夜になって、やっと、以前と同じように、インターネットをつなげることができるようになっ
た。それにしても、またまた冷や汗をかいた。ホント!

 やっとつながってから、私は、インターネットをしているワイフに、こう言った。

 「少しは、ぼくの苦労に、感謝してよ」と。

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司


最前線の子育て論byはやし浩司(311)

●私の人生

雷が光る。
ふと、首をすくめる。
とたん、地をゆるがす、雷鳴。

ざっと降り注ぐ、雨。
車の窓ガラスをたたきつける。
ワイパーが、せわしげに、それをぬぐう。

道路が、雨に煙る。
暗い闇が、その先を、黒で包む。
白い分離帯だけが、走馬灯のように、うしろへ流れる。

 
 私は懸命に生きているのだろうか。ふと、そんなことを考える。希望と悔恨。ふたつの矛盾し
た思いが、光と影となって、私の心をふさぐ。「何かがある」という思い。そして「何もなかった」と
いう思い。「懸命に生きるしかない」という思い。「懸命に生きて、何になるのか」という思い。

 闇に吸いこまれる道を、ぼんやりとながめながら、私は、ふと、そんなことを考える。

 生きるのはつらい。しかし生きないのは、もっとつらい。なぜ生きるのかと聞かれれば、死ぬ
ことができないからと答える。その一方で、「あと、10年生きたところで、あるいは20年生きた
ところで、どんなちがいがあるというのか」とも。

 何ができるかということよりも、結局は何もできないだろうという閉塞感。安楽になりたいと思
いつつ、安楽になったときの、自分がこわい。何も考えず、ただぼんやりと庭いじりをする。そ
れが目標なのか。私は、本当に、そういう生活を望んでいるのか。

 ワイフはこう言った。「あなたは、社会とかかわって生きているから、うらやましい」と。

 しかしそれにしても、わずらわしいことが多い。つぎからつぎへと、それが起きてくる。本当の
私は、それがいやでならない。そうしたわずらわしさから、身を遠ざけたい。しかしそれから逃
れることはできない。

 ワイフは、それが「社会とのかかわり」と言う。
 
 懸命に生きてみるしかない。その先に何があるのか。またないのか。それは私には、わから
ない。それはたとえて言うなら、雨の闇夜に、車を走らせるようなもの。地図すらない。ときど
き、雷が光る。雷鳴がとどろく。しかし私は、前に進むしかない。

 理由は、簡単。それが私の選んだ人生だから、だ。それ以外に、私が今、選べる人生は、な
いから、だ。


●悲しき人

 あなたは、私に何かを訴える。
 おろおろした声で、悲しげな声で。
 しかし私は何もできない。
 何も助けることができない。
 なぜなら、この自分ですら、
私は、どうすることもできないから。


Kさん(女性、35歳)は、本当は、心のやさしい人だ。しかしときとして、感情をコントロールでき
なくなる。思いにまかせて、言いたいことを言ってしまう。それが相手を怒らせてしまう。

 こうして、一人、また一人と、友をなくしていく。が、そういう自分を、Kさんは、どうすることもで
きない。

 Kさんは、心に大きなキズをもっている。不幸な乳幼児期。母親の離婚と再婚。そして少女の
ころ、新しい父親に性的暴行を受けている。Kさんが、中学生になる少し前のことだった。

 今も、2児の母親になりながら、決して、幸福とは言えない。家庭をかえりみない夫。商売の
失敗。そして借金。引きこもりを繰りかえしながら、ときどき街へ出て、ムダな買い物をする。同
じ、色違いのバッグを、5個も買ったこともある。


 あなたは言う。悲しげな声で。
 「遊びに来てほしい」「話し相手になってほしい」と。
 しかし私は、男。あなたは、女。
 それにあなたには、夫がいる。
 これ以上の関係をもつことは、私には、できない。

 願わくは、あなたにも、心安らかな日がやってくること。
 いつか、あなたの子どもたちが、あなたに笑いをもたらすこと。
 その日を信じて、どうか、どうか、今を乗りきってほしい。

 
●韓国の核問題

韓国科学技術省は9月9日、1982年4〜5月に、ソウル市内の研究用原子炉で、ミリグラム
単位のプルトニウム抽出実験を行っていたと発表した。同国でウラン濃縮につづきプルトニウ
ム抽出が判明した。

 なるほど、そういうことだったのか! 今のノ大統領が大統領に就任したとき、ノ大統領周辺
に、「K国の核開発を容認する」というような発言をした、政府高官がいた。「K国が核兵器をも
っていれば、統一後の韓国にとっても、有利になる」と。

日本にとっては、とんでもない発言だが、逆算すると、そのときすでに、韓国政府は、自国内で
の核実験を知っていたことになる。

 だから、面と向って、K国を非難することができなかった? K国の核開発の容認発言をする
しかなかった?

 日本としては、ここは冷静に、推移を見守るしかない。しかし韓国は、これから先、どんな顔
をして、6か国協議に出てくるのだろうか。アメリカは、どうやって、K国を追いつめることができ
るだろうか。そして日本は、どうやって韓国と肩を組むことができるだろうか。

 そうでなくても、韓国は、K国寄り。

 今、韓国からは、外資(円、ドル)が、どんどんと逃避している。わかりやすく言えば、韓国人
が、韓国ウオンを、円やドルにかえて、外国へ避難させている。それをおさえるのに、韓国政
府は、やっきになっているが、こんなバカげた、つまりは現実離れした国際政治をしているよう
では、当然のことである。

 さらに、この8月には、さらに物価の上昇と内需不振が重なったことから、消費心理が通貨危
機当時よりも冷え込んだという(朝鮮日報)。そしてその消費者期待指数は、4か月連続の下
落。通貨危機当時の98年11月より、さらに消費者心理が悪くなっているという(同)。 

 それでも韓国は、反日、反米を表にかかげ、親北政策とやらで、K国のご機嫌取り(ニューズ
ウィーク誌)をとりつづけている。ノ大統領も、もう少し現実を見たらどうなのか。

【補記】

 韓国やK国が、核兵器をもつことが、どういうことなのか、私たちももう少し真剣に考える必要
がある。韓国やK国が、核兵器をもてば、極東アジアにおける軍事バランスは、完全に崩壊す
る。

 そうなったとき、日本は、戦後というより、日本の歴史の中で、最大の危機を迎える。

【補記2】

 1967年、私は、UNESCOの交換学生で、韓国に行った。そのとき世話人となり、同行して
くれたのが、当時北海道大学の名誉教授をしていた、杉野目晴貞先生だった。日本化学会の
会長もしていた。

 その先生と旅行をしているときのこと、こんなことがあった。

 プサンから、ハイウンダイ(海雲台)まで、バスで旅行していたときのこと。私たちはKCIAの
人たちに護衛されていた。

 途中、そのバスが、故障してしまった。そのときのこと。KCIAの人たちは、たまたま反対方向
からやってきた乗り合いバスを止め、その乗客を全員、おろしてしまった。そしてそのバスを、
私たちのバスにしてしまった。

 いくら強権時代とはいえ、このあまりにも強引なやり方に、私たちは、言葉を失ってしまった。

 そのあと、ハイウンダイのホテルに案内されたが、何かしら気まずい思いだけは、ずっと残っ
た。

 韓国という国は、そういう国だったし、今もその延長線上にある。日本と同じ、開かれた民主
主義国家だと思っていると、それは誤解のもと。今でも、あの当時の強権的政治風土は、あち
こちに残っている。その一つが、ノ大統領による、反北運動の弾圧である。

 今、韓国では、反金XX、反北的な色彩の濃い出版物ですら、発禁処分になっている。韓国を
考えるときは、そういう現実も、頭に入れておかねばならない。

 日本のノー天気なおばちゃんたちが、「ヨン様」「ヨン様」と騒いでいるのを見ると、「これでい
いのかなあ」と思うのは、はたして私だけだろうか?
(はやし浩司 杉野目晴貞 先生)


●秋の虫

 昨夜は、久しぶりに、山荘に泊まった。寝る前、『Talk to her』という、スペイン映画を少し
見る。しかし★は、1つ。アカデミー脚本賞を受賞ということで、もう少し期待していたが、途中
で、あくびが出て、ダウン。

 明け方、澄んだ虫の声で目をさます。

 澄んだ声だった。英語で言えば、クリアな声。つんと動きを止めた静寂の中で、虫の声の大
合唱。窓の近くにいるマツムシが、ひときわクリアな声で、チリチリと鳴く。その少し離れたとこ
ろで、スズムシが、それに音色を添える。

 さらに離れたところで、別の虫たちが、鳴く。その声々は、奥深しく、そしてなつかしい。あた
かも無数の虫たちが、それぞれのパートを受け持っている、オーケストラのよう。 が、会場の
スケールがちがう。この山荘では、風のない夜には、谷間の向こうの、人の会話すら聞こえる。
そんな会場で聞く、大オーケストラである。

 自宅の庭にも、秋の虫がいる。そして同じように鳴く。しかし、その声は、どこかくすんでいる。
元気がない。しかし山荘で耳にする虫の声には、透明感がある。その声だけが、細いナイフの
ように、鋭く、どこまでも鋭く、闇夜をつきさす。

 私は、しばらく、その声に耳を傾ける。左耳は、聴力をなくしている。だから音に遠近感はな
いはずなのに、その遠近感を覚える。

 ふと横を見ると、薄暗いライトの中で、ワイフが上を向いて眠っているのがわかった。起こして
やろうかどうかと、ふと迷ったが、やめた。と、同時に、私は身を震わすような森の冷気を感じ
て、ふとんをかぶりなおす。反対方向に体を向ける。そしてそのまま朝まで、眠った。


●家庭教育

 アメリカなどへ行くと、大学の書店ですら、「一般教育」の書籍コーナーと、「家庭教育」の書籍
コーナーが、ほぼ、半々になっている。

 しかしこの日本では、「家庭教育」の書籍コーナーは、たいへん小さい。

 たとえば浜松市内に、Y書店という、県下でも、最大級の書店がある。

 その書店でも、二階に一般教育の書籍コーナーがある。子ども向けの学習参考書や、問題
集は、3階。しかし家庭教育の書籍コーナーは、一階の右奥すみ。幅一間たらずの本箱におさ
められている。

 つまりそれだけ、家庭教育がなおざりにされているということ。軽く見られているということ。学
校に、「子育て」のすべてが、押しつけられているということ。ここに日本の教育というか、子育
ての特殊性がある。

 こういう状況の中で、子どもをもつ親たちが、今、悲鳴をあげている。家庭の中で、つぎから
つぎへと起きてくる子育ての問題を、どこへどう相談したらよいのかさえ、わからないでいる。

 そこで児童相談所……ということになるが、その児童相談所の中にもうけられている「子供よ
ろず相談所」にしても、すでに手一杯。

 そういう中、この6月(04年)、「児童福祉法改正案」が、年金問題のとばっちりを受けて、先
送りされてしまった。

 この児童福祉法改正案は、現在、児童相談所が中心となっている「育児相談」の主体を、市
町村に移動し、急増する相談の受け皿を、そこでしてもらおうという趣旨のものである。

 もちろん問題がないわけではない。受け皿となる市町村にしても、その態勢をつくらなければ
ならない。人件費だけでも、相当なものになる。こうした育児相談は、電話相談にしても、平均
30分〜1時間はかかる。しかも1度や2度で、すむことは、まずない。

 もちろん専門家の育成も、重要課題である。しかしこの問題は、すでにもう放置できないほ
ど、大きな問題になりつつある。厚生労働省は、この秋には、国会で、児童福祉法改正案を成
立させたいとしているが、仮に成立したとしても、来年4月の施行にまにあうかどうか、わからな
い。相談員の育成、研修など、それをどうするか、市町村がかかえる課題は、多い。

【はやし浩司の経験から……】

 私も数年前まで、子どもをもつ親から、子育て相談を受けていた。そのため、毎日、午前中
のほとんどが、それでつぶれた。

 もちろん、すべて無料。心のどこかで、ときどき、「どうして私がこんなことを、無料でしている
のだろう」と思ったことがある。が、こうした子育て相談を、有料化することは、できない。

たとえば親の話を聞いているうち、その子どもが明らかにADHD児とわかっていても、それを
口にすることはできない。有料化して、それを口にすれば、それは即、診断行為となってしま
う。(それが許されるのは、日本のばあい、医療機関のみ。)

 あくまでも、「私の意見を参考にしてください」という立場で、相談に答えるしかなかった。

 また実際、こうした子育て相談で、名字くらいまでならいう人はいても、名前を言う人は、まず
いない。住所までいう人は、10人に1人もいない。名前ですら、偽名であることも多い。こちら
も事情が事情だから、聞かない。

 一応、午前中だけということで、相談を受けていたが、午前中だけですむことは、ない。ばあ
いによっては、土日、さらには、夜10時すぎに電話がかかってくることもあった。

 こうした子育て相談が、ふつうの相談とちがう点は、子育ては、その親にとっては、連続的な
ものであるということ。今日、相談して、今日、問題が解決するということは、ありえない。同じ
親から、数か月にわたって、毎週、電話がかかってくるということも、珍しくない。

 そこで相談を受ける側としては、病院で用意するようなカルテのようなものを、作って対処す
る必要がある。つまり、そういうキメのこまかい、指導が必要だということ。これから先、市町村
が、「子供よろず相談」を引き受けるにしても、そういった覚悟が必要である。

 さらに子育て相談といっても、その親自身の人生観、哲学、育児観など、すべてがそこにから
んでくる。私のばあいも、子育て相談を受けながら、その親の人生相談にのっているかのよう
な錯覚にとらわれたことが、何度もある。

 簡単に子育て相談とはいうが、それなりの経験者でないと、この仕事は、務まらない。
(はやし浩司 育児相談 子育て相談 児童福祉法改正案)

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

最前線の子育て論byはやし浩司(312)

●長男、二男の問題

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茨城県M市にお住まいの、Tさん(母親)から、
長男(7歳)、二男(6歳)の問題について、
質問がありました。

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【Tさんより、はやし浩司へ】

いつもマガジンを拝見させていただいております。
毎日の生活の中で、ハッと振り返る良い時間をもてることに感謝しています。

二人の、男兄弟について質問します。

長男は比較的育てやすく、情緒も安定しており、今までは特に問題はなかったのですが、最近
次男のほうが、上の子に対してライバル心を持つようになりました。

もともと下の子の方が運動神経もいいこともあり、二人の興味対象である野球で、下の子のほ
うが上手になってきました。

それにつれて、勉強のほうも、私が長男に教えていますと、傍から見ていて同じように覚えてい
くので、今では2桁の足し算引き算、および掛け算もいえるようになってきました。

年齢が1歳と少ししか違わないこともあり、長男は最近プライドを傷つけられたのか、下の子を
ずいぶんといじめるようになり、また「自分は生きていても仕方がない」などというようなことを言
うようになり心配しています。

なるべく長男が自信を回復するようなことをするように仕向けていますが、なかなかうまくいきま
せん。勉強も運動も次男の方が上手になるという話は良く聞きますので、(例えばプロ野球の
選手は次男が多いなど)、林先生のところではどのように対処されているのかお伺いしたいと
思います。

どうぞよろしくお願いいたします。

++++++++++++++++++++++++++

【はやし浩司より、Tさんへ】

 一見、この問題は、兄弟の間の確執のようにみえます。しかし問題の本質は、(親)を間には
さんだ、三角関係にあるとみます。

 長男の心の中に、一度、視点を置いてみると、それがわかります。

 長男は、弟に対して、自分が劣っていることを、問題にしているのではありません。長男は、
親のTさんや、父親の関心が、弟のほうに向いていることを、問題にしているのです。あるいは
自分より、弟のほうに、関心がうつるのを心配しているのです。

 恐らく、下の弟が生まれたときから、何らかのわだかまりが、長男のほうに生じたと思われま
す。その時点から、自分への愛情(手間)は、半分になった。しかもことあるごとに、「お兄ちゃ
んだから……」という「ダカラ論」を、押しつけられた。

 こうして長男のほうに、大きな欲求不満が蓄積するようになったと考えられます。Tさんは、
「育てやすかった」と言っていますが、それはそれだけ、長男のほうが、自分の立場を守るため
に、「いい子」ぶっていただけとも考えられます。

 ものわかりがよい、よい兄を演じていた。親に好かれるために、です。その可能性は、じゅう
ぶん、あります。

 が、その弟のほうが、何かにつけて、優秀ということになってきた……。兄の長男の立場とし
ては、ただごとならぬ状態になってきたわけです。

 こういうケースのばあい、子ども(長男)は、ふつう、つぎの4つのパターンのどれかを、選択し
ます。

(1)親や弟に対して、攻撃的になる。
(2)親に対して、同情を求めるようになる。
(3)親に対して、依存的、服従的になる。
(4)内閉したり、親を拒絶したりするようになる。

 長男が、「自分は生きていても仕方がない」と言うのは、そう言いながら、親に同情を求めた
り、親の反応をうかがっているものと考えてよいようです。こうした(ぐずり)は、すでに、下の子
どもが生まれた、2歳前後からあったはずです。

 もう少し深く、長男の心の中に、視点を置いて考えてみましょう。

 あなたの夫が、あなたよりすてきな愛人を、家の中に連れてきたら、あなたはどうするでしょう
か。少し極端な感じがしないでもないですが、長男の置かれた状況としては、それほどちがわ
ないはずです。

 その愛人は、あなたより、若い。美しい。料理もうまい。……そういうとき、あなたなら、どうす
るでしょうか。嫉妬もせず、平穏に、その愛人と同居できるでしょうか。あなたの夫が、「お前
も、愛人も、平等にかわいがってやる」と言ったとき、あなたは、それに納得するでしょうか。

あなたは「子どもは、家族だ」「兄弟だ」「同じ親子だ」と言うかもしれませんが、それはおとなの
論理にすぎないということです。

 本来なら、長男は、弟を、蹴とばして、外へ追い出したい。しかしそれができない。それをす
れば、自分の立場がなくなってしまう。

 つまりこの問題の奥には、そうした長男の複雑な、つまりはゆがんだ心理があるということで
す。

 そこで対処のし方としては、もう一度、全面的に、長男へのスキンシップ、暖かい愛情を取り
もどします。7歳という年齢から、赤ちゃんがえりはないと思いますが、それに似た、幼児がえり
は、あるかもしれません。何かにつけて、わけのわからないことを言ってぐずるようなら、添い
寝、手つなぎ、一緒の入浴などを、子どもが求めてきたら、ていねいに応じてあげます。

 (1)暖かい無視と、(2)ほどよい親に心がけます。

 「ほどよい親」というのは、「求めてきたときが、与えどき」ということです。長男が、スキンシッ
プを求めるようなしぐさを見せたら、ていねいに、こまめにそれに応じてあげます。数分間程
度、ぐいと抱くだけでも、効果的です。

 決して、「お兄ちゃんだから……」と、ダカラ論で、長男を、突き放してはいけません。子どもに
上下をつけないで、同じ子どもとして扱います。そしてこの際、弟さんには、少しがまんしてもら
います。ここで長男の心をいじけさせると、ひがみやすくなる(依存型)、いじけやすくなる(同情
型)、つっぱりやすくなる(攻撃型)などの症状が出てくるようになります。(すでに出ているようで
すが……。)

 能力的な劣等感は、従って、弟が原因ではありません。それをわからせる、家庭の雰囲気と
いうか、親の態度、姿勢にあります。どこかで、「お兄ちゃんのクセに……」とか、「弟に負ける
なんて……」という雰囲気があるのではありませんか? もしそうなら、これはやはり、長男の
心の問題ではなく、親の育児姿勢の問題ということになります。

 というのも、これから先、この種の劣等感(反対に優越感も)は、いつも子どもの心を襲いま
す。たまたま今は、兄弟という関係の中で、起きているだけです。親としてはつらいところです
が、「あなたはよくがんばっている」式に、子どもの立場で、それをなぐさめてあげるしかありま
せん。

 で、こうしたプロセスを経て、子どもはやさしく、かつたくましくなっていきます。今の段階では、
まず、あなた自身が、兄弟の上下意識をもたないこと。(そういう意味では、あなたは、かなり、
上下意識の強い親かもしれません。)

 そういう上下意識を無意識のうちに感じながら、上の長男が、それを劣等感にしてしまいま
す。そしてその一方で、弟が、ライバル意識から、兄への優越感。さらには、兄をバカにする…
…というふうに転化してしまったら、それこそ家庭教育の失敗ということになります。

 いろいろなことが考えられますが、しかし全体としてみると、実によくある問題であり、かつ、
何でもない問題の部類に属する問題です。しかも、弟さんの立場で考えるなら、どこかぜいたく
な悩みということになるかもしれません。

 ですから、あまり深刻に考えないで、ここに書いたことを参考に、対処してみてください。で、
それで兄弟の仲が悪くなっても、しかたのないこと。(これもよくあるケースです。)

 また兄が、弟をいじめたり、嫌ったりするのも、これまたしかたのないこと。(これもよくあるケ
ースです。)

 完ぺきな兄弟関係を、求めないこと。このあたりは、もう成りゆきに任せるしかないと思いま
す。子どもというより、ある2、3年もすると、あなたの子どもたちも、親離れを始め、自己意識
も育ち、一人の人間として、自立していきます。親として、介入できることにも、限界があるとい
うことです。こういうケースでは、長男のよき相談相手、アドバイザーとして、親が一歩退く。そ
れが結局は、子離れということになります。

 だからとりあえずの方法としては、兄・弟という上下意識を、まず、とりのぞき、二人の子ども
を、「友」として位置づけてみては、どうでしょうか。(まあ、年齢的に、少しむずかしいかもしれ
ませんが……。やや、手遅れ的な部分も、あるということです。)

 そのあとの人間関係は、二人の子どもに任せます。あなたの周辺にも、仲のよい兄弟おいれ
ば、そうでない兄弟もいるはずです。どうなるかは、もう、子どもたち自身が決めることだという
ことです。(それとも、あなた自身は、あなたの兄弟と、仲がよく、今でも、良好な人間関係を保
っていますか?)

 この問題は、そういう視点からも、考えます。

 最後に、自信を回復させる方法としては、一芸論などがあります。「はやし浩司 一芸論」で
検索してくださると、どこかでヒットするはずです。Tさんのケースでは、長男には、二男とは別
の一芸をもたせたほうがよいかもしれませんね。

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参考までに……

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●「これだけは絶対に人に負けない」・子どもの一芸論

 Sさん(中一)もT君(小三)も、勉強はまったくダメだったが、Sさんは、手芸で、T君は、スケ
ートで、それぞれ、自分を光らせていた。

中に「勉強、一本!」という子どももいるが、このタイプの子どもは、一度勉強でつまずくと、あと
は坂をころげ落ちるように、成績がさがる。そういうときのため、……というだけではないが、子
どもには一芸をもたせる。この一芸が、子どもを側面から支える。あるいはその一芸が、その
子どもの身を立てることもある。

 M君は高校へ入るころから、不登校を繰り返し、やがて学校へはほとんど行かなくなってしま
った。そしてその間、時間をつぶすため、近くの公園でゴルフばかりしていた。が、一〇年後。
ひょっこり私の家にやってきて、こう言って私を驚かせた。「先生、ぼくのほうが先生より、お金
を稼いでいるよね」と。彼はゴルフのプロコーチになっていた。

 この一芸は作るものではなく、見つけるもの。親が無理に作ろうとしても、たいてい失敗する。
Eさん(二歳児)は、風呂に入っても、平気でお湯の中にもぐって遊んでいた。そこで母親が、
「水泳の才能があるのでは」と思い、水泳教室へ入れてみた。案の定、Eさんは水泳ですぐれ
た才能を見せ、中学二年のときには、全国大会に出場するまでに成長した。S君(年長児)も
そうだ。

父親が新車を買ったときのこと。S君は車のスイッチに興味をもち、「これは何だ、これは何だ」
と。そこで母親から私に相談があったので、私はS君にパソコンを買ってあげることを勧めた。
パソコンはスイッチのかたまりのようなものだ。その後S君は、小学三年生のころには、ベーシ
ック言語を、中学一年生のころには、C言語をマスターするまでになった。

 この一芸。親は聖域と考えること。よく「成績がさがったから、(好きな)サッカーをやめさせ
る」と言う親がいる。しかし実際には、サッカーをやめさせればやめさせたで、成績は、もっとさ
がる。一芸というのは、そういうもの。ただし、テレビゲームがうまいとか、カードをたくさん集め
ているというのは、一芸ではない。

ここでいう一芸というのは、集団の中で光り、かつ未来に向かって創造的なものをいう。「創造
的なもの」というのは、努力によって、技や内容が磨かれるものという意味である。

そしてここが大切だが、子どもの中に一芸を見つけたら、時間とお金をたっぷりとかける。そう
いう思いっきりのよさが、子どもの一芸を伸ばす。「誰が見ても、この分野に関しては、あいつし
かいない」という状態にする。子どもの立場で言うなら、「これだけは絶対に人に負けない」とい
う状態にする。

 一芸、つまり才能と言いかえてもいいが、その一芸を見つけるのは、乳幼児期から四、五歳
ごろまでが勝負。この時期、子どもがどんなことに興味をもち、どんなことをするかを静かに観
察する。一見、くだらないことのように見えることでも、その中に、すばらしい才能が隠されてい
ることもある。それを判断するのも、家庭教育の大切な役目の一つである。  
(はやし浩司 兄弟の確執 ライバル意識 一芸論)

【付録】

●長子は神経質?

 なお神経質な子どもに関して、こんな興味深いデータがある。東海大学医学部の逢坂文夫氏
らの調査によると、「一番上の子は、下の子よりも神経質」というのだ。

 東京都内の保育園に通う1000人の園児の母親について調べたところ、次のようなことがわ
かったという。

 母親がわが子を神経質と認めた割合は、弟や妹をもつ長子についてがもっとも多く、42・
7%。

これに比べて、一人っ子は、35・1%、第二子は23・7%、第三子以降は、15・8%(母親の
平均年齢は、32・6歳。園児の平均年齢は3・8歳)。「兄弟姉妹の下のほうになるほど、のん
びり屋さんになるようだ」(中日新聞コメント)と。

 また「緊張しやすい」とされた長子の割合も、第二子の約1・5倍だったという。長子ほど、心
理的に不安定な傾向がうかがえる。これらの調査結果からわかることは、子どもが神経質にな
るかどうかということは、生まれつきの性質による部分も無視できないが、生まれてからの環
境にもよる部分も大きいということである。

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司


最前線の子育て論byはやし浩司(313)

【身近、あれこれ】

●ラジオ

 昨日(9月11日)、地元のローカルラジオ局で、25分ほど、子育てについて、話させてもらっ
た。それについて、その前日、年長児の子どもたちに話すと、子どもたちは、こう言った。

子「何チャンネルに出るの?」
私「だから、テレビじゃないの。ラジオだよ」
子「何時から?」
私「6時、少しすぎ」
子「じゃあ、ママといっしょに、見る!」
私「だからさ、見るんじゃなくて、聞くの」と。

 最近の子どもたちは、テレビとラジオの区別がつかない? それについてワイフに話すと、
「最近の子どもたちは、ラジオを聞かないからではないかしら?」と。

 子どもたちを包む情報文化は、それだけ多様化している。少し前までは、テレビとラジオしか
なかった。が、今は、インターネットをはじめとして、携帯電話もある。そしてそれぞれが、ます
ます複雑化している。

 ラジオを知らない子どもがいても、不思議ではない。しかし……?


●一事が万事

 小ずるい人は、何ごとにつけて、どんな場面でも、小ずるい。まさに一事が万事。

 人間というのは、そういう意味では、それほど器用にできていない。ある場面で、聖人になり、
また別の場面では、悪人になりということは、できない。若いときは、そのときどきにおいて、自
分をごまかすこともできる。が、年をとると、気力が弱くなる。おっくうになる。

 そんなわけで、年をとればとるほど、その人の「地」が、表に出てくる。

 しかし、心配は、無用!

 この一事が万事を、逆に利用すればよい。たった今、この瞬間から、あなたは善人になる。
身近のささいなことでよい。ウソをつかないとか、約束を守るとか、規則を守るとか……。そうい
うささいな心がけが、ちょうどドミノ倒しのドミノのように、あなたの心を作りかえる。


●弱者、自転車

 車の運転の仕方を見ていると、その人の人間性がわかるときがある。

ためしに、赤信号になってからも、猛スピードで、交差点を横切る人の顔を見てみればよい。

 ためしに、ウィンドウをさげて、ゴミやたばこの吸殻を外へ捨てる人の顔を見てみればよい。

 ためしに、駐車場でもない場所に、平気で車をとめて用をたしている人の顔を見てみればよ
い。

 まちがいなく、そういうことを平気でできる人は、それなりの低劣な顔をしている!(失礼と
は、書かないぞ!)

 さらに自転車に乗っているものの立場から……。

 自転車は、道路では、弱者である。歩行者に対しては、乱暴者ということになっているが、車
にくらべたら、かわいいもの。

 その自転車に乗っていると、さらにその人の人間性がわかるときがある。

 高級な外車に乗っている人でも、強引に自転車をのけものにして走り去る人もいれば、やさ
しく道を譲ってくれる人もいる。軽自動車に乗っている人でも、強引に自転車をのけものにして
走り去る人もいれば、やさしく道を譲ってくれる人もいる。

 どこでどうして、そういう人間性に分かれるのか。私にはわからない。しかし弱者を、のけもの
にして走り去る人は、それなりの人だということ。フロイトが言う、エスの人か? 道徳観や倫理
観など、それなりに浅い人とみてよい。

 人生は、長いようで短い。その短い人生を、短く感ずるようになったとき、そういうエスの人
は、さらにその人生を短く感ずるにちがいない。

 人生で何が一番恐ろしいかと言えば、その過去を、後悔すること。いつかそういうエスの人
は、自分の人生を後悔することになる。「私の人生は、何だったのか」と。

 そういう意味では、かわいそうな人ということになる。もっとも、その人が、そういう自分に気づ
けば、の話だが……。ひょっとしたら、その人は、そういう自分の愚かさに気がつくこともないま
ま、その人生を終えることになるのかもしれない。


●死の恐怖

 なぜ、死ぬのがこわいか?

 それについては、以前にも書いた。

 私たちがなぜ死ぬのをこわがるかと言えば、それは喪失の恐怖だけではない。自分の死を
悲しんでくれる人がいないから。あるいは、仮にあの世があるとするなら、あの世で、自分を待
っていてくれる人がいないから。

 そのことを車の中でワイフに話すと、ワイフは、すかさずこう言った。「あら、あの世って、ある
の?」と。

 遺伝子の中には、いろいろなプログラムが、組みこまれている。脳ミソの活動についても、そ
うである。その年齢や時期がくると、アクティブになるプログラムがある。思春期の恋愛感情
に、その例をみるまでもない。

 人間も、ある年齢に達すると、過去を回顧することが多くなる。この回顧を重ねるようになる
と、回帰という現象が、脳ミソの中で起こる。自分の過去の記憶が、脳の中に幾重にも蓄積さ
れ、全体としてそれが脳にしみついたモヤのようになる。そしてそれが、「霊気」を帯びたものと
して、認識されるようになる。

 つまり、より、霊的なものの存在を、信じやすくなるということ。簡単に言えば、ただ単なる(思
い過ごし)。そういった(思い過ごし)から、「あの世論」は生まれるが、本当のところは、私に
も、わからない。

私「年をとると、あの世を信じたくなるものさ」
ワイフ「信ずることができれば、少しは、死ぬのがこわくなくなるからね」
私「そうは、単純ではないかもしれない。しかしそれに近い……」と。

 で、あの世があるという前提での話だが、自分が死んだとき、だれもあの世でだれも待ってい
てくれないというのも、さみしい。つまりそれも、「死ぬのがこわい」という理由の一つかもしれな
い。

ワイフ「臨死体験というのもあるわ」
私「脳ミソの中には、そういう特別な部分もあるみたいだ」
ワ「どういうこと?」
私「いよいよ死が近づくと、苦痛や不安を解消させ、その人に幻覚を見せる、特別なプログラ
ムがアクティブになるそうだ。前頭葉と後頭葉の境目あたりに、それがあると説く学者もいる」

ワ「どんな幻覚?」
私「何でも、美しい川とか、無数の花が咲いているような美しい光景らしい。健康な人でも、そ
の部分に電気的な刺激を与えると、幻覚を見るそうだ。それが、臨死体験をした人が見る光景
に似ているという」
ワ「しかし、そんな研究は、あまり進んでほしくないわ」
私「そうだね。そういう部分は、そっとしておいてほしい。ぼくも、死ぬときは、あの世を信じて、
死にたい」と。

 そのとき、私は、別の心で、ふとこんなことを思った。

 「私が死んだとき、私の父は、その三途の川岸の向こうで、私を待っていてくれるだろうか?」
と。が、どうもそれは、期待できそうもない。私は、そういう意味では、心のさみしい人生しか、
送ってこなかった。

 ……あの世は、あるだろうか? それともないのだろうか? 私は、今のところ、「ない」という
前提で生きている。あるとも、ないともわからないものを、アテにして、私は生きることはできな
い。

 それはいつも言うように、宝くじのようなもの。宝くじの当選をアテにして、家を買うことはでき
ない。同じように、あるかないかわからないものをアテにして、「今」を考えることはできない。

 あの世は、死んでからのお楽しみ。あれば、儲けもの。今は、「ない」という前提で、懸命に生
きる。宝くじの当選金にしても、それをどう使うかは、当選してから考えればよい。同じように、
あの世のことは、あの世へ行ってから、考えればよい。

★As a well−spent day brings you happy sleep, so a life well spent bri
ngs happy death。
(充実した日を過ごした夜は、幸福に眠られる。同じように、充実した人生を送ったものだけ
が、幸福な死を迎えられる。)(レオナルド・ダ・ビンチ)


●ワイフの回顧性

 このところ、ワイフの回顧性が、強くなったように思う。同窓会つづきだし、その同窓会で再会
した友人と、遊びに行くことが多くなった。今日も、高校時代の友人のIさんと、山荘へ、弁当を
食べに行った。

 いよいよワイフも、バー様の仲間入りということ。ハハハ。

★Time is the coin of your life. It is only the coin you have、and only 
you can determine how it will be spent. Be careful lest you let other p
eople spend it for you. 
(時というのは、あなたの人生のコインのようなもの。あなたがもっているたった一枚のコインだ
から、どう使うか、注意深くしたらよい。とくに、そのコインを、あなたのために、他人に使わせ
てはいけない。)(Cサンバーグ)


●誕生日のプレゼント

 もうすぐ私の誕生日。毎年、何かの電子製品を、プレゼントしてもらう。数年前までは、毎年、
豪勢に、新しいパソコンを買ってもらっていた。

 言い忘れたが、我が家では、私のすべての収入は、ワイフが管理している。一度、すべてを
渡し、その中から、食費など、そのつど、ワイフからもらっている。だから自分の稼いだお金で
ありながら、「もらう」という発想になる。

 考えてみれば、これはおかしなことだ。そうだ、おかしい!

 しかし今さら、現在のシステムを変えることもできない。すべてが、そのシステムの上で動い
ている。息子たちですら、「ママからお金をもらう」とは言うが、「パパからお金をもらう」とは、言
わない。そういう意味では、我が家は、母系家族か?

 それはともかくも、今年は、プレゼントを、何にするか。今、直接ほしいのは、デジタルカメラ。
それに、携帯端末。S社のザウルスがよい。

 その私も、今度の誕生日で、満57歳になる。その「57」という数字を頭の中で反復しながら、
よくもまあ、今まで、無事に生きてこられたものだと思う。ホント! 江戸時代なら、とっくの昔に
死んでいるはず。何でも江戸時代には、日本人の平均寿命は、38歳前後だったという。(38
歳だぞ!)

  縄文時代         ……14・5歳
  室町〜江戸時代      ……38歳
  明治・大正時代      ……39・5歳
  1935年(昭和のはじめ)……48歳
  1947年(私の生まれ年)……52歳
  1965年        ……70・3歳
  1999年        ……80・5歳
          (朝日新聞・後藤眞氏発表)

 この調査結果を見てわかることは、こうまで平均寿命がのびたのは、戦後のことということに
なる。戦争がなくなったこと。乳幼児の死亡率がさがったことなどが、その理由にあげられる。
健康なおとなだけをみても、それでも江戸時代には、平均寿命は、45歳前後だったという。そ
んな話を、どこかで聞いたことがある。

 どちらにせよ、こうして考えてみると、57歳まで、何とか生きてこられたことを、感謝しなけれ
ばならない。

 さあて、あと何年、私は生きられるか? 夕方になったら、今日も、自転車で、運動に出かけ
るぞ。今日の運動は、明日のため。その積み重ねがあってはじめて、私も、80歳くらいまで、
生きられるのでは……。多分?
(はやし浩司 平均寿命 江戸時代)

【補記】

 その運動で、こんなことを考えた。

 先週のいつだったか、体が鉛のように重く、だるく感じたときがあった。鉛というより、力が抜
けてしまって、息をするのもつらかった。

 その夜のこと。私は、町の中にある教室にいた。時刻は午後9時過ぎ。そこで私は、ワイフに
こう電話した。

 「途中まで、がんばって走ってみる。もし途中でダウンしたら、そこまで迎えに来てほしい」と。

 そしていつものように、教室の外に出ると、自転車にまたがった。自分でも自信がなかった。
家までの距離は、7キロ弱。ゆるいが、途中には、ダラダラ坂がある。それに気温は、夜だとい
うのに、30度近くもあった。

 いつもなら、20〜30分で家に着く。しかしその夜は、「これじゃあ、1時間は、かかるな?」
と。

 しかし体というのは、おかしなものだ。自転車にまたがって、ペダルをこぎ始めたとたん、軽く
動き始めた。30年以上、自転車通勤をつづけてきた、おかげかもしれない。それに私は、もと
もと、意思が弱い。自分で追いつめられた状況をつくらないと、こうした運動はしない。

 ともかくも、家まで、いつものように、25分前後で、帰ることができた。途中で、ワイフが心配
しているといけないので、電話した。「どうも、だいじょうぶみたいだ」と。

 健康を維持するための運動にも、いろいろあるが、こうした(きびしさ)がないと、健康は維持
できないのではないか。趣味的な運動なら、たぶん、ここまで自分に、きびしい運動はしないだ
ろう。

 おかげで翌朝には、体調はもとにもどっていた。

★Be sure to live your life, because you are long time dead.
(生きていることを、しっかりと確認せよ。なぜなら、生きている時間は、短く、死んだあとの時
間は、長いから。)(スコットランドの言い伝え)

★In an artist's life, death is perhaps not the most ddifficult thing.
(一人の芸術家にとっては、死というのは、多分、それほどむずかしい問題ではない。)(ビンセ
ント・V・ゴッホ)

★運動は、継続するから、意味がある。健康法も、継続するから、意味がある。ただつぎの問
題は、その健康を使って、どう生きるかである。生きる意味のない人生、目的のない人生を送
っている人には、健康といっても、蔵に入った、ただの宝物にすぎない。(はやし浩司)

 
●K国の爆発事故

 9月9日、K国の建国記念日の日。K国の北部で、大きな爆発事故があったという(9月12
日、午後6時半現在)。

 情報が錯綜(さくそう)している。ミサイル爆発説。列車事故説。さらには軍需工場爆発説な
ど。当初、核実験かと、世界中が緊張した。私もそう思った。しかしどうやら核実験ではなさそう
だ。

 この原稿が、読者の目にとまるころには、事情も、かなりはっきりしていることだろう。しかし
今は、混沌としている。

 が、私が今、注目しているのは、その爆発事故よりも、K国を襲っているはずの大豪雨。台
風20号に刺激された、熱帯低気圧が、昨日から今朝にかけて、K国を通過した。今ごろK国
は、大洪水に見舞われているはず。が、これで終わるわけではない。このあと、台風20号の
本体が、待っている。それがゆっくりと今、東シナ海を北上しつつある。

 今年の冬には、K国の食糧事情は、またまた大ピンチを迎える。崖っぷちに立たされ、強い
風にあおられているような状態だ。もちろんその向こうは、奈落の底。首都P市に住む人たち
は別として、かわいそうなのは、それ以外の町村に住む、一般民衆たちである。

 今度の豪雨で、田畑が被害を受ければ、食糧事情は、さらに悪くなる。

 で、その爆発事故だが、ミサイル基地にせよ、軍需工場にせよ、中国国境にそれがあるとい
うところが、ミソ。仮に米朝戦争になっても、アメリカが攻撃しにくいところである。そういうところ
で爆発事故が起きたということ自体、自業自得と言うべきか。

 どんな被害であっても、日本は、K国が助けを求めてこないかぎり、決して、復旧活動に手を
貸してはいけない。またそこまでお人好しになってはいけない。爆弾にせよ、ミサイルにせよ、
どれも日本をターゲットにしたものだからである。

 かねてより、K国は、この9月9日に、核実験もしくは、新型ミサイル(テポドン2)の発射実験
をするのではないかと、うわさされていた。位置的には、そのテポドン1(射程距離、2000キロ
前後)、テポドン2(射程距離、4000〜6000キロ)の発射基地のあるあたりで起きた爆発事
故だという。(10月に、核実験をするのではないかという報道もある。)

 もしそうなら、ミサイルの発射実験の失敗の可能性が、きわめて高い。ただ、爆発規模が、あ
まりにも大きすぎる。ミサイルの発射事件の失敗くらいで、直径4キロにもなるキノコ雲が発生
するだろうか。素人の私には、これ以上のことはわからない。

 もうすぐ7時になる。NHKの定時ニュースを見るために、居間へ行く。多分、NHKも、そのニ
ュースを、トップで、報道するだろう。

【追記】

 NHKの定時のニュースでは、韓国KBSの報道をそのまま紹介しただけ。北京をたまたま訪
問している、K外務大臣も、「情報の収集をしているところ」と。

何とも、お粗末な情報収集。爆発が起きたのは、9日の午前11時ごろとされる。それから、80
時間もたっている。80時間もたっているのに、これだけの情報とは! あるいは、その裏に何
かがあるのか? ここ数日、目が離せない。


●Halloween Ideas(ハロウィーンについて)
(デニーズのホームページより)
Sage has recently turned two.  
誠司が2歳になりました。

And although I have seen traces of the "terrible two's" in him, I think that parenting will be 
a lot more fun this year, especially where holidays and events are concerned. 
「2歳児はむずかしい」と言われ、その兆候が見られますが、今年は、子育てがぐんと楽しくな
りそうです。とくに、休みなどでは。

This unusually cool weather turned my mind to this subject this afternoon.  
このところいつもになく気候も涼しくなり、そんなことを考えています。

It felt just like autumn.  
秋のようです。

Last year for Halloween, we stayed at home and handed out candy to trick-or-treaters. 
去年のハロウィーンでは、家にいて、トリック&トリーターたちに、キャンディを渡しました。

 Sage loved it.  
誠司は、それを楽しみました。

He'd run to the door every time the bell rang. 
誠司は、ドアのベルが鳴るたびに、ドアまで行きました。

 He'd hide behind Soichi or me and watch as the children grabbed a treat from the plastic 
pumpkin. 
誠司は、宗市や私にかげに隠れて、プラスチックのカボチャから、子どもたちが、キャンディを
つかむのを、見ていました。

He refused to wear his dinosaur costume, but for the most part he had a blast. 
誠司は、恐竜の衣装を着るのをいやがりましたが、とても楽しかったです。

 Just answering the door made his day. 
客に応対するだけで、一日が終わりました。

This year I feel that there will be so much more that he can enjoy. 
今年は、誠司にとって、もっと楽しい日になるだろうと思います。

 But there are also so many things that he is not yet prepared for.  
が同時に、誠司には、まだ準備できていないこともたくさんあります。

He is at that unique age when he is too big to be a baby but too little to try the things he 
sees older children doing.
誠司は、赤ちゃんというには、大きすぎます。しかし大きな子どもたちがすることをするには、小
さすぎます。

 I decided Sage was too young to trick-or-treat himself, but I wanted him to experience 
more than opening a door and giving other children a treat. 
誠司は、自分で、トリック&トリートをするには、幼すぎると思いますが、誠司には、ドアをあけ
て、トリートする以上のことを経験させようと思っています。

 And he knows what candy is now...
今では、キャンディがどんなものであるか、誠司も知っています。

I don't think he'd be too happy to see other children taking it. 
ほかの子どもたちが、お菓子をむしりとられるのを見るだけでは、誠司も楽しくないと思いま
す。

A friendly neighbor told me that there are all kinds of activities in Conway.  
親しい隣人が、Conwayには、楽しい催しものがたくさんあると、話してくれました。

The library has a carnival.  
図書館は、カーニバルを開きます。

Some of the banks have festivities. 
銀行のいくつかは、お祭りをします。

 And Wal-mart has an event called "Trunk or Treat", where games and candy-giving occur 
out of the trunks of cars.
そしてウォールマートは、「トランク&トリート」というのをします。ゲームをして、車のトランクか
ら、キャンディを出すという催し物です。

 I might even be able to make a costume for Sage. 
誠司のために、何か、衣装をつくってあげましょう。

 Me, Denise?  Yes, me.  
私、デニーズが、ですか? そう、私が、です。

My friend told me that I don't need a sewing machine to make a nice costume. 
私の友だちが言うには、衣装をつくるのに、ミシンはいらないと言います。

 The website www.familyfun.com has patterns for costumes that can be made by painting 
and altering sweats. 
このサイトでは、色をぬったりするだけでできる衣装を紹介しています。

 She says they look really good, and she sews EVERYTHING! Who knew I could be "crafty
"? :)
友だちが言うには、それらはとてもよいそうです。


●S先生のこと

 昨日、K市(浜松市の隣町)の、中学校教師のS先生が、逮捕された。容疑は、小学生の誘
拐、強制ワイセツ。48歳だったという。

 その小学生は、海岸で、S先生に声をかけられ、車で連れていかれたという。S先生は、車で
連れていったことまでは認めたらしいが、ワイセツ行為については、否認しているという。S先
生は、48歳。相手の子どもは、小学6年生。男児!

 ここであえて、私は「S先生」と呼ぶ。私の二男の中学時代の担任教師であったからである。
また三男の教師でもあった。二男が中学生のときは、世話になった。私もワイフも、S先生に
は、感謝している。もともとは養護学校の先生だったとかで、大柄で、やさしい先生だった。

 その先生が、誘拐、強制ワイセツ? 地元のS新聞は、つぎのように伝えている(要約)。

++++++++++++++++++

小学男児連れ回す

 浜松市内の小学六年生の男児を誘拐し、車で連れ回したとして、浜松中央署は11日、わい
せつ誘拐と強制わいせつの疑いで、K市S、K市の中学校教諭(48)を逮捕した。 

 調べでは、容疑者は11日午後4時ごろ、浜松市南西部の海岸で、友人二人と砂遊びをして
いた被害者の男児に「こっちに来て」などと声をかけ、自分のワンボックス車の後部座席に乗
せて連れ回したうえ、同市内駐車場の車内で体を触るなどのわいせつ行為をした疑い。 

 容疑者は同日午後6時25分ごろ、男児を自宅付近で解放した。男児が連れ去られた後、一
緒にいた友人二人が交番に届け出て、容疑者の車のナンバーや種類、色などを伝えた。情報
に基づき緊急配備を敷いた同署は、同市篠原町内で手配車両を発見、職務質問して逮捕し
た。 

 容疑者は午後4時半ごろ、いったん男児を車から降ろしたが、立ち去ろうとする男児の後を
つけ、同5時ごろに再び車に連れ込み、わいせつ行為に及んだらしい。容疑者は同署の調べ
に対し、男児を車に乗せたことは認めているが、わいせつ行為については否認しているという
(S新聞HPより)。

+++++++++++++++++++++

 ショックを受けたのは、ワイフのほうだった。二男は、花粉症で、春先になると、決まって不登
校を繰りかえした。その二男を理解し、いろいろかばってくれたのが、S先生だったからであ
る。

 まだ取調べ中ということで、詳しいことはわからない。ひょっとしたら、魔がさしたのかもしれな
いし、反対に、ほかにも多くの余罪があるのかもしれない。県内では、教師による養護学級生
に対する、強制ワイセツ事件が起きたばかり。

 しかしかわいそうなのは、S先生の奥さん。子どももいたそうだ。(現在は、知らないが…
…。)が、それ以上に、自分の愚行を後悔しているのは、S先生自身ではないのか。

 私にも、中学生のとき、たいへん世話になった先生がいた。英語の先生だったし、コーラス部
の顧問もしていた。実は、その先生も、女生徒にワイセツ行為をして、逮捕されている。

 あとでその話を、友人から聞いたとき、信じられないというよりは、「何で、そんなバカなことを
した!」と思った。「これで、二度と、遊びに行くことができなくなってしまったではないか!」と。

 当時の私は、まだ若かったので、自分のことしか考えなかったのだと思う。先生がそういう事
件を起こすと、自分の中の楽しかった思い出まで消さなければならない。私には、それがつら
かった。

 さて、私のこと。ハレンチ事件を起こしたS先生と私。大きくちがうようで、実は、どこもちがわ
ない。そこで昨夜、寝る前、ふとんの中でワイフにこう聞いた。

私「ぼく、どこかおかしいかね?」
ワイフ「どこが……?」
私「どこか、おかしいところがあると思うか? たとえば同性愛者だとか?」
ワ「ゼンゼン……」

私「でも、いつも、お前に、おかしなことをしているよ」
ワ「そう言えば、そうね」
私「だろ……。だったら、『あんたも、気をつけなよ』とか、何とか、ぼくに言ったほうがいいよ」
ワ「何を気をつけるの?」

私「ぼくが、おかしなことをしないように……」
ワ「したければ、すればいいじゃない。何か、したいの? 私になら、いいわよ」
私「別にないけど……。今は……。もう、そんな元気はない」
ワ「だったら、それでいいじゃない……」と。

 二男(アメリカ在住)と、三男(オーストラリア在住)には、この話を伝えないでおこうと思った
が、やはり、一応、話しておくことにした。ショックは受けるだろうが、そのショックから、何かを
学ぶかもしれない。

【追伸】

 アメリカに住む、二男に、そのことを伝えると、すぐメールで返事が来た。いわく、「ぼくとA君
で遊びに行ったとき、一晩、とめてもらったことがある。そのときも、海へ、連れていってくれた」
と。


●教育基本法改正案

 教育基本法の改正が、あちこちで、論じられている。その中の一つ、自民党と民主党の超党
派議員がつくる、『教育基本法改正促進委員会』の席で、冒頭、民主党のN村S吾議員は、こう
言っている(04年2月)。

 「お国のために命を投げ出しても構わない日本人を生み出す。お国のために命をささげた人
があって、今、ここに祖国があるということを、子どもたちに教える。これに尽きる」

 「お国のために命を投げ出すことをいとわない機構、つまり国民の軍隊が、明確に意識され
なければならない。この中で国民教育が復活していく」(夕刊フジ)と。

 「お国のため」とはねえ……? それはともかくも、このN村氏の発言は、どこからどう考えて
も、おかしい。

 どこかの独裁者がつくる全体主義国家は別として、国というのは、そこに住む人たちが、文
化や伝統を共有しながらつくりあげる、集合的組織をいう。わかりやすく言えば、国あっての民
ではない。民あっての国である。

 N村氏の視点は、私とは、まったく逆! N村氏は、国あっての民と考えているようだ。もっと
言えば、民は、為政者の財産にすぎない?

 戦前の日本のように、そして現在のK国のように、その頂点にいる人が、その国民に向って、
「我が臣民」と言うような国が、本当に、国なのか? 国と言えるのか? そう言えば、少し前ま
で、イギリスのエリザベス女王も、イギリス国民を呼ぶとき、「My people(私の民たち)」と呼
んでいた。

 その民が、自分の国をさして、「私の国」と呼ぶのは、かまわない。しかし為政者が、その民
に向って、「私の民」と呼ぶのは、おかしい。もう少しわかりやすい例では、ある学校の生徒た
ちが、自分の通う学校を、「私の学校」と呼ぶのは、かまわない。しかしその学校の校長が、生
徒たちを、「私の生徒たち」と呼ぶのは、おかしい。

ちなみに、今、アメリカでは大統領選挙たけなわ。しかしブッシュにせよ、ケリーにせよ、アメリ
カ国民に向って、「My people」などと言っているのを、聞いたことがない。

 発想のちがいというよりは、そういった意識そのものが、ない。それが民主主義である。

 が、N村氏の心配していることもよくわかる。しかし私たちは、何も、そこらの政治家に言われ
なくても、そのときがきたら、ちゃんと、戦う。目の前で、家族や仲間が殺されるようなことがあ
れば、ちゃんと戦う。

 そのためにも、政治家たちは、まず、その手本なり、見本を見せてほしい。命がけで、「お国」
のためやらのために戦っている姿を見せてほしい。

 が、現実は、逆。

 1億円もヤミ献金を受け取りながら、「忘れました」「覚えていません」と、責任のがれをしてい
る政治家がいる。そういう政治家を見ると、私たち国民は、「何〜だ」と思ってしまう。いざとなっ
たら、イの一番に、敵前から逃げ出す。そんな政治家が、「国のために死ね」と言ったとしても、
はたして国民は、それに従うだろうか。

 こうした流れを受けて、すでに学校の教育現場では、『心のノート』の発行、愛国心の三段階
評価、さらには、東京都のように、日の丸、君が代の強制など、いわゆる国家主義が、猛烈な
勢いで進んでいる。

 わかりやすく言えば、「お国のために命を投げ出しても構わない」(N村議員)、もの言わぬ従
順な民づくりが、すでに始まっているということ。N村議員といえば、銃撃事件を引き起こした、
日本刀剣の会から、顧問として政治献金を受け取っていた議員である。

 なるほどと思うと同時に、これでいいのかなあと思う。

++++++++++++++++++++

愛国心教育について

●郷土愛と言い換えたら●民主主義を守ろう

「愛国心は世界の常識」(政府首脳)という。しかし本当にそうか?

 英語で「愛国心」というのは、「ペイトリアチズム」という。ラテン語の「パトリオス(父なる大
地)」に由来する。つまりペイトリアチズムというのは、「父なる大地を愛する」という意味であ
る。私にはこんな経験がある。

 ある日、オーストラリアの友人たちと話していたときのこと。私が「もしインドネシア軍が君たち
の国(カントリー)を攻めてきたら、どうする」と聞いた。オーストラリアでは、インドネシアが仮想
敵国になっている。が、皆はこう言った。

「逃げる」と。「祖父の故郷のスコットランドに帰る」と言ったのもいた。何という愛国心! 私が
驚いていると、こう言った。

「ヒロシ、どうやってこの広い国を守れるのか」と。英語でカントリーというときは、「国」というよ
り、「郷土」という土地をいう。そこで質問を変えて、「では君たちの家族がインドネシア軍に襲
われたらどうするか」と聞いた。すると皆は血相を変えて、こう言った。「そのときは容赦しな
い。徹底的に戦う」と。

 一方この日本では、愛国心というと、そこに「国」という文字を入れる。国というのは、えてして
「体制」を意味する。つまり同じ愛国心といっても、欧米でいう愛国心と、日本でいう愛国心は、
意味が違う。内容が違う。

 たとえばこの私。私は日本人を愛している。日本の文化を愛している。この日本という大地を
愛している。しかしそのことと、「体制を愛する」というのは、別問題である。体制というのは、未
完成で、しかも流動的。そも「愛する」とか「愛さない」とかいう対象にはならない。愛国心という
言葉が、体制擁護の方便となることもある。左翼系の人が、愛国心という言葉にアレルギー反
応を示すのは、そのためだ。

 そこでどうだろう。愛国心という言葉を、「愛人心」「愛土心」と言い換えてみたら。「郷土愛」
「愛郷心」でもよい。そうであれば問題はない。私も納得できる。右翼の人も、左翼の人も、そ
れに反対する人はいまい。子どもたちにも胸を張って、堂々とこう言うこともできる。

「私たちの仲間の日本人を愛しましょう」「私たちが育ててきた日本の文化を愛しましょう」「緑
豊かで、美しい日本の大地を愛しましょう」と。

その結果として、現在の民主主義体制があるというのなら、それはそれとして守り育てていか
ねばならない。当然のことだ。
(はやし浩司 愛国心 愛郷心 郷土愛 教育基本法 改正案)


++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司


最前線の子育て論byはやし浩司(314)

【近況・あれこれ】

●東海地方最大のショッピングセンター

 2か月ほど前、浜松市の西の郊外に、これまた度肝を抜かれるほど、巨大なショッピングセ
ンターができた。畑の中にこつ然と……というほど、大げさではないが、それに近い。駅前のデ
パートを、3〜4つ、あわせたほどの巨大さである。

 で、その2か月が過ぎて、はじめて、昨夜、ワイフと、そのセヨッピングセンターに行ってみ
た。

私「大きいとは聞いていたけど、ここまで大きいとは!」と私。
ワイフ「ホント!」と。

 出るのは、「フーッ」というため息と、「ヘーッ」という驚きだけ。各種レストランだけでも、JR名
古屋駅の構内の食堂の数より、はるかに多い。それに広くて、豪勢! 立派! 気取ってい
る! もちろん値段は、すべて大都会並み。

 周囲に、それだけの商圏があれば、まだ納得できる。しかしその「畑」をはさんで、西側に
は、人口1万4000人弱のY町。東側に、浜松の郊外。半径数キロという範囲でみても、全体
でも、4〜5万人もいないのでは?

 冒険というより、無謀! 私は、そう感じた。いくつかのカフェをのぞいてみたが、場ちがいと
も思える、年配の女性たちが、少しかっこうをつけて、ピザを食べたり、コーヒーを飲んでいたり
した。

 が、平日の夜ということもあって、店も、通路も、ガラガラ。「土日は、混んでいるそうよ」と、ワ
イフは何度も言ったが、それにしても……!

私「いくらショッピングセンターといっても、消費ばかりしているわけには、いかないしね」
ワ「フーッ」
私「まあ、時間の問題だろうね」
ワ「フーッ」と。

 あとはパソコンショップをのぞいて、それから、雑貨食品屋へ。いくつかのレトルト食品と、韓
国製のインスタントラーメンを買った。全部で、1800円。

 帰るとき、私の評論家(批評家)魂が、ムラムラとわき起こった。

(1)緑がまったくない!……巨大なビルだけ。
(2)息抜き空間が、まったくない!……太陽や風を直接感ずるような空間がない。
(3)休憩場所がない!……レストランなどはあるが、当然、すべて有料!
(4)値段が高い!……こうした郊外に住む人間で、平日、1200〜1800円もの食事代を払う
層が、いったい、何%いるというのか?

 すばらしいというより、超すばらしいショッピングセンターだが、このあたりに住む人間の日常
感覚からは、あまりにもかけ離れている。食料品をあつかうスーパーも2階にあるが、そこへ行
くまでには、途中エスカレーターに乗ったりして、数百メートル以上も歩かねばならない。

 レストランにしても、案内板でみると、40店舗ほど入っているが、こうしたレストランは、客足
が少なくなると、とたんにサービスが悪くなる。みすぼらしくなる。そしてショッピングセンター全
体の雰囲気を悪くする。

 一軒が閉店すると、ドミノ倒しのように、バタバタと閉店がつづく。客を呼びやすい反面、下り
坂になったときには、かえって客を遠のけてしまう。

 はっきり言おう。このあたりは、まだ田舎。通りの風景も、台湾や韓国の郊外の風景と、それ
ほどちがわない。

 そんなところに、アメリカのウォールマートでさえ、小型店に見えるような巨大なショッピングセ
ンターを作って、どうする? 店内を歩くだけでも。疲れてしまう。少なくとも、私のような年齢の
人間が来るような場所ではない。

 ……とまあ、否定的なことばかり書いたが、しかし、このさみしさ(?)は、いったいどこからく
るのか?

 昔、私が住む町内に、大きな自動車部品工場があった。従業員は、数百名はいたと思う。し
かしその工場も、私がここに住むようになって、閉鎖になった。倒産したといううわさも聞いた。
10年ほど、前のことである。

 で、その跡地に、しばらくしてから、今度は、これまた超大型の、ビデオショップができた。こ
のあたりでも最大級のビデオショップだという。

 私はそこでビデオを借りるたびに、「いいのかなあ?」と思っている。今も、そう思っている。私
の年代というのは、おかしなもので、工場が立ち並ぶのは、うれしい。しかし、大型のショッピン
グセンターが、立ち並ぶのは、うれしくない。

 みんな、働くことを忘れて、お金を使うことばかり、考えている? 私が感ずるさみしさというの
は、どうやら、そのあたりから生じてくるようだ。

(追伸)

 否定的なことばかり書いて、ごめんなさい! ただ、少しだけ、日本の将来を心配しているの
です。


●韓国VS日本

 韓国が、核兵器開発をしていた! この数日、日本のマスコミは、この問題を大きくとりあげ
ている。

 が、肝心の韓国はというと、まったくの無視。そればかりか、「騒いでいるのは、日本のマスコ
ミだけ」(担当元科学者)とか、「何も問題はない」と、つっぱねている。さらに「日本だって、やり
たい放題のことをしているではないか」とも、

 日本は、世界に例を見ないほど、IAEAの核査察を、常時受けいれている。しかもIAEAの資
金の、巨額出資国。その額は、アメリカについで、ナンバー2である。

 韓国の核兵器開発は、明らかに、日本への裏切り行為である。背信行為である。しかも今、
日本は、世界は、何のために、6か国協議をしているのか! 

 韓国が核兵器をもつということは、日本に、それがどのような脅威を与えることになるか、そ
れがわからないのか? 「日本は、アメリカの核のカサのもとにある。核兵器をもっているのと
同じ」(朝鮮日報)という論法は、韓国が口にする言葉ではない。

 が、ここ数日、朝鮮日報のHPは、そのことについては、一言も触れていない。こういった状態
で、つぎの6か国協議など、どうして開けるのか。事実、K国は、9月開催を、ボイコットしてしま
った。

 それにしても、理解できないのが、韓国。まったく理解できない。左翼政権だということは、私
でもわかるが、ここまで左傾化していたとは! 「朝鮮動乱は、韓国側がしかけた」「大韓航空
機を爆破した、金xxは韓国人だった」などというのは、まだよいほう。

「主敵は北朝鮮ではなく米国」という論調。北朝鮮スパイや武装ゲリラまでを民主化功労者とた
たえるにいたっては、「?」マークを、10個くらい並べたい。

 こんな状況では、アメリカ軍は、韓国から出て行くしかない。当然ではないか。「主敵」とまでこ
きおろされて、韓国を守らなければならない理由など、どこにもない。韓国が、金XXの独裁政
権下にはいろうが、はいらまいが、もう日本の知ったことではない。

 どうぞ、ご勝手に!

【補記】

 日本と韓国の間を行き来している、実業家の友人(日本人・大手食品会社室長)も、こう言っ
た。

 「林君、ぼくも、韓国が何を考えているか、理解できないよ。戦前はともかくも、戦後、日本と
アメリカが築きあげた、自由貿易体制の中で、韓国も自由と繁栄を謳歌している。その日本や
アメリカに対して、反日、反米の、のろしをあげている。

 今のN政権は、ゆくゆくは、K国と共和制をしき、中国の経済圏に入ることをもくろんでいる。
日本は、それを知ってか知らずか、韓国は日本の仲間だという幻想にしがみついている。

 しかしね、林君。仮にもし日朝戦争ということになれば、韓国は、100%、K国を支援するよ。
日本人も、そういう現実を、少しは認識すべきだろうね」と。

【補記2】

 「平和」「平和」と叫ぶのは、結構なこと。しかし日本の近くに、わけのわからない国が生まれ
て、この日本を攻めてきたら、どうする?

 現に今、隣のK国は、日本向けに、せっこらせっこらと、核兵器を作っている。しかも、「経済
制裁をしたら、宣戦布告とみなす」と、勝手なことを言っている。

 その一方で、拉致被害者の家族の人たちは、「圧力だ」「制裁だ」と息巻いている。このまま
いけば、戦争である。単純に考えれば、そうなる。

 「日本が何もしなければ、相手は攻めてこないはず」と考えるのは、あまりにも甘い。甘いこと
は、日本人なら、みな、よく知っているはず。戦前の日本は、そういう甘い考え方をしている
国々を、どんどんと戦争をしかけ、侵略していった。

 こういう現実の中で、日本は、日本人は、いったい、どうやって、日本の平和を守るべきなの
か。

 現に今、そのK国の野望をおさえてくれるのは、アメリカしかいない。中国でもロシアでもな
い。遠く離れた、ドイツでもイギリスでもない。韓国の核開発にしても、悲しいかな、今の日本
は、まったく無力! 韓国は、日本など、相手にしていない!

 が、在日米軍が、移動を決めるたびに、この日本では、「アメリカ軍は出て行け!」の大合
唱。沖縄は別としても、このS県でもそうだ。しかし、今、アメリカがこの日本から、手を引いた
ら、日本は、どうなる? 手を引かないまでも、米朝間で、相互不可侵条約のようなものが結ば
れた、日本は、どうなる? 

 民主党のケリー候補は、少し前まで、「米朝間で、2国間交渉をする」「(日本などの)同盟国
がK国に攻撃されたときは、そのときの状況をみて、判断する」と言っていた。

 ブッシュ大統領が、「日本がK国に攻撃されたら、ただちに反撃する」と言ってくれたのとは、
大ちがいである。

 何度も繰りかえすが、東京のど真ん中で、核兵器が爆発してからでは、遅いのである。

 ……こうした私の意見に対して、「林は、親米的すぎる」と言う人もいる。私のワイフですら、
そう言っている。

 事実、そのとおりだから、反論のしようがない。嫁も息子も、そして孫もアメリカ人という立場
で、どうしてこの私が、反米的になれる? ただ私の親米は、そんなレベルの低いものではな
い。仮に、孫が、「日本をK国から守るために、アジアまできて、K国と戦う」と言ったら、私は、
こう言うだろう。

 「来なくていい。日本のことは、ぼくらで、何とかするから」と。


●あやしげなメール(?)

 このところ、あやしげなメールが、つづく。それも、実に、思わせぶり。

 アドレスを公開しているため、こうしたメールは、防ぎようがない。が、それにしても……!?

 件名:ごめんなさい。どうか、許してください。
 件名:私の話を聞いてくださったら、15万円、お支払いします。
 件名:お元気ですか? 一度、会いたいですね。

 こうしたメールのほとんどは、未承諾広告か、もしくはスパムメール。中には、ウィルスや、ス
パイウエア入りのメールもある。安易な好奇心は、禁物。そのまま命取りになる。

 先日も、親しい友人から、「photos」という件名のメールが届いた。「?」と思いながら、削
除。そして折りかえし、(返信ではなく)、「大切な写真だったら、もう一度、送ってほしい」とメー
ルを書いた。(こうしたメールが届いても、そのまま「返信」で、返事を書いてはいけない。返事
には、アドレス帳に登録してある、アドレスを使うこと。)

 その慎重さが、よかった! 私もMydoom(件名:Photos)ウィルスに、あやうく侵入されると
ころだった!

 そこで今、私へのメールには、件名のところに、住所と名前を書いてもらうことにしている。と
くに、見知らぬ人には、そうしてもらっている。私としては当然のことだと思うのだが、これが、
あまり評判がよくない。

1年ほど前だが、「何をお高くとまっているの!」というメールをもらったこともある。私が、「住
所と名前を書いてほしい。でないと、返事は書きません」と返事を出したことについて、である。

 が、やはり、ここは、心を鬼にするしかない。鬼にして、「?」なメールは、容赦なく、削除。ま
た削除。しつこいばあいには、そのまま、フィルター処理。これは私のパソコンの健康を守るた
めであると同時に、みなさんに迷惑をかけないためでもある。

 で、今朝も、インターネットをたちあげると、その種のメールが、1通。件名が「ありがとう。とっ
てもすてきでした」とある。

 アドレスを見ても、心当たりがない。「?」を、頭の中で、数回繰りかえしたあと、一度、フロッ
ピーディスクに保存。そのフロッピーディスクを、ウィルス・スキャン。幸い、異常はみつからな
かったが、そのまま削除。開いて読むまでもない。

 だから、再度、ここで徹底することにした。自分の心構えを、だ。

(1)件名のところに、住所、名前のないメールは、絶対に開かないぞ。
(2)あやしげな件名のメールは、即、削除。ぜったいに、スケベ心をもたないぞ。
(3)削除したあとは、そのメールのことは、即、忘れるぞ。

 それにしても、まあ、このところ、ますます手のこんだメールが多くなった。何の目的で、そう
いうメールを送り届けてくるのか、私にはわからないが、それにしても、まあ……?

 みなさんも、どうか、お気をつけください。あやしいと思ったら、即、削除ですよ! いらぬお節
介かもしれませんが……。


●デジタルカメラを買う

 とうとう、カメラを買ったぞ!

 機種は、C社の小さなカメラ。「ExiXXX」という機種。200万画素しかないが、もって遊ぶに
は、ちょうどよい。インターネットで使うには、じゅうぶん。

 値段は、ケースも入れて、29800円! 64メガのフラッシュメモリを、サービスで、つけてく
れた。

 ワイフに、「ありがとう。お礼に、お前のヌードをとってやるからね」と言うと、大きな声で、「コ
ケコッコー!」と。「結構(NO)という意味らしい。

 さあて、これから、このカメラで、あちこちをとってくる。まずためしに、家のまわり。あいにくと
曇り空だが、写真をとるには、かえって、よいそうだ。光が分散して、写真が、美しくなる。


●ハレンチ教師

 数日前、ある中学校の男性教師(48歳)が、わいせつ誘拐罪で、逮捕された。小学生の男
子児童を、誘拐、そしてわいせつ行為を働いたという。

それについて、数人の母親たちに、「実はね、あの先生ね、うちの二男の担任教師でした。そ
れも2年間もね」と言うと、すかさずみな、「どんな先生でした?」と。

 で、「私が知るかぎり、悪い先生だったとも思えません」と答えると、さらに心配そうな顔をし
て、「どうしましょう?」「どうしたらいいでしょう?」と。

私「しかし、同性愛者とは知りませんでした。うちの息子も、遊びにいって、家にとめてもらった
こともありますから」
母「無事でした?」
私「……無事だったと思います。そういう話は聞いていませんから……」
母「あぶなかったですね」
私「まあ、そう言われてみれば、そうですね……」と。

 私も結構、スケベなほうだが、子どもに手を出すことなど、思いもつかない。自分の生徒にし
ても、教室の外で、会ったことなど、一度もない。(「会った」という生徒がいたら、名乗り出てほ
しい。即刻、このHPを、閉じる。マガジンを廃止する。)

 理由の一つは、やはり、一度は、私のほうから、その親たちに、頭をさげるためではないか。
「子どもを預かる」というよりは、「教えさせてもらう」という意識で、子どもを迎える。その意識
が、最初から、私と子どもたちの間に、一線を引く。

 が、私は、むしろ、その「48歳」という年齢のほうに興味をもった。世間一般の常識からいえ
ば、48歳というのは、人生の円熟期。道理も分別も、わきまえた年齢ということになる。その4
8歳の男性教師が、そういうことをした!

 何があったのか?

 で、自分の48歳のころを、懸命に思い起こしてみる。

 48歳という年齢は、青春とも決別できず、それでいて、老人とも言えない年齢。どこか、モヤ
モヤとした年齢。しかもそれまで、無限に見えてきた未来が、急速にしぼみ始める。自分の限
界が、形となって、そこに見えてくる。

 性的な視点でみると、まだその元気は残っているが、もうそろそろ女性に、相手にしてもらえ
ない年齢ということになる。しかしその男性教師のばあいは、同性愛者? 同性愛が悪という
のではないが、私には、どうにもこうにも、理解できない。まったく、理解できない。

 その傾向が、ほんの少しでも私にあれば、話は別だが、まったくないのだから、しかたない。
(私が同性愛者なら、もうとっくの昔に、こういうマガジンの中で、それを告白していると思う。私
のことだから……。)

 だから、わいせつ行為といっても、男児を相手に、何をするのか。私には、その目的さえ、理
解できない。が、その男児を、女児におきかえてみると、私にも理解できる。「なるほど」という
部分が、突然、大きくなる。

 で、私は、48歳のころ、女児にそういう感情をいだいたことがあるだろうか?

 たしかに私は、スケベだから、そういう感情をもったことがあるかもしれない。なかったとは、
言わない。しかし(銀行強盗を頭の中で夢想する)ことと、(実際に、その強盗を実行する)こと
の間には、越えがたい距離がある。

 同じように、仮にスケベ心があったとしても、実際に、女児をわいせつ誘拐するというところま
では、いかない。それを実行するには、ものすごいエネルギーが必要である。フロイトが言う、
「リピドー(性的エネルギー)」というのが、それだ。

 そうそう、ただこういうふうに、思ったことはある。

 「浮気(不倫)を経験するなら、今しかないぞ」と。「あと、数年もすれば、だれにも相手にされ
なくなるぞ」と。それはどこか、あせりに似た気持ちかもしれない。人生に、別れを告げるような
気持ち。どこか、切なく、ものわびしい。

 そう言えば、あのころは、美空ひばりの、『♪悲しい酒』ばかり歌っていた。ああいう歌が、じ
んと胸に響いた。しかし、だ。あの歌とて、いつも、車の中で、ワイフと歌っていた!

 最後に、別れぎわ、母親たちにこう言った。

 「ああいう教師は、例外ですから、気にしないことです」と。

 そう、気にしないこと。あとのことは警察に任せて、私たちは前に進むしかない。


●異論、反論

 主婦向け投稿誌「W」の編集長の、T氏(女性)が、今度、本を出版した。題して『母と子のxxx
x』(仮称・K出版社)。

 その中で、T氏は、こう結論づけている。「子どものいいなりになる育児は、結局は、こらえ性
のない子どもをつくる」と。

 その結論は正しいとしても、T氏は、その一つの理由として、「ゼロ歳児における母親の異常
な手のかけすぎ」をあげる。

 たとえばフランスでは、約44・9%の母親が、子どもが生まれたときから、母子は、別々の部
屋で寝ているが、日本では、約5・9%にすぎない(「日仏女性資料センター、90年」などの事
実をあげる。

 そして、「子どもが赤ちゃんのとき、抱いてばかりいた母親の子どもほど、こらえ性のない子ど
もになる」と。

 私は新生児から乳児については、よく知らない。しかしこのT氏の説は、どこかおかしい。私
自身の孫のこともある。

 孫の誠司は、やや早産で生まれたこともあり、夜泣きがひどかった。生後まもなくから、目を
さましているときは、いつも泣いていた。嫁が、アメリカ人だったこともあり、いわゆるアメリカ流
に、生まれたときからベッドを分けた。

 4、5か月くらいしてからのこと。私のワイフが、二男に、孫を間にはさんで、川の字になって
寝るようにすすめた。アメリカでは、めずらしい育て方である。が、とたん、夜泣きは、ウソのよ
うに消えた。

 もちろん手のかけすぎは、よくない。それは幼児教育の世界でも常識。しかし「求めてきたと
きが、与えどき」というのは、事実。子どもが、何かのスキンシップを求めてきたら、すかさず、
ていねいに答えてあげる。子どもを体で包んであげたり、キスをしてあげる。ぐいと力を入れて
抱くのがコツ。

 しばらくすると、子どものほうが安心し、体を離そうとする。そのときは、そのまま体を離す。

 こうしたスキンシップの量には、個人差がきわめて大きい。そのときの子どもの精神状態もあ
る。子ども自身の情緒の安定度の問題もある。1回に何分間、1日に何回抱けばよいと、単純
に決められるような問題ではない。あくまでも子どもを見ながら、判断する。

 だから「フランスではこうだから……」という短絡的な思考で、「では、日本でも、こうあるべき
だ」という発想は、必ずしも正しくないのでは(?)。

 なお、こらえ性(おもしろい言い方だと思うが……)、つまり忍耐力は、もっと別の角度から論
じられるべきではないか。ある時期には、子どもは、濃密な母子関係を必要とする。心理学で
いう、基本的信頼関係も、そういうところから築かれる。

 そういう時期に、愛情飢餓、親の拒否的姿勢と、子どもに誤解されるような行為は、決して好
ましいことではない。あえて言うなら、T氏は、親のでき愛と母子の密着性の問題を、どこか混
同しているのではないかとも思う。

 たいへん生意気な意見かもしれないが、一つの反論意見として……。


●幼小・一貫校

 幼稚園と小学校を、一貫させる。「幼小・一貫校」の出現である。

 しかし幼小・一貫校は、アメリカなどでは、珍しくない。4歳児で入学、小学3年で卒業という小
学校は、いくらでもある。

 利点は、多い。……というより、小学1年生から始まる小学校教育には、問題点が多い。今
では、学級崩壊は、あたりまえ。「学校だから、子どもたちが、先生の話を静かに聞いているだ
ろう」と考えるのは、もはや幻想以外の何ものでもない。

 ある母親はこう言った。「一年生、最初の参観日ということで、かなり期待して行きましたが、
クラスは、最初から最後まで騒然としていました。一応音楽の授業ということになっていました
が、まるでプロレスの授業でした」と。

 教師の指導能力の問題というよりは、子どもたちの「質」が変わってきた。こうした「荒れ」を、
「新しい荒れ」と呼ぶ人もいる。しかしこの問題は、もう15年以上前からあるが、それ以後改善
されたという話は、伝わってこない。

 そこで幼稚園と小学校を連携させる。文部科学省は、こうした流れを受け、(1)幼稚園と小
学校の、一貫カリキュラム、(2)幼稚園と小学校教員の合同研修、(3)双方の免許取得の弾
力化などを、めざすことになった。

 わかりやすく言えば、小学校の幼稚園化ということか。隣のK市では、公立小学校の教員を、
私立幼稚園へ派遣し、そこで教員に幼児教育の研修をさせている。「総合的な学習のヒントを
得るため」ということだそうだ。

 私は、幼小・一貫校に、大賛成である。反対に、なぜ幼稚園と小学校を分けるのか。分けな
ければならないのか。その理由がわからない。

 ただ問題点もないわけではない。幼小・一貫校というと、中には、「早取り教育」と誤解する人
も多いということ。小学校でする学習を、幼稚園でするようになると誤解する人もいる。幼小・一
貫校が、受験競争とからむと、たいへんなことになる。そうでなくても、少子化の流れを受けて、
母親たちの世界が以前にもまして、過熱している。

 このあたりをどうするか? 中央教育審議会も、その審議に入ったという(04年6月)。
(はやし浩司 幼小 一貫校 幼小・一貫校)


●携帯電話VS統計学

 携帯電話が、子どもたちの世界を、変えてしまった! 今では、高校生の95%以上が、携帯
電話をもち、反対にもっていない子どものほうが、「変わり者」と呼ばれるようになってしまっ
た!

 それについて、こんな興味深い調査結果(?)がある。

 警察庁の調査によると、「携帯電話の所持率について、非行少年は、72%。一般少年は、5
7%」と。つまり「非行少年ほど、携帯電話への依存率が高い(?)」と。

 02年、「青少年問題研究会」(YM委員長)による調査結果だという。

 それによると、

 ★携帯電話の所持率……検挙されたことのある少年 ……72%
            検挙されたことのない少年 ……57%

            高校生については、差がない……90%

 この調査結果をふまえて、「検挙されたことのある非行少年のほうが、検挙されたことのない
一般少年より、携帯電話の所持率や、使用頻度が高かった」(朝日新聞)と。

 しかしこの論法は、おかしいのでは……?

 私も、となりのK市で、高校生たちに直接聞いて調べたことがあるが、数年前ですら、所持率
は、90〜95%くらいだった。「君たちのクラスは何人?」「携帯電話をもっていない友だちは、
何人?」という調査方法で、調べた。

 ここでいう「少年」という範囲が、あいまいである。ふつう警察庁が「少年」というときには、中
学生、高校生をいう。もちろん女子も含まれる。

 この調査結果を見ると、あたかも、携帯電話をよく使う子どもほど、非行に走りやすいという
ような印象をもちやすい。しかし、よくよく考えてみると、おかしい?

 もう少しわかりやすい例で考えてみよう。

 「ナイフによる殺傷事件を起こした子どもを調べてみたら、100%が、ナイフを所持してい
た。一般少年の所持率は、10%だった」と。

 さらに「非行少年を調べてみたら、女子の非行率は、50%だった」と。

 こんなことは、当たり前のことで、あえて調査をするまでもない。以前、どこかのある大学の教
授が、こんな調査結果を発表したことがある。

 「情緒障害児を調べたら、72%が、塾通いをしていた。情緒障害の原因は、塾通いである」
と。

 当時、中学生の70%前後は、塾に通っていた。その教授は、北海道でも最大都市のS市
で、それを調査したという。「72%」という数字は、当たり前の数字である。これなども、「非行
少年を調べてみたら、女子の非行率は、50%だった」というのと同じ論法である。

 もちろん私も、携帯電話には、いろいろ問題があると思う。しかし、非行と携帯電話を直接結
びつけるのは、ありにも短絡的ではないのか。

 もう少し視点を変えて考えてみよう。

 仮に、こんな調査結果が出たとしたよう。

★コンビニの利用率……検挙されたことのある少年 ……72%
           検挙されたことのない少年 ……57%

★深夜番組の視聴率……検挙されたことのある少年 ……72%
           検挙されたことのない少年 ……57%
 
★運転免許の取得率……検挙されたことのある少年 ……72%
           検挙されたことのない少年 ……57%

 こうした結果をふまえて、「コンビニをよく利用する子どもほど、非行に走りやすい。深夜番組
をよく見る子どもほど、非行に走りやすい。運転免許をもっている子どもほど、非行に走りやす
い」と。

 警察庁がした調査は、何となく、先に、「携帯電話は悪い」という先入観があって、その上で、
それを非行と結びつけたような感じがしないでもない。

 あえて言うなら、問題は、「出会い系サイト」と呼ばれる、サイトである。これが非行の温床に
なっている。が、その出会い系サイトにアクセスするためには、携帯電話は必需品である。そ
の結果として、「非行少年ほど、携帯電話への依存率が高い」ということになったのではないの
か?

 あるいは仲間と非行をするについても、陰で、コソコソと連絡をとりあわねばならない。親の
前で、堂々と電話で連絡をとりあうということはできない。そういう点では、携帯電話は、便利な
道具である。

 殺傷事件を起こすためには、ナイフは、必需品である。同じように、出会い系サイトへアクセ
スするためには、携帯電話は必需品である。コソコソと連絡をとりあうには、携帯電話は必需
品である。

その結果として、(あくまでも結果として)、「検挙されたことのある非行少年のほうが、検挙され
たことのない一般少年より、携帯電話の所持率や、使用頻度が高かった」ということになった。

 ……というのは、少し、ひねくれた見方かもしれない。ここは、すなおに、「携帯電話には、い
ろいろ問題点がある。携帯電話は、子どもにはよくない」と考えたほうが、よいのかもしれな
い。どうも私には、こうした統計結果を見ると、すぐ疑ってみるクセがある。それがよくない?

 なぜか? 理由の一つは、学生時代に学んだ、統計学がある。統計学のM教授は、いつもこ
う言っていた。
 
 「統計で表される数字は、いつも疑え!」「統計的な数字に、あやつられるな!」と。

 その精神は、今でも、生きている。そのため、ここでも、少し、その数字をひねくって考えてみ
た。

【追記】

 こういう調査結果が発表されると、多くの母親たちは、こう誤解する。「うちの子は、携帯電話
ばかりいじっている。非行の始まりか?」と。

 殺傷事件を起こした子どもの、100%がナイフをもっていたからといって、逆に、「ナイフをも
っているからといって、殺傷事件を起こす」ということではない。

 こうした調査結果は、そういう誤解を生みやすい。それに今さら、「携帯電話に依存するのを
やめなさい」と、子どもを説得しても、意味はない。もちろん病的な携帯電話依存症(=依存う
つ)は、別である。それについては、またほかで考えてみたい。


●大爆発は、なかった?

 9月9日の、K国北部の大爆発は、なかった?

 すべてが、韓国の報道機関の(思いこみ)と、(早トチリ)で始まった?

 結局、ダムの発破作業を、大爆発と誤解したらしい。もちろん、直径3〜4キロのきのこ雲な
ど、なかった。

 が、さすがにバツが悪いのか、今朝(9・16)の朝鮮N報のHPを見ると、こうある。

「北の大規模爆発、世界各国が五里霧中の報道」と。

 つまり、「今回の大爆発事故について、世界各国は、何がなんだかわからないまま報道した」
と。誤報の責任は、韓国の報道機関にあるのではなく、世界の報道機関にある、と。

 そして記事の内容が、おもしろい。こうある。

 「韓国の聯合ニュースが12日、両江道地域で大規模なきのこ雲が観測されたと初めて報道し
たあと、外信は様々な推測だけを報じた。 
 
 米のCNNは初日、『衛星に捕らえられた北朝鮮上空のきのこ雲は、核爆発によるものでは
ない』とし、『この雲は山火事による可能性がある』と報じた。ワシントン・ポスト紙は電子版で、
『ミサイル関連の事故である可能性がある』との見方を示した。 
 
 ロイター通信や英BBC、フランスのル・モンド紙とル・フィガロ紙などは爆発観測の事実だけを
伝え、『北朝鮮はまだ、どんな事実も明らかにしていない』と報じた」と。

 あたかも、「世界の報道機関のほうが、おかしい」という書き方である。自分たちの、(思いこ
み)と、(早トチリ)は、完全に棚にあげている?

 さらに、数日前の、朝鮮N報には、こうある。

 「爆発事件に関して、アメリカは、情報をもっているはずなのに、アメリカが情報を提供してく
れない」と。つまり詳しい情報を提供しない、アメリカは、おかしい、と。さらに、「韓米の情報交
換に問題がある」(朝鮮N報)とまで、言い切った!

 情報を出そうにも、出せなかった。そんな情報など、アメリカ側には、なかったからだ。思いこ
みと早トチリだけではなく、今度は、「情報を提供しない」と、アメリカを責めた。その結果、「大
爆発など、なかった」「世界が勝手に騒いだだけ」と。

 実に、人騒がせな、ニュースだった! ホント! 
(040917)

+++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司※

最前線の子育て論byはやし浩司(315)

●意識のズレ

 中国の人や、韓国の人は、よく「日本人の歴史認識は、ズレている」という。しかし日本に住
んで、日本の中だけで、ものを考えていると、それがわからない。

 しかし方法がないわけではない。日本に住んでいても、その(ズレ)を知ることができる。

 今回の一連の、韓国の核実験を見れば、それがわかる。韓国の人たちは、「それはただ単
なる実験だった」「核兵器を作るつもりはなかった」「一部の学者がしたことで、政府は関係な
い」などと主張している。

 しかしこうした一連の実験が、日本人の私たちに、いかに大きな衝撃と、不信感を招いたこと
か。ついでに不安感も! 事実、毎日、日本の新聞は、このニュースを伝えている。が、その
一方で、韓国の新聞は、ほとんど無視。今日も、朝鮮日報のHPをのぞいてみたが、そのこと
については、一言も触れていない。

 つまり、これが私がいう(ズレ)である。

 しかしこの(ズレ)を軽くみてはいけない。この(ズレ)が、えてして、そのまま戦争につながるこ
とがある。現に今、K国による核実験は、すでに時間の問題とされる。「オクトーバー・サプライ
ズ」という言葉さえある。「この10月に、K国は、核実験をする」という意味である。

 もしK国が、核爆発の実験をすれば、周辺国に、いかに大きな衝撃を与えることか。恐らく、
K国の人たちには、それがわからないのではないか。と、同時に、これは、私たち日本人の問
題でもある。

 冒頭にも書いたように、中国の人や、韓国の人は、よく「日本人の歴史認識は、ズレている」
と言う。しかし肝心の私たち日本人には、それがわからない。しかしここは、やはり、謙虚に、
どうして彼らがそう言うのか、静かに耳を傾けてみる必要がある。

 事実、日本は、先の侵略戦争で、周辺の国々に、たいへんな迷惑をかけた。日本人も300
万人死んでいるが、その日本人は、同じく、300万人もの外国人を殺している。そうした事実を
忘れて、「日本人が日本で、何をしようが、日本人の勝手」という論理は、悲しいかな、この日
本の外では通用しない。

 今回、韓国の人たちは、内緒で、つまり秘密裏で、核実験を繰りかえしていた。いくら「核兵
器はつくるつもりはなかった」と言っても、それを信ずる日本人は、いない。つまり、これもその
(ズレ)の中に含まれる。

 とくに韓国がその核実験を繰りかえしていた時期というのは、日本が莫大な戦後補償(実際
には、「経済援助」という名目でなされたが……)を、していたころである。言うまでもなく、その
実験の目的は、日本に対して、核兵器を使うためである。K国や中国ではない。日本、である。

 はっきり言おう。

 日本も、かなり本腰を入れて、この問題には対処しなければいけない。今までのように、「アメ
リカが何とかしてくれるだろう」とか、あるいは、「いい子でいれば、世界は日本に対して、何もし
ないだろう」と考えるのは、あまりにも甘い。あくまでも実験にすぎなかったという、韓国の言い
分を鵜のみにするのは、あまりにも甘い。
 
 では、どうするか?

 平和を守るためには、いつも相手の立場で、相手が平和を守れるためにはどうするかを考え
る。その結果として、自分の国に、平和がもたらされる。もっとわかりやすく言えば、相手の(ズ
レ)の中で、平和を考える。

 日本が、過去に何をしたか。どんな脅威を与えたか。日本が今、何をしているか。どんな脅威
を与えているか。日本が、将来、何をするか。どんな脅威を与えるだろうか。そういうことを、相
手の立場になって考える。

 つまりは、平和教育というのは、反省の教育と言ってもよい。そういう視点で、ものを考えるこ
とができるようになったとき、もっと言えば、相手の立場で、相手の平和を考えることができるよ
うになったとき、日本は、真の平和を、自分のものにすることができる。

 今回の意識の(ズレ)は、まさに、そのことを、私たちに教えてくれる。

あのネール(インド元首相)は、こう書いている。

 『ある国の平和も、他国がまた平和でなければ、保障されない。この狭い相互に結合した世
界では、戦争も自由も平和も、すべて連帯している』(「一つの世界を目指して」)と。


●韓国の脱北者

 朝鮮日報社(韓国)の調査によれば、K国から脱北はしたものの、韓国社会に同化できず、
「アメリカ、カナダ、オーストラリアに移住したい」と考えている、脱北者が、69%もいるという(0
4年9月。脱北者、100人を対象)。

 現在の生活に不満……40%と。

 さらに衝撃的なのは、「合法的にK国に帰れる機会があればどうするか」という質問に、33%
が、「帰ることもできる」と答えていること。

 つまり「K国に、帰れるようなら、帰ってもいい」と。

 ……実は、このあたりが、私には、どうしても理解できない。K国といえば、徹底した反米教
育をしている国。その国で教育を受けた人たちが、K国がいやで、韓国へ逃げてきた。同じ朝
鮮語を話す、自由な(?)国、韓国へ、である。

 が、その韓国に、同化できない。同化できないということは、わかる。しかしそのあと、どうし
て、アメリカなのか? しかも69%! 69%という数字は、ほとんどとまではいかないにして
も、ほぼ大半とみてよい数字である。

 韓国社会には、何があるのだろう。反対に、何が欠けているのだろう。そう言えば、先月も、
その韓国からさらにアメリカに亡命した、元K国脱北者がいた。元K国政府高官だったという。

 この数字から推理すると、韓国という国は、意外と、自由のない国ということにもなるし、反対
に、K国という国は、意外と、自由な国ということにもなる。静かで、おとなしくしていれば、それ
なりに住みやすい(?)国なのかもしれない。

 それにしても、いろいろ考えさせられる調査結果である。

 ついでながら、昨日(9・16)の時事通信によれば、K国は、中国との国境沿いに、K国最強
の軍団を配置したという。一応、表面的には、脱北者を防ぐためということになっているそうだ
が……?

【北京16日時事】中国国営新華社通信の発行する国際問題紙・国際先駆導報は、16日、K
国との国境でK国脱出者らに対する警備に当たる中国部隊の活動を伝えたルポを掲載。この
中で、K国側は最高軍事指導機関「国防委員会」の直接指揮下にある最強部隊を、南北軍事
境界線(38度線)付近から、この地域に配転し、国境警備を強化していると報じた。

【杉野目晴貞先生のこと】

 昔、北海道大学に、杉野目晴貞という教授がいた。私がUESCOの交換学生で、韓国へ行
ったとき(1967年)、世話人にもなってくれた人である。

 私と韓国とのつきあいは、そのときから始まる。

 で、その杉野目先生は、やがて、田丸謙二先生の恩師であることもわかった。一度、田丸先
生と連名で、杉野目先生に手紙を出したことがある(1970年)。

 しかしその当時、杉野目先生は、体調を崩されているとかで、返事は、こなかった。それまで
は、何かにつけて、こまめに私の手紙に、返事をくれた。年賀状も交換していた。

 たまたま先週、何10年ぶりかに、その杉野目先生のことを、楽天日記に書いた。それで古
いアルバムをさがしてみたら、100枚近い当時の写真がみつかった。

 この写真は、杉野目先生と、38度線上にある板門店(ハンムンジョン)行ったときのものであ
る。長いテーブルの前にすわって、国連軍のガイドの説明を聞いているところ。

 右が杉野目先生。左が私。満20歳になる少し前の写真である。

 杉野目先生が話してくれたことは多い。しかし故人でもあるので、それについては、ここには
書けない。日本にとって、きわめて重要な、そしてすぐれた化学者であったという。先日、北大
出身の友人に、杉野目先生のことを話したら、「北大では、杉野目先生のことを知らない人は
いない。杉野目財団というのもあるよ」とのこと。

 「ヘエ〜」と言ったきり、つぎの言葉が出てこなかった。いっしょに、韓国中を旅したのが、ウソ
のようでもある。


++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

最前線の子育て論byはやし浩司(316)

*******************
【失敗する子育て・子育てで失敗する親】
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子育てで、子育てに失敗する親たち

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 この話は、フィクションです。登場するのは、T君の母親とT君という、架空の親と子どもです。
今まで私の前を通り過ぎた無数の親や子どもたちの中から、(典型的な例)をあげ、子育てで、
子育てに失敗する親について、考えてみます。

 この話が、みなさんが、もう一度、自分の子育てをみつめなおすきっかけになれば、うれしい
です。繰りかえしますが、この話は、フィクション、つまり小説です。「私」という一人称を用いて
書いていますが、決して、私のことを書いているわけではありません。また登場人物も、実在す
る親と子どもではありません。そういうことを念頭に置いて、お読みください。

*******************

【1】

 子どもの学習で、重要なことは、子ども自身が、達成感を味わうようにすること。「ヤッター!」
という思い、それが子どもを前向きに伸ばす。心理学の世界でも、これを「強化の原理」とい
う。

 たとえば小学1年生に、20問の足し算の問題を出したとする。繰りあがりのない、答が10ま
での問題である。

 この時期、まだ指を使って計算する子どもは、少なくない。T君(小1)もそうだった。能力的に
は、上位にいたが、計算だけは、どういうわけか、苦手だった。私は、問題用紙のはしに丸を
描いて、計算するように指導した。

 T君は、懸命にそれをした。ほかの子どもたちより、2倍ほど、時間がかかった。

 で、T君は、やっとのことで、そのプリントをやり終え、私のところにもってきた。それを見て、
私は大きな丸をつけた。「できたね。よくやったね!」と。

 20問のうち、4、5問は、まちがっていた。しかしまちがっていたといっても、誤差の範囲。
が、それよりも重要なことは、T君に、自信をもたせること。私がT君をほめると、T君は、うれし
そうに笑った。それを見て、「ほら、この前より、ずっとはやくできるようになったじゃないか」と、
私は、またほめた。

 が、その日のレッスンが終わって、一息ついたときのこと。T君の母親が、そのプリントをもっ
て、私の教室へやってきた。そしてどこか緊張した口調で、こう言った。

 「先生、この答、ちがっていますよ!」と。
 
 私はすかさず、「一生懸命やってくれましたから、丸をつけてあげました」と答えた。

母「まちがっているのに、丸をつけるのですか?」
私「答には、あまり、こだわらないほうが、いいと思うのですが……」
母「ちゃんと、しっかりみてくださらないと、困ります」
私「はあ、今度から、そうします。ごめんなさい」
母「あとで、息子には、やりなおしをさせておきます」
私「……」と。

 しばらくすると、T君が、半べそをかきながら、私のところにもどってきた。「これ……」と言った
から見ると、先のプリントを手にしていた。「やりなおしたの?」と私が聞くと、「うん」と。

 駐車場にとめた、車の中でしたらしい。字が乱れていた。

私「よくやったね。さっきは、ぼくがまちがえた。まちがっているのに、丸をつけて、ごめんね」
T「うん」と。

 そのあと、廊下のほうから、T君の母親が、T君を叱る声が聞こえてきた。「どうして、こんな簡
単な問題ができないの! ちゃんとやっているの!」と。私は、廊下へおどり出た。母親とT君
は、まだそこにいた。

母「私は、1年生のとき、こんな問題なら、簡単にできました。どうしてTはできないのでしょう」
私「できないということではありません。数を信号化して、それをすぐ頭の中で、数えることがで
きないだけです。わかりやすく言えば、指を使って計算するというクセが、身についてしまった
からです。少し訓練すれば、もう少しはやく計算ができるようになります」
母「私は、小学1年生のときには、6足す7の問題もできました」
私「くりあがりのある足し算は、2学期に入ってから、学習します」と。

 T君の母親は、さも不満そうな顔をしていた。そしてそのまま、T君の手を引いて、駐車場の
ほうへと歩いていってしまった。

【2】

 子どもを自分の思いどおりにしたいと考え、自分の管理化におくことを、心理学の世界でも、
「代償的過保護」という。一見、過保護に見えるが、過保護ではない。

 ふつう過保護というときには、その背景に、親の濃密な愛情がある。しかし代償的過保護に
は、それがない。たとえば子どもの受験競争に狂奔する親がいる。この世界では、珍しくない。
このタイプの親は、「子どものため」という言葉を、よく口にする。が、本当のところは、自分の
不安や心配を、子どもにぶつけているだけ。

 もっと言えば、自分の不安や心配を解消するために、自分の子どもを利用する。あるいは子
どもを、自分の果たせなかった夢を果たす、道具に使う。それが代償的過保護ということにな
る。

 が、T君のばあいは、もう少し、複雑な事情が、それにからんでいた。

 T君の祖父は、静浜市でも、有名な医師だった。医師会の会長も、何期か務めたことがあ
る。財産家でもあった。

 しかしT君の父親は、そのときですら、実家の援助と仕送りを受けて、生計を立てていた。定
職をもっていなかった。つまりT君の母親は、夫と結婚したというよりは、夫の父親(T君の祖
父)の財産を当てにして、結婚したようなところがあった。

 いや、当初は、二人の間にも、恋愛感情があったのかもしれない。しかしT君の母親は、やが
て夫との結婚生活に幻滅。夫との離婚を何度も考えるようになった。が、それもままならぬとわ
かるようになると、今度は、一転、夫の父親の財産に目をつけるようになった。

 だからT君の母親の口ぐせは、いつも同じ。「Tを、医者にします。どうか、手を貸してください」
と。それを受けて、T君はT君で、「ぼくは、おとなになったら、おじいちゃんのようなお医者さん
になる」と言っていた。

 そのためT君の母親は、過激とまで言えるほど、T君の教育に、のめりこんでいった。

【3】

 子育ては、それ自体が、重労働である。どう重労働であるかは、それをしてみないとわからな
い。

 しかしその重労働も、夫婦の愛情がしっかりしていれば、乗りきることができる。子どもは、ま
さに(愛の結晶)ということになる。

 が、その基盤が、ゆらいだとき、その重労働は、苦痛へと変身する。そしてその苦痛は、長い
時間をかけて、母親の心をむしばむ。ストレスはさらにつぎのストレスを生む。そしてそれが幾
重にも折り重なって、いわゆる私たちがいう、「育児ノイローゼ」へと発展する。

 うつ病である。

 今、こうして育児の過負担から、育児ノイローゼになっていく母親は多い。症状は、お決まり
の抑うつ感から、情緒不安、不眠、慢性的な頭重感や頭痛などなど。

 T君の母親の様子が、どこかおかしくなり始めたのは、T君が、3歳くらいのときからだった。
ささいなトラブルで、隣人を大声で罵倒したかと思うと、その翌日には、手製の編み物をもっ
て、あやまりに行ったりした。

 その隣人は、こう言った。「とても、ものをもらえるような雰囲気ではありませんでしたので、そ
のまま帰ってもらいました」と。

 しかしその抑圧感が、母親の範囲で収まっていれば、まだ問題はない。T君の母親は、ことあ
るごとに、T君を、大声で怒鳴ったり、叱ったりしていた。

 が、T君は、母親にくらべて、精神的にはきわめてタフな子どもだったようだ。ふつうなら、(私
の経験の範囲なら)、そのため内閉したり、精神的に萎縮したとしても、おかしくなかった。親の
情緒不安ほど、子どもに悪影響を与えるものは、ない。が、T君は内閉することもなく、表面的
には、それなりに明るい子どもとして育った。

【4】

 そのT君が、母親に反抗し始めたのは、T君が、小学3年生になるころのことだった。最初、T
君の母親から、電話がかかってきた。「家で、遊んでばかりいて、勉強をしません」と。

 が、その数日後、私が教室へ入ろうとすると、入り口のところに、T君の母親が立っていた。
オロオロした様子で、こう言った。

 「先生、Tが、私と口をきいてくれなくなりました。学校の様子を聞いても、何も話してくれませ
ん。先生のほうから、もっと学校の様子を離すように、指導してください」と。

 が、そのころになると、私も、T君の母親とは、一線を引くようになっていた。

 T君の母親は、どこかつかみどころのない人だった。そういう印象をもち始めていた。気分の
移り変わりがはげしいというか、何を考えているか、わからなかった。昨日通りで会って、明るく
あいさつを交わしたはずなのに、その翌日の今日には、指導のし方がおかしいと、教室へ怒鳴
りこんでくるなど。そんな感じだった。

 夜中の1時すぎに、「相談がある」といって、電話がかかってきたこともある。あるいは、「昨日
は、長い電話をして、ごめんなさい」と、ほとんど意味のない電話がかかってきたこともある。

 私はT君の母親をなだめるだけで、精一杯だった。

私「もうそろそろ子どもも、親離れを始めますから……。どこの子どもも、そんなものですよ」
T君の母親「そうですか……。どこも、そうですかア……」と。

 それは痛々しいほどの狼狽(ろうばい)ぶりだった。


【5】限界

 子育てというのは、自分で失敗してみるまで、それが失敗だったと気づくことは、まず、ない。
失敗してみて、はじめて、親は、それが失敗だったと気づく。

 これは子育てにまつわる、宿命のようなものかもしれない。それには、いくつかの理由があ
る。

 その一つが、内政不干渉の大原則。

 たとえばレストランの中で、母子二人の、親子連れの横にすわったとする。母は、ハンバーグ
を食べ、子どもが、ソフトクリームを食べていたとする。子どもといっても、まだ4歳前後。食べ
ているソフトクリームは、子どもの顔より、大きい。

 体重10キロもない子どもが、ソフトクリームを一個食べるということは、体重50キロの母親
が、同じソフトクリームを5個、食べる量に等しい。

 おとなでも、5個は、食べられない。仮に、5個も食べれば、どうなるか……? しかしそういう
光景を見たとしても、それについて、私やあなたは、とやかく言うことはできない。

 これが内政不干渉の大原則である。

 つぎに、仮にそれがわかっていたとしても、「もし、まちがっていたら……」という迷いは、いつ
も、つきまとう。

 明らかに、つっぱり症状を示し始めた子どもがいたとしても、それは一時的なものかもしれな
い。あるいは、それ以上、症状が進まないかもしれない。生意気になったとしても、ある時期、
子どもは、みな、生意気になる。生意気になりながら、おとなになる。

 T君もそうだった。

 小学3年の終わりには、ますます生意気になった。こんなことがあった。

 帰りぎわ、私が、T君に、戸棚の整理を頼んだ。みなが使った道具類が、散乱していた。する
と、T君は、即座に、「どうして、ぼくがしなけりゃあ、いかんよ〜」と。それに強く反発した。そこ
で、私は、「君が、一番近くにいるからだ」とか、「ほかの人には、ほかの仕事を頼むから」と説
明した。

 本当のところは、そのT君が、一番乱暴に、道具類を使っていたからだ。だから私は、T君に
それをさせたかった。

 が、T君は、最後まで不機嫌な顔のまま。道具類を片づけながら、「ぼくがすれば、いいんでし
ょ、ぼくが」と、何度も吐き捨てた。

【6】

 しかし内政不干渉というのは、口実かもしれない。本当のことを言えば、親にそれだけの自
覚があれば、子どもの指導は、まだ可能。が、その自覚のない親には、いくら説明しても、ム
ダ。ムダであるばかりか、かえって、私の言ったことに反発してしまう。

 T君の母親は、何かにつけて、T君を大声で怒鳴りつけた。その声が、家の外まで聞こえてく
ることもあったという。

 そこで見るに見かねた、祖母(父親の実母)が、あるとき、T君の母親をたしなめた。「子ども
は、大声を出して育てては、いけない」と。

 するとT君の母親は、その場で、T君を呼びつけ、「T! お母さんが、いつ、あんたは怒鳴っ
たア!」と。「怒鳴ったことなどないわよね。だったら、おばあちゃんに、ちゃんと、そう言いなさ
い!」とも。

 すでにそのときT君の母親は、T君に向かって怒鳴っていた。が、T君の母親には、その自覚
は、まったくなかった。つまりそういう言い方が、T君の母親には、ごくふつうの言い方だった。

 これは一例だが、子育てというのは、一事が万事。T君の母親は、あらゆる面で、そうした子
育てをしていた。頭ごなしの、命令口調。それ以外の子育てができないというより、知らなかっ
た。というのも、どんな母親でも、自分が受けた子育てしか知らない。それが悪いというのでは
ない。もともと、子育てというのは、そういうもの。

 だから、無意識であるにせよ、(まったくの無意識状態と言ったほうが、正確かもしれない
が)、親というのは、よきにつけ、悪しきにつけ、自分が受けた子育てを繰りかえす。

 T君の母親も、そうだった。

【7】

 九州の北部という土地柄もある。そのあたりでは、そうでない地域の人には信じられないほ
ど、親意識が強い。いまだに家長制度が、色濃く残っている。

 たとえば娘でも、一度嫁いで家を出れば、他人。まったくの、他人。実家へもどるときも、シー
ツを持参するという。「父親はもちろんのこと、母親にですら、反発することなど、考えられませ
ん」と、T君の母親は、言った。T君の母親は、その九州北部のS県の出身だった。

 だからそういった家長制度に、心のどこかに反発しながらも、その一方で、T君の母親は、T
君が、反発したり、口答えすることを許さなかった。ことあるごとに、「親に向かって、何てこと言
うの!」が、口グセになっていた。

 T君は、母親に、表面的には、従順に従っていた。が、もう一つ、大きな問題があった。

 先にも書いたように、T君の父親には、生活力がなかった。柔和でおだやかな人だったが、
ハキがなかった。仕事といっても、短期間のアルバイトを繰りかえすだけ。店員になったり、配
達業を手伝ったり。工事現場の旗振りの仕事をしたこともある。

 そういう父親を、T君の母親は、ことあるごとに、けなした。

 「お父さんは、稼ぎがないからね」
 「お父さんは、だらしない人よ」と。

 こういう関係は、決定的に、まずい。心理学の世界でも、「三角関係」と呼ぶ。父親と母親が、
バラバラになってしまい、子どもとの間に三角関係ができてしまうことをいう。

 子どもが小さいうちならまだしも、子どもの自己意識が育ってくると、子どもは、両親のスキを
ねらって行動するようになる。具体的には、どちらの親の言うこともきかなくなる。親をバカにす
るようになる。

 子どもの側からみると、ちょうど、凧糸の切れた、凧のようになる。ハンドルのない、自動車の
ようになる。その傾向が、T君にも見られるようになった。

【8】

 親子の断絶は、最初は、小さなキレツで始まる。そのキレツが始まったところで、本来、親は
それに気づき、手を打たなければならない。しかし、ほとんどの親は、こう考える。

 「まだ、何とかなる」「うちの子にかぎって、そんなはずはない」と。

 しかし一度、キレツが入ると、あとは竹を割ったように、そのキレツは大きくなる。パリッと、
だ。

 こんな事件があった。

 T君が4年生になったまもなくのころ。T君の母親が、買ったばかりの新車を、自動販売機に
ぶつけてしまった。自損事故である。私は、その事故のことを、T君の母親から、直接聞いて知
っていた。

 で、その数日後のこと。私はT君と会ったので、こう切り出した。

私「お母さん、事故、起こしたんだってね?」
T(ふてくされた様子で)、「知らね〜よ」
私「けがはなかったの?」
T[知らね〜よ、って]
私「知らないって、お母さんがけがをしたら、たいへんだよ。心配しないのか?」
T(さらにふてくされた様子で)、「知らねえって、ば」と。

 子どもというのは、その人に対する印象をそのまま表現することがある。もう30年近くも前の
ことだが、こんなことがあった。

 年中児の子どもたちに、父親の絵を描かせていたときのこと。一人、父親の顔を描いたとた
ん、クレヨンで、その顔を真っ黒にぬりつぶしてしまう子どもがいた。そこでその紙をとりあげ、
新しい紙を渡し、もう一度描かせた。が、結果は、同じ。また、父親の顔を書いたとたん、黒く、
ぬりつぶしてしまった!

 あとで理由を聞くと、母親は、こう言った。

 「あの前の夜、はげしい夫婦げんかをして、夫は、家を飛び出してしまいました」と。そのと
き、その母親は、「蒸発」という言葉を使った。当時、流行していた言葉である。「突然の家出」
のことを、「蒸発」と言った。

 T君もそうだった。ふつうは……、こういうケースでは、「ふつう」という言い方は、慎重にしなけ
ればならないが、ふつうは、母親が事故を起こせば、子どもは、それについて心配する。

 しかしT君は、その様子を見せなかった。見せないばかりか、私から視線をはずした。どこか
心がゆがみ始めた子どもがよく見せる、「横視現象」である。

【9】

 心がゆがみ始めると、子どもは、さまざまな、しかし独特の症状を見せるようになる。原因
は、欲求不満と考えてよい。あるいは欲求不満に準じて、考える。症状としては、なげやりで横
柄な態度。肩をいからせて歩く、乱暴な言葉など。

 心はいつも緊張状態にあるため、ささいなことで激怒しやすくなる。被害妄想性と過剰行動性
を示すことも多い。俗にいう、キレやすい状態になる。精神医学の世界では、突発的なさく乱状
態のことを、「キレル」という。

 そのほか生活態度としては、目標や目的が守れない、退廃的になりやすいなど。その場だけ
の享楽的な楽しみを求めるようになる。

 T君が見せた、横視現象も、その一つに当たる。自分の心を見すかれないようにするため、
無意識のうちにも、相手から視線をはずす。

 しかしこの段階でも、外の世界では、ふんばる子どもがいる。家の中では荒れても、外の世
界では、それを見せない子どもである。仮面をかぶるのがよいわけではないが、しかし外の世
界でも、その「荒れ」を見せるようになったら、症状は、かなり重いとみる。

 私は、T君を傍(はた)から観察した。どこか乱暴な様子は見せるが、それは私だからわかる
こと。素人が見たら、ごくふつうの、どこにでもいる、明るい活発な子どもに見えたかもしれな
い。

 私が、最初に迷ったのは、このときである。「母親に、それを告げるべきか、どうか」と。

 しかしこういうケースでは、母親に話して、それでうまくいくのは、10に1つもない。ほとんどの
母親は、二番底、三番底の恐怖を知らない。今の状態を最悪と考えて、その時点で、子どもを
何とかしようとする。その無理が、子どもの症状をこじらせる。

 よくある例が、子どもの門限破り。

 ふつう子どもが門限を最初に破ったりすると、親は、そのとき、子どもをきつく叱る。で、しば
らくは、子どもも、おとなしくしているが、また門限を破る。すると親は、さらに強く叱る。

 しかしこれをしばらく繰りかえしていると、子どもは、外泊。さらには、家出、集団非行へと進
んでいく。二番底、三番底へと落ちていくわけである。

 が、最近では、さらにその底がある。妊娠、中絶などは、まだよいほう。すでに中学生でも、
深刻な性病になるケースすら、ある。

【10】

 小学5年生になるころには、T君は、だれの目にも、荒れた子どもに見えるようになった。行
動も、大胆になってきた。友だちを殴ったり、蹴ったりすることもあった。バス停のイスをほうり
なげて、防風用の塀をこわしてしまったこともある。T君の母親は、そのたびに、学校へ呼び出
された。

 もうこうなると、打つ手は、ほとんどない。T君にしてみれば、先生にせよ、友だちにせよ、み
ながこわがることのほうが、居心地がよい。そんなわけで、(みなに嫌われる)→(行動がます
ます粗放化する)の悪循環の中で、T君の行動は、さらに大胆になっていった。

 学校をサボル。授業を妨害する。仲間と、ゲームセンターにいりびたりになり、ときに、外泊も
する。もちろん、勉強どころではない。T君の母親は、こう言った。

 「もう、こわくて、私からは、何も言えません。どうか先生のほうから、説教してください」と。そ
のときT君の身長は、すでに、母親をこえていた。

 が、ここにも書いたように、私とて、無力でしかない。「もうこれ以上、症状を悪くしないように、
それだけを考えて、あきらめるべきところは、あきらめなさい」と。

 事実、その時点で、T君を放り出すようなことをすれば、今度は、「犯罪行為」に走るようにな
るかもしれない。その可能性は、じゅうぶん、あった。

 で、T君は、こうして小学校を卒業し、一応、中学校へと進学した。同時に、私のところからも
去った。

++++++++++++++++++++

 ここで架空の親子、T君と、その母親について、書いた。しかし、こういう失敗例は、多い。本
当に多い。親子の歯車がどこかで狂い、かみあわなくなる。そしてあとは、お決まりの断絶。

 しかしT君がまだ幼児のころ、T君がやがてそうなると、T君の母親は、想像できただろうか?
 答は、ノーである。T君の母親は、T君を医者にすると言っていた。T君も、医者になると言っ
ていた。

 しかしその夢は、T君が中学生になるころには、完全にうちくだかれてしまった。母親はこう言
った。「何とか、中学校だけでも、しっかりと出てほしい」と。今では、「人様に迷惑さえかけなけ
れば、それでいいです」「どこかで大きな事件が起きるたびに、つぎはうちの子ではないかと、
ハラハラしています」とも。

 T君のような例のほか、ほかにも失敗例は、多い。無理な学習が、子どもを無気力にしてしま
った例。さらには、子どもの心までゆがめてしまった例など。しかしこうした失敗で共通している
のは、最初から、親が、子どもの心を見失ってしまっていること。子どもの心を見ようともしな
い。

 「うちの子どものことは、私が一番よく知っている」という過信と誤解のもと、自分流の子育て
を、子どもに押しつけてしまう。

 が、相手は、生身の人間。あなたや私と、どこもちがわない、同じ人間。「やらせればできる」
と考えるのは、あなたの勝手かもしれないが、一度でよいから、子どもの立場で、子どもの視
線で、考えてみたらよい。

 そういう謙虚な姿勢が、子どもの心を開く。こうした失敗を防ぐ。それについては、マガジンの
ほうで、追々書いていきたい。
(040917)

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

最前線の子育て論byはやし浩司(317)

●ハリケーン、「アイバン」

 超大型のハリケーンが、目下、アメリカの南部を襲っているという。名前を、「アイバン」という
そうだ。

 そこで私は、「アイバン」と、どう書くかを調べてみた。

 アメリカのあちこちのニュースサイトを開いてみる。が、なかなか見つからない。検索したくて
も、しようが、ない。スペルがわからない。そのスペルを検索するときは、どうすればいいの
だ!

 eyebanか、Ibanか……?

 ……と思っていたら、わかった。

 「Ivan」と書くのだそうだ。ロシア式の読み方では、「イワン」?

 日本では、「イバン」と読みそうである。よく知られたアーティストに、「エンヤ」がいる。日本の
外では、「イーニャ」と読む。

 昔、こんなことがあった。

 オーストラリアのビジネスマンが私をたずねてきて、「ケイトウという会社へ、連れていってく
れ」と。

 「そんな会社は聞いたことがない。知らない」と答えると、「そんなはずはない。日本でも最大
級の建設機械メーカーだ」と。

 スペルを書いてもらったら、「KATO」、つまり、「カトウ」とわかった。

 同じように、「日立(HITACHI)」は、オーストラリアでは、「ハイタッチ」と呼ばれていた。(今
も、そうだと聞いている。)

 それにしても、巨大なハリケーンだ。映画に、『パーフェクトストーム』というのがあった。その
映画を思い出しながら、どうか、息子たちの住むアーカンソー州へ向わねばよいと、毎日、心
配している。

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

最前線の子育て論byはやし浩司(318)

**************************

F市に住んでいる、Mさん(母親)から、子どものおけいこ
ごとについて、相談があった。

子どもは、「行きたくない」と言う。しかしMさんは、「こ
こでやめさせたら、中途半端で終わってしまう。人間的に
だめになるのでは?」と、悩んでいる。

「どうしたらいいか?」と。

**************************

【Mさんへ……】

世界の人たちをみると、
みんな、もっと気楽なんですよ。

生きザマそのものが……。

ヨーロッパ人なんか、平気で
長期のバカンスを楽しんだりしています。

オーストラリア人も、です。

休暇で日本へ来ている間も、仕事のことなど、
まったく考えていない。目一杯、休暇を楽しんでいます。

日本人だけが、くそまじめ。本当にくそまじめ。

たかが子どものおけいこごと。そんなことにまで、
「やめたら、人間的にだめになる」などと、
おおげさに考えてしまう。

このくそまじめさは、一体、どこからくるのでしょうか?

私は、それが教育だと思うのです。

先日も、K市のある小学校に行ったら、
そこの校長が、こう悩んでしました。

「このあたりは、ブラジル人が多いです。
ある日突然、学校へ子どもをつれてきて、
教えてくれと言ったりします。

しかしやめるときも、簡単。
ある日突然、学校へこなくなる。

そこで聞いていみると、転勤しました、と。
実に簡単なのですね。

教える側としては、やりきれないのですが……」と。

こんなところにも、日本人とブラジル人の
ちがいがあるようです。

人生を楽しもうとする、ブラジル人。
くそまじめになって、仕事を優先させる日本人。

そしてそれがそのまま、子育てに反映されている!

あなたも、もっと、体のクサリを解いて、
自由に、気楽に考えたらいいのです。

もちろんまじめに生きるべきところは、まじめに
生きる。しかしそれはこういった問題とは
別問題です。

たかがおけいこごと。子どものおけいこごと。

もちろん楽しみ方にも、いろいろあると思います。
お金をかけて、遊園地へ……という発想ではなく、
別の方法です。

ぼくなんか、万年、失業者、プロのフリーター
ですから、定職意識は、ほとんどありません。

少し、生きザマがちがうようですね。

しかしね、あなたの生きザマは、決して国際的な
標準ではありませんよ。

実に日本的。

先日も、最近リストラされた友人がこういいました。

「ぼくは、一社懸命(一生懸命をもじったもの)で
がんばってきた。

しかし林君は、20代のとき、三井物産をけっとばして
出た。林君は、すでにそのころ、会社勤め(=くそまじめ)
がばからしいと、気がついていたのか?」と。

ぼくは、胸をはって、こう言いました。

YES!、と。

ぼくが、オーストラリアの留学時代に学んだものと言えば、
その「自由」です。

さあ、あなたも肩の力を抜いて!
くそまじめなんか、つまらないですよ。

何を、そうまでおびえているのですか?
何を、そうまで守らなければならないと考えているのですか。
気楽に、気楽に!

今、大きな落雷がありました。
パソコンの電源を切らねばなりません。

++++++++++++++++++++++

追記

やはり、停電になりました。
あやうくセーフでした。

で、今は、電源も回復。

改めて、この問題について、考えてみます。

実はね、国民性というのも、個人の精神状態が集合
されて決まるのですね。

子どもの世界には、(おとなもそうですが……)、
「基底不安」という言葉があります。

この基底不安型タイプの子どもは、何をしても不安。
休みになっても、その休みを楽しむのではなく、
休みながら、明日のことを心配する。

原因は、乳幼児期の母子関係にあるとされています。

で、実は、日本という国全体をみたときも、
同じことが言えるのですね。

日本という国には、日本人が安心してよりかかれる、
精神的バックボーンが、ないのです。

一応仏教というのもありますが、どこか儀式的?
活動している教団にしても、どこかカルト的?
組織信仰が主体で、「個人」が、どこか置き去りに
なっている?

そこで戦後の日本は、「マネー崇拝」へと走った。

ぼくは、日本人が、なぜこうまで基底不安型の
国民性をもってしまったかといえば、こうした背景が
あるのではないかと思います。

(組織信仰をしている人も、結局は、その基底不安
が背景にあって、そうしている?
何かに追いたてられるかのように布教活動を
しているのも、その一つ。)

仕事をしていないと、不安なのですね。

こうした基底不安は、とくにぼくのような
団塊の世代は、強くもっています。

学生時代にしても、何かに追いたてられるようにして、
いつも、(未来)のために、(現在)を犠牲に
することばかりを、強いられてきた。

友人がいう、「一社懸命」という発想は、そういう
ところから生まれたのですね。

もちろん女性とて、そして子どもたちとて、例外では
ありません。それが日本人の国民性だからです。

話は変りますが、尾崎豊の『卒業』、ご存知ですよね。

「♪夜の校舎、窓ガラス、壊して回った……」というあの歌です。

最初は、「とんでもない歌だ」と思いましたが、
私はすぐ、その歌が、大好きになりました。
ミイラ取りが、ミイラになったような感じです。

みんな、日本人は、「しくまれた自由」を、自由と
思いこんでいただけかもしれません。

今も、そうです。

「子どもは自由に育てる」と言いながら、その
自由の意味が、本当のところは、わかっていない?

自由というのは、「自らに由る」という意味です。

自分で考えさせ、行動させ、そして責任をとらせる。
それが自由です。

が、「あんたは、音楽教室へ行きなさい」と子どもを、
音楽教室へ入れる。

そしてそれを子どもがいやがると、「このままでは
子どもはだめになってしまう」と、悩む。
「あんたが行くと言ったから、行くんでしょ。
途中で投げだすなんて、どういうこと!」と、子どもを責める。

どこにも自由がないのが、わかりますか?

実は、ぼくも、あなたも、そういう国の中で、
生まれ、育っているのです。

こういう自分をがんじがらめにしているクサリを
解くのは、容易なことではないでしょうね。

まず、そのクサリに気づかねばなりません。
つぎに気づいたら、自分の生きザマそのものを
変えねばなりません。

変えるだけならともかくも、自分を取りかこむ、
周囲の人たちとも戦わねばなりません。
何といっても、この日本では、自由に生きる人は、
マイナーな存在ですから……。

今朝も、「フリーターは、生涯賃金で2億円の差」
(週刊「Y」)という見出しが目に飛びこみました。

つまり、フリーターは、損だ、と。

雑誌社という、組織にいる人の意見としては、
そういうふうに言わざるをえないのだろうと思います。

自由に生きる人間を認めたら、自己否定の世界に
陥ってしまいますから……。

しかし、何が、損で、何が、得なんでしょうかね?

今、日本人は、オーストラリア人の約2倍の給料を
手にしています。
で、その日本人が、それだけ、得をしているかと
いうと、どうも、そうではないような気がします。

何かしら、無駄なものばかり買って、
無駄なことばかりしているような気がします。

そして大切でないものを、大切だと思いこんでいる。
そして大切なものを、大切でないとそまつにしている。

Mさんの、今の悩みには、そんな日本人全体が
かかえる、国民性がすべて集約されているように
思います。

幼児期は、もっと気楽に考えてあげてください。

幼稚園にしても、保育園にしても、
そして、おけいこごとにしても、
どこかのレストランにでも行くように、
もっと、気楽に考えればよいのです。

学校も、です。

子どもが不登校を起こしたりすると、
日本の親たちは、たいてい、狂乱状態になりますね。
そういう民族は、世界広しといえども、
日本人くらいなものですよ。

「明日は、幼稚園をサボって、ママと、
動物園へ行ってこようか?」と、あなたも、
勇気を出して、言ってみてください。

「♪この支配からの、卒業〜」です。
(040918)

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司


最前線の子育て論byはやし浩司(319)

【新しい発見を求めて……】

●青春時代の灯台

 オーストラリアにいる、三男が、風邪をこじらせ、倒れた。「急に、フワフワとして、そのまま気
を失った」と。

 それでイングリッドさん(ホームステイ先の女性)が、救急車を呼んだ。

 我が家で、人生始まって以来の、救急車となった。が、私とワイフは、そのことを、三男が、病
院から帰ってきてから知った。

私「で、今は、もうだいじょうぶか?」
三男「だいじょうぶだよ」
私「心細くないか?」
三男「ううん。みんないい人だったよ」と。

 話を聞くと、こうだった。

 病院へ運ばれた三男は、そのまま救急室へ。そこでペニシュリンを打ってもらったらしい。あ
とは、何かの点滴を受けた。で、数時間後には、気分がよくなり、歩くことができるようになっ
た、と。

 「ドクターも看護婦さんも親切だったけど、ボランティアの女性が二人もついて、あれこれめん
どうをみてくれた」と。

 私はいろいろ話を聞いて、ほっと、胸をなでおろした。しかし、同時に驚いた。

 オーストラリアの医療制度は進んでいるとは聞いていたが、ここまで進んでいるとは! つま
り中身が、すごい。日本にも、ヘルパーとかボランティアがいるが、ここまではしない。しかも相
手は、外国人の大学生!

私「お金は? 保険は使ったか?」
三男「ううん。メディバンク(学生保険)に入っていたから、全部、ただだった」と。

 メディバンクというのは、向こうの大学に入学したとき、強制的に加入させせられる、学生用
の保険のことをいう。年額、数千円足らずのそのメディバンクが、カバーしてくれたという。ただ
だったという。三男は、ほかにAXXの総合保険にも入っている。

 もう10年前になるだろうか。オーストラリアの一人当たりの国民総生産高が、シンガポール
のそれに抜かれたとき、そのことを、オーストラリアの友人に話すと、その友人は、こう言った。

 「ヒロシ、それがどうした?」と。

 生活の質、つまり生活水準などというのは、お金では計算できない。私は三男からその話を
聞きながら、同じように、医療水準などというのも、お金では計算できないと知った。三男もそ
れを言いながら、「オーストラリアはいいところだね」と。三男も、すでに、オーストラリア大好き
人間になったようだ。

 もうすぐ帰国するが、その前に、オーストラリアを、旅行してくると言った。それに答えて私は、
こう言った。

 「青春時代というのは、そのまま人生の灯台になるよ。
  これから先、お前が生きていく間、お前の足元を照らしてくれるよ。
  だから、思いっきり、すばらしい思い出を作っておくといいよ。
  これから先、苦しいこと、悲しいこと、つらいこともあるだろう。
  そういうとき、その灯台が、お前の足元を照らしてくれる。
  ふと、まちがった道に入りそうになることもある。
  そういうとき、その灯台が、お前を、そこで踏みとどまらせてくれる。
  青春時代の灯台というのは、そういうものだよ。
  思う存分、お前の青春時代を生きたらいい。
  旅行費用は、プレゼントするよ。必要な額を、メールで知らせない」と。

 つづいて、イングリッドさんが、電話に出た。しばらく礼を言いつづけた。イングリッドさんは、
そのときの状況や、病院での様子をあれこれ話してくれた。

 私は、その明るい声の中に、34年前に感じた、あのぬくもりを感じた。

 Advance Australia! We love you!

【国家としての完成度】

 国家としての完成度は、他国の人たちへの、やさしさで決まる。これは、個人のばあいと、同
様である。いうまでもなく、個人としての人格の完成度は、その人がいかに利他的であるかで、
知ることができる。

 もう25、6年前になるだろうか。当時、どこかの公的団体が、こんなアンケート調査をした。

 日本に留学した外国の学生たちへのアンケート調査である。その結果、ほぼ100%が、
「(帰国するときには)、日本が嫌いになった」「もう、二度と、日本へは来たくない」と、答えてい
たのを覚えている。

 劣悪な生活環境。劣悪なもてなし。理由はいろいろある。しかし当時、それぞれの国からやっ
てくる留学生たちは、その国の超エリートたちであった。それなりの夢や希望をもって、やって
きた。

 そういう留学生たちが、1年、2年と日本で生活するうちに、日本が嫌いになってしまう……。

 当時の日本には、とくにアジア系留学生には、冷たかった。どう冷たかったかということは、
日本人なら、みな、知っているはず。

 それから10年、20年、30年……。今、当時の留学生たちが、それぞれの国で、その国のリ
ーダーとして活躍している。それを考えると、実のところ、背筋がぞっとする。日本という国は、
まだまだだと思う。

 私も留学生だったが、現地へ着くと同時に、ライオンズクラブのメンバーが、世話人として、二
人ついてくれた。あちこちへ旅行に連れていってくれた。ゴルフや競馬に連れていってくれたこ
ともある。もちろんすべて、無料。ボランティア活動である。

 だから……、というわけではないが、私は、オーストラリアが大好き人間になってしまった。今
でも、「オーストラリア」という言葉を聞くだけで、胸の中に熱いものが、よみがえってくる。

 私は、それが国家としての完成度だと思う。

 どういうふうにして、2人のボランテォアが三男についてくれたかは知らないが、その話を聞い
て、ほっとすると同時に、私は、ますますオーストラリアが好きになった。


●K国の最強部隊?

 K国が、中国との国境沿いに、K国の最強部隊を配置したという。金XX直轄の、海軍陸戦部
隊だという。そのことを、中国の新華社通信は、つぎのように伝える。

「K国は、最近、最強の戦闘能力を持つ海軍陸戦部隊を国境地帯に配置し、脱北者の取り締
まりを強化している」(「国際先駆導報」9・16)と。

 考えてみれば、これはおかしなことだ。「脱北者を取り締まるために、K国は最強の軍隊を配
置した」というのだ。脱北者といえば、まさに着の身着のまま。武器をもって、脱北する人など、
いない。

 そういう脱北者である。なぜか?

 理由は、二つ考えられる。

 一つは、表面上の友好関係は別として、中国とK国の関係は、内部的には、かなり悪化して
いるということ。その中国も、国境沿いに、15万以上の、正規軍を配置している※。この8月に
は、中国人民解放軍が、K国の北で、渡河訓練 を行ったという報道もある(産経新聞)。

 もう一つの理由は、K国が、そうでもしなければ、脱北者を防げない状態になっているというこ
と。すでにK国自体は、崩壊状態になっている? 韓国への脱北者は、8月末までで、今年は、
1399人もいるという。この数は、03年度の1281人をすでに超えている(韓国の統一外交通
商委員会)。

 以下は私の憶測だが、中国はK国に対して、強力な軍事的圧力を加えつつあるのではない
かということ。「言うことを聞かなければ、軍事行動も辞さない」と。

 これに対して、金XXは、軍事力で対抗しようとしている。短気で向こう見ずの男だから、それ
はありえる。つまり、ともに、脱北者対策は、口実にすぎない。

 日本にとって、最良のシナリオは、中国の圧力で、つまりは、自然死の状態で、金XX独裁政
権が崩壊すること。そしてそのあと、米中韓が協力して、K国に、民主的な新政権を樹立するこ
と。

 こうすれば、日本は、戦争をしないですむ。極東に、平和がやってくる。日本もそれ相当の経
済援助を覚悟しなければならないが、それは当然のことである。

※……中国側は、吉林省の国境地帯で、無線操作の監視モニターを約1キロおきに設置し、2
4時間体制で不審者をチェック。発見すれば、5―10分以内に兵士が現場に急行できるという
(ヤフー)。


●高齢者、2500万人時代!

 もうすぐ高齢者が、2500万人に達するという(厚生労働省04・09)。

 2500万人と言われても実感がないが、要するに、こころにもそこにも、私のような老人が、
ごろごろするようになるということ。

 で、その老人にもいろいろある。大きく分けて、利己型と利他型。

 利己型というのは、結局は、自分のことしかしない、セルフィシュな老人群をいう。大半が、そ
うであると言ってもよい。

 利他型というのは、地域の仕事や活動を、積極的にしている老人群をいう。ボランティア活動
や自治会の仕事で、走り回っている。

 どちらがよいか悪いかという議論は、ほとんど意味がない。私自身は、利己型の老人群に
は、まったくといってよいほど、価値を認めない。が、本当にかわいそうなのは、本人たち自身
ではないのか。

 毎日、庭いじりをしているだけ。息子や娘もいるが、ほとんど、家には寄りつかない。夫婦の
会話も、これまたほとんど、ない。いくら長生きをしたからといって、そういう人生に、どういう意
味があるのか。

 一方、私の近所に、すでに腰がまがってしまった老人(女性)がいる。年齢は、90歳くらいで
ある。昨日も見ると、ハサミで(ハサミだぞ!)、一本、一本、雑草を切っていた。

 この女性は、もう20年近く、近くの中学校周辺の草刈りをひとりでしている。そういう老人を
見ると、頭がさがる。本当にさがる。しかし私は、そういう老人の中に、人間が生きる美しさを
感ずる。すばらしさを感ずる。

 そこであなたの周辺の老人をながめてみてほしい。あなた自身の両親でもよい。

 そういう老人をながめてみたとき、あなたは、そういう老人をどう評価するだろうか。つまり人
生の大先輩としての老人を、である。

 私は、一つの基準として、この利己型と利他型があると思う。「思う」というのは、まだそう言い
切る自信はないということ。私自身も、その老後を前にして、利己型の世界で、あがき、もがい
ている。偉そうなことは、言えない。

 しかしこれだけは言える。

 これからは、私たちは、老人として、社会の中でごろごろする存在になる。そのとき、若い人
たちに、尊敬される老人をめざさないと、結局は、自分で自分の立場を否定することになってし
まうということ。一昔前には、「粗大ゴミ」という言葉がはやった。その粗大ゴミになってしまうと
いうこと。

 そうなれば、どうなるか……? 社会のやっかい者として、嫌われるようになってしまうかもし
れない。2500万人という数字には、そういう意味も、含まれる。

 が、本当の恐怖は、そのことではない。利己的に生きれば生きるほど、その人自身が、無間
の孤独地獄を背負うことになる。クリスマス・キャロルのスクルージー※に、その例を見るまで
もない。それこそ、まさに本当の恐怖ということになる。

 そうならないためには、私たちは、今から、何をすべきか。どうしたらよいのか。それを考える
のも、老後の問題ということになる。

※(クリスマス・キャロル)……チャールズ・ディケンズの代表作。舞台はロンドン。ときは、クリ
スマス・イブ。ケチで、利己的なスクルージーのところに、7年前に死んだ協同経営者のマーレ
ーが、亡霊となって現れる。そして……。


●心の混乱

 自分の子どもが不登校を起こしたりすると、たいていの親は、狂乱状態になる。長男、長女
のときは、とくにそうだ。

 それについては、何度も書いてきた。

 問題は、なぜそうなのか。さらに、それを防ぐには、どうしたらよいかということ。

 実は、こうした心の混乱には、いつも二面性がある。

 自分の子どもが、一つのコースからはずれるとわかったときの恐怖感は、相当なものであ
る。言葉では表現しがたい。それはわかる。が、なぜ、そうまで恐怖感を覚えるかといえば、そ
こに、それまでの自分自身の生きザマが、そこに集約されるからである。

 私たちは、無意識のまま、心のどこかでコースからはずれていく人を、さげすみ、排斥する。
あるいは、自分とはちがった生き方をする人を、認めない。認めないというよりは、許さない。こ
れは人間という動物が、動物としてもっている本能のようなものかもしれない。

 だから、自分にせよ、自分の子どもにせよ、そのコースからはずれ始めると、言いようのない
恐怖感を覚える。もう少しわかりやすい例で考えてみよう。

 学歴をことさら気にする人というのは、学歴コンプレックスをもっている人は別として、その人
自身がその学歴にぶらさがって生きているか、反対に、学歴のない人を、さんざん笑ったり、
軽蔑しているかの、どちらかとみてよい。笑ったり、軽蔑したりしているから、今度は、逆の立
場に立たされたとき、その人は、その何倍も、苦しむ。

 同じように、なぜ、人は、コースからはずれるのを、こうまで恐れるかと言えば、無意識である
にせよ、そのコースからはずれる人を、心のどこかで、笑ったり、軽蔑したりしているからであ
る。

 では、どうするか?

 要するに、人の不幸を笑ってはいけないということ。笑った分だけ、いや、その何倍も、今度
は自分が同じ立場に立たされたとき、苦しむ。

 だから私はあえて、言う。あなた自身は、どうか、と。

 何か、問題のある子どもや親を、あなたは、笑ったり、軽蔑したりは、していないか、と。もし、
そうなら、そういう考え方は、今すぐ、改めたほうがよい。でないと、いつか、今度は、あなた自
身やあなたの子どもの問題として、その何倍も、苦しむことになる。

 こんなことを言う親がいた。

 「ADHD児なんて、教室から追い出せばいいのです。みんなの迷惑になるだけです」と。

 もう15年ほど前になるだろうか。S県のある小学校で、車椅子に乗った身体障害児に対し
て、その入学に反対する集会が開かれたこともある。(ホントだぞ!) 理由は、「そういう子ど
もが入学してくると、子どもたちの学習に、さしさわりが出るから」だった。

 また私にこう言った、経営者がいた。

 「何だかんだといっても、この世界は、弱肉強食の世界です。力のある人がいい生活をする
のは、当然のことです。力のない人は、それなりの生活をするのも、これまた、当然のことで
す」と。

 さらに面と向って、私にこう言った人もいる。私が「幼稚園で働いています」と言ったことに対し
て、だ。

 「君は、学生運動か何かをしていて、どうせ、ロクな仕事にありつけなかったんだろう」と。

 「幼稚園で働くのは、ロクな仕事ではない」と。

 言いたければ、そう言うがよい。思いたければ、そう思うがよい。しかしそう言ったり、思った
りすればするほど、今度は、自分が逆の立場に立たされたとき、その何倍も苦しむことにな
る。

 ある母親は、毎晩、中学3年生の娘と、「勉強しなさい!」「うるさい!」の大乱闘を繰りかえし
ていた。なぜか? 実は、その母親自身が、いつも、他人を、その出身高校で判断していたか
らである。「あの人は、S高校出身なんですってねえ」「あの人は、D高校しか出ていないんです
ってねえ」と。自分自身も、市内でも、ナンバーワンといわれる、S高校の卒業生だったこともあ
る。

 だから自分の娘の学力がそこまでないとわかったとたん、その母親は、パニック状態! 他
人を笑ったり、軽蔑した分だけ、自分で自分のクビをしめたことになる。

 こうした心の混乱をふせぐためには、日ごろから、自分より弱者に暖かくする。新約聖書の中
にも、『慈悲深い人は、祝福される。なぜなら、彼らは、慈悲を与えられるだろう(Blessed are 
the merciful, for they will be shown mercy)』(Matthew 5-9)というのがある。

 この一文を逆に読むと、(私のようなものが解釈することは、おそれおおいことだが)、「日ご
ろから、他人にやさしくしている人ほど、自分が逆に、その人の立場に立たされたとき、その苦
しみから救われる」ということになる。

 自分の子どもがコースからはずれていくことを心配している人は、一度、自分自身も、コース
からはずれていく人を、心のどこかで、笑い、軽蔑していないかを反省してみるとよい。

【補記】

 あるとき、ある大手の出版社に勤める友人が、私にこう言った。「林さん、ぼくらはね、林さん
のような生き方を認めるわけには、いかないんですよ」と。

 私が、「大手の出版社は、権威主義的すぎる。もっと、人の中身を見て雑誌をつくらないと、
やがて大衆から見放される」と言ったときのこと。

 「でもね、林さん。もしぼくらが林さんのような生き方を認めてしまうと、ではぼくたちの生き方
は何だったのかというところまで、いってしまうのです。つまりね、ぼくらの世界では、林さんの
ような人は、敗北者で、失敗者なんです。また、そうでなければ、ならないのです。

 おかしなもので、林さんのような生き方をしている人が失敗すると、『やっぱり、そうだったん
だ。ぼくらの生き方は、これでいいんだ』と、へんに納得できるんですよ。だから内心では、『あ
の林は、今に、失敗するぞ』『今に、失敗するぞ』と、楽しみにも似た、期待感をもつわけです。

 しかしね、林さんのような人が成功したりするのをみるのが、こわいんですよ。自分の生きザ
マを、否定されるように感じてしまうのですね。ぼくらは、組織の人間、会社人間ですから……」
と。

 コースに乗っている人が、なぜ、そのコースからはずれることを恐れるかと言えば、いつもそ
のコースの外にいる人を、否定しているからではないのか。だから自分はともかくも、自分の子
どもがそのコースからはずれそうになると、狂乱状態になる。

 親たちは、子どもが不登校を起こしたりすると、「うちの子は、このままダメになってしまう」と
言うが、本当のところは、子どものことなど、何も心配していない。自分の生きザマが、否定さ
れるのがこわいのだ。

 子どものことを本当に心配するなら、子どもの心の問題を考える。最初から最後まで、子ども
の心の問題だけを考える。それでよい。それがすべて。本来なら、親は、そうあるべきなのだ
が……。


++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

●岩手県Eさん(父親)からの相談

****************************

小学2年の秋から、断続的に不登校。病院で診断してもらうと
ケトン性低血糖ということ。それはなおりましたが、そのあと、
学校へ行くのは、いやだと言い出すようになり、また不登校。

3年になると、午前中だけ登校、昼に帰ってきて、午後だけ登校
とか、学校へ通うのが不規則になりました。

4年になると。しばらくは学校に通いましたが、10月になると、
また行けなくなり、「適応教室に行きたい」と言うようになり、
適応教室に通うようになりました。

そのあと、ムカムカする、つらいなど、いろいろな心身症による
症状を示すようになり、病院でも小児性心身症と診断されました。

病院の先生の話では、子どもらしさがない、ストレスが限界に
なった、病院を避難場所にしているのではとのこと。

が、そういう娘でも、それまでは、私たちと口をきいてくれました。
しかし6年になると、態度が変わりました。病院へ行っても、
「もう、ほうっておいてほしい」「来ないでほしい」と。

「もう学校へは、行きたくなければ行かなくてもいいのよ」と、
娘に言っていますが、私たちの気持ちも、通じなくなってきています。

つらい毎日です。病院への治療費も、月20万円を超えるように
なりました。私たち夫婦も、限界です。下の妹(5歳)への影響も
心配です。どうしたらいいでしょうか。(以上、要約)
(岩手県・E・父親)

*******************************

【学校へのこだわり】

 Eさんからのメールは、この10倍以上もの長さがあった。そしてそれには、EさんとEさんの妻
が、娘さんを何とか学校へ行かせようと、あれこれ努力をしたというようなことが、詳しく書いて
あった。それは努力というより、悪戦苦闘に近いものだったらしい。

 その努力がまちがっていたとは言わない。しかし問題は、なぜ、Eさん夫婦が、そこまで学校
にこだわったか、である。

 こうしたケースで多いのは、(Eさん夫婦が、そうであったというのではない。誤解のないよう
に!)、初期の段階での、対処の失敗が、問題をこじらせてしまうということ。子どもが学校へ
行きたくないと言うと、ほとんどの親は、混乱状態から、狂乱状態になる。

 そして親自身が感ずる、不安や心配をそのまま子どもにぶつけてしまう。

 この段階で、「あら、そう?」「行きたくなければ、行かなくてもいいのよ」と親が言ったら、その
あと、深刻な不登校にならずにすんだはずというケースは、いくらでもある。が、実際には、そう
はいかない。親自身が、狂乱状態になってしまう。私は、そういう例を、何十例も経験してい
る。

 Eさん夫婦も、娘さんを、まさに(学校へ行けるだけ行かせよう)と努力した。たとえば、Eさん
からのメールには、「3年生になると、母親が送り迎えをして、午前中だけ学校→午前中学校、
帰って家で昼食→午後から登校という不規則ながら、なんとか学校にいっていましたが、10月
からまた体調不良を訴えいけなくなりました」(原文)とある。

 この時点で、午前中だけでも行ったら、「よく行ったわね」と、なぜ、ほめてあげなかったのだ
ろうか。あるいは午前中だけも行ったら、親のほうから、「午後はいいのよ。そんなに無理をし
なくてもいいのよ」と、なぜ言ってあげなかったのだろうか。

 率直に言えば、親の心配ばかりが先行していて、子どもの心が見えてこない。私は、Eさんの
相談を一読して、最初に、それを強く感じた。

 ……といっても、Eさんを責めているのではない。だれしも、そういう状況に置かれれば、そう
考える。Eさんだけが、特別というわけではない。Eさんだけが、(こういう言葉は使いたくない
が)、失敗したというわけではない。

 が、親は、えてして、学校へのこだわりから、子どもの心を見失う。学校神話、学歴信仰、学
校絶対主義などが、その背景にある。明治以来、国策として、延々として作られてきた意識で
ある。そうは、簡単には変えられない。まず、それに気づくだけでも、たいへん!

 ものごとをすべて、「学校とは行かねばならないところ」という大前提で、考えてしまう。つまり
この無理が、子どもの心を、ゆがめる。

 ただこの時点で、一つ注意しなければならないことは、学歴信仰は、何も、親だけのものでは
ないということ。子どもも、いつしか親の学歴信仰を、そっくりそのまま受け継いでしまう。

 その親だって、そのまた親から、受け継いでいるだけということにもなる。同じように、子ども
が、それを受け継いでしまう。

 だから行き着くところまで行って、そのときはじめて親のほうが、それに気づき、「学校なん
か、行きたくなければ行かなくてもいいのよ」と言っても、意味はない。こういうケースで、子ども
にそう言えば、かえって子どもを追いつめてしまうことになる。

 「私は学校へ行かねばならない」「学校へ行きたくても、行けない」「どうすればいいの!」と。

【心の緊張状態】

 「情緒不安」という言葉がある。しかしこの言葉ほど、いいかげんで、誤解を招きやすい言葉
もない。

 情緒不安というのは、あくまでも結果でしかない。なぜ、子どもが(おとなも)、情緒が不安定
になるかといえば、その前に、心が緊張状態にあるからと考える。

 心が開放されない。何かの心配ごとが、ペタリと張りついて、取れない。

 そういう緊張状態にあるとき、何かの心配ごとが入ってくると、心はその心配ごとを解消しよう
と、一挙に不安定な状態になる。その状態を「情緒不安」という。つまり、情緒が不安定になる
のは、あくまでも結果でしかない。

 子どものばあい、何かのキーワードがあって、そのキーワードに触れると、一挙に不安定に
なることが多い。

 ある女の子(年長児)は、母が、「ピアノのレッスンをしましょうね」と言っただけで、ときにギャ
ーと泣き叫んで、手がつけられなくなってしまった。包丁を投げつけたこともあるという。その女
の子のケースでは、「ピアノのレッスン」が、一つのキーワードになっていた。

 そこで考えなければならないのは、なぜ、情緒が不安定であるかではなく、なぜ、心の緊張感
がとれないか、である。

 原因はいろいろ考えられるが、その多くは、対人関係をうまく処理できないためとみてよい。
他人と、良好な人間関係が結べない。もっと言えば、自分の心を開放したまま、交際できない。
それが心の緊張状態をつくりだす。

 だからこのタイプの子どもは、おおまかにわけて、つぎの6つのタイプのどれかを選択する。

(1)攻撃型(他人に乱暴になる)
(2)自虐型(自虐的な運動や、勉強をする)
(3)同情型(相手に同情を求めるため、弱々しい自分を演ずる)
(4)依存型(だれかにベタベタと甘える)
(5)服従型(集団に属し、長に、徹底的に服従する)
(6)逃避型(引きこもったり、人間関係を遮断する)
(7)怠惰型(生活全般が、退行的になる。だらしなくなる)

 最初にわかってあげなければならないのは、このタイプの子ども(おとなも)、人との交際が、
それ自体、苦痛であるということ。相手に対して、気をつかう。神経をつかう。集団の中で、仮
面をかぶる、いい子ぶる、自分を飾ったり、ごまかしたりする。

 だから集団の中に入れると、すぐ精神疲労や神経疲労を起こす。親は、「うちの子は、集団
になれていないだけ」「集団の中で訓練すれば、やがてなれるはず」と考える。たしかにそういう
ケースもないわけではないが、そうは、簡単ではない。

 無理をすることで、かえって、症状をこじらせてしまうケースのほうが、多い。強圧的な指導に
などによって、回避性障害や摂食障害、行為障害などへと発展していくケースも、少なくない。
幼児のばあいは、かん黙したり、自閉傾向を示したりすることもある。(自閉症と自閉傾向を混
同しないように……。)

 では、なぜ緊張状態がとれないのかということになる。このタイプの子どもは、集団の中で
は、(いい子)ぶることが多い。ものわかりがよく、先生の言うことを、すなおに聞いたりする。ま
たいい子を演ずることで、自分の立場をつくろうとする。

 たとえばブランコを横取りされても、柔和な表情のまま、それを明け渡してしまうなど。その時
点で、「どうして横取りするのだ!」と、相手に抗議することができない。

 が、教える側から見ると、どこか何を考えているかわからない子どもという感じになる。心が
つかみにくい。心の状態と、顔の表情が、不一致を起こすことも多い。いやがっているはずな
のに、ニヤニヤ笑うなど。

 原因は、新生児期から乳幼児期にかけての、母子関係の不全にあるとみる。

【母子関係の不全】

 絶対的なさらけだしと、絶対的な受け入れ。この二つの基盤の上に、母子の信頼関係が、築
かれる。

 「絶対的」というのは、「疑いすら、もたない」ということ。「私はどんなことをしても、許される」と
いう安心感。その安心感が、相互の信頼関係の基盤となる。

 が、何かの理由で、たがいに、このさらけ出しができなくなるときがある。親側の拒否的な育
児姿勢、冷淡、無視など。親自身が何らかの心のキズをもっていて、子どもに対してさらけ出し
ができないときもある。

 たとえば親自身が、不幸にして不幸な家庭で、生まれ育った、など。こういうケースのばあ
い、「いい親でいよう」「いい家庭を築こう」という、気負いばかりが先行し、結果的に子育てで、
失敗しやすくなる。

 あるがままの自分を、ごく自然にさらけ出すというのは、それができる人には簡単なことだ
が、それができない人には、たいへんむずかしい。自分がそうであるということにすら、気がつ
かない人も多い。

 中には、親や兄弟のみならず、自分の夫や、そして自分の子どもにすら、自分をさらけ出せ
ない人もいる。「あるがままの自分をさらけ出したら、嫌われるのではないか」「みなから、へん
に思われるのではないか」と。

 言うまでもなく、その原因は、ここでいう母子関係の不全である。つまり子どもは、母親との関
係において、他者との信頼関係の結び方を学ぶ。その信頼関係が、そののち、その人の人間
関係の基本になるため、これを「基本的信頼関係」という。

 子どもは、母子の間でできた信頼関係を基本に、そのワクを広げる形で、友人や、先生、さ
らには結婚してからは配偶者や子どもとの信頼関係を結ぶことができるようになる。

【対人障害】

 怠学、学校恐怖症については、すでにたびたび書いてきたので、ここでは省略する。で、子ど
ものばあい、こうした対人障害が、そのまま不登校となって現れることが多い。

 で、その恐怖症だが、そのつらさは、それになったものでないとわからないだろうということ。
私など、まさに恐怖症のかたまり。

 子どものときから、閉所恐怖症、高所恐怖症などがあった。しかし本当にそれがひどくなった
のは、飛行機事故を経験してから。30歳になる、少し前のことだった。飛行機に乗れなくなっ
てしまったことはしかたないとしても、ことあるごとに、スピード恐怖症になる。

 数年前も、あやうく、交通事故にあいそうになった。九死に一生とまではいかないにしても、あ
やうく、だ。

 そのため、私は道路を自転車で走っていても、すべての自動車が、自分に向って走ってくる
ように感じた。あとでみたら、手のひらが、ぐっしょりと汗をかいていた。

 人間の思考パターンというのは、そういうものだが、自分でも、「気のせいだ」とわかっていて
も、コントロールできない。それがつらい。

 だから、子どもの恐怖症にしても、決して安易に考えてはいけない。あくまでも子どもの目線
で、子どもの立場で考えること。無理をすれば、症状をこじらせるだけ。

 で、その対人障害だが、よく知られたものに、回避性障害がある。他人との良好な人間関係
が結べなくなる。一度、その回避性障害になると、人との接触が、異常にわずらわしくなる。人
の気配を感じただけで、神経が張りつめる。気が重くなる。

 それだけならまだしも、一度、そういう状態になると、ふつう以上に神経をすりへらす。そのた
め、精神疲労を起こしやすい。体がだるくなる。思考が進まなくなる、など。頭痛や肩こり、不
眠、早朝覚醒を訴える子どももいる。

 心身症から神経症へと発展することもある。ただし、症状は、千差万別。定型がない。ふつう
は、身体的症状(腹痛、下痢など)、精神的症状(抑うつ感、不安症など)、行動的症状(髪いじ
り、ものかじりなど)に分けて考える。「おかしなことをするな?」と感じたら、この心身症を疑っ
てみるとよい。

 で、そういう状態が、前兆症状としてしばらくつづいたあと、より明確な形で、たとえばここでい
うような学校恐怖症などとなって現れる。

 これについても、すでにたびたび書いてきたので、私のHPに書いた記事を参考にしてほし
い。

【学歴信仰】

 「学校は、絶対」「学校とは、行かねばならないところ」と。そういう意識をもっている人は、多
い。

 しかしその意識は、絶対的なものでもなければ、普遍的なものでもない。意識というのは、そ
の時代時代において、変化しうるものである。だから大切なことは、今、私やあなたがもってい
る意識が、絶対的なものであると、思ってはいけないということ。学校神話も、その一つ。

 私たち日本人は、「学校は絶対である」という意識をもっている。ずいぶんと前のことだが、戦
時下のサラエボで、逃げまどう子どもをつかまえて、「学校へは行っているの?」と問いかけて
いたあるテレビ局のレポーターがいた。

 子どもを見れば、すぐ学校という発想。それも学校神話の一つと考えてよい。そういう意識
は、明治以来、国策の一つとして、日本人の中に作られてきた。戦争で、学校どころではない
はず。ふつうの常識のある人なら、そう考える。

 世界は、もう少し、おおらかである。学校の設立そのものも、自由。アメリカなどでは、カリキ
ュラムの内容ですら、学校ごとに独自に決められる。もちろん日本でいう「教科書」などない。

 学校にしても、内容と種類は、さまざま。学校へ行かないで、家庭で学習する、ホームスクー
ラーも、200万人もいる。

 一方、この日本では、子どもに何か、問題が起きると、すぐ、「学校で!」と考えやすい。今で
は、家庭教育まで、学校に押しつける親さえいる。

 しかしものごとは、常識で考えてみたらよい。たった一人の子どもでさえもてあますことが多い
のに、そういう子ども、30〜40人も一人の先生に押しつけて、「しっかりめんどうをみろ」はな
い。

 話はそれたが、不登校の子どもをもつ親と話していると、この学校神話をよく感ずる。私が、
「いいじゃないですか、学校なんか。子どもが行きたくないと言ったら、行かなくても……」などと
私が言おうものなら、たいていの親は、目を白黒させて、驚く。

 私は、よく、自分の息子たちを幼稚園や学校を休ませて、家族旅行に出かけた。平日に旅行
すると、どこも、ガラガラ。言いようのない解放感を味わった。が、そういうときたいてい、幼稚
園や学校から電話がかかってきて、(とくに幼稚園の先生からが多かったが)、「そういうことを
すると、遅れます」「困ります」と。

 しかし子どもが、何から、どう遅れるというのか? だいたいにおいて、「遅れる」というのは、
どういうことなのか。あるいは、コースからはずれることを、「遅れる」というのか。だったら、そ
の「コース」とは、何か?

 つまり、「どうしても学校」という意識は、そういうところから生まれる。そして自分の子どもが
不登校を起こしたりすると、「さあ、たいへん!」と、たいていの親は、パニック状態になる。そし
てそういう意識が、必要以上に、子どもを追いつめる。

【あくまでも子どもの目線で】

 決して、Eさんが、そうであったというのではない。またそうであったからといって、Eさんを責
めているのでもない。

 ただこういうケースでは、親は、多くのばあい、子どもの目線で、ものを考えることができな
い。

 数か月前も、こんな相談があった。ある母親からのものだった。いわく、「やっとのことで、学
校へ行くようになりました。しかし午前中だけ。給食の時間になると、家に帰りたいと言います。
何とか、給食だけでもと思うのですが、どうしたらいいでしょうか」と。

 それに答えて、私は、こう返事を書いた。

 「午前中だけにして、『よくがんばったわね』とほめてあげてください」と。

 こういうケースで、その子どもが、給食を食べるようになると、今度は、親は、「せめて午後ま
で……」「終わりの会まで……」と言い出すにちがいない。子どもも、それをよく知っている。つ
まり親の希望や欲望には、際限がない!

 つい先日も、やっとのことで不登校のなおった子どもに対して、「今までの遅れを取りもどすた
め」ということで、進学塾へ入れた親がいた。が、とたん、その子どもは、また不登校! 『元の
木阿弥(もくあみ)』という言葉があるが、そういう状態になってしまった。

 こういうケースは、多い。本当に多い。そうして失敗を重ねながら、子どもは、二番底、三番底
へと落ちていく。

 そこで大切なことは、今の状態を最悪と思っては、いけないということ。不登校にかぎらず、
子どもの心の問題では、「今の状態を、それ以上悪くしないことだけを考えて、半年、あるいは
一年単位で、様子をみる」である。

【許して忘れる】

 子どもに何か、問題が起きたら、ただひたすら『許して、忘れる』。とくに子どもの心の問題で
は、そうで、その度量の深さによって、親としての愛情の深さも決まる。

 ただ誤解してはいけないのは、『許して、忘れる』といっても、子どもに好き勝手なことをさせ
るということではないということ。許して忘れるというのは、子どもに何か問題が起きたら、それ
を自分のこととして、受け入れることをいう。

 たとえば不登校児にしても、それを一番苦しんでいるのは、子ども自身だということ。一見、
楽しそうに振る舞っているように見えるかもしれないが、子ども自身、その緊張感から解放され
ることはない。年齢が大きくなると、それに、将来への不安が加わる。

 そういう状態のとき、見るに見かねて、多くの親は、「学校へは行かなくてもいい」などと言う。
しかしその言葉自体が、子どもにとっては、苦痛なのだ。

 それはたとえて言うなら、二階の屋根にのぼったあと、ハジゴをはずされるようなもの。子ど
もの立場にするなら、「じゃあ、どうしたらいいの!」となる。

 もしこういう状態で、子どもにかける言葉があるとするなら、「お前は、つらかったんだね」「お
前は、よくがんばったよ」「人生は、長い。気楽に行こうよ」という言葉である。できれば、「お父
さんが悪かった。お前の苦しみを理解できなかった」と、あやまることである。

 こういうケースでは、親意識など、あれば捨てること。「親である」という気負い、「親だから何
とかしなければ」という責任感。それも捨てる。子どもにしてみれば、自分のために犠牲になっ
ている親を見ることぐらい、つらいことはない。

 ある女性は、こう言った。その女性が高校生だったときのこと。高校に入学はしたものの、ほ
とんど、学校には行っていなかった。おまけに摂食障害。

 「何がつらかったかといって、母に、『私はつらい』と言われることぐらい、つらいことはなかっ
た」と。

 その女性は、高校を中退したあと、数年、アパートを借りてひきこもった。が、そのあと、少し
ずつたちなおって、カナダへ語学留学。つづいて、オーストラリアへ。今は、看護ヘルパーの資
格をとるため、専門学校へ通っている。

 だから親は親で、前向きに生きる。「ようし、十字架の一つや二つ、ぼくがかわりに背負って
やる」「お前はお前でがんばれ。ぼくはぼくでがんばるから」と宣言する。そしてそういう前向き
な姿を、子どもに見せていく。

 そういう姿ほど、子どもに安堵感を与えるものはない。そしてそれが子どもの心の問題にも、
よい方向に作用する。

【Eさんへ……】

 書かなくてもよいようなことまで書いて、何かと不快に思われたかもしれません。しかし子の
問題は、根が深いということをわかってもらいたくて、あれこれ書きました。あくまでもここに書
いたことを参考に、一度、あなた自身の心の中をのぞいてみてください。

 あなたの子どもは、あなたを苦しめるために、そこにいるのではありません。あなたに何かを
教えるために、そこにいるのです。何か、大切なものを、です。

 あなたがすべきことは、そういう子どもの声というか、子どもという存在を超えた、その向こう
にある声というか、そういうものに、静かに耳を傾けることです。

 今は、あまりにも一対一の関係になりすぎている。私には、そんな感じがします。一つには、
あなた自身が、若いということもあります。しかし相手は、しょせん、子どもです。本気で愛しな
がらも、決して、本気で相手にしてはいけません。

 「会いたくない」と言ったら、こう言いなさい。「ははは。そうは言っても、私は、お前からは離
れないからな」「どんなことがあっても、お前を守るからな」と。もしそれでもあなたの子どもの心
をつかめなかったら、子どもの心の中に、自分を置いてみます。

 すると、どうしてそういうことを言うのか、それがわかりますよ。なぜ、あなたが避けられている
かもわかりますよ。

 親というのは、そういう意味では、さみしい存在。どんなに嫌われても、こちらからは嫌っては
いけないということ。嫌われても、嫌われても、そんなことは気にせず、前に進むしか、ありませ
ん。いちいち子どもの機嫌など考えないことです。100に1つ、1000に1つ、子どもの中に(や
さしさ)を感じたら、もうけものと思うことです。それとも、Eさんは、子どもに何を求めています
か。

 子どもというのは、(求める対象)ではないのです。わかりますか? いい子にしようとか、い
い親子関係にしようとか、そういうふうに考えてはいけません。とくに今のEさんと、子どもの関
係においてはそうです。

 あえて言えば、あきらめて、それを受けいれる、です。もっと言えば、『負けるが、勝ち』です。

 が、心配は、無用。

 子どもというのは、そういう親の姿勢の中から、何かを学んでいくものなのですね。何を学ぶ
かはわかりませんが、必ず学んでいくものなのですね。だから、ここはあせらず、「ようし、お前
はお前で生きろ。私は私で生きるから」と。そう宣言してみてください。

 あなたの子どもは、すでに年齢的には、じゅうぶん親離れしています。あなたが考えているよ
り、はるかにおとな的な考え方をしています。(あるいは、あなたとほとんど、同じ程度には考え
ているかもしれませんよ。あなたから見れば、いつまでも、子どもに見えるかもしれませんが…
…。)

 そういう子どもを、もっと、信じてみてはどうでしょうか。静かに、「お前は、ぼくに何をしてほし
いか」と聞いてみる。そしてあなたの子どもが、何かを言ったら、そのとおりにすればよいので
す。

 「会いたくない」と子どもが言ったら、「いつなら、会いに来ていいか」と聞けばよいのです。

 大切なことは、暖かい無視と、ほどよい親子関係です。「ほどよい」というのは、「求めてきた
ときが、与えどき」と心得るとよいでしょう。

 最後に「毎月の入院費で、20万円」という話を聞いて、胸がふさぎました。あなたの家庭で、
心のケアをつづけるというわけには、いかないのでしょうか。今の状況から察すると、長期の引
きこもり、もしくは家庭内暴力も考えられますが、それでも、家につれてくるということはできま
せんか。

 家庭内暴力の可能性があるなら、また別に考えなくてはいけませんが、引きこもりという雰囲
気であれば、子どもにとっては、家のほうが、よいかと思います。長い目で見ても、つまり、いつ
か子どもが立ちなおったあとでのことですが、そのほうが、良好な親子関係を築くことができま
す。

 引きこもりをするようなら、好きなだけ、引きこもりをさせればよいのです。そういう大らかさを
感じたとき、子どもも、また前向きに立ちなおり始めます。不思議ですが、これは本当です。

 また今の時期、そして今の状態では、あなたが、あれこれ干渉したり、過関心になったりしな
いことです。静かに、ただひたすら静かに、暖かく無視する。これにまさる対処方法は、ありま
せん。

 で、最後に一言、つけ加えるなら、この種の問題は、いつか必ず、笑い話になります。いつか
あなたは、自分の子どもに向かってこう言うのです。

 「あのころは、たいへんだったぞ。ははは」と。

 その日は、必ずきます。そのときのために、「今」をどうか、破壊しないように!

 また将来的なことになれば、いろいろと不安も大きいかと思いますが、あとは、あなたの子ど
も自身が、自分の道を見つけていきます。すでに、あなたに向って、「病院へ来てほしくない」と
言っているようなら、むしろそのたくましさのほうを、評価してあげてください。

 そう、今、形こそ、少しいびつですが、あなたの子どもは、巣立ちをしようと考えています。あ
るいは懸命に、その準備をしているのかもしれません。

 またあなたは下の妹さんのことを心配していますが、むしろ、上のその子どものほうが、ずっ
とさみしい思いをしていたのかもしれません。「お姉ちゃんだから……」という「ダカラ論」だけ
で、です。

 そんな気持ちにも、少し、配慮してあげてみてください。

 なお、いただきましたメールについて、「そのままの掲載は断る」ということでしたので、こちら
で勝手に要約、改変させていただきました。この原稿での、マガジン掲載など、許可をいただ
ければ、うれしいです。

 では、今日は、これで失礼します。

 なお、数年前に書いた原稿(中日新聞発表済み)を、ここに添付します。どうか、参考にしてく
ださい。

++++++++++++++++++

●生きる源流に視点を
      
 ふつうであることには、すばらしい価値がある。その価値に、賢明な人は、なくす前に気づ
き、そうでない人は、なくしてから気づく。青春時代しかり、健康しかり、そして子どものよさも、
またしかり。

 私は不注意で、あやうく二人の息子を、浜名湖でなくしかけたことがある。その二人の息子が
助かったのは、まさに奇跡中の奇跡。たまたま近くで国体の元水泳選手という人が、魚釣りを
していて、息子の一人を助けてくれた。

以来、私は、できの悪い息子を見せつけられるたびに、「生きていてくれるだけでいい」と思い
なおすようにしている。が、そう思うと、すべての問題が解決するから不思議である。

とくに二男は、ひどい花粉症で、春先になると決まって毎年、不登校を繰り返した。あるいは中
学三年のときには、受験勉強そのものを放棄してしまった。私も女房も少なからずあわてた
が、そのときも、「生きていてくれるだけでいい」と考えることで、乗り切ることができた。

 昔の人は、いつも、『上見てきりなし、下見てきりなし』と言っていた。人というのは、上を見れ
ば、いつまでたっても満足することなく、苦労や心配の種はつきないものだという意味だが、子
育てで行きづまったら、子どもは下から見る。「下を見ろ」というのではない。下から見る。「子ど
もが生きている」という原点から、子どもを見つめなおすようにする。

朝起きると、子どもがそこにいて、自分もそこにいる。子どもは子どもで勝手なことをし、自分
は自分で勝手なことをしている……。一見、何でもない生活かもしれないが、その何でもない生
活の中に、すばらしい価値が隠されている。つまりものごとは下から見る。それができたとき、
すべての問題が解決する。

 子育てというのは、つまるところ、「許して忘れる」の連続。以前にも、どこかに書いたように、
フォ・ギブ(許す)というのは、「与える・ため」とも訳せる。またフォ・ゲット(忘れる)は、「得る・た
め」とも訳せる。つまり「許して忘れる」というのは、「子どもに愛を与えるために許し、子どもか
ら愛を得るために忘れる」ということになる。

仏教にも「慈悲」という言葉がある。この言葉を、「as you like」と英語に訳したアメリカ人がい
た。「あなたのよいように」という意味だが、すばらしい訳だと思う。この言葉は、どこか、「許し
て忘れる」に通ずる。

 人は子どもを生むことで、親になるが、しかし子どもを信じ、子どもを愛することは難しい。さ
らに真の親になるのは、もっと難しい。

大半の親は、長くて曲がりくねった道を歩みながら、その真の親にたどりつく。楽な子育てとい
うのはない。ほとんどの親は、苦労に苦労を重ね、山を越え、谷を越える。そして一つ山を越え
るごとに、それまでの自分が小さかったことに気づく。が、若い親にはそれがわからない。ささ
いなことに悩んでは、身を焦がす。先日もこんな相談をしてきた母親がいた。

東京在住の読者だが、「一歳半の息子を、リトミックに入れたのだが、授業についていけない。
この先、将来が心配でならない。どうしたらよいか」と。こういう相談を受けるたびに、私は頭を
かかえてしまう。


●家族の真の喜び
   
 親子とは名ばかり。会話もなければ、交流もない。廊下ですれ違っても、互いに顔をそむけ
る。怒りたくても、相手は我が子。できが悪ければ悪いほど、親は深い挫折感を覚える。「私は
ダメな親だ」と思っているうちに、「私はダメな人間だ」と思ってしまうようになる。

が、近所の人には、「おかげでよい大学へ入りました」と喜んでみせる。今、そんな親子がふえ
ている。いや、そういう親はまだ幸せなほうだ。夢も希望もことごとくつぶされると、親は、「生き
ていてくれるだけでいい」とか、あるいは「人様に迷惑さえかけなければいい」とか願うようにな
る。

 「子どものころ、手をつないでピアノ教室へ通ったのが夢みたいです」と言った父親がいた。
「あのころはディズニーランドへ行くと言っただけで、私の体に抱きついてきたものです」と言っ
た父親もいた。が、どこかでその歯車が狂う。狂って、最初は小さな亀裂だが、やがてそれが
大きくなり、そして互いの間を断絶する。そうなったとき、大半の親は、「どうして?」と言ったま
ま、口をつぐんでしまう。

 法句経にこんな話がのっている。ある日釈迦のところへ一人の男がやってきて、こうたずね
る。「釈迦よ、私はもうすぐ死ぬ。死ぬのがこわい。どうすればこの死の恐怖から逃れることが
できるか」と。それに答えて釈迦は、こう言う。

「明日のないことを嘆くな。今日まで生きてきたことを喜べ、感謝せよ」と。

私も一度、脳腫瘍を疑われて死を覚悟したことがある。そのとき私は、この釈迦の言葉で救わ
れた。そういう言葉を子育てにあてはめるのもどうかと思うが、そういうふうに苦しんでいる親を
みると、私はこう言うことにしている。「今まで子育てをしながら、じゅうぶん人生を楽しんだでは
ないですか。それ以上、何を望むのですか」と。

 子育てもいつか、子どもの巣立ちで終わる。しかしその巣立ちは必ずしも、美しいものばかり
ではない。憎しみあい、ののしりあいながら別れていく親子は、いくらでもいる。しかしそれでも
巣立ちは巣立ち。親は子どもの踏み台になりながらも、じっとそれに耐えるしかない。

親がせいぜいできることといえば、いつか帰ってくるかもしれない子どものために、いつもドア
をあけ、部屋を掃除しておくことでしかない。私の恩師の故松下哲子先生*は手記の中にこう
書いている。「子どもはいつか古里に帰ってくる。そのときは、親はもうこの世にいないかもしれ
ない。が、それでも子どもは古里に帰ってくる。決して帰り道を閉ざしてはいけない」と。

 今、本当に子育てそのものが混迷している。イギリスの哲学者でもあり、ノーベル文学賞受
賞者でもあるバートランド・ラッセル(一八七二〜一九七〇)は、こう書き残している。

「子どもたちに尊敬されると同時に、子どもたちを尊敬し、必要なだけの訓練は施すけれど、決
して程度をこえないことを知っている、そんな両親たちのみが、家族の真の喜びを与えられる」
と。

こういう家庭づくりに成功している親子は、この日本に、今、いったいどれほどいるだろうか。
(*浜松市青葉幼稚園元園長)
(はやし浩司 不登校 不登校児 許して忘れる)
(040921)

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

最前線の子育て論byはやし浩司(320)

【近況・あれこれ】

●ビデオ

 最近『シービスケット』(競馬の物語)と、『コールドマウンテイン』(南北戦争時の悲恋)
の、2作を、ビデオで見た。共に★4つ。よかった!


●小さな旅

 おとといは、ワイフと、フラリ旅。駅で、目的地を決めるという旅にでかけた。最初は、富士宮
市まで行って、焼きそばを食べようという話だったが、旅費が結構かかるとわかって、急きょ、
豊橋へ。その豊橋から、豊川へ。

 ひどい雨が降っていたが、ものともせず!

 豊川と言えば、豊川稲荷神社。神社というか、寺。JRの豊川駅から、徒歩で、5分程度。巨
大な神社だった。帰りに、宝物館を見て、門前町で食事。みやげに、稲荷寿司と、きしめん
(生)を買った。

 浜松駅からJRで豊橋まで、35分。豊橋から豊川まで、15分。

門前町がにぎわっているので、みやげを買ったり、食事をするだけでも、楽しいのでは……?
 境内、向って右奥にある、「奥の院」が、おもしろい。見落とさないで、回るとよい。キツネの置
物が、無数に並べてある。

 宝物館の入館料は、おとな一人、400円。当日とった写真の一部は、ホームページ、「スライ
ドショー」に収録。興味のある人は、見てほしい。


●カメラ

 C社の小型デジタルカメラ。かなり性能がよいようだ。気にいった。小さいので、いつも首にか
けていられる。好きなときに、写真をとれる。

 今まではデジタルカメラを使っていた。しかし画質が、どうも暗い。悪い。

 電子マガジンのほうで、どんどんと紹介していく。乞う、ご期待!


●新カルト

 昼のワイドショーを見ていたら、カルト(?)と思われる、ある団体を紹介していた。

 「カルトでは?」と思ったのは、私だけだが、いや、ワイフも、「カルトぽいわね」と言ったが、ど
うして、こうまでつぎからつぎへと、あやしげな集団が生まれるのか?

 武道と書道を主体にした団体だが、さかんに「宇宙の大真理」という言葉を口にしていた。

 カルトの特徴の一つは、権威づけ。釈迦やキリスト、さらには宇宙と、直接関係あるような教
え方をする。あとは信者を洗脳するための、お決まりの瞑想(めいそう)、修行……などなど。

 もっと、みんな、自分で考えようよ。考えて、自分で判断しようよ。


●思考

 その「考えること」で思い出したが、考えることには、ある種の苦痛がともなう。そのことは、子
どもたちを教えていると、わかる。

 「自分で考えてみてごらん」と促すと、ポロポロと涙をこぼす子どもがいる。拒否反応かとも思
うのだが、雰囲気的にも、どうもそれとはちがうようだ。

 考えることが、苦痛なのである。

 考えることが好きな子どもがいる一方で、考えることが嫌いな子どももいる。どこでどう、また
どうして、そのように分かれるのか。一度、あとで考えてみたい。(原稿は、電子マガジンのほう
で……。)

 たしかに考えることには、ある種の苦痛がともなう。それはたとえて言うなら、寒い朝に、ジョ
ギングにでかけるような苦痛だ。しかしなぜ、私たちは、それでもジョギングに行くのか?

 走っているときの、爽快感(そうかいかん)が、たまらないからである。そのあとの爽快感が、
たまらないからである。

 どうやって子どもに、その爽快感を覚えさせるか。これは教育の一つの、テーマにもなる大き
な問題。

新しいテーマ、ゲット! これについても、あとで考えてみたい。(この原稿も、電子マガジンの
ほうで……。)


●カルト(2)

 カルトと戦うためには、自分の中の常識をみがく。

 ごくふつうの人間として、ふつうの生活をしながら、常識をみがく。ふつうの仕事をして、ふつう
の人と会って、ふつうの食事をして、音楽を聞いて、趣味を楽しんで……。

 修行をしなければ、真理に達することができないとか、そんなことを主張する団体は、まずカ
ルトと疑ってみてよい。彼らがいうような真理が、そうも、あちこちにころがっているはずがな
い。

 真理が真理あるためには、普遍性と、時代超越性が必要である。普遍性というのは、だれが
どう見ても、「そうだ」と納得できる部分をいう。「時代超越性」というのは、時代を超えた、超越
性をいう。100年とか500年とか。1000年でもよい。そういう時代を乗りこえてはじめて、真
理は真理として認定される。

 この狭い、極東の島国、日本に、何10万団体もの宗教法人があり、今の今も、「我こそ
は!」というような宗教団体が、つぎからつぎへと名乗りをあげている。それぞれの人は、真剣
なのだろうが、そういうふうに生まれること自体、異常なのである。

 で、こんな話がインドには伝わっている。釈迦が話した、説話という説もある。

 あるバラモンの修行僧が、100年かけてやっと、徒歩で川を渡れるようになった。その修行
僧は、大願達成を、喜んだ。

 そしてある日、得意げに徒歩で川を渡っていると、そこへ舟をこいで一人の男がやってきた。
そしてそのバラモンの修行僧を見て、こう言った。

 「そんなに川を渡りたければ、舟に乗ればいい。そんなことのために、お前は、100年も時間
をムダにしたのか! バカヤロー」と。

 私たちも、ふと油断をすると、そのバカなことを平気で繰りかえしてしまう。気がつかないま
ま、繰りかえしてしまう。そして結果的に、時間をムダにしてしまう。みなさんも、くれぐれも、ご
注意!


●プロ野球のスト

 プロ野球の選手たちが、ストライキを決行した。それはそれだが、テレビで意見を述べるファ
ンたちを見ていて、一つ、気づいたことがある。

 世の中には、いろいろな依存症がある。ひどくなると、うつ病に似た症状を示すこともあると
いう。「依存うつ」という病気である。

 よく知られた例に、パチンコ依存症とかアルコール依存症というのがある。携帯電話依存症
というのも、最近、生まれた。

 で、ファンの人たちの言っていることを聞いていると、「?」と思った。どこか病的な感じがした
からだ。ファンの人たちは、テレビのインタビューに答えて、こう言った。「プロ野球の試合を見
ないと、落ちつきません」「イライラします」「ストになってはじめて、野球というものが、どういうも
のかわかりました。私にとっては、野球は命です」と。

 「ファン」と言えば、まだ聞こえはよいが、その実態は、野球ゲーム依存症ではないのか。

 こんなことを書くと、ファンの人たちの、袋叩きにあうかもしれない。が、インタビューを聞いて
いるとき、そんな感じがした。

しかし、だ。たかが、ボールの試合。もともと生きる、死ぬのという次元の話ではない。あくまで
もゲームである。興行である。心のどこかで、そういう一線を引かないと、その依存症になって
しまう。

 言うまでもなく、何かの依存症になると、本当の自分がどこにいるか、わからなくなってしま
う。自分が自分でなくなってしまう。ノーブレインな状態になりながら、それすら、わからなくなっ
てしまう。それがこわい。

【補記】

 プロ野球は、興行である。わかりやすく言えば、金もうけのための「見世物」である。スポーツ
はスポーツだが、見世物になったスポーツである。もし勝敗を決めるだけなら、高校野球のよう
に、一回だけのトーナメント制で、じゅうぶんである。

 だからプロ野球が、つまらないと言っているのではない。余興は、余興。娯楽は、娯楽。本で
いえば、まわりの余白。それがあるから、文章も読みやすくなる。

 しかしそれでは、お金にならない。そこで何とか、ファンの関心をひきながら、それを金もうけ
につなげなければならない。そこで今に見る、勝率によるリーグ戦となった。最後は、セパ優勝
者との対戦による、優勝戦となった。

 つまり、ファンは、興行主(球団)の策略に、うまくあやつられているだけ。

 だからプロ野球を楽しむのは、その人の勝手だが、どこかで一線を引かないと、結局は、い
いように、あやつられてしまう。あやつられながら、あやつられていることすら、わからなくなって
しまう。

 それはちょうど、カルト教団の信者に似ている。教団幹部たちにいいようにあやつられなが
ら、あやつられているという意識すら、ない。正義だ、善だ、絶対的な真理だとおだてられて、ま
さに人間ロボットとなって、利用されてしまう。

 私も、イチロー選手やマツイ選手の活躍が、気になる。日本のプロ野球にしても、私は、一
応、子どものころから、読売ジャイアンツと、中日ドラゴンズのファンである。(両方とも好きだ
が、どちらかと言えば、ジャイアンツ。地元の岐阜県では、少数派だったが……。)

 しかし熱中するのは、その試合のときだけ。だから反対に、狂ったように熱狂するファンを見
たりすると、「どうしてああまで夢中になれるのか?」と、かえってそちらのほうを、不思議に思
ってしまう。

 何か、あるのだろうか? それとも何もないのだろうか?

 もう少しじっくりと、野球ファンの様子を、観察してみることにする。


●640人!

 HIVに新しく感染した人の数が、昨年(03年)、640人に達したという(厚生労働省エイズ動
向委員会)。新しい発症者、つまり新しくエイズ患者になった人は、336人(同)。

 640人というのは、総感染者数ではない。「03年度に、新しく感染した人」という意味である。
過去の累計数でもない。

 そこでもう一度、おさらいをしておこう。

HIV……ヒト免疫不全ウィルスのこと。エイズ発症の原因となる、ウィルスをいう。HIVに感染し
たからといって、すぐ発症するわけではない。

エイズ……後天性免疫不全症候群のこと。HIVに感染し、免疫力が低下することによって、発
症する病気の総称。

 このエイズのこわいのは、その人自身が、被害者であると同時に、加害者であるということ。
HIVに感染して数週間後から、平均して10年間近く、他人にウィルスをまき散らすということ。

 自分も知らないうちに、ウィルスを撒き散らすということになる。

 こうして人から人へと、爆発的に感染していく。そんなわけで、「たった640人か」などとは、思
っていけない。こんな数字は、まさに氷山の一角。今後、HIV感染者は、この日本でも、二次曲
線的にふえると予想されている。

 感染源のほとんどは、性行為。血液感染(麻薬や覚せい剤などの回し打ち)もあるというが、
それは特別な世界での話。そこでコンドームの着用が、何よりも大切ということになる。

 もうここまで性が解放されてしまった以上、今さら、性の道徳など説いても意味はない。へた
に純潔論を口にすると、冗談と思われてしまう。そこで性欲も、食欲と同じように、同じレベル
で、考える。またそのレベルまで割り切らないと、子どもたちの指導そのものができない。

 30年前には、(30年前だぞ!)、スウェーデンには、セックスの実技を講座にしている大学
があった。その場で教官が、一組の男女を選んで、マットの上で、セックスをさせていた。そし
てそれを見ながら、教官がああでもない、こうでもないと指導をする。学生たちは、それに対し
て、これまたああでもない、こうでもないと意見を述べる。

 今でも信じがたい話だが、30年前には、もっと信じがたかった。で、その話をした、E・ベッテ
ルグレン女史(スウェーデン性教育協会会長)に、「本当に、そんな講義があるのですか?」と
聞くと、「どうしてあってはだめなのか?」と、逆に質問されてしまった。

 日本も、やがてすぐ、そういう時代になる。私も、56年間、この日本に生きてみたが、結論
は、「しょせん、性(セックス)なんて、無」である。昔、今東光という作家がいたが、その今東光
の病室を見舞ったとき、今東光が、私に、そう話してくれた。

 その無のために、命を落すのは、バカげている。ちなみに、今、小学校でも、性教育が、なさ
れている。ズバリ、解剖図などを使って、性行為そのものを教えているところもある。賛否両論
もあるだろうが、ここはこうした性教育を支持するしかない。

【補足】

 エイズが発症するまでの潜伏期間を、平均10年とすると、03年度に発症した336人は、10
年前に感染した人ということになる。

 この336人が、この10年間、セックスレスでおとなしくしていたとは、とても考えられない。ま
た新しい感染者といっても、全員を検査したわけではない。私がここで「氷山の一角」と書いた
のには、そういう理由がある。

 このままでは、20年を待たずして、(つまりみなさんの子どもがおとなになるころには)、感染
者数が、若者を中心に、1万人とか、2万人になることが考えられる。そういう近未来を想定し
ながら、「今」を考えたほうがよい。


+++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司※

●ケータイHP

 F社から、無料「ケータイHP」の、勧誘があった。さっそく、チャレンジしてみる。

 で、簡単にできた。携帯電話で見られる、私のHPである。

 携帯電話をもっている人は、一度、つぎのアドレスに、携帯電話からアクセスしてみてほし
い。(パソコンからもできますので、パソコンからも、アクセスしてみてください。)

 http://k.fc2.com/cgi-bin/hp.cgi/bwhayashi/

 で、さっそく、自分でも、自分の携帯電話からアクセスしてみる。ついでに、D社(携帯電話会
社の支店)に立ち寄って、料金がいくらくらいかかるかを、聞いてみる。

 「250文字程度でしたら、0・3円くらい」とのこと。いいかげんな数字で、申しわけないが、要
するに、パラパラとあちこちを見ると、10円程度は、かかるということ。(もちろん私のところ
に、お金が入るわけではない。通話料金として、お金がかかるということ。)

 が、1ページ、250文字までと決まっている。長々とした原稿を載せるわけにはいかない。内
容は、簡単、明瞭に。

 しかし楽しかった。うまく利用すれば、もっと有益なことにも、使えるのでは……。今は、思い
浮かばないが……。

 F社の「ケータイHP」は、無料だが、3か月以上ほったらかしにしておくと、抹消されてしまうと
いう。だから3か月以内に、更新を重ねなければならない。がんばろう!


************************

【お知らせ】

今度、携帯電話からも、携帯電話用ホームページを
利用していただけるようにしました。
ぜひ、ご活用ください。
アドレスは、つぎのようです。

http://k.fc2.com/cgi-bin/hp.cgi/bwhayashi/

************************

●父親(母親)の悪口は、言わない

心理学の世界にも、「三角関係」という言葉がある。父親が母親の悪口を言ったり、批判したり
すると、夫婦の間に、キレツが入る。そして父親と母親、母親と子ども、子どもと父親の間に、
三角関係ができる。子どもが幼いうちはまだしも、一度、この三角関係ができると、子どもは、
親の指示に従わなくなる。つまりこの時点で、家庭教育は、崩壊する。


●逃げ場を大切に

どんな動物にも、最後の逃げ場というのがある。子どもも、またしかり。子どもは、その逃げ場
に逃げ込むことによって、身の安全をはかり、心をいやす。たいていは自分の部屋ということに
なる。その逃げ場を荒らすようになると、子どもの心は、一挙に不安定になる。だから子どもが
逃げ場に逃げたら、その逃げ場を荒らすようなことはしてはいけない。


●心は、ぬいぐるみで……

年長児にぬいぐるみを見せると、「かわいい」と言って、やさしそうな表情を見せる子どもが、約
80%。しかし残りの20%は、ほとんど、反応を示さない。示さないばかりか、中には、キックし
てくる子どもがいる。小学校の高学年児でも、日常的にぬいぐるみをもっている子どもは、約8
0%。男女の区別はない。子どもの中に、親像が育っているかどうかは、ぬいぐるみを抱かせ
てみるとわかる。


●国語教育は、言葉から

子どもの国語力は、母親の会話能力によって決まる。たとえば幼稚園バスがやってきたとき、
「ほらほら、バス。ハンカチは? 帽子は? 急いで」というような言い方を、母親がしていて、ど
うして子どもの中に、国語力が育つというのか。そういうときは、めんどうでも、「バスがきます。
あなたは急いで、外に行きます。ハンカチをもっていますか。帽子をかぶっていますか」と話
す。そういう母親の会話力が、子どもの国語力の基本になる。


●計算力は、早数えで……

「ヒトツ、フタツ、ミッツ……」と数えられるようになったら、早数えの練習をする。「イチ、ニ、サン
……」から、さらに、「イ、ニ、サ、シ、ゴ、ロ、シ、ハ、ク、ジュウ」と。さらに手をパンパンとたた
いてみせ、それを数えさせる。なれてくると、子どもは、数を信号化する。たとえば「2足す3」
も、「ピ、ピ、と、ピ、ピ、ピで、5」と。これを数の信号化という。この力が、計算力の基礎とな
る。


●子どもは使う

使えば、使うほど、子どもは、いい子になる。生活力も身につくが、忍耐力も、そこから生まれ
る。その忍耐力というのは、(いやなことをする能力)のことをいう。ためしに、あなたの子ども
に、台所のシンクにたまった生ゴミを始末させてみてほしい。「ハ〜イ」と言って、喜んで片づけ
るようなら、あなたの子どもは、その忍耐力のある子どもということになる。このタイプの子ども
は、学習面でも伸びる。


●やさしさは苦労から

ためしにあなたの子どもの前で、重い荷物をもって、苦しそうな表情をして歩いてみてほしい。
そのとき、「ママ(パパ)、助けてあげる!」と言って走り寄ってくればよし。そうでなく、テレビや
ゲームに夢中になっているようなら、かなりのドラ息子(娘)とみてよい。今は、(かわいい子)か
もしれないが、やがて手に負えなくなる。子どもは(おとなも)、自分で苦労をしてみてはじめて、
他人の苦労がわかるようになる。やさしさも、そこから生まれる。


●釣りザオを買ってやるより……

イギリスの教育格言に、「釣りザオを買ってやるより、いっしょに、釣りに行け」というのがある。
子どもの心をつかみたかったら、そして親子のキズナを太くしたかったら、いっしょに釣りに行
け、と。多くの人は、子どものほしがるものを与えて、それで子どもは喜んでいるはず。感謝し
ているはず。親子のキズナも、それで太くなったはずと考える。しかしこれは幻想。むしろ逆効
果。


●100倍論

子ども、とくに幼児に買い与えるものは、100倍して考える。たとえば100円のものでも、100
倍して、1万円と考える。安易に、お金で、子どもの欲望を満足させてはいけない。一度、お金
で、満足させることを覚えてしまうと、年齢とともに、その額は、10倍、100倍とエスカレートし
ていく。高校生や大学生になるころには、1000円や1万円では、満足しなくなる。子どもが幼
児のときから、慎重に!


●子どもは、信じて伸ばす

心理学の世界にも、「好意の返報性」という言葉がある。イギリスの格言にも、「相手は、あな
たが相手を思うように、あなたのことを思う」というのがある。あなたがその人を、いい人だと思
っていると、その相手も、あなたをいい人だと思っている。しかしそうでなければそうでない。子
どものばあいは、さらにそれがはっきりと現れる。だから子どもを伸ばしたいと思うなら、まず
自分の子どもをいい子どもだと思うこと。子どもを伸ばす、大鉄則である。


●強化の原理

前向きに伸びているという実感が、子どもを伸ばす。そのため、「あなたはどんどんよくなる」
「すばらしくなる」という暗示を、そのつど、子どもにかけていく。まずいのは、未来に不安をいだ
かせること。仮に子どもを叱っても、そのあと何らかの方法でそれをカバーして、「ほら、やっぱ
り、できるじゃない」と、ほめて仕上げる。


●叱るときの原則

子どもを叱るときは、自分の姿勢を低く落とし、子どもの目線の高さに自分の目目線の高さを
あわせる。つぎに子どもの両肩を、やや力を入れて両手でつかみ、子どもの目をしっかりと見
つめて叱る。大声を出して、威圧したり、怒鳴ってはいけない。恐怖心をもたせても意味はな
い。中に叱られじょうずな子どもがいて、いかにも反省していますというような様子を見せる子
どもがいる。しかしそういう姿に、だまされてはいけない。


●仮面に注意

絶対的なさらけ出しと、絶対的な受け入れ。この基盤の上に、親子の信頼関係が築かれる。
「絶対的」というのは、「疑いすらもたない」という意味。あなたの子どもが、あなたの前で、そう
であればよし。しかしあなたの前で、いい子ぶったり、仮面をかぶったりしているようであれば、
親子の関係は、かなり危機的な状況にあると考えてよい。あなたから見て、「何を考えているか
わからない」というのであれば、さらに要注意。


●根性・がんこ・わがまま

子どもの根性、がんこ、わがままは、分けて考える。がんばって何か一つのことをやりとげると
いうのは、根性。何かのことにこだわりをもち、それに固執することを、がんこ。理由もなく、自
分の望むように相手を誘導しようとするのが、わがままということになる。その根性は、励まし
て伸ばす。がんこについては、子どもの世界では望ましいことではないので、その理由と原因
をさぐる。わがままについては、一般的には、無視して対処する。


●アルバムを大切に

おとなは過去をなつかしんで、アルバムを見る。しかし子どもは、自分の未来を見るために、ア
ルバムを見る。が、それだけではない。アルバムには、心をいやす作用がある。それもそのは
ず。悲しいときやつらいときを、写真にとって残す人は、少ない。つまりアルバムには、楽しい
思い出がぎっしり。そんなわけで、親子の絆(きずな)を太くするためにも、アルバムを、部屋の
中央に置いてみるとよい。


●名前を大切に

子どもの名前は大切にする。「あなたの名前は、すばらしい」「いい名前だ」とことあるごとに言
う。子どもは、自分の名前を大切にすることをとおして、自尊心を学ぶ。そしてその自尊心が、
何かのことでつまずいたようなとき、子どもの進路を、自動修正する。たとえば子どもの名前
が、新聞や雑誌に載ったようなときは、それを切り抜いて、高いところに張ったりする。そういう
親の姿勢を見て、子どもは、名前のもつ意味を知る。


●子どもの体で考える

体重10キロの子どもに缶ジュースを一本与えるということは、体重50キロのおとなが、5本、
飲む量に等しい。そんな量を子どもに与えておきながら、「どうしてうちの子は、小食なのかし
ら」は、ない。子どもに与える量は、子どもの体で考える。


●CA、MGの多い食生活を!

イギリスでは、「カルシウムは、紳士をつくる」と言う。静かで落ちついた子どもにしたかったら、
CA(カルシウム)、MG(マグネシウム)の多い食生活、つまり海産物を中心とした献立にする。
こわいのは、ジャンクフード。さらにリン酸添加物の多い、食べもの。いわゆるレトルト食品、イ
ンスタント食品類である。リン酸は、CAの大敵。CAと化合して、リン酸カルシウムとして、CA
は、対外へ排出されてしまう。


●親の仕事はすばらしいと言う

親が生き生きと仕事をしている姿ほど、子どもに安心感を与えるものは、ない。が、それだけで
はない。中に、自分の子どもに、親の仕事を引き継がせたいと考えている人もいるはず。そう
いうときは、常日ごろから、「仕事は楽しい」「おもしろい」を口ぐせにする。あるいは「私の仕事
はすばらしい」「お父さんの仕事は、すばらしい」を口ぐせにする。まちがっても、暗い印象をも
たせてはいけない。


●はだし教育を大切に

将来、運動能力のある子どもにしたかったら、子どもは、はだしにして育てる。子どもは、足の
裏からの刺激を受けて、敏捷性(びんしょうせい)のある子どもになる。この敏捷性は、あらゆ
る運動能力の基本となる。分厚い靴下と、分厚い底の靴をはかせて、どうしてそれで敏捷性の
ある子どもになるのか。今、坂や階段を、リズミカルにのぼりおりできない子どもがふえてい
る。川原の石の上に立つと、「こわい」と言って動けなくなる子どもも多い。どうか、ご注意!


●自己中心性は、精神的未熟さの証拠

相手の心の中に、一度入って、相手の立場で考える。これを心理学の世界でも、「共鳴性」(サ
ロヴェイ「EQ論」)という。それができる人を、人格の完成度の高い人という。そうでない人を、
低い人という。学歴や地位とは、関係ない。ないばかりか、かえってそういう人ほど、人格の完
成度が低いことが多い。そのためにも、まず親のあなたが、自分の自己中心性と戦い、子ども
に、その見本を見せるようにする。


●役割形成を大切に

子どもが「お花屋さんになりたい」と言ったら、すかさず、「すてきね」と言ってあげる。「いっしょ
に、お花を育ててみましょうね」「今度、図書館で、お花なの図鑑をみましょうね」と言ってあげ
る。こうすることで、子どもは、自分の身のまわりに、自分らしさをつくっていく。これを「個性化」
という。この個性化が、やがて、子どもの役割となり、夢、希望、そして生きる目的へとつながっ
ていく。


●暖かい無視

自然動物保護団体の人たちが使う言葉に、『暖かい無視』という言葉がある。親の過干渉、過
関心、過保護、でき愛ほど、子どもに悪影響を与えるものは、ない。もしそういう傾向を感じた
ら、暖かい無視にこころがける。が、無視、冷淡、拒否がよいわけではない。同時に『ほどよい
親』にこころがける。「求めてきたときが、与えどき」と覚えておくとよい。とくに子どもがスキンシ
ップを求めてきたときは、こまめにそれに応じてあげる。


●父親の二大役割

母子関係は重要であり、絶対的なものである。しかしその母子関係が濃密過ぎるのも、また子
どもが大きくなったとき、そのままの状態でも、よくない。その母子関係に、くさびを打ち込み、
是正していくのが、父親の役割ということになる。ほかに、社会性を教えるのも、重要な役割。
昔で言えば、子どもを外の世界に連れ出し、狩の仕方を教えるのが、父親の役割ということに
なる。


●欠点は、ほめる

子どもに何か、欠点を見つけたら、ほめる。たとえば参観授業で、ほとんど手をあげなかったと
しても、「手をもっと、あげなさい」ではなく、「この前より、手がよくあがるようになったわね」と言
うなど。子どもが皆の前で発表したようなときも、そうだ。「大きな声で言えるようになったわね」
と。押してだめなら、思い切って引いてみる。子どもを伸ばすときに、よく使う手である。


●負けるが、勝ち

ほかの世界でのことは、別として、間に子どもをはさんでいるときは、『負けるが勝ち』。これは
父母どうしのつきあい、先生とのつきあいの、大鉄則である。悔しいこともあるだろう。言いた
いこともあるだろう。しかしそこはぐっとがまんして、「負ける」。大切なことは、子どもが、楽し
く、園や学校へ行けること。あなたのほうから負けを認めれば、そのときから人間関係は、スム
ーズに流れる。あなたががんばればがんばるほど、事態はこじれる。


●ベッドタイム・ゲームを大切に

子どもは(おとなも)、寝る前には、ある決まった行動を繰りかえすことが知られている。これを
ベッドタイム・ゲームという、日本語では、就眠儀式という。このしつけに失敗すると、子どもは
眠ることに恐怖心をいだいたり、さらにそれが悪化すると、情緒が不安定になったりする。いき
なりふとんの中に子どもを押しこみ、電気を消すような乱暴なことをしてはいけない。子どもの
側からみて、やすらかな眠りをもてるようにする。


●エビでタイを釣る

「名前を書いてごらん」と声をかけると、体をこわばらせる子どもが、多い。年長児でも、10人
のうち、3、4人はいるのでは。中には、涙ぐんでしまう子どももいる。文字に対して恐怖心をも
っているからである。原因は、親の神経質で、強圧的な指導。この時期、一度、文字嫌いにし
てしまうと、あとがない。この時期は、子どもがどんな文字を書いても、それをほめる。読んであ
げる。そういう努力が、子どもを文字好きにする。まさに『エビでタイを釣る』の要領である。


●子どもは、人の父

空に虹を見るとき、私の心ははずむ。
私が子どものころも、そうだった。
人となった今も、そうだ。
願わくは、私は歳をとっても、
そうでありたい。
子どもは、人の父。
自然の恵みを受けて、
それぞれの日々が、そうであることを、
私は願う。

(ワーズワース・イギリスの詩人)


●冷蔵庫をカラにする

子どもの小食で悩んだら、冷蔵庫をカラにする。ついでに食べ物の入った棚をカラにする。そ
のとき、食べ物を、袋か何かに入れて、思い切って捨てるのがコツ。「もったいない」と思った
ら、なおさら、そうする。「もったいない」という思いが、つぎからの買い物グセをなおす。子ども
の小食で悩んでいる家庭ほど、家の中に食べ物がゴロゴロしているもの。そういう買い物グセ
が、習慣になっている。それを改める。


●正しい発音で……

世界広しといえども、幼児期に、子どもに発音教育をしないのは、恐らく日本くらいなものでは
ないか。日本人だから、ほうっておいても、日本語を話せるようになると考えるのは、甘い。子
どもには、正しい発音で、息をふきかけながら話すとよい。なお文字学習に先立って、音の分
離を教えておくとよい。たとえば、「昨日」は、「き・の・う」と。そのとき、手をパンパンと叩きなが
ら、一音ずつ、子どもの前で、分離してやるとよい。


●よい先生は、1、2歳、年上の子ども

子どもにとって、最高の先生は、1、2歳年上で、めんどうみがよく、やさしい子ども。そういう子
どもが、身近にいたら、無理をしてでも、そういう子どもと遊んでもらえるようにするとよい。「無
理をして」というのは、親どうしが友だちになるつもりで、という意味。あなたの子どもは、その
子どもの影響を受けて、すばらしく伸びる。


●ぬり絵のすすめ

手の運筆能力は、丸を描かせてみるとわかる。運筆能力のある子どもは、スムーズで、きれい
な丸を描く。そうでない子どもは、ぎこちない、多角形に近い丸をかく。もしあなたの子どもが、
多角形に近い丸を描くようなら、文字学習の前に、塗り絵をしてくとよい。小さなマスなどを、縦
線、横線、曲線などをまぜて、たくみに塗れるようになればよし。


●ガムをかませる

もう15年ほど前のことだが、アメリカの「サイエンス」と雑誌に、「ガムをかむと、頭がよくなる」
という研究論文が発表された。で、その話を、年中児をもっていた母親に話すと、「では」と言っ
て、自分の子どもにガムをかませるようになった。で、それから4、5年後。その子どもは、本当
に頭がよくなってしまった。それからも、私は、何度も、ガムの効用を確認している。この方法
は、どこかボーッとして、生彩のない子どもに、とくに効果的である。

●マンネリは大敵

変化は、子どもの知的能力を刺激する。その変化を用意するのは、親の役目。たとえばある
母親は、一日とて、同じ弁当をつくらなかった。その子どもは、やがて日本を代表する、教育評
論家になった。こわいのは、マンネリ化した生活。なお一般論として、よく「転勤族の子どもは、
頭がいい」という。それは転勤という変化が、子どもの知能によい刺激になっているからと考え
られる。


●本は抱きながら読む

子どもに本を読んであげるときは、子どもを抱き、暖かい息をふきかけながら、読んであげると
よい。子どもは、そういうぬくもりを通して、本の意味や文字のすばらしさを学ぶ。こうした積み
重ねがあってはじめて、子どもは、本好きになる。なお、「読書」は、あらゆる学習の基本とな
る。アメリカには、「ライブラリー」という時間があって、読書指導を、学校教育の基本にすえて
いる。


●何でも握らせる

子どもには、何でも握らせるとよい。手指の感覚は、そのまま、脳細胞に直結している。その感
触が、さらに子どもの知的能力を発達させる。今、ものを与えても、手に取らない子どもがふえ
ている。(あくまでも、私の印象だが……。)反面、好奇心が旺盛で、頭のよい子どもほど、もの
を手にとって調べる傾向が強い。


●才能は見つけるもの

子どもの才能は、つくるものではなく、見つけるもの。ある女の子は、2歳くらいのときには、風
呂にもぐって遊んでいた。そこで母親が水泳教室に入れてみると、水を得た魚のように泳ぎ出
した。そのあとその女の子は、高校生のときには、総体に出るまでに成長した。また別の男の
子(年長児)は、スイッチに興味をもっていた。そこで父親がパソコンを買ってあげると、小学3
年生のときには、自分でプログラムを組んでゲームをつくるようにまでなった。子どもの才能を
見つけたら、時間とお金を惜しみなく注ぐのがコツ。


●「してくれ」言葉に注意

日本語の特徴かもしれない。しかし日本人は、何かを食べたいときも、「食べたい」とは言わな
い。「おなかが、すいたア。(だから何とかしてくれ)」というような言い方をする。ほかに、「たいく
つウ〜(だから何とかしてくれ)」「つまらないイ〜(だから何とかしてくれ)」など。老人でも、若い
人に向って、「私も歳をとったからねエ〜(だから大切にしてほしい)」というような言い方をす
る。日本人が、依存性の強い民族だと言われる理由の一つは、こんなところにもある。


●人格の完成度は、共鳴性でみる

他人の立場で、その他人の心の中に入って、その人の悲しみや苦しみを共有できる人のこと
を、人格の完成度の高い人という。それを共鳴性という(サロヴェイ・「EQ論」)。その反対側に
いる人を、ジコチューという。つまり自己中心的であればあるほど、その人の人格の完成度
は、低いとみる。ためしにあなたの子どもの前で、重い荷物をもって歩いてみてほしい。そのと
きあなたの子どもが、さっと助けにくればよし。そうでなく、知らぬフリをしているようなら、人格
の完成度は、低いとみる。


●平等は、不平等

下の子が生まれると、そのときまで、100%あった、親の愛情が、半減する。親からみれば、
「平等」ということになるが、上の子からみれば、50%になったことになる。上の子は、欲求不
満から、嫉妬したり、さらには、心をゆがめる。赤ちゃんがえりを起こすこともある。それまでし
なかった、おもらしをしたり、ネチネチ甘えたりするなど。下の子に対して攻撃的になることもあ
る。嫉妬がからんでいるだけに、下の子を殺す寸前までのことをする。平等は、不平等と覚え
ておくとよい。


●イライラゲームは、禁物

ゲームにもいろいろあるが、イライラが蓄積されるようなゲームは、幼児には、避ける。動きが
速いだけの、意味のないゲームも避ける。とくに、夕食後から、就眠するまでの間は、禁物。以
前だが、夜中に飛び起きてまで、ゲームをしていた子ども(小5)がいた。そうなれば、すでに
(ビョーキ)と言ってもよい。子どもには、さまざまな弊害が現れる。「ゲーム機器は、パパのも
の。パパの許可をもらってから遊ぶ」という前提をつくるのもよい。遊ばせるにしても、時間と場
所を、きちんと決める。


●おもちゃは、一つ

あと片づけに悩んでいる親は、多い。そういうときは、『おもちゃは、一つ』と決めておくとよい。
「つぎのおもちゃで遊びたかったら、前のおもちゃを片づける」という習慣を大切にする。子ども
は、つぎのおもちゃで遊びたいがため、前のおもちゃを片づけるようになる。


●何でも半分

子どもに自立を促すコツがこれ。『何でも半分』。たとえば靴下でも、片方だけをはかせて、もう
片方は、子どもにはかせる。あるいは途中まではかせて、あとは、子どもにさせる。これは子ど
もを指導するときにも、応用できる。最後の完成は、子どもにさせ、「じょうずにできるようにな
ったわね」と言って、ほめてしあげる。手のかけすぎは、子どものためにならない。


●核(コア)攻撃はしない

子どもの人格そのものに触れるような、攻撃はしない。たとえば「あなたは、やっぱりダメ人間
よ」「あんたなんか、人間のクズよ」「あんたさえいなければ」と言うなど。こうした(核)攻撃が日
常化すると、子どもの精神の発達に、さまざまな弊害が現われてくる。子どもを責めるとして
も、子ども自身が、自分の力で解決できる範囲にする。子ども自身の力では、どうにもならない
ことで責めてはいけない。それが、ここでいう(核)攻撃ということになる。


●引き金を引かない

仮に心の問題の「根」が、生まれながらにあるとしても、その引き金を引くのは、親ということに
なる。またその「根」というのは、だれにでもある。またそういう前提で、子どもを指導する。たと
えば恐怖症にしても、心身症にしても、そういった状況におかれれば、だれでも、そうなる。たっ
た一度、はげしく母親に叱られたため、その日を境に、一人二役の、ひとり言をいうようになっ
てしまった女の子(2歳児)がいた。乳幼児の子どもほど、穏やかで、心静かな環境を大切にす
る。


●二番底、三番底に注意

子どもに何か問題が起きると、親は、そのときの状態を最悪と思い、子どもをなおそうとする。
しかしその下には、二番底、さらには三番底があることを忘れてはいけない。たとえば門限を
破った子どもを叱ったとする。しかしそのとき叱り方をまちがえると、外泊(二番底)、さらには
家出(三番底)へと進んでいく。さらに四番底もある。こうした問題が起きたら、それ以上、状況
を悪くしないことだけを考えて、半年、1年単位で様子をみる。


●あきらめは、悟りの境地

押してもダメ、引いても、ダメ。そういうときは、思い切ってあきらめる。が、子どもというのは、
不思議なもの。あきらめたとたん、伸び始める。親が、「まだ何とかなる」「こんなはずはない」と
がんばっている間は、伸びない。が、あきらめたとたん、伸び始める。そこは、おおらかで、実
にゆったりとした世界。子育てには、行きづまりは、つきもの。そういうときは、思い切って、あ
きらめる。そのいさぎのよさが、子どもの心に風穴をあける。


●許して、忘れる

英語では、『FOR・GIVE(許す)& FOR・GET(忘れる)』という。この単語をよく見ると、(何か
を与えるために、許し、何かを得るために、忘れる)とも読める。何を、か? 言うまでもなく、
「愛」である。親は子育てをしながら、幾多の山を越え、谷を越える。それはまさしく、「許して忘
れる」の連続。その度量の深さによって、親の愛の深さが決まる。カベにぶつかったら、この言
葉を思い出してみてほしい。あなたも、その先に、一筋の光明を見るはずである。


●自らに由らせる

子育ての要(かなめ)は、「自由」。「自らに由らせる」。だから自由というのは、自分で考えさせ
る。自分で行動させる。そして自分で責任を取らせることを意味する。好き勝手なことを、子ど
もにさせることではない。親の過干渉は、子どもから考える力をうばう。親の過保護は、子ども
から、行動力をうばう。そして親のでき愛は、子どもから責任感をうばう。子育ての目標は、子
どもを自立させること。それを忘れてはいけない。


●旅は、歩く

便利であることが、よいわけではない。便利さに甘えてしまうと、それこそ生活が、地に足がつ
かない状態になる。……というだけではないが、たとえば旅に出たら、歩くように心がけるとよ
い。車の中から、流れるようにして見る景色よりも、一歩、一歩、歩きながら、見る景色のほう
が、印象に強く残る。しかし、これは人生そのものに通ずる、大鉄則でもある。いかにして、そ
のときどきにおいて、地に足をつけて生きるか。そういうことも考えながら、旅に出たら、ゆっく
りと歩いてみるとよい。


●指示は、具体的に

「友だちと仲よくするのですよ」「先生の話をしっかりと聞くのですよ」と子どもに言っても、ほとん
ど、意味がない。具体性がないからである。そういうときは、「これを○君にもっていってあげて
ね。○君、きっと喜ぶわよ」「学校から帰ってきたら、先生がどんな話をしたか、あとでママに話
してね」と言う。子どもに与える指示には、具体性をもたせるとよい。

●休息を求めて、疲れる

イギリスの格言に、『休息を求めて疲れる』というのがある。愚かな生き方の代名詞にもなって
いる格言である。幼稚園教育は小学校へ入学するため。小学校教育は、中学校へ入学する
ため。中学校や高校教育は、大学へ入学するため……、というのが、その愚かな生き方にな
る。やっと楽になったと思ったら、人生が終わっていたということにもなりかねない。


●子どもの横を歩く

親には、三つの役目がある。ガイドとして、子どもの前を歩く。保護者として、子どものうしろを
歩く。そして友として、子どもの横を歩く。日本人は、概して言えば、ガイドと保護者は得意。し
かし友として、子どもの横を歩くのが苦手。もしあなたがいつも、子どもの手を引きながら、「早
く」「早く」と言っているようなら、一度、子どもの歩調に合わせて、ゆっくりと歩いてみるとよい。
それまで見えなかった、子どもの心が、あなたにも、見えてくるはず。


++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

最前線の子育て論byはやし浩司(321)

【最近の話題より……】

●理想の女性?

 「Y」という、雑誌を購入。私たちの年代層をねらった雑誌。それを読みながら、ワイフが、こう
言った。

「男って、死ぬまで、理想の女性を追い求めるって、ホント?」と。

 雑誌を横取りしてみると、それには、こうあった。ある舞台監督と女優との対談だった。

K(監督)「男っていうのはね、死ぬまで、理想のマドンナ(聖母)を、追い求めるものなんですよ
ね。女性には、それがありませんか?」
S(女優)「女性には、ないと思います」と。

 私は、それを読んで、すかさずワイフにこう言った。

「理想の女性を追い求めるという姿勢は、マザコンの特徴の一つだよ」と。

 つまりマザコン性の強い男性ほど、頭の中で、理想の女性を夢想する。つまり究極まで自分
を愛してくれる女性を、だ。わかりやすく言えば、自分の母親の代用してくれる女性を追い求め
る。

 言うまでもなく、このタイプの男性は、無意識のうちにも、「母親」から、自分を切り離すことが
できない。

 だから一般論として、つまり心理学の常識として、マザコン性の強い男性ほど、現実の女性
を愛することができない。そのため、浮気率が高くなる。女性から女性へと、渡り歩く傾向が強
くなる。当然のことながら、離婚率も高くなる。

 実際、このタイプの男性と、結婚生活をつづける妻は、たいへん! ……と思う。このことは、
反対の立場で考えてみると、わかる。

 もしあなたの妻が、何かにつけて、あなたに、理想の「男」を、求めたとしたら、あなたはどう
するだろうか。たくましくて、包容力があって、生活力もある。おまけにハンサムで、かっこい
い。どんなことをしても、許してくれる。さいごのさいごまで、あなたのめんどうをみてくれる……
と。

 多分、あなたは、こう言うだろう。「やめてくれ! オレは、ふつうの人間だ!」と。

 対談した女優が、「女性には、ないと思います」と答えたのは、しごく当然のことである。

私「この監督は、自分が、マザコンであることに気づいていないね」
ワイフ「でも、何かと、話題作を発表しているわよ」
私「だから、こういう雑誌で、対談しているんだろ」
ワ「そうね」と

 理想の女性などというのは、いない。いるはずもない。だから追い求めるだけ、ムダ。追い求
められる女性のほうだって、疲れる。その監督は、若くして、母親をなくしている。だからよけい
に、母親の代用をしてくれる女性を、心の中で追い求めているのかもしれない。

私「ある男性はね、会社で昇進したりするとね、奥さんに電話をする前に、実家の母親に電話
をしていたそうだよ」
ワイフ「マザコンね」
私「そうだよ。しかしね、本人は、そうは思っていない。自分は、親思いの、孝行息子と思いこん
でいた」
ワ「奥さんも、たいへんね」

私「そこでこのタイプの男ほど、自分の母親を美化する。『ぼくの母は、ぼくが、そうするにふさ
わしい人だ』とね」
ワ「自分の母親が、理想の女性というわけね」
私「そう。究極の愛で自分を包んでくれる、理想の女性というわけだよ」
ワ「でも、そうして、男は、マザコンになるの?」

私「女性にも、マザコン性の強い人はいるよ。でも、やはり男性に多い。理由は、結論を先に言
えば、父親不在だからだよ」
ワ「父親の存在感がないということ?」
私「そう。子どもは、だれしも、母親との絶対的な関係の中で、生まれ育つ。それが悪いという
のではない。それは人間の成長には、必要不可欠なものだ」
ワ「が、そのままになってしまったというわけ」

私「そうなんだよ。そこで、その絶対的な関係を、是正するのが、父親の役目ということになる。
が、その父親の存在感がない。だから、濃密な母子関係のまま、おとなになってしまう」
ワ「でもね、もし、その父親が、マザコンだったら、どうするの」
私「ハハハ、それは問題だア。どうするんだろ。困った問題だね」と。

 しかし、こうまで堂々と、自分のマザコン性を主張する人がいるとは! もちろん本人は、そ
れに気づいていない。対談の内容は、要するに、その監督は、舞台芸術をとおして、理想の女
性を追い求めているということだそうだが……。

 しかし……?

(マザーコンプレックス)いわゆるマザコン。成人した男性が、母親との間に、依存関係を保ち
続け、そのことに疑問や葛藤を感じていない状態。このような男性は、母親からの過剰な愛情
によって、青年期に達成されるべき、同年代の異性との交友関係をもつために必要な人格の
確立ができなかったと考えられる(深堀元文「心理学のすべて」)。

(教訓)母親は、子育てをする。それは当然だが、子どもがある年齢に達したら、子どものほう
が、親離れするように、仕向けなければならない。あるいは父親が、母子関係に割って入り、
その関係を是正しなければならない。「ある年齢」というのは、多少個人差はあるが、年齢的に
は、満8歳前後をいう。


●貯蓄ゼロ

 2人以上の世帯で、貯蓄ゼロの世帯が、22・1%もあるという(04年・金融広報中央委員会
「家計の金融資産に関する世論調査」)。

 単身世帯にしても、「貯蓄がない世帯」が、35・1%もあるという。

 で、「貯蓄がある」と答えた2人以上の世帯については、平均金融資産は、1242万円(中央
値で、810万円)だそうだ(全国、10080世帯について調査。回収率は、44・8%)。

 わかりやすく言えば、5世帯に1世帯は貯蓄ゼロ。残りの4世帯の人は、平均して800万円
前後の貯蓄をもっている。さらにその中の1、2世帯は、1000万円をはるかに超える貯蓄をも
っているということ。

 「いくら貯蓄があっても、それ以上の借金をかかえている人は、どうするんだろう?」と考える
のは、私だけか。借金がなければ、貯蓄ゼロでも、まだよいほうかもしれない。これについて、
昔、出版社に勤める友人と、こんな会話をしたことがある。

 当時、その友人は、手取り20万円くらいの給料を手にしていた。それについて、私が、「ぼく
ら自由業は、その2倍の40万円くらいはないと、やっていかれない」と。

 理由を聞かれたので、こう答えた「ぼくらには、明日の保証がない。病気か事故で倒れれば、
万事休す。もちろん退職金も、年金もない。そういう不安がある以上、ギリギリの生活をするわ
けにはいかない」と。

 と言っても、そのとき私が、40万円も稼いでいたわけではない。あくまでも努力目標として、
そう言った。

 が、それ以上に深刻な問題は、自由業は、借金ができないということ。信用力、ゼロ。30代
のころは、クレジットカード会社ですら、申しこむと、「残念ながら、審査の結果、今回は……」
と、断ってきた。

パソコン通信(今のインターネットの前身)の決済のためにカードが必要だったので、申しこん
だ。そこで私は、それまでにも、借金をしたことはなかったが、それ以上に、意地になって、借
金をするのをやめた。

 しかし率直に……。何も好き好んで、貯蓄ゼロというわけではないのだろう。「貯金をしたくて
も、できない」というのが、実情かもしれない。が、それにしても、そういう人たちは、いつも、別
の不安と戦わねばならない。言うなれば、毎日が、背水の陣である。

 若いときはそれでもよいが、ある程度、年齢が高くなると、そうはいかない。頼りたくても、頼
れる相手すら、いない。ちょっとしたつまずきが、そのまま命取りになる。

 考えてみれば、何ともさみしい世界。世の中。欧米のように、教会が中心になってする互助会
のようなものもない。人間と人間の関係が、ますます、希薄になっていくのを感ずる。「これでい
いのかなあ?」と思いつつ、世の中だけが、別の方向へと、どんどんと行ってしまう。

 何とも言いようのない無力感。そんな無力感を、その「世論調査」の結果を見ながら、覚え
た。


●問題の大小

 このところ、プロ野球球団の再編問題で、日本中が大騒ぎ! スト決行か、回避で、そのつ
ど、新聞の号外が配られている。

 ファンの人たちも、そのたびに、狂ったように悲しんだり、横混んだり……!

 しかし、こんなことが、本当に、そんな重大な問題なのだろうか。ここ数日のニュースだけを見
ても、「日本中を核兵器で火の海にする」(9月23日、K国・労働党機関紙・「労働新聞」)とか、
「K国、ノドン発射準備か」(読売新聞)とか、ある。

 さらに大きな問題は、地球の温暖化。2050年には、この日本も、東南アジア並みの気候に
なるという。が、そこで温暖化が、止まるわけではない。その先も、どんどんと温暖化は進む。

また地球温暖化は、気温だけの問題ではない。現に今年など、日本も、台風の猛攻撃を受け
ている。しかも、今までとは、台風のコースまで変わってしまった!

 だからこそ、娯楽としてのプロ野球……と考える人もいるかもしれない。事実、マリナーズの
イチロー選手が、ヒットを重ねるたびに、便秘のウxxが、ドドッと、出るような快感を覚える。(私
は便秘症ではないぞ。念のため。)

 私は、こうした錯覚は、人間の脳そのものがもつ、特有の欠陥ではないかと思い始めてい
る。頭の中で、問題の軽重が、正しく認識されない。このことは、子育てで悩んでいる、母親た
ちを見ているとわかる。

 たとえばAさん(母親)は、子どもの小食(好き嫌い)で悩んでいる。Bさんは、子どもの不登校
で悩んでいる。Cさんは、子どもの遺伝子病で悩んでいる。

 問題の大きさからすれば、小食の問題など、不登校の問題とくらべれば、何でもない。さらに
不登校の問題など、遺伝子病の問題とくらべれば、何でもない。

 しかし悩み方に軽重は、ない。Aさんは、Aさんで。Bさんは、Bさんで。そしてCさんは、Cさん
で、それぞれが、同じくらい深刻に悩んでいる。「悩みのレベル」という意味では、みな、同じで
ある。

 つまり、私は、それが「脳そのものがもつ、特有の欠陥ではないか」と。

 実も、私自身も、この問題をかかえている。

 同時に、何かの問題が、二つ、三つと起きたりすると、どれが重大な問題で、どれが軽い問
題なのか、わからなくなってしまう。頭の中がパニック状態になってしまう。

 そしてそういうとき、さらに別の問題が入ってくると、ますますわけがわからなくなってしまう。
小さな問題でも、それだけで頭の中が、いっぱいになってしまう。

 この点、私のワイフなどは、ものごとを客観的に判断する目をもっている。何かのことで相談
をもちかけると、「そんな問題、なんでないから忘れたら」とか言ってくれたりする。あるいは、
「まず、そちらの問題を解決するのが先ね。この問題は、何とかなるわ」とか言ってくれたりす
る。

 ……ということで、今、日本中が、そのパニック状態なのかもしれない。何が重大な問題で、
何がそうでないかが、わからなくなってしまっている(?)。

 たしかにプロ野球球団の再編問題は、大きな問題かもしれない。しかしこうまで、日本中が、
ひっくりかえってまで大騒ぎするほどの問題ではない。

 それがわからなければ、東京に、K国の核ミサイルがぶちこまれたときのことを、想像してみ
ればよい。そのとき、はたして、「東京ドームで、野球が見られない」と嘆く人はいるだろうか。


●ピンボール・ゲーム

 教室では、先週から、ピンポンを始めた。しかしテーブル一つでは、2人〜4人しか、できな
い。そこで今度は、テーブルを少し傾け、その上に、積み木を並べた。

 これでピンボール・ゲームができるようになった。ボールには、ピンポン玉を、そのまま使っ
た。

 が、これが大当たり!

 子どもたちは歓声こそあげないが、夢中になり始めた。その静かな興奮は、そのままこちら
に伝わってくる。

 反応がちがった。「今日は、ここまでにしておこうね」などと私が言うと、「もっとしたい」「もっと
させろ」と言う。中には、帰るとき、「うちでもしよう」と言う子どももいた。

 そこで数日前から、紙でポケットをつくり、そこへ入ったら、アメ一個とか、チョコボール一箱を
渡すようにした。

 要するに、パチンコである。(英語では、「パチンコ」のことを、「ピンボール・ゲーム」という。)

 内心では、「いいのかなあ?」と迷いつつ、子どもたちの熱気に負けてしまった。「パチンコ依
存症の芽をつくっているのではないか?」と。こうした射倖心(しゃこうしん=まぐれ当たりの利
益を求める気持ち)をあおるのは、幼児教育の世界では、できるだけ避けたい。

 あとでそのことが心配だったので、ワイフに相談すると、「子どもは、みんな好きよ」と。「私も
子どものころ、板にクギを打って、自分で作って遊んだわ」と。

 それで納得。私も、実は、好きだった。ある時期は、その遊びに夢中になった。最初にパチン
コがあったのではなく、そういう遊びが、パチンコへと発展した。

 しかし幼児教育のおもしろいところは、こんなところにもある。

 つまり幼児と、我を忘れて遊んでいると、そのまま人間の原点にかえっていくようなおもしろさ
である。そのときも、そうだった。

 「ハイ、はずれ!」などと言うと、さもがっかりして肩をガクリとさせる子どももいれば、「ハイ、
当たり!」などと言うと、飛びあがって喜ぶ子どももいる。そういうすなおな反応を見ているだけ
でも、心が洗われる。

 そうそう、ついでながら、ここに書いたような、つまり「いいのかなあ?」という迷いがなかった
わけではないが、横で見ていた母親たちも、だれかのボールが、ポケットに入ったりするたび
に、パチパチと手をたたいて喜んでいた。それを見たとき、その迷いは、「まあ、いいかな?」と
いう思いに、かわった。

 HTML版のほうでは、その写真を紹介しておきます。

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司


最前線の子育て論byはやし浩司(322)

【近況・あれこれ】

●観光案内

 浜松市に住むようになって、36年になる。で、この36年間、この浜松市で、いろいろな店で、
いろいろなものを食べた。が、私の行動半径というか、行動パターンは、だいたい、いつも決ま
っている。そういう私が、浜松の観光案内(?)をするというのも、少し、どうかと思う。が、一言
……。

 F市のMさんから、「浜松では、何がおいしいか」という質問をもらった。で、一応、考えてみ
た。

 浜松市では、物価は、高い。少し前、九州地方を旅行したが、おおむね、九州地方の、1・5
倍から2倍。同じ静岡県の中でも、ここ浜松市では、何でも、1〜2割は高い。全国規模のチェ
ーン店は別として、だいたい、目安としては、つぎのようなもの。

 ふつうの和風レストランで……
 
 サシミ定食……安いところで、1200円。ふつうは、1400〜1600円
 ザルソバ ……700〜800円前後

 「お薦め」というか、この36年間で、いつも行くレストランが決まってしまった。ときどき浮気を
して、ほかの店にも行くが、長つづきしない。それでまた決まった店にもどる。そういう店を、実
名入りで紹介。

★串とも……市内中心部、肴(さかな)町にある、串かつ屋。ほぼ毎週通うようになって、もう2
0年近くになる。その店ほど、おいしい串かつを食べさせてくれるところを、私は知らない。120
0円の「特選定食」、1000円の「野菜定食」が、気楽で、おすすめ。私は、いつも食べている。

★みやひろ……同じく中心部、有楽街にある、ラーメン屋。安くて、おいしい。あきない。舌がな
れてしまったというか、ほかの店のラーメンが、口に合わなくなってしまった。しかし昔から浜松
に住んでいる人も、「宮ひろのラーメンが、一番おいしい」と言っている。中華ラーメンが、450
円だったかな。その中華ラーメンが、お薦め。

★広島お好み焼き「寅さん」……モール街、マツビシの路地を入ったところ。サーラビルの隣の
二階にある、焼きそば屋。私はいつも、焼きそば入り、お好み焼きを食べている。

★あつみ……その広島焼きの店と、ちょうど道路(モール街)をはさんで、反対側にある。昔か
らある、浜松老舗(しにせ)のうなぎ屋。私個人では、あまり行かないが、遠くから客が来たよう
なときには、この店に連れて行くことにしている。みな、喜んでくれる。

★???(店名不明)……ザザ中央館地下にある、日本ソバ屋。ワイフとぶらっとでかけたよう
なとき、よく立ち寄る。どれもおいしいが、私はいつも、天ざるを食べている。ワイフは、いつも
山菜そば(温)を食べている。この店は、数年前にできたばかり。

★サンマルコ……駅前、遠鉄百貨店地下にある、カレーライス屋。自分でもよくカレーライスを
作るが、サンマルコの味が一つの基準になっている。いつもワイフと、「このカレーライスは、サ
ンマルコみたいだね」とか言って、食べている。この店のおかげで、私は、カレーライスが、好
きになった。

★回転寿司……私は、一滴も、アルコールを飲めない。そういうこともあって、安心して食べら
れる寿司といえば、回転寿司ということになる。(専門店の寿司には、ミリンとか、酒が入ってい
る? 食べると、二日酔いが起きることが多い。)回転寿司には、週1回程度、行っている。ほ
かに、近くにある、五味八珍(店名)、サイゼリヤ、幸楽苑など。

 こうして書いてみたが、自分の行動半径が、意外と狭いのには、驚いた。さらにいつも行って
いるはずなのに、店名をしっかり思い出せないのにも、驚いた。「宮広」だったのか、「宮ひろ」
だったのか、あるいは、「みやひろ」だったのか。どうしても思い出せない。

 この原稿をマガジンに載せるまでには、街を歩いて、もう一度、調べてみるつもり。ほかにも
おいしいところはあるが、先にも書いたように、1、2度は行ってはみるが、どういうわけか、長
つづきしない。どうしてだろう? おもしろい現象だと思う。

【補記】

 よく「老人になると、物忘れがひどくなる」という。しかしこれはどうも、まちがっているようだ。
老人になると、「忘れやすく」のではなく、その前に、「記憶にとどめる力」が弱くなる。その結果
として、物忘れがひどくなるのではないか。

 ものごとは、(記銘)→(保持)→(想起)という、三つのプロセスを経て、記憶に残る。老人に
なると、このうちの、最初の(記銘力)が弱くなる。その結果として、物忘れがひどくなるのでは
ないか。

 昨日も、ワイフとこんな話をした。私が何かにつけて忘れっぽくなったことを、ワイフが指摘し
た。私は、こう言った。

 「いえね、こうまでつぎからつぎへと、いろいろな情報が飛びこんでくると、それを頭の中で整
理するだけで、精一杯。人の名前も、どんどんと忘れていくよ。いや、その前に、記憶にとどめ
ようという気力そのものが弱くなる」と。

 小学校で講演をさせてもらっても、たいていどこでも、5、6人の人と名刺交換をする。校長、
教頭、担当の先生、それにPTAの役員の方など。そのときは、懸命に相手の方の名前を覚え
たつもりなのだが、すぐ忘れてしまう。映像としての顔は、忘れないが、名前は、すぐ忘れてし
まう。

 そう、これは私の脳ミソの特性のようなものかもしれない。映像として頭に入った情報は、か
なりしっかりと記憶に残る。しかし耳から音声で入った情報は、残らない。あるいは、その部分
の脳ミソが、すでに老化しているためかもしれない。

【補記2】

 私にとってレストランというのは、あくまでも、空腹感を満たすだけの場所でしかないようだ。
どこもおいしいと言えばおいしいが、本当のおいしさは、レストランでは、味わえない。

 だれにもじゃまされず、気の許せる人だけと、のんびりと、好きな料理をして、好きなものを食
べる。そういうときは、本当においしいと思う。だから「どこの店がおいしいですか?」と聞かれ
ると、困ってしまう。

 値段が安ければ、それでよいというものでもないし……。値段を考えなければ、料亭や割烹
などがある。しかし私は、めったに、そういうところへは行かない。そういう立場にはないし、そ
ういう交際もしていない。

 やはり山荘で、ぼんやりと、遠くの山々を見ながら、時間を気にせず、ポツリポツリと、何かを
つまみながら食べる料理が、私には、一番、合っている。おいしい。

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【マガジン読者の皆さんから……】

 マガジン読者の方から、いくつかうれしいお便りが届いています。

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毎回とても楽しみに購読させていただいております。
それでは飽き足らず、HPは隅々まで内容をしっかり
と自分なりに受けとめながら、何度も読み、自分にと
って重要だと思う言葉は、専用の手帳に書きとめて、
家事の合間に読み返しています。

私も、小1と年少の男の子の子育て、真っ最中ですが、
日々子供たちにいろんなことを教わり、つまずきなが
らがんばっています。これからも楽しみにしています。
頑張ってください!!(東京都・FWさん)

【FWさんへ】

うれしかったです。
 メールの転載、よろしくご了解ください。
 10月25日号に、載せさせていただきます。
 よろしいでしょうか?

 なぜ、私が、電子マガジンを発行しているかといえば、FWさんのような読者の方がいらっしゃ
るからです。100人に1人かもしれないし、1000人に1人かもしれない。でも、「書いていてよ
かった」と思うのは、FWさんのような方からのメールを読んだときです。これからもよろしくお願
いします。ありがとうございました。

+++++++++++++++++

●英語人

 年長児の子どもに、私のHPを見せると、目ざとく、私の孫(誠司)の写真を見つけて、こう言
った。

子「この子は、だれ?」
私「先生の孫だよ」
子「フ〜ン、英語人みたい」
私「何、その、英語人というのは?」

子「英語を話す人だよ」
私「なるほど。英語を話すから、英語人かア?」
子「そうだよ」と。

 「英語人」という言葉は、はじめて聞いた。その子どもが使い出したのか、それとも、だれかの
マネなのかは知らない。しかしおもしろい言い方だ。

 あとでそのことを、別の母親に話すと、「そうですねえ。ガイジンと言うよりは、親しみがあって
いいかもしれませんね」と言って、ケラケラと笑った。

 
●島田の蓬莱橋(ほうらいばし)

 9月25日、土曜日。どこか蒸し暑さの残る午後、島田(静岡県島田市のこと)にある、蓬莱橋
へ行ってきた。大井川にかかる、世界一、長い木造の橋だそうだ。

 行ってみると、本当に長い! 驚いた! 話には聞いていたが、これほどまでに長いとは思
わなかった!

 全長、約900メートル(897・4メートル)。ゆっくり往復して、1時間ほど。川が美しく、気分
は、最高! (写真などは、HPのほうで、紹介。スライドショーのコーナーで紹介。)

 で、その蓬莱橋。高所恐怖症の私には、結構、恐ろしい橋だった。橋の中央ばかりを、そろ
そろと歩いた。ときどき、橋のハシにそっと立ち、下をのぞく。美しい川。美しい川原。

 その橋ができたのは、1979年、明治12年だそうだ。「江戸時代からあったと思った」と私が
言うと、「江戸時代には、橋をかけるのは禁止されていたのよ」と、ワイフ。そうだった!

 ときどき、「私なら、こんなふうに橋を設計するのに」と考えたりした。しかし当時は、防腐剤も
なかっただろうし……、と思いながら、欄干(らんかん)を見ると、ところどころ木が腐っていた。
そしてその上に、赤い、危険を示すテープが張ってあった。それを見て、私は、さらに、ゾーッ。

 しかし、楽しかった! ホント!

 橋のたもとにある茶屋で、ソバを食べる。そしてそのままその近くにある、Aショッピングセン
ターへ。「歩いて帰る?」とワイフは言ったが、タクシーで、そのまま島田駅まで帰る。

 浜松駅から、電車で45分くらい。料金は、片道820円。島田駅から、タクシーで、5、6分の
距離。お近くの人は、ぜひ、どうぞ!


●体重が、65キロに!

 68・5キロ! そこであわてて、ダイエット。で、今朝は、65キロになっていた。1か月で、約
3・5キロの減量に成功!

 おかげで体が、ウソのように軽くなった。朝起きたときの、あの足の痛みも消えた。気分も、
爽快! よかった!

 ワイフが、こう言った。「あんたの体は、不思議な体ね。食べたら食べた分だけ太り、減らした
ら減らした分だけ、やせるのね」と。

 ついでにこう言った。「あんたが、ダイエットしている間は、私も助かるわ」と。

 ダイエットするときは、私は家では、キャベツしか食べない。あとは、ダイエット食。つまりワイ
フは、料理から解放される。それで「助かるわ」と。

 そのダイエットの話をしながら、「こうしてダイエットできるのも、60歳までだろうね。それ以上
の年齢になると、ダイエットそのものが、むずかしくなる」と。

 つまりダイエットをしようと考えたら、減食だけではいけない。運動もしなければならない。減
食だけでダイエットをしようとすると、体の抵抗力を弱めてしまう。が、60歳をすぎていると、太
っている人には、その運動もままならない。義姉などは、いきなりジョギングをしたため、かえっ
てひざを痛めてしまった。

 だから遅くても、55歳くらいまでには、体をつくっておかねばならない。そのころまでに、適正
体重x0・9くらいの体重にしておく。

 で、私の体重は、BM標準体重計算法によれば、

65÷1・66÷1・66=23・6、ということになる。

この計算式でいくと、私は24ということになり、一応、ギリギリの適正体重ということになる。

が、私の適正体重は、55〜60キロ前後。まだまだ道は、遠い。がんばろう。

++++++++++++++++++++

【適正体重計算……BM標準体重計算法】

   BM=(体重)÷(身長)÷(身長)   

     40以上   ……肥満(4度)
     35〜40  ……肥満(3度)
     30〜35  ……肥満(2度)
     25〜30  ……肥満(1度)
     18・5〜25……正常値
      〜18・5以下……やせ

 (注、身長はメートル単位。私は166センチだから、1・66となる。)

++++++++++++++++++++

 しかし肥満は、健康の大敵。よいことは何もない。……しかし、秋だなあ。何を食べてもおいし
い。今夜も空腹感と戦いながら、床につく。がんばります! がんばりましょう!
(040925)


●「やってあげている」という意識からの解放

 どんな行動にも、得(メリット)と損(デメリット)の二面性がある。得ばかりをすることはない。
損ばかりをするということもない。しかしときに、行動はからまわりをして、自分が損ばかりして
いるように感ずることがある。

 お人よしのアホか、バカか?

 そういうとき、どうやって、そういう自分と戦うか。つまり自分が、そのお人よしなことをしてい
ると感じたとき、そういう自分と、どう戦うか。 

 しかし実際のところ、そういう自分と戦うのは、疲れる。どんな行動にも、損得の、計算勘定
はつきもの。だが、いちいちそんなことを考えて行動するのは、疲れる。とくに、親子、夫婦、家
族の間では、そうだ。

 そこで「無条件」という言葉が生まれる。

 無条件であるからこそ、親子であり、夫婦であり、家族なのだ、と。

 が、これとて、実は、簡単なことではない。今でも、「産んでやった」「育ててやった」「大学まで
出してやった」と、言葉にして言う親がいる。「嫁をもらった」「女房を食わせてやっている」「家
族のめんどうみてやっている」と、言葉にして言う夫がいる。

 これを(やってあげている意識)と私は呼んでいるが、その中身といえば、犠牲心。さらに言え
ば、信頼関係の欠落である。が、本当にかわいそうなのは、その人自身である。家族に対して
ですら心を開けない。その住む世界は、孤独でさみしい。

 Xさん(60歳)という母親を考えてみよう。架空の女性である。

 Xさんは、どこか不本意な結婚をした。親同士が決めた見合いをして、しばらくのちに、結婚
をした。結婚当初から、夫の両親と同居した。

 最初は、それなりにうまくいった。Xさんは、働き者で、よく夫に仕え、夫の両親に仕えた。家
族のために犠牲になることが、よき妻の努め、よき嫁の努めと思っていた。

 が、夫の両親が、時を同じくして、つぎつぎと他界。さらに時を同じくして、夫が勤める会社の
倒産。そのときXさんには、2人の子ども(一男一女)がいたが、ここで大きく、思惑が狂う。財
産家の夫と思って結婚したが、夫の両親が残した財産は、ほとんどなかった。

 本来なら、ここで生活のレベルを、夫の生活力に応じて、落とさなければならなかった。しかし
Xさんは、それをしなかった。しないばかりか、見栄と虚栄を守った。

 たまたま長男のできがよかったこともある。Xさんは、長男の教育に没頭するようになった。も
ともと勝気で、自己中心的な人だった。長男には、過酷ともいえるほどの、勉強を強いた。その
ころになると、子どもたちの学費はもちろんのこと、生活費のほとんどを、実家の両親に頼るよ
うになっていた。

 ここで注意しなければならないのは、Xさんは、本当に子どもの心を考えてそうしていたので
はないということ。長男は、小学5年まで、地元のサッカークラブに属していたが、6年になると
同時に、やめさせられた。進学教室へ入るためである。

 こうした一見、愛に見えるが愛でない愛を、代償的愛という。いわば、愛もどきの愛。もともと
愛というのは、無条件の同一性をいう。しかしXさんが、子どもに注いだ情熱は、自分の心のす
きまを埋めるためのものでしかなかった。

 わかりやすく言うと、自分の不安や心配を解消するための道具として、長男を利用した。

 が、長男は、それによく耐えた。が、長男が、大学へ入るころから、異変が起きた。長男が、
何かにつけて、Xさんから遠ざかろうとした。大学も、地元の大学ではなく、遠く離れたK市にあ
る大学を卒業し、横浜市にある会社に入社した。

 Xさんは、それに猛烈に反対した。……というようなことを繰りかえしたが、結局は、それから
10年後。長男は、母親が住む地元から離れ、横浜で結婚し、そこで生活を始めた。

 それについて、Xさんは、こう言う。

 「親なんて、さみしいもんですわ。息子は、横浜の嫁に取られてしまいました。大学まで出して
やったのに、このザマです。子どもなんて、育てるものじゃ、ないですね」と。

 何でも、その長男が結婚した夜、Xさんは、長男の前では、慈悲深い母親を演じながらも、あ
ちこちに電話をかけ、「悔しい」「悔しい」と、涙声で訴えたという。

 私が知っているいくつかの例を重ねて、Xさんという母親を考えてみた。しかしこういう例は多
い。ほとんどの母親が、多かれ少なかれ、Xさんのようであるかもしれない。子育てはいつも楽
しいばかりとは、かぎらない。苦労も多い。そしてその苦労をした分だけ、親は、心のどこかで
犠牲心を覚える。

 そのときだ。そのとき、親は、自分の中の損得勘定と戦わねばならない。いくら無条件といっ
ても、条件つきの無条件である。

 この私とて、一方で偉そうなことを言いながらも、息子たちに向って、こう言いたくなったこと
も、何度かある。「お前たちは、だれのおかげで、生きていかれるのか、わかっているか!」
と。

 しかしそれを口にしたら、おしまい。親として、おしまい。私のばあいは、そう自分に言い聞か
せながら、口を閉じた。

 しかし、だ。せめて、親子の間、夫婦の間、家族の間くらいでは、無条件で生きてみたいも
の。この世の中、損得勘定が、あまりにも多すぎる。本来なら……というより、人間は、その何
10万年もの歴史の中で、そのほとんどの時間を、無条件で生きてきた。

 今のように、あらゆることに損得勘定がはびこるようになったのは、ここ100年とか、200
年。長くても、1000年ではないのか。そのために、人間は、生きることの代償として、ムダな
努力をしなければならなくなった。

 さてあなたは今、どんな計算をしながら、子育てをしているだろうか。夫婦生活をし、家族を支
えているだろうか。

 さあ、あなたも、勇気を出して、そのアホか、バカになってみよう。勇気を出して、だ。もし今、
あなたが、「やってあげている」意識があるなら、なおさらだ。あなたは、きっとその向こうに、今
まで忘れていた、何かを見出すはず。心が軽くなるはず。

【補足】

 若いころ、少し調べたことがあるが、今のように日本人が、損得勘定をするようになったの
は、江戸時代中期以後ではないかと思っている。このころ、貨幣が一般社会にも流通するよう
になった。

 それまでにも貨幣はあるにはあったが、物々交換が主体。貨幣は、別の目的で使われてい
た。

 私が子どものころとくらべても、今という時代は、変わった。私が子どものころには、まだ盆暮
れ払いというのがあった。「支払いは、盆と年末に」という意味である。

 私の父などは、のんきなもので、客を待たせながら、別の客と平気で、将棋をさしていた。当
時は、そういうのどかな、どこか牧歌的なにおいのする時代だった。

 今では、教育そのものが、自動販売機化している。ファーストフード化している。そしてそうい
う風潮が、容赦なく、家庭にも入りこみつつある。

 それがわからなければ、一度、あなたも、勇気を出して、ここでいうアホか、バカになってみれ
ばよい。反対に、そうでない人たちが、今度は、そのアホかバカに見えてくるはず。


●バラエティ番組

今夜も、テレビでは、バラエティ番組が、花盛り。

 娯楽としての意味はあるのだろうが、それ以上の意味はない。ムダな情報、すぐ忘れてしまう
情報、どうでもよい情報。こうして人々は、古い情報を、どんどんと忘れ、そのかわり、今度は
そこへ、新しい情報を注入する。

 そのサエたるものが、プロ野球であり、相撲。10年前、20年前と同じことを繰りかえしなが
ら、繰りかえしていることにすら気づかない。選手も、そして観客も。

 「だからどうなの?」という部分がないまま、情報を手に入れる。それが悪いというのではな
い。大切なことは、一つの情報を手に入れたら、その情報を、自分の中で消化し、つぎのステ
ージにまで、それを高める。

 その操作をしないと、ここに書いたように、いくら新しい情報を手に入れても、その分だけ、古
い情報を忘れていくだけ。つまりいつまでたっても、その人に、進歩はない。が、それこそ、時
間のムダ。人生のムダ。命のムダ。

 利口になるということと、賢くなるということは、質的に意味がちがう。別。バラエティ番組を見
ていれば、たしかに利口にはなるが、決して賢くはならない。少なくとも、ああした番組で軽妙な
ギャグをとばすお笑いタレント以上には、賢くはならない。

ああした番組をかいま見ながら、私は、ときどき、こう思う。

「最先端の技術と、最新の機器を使いながら、どうしてああまで愚劣な番組しか作れないのだ
ろう」と。あるいは「若者といっても、もう少し、マシな若者がいるだろうに、どうしてああまでサル
のような若者しか、番組に出てこないのだろう」と。

 これが文化というものなのだろうか。それとも、日本人が、今、質的に変化しつつあるのだろ
うか。あるいは、私が、ジジ臭くなりすぎてしまったというのだろうか。

 しかし、だ。私の知っている幼児のほうが、ああしたお笑いタレントより、ずっと賢い。どうして
そういう幼児を、もっと、すなおに育てていかないのか。そういう幼児でも、おとなの世界に触れ
るようになると、どんどんと俗化していく。そして結果として、ああした番組を、おもしろいと言う
ようになってしまう。

 今では、小学生を集めて、小さなパーティを開いても、みなが、意味もなくギャーギャーと騒ぐ
だけ。どこからどう見ても、テレビのバラエティ番組が、一つの基準になっているとしか思えな
い。

 さあ、みなさん、自分で考える子どもを育てよう。自分で考えて、自分で行動して、自分で責任
をとれる子どもを育てよう。……ということで、バラエティ番組の批評は、おしまい。批評するの
も、疲れた。


●自己愛は、孤独地獄への片道切符

自分の心のスキマを埋めるために、結婚し、子どもをもうける人は、少なくない。夫や妻です
ら、自分のさみしさを埋めるための道具でしかない。自分の子どもでさえ、そうだ。

 家族も何のためにあるかといえば、あくまでも、自分のため。仕事のため。自分の不安や心
配を解消するため。あるいは自分のはたせなかった夢や目的のために、夫や妻、子どもを利
用することもある。

 が、最大の悲劇は、そうでありながら、本人自身がそれに気づいていないこと。夫や妻に心
を許していない分だけ、孤独。さみしい。被害意識も強く、「どうして自分だけが、こうまで犠牲
にならなくてはいけないのか」と考えやすい。

 それはあえて言うなら、ストーカーが感ずる、(愛?)に似ている。自分勝手な愛。わがままな
愛。いわば愛もどきの愛を、愛と誤解しているだけ。

 夫や妻が自分の思いどおりにならないといっては嘆き、悲しむ。自分は自分で、自分のことを
理解してくれない夫や妻、それに子どもを恨む。まさに、それは自己愛の世界。大切なのは、
自分だけ。自分こそが、世界の中心にいる。そう錯覚する。そしてすべてを、自分を中心に考
える。

 もしあなたが今、そうなら、解決方法は、簡単。一度、夫や妻、子どもの心の中に自分を置い
てみる。そしてその視点から、つまり夫や妻、子どもの目を通して、自分が、どう見えるかを、
想像してみる。

 そのとき、できるだけ、夫や妻、あるいは子どもの近くにいて、目を閉じ、自分の姿をカガミに
映すかのように、想像してみるとよい。

 それでよい。それを繰りかえす。するとやがて、あなたは、夫や妻、子どもの立場でものを考
えることができるようになる。

 自己愛は、まさに孤独地獄への片道切符。しかしそんな切符など大切にしていても、意味は
ない。今すぐ、捨てたほうがよい。

【あなたの自己愛診断】

 該当するところに、○をつけてみてほしい。いくつか当てはまれば、あなたは自己愛者とみて
よい。

( )自分の仕事が大切。家族がそのため犠牲になるのは、当然と考える傾向が強い。
( )その一方で、いつも夫(妻)や家族の犠牲になっているような気がする。
( )夫や妻、家族は、自分の思いどおりにならないと、気がすまない。落ちつかない。
( )自分はいつも命令する立場で、家族の中に、命令・服従の関係ができているよう。
( )どちらかといえば、勝気で、わがまま。嫉妬しやすく、負けるのがいや。
( )家族のだれかが、自分に恥をかかせるのを許さない。いつも自分が最高と思う。


●デジ子ちゃん

 私は今、C社のデジタルカメラが、たいへん気に入っている。何かあると、すぐ取り出し、それ
で写真をとっている。

 が、どこかおかしい?

 明るい空などをモニターにうつしてみると、左、3分の1ほどに、帯状の赤いモヤがかかる。で
きあがった写真も、パソコン上で見ると、どこか、左のほうが暗い?

 そこで買った店にもっていくと、しばらく奥のほうで調べたあと、こう言った。「初期不良のよう
ですから、新品と交換します」と。多分、奥のほうで、私に聞こえないように、メーカーと電話で
相談したにちがいない。

 「落したり、ぶつけたりはしていないぞ」と言いかけたが、やめた。

 で、近く、新品と交換してもらえることになった。それについてワイフに言うと、「自動車のリコ
ールみたいなものかもね」と。

 せっかく、愛着がわき始めていたのに!

 ところで、私は、電子製品には、すべて愛称をつけることにしている。たとえばそのデシタルカ
メラは、「デジ子」。ワイフには、「デジ子ちゃん、どこへ行ったか、知らない?」などと言う。

 ほかに、

 シャープのパソコンは、シャー子、
 フジツのパソコンは、フジ子、
 パナソニックのパソコンは、パナ子、
 東芝のパソコンは、トシ子など。

 すべて女性の名前をつける、ならわしになっている。で、そのデジ子だが、最初、私がそう呼
ぶと、ワイフいわく。「デジ子? へんな名前。もう少しマシな名前はつけられないの」と。

 しかし私は、「デジ子ちゃん」と、「チャン」づけで呼んでいる……。小さいカメラなので、チャン
づけが、よく似あう。しかしこれはビョーキか? そうビョーキだ。そう言えば、数日前、ワイフ
と、こんな会話をした。

ワイフ「最近、フジ子ばかりを相手にしているみたいけど、ほかのパソコンは、焼きもちをやか
ないの?」
私「そうだな。今日あたり、パナ子も少し相手にしてやるか。このところ、さわってあげていない
からな」と。

 まあ、ビョーキというより、これは生活のスパイスのようなもの。深い意味はない。


●みなさんからのご意見より

 マガジンのほうで、アンケート調査をしたら、たくさんの方(10人ほど)から、返事が届いた。

 ほとんどが、励ましの内容だった。うれしかった。もちろん、批判的な意見もあった。

 「政治の話は、あまり読みたくない」「日本人は……という言い方は、不愉快」「量が多すぎる」
「公務員批判を、ひかえてほしい」「無料マガジンと有料マガジンが、同じというのは、おかしい」
「以前載せた原稿は、載せないでほしい」ほか。

 じゅうぶん反省している。

10月号からは、政治的な話はひかえるようにした。公務員批判も、やめている。読者のみなさ
んを、不愉快にするのは、私の本意ではない。避けたい。読者あっての、マガジン。迎合主義
と批判されようが、私としては、読者の方の気持ちを、最優先に考え、大切にしたい。

 ただ「量が多い」という意見をくれた読者の方には、こう返事を書いた。

 「今しばらく、がまんしてください。そのうち、元気がなくなれば、自然と量も減ってくると思いま
す。今は、書けるだけ、書いておきたいのです。よろしくお願いします」と。

 読者の数を気にしてはいけないとはわかっているが、しかし毎回、一人、二人と読者がふえ
ていくのは、本当にうれしい。励みなる。

**********************

みなさんの周辺で、このマガジンがお役にたてそう
な人はいませんか。もしいらっしゃるようなら、こ
のマガジンのことを話していただけませんか。
よろしくお願いします。

**********************

●子どもの善悪について……

 いつか、『子どもは社会の縮図』(中日新聞発表済み)を、書いた。それについて、最近は、
『子どもは、親のまま』という原稿を書いた。その『子どもは、親のまま』について。

+++++++++++++++++++++

●子どもは、親のまま

 車の窓から、ポイと、ゴミを捨てた母親がいた。うしろの席では、2人の子どもたち(6歳くらい
の男児と、2歳くらいの女児)が、それを見ていた。

 ビデオショップの前。横の駐車場は、ガラあきなのに、その父親は、車をショップの玄関ワキ
に横づけ。そのまま小学生らしい男の子をつれて、店の中に入っていった。

 信号はもう、赤。一呼吸置いて、その車はまだ余裕があると判断したのか、さらに加速して、
交差点を左折。キーンというタイヤのきしむ音。見ると横の助手席では、中学生らしい男子が、
あごをひいて、ふんばっていた。

 ……こういう例は、多い。まさに日常茶飯事。しかし私は、あえてこう問う。こういう親たちは、
いったい、子どもを、どう教育しようとしているのか、と。つまりこういうことを親たちが一方で平
気でしておきながら、「約束を守れ」「規則を守れ」「悪いことをするな」は、ない。子どもたちは、
そういう親の姿を脳裏に焼きつけながら、やがておとなになる。そして親と同じことを繰りかえ
すようになる。

 子どもの世界には、『一事が万事』という大鉄則がある。一事のことで小ずるい子どもは、あ
らゆる面で小ずるい。それはちょうど、ドミノ倒しのドミノのよう。

 人間の脳は、それほど器用にはできていない。そのつど善と悪を、使い分けるなどということ
はできない。善人ぶることは、だれにでもできる。しかしそれをつづけていると、やがて疲れる。
ボロが出る。

 しかし心配は、無用。『一事が万事』である。反対に、今のこの瞬間から、身のまわりのほん
のささいなことでよいから、その善をつらぬく。

 ウソをつかない。約束を守る。規則に従う、など。子どもが見ているとか見ていないとか、そう
いうことは、あまり考えなくてもよい。考える必要はない。あとは日々の生活の中で、それを繰り
かえす。

 あとはドミノ倒しのドミノのように、あなたは善人へと変身する。そしてそれを見て、あなたの
子どもも、これまた善人になる。

 そのときはじめてあなたは、自分の子どもに向かって、堂々とこう言うことができる。

 「学校の勉強を、しっかりとしなさい!」と。


●成功確率と達成感

 ある日、6年生になったFさんが、「先生、これ!」と言って、算数の新しいワークブックを見せ
てくれた。見ると、超・難解な入試問題集だった。

 「どこで手に入れたの?」と聞くと、「お母さんが、知りあいの進学塾の先生からもらってきた」
と。

私「こんなの無理だよ」
F「お母さんが、毎日、2ページ、やれって……」
私「でも、一問解くのに、30分はかかるよ」
F「だから、教えてほしい」と。

 Fさんの能力では、不可能と思われる問題が、ぎっしり。2ページで、15、6問はあった。

 私はレッスンが終わると、Fさんの母親に電話をした。こうした難解なワークブックをかかえる
と、そこで勉強が止まってしまう。にっちもさっちも、進まなくなってしまう。

 幸いFさんのお母さんは、すぐわかってくれた。「やはり無理ですか?」「はあ、ぼくはそう思い
ます」と。

 子どもの学習指導で大切なのは、(達成感)。「ヤッター」「やりとげた!」という思いが、子ど
もを前向きに伸ばす。

 そこで出てくる言葉が、「成功率」である。

 子どもが何かの課題にとりかかったとする。そのとき、成功率を、50%50%にするのがコツ
(J・W・アトキンソン)。2回トライして、1回くらい成功するのがよい。いつも簡単に成功するの
も(100%)、いつもまったくできないのも(0%)、子どもの学習指導では、好ましくない。50%
50%、である。

 ワークブックでいえば、2問のうち、1問くらいは自分の力でできる。しかしもう1問は、なかな
か解けない。そういうのがよい。

 子どもに何かを教えるときも、ほどほどに指導した段階で、あとは子ども自身の力でできるよ
うにしむける。半分くらいは助けてあげて、残りの半分くらいは、子ども自身にさせる。やりす
ぎ、手取り足取り教育は、一見、親切な指導に見えるが、かえって子どものために、ならない。

 さらに相手が幼児のばあいは、(できる・できない)は、あまり評価しないほうがよい。(がんば
った・がんばらない)という視点で、子どもを評価する。たとえば何かのワークブックをしても、子
どもががんばってしたような雰囲気であれば、大きな丸をつけて、それをほめる。「よくやった
ね!」と。

 こまかいミスや、解答のしかたがまちがっていたというようなことは、不問にする。この時期、
こまかいことをあれこれ言うと、子ども自身もまた、神経質になってしまう。子どもの学習指導
は、『まじめ7割、いいかげんさ3割』と覚えておくとよい。

 ワークブックについていうなら、7割があっていればよし。3割が、お絵かきになってもよしとす
る。そういうおおらかさが、子どもを伸ばす。
(はやし浩司 達成感 成功率 子どもを伸ばす アトキンソン)

+++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司※

最前線の子育て論byはやし浩司(323)


●K国で、何が起こっているのだ!

 このところ、K国から伝わってきているニュースを、まとめると、つぎのようになる。

(事実1)K国は、中国国境沿いに、金XX直轄の最強部隊を、配置し終えた(9月)。
(事実2)K国は、6か国協議をボイコットした。
(事実3)日朝実務者会議は、ほとんど成果がないまま終わった。
(事実4)金XXは、6か国協議開催を迫る中国高官の説得に応じなかった。
(事実5)K国は、このままでは、今年の冬から来年の春にかけて、大飢饉におちいる。
(事実6)K国の原油は、今年の冬、枯渇する。
(事実7)にもかかわらず、中国からの1万トンの原油提供を蹴った。
(事実6)K国の政権抗争が、水面下で激化している。
(事実9)時期後継者と思われる、金正Xが、北京に姿を現した。
(事実10)金XXの精神状態が、きわめて不安定と推測される。
(事実11)金XXは、中国訪問をドタキャンした。
(事実12)K国の経済状態は、すでに破綻している
(事実13)ブッシュ再選は、ほぼ確実。アメリカはK国に対して、ますます強硬になる。

 以上の事実に加えて、

(事実14)K国は、K国全土で、ミサイル発射準備の兆候を見せている。
(事実15)アメリカ・北太平洋空軍司令官ヘスター氏が、重大懸念を発表。
     (2004年9月26日、午後7時33分)

 これらの事実を、どう読むか。どうまとめるか。

 読み方はいろいろあるのだろうが、ここまでくると、私には、もう理解不能。私には、金XXが、
何を考えているか、まったく理解できない。


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. みなさん、   o o β        
.こんにちは!  (″ ▽ ゛)○     
.        =∞=  // 
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子育て最前線の育児論byはやし浩司   04年 9月 27日(No.468)
□■□□□□□□□□□□□□□■□ =================

【Eマガ読者のみなさんへ】

●●●臨時・緊急連絡号●●●

 おはようございます。いつもマガジンをご購読くださり、ありがとうございます。

ただ今、時刻は、9月27日(月曜日)の午前8時になるところです。

 9月27日号の配信が、いつもより遅れたことを、お許しください。
配信元(スタンド)であるEマガ社の何かのトラブルが原因で、そうなったのだ
と考えています。

 で、そのため、先ほど(7時ごろ)、Eマガ、9月27日号は手動で、
配信させていただきました。

目下、Eマガ社に、その原因などを、問いあわせている最中です。

+++++++++++++++++

マガジンは、毎号、午前0時に配信されるように、設定しています。

また現在、10月25日号まで、とどこおりなく、配信予約を入れてあります。

 が、もし万が一、Eマガの配信などが、停止するようなことがあれば、そのつど
私のホームページ・トップの下のほうの「お知らせ・ブリテンボード」で、
報告しますので、何かあれば、どうか、そちらをご覧になってください。

 Eマガにかわる配信方法としては、メルマガ(無料版)、まぐプレ(有料版)を、
別に用意しています。

 詳しくは、また追って連絡いたしますが、万が一、Eマガ社からの配信が不可能になったばあ
い、みなさんへの連絡方法が、ほかにありませんので、あらかじめ、こうして事情をお伝えして
おくことにしました。

【はやし浩司のHP】
http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/

 こちらのHPのトップ下の「お知らせ」もしくは、「マガジン購読コーナー」を
何かあれば、ご覧ください。そちらのほうで、詳しく、事情をお知らせします。

 このまま何ごともなければ、Eマガは、今までどおり、Eマガ社のほうから、
みなさんのお手元に届くはずです。

 毎週、月・水・金の週3回発行のペースは、今のところ、しっかりと守っています
ので、どうか、ご安心ください。

●●●臨時・緊急連絡号●●●

 これからも、マガジンのご購読を、よろしくお願いします。

 お騒がせしました。

 では、今日は、これで失礼します。

             2004年9月27日 午前8時  はやし浩司

*************************** 

最前線の子育て論byはやし浩司(324)

【子育て・あれこれ】

【子育て一口メモ(2)】

●悪玉親意識

「私は親だ」というのが、親意識。この親意識にも、二種類をある。善玉親意識と、悪玉親意識
である。「私は親らしく、子どもの見本になろう」「子どもをしっかりと育てて、親の責任をはたそ
う」というのが、善玉親意識。一方、「親に向かって何よ!」と、子どもに対して怒鳴り散らすの
が、悪玉親意識。いわゆる『親風を吹かす』ことをいう。なお親は絶対と考えるのを、「親・絶対
教」という。


●達成感が子どもを伸ばす

「ヤッター!」という達成感が、子どもを伸ばす。そんなわけで子どもが幼児のうちは、(できる・
できない)という視点ではなく、(がんばってやった・やらない)という視点で子どもを見る。たとえ
まちがっていても、あるいは不十分であっても、子どもががんばってしたようなら、「よくやった
わね」とほめて終わる。こまごまとした神経質な指導は、子どもをつぶす。


●先生の悪口、批評はしない

学校から帰ってきて子どもが先生の悪口を言ったり、批評したりしても、決して、相づちを打っ
たり、同意したりしてはいけない。「あなたが悪いからでしょう」「あの先生は、すばらしい人よ」
と、それをはねかえす。親が先生の悪口を言ったりすると、子どもはその先生に従わなくなる。
これは学校教育という場では、決定的にまずい。もし先生に問題があるなら、子どもとは関係
のない世界で、処理する。

●子育ては楽しむ

子どもを伸ばすコツは、子どものことは、あまり意識せず、親が楽しむつもりで、楽しむ。その
楽しみの中に、子どもを巻き込むようにする。つまり自分が楽しめばよい。子どもの機嫌をとっ
たり、歓心を買うようなことは、しない。コビを売る必要もない。親が楽しむ。私も幼児にものを
教えるときは、自分がそれを楽しむようにしている。


●ウソはていねいにつぶす

子どもの虚言にも、いろいろある。頭の中で架空の世界をつくりあげてしまう空想的虚言、あり
もしないことを信じてしまう妄想など。イギリスの教育格言にも、『子どもが空中の楼閣に住まわ
せてはならない』というのがある。過関心、過干渉などが原因で、子どもは、こうした妄想をもち
やすくなる。子どもがウソをついたら、叱っても意味はない。ますますウソがうまくなる。子ども
がウソをついたら、あれこれ問いかけながら、静かに、ていねいに、それをつぶす。そして言う
べきことは言っても、あとは、無視する。


●本物を与える

子どもに見せたり、聞かせたり、与えたりするものは、いつも、本物にこころがける。絵でも、音
楽でも、食べ物でも、である。今、絵といえば、たいはんの子どもたちは、アニメの主人公のキ
ャラクターを描く。歌といっても、わざと、どこか音のずれた歌を歌う。食べ物にしても、母親が
作った料理より、ファミリーレストランの料理のほうが、おいしいと言う。こういう環境で育つと、
人間性まで、ニセモノになってしまう(?)。今、外からの見栄えばかり気にする子どもがふえて
いるので、ご注意!


●ほめるのは、努力とやさしさ

子どもは、ほめて伸ばす。それはそのとおりだが、ほめるのは、子どもが努力したときと、子ど
もがやさしさを見せたとき。顔やスタイルは、ほめないほうがよい。幼いときから、そればかりを
ほめると、関心が、そちらに向いてしまう。また「頭」については、慎重に。「頭がいい」とほめす
ぎるのも、またまったくほめないのも、よくない。ときと場所をよく考えて、慎重に!


●親が、前向きに生きる

親自身に、生きる目的、方向性、夢、希望があれば、よし。そういう姿を見て、子どももまた、
前向きに伸びていく。親が、生きる目的もない。毎日、ただ何となく生きているという状態では、
子どももまた、その目標を見失う。それだけではない。進むべき目的をもたない子どもは、悪
の誘惑に対して抵抗力を失う。子育てをするということは、生きる見本を、親が見せることをい
う。生きザマの見本を、親が見せることをいう。


●機嫌をとらない

子どもに嫌われるのを恐れる親は、多い。依存性の強い、つまりは精神的に未熟な親とみる。
そして(子どもにいい思いをさせること)イコール、(子どもをかわいがること)と誤解する。子ど
もがほしがりそうなものを買い与え、それで親子のキズナは太くなったはずと考えたりする。
が、実際には、逆効果。親は親として……というより、一人の人間として、き然と生きる。子ども
は、そういう親の姿を見て、親を尊敬する。親子のキズナも、それで太くなる。


●親のうしろ姿を見せつけない

生活で苦労している姿……それを日本では、「親のうしろ姿」という。そのうしろ姿を、親は見せ
たくなくても、見せてしまうものだが、しかしそのうしろ姿を、子どもに押し売りしてはいけない。
つまり恩着せがましい子育てはしない。「産んでやった」「育ててやった」「お前を大きくするため
に、私は犠牲になった」と。うしろ姿の押し売りは、やがて親子関係を、破壊する。


●親孝行を美徳にしない

日本では、親孝行を当然の美徳とするが、本当にそうか? 「お前の人生は、お前のもの。私
たちのことは心配しなくていいから、思う存分、この世界をはばたいてみろ」と、一度は、子ども
の背中をたたいてあげてこそ、親は、親としての責任を果たしたことになる。もちろんそのあ
と、子どもが自分で考えて、親孝行するというのであれば、それはそれ。しかし親孝行は美徳
でも何でもない。子どもにそれを強要したり、求めたりしてはいけない。


●「偉い」を廃語に!

「偉い」という言葉を、廃語にしよう。日本では、地位の高い人や、何かの賞をとった人を、「偉
い人」という。しかし英語国では、日本人が、「偉い人」と言いそうなとき、「リスペクティド・マン」
という。「尊敬される人」という意味である。リスペクティド・マンというときは、地位や、名誉には
関係ない。その人自身の中身を見て、そう判断する。あなたの子どもには、「偉い人になれ」と
言うのではなく、「尊敬される人になれ」と言おう。


●家族を大切に

『オズの魔法使い』という、小説がある。あの中で、ドロシーという女の子は、幸福を求めて、虹
の向こうにあるというエメラルドタウンを冒険する。しかし何のことはない。やがてドロシーは、
真の幸福は、すぐそばの家庭の中にあることを知る。今、「家族が一番大切」と考える人が、8
0〜90%になっている。99年の文部省の調査では、40%前後でしかなかったから、これはま
さにサイレント革命というにふさわしい。あなたも自信をもって、子どもには、こう言おう。「この
世界で、一番大切なものは、家族です」と。


●迷信は、否定しよう

子どもたちの世界では、今、占い、まじない、予言、超能力などが、大流行。努力して、自ら立
ちあがるという姿勢が、ますます薄らいできている。中には、その日の運勢に合わせて行動
し、あとで、「運勢が当たった」と言う子どもさえいる。(自分で、そうしただけなのだが……。)子
どもが迷信らしいことを口にしたら、すかさず、「そんなのはウソ」と言ってやろう。迷信は、まさ
に合理の敵。迷信を信ずるようになればなるほど、子どもは、ものごとを合理的に考える力を
失う。


●死は厳粛に

ペットでも何でも、死んだら、その死は厳粛にあつかう。そういう姿を見て、子どもは、「死」を学
び、ついで、「生」を学ぶ。まずいのは、紙か何かに包んで、ゴミ箱に捨てるような行為。決して
遊んだり、茶化したりしてはいけない。子どもはやがて、生きることそのものを、粗末にするよう
になるかもしれない。なぜ、ほとんどの宗教で、葬儀を重要な儀式と位置づけているかと言え
ば、それは死を弔(とむら)うことで、生きることを大切にするためである。生き物の死は、厳粛
に。どこまでも厳粛に。


++++++++++++++++++++++++++

【みなさんからのご質問から……】

*********************************

たまたまI小学校(静岡市)と、W小学校(浜松市)のみなさんから、
講演に先立ち、相談の手紙をもらった。「子どもを叱る」というテーマ
で、共通していたので、それについて、ここで考えてみたい。

*********************************

Q:子ども(小1)を叱るとき、どうしても感情的になってしまう。プレッシャーをかけない叱り方、
子どもがぐずり、わめき、切れているときの対応の仕方を教えてほしい。またがまんすることを
教えるには、どうすればいいか。(I小学校、1年生の子どもをもつ、母親より)

Q:長男はおっとりしているが、その下の長女(小5)は、勝気で気が強い。いつも母親の私と大
喧嘩になってしまう。たがいに好きなのに、です。そういうとき喧嘩をしない方法は、あります
か。たとえば娘は、最後に謝るとき、「私も謝るから、ママも謝ってよ」などと言います。そういう
とき、どうしたらいいでしょうか。(I小学校、5年生の女児をもつ母親より)

Q:子どもの叱り方がわかりません。あまりきびしく言うと、子どもに嫌われてしまうのではない
かと、心配です。何か、いい方法はありませんか。(W小学校、1年生の子どもをもつ母親より)

++++++++++

A:子育ては、考えてするものではありません。その人が過去に受けた子育てを、再現する形
でするものです。ですから、ほとんどの親は、こう言います。「ついその場になると、カッとなって
しまって……」と。子育てというのは、そういうものです。もっと言えば、子育ては本能ではなく、
学習によるものです。

子どもへの対処の基本は、『子どもに、子育てのし方を教える』です。いつかあなたの子ども
も、親になります。そして今、あなたがしている子育てを再現する形で、子育てをします。ですか
ら心のどこかで、「私が、そのし方を教えてあげる」「見本を見せてあげる」と思えば、よいので
す。

心の中で、ワンクッションおくため、ともすればとげとげしくなる子育てを、それで防ぐことができ
ます。もし今、あなたが感情的になっていれば、あなたの子どももまた、いつか親になったと
き、その子ども(あなたの孫)に対して、感情的になるということ。あなたの目の前で、あなたの
子どもがあなたの孫を、カッとなって、叱り飛ばすようになるかもしれません。それでもよけれ
ば、今のままの子育てをつづければよいでしょう。

コツは、いくつかあります。

(1)子どもの横を、友として歩く
(2)悪玉親意識(親風を吹かすこと)をやめる
(3)気負いを捨てる
(4)言うべきことは言いながらも、あとは、時間を待つ
(5)叱り方の見本を見せるつもりで、子どもを叱る、です

 W小学校のお母さんは、子どもに嫌われることを心配しています。しかしこれは本末転倒とい
うべきではないでしょうか。話せば長くなりますが、これは親自身(その母親自身)がもつ、子ど
もへの依存性の変形とみます。つまり子どもに依存したいという(甘え)が、「嫌われては困る」
という意識に変化したと考えます。はっきり言えば、そのお母さん自身の精神的な未熟性によ
るものです(失礼!)。

 お母さん自身が、精神的に成長しないと、子どももまた成長できなくなってしまいます。「子ど
もなんかに、嫌われても、かまわない」というき然とした態度が、子育てには必要です。そのた
めにも、親は親で、いつまでも前向きに生きていく。

 むしろ、親のほうが、子どもに向かって、親離れができるように、しむけます。そしてその結果
として、親もまた、子離れしていきます。その時期は、子どもの自己意識が急速に発達し始め
る、小学3、4年生ごろと考えます。いつまでも、ベタベタした関係をつづけるほうが、おかしい
……。そういう前提で、親子のあり方を、もう一度、反省してみてください。

 ただ誤解してはいけないのは、だからといって、友だち親子が悪いというのではありません。
親子関係もつきつめれば、一対一の人間関係です。そのとき、親子が、親と子という上下意識
のある関係から離れて、友だち関係になることもあります。それはそれで、すばらしいことで
す。そういう親子関係を、めざしてください。

 一般論から言えば、「子どもの機嫌をうかがう」というのは、すでに親子関係が、危険な状態
に入ったことを示しています。たがいの信頼関係が、かなりぐらついているとみます。このまま
いけば、やがて親子のキレツから断絶へと進むかもしれません。どうか、ご注意ください。

 言うまでもなく、親子の信頼関係(親子だけにかぎりませんが……)は、たがいの(さらけ出
し)と、(受け入れ)という基盤の上に成りたちます。たがいに遠慮したり、飾ったり、虚栄を張っ
たり、そしてここでいう機嫌をとったり、コビを売ったりという関係では、そもそもたがいの信頼
関係は、成りたたないということです。

 まだまにあいますから、そのお母さんも、勇気を出して、言いたいことを言えばよいのです。
嫌われて困るのは、子どものほうです。そしてお母さんは、お母さんで、正義を貫く。そういう姿
勢を見て、子どもは、あなたを尊敬し、自分の生きザマを身につけます。今、すぐにはそれが
わからないかもしれませんが、やがてわかるようになります。「ぼくの母は、すばらしかった」と、
です。

 さらにいつも、親子喧嘩が絶えないというのであれば、あなた自身の中に潜む、(わだかま
り)をさぐってみます。不本意な結婚であったとか、不本意な妊娠であったとか。結婚当初の生
活苦や、嫁姑問題などが、そのわだかまりになることもあります。

 この問題は、そのわだかまりに気づくだけで、よいのです。あとは、時間が解決してくれます。
ほとんどの人は、そのわだかまりに気づくこともなく、心の裏からそのわだかまりに振りまわさ
れます。操られます。そしていつも、同じ失敗を繰りかえします。

 さらに……。あなた自身の子どもへの愛情も、疑ってみてください。「私は、真に子どもを愛し
ているか」とです。

 するとほとんどの親は、「私は、愛している」と言います。しかし本当のところは、自分のため
に、そして自分の子どもを、自分の思いどおりにしたいだけではないでしょうか。自分の心のす
き間を埋めるためにです(失礼!)。よい例が、子どもの受験勉強に狂奔している親です。「子
どものため」と言いながら、まったく子どものことなど、考えていない。

 しかしこれは真の愛ではないですね。真の愛は、無条件、無償の愛です。もっとわかりやすく
言えば、『許して、忘れる』。その度量の深さによって、親の愛の深さも決まるということです。

 昔、学生時代、私が人間関係のことで悩んでいると、オーストラリアの友人がいつもこう言い
ました。「ヒロシ、許して忘れろ」(※)と。英語では「Forgive and Forget」といいます。

この「フォ・ギブ(許す)」という単語は、「与えるため」とも訳せます。同じように「フォ・ゲッツ(忘
れる)」は、「得るため」とも訳せますね。しかし何を与えるために許し、何を得るために忘れる
のか。私は心のどこかで、この言葉の意味をずっと考えていたように思います。が、ある日。そ
の意味がわかりました。

 私が自分の息子のことで思い悩んでいるときのことです。この言葉が頭を横切った。「どうし
ようもないではないか。どう転んだところで、お前の子どもはお前の子どもではないか。許して
忘れてしまえ」と。

つまり「許して忘れる」ということは、「子どもに愛を与えるために許し、子どもから愛を得るため
に忘れろ」ということになります。そしてその深さ、つまりどこまで子どもを許し、忘れるかで、親
の愛の深さが決まるということです。もちろん許して忘れるということは、子どもに好き勝手なこ
とをさせろということではありません。子どもの言いなりになるということでもありません。

許して忘れるということは、子どもを受け入れ、子どもをあるがままに認めるということ。子ども
の苦しみや悲しみを自分のものとして受け入れ、仮に問題があったとしても、その問題を自分
のものとして認めるということをいいます。

 「子どもを叱る」という話から、とんでもない方向に脱線したような気がしますが、そんなことも
心のどこかで考えながら、「叱る」というテーマを考えてくださると、子どもへの接し方もまた、変
わってくるのではないでしょうか。

 最後に子どもを叱るときには、一度、子どもの目の中に、自分を置いてみるとよいですよ。頭
の中で想像してみるのです。「今、私という親は、子どもには、どんなふうに見えているか」とで
す。たいていのお母さんは、その醜さに、驚かれることと思います。
(はやし浩司 子どもを叱る)
(040928)

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司


●女性の「美」

女性がもっとも美しくなるのは、20歳を過ぎてから、35歳前後の間ではないか。この時期、女
性は、それまでの年齢とは、まったく別人のようになる。そしてとても悲しいことだが、この時期
をすぎると、今度はこれまた、まったく別人のようになる。

 私の通勤路に、小さな電気店がある。私が、その道を通るようになる前からあったから、昔
からの電気店である。

 で、私がその電気店の前を通るようになってからしばらくのこと。その店のダンナが結婚し
た。ダンナの年齢はそのとき、40歳くらいではなかったか。私が29歳のときである。

 が、驚いたのなんのと言って、その奥さんの美しさはなかった。背は高く、スラリと伸びた足。
今でいう小顔。美人というレベルを超えて、清楚な気品をたたえた、まるでモデルのような人だ
った。色は白く、明るい太陽の光りの下では、さらに輝いて見えた。

 私はよくワイフにこう言った。「あのダンナ、かなり年齢が違うようだけど、よくもまあ、あんな
美しい女性と結婚できもんだね」と。

 それは私のひがみだった。いや、嫉妬だったかもしれない。以来、私は、その電気店の前を
通るたびに、店の中をのぞいた。

 が、私にとっても、30年も前の話である。記憶はあまり残っていない。ただ一度だけ、何かを
買いにその店に入ったことがある。店の番は、ふだんは、その女性がしていた。が、その日に
かぎって、その女性がいなかった。私はたいへんがっかりした。そのがっかりした思いだけは、
よく覚えている。

 で、5年がたち、10年がたった。ときどき、つまり数か月に1度くらい、道路でみかけた。美し
さはそのままだったが、見かけるたびに、どこか生活に追われている感じがするようになった。
このころから、個人の電気店は、経営がきびしくなった。大型の電気店に、押されるようになっ
た。

 そのうちダンナの姿は見えなくなった。が、その女性の姿も、見かけなくなった。ダンナは、ど
こか別の職場で働くようになったのかもしれない。と、同時に、私は、その女性のことを忘れ
た。その店の前を通っても、中をのぞくということはなかった。

 しかし、である。私は、今日、10年ぶりか、15年ぶりか、それはよくわからないが、その女性
を見かけた。いつものように店の前を自転車で通りぬけようとしたとき、その女性が目の前に
立っていた。バッタリと出くわしたような感じだった。この30年でも、それほどまでに、至近距離
で、その女性を見たことはなかった。

 驚いた。もちらん相手の女性は、私の秘めた心の中など、知るはずもない。私のほうを瞬間
見たあと、すぐ視線をはずした。しかし私は、その女性から目を離すことができなかった。

 相変わらず整った顔立ちをしていた。スタイルは、昔のままだった。しかし顔だけは、浅黒くな
り、無数のシミが、それを覆っていた。年齢は、45歳くらいというところか。「ああ」と思った、そ
の瞬間、私は、その女性の向こうに、何とも言われない、悲哀感を覚えた。悲哀感だ。

 時は、容赦なく、人間を変えていく。そして女性から、美しさを、奪っていく。時の流れの無常
というべきか、あるいは無情というべきか……。その女性にすればいらぬ節介かもしれない。し
かし私は、その悲哀感をどうすることもできなかった。

 そのことを仕事が終わってから、ワイフに話すと、ワイフは、こう言った。「そう言えば、昔、あ
なたはそんなことを言っていたわね。あの人のこと?」と。

私「そうなんだ。あの人だよ。美しい人だったよ」
ワ「……」
私「でも今日見たら、すっかり、おばちゃんになっていた……」
ワ「きっと、生活で、苦労をしたのね」
私「うん、ぼくもそう思う」と。

 女性というのは、生活で苦労をすると、とたんに老ける。私の意見というよりは、みなが、そう
言う。生活に追われるうちに、心の余裕をなくすためかもしれない。あるいは、そういう苦労が、
ホルモンのバランスを崩すためかもしれない。よくわからないが、たしかに、そうだ。

 いや、だからといって、その女性が、苦労をしたと言っているのではない。だれしも平等に、
老ける。その女性だけが、特別に老けたというわけではない。ただここで書けることは、みな
が、それぞれの方法で、歳をとっていくということ。私も、あなたも。彼も彼女も。そして彼らも、
みなだ。例外はない。

私が感じた悲哀感の理由は、そんなところにあるのかもしれない。

★A good husband makes a good wife.(よい夫は、よい妻をつくる。)(イギリスの格言)。ただし
同時に、A good wife. makes a good husband(よい妻は、よい夫をつくる)という格言もあるの
で、注意。

【追記】

街を歩く。
とぼとぼと歩く。
しかしそこは、若者の世界。
私の知っている世界とは、異質の世界。
「私にも、ああいう時代があったはず」と、懸命に思う。
しかし、その思いも、やがて、街の雑踏の中に消えていく。

私は生きた。
懸命に、生きた。
しかしその前にあるのは、老後。
生きてきたはずなのに、その実感がない。
「私は、今まで、何をしてきたのだろう」と、ふと、立ち止まる。
しかし、いくら問いかけても、その向こうに見えるのは、乾いた砂漠のみ。

老人は、笑う。
私の愚かさを笑う。
しかし私にはわからない。
何を、どう生きたらいいのか、わからない。
「お前も、やがて私と同じになる」と、その老人は言う。
しかし、その私は、懸命に虚勢を張って、ただひたすら前に歩くだけ。

 
●脳ミソの容量

 人間の脳みそは、コップのようなものかもしれない。容量にかぎりがありということ。だから新
しい情報が頭の中に入れば入るほど、その分だけ、古い情報を忘れていく。私のばあい、人の
名前で、それをよく経験する。

 新しい生徒の名前は、比較的はやく覚える。しかし覚えたとたん、去っていった生徒の名前を
忘れてしまう。半年もすると、よほど印象に残った子どもは別として、大半の子どもの名前を忘
れてしまう。

 情報だけではない。経験も、そうだ。よい例が、プロ野球の試合。

 10年前も、20年前も、今日の「今」と同じように、野球の試合はあった。しかし記憶に残る試
合は、ほとんどない。が、それでも今、人々はプロ野球の試合を見て、喜んだり、がっかりした
りする。

 実のところ、その場の娯楽にはなるが、しかしそうした経験が積み重ねられて、何かの成果
につながるということは、まずない。

 新しい経験が脳ミソの中に入ると同時に、古い経験が押し出されるように、どこかへ消えてい
く。あとはこの繰りかえし。

 そこで容量にかぎりがあるとするなら、そこへ入れる情報や経験は、より良質のものであった
ほうがよい。ムダな情報、俗悪な経験が入れば入るほど、その人は、その分だけ良質な情報
や経験を入れることができなくなる。

 そこで私たちは、日常生活の中で、自ら、より良質な情報や経験をよりわけなければならな
い。「これはすばらしい」「これはつまらない」と。そしてより良質な情報や経験はしながらも、そ
うでないのは、捨てていく。捨てていくというよりは、最初から脳みその中に、入れないようにす
る。

 そうでなくても、歳をとると、脳みその容量そのものが小さくなっていく。若いときは、1リットル
とかそれくらいあった容量が、50歳をすぎるころには、半分の5デシリットルになったりする。
実感としては、それくらいになる。

 だからますます、脳みその中に、どんな情報や経験を入れるかが、重要になってくる。つまら
ないことで時間をムダにしたりすると、「しまった!」と思うことがあるが、それはそういう理由に
よる。

 人間関係についても同じ。ムダな人と、ムダなつきあいをしているヒマは、もうない。……とま
あ、そういうふうに考える。

 ということで、またまたあのバラエティ番組。いつもヤリ玉にあげるので、よくマガジン読者の
方から、「先生は、よほど、あのバラエティ番組が嫌いのようですね」というメールをもらう。

 しかし私だって、ときどき、見る。若いときは、テレビのワイドショーの企画も書いていたことも
ある。NET(現在の朝日放送)のアフタヌンショーとか、日テレの11PMの企画を書いていた。
とても自慢できるような過去ではないが、ともかくも、仕事として、それをしていた。

 が、あのバラエティ番組などは、いくら見ても、頭に残らない。身につかない。頭の体操にもな
らない。それもそのはず。そのレベルの人間たちが、ギャーギャーと騒いでいるだけ。どうでも
よい情報を、右から左へ流しているだけ。むしろ見れば見るほど、自分自身が俗化していくの
がわかる。

 だから私のばあい、あくまでも私のばあいだが、このところ情報を、選択するようになった。
「これはくだらない情報だから、無視しよう」「これは、大切な情報だから、しっかりと吸収してお
こう」と。

 しかしこうした操作は、歳をとればとるほど、重要になってくる。もちろん残りの人生を、より有
意義に生きるためである。

★A fool at forty is a fool indeed.(40歳を過ぎてからの愚か者は、本物の愚か者。)(イギリス
の格言)


●子どもと接することのすばらしさ

 昨日、ある母親とこんな話をした。

 私が、「子どもたちと接していると、二つの得をします」と話したときのこと。その母親は、すか
さず、「何ですか?」と。

 まず、子どもたちに接していると、心が洗われる。そういう意味では、子どもの心は純粋。け
がれていない。常識のかたまり。

 反対に、子どもたちと接していない人たちをみると、それがわかる。そういう人たちは、どこか
偏屈。おかしい。心がゆがんでいる。

 だから子どもたちと接していると、常に自分の考え方が、修正される。訂正される。

 つぎに、これは同業の人たちが、よく言うことだが、子どもたちと接していると、その活力をも
らうことができる。こちらが、いくら落ちこんでいても、子どもたちは、それを許してくれない。実
際、「先生!」と声をかけてくれたとたん、気が、パッと晴れる。

 で、もう一つ、つけ加えるなら、こういうこともある。

 私のばあい、子どもたちや親たちを通して、無数の人生を、疑似体験している。それぞれの
子どもの世界に、こっそりと侵入することもあるし、親の世界に、こっそりと侵入することもあ
る。

 その子どもや、親になりきって、そのときどきにおいて、別の人生を楽しむ。

 もともと私は、空想力が豊かな人間なので、そうして侵入するのは、むずかしいことではな
い。もっとも、母親の世界に入ることは、めったにない。母親と接したときは、相手の夫の世界
に入る。「私は、今、この女性の夫だぞ」と。

 実は、冒頭に書いた、その母親と話していたときもそうだ。すてきな母親だったので、ふと、そ
の母親の夫の世界に侵入してみた。

 しかし、この三番目の話はしなかった。あまりにも、不謹慎な内容だったので……。ハハハ!
(040929)

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司


最前線の子育て論byはやし浩司(325)

【近況・あれこれ】

●お金儲けごっこ

 今週のBWは、「仕事」をテーマにした。

 「お母さんが、病気になると、どんなことで困りますか?」
 「お父さんが、病気になると、どんなことで困りますか?」と。

 つづいて、家の手伝いについて話しあう。「どんなことをしていますか?」「どんなことをしなけ
ればなりませんか?」と。

 中に、一人、二人、「まったく手伝いをしていない」という子どもがいた。私はわざと怒ったフリ
をして、「そういう子どもは、前へ出てきなさい! おしおきをしてやる!」と。

 こうして雰囲気をもりあげたあと、BW恒例の、「お金もうけごっこ」をした。

【方法】

 まず、子どもたちに、20円(1円と5円と10円硬貨)を渡す。おととしまで、紙のお金を使って
いたが、去年から本物の硬貨を使うようにした。

 つぎに、折り紙を何種類か用意する。「これは小さいから、3円。これは5円。これは10円」
と。

 まず子どもたちに、折り紙を買わせる。子どもたちは、お金をもって、その紙を私のところに
買いにくる。(子どもは、お金を払う)→(私は、折り紙をわたし、必要なら、おつりを渡す)と。

 つぎに子どもたちに、その折り紙に、絵を描かせたり、折り紙をさせたりする。絵や折り紙が
完成したら、再び、私のところにもってこさせる。私は、「いい仕事してますねえ」とか何とか言っ
て、ほめ、その絵や折り紙を買ってあげる。

 「君の絵は、すばらしい。15円で買ってあげよう」
 「この折り紙は、あまりよくない。7円だね」とか。

 こうして子どもたちは、(紙を買う)→(仕事をする)→(作品を売る)→(お金をもうける)を、繰
りかえす。

 最後に、いくらになったかを計算する。もちろん一番、たくさんになった子どもが、一番、がん
ばったことになる。

 みなに、貯金箱を渡して、そのお金を、貯金箱に入れさせる。「この貯金箱をいっぱいにする
んだよ」と声をかけて、レッスンは、おしまい。

 こうした(お金儲けごっこ)をすることに、少なからず抵抗感を覚える親もいると思う。だから一
応、その遊びに入る前、簡単に説明だけはしておく。

 「日本は、自由貿易体制の中で、資本主義社会を形成しています。少しは、そういう社会にな
れさせておくのも、大切なことだと思います」と。

 今まで、それに反論してきた親は、ひとりもいない。念のため……。


●プリンターが作動しない

 WINDOW・SP2を導入した。が、画面コントロールができなくなってしまった。さっそくF社の
指示にしたがい、修正プログラムをダウンロード。インストール。

 しかし今度は、C社の複合プリンターが、動かなくなってしまった。で、C社に相談。結論は、
「SP2には、対応していません。毎回、手動で、MSサービスを、開始するしかありません」との
こと。

 が、これが結構、不便。やっとのことで、プリンターを作動させても、途中で止まってしまう。

 新しいプリンターを買うしかないようだ……。まだ1年半しか使っていないのに!


●デジタルカメラが、上位機種に!

 C社のデジタルカメラを買った。しかし調子が悪い。そこで販売店へもっていくと、「初期不良
と考えられますので、新品と交換します」とのこと。

 で、「そういうことなら、あと2万円出しますから、新製品の上位機種と交換してくれますか」と
もちかけると、これが何と、すんなりと、OK!

 そこで手に入れたのが、C社の、9月末発売の、新製品カメラ。名前をあえて公表しよう。カシ
オ、EX−S100だ!

 実は、このカメラが、今、たいへん気に入っている。いつも持ち運びながら、「これは」と思っ
たところで、シャッターを切っている。楽しい。おもしろい。ハハハ。

【補記】
 
 ワイフが言うには、「これが誕生日プレゼントよ」だってさ。まあ、今年は、これでがまんするし
かない。


●韓国の報道

 韓国系の報道機関(C日報、T日報)の報道記事を読んでいると、K国についての論調が、日
本の報道機関による記事と、微妙にというか、かなりちがうのがわかる。

 C日報などは、K国について、いわゆる(ご機嫌取り記事)ばかり、流している。この数日間の
記事を並べてみよう。

北朝鮮の秋夕
北、第1回武道大会で優勝
金XX氏死亡55周年
国際武道大会開幕

 そして今日の記事は、「北のメデイアも秋夕特番」(9・29)と。

 K国を刺激したくないという意図が、見え見え。それはわかるが、その一方で、何かあると、
「韓国は関係ない」「日本やアメリカが、勝手に騒いでいる」という論調に、すりかわる。さらに最
近では、「主敵はアメリカ。北は同胞」とまで言い出している。「K国より、アメリカのほうが、敵」
というわけである。

 韓国には韓国の立場があるのだろう。今回の、韓国による核開発疑惑についても、韓国の
報道各社は、「問題はないはず」と、ほとんど報道していない。

 で、私には、ますます韓国が、わからなくなってしまった。私がアメリカ軍なら、韓国からさっさ
と出て行く。ついでに、この日本からもさっさと出て行く。日本はともかくも、こうまで嫌われてま
で、韓国を守らなければならない理由など、アメリカにはない。

 アメリカが韓国を守ったところで、利益は、ほとんど、ない。

 ちなみに今日の報道によれば、アメリカ人の多くが、「日本や韓国から、兵をひきあげるべき
だ」と考えていることがわかった。

 在日米軍は不要……39%
 K国の韓国侵攻、中国の台湾侵攻時に、アメリカ軍による介入反対……61%
(アメリカ・シンクタンク「シカゴ外交関係評議会」調査。7月6〜12日に、一般のアメリカ国民1
195人、指導層の450人を対象に調査) 

【補記】

 韓国の人たちが、K国との共和制を敷き、共産化(?)を望むなら、それはそれで構わない。
日本の問題ではない。

 しかし仮に、韓国とK国が、そうした形でも統一されれば、日本は、すぐ隣に、極東でも最強
の軍隊をもった反日国家をもつことになる。ふつうの反日感情ではない。しかもその向こうに
は、中国がいる。核兵器まで、もっている!

 そうなったとき、日本は、どうする? さあ、どうする?

  
●依存型社会

 少し前、大雨で道路が冠水したことについて、市を相手に行政訴訟を起こした人がいる。「冠
水したのは、行政の怠慢が原因」と。G市でのことである。

 さらに少し前、長くつづいた雨不足で、水道水が止まってしまったときもそうだ。60日近く、そ
の地方では、雨が降らなかった。それについても、市を相手に行政訴訟を起こした人がいる。
「水道が止まったのは、行政の怠慢が原因」と。F市でのことである。

 内情はもう少し複雑かもしれない。それぞれに私の知らない事情があるのかもしれない。し
かし、「?」である。

 実は私も、国を相手に、訴訟を起こそうとしている。「このところの温暖化は、行政の怠慢が
原因」と。……というのは、ウソ。

 こんな子ども(小4男児)がいた。

 ある日曜日の午後、その子どもから電話がかかってきた。いわく、「退屈。することがない」
と。そこで「お父さんは?」と聞くと、「仕事……」と。さらに「お母さんは?」と聞くと、「お店で仕
事……」と。

 その子どもの家は、店を経営していた。店は、少し離れたところにあった。が、私はこう言っ
た。「だったら、あなた、お店へ行って、お母さんを手伝いなさいよ」と。

 「依存性」という言葉がある。その依存性の強い子どもは、何かにつけて、だれかに依存しよ
うとする。さらにその依存性が日常化すると、依存していること自体を忘れてしまう。それが当
たり前になってしまう。

 この話を、先日、母親たちとの懇談会の席で話すと、一人の母親が、こう言った。「実は、うち
の母親がそうなんです」と。

 「うちの母親は、今年60歳になりますが、娘の私たちには、何もしてくれません。が、毎日の
ように世話に行かないと、機嫌が悪いのです。『客が来て、今日は行けない』などと言おうもの
なら、『いい、いい、来なくていい。何も心配しなくてもいい。母さんは、冷蔵庫にあるものを食べ
るから、心配しなくてもいい』と、実にイヤミな言い方をするのです」と。

 子どもが親に依存するケースも多いが、親が子どもに依存するケースも、多い。おまけに、ひ
がんで、すねて、つっぱって……。あるいは今にも死にそうな弱々しい言い方で、同情をかうこ
ともある。

 人格の完成度は、さまざまな尺度で、知ることができる。他者との共鳴性、自己統制力、自
己認知力、それに他者との良好な人間関係など。そしてその一つが、自立度である。つまり依
存性が強いということは、それだけ、人格の完成度が低いということを示す。

 さて冒頭の話だが、たまたまG市の市長と直接話す機会があったので、「信じられないほどの
依存性ですね」と言うと、「そうですねえ……」と。その市長は、苦笑いしていた。

 アメリカは訴訟社会だが、こと、天災については、行政側を訴えるということは、めったにしな
い。国は、自分たちでつくるものと意識が強いからである。

 一方、この日本では、奈良時代の昔から、中央集権国家。官僚主義国家。だから天災につ
いても、「行政の怠慢」ということになる(?)。つまりアメリカ人と、日本人とでは、民主主義に
対する考え方が、基本的な部分で、ちがう。

 もちろん行政側が何かまちがったことをすれば、どんどんと訴えたらよい。それはそれだが、
しかし、天災で被害をこうむったからといって、それを行政側の責任にするのは、どうかと思う。

 たとえば先の、F市での水不足のときのこと。たまたまその前後、私とワイフは、山荘の水道
工事で、四苦八苦していた。山荘の水は、500メートルくらい離れたところにある水源から、パ
イプで引いていた。その工事である。

 ツルハシで穴を掘り、パイプをうめる。山の土は、土というより、岩石に近い。5メートルも掘っ
たら、ヘトヘトになってしまう。もともと、「水」というのは、そういうものである。だから町の自宅
に帰って、水道の蛇口をひねったとき、水が出るのを見て、驚いたことがある。「どうしてこんな
に簡単に水が出るのだろう?」と。

 私はそのニュースをテレビで見たとき、「何を甘ったれたことを言っている!」と、思わず、つ
ぶやいてしまった。

 日本という社会は、国際的にみても、依存型社会である。みながみなに、依存しあいながら、
生きている。それが悪いというのではない。その依存性が、形を変えて、ぬくもりのある、やさし
い社会を作っているのも事実である。

 しかし一歩、日本の外に出れば、この依存性は、通用しない。それについては、また別の機
会に話すとして、こんなエピソードがある。

 中学1年生の英語の教科書では、道の聞き方が、テーマになっている。

「図書館へは、どう行けばいいですか?」
「三本目の角を、左に曲がってください」と。

 しかし実際には、アメリカなどでは、見知らぬ人に道を聞くなどということは、ありえない。都会
だけではなく、地方の田舎でも、である。

 私たちも一度、道に迷ってしまったことがある。どこかのレストランへ行く途中の、ことである。
そこで私が、運転していた友人に、「あの人に道を聞いたら?」と提案すると、その友人は、「ノ
ー」と。はっきりと、断られてしまった。

 つまり相手の人が、おびえるから、そういうことはしない、と。つまり見知らぬ人に道を聞くの
も、危険だが、聞かれるほうも、聞かれて、困るというのだ。だから、「ノー」と。

 「アメリカでは、通行人に道を聞くことをしないのか?」と聞くと、その友人は、けげんそうな顔
をするのみ。そういう習慣そのものがないといったふうだった。

 しかしそれが世界の常識である。それがよいか悪いかは別にして……。
 

●子どもの依存性

 依存性の強い親は、自分の子どもが依存性をもつことに、どうしても甘くなりやすい。つまり
自分自身がそうであるため、子どもの依存性に、気がつかない。気がつかないまま、ベタベタと
親に甘える子どもイコール、かわいい子、イコール、いい子と誤解してしまう。

 だからふつう、依存性の強い子どもをもつ親に、その依存性を指摘しても、意味がない。子ど
もの依存性のほとんどは、親自身の依存性に起因するからである。さらにそれまでに、たがい
に依存関係ができてしまっているから、たがいを切り離すのは、容易なことではない。

 いろいろな例がある。

【K君、年中男児】

 「あと片づけをしようね」と促しても、ただ立っているだけ。「片づける」という意味そのものが、
わからない。そこであれこれ、ジェスチャで教えるのだが、それもわからない。が、しばらく指示
を繰りかえしていると、そのうち、メソメソ泣き出してしまった。恐らく家では、そういうふうにメソ
メソすれば、みんなが、助けてくれるのだろう。

【E君、小学3年男児】

 ワークをしているとき、こう聞いた。「まちがえたら、どうするの?」と。そこで私が、「まちがえ
たら、消してやりなおせばいい」と。すると今度は、「きれいに消すの?」と。そこで「そうだよ」と
言うと、「どこを消せばいいの?」と。こうした意味のない押し問答が、いつまでもつづく。

【U君、中学生男子】

 何かをしたいとき、「〜〜したい」とは言わない。いつも遠まわしな言い方をする。たとえば空
腹なときも、「おなかがすいたけどオ……」と言うなど。わざと、皆の前で、フラフラと歩いてみせ
ることもあった。そこでまわりの人が「どうしたの?」と声をかけると、わざとらしく腹を押さえて
みせるなど。

 たまたま思い出すまま、3人の子どもについて書いてみたが、みな男児や男子である。そうい
う意味では、原因は、母子関係にあるとみてよい。つまり乳幼児期の母子関係が是正されない
まま、体だけが大きくなった考えられる。

 が、本当の原因はといえば、母親自身の精神的な欠陥、もしくは、母親自身の情緒的な未熟
性があるとみてよい。そうした欠陥や、未熟性を補うために、母親は、無意識のうちにも、子ど
もを利用してしまう。

 ある母親は、こう言った。私が、「もう少し、子ども(年長男児)と距離をおいたほうがいいです
よ」と言ったときのことである。その子どもは、幼稚園の下駄箱のところで、母親にクツをはか
せてもらっていた。

 「いえ、先生、私は、こうしてこの子のめんどうをみられると思うだけで、うれしいのです」と。

 そしてことあるごとに幼稚園へやってきては、園庭のはしのほうから、子どもの様子をうかが
っていた。そういう意味では、過保護児にせよ、でき愛児にせよ、独得の依存性をもつことがわ
かっている。特徴を並べると、こうなる。

(1)意思決定ができない。
(2)優柔不断。つかみどころがない。
(3)良好な人間関係が結べない。
(4)他人に対して服従的になったり、同情をかうような態度を見せる。
(5)約束や目標が守れない。規則が守れない。いいかげん。
(6)道徳心が薄く、倫理観がない。不和随行的になりやすい。
(7)無責任というより、責任感そのものが、欠ける。
(8)幼稚性、幼児性の持続。年齢に比して、人格の核形成が遅れる。

 まさによいことなしの状態ということになる。子どもの依存性というのは、そういうものだが、最
大の問題は、最初に書いたように、親自身にその自覚がないこと。中には、ベタベタの依存関
係をつづけながら、「最近、うちの子は、私の言うことを聞かなくなりました」と、泣きながら訴え
てきた母親すらいた。

 加えて、日本の社会全体が、依存型社会ということもある。責任を追及しあうよりは、ものご
とを、ナーナーですまそうとする傾向が強い。子どもの世界でも、自立心が旺盛な子どもほど、
嫌う傾向もある。

 こうした(ちがい)が、顕著に現われるのは、外国の高校生と日本の高校生を見くらべたとき
である。日本の高校生は、カナダの高校生やフランスの高校生とくらべてみると、全体として、
たいへん幼稚な感じがする。これは私の意見というより、国際的な常識でもある。すべてが依
存性の問題とは言えないが、しかし依存性が強ければ強いほど、幼稚性、幼児性が残る。年
齢に比して、幼い感じになる。

 ついでながら、子どもを自分の支配下において、自分の思いどおりにしたいという過保護を、
代償的過保護という。

 ふつう過保護というときは、その基本に親の愛情がある。しかし代償的過保護には、それが
ない。つまりは自分勝手でわがままな過保護ということになる。

 で、こういう代償的過保護でも、親は、「子どもはかわいい」「私は子どもを愛しています」と言
う。それはそうかもしれないが、その姿は、どこか、ストーカーに似ている。相手の気持ちなど、
お構いなしに、相手を追いかけまわす、ストーカーである。そのため私は、「ストーカー的過保
護」と呼んでいる。

 この代償的過保護は、依存性の強い親によく見られる。


●悲しき、子どもの心理

 親は、「C高校へ入れたい」と言う。「できればB高校へ」とも。しかし子どもには、その力はな
い。D高校どころか、E高校、あるいはF高校でも、ムリ。

 そういうとき、あなたなら、どうするだろうか。

 もう27、8年ほど前のことである。私は、進学塾の塾長に頼まれて、その子ども(中3男子)
の家庭教師をしていた。その子どもの親が、そうだった。

 今で言う、LD児(学習障害児)だったかもしれない。ただ、どういうわけか、学校のテストだけ
は、そこそこによくできた。その理由は、あとでわかった。その子どもは、カンニングだけは、天
才的にうまかった。

 私は、塾長と親と、そして子どもの板ばさみにあってしまった。教えても教えても、ちょうどザ
ルで水をすくうような状態だった。その一方で、塾長からは、「成果を出してほしい」。親から
は、「何とかC高校へ」と。毎日のように、つつかれた。

 そこで私は、あるとき、模擬試験をしてみた。当時はまだ、そういう模擬試験が、進学塾で
も、定例化されていなかった。私は、過去問(過去に出題された入試問題集)を手に入れると、
時間をはかりながら、その子どもに、それをさせた。

 結果は、わかっていた。数学にしても、1番の簡単な計算問題すら、まちがえていた。点数に
すれば、100点満点中、5〜10点程度だっただろうか。

 私は、その成績をその子どもに見せながら、こう言った。

 「この成績では、C高校は無理だと思う。一度、君のほうから、お母さんにそう言ってみたらど
うだろうか。君の力は、君自身が一番よく知っているはず。『ぼくは、C高校は無理だと思う』と、
正直に言えばいい」と。

 しかしその子どもは、そのことを親には言わなかった。そのあとも、たびたび、子どもに、それ
を話すように言ったが、言わなかった。そのかわり、学校のテストなどでは、「そんなはずはな
い!」と思われるような、よい成績をとってきたりした。

 ……というようなケースを、私は、そのあとも、たびたび経験している。こういうケースは、多
い。全体のうち、何割かが、そうであると言ってもよい。

 なぜだろうか? どうして子どもは、自分の(実力)について、正直に、親に話さないのだろう
か?

 ……と思っていたら、その前後に、こんな話を聞いた。

 ある夫なのだが、会社をクビになった。しかしそのことを妻に話すことができなかった。その
ため、クビになってからも、毎朝、出勤するようなフリをして、外出。あとはパチンコをしたり、魚
釣りをしたりして、一日を過ごしていた。

 その話を聞いて、「自分の力を正直に言わない子どもの心理と同じだ」と、そのとき、そう思っ
た。

 実際、私も、似たような心理になることがよくある。何かの失敗をしたりしたようなときだ。ワイ
フになかなか話せない。切り出すこともできない。悶々とした心理状態である。

 このことを車の中で、私のワイフに話すと、ワイフは、こう言った。「わかるわ、その子どもの
気持ち」と。

私「親に話せと言ってもムリなんだよね」
ワ「話せば、自分の立場がなくなるからね」
私「そうなんだ。『ぼくは、やればできるはず』と思わせておくことで、自分の立場をつくることが
できる。それ以上に、その子どものプライドの問題もあるだろうしね……」と。

 これも悲しき子どもの心理かもしれない。子どもは子どもで、懸命に親の期待にこたえようと
しているのかもしれない。

 で、先の中学生のことだが、その中学生は、市内でもナンバー2と言われる、難関校のB高
校を受験した。一か八かの勝負というよりは、もともとムリな受験だった。結果は、もちろん不
合格。あとで塾長はこう言った。

 「親との話しあいで、どうせC高校でもムリなら、B高校をということになった。親としては、B高
校を受験しました。B高校を受験しましたが、落ちて、私立のF高校※へ入りましたということに
して、形だけでも、世間体をとりつくろいたかったんだろうね」と。

 しかしこれは悲しき親の心理ということになる。どこまでも、どこまでも悲しい親の心理というこ
とになる。

【注※】このS県では、当時は、高校受験が、受験競争の関門になっていた。また公立のほう
が、私立より、レベルが高いということになっていた。

【補足】

 このタイプの子どもは、カンニングがたいへんうまくなる。ここで「天才的」と書いたが、まさに
天才的。それに、その場をごまかす技術を、どこかで身につけてしまう。

 たとえば自分でしたテストを、自分で採点させてみると、鉛筆を左手に隠しもっていたりして、
その場で答を書きこみ、右手の赤ペンで、丸をつける、など。

 これも悲しき子どもの心理ということになる。長い時間をかけて、(いかにごまかすか)という
技術だけを、身につけてしまう。

 
++++++++++++++++++++++++++

【子育て・一口メモ】

●子どもは下から見る

子育てで行きづまったら、子どもは、下から見る。「下を見ろ」ではない。「下から見る」。今、こ
こに生きているという原点から見る。そうすると、すべての問題が解決する。昔の人は、こう言
った。『上見て、キリなし。下見て、キリなし』と。つまり上ばかり見ていると、人間の欲望には、
際限がなく、いつまでたっても、安穏とした世界はやってこない。しかし生きているという原点か
ら見ると、とたんに、すべての世界が平和になる。子育ても、また同じ。


●失敗にめげず、前に進む

「宝島」という本を書いたのが、スティーブンソン。そのスティーブンソンがこんな言葉を残してい
る。『我らが目的は、成功することではない。我らが目的は、失敗にめげず、前に進むことであ
る』と。もしあなたの子どもが何かのことでつまずいて、苦しんでいたら、そっとそう言ってみて
ほしい。「あなたの目的は、成功することではない。失敗にめげず、前に進むことですよ」と。


●すばらしいと言え、親の仕事

親の仕事は、すばらしいと言う。それを口ぐせにする。どんな仕事でも、だ。仕事に上下はな
い。あるはずもない。しかしこの日本には、封建時代の身分制度の名残というか、いまだに、
職業によって相手を判断するという風潮が、根強く残っている。が、それだけではない。生き生
きと仕事をしている親の姿は、子どもに、大きな安心感を与える。その安心感が、子どもの心
を豊かに育てる。


●逃げ場を大切に

どんな動物にも、最後の逃げ場というのがある。その逃げ場に逃げこむことによって、身の安
全をはかり、心をいやす。子どもも、またしかり。子どもがその逃げ場へ入ったら、親は、そこ
を神聖不可侵の場と心得て、そこを荒らすようなことをしてはいけない。たいていは子ども部屋
ということになるが、その子ども部屋を踏み荒らすようなことをすると、今度は、「家出」というこ
とにもなりかねない。


●代償的過保護に注意

過保護というときは、その背景に、親の濃密な愛情がある。しかし代償的過保護には、それが
ない。子どもを親の支配下において、親の思いどおりにしたいというのを代償的過保護という。
いわば親自身の心のスキマを埋めるための、親の身勝手な過保護をいう。子どもの受験競争
に狂奔している親が、それにあたる。「子どものため」と言いながら、子どものことなど、まったく
考えていない。ストーカーが、好きな相手を追いかけまわすようなもの。私は「ストーカー的愛」
と呼んでいる。


●同居は出産前に

夫(妻)の両親との同居を考えるなら、子どもの出産前からするとよい。私の調査でも、出産前
からの同居は、たいていうまくいく(90%)。しかしある程度、子どもが大きくなってからの同居
は、たいてい失敗する。同居するとき、母親が苦情の一番にあげるのが、「祖父母が、子ども
の教育に介入する」。同居するにしても、祖父母は、孫の子育てについては、控えめに。それ
が同居を成功させる、秘訣のようである。


●無能な親ほど、規則を好む

イギリスの教育格言に、『無能な教師ほど、規則を好む』というのがある。家庭でも、同じ。『無
能な親ほど、規則を好む』。ある程度の約束ごとは、必要かもしれない。しかし最小限に。また
規則というのは、破られるためにある。そのつど、臨機応変に考えるのが、コツ。たとえば門限
にしても、子どもが破ったら、そのつど、現状に合わせて調整していく。「規則を破ったから、お
前はダメ人間だ」式の、人格攻撃をしてはいけない。


●プレゼントは、買ったものはダメ

できれば……、今さら、手遅れかもしれないが、誕生日にせよ、クリスマスにせよ、「家族どうし
のプレゼントは、買ったものはダメ」というハウス・ルールを作っておくとよい。戦後の高度成長
期の悪弊というか、この日本でも、より高価であればあるほど、いいプレゼントということになっ
ている。しかしそれは誤解。誤解というより、逆効果。家族のキズナを深めたかったら、心のこ
もったプレゼントを交換する。そのためにも、「買ったものは、ダメ」と。


●子育ては、質素に

子育ての基本は、「質素」。ときに親は、ぜいたくをすることがあるかもしれない。しかし、そうい
うぜいたくは、子どもの見えない世界ですること。一度、ぜいたくになれてしまうと、子どもは、あ
ともどりができなくなってしまう。そのままの生活が、おとなになってからも維持できればよし。そ
うでなければ、苦しむのは、結局は子ども自身ということになる。


●ズル休みも、ゆとりのうち

子どもが不登校を起こしたりすると、たいていの親は、狂乱状態になる。そのときのためという
わけでもないが、自分の中に潜む、学歴信仰や学校神話とは、今から戦っていく。その一つの
方法が、「ズル休み」。ときには、園や学校をズル休みさせて、親子で、旅行に行く。平日に行
けば、動物園でも遊園地でも、ガラガラ。あなたは、言いようのない解放感を味わうはず。「そ
んなことできない!」と思っている人ほど、一度、試してみるとよい。

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

最前線の子育て論byはやし浩司(326)

【上の子、下の子】

 下の子が生まれると、上の子は、心理的に、大きな影響を受ける。下の子の誕生がきっかけ
で、上の子の様子が変わるということは、この世界では、珍しくない。よく知られた症状に、赤ち
ゃんがえりがある。

 ネチネチと甘えたり、おもらしをしたりするなど。しぐさ、話し方まで、赤ちゃんぽくなる。

 この赤ちゃんがえりを、多くの親たちは、安易に考える傾向がある。上の子も、下の子の誕
生を歓迎しているはずと考えやすい。しかしこれはとんでもない誤解。

 赤ちゃんがえりだけではない。その症状は、実に、さまざま。赤ちゃんがえりをマイナス型とす
るなら、下の子に攻撃的になるプラス型もある。嫉妬がからんでいるため、下の子を殺す寸前
までのことをする。方法も、陰湿かつ、執拗。弟を逆さづりにして落したり、チョークを食べさせ
たりした例がある。

 しかし表立って下の子をいじめたりすれば、自分の立場がなくなる。そこで親の前では、仮面
をかぶり、いい兄、いい姉を演ずることが多い。親の目の届かないところで、下の子をいじめた
りする。

 しかしこういう形でも、外の世界に症状が出てくるケースのほうが、まだ扱いやすい。対処方
法もある。が、親の過干渉、過関心、神経質な育児姿勢などにより、症状が、「内」にこもること
がある。

 たいていは、心身症による症状をともなう。そしてその症状は、まさに千差万別。ものいじり、
指しゃぶり、チックなど、よく知られた症状のほか、数年前だが、慢性的な発熱症状を訴える子
ども(年長女児)もいた。気うつ的な症状を示したり、慢性的な腹痛や、頭痛を訴える子どもも
いた。

 「どこか様子がおかしい?」と感じたら、まずこの心身症を疑ってみる。そしてそういう症状が
出てきたら、子育てのあり方を、猛省する。

 ポイントは、二つ、ある。

 一つは、「ほどよい親」であること。「求めてきたときが、与えどき」と覚えておくとよい。子ども
がスキンシップを求めてきたら、すかさず、こまめに、ていねいに、それに答えてあげる。拒否
的な態度は、禁物。子どもというのは、その瞬間に、すべてを判断する。「ちょっと待っててね」
という何気ない一言が、子どもの心を大きくキズつけることがある。

 つぎに、「暖かい無視」を心がける。ベタベタの関係がよいわけではない。あれこれ気をつか
いすぎるのも、よくない。「兄だから……」「姉だから……」という、「ダカラ論」を押しつけるの
も、避ける。

 またこの時期、スキンシップをふやすことについて、「抱きグセがつくのでは?」と心配する人
もいる。しかしこの際、抱きグセは、マイナーな問題と考える。対処のし方をまちがえると、精神
そのものをゆがめることがある。

 この時期をさかいに、ひがみやすくなる、いじけやすくなる、くじけやすくなる子どももいる。繰
りかえすが、決して、赤ちゃんがえりを安易に考えてはいけない。それがわからなければ、あな
たの夫(妻)に、愛人ができたときのことを想像してみればよい。平静でいろというほうが、無
理。子どもの心理は、その状態に近い。

 本来、そうならないように、下の子を妊娠したときから、上の子教育を始める。上の子が、下
の子の誕生を楽しみにするようにしむける。まずいのは、ある日、突然、下の子が生まれたと
いうような状態にすること。

 方法としては、大きくなったお腹を見せながら、「あなたの弟(妹)が、ここにいるのよ。生まれ
たら、いっしょに遊んであげてね」式に、毎日、上の子に話しかけるなど。

 また下の子が生まれたあとも、いきなり、50−50の愛情に分けるのではなく、上の子に10
0の愛情を注ぎながら、少しずつ、下の子に、愛情を分けていく。上の子にしてみれば、「平等
ということ自体が、不平等」ということになる。それを忘れてはいけない。

 で、こうした症状が出たら、それが許容範囲なのかどうかを冷静に判断する。症状が軽いよ
うであれば、そのままの状態を保つ。しかし症状がひどいようなら、もう一度、100の愛情を上
の子にもどしたあと、半年単位で、少しずつ、上の子から手を抜いていく。あくまでも子どもの
様子を見ながら、判断する。

++++++++++++++++++

奈良県のNさんより、赤ちゃんがえりの相談をもらった。「4歳になった娘が、口の中にツバを
ためる。チックではないか」と。下に10か月の弟がいるが、逆算すると、その弟が生まれた前
後から、ツバをためるようになったらしい。風邪をひいたようなときには、そのツバが、痰になる
こともあるという。

 症状からすると、チックとみてよい。ツバを吐く、ツバを袖にこする。ツバを口の中にためるな
ど。筋肉のけいれん様の不随意運動をともなうことが多い。クックッとうなるようにして、ツバを
吐くなど。

 とくに意味のある行為には見えないのがふつう。またテレビを見ているときなど、気が緩んだ
ようなときに出やすい。

 こうした症状は、一度出ると、なおるまで、半年から1年単位はかかる。クセとして、その子ど
もに定着してしまうことも珍しくない。だからあとは、あせらず、その時期がくるのを待つ。

 ただNさんのメールの中で、気になったのは、「上の子が、好きになれない」という部分。何か
のわだかまりが原因かもしれない。もしそうなら、一度、自分の心の中をのぞいてみる必要が
あるのでは? それについては、また別の機会に考えてみたい。
(040930)

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司


最前線の子育て論byはやし浩司(327)

【近況・あれこれ】

●近く、オーストラリアにいる息子が、日本へ帰ってくる。「遠隔操作で、大恋愛をしている」と、
メールで書いてきた。「新しい恋人を、今度、紹介する」とも。「日本人か?」と聞くと、「そうだ」
と。少し安心した。

●ダイエットを始めて、4週目。体が、軽くなった。現在、体重は、64キロ台。4・5キロの減量
である。減食にあわせて、毎日、自転車に1時間半ほど、乗っている。わざと体をひねらせ、全
身で汗をかくようにしている。目標は、とりあえずは、63キロ台。そのあたりで、一度、様子を
みて、現状維持。

●台風21号は、去った。被害は、なし。よかった。講演をしたこともある、三重県のK町では、
洪水が起きたとか。死者も出た。担当をしてくれた教育委員会の人に、メールを出そうかと迷
っているうちに、一日が過ぎてしまった。ごめん!

●昨日(9・30)は、台風一過、秋晴れのさわやかな一日だった。ワイフと、近くの店で弁当を
買って、佐鳴湖畔で食べる。少し風が強かったが、おいしかった。

●今日は、ワイフは、テニスクラブへ。ワイフも、私と同じようにダイエットしているのだが、ほと
んど体重が減らない。「いつも隠れて何かを食べているんだろ?」と言うと、「そんなことはして
いない」と。私は、ダイエットすれば、翌日から体重が減り始める。しかしワイフは、そうではな
い。きっと脂肪が、細胞の奥深くまで入りこんでいるせいではないか。体質が、私とは、ちがう
ようだ。

●しかし空腹感というのは、いいかげんなものだ。寝る前にはあれほどあった空腹感が、朝に
なっていると消えている。ダイエットというのは、その空腹感にいかに耐えるか……つまり空腹
感との戦いであるといってもよい。中学生の子どもにそれを話すと、「先生、リバウンドが楽し
み」などと、恐ろしいことを言う

●アメリカにいる孫に、幼児向けの雑誌を2冊、買ってくる。嫁さんが、「私にも役にたつ」と書
いてきてくれた。日本語を勉強しているようだ。昨日も、何冊か、本を送った。食べ物を送って
やりたいが、今、規制がきびしい。前もって、インターネットで許可を取らないと、送れない。カッ
プヌードル類は、税関で、すべて没収。

●今日から、10月。BW教室は、おかげで、どのクラスも、ほぼ満員になった。新しい生徒を
迎え、やる気、満々。プラス、体の調子ももどってきた。8月ごろは、どうなってしまったのかと、
心配かつ不安だった。今から思うと、太りすぎだったのかもしれない。太りすぎると、脳間伝達
物質の分泌が抑制されて、気分も落ちこむのかもしれない。勝手な推測だが……。

●さて、今日は、午前中は、こうして原稿でも書くしかない。ワイフがテニスから帰ってきたら、
近くの回転寿司店へ。私は4皿。ワイフも4皿。あとはショーガをモリモリ食べて、体脂肪を燃や
してやる。ハハハ。本当に、セコイ話です!

●SP2を導入してから、パソコンがおかしくなるは、プリンターが作動しなくなるは……。ともに
修正モジュールをダウンロードして、実行。やっと、今朝になって解決。しかしふと、考える。仮
に何かのことで、リカバリーということになったら、すべてを、最初からやりなおさなければなら
ない。ゾーッ! ますますウィルス対策を強化することに! あやしげなメールは、即、削除。そ
れしかない。件名のところに、住所、名前のない人からのメールは、すべて削除。容赦なく、削
除。どうか、ご理解ください。

●あさっては、村の人たちに祭に招待されている。行くことにした。楽しみだ。(しかしこういう予
定は、公開日記には書かないほうが、よい。空き巣が、こういう日記を読みながら、スキをうか
がっているそうだ。しかし心配は、無用。息子が家を留守番をしてくれるという。山荘のほうは、
S警備保障会社が、常時、警備をしてくれている。念のため!)

インターネットでは、住所や電話番号は、公開してはいけない。生年月日も公開してはいけな
い。多くの人は、そういうったものを利用して、パスワードを決めているからである。ここにも書
いたように、予定を書くなどということは、論外。「明日から、二泊三日で、沖縄へ旅行」などと
書くのは、空き巣に「来てください」と書くようなもの。

●ところでウィルスソフトの期限が、9月末で切れた。昨日、新しいソフトを買ってきたので、こ
れから、それをインストール。ワイフのパソコンも、期限が切れた。M社のソフトの、2ユーザー
用というのである。まずワイフのパソコンに先にインストール。安全と、動作を確認したあと、私
のパソコンに……。ハハハ。

●このところ毎日、11時から、プロ野球を見ている。昨日は、イチローは、1ヒット。今日も応
援するぞ。あと2本ヒットを打つと、歴代1位に並ぶそうだ。目が離せない!

+++++++++++++++++++++

●子どものやる気

 「ほどよい親」という言葉がある。親は、ほどよい親であるのが、一番よい。親の、子どもに対
する意欲が強すぎるのも、反対に弱すぎるのも、よくない(D・C・マクレランドほか)。

 要するに、教育ママ的すぎるのも、放任ママ的すぎるのも、よくないということ。どちらかといえ
ば、教育ママ的すぎるよりは、放任ママ的なほうがよい。そんな研究結果も報告されている(D・
C・マクレランド)。

 で、ほどよい親というのは、バートランド・ラッセルの言葉を借りるなら、「必要な訓練はほどこ
すが、その限度をわきまえている親」ということになる。

 そこで「必要な訓練とは何か」ということになる。そのポイントをまとめたのが、つぎである。

(1)子どもに任す部分は、任す。
(2)ほどよく指導し、ほどよい道を示す。
(3)子どもを信頼する。
(4)ほどほどのところで、手を引く。あきらめる。
(5)過干渉、過関心、過保護は、避ける。
(6)親は親で、自分の生きザマをつらぬく。

 どれもむずかしいテーマだが、そこが子育て。そこが親の腕の見せどころということになる。
が、その中でも、とくに注意したいのが、(4)の「ほどほどのところで、手を引く。あきらめる」。

 ほとんどの親は、子どもに限界が見え始めても、「まだ、何とかなる」「やればできるはず」「う
ちの子にかぎって」と無理をする。この無理が、子どものやる気をそいでしまう。そういう意味で
は、親の希望には、際限がない。

 半年近く不登校を繰りかえした子どもが、やっとのことで、学校へ通うようになったときのこ
と。その子どもの母親は、こう相談してきた。

 「午前中だけで、家に帰ってきてしまいます。給食の時間になると、保健室にこもってしまいま
す。何とか、給食だけでもと思っているのですが、どうしたらいいですか」と。

 私は、こう言った。

 「子どもには、無理をしなくてもいいと言ってあげなさい。4時間、勉強するようなら、3時間目
が終わったら、家につれて帰ってきなさい。そのとき、『今日はよくがんばったわね』とほめてあ
げなさい。

 仮に給食を食べるようになったら、あなたはきっとこう言うはずです。『何とか、午後の勉強も
させたい』『終わりの会まで出席させたい』と。子どもも、それをよく知っているのです」と。

 さらに不登校がやっとなおったと思ったとたん、「それまでの遅れをとりもどすのだ」と、子ども
を進学塾へやった親もいた。しかしそんなことをすれば、元の木阿弥。つぎに症状は、さらに悪
化する。

 「まあ、うちの子は、こんなものだ」「うちの子は、うちの子なりによくがんばっている」という、
あきらめが、子どもの心に風をとおす。そして不思議なことだが、そのときから子どもは、また
伸び始める。親が「こんなはずはない」とがんばっている間は、子どもは伸びない。ばあいによ
っては、自ら伸びることを止めてしまう。
 
 とくに子どもが小学生のうちは、この「意欲」だけをみながら、子どもの学習をみるとよい。で
きる・できないは、つぎのつぎ。やる気があればよし。そうでなければ、いくら見かけの成績が
よくても、家庭教育のあり方を、猛省する。

【やる気の判断】

 何か、子どもの前で、新しいテーマを示してみてほしい。「庭に、小屋でもつくろうか」「今度、
美術館へ行ってみようか」など。そのとき、何かにつけて、「やる!」「やりたい!」とくいついてく
ればよし。反対に、「いや……」「つまらない……」を繰りかえすようであれば、子どもの問題と
いうよりは、家庭教育そのものに問題があるとみる。

 ほとんどの親は、子どもに何か問題が起きると、子どもをなおそうとする。しかし問題は、子
どもにあるのではない。問題は、子育てのし方、もっと言えば、親自身にある。それに気がつく
親を、賢い親という。そうでない親を、愚かな親(失礼!)という。

 あなたはひょっとしたら、無意識のまま、子どものやる気をそぐようなことはしていないだろう
か。ここで、少しだけ、ふりかえってみてほしい。

【BW教室では……】

 BW教室では、毎回、何らかの遊びを用意している。1、2週おきくらいに、遊びを変えていく
のだが、その遊びついても、毎回、目を輝かせて、飛びついてくるように指導していく。

 当然のことながら、「やりたい!」「やらせて!」と、飛びついてくる子どものほうが、好ましい。
そこで私は、半年単位で、子どものやる気を引き出すようにしている。

 この遊びを取り入れた方法は、実際、効果的である。現実に「今」という今、私の教室では、
ひとりの例外もなく、(本当だぞ!)、消極的な子どもはいない。(毎回、母親たちが参観してい
るので、こういうところで、ウソは書けない。念のため……。)

 何か新しいことを提案するたびに、「やる!」「やる!」と、全員が、目を輝かせて、食いつい
てくる。

 そういうふに、幼児を指導していくのが、幼児教育である。漢字が書けるとか、むずかしい計
算問題ができるとか、そういう(見かけ)の力を、子どもに身につけさせるのが幼児教育ではな
い。またそういう(見かけの力)にだまされてはいけない。
(041002)


【今日の話題から……10月2日】

●NTTの固定電話料金が、値下げ!

 今ごろ……と、あきれている。今度(05年1月)から、県外は、一律、一通話、15円になると
いう! 

 そんなことは、10年前、20年前には、常識だった。当然、そうすべきだった! 郵便局の手
紙だって、全国一律料金。が、電話だけが、異常なまでに料金が、細分化されている。しかも、
高額!

 アメリカでは、とうの昔から、市内通話はどこも、タダ。日本列島の何倍も遠い距離に電話を
かけても、日本の市内料金並。

 この法外なまでに高額な料金のおかげで、日本のインターネット事情は、東南アジア各国とく
らべただけでも、10年は、遅れた!

 今ごろ、値下げしても、遅すぎる!


●新義州地区、K国政府が開発事業を中断

 K国が、K国北部、中国との国境近くに計画していた、新義州地区特別開発計画を、中断し
たという(8月以後)。理由は、中国側の協力が得られないためらしい。

 中国とK国の関係は、今、予想以上に、悪化している。

 中国は、15万人の正規軍を、K国国境に配置。K国も、それに対抗するかのように、38度
戦にいた精鋭部隊を、中国との国境にはりつけた。

 しかしそれにしても、こうまでコロコロと政策が変わったら、K国の人たちも、たまらないだろ
う。何か気に食わないことがあると、すぐ過剰反応。そのたびに、民衆だけが、右往左往。

 独裁国家というのは、独裁者の心情が、そのまま国政として反映される。この一貫性のなさ
が、金XXの心情そのものと考えてよい。K国という国全体が、ヒステリー状態になっている?

 ついでながら、今年の夏、K国の首都P市においてでさえも、スイカ1個のねだんが、6000
ウオンだったという。一般勤労者の月給が、約2500ウオンというから、月給の2か月分。(ス
イカ1個が、2か月分だぞ!)

 中国は、今年に入ってから、中国からK国への米の輸出を、事実上、禁止している。しかもK
国ウオンの、実勢交換レートは、1アメリカドルが、1600ウオンだそうだ(中朝国境沿いでの
交換レート・朝鮮日報)。このレートで計算すると、勤労者の1か月平均給与は、1ドル60セン
ト。よくみて、2ドル。日本円になおすと、200円弱。

 はっきり言えば、K国ウオンは、紙くずに等しい。

 そこで金XXは、最後の手段として、核兵器やミサイルを持ちだした。「開発をやめてほしかっ
たら、金を出せ!」と。私たち日本人にしてみれば、とんでもない論理だが、その(とんでもな
さ)さえわからないほど、K国の常識は、今、混乱している。

 肝心の中国からも見放され、さあ、どうする! 金XX!


●10月3日

 今日は朝から、あいにくの雨。はげしい雨。

 山荘のある村でも、村祭が予定されていたが、それも、流れた。毎年、行われる航空自衛隊
浜松基地の航空フェスタも、この雨では、「?」。

 さえない日曜日。山荘で、ワイフとビデオを見て、軽い朝食。そのあと、自宅へ……。

自宅に帰ってからは、BS放送で、イチローを声援。結果は、今日は1安打。これでヒット数が2
60本になった。

そのあと台所にもどり、料理。メニューは、ハヤシライス。私のつくるハヤシライスは、一品! 
何と言っても、「はやし」ライス。玉ねぎを細く切って、パリパリになるまで炒めて、そこへタイ製
のチリソースを少し。あとはニンニクをみじん切りにして、混ぜる。あとは、……。

 ところで幼児クラスの子どもたちは、みな、「ハヤシライスは、私がつくった料理」と思ってい
る。

 昨日もたまたま年長児たちに、「君たちは、ハヤシライスは好きか?」と聞くと、こう答えた。
「ハヤシライスは好きだけど、はやし先生は、キ・ラ・イ!」と。

 私とワイフがハヤシライスを食べていると、そこへ長男。「食べるか?」と、声をかけると、「も
う食べたからいい」と。

 のどかな午後。昼食後は、私は、パソコンの前にすわったまま、居眠り。つい先ほど、目をさ
ましたところ。何か夢を見ていたはずなのだが、どうしても、思い出せない。

 何だったかな……?

 この数か月、悪夢を見なくなった。精神状態が、落ちついてきたせいかもしれない。が、その
かわり、意味のない、のどかな夢を見ることが多くなった。たった今見た夢も、どこかの露天の
前で、並んで立っている夢だった。

 何かを買おうとしていたのかもしれないし、ただぼんやりと、行列をながめていただけなのか
もしれない。よくわからないが、そんなような夢だった。


●Yさん(母親、35歳)からの相談

 Yさんは、おとなになりきれないといって、悩んでいる。「母親なのに、私は、いまだに、指しゃ
ぶりをしています。タオルの切れ端をもっています」(掲示板)と。

 こうした性癖は、だれにでもある。

 私の知人には、こんな男性がいる。ある大手の貿易商社で、役員をしている。その彼が、少
し前、こんなことを話してくれた。

 「ぼくは、太った女性が好きだ。関取のような太った女性がいい。そういう女性の尻で、思いっ
きり顔を踏みつけられると、言いようのない快感に襲われる」と。

 その彼の奥さんは、ガリガリにやせている。そのあたりが、私には理解できないところが、性
癖というのは、そういうもの。

 女性とて、例外ではない。ある雑誌に、若妻のこんな告白記事が載っていた。いわく、「私は
毎晩、夫のペニスを口に含んでいないと、眠ることができません。だから毎晩、そうしています」
と。

 ワイフにその話をすると、「そんな記事、ウソよ」と。私も、「?」と思うが、決して、ありえない
話ではない。

 つまり、性癖などというものは、人、それぞれということ。標準もないし、基準もない。自分が
そうであるからといって、他人もそうであると思ってはいけない。反対に、自分がそうでないから
といって、他人もそうでないと思ってはいけない。

 大切なことは、それぞれの性癖を、認めあうということ。とくに夫婦の間では、そうだ。

 指をしゃぶりかたかったら、しゃぶればよい。どうしてそれが悪いことなのか。

 タオルの切れ端をもっていたかったら、もっていればよい。どうしてそれが悪いことなのか。
 
 ……しかし、こういうのは、困る。どこかの経済学者だが、女子高校生の下着を、手鏡で見て
いて、逮捕されたという。その少し前だが、ビデオで盗撮していて逮捕された、お笑いタレントも
いる。

 私も男だから、そういうことをする男性の心理がわからないわけでもない。しかし、同じ性癖で
も、だれかを不愉快にさせるような性癖では、困る。

 ……と、考えて、では、相手が妻(夫)なら、どこまで許されるかという問題もある。

 私のワイフは、「いくら妻でも、すべてに応ずる義務はない」と言う。考えてみれば、そのとおり
で、そこには、限界がある。まあ、結論から先に言えば、そこは愛情の問題。

 愛する女性(男性)の性癖は、どれもかわいいが、嫌いな女性(男性)の性癖は、どれも不気
味。気持ち悪い。そういうもの。


●イチローが、257号!

 見たぞ、その瞬間! たった今、イチローが、257本目のヒットを打った。同時に花火があが
った。観客は、総立ちで、拍手。

 涙がこぼれた。うれしかった。イチローは、ファーストベースで、帽子をとって、皆にあいさつを
していた。

 今日は外出の予定だったが、ワイフと、野球の声援をすることにした。時は、10月2日、日
本時間、午前11時45分。これからまた居間へ……。ごめん!

 今日の日記は、ここでおしまい!

 
++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

最前線の子育て論byはやし浩司(328)

【Yさんへ……】

 Yさんのかかえる問題について、考えてみました。いただいた内容だけでは、判断しかねると
ころもありますが、私の知識と経験を、総動員してみました。

 あくまでも、参考意見の一つとして、ご利用ください。

 こうした問題は、その正体さえわかれば、何でもないものです。それに本文の中にも書きまし
たが、今は結論を出さないこと。

 それはたとえていうなら、今、あなたの心は、肺炎にかかっているようなものです。こういうと
きは、静かに、ただひたすら静かに、嵐が去るのを待つように、時が過ぎるのを待つのがよい
です。

 あせって、今の状態を基準にして、結論を出してはいけませんよ! 絶対に!

 私も、よく落ちこみますが、そういうときは、私は穴にこもって、首をすくめ、眠ることにしてい
ます。そういう状態のときは、結論を出しても、あとで後悔するだけです。

 いいですか、あなたはすべてのものをもっているのです。(すべて)です! どうか、それに気
づいてください。

 健康な体。子ども。人生。家族。親。夫。多少の問題はありますが、今のあなたでも、じゅうぶ
ん乗り切れる問題です。ある意味で、なんでもない。荒海を航海するつもりで、乗り切ればいい
のです。「ようし、嵐の一つや二つ、くるならこい!」とです。

 以下、私の返事です。Yさんというのは、あなたのことです。

 また記録用に、いつかご迷惑がかかってはいけませんので、内容を少し、改変しました。掲
示板のほうの記事は、やがて削除、抹消されます。

*****************本文******************* 

【掲示板・投稿より……】

+++++++++++++++++

 私のHPの掲示板に、Yさんという方の
 書きこみがありました。

 ここでは、Yさんがかかえる問題につい
 て考えてみたいと思います。

+++++++++++++++++

【Yより、はやし浩司へ……】

はじめまして。ここ数日のあいだ、投稿しょうかどうかとずっと迷っていました。HPから感じる、
はやしさんの誠実なお人柄と豊富な体験から、アドバイスが頂けたらと願い、パソコンに向かっ
ています。

私は、今34歳で、私には、今年から小学校1年生になった、男の子が一人います。

私は、埼玉県U市にある私の実家で、実母(67歳)と、2月に単身赴任から帰ってきた主人(4
1)と、4人で暮らしていたのですが、今は夫と、別居状態になっています。別居するようになっ
て、3ヶ月になります。

こうなった、もともとの原因は、主人の隠していたカードローンによる借金です。別居の件は、
私の方から言い出しました。 

実は、私の両親は、私が中3の時に離婚しています。父は、大会社に勤務し、昔からの家柄
で、気位の高い人だったのですが、無口で、非社交的。休日は、いつもテレビを見てごろごろし
ているような人でした。

その一方、母は、明るく、意志の強い人でした。悔いのない人生を送りたいという事で、父と離
婚しました。父は、話しかけても、返事もしないというよう人で、数年間、父と母は、1階と2階
で、別れて生活していました。そういう状態がしばらくつづいたあと、つまり家庭内別居の末、離
婚しました。

父は、自宅を養育費代わりということで、自宅を私たちに残し、そのまま、出て行きました。

こう書くと何か暗い感じがしますが、明るい母のおかげで、私たちは、結構、楽しく過ごすことが
できました。庭で、夜、屋台のラーメンを食べたり、母の手製のタイヤの跳び箱を飛んだり、音
楽会をしたり、童話を作りながら寝たり、美術館に行ったりなど。3歳、年上の兄と3人で、楽し
く過ごすことができました。そんな思い出もたくさんあります。

父に家から締め出されたこともありますが、そのときも、母は、近所のお風呂屋に連れて行っ
てくれていってくれました。楽しく過ごせました。

ただ、一度、父が怒って2階に包丁持ってきたことがあって、私達子供が大泣きした事や、(そ
のあと父は冷静になって無事終わりましたが)、気丈な母が実家に涙ながらに電話していた事
など、、そんな事は、いまだに強く、記憶に残っています。

そんなわけで、ずっと私は、「母を悲しませないように」と、心のどこかで、無意識に思っていた
ようです。子どもながらに、皆が笑うようなユニークな事や、夫婦仲を取り持つような事をしまし
た。

学校にファンクラブまでできるほど、兄には友人は多かったのですが、敏感で、病気がちで、高
校を中退したり……。反抗期がきつかったせいもあります。そのこともあって、私は、今思うと、
「母に心配をかけないいい子」、「優等生で、いつまでも甘えたの末っ子」でいることで、母親の
愛情を自分のものにしていたように思います。

もともと私は勉強が好きだったので、ずっと、私は優等生でした。勉強しろと一度も言われた事
もなく、とくに塾に行かなくても、奨学金をもらい、小、中、高3で学年1番になり、東京でも有名
な短大に、2番の成績で合格しました。

その後、オフィス街の中心にある大きな会社で働き、結婚。出産で辞めた後、子供が2歳の時
には、国家試験に合格し資格もとりました。ここに書いたことは、みな、事実なのですが、いま
だに自分に自信が持てず、劣等感に苦しんでいます。精神状態はずっと子供のままです。

自己中心的で、優柔不断で、母に精神的に依存していて、今でも母の指示がないと不安になり
ます。社会に出たときには、他の人が皆、大人に見え、何を話したらよいか分からず困ったり
しました。

小学生時代に、水イボがあり、長くイジメられた事もあります。それが原因で、人から嫌われた
くないという意識がとても強くなったようです。人を避けるようにもなりました。だれかに、理不尽
な事を頼まれたときでも、イヤと強く断ることができません。

自分の子供に対して過干渉で、子供の友達が遊びに来た時も、その子が退屈しないようにと、
つい、おもちゃを出したり、おやつをだしたり。うちに来なくなったら、子供の相手がいなくなる
のではとか、イジメにあうのではないかと心配で、子供の友達(6.7才)に対しても気を使ってい
ます。そんな自分が、バカみたいに思えるときがあります。

年齢だけ高い子供が、子供を産んでしまったようなもので、産むんではなかったと後悔したり、
子供に申し訳なくなったりします。自分の子どもに、何が良くて何が悪いのかの判断や、人間
関係の作り方など、何も教える事ができません。

私自身も、うまく言葉で説明できないので、子供がダメなことをしたときは、子どもを布団に押さ
えつけたりしてしまいます。腹が立つと、親子で叩きあったり、蹴ったりしてしあうこともありま
す。何か要求されて、「ダメ!」と私が言うと、泣いて大きい声を出すので、つい子供の言いなり
になってしまったりします。「近所に聞こえるでしょう! 大きいのに恥ずかしい!とか、「あんた
なんかいないほうがいい」式の言葉や、「お母さん出て行くからね」式の脅しを、子どもにしてし
まいます。

子供のころ、そんな事された事は、自分はないのに、私は、本当に最低の母親です。おとなの
私なのに、子どもを白目でにらんだり、指を吸ったり、バスタオルが離せなかったり……。

このままでは、絶対にまずいことは、わかっているのですがどうしたらよいのでしょうか? どう
したら私自身、母から自立できるのか? 借金なんて世の中で一番大嫌いの母は、主人と別
れる事をすすめています。

子供はお父さんが帰ってくるのを待っています。私は、一人で子供を育てていく自信も、気力
も、経済力も今はありません。子供のことは、母が一番、声をかけたり、かわいがってしてくれ
ています。子供も、母のいう事なら聞きます。

主人は、パソコンおたくで、子供のままです。お忙しいのに、長くなり本当に申し訳ありません。

+++++++++++++++++++++++

●結論は、急がない

 こうした人生の転機につながるような、重大問題については、「結論は急がない」。それが、
大原則。つまりは、自分で、結論を誘導しないということ。

 そのときがきたら、結論は、必ず、向こうからやってくる。あわてる必要はない。そしてちょう
ど、低いところに水が流れていくように、自分の人生も、流れていく。

 ほかのことならともかくも、こうした問題は、「命」そのものを削る。10年単位で、ぞの人の
「命」を削る。だから、結論は、急がない。

●未練の燃焼

 また夫婦の問題、親子の問題については、とことん、未練を燃焼させておく。中途半端は、い
けない。

 そのためにも、(1)自分を冷静に見つめる。どこまでも、どこまでも、自分を冷静に、見つめ
る。見栄や世間体、メンツや虚栄、それに虚飾や仮面、そういったものから自分を解き放ち、
丸裸の自分を見つめる。

 つぎに(2)自分を、とことん、さらけ出す。プライドもかなぐり捨てる。へんに、がんばってはい
けない。すなおに、負けを認め、あるがままの自分をさらけ出す。抱いてほしかったら、「抱いて
ほしい」と言えばよい。好きだったら、「好きです」と言えばよい。別れたくなかったら、「別れたく
ない」と言えばよい。幸福な家庭がほしかったら、「幸福な家庭がほしい」と言えばよい。

 やるだけのことは、すべてやりつくす。それでだめなら、つまりふんばっても、ふんばりきれな
いようなら、それが運命。あとは、自然の流れに、身を任せればよい。

●「私」を超えた人間

 私は私だが、その私は、「人間」の一人でしかない。いくらがんばっても、がんばりきれないこ
とは、だれにだって、ある。あって、当然。

 だれかがあなたに向って、「あなたは、まちがっている!」と言ったとしても、そのとき、もしあ
なたが自分の中に、その人間を感じたら、こう叫べばよい。「私だって、人間だ!」「もし私がま
ちがっているというのなら、人間がまちがっている。私じゃ、ない!」と。

 つまり、そう相手に言いかえせるまで、自分を見つめていく。とことん、自分を見つめていく。

 というのも、そもそも、男と女がいて、恋愛し、結婚し、子どもをもうけるということ自体、「私」
を超えた、人間のなさるわざ。私やあなたではない。人間が、そうさせる。

 その人間が、あるとき、限界に達する。しかし、それは私やあなたの責任ではない。つまりそ
の次元まで、自分の中の人間を確認しておく。

●「私」さがし

 「私」が何であるか、本当のところ、だれも、わかっていない。愚かな人ほど、「私のことは、私
が一番よく知っている」などと、豪語する。しかし、「私」というのは、わからない。わかったと思っ
たとたん、さらに、わからなくなる。

 すべて年齢のせいにするのは、好きではない。が、しかし歳をとればとるほど、「私」がわから
なくなるのも、事実。「私」というのは、そういうもの。

 そこでスパルタの賢人、キロンは、こう言った。「汝(なんじ)自身を、知れ」と。つまりは、それ
が哲学の究極の目標にも、なっている。

 たとえばここに一人の中学生がいる。つっぱって、何かにつけて攻撃的で威圧的。独特の言
い方に、動物的な動作。その中学生にしても、なぜ、自分がそういうことをするのか、本当のと
ころは、何もわかっていない。その中学生は、その中学生を超えた、大きな「私」に操られてい
るだけ。そのことに、その中学生は、気づいていない。

 「私」というのは、そういうもの。それくらい、「私」を知ることは、むずかしい。

●無数の(しがらみ)

 相談をくれたYさんにしても、無数の(しがらみ)の中で、生きている。現在というしがらみだけ
ではない。過去というしがらみの中でも生きている。

 Yさんが、Yさんであって、Yさんである部分と、Yさんが、Yさんであって、Yさんでない部分。そ
ういうものが、混然一体となって、今のYさんをつくりあげている。

 たとえばYさんが優等生であったという部分についても、ひょっとしたら、Yさんは、そういう仮
面をかぶっていただけなのかもしれない。仮面をかぶることで、自分にとって居心地のよう世
界を作ろうとしていただけなのかもしれない。

 さらになぜ仮面をかぶるようになったかといえば、貧弱な幼児期の家庭環境、さらには、貧弱
な母子関係があったのかもしれない。

 決して失礼なことを言っているのではない。こうした問題は、その多くは、(私であって、私でな
い部分)に起因している。それがわかってほしかったから、あえて「貧弱」という言葉を使った。

 繰りかえすが、「貧弱」であることが悪いというのではない。むしろ、そうでない、つまり親の愛
情に包まれ、何一つ不自由なく育った人のほうが、少ない。「私」をさがすときは、そういう前提
で、さがす。

●基本的信頼関係

信頼関係は、絶対的な(さらけ出し)と、(受け入れ)を基盤として、その上で結ばれる。「絶対
的」というのは、「疑いすらもたない」という意味。

 この関係を、最初に経験するのは、子どもの立場でいうなら、母親との関係においてである。
これを母子間における基本的信頼関係という。

 この関係が、そのあと、その人の信頼関係の基本になる。子どもは成長するにつれて、その
関係を、先生や、友人、さらには、配偶者(夫、妻)や自分の子ども(息子、娘)へと広げていく。

 しかし乳幼児期に、母子との間で、この基本的信頼関係を結ぶことに失敗した子どもは、そ
のあと、(それに気がつかなければ)、その十字架を一生、背負うことになる。

 つまりは、自分以外の人間に、心を開けなくなる。だれとも信頼関係を結べなくなる。

●心を開けない子どもたち

他人に対して心を開けない子どもは、つぎの5つのパターンのうち、どれかをとる。

(1)攻撃型(他人に対して、攻撃的になる。)
(2)自虐型(自分をいためつける。)
(3)依存型(だれかにベタベタ甘える。)
(4)服従型(特定の人に、徹底的に服従する。)
(5)同情型(相手に同情を求める。)

 攻撃型というのは、他人に対して攻撃的になることで、自分にとって、居心地のよい世界をつ
くろうとするタイプ。先に書いた、つっぱる子どもが、それに当たる。

 自虐型というのは、その攻撃性が、自分自身に向いたタイプと思えばよい。めちゃめちゃな
練習をして、スポーツの世界でよい成績をとる。あるいは、ガリ勉をして、よい成績をとるなど。
そういう形で、自己主張をしながら、自分の周囲に、自分にとって、居心地のよい世界をつくろ
うとする。

 依存型というのは、だれかにベタベタ甘えることで、自分の心のスキマを埋めようとするタイ
プ。一部の、心を許せる人に対してのみ、極端に、ベタベタする。その動作、しぐさは、幼稚
的、赤ちゃん的になることもある。

 服従型というのは、集団に中に身をおき、「上」の立場にいる人に対して、徹底した服従を誓
うもの。集団非行グループに属し、親分(ボス)に、徹底的に服従したり、どこかのカルト教団に
属して、その指導者(教祖)に、徹底的に服従したりするのが、それ。

 同情型というのは、わざと弱々しい人間を演ずることで、自分の立場をつくることをいう。みな
が「どうしたの?」と心配してくれるような状態を、自分の周辺につくっていく。そのために、自分
で病気をつくったり、また体の不調をいつも訴えたりする。演技でそうするというよりは、無意識
のうちにも、もっと自分の中の奥深い部分で、それをする。だから、その本人にとっては、本当
に頭や腹が痛かったりする。

●仮面

 こうした状態は、つまりは、人と人間関係をうまくつくれないために、その人がその代償的行
為として、する。子どもの世界には、よく知られた現象として、「仮面」がある。

 たとえば「ぶりっ子」と呼ばれる子どもがいる。それも、その仮面の一つ。先生やみなの前
で、いい子ぶることによって、自分をとりつくろおうとする。

 このタイプの子どもは、いい子であることで、自分の周囲に居心地のよい世界をつくろうとす
る。たとえば先生が、「道路にお金が落ちていたら、どうしますか?」と質問したりする。

 するとこのタイプの子どもは、自分をさらけ出す前に、「こういう答を言えば、先生はほめてく
れるだろう」「こういう答を言えば、みなから、尊敬されるだろう」と、即座に計算する。そしてそ
の瞬間に、自分でない、自分を演ずる。

 「交番へ届けます」と。

 しかしこうした仮面をかぶることによって、一番、疲れるのは、その子ども(人)自身ということ
になる。人と接することから生まれる、緊張感。その緊張感から、解放されることはない。だか
ら人間関係をうまく結べない人は、集団の中では、精神疲労を起こしやすい。集団の中では、
明るく快活で、かつ社交的にふるまうことはあっても、実際には、そういう場が苦手。たとえば
パーティから帰ってきたりすると、どっと疲れてしまうなど。

 そのことをわかりやすく説明したのが、ショーペンハウエルという学者である。彼は、「二匹の
ヤマアラシ」を使って、それを説明した。

●マザコン

 乳幼児期から少年少女期にかけて、母と子がつくる母子関係は、絶対的なものであり、かつ
重要なものである。

 子どもは、母親から命を受け、さらに誕生後も、乳を受けるからである。子どもは、この時
期、父親がいなくても育つが、母親なしでは、一日たりといえども、ひとりで生きていくことはで
きない。

 そのため母子関係は、濃密(ベタベタ)なものになりやすい。

 この濃密さを調整するのが、父親の役割ということになる。父親は、この母子関係に割って
入り、母子関係を調整する。わかりやすく言えば、クサビを打ちこむ。この濃密な母子関係を、
そのまま放置すれば、子どもは、生涯にわたって、その母親の呪縛から、解き放たれなくなっ
てしまう。

 よく知られた例に、『冬彦さん』(テレビドラマの主人公)がいる。いわゆるマザコンタイプの男
性である。

 よく誤解されるが、男性だけがマザコンになるのではない。男性と比較すれば少ないが、女
性だって、マザコンになる。このタイプの人は、男性にせよ、女性にせよ、親(とくに母親)を絶
対視することで、自分のマザコン性を正当化しようとする。「私がそれだけ母を大切に思うの
は、それだけ母が、すばらしい人だから」と。

●家族自我群

こうした母系家族の中では、「家族」は、どくとくの(まとまり)をもちやすい。母親中心の家庭で
は、その分だけ、家族の関係は、濃密になる。そのため、濃密な依存関係をつくりやすい。

本来、家族といっても、ひとりひとりの家族が、それぞれ一人の人間として、たがいの信頼関係
でなりたつ。が、その濃密さが、ときとばあいによって、そういった信頼関係のあるなしとは、関
係なく、たがいをしばりあう「束縛」として、機能するようになる。

 この絶対的な束縛感を、「家族自我群」という。

 しかしこの家族自我群は、子どもの成長過程においては、ある時期までは、重要かつ大切な
ものである。しかしある時期を過ぎると、子どもにとっては、その成長をはばむ、大きな足かせ
になることがある。

 そこで子どもは、成長する過程の中で、その自我群からの独立をめざす。これを「個人化」と
いう。その時期は、子どもが、小学3年から4年にかけての時期とみてよい。

 ちょうどこのころ、「私は私」という、自己意識が、急速に子どもの中に芽生えてくる。

 ただこの段階で、誤解してはいけないのは、こうした個人化が、家族の否定を意味するので
はないということ。ここでいう「個人化」というのは、あくまでも、親が親としてもつ親意識からの
解放をいう。家族というまとまりの否定ではない。いわゆる「家族主義」とは、異質のものであ
る。

●家族自我群

 この家族自我群には、両面性がある。家族の間の人間関係が良好なときには、自我群は、
家族をうまくまとめるために、プラスの方向に機能する。その自我群を積極的に、肯定する考
え方も、そこから生まれる。

 東洋的な孝行論、忠孝論は、こうした自我群から発達したと考えられる。

 が、この自我群が、負の方向に作用するときがある。

 ある男性は、自分の母親の葬儀に出なかったことを、それから10年以上もたっているのだ
が、いまだに苦しんでいる。いろいろ事情はあった。その男性なりの理由もあった。

 しかし今、その男性は、苦しんでいる。ふつうの苦しみ方では、ない。「私はダメ人間だ」「人
間として失格者だ」と、自らにレッテルを張ってしまっている。その苦しみ方を見ていると、どこ
かカルト的ですら、ある。あえて言うなら、踏み絵を踏んでしまった、キリスト教徒のような感じさ
えする。

 私が「だれも、あなたを責めていないですよ」と説得しても、意味はない。つまり自我群のもつ
深大さは、想像以上に大きいということ。負の方向に作用したときには、その人の人格をも否
定してしまう。そしてその中で、その人を、とことん苦しめる。

●親捨て

 今でもある地方へ行くと、「親捨て」という言葉が残っている。「親のめんどうを見ない、親不孝
者」のことを、そう呼ぶのだそうだ。

 ただ単なる言葉だけの問題ではない。その地方では、一度、親捨てと呼ばれたら、親戚づき
あいができなくなるのは、もとより、近所の人たちからさえも、白い目で見られるという。現実に
は、「郷里へ帰ることさえできなくなる」(ある男性からのメール)とのこと。

 その地方では、そういう形で、むしろ子どもを積極的に、自我群のもつ束縛の中に、組みこも
うとする。それは自分自身の老後のためかもしれない。親を捨てた子どもをきびしく排斥するこ
とによって、その一方で、自分の息子や娘に対して、「親を捨てると、たいへんなことになるぞ」
と、警告することができる。

 が、それだけではない。

 「親捨て」のレッテルを一度張られた子どもは、その重圧感に、一生、悩み、苦しむことにな
る。 

●子どもの自立

 子育ての究極の目標は、子どもを自立させること。それは常識だが、その自立のカギをにぎ
るのは、そんなわけで、母親ということになる。わかりやすく言えば、母親が、自分自身のもつ
(限界)に気づき、その(限界)と、戦うこと。

 さらに言えば、子どもがその年齢に達したら、母親自身が、子どもの自立をうながしながら、
子ども自身が、親離れできるように仕向ける。たとえて言うなら、親鳥が、ヒナを、巣から追い
出すような行為をいう。これはただ単なる子離れとは、異質のものである。

 親が子離れするのは、子どもが親離れしたあと、必然的な結果として起こるもの。

 当然、父親の強力も必要となる。先にも書いたように、父親の役割は、ともすれば濃密になり
やすい母子関係に、クサビを打ちこむこと。そして、子どもを外の世界に連れ出し、(狩りのし
方)を教えること。

 もっと言えば、母親が、その母性本能に溺れ、母親だけの子育てをするのは、危険なことで
すら、ある。その危険さに、母親自身が気づく。それがここでいう(限界)ということになる。

●Yさんのケース

 Yさんのメールを読むと、Yさんの周辺には、さまざまな問題が、くもの巣のようにからんでい
るのがわかる。

 Yさんには、つらい話かもしれないが、順に、問題点を整理してみよう。

(1)恵まれなかった、幼少時代。貧弱な愛情問題。
(2)父親不在の家庭環境。父親像の薄い、家庭環境。
(3)濃密な親子関係。個人化の遅れ。自我群の束縛。
(4)心を開けない、家庭環境。母子関係の不全。
(5)母親への強度な依存性。マザーコンプレックス。
(6)両親の離婚。それにともなう、心の葛藤。
(7)Yさん自身の信頼関係の不足。そして仮面。
(8)不安神経症と、基底不安。基本的不信関係。
(9)夫の単身赴任。どこか心さみしい結婚生活。
(10)夫や子どもにさえ、心を開けない心の閉鎖性。

 Yさんには、心の状態を正確に知ってほしかったから、あえて書き出してみた。Yさんに与える
衝撃には、はかり知れないものがある。それはわかっている。しかしこの問題だけは、自分が
何であるか、それをまず知る必要がある。「私」を超えた、「私」を、である。それがわからない
と、いつまでも、私であって私でない部分に、振りまわされるだけということになる。

●時は心の癒(いや)し人

 「私」がわかれば、あとは、時間が解決してくれる。『時は、心の癒(いや)し人』という言葉は、
私が考えた。すぐには、解決しない。しかし「私」が何であるかがわかれば、あとは、はやい。

 あるいは「私」が何であるかわれば、別の「私」が、それをコントロールするようになる。「これ
は本当の私だ」「これは本当の私ではないぞ」と。Yさんも、心に大きなキズをもっている。その
キズが、今のYさんをつくりあげた。

 「勉強が好きだった」と言うYさん。しかし本当のところは、勉強が好きだったというよりは、勉
強を通して、自分にとって、居心地のよい世界をつくっていただけなのかもしれない。どこか自
虐的な勉強をしながら、母の関心をひき、母の期待に答えようとした。

 しかし本当にYさんは、もっと、安心して、つまりは不安なく暮らせる、安定した家庭を求めて
いたのかもしれない。が、その希望は、うまく、かなわなかった。

 ……と、いろいろ考えられる。が、ここで重要なことは、「過去は、過去」として、明確に割り切
ること。実のところ、Yさんは、もう一つの問題をかかえている。「世代連鎖」という問題である。

●世代連鎖

 こうした問題は、世代連鎖しやすい。事実、Yさんの母親は、Yさんに離婚をすすめている。周
囲に離婚の経験のない人は、こういうケースでも、「離婚」という言葉を、安易に口にしない。そ
ういう発想そのものがない。一方、身近で離婚を見聞きした人はほど「離婚」という言葉を、口
にしやすくなる。

 そのYさんの両親は、Yさんが、子どものときに離婚している。離婚することが悪いというので
はない。離婚する人には、離婚するだけの理由がある。「結婚」という形にこだわる必要はな
い。しかし問題は、その離婚にまつわる心の葛藤、家庭内の騒動、そして「心」の崩壊である。

 Yさんの子どもは、今、まさに、Yさんが少女時代に体験したのと同じ体験を、繰りかえそうと
している。そのことにYさんは、まだ気づいていない。実のところ、Yさんが、心を開けないなら開
けないで、それは構わない。

 しかしそういうYさんを母親にもち、人知れず、一番悲しみ、苦しんでいるのは、子ども自身で
ある。それを忘れてはいけない。もっと言えば、Yさんの子どももまた、人に対して心の開けな
い人になってしまっている可能性がある。しかも悲劇的なことに、そのことに、Yさん自身が気
がついていない可能性がある。

 言うまでもなく、心の開いている人からは、心の開いていない人がよくわかる。しかし心を開
けない人からは、心の開いていない人がわからない。他人も、自分と同じようだと考えてしま
う。

 こうして、親から子へと、心が伝わっていく心が、心として、世代を超えて伝わってしまう。これ
を世代連鎖という。行為や行動が伝わるのではない。行為や行動は、あくまでも、その結果で
しかない。

【Yさんへ……】

●あなたはすべてをもっている

 かなりきびしいことを書いてしまいました。どうか、冷静に読んでください。私はあなたを怒ら
せるつもりも、不愉快にするつもりも、ありません。

 あなたに、心の平安を取りもどしてほしいのです。安らかで、落ちついた世界です。

 今、あなたはすべてをなくし、不幸のどん底にいると思っているかもしれません。しかしこれ
は、たいへんな誤解です。

 実は、今、あなたは、(すべてのもの)をもっているのです。やさしく、子ども思いの夫。家庭と
家族。健康。若さ。人生。やさしい母親。あなたの母親には、どこか問題はありますが、しかし
この日本では、平均的というより、平均以上!

 あなたはすべてをもっているのです。あなた自身も、です。聡明な知恵、知識、学識、経験、
常識。すべてです。

 ただ一つ、問題があるとするなら、あなたは、自分だけの世界に閉じこもってしまっている。あ
なたの夫ですら、信じていない。あなたの子どもですら、信じていない。

 ここが最大の問題です。あなたは自分のことしか考えていませんが、(たしかにそういう意味
では、自己中心的ですね)、そういうあなたを妻にもち、母にもち、さみしい思いをしているの
は、あなたの夫であり、子どもです。

●借金など、何でもない問題

 はっきり言いましょう。カードローンによる借金など、大きな問題ではありません。事業に失敗
し、破産しても、夫婦で助けあいながら、懸命に生きている人は、この世界には、五万といます
よ。深刻な子どもの問題をかかえながら、懸命に生きている人は、さらに五万といますよ。いち
いちそんなことを離婚事由にしていたら、この世の中には、結婚する人などいなくなります。

 (あなたが離婚を考えていることについて、あるいはもっとほかにも、理由があるのかもしれ
ませんが……。夫が単身赴任をしていたという事実が、どうも心にひかかります。どうして単身
赴任など、させたのですか? あるいはその前から、夫婦関係が、おかしくなっていたのです
か? 私は単身赴任などいう制度そのものに、若いときから、猛反発してきました。「家族がバ
ラバラにされて、何のための仕事か!」とです。)

 それにしても、今、あなたにとって大切なことは、命を削るような転機を迎えることではなく、や
るべきことを自分に向ってすることです。

 もしあなたにまだ、いちるの望みがあるなら、そして夫に対する愛が残っているなら、負けを
認めなさい。心を開いて、負けを認めなさい。がんばる必要はありません。勇気を出して、心を
空に向って、解き放つのです。勇気を出して、です。体は、あとからついてきます。

●もっとさらけ出して生きる

 がんばってはいけません。プライドにしがみついてはいけません。ありのままを、あなたの夫
や子どもの前で、さらけ出すのです。それでダメなら、ダメでいいではないですか。ダメで、ダメ
もと。

 「子どもを白目でにらんだり、指を吸ったり、バスタオルが離せなかったり……」と、あなたは
書いています。

 いいじゃないですか、白目でにらみたかったら、にらめば。どうしてそれが悪いことなのです
か。

 いいじゃないですか、指を吸いたかったら、吸えば。どうしてそれが悪いことなのですか。

 いいじゃないですか、バスタオルが離せなかったら、もっていれば。どうしてそれが悪いことな
のですか。

 私も、神経が不安定になると、ワイフのおっぱいをずっと吸っていますよ。ある雑誌の告白手
記に書いてありましたが、毎晩、夫のペニスを吸わないと眠られない若妻だっているそうです。
毎晩、チューチューと吸いながら、眠るのだそうです。

 さらに私の知人(もちろん男性)の中には、一流企業の役員をしているのがいますが、その彼
の密かな趣味は、大きな尻をもった女性に、その尻で、顔を踏みつけられることだそうです。わ
かりますか? みな、それぞれです。

 みんなそれぞれの方法で、自分の心の問題と戦っているのです。「これはいいことで、これは
悪いこと」と、決めてかからないこと! したいことをしなさい。言いたいことを言いなさい。あな
たの夫や子どもには、したいことをさせてあげなさし。言いたいことを、言わせてあげなさい。他
人にはできないかもしれませんが、夫婦や家族に対してならいい。だから、夫婦であり、家族な
のです。

 おかしな基準をもつこと自体、Yさん、あなたには、家族像が入っていないということです。勝
手な空想で、理想の夫婦像などつくらないこと。

●あとは、居直る

 あなたはあなた。どこまでいっても、あなたはあなた。居直りなさい。仮におかしな性癖があっ
たとしても、(ぜんぜん、おかしくないですが……)、そんなこと気にすることはありません。

 Yさんが、今、かかえている問題は、一見、Yさんを包む家族の問題に見えますが、ひょっとし
たら、Yさんがほんの少しだけ、心の向きを変えれば、すべて、解決する問題のように思いま
す。ある意味で、何でもないですよ!

 どこにでもある。だれしもかかえている。多かれ少なかれ、みな、です。

 イランの笑い話に、こんなのがあります(イラン映画「桜桃の味」より)。

 ある男が、病院へやってきて、ドクターにこう言いました。「ドクター、私は腹を指で押さえる
と、腹が痛い。頭を指で押さえると、頭が痛い。足を指で押さえると、足が痛い。私は、いった
い、どこが悪いのでしょうか?」と。

 するとそのドクターは、こう答えたそうです。「あなたは、どこも悪くない。ただ指の骨が折れて
いるだけですよ」と。

 いいですか、あなたは今、すべてのものを持っている。(すべてのもの)です。(私は生きてい
る)という原点から、もう一度、自分をながめてみてください。それですべてが、解決しますよ。

●すばらしい母親

 Yさんは、若いのに、じゅうぶん、自分を冷静に見つめる視点をもっておられます。すばらしい
ことです。そこらのママ(失礼!)とは、中身もできもちがいます。メールの内容から、それがわ
かります。

 それに子どもが男児だから、よけいに戸惑っておられるのかもしれません。Yさんには、「男
像」というのが、脳の中に、インプットされていないのです。しかし、それは仕方のないこと。大
半の母親がそうです。

 方法があるとしたら、頭の中で空想することによって、あなたの子どもの中に、自分を置いて
みることです。子どもの目を通して、自分がどう見えるかを、空想してみるのです。

 たとえば今、私のワイフイは、居間で、あれこれあと片づけしています。そのワイフの視点の
中に、自分を置いてみます。そうすると、ワイフの目を通した、自分が見えてきます。

 ワイフはきっとこう思っているはずです。「何も、手伝ってくれないで、パソコンの画面にばかり
向っている」と。

 こうして相手の心の中に入ることによって、あなた自身の自己中心性を、克服することができ
ます。意外と簡単ですから、一度、試してみてください。

 Yさんの心をふさいでいる重石(おもし)は、相当なものです。しかしもう、あとは時間の問題で
す。なぜなら、すでに、Yさんは、その重石が何であるか、気づいているからです。

 あとは、勇気を出して、自分の心を空に向って、解き放ってください。体はあとからついてきま
す。
(041003)

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司


最前線の子育て論byはやし浩司(329)

●心を開く(自己開示の問題)

 子どものばあい、(心の開いた子)か、(心の閉じた子)かは、簡単に見分けがつく。

 子どものばあい、とくに年長児、年中児のばあいは、何かのことで、ほめてみるとわかる。「じ
ょうずだね」とか何とか言って、頭をなでてみる。

 そのとき、(心の開いた子)は、すなおにそれを喜ぶ。そしてそのとき、私が感じている(やさし
さ)が、そのままスーッと、子どもの心の中に、しみこんでいくのがわかる。

 反対に(心の閉じた子)は、その瞬間、ピリッとした緊張感が走る。ときには、拒絶感すら覚え
る。様子がぎこちなくなることもある。私が感じている(やさしさ)が、そのままはねかえされてし
まう。

 (心の閉じた子)は、独特の反応を示す。いじける、ひがむ、つっぱる、すねる、ひがむ、な
ど。教える側の心が、子どもの心にたどりつくまでに、いくつもの障害にぶつかるような感じに
なる。

 で、(教える)という立場で、子どもの心を開かせるのは、それほど、むずかしいことではな
い。

 楽しませる。ほめる。笑わせる。が、最大のコツは、その子ども自身の心の中に、入ってもの
を考えることである。子どもの視点で、私自身を見つめてみる。すると自然と、その子どもの心
になって、その子どもに、語りかけるような口調になる。

 このことは、家庭教育でも、すぐ応用ができる。あなたの子が、あなたに心を開いているな
ら、それでよし。もしそうでないなら、一度、子どもの心の中に、自分を置いてみるとよい。

 ……と、同時に、ではあなた自身は、どうかという視点で、考えてみることも大切である。

 あなたの両親、夫(妻)、友人、そして子ども。そういった人たちに対して、あなたは、心を開
いているだろうか。

 だれかが何かのことで、あなたにやさしくしてくれたようなとき、その(やさしさ)を、スーッと、
そのままあなたは、受けいれているだろうか。もしそうなら、それでよし。もしそうでないなら、な
ぜあなたがそうなのかを、静かに一度、自分を見つめてみるとよい。

 言うまでもなく、心が閉じていると、結局は、さみしい思いをするのは、あなた自身だからであ
る。


●無防備な心

 「心を開く」ということは、同時に、無防備になることを意味する。このことは、私のワイフが、
指摘した。「他人を信じすぎると、サギにひかかりやすくなるんじゃ、なア〜い?」と。

 そういう危険性は、大きい。

 だから当然、私たちは、心を開く相手を、選ばねばならない。いつも、心の中で、「この人に
は、心を開いていいか」「どの程度まで、開いていいか」と。

 心理学の世界でも、こうした自己開示には、段階をもうけている。親しくなればなるほど、当
然のことながら、自分の秘密を開示することになる。

 その自己開示について、少し前、まとめた原稿を添付する。

+++++++++++++++++

●自己開示

 自分のことを話すという行為は、相手と親しくなりたいという意思表示にほかならない。これを
「自己開示」という。その自己開示の程度によって、相手があなたとどの程度、親しくなりたがっ
ているかが、わかる。

(1)自分の弱点の開示(私は計算が苦手)
(2)自分の失敗の開示(私はケースを割ってしまった)
(3)自分の欠点の開示(私は怒りっぽい人間だ)
(4)自分の家族の開示(私の母は、おもしろい人だ)
(5)自分の体のことの開示(私は、足が短いことを気にしている)
(6)自分の心の問題の開示(私は、よく、うつ状態になる)
(7)自分の犯罪的事実の開示(二年前に、万引きをしたことがある)

この表からもわかるいように、(1)の軽微な自己開示から、(7)の重大な自己開示まで、段階
がある。相手があなたに、どの程度まで自己開示しているかを知れば、あなたとどの程度まで
親しくなりたがっているかがわかる。

もしあなたと交際している相手が、自分の体の問題点や、病気、さらには心の問題について話
したとするなら、その相手は、あなたとかなり親しくなりたいと願っていると考えてよい。

 子どもの心も、この自己開示を利用すると、ぐんとつかみやすくなる。コツは、よき聞き役にな
ること。「そうだね」「そうのとおり」と、前向きなリアクション(反応)を示してやる。批判したり、否
定するのは、最小限に抑える。

 反対に、子どもがどの程度まで自己開示するかで、子どもの心の中をのぞくことができる。と
きどきレッスンの途中で、「きのうねえ、パパとママがねえ……」と話し始める子ども(幼児)が
いる。私はそういうとき、「そんな話はみんなの前で、してはいけないよ」とたしなめることにして
いる。

それはそれとして、子どもがそういう話をしたいと思う背景には、私と親しくなりたいという願望
が隠されているとみる。が、こんな失敗をしたこともある。

あるとき、「きのうねえ、パパとママがねえ……」と言い出した子ども(年中男児)がいた。「何
だ?」と声をかけると、その子どもはこう言った。「寝るとき、裸で、レスリングしていたよ」と。と
たん、参観していた親たちが、ドッと笑った。

 さてあなたは、だれに対して、どのレベルまでの自己開示をしているだろうか。それを知ると、
あなたの心の中の潜在意識をさぐることができる。

+++++++++++++++++++++

●人を選ぶ

 友人だ、仲間だと思っていた人に、裏切られるということは、よくある。
 
 私も、若いころは、新しい本を出版するたびに、ある人に、それを贈っていたことがある。当
然、その人は、喜んでいてくれると思っていた。口のうまい人だったということもある。

 が、その人が、私の本のあちこちから、ささいな記述を抜きだし、あろうことか、その該当する
人のところへ、その本をもっていき、「あの、林が、あなたのことを、こんなふうに書いている」
と、告げ口をしているのを、知った。

 私が、愚かだった。

 その一件が私の耳に入ってからというもの、私は、その人に本を贈るのをやめた。当然であ
る。そしてしばらくしてから、交際を断った。これまた当然である。

 しかしその人は、私がなぜそうしたのか、わからなかったようだ。それからも、相も変わらず、
親しげに手紙をくれたり、電話をしてきたりした。

 ……と、その人の悪口を書くのが、ここでの目的ではない。

 私も、実は、ほかのだれかに対して、同じようなことをしているかもしれない。自分で、気がつ
かないだけかもしれない。つまりこの世界には、こうした人間どうしの(しがらみ)(わだかまり)
が、無数にからみあっている。

 こういう世界で、心を開きあうということは、容易なことではない。心を開くためには、まずその
相手を知らねばならない。しかし知るためには、何年も、何年もかかる。

 そこで私のばあいは、あくまでも、私のばあいだが、最初から、「裏切られても、もともとよ」と
いう思いで、その人とつきあうようにしている。とくに教育の世界では、そうである。最初から、
期待などしていない。無償というわけではないが、いちいち気にしていたら、仕事そのものが、
できなくなる。

 加えて、最近は、こんなふうにも、思うようになった。

 「どうせ、長くても、あと20年。10年もすれば、頭も、ボケる。どうにでも、思いたければ、思
え」と。

 つまり居直りの構えである。私のことを悪く言う人がいても、私はもう、構わない、と。

 こうした考え方が生まれたのも、やはり年齢のせいかもしれない。年齢が進めば進むほど、
その先の人生がしぼんでくる、。考え方も、それに合わせて、変わってくる。

ただし一言。一度、私を裏切ったことがある人とは、私は、二度とつきあわない。「許す」とか、
「許さない」とかいうレベルの話ではない。私には、そういう人たちとの関係を修復するだけの、
時間もエネルギーも、もうない。もしそんな時間や、エネルギーがあれば、私はもっとほかのこ
とに使いたい。


●未練の燃焼

 日々の生活には失敗はつきもの。しかしその失敗でも、未練が残る失敗ほど、つらいものは
ない。「あのとき、ああすればよかった」「こうすればよかった」と。

 そこで私たちは、そのつど、自分を完全燃焼させながら生きる。何かのことでつまずいても、
後悔しないようにするためである。

 実は、長い目で見た、人の一生も、また同じ。

 やがて私の人生は、終わる。10年後か、20年後か。あるいは明日かもしれない。そのとき
大切なことは、その時点で、未練を燃焼させておくこと。「悔いのない人生」という言葉がある。
その「悔い」が残らないようにしておく。

 そのために、今という今を、懸命に生きる。生きて、生きて、生きぬく。

 が、それでもだめだとしたら……。そのとき、私は、未練をふっきることができる。「こんな世
界に、未練はない。アバヨ」と。そういうサバサバした気持で、この世を去ることができる。ま
た、そうでありたい。

 実際、もう私は、この世界に、未練をなくしつつある。どうしてそうなのかということについて
は、書く気力も、あまりない。それにかわって、「もう、どうにでもなれ」という思いが強くなってき
た。

 少し前だが、こんなことがあった。コンビニの駐車場を、自転車で横切ろうとしたときのこと。
一台の車が、私の真横で、急停止した。ものすごい音がした。私は、あやうくはね飛ばされると
ころだった。

 見ると、若い男女だった。どこかチャラチャラした、そのレベルの男女だった。自転車の向き
をなおしながら、その男の顔を見ると、その男は、私に、「バーカ」と言った。声は聞こえなかっ
たが、口の動きで、それがわかった。

 女のほうは、私から視線をはずし、ニヤニヤと笑っていた。

 恐らくその男女には、私は、うらぶれた初老の男に見えたのだろう。それはわかる。が、同時
に、私はこう思った。「どうして私は、こういう若い男女のために、日本の未来を心配しなければ
ならないのか」と。

 そのときまで、私は自転車をこぎながら、いつものように、あれこれ考えていた。

 つまらない話だが、そういうことが積み重なって、「もう、どうにでもなれ」という思いが生まれ
る。しかし……これは、ニヒリズムか? ニヒリズムだとするなら、それをもって、未練を解消し
たということにはならない?

 やはりそれでも、私は、それを乗り越えて、自分を燃焼させなくてはならない。燃やして、燃や
して、燃やしつくす。

 それが行き着いたとき、私は、多分、人生の未練から解放されるかもしれない。この世の
中、すべてのものに対して、「アバヨ!」と、笑って別れを告げることができるかもしれない。


●愚劣な人々

 とても残念なことだが、愚劣な人というのは、いるにはいる。ここ数日だけでも、こんなことが
あった。

 ワイフと、車で街に向っていたときのこと。小雨が降っていた。うしろから、救急車がやってき
た。私たちは、当然のように、左側の路肩に車を寄せ、そこで車を止めた。

 すぐ救急車が、私たちの車を追い抜いていった。が、である。みなが、そうしていることをよい
ことに、私たちの車を、うしろから追い抜いていった大型のバンがいた。

 しかも、だ。さすがのワイフも、これにはあきれたが、そのバンは、スピードをゆるめることな
く、一度、外側車線に車をだしたあと、何と、その救急車を、追い抜いていった!

 「何よ、あの車! 信じられない!」と。

 で、そのあと、私たちは、最近できた、ラーメン屋の駐車場に入った。日曜日ということで、駐
車場はいっぱいだった。ただ一か所だけ、あいているところがあったが、そこは、障害者用の
駐車場だった。車椅子のマークが、ペンキで描いてあった。

 しかたないので、私たちは、通路のところで、駐車場があくのを、待った。

 が、そのときも、である。うしろからやってきた。大型の乗用車が、私たちの横を通り抜ける
と、一瞬、迷ったような雰囲気はあったが、そのまま、障害者用の駐車場へ……!

 見ると、60歳代の夫婦と、孫らしき小学生が一人、乗っていた。もちろん障害者ではない。
元気そうに車のドアをしめると、3人は、そのままラーメン屋へと、飛びこんでいった。

 私があきれ、つづいて、ワイフもあきれた。そして「こんな店、やめよう」と私が言うと、ワイフ
も、「ウン」と言って、それに従ってくれた。

 こういう光景を見せつけられると、最初に、(怒り)、つぎに(あきらめ)、そして三番目に、(虚
しさ)を覚える。「どうせ虚しくなるだけ」と思って、(怒り)と(あきらめ)を、スキップすることもあ
る。いちいち、こんなことで腹を立てていたら、この世の中では、生きていかれない。

 そういう意味では、自分勝手で、わがままな人が多すぎる。自分のことしか、考えていない。し
かしそういう人を見せつけられると、ときとして、人は、まじめに生きていくのが、バカらしく思え
てくる。

 が、だからといって、自分の生きザマを放棄することは、敗北を認めることになる。敗北だけ
ではない。自分の人生を否定することにも、なりかねない。

 そこで残された選択は、ただ一つ。そういう人たちを、容赦なく、私たちの身のまわりから、排
斥していく。はっきり言えば、つきあわないということ。無視して、遠ざける。

 ああ、これもニヒリズムか? しかし、それ以外に、どんな方法があるというのか。そういった
人たちを見せつけられたときに感ずる、あの不愉快さと戦う方法が、ほかにあるというのか。

 ……ということで、私は、今、自分の身辺を、急速に整理し始めている。当然のことながら、
それには、善人と悪人をより分けるという作業が、含まれる。しかし、これはむずかしい。

 どういう人が悪人と言うことはできても、どういう人が善人かと言うことは、できない。そこで私
は、こう自分に言ってきかせる。

 『悪人のエサになってはいけない』と。

 この言葉は、昔、恩師の松下哲子先生(故、幼稚園理事長)が、口ぐせのように言っていた
言葉である。

 自分が善人になることはできないかもしれない。善人を育てることはできないかもしれない。
しかし、悪人を育ててはいけない。悪人のエサになってはいけない、と。

 何とも消極的な正義論だが、今の私には、この程度しか考えられない。

 
●善人の基準

 善なる価値を、どこに求めるか? どこに基準をおくか? 善人・悪人の判断も、それで、大
きく、変わってくる。

 たとえば昔、私の知人の中に、こんな人がいた。そのとき50歳くらいだったが、高度成長期
の波にのり、ふつうでない財産を、つくりあげた。

 その人が、私のところへやってきて、こう言った。「林君、ぼくは、先月、1000万円も稼いだ
よ」と。そして金ピカピカの時計や、分厚いサイフを見せびらかした。

 その人は、さかんに、自分の力を誇示し、「だから、私はすばらしい」「君たちも、私をすばらし
いと思え」というようなことを言った。

 しかし、だれも、そんな人をすばらしい人とは、思わない。ただのバカである。

 ……という話は、わかりやすい。しかし私たちは、日常的に、程度の差こそはあるが、同じよ
うなバカなことをしている。

 もともと価値のないものに、しがみつき、その中で、善悪を判断している。そしてその中で、善
人と悪人を区別している。そういうことは、よくある。

 で、私は、その「基準」について、最近、こう考える。

 「その人は、今、いかに他人に、尽くしているか?」と。

 たとえば私の姉は、ボランティアのヘルパーとして、暇さえあれば、近所の老人の世話をして
回っている。そういう姿を見ると、本当に、頭がさがる。で、私がそれを姉に言うト、姉は、こう
言った。

 「浩ちゃん、もっとすごい人がいるわよ」と。

 姉の話によれば、20歳の後半の男性だというが、その人は、寝たきり老人の入浴の世話を
しているという。ウンチや小便を、素手で始末しているという。

 間接的だが、私はその男性の話を聞いたとき、その男性に、神々しさのようなものさえ感じ
た。私など、その男性の足元にさえ、はるかにおよばない。

 つまり善人・悪人の基準は、いかにその人が、利他的であり、その一方で、利己的であるか
による。

 よく誤解されるが、よいことをするから、善人というわけではない。悪いことをしないから、善
人というわけでもない。自分の中の悪と戦ってこそ、その人は、はじめて善人の門をくぐること
ができる。

 このばあい、「利己」は、その悪と考えてよい。

 このことは、子どもたちの世界を見ていると、よくわかる。

 子どもというのは、小学2、3年を境にして、急速に自己中心性から、自分を脱却していく。こ
れを心理学の世界でも、内面化という。

 しかしみながみな、利己から脱却していくわけではない。内面化を完成させるわけではない。
それができないまま、つまりは未熟な精神状態のまま、思春期を迎える子どもも、少なくない。
むしろ、勉強だけがよくできて、受験勉強をスイスイとくぐりぬけていく子どもほど、利己的であ
すら、ある。

 また利己的でないと、受験勉強に勝ち抜くことができなという面も、ある。いちいち他人のこと
を気にしていたら、自分のほうが、蹴落とされてしまう。

 で、このタイプの子どもは、「勉強さえできれば、一人前」「勉強ができないヤツは、アホだ」と
いう、独特の価値観をもつ。そして私が、何かの仕事を頼んだりすると、「どうして、ぼくが、しな
ければいかんのかア!」などと反発したりする。

 が、その一方で、心のやさしい子どももいる。思い荷物をもち運んでいたりすると、すかさず
やってきて、「先生、いっしょに、もってあげる!」と。

 この(いっしょに、もってあげる)という心が、その子どもを成長させる。長い時間をかけて、そ
の子どもを、善人に育てる。
 

●荷物をいっしょにもつ

 私たちがいくら利他的であるといっても、その相手が、だれでもよいというわけではない。、そ
の「相手」を選ぶ必要がある。いくら利他的であるといっても、銀行強盗の手伝いをする人はい
ない。暴力団の手先となって、暴力を助ける人もいない。

 ここでいう「相手」とは、重い荷物をもって、懸命に生きている人ということになる。さらに言え
ば、その相手の人が、「利他の人」でなければならない。他人の欲望を満足するのを手伝うの
は、決して、利他ではない。

 このことも、子どもたちの世界を見ていると、わかる。

 教える側も、生身の人間である。そういう人間として、(教えたい子)と、(教えたくない子)がい
る。もっと言えば、いっしょに接していて、(ほっと心のなごむ子)と、(どこかピリピリする子)が
いる。

 当然のことながら、(ほっとなごむ子)を教えていると、楽しい。教えやすい。

 同じように、おとなになった今、それがそのまま(つきあいたい人)と、(つきあいたくない人)
の、基準にもなっている。

 そこで考えてみると、(つきあいたい人)というのは、どこか無償的、献身的。が、(つきあいた
くない人)というのは、どこか功利的、打算的。
 
 ここにも書いたように、いくら「利他」といっても、その人の欲望を満足させるのを手伝うのは、
利他ではない。

 たとえば子どもの世界には、受験勉強がある。

 子どもたちはいろいろな夢や希望をもって、受験勉強をしている。しかしその中身というか、
本音を言えば、(自己の欲望)の追求でしかない。「ぼくは、将来、医者になって、病気の人を
治したい」と言う子どもも、いるにはいる。

 しかし本当に、そんな崇高な理念をもっているかどうかといえば、それは疑わしい。子どもた
ちの世界も、そしてそれを包む、親たちの世界も、もっと、毒々しい。

 で、そういう受験勉強に手を貸すのは、決して、「利他」ではない。

 ここにも書いたように、「利他」が「利他」であるためには、助けるべきその「相手」の人も、同
じく、利他でなければならない。

 話がわかりにくくなってきたので、もう少し、かみくだいて考えてみよう。

 今、ここに、一人の女性がいる。彼女は、毎日のように、近所を回り、雑草を刈っている。つ
まりその女性は、「利他」の心で、そうしている。

 そういう女性を利するように考えるのは、利他である。その「相手」の人も、また、利他の心で
行動している。

 ……ということで、一度、利他の心にめざめると、その心は、静かな水面に落ちた石の輪の
ように、周囲へ広がっていく。利他が利他を呼ぶというか、利他の人たちは利他の人たちどうし
が、集まり始める。

 と、同時に、自己中心的な利己主義の人がどう人か、それがよくわかるようになる。と、同時
に、そういう人を、遠ざけるようになる。

 「つきあっても、ムダ」「時間のムダ」と考えるようになる。


●時間のムダ

 人生は、長いようで、短い。短いようで、長い。が、やはり、長いようで、短い。英語の表現方
法に、『まばたきする間に、子どもはおとなになる』というのがある。(Children grow up and 
leave in the blink of an eye. )

 子どもの、成長だけではない。まさに、その(まばたき)のうちに、人生は、過ぎる。

 私は、ときどき、「時」というのは、何ものにもまさる財宝のように思うことがある。それはだれ
にとっても、そうだろうと思う。しかし問題は、その「時」を、どう使うか、だ。

 たとえば最近、何かのことで、時間をムダにしたりすると、私は、そのあと、「しまった!」と思
うことが多くなった。とくに最近は、「マガジンを1000号まで出す」が、私の目標になっている。


 つまらないことで、1時間もムダにしたりすると、「ああ、1時間もあれば、原稿の10枚くらい
は、書けたのに……」と。(マガジンでは、約20枚を、1回分の分量に決めている。)

 人との交際についても、同じである。さらに仕事についても、同じである。

 先日も、ある出版社から、久しぶりに、仕事が舞いこんできた。内容は、老人のボケ検査に、
幼児の知能検査法が利用できないものか。できるなら、その検査法について、書いてほしいと
いうものだった。

 最初は、おもしろく感じたので、二つ返事で、「やりましょう」と答えた。しかしいざ、やり出して
みると、まったくおもしろくない。「こんなことをして、何になる?」という思いだけが、つのった。

 それについて、ワイフに、「もう少し若いときだったら、夢中になってしたかもしれないのにね」
と言うと、ワイフも、「そうねエ。今さら老人問題なんてねエ……」と。

 だから、時間をそまつにしている人を見かけたりすると、「もったいな」と思う。それはたとえて
言うなら、ごちそうを、食い散らしている人を見るときの印象に似ている。「生きたくても、生きら
れない人は、多いのに……」とも。

 が、ここでも、ここに書いた問題に、ぶつかってしまう。問題は、その「時」を、どう使うか、であ
る。「時は、貴重だ。それはわかる。では、その時を、どう使えばいいのか」と。

 つまりは、目標ということになるのか。この問題をつきつめていくと、「私たちは、なぜ、ここに
生きているか」という問題までいってしまう。さらに、「なぜ、私たちは今、ここに存在するのか」
という問題まで、いってしまう。

 キリスト教の世界では、「神のような人間」ということになるのかもしれないし、仏教の世界で
は、「悟りを開いた人」ということになるのかもしれない。

 しかし私は、どうも、それが目標ではないような気がする。「気がする」と、今は、この程度の
ことしか書けないが、私は、「神のような人間」にせよ、「悟りを開いた人」にせよ、そんなのは、
本人もしくは、まわりの人の、思いこみにすぎないのではないかと思う。

 話が大きく脱線したが、「時」をどう使うか? この限りある「時」をどう使うか? つまりは、そ
れを考えること自体が、「生きる目標」のような気がする。

  人生は、長いようで、短い。短いようで、長い。が、やはり、長いようで、短い。今のあなた
が、あっという間に、今のあなたになったように、そのあっという間に、あなたの人生も、終わ
る。

 話がもとにもどってしまった。ああああ……。今の私は、とにかく、1000号までマガジンを出
してみる。そのあとのことは、考えていない。あまり考えたくない。その先に、何かあるだろう。
いや、何もないかもしれない。あるいは、時間のムダかもしれない。そんな不安は、あるが、し
かし、今は、前に進むしかない。

(何ともまとまりのない原稿になってしまった。ボツにしようかと迷ったが、このままで……。ごめ
ん!)
 

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

最前線の子育て論byはやし浩司(330)

【近況・あれこれ】

●巨大なスズメバチの巣

 今朝起きたら、ワイフが、興奮した様子で、こう言った。「あんた、見て!」と。

 その瞬間、不吉なものを感じた。30年以上もいっしょに暮らしていると、以心伝心というか、
テレパシーというか、そういうもので、ワイフの心の中がわかる。

 ワイフが指さす方向を見ると、巨大なスズメバチの巣。駐車場の屋根の下に、それはあっ
た。

私「気がつかなかったなあ……」
ワイフ「私もよ。あんなところにあるなんて……」

 大きさは、サッカーボールくらい。雨だというのに、出入り口からは、ときおり大型のスズメハ
チが、出入りしている。

私「これはあぶないなあ」
ワイフ「市のほうへ連絡しましょうか?」
私「そのほうが、いいね。これだけ大きいと、ぼくの手に負えない」

 ハチの巣は、太さが1センチ前後のつたの枝に、複雑にからんでいた。それがなければ、袋
をかぶせて、そのまま巣を天井から切り離すということもできるのだが……。

 市へ連絡すると、農政課へ。そしてそこの担当の人が、地元の駆除業者を紹介してくれた。
「除去には、7000円から1万円かかります」とのこと。

 で、そのまま駆除業者へ。住所と名前と電話番号を伝えると、「近く、行きます」と。

 改めて、ハチの巣を見るために、外に出る。あいにくと出入り口は、やや上方にあって、下か
らは見えない。「あの出入り口に、殺虫剤を注入すればいいのかな?」と、勝手なことを考え
る。

 私は今度、スズメバチに刺されたら、死ぬ。そういう運命にある。一度、刺されて、抗体が体
の中にできてしまった。それがなければ、自分で駆除するのだが……。

 率直に言って、ハチの巣の駆除は、おもしろい。スリルがある。子どものころは、毎日のよう
にしていた。中学生や高校生のころは、左手に下敷き、右手に棒という軽装で、よくハチの巣
を取りにいった。

 私をめがけて飛んでくるハチを、パンパンと、下敷きで払いながら、もう一方の手にもった棒
で、ハチの巣を、落す。落としたあとは、ハチの子を取り出して、食べる。
 
 今から思うと、あれが私の特技だったかもしれない。一度、幼稚園の庭で園児を指導してい
るときのこと。そのスズメバチが、2匹、襲ってきた。そのときも私は、もっていたカバンで、そ
のスズメバチを、パンパンと地面にたたきつけ、そのまま足で踏みつけて殺した。

 瞬間のできごとだった。とっさの判断というか、まさに瞬間のできごとだった。

 それを見ていた若い女性の先生たちが、「ステキ!」と言って、手をパチパチ、たたいてくれ
た。私にとって、ハチというのは、そういう虫である。

 しかしその私が、業者に駆除を頼むとは……。いや、お金の問題ではない。「今度、刺された
ら、死ぬ」という恐怖のためだ。若いころのような機敏さは、もう、期待できない。だから、去年、
ハチに刺された。……刺されてしまった。

 
●パソコンと体の健康論

 パソコンという機械は、サクサクとうまく動いているときは、その状態を守りながら、使う。へた
な冒険主義は、禁物。命取りになる。

 が、それでも、スケベ心というか、新しいOSや、ソフトが発表されるたびに、触手が動く。今
回の、SP2も、そうだ。

 「セキュリティが強化されます」という歌い文句につられて、導入。しかしそのため、画面表示
がおかしくなるは、動作がにぶくなるわ。おまけにプリンターまで、反応しなくなるわ……。

 が、ここでやめたら、おもしろくない。パソコン歴、30年が泣く! 私は、その1週間後、さら
に挑戦!

 一度、XPの「復元」機能をつかって、復元。もとにもどした状態で、あちこちの窓口に相談。

 パソコンのメーカーのF社は、「あらかじめ、修正モジュールを、ダウンロードし、インストール
しておいてほしい」という。その指示に従う。

 プリンターのメーカーのC社は、「対策方法がわかれば、連絡しますから、しばらく待っていて
ほしい」と言う。何とか、解決方法は見つかった。

 で、再び、SP2を導入。ドキドキ、ハラハラ……。

 ……とまあ、いろいろあった。おかげで、今は、たいへん快調にパソコンもプリンターも動作し
ている。前よりも快調になった感じ! よかった! 気持ちいい!

 ……と考えて、健康も、パソコンと同じと、今、思っている。

 実は、この7、8月ごろ、私の体調は、かなりおかしかった。気温が高かったせいもある。夏
風邪も、断続的に、ひいた。毎日、自分の体を支えるだけで、精一杯。

 私は、すっかり自信をなくした。あちこちの友人に電話をかけると、みな、「元気だよ」と。「本
当に、元気か?」と聞きなおすと、再び、「元気だよ」と。私は、そういう言葉が信じられなかっ
た。

 この状態は、9月に入っても、変わらなかった。おまけに頭も重かった。集中力もつづかなか
った。「脳の中に、腫瘍か何かできているのではないか」とさえ、思ってしまった。

 「まだ56歳なのに、どうやって、これから10年も、20年も生きたらいいのだ」と。

 が、やがてすぐ、原因は、太りすぎとわかった。そのころになると、体重が、68〜69キロ前
後になっていた。夏前より、軽く2キロは、オーバーしていた。

 早速、ダイエット。徹底的にダイエット。毎日食卓には、キャベツを中心とした、サラダだけ。
あとは、栄養補給剤。

 おかげで、今朝は、63キロ台になっていた。1か月で、5キロの減量である。とたん、体が、
ウソのように軽くなった。頭重感も消えた。朝起きたときの、足の裏の痛みも消えた。それに集
中力も、もどってきた。

 が、何よりもうれしいのは、気分が爽快になったこと。朗らかになったこと。

 あとは、この状態を、保つだけ。余計なことはしない。無理をしない。現状維持。それが一
番。

 ……ということで、今、パソコンと体が、頭の中で、妙にダブっている。あるいは同じ?

 パソコンも、体も、そこそこに、サクサク動作するなら、無理をしてはいけない。そっと、静か
に、ていねいにあつかいながら、その状態を守る。

 以上、私のパソコンと体の健康論でした!

【追記】

 このところの雨つづきで、運動不足。

 しかたないので、おととい(10・4)は、家中、大掃除。ワイフが、洗面所と日本間。その間に、
私が、残りの3部屋と、階段、廊下を、掃除した。2対4で、私の勝ち!

 30分もしていると、ジンワリと心地よい汗が、にじみ出てきた。気持ちよかった。その汗を感
じながら、さらに1時間ほど。

 季節はずれの大掃除をした感じ。「正月前でも、こんな掃除はしなかった」と、自分で、そう思
った。

 で、きのうも、またまた雨。

 「せっかく、体がサクサクと動くようになったのに……」ということで、昨夜は、ドシャ降りの雨
の中を、約7キロ、1時間で歩いた。教室から、自宅まで、である。

 結構、早足で歩いた。途中、同じように歩いている人を、何人か、追い抜いた。

 ワイフは、「無理をしないで」「途中で、たいへんだったら、電話してね。迎えに行くから」と、言
った。しかし途中でへこたれたら、はやし浩司の名前が泣く。

 おかげで今朝(10・6)は、快調。朝、目をさますと、体中の細胞が、心臓の鼓動に合わせ
て、サワサワと風をとおしているような感じだった。

 で、そのまま起きて、体重計に。結果は、63・5キロ。パジャマを脱げば、63キロになってい
るはず。そう思いながら、内心で、「ヤッター!」と。

 で、今朝は、昨日までとはうって変わって、秋晴れの快晴日。これから朝食を軽くとって、ハナ
(犬)と、海まで、散歩に行くつもり。


●母因性萎縮児

 小児科医院で受け付けをしている、知人の女性から、こんな話を聞いた。

 何でも、その子ども(現在は、中学男子)は、幼児のころから、ある病気で、その医院に通っ
ているという。そして、2週間ごとに、薬を受け取りにくるという。

 その子どもについて、その知人が、こんなことを話してくれた。

 「ひとりで病院へくるときは、結構、元気で、表情も、明るい。薬の数を確認したり、看護婦さ
んたちと、あいさつをしたりする。冗談を言って、笑いあうこともある。

 しかしときどき、母親がその子どもといっしょに、来ることがある。そのときの子どもは、まるで
別人のよう。

 玄関のドアを開けたときから、下を向いて、うなだれている。母親が何かを話しかけても、ほ
とんど返事をしない。

 そこで母親が、その子どもに向って、『ここに座っているのよ!』『診察券は、ちゃんと、出した
の!』『あの薬も、頼んでおいてね!』と。

 そのとたん、その子どもは、両手を前にさしだし、かがんだまま、うなだれてしまう。もちろん
だれとも、会話をしない。

 あるとき先生(医師)が、見るに見かねて、その母親に、『子どものやりたいように、させてあ
げなさい。そんなうるさいこと、言ってはだめです』と、諭(さと)したこともあるという。

 ああいう母親を見ていると、いったい、母親って何だろうと、そんなことまで考えてしまう」と。

 こういう子どもを、母因性萎縮児という。教育の世界では、よく見られるタイプの子どもであ
る。

 子どもだけのときは、結構、活発で、ジャキシャキと行動する。しかし母親がそばにいると、と
たんに、萎縮してしまう。母親の視線だけを気にする。何かあるたびに、母親のほうばかりを、
見る。あるいは反対に、うなだれてしまう。

 が、母親には、それがわからない。「どうして、うちの子は、ああなんでしょう。どうしたらいい
でしょう?」と相談してくる。

 私は、思わず、「あなたがいないほうがいいのです」と言いそうになる。しかし、それを言った
ら、お・し・ま・い。

 原因は、言わずと知れた、過干渉、過関心。そしてそれを支える、子どもへの不信感。わだ
かまり。愛情不足。

 いや、このタイプの母親ほど、「私は子どもを愛しています」と言う。しかし本当のところは、自
分の不安や心配を、子どもにぶつけているだけ。子どもを自分の支配下において、自分の思
いどおりにしたいだけ。こういうのを、心理学の世界でも、「代償的過保護」という。

 今、この母因性萎縮児は、結構、多い。10〜15人に1人はいるのではないか。おかしなこと
だが、母親自身が、子どもの成長を、はばんでしまっている。そしてここにも書いたように、「う
ちの子は、ここが悪い。どうして……?」「うちの子は、あそこが悪い。どうして……?」と、いつ
も、悩んでいる。

 そうこの話も、あのイランの笑い話に似ている(イラン映画「桜桃の味」より)。

 ある男が、病院へやってきて、ドクターにこう言った。「ドクター、私は腹を指で押さえると、腹
が痛い。頭を指で押さえると、頭が痛い。足を指で押さえると、足が痛い。私は、いったい、どこ
が悪いのでしょうか?」と。

 するとそのドクターは、こう答えた。「あなたは、どこも悪くない。ただ指の骨が折れているだけ
ですよ」と。

 そう、子どもには、どこにも、問題はない。問題は、母親のほうにある。

 しかしこの問題は、私のほうから指摘するわけには、いかない。この文章を読んだ、あなた自
身が、自分で知るしかない。
(はやし浩司 母因性萎縮児 母原性萎縮児)


++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司


●嫌われる老人

 これから先、この日本は、超高齢者社会を迎える。はっきり言えば、老人だらけの国になる。
しかしこれは、これからその老人になる私たちにとっては、深刻な問題である。

 理由の第一。

 社会にとって、老人が、「お荷物」になるということ。「粗大ゴミ」という言葉を使う人もいる。

 医療費や社会生活費の増大など、若い人たちのへの負担は、ますます大きくなる。もうすで
に今、パンク(破産)状態だと言う人もいる。そのうち、「医療費がしっかり払えないようなら、あ
なたはもう用なしですから、早く死んでください」と言われるようになるかもしれない。

 理由の第二。

 日本型、家族社会の崩壊。昔は、二世代、三世代同居住宅がふつうであった。若い人が老
人の世話をするというシステムが、まだ機能していた。

 しかし今、そのシステムは、崩壊した。それはしかたないとしても、それにかわる受け皿整備
が、遅れてしまった。これからは、ひとり暮らしの老人が、ますますふえる。その分だけ、孤独
な老人がふえる。

 こうした超高齢社会を前にして、私たちは、どうすればよいのか。

 要するに、若い人たちに、嫌われず、役にたつ老人になるということ。つきつめれば、そこへ
結論が飛ぶ。

 そこでまわりの老人たちを観察してみる。あなたのまわりの老人たちでもよい。すると、いろ
いろなタイプに、分類できるのがわかる。

(1)趣味、道楽型(毎日、道楽ざんまいで日を過ごす)
(2)引きこもり型(ほとんど社交せず、とじこもる)
(3)旅行、社交型(外出が多く、旅行ばかりしている)
(4)家族、孫育て型(家庭に入り、孫育てに没頭する)
(5)仕事、現役型(生涯、現役人間。仕事ばかりする)
(6)奉仕、献身型(他人のために奉仕活動をする)
(7)病弱、闘病型(病気ばかりしている。その繰りかえし)
(8)無益、無害型(いるのかいないのかわからない状態)
(9)権威、威圧型(過去の肩書きや役職をカサに着て、いばる)
(10)孤独、孤立型(ひとり暮しをする。友人もいない)

 ざっと思いつくまま、あげてみたが、もちろん複合型もある。状況や相手に応じて、変わると
いうこともある。

 しかし重要なことは、老人は老人として、その存在感をもたねばならない。人生の先輩とし
て、また経験者として、つぎの世代の人たちに、道を示せるようでなければならない。

 が、悲しいかな、事実は、逆である。この日本では、老人は、ないがしろにされている。で、そ
の責任はといえば、むしろ、老人自身にある。老人になるまでに、それなりの準備と努力をして
いない。決して、老後の資金だけの問題ではない。その結果として、この日本では、年々、老
人の影は、ますます薄くなってきている。

++++++++++

【例1】

 A氏は、今年、75歳。健康である。公団を退職してから、20年になる。妻も準公務員をして
いて、やはり退職してから、15年になる。

 そのA氏についていえば、どこか偏屈なところはあるが、性格は温厚。知的で、もの知り。長
い間、どこか別々の生活をしてきたということもあり、夫婦仲は、それほど、よくない。しかし他
人の目から見ると、ごくふつうの夫婦。

 A氏の趣味は、盆栽。庭から、二階の物干し台まで、盆栽が、ぎっしりと並んでいる。妻の趣
味は、刺繍(ししゅう)と料理。二人の子どもがいたが、すでに独立。都会で、結婚して生活して
いる。

 そんなわけで、A氏夫婦は、けっしてぜいたくな生活ではないが、そこそこに、優雅な生活を
楽しんでいる。毎月のように、旅行会の旅行に参加し、年に、2、3度は、海外旅行にもでかけ
ている。

【例2】

 B氏は、55歳まで、中規模の工場に勤めていた。そのあと、家業の農業を引き継ぎ、今にい
たっている。現在、79歳。

 若いころから、町の世話役として活躍。今は、祭の屋台の新造に情熱を注いでいる。屋台と
いっても、新造すると、1500万円もかかる。地元の自治会長を歴任し、このところ、毎晩のよ
うに、金策のため、あちこちを動きまわっている。

 通りで会うたびに、「今夜は、A地区の寄りあいがあってねエ」と、酒の入った赤い顔で、私に
あいさつをしてくれる。

【例3】

 C氏は、市役所を退職するとまもなく、軽い心筋梗塞で倒れた。幸い、そのあとのバイパス手
術が成功した。で、それからもう27年。が、健康というわけではない。

 「私の体は、病気のデパートみたいです」と言って、C氏は笑う。現在、83歳。

 年齢も年齢だが、このところ、数か月に一度は、救急車の世話になっている。軽い脳梗塞も
併発して、言葉もままならないような状態がつづいている。

 趣味は、とくにない。山を歩きながら、山草を集めたりしている。あとは、毎日、こまごまとした
家事のみ。もともと器用な人で、電気器具をなおしたり、家具を自分でつくったりしている。

+++++++++++

 以上、A氏、B氏、C氏の3人を考えてみた。もちろんみな、架空の人物である。私が、勝手に
想像した。

 しかしこれら3氏は、恵まれた人たちである。じゅうぶんな退職金と、じゅうぶんな年金を手に
している。が、老人が、みな、この3氏のようであるとは、かぎらない。そういうことは別にして、
好かれる老人は、B氏であり、そうでない老人は、A氏やC氏ということになる。

 実際、「好かれる老人」のナンバーワンは、健康であること。どんなアンケート調査をしても、
そういう結果が、出てくる。が、実際には、それだけでは足りない。この世界では、「人に迷惑を
かけないから、いい老人」ということにはならない。また、それだけに甘えてはいけない。

 そこでさらに、老人のもつ問題点を整理してみる。

(1)依存性(だれかに頼ろうとする)
(2)閉鎖性(自分のカラにこもる)
(3)隠遁(いんとん)性(世捨て人になる)
(4)独断性(人の意見に耳を傾けない)
(5)権威主義(老人は偉いという意識が強い)
(6)絶対意識(親・絶対教の信者である)
(7)懐古主義(何でも、過去がよかったと口にする)
(8)否定主義(「今の若いものは……」と若い世代を否定する)
(9)虚無主義(何ごとにも無関心。世の不幸を笑う)

 ほかにも老人特有の自己中心性もある。しかしこうした自己中心性は、若いときからの引き
ずっているだけで、老人になったからといって、自己中心性が現れるわけではない。

 もちろんボケによる、症状もそれに加わる。アルツハイマー型のボケになると、がんこになっ
たり、融通がきかなくなったりする。無関心になったり、繊細さがなくなり、他人に対して、鈍感
になったりする。

 こうした状態になるのを覚悟するなら、生きザマは、二つに一つしかない。

 「我、関せず」と、(嫌われる・嫌われない)などを考えずに生きるか、あるいは、周囲の人た
ちに好かれるように生きるか、である。

 が、実は、もう一つの生きザマがある。

 「だからどうなの?」と自分に問いかけながら、生きる、生きザマである。つまり自分自身に、
いつも、生きる理由を問いかけながら、生きる。

 つまり、好かれる老人は、いつも「だからどうなの」という部分が、はっきりしている。そうでな
い老人は、そうでない。ただ無益に、長生きをしているだけ。しかしそういう人生に、どういう意
味があるというのか。そういう人が、長生きをしたところで、それが、どうだというのか。

 今年死んでも、来年死んでも、同じ。ただ生ているだけ……という人生には、意味がない
(?)。生きる以上は、そこに何らかの意味がなければならない。

 その生きる「意味」がここでいう、「だからどうなの」という部分になる。

 最後に、私の義父(ワイフの父親)について書く。

 義父は、戦時中は、ラバウル島にいた。3000人いた部隊だったが、生きて帰ってきたの
は、たったの300人! そういう戦争を経験している。

 その義父は、生きている間中、「オレは、一度、死んで、命をもらった」が、口ぐせだった。
が、その義父が、胃がんになった。

 病院へ行くときは、すでに手遅れ。最期を予期していたのかもしれない。身辺の整理を静か
にしてから、家を出た。

 そして私たちが見舞いに行くと、いつも、ベッドの上で正座をして、座っていた。義父は、ただ
の一度も、弱音も、泣き言も言わなかった。「さみしい」とも、「つらい」とも、言わなかった。最後
の最後まで、そのままの様子だった。

 で、いよいよ最期の日。手術は、転移がひどいということで、開腹はしたが、そのまままた縫
いなおされてしまった。

 私はいろいろな人の死を見てきたが、私の義父ほど、堂々たる最期を見たことがない。最期
の最期は、みなの見ている前で、自分で延命器具を手ではずした。そしてそのまま静かな眠り
についた。

 私たちは、つまりあとに残されたものたちは、そういう生きザマの中から、何かを学ぶ。義父
は、それをしっかりと、私たちの脳裏に焼きつけてくれたが、それが、あるべき、私たちの老後
の姿ではないかと、私は、思う。義父は、老後を生きるとき、「だからどうなの?」という部分を、
いつも、大切にしていた。

 このテーマは、これから先、自分の問題として、ゆっくりと考えてみたい。

【補記】

 おいしいものを食べる……だから、どうなの?
 すばらしい車に乗る……だから、どうなの?
 楽しい思いをする……だから、どうなの?

 長生きをする……だから、どうなの? それがどうしたというの?

 老人たちよ、元気なら、まだ体が動かせるなら、そしてじゅうぶんな知力があるなら、みんな
に、その「命」を還元しようではないか。つぎの世代の人たちのために、何かをし、何かを残し
ていこうではないか。

 ただ優雅な隠居生活をしていてはいけない。
 趣味三昧(ざんまい)の生活をしていてはいけない。

 そうでないと、本当に私たちは、その「粗大ゴミ」になってしまう! あるいは結局は、そうする
ことが、老人自身のためにもなる。生きがいにもなる。

 知人のI氏(神奈川県F市在住)は、いつもこう言っている。「その年齢をすぎたら、自分の人
生を、つぎの世代を生きる人たちに、還元(かんげん)しなければいけません」と。

 私はこの「還元」という言葉が好きである。決して、自分の「命」を、自分だけのモノと、思って
はいけない。


●だから、どうなの?

「だから、どうなの?」という部分がないまま、戦後、日本は、日本人は、ただがむしゃらに生き
てきた。マネーを追い求めてきた。それがまちがっていたというのではない。そのおかげで、今
に見る、この日本ができた。

恩師のT先生は、いつも口グセのように、こう言っている。「日本は、いい国じゃあ、ありません
か」と。私が何か、日本について批判めいたことを口にしたときだ。

しかし、今、多くの日本人は、それではいけないと思い始めている。たしかに生活は豊かになっ
た。が、しかし、何か、ものたりない。そのものたりなさの理由は、何か、と。

今日の朝、私は、老人問題について、考えた。その中で、こう書いた。

たしかに日本人は、長寿になった。しかし、だから、それがどうなの?、と。

これはたいへん危険な意見でもある。「命」の否定にもつながりかねない。へたをすれば、老人
不要論にまでいってしまう。

さらに(だから、どうなの)論を、どんどんと拡大していくと、生きていること自体の否定にもつな
がりかねない。事実、うつ病か何かになって、自殺を試みる人は、「生きていて、何になる?」と
いうふうに考えるという。

それは、わかる。しかしその一方で、「だから、どうなの?」を考えないまま、突っ走るのも、こ
れまた危険なことである。欲望が欲望を呼びさまし、それこそ際限がなくなってしまう。収拾が
つかなくなってしまう。

一つの例をあげて、考えてみよう。

たとえばあなたは、今、一食、数万円もする料理を注文したとする。とてもおいしい料理だ。珍
しい食材に、特殊な調理法。それを料理した、コックは、全国大会でも、入賞するほどの腕前
をもっている。

あなたはその料理を食べた。おいしいと満足した。が、ここでクエスチョン。

だから、それがどうなの?

 せっかくすばらしい料理を食べたのだから、その分、何かがなければならない。この広い世
界には、満足に食べ物も手に入れることができる、苦しんでいる人が、何億もいる。その「何
か」がないまま、ただ「おいしかった」では、すまされない。あるいは、それですませて、本当に、
よいのだろうか?

 この段階で、「ああ、おいしかった」ですませてしまうと、今度は、あなたは、さらに高級な料理
を求めて、さまよい歩くかもしれない。その結果、肥満、そして成人病(ギョッ!)。

 「命」というのは、実は、私のものであって、私のものではない。ウソだと思うなら、あなたの手
指をじっと、ながめてみることだ。あなたは、その手指を自分のものだと思っているかもしれな
いが、あなたが、その手指を作ったわけではない。

 あなたの「命」は、あなたを超えた、はるかに大きな(流れ)の中で、過去から未来へと流れて
いる。あなたはその一部、その一瞬を、みなと共有しているにすぎない。

 「だから、それがどうなの?」と考えることで、あなたは、その命の流れの中で、立ち止まるこ
とができる。あなたよいうより、あなたの中に流れる、人間という命の欲望に、ブレーキをかけ
ることができる。

 本来、動物の行動には、すべてムダがないはず。昆虫でも、魚でも、鳥でも……。彼らの行
動のすべてには、「だから……」という部分が、はっきりしている。

 私たち人間も、そういう原点に、一度、立ちかえってみる必要がある。

 ……とまあ、むずかしい話を書いてしまったが、あなたも、ためしに、何かをしたら、「だから、
どうなの?」「それが、どうしたの?」と、自分に、問いかけてみてほしい。その時点で、ものの
考え方が一変するかもしれない。

 おいしいものを食べた……だから、どうなの?
 すばらしい車を買った……だから、どうなの?
 旅行に行って、温泉に入った……だから、どうなの?
(041007)

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

最前線の子育て論byはやし浩司(331)

【スズメバチの巣】

●大きな巣

 その朝、起きてみると、ワイフが、こう言った。「見て!」と。

 ワイフが指さす方向を見ると、そこに大きなスズメバチの巣があった。ゾーッ。

 ちょうど駐車場の屋根の下。それを取りかこむツタの葉が枯れ始め、それで姿を現したらし
い。

私「気がつかなかったなあ」
ワイフ「私もよ。あんなところに巣があるなんて」

 大きさは、サッカーボールくらいか。それよりは、やや小さい? しかし不気味さは、じゅうぶ
ん。白と薄茶色のまだら模様。丸いが、どこかでこぼこしている。私は頭の中で、巨大なガン細
胞を想像した。

●抗体

 一度、ハチに刺されると、体の中に、その毒に対する抗体ができるという。だから、つぎにもう
一度刺されると、そこで抗原抗体反応というのが起きて、ばあいによっては、死ぬこともあると
いう。

 私の体の中には、その抗体がある。

 とくにスズメバチの毒は、猛毒。何度か刺されたことがあるが、それはノコギリで骨を削られ
るような痛さである。

 私が、最初、ゾーッとしたのは、「今度、刺されたら、死ぬ」と思ったためかもしれない。あるい
は、無知の恐怖からかもしれない。知らぬが仏というか、そんな身近に、命の危険があったと
は!

 私はすぐ、巣の除去を考えた。

私「これは、大きい。ぼくでは、無理かもしれない」
ワ「そうね、業者に頼んだほうが、いいかもね」

●市へ、連絡

 ワイフは、電話帳で、業者を調べ始めた。しかしそんな業者など、あるわけがない。私は、市
役所へ電話した。

 事情を話すと、そのまま農政課へ。そしてそこから地元の、処理委託業者へ。料金を聞くと、
8000円プラス消費税とか。

 「そんなのにも、消費税を取るのかな?」と思いつつ、そのまま駆除処理を依頼する。

 しかし、だ。

 電話を切ってから、しばらくすると、ムラムラと、私の中に、子どものころの、あの闘志がわい
てきた。

 私は子どものころ、ハチの巣取りの名人(?)だった。だれかにそう認められたわけではない
が、今から、思うと、そう思う。

●ハチの巣取り

 ハチといっても、私が相手にしたのは、足長バチ。体調が、数センチほどの、細長いハチで
ある。

 子どものころ、そのハチの巣を取って、ハチの子を食べた。方法は、簡単。

 左手に勉強で使う下敷き。右手に、長い棒をもつ。2メートルから3メートルほどの棒である。
その棒で、まずハチの巣をつつく。するとその棒にそって、ハチが、私をめがけて攻撃をしかけ
てくる。

 私は左手でもった下敷きで、パシッ、パシッと、そのハチをたたき落す。

 ハチがいなくなったところで、ハチの巣を、たたき落す。ハチの巣が、下へ落ちてくる。私は、
その中から、ハチの子を抜き出して、食べる。

 ときどき、ハチに刺されることもあったが、足長バチの毒は、それほど強くない。たいてい顔
がはれる程度ですんだ。

 言い忘れたが、私のばあい、体のどこをハチに刺されても、どういうわけか、その症状は、顔
に出る。

 が、スズメバチの毒は、そんなものではない。一説によると、マムシとか、ハブの毒にも匹敵
(ひってき)するという。

●駆除を断る

 ハチの巣取りは、危険だが、おもしろい。私が業者に、駆除をキャンセルしていると、ワイフ
が、横から、「どうして?」と。

 「自分でやる」と私。

ワ「あぶないわよ」
私「だから、やる。おもしろそうだ」
ワ「今ごろのハチは、子育てをしているから、あぶないわよ」
私「放っておくと、来年には、このあたりは、スズメバチの巣だらけになる」

 私は、そのときすでに、方法を考えていた。いや、その前に、その巣の情報を集めていた。

 出入り口は、一か所。大きさは、親指の太さほど。「あの穴から、殺虫剤を噴射すれば、ハチ
どもは、イチコロのはず」と。

 が、外は、あいにくの雨。決行するとしたら、晴れた夜がよい。

●服装

 ズボン下を、2枚はけばよい。その上から、さらにズボンを2枚。その上に、雨がっぱ。

 シャツも2枚。その上にセーター。上着。そしてさらにその上に、雨がっぱ。

 問題は、顔と手。前回は、指を刺された。草刈りをしているときだった。不用意にスズメバチ
の巣がある木を、揺らしてしまった。そこに巣があるのを、知らなかった。

 私は、草刈りで使うゴーグルと、マスクを用意した。頭には、タオルを2、3枚、巻き、その上
から、雨がっぱを着ることにした。が、どこか不安。それでも、ところどころに、すきまができる。

 自分の姿を、カガミに映しながら、弱点をさがす。が、やはり、顔があぶない。雨がっぱは、
白。顔のあいた部分は、それに比較して、どこか黒い。ハチは、黒い部分をめがけて攻撃して
くる。

 私は、頭からすっぽりとかぶる、ヘルメットをつくることにした。

●殺虫剤 

 近くのドラグストアへ行く。「殺虫剤はどこですか?」と聞くと、店員が、そこへ案内してくれた。
が、種類が少ない。「これだけですか?」と聞くと、「もう、これだけです」と。

 ときは、10月6日。夏も終わり、もう秋になっていた。季節が終わったということか。

 私は、ハチ専用の殺虫剤を2本と、ジェット式の殺虫剤を2本、計4本を購入した。全部で、2
000円弱。

 ハチ専用のは、ダブルノズルになっていて、7メートルも届くという。

 私はそれぞれを、ヒモでつないで、ガムテープでとめた。ワイフが、「どうしてヒモでつなぐ
の?」と聞いた。「肩にかけるため」と。

 それを聞いてワイフが、こう言った。

 「あんたは、昔から、そういうことが好きねえ」と。どこか、あきれ顔だった。

 そう、私は、こういうことが好き。楽しい。考えるだけでも、ぞくぞくするようなスリルを感ずる。

 「これは、戦争だ。殺人バチとの戦争だ」と。

●ヘルメットと手袋

 ヘルメットは、厚手のダンボール紙で作った。目のところは、透明のビニールをあてた。また
口のところは、網を切って、それをあてた。

 かぶってみると、首のところに大きな、すき間ができた。そこには、ゴミ袋をあてて、それをガ
ムテープで止めた。

私「二重、三重の防御服にする」
ワ「ハチは、頭がいいって言ったのは、あなたよ」
私「しかし、相手は、虫だ。昆虫だ。いくら頭がいいといっても、知れている」

 が、最大の問題は、手。ワイフが、スキー用の厚手の手袋を、二枚、どこからかもってきた。
息子たちが、昔、スキーで使ったものだ。

私「これでいいだろうか? ハチの針は、5ミリくらいある。それが自力で、どんどんと突き刺さ
ってくる」
ワ「自力で?」
私「そうなんだよ。体から切り離されたあとも、ピクピクと、針自体が痙攣(けいれん)して、体の
中に入ってくる」
ワ「わあ、気味が悪いわ」

 私は、軍手を2枚重ねてはめ、その上に、さらにスキー用の手袋をはめることにした。手首の
ところは、ガムテープで止めればよい。

●観察

 ハチの巣は、駐車場の屋根裏にあったが、私の書斎からは、窓の下に見える。私は、ハチ
の巣を観察することにした。

 出入り口は、本当に一か所だけか? ほかに、緊急用の出入り口とか、そういうものはない
か?

 それをたしかめておく必要があった。

 翌日の朝、つまり10月6日は、よく晴れていた。私は窓のガラスに顔をこすりつけるようにし
て、ハチの動きを観察した。

 それは、不思議なほど、のどかな光景だった。

 まず一匹のハチが、どこからか飛んでくる。それを、入り口の中にいた別のハチが迎える。そ
のとき、たがいに、何かしら、あいさつをするようなしぐさを見せる。と、そこへまた別のハチが
飛んでくる。また、あいさつをするようなしぐさを、見せる。

 すると、今度は、巣の中にいたハチが、外へ飛び出す。つづいて、もう一匹。

 「私についてきなさい」
 「いいでしょう」と、私には、そんなことを言いあっているように見えた。

 私は、しかし、こう思った。

 「おまえたちの命も、今夜、かぎり。覚悟しておけ!」と。

●邪悪な心

 スズメバチの巣のことを、小学3年生のW君に話すと、W君は、こう言った。

 「最近、ハチが少なくなったんだよ。ハチは、何も悪くないのだけど、毒をもっているため、人
間に嫌われるんだよ。だから、どんどん殺されているよ」と。

 そう、ハチは、決して悪い昆虫ではない。巣さえ襲わなければ、人間を攻撃してくることはな
い。

 しかしその巣に危険がおよぶと、ハチは、自分の命を捨てて、攻撃してくる。そのため、命を
落す人もいる。

私「だけど、人間を攻撃してくることもある。ハチは、あぶないよ。知らないで巣に近づいて、殺
される人もいる」

 そう言いながら、私は、自分の中に潜む、邪悪な心を正当化しようとしていたのかもしれな
い。生き物を殺すというのも、あまり気持ちのよいことではない。計画をねるだけでも、気分が
悪くなる。現に昨夜も、ふとんの中に入ってからも、そうだった。それを考えていたが、それだけ
で、私は、興奮状態になってしまった。

●決行(1)

 私は巣の前に、脚立を立てた。足場にするためである。それは、前の夜にしておいた。

 つぎに、書斎の窓のほうから、ライトを照らした。巣だけを、スポット的に光が当たるようにし
た。

 準備は、整った。

 最後のしあげとして、殺虫剤のノズルには、パイプを取りつけた。パイプは、ペットボトルを切
って、作った。そのパイプで、出入り口をふさぎ、ハチを外に出さないためである。

 そうそう、分厚い手袋では、殺虫剤のレバーを、操作することができない。私は、手袋の、人
差し指の部分だけ、ハサミで切り落とした。

私「服を着たら、すぐ決行する。これじゃ、暑くてたまらない」
ワ「気をつけてよ」
私「わかっている」

●決行(2)

私は脚立に身を寄せるようにして、体を置いた。上のほうからは、ワイフが、ライトでそこを照ら
す。私は、懐中電灯で、そこを照らす。

 たまたまちょうどよい位置に、換気扇のフードがついていた。そこに予備の殺虫剤を置く。懐
中電灯も置く。

 が、そのとき異変が! ゴーグルマスクの中が。息で、白く曇(くも)ってしまった。

 外が見えない。それに息苦しい。

 ハチが、穴の中から何匹か外の様子をうかがっているのがわかっていた。しかし、飛び立つ
気配は、ない。それを知って、私は、思い切って、マスクを脱いで、下へ落とした。

 それを見て、またワイフが、また「だいじょうぶ? やめて、おりてきて!」と。

 私は、ゴーグルもはずした。子どものころの、あの闘志が、ムラムラとわいてきた。攻撃して
きたら、その場で、たたき落せばよい。

 巣を見ると、一匹だけ、巣の外で、こちらの様子をうかがっているハチがいるのがわかった。
「衛兵だな」と、私は思った。

 ハチの世界では、こうして、番を決めて、巣を守る慣わしになっているらしい。

 「こいつを、先に、攻撃しよう」と、私は、思った。距離は、1メートルも離れていない。

●決行(3)

 私は2本の殺虫剤を両手にもつと、まず、別の方向に向けて、試射してみた。

 うまく作動した。

 そして下にいるワイフに向って、「するから、さがって」と言った。あたりは暗い。ハチは目が見
えないはず。しかし何かのはずみに、明るいほうに向って飛んでいくかもしれない。

 スズメバチの習性については、ほとんど、知識がなかった。頭のよい虫だということは、経験
的に知っていたが、それは別のところでの、話。こうした場面では、どうなのか。どう行動に出
てくるのか。

 私は、息を一瞬止めたあと、まず、出入り口のななめ上にいたハチに向けて、殺虫剤のレバ
ーを思いっきり、引いた。

 強烈な噴霧だった。次の瞬間には、目の前が、まっしろになった。私はすかさず、左手にもっ
た、ハチ用の殺虫剤を出入り口に向けた。もう一方の殺虫剤で、巣全体を攻撃した。

 すべて、あらかじめ、予定していた動作である。

 私は、殺虫剤のパイプを、出入り口につっこんだ。そしてそれにかまわず、レバーを思いっき
り、引きつづけた。

 10秒、20秒、30秒……。あたりは、もうもうとした白い煙に包まれた。巣のあちこちから、殺
虫剤の白い煙が、割れるようにもれ出ていた。しかし私は、容赦しなかった。

 40秒、50秒、1分……。最初の殺虫剤に勢いがなくなってきた。すかさず、次の殺虫剤にも
ちかえて、さらに噴霧。

●決行(4)

 さらに時間がすぎた。下を見ると、ワイフがまた外に出てきて、「だいじょうぶ?」「もうやめた
ら?」と。

 今度ハチに刺されたら、私は死ぬかもしれない。ワイフも、それをよく知っていた。

私「だいじょうぶみたいだ。反撃は、まったく、ない」
ワ「もうそのへんにして、様子をみたら?」
私「ここで手を抜いてはいけない。徹底的にやらないと……」

 私は、さらにレバーを引きつづけた。

 約500ミリリットル入の殺虫剤だかから、2本で、約1リットルの液が、巣の中に入ることにな
る。4本で、2リットル。巣の中は、殺虫剤の液剤で、大洪水のはず。

 と、そのとき、左手の殺虫剤のノズルが、ズボリと、巣の中にめりこんでしまった。同時に、カ
ベがはがれて、大きな穴があいた。

 見ると、10匹近いハチが、白くかたまっているではないか。が、さらによく見ると、白く、凍っ
ているのがわかった。殺虫剤の冷気で、凍ってしまったらしい。

●不気味な世界

 つぎに私は、巣の下側に穴をあけた。カニバサミで、それをあけた。

 とたん、バラバラと、ハチの死骸が、雨のように降り出した。今度は、その穴に、ノズルをつっ
こむと、そこから殺虫剤を噴霧した。

 そしてつぎに、右から。最後は、上からも……。

 不思議なほど、静かな世界だった。

 私は巣のカベを、バリバリとはがした。それを下から見ていて、ワイフが、「私、もっとかたい
かと思っていた」と。

 感じとしては、かわいた紙でできた、ちょうちんのようだった。指でも、簡単に穴があく。

 私は、容赦なく、カベをはがしていった。

 が、そこは不気味なほど、静かな世界だった。本当に静かな、世界だった。

●巣の中

 巣の中は、いく層にも分かれて、巣がつりさがっていた。

 一番、上のほうの巣は、古いもので、初期に使ったものなのだろう。もう形が、半分、くずれて
いた。

 そしてその下に、2段、3段となって、別の巣が、つりさがっていた。

 どの穴も、ぎっしりと、幼虫がつまっていた。

 カベをこわすたびに、バラバラと、ハチの死骸が、下に落ちた。私は、最後は、巣を叩き落す
ようにして、巣をツタの枝から話した。

 ドサッと、それは下に落ちた。

 何かしら、割り切れないものを、感じた。「ハチも、毒さえなければ、こんなことをされないの
に」とも、思った。

 下へおりるとき、巣の中で、さかさまにぶらさがっていた、何匹かのハチを思い出していた。
きっと、最後の最後まで、幼虫を守るために、そこにいたのだろう。足が、穴にからんでいた。

●死骸の山

 翌朝、起きてみると、その下は、ハチの死骸の山だった。ざっと数えてみたが、成虫の死骸
だけでも、数百はあった。300とか、400とか、それくらいはあった。

 中には、まだもがいているのもいた。

 気持ちのよい光景ではなかった。それにどのハチも、小さく見えた。飛んでいるときは、あれ
ほど大きく見えたが、そこで死んでいるハチは、どれも体を曲げ、小さく見えた。

 私はもがいているハチを何匹か集めると、最後に、一気に足で踏みつけて殺した。「楽にして
やった」というよりは、また一匹でも生き残ると、別の巣をつくってしまう。それを先に考えた。

 数年前も、近くの小学生たちが、スズメバチに襲われている。こうした住宅地では、スズメバ
チは、やはり害虫なのだ。いてはならない虫なのだ。が、それでも、気分は、あまりよくなかっ
た。

 やはり、業者に頼むべきだったのか。私は、ハチの巣を退治すると言いながら、それを楽し
んだだけ。そんな思いが、私の心をふさいだ。

 何とも割り切れない思いだけが、そこに残った。

 その朝は、食事を抜いた。食べる気が起きなかった。

【あとがき】

 スズメバチにかぎらず、バチの巣は、夜、駆除するのが、よいようだ。市販の噴霧式の殺虫
剤を、全体にもうもうとふきかける要領で、駆除する。農業を営んでいる、Kさんもそう言ってい
た。「ハチ退治には、市販の殺虫剤が、一番効果的」と。

 夜中にそっと近づいて、殺虫剤のノズルを、出入り口に押しつけるようにして、噴霧する。ハ
チ用の殺虫剤も、市販されている。私のばあい、左手に、ハチ用の殺虫剤をもち、それで巣の
中を攻撃。右手に、一般虫用の殺虫剤をもち、それで巣全体を包むようにして、攻撃した。

 ただし、駆除は、自己責任で。昼間の明るいうちは、絶対に、巣に近づいてはいけない。これ
は常識!

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司


最前線の子育て論byはやし浩司(332)

【近況・報告】

●スズメバチの巣を退治した!

 おとといの夜、駐車場の軒下にあった、スズメバチの巣を駆除した。

 スリル満点、ハラハラドキドキのできごとだった。……と、書くほど、気持ちのよいものではな
かった。どうも、あと味が悪い。しかし放置しておくわけにもいかない。スズメバチは、強暴だ
し、現に、近所でも、子どもたちが、スズメバチに襲われるという事件が起きている。

 駆除するにあたって、私は、二重、三重の防御服を着て、その上に、手製のヘルメットをかぶ
った。その詳しい模様は、11月5日号のマガジンで……。

(楽天の日記には、写真を添付。上は、ヘルメットをかぶる前のもの。下は、手製のヘルメット
をかぶったところ。)


●アンケート調査の結果

 10月のはじめ、マガジン読者の方に、アンケート調査をお願いした。

 結果、111人の方より、返事があった。感謝。

 うち、87人の方が、「毎回、ほぼ全部、読んでいる」とのこと。約78%の方ということになる。
再び、感謝。

 残りの方は、「ときどき読んでいる」「必要なところだけ読んでいる」とのこと。それだけでも、
感謝、また感謝。これからもよろしくお願いします。


●母因性萎縮児

 母因性萎縮児について、少し前、記事を書いた。

 この「母因性」という言葉は、私が考えた。が、反響が大きかった。何人かの読者から、もっ
と、詳しく書いてほしいという意見をもらった。

 それについては、またゆっくりと、日を改めて書くとして、母親が子どもの伸びる芽をつんでし
まっているというケースは、少なくない。よくある例としては、過干渉、過保護、過関心などがあ
る。

 過剰期待や、過剰負担もよくないことは、言うまでもない。

 こういう例を含めるなら、母因性内閉児、母因性心身症児、母因性無気力児、母因性粗放児
なども、考えられる。

子どもを伸ばす親というのは、「ほどよい親」である。子育てでは、何ごとにおいても、ほどほど
に!


●在日米軍は、不要!

 在日米軍は、不要。アメリカ軍は、さっさと、日本から出て行くべき。

 ……というのは、日本人の私たちの意見ではない。このほど行われた、アメリカ・シンクタンク
「シカゴ外交関係評議会」による調査結果である(7月6〜12日に、一般のアメリカ国民1195
人、指導層の450人を対象に調査)。

それによると、在日米軍は不要と考えているアメリカ人が、39%もいるという。

 私たち日本人は、この数字をどう読むべきか。どう読んだらよいのか。

 あの韓国にしても、ノ大統領は、就任直後、アメリカに特使を送り、在韓米軍の撤退を訴え
た。

 が、意外にも意外。アメリカは、すんなりと、「OK」と言ってしまった。が、これにあわてたの
が、むしろ、ノ政権。「まあまあ、そうは言わず、アメリカ軍を、韓国に駐留させてくださいな」とで
も、ブッシュ大統領が、言うと思っていたらしい。

が、アメリカに、韓国を防衛しなければならない理由などない。ノ大統領は、選挙運動中、アメ
リカ国旗を破ってみせた。反米を旗印にかかげて、ノ大統領は、その大統領になった。

しかしときすでに遅し。ブッシュ政権は、「望まれないときは、その国には駐留しない」とまで言
い出した。つづけて在韓米軍の撤退を、発表してしまった。

 この事情は、日本も同じ。

 在日米軍が事故を起こすたびに、「米軍、出て行け」の大合唱。
 在日米軍が移動を口にするたびに、「基地移転、反対」の大合唱。

 私がアメリカ軍なら、この日本から、さっさと出て行く。日本のことは、日本に任せればよい。
K国のミサイルが、東京に飛んでこようが、中国の軍隊が、日本を占領しようが、アメリカに
は、関係ない。それは、日本とアジアの問題。こうまで嫌われて、アメリカ軍が、日本にいる理
由など、ない。冒頭にあげた、「39%」という数字は、そういう数字である。

 ……と書いて、この話は、ここまで。この先は、あまりにも政治的な話になる。

 しかしね、みなさん、こんな話もある。

 数か月前、オーストラリア人のM氏からメールが届いた。いわく、「ヒロシ、もし日本がK国に
攻撃されたら、オーストラリアも参戦することになっている※」と。M氏は、長い間、オーストラリ
ア国防省に勤務していた経験がある。

 正直言って、私は、そのメールを読んで、うれしかった。どういうわけだか、うれしかった。しか
しこう返事を書いた。「こなくてもいい。ぼくたちで、何とかするから。君たちにも、君たちの家族
がいるだろう」と。

※……オーストラリアも、韓国に駐留する、国連軍の一翼をになっている。


●子どもの肥満

 少し前、標準体重について書いた。

 広く使われている標準体重検査法としては、BM標準体重計算法がある。しかしこれは、(お
とな用)のもの。(子ども用)には、(ローレル指数計算法)や、(カウプ指数計算法)がある。

+++++++++++++

【おとなの適正体重計算……BM標準体重計算法】

   BM=(体重kg)÷(身長m)÷(身長m)   

     40以上   ……肥満(4度)
     35〜40  ……肥満(3度)
     30〜35  ……肥満(2度)
     25〜30  ……肥満(1度)
     18・5〜25……正常値
      〜18・5以下……やせ

 (注、身長はメートル単位。身長、166センチの人は、1・66として、計算する。)

【学童期の児童の適正体重計算法】

   (ローレル指数)=(実測体重kg)÷(実測身長cmの3乗)×10の7乗

   この計算法で、ローレル指数が、160以上を、肥満とする。

【乳幼児の適正体重計算法】

   (カウプ指数)=(実測体重g)÷(実測身長cmの2乗)×10

   この計算法で、カウプ指数が、20以上を、肥満とする。


 このほか、おとなの標準体重計算法として、広く、次のような計算法が、使われている。参考
までに……。

【おとなの適正体重計算法】

   (肥満度)=(実測体重kg − 標準体重kg)÷(標準体重)×100

   ここでいう標準体重は、男性は、(身長cm − 100)×0・9で計算
              女性は、(身長cm − 100)で計算

   この計算法で、20以上で、肥満とする。

+++++++++++++++++

 私も、このところ、肥満は、よくないと、身をもって、体験している。肥満は、たしかに脳に、よ
い影響を与えない。

 思考の鋭さが消える。集中力がつづかないなど。意外に思う人もいるかもしれないが、肥満
時の時のほうが、ものの考え方が、うつ的になりやすいのではないかということ。肥満は、精神
の作用にも、影響を与える(?)。

 一般的には、太っている人のほうが、どこかおおらかで、のんびりしているように見えるかもし
れない。が、どうもそうではないのではないかということ。

 動きが鈍くなる分だけ、血中の老廃物がふえる? そのため、ものの考え方も、どこか腐って
くる。……実感としては、そんな感じがする。

 また、子どもの肥満は、思考力の大敵と考えてよい。満腹症状(どこか、満腹風になること)
が出てくると、脳に行くべき血流が、胃袋のほうへばかりいくような感じになる。当然、その分、
思考力がにぶくなる。集中力が、つづかなくなる。ぼんやりと、うつろな目つきで、空を見つめる
など。

 子どもは、やややせかげんのほうが、よい。……と、私は、そう思っている。

 で、私は、9月のはじめから今日(10・08)までに、体重を、68・5から、63・5kgに減量する
ことに成功した。ちょうど、5kg、減らしたことになる。

 体が軽くなった分だけ、運動量がふえた。昨日も、合計で、1時間半ほど、自転車で走った。

 そのせいもあって、頭の中も、軽くなった。頭重感が消えた。集中力ももどってきた。朝起き
たときの、足の痛みも消えた。体中が、サクサクと動く感じになって、気分も爽快。朗らかにな
った。

 なお子どもの肥満の多くは、生活習慣病と考えてよい。そういう子どもの家庭ほど、家の中
に、食べ物がごろごろしている。もし子どもの肥満が気になったら、家中から、食べ物を捨てて
みる。心を鬼にして、捨ててみる。

 「もったいない」と思ったら、なおさら、捨ててみる。その「もったいない」と思う心が、つぎから
の買い物習慣を改める。
(041008)

【リバウンドの恐怖】
 
 いかにして、空腹感と戦うか。ダイエットしているとき、当然のことながら、それが最大の問題
となる。

 しかしその空腹感も、一巡すると、おかしなもので、どこかへ消えてしまう。また全体に、胃袋
が小さくなった感じがして、食事の量そのものが、少なくなる。少し食べただけで、おなかがいっ
ぱいになってしまう。

 が、ここで油断してはいけない。

 この段階になると、何を食べても、おいしくなる。そこでふと、油断をしたようなとき、ドッと食
べてしまう。

 ここで「胃袋が小さくなった感じ」と書いたが、これもまた、見せかけ。「おいしい」と思って食べ
ていると、つい、量が多くなってしまう。

 体中の細胞そのものが、飢えた状態になっているから、ほんの少し食べただけでも、栄養分
が、ムダなく、体中に、しみわたるようになる。つまり、こうして、リバウンドが始まる。

 昨日は、講演が二つ重なったこともあり、私は、二つ目の講演が終わるまで、食事らしい食
事をとらなかった。食事をとると、眠ってしまう。

 が、二つの講演が終わって、しばらくすると、猛烈な空腹感。そこでワイフと、イタリアレストラ
ンへ。

 ここで、私は、サラダと、ピラフを食べた。一人前の量である。

 とたん、食べグセがもどったというか、あれこれ、いろいろなものを食べたくなった。家に帰る
と、サバ寿司があった。それを一切れ食べた。講演のみやげにもらった、羊羹(ようかん)も、
一切れ食べた……。

 で、今朝は、どこか気分が悪い。体重計を見たら、あっという間に、昨日より、プラス1キロ。
明らかにリバウンドである。以前と比べたら、比較にならないほど、少量しか食べていないの
に、1キロ!

 しかも今、空腹感がある! あのサバ寿司が、無性に食べたい!

 つまり私のダイエットは、こうして第二ラウンドに入った。

 ダイエットするよりも、いかにして、このリバウンドと戦うか。多くの人は、この段階で、失敗す
るらしい。

 さあ、がんばるぞ。……といっても、今日は、台風22号の影響で、あいにくと、雨模様。運動
ができない! 何か、別の方法を、考えるしかない。


●台風22号

 台風22号が、この静岡県の直撃コースに入った。この10年間で、最大級の勢力をたもった
台風だという(気象庁)。

 で、昨日から、我が家は厳戒態勢。

 ……ということで、一日が、すぎた。台風は、浜松市の南をかすめて、伊豆半島に上陸。が、
我が家は、まったく、被害はなし。風らしい風も、吹かないまま、終わってしまった。

 いったい、どうなっているのだ!

 たまたま客がきていて、いっしょに、ニュースを見る。しかしときおり、強い雨が降る程度。

私「今ごろ、浜松市の南あたりですかねえ……」
客「そんな感じですねえ……」と。

 それで終わってしまった。

 私は、伊勢湾台風を子どものころ経験している私にとっては、実にあっけない台風だった。そ
の伊勢湾台風と比較すると、今日の台風は、台風というより、そよ風? 「よかった」と思うと同
時に、「昔とは、家のつくりもちがうからなあ」と。

 ともかくも、よかった。ほっとした。

 夕方になって、雨も風も収まった。客も帰った。台所では、ワイフが、何やら、料理をしている
ふう。もうすぐ夕食のようだ。時は、10月9日、午後5時50分。


●日本の小学校

 先日、ある小学校の参観授業風景を、見学させてもらった。

 見ているだけで、楽しい一日だった。子どもたちの表情を見ていたら、思わず、何度も、吹き
出してしまった。先生の指導も、すばらしかった。

 写真も何枚か、とった。

 で、その小学校だが、アメリカの小学校とは、かなり雰囲気がちがう。(率直に!)百聞は、一
見にしかず。写真を並べてみる。(HTML版のほうで、紹介。)

 全体に見ると、日本の小学校は、せまい。(しかたないね!)アメリカの小学校の、約ハーフ
サイズとみてよい。(ここに紹介する小学校は、アメリカの小学校にしても、日本の小学校にし
ても、ごくふつうの、どこにでもある、標準的な小学校である。)

 こうした写真を比べてみるだけでも、日本と、アメリカの、教育に対する姿勢のちがいが、よく
わかる。

 結論!

 日本政府よ、ケチらないで、もっと教育予算をふやせ!……と言いたい。日本の教育は、ど
こか安あがり!

 道路やビルばかり、つくるのではなく、中身だ。中身に、もっとお金をかけろ!……と言いた
い。未来の日本をつくるのは、子どもたちだ。

 私の意見は、過激だろうか? それとも常識的だろうか? その判断は、読者のみなさん
に、任せたい。


●知人の自殺

 Mさんという女性から、たった今、「友人が自殺した」というメールを、もらった。相当なショック
を受けられたようである。当然である。その自殺した人は、Mさんの友人。クラブもいっしょにし
てきた、仲間の一人である。

 しかもKさんは、その自殺した人から、何度も、相談を受けている。

 そういう自殺者が身近から出ると、そのまわりの人たちは、自責の念にかられる。「何とかで
きなかったものか」と考えるうちに、「何もしなかった自分が悪い」となり、ついで、「その責任は
私にある」と考えるようになる。

 生きていても、むなしいだけ。目的も、希望もない。明日は、今日より、悪くなる。来年は、今
年より、悪くなる。

 そういう思いが、どんどんと胸の中にふくらんでいく。そして最後は、「生きていてもムダ」「生
きていて、何になる」となる。

 死にたいから死ぬのではない。生きているのがつらいから、死ぬ。

 そういう意味では、生きるというのは、薄い氷の上を、恐る恐る歩くようなもの。何とか、かろ
うじて、生きがいにしがみつきながら、生きている。一見、元気そうに生きては見せても、その
多くは見せかけ。虚勢。その下では、いつも不安と孤独が、「おいで、おいで」と手招きしてい
る。

 つまりその生きがいをなくしたとき、そこで、どんと、人は、「死」を考える。

 ……こう決めてかかるのは、危険なことかもしれない。が、私も、落ちこんだようなとき、すぐ
そこに「死」を感ずることがある。決して、人ごとではない。

 そこで最近、私は、こう考えるようになった。

 こうした状態になるのは、いわば、心の病気のようなもの、と。たしかに心の病気にはちがい
ない。しかし、心の病気のばあい、その病気を客観的に判断すべき、脳ミソそのものが、病気
になる。

 肺炎のとき、熱を出せば、その熱が何であるかを、自分で判断できる。しかし脳ミソそのもの
が、病気になってしまうと、それがわからなくなってしまう。

 そこで肺炎にたいしてもそうであるように、予防こそ、最善である、と。心が健康なうちに、そう
でない状態を、しっかりと知っておく。

 それが、予防の一つということにもなるが、しかしここでやっかいな問題にぶつかる。心が病
気になると、そのときの自分が本物で、むしろ健康なときの自分のほうが、おかしく見えるとき
がある。どちらが本物の自分か、わからなくなる。では、どうすればよいのかということになる。

 簡単に考えれば、そういう心配のタネをつくらないということになるが、それだけではいけな
い。また、足りない。

 心の病気から、自分を守るためには、そうでない価値観を、自分の心の中にあらかじめつく
っておくしかない。心のともし火となるような、別の価値観を、である。

 というのも、これはあくまでも私の経験だが、そういうふうに落ちこんだときというのは、何をし
ても、また何を考えても、むなしく思える。とくに自分が自己中心的であるときには、それが極
端に現れる。すがりたくても、すがるものさえない。

 そこで心が健康なときから、そのすがれるもの、つまり、「利他的な部分」を用意しておく。わ
かりやすく言えば、ちょうど他人の心の中に、自分の心を貯金するように、自分を残しておく。

 決して、自分自身を、孤立させてはいけない。こうして落ちこんだときには、孤独こそ、最大の
恐怖となってその人に、襲いかかってくる。

 だから他人の心の中に、自分のやさしさや、暖かさを残していく。それが愛ということになるの
かもしれない。あるいは慈悲ということになるのかもしれない。

 生きるということは、美しい思い出の上に、美しい思い出を重ね、その上で、やすらぎを覚え
ること。日々の生活の中では、なかなかむずかしいことかもしれない。きれいごとだけでは、生
きてはいかれない。しかしそういう部分を、別のところでつくっておくことも、生きていくために
は、必要ではないだろうか。

 だから自分の生活の、何分の一かでもよいから、他人のために生きる。生きてみる。そういう
行為をとおして、私たちは、他人の心の中に、自分の心を貯金することができる。そしてそれ
が、行きづまったようなとき、あなたの足元を、ともし火として、照らしてくれる。

 私のばあい、落ちこんだようなとき、ここにも書いたように、「死」を考えることがある。実際に
は、「死ぬ」ことまでは考えないが、「生きていく自信」をなくす。で、そういうときは、ただひたす
ら、目を閉じて、眠ることにしている。何も考えない。何も結論をださない。

 「朝のこない夜はない」とは、よく言ったもの。むかし、だれかが、そう言った。しかし、本当
に、そうだ。

 その翌朝になると、その前夜までの自分が、まるでウソのように、気分が落ちつき、静かにな
ることがある。

 そういう自分が、本当の自分と知り、そこを原点に、その日に向って、一歩、足を前に踏み出
す。

それが私の、こうしたうつ状態にたいする、対処法ということになるが、たいへん幸いなことに、
本当に幸いなことに、私の仕事は、子ども相手である。しかも幼児相手である。

 いくらこちらが落ちこんでいても、子どもたちは、それを許してくれない。「先生!」と声をかけ
られたとたん、それまでのうっ積した気分が、吹き飛んでしまう。

 そう、子どもたちを楽しませること。それが私にとっては、他人の心の中に、自分の心を貯金
することの一つかもしれない。すべてではないが、しかし何分の一かは、私の心を、子どもたち
の心の中に、残しておく。そういう子どもたちが、私を救ってくれる。

 しかし……。その自殺した女性には、夫もいるそうだ。受験期を迎えた子どもたちも、いるそ
うだ。

 さぞかし、つらかっただろう。月並みな言い方しかできないが、心から、お悔やみを申しあげ
たい。そして一言。

 Mさん、あまり気にしないで、私たちは、楽しく、朗らかに生きましょう! どうせ、一度しかな
い、短い人生ですから……!

【付記】

 夫婦であれ、親子であれ、たがいに、たがいの生きがいを用意してやるのは、それぞれの立
場にいるものの義務ではないだろうか。

 私は、ときどき、しかし本気でこう思うことがある。

 私のワイフは、家庭に閉じこもってしまった。(本当は、私が、ワイフを家庭に閉じこめてしま
った。)主婦という名のもとで、そして母親という名のもとで。

 そこで私は、ときどき、こう考える。「私なら、ワイフの仕事が、できるか?」と。自分の中の野
心を押し殺してまで、それができるか、と。

 そのとき、いつも、「私にはできないだろうな」と思う。思うから、ワイフには、申し訳ないと思う
ときがある。

 そこで最近は、できるだけ、ワイフにも、夢や希望を共有してもらえるようにしている。私の仕
事の一部を分担してもらうなど。つまり喜怒哀楽をともにできるようにしている。

 が、しかしそれにだって、実は限界がある。だから今の私は、ワイフには、こう言うしかない。

 「何も心配しなくてもいい。最後の最後まで、お前は、ぼくが守ってあげるから」と。

 ワイフは、いつも半信半疑の様子だが、私は、本気である。つまりそういう形でも、ワイフに安
心感を与えていくしかない。それでじゅうぶんだとは思わないが、私にできることいえば、せい
ぜい、それくらいしかない。

【補記】

 今年の8月ごろ、かなり苦しい時期があった。原因は、いろいろあったが、そういうときという
のは、原稿を書くのが、おっくうになる。パソコンを見るのさえ、いやになる。

 否定的なものの考え方ばかりが、頭の中に浮かんでくる。「こんなマガジンを、出して何にな
る」「だれも、読んでいない」「ムダだ」と。

 実際、「もうマガジンは、廃刊にしよう」とも、考えた。

 しかし仕事にせよ、マガジンにせよ、どこかにそれを喜んでくれる人がいる。何十人か、ある
いは何人かはいる……。ふと、そういう人たちの温もりを感ずる。

 だから「これは本当の私ではない」と、懸命に自分に言って聞かせる。そして、とにかく、その
ときにすべきことをする。

 英語では、落ちこんだような状態を、「トンネルに入った」という。しかしそれは抜け出てはじめ
てわかることで、そのときは、トンネルに入っているとは思わない。何もかも、いやになる。めん
どうになる。おっくうになる。

 だから今の今、再び、そういう状態になったときのために、(多分に、打算的ではあるが)、他
人の心の中に、自分の心の温もりを残しておく。その温もりが、今度は、いつか、自分を助けて
くれる。

 それがここで私がいう、「心の貯金」ということになる。

 最後に、私の印象では、自己中心的で、自分勝手。わがままで、自分のことしか考えない人
ほど、落ちこんだとき、その落ちこみ方が、はげしいのではないかと思う。あくまでも、私の印象
だが……。

【さらに補記】

 今、思い出したが、私のばあい、天然のハーブで構成した、精神安定剤がとてもよくきいたよ
うに思う。市販の薬で、一箱、1200円前後で売っている。大きな薬局へ行くと、2、3種類用意
してあるので、一度、相談してみるとよい。

★Think of all the beauty that's still left in and around you and be happy! - Anne Frank
あなたのまわりにまだ残っているすべての美しいものを、思い浮かべなさい。そして幸福になり
なさい。(アンネ・フランク)

★We all live with the objective of being happy; our lives are all different and yet the same. 
- Anne Frank
私たちはみな、幸福になりたいと思って生きている。つまり人生はみな、異なっていても、目的
は同じ。(アンネ・フランク)

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

最前線の子育て論byはやし浩司(333)

【ADHD児】

ADHD児の特徴は、(1)不注意(注意力散漫)、(2)衝動性、(3)多動性の三つである。

 DSM−IVの診断基準を、わかりやすくしたのが、下の表である。ADHD児の原因について、
最近の研究では、脳の微細障害悦、もしくは、微細機能障害説が有力になってきている。前頭
葉の血流量が、健常児と比較して、有意に低下していることもわかっている。

 が、問題は、その子どもがそうであるというよりは、つまり医学的にはそうであっても、教育的
には、初期の不適切な対処の仕方により、症状がこじれてしまうところにある。乳幼児期の、
落ちつきのない言動に対して、親は、はげしい、しつけ攻撃を、試みる。強くしかったり、ときに
暴力を加えたりする。これがさらに症状を悪化させる。

 つまりADHD児でも、初期診断が、重要ということになる。できるだけ早い時期にそれに気づ
き、適切に対処する。

【不注意(注意力散漫)】

 つぎのような症状のうち、6つ以上、6か月以上、つづいている。

(  )不注意な行動が多い。不用意にお茶をこぼしたり、道路に飛び出したりする。
(  )集中力が、つづかない。ゲームをしていても、すぐあきてしまう。
(  )人の話が聞けない。どこかうわの空。カルタ取りのようなゲームが、苦手。
(  )親の指示に無頓着。あるいは指示を受けても、それを無視したような状態になる。
(  )ものごとを順序だててすることが、苦手。行動に統一性がない。
(  )ものをよくなくす。どこへ置いたか、しまったか、忘れてしまう。
(  )注意力が散漫で、もの音などがすると、注意がそちらへ向いてしまう。
(  )毎日、何をすべきか、忘れてしまう。

【多動性】

 つぎのような症状のうち、6つ以上、6か月以上、つづいている。

(  )いつもどこかそわそわしている。じっとすわっていることができない。
(  )じっとすわっていることが、求められているときでも、立ってどこかへ行く。
(  )病院や図書館、葬儀の席などでも、動き回ったり、騒いだりする。
(  )静かに遊ぶことができない。
(  )何かしら別のエンジンによって動かされるかのように、勝手に動き回る。
(  )よくしゃべり、「静かに!」といくら制しても、効果がない。あっても瞬間。

【衝動性】

(  )しばしば自分勝手な行動を繰りかえす。
(  )人のうしろに並んで、順番を待つことができない。
(  )ほかの子どものじゃまをしたり、妨害をしたりする。
 (以上、DSM−IVの診断基準(医学書院)を、参考に、一般親向けに改変)

 こうした症状が見られたら、ADHD児を疑い、専門医の相談を受けるとよい。各地区の保険
所、保険センターなどの、育児相談窓口で、相談する。

 このタイプの子どもでも、自己意識が育ってくる、小学3、4年生を境に、急速に症状が収まっ
てくる。それまでに症状を、不必要に、こじらせないことが、重要である。
(はやし浩司 ADHD児 DSM 診断基準)

【Mさんの例】

 Mさんは、突然、「今日のママのパンティ、花柄パンティよ」と叫んだ。Mさんが、年中児になっ
て、はじめて、私の教室へきたときのことだった。「かわいい、かわいい、お花のついた、きれ
いなパンティ」と。

 母親は、それを見て、あわてた。私も、「Mさん!」と言って、それをたしなめた。

 Mさんの多動性は、きわだっていた。席についたと思うと、そのままの姿勢で、となりの子に
おおいかぶされようにして、話しかけていた。が、それも中途半端な状態で、今度は、そのまま
立ちあがり、うしろの席の子どもに……。

 「Mさん、すわっていようね」と声をかけても、その場だけの効果しかない。その瞬間だけ、ハ
ッと我にかえったような様子を見せるが、その直後には、もう別のことをしていた。

 母親は、こう言った。

 「歩き始めたころから、手に負えませんでした。体と柱をヒモでつないで、育てました。どこへ
行くか、わからなかったからです。

3歳くらいになったときのこと。土手の上から、下へ飛び降りたこともあります。幸い、下が、草
むらになっていて、けがはしませんでしたが、それを見たとき、私は、思わず、ギャーッと声をあ
げてしまいました」と。

 そのMさんは、天衣無縫というか、言うことなすこと、支離滅裂。「天井に、ハエ。ハエさん、ハ
エさん、今日は元気? 私は、赤い箱。箱の中には、白いリボン……」と。

 突然、私の席のところまでやってきて、小声で、「センセイ……」と、甘ったるい声で話しかけ
てきたかと思うと、突然、ワッと声をあげたこともある。

 「どうしてそんなことをするんだ!」と叱ると、突然、しおらしい涙声になって、「ごめんなさい」
と。

 毎日が、この繰りかえし。

 そういうMさんを、母親は、はげしく叱った。が、その一方で、母親は、Mさんのことを、「無限
の可能性のある、優秀な子」と信じていた。活発な言動、強い好奇心など。たしかにふつうの子
どもとは、ちがっていた。

 この段階で、母親にその知識と自覚があるなら、まだ話もできる。しかし実際問題として、「優
秀な子」と信じている母親に向って、「あなたの子どもには、問題があります」とは、とても言え
ない。私は、いつ切り出すべきかと悩んでいた。

 しかし、そんな母親でも、やがて気がつくときがやってきた。幼稚園で開かれた、遊戯会での
ことだった。

 Mさんだけが舞台の前に出てきて、観客に向って、アカンベーを繰りかえしていた。ほかの子
どもたちは、先生の手拍子に合わせて、遊戯を踊っていた。

 それを見て、母親は、かなりショックを受けたようだった。そしてその足で、私のところにやっ
てきて、「どうしてでしょうか?」と、質問をした。

 私は、母親を、別の部屋に案内し、「私の印象では、活発型遅進児の心配があります」と告
げた。今から、30年近くも前のことで、当時はまだ、ADHD児という言葉さえ、なかった。

それを聞いて、母親は、どっと身を伏せ、その場で、泣き崩れてしまった。

 
●脳の微細障害説

 カプランの「臨床精神医学ハンドブック」によると、ADHDを、つぎのように説明する(福島章
著「子どもの脳があぶない」(PHP新書)を要約。)

(1)まだじゅうぶん解明されていないが、微細な神経学的欠陥が原因と考えられる。
(2)出産前後の外傷や、乳幼児期の栄養不良と関連がある。
(3)男児に多く、二卵性双生児よりも、一卵性双生児に一致率が高い。
(4)脳血流の研究からは、前頭葉の血流の低下が明らかにされている。
(5)ADHD児の20〜25%が、青年期、成人期にいたるまで、症状を示す。
(6)とくに行為障害を合併するばあいには、非行や犯罪に走りやすい。

ここで注目すべき点は、「ADHD児の20〜25%が、青年期、成人期にいたるまで、症状を示
す」という点である。言いかえると。たいはんは、それまでに、症状が、少なくとも、わかりにくく
なるということ。

ADHD児と診断されると、多くの親は、絶望的になる。しかし絶望的になる必要は、まったくな
い。

 ADHD児は、集団教育になじまないというだけで、その豊かな発想には、評価すべきものが
ある。最近の研究では、モーツアルト、チャーチル、それにエジソンなども、そのADHD児であ
ったということまでわかっている。

 大切なことは、乳幼児期から少年期にかけて、無理な指導で、症状をこじらせないこと。それ
が結論ということになる。
(はやし浩司 脳の微細障害 微細障害説 脳血流 前頭葉)

 
●よく知られた、ADHDの人たち

(McNeil Consumer & Specialty Pharmaceuticalsより転載、翻訳)

★エジソンも、チャーチルも、モーツアルトも、ADHDだった!

ADHD児というと、マイナス面ばかりが強調されるが、もちまえの集中力や、固執力、さらに
は、バイタリティなどから、すぐれた能力を示す例も、少なくない。MCNEIL社のGPでは、エジ
ソン、チャーチル卿、モーツアルトの例をあげ、ADHDであることが、悪いことばかりでないこと
を指摘している。大切なことは、いかにしてADHDを「治す」かではなく、その「よさを、指導によ
り引き出すか」である(はやし浩司)。


Famous People and ADHD (ADHD児でよく知られた人たち)
Although not all of the following people have been officially diagnosed with ADHD, they have 
exhibited many of its signs. This list is included here to inspire those facing similar challenges.
つぎの人たちは、公式には、ADHDであったと診断されたわけではない。しかしADHDの多く
の症状を示していた。現在同じような問題をかかえている人のために参考になれば、うれし
い。

●Thomas Alva Edison (トーマス・A・エジソン)is cited more than any other historical figure 
for his classic ADHD behavior. As an inventor, his creative curiosity enabled him to 
constantly explore new ideas. Later in life, Edison showed his tenacity in sticking with things 
that caught his imagination in his many inventions.

(エジソンの多動性はよく知られている。しかし彼のねばり強さは、突出したものであった。)

エジソンは、他のどんな歴史上の人物よりも、古典的ADHDの持ち主として、注目されている。
発明者として、彼の想像的好奇心は、つぎつぎと新しいアイデアを生み出した。晩年になって、
エジソンは、多くの発明にかかりきりになるという、ねばり強さを示した。


●Sir Winston Churchill(W・チャーチル卿) was described as hyperactive and naughty as a 
child, and was often sent out of the classroom to run around the schoolyard and get rid of 
his extra energy. In his autobiography "My Early Life," Churchill talks about his impulsivity 
and his difficult school experiences. Interestingly, once out of school and serving in the 
British Army in India, Churchill read crate after crate of history books. His high energy level, 
creative problem solving, and hyperfocus as prime minister of Great Britain during WWII 
inspired his nation and the world. 

(チャーチル自身が、回顧録で、自分のわんぱくぶりを書いている。彼はもちまえの集中力をも
って、歴史書をよみあさり、やがて英国の首相となった。)

チャーチルは、子どものころ、多動性とわんぱくで知られていた。そのためよく教室から追い出
され、そのエネルギーをへらすため、運動場を走らされた。チャーチルは、自分の伝記、「私の
子ども時代」の中で、自分の衝動的行動や、学校での困難な生活ぶりを書いている。興味深
いことは、彼が学校を出て、インドで軍に従事したとき、チャーチルは、歴史書を読みあさった
ということ。チャーチルの高いエネルギーと、創造力豊かな問題解決の方法、第二次大戦中
の、英国軍の首相としての、並外れた集中力は、イギリスや世界を、鼓舞した。

●Wolfgang Amadeus Mozart(W・A・モーツアルト) is known for his abilities as a brilliant 
composer. During periods of hyperfocus, he could compose an opera in just a few weeks; 
other times he left commissioned work to the last minute, or didn't finish it at all. It has 
been said that his impulsive social behavior kept him from major court positions and great 
financial reward. 

(モーツアルトは、人並みはずれた集中力で、二、三週間でオペラを完成させたりした。)

モーツアルトは、すぐれた作曲家として、その能力を知られている。モーツアルトは、その集中
力が高揚しているときは、オペラを、ほんの数週間で完成させている。ほかのときは、申し付け
られた仕事を、最後の瞬間までしなかったり、あるいはまったくしなかったりした。一説による
と、彼のこうした衝動的な行動が、宮廷での地位や、財政的な立場を、苦しくした理由だと言わ
れている。

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司


最前線の子育て論byはやし浩司(334)

【近ごろ、あれ・これ】

●悪口を言いあう夫婦

 知りあいに、今年、ともに75歳になる老夫婦がいる。見た目には、仲のよい夫婦である。…
…で、あった。

 しかしこのところ、様子が変わってきた。どこか、おかしい。

 たがいに、悪口ばかり、言いあっている。もっとも、悪口を言うのは、もっぱら、妻のほう。まさ
に、不平、不満だらけ。

 妻のほうが、少し、ボケてきたのかもしれない。たとえば、こうだ。

 「夫が、何でも、ものをしまうクセがあって困る。手紙も、裁縫箱も、みんなしまってしまう。そ
のため、どこにそれがあるか、わからなくなってしまう」と。本当は、どうやら妻のほうが、自分
でしまって、しまい忘れてしまっているようだ。

 それに対して、夫のほうは、「女房は、毎日、ガミガミ言ってばかりいる。いっしょにいるのが、
つらい」と。

 あとは、「食事のあと片づけが、悪い」「風呂の湯を出しっぱなしにする」「おかしな食べ物ば
かり、買ってくる」などなど。

 老齢期にはいって、急速に仲が悪くなる夫婦は、少なくない。それまでがまんして支えてきた
たがいの関係が、そのあたりで、一気に崩壊する。理由は、いろいろある。

 若いときは、それなりに気力があって、自分の心を押し殺して生活することができる。たがい
に、そらなりの不満があっても、それをごまかして生活をすることができる。

 が、その気力が、弱くなる? そのため、それまで隠していた内面が、外に現れる?……そう
いう例は多い。

 しかしその夫婦は、そのまま私たち夫婦の老後の姿でもある。今は何とか、たがいへの不満
を、ごまかしながら生きている。が、もう少し歳をとると、そうはいかなくなるのでは?

 もっとも、悪口を言いあうだけなら、それほど問題はない。しかし狭い家の中で、そういう相手
と、毎日顔をつきあわせていると、人生観そのものにまで、影響を与えるようになる。事実、そ
の夫婦のばあい、とくに、妻のほうの顔が、このところ会うたびに、醜悪になってきている。

 では、どうするか?

 とにかく、(がまん)はよくない。夫婦の間では、とくにそうだ。言いたいことも言えない、したい
こともできないというような状態なら、すでにその夫婦は、危機的な状態にあるとみてよい。

 若いときは、どちらか一方ががまんすれば、それなりにうまくいくかもしれない。しかしそれが
やがてすぐ、ほころびる。

 老齢というのは、そういう意味で、その人の真の姿を映しだす、カガミのようなものかもしれな
い。しかも容赦なく、映しだす。

 が、それだけではない。

 昔、私の祖父は、いつも、口ぐせのように、こう言っていた。「地獄、極楽も、この世にある」
と。

 そう、その老齢期が、地獄になることもある。

 私は、その老夫婦に、本当は、こう言いたかった。「もう、たがいにあきらめて、現実を受け入
れたら、どうですか。どうせ人生は短いのだから、たがいに楽しく生きたほうが、とくです」と。

しかし人生の大先輩に、どうしてそんなことが言えるだろうか。またそう言っても、もうそれを理
解できるような人たちではない。

 ただ、私は、こう思った。私たち夫婦も、その可能性はきわめて高いが、ああはなりたくない
な、と。


●台風一過

 今朝、起きてみると、雲の上から、ときおり、明るい太陽の光が、もれていた。どうやら台風
は、去ったようだ。

 ただ予想していたほどの、秋晴れではなかった。

 今日の予定は、これから山荘へ行って、客人を迎える。料理は、私がすることになっている。

 そのあと、夕方までに帰ってきて、仕事。今夜中に、しあげなければならないので、それをす
る。できればマガジン11月10日号の配信予約も入れたい。

 さきほど、ホームページの更新をしたが、途中で、アップロードが止まってしまった。一瞬、ヒ
ヤリとしたが、二度目には、うまくできた。よかった! こういうことがあると、本当に肝を冷や
す。

 昨夜は、久しぶりに、ワイフと抱きあって寝た。別に、愛しあっているからではない。寒かった
からだ。そう、今は、もう秋。この地方では、このままの状態で、やがて冬をすぎて、春になる。
どうも、季節感が、乏しい。

 とりあえず、これから食材の買い物。煮物でいこうか、焼き物でいこうか、まだ決めかねてい
る。店で見ながら、ワイフに相談してみる。


●心にキズをもった子ども

【大阪府T市在住の母親より】

幼稚園で不登園になって以来、小学校に 入学してから今まで 毎日 学校でつき添って登校
しています。

最近 「ぼくは、死んだほうがいいんだ。」「お母さんは、僕が嫌いなんだ。」「どうせ何をやって
もうまくできない」と、毎日言います。

幼稚園に行かなくなったときに 私が、死にたいほど辛く 本人にもかなりひどいことを言ってし
まったのを、思い出しているのかも知れません。最近になって、アスペルガ−症候群だといわ
れました。

子供に 自己に自信をつけてあげるには、どのように接してあげれば、いいでしょう?毎日 楽
しく生活できるようにと 思っているのですが、毎日 あまりにもしつこく言われ 私も いらいら
してしまいます。
(大阪府T市、CFより)

+++++++++++++++++

 アスペルガー症候群については、たびたび書いてきたので、ここでは、簡単に説明だけして
おく。

 自閉症的な症状を示しながら、知的な発達障害の見られない子どもが見せる症候群を、アス
ペルガー症候群という。ふつう自閉症というときは、言語能力などの分野で、知的発達障害を
ともなくことが多い。が、アスペルガー児には、そういった発達障害は、見られない。むしろ、数
学や算数の分野などで、特異な能力を見せることが多い。

 正確には、自閉症の中でも、正常レベルに近い子どもを、「高機能自閉症児」という。その中
でも、さらに正常に近い子どもを、「アスペルガー児」という。高機能自閉症児と、アスペルガー
障害児をまとめて、「高機能広汎性発達障害児」と呼ぶ。

 しかし名前だけはぎょうぎょうしいが、要するに、対人関係に問題がある子どもというだけで、
それ以上に問題はない。「個性」と位置づける研究者も多いし、実際、教育現場では、そういう
方向で、指導をしている。

++++++++++++++++

 この相談のばあい、その子どもが、アスペルガー児であるかどうかは、不随的な問題と考え
てよい。アスペルガー児だから、「死んだほうがいい」という言葉を口にするわけではない。た
だ、対人関係の調整が、きわめて苦手な子どもなので、ささいなことで、キズつきやすいという
こと。

 で、気になるのは、母親自身が、「私が、死にたいほど辛く、本人にもかなりひどいことを言っ
てしまったのを、思い出しているのかも知れません」と告白している部分である。

 恐らくそういった接し方を、その母親は、一度とか、二度とかではなく、ごく日常的に、態度を
とおして、していたのかもしれない。

 そのため、子どもの心は、キズついた。アスペルガー児であるというなら、なおさら、デリケー
トな心をもっていた。子どもの年齢は書いてないので、よくわからないが、低学年児であるな
ら、この言葉は、痛々しい。

【CFさんへ……】

 CFさんも、当時は、いろいろ混乱していたのだと思います。子どもの様子が、少し変わってい
るということで、いろいろ悩んだのだと思います。そして、(ひどいこと)を口にしてしまった。

 この問題は、CFさんの子どもが、アスペルガー児であるとかないとかいうこととは、一度、切
り離して考えてみたほうが、よいのでははいないかと思います。そして過去の失敗は、いまさ
ら、悔やんでもしかたのないこと。

 問題は、これから先、どうするか、ですね。

 幸いなことに、CFさんは、今、そういう自分を深く、後悔しています。そして自分やあなたの子
どもを、冷静に見つめています。ここがとても重要な点です。というのも、世の中には、そういう
子どもをもちながら、その子どもの心を知らないまま、子どもを叱りつづける親も多いからで
す。

 ほとんどの親は、子どもに何か問題が起きると、自分を改めようとする前に、「子どもをなお
そう」と考えます。しかしこれほど、身勝手な考え方はありません。

 実のところ、私自身も、「アスペルガー症候群」という言葉を、ほんの5年前にさえ知りません
でした。当時、ある母親から、子育て相談会の席で相談され、そういう症状があることを知りま
した。今から思うと、それがアスペルガー症候群でした。

(この名称が一般的になったのは、ここ数年のことではないでしょうか。私の勉強不足かもしれ
ません。

 対人関係が結べず、その子どもの母親も、深刻に悩んでいました。「完ぺき主義で、だれか
にまちがいを指摘されたりすると、錯乱状態になる」と。

 で、その子どもは、小学3年生になるまで、私は指導しました。その子どもについては、また
別の機会に詳しく書くとして、そんなわけで、私は、「死にたいほどつらく思い、子どもにひどい
ことを言った」あなたを、責めることができません。

 で、その結果、あなたの子どもの心は、ひどくキズついてしまったというわけです。

 ただ、一つ、誤解してはいけないのは、こうした対人関係がうまく結べない子どものばあい、と
きとして、相手に同情を求めながら、相手の心を試すということは、よくあることということです。

 「死」という言葉にしても、言葉として、そう言うかもしれませんが、あまり本気にしてもいけま
せん。「死ぬ」「死ぬ」と言って、死んだ子どもはいません。子どもが死を選ぶのは、あくまでも、
何かのことで行きづまった、その結果です。……といっても、やはり痛々しい言葉ですね。本来
なら、絶対、子どもには口にしてほしくない言葉です。

 こういうケースでは、まさにあなたの親としての、愛の資質が試されます。どんなことがあって
も、「許して、忘れる」です。あとは、暖かい無視を繰りかえし、子どもが、何かのスキンシップや
愛情表現を求めてきたら、すかさず、いとわず、ていねいにそれに答えてあげるということで
す。

 あとは、時の流れに任せましょう。コツは、そういったテーマや問題には、触れないことです。
うまく、聞き流すことです。「暖かい無視」という言葉がありますが、私も好きな言葉です。うま
く、応用してみてください。

 ただとても残念なことですが、一度ついた心のキズは、簡単には消えません。忘れることはで
きますが、消えません。

 しかしだれしも、そうしたキズを無数にもちながら、つまりキズまるけになりながら、成長し、生
きていくものです。ですから、CFさんの子どもが、こうしたキズをもっているとしても、それはそ
れとして、前向きに生きていくしかありません。

 コツは、その問題にふれないように。話題にしないように。あまり気にしないように。

 なお、こんな指導法もありますから、参考にしてください。

 ある中学生の男子ですが、何かにつけて、ゆううつな話題をもちかけてきます。……きまし
た。

 たとえば、こうです。

 「ぼく、今度のテストで、悪い点を取るような気がする」
 「高校へ入っても、また勉強するなんて、いやだ」
 「昨日、友だちが、ぼくを無視した」と。

 最初のうちは、その中学生に相談に、そのつどあれこれ答えていましたが、そのうち、私の
ほうもいやになり(本音!)、やがて、こう答えるようにしました。すぐ、話題を、切りかえるので
す。

 その子どもが憂うつそうな顔をして、話しかけてきたら、すかさず、「ほほう、君は、いい趣味
しているねえ。このサイフ、かっこいいね。もらったの? 買ったの?」と。

 あるいは、「もうすぐ運動会だね。君は、何に出場するの? 子どものころから、君は、走る
のは速かったんだろ?」と。

 つまりその瞬間、瞬間に、明るい話題に、こちらからもちこんでいきます。この方法は、たい
へん効果的ですから、ぜひ、CFさんのご家庭でも、応用してみてください。

 なお、いただきましたメールですが、マガジン用に、転載することを、どうかお許しください。不
都合な点があれば、改めます。どうか、至急、ご連絡ください。勝手なお願いですみません。
(はやし浩司 高機能自閉症児 アスペルガー アスペルガー症候群 子どもの心 子供 キ
ズ)

+++++++++++++++++++++++

【子育て・一口メモ(3)】

●ふつうこそ、最善

ふつうであることには、すばらしい価値がある。しかし、親たちには、それがわからない。「もっ
と……」「もう少し……」と思っている間に、かえって子どもの伸びる芽をつんでしまう。よい例
が、過干渉であり、過関心である。さらに親の過剰期待や、子どもへの過負担もある。賢い親
は、そのふつうの価値に、それをなくす前に気づき、そうでない親は、それをなくしてから気づ
く。


●限界を知る

子育てには、限界はつきもの。いつも、それとの戦いであると言ってもよい。子どもというのは
不思議なもので、親が、「まだ、何とかなる」「こんなはずではない」「うちの子は、やればできる
はず」と思っている間は、伸びない。しかし親が、「まあ、うちの子は、こんなもの」「よくがんばっ
ている」と、その限界を認めたとたん、伸び始める。皮肉なことに、親がそばにいるだけで、萎
縮してしまう子どもも、少なくない。


●ほどよい親

子どもには、いつも、ほどよい親であること。あるいは「求めてきたときが、与えどき」と覚えて
おくとよい。とくに、子どもが何らかの(愛の確認行為)をしてきたときは、すかさず、いとわず。
ていねいに、それに応じてあげる。ベタベタの親子関係がよくないことは、言うまでもない。


●子どもの世界は、社会の縮図

子どもの世界だけを見て、子どもの世界だけを何とかしようと考えても、意味はない。子どもの
世界は、まさに社会の縮図。社会に4割の善があり、4割の悪があるなら、子どもの世界にも、
4割の善があり、4割の悪がある。つまり私たちは子育てをしながらも、同時に、社会にも目を
向けなければならない。子どもがはじめて覚えたカタカナが、「ホテル」であったり、「セックス」
であったりする。そういう社会をまず、改める。子どもの教育は、そこから始まる。


●よき家庭人

日本では、「立派な社会人」「社会に役立つ人」が、教育の柱になっていた。しかし欧米では、
伝統的に、「よき家庭人(Good family man )」を育てるのが、教育の柱になっている。そのため
学習内容も、実用的なものが多い。たとえば中学校で、小切手の切り方(アメリカ)などを教え
る。ところで隣の中国では、「立派な国民」という言葉がもてはやされている。どこか戦後直後
の日本を思い出させる言葉である。


●読書は、教育の要(かなめ)

アメリカには、「ライブラリー」という時間がある。週1回は、たいていどこの学校にもある。つま
り、読書指導の時間である。ふつうの教科は、学士資格で教壇に立つことができるが、ライブ
ラリーの教師だけは、修士号以上の資格が必要である。ライブラリーの教師は、毎週、その子
どもにあった本を選び、指導する。日本でも、最近、読書の重要性が見なおされてきている。
読書は、教育の要である。


●教師言葉に注意

教師というのは、子どもをほめるときは、本音でほめる。だから学校の先生に、ほめられたら、
額面どおり受け取ってよい。しかしその反対に、何か問題のある子どもには、教師言葉を使
う。たとえば学習面で問題のある子どもに対しては、「運動面では問題ないですが……」「私の
指導力が足りないようです」「この子には、可能性があるのですが、今は、まだその力を出し切
っていませんね」というような言い方をする。


●先取り教育は、幼児教育ではない

幼児教育というと、小学校でする勉強を先取りしてする教育だとか、あるいは小学校の入学準
備のための教育と考えている人は多い。そのため漢字を教えたり、掛け算の九九を教えたり
するのが、幼児教育と思っている人も多い。しかしこれは、まったくの誤解。幼児期には幼児期
で、しておくべきことが、山のようにある。子どもの方向性も、このころ決まる。その方向性を決
めるのが、幼児教育である。


●でき愛は、愛にあらず

でき愛を、「愛」と誤解している人は多い。しかしでき愛は、愛ではない。親の心のスキマをうめ
るための、親の身勝手な愛。それをでき愛という。いわばストーカーがよく見せる「愛?」とよく
似ている。たとえば子どもの受験勉強に狂奔している親も、それにあたる。「子どものことを心
配している」とは言うが、本当は、自分の不安や心配を解消するための道具として、子どもを利
用しているだけ。そしてベタベタの親子関係をつづけながら、かえって子どもの自立をじゃまし
てしまう。


●悪玉家族意識

家族のもつの重要性は、いまさら説明するまでもない。しかしその家族が、反対に、独特の束
縛性(家族自我群)をもつことがある。そしてその家族に束縛されて、かえってその家族が、自
立できなくなってしまうことがある。あるいは反対に、「親を捨てた」という自責の念から、自己
否定してしまう人も少なくない。家族は大切なものだが、しかし安易な論理で、子どもをしばって
はいけない。


●伸びたバネは、ちぢむ

受験期にさしかかると、猛烈な受験勉強を強いる親がいる。塾に、家庭教師に、日曜特訓な
ど。毎週、近くの公園で、運動の特訓をしていた父親さえいた。しかしこうした(無理)は、一事
的な効果はあっても、そのあと、その反動で、かえって子どもの成績はさがる。「伸びたバネは
ちぢむ」と覚えておくとよい。イギリスの教育格言にも、『馬を水場に連れていくことはできても、
水を飲ませることはできない』というのがある。その格言の意味を、もう一度、考えてみてほし
い。


●「利他」度でわかる、人格の完成度

あなたの子どもの前で、重い荷物をもって、苦しそうに歩いてみてほしい。そのとき、「ママ、も
ってあげる!」と走りよってくればよし。反対に、知らぬ顔をして、テレビゲームなどに夢中にな
ってれば、あなたの子どもは、かなりのどら息子と考えてよい。子どもの人格(おとなも!)、い
かに利他的であるかによって、知ることができる。つまりドラ息子は、それだけ人格の完成度
の低い子どもとみる。勉強のできるできないは、関係ない。


●見栄、体裁、世間体

私らしく生きるその生き方の反対にあるのが、世間体意識。この世間体に毒されると、子ども
の姿はもちろんのこと、自分の姿さえも、見失ってしまう。そしてその幸福感も、「となりの人よ
り、いい生活をしているから、私は幸福」「となりの人より悪い生活をしているから、私は不幸」
と、総体的なものになりやすい。もちろん子育ても、大きな影響を受ける。子どもの学歴につい
て、ブランド志向の強い親は、ここで一度、反省してみてほしい。あなたは自分の人生を、自分
のものとして、生きているか、と。


●私を知る

子育ては、本能ではなく、学習である。つまり今、あなたがしている子育ては、あなたが親から
学習したものである。だから、ほとんどの親は、こう言う。「頭の中ではわかっているのですが、
ついその場になると、カッとして……」と。そこで大切なことは、あなた自身の中の「私」を知るこ
と。一見簡単そうだが、これがむずかしい。スパルタのキロンもこう言っている。「汝自身を、知
れ」と。哲学の究極の目標にも、なっている。

++++++++++++++++

●依存性

 ぼんやりと、秋の薄日を感じながら、「依存性」について、考える。「その人の依存性は、どう
すればわかるか?」と。

 そこで一つの診断基準を考えてみた。

(してもらうことのほうが多い)+++++++++++(してあげることのほうが多い)
(ものをもらうほうが、多い)++++++++++++++(ものをあげるほうが多い)
(世間に期待することのほうが多い)+++(世間など、あてにしないことのほうが多い)

 依存性といっても、さらに内容をつきつめていくと、複雑に分かれる。夫婦の間で、相互に依
存性が強くても、社会的には、独立心が旺盛な人もいる。もちろん、その反対の人もいる。

 だから一概には、どうとは言えないが、この診断基準で、どちらかといえば、左寄りという人
は、それだけ依存性が強い人とみる。

 人は、こうしてたがいに依存しあって生きていくものだが、ときに、(提供側)と、(享受側)の
関係が、はっきりとできてしまうことがある。

 つまりどちらか一方は、いつも、提供する側。そしてもう一方は、いつも、それを受け取る側と
いう関係である。長い時間をかけて、少しずつそういう関係ができ、気がついたときには、それ
が固定化していることが多い。

 親子の間、夫婦の間でできることが多いが、中には、親自身が子どもに、一方的に依存する
というケースもある。さらに兄弟の間も、それができることがある。

 ある男性(45歳)はこう言った。「ぼくの兄は、ケチで、何をしても、自分でお金を払ったことが
ありません。割り勘という考え方もしません。家族ぐるみで、食事に行っても、その料金を支払
うのは、いつもぼくです。子どものときから、そうです。そういう関係ができてしまったのですね」
と。

 こうした依存性は、幼児期から身につくものである。教室でも、何かにつけて、私に頼ってくる
子どもがいる。そういうとき私は、「自分で考えなさい」というような言い方で、突き放す。

 一見、冷たい指導法に見えるが、そのほうが、子どものためにはよい。(反対に、親の受け
は、よくないが……。)


++++++++++++++++

●Y市のNさんよりメール
 
 Y市に住んでいる、Nさんより、母親(実母)についての相談があった。

 Nさんは、現在、31歳。2児の母親。

 Nさんの母親(実母)は、プライドの高い人で、人から、何か指摘されたりすると、カッとなりや
すい人のようである。そしていつも、夫(Nさんの実父)の顔色をうかがって、生活しているような
ところがあるという。

 Nさんにとって、Nさんの生まれ育った家庭は、とても「暖かい家庭」とは言えなかったようであ
る。一度、Nさんが家出をしたとき、こんなことがあったという。Nさんが、高校生のときのことで
ある。

 Nさんの母親は、Nさんを迎えにきたとき、Nさんに、「私がかわりに家出をするから、あなた
はもどってきなさい」と言ったという。その一件で、Nさんは、母親との信頼関係が、崩れたよう
に感じたという。

 「私は恵まれた家庭に育っていない。しかし自分の子どもたちには、家族の温もりを教えてあ
げたい」「幸福な気持ちで、生きてほしい」「どうしたらいいか」「また、両親に、もっと自分たちの
ことを気づいてほしい。どうしたらいいか」と。

【Nさんへ……】

 エッセー形式で、返事を書いてごめんなさい。Nさんのかかえておられる問題は、広く、つまり
あちこちの家庭で起きている問題です。そういう意味で、エッセー形式にしました。どうか、ご理
解ください。

【家族自我群からの解放】

 「家族意識」には、善玉意識と悪玉意識がある。これについては、すでにたびたび書いてき
た。

 「家族だから、みんなで助けあって生きていこう」というのが、善玉家族意識。「家族として、お
前には勝手な行動は許さない」と、家族同士をしばりあげるのを、悪玉家族意識という。

 この悪玉家族意識には、二面性がある。(ほかの家族をしばる意識)と、(自分自身がしばら
れる意識)である。

 「お前は、長男だから、家を守るべき」「お前は、息子なのだから、親のめんどうをみるべき」
と、子どもをしばりあげていく。これが(ほかの家族をしばる意識)ということになる。

 一方、子どもは子どもで、「私は長男だから、家をまもらなければならない」「息子だから、親
のめんどうをみなければならない」と、自分自身をしばりあげていく。これが、(自分自身がしば
られる意識)である。

 問題は、後者である。

 それなりに良好な親子関係ができていれば、自分で自分をしばりあげていく意識も、それなり
に、良好な親子関係をつくる上においては、プラス面に作用する。しかしひとたび、その親子関
係がくずれたとき、今度は、その意識が、その人を、大きな足かせとなって、苦しめる。

 ばあいによっては、自己否定にまで進む。

 ある男性は、実母の葬儀に出なかった。いろいろ事情はあったのだが、そのため、それ以
後、自らに、ダメ人間のレッテルを張ってしまった。

 「私は親を捨てた、失格者だ」と。

 その男性の住む地方では、そういう人のことを、「親捨て」と呼ぶ。そして一度、「親捨て」のレ
ッテルを張られると、親戚はもちろんのこと、近所の人からも、白い目で見られるようになる。

 こうした束縛性を、心理学の世界でも、「家族自我群」と呼ぶ。そうでない人、つまり良好な親
子関係にある人には、なかなか理解しにくい意識かもしれない。しかしその意識は、まさにカル
ト。家族自我群に背を向けた人は、ちょうど、それまで熱心な信者だった人が、その信仰に背
を向けたときのような心理状態になる。

 ふつうの不安状態ではない。ばあいによっては、狂乱状態になる。

 家族としての束縛性は、それほどまでに濃厚なものだということ。絶対的なものだということ。
親自身も、そして子ども自身も、代々、生まれながらにして、徹底的に、脳ミソの中枢部にたた
きこまれる。

 こうした意識を総称して、私は「親・絶対教」と呼んでいる。日本人のほとんどが、多かれ少な
かれ、この親・絶対教の信者と考えてよい。そのため、親自身が、「私は親だから、子どもたち
に大切にされるべき」と考えることもある。子どもが何かを、口答えしただけで、「何だ、親に向
かって!」と、子どもに怒鳴り散らす親もいる。

 私がいう、悪玉親意識というのが、それである。

 ずいぶんと、回り道をしたが、Nさんの両親は、こうした悪玉家族意識、そして悪玉親意識を
もっているのではないかと、思われる。わかりやすく言えば、依存型人間。精神的に未熟なま
ま、おとなになった親ということになるのかもしれない。Nさん自身も、メールの中で、こう書いて
いる。

 「(母も)、そろそろ自分の人生を生きることを選んで欲しいと、心から願っています」と。

 Nさんの母親は、いまだに子離れができず、悶々としている。そしてそれが、かえってNさんへ
の心理的負担となっているらしい。

 実際、親離れできない子どもをかかえるのも、たいへんだが、子離れできない親をかかえる
のも、たいへんである。「もう、私のことをかまわず、親は親で、自分の道を見つけて、自分で
生きてほしい」と願っている、子どもは、いくらでもいる。

【親であるという幻想】

 どこかのカルト教団では、教祖の髪の毛を煎じて飲んでいるという。その教祖のもつ霊力を、
自分のものにするためだそうだ。

 しかし、そういう例は、少なくない。考えてみれば、おかしなことだが、実は、親・絶対教にも、
似たようなところがある。

 ……という話はさておき、(というのも、すでに何度も触れてきたので)、私も、すでに56歳。
その年齢になった人間の一人として、こんなことが言える。

 「親という言葉のもつ、幻惑から、自分を解放しなさい」と。

 子どもから見ると、親は絶対的な存在かもしれない。が、その親自身は、たいしたことがない
ということ。そのことは、自分がその年齢の親になってみて、よくわかる。

 多分、20代、30代の人から見ると、56歳の私は、年配者で、それなりの経験者で、かつそ
れなりの人格者だと思うかもしれない。しかしそれは、幻想。ウソ。

 ざっと私のまわりを見ても、50歳をすぎて、40代のときより、進歩した人など、一人もいな
い。人間というのは、むしろある時期を境に、退化するものらしい。惰性で生きるうち、その範
囲の生活的な技術は身につけるかもしれない。が、知性にせよ、理性にせよ、そして道徳観に
せよ、倫理観にせよ、むしろ自ら、退化させてしまう。

 わかりやすく言えば、歳をとればとるほど、くだらない人間になる人のほうが、多いというこ
と。それはまさに健康や体力と似ている。よほどの訓練をしないと、現状維持すら、むずかし
い。

 これは現実である。まちがいのない現実である。

 しかし親に対する幻想をもつ人は、その幻想に、幻惑される。「そんなはずはない」「親だから
……」と。

 Nさんも、どうやら、そうした幻惑に苦しんでいるようである。

 だから、私は、こう言いたい。「Nさん、あなたの母親は、くだらない人です。冷静にそれを見
抜きなさい。親だからといって、遠慮することは、ない」と。

 ただ誤解しないでほしいのは、だからといって、Nさんの母親をどうこうと言っているのではな
い。親・絶対教の人にこう書くと、かえって猛烈に反発する。以前、同じようなことを書いたと
き、こう言ってきた人がいた。

 「いくら何でも、他人のあなたに私の母のことを、そこまで悪く言われる筋あいはない」と。

 私が言いたいのは、親といっても、その前に一人の人間であるということ。そういう視点から、
親を見て、自分を見たらよいということ。親であるという幻惑から、まず、自分を解放する。

 この問題を解決するためには、それが第一歩となるということ。

【親のことは、親に任せる】

 Nさんのかかえるような問題では、子どもとしてできることには、かぎりがある。私の経験で
は、親自身に、特別な学習能力があるなら話は別だが、それがないなら、いくら説得しても、ム
ダだということ。

 そもそも、それを理解できるだけの、能力的なキャパシティ(容量)がない。おまけに脳細胞そ
のものが、サビついてしまっている。ボケの始まった人も、少なくない。

 さらにたいていの親(親というより、親の世代の年配者)は、毎日を惰性で生きている。進歩
などというのは、望みようもない。

 そういう親に向かって、「あなたの人生観はまちがっている」と告げても意味はないし、仮にそ
れを親が理解したとしたら、今度は、親自身が、自己否定という地獄の苦しみを味わうことにな
る。

 つまり、そっとしておいてあげることこそ、重要。カルトを信仰している、信者だと思えばよい。
その人が、その人なりに、ハッピーなら、それはそれでよい。私たちがあえて、その家の中に、
あがりこみ、「あなたの信仰はまちがっている」などと言う必要はない。また言ってはならない。

 この世界では、そうした無配慮な行為を、「はしごをはずす行為」という。「あなたはまちがって
いる」と言うなら、それにかわる、(心のよりどころ)を用意してあげねばならない。そのよりどこ
ろを用意しないまま、はしごをはずしてはいけない。
 
 要するに、Nさん自身が、親自身に幻想をいだき、その幻惑の中で、もがいている。家族自
我群という束縛から、解放されたいと願いつつ、その束縛というクサリで体をしめつけ、苦しん
でいる。

 だから、Nさん自身が、まず、その幻想を捨てること。「どうせ、くだらない人間よ」「私が本気
で相手にしなければならない人間ではない」と。

 「親だから、こんなはずはない」と思えば思うほど、Nさん自身が、そのクサリにからまれてし
まう。私は、それを心配する。

 ある男性(50歳くらい)は、私にこう言った。

 「私の父親は、権威主義で、いつもいばっていました。『自分は、すばらしい人間だ』『私は、
みなから、尊敬されるべきだ』とです。しかし過去をあれこれさぐってみても、父が、他人のため
に何かをしたということは何もないのですね。それこそ近所の草刈り一つ、したことがない。そ
れを知ったとき、父に対する、幻想が消えました」と。

 あえて言うなら、Nさんの母親は、どこか自己愛的な女性ということになる。かわいいのは自
分だけ。そういう自分だけの世界で、生きている。批判されるのを嫌う人というのは、たいてい
自己愛者とみてよい。自己愛者の特徴の一つにもなっている。

 幼児的な自己中心性が肥大化すると、人は、自己愛の世界に溺れるようになる。Nさんのメ
ールを読んでいたとき、そんな感じがした。

【お子さんたちのこと】

 Nさんは、子どもへの影響を心配している。「子どもたちに、幸福な家庭を見せてあげたい」
と。

 心配は無用。

 Nさんの子どもたちは、Nさんの子どもたちへの愛情の中から、自分たちの進むべき道を見
つけていく。つまりそうして子どもたちの将来を心配するNさんの愛情こそが、大切ということ。

 たしかに子どもというのは、自分の置かれた環境を再現する形で、おとなになってから、子育
てをする。しかしそれは、決して、物理的な環境だけではない。

 もちろん問題がないわけではない。しかしどれも克服できる問題ばかり。現に今、Nさんは、
私にメールをくれることで、真剣に子どもたちのことを考えている。

 こういう姿勢があるかぎり、子どもたちは、必ず、自分の進むべき道を自分で見つける。

 大切なのは、「形」ではなく、「自分で納得できる人生」である。

 だから子どもたちに対する愛情だけは、見失わないように。

【改めてNさんへ……】

 以上、大急ぎで返事を書きました。あちこち何かしら言い足りないところもありますが、参考
にしていただければ、うれしいです。

 Nさんの問題をテーマにしてしまいましたが、どうか、ご了解の上、お許しください。11月10
日号を今夜配信しなければならないのですが、この数日、ほとんど原稿を書いていません。

 それで11月10日号の原稿とかねて、返事を書かせてもらいました。お許しください。

 では、今夜は、これで失礼します。未推敲のまま原稿を送ります。よろしくお願いします。

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

 
最前線の子育て論byはやし浩司(335)

●最近の話題から

 「そういう考え方もあるのかなあ?」とも考えた。しかし、私には、どうしても、ついていけない。

 10月11日、アメリカ海軍のイージス艦レイクエリー(9、516トン)が11日、新潟県の新潟東
港に入港した。アメリカ海軍は「乗組員の休養と物資の補給が目的」としていて、12日に出港
する予定だという(新聞報道ほか)。

アメリカ海軍はミサイル防衛(MD)の一環として、北朝鮮の弾道ミサイルの脅威に備えてイー
ジス艦を日本海に配備しており、新潟初入港もその関連とみられる。イージス艦の新潟入港は
初めて。
 
 それに対して、新潟県HW運動センターや社M党新潟県連などのメンバーが、新潟東港で抗
議集会を開催。漁船に横断幕を掲げて、入港反対を訴えた。テレビでも、岸壁の上に並び、シ
ュプレヒコールしている姿が、大きく報道された(NHK)。

 あの拉致事件について、一貫して、「K国による、拉致はない」「拉致事件は、日本政府のデ
ッチあげ」と、当時、主張していたのは、社会党(現在の社M党)ではなかったのか。

 私は、その抗議の模様をテレビで見ながら、改めて、平和とは何か、考えさせられた。

 今、まさに、K国は、国際世論に背を向けて、核兵器やミサイルを開発しつづけている。もち
ろんそのターゲットは、日本である。アメリカや韓国ではない。日本である。いくらK国でも、本
気でアメリカを相手にしたら、どうなるか。それくらいのことは、わかっている。事実、かねてよ
り、K国高官たちは、一貫して、核兵器開発は、日本に向けのものだと、ことあるごとに明言し
ている。

 何も、イージス艦を歓迎せよとまでは言っていない。しかし反対運動をする理由が、私には、
どうしてもよくわからない。

 以前、あるテレビ局のニュースキャスターは、こう言った。日本でも、左翼系のテレビ局として
知られている、A放送局の、あのK氏である。アメリカがK国に、核兵器の開発の放棄を迫った
ことについて、いわく、「アメリカは、自分で核兵器をもっていて、どうしてK国に、核兵器の開発
をやめろと言えるのですかねえ……」と。

 いつだったか忘れたが、私はちゃんと、聞いた。

 つまりK氏は、「核兵器をもっているアメリカに、他国の核兵器開発をやめろと言う資格はな
い」と。

 この意見を聞いたとき、私の頭の中では、脳ミソがバチバチとショートした。なぜ、バチバチと
ショートしたかは、ここにもう、書くまでもない。

 K国は、すでに、7〜8個の核兵器をもっているという。それが、公式な意見である。もしそれ
らの核兵器が、日本に対して使われないまでも、外国のテロリストたちの手に渡ったら、どうな
るか。そのときでも、社M党の人たちは、「平和」を叫んでいるのだろうか。

 この現実検証能力のなさ。それが社M党衰退の、一番の理由だと、私は思うのだが……。そ
の新潟県といえば、いちばん、拉致事件で被害にあった県である。それについて、政治的に温
厚な私のワイフでさえ、「K国に、ひどいめにあっている県なのにねえ……」と言った。

 相手がまともな国なら、まともな平和論や、反戦運動も、通用する。しかし、そうでないから、
今、あれこれと問題になっているのである。

 私たちが今、考えなければならないことは、平和ではなく、東京都のど真ん中で、核兵器を爆
発させないことなのである。平和を口にするのは、そのあとでよい。


++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

●ドライな母親たち

 数日前、市内で、水泳教室(スイミングスクール)の講師をしている、N先生(32歳・女性)
が、こんな話をしてくれた。

 その水泳教室では、1クラス15人にならないと、経営がなりたたないという。しかしこの業界
も、少子化の荒波をもろに受けている。

 新聞の折り込み広告を出しても、夏場でも、1クラス5〜10人が集まれば、よいほうだそう
だ。しかしレッスン時間をあけておくわけにもいかない。最初は、その5〜10人程度でスタート
する。

 しかし、だ。今年は、過当競争ということも重なって、5月にでさえ、4人しか集まらなかった。
しかも6歳児ばかりの、4人! 指導員は、その先生を含めて、もう一人。ともに、若いころは、
国体選手として選ばれたこともあるという。輝かしいキャリアをもっている。

 月謝は、週2回のレッスンで、8500円プラス消費税。

 苦しい経営がつづいた。が、何とかしのいで、7月になって、ある日のこと。やっと生徒も、10
人になった。一人の母親が、その先生に、こう言ったという。

 「何人まで、生徒をふやす、おつもりなのですか?」と。

 顔満面に、明らかに不快感を表していたという。つまり、「これ以上、生徒をふやしてもらって
は、困る」と。

 で、その先生は、あれこれ説明したのだが、今度は、別の母親が、こう言ったという。

 「8月は、1日から17日まで、休ませていただきます。ついては、月謝を半額にしてほしい」
と。

 その先生は、すっかりやる気をなくし始めていた。が、それだけでは、終わらなかった。

 9月のはじめに、スクールの先生たちの集まる、地区大会があった。それでその先生も含め
て、そのスクールの先生たちが、その大会に出ることになった。臨時休講である。が、それに
ついても、「勝手に休むのだから、補講するなり、月謝をその分、返してほしい」と。

 その先生は、私に、こう言った。

 「最近の母親たちは、ドライというか、こまかいですね」と。

 その先生は、9月は1回分、休講するから、正味40分のレッスンを、ギリギリの50分に延ば
して、対応していたという。「それでも、そう言うのですから、本当にやる気をなくします」と。

 こうした現状は、スイミングスクールだけに、かぎらない。似たようなことは、保育園でも、幼
稚園でも、さらに学校でも、起きている。教育というより、子育てそのものが、自動販売機化し
ている。

 そうそう、そのN先生は、近く、そのスイミングスクールを退職するそうである。私が、「あなた
から聞いた話を、記事にしていいですか?」と聞くと、「どうぞ、どうぞ、どんどん書いてください」
とのこと。その声は、意外に、明るかった。

【私の体験から……】

 私の教室のばあい、その特殊性から、生徒の公募はしていない。ほとんどが、口コミか紹介
による生徒である。したがって、ここに書いたような、つまりスイミングスクールの先生が経験し
たようなことは、ほとんど起きない。

 やはりこういった仕事は、父母との間の信頼関係がないと、できない。まずその信頼関係を
つくる。決して、その関係に甘えていてはいけないが、すべては、ここから始まる。そのために
も、安易な生徒募集は、しない。

 たいへんなのは、学校の先生たちだと思う。私たちの世界では、万が一、その信頼関係が崩
壊すれば、父母や子どもたちと、そのまま別れることができる。しかし学校の先生たちには、そ
れができない。

 一度、父母との関係がこじれると、そこはまさに、生き地獄! 「手紙一通、電話一本が届い
ただけで、体の震えが始まった」とは、ある先生の言葉。そういう世界である。ささいな言葉が
きっかけで、任期途中で、転校させられる先生も、少なくない。

 ときどき学校選択制の問題が、話題になるが、そんなわけで、選択制は、父母のためだけで
はない。実は、先生にとっても、よいことなのである。「もし、どうしても、この学校が気にいらな
けければ、どこかよその学校へ行かれてはどうですか」と、それを、最後の切り札として、使う
こともできる(?)。


++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司
 

●あるマザコン息子

 知人(群馬県K町在住・男性)の住んでいる近所に、「これまたどうしようもない、絵に描いた
ような、マザコン息子」(知人の言葉)がいるという。

 年齢は、45歳になるという。

 柔和で、やさしく、ハキがない。45歳になるというのに、母親の言うなり。何かあるたびに、
「母ちゃん、母ちゃん」とすり寄っていくという。結婚して、高校生になる息子がいる。が、いまだ
に。会社から受け取る給料は、そのまま母親に渡しているというから、ふつうではない。

 言い忘れたが、その息子氏家族は、両親と同居している。

 が、問題は、そのことではない。そういう男性がいるなら、いるでかまわない。またそれなり
に、みなが、ハッピーなら、それでかまわない。

 問題は、その息子氏の母親である。今年、70歳くらいになるのではないか。その母親が、こ
とあるごとに、その息子氏をほめるというのである。

 「私の息子は、すばらしい息子だ。こんないい息子をもって、私は幸福だ。私の息子は、世界
一、すばらしい息子だ」と。

 で、その話を聞くたびに、その知人は、「?」と思うという。その知人のスタンダード(基準)と、
まったくかみあわないからだという。

知人「ああいう男を、すばらしい息子という、母親の気持ちが理解できない」
私「マザコンというのは、双方向性がありますから……」
知「何ですか、その双方向性というのは?」
私「いい息子、いい母親という、ベタベタの親子関係をつくるのが、ふつうです」

知「同じ男としてみると、気持ち悪いですよ。見た感じも、どこかナヨナヨしていて」
私「マザコンと外見は、あまり関係ありません。マザコンというのは、あくまでも、精神面のあり
方を言います。ヤクザっぽい人でも、マザコンの人は、いくらでもいます。多分、マザコンに、母
親の過干渉か過関心か、何かが加わって、ナヨナヨしたのでは、ないでしょうか」
知「母親に、魂まで、抜かれてしまっている感じです」
私「それは、あくまでも、結果です。マザコンだから、魂を抜かれるというのではなく、結果とし
て、そうなったということだろうと思います。昔の人は、親に従順で、親の言うことを、ハイハイと
聞く子どもほど、いい子と評価しましたから」

知「林さんが言う、親・絶対教ですね」
私「はあ、そうです。もうそれはカルトの世界ですから、どうしようも、ありません。で、奥さんで
すが、よくそんなダンナに、その奥さんが、がまんしてますね?」
知「そうなんですよ。そこなんですよ。嫁、姑戦争と言いますが、壮絶な戦争を繰りかえしていま
す。奥さんは、長男が高校を卒業したら、離婚すると言っているそうですが……」と。

 こういう例は、多い。あなたの周辺にも、一つや二つ、似たような話は、あるかもしれない。

 しかし今、その予備軍というか、このタイプの男児がふえているようにも、感ずる。強力な母
子関係。本来なら、父親がその間に割って入らなければならないのだが、その父親の影が薄
い。そのため、母子関係が是正されないまま、子どもが、そのままマザコンになっていく!

 そこは母親にとっても、またひょっとしたら、子どもにとっても、居心地のよい世界かもしれな
い。しかし正常か、そうでないかということになれば、決して、正常な世界ではない。かりに、日
本中の男性がそうなったら、この日本はどうなるか? それを少しだけ頭の中で、想像してみ
ればよい。あなたも、ソッとするはず。


【今週のBWより】

 親子のキレツが深まると、子どもは、親に対して、無言を守るようになる。そのため親子の間
に、ピリピリとした緊張感が走るようになる。

 ある母親は、こう言った。「先生、どうか、先生のほうから、息子(小4)に、説教してやってくだ
さい。私が言うと、すぐ喧嘩になってしまいます」と。

 あるいは、中学の進路指導の先生のところに、母親がやってきて、こう言ったという。「息子
が、うちでは、いっさい、受験の話をしません。A高校にするか、B高校にするか、何も話してく
れません。いったい、どうなっているのか、先生、どうか、教えてください」と。

 こうした状態、つまり子どもが無言を守るようになるのは、その子どもが、無意識のうちにも、
葛藤やそれに伴う感情エネルギーを、抑圧している状態とみる。こうした状態を、心理学の世
界でも、「抑圧」と呼ぶ。

 その抑圧を発散させる方法としては、いろいろある。
 
 その一つが、「アート・セラピー」である。絵画療法とか、芸術療法とか、呼ばれている。

●絵画療法
●造形療法
●音楽療法
●箱庭療法
●心理劇療法、など。

 人間には、内にこもったものを、何らかの形で吐き出したいという欲求がある。フロイトの「肛
門期説」を、あげるまでもない。「人間は、体内(精神内)にたまった老廃物(秘密や欲求不満)
を、外に排出したいという欲求がある」という。

 昔の人も、「もの言わぬは腹ふくるる業(わざ)」と言った。わかりやすく言えば、心の中に、何
かをおしとどめておくことは、それ自体、苦痛なことであるということになる。

 こうした考え方は、やがて、「欲求段階説」を唱えた、A・H・マスローたちによって、完成され
る。つまり「人はだれでも、自己表現の欲求をもつ」と。

 そこで無言を守る子どもには、特別な指導が必要ということになる。ここにあげた、アート・セ
ラピーも、それにあたる。これもわかりやすく言えば、「童心にかえって、遊ぶ」ということであ
る。方法は、何でもよい。

 が、私のばあい、つまり私の教室のばあい、「大声を出させる」というのを、一つの方法として
いる。一部のかん黙症の子どもや、アスペルガー症候群の子ども、さらに回避性障害のある
子どもには、向かない。

 しかし、この「大声を出させる」という方法で、子どもたちの抑圧感を、解放させることができ
る。大声を一度出させるだけで、子どもたちの表情が、見ちがえるほど、明るくなる。

 さらに一歩進んで、「大声で笑わせる」という方法もある。

 で、数週間ごとに、何らかの方法で、教室のムードをもりあげたあと、(実際には、レッスンの
冒頭で)、大声を出させるように指導している。

 少し話がそれたが、無言を守っている子どもに向かって、「話しなさい」「ものを言いなさい」と
言っても、ムリである。すでにそういう関係になってしまっているなら、なおさらである。その時点
で、人間関係は、かなりこじれている。

 そこで、ここであげた、アート・セラピーということになる。むずかしいことではない。「童心にか
えって、いっしょに遊ぶ」。方法は、何でもよい。

 ……ということは、もしあなたが子どもとの間に、何かのキレツを感じたら、「私は親だ」という
親意識は、捨てて、子どもといっしょに、遊べばよい。カードゲームでも、テレビゲームでも、何
でもよい。

 子どもはやがて、あなたに対して、口を開くようになる。


●ホスピタリズム

 生後直後から、親(とくに母親)の手を離れ、施設(乳児院、孤児院、養護施設、保育所)など
に預けられた子どもに、独特の特徴が見られることがある。そうした特徴を、総称して、「ホス
ピタリズム」という。

 ホスピタリズムの特徴としては、おおきく分けて、つぎの10項目あるとされる(渋谷昌三「心
理学用語がわかる本」かんき出版より)。

(1)身体発育の不良
(2)知能の発育の遅れ
(3)情緒発達の遅滞と情緒不安定
(4)社会的発達の遅滞
(5)神経症的傾向(指しゃぶり、爪かみ、夜尿、遺尿、夜泣き、かんしゃくなど)
(6)睡眠不良
(7)協調性の欠如
(8)自発性の欠如と依存性
(9)攻撃的傾向
(10)逃避的傾向

 要するに、新生児、乳幼児には、母親の濃密な愛情と世話が必要ということ。いろいろ事情
が許さないときもあるだろうが、できるだけ、子どもは、母親が、自分の手で育てたほうがよ
い。その期間は、WHOも提言しているように、最低でも、満2歳までが、よい。

 このホスピタリズムは、この世界では常識的な常識だが、そういうホスピタリズムという十字
架というか、心の深いキズを負った子ども自身は、どうなるのか。またどうすればよいのかとい
う問題がある。

【N君、12歳の例】

 N君が、生まれたとき、すでに両親の関係は冷え切っていた。かろうじて家族のワクだけが残
っているような状態だった。

 そのほかにもいろいろ事情があって、N君は、生後直後から、祖父母に預けられた。しかし
祖父母は、ほとんど毎日、24時間、近くの保育所へ、N君を預けた。祖父母にも、孫の世話を
みるだけの、財力も、生活力もなかった。

 N君のそんな生活は、N君が、4、5歳になるまでつづいた。そのころN君の両親は、離婚。N
君は、父親のほうに引き取られた。

 そのN君に私が感じた最初の印象は、(1)表情がなかったということ。N君が6歳のときのこ
とだった。無表情というか、能面のようですら、あった。ツルッとした顔立ちをしていたが、目と
口以外は、ほとんど動かさなかった。

 そのN君に、こんなことがあった。

 あるとき、N君が、みんなで絵を描くとき、隣の子どものクレヨンを、わざと、下へ落して、散ら
かしてしまった。そこで私が、N君を立たせ、強く叱った。N君は、だまって、私の小言を聞いて
いた。

 が、そのときのこと。ふと気がつくと、何と、そのN君が、表情をまったく変えないまま、涙をこ
ぼしているではないか。スーッと細い涙が、頬を伝って落ちていた。私は、それを見て、驚い
た。父親から、N君の不幸な生い立ちを聞いたのは、そのあとのことだった。

 N君のことで、つぎに気になったのは、(2)幼稚性の持続と、(3)自己管理力のなさであっ
た。

 6歳児らしい子どもらしさが、なかった。どこかコセコセしていた。幼児ぽいというより、幼稚な
感じがした。年齢に換算することはできないが、その年齢にふさわしい、人格の完成が見られ
なかった。

 またこんなこともあった。何かの教材の入った箱を渡したときのこと。N君は、それを受け取
ると、バリバリと箱を破って、中身のものを、取り出してしまった。私はその前に何度も、「箱
は、まだあけてはいけません」と、注意したのだが……。
 
 私の印象では、ホスピタリズムといっても、その子どもの置かれた環境などにより、症状にも
個人差があるということ。また親の育児拒否、冷淡、無視といっても、程度の問題もある。さら
に、そのあとの不幸な家庭環境が、さまざまな影響を、子どもに与えることもある。

 ここにあげた10項目は、あくまでも一つの目安でしかない。

 で、そのN君だが、そのときさまざまな、心身症、神経症による症状を示した。お決まりの、チ
ックや吃音(どもり)など。何かにつけて、極度の不安状態になることもあった。強く叱られると、
オドオドしたり、反対に、やさしくされると、赤ちゃんのような声を出して、その人に甘えたりし
た。わざと同情を求めるような、しぐさも、よくした。

 一見、静かで、あつかいやすく見えたが、根気がつづかず、好奇心も弱かった。あきっぽく、
それでいて、短気だった。

 そうしたN君だったが、本当の問題は、父親にあった。無理解と、無頓着。その前に、問題の
本質を知るだけの、知力をもちあわせていなかった。

 たとえばN君は、ウソをよくついた。そのウソに対して、父親は、いつも大声を出して、怒鳴っ
ていた。ときに、手も出した。そのためN君は、父親の前で、ますます萎縮した。

 現在、そのN君は、30歳になるという。人づてに聞いた話によると、家業のxx屋で、店番をし
ているという。店番といっても、ただ座っているだけ。父親に言われるまま、言われることしか、
できないという。

 N君の例を見るまでもなく、心に大きなキズをもった子どもは、不幸である。自分で自分をコ
ントロールする力さえもっていない。その前に、自分の姿を客観的にとらえる力さえもっていな
い。心のキズをもちながら、そのキズが何であるかさえわからない。

 キズに操られるまま、それが自分と思いこんでいるだけ。N君について言うなら、恐らくという
より、ほぼまちがいなく、その状態は、死ぬまでつづく。

 が、こうした問題は、決して、N君だけの問題ではない。私たちも、どの人も例外なく、何らか
の心のキズを負っている。

 ただ程度の差はある。またキズの深さも、人それぞれちがう。しかしそのキズに気づくことが
ないまま、日々の生活の中で、それに振りまわされている人は、多い。そういう自分の中にあっ
て、自分を裏からコントロールする部分を、私は、(私であって、私でない部分)と呼んでいる。

 が、さらに問題はつづく……。

 こうした(私であって、私でない部分)は、そのまま子育ての世界に、反映される。言うまでも
なく、子育ては、本能ではなく、学習によってできるようになる。つまりほとんどの人は、自分の
意思と思想によって子育てをしていると思っている。しかし実際には、自分が受けた子育てを、
繰りかえしているにすぎない。もっとはっきり言えば、ほとんどの人は、ほとんどのばあい、(私
であって、私でない部分)に操られながら、子育てをしている。

 で、その(私であって、私でない部分)が、それなりに好ましいものであれば、それでよい。し
かし好ましくない部分もある。それが自分の子育てに、大きな影響を与える。

 あなたの中の、あなたであってあなたでない部分の中に、このホスピタリズムがないかどう
か、一度、あなたの心の中をさぐってみるとよい。
(041012)
(はやし浩司 ホスピタリズム 施設児 特徴)

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

●リンゴの木の下に子犬?

 私も、若いころ、東洋医学の勉強をした。本も何冊か、書いた。「東洋医学・基礎編」(学研)、
「東洋医学・経穴編」(学研)ほか。

 「東洋医学・経穴編」には、7年という年月を費やした。7年だぞ! また「東洋医学・基礎編」
は、今でも、全国の医学部、鍼灸学校で、教科書として使われている。本当だぞ!

 そういう立場で、つぎの記事を読んだときには、笑った。ジョークだと思った。

 隣のK国では、今、金XXが、世界に類を見ないほどの、独裁国家をつくっている。その父親
の金NNについての記事だが、こんなのがあった(ヤフー海外トピックス・10・12)。

 今度、韓国で、『金NNの長寿健康法』という本が出版された。著者は、98年に脱北した、ソ
ク・ヨンファン(40歳)という人だそうだ。

 彼は、K国のP市医科大学を卒業し、漢方医として生計をたてていたという。そして金NN長
寿研究所で、研究員をしていたこともあるという。

 その書いた本の内容が、おもしろい。いわく、

「K国の故金NN主席は、生前に自分のために特別開発された最高級リンゴを、よく食べてい
た。別名『タンパク質リンゴ』だ。冬に黄色の子犬をリンゴの根付近に埋め、春にはそこにカエ
ルを埋めて、木の養分にして裁培するためこの名前が付けられた。 

 彼が使っていた寝具は、スズメのあごの下の毛だけを使用して、特別製作されたものだ。寝
具の製作に、70万羽のスズメが必要だったという。

彼の別荘のベッドには、体の各部位が当たる個所ごとに薬剤が使用されており、枕には32種
類の漢方薬が使われていた。

17歳から20代前半の美人女性で構成された『喜び組』の任務は、金NNを笑わせることだっ
た。彼が行くところには、常に喜び組の2、3人が同行し、子どもっぽいしぐさをしたり甘えたりし
ていたという。 これは、1回笑うたびに、脳細胞が活性化する効果があると、研究所が勧めた
ためだ」と。

 喜び組の話は、ともかくも、私が興味をもったのは、「たんぱく質りんご」だ。「冬に、黄色い子
犬をリンゴの根付近に埋め、さらには春には、カエルを埋めた」という。そしてできあがったの
が、「タンパク質りんご」!

 さらに、金NNの寝具をつくるために、70万羽のスズメが犠牲になった!

 こういう話を聞くと、庭先で、毎年冬から春にかけて、スズメにエサを与えている私が、バカに
思えてくる。

 さらに、「体の各部位が当たる個所ごとに薬剤が使用されており、枕には32種類の漢方薬
が使われていた」とある。

 漢方というのは、科学である。方剤論もあり、治療論もある。そういったものが、きわめて精
密に体系化されている。よく漢方(東洋医学)と、民間療法を混同する人がいるが、漢方と民間
療法は、まったく異質のものである。

 で、リンゴの木の下に、子犬を埋めたり、カエルを埋めたりするのは、恐らくK国に伝わる、民
間療法的な知識を応用したものなのだろう。私には、よくわからないが、しかし私は、こうした
栽培法なり、健康法に、「?」マークを、100個くらい、つけたい。

 はっきり言えば、今、私の脳細胞が、バチバチとショートしている。

 ちょうど、私が東洋医学に興味をもち始めていたころ、「K国の研究家が、経絡(けいらく)を、
発見した」という、ビッグニュースが全世界をかけめぐった。経絡というのは、経穴(つぼ)と経
穴(ツボ)をつなぐ、観念的な経路をいう。経絡を「電車の線路」にたとえる人もいるが、線路の
ように、そこに「線」があるわけではない。

 結局、その学者が発見した、経絡というのは、神経組織の見まちがいであったことが、わか
った。

 32、3年ほど前のことだが、私はそのときですら、「K国の研究家は、神経組織も知らないの
か」と驚いた。と、同時に、K国の研究を、まったく信用しなくなってしまった。

 その後遺症が、今でも、残っている。

 しかしこういうことを、本気で研究しているとは? またこういうことを、本気で実践していると
は?

 死んだ犬ならともかくも、生きた犬なら、かわいそうだと思う。K国では、ささいな問題なのかも
しれないが……。

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

●さぐり

 あるとき、一人の見知らぬ女性から、電話がかかってくる。名前だけ、「D子というものです」と
言った。

 そして何ごとかと思って聞いていると、私の教室の生徒の、X君(年長児)についてのことだっ
た。

D「私、Xさんの親友なんです。私、Xさんが、かわいそうでなりません。(どこか涙声。)Xさんの
息子さんのX君、○○症(やや重度の情緒障害児)だそうですね。私、Xさんのことが、心配で
なりません。本当のところは、どうなんでしょうか。Xさんの息子さんは、○○症なんでしょう
か?」と。

 バカめ!

 見知らぬ人に、そんなこと答えるわけがない。だいたい、私には、診断権はない。それに
軽々にそんなことを言えば、それこそXさんの名誉を傷つけることになる。さらに、そのDという
女性は、電話機の向こうで、録音機をしかけているかもしれない。私のそのときの返事一つ
で、私の教育者としての生命が、ふっとんでしまうことだって、ありうる!

 私が、「そういう質問には、いっさいお答えできません」と言うと、「(Xさんの息子さんが)、そう
でないなら、そうでないと否定もできないのですか?」と。

 不愉快だったので、「失礼します」と電話を切った。が、その直後、また電話。「あんな電話の
切り方は、ないでしょう! 失礼ではありませんか! 私は、Xさんのことを心配して、電話をか
けたのです!」と。

 どこまでも、からんでくるつもりらしい。

 ……というようなことは、この世界では、ときどきある。生徒の進学先や、受験先を聞いてくる
のもある。さらに、私の教室の経営状態を聞いてくるのもある。同業者のさぐりなどは、まさに
日常茶飯事。直接、教室へ、見学のフリをして、スパイにくる人もいる。

 何の目的があるのか。ないのか。意図は何なのか。それは私にはわからない。しかしこの世
界、油断もスキも、あったものではない。と、同時に、みんなもっと、前向きに、人のことなどか
まわずに生きたらよいと思う。

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

●子どもに盲従する親

 品川不二郎という研究家が、親子関係を、つぎの10のパターンに分類した。

(1)消極的拒否(放任)型
(2)積極的拒否(虐待)型
(3)厳格型
(4)期待型
(5)干渉型
(6)不安型
(7)でき愛型
(8)盲従型
(9)矛盾型
(10)不一致型

 もちろん、これらの複合型というのもある。厳格な親でありながら、その一方で、あれこれ過
度に子どもに干渉するなど。

 が、この中でも、私は、とくに、(8)の盲従型に興味をもった。親子の関係が逆転し、親のほ
うが、子どもに盲従するタイプである。今、このタイプの親子関係の人が、多い。実感としては、
ふえているように思う。

 もちろん程度の差もあるのだろうが、もし、つぎの項目に、いくつか当てはまるようであれば、
あなたは盲従型の親と判断してよい。

(  )子どもの機嫌をそこねたくないと思うことが多い。
(  )子どもに嫌われたくない。できれば、好かれたいと願っている。
(  )親として、いつも何らかの形で、優越性を示したいと思っている。
(  )子どもがほしいと言ったものは、できるだけそろえてあげている。
(  )何か言うと、反対に叱られそうで、こわい。だから何も言えない。
(  )子どもに、いつも遠慮しながら生活しているようなところがある。

 私の知りあいにも、あきらかに、この盲従型の母親がいる。その母親が、私にこう言った。

 「あまりき子どもにきびしくすると、こういう時代ですから、子どもが何をするかわかりませんの
で……」と。

 図式的には、(親の子どもへの依存性)が姿を変えて、(子どもに甘くなる)。その(甘さ)が、
長い時間をかけて、積もりに積もって、親は子どもに対して、服従的になる。

 そのため、自分が服従型の親だと気づいても、それを改めるのは、たいへんむずかしい。生
活のすべてのリズムが、そうなっているからである。さらに、それがすでに、母親や子どもの人
生観になっていることもある。

 では、どうすればよいか。

 皮肉なことに、子どもに嫌われまいとすればするほど、親は、子どもに嫌われる。親の心にス
キができるからである。

 一方、「嫌いたければ、どうぞ」「私は、お前に嫌われても、一向にかまわない」と、堂々として
いる親のほうが、子どもに尊敬される。好かれる。

 そのために、親は、子どもの前では、一貫性をもたねばならない。よくても悪くても、この一貫
性があれば、子どもはやがて、親の考え方に、自分を合わせるようになる。が、子どもの機嫌
をとる親には、この一貫性がない。子どもに嫌われることを恐れるあまり、そのつど、子どもの
言いなりになってしまう。子どもは、こうした親の心のスキをつく。

 だから結論を先に言えば、子どもに盲従する親からは、まともな子どもは、生まれない。よく
てドラ息子、ドラ娘。やがて手がつけられなくなる。

 その「一貫性」について、以前、こんな原稿を書いた。

++++++++++++++++
 
●一貫性

 たがいの信頼関係は、よきにつけ、悪しきにつけ、「一貫性」で決まる。親子とて例外ではな
い。親は子どもの前では、いつも一貫性を守る。これが親子の信頼関係を築く、基本である。

 たとえば子どもがあなたに何かを働きかけてきたとする。スキンシップを求めてきたり、反対
にわがままを言ったりするなど。そのときあなたがすべきことは、いつも同じような調子で、答え
てあげること。

こうした一貫性をとおして、子どもは、あなたと安定的な人間関係を結ぶことができる。その安
定的な人間関係が、ここでいう信頼関係の基本となる。

 この親子の信頼関係(とくに母と子の信頼関係)を、「基本的信頼関係」と呼ぶ。この基本的
信頼件関係があって、子どもは、外の世界に、そのワクを広げていくことができる。

 子どもの世界は、つぎの三つの世界で、できている。親子を中心とする、家庭での世界。これ
を第一世界という。園や学校での世界。これを第二世界という。そしてそれ以外の、友だちとの
世界。これを第三世界という。

 子どもは家庭でつくりあげた信頼関係を、第二世界、つづいて第三世界へと、応用していくこ
とができる。しかし家庭での信頼関係を築くことに失敗した子どもは、第二世界、第三世界での
信頼関係を築くことにも失敗しやすい。つまり家庭での信頼関係が、その後の信頼関係の基
本となる。だから「基本的信頼関係」という。

 が、一方、その一貫性がないと、子どもは、その信頼関係を築けなくなる。たとえば親側の情
緒不安。親の気分の状態によって、そのつど子どもへの接し方が異なるようなばあい、子ども
は、親との間に、信頼関係を結べなくなる。つまり「不安定」を基本にした、人間関係になる。こ
れを「基本的信頼関係」に対して、「基本的不信関係」という。

 乳幼児期に、子どもは一度、親と基本的不信関係になると、その弊害は、さまざまな分野で
現れてくる。俗にいう、ひねくれ症状、いじけ症状、つっぱり症状、ひがみ症状、ねたみ症状な
どは、こうした基本的不信関係から生まれる。第二世界、第三世界においても、良好な人間関
係が結べなくなるため、その不信関係は、さまざまな問題行動となって現れる。

 つまるところ、信頼関係というのは、「安心してつきあえる関係」ということになる。「安心して」
というのは、「心を開く」ということ。さらに「心を開く」ということは、「自分をさらけ出しても、気に
しない」環境をいう。そういう環境を、子どものまわりに用意するのは、親の役目ということにな
る。義務といってもよい。そこで家庭では、こんなことに注意したらよい。

●「親の情緒不安、百害あって、一利なし」と覚えておく。
●子どもへの接し方は、いつもパターンを決めておき、そのパターンに応じて、同じように接す
る。
●きびしいにせよ、甘いにせよ、一貫性をもたせる。ときにきびしくなり、ときに甘くなるというの
は、避ける。

++++++++++++++++++

 しかし、親は決して、盲従したくて、子どもに盲従しているのではない。最初は、ほんの少しだ
け、方向性が狂うだけ。ほんの少しだ。

 それが長い年月を経て、気がついてみたら、子どもに盲従していたということになる。

 だからこの問題は、つまり、子どもへの盲従を避けようと考えるなら、できるだけ早い段階
で、それに気づき、方向転換することだ。

 ほとんどのばあい、親自身の、子どもへの依存心が背景にあると考えてよい。「老後のめん
どうは、子どもにみてもらわねばならない」「子どもに生活のめんどうをみてもらいたい」という
思いが、そのまま親の弱みになる。子どもは、その弱みを、逆手にとって、親に命令したりする
ようになる。

 15年ほど前だが、忘れ物をしたとき、電話で、親に、「さっさともってこい!」と命令していた
中学女子がいた。そうなる。
(はやし浩司 盲従する親 盲従 本末転倒 一貫性 子育ての一貫性)

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司
 

●HPの入賞

 私のHPが、2004年度、静岡県のホームページコンテストで、入賞した!

 11月11日に、表彰式があるという。それまで、入賞のことは、外部には、漏らさないようにと
のこと。この原稿が配信されるのは、11月12日である。ギリギリ、セーフということか。

 (この原稿を書いている今日は、10月13日。)

 マガジンをとおして、コンテストへの投票をお願いしたところ、いっぺんに、30票近く、票がふ
えた。感謝、感謝、感謝。

 が、残念ながら、賞品として、パソコンをもらえるような賞ではなく、協賛団体からの表彰。「中
日新聞賞」ということらしい。多分、賞品といっても、サイフとか、何かの小物とか、そんなもの
だと思う。

 同じモノを書く新聞社からの表彰ということで、私にとっては、たいへん名誉なことである。

 率直に、書こう。

 私は、自分のHPを開設したときから、「賞」などというものは、まったく考えていなかった。遠
い雲の上の話というよりは、もともと、そういう発想そのものがなかった。

 その私が「賞」を意識したのは、単純な動機からである。つまり、パソコンがほしかった。ここ
2年間、新しいパソコンを買っていない。2台、買ったが、それらは、息子たちのためだった。

 で、賞を意識した。「取れる」とは思っていなかったが、しかし同時に、「私のHPのよさのわか
らないようなコンテストなど、意味はない」と思っていた。外見のハデさはないが、私のHPは、
中身がちがう。

 が、おかげで、賞を取ることができた。

********************
みなさんへ、

ありがとうございました!
投票数では、2400以上のHPの中で、
人気投票、第6位(8月31日)にラン
クされました。

ありがとうございました。
********************

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

●役割混乱

 子どもは、成長するとともに、自分らしさを、つくりあげていく。

 わかりやすい例としては、「男の子らしさ」「女の子らしさ」がある。

 服装、ものの考え方、言い方など。つまりこうして自分のまわりに、男の子としての役割、女
の子としての役割を形成していく。これを「役割形成」という。
 
 こうした「役割」を感じたら、その役割にそって、親は、子どもを伸ばしていく。これが子どもを
伸ばすコツということになる。

 子どもが「お花屋さんになりたい」と言ったら、すかさず、「あら、そうね。すてきな仕事ね」と。
ついで、「じゃあ、今度、お庭をお花でいっぱいにしようね」などと言ってやるのがよい。

 こうして子どもは、身のまわりに、「お花屋さんらしさ」をつくっていく。自然と、植物に関する本
がふえていったりする。

 しかしこの役割が、混乱することがある。

 私のばあいだが、私は、高校2年の終わりまで、ずっと、継続的に、大工になるのが夢だっ
た。それがやがて、工学部志望となり、建築学科志望となった。しかし高校3年になるとき、担
任に、強引に、文学部コースへと、変えられてしまった。当時は、そういう時代だった。

 ここで私は、たいへんな混乱状態になってしまった。工学部から、文学部への大転身であ
る!

 当時の、つまり高校3年生当時の写真を見ると、私は、どの顔も、暗く沈んでいる。心理状態
も最悪だった。もし神様がいて、「お前を、若いころにもどしてやる」と言っても、私は、あの高
校3年生だけは、断る。私にとっては、それくらい、いやな時代だった。

 この役割混乱について、ある講演会で、話をさせてもらった。それについて、そのあと、ある
一人の男性が、こう聞いた。「役割混乱って、どういう心理状態でしょうかね?」と。

 私は、とっさの思いつきで、こう答えた。

 「いやな男性と、いやいや結婚して、毎日、その男性と、肌をこすりあわせているような心理
状態でしょうね」と。

 そう答えたあと、たいへん的をえた説明だと、自分では、そう思った。

 もしあなたなら、そういう結婚をしたら、どう思うだろうか。それでも、そういう状態を克服して、
何とか相手とうまくやっていこうと思うだろうか。それとも……。

役割混乱というのは、そういう状態をいう。決して、軽く考えてはいけない。

 ただし一言。よく「有名大学へ……」「有名高校へ……」と、子どもを追い立てている親がい
る。

 しかし有名大学や有名高校へ子どもを入れたからといって、その子どもの役割が確立するわ
けではない。

 もう10年ほど前だろうか、こんなことがあった。

 2人の女子高校生が、私の家に遊びに来て、こう言った。

 「先生、私たち今度、SS大学に行くことになりました」と。

 関東地方では、かなり有名な大学である。そこで私が、「いいところへ入るね。で、学部は…
…?」と聞くと、すこしためらった様子で、「国際カンケイ学部……」と。

 そこでさらに、「何、その国際カンケイ学部って? 何を勉強するの?」と聞くと、二人とも、
「私たちにも、わかんない……」と。

 大学へ入っても、何を勉強するか、わからないというのだ!

 しかしその姿は、私自身の姿でもあった。私は高校を卒業すると、K大学の法学部(法学科)
に入った。しかしそこで役割混乱が収まったわけではない。そのあと、大学を卒業したあと、商
社へ入社したときも、役割混乱は、そのままだった。

 まさに(いやな女房と、いやいや結婚したような状態)だった。

 つまり(本当に私が進みたいコース)と、(現実に進みつつあるコース)の間には、大きなへだ
たりがあった。このへだたりが、私の精神状態を、かなり不安定にした。やがて、私は、幼稚園
で、自分の生きる道をみつけたが、その道とて、決して、楽な道ではなかった。

 ……ということで、子どもの役割形成と、役割混乱を、決して、安易に考えてはいけない。私
自身が、その恐ろしさを、いやというほど、経験している。

【追記】

 それまでキャリアを生かして仕事をしていた女性が、結婚と同時に、その仕事をやめ、家庭
に入る。いくら納得した結婚であっても、そのときその女性が受ける、挫折感というか、中断感
というのは、相当なものである。

 今、家庭に入り、それなりに幸福そうに見える女性でも、不完全燃焼のまま、悶々としている
女性は、多い。

 こうした女性も、ある意味で、役割混乱を起こしているのではないか。あるいはその心理状態
に近いのではないか。今、ふと、そう思った。
(はやし浩司 役割混乱 役割形成)

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司


最前線の子育て論byはやし浩司(336)

【子育て・あれこれ】

●(本当の子ども)と(ニセの子ども)

 どんな子どもにも、一人の子どもの中に、(本当の子ども)と、(ニセの子ども)がいる。同居し
ている。

 (本当の子ども)というのは、本来のその子どもをいう。しかしこの(本当の子ども)は、成長過
程の中で、さまざまな自分を演出するようになる。わかりやすく言えば、仮面をかぶったり、自
分をかざったりするようになる。これが(ニセの子ども)ということになる。

 よく知られた例に、反動形成がある。

 「あんたは、お兄ちゃんだから……」と言われつづけるうちに、自ら、兄らしく振る舞うようにな
る。そして本来は、弟や妹への嫉妬もあり、弟や妹を憎んでいるはずなのに、わざと弟思い、
妹思いの、(ニセの自分)を演ずるようになったりすることがある。

 幼児教育の世界でも、「すなおな子ども」というときは、(心の状態)と、(表情や言動)が一致
している子どもをいう。ところが何らかの原因で、この二つが、不一致を起こすことがある。

 ひがむ、つっぱる、いじける、ねたむ、すねる、ひねくれる、など。

 これらの現象は、(本当の自分)と、(ニセの自分)との間をつなぐ、いわばブリッジ(橋)のよう
なものだと思えばよい。子どもは二つの自分に、ブリッジをかけることで、自分を調整しようとす
る。

 これを私は、勝手に、「ブリッジ理論」と呼んでいる。

 で、このブリッジは、ある程度の川幅には耐えることができる。しかしその川幅が、極端に広く
なってしまうようなことがあると、ブリッジは耐えられなくなる。崩壊する。

 こうなると、(本当の私)と、(ニセの私)は、遊離するようになる。

 よく知られた例としては、かん黙症の子どもや、自閉症の子どもがいる。いわゆる「何を考え
ているかわからない子ども」ということになる。あるいは、怒っているはずなのに、ニヤニヤ笑っ
てみせたりする子どももいる。心が遊離したために起こる現象と考えると、わかりやすい。

 ……という話は、子どもの世界での話だが、おとなとて、例外ではない。おとなは、子どもの
(なりの果て)である。こうした子ども時代の心のキズを、そのまま背負っている人も、少なくな
い。

 そこで改めて、「自分さがし」ということになる。

 あなたは、本当に、本当のあなただろうか? あなたはニセのあなたを、あなたと思いこんで
はいないだろうか? もしニセのあなたを、本当のあなただと思いこんでいるとしたら、いつ、ど
のような形で、あなたは、そういうニセのあなたになったのだろうか。

 ……というふうに考えていくと、子どもの問題は、結局は、自分の問題だということに気がつ
く。

 私も、あるとき、子どもたちを見ながら、「私という人間は、ニセだらけ」と気がついたことがあ
る。そう、本当に、ニセだらけ!

 そこで私はあるときから、本当の自分をさらけ出すことを決めた。あるがままの自分を、ある
がままに表現する。言いたいことを言い、したいことをする。そうすることを決めた。

 とくに(子どもにものを教える)という立場の人間は、その反動形成から、ニセの自分を演ず
ることが多い。自分をことさら飾ってみるたりする。そういう(私)をやめた。

 とたん、気持ちがよいほど、心が軽くなったのを覚えている。すがすがしい風が、心の中を吹
きぬけたのを、感じた。

 そこでこれはあなたの問題として考えてみてほしい。

 どんな人でも、多かれ少なかれ、(本当の私)と、(ニセの私)の二面性がある。ない人はいな
い。それが悪いというのではない。人間は同時に、社会的動物である。仕事や、他人との交際
において、ニセの私を演ずることは多い。それはしかたのないことだが、しかしあなたの夫
(妻)や、子どもに対しては、そうであってはいけない。

 あなたはあるがままの、本当のあなたをさらけ出していく。つまりは、それが夫婦であるにせ
よ、親子であるにせよ、信頼関係を築く、基盤となる。それがなければ、信頼関係など結びよう
もない。

 さて、あなたは、今、(本当のあなた)だろうか。一度、自問してみると、おもしろいのでは?


●向精神薬

 何らかの精神的な病気をもっていて、薬(向精神薬)を服用している子どもがふえている。そ
んな一人の母親から、「だいじょうぶでしょうか?」という相談をもらった。

 もちろん私には、それについて答える権利はない。その立場にも、ない。

 しかし私の経験では、「できるだけ、薬の世話にはならないほうがよい」とだけは、言える。こ
うした向精神薬は、それがきいている間よりも、その服用をやめたときの、反作用がこわい。

 もちろん副作用があるときもある。しかもこの種の薬には、悪性症候群を引き起こすものが
多い。悪性症候群というのは、投与中に起こる、重い病態を総称していう。発熱、発刊、頻脈な
ど。

 相手が子どものばあい、ドクターも、それなりに、きわめて弱い薬を使うといわれている。もし
不安なら、ドクターに直接、相談してみるのがよい。

 なお今の診療システムの中では、精神科のドクターにしても、薬を処方しないことには、金銭
的な収入が入らないしくみになっている。だからどうしても、(治療)イコール(薬の投与)というこ
とになる。そういう事情も、どこかで知っておくとよい。


●児童相談所

 このところ児童相談所の役割が、クローズアップされてきている。しかし、今ひとつ、その活動
がよく見えてこない……?

 その児童相談所には、大きく分けて、4つの部門がある。実際には、こうして窓口が分かれて
いるわけではないので、「相談したいことがあります」という言い方で、窓口で話してみるとよ
い。

(1)養育相談(養育が困難なばあい)
(2)育児相談(非行問題など)
(3)障害相談(子どもに何らかの障害があるとき)
(4)育成相談(不登校、家庭でのしつけ問題など)

 こうした問題が起きたら、迷わず、児童相談所に相談してみるとよい。決して、ひとりで悩まな
いこと。苦しまないこと。


【今週のBW】

今週は、カレンダーの学習をした。「きのう」「きょう」「あす」の概念を、教えた。

 年中児では、ここまで。年長児になると、「おととい」「あさって」まで理解できるようになる。

 ついで、「日、月、火……」の曜日。さらに「1日(ついたち)、2日(ふつか)、3日(みっか)…
…」とつなげる。

私「これはカーレンジャーです」
子どもたち「カーレンジャーではない。カレンダーだ」と。

 いつものお決まりのギャグを飛ばす。

 が、あるクラスでは、その予定が、まったく狂ってしまった。一人の母親と、レッスンの前に、ト
ラブったからだ。調子が出なかった。そう、こういう仕事は、毎回が、真剣勝負。手を抜かな
い。手を抜けない。

 ところで教材用に使おうとしたカレンダーは、どういうわけか、月曜日から始まっていた。(現
在、主流は、日曜日から始まっている。)

 しかし月曜日から始まっているカレンダーほど、使いにくいものはない。頭の中が、混乱して
しまう。一度、印刷機で印刷したが、そんなわけで、その教材は、ボツ。

 ところで、私が子どものころは、曜日は、月曜日から始まっていた。たしかカレンダーもみな、
そうなっていたのではなかったか。月、火、水……ときて、最後に、日曜日だった。それが今で
は、日曜日から始まって、月、火、水……となる。

 どうしてだろう……と、ふと、そんなことを考えながら、レッスンを終わった。


++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

【10月14日の朝に……】

●パソコントラブル

 ウイルスソフトの期限が切れたので、新しいパッケージを買ってきて、インストール。が、その
あと、あちこちがおかしくなってしまった。

 あああ……という話は、さておき、本当にパソコンという怪物は、やっかいなもの。一度トラブ
ルと、何がなんだか、わけがわからなくなってしまう。あちこちへ電話をかけること、数回。(こ
の電話が、どこも、なかなかつながらない!)

 それぞれの会社のHPを見ても、私のトラブルの解決につながるような、手順は載っていな
い! 

 ……ということで、今朝は、2時間も、そのため時間をムダにしてしまった!


●ハナ

 庭へ出るたびに、犬のハナが、いつもよりはげしく(?)、じゃれてくる。ワイフが、「きっと生理
よ」と。

 メス犬の心理は、私にはわからない。が、ワイフなら、わかるらしい(?)。

 散歩に連れていきたかったが、今朝は、パソコンがトラブって、2時間もムダにした。だから、
散歩はなし。しかし秋の、のどかな一日。もったいなあと思いつつ、部屋にこもって、原稿を書
く。

 あとで、運動に行こう! 


●自転車

 自転車に乗っている人たちを見て、気がついたこと。それはたいていの人は、ムチムチという
か、ボテボテというか、太った人が、意外と、多いということ。もちろんスポーツ選手のような人
は、別である。

 なぜだろう?

 体のトレーニングを考えて、自転車に乗っている様子なのに……。

 一つには、こうした人たちは、ときどきしか乗っていないのではないかということ。運動不足を
感じたとき、ふと、乗ってみるとか……。そんな感じで乗っているのではないかということ。

 ジョギングするのも、めんどう。さりとて、スイミングクラブへ入るのも、おっくう。それで、自転
車に乗る……?

 しかし自転車というのは、乗りつづけなければ、効果はない。ときどき乗るようでは、かえって
体がなまってしまうのではないか。乗ったあとは、たしかに運動になる。爽快になる。食欲も増
進する。それでかえって太ってしまう?

 それから余計なことだが、自転車にのるときは、全身を使うようにするとよい。足だけで、ヨイ
ショ、ヨイショとこいでも、あまり運動にならない。体をひねるようにして、腕でハンドルを引いて
こぐとよい。

 
●免許証の更新

 今日(10・13)、警察署へ行って、免許証の更新をしてきた。そこでおもしろいことに気がつ
いた。

 受けつけで手続きをすませると、最初に、更新料金を徴収される。そのとき、同時に、交通安
全協会費というのを、やんわりと請求される。「やんわりと」だ。

 この交通安全協会費(年額400円、5年分で2000円)は、強制ではない。払いたくなけれ
ば、払わなくてもよい。

 その様子を見ていたときのこと。窓口の女性の表情が、払う人に対してと、払わない人に対し
てとでは、かなり露骨に変化するのだ。

 その女性が、交通安全協会費を請求する。そのとき、気前よく支払いに応じた人には、その
女性は、そのまま笑顔を絶やさない。しかしそれを断ったりすると、ムッとした表情になる。態
度そのものが、ぞんざいになる。

 私は、その様子を見て、「この女性は、すばらしい女性だ」と思った。そのことを横にいたワイ
フに話すと、「どうして?」と。

私「いいか、その女性は、公務員だ。免許証を更新にきた人が、協力費を払っても、払わなくて
も、自分の給料には、関係ないはず。だったら、協力費を払っても、払わなくても、同じこと。

 しかしあの女性は、払う人には、笑顔を、払わない人には、一瞬、ムッとして見せる。ぼくは、
自分の職業にああまで、心をこめて仕事をしている公務員を、見たことがない」

ワイフ「だからね、あなた、あの窓口には、いちばん笑顔の美しい女性を置いているのよ。美人
に、『いかがいたしますか?』と言われば、みんな断れないでしょう?」
私「そうだな。ぼくは、断ってみようか。どんな表情をするか、楽しみだな」
ワイフ「そうね、私、あの女性が、どんな顔をするか、よく見てみるわ」と。

 やがて私の整理番号が呼ばれた。そして前の人たちと同じように、「更新料は、xx00円で
す。で、協力費はいかがしましょうか。年額400円です」と告げられた。

私「で、いくらですか?」
女性「400円です」
私「400円ですか?」
女性「5年分で、2000円です」
私「断ります」と。

 そのときその女性は、私にも、ムッとした表情をして見せた。露骨な変化だった。書類の置き
方も、どこか投げやり的な感じがした。

 席にもどると、すかさずワイフが、「やっぱり、態度が変わったわねエ」と。

私「だろ……。そうなんだよな。あの女性は、明らかに、警察署の収入を考えている。ああいう
職業意識をもっている人は、こういう世界では、珍しいよ」
ワイフ「私は、そうは思わないは……」
私「どういうこと?」
ワイフ「きっとノルマになっているのよ。野球の打率みたいにね。Aさんのときは、承諾率、5
6%。Bさんのときは、74%。だからBさんの勝ち。Bさんのボーナスは、10%アップとか…
…。きっと、そうなっているのよ」
私「そうかもしれないな」と。

 もちろん内部のことは、私にはわからない。そうであるかもしれないし、そうでないかもしれな
い。しかし、さすが、ワイフ。女性の心理を読むのが、ス・ル・ド・イ。

 どちらにせよ、私は、今年はじめて、あの交通安全協会費というのを、断った。このS県でも、
警察署ぐるみの、裏金づくり事件が発生している。それに、どうも、あのお金の使われ方が、よ
くわからない。あくまでも聞いた話だが、道路わきに立てる安全標識にしても、一本、百数十万
円もの費用がかかっているそうだ(週刊誌などの記事)。

 一本、百数十万円だぞ!

 そういう標識が、私の家の周辺だけでも、数本。道路ごとに、やはり数本ずつ立っている。ほ
とんど、車など、通らないのに道路なのに! それもほとんど意味のない標識ばかり。「シルバ
ーゾーン」「歩行者優先」「いたわりゾーン」とか。まわりは雑草のはえる荒地ばかりなのに、「駐
車禁止」の標識や、「一旦停車」の標識も立っている。(明日にでも、写真をとってこよう※。)

 ……という反発心が心のどこかにあったから、すんなりと支払いを断ることができた。心のど
こかに、「払っておけばよかったな」という思いもあったが……。

 帰りに、警察署の近くのレストランにより、そこで食事をした。予算は、2000円。結構、おい
しい料理を食べることができた。

注※……今、調べてきたら、うちの角だけでも、バックミラーも含めて、9本も立っていた。9本
だぞ! 証拠の写真は、HTML版のほうで紹介。それにしても、多すぎる! こういう標識1本
が、120〜30万円とか。ざっと計算しても、この写真にある分だけで、1000万円以上! ゾ
ーッ!)


●ありのままの自分

 (現実の自分)と、(そうでありたいと思う自分)。この二つが遊離すればするほど、その人は、
心理的に緊張状態におかれ、内面世界で、はげしく葛藤することが知られている。

 よい例が、「役割形成」である。(本当の私)と、(現実にしている私)が、大きくちがったりする
と、精神状態は、きわめて不安定になる。大嫌いな男性と、無理やり結婚させられ、毎晩その
男性に肌をさわられるような状況を思い浮かべてみればよい。そういった精神状態になる。

 遊離する理由は、いくつかある。

(1)理想の自分を描き過ぎる。(こうでありたいという思いが強過ぎる。)
(2)そうでなければという思い込みが強過ぎる。(自意識が強力すぎる。)
(3)自分をさらけ出すことができない。(人間関係をうまく結べない。)
(4)いい子ぶる。世間体、見栄を気にする。(仮面をかぶる。無理をする。)
(5)自分に自信がもてない。(悪く思われることに、恐怖心をもつ。)

 こうした状態が慢性的につづくと、ここでいう遊離が、始まる。が、それは心の健康のために
は、たいへん危険なことでもある。

 そのため、(現実の自分)と、(そうでありたいと思う自分)は、できるだけ、近ければ近いほ
ど、よい。ある程度の仮面は、必要だが、その仮面を、夫(妻)や、子どもにかぶるようになった
ら、お・し・ま・い。

 だから良好な夫婦関係、良好な親子関係をつくりたかったら、まず、ありのままの自分をさら
け出す。が、一見、簡単そうだが、実は、これがむずかしい。ばあいによっては、生活のリズム
そのものを、根本的な部分で変えなければならないこともある。

 しかも、この問題は、脳のCPU(中央演算装置)にからんでいるだけに、自分で気がつくのが
むずかしい。本当の自分を知ったときはじめて、それまでの自分が、本当の自分でなかったこ
とを知る。それまでは、わからない。

 私たちの体には、無数のクサリが巻きついている。同じように、心にも無数のクサリが巻きつ
いている。本当の自分の姿が見えないほどまでに、巻きついている。そういうクサリの一本、一
本を知る。そしてそれらを、やはり一本、一本、ほぐしていく。本当の自分が見えてくるのは、そ
のあとである。


●貧弱なウンチ

 ダイエットをしていると、ウンチまで、やせ細る。そのことを、昼食のとき、ワイフに話し始める
と、すかさずワイフが、「やめてヨッ! そんな話! 今、食事中でしょう!」と。

私「だからさ、そのウンチがね……」
ワイフ「やめてったらア!」
私「でも、どうしても話したい」
ワイフ「いい。あんたの話は、どうせ決まっているから」

私「だからさあ……」
ワイフ「聞きたくない」
私「ダイエットしているとね、ウンチまでね……」
ワイフ「やめてよっ!」と。

 私はこうしてワイフをからかうのが、大好き。おもしろい。ワイフは、ああいうカタブツ人間だか
ら、余計におもしろい。

 このように、人間には、自分の知っている秘密を暴露したいという欲求がある。こういうのを
排泄欲という。フロイトが、肛門期と名づけた、それである。で、その秘密だが、……xxxxxxxx
xx、xxxxxxx、xxxxxxxxx。xxxxxxxxxxx、xxxxx、xxxxxxxxxxxxx、xxxxxxxxxxxx、だそうだ。

 以上、あまりにもえげつない話なので、これで、ごめん。


●役割混乱

 役割が混乱してくると、自分が何をしたいのか、何をすべきなのかが、わからなくなってくる。
これを、「自我同一性(アイデンティティ)の拡散」と言うらしい。

 私も、高校時代の後半に、この「拡散」を経験している。(と言っても、そのとき、それがわか
っていたわけではない。今から思い出すと、そうだったということになる。)

 自分で、自分の進むべき方向性を見失ってしまった。

 自信喪失、集中力の欠如、精神的不安、それに抑うつ感に悩まされた。自意識も過剰にな
り、人前に出たりすると、失敗してはいけないという思いばかりが先にたち、かえって何も話せ
なくなってしまったこともある。

 私は、「私が何をしたいのか」さえ、わからなくなってしまった。ただ毎日、学校へ行くだけ。勉
強するだけ。そんな生活になってしまった。今、思い出しても、おもしろいと思うのは、当時、心
のどこかで、ヤクザの世界に、あこがれたこと。あるいは戦争か何かが起きて、日本中が、こ
なごなにこわれてしまえばよいと思ったこと。生きザマが、かなり否定的になっていたようであ
る。

 しかしこうした現象は、決して、私だけのものではない。今でも、多くの中学生や高校生は、
同じような悩みをかかえて、苦しんでいる。

 本来なら、そういう状態に子どもを追いこまないようにする。そのためにも、思春期に入るこ
ろから、子どもの方向性をみきわめ、その方向性に沿った子どもの生きザマを、子ども自身が
もてるように、指導する。

 私のことだが、私は、高校2年生の終わりまで、ずっと大工になるのが、夢だった。そのため
大学にしても、工学部建築学科を考えていた。

 その私が、高校3年生になるとき、文学部へと進路を変更した。つまりこのとき、私に、「拡
散」という現象が襲った。自我同一性、つまり「私」が、大混乱してしまった。

 そんな私だが、今でも、ときどき、こう思う。あのとき、ニ流でも三流でもよい。どこかの大学
の工学部へ入学していたら、そののちの私は、もっと生き生きと、自分の人生を生きることが
でいたのではないか、と。大工でもよかった。子どものころから、泥んこ遊びが大好きだった。
そういう仕事でもよかった。

 今、多くの子どもたちを指導している。しかしときどき、こう思う。私がしたような失敗だけは、
してほしくない、と。だから幼稚園児にせよ、小学生や中学生にせよ、子どもが、「〜〜になりた
い」と言ったら、すかさず、私は、こう言うようにしている。「それは、いい。すばらしい仕事だ。そ
の仕事は、君にピッタリだ」と。

 そういう前向きのストロークをいつも、子どもにかけていく。それがあって、子どもは、自分の
進むべき道を、自分で選ぶことができるようになる。自己の同一性を、確立することができる。


●自意識過剰
 
 自意識が過剰の人は、少なくない。

 だれも注目など、していないのに、自分では注目されていると思いこんでしまう。みなが、自
分に関心をもち、自分のことを気にしていると、思いこんでしまう。

 このタイプの人は、もともと人間関係がうまく調整できない人とみてよい。自分を、すなおにさ
らけ出すことができない。だからますます、自意識だけが、過剰になっていく。

 この自意識は、悪玉なのか。それとも善玉なのか。昔からよく議論されるところである。しかし
自意識がまったくないのも、困る。しかし過剰なのも、困る。ほどほどの自意識が、好ましいと
いうことになる。

 自意識のおかげで、私たちは、自分をコントロールすることを学ぶ。「他人の中の自分」を意
識することができる。しかし度を超すと、今度は、かぎりなく自分だけの世界に入ってしまう。

 そこでその自意識が過剰な人を分析してみると、その人の幼稚な自己中心性と関係している
のが、わかる。

 「私は私」と考える原点にあるのが、自意識ということになる。しかし「私は私。だから私は絶
対」と考えるのは、自己中心性の表れということになる。その自己中心性がさらに肥大化し、そ
の返す刀で、他人の価値を認めなくなってしまうと、自己愛へと発展する。

 自分は完ぺきと思うところから、完ぺき主義に陥ることもある。そしてそれが転じて、自意識
過剰となる(?)。自己愛の特徴の一つに、この完ぺき主義が、よく取りあげられる。

 むずかしい話はさておき、自意識が過剰になると、社会生活(学校生活)に支障をきたすよう
になる。こんなことがあった。

 A君(小5)を何かのことでほめたときのこと。突然、そのうしろにすわっていたB君が混乱状
態になり、「ぼくだって、できているのに!」と言って、怒り出してしまった。B君の顔は、どこか
ひきつっていた。

 そのときは、ただ単なるねたみか、誤解かと思った。B君は、何かにつけて目だちたりがり屋
で、かつ、そうでないと、すぐ不機嫌になるタイプの子どもだった。

 そこで自己診断。

 つぎのような項目に、いくつか当てはまれば、自意識過剰な人(子ども)とみてよい。

(  )いつも自分は目立った存在でありたいと思う。またそのように振る舞う。
(  )自分をだれかが軽く扱ったり、軽く見たりすると、バカにされたと思う。
(  )意見などを求められたとき、すばらしい意見を言わなくてはと、かえって
    何も言えなくなる。自分で何を言っているかわからなくなってしまう。
(  )いつも世間が、自分の注目しているように思う。自分は、そうした世間
    の期待に答える義務がある。
(  )私の価値は、私が一番よく知っている。それを認めない世間のほうが、
    まちがっている。
(  )自分が絶対正しいと思うことが多い。みなは、自分に従うべきと思う。
(  )他人がほめられたり、他人の作品が賞賛されたりするのを見ると、自分
    のほうが、すぐれているとか、自分ならもっとうまくできると思うこと
    がある。

 ほかにもいろいろ考えられるが、自意識過剰な人は、それだけ精神の発達度が、低い人と
みてよい。

 反対に精神の発達度が高い人ほど、他人の喜びや悲しみを、すなおに受けいれることがで
きる(共鳴性)。たとえばAさんが、「Bさんって、ステキな人ね」とあなたに話しかけたとする。

 その瞬間、自意識の過剰な人ほど、「私のほうが……」という反発心を覚えやすい。「そうね」
と言う前に、それを否定するような発言をする。「でもねえ……」と。だから結果的に、自意識の
過剰な人は、他人から嫌われるようになる。だからますます、他人から孤立することになる。あ
とは、この悪循環。

 自意識も、ほどほどに……ということになる。
(はやし浩司 自意識 自意識過剰)


●自己概念

 「自分は、人にどう思われているか」「他人から見たら、自分は、どう見えるか」「どんな人間に
思われているか」。そういった自分自身の輪郭(りんかく)が、自己概念ということになる。

 この自己概念は、正確であればあるほどよい。

 しかし人間というのは、身勝手なもの。自分では、自分のよい面しか、見ようとしない。悪い面
については、目を閉じる。あるいは人のせいにする。

 一方、他人というのは、その人の悪い面を見ながら、その人を判断する。そのため(自分が
そうであると思っている)姿と、(他人がそうであると思っている)姿とは、大きくズレる。

 こんなことがあった。

 ワイフの父親(私の義父)の法事でのこと。ワイフの兄弟たちが、私にこう言った。

 「浩司(私)さん、晃子(私のワイフ)だから、あんたの妻が務まったのよ」と。

 つまり私のワイフのような、辛抱(しんぼう)強い女性だったから、私のような短気な夫の妻と
して、いることができた。ほかの女性だったら、とっくの昔に離婚していた、と。

 事実、その通りだから、反論のしようがない。

 で、そのあとのこと。私はすかさず、こう言った。「どんな女性でも、ぼくの妻になれば、すばら
しい女性になりますよ」と。

 ここで自己概念という言葉が、出てくる。

 私は、私のことを「すばらしい男性」と思っている。(当然だ!)だから「私のそばにいれば、ど
んな女性でも、すばらしい女性になる」と。そういう思いで、そう言った。

 しかしワイフの兄弟たちは、そうではなかった。私のそばで苦労をしているワイフの姿しか、
知らない。だから「苦労をさせられたから、すばらしい女性になった」と。だから、笑った。そして
その意識の違いがわかったから、私も笑った。

 みんないい人たちだ。だからみんな、大声で、笑った。

 ……という話からもわかるように、自己概念ほど、いいかげんなものはない。そこで、私たち
はいつも、その自己概念を、他人の目の中で、修正しなければならない。「他人の目を気にせ
よ」というのではない。「他人から見たら、自分はどう見えるか」、それをいつも正確にとらえて
いく必要があるということ。

 その自己概念が、狂えば狂うほど、その人は、他人の世界から、遊離してしまう。

 その遊離する原因としては、つぎのようなものがある。

(1)自己過大評価……だれかに親切にしてやったとすると、それを過大に評価する。
(2)責任転嫁……失敗したりすると、自分の責任というよりは、他人のせいにする。
(3)自己盲目化……自分の欠点には、目を閉じる。自分のよい面だけを見ようとする。
(4)自己孤立化……居心地のよい世界だけで住もうとする。そのため孤立化しやすい。
(5)脳の老化……他者に対する関心度や繊細度が弱くなってくる。ボケも含まれる。

 しかしこの自己概念を正確にもつ方法がある。それは他人の心の中に一度、自分を置き、そ
の他人の目を通して、自分の姿を見るという方法である。

 たとえばある人と対峙してすわったようなとき、その人の心の中に一度、自分を置いてみる。
そして「今、どんなふうに見えるだろうか」と、頭の中で想像してみる。意外と簡単なので、少し
訓練すれば、だれにでもできるようになる。

 もちろん家庭という場でも、この自己概念は、たいへん重要である。

 あなたは夫(妻)から見て、どんな妻(夫)だろうか。さらに、あなたは、子どもから見て、どん
な母親(父親)だろうか。それを正確に知るのは、夫婦断絶、親子断絶を防ぐためにも、重要な
ことである。

 ひょっとしたら、あなたは「よき妻(夫)であり、よき母親(父親)である」と、思いこんでいるだけ
かもしれない。どうか、ご注意!
(はやし浩司 自己概念)

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司
 

最前線の子育て論byはやし浩司(337)

●自分を知る

 自分の中には、(自分で知っている部分)と、(自分では気がつかない部分)がある。

 同じように、自分の中には、(他人が知っている部分)と、(他人が知らない部分)がある。

 この中で、(自分でも気がつかない部分)と、(他人が知らない部分)が、「自分の盲点」という
ことになる(「ジョー・ハリー・ウインドウ」理論)。

 (他人が知っていて、自分では知らない部分)については、その他人と親しくなることによっ
て、知ることができる。そのため、つまり自分をより深く知るためには、いろいろな人と、広く交
際するのがよい。その人が、いろいろ教えてくれる。※)

 問題は、ここでいう(盲点)である。

 しかし広く心理学の世界では、自分をよりよく知れば知るほど、この(盲点)は、小さくなると考
えられている。言いかえると、人格の完成度の高い人ほど、この(盲点)が小さいということにな
る。(必ずしも、そうとは言えない面があるかもしれないが……。)

 このことは、そのまま、子どもの能力についても言える。

 幼児をもつほとんどの親は、「子どもは、その環境の中で、ふさわしい教育を受ければ、みん
な、勉強ができるようになる」と考えている。

 しかし、はっきり言おう。子どもの能力は、決して、平等ではない。中に平等論を説く人もいる
が、それは、「いろいろな分野で、さまざまな能力について、平等」という意味である。

 が、こと学習的な能力ということになると、決して、平等ではない。

 その(差)は、学年を追うごとに、顕著になってくる。ほとんど何も教えなくても、こちらが教え
たいことを、スイスイと理解していく子どももいれば、何度教えても、ザルで水をすくうような感じ
の子どももいる。

 そういう子どもの能力について、(子ども自身が知らない部分)と、(親自身が気がついていな
い部分)が、ここでいう(盲点)ということになる。

 子どもの学習能力が、ふつうの子どもよりも劣っているいるということを、親自身が気がつい
ていれば、まだ教え方もある。指導のし方もある。しかし、親自身がそれに気がついていないと
きは、指導のし方そのものが、ない。

 親は、「やればできるはず」「うちの子は、まだ伸びるはず」と、子どもをせきたてる。そして私
に向っては、「もっとしぼってほしい」「もっとやらせてほしい」と迫る。そして子どもが逆立ちして
もできないような難解なワークブックを子どもに与え、「しなさい!」と言う。私に向っては、「でき
るようにしてほしい」と言う。

 こうした無理が、ますます子どもを勉強から、遠ざける。もちろん成績は、ますますさがる。

 言いかえると、賢い親ほど、その(盲点)が小さく、そうでない親ほど、その(盲点)が大きいと
いうことになる。そして(盲点)が大きければ大きいほど、家庭教育が、ちぐはぐになりやすいと
いうことになる。子育てで失敗しやすいということになる。

 自分のことを正しく知るのも難しいが、自分の子どものことを正しく知るのは、さらにむずかし
い。……というようなことを考えながら、あなたの子どもを、一度、見つめなおしてみてはどうだ
ろうか。

(注※)
 (自分では気がつかない部分)で、(他人が知っている部分)については、その人と親しくなる
ことで、それを知ることができる。

 そこで登場するのが、「自己開示」。わかりやすく言えば、「心を開く」ということ。もっと言え
ば、「自分をさらけ出す」ということ。しかし実際には、これはむずかしい。それができる人は、
ごく自然な形で、それができる。そうでない人は、そうでない。

 が、とりあえず(失礼!)は、あなたの夫(妻)、もしくは、子どもに対して、それをしてみる。コ
ツは、何を言われても、それを聞くだけの寛容の精神をもつこと。批判されるたびに、カリカリし
ていたのでは、相手も、それについて、話せなくなる。

 一般論として、自己愛者ほど、自己中心性が強く、他人の批判を受けいれない。批判された
だけで、狂乱状態になることが多い。

 
●結婚式に、350万円プラス150万円!

 知人の息子が結婚式をあげた。市内のホテルであげた。費用は、350万円プラス150万
円!

 これでも安いほうだそうだ。

 知人いわく、「最初、350万円と聞いていたので、その範囲ですむかと思ったていたら、それ
は基本料金。テーブルクロス一つにしても、ピンからキリまであり、値段も、みな、ちがってい
た。追加料金で、150万円も取られた」と。「あんなのサギだ」とも。

 日本のみなさん、こんなバカげた風習は、もうやめよう! みんなで、1、2の3でやめれば、
それですむ。

 あんな結婚式に、どれほどの意味があるというのか。意味だけでは、ない。まったくのムダづ
かい! 新郎新婦のほうは、祝儀でその費用をまかなえると思っているかもしれないが、世間
に甘えるのも、ほどほどにしたらよい。

 大切なのは、2人だ。中身だ。

 ……というのは、少し過激な意見かもしれない。しかしもう少し、おとなになれば、こうした結
婚式が、いかにつまらないものか、わかるはず。聖書すら読んだこともない2人が、にわかクリ
スチャンになりすまし、張りぼての教会で、ニセの祭儀をあげる。もちろん牧師もニセモノ。

 ワイフは、こう言った。「狭くても、みすぼらしくても、自分の家で、質素に、本当に岩ってくれる
人だけが集まって、結婚式をすればいい」と。

 私もそう思う。日本人独特の、「家」意識。それに見栄、メンツ、世間体が融合して、今に見
る、日本歌型結婚式の「形」ができた。もし、それでもハデな結婚式をしたいというのなら、自分
たちで稼いで、自分たちですればよい。

 どこまで親のスネをかじったら、気がすむのだ!

 知人の息子の結婚式の話をしながら、さらにワイフは、こう言った。「今では、祝儀も、3万円
から5万円。夫婦で出席すれば、その倍よ。みんな、そんなお金、出せないわよ」と。

 ……と、書いたが、これはあくまでも、参考意見。かく言いながらも、私は、今まで、数え切れ
ないほどの結婚式に、出席してきた。それに私の息子たちはともかくも、相手の女性の両親
が、「そういう結婚式をしたい」と言えば、それに従わざるをえない。へんにがんばっても、角が
立つ。

 妥協するところは妥協しながら、あまり深く考えないで、ナーナーですますのも、処世術の一
つかもしれない。ハハハ。(ここは、笑ってごまかす。)


●さらば、もう一人の『私』

 自意識が過剰すぎると、(本当の自分)と、(そうでありたいと願う、理想の自分)が、遊離し始
める。そのときどきにおいて、別々の自分に苦しむ。

 そこで自意識過剰ぎみの人の多くは、自分の中の、二重人格性に苦しむことが多い。ときど
き、「本当の自分はどちらなのか」、それが、わからなくなる。

 実は、私がそうだった。

 私も、自分の中の二重人格性に苦しんだ。苦しむだけならともかくも、その二つが、私の中
で、よく衝突した。

 私の中には、たしかに(本当の私)がいる。ずぼらで、いいかげんで、無責任。ぐうたらで、鈍
感で、自分勝手。その上、わがまま。まさにいいことなしの「私」である。

 そういう私をを、(そうでありたいと願う、理想の自分)が、否定する。だからよけいに、衝突し
た。

 しかしあるときから、自分の中で、(本当の自分)を、すなおに表現するようにした。「私は私」
と、居なおるようにした。
 
 「父親だから……」「夫だから……」という気負いを、はずした。ついでに、肩書きも、はずし
た。ありのままの私を、そのつど、そのまま表現するようにした。だから一時期は、人にこう言
われたこともある。

 「君は、教育者を名乗っているが、とても教育者らしからぬね」と。

 が、そこが私の原点だった。私は、そこから出発した。

 で、今だが、最近、やっと私は、もう一人の「私」と、決別することができた。そのことだが、実
は、こんなことがあった。

 そのもう一人の「私」が、私に、何と、あいさつをして、私の中から、出て行ったのだ! 「長い
間、お世話になりました」と。

 そのことをワイフに話すと、ワイフは、こう言った。「それは、『お世話になりました』ではなく、
『ご迷惑をおかけしました』でしょう」と。

 実は、この2人の「私」が、私の中で衝突するたびに、私は、かなり精神的に不安になった。
そしてそのトバッチリは、ワイフに向った。ワイフは、そういう私をよく知っている。だから、「長
い間、ご迷惑をおかけしましたのほうが、正しい」と。

 さあ、あなたも、気負いをはずしてみよう!

 あなたは、どこまでいっても、あなただ。

 そう思ったとたん、あなたも、言いようのない解放感を味わうはず。あとは、そこを原点とし
て、前に進めばよい。

 心を解き放て。体はあとからついてくる(英語の表現)。


++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司


最前線の子育て論byはやし浩司(338)

【近況あれ・これ】

●古いパソコンを掃除

 息子が、新しいパソコンを買った。で、そのおさがりというか、古いパソコンが、手に入った。

 で、今日は、今朝から、そのパソコンの掃除。が、見て、驚いた。キーボードのキーのまわり
に、白いカビが生えている!

 さっそく、洗剤で、清掃。そして電源を入れて、リカバリー(再セットアップ)。新品、ピカピカの
状態にして、私が使う。

 OSは、WINDOWのME。少し古いが、何とか、使えそう。ワイフには、私のおあさがりを、や
るつもり。こうして我が家には、いつの間にか、弱肉強食の主従関係ができてしまった。

 そうそう、ホームページコンテストでは、グランプリ賞を取って、賞品のパソコンを手に入れる
つもりだった。しかし、だめだった。ビリ賞に近い、下のほうの賞だった。賞品といっても、たぶ
ん、電子辞書とか電卓とか、そういったものだろう。


●今朝は、寒かった

 ダイエットしているせいか、このところ、寒さが、身にこたえるようになった。寒い。とにかく寒
い。

 昨夜は、息子氏が、ガールフレンドをつれてきた。みんなでいっしょに、食事をした。笑顔の
すてきな、かわいい子だった。それに明るいというか、すなおというか。何を話しかけても、ケタ
ケタと笑いこけていた。

 メニューは、湯豆腐。「こんなジジババ臭い料理で、ごめんね」と、何度もあやまりながら、食
べる。

 湯豆腐では、活力は、出ない。元気もでない。

 で、おかげで、今朝は、私もワイフも、軽い頭痛。どこかへ出かける予定だったが、もう少し、
たがいの様子を見てからにする。風邪をひいたか? 残念!


●FC2NETWORKに加入

 FC2NETWORKに、勧められるまま、加入してみた。無料の、何というか、インターネット・
サークル。

 興味のある人は、

 http://network.fc2.com/login.php

 まで。

 楽天の日記サービスに似ているが、友人を定めて、たがいに日記を読みあうという性格のも
のらしい。よくわからないが……。

 で、今日までに、3日分、日記を書いてみた。結構、使いやすそうだ。しかしこれ以上、手を広
げても、たいへんになるだけ。しばらく様子をみてみよう。


●明日、三男が帰ってくる

 明日、三男が、オーストラリアから帰ってくる。

 が、ガールフレンドが空港で出迎えるとかで、名古屋で、一泊。まっすぐ、ここへは帰ってこな
いつもりらしい。勝手にしたらよい。

 で、私とワイフは、三男の部屋掃除。これから三男のベッドを、別の部屋に移すつもり。つい
でに部屋の掃除も。いろいろ家事が、たいへん。

 では、今日は、忙しいので、ここまで。外は寒々とした、曇天。いやだナ〜。


●買い物

 夕方、ワイフとハナ(犬)と、散歩をかねて、Eストアまでで買い物。距離は、片道、1キロくらい
か。

 うちのハナは、トロトロと歩くような犬ではない。またそういう散歩のさせたかたは、あまりさせ
ていない。そのため、やたらとグイグイと、ヒモを引っ張る。

 「しつけの悪い犬ね」と、ワイフは、散歩のたびに、そう言う。そしてそのたびに、「主人が主人
だからね」と、私は答える。

 のどかな昼下がり。秋の風。ところどころで立ち止まって、写真をとる。


++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

最前線の子育て論byはやし浩司(339)

●接種理論

 初対面での印象が、いかに大切なものであるか。それについて、今さら、書くまでもない。

 幼児のばあいは、とくにそうで、そのときその幼児がもった第一印象で、そのあとのその子ど
もの、伸び方が、まったくちがうということは、よくある。

 よい例として、集団恐怖症、対人恐怖症、さらには、かん黙症などがある。

 こうした症状は、はじめて保育園なり、幼稚園へつれていったその日をきっかけとして、発症
することが多い。そして一度、発症すると、無理をすればするほど、逆効果。かえって症状をこ
じらせてしまう。

 幼児の心は、そういう意味では、きわめてデリケートにできている。親や教師は、「集団生活
になれていないだけ」とか、「しばらく集団生活をすれば、なおるはず」と、安易に考えるが、そ
んな簡単な問題ではない。

 集団のもつ威圧力というか、恐怖感というのは、相当なもの。私もよく経験している。今でも、
ときどき仕事などで東京へ行く機会があるが、あの東京駅の雑踏には、いまだになれることが
できない。自分の歩くスピードで歩くことすら、許されない。おまけにあのラッシュアワー!

 私は昔、M物産という会社に勤めていたが、その会社をやめる直接のきっかけになったの
が、あのラッシュアワーである。

 私は、毎朝、H電鉄の満員電車で、伊丹から、塚本へ出て、大阪の中ノ島にある会社に通勤
した。たまたまオーストラリアから帰ってきたばかりで、どうにもこうにも、あのラッシュアワーに
は、がまんならなかった。それはもう、男どうしが、顔をすりあわせるような混雑ぶりだった。
 
 もちろん、子どもにもよるが、つまり集団の中にすぐ溶けこめる子どももいるし、そうでない子
どももいるが、あくまでもその子どもの視点で、ものを考えること。

 たとえば入園する前には、あらかじめ、その場所を見学させたり、子どもに見せておいたりす
るとよい。そのとき、あらかじめ、集団に対する、心構えを話しておく。いわば病気の予防接種
のように、子どもの心の中に、免疫力をつけておく。こうしておくと、子どもは、いきなり集団を
見せつけられたときよりは、そのショックをやわらげることができる。

こうした一連の心理作用は、「接種理論」という理論で、説明される。

 また子どもが悪い印象をもったときも、大人の一方的な意見を押しつけてはいけない。「そう
だよね」「あなたの気持ちよくわかる」「お母さんも、そう思う」と、子どもの立場で、子どもの心に
なりきって、考える。
(はやし浩司 接種理論)


【子どもの受験】

●受験は気楽に!

 受験シーズンが近づいてきた。

 その受験についても、同じようなことが言える。子どもの受験で大切なのは、「受験は楽しい」
という印象づくりを、しっかりとしておくこと。

 「今度、○○小学校で、お勉強するのよ。お弁当つくってあげるから、いっしょに行こうね」と。

 まちがっても、「受験」のもつ重圧的な恐怖感を、子どもにもたせてはいけない。中には、「子
どもに、それだけの覚悟と決意をもたせるため」と考えて、毎朝、「合格します」と、三唱させて
いる親がいる。

 しかしこうした行為は、子どもに不要な緊張感をもたせてしまう。もう少し大きくなれば、そうし
た緊張感を自分でコントロールすることができるようになるが、この年齢の子どもには、まだ無
理。

 試験会場のどこかで、何かのことで、つまずいたようなとき、それがきっかけで、緊張感が一
気に爆発するというようなことはよくある。

 こうなると、もう試験どころではなくなってしまう。ワーワーと泣きながら、親が待つ控え室へ帰
ってくるということにもなりかねない。


●子どもの受験(1)

 まず、子どもの能力を、正確に知る。すべては、ここから始まる。

 ほとんどの親は、「無理をしてでも、その学校へ押しこめてしまえば、あとは何とか、トコロ天
方式で、伸びてくれるはず」と考えやすい。

 しかし、それはまったくの誤解。それが言えるのは、高校や大学でのこと。こと小学校では、
そうはいかない。能力以上の学校に入ってしまったため、毎日、苦しみながら学校へ通ってい
る子どもは、少なくない。

 ある小学校の校長は、こう言った。「大切なのは、子どもの笑顔です」と。小学4、5年生にな
って、学校の授業についていきなくなった子どもがいた。そのとき、その校長は、やんわりと、
転校を勧めたが、親は、ガンとしてそれを拒否したという。その学校には、特別支援教室のよ
うな教室がまだなかった。

 笑顔が大切。私も、そう思う。またそれがすべてだと思う。

 だから受験するにしても、子どもの能力と相談しながら、決める。「まあ、うちの子は、放って
おいても、何とか、みなについていけるだろう」と思えるようなら、心配はない。しかし無理だろう
なと感じたら、受験など、やめたほうがよい。

 ほとんどの親は、子どもを伸ばすことしか考えていない。それは当然だが、しかし、その一方
で、子どもの伸びる芽をつんでしまうこともある。それについては、考えていない……というよ
り、気づいていない。

 たとえば、受験が近づくと、強制的に子どもにワークブックなどをさせる親がいる。「どうして、
こんなのができないの!」と。

 子どもは涙をポロポロ出しながら、そのワークブックをする……。

 しかしこうした無理が、いかに、子どものやる気をそいでいることか! 一時的な効果はあっ
ても、あくまでも一時的。長い目で見れば、かえって逆効果。……というような例は、本当に多
い。


●受験のつまずきが、トラウマに!

 子どもが、受験でつまずくと、それはそのままその子どものトラウマ(心的外傷)になる。

 しかしそのキズをつけるのは、子ども自身では、ない。親である。中には、子どもが受験で失
敗したりすると、半狂乱になる親がいる。寝こんでしまったり、幼稚園へ行くのを止めてしまった
りする。

 「恥ずかしい」「みじめ」と。そういう親の姿を見て、子どもは、それを心のキズとする。しかしこ
の時期、こうしたキズを子どもの心につけるのは、決定的に、まずい。

 以後、子どもはそれを、(心のわだかまり)としてしまう。そして何かにつけ、自信喪失の原因
としてしまう。自ら、「ダメ人間」のレッテルを張ってしまうこともある。

 ある中学生(女子)は、いつもこう言っていた。「どうせ、私はS小学校の入学試験で、落ちた
もんね」と。

 その中学生は、「ここ一番!」というときになると、決まって、そう言っていた。そうなる。

 そんなわけで子どもの受験は、淡々と。合格したときのことを考えて指導するのではなく、不
合格になったときのことを考えて、準備する。

 仮に不合格になっても、まったく子どもには、その緊張感を伝えてはいけない。なごやかな雰
囲気で、やりすごす。そういった配慮をするのは、子どもを受験戦争に巻きこむ親が守らねば
ならない、最低限のマナーである。


●親の質問から

 多くの親は、私にこう聞く。「うちの子は、だいじょうぶでしょうか?」と。

 私は、こう答える。(1)「まあ、うちの子は、放っておいても、何とかやっていくだろう」という自
信があり、(2)通学の不便さがそれほどないなら、受験したらよい、と。

 一度、中央までバスで行き、そこからまた乗り換えて、1時間……というのは、子どもにとって
は、負担が大きすぎる。私の印象では、その1時間が、限度だと思う。

 つぎにかりに不合格でも、それであなたの子どもが、ダメというわけではない。小学校の教師
は、小学生については、よく知っている。それは事実だが、幼児のことは知らない。中には、小
学生も幼児も同じと考える人がいるかもしれないが、小学生と幼児は、まったくちがう。

 どうちがうかということを書き始めたら、キリがないが、ちがうものは、ちがう。だから、小学校
の入試で失敗したからといって、重大事と考えてはいけない。

 それよりも大切なことは、(子どもらしい子ども)にしておくこと。伸びやかで、明るく、すこやか
で、好奇心が旺盛で、生活力がある……。忍耐力があれば、さらによい。そういう子どもがダメ
というのなら、そんな学校は、こちらから、蹴とばしてやればよい。それくらいの気構えは、必要
である。

 あなたの子どもを守るのは、あなたしかいない。そういう前提で、子どもも教育を考える。

 なお、一言。

 子どもを競走馬にしたてて、子どもの受験に狂奔する親というのは、一見、教育熱心で、子ど
も思いの親に見えるかもしれない。しかしそういった親は、子どもを真に愛しているのではな
い。真に愛しているから、そうしているのではない。

 自分の不安や心配を解消するための道具として、子どもを利用しているだけ。あるいは自分
の果たせなかった夢や希望を達成させるための、ロボットとして利用しているだけ。よくて、見
栄、メンツのために利用しているだけ。

 それはたとえて言うなら、ストーカーが自分勝手な思いこみで、相手を追いかけまわすのに似
ている。相手、つまり子どもの能力や迷惑など、何も考えていない。子どもの心のことなど、何
も考えていない。

 もしそんなに「受験」が大切なものなら、自分で勉強して、何かの試験にチャレンジしてみれ
ばよい。親のそういう姿を見て、子どもも、伸びる。

 少し過激な意見を書いたが、ともすれば暴走しがちな受験戦争に、どこかでくさびを打たない
と、あなたもやがてすぐ、その魔力にとりつかれてしまう。そして結果として、親子関係を破壊
し、子どもの能力をつぶしてしまう。

 そうなってからでは、すべてが、遅い! 今、そうして失敗している親が、あまりにも多い。多
すぎる。「うちにかぎって……」などと思っている親ほど、あぶない。

【受験一口メモ】

●受験は淡々と

子ども(幼児)の受験は、淡々と。合格することを考えて準備するのではなく、不合格になったと
きのことを考えて、準備する。この時期、一度、それをトラウマにすると、子どもは生涯にわた
って、自ら「ダメ人間」のレッテルを張ってしまう。そうなれば、大失敗というもの。だから受験
は、不合格のときを考えながら、準備する。


●比較しない

情報交換はある程度までは必要だが、しかしそれ以上の、深い親どうしの交際は、避ける。で
きれば、必要な情報だけを集めて、交際するとしても、子どもの受験とは関係ない人とする。
「受験」の魔力には、想像以上のものがある。一度、この魔力にとりつかれると、かなり精神的
にタフな人でも、自分を自分を見失ってしまう。気がついたときには、狂乱状態に……というこ
とにも、なりかねない。


●「入試」「合格・不合格」は、禁句

子どもの前では、「受験」「入試」「合格」「不合格」「落ちる」「すべる」などの用語を口にするの
は、タブーと思うこと。入試に向かうとしても、子どもに楽しませるようなお膳立ては、必要であ
る。「今度、お母さんがお弁当つくってあげるから、いっしょに行きましょうね」とか。またそういう
雰囲気のほうが、子どもも伸び伸びとできる。また結果も、よい。


●入試内容に迎合しない

たまに難しい問題が出ると、親は、それにすぐ迎合しようとする。たとえば前年度で、球根の名
前を聞かれるような問題が出たとする。するとすぐ、親は、「では……」と。しかし大切なことは、
物知りな子どもにすることではなく、深く考える子どもにすることである。わからなかったら、す
なおに「わかりません」と言えばよい。試験官にしても、そういうすなおさを、試しているのであ
る。


●子どもらしい子ども

子どもは子どもらしい子どもにする。すなおで、明るく、伸びやかで、好奇心が旺盛で、生活力
があって……。すなおというのは、心の状態と、表情が一致している子どもをいう。ねたむ、い
じける、すねる、ひねくれるなどの症状のない子どもをいう。そういう子どもを目指し、それでダ
メだというのなら、そんな学校は、こちらから蹴とばせばよい。それくらいの気構えは、親には
必要である。


●デマにご用心

受験期になると、とんでもないデマが飛びかう。「今年は、受験者数が多い」「教員と親しくなっ
ておかねば不利」「裏金が必要」などなど。親たちの不安心理が、さらにそうしたデマを増幅さ
せる。さらに口から口へと伝わっていく間に、デマ自身も大きくなる。こういうのを心理学の世界
でも、「記憶錯誤」という。子どもよりも、おとなのほうが、しかも不安状態であればあるほど、そ
の錯誤が大きくなることが知られている。
(はやし浩司 受験の心得 気構え)

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

最前線の子育て論byはやし浩司(340)

●世界の中の日本人

 こんな話がある。その女性(日本人女性)は、外国人と結婚した。外国人といっても、アフリカ
系の黒人だった。

 その結婚について、女性の両親は、猛烈に反対した。が、その反対を阿智を押し切って、そ
の女性は結婚。そのあと、その両親は、「近所に恥ずかしい」という理由で、その女性を、勘当
(かんどう)してしまった。その女性をAさんとしておく。

 もう一人、同じく、外国人と結婚した女性(日本人女性)がいた。その両親は、ことあるごと
に、「うちの娘は、外交官と結婚した」と自慢していた。が、外交官といっても、やはりアフリカ系
のある国の外交官、つまり黒人だった。その女性を、Bさんとしておく。

 この二つは、実際、私の身近で見聞きした話である。

 こんな調査結果がある。

 少し古い資料だが、「日本人の他国人に対する重要度」という調査結果である(1967年、我
妻、米山氏調査)。

 それによると、日本人が、好感をもっている国から、順に並べると、つぎのようであったとい
う。

(親友になってもよい他国人)
イギリス人
アメリカ人
フランス人
ドイツ人
インド人
イタリア人

(結婚してもよい他国人)
イギリス人
ドイツ人
アメリカ人
フランス人

 ともに、朝鮮民族、黒人は、最下位だった。

 同じ、黒人の男性と結婚したが、Aさんは、親から勘当されてしまった。が、Bさんは、自慢の
娘になった。「何といっても、外交官」である。日本人は、「外交官」という言葉に、弱い。独特の
魅力を感ずる。長くつづいた、官僚制度と、島国意識の結果と考えてよい。

 なぜだろう?

 いや、理由など、改めてここに書くまでもない。そういった意識は、私もあなたも、みな、共通
して、もっている。と、同時に、外国の人たちも、もっている。人種偏見というか、人種差別意識
というのは、どこの国へ行ってもある。どこの国の人ももっている。

 で、私たち日本人に対してはどうかというと、これまた根強いものがある。皮肉なことに、同じ
ような調査を、イギリスやドイツ、アメリカでしたら、恐らく、日本人は、中国人や朝鮮民族より
も、下位になるのでは?

 「日本人は、世界に名だたる、大和民族。すぐれた民族」と思いたい気持ちは、よくわかる
が、しかし世界の人は、そうは見ていない。骨相学というのもあって、その骨相学によっても、
世界で、一番貧相な民族は、この日本人ということになっている。

 長く島国に住んで、他民族と血の交流をしてこなかったのが、理由とされている。いや、だか
らといって、日本人が劣っていると言っているのではない。

 私が言いたいのは、そもそも、こうした民族差別というか、人種差別いうのは、くだらないとい
うこと。まちがっているということ。相手が黒人であろうが、なかろうが、白人であろうが、なかろ
うが、そういったことで、その相手を判断してはいけないということ。

 もしそれを許すなら、反対に、日本人が、それをされても、文句を言えないということになる。

 私の二男は、よりによって、白人の女性と結婚してしまった。しかも有色人種への根強い偏
見の残っている、アメリカの中南部で、である。私は二男のフィアンセ(当時)とメールを交換す
るようになって、最初に、このことを率直に問いただした。

 「あなたは、日本人の男性と結婚しようとしている。あなたは、二男を、愛しているのか。それ
でよいのか?」と。

 すると、フィアンセは、すかさず、「Yes,I DO love him.」と書いてきた。もう反対する余
地など、なかった。と、同時に、「よく、相手の両親が許してくれたものだ」と、感心した。

 その二男は、嫁の家族にも暖かく、迎えられている。毎月のように行き来している。が、もし
今、相手の両親が、「アジア人と結婚した娘など、勘当だ」「会いたくない」などと言ったとした
ら、どうだろうか。悲しい思いをするのは、二男だけではない。

 いや、私とて、本音を言えば、二男には、日本人の女性と結婚してほしかった。アメリカ人の
女性は、何からなにまで、ちがう。ちがいすぎる。人種偏見はないとしても、結婚となると、話は
別。そういう思いはあった。

 で、先のAさんだが、実家には、そんなわけで帰っていないという。日本へ夫を連れてきても、
この浜松市あたりですごして、そのまま、またアフリカへもどってしまうという。

 Bさんにしても、実は、その両親は、「黒人」ということは、伏せている。ただ「外国の外交官」
とだけ話している。その気持ちは、よ〜く、わかる。このエッセーを読んでいる、あなたも、その
気持ちは、よ〜く、わかるはず。

 まだまだ日本は、精神的には発展途上国だと思うのは、そんなわけで、私だけではあるま
い。……というようなことを、2人の女性の話を聞きながら、考えた。 


●アジテーター

 静かな群集(会衆)が、アジテーター(扇動者)によって、攻撃的な群衆、つまりモッブに変わ
ることはよく知られている。「モッブ」というのは、「mobile(風などで簡単に動くの意)」という単
語を短くしたもの。

 こうしたアジテーターは、教育の場でも、よく経験する。

 ふだんは静かに勉強しているのだが、何かのことで、別の子どもが、先生に反発したとする。
そのとき、それを横で見ていて、「やれ、やれ!」「もってと、やれ!」と、たきつけたり、けしか
けたりする。このたきつけたり、けしかけたりする子どもを、アジテーターという。

 とたん、教室は、パニック状態になる。

 そこで指導する側の私としては、先の子どもをさておいて、そのアジテーターを、集中的に、
おさえにかかる。それをしないと、さらに別のアジテーターが出てきて、混乱に拍車をかける。

 こうしたアジテーターは、実は、社会秩序を破壊するという意味で、たいへん危険な存在と考
えてよい。短絡的な思考、直感的な判断、感情的な言動など。ときには、それが暴動につなが
ることもある。

 で、そのアジテーターになりやすいタイプは、決まっている。ちょっとしたことで、興奮しやすく、
感情的になりやすい。思考力が、それだけ浅いというのも、その特徴の一つ。さらにその原因
としては、何らかの欲求不満やわだかまり、こだわりをもっていることが多い。

 このタイプの子どもは、何らかのきっかけがあると、感情や行動のコントロールができなくな
り、ほかの子どもたちを巻きこむようにして、興奮状態になる。

近年、「キレる子ども」が問題になっているが、同じレベルで、「アジテーターになりやすい子ど
も」も、問題とすべきではないだろうか。

 私のばあい、そのアジテーターの子どもに対しては、容赦なく、つまりその子どもが扇動する
以上に、大声で、きびしく叱ることにしている。そういう形で、「扇動することは悪いことだ」という
ことを、力をもって、教えることにしている。

 こうしたアジテーターに扇動されると、一般社会では、群衆は、ここに書いたような、モッブに
なる。そしてそのモッブは、暴力的になったり、略奪的になったりする。暴徒となって、商店街を
襲う。そんな群集を想像してみればよい。

 なおこのモッブは、ふつう、心理学の世界では、(1)攻撃的になるタイプ、(2)略奪的になるタ
イプ、(3)ヤジを飛ばすだけのタイプなどに分類されて考えられている。
(はやし浩司 モッブ mob アジテーター 扇動 扇動者)


●ふえる熟年離婚

厚生省大臣官房統計情報・人口動態統計課の「人口動態調査」によると、昭和25年から平成
7年までの間に、離婚率は、4・6倍になったという。

 その中でも、結婚生活20年以上の熟年夫婦の離婚率は、3・5%から、16・9%にまで上昇
しているという。17%といえば、ほぼ5組に1組ということになる!

 実は、私の知人の中にも、今、離婚の危機に立たされている人が、何人かいる。しかしそう
いう人たちと会って話をしてみると、どこまでが冗談で、どこから先が、真剣なのか、わからなく
なってしまう。そのわからなさこそが、この熟年離婚の特徴の一つかもしれない。

知人「もう、5年も、セックスレスだよ」
私「本当かあ!」
知人「寝室も別々だよ」
私「本当かあ!」

知人「だからさ、オレにも、愛人がいてさ」
私「本当かあ!」
知人「家内も、今ごろは、どこかの大学生と、飲み歩いているよ」
私「本当かあ!」と。

 そんな調子で、会話がかみあわなくなってしまう。が、それでいて、その奥さんからは、こまめ
に礼状が届いたり、電話がかかってきたりする。離婚の雰囲気など、どこにも感じさせない
(?)。

 で、それを話題にする私のほうも、疲れた。私の実感では、「離婚する」「離婚する」と、騒ぐ
人ほど、離婚しない。本当に離婚する人は、静かに、だれにも悟られずに、離婚する……とい
うことか。

 その熟年離婚には、大きな特徴がある。今までの経験をまとめてみると、こうなる。

(1)夫の知らないところで、妻側が、先に離婚の決意をかためてしまう。
(2)それまでは表面的には、従順で、家庭的な妻であることが多い。
(3)夫の職業は、ほとんどが会社勤めのサラリーマン。会社人間であることが多い。
(4)夫は、まじめタイプ。むしろ、家庭思い。家族思い。家庭サービスもしている。
(5)共通の趣味や、目的がない。休日などは、バラバラの行動をすることが多い。
(6)妻側から離婚を申し出られると、夫は、「どうして?」と、ろうばいしてしまう。
(7)子どもの結婚など、子育てが終わったときなどに、離婚しやすい。

 ほかにもいろいろあるが、実は、私たち夫婦も、あぶない。しかし私のように、「あぶない」「あ
ぶない」と思っている夫婦は、離婚しない。それを知っているから、「多分、だいじょうぶだろう」
と、自分では、そう思っている。

 そこでこうした熟年離婚を防ぐには、どうしたらよいかということになる。が、それとて、つま
り、「防ぐ」という発想とて、一方的に、夫側の勝手にすぎない。夫としては、離婚されたら困る
かもしれない。しかし一方の当事者である、妻側は困らない。離婚を望んでいる。

 だから「防ぐ」という発想そのものが、夫側のものでしかない。妻側にすれば、「どうすれば、
離婚できるか」。さらには、「どうすれば、夫の束縛から解放されて、自分らしい人生を、もう一
度、生きることができるか」ということが、問題なのだ。

 事実、熟年離婚する妻たちは、こう言っている。「残りの人生だけでも、私らしい生き方を、し
てみたい」と。だから、「防ぐ」という発想そのものが、そぐわない。そういう妻たちにとっては、
かえって迷惑になる。

 そこで、これはあくまでも夫側の立場の意見だが、熟年離婚を防ぐためには、とにかく『協同
意識』をもつしかないのではないかということ。共通の目的が無理なら、趣味でもよい。たがい
に、たがいの心の補完をしあうような活動をしなければいけない。土日になると、夫は、ひとり
で魚釣り。妻は、テニス仲間と旅行……というのでは、あぶないということ。

 で、私たち夫婦も、その熟年離婚の予備軍のようなものだから、偉そうなことは言えない。し
かし最近、私は、こう思う。

 夫は、夫で、妻の生きがいを、いっしょにさがし、育ててやる。それが熟年離婚を防ぐ、最大
の方法ではないか、と。「私は夫だ。お前らを食わせてやっている」という発想では、熟年離婚
されても、文句は言えない。

 そう言えば、離婚の危機にある(?)と思われている、冒頭にあげた知人たちは、どの人も、
どこか権威主義的。夫意識が強すぎるのでは? 「男は仕事だけしていれば、一人前」「それ
でじゅうぶん」「妻は家庭に入って、家事をすればよい」と、日常的に、そんなふうに考えている
ような感じがする。つまり、そういう発想をする夫ほど、あぶないのでは?

 今夜もワイフに、「おい、今じゃあ、5組に1組が熟年離婚する時代だそうだよ。20年間も結
婚生活をしていてね……」と話すと、ワイフは、どこか感慨深げ。「じゃあ、私たちも……」と言
いそうな雰囲気だった。うちも、あぶないなア〜。

【補記】

 どうせ17%も、熟年離婚するなら、そういう熟年離婚を、積極的に考えなおしてみたら、どう
だろうか。夫婦も、いつまでも「結婚」というワクにとらわれないで、自由に、自分たちの時間を
楽しむとか……。そういう発想で、たがいの関係を、もう一度、つくりなおす。

 もっと言えば、「結婚」という概念を、一度解体した上で、つくりなおす。こういう時代になった
のだから、いつまでも、旧態依然の結婚観にしがみついているほうが、おかしいのかも?


●リバウンド

 ダイエットのあとにやってくる恐怖が、リバウンド。

 そのリバウンドを、今、経験している。

 まず、猛烈な空腹感。ときどき、波打ち際に打ち寄せる波のように、襲ってくる。ドドーン、ドド
ーン、とだ、。

 が、このとき、じっと、それに耐えていると、空腹感そのものは、どこかへ消えたような状態に
なる。それはそれでよいのだが、そういう状態でも、一度、何かを食べ始めると、まるで猛獣が
目をさましたかのように、また空腹感が襲ってくる。

 そして何を食べても、おいしい。とにかく、おいしい。体中に、その栄養分がムダなく、しみわ
たっていくような感じになる。

 そしてそのとき、それほど食べたという実感はないのだが、1キロ、2キロと、体重がふえてい
く……。

 が、ここでいくつかの問題が起きる。

 ダイエットしていると、いくら栄養バランスに気をつけていても、体の抵抗力が落ちてくる。私
のばあい、粘膜の抵抗力が弱ってくる。夏場だと、結膜炎になったり、扁桃腺炎になったりす
る。

 当然、風邪もひきやすくなる。(今が、そうだが……。)

 そうなると、「少し食べて、薬をのもう」ということになる。こうした状態を繰りかえしている間
に、もとの体重に逆もどり。

 そこで、私は、「今が正念場」と考えるようにしている。暇をみつけては、運動にでかけたり、
散歩にでかけたりしている。ちなみに、おとといまで、体重は、63・5キロだったが、今朝起き
て、はかってみたら、64・5キロになっていた。

 昨日、風邪気味で、ほんの少しだけ、それまでよりも食事の量をふやしただけなのだが、結
果は、このとおり。はっきりと現れてしまった。1日で、1キロ! この分だと、一週間で、もとの
体重!

 リバウンドって、本当にこわい!

 
●子どもの論理性

 Tさんという母親から、「水量の問題を、一度、テーマで取りあげてほしい」という依頼をもらっ
た。

 「水量の問題は、あちこちの入試問題でも使われていますから……」と。

 水量の問題は、子どもの論理性を知るためにはよい。あちこちの入試問題としても、よく取り
あげられている。学習テーマとしても、おもしろい。水量の変化を考えさせることによって、(変
化)→(保持)→(判断)を、学習する。

 もともとはピアジェが取りあげた問題という説もあるが、それは定かではない。しかし、おおむ
ね、こんな問題である。


【例題1】

 一つの透明なビーカー(A)に、色水が入っている。

 そのビーカーの色水を、子どもたちに見せながら、「この色水を、こちらのビーカー(B)に入
れたら、どうなりますか。それをみなさんの前にある、紙のビーカーの上に、色をぬってどうなる
か、見せてください」と。

ビーカー(A)は、口径が太く、ビーカー(B)は、口径が細い。

 紙の上には、空のビーカー(B)の絵が描いてある。子どもたちは、どうなるかを考えながら、
空のビーカー(B)に、クレヨンなどで、色を塗る。

 口径の太いビーカーから、細いビーカーに色水を移すわけだから、当然、水面の高さは高く
なる。そうした変化が、絵の上で表現されていれば、よしとする。


【例題2】

 いろいろな口径のビーカー(A)(B)(C)が置いてあり、それぞれに、色水が、同じ高さまで入
っている。

 それらのビーカーを見せながら、「どのビーカーの水が、一番、多いですか」「一番、少ないで
すか」と質問する。

 水面の高さが同じときは、口径の太いビーカーほど、色水がたくさん入っていることになる。


【例題3、応用】

 口径の太い筒と、口径の細い筒に、それぞれ、同じ幅で、ヒモが巻いてある。その筒を子ども
に見せながら、「ヒモは、どちらが長いですか?」と質問する。


 満4・5歳から、満5・5歳にかけて、子どもの論理性は、飛躍的に進歩する。この時期は、ち
ょうど、乳幼児期から少年、少女期への移行期にも重なる。子どもには、何ごとにつけても、も
のごとを、理屈で考える傾向が見られるようになる。

 この時期、「なぜ?」「どうして?」を繰りかえしながら、子どもは、その論理性を身につける。
この時期、子どもの、そうした質問に、まわりの人たちが、ていねいに答えてあげることは、と
ても重要なことである。

 しかし、つぎのような会話はまずい。

子「どうして、雨が降るの?」
母「神様が、そうしたからよ」
子「どうして、夜になると、暗くなるの?」
母「神様が、そうしたからよ」と。

 さらに……

子「どうしてテレビは、映るの?」
母「映るから、テレビというのよ。映らないのは、テレビとは言わないでしょう」と。

 以前、「なぜなぜ子ども学習百科」(学研)の後書きに、私が書いたエピソードである。


●秋

 はからずも、客人が来て、今夜は週末でもないのに、山荘に来て、一泊することに。着いた
の、夜の9時ごろ。途中、山荘近くの弁当屋に寄って、翌日の朝食用の弁当を買う。山荘に着
くと、秋らしい、かわいた冷たい風が、やさしく吹いていた。

 私たちは庭にイスを出し、そこでしばし、話しこむ。ゆるやかな時の流れ。あたりは静まりか
えって、音もない。いや、つい先ほどまで、秋の虫が鳴いていたが、どこかもう、元気がなかっ
た。

 客人は、今、風呂に入っている。ここへ来るまでは、「風呂はいいです」なんて、言っていたの
に、この山荘に着いたとたん、「入りたい」と。

 この山荘には、人をそんな気持ちにさせる。

 そうそう、先ほど、レモンをかご一杯、収穫してきた。包丁で切ると、さわやかな香りが、部屋
中に漂った。それをかぎながら、客人に見せると、客人は、喜んだ。「今夜の風呂は、レモン風
呂」と。

 私はレモンをこまかく、輪切りにすると、それをタオルに包んで、ヒモで閉じた。そして客人が
風呂に入る前に、それをバスタブに置いた。私自身も、レモンが、これほどまでに、よい香りを
するとは、知らなかった。

 時は、10月。薄曇の天空は、町の明かりを受けて、白く光っている。この「時」を、客人と分
けもつことができることが、私には、うれしい。


●神になれない人間、人間になれない神

 今朝、山荘で、不思議な夢を見た。

 夢の中で、それが夢とわかるときがある。今朝見た夢も、そんな夢だった。が、しかし最初
は、わからなかった。

 最初は、私は、どこかの警察官たちに追われていた。私は、危険分子ということだった。間一
髪で、その警察の襲撃をまぬがれた。どこか、ハリウッド映画の1シーンのようだった。

 で、逃げながら、「どうして、この私が逃げなければならないのか?」と思った。そのときだっ
た。私は、それが夢だと知った。自分が夢を見ていることを知った。「これは、夢なんだ」と。

 しかし今朝の夢は、いつもとちがっていた。ふつうなら、つまりいつもなら、そう気がついたと
たん、目がさめてしまう。しかし私は、そのまま、夢を見つづけた。ときどき、夢であることを忘
れることもあったが、しかし私は、自分で見ている夢を、ほぼ、自由に操ることができた。

 こうなると、自分で映画を監督しているようなもの。好き勝手なことができる。

 空を飛びたいと思えば、飛ぶこともできる。行きたいところがあれば、そこへ行くこともでき
る。スーパーマンのようなパワーも、手にすることができる。

 しかし夢の中の私は、私のままだった。どこか風采のあがらない、ヨボヨボした感じの男だっ
た。

 私は、まず、孫の誠司に会った。その横で、二男が、三人のアメリカ人に囲まれて、英会話
の特訓を受けていた。

 つぎに気がつくと、巨大な廃墟のあとを、5、6人の男たちといっしょに、歩いていた。石の門
や、建物が、無惨にも破壊され、粉々になっていた。その廃墟をしばらく進むと、大きな門が現
れた。

 私についてきた男たちは、その門のところで、立ち止まってしまった。見ると、門のところに、
最初に私を追いかけてきた、警察官たちが、その指揮官らしき男といっしょに、立っていた。身
長が2メートルもあるかと思われるような大男たちである。

 私は、こう言った。「私は、この世界のクリエーター(創造主)だ。君たちだって、私の思考が
つくりあげた、幻想だ」と。

 するとその前をたちはだかる警察官たちは、笑った。「お前は、頭がおかしい。だからこそ、
私たちにとっては、危険分子なのだ」と。

 私はかまわず、前に進んだ。そして一人の大男の頭の上に手を置くと、その手を一気に、下
へ。とたん、その大男は、提灯のように縮んでしまった。それを見て、警察官たちは、そのまま
どこかへ消えてしまった。

 私はかまわず、前に歩いた。

 門の前は、大理石でできた、広大な広場になっていた。そしてその向こうは、野菜畑になって
いた。直径が1メートルもあろうかと思われるような、巨大なキャベツが、何列にもなって、そこ
に並んでできていた。大きなキャベツだった。

 私は、「私は神だ」と実感した。たしかに、その世界では、私は、神だった。そこに見えるも
の、聞こえるもの、それらはすべて私がつくりあげたものだ。そしてそれらをすべて、私は自由
に操ることができる。

 つぎのシーンでは、私は、ひとりで映画館にいた。古い、映画を見ていた。しかし私は、その
映画の中にも、入ることができた。

 またつぎのシーンでは、どこかへ行くために、バス停でバスを待っているところだった。その
気になれば、バスなんかに乗らなくても、そのまま空を飛ぶこともできた。しかし、飛ばなかっ
た。

 おかしなことだが、そのとき考えたのは、携帯電話で、ワイフに迎えに来てもらうこと、だっ
た。しかし実際には、バスに乗った。

 どこか静かな森の中を、バスは走っているようだった。乗客は、みな、病人だった。苦しそうな
表情をしていた。ふと、「治してやろうかな」と思ったが、それはしなかった。自信がまだ、なかっ
た。

 そしてまた前のシーンにもどった。つまり、私は、5、6人の男たちといっしょに、どこかの長い
廊下を歩いていた。私は、その中の一人の男に、こう聞いた。

 「ぼくは、今、夢を見ている。君たちも含めて、この世界は、みな、ぼくがつくったものだ。つま
り、この世界では、ぼくは、神だ」と。

男たち「あなたが、私たちをつくったというのは、信じがたい」
私「私は、今すぐにでも、君たちも含めて、この世界を消すこともできる」
男たち「あなたは、私たちの神か」
私「そうだ。……そこで君たちに聞きたい。今、ぼくは、夢の世界にいる。どうすれば、もとの現
実の世界にもどることができるか」と。

 すると、一人の男が、半ば冗談ぽく、こう言った。「この世界で、もう一度、眠ればよい。そうす
れば、起きたとき、現実の世界にもどることができる」と。

 私はそのとき、それを言葉では否定したが、別の心で、それを「なるほど」と納得していた。

 で、気がつくと、また私は、あの映画館の中にいた。ひとりで、映画を見ていた。座席に座っ
ているというよりは、ふとんの中で、横になっていた。体がだるかった。「もう、家に帰らなけれ
ば」という思いもあったが、体が、動かなかった。

 で、携帯電話に手をかけたところで、意識がもうろうとしてきた。私は、おかしなことに、本当
におかしなことに、夢の中で、また眠ってしまった。

 そして……。目がさめた。気がついたときには、私は現実の世界にもどっていた。ゆっくりと
起きあがると、台所のほうへ。ワイフがそこに立っていた。「おはよう」と言いながら、ワイフを抱
いた。

ワイフ「どうしたの?」
私「不思議な夢を見た……」と。
ワイフ「どんな夢?」
私「私たち人間は、神の世界に入れないと苦しんでいる。しかしその神だって、今、人間の世界
に入れないと、同じように苦しんでいる」と。

 私には、神の苦しみがどこか、わかったような気がした。そんな不思議な夢だった。
(041019)

【人間になれない神、神になれない人間】

 この世界に、絶対という絶対を超えた、「超絶対の存在」というのは、あるのか? 多くの人
は、それを「神」と呼ぶ。

 私には、わからない。わからないから、今は、「ない」と思う。

 そこで何かの信仰者の人たちに聞く。「本当に、神はいるのか?」と。

 するとみな、こう答える。「あなたも、私たちといっしょに、信仰してみなさい。そうすれば、あな
たはそこに神を感ずることができますよ」と。

 しかしもし神が、全知全能なら、今すぐに、ここに現れることだって、できるはず。何でもない。
しかしここに現れない。現れることができない。だから、神は、全知全能ではない。つまり神は
いないのでは? ……という議論は、昔からなされる議論である。

 つまり神といえども、人間の世界に、おりてくることができない。

 一方、人間は人間で、多くの人たちは、神になろうと、あがきもがき、そして苦しんでいる。し
かし人間は、人間であるという壁を、どうしても超えることができない。

 あのミケランジェロの『天地創造』(バチカン美術館)の絵の中では、創造神と、人間のアダム
が、手をのばしあう場面が描かれている。しかしその両者の手は、あと一歩のところで、触れ
あうことはない。

 「それが神と人間の限界状況を象徴している」と説く人もいる。

 たしかに、これは限界だ。

 今朝、私が見た夢の中には、そんなテーマが隠されているように思う。そんな、私の中の、心
の奥深いところ、潜在意識の中で考えていたことが、夢という形で、現れたのだと思う。


●痴呆症の人

 日本のどこかで、世界の痴呆症の研究者が集まって、その研究会議が開かれた。その会議
の冒頭、一人の男性が、スピーチをした。彼自身も、痴呆症の一人だった。

 が、何よりも、私の関心をひいたのは、その男性が、47歳という若さで発症し、現在、57歳
であるということ。私も、もうすぐ、その57歳になる。

 で、その男性は、「自分であって自分でない恐怖」について、語っていた。「自分であって、自
分でなくなる恐怖」だったかもしれない。実は、その恐怖については、私も経験している。脳ミソ
が、私の意思とは関係なく、勝手に動きまわる恐怖である。

 私は、それを、チョコレートを食べ過ぎたときに、経験している。ちょうど2月のバレンタインデ
ーのときのことで、そのころは、毎日、パクパクと、幾箱も、チョコレートを食べていた。

 私はもともとチョコレートを食べられる体質ではない。その私が食べたのだから、脳ミソが、
大混乱してしまった。そのときのこと。「自分」はそこにいるのだが、別の脳ミソが、てんでバラ
バラなことを、勝手に考えるようになってしまった。

 幸いにも翌朝、症状は消えていたのでよかったが、その恐怖感は、相当なものである。多
分、その男性も、同じような恐怖を、日常的に経験しているのだろう。話を聞いているとき、あ
のころの恐怖感が、そのまま、もどってきた。

 そして、57歳という年齢!

 いろいろ考えさせられた。アルツハイマー型痴呆症の研究会議ということだから、多分、その
男性もその病気なのだろう。その男性は、「痴呆症になっても、人格や感情はある」というよう
なことを言っていたが、私はその言葉に、感動した。人間の生きる美しさというか、尊さを、彼
の言葉の中に感じた。

 と、同時に、「では、自分は、何ができるか」と、そんなことまで考えてしまった。今、健康であ
ることをよいことに、何もしないでいることは、すまされない。健康な人は、健康な人として、そう
した病気をかかえて戦っている人の分まで、がんばらなくてはいけない。脳ミソだって、そうであ
る。

 健康な脳ミソをもっている人は、そうでない脳ミソをかかえて戦っている人の分まで、がんば
らなくてはいけない。健康な人には、そういう義務がある。義務だ。健康であることをよいこと
に、それを自分のためだけに使ってはいけない。

 理由は、簡単。

 そうした人たちの姿は、明日の、私やあなたの姿だからである。例外は、ない。一人の例外
も、ない。みな、そうなる。

 同年齢の男性であるだけに、どういうわけか、強烈に、ものすごく強烈に、その男性のスピー
チが印象に残った。


●援助交際

 援助交際というと、中年の男と、若い女性との交際を想像する人が、ほとんどだと思う。しか
しその反対の交際もある。中年の女性と、若い男性との交際との交際もある。決して、少なくな
い。

 後者のケースは、あまり表ざたにはならない。問題にも、話題にもならない。しかし深刻さとい
う点では、大きな差は、ない。

 ある男子高校生は、どういうきっかけかは知らないが、40歳前後の女性と、現在、その援助
交際をしている。ときどき会って、小遣いをもらっている。

 女性のほうは、レストラン経営者。離婚歴がある。夕方、待ちあわせ場所まで、車で来て、そ
のままその高校生とラブホテルへ。数時間すごしたあと、自宅近くまで送り届けている。

 その高校生は、親の前では、「部活で遅くなった」と言い訳をしているらしい。

 そのせいもあって、その高校生の成績は、急降下。勉強どころではない。当然である。いや、
それ以上に、そんなに簡単にお金が手に入るようになると、勤勉意欲そのものが、おかしくな
る。1回、デートすれば、数万円から、ときには、10万円。そんな大金が、簡単に手に入る。

 世の中、しょせん、男と女の世界。その男と女が、無数のドラマを繰り広げる。しかし、その中
には、(そうであってもよい部分)と、(そうであってはいけない部分)がある。どこでどう線を引く
かだが、その線を引くのが、その人の道徳であり、倫理ということになる。

 今でも、ごくふつうの高校生ですら、コンドームをもち歩く時代になった。へたに性道徳を説こ
うものなら、「ダサい」とはねのけられてしまう。しかしこれでよいはずはない。たとえば、エイズ
にしても、この日本では、その感染者が、ふえている。

 推定でも、現在、若者を中心に、1万2000人以上の感染者がいるとされる(04年)。2010
年には、5万人になると、予想されている。さらに2015年には、……! このまま何も手を打
たなければ、あなたの子どもが、その感染者になる可能性は、きわめて高い。

 今の社会は、あまりにも欲望優先型。「だからどうなの?」という部分がないまま、みながみ
な、その欲望に溺れてしまっている。その結果が、「今」である。

 では、どうするか?

 ……ということについては、何度も、書いてきた。そこでここでは、その先というか、それを防
ぐための一つの方法というか、親の心構えについて、書いておきたい。

 いつか、そういう状態になることを、心のどこかでシミュレーションしておくということ。それを心
理学の世界でも、「認知的構え」という。あらかじめ心の訓練をしておくと、その場になっても、
あわてなくてすむ。

(1)あなたの子どもが、中学生になったとき、性的な遊びをするようになった。
(2)あなたの子どもが、高校生になったとき、援助交際をするようになった。
(3)あなたの子どもが、大学生になったとき、HIVの感染者だとわかった。

 そういうとき、あなたは、どのようにそれに反応し、対処するだろうか。それを頭の中で、シミ
ュレーションしておく。

 が、それだけではない。このシミュレーションには、もう一つの重要な、意味がある。

 こうして頭の中で、シミュレーションすることによって、その問題点というか、「では、どうしたよ
いか」、そこまでわかるようになる。

 具体的に、考えてみよう。

 たとえば台風が来たときのことを、想像してみよう。大きな台風で、今あなたの家のまわり
で、ゴーゴーと吹き荒れている。

 停電にもなった。下水溝の水が、あふれだした。雨漏りもしている……。そこであなたは、懐
中電灯と取りだし、雨がっぱを着て、外に出る。風で飛んでいきそうなものに、重石をのせて、
雨漏りするところを補修し始める。

 そういったことを頭の中で想像することによって、それをそのまま予防にも、利用することが
できる。どこを、どうすればよいかが、わかってくる。

 そういう意味でも、子育てで失敗しやすい親というのは、「うちの子にかぎって……」とか、「ま
さか……」と考えて、問題から逃げてしまう。そして何か問題が子どもに起きるたびに、狼狽(ろ
うばい)し、混乱する。

 ということで、援助交際についての話は、おしまい。今でも、「そんな話は、私や私の息子には
関係ない」と思っているなら、あなたもすでに、「失敗」の泥沼に、半分、足をつっこんでいると
考えてよい。

【補記】

 常日ごろから、あなたのまわりで起きる問題について、「私ならこうするだろう……」「私なら、
こうなるだろう……」と考えておくことは、とても大切なことである。

 ただし、興味本位ではいけない。ただの野次馬でもいけない。その人の立場になって、その
人の心になりきって、考える。理由がある。

 一つの問題を、他人の視点で考えていると、どうしても否定的な側面ばかりが、先に出てく
る。「ここが、悪い」「そこが、悪い」と。

 否定的なものの見方というのは、それ自体が、たいへん狭いものの見方と考えてよい。「あ
れが悪い」「それが悪い」などということは、だれにでもできる。たとえばたまたま、ここで私は、
エイズの問題をとりあげた。その問題についても、「エイズになったのは、なった人が悪い」「自
業自得だ」「なった人が、自分で責任を取ればよい」などと考えていたのでは、何も問題は解決
しない。しないばかりか、かえって、問題の本質から、自分を遠ざけてしまう。

 大切なことは、その中から、何かを生み出すことである。そのためにも、一度、相手の心の中
に、自分を置かねばならない。そこを原点として、ものを考える。

 エイズになった人の話を聞いたとき、「さぞかし、その両親はつらいだろうな」「私なら、とても
耐えられないだろうな」と、そういう視点で考える。

 すると、それまで見えてこなかったものまで、見えてくるようになる。ついで、「どうしたらよい
か」「こうすればよいのではないか」ということまで、考えられるようになる。

 実は、これはものごとを評論するときの、真髄でもある。それについては、また別の機会に書
くとして、こうした評論のし方は、私自身の長い経験から生まれたものである。一つの参考にな
れば、うれしい。

 
+++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司※

最前線の子育て論byはやし浩司(341)

●フリをする母親

 昔、自分を病人に見たてて、病院を渡り歩く男がいた。そういう男を、イギリスのアッシャーと
いう学者は、「ミュンヒハウゼン症候群」と名づけた。ミュンヒハウゼンというのは、現実にいた
男爵の名に由来する。ミュンヒハウゼンは、いつも、パブで、ホラ話ばかりしていたという。

 その「ミュンヒハウゼン症候群」の中でも、自分の子どもを虐待しながら、その一方で病院へ
連れて行き、献身的に看病する姿を演出する母親がいる。そういう母親を、「代理ミュンヒハウ
ゼン症候群」という(「心理学用語辞典」かんき出版)。

 このタイプの母親というか、女性は、多い。こうした女性も含めて、「ミュンフハウゼン症候群」
と呼んでよいかどうかは知らないが、私の知っている女性(当時50歳くらい)に、一方で、姑
(義母)を虐待しながら、他人の前では、その姑に献身的に仕える、(よい嫁)を、演じていた人
がいた。

 その女性は、夫にはもちろん、夫の兄弟たちにも、「仏様」と呼ばれていた。しかしたった一
人だけ、その姑は、嫁の仮面について相談している人がいた。それがその姑の実の長女(当
時50歳くらい)だった。

 そのため、その女性は、姑と長女が仲よくしているのを、何よりも、うらんだ。また当然のこと
ながら、その長女を、嫌った。

 さらに、実の息子を虐待しながら、その一方で、人前では、献身的な看病をしてみせる女性
(当時60歳くらい)もいた。

 虐待といっても、言葉の虐待である。「お前なんか、早く死んでしまえ」と言いながら、子どもが
病気になると、病院へ連れて行き、その息子の背中を、しおらしく、さすって見せるなど。

 「近年、このタイプの虐待がふえている」(同)とのこと。

 実際、このタイプの女性と接していると、何がなんだか、訳がわからなくなる。仮面というよ
り、人格そのものが、分裂している。そんな印象すらもつ。

 もちろん、子どものほうも、混乱する。子どもの側からみても、よい母親なのか、そうでないの
か、わからなくなってしまう。たいていは、母親の、異常なまでの虐待で、子どものほうが萎縮し
てしまっている。母親に抵抗する気力もなければ、またそうした虐待を、だれか他人に訴える
気力もない。あるいは母親の影におびえているため、母親を批判することさえできない。

 虐待されても、母親に、すがるしか、ほかに道はない。悲しき、子どもの心である。
(はやし浩司 ミュンヒハウゼン症候群 代理ミュンヒハウゼン症候群 子どもの虐待)


●自己否定

 仕事がなくなるという恐怖は、相当なもの。とくに、「男は仕事だけしていれば、一人前」とか、
「オレは家族を食わせてやっている」と、日ごろ言っている男性にとっては、そうである。

 「仕事」が、その人のステータスになっている。だからその仕事を失うということは、その人の
価値が否定されることに等しい。

 が、こういう時代である。私のような中高年への、世間の風当たりは、きびしい。数年前だ
が、大学の同窓会に出てみた。が、公務員や自営業をのぞいて、民間企業に就職した仲間た
ちは、ほぼ全員が、リストラされ、別の会社に就職していた。

 そういう時代である。

 もちろん公務員や自営業とて、例外ではない。定年退職や、それに病気がある。事故もあ
る。そういうとき、同じように、「自己否定」という恐怖を味わう。

 それはすさまじいほどの衝撃である。若いときなら、やりなおしがきく。しかし50歳もすぎる
と、そうはいかない。やりなおすという発想そのものが、消える。が、それだけではない。プラ
ス、生活の不安が、どっと襲ってくる。とくに自営業のばあいは、失業イコール、無収入となる。

 だから……。

 仕事は、大切なものだが、同時に、その仕事がなくなったときの自分を考えておくことも、重
要なことである。別の仕事を用意するということではない。仕事がなくなったときの心構えという
か、そういうものを、考えておく。あるいは、老後の生きがいというものを、積極的に用意してお
く。

 それは、老後の貯金のようなものかもしれない。

 ……と書くのは、実は、自分のため。自分に言って聞かせるため。と、同時に、実は、私は過
去において、何度も、その自己否定の恐怖を味わっている。毎日が、その連続といってもよ
い。私がしているような仕事のばあいは、一度に、その恐怖がやってくるということはない。そ
のかわり、その恐怖が、分散してやってくる。が、だからといって、恐怖感が小さいということは
ない。ときには、その分散した恐怖が、波のように集まって、襲ってくることもある。

 いつということは、書けないが、毎日、床の上で、天井を見あげながら、どうしようかと、思案
に暮れたこともある。息子の寝顔を横で見ながら、涙をこぼしたこともある。

 しかし今、私には、かろうじてだが、仕事がある。毎朝、起きると、やることが決まっている。
生きがいも、ある。健康も、まあまあ。で、ふと、こう思う。

 「できるだけ、こういう状態を、大切に、長くつづけよう」と。それは、薄い氷の上を、恐る恐る
歩くようなもの。決して、おおげさな言い方ではない。そうした実感は、年々、強くなっている。

 で、今は、もう、大きな目標は、ない。目的も、ない。現状維持ができれば、御(おん)の字。
健康でいられるだけでも、感謝しなければならない。そういう立場である。

 その私のこと。もしいつか、自己否定するようなことがあれば、私はもう生きていないだろうと
思う。自己否定イコール、死と考えている。多分というより、まちがいなく、私は自己否定の恐
怖感には、耐えられないだろうと思う。

【補記】

 こうした困苦は、だれにでも起こりうるものだが、だれかがそうなったら、静かな、そして暖か
い無視が、一番、よい。

 いらぬお節介は、タブー。いわんや興味本位、個人的な好奇心で、その人の不幸を、のぞい
てはいけない。

 が、世の中には、無神経な人が多いのも、事実。ある日、いきなり電話がかかってきて、「林
君、今のような仕事は、やめて、もう少し、まともな仕事をしてはどうかね? 今の仕事じゃあ、
老後が心配だろう」などと言ってくる。(ホントだぞ!)

 もちろんその人から、相談があれば、別。そのときは、親身になって、相談にのってあげる。

 が、おかしなもので、自分が苦労しているときほど、その人の真価がわかる。私も何度か、そ
ういう波を越えて、(つきあう人)と、(つきあってもムダな人)を、よりわけてきた。言うまでもな
く、ムダな人と、ムダなつきあいをするのは、それ自体が、時間のムダである。
 

●豊かな表情

 今週のBWでは、表情のレッスンをした。「表情」と聞いて、驚く人もいるかもしれない。

 しかし豊かな表情は、子どもというより、人間の財産でもある。うれしいときは、うれしそうな顔
をする。悲しいときは、悲しそうな顔をする。それが自然な形で、できる子どもやおとなのこと
を、「すなおな人」という。

 レッスンを進めていくと、やがて子どもたちは、のりまくってくる。興奮状態になる。が、それこ
そがレッスンの、目的。

私「お父さんが、仕事から帰ってきました。みなさんは、どうしますか?」
子どもたち「ワーイ!」
私「そんな言い方では、ダメだ。もっと、大声で、心の底から、声を出して、喜びなさい」
子どもたち、大きな声で、「ワーイ!」
私「そんな声ではダメだ。それではお葬式みたいだよ」
子どもたち、さらに大きな声で、「お帰り〜イ! お父さん、ワーイ!!!」と。

 心がゆがんでくると、ここでいう(すなおさ)が消えてくる。すねたり、ひねくれたり、いじけた
り、つっぱったりするようになる。そうなると、表情も、暗くなったり、不自然になったりする。

で、今。表情の乏しい子どもが、ふえている。表情のまったくない子どもも、珍しくない。

 表情が豊かになってくると、心の微妙な変化も、顔に出てくるようになる。まさに表情は、子ど
もの財産ということになる。 

 子どもの表情をつくるコツは、一に根気、二に根気。豊かな親の愛情で子どもを包み、子ども
を怒鳴ったり、威圧したりしない。ただひたすら、忍従の心をもって、根気よく育てる。

 ある子ども(2歳)は、このところ、野菜を嫌うようになった。「食べたくない」というような様子
で、30分以上も、がんばるのだそうだ。

 が、両親は、もっと、気が長い。「1時間かけて、食べさせています」とのこと。こうした気長さ
が、子どもの表情を、豊かにする。 


●Public Commitment

 ダイエットするときは、「私はダイエットする」と、みなに宣言するとよい。こうした宣言を、心理
学の世界でも、「パブリック・コミットメント」という。

 つまりそう宣言することによって、自らそういう状況をつくりだそうという心理が、増大する。そ
のため、たとえばダイエットにしても、それが成功する確率が、ぐんと高くなる。

 このことは、子どもの教育にも、応用できる。

 一方的に教師が、何かを説明して、「では、〜〜しましょう」と終わるのではなく、子どもを前に
立たせ、その子ども自身に、自らすべきことを宣言させる。「私は〜〜します」と。そうすること
で、子どもは、ここでいうパブリック・コミットメントをすることになる。

 わかりやすく言えば、このパブリック・コミットメントは、その人を、自ら追いこむ、原動力とな
る。

 で、私などは、もともと意思の弱い人間だから、いつも、こうしたパブリック・コミットメントをし
ながら、自分の方向性を立てなおしている。また、そうしないと、うまくいかない。

 「明日は、自転車で、20キロ走るぞ」
 「来月までに、5キロ、減量するぞ」
 「今日は、朝食は、キャベツだけにするぞ」と。

 そう言えば、私は今、毎日マガジンの原稿を書いているが、これは言うなれば、パブリック・コ
ミットメントなのかもしれない。原稿のところどころで、いつも、何かを宣言している。そしてその
宣言に応じて、自分のあり方を決めている。

 ただし条件がある。

 子どもに応用するにしても、無理強いはいけない。それに匿名でしてはいけない。陰でコソコ
ソ隠れてものを言うのは、ここでいうパブリック・コミットメントではない。

 
++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

最前線の子育て論byはやし浩司(342)

【新しい教育の提言】

●新しい日本の流れ
 
 日本の教育は、今、知識偏重の詰めこみ教育から、議論をしながら考える教育へと、その転
換期にあるとみてよい。

 今までは、(追いつき、追い越せ)教育でよかったが、これからは、もう、そういう教育は、通
用しない。それはもう、だれの目にも、明らかである。

 と書いても、私に、何か、具体的な方法論があるわけではない。私は、こういうとき、つまり、
自分がどこか袋小路に入ったのを感じたようなときは、ネットサーフィンをしながら、あちこちで
世界の賢者たちの言葉を読むことにしている。

 世界の賢者たちの言葉を、あちこちから拾って、訳をつけてみた。

+++++++++++++

★The important thing is not to stop questioning. - Albert Einstein
「重要なことは、問いつづけることだ」(A・アインスタイン)

★Those who educate children well are more to be honored than parents, for these gave 
only life, those the art of living well. - Aristotle 
「子どもをよく教育するものは、両親より、称えられる。なぜなら、両親は、命を与えるだけだ
が、子どもをよく教育するものは、生きる技術を与えるから」(アリストテレス)

★They were majoring in two subjects: physics and philosophy. Their choice amazed 
everybody but me: modern thinkers considered it unnecessary to perceive reality, and 
modern physicists considered it unnecessary to think. I knew better; what amazed me was 
that these children knew it, too. - Ayn Rand
「彼らは、物理学と哲学のふたつを専攻していた。その選択は、私をのぞいて、みなを驚かせ
た。しかし近代の思想家は、現実を認知することを、不必要と考えた。そして近代の物理学者
は、思索することを、不必要と考えた。しかし私は、私を驚かせたことは、これらの子どもたち
も、それを知っていたということを、よりよく知っていた」(A・ランド)

★"Most of all, perhaps, we need an intimate knowledge of the past. Not that the past has 
anything magical about it, but we cannot study the future." - C.S. Lewis
「私たちのほとんどは、たぶん、過去をよくしる必要がある。それは、過去が何か神秘的である
からということではなく、過去を知らなければ未来を学ぶことができないからである」(C・S・ル
イス)

★Frederick Douglass taught that literacy is the path from slavery to freedom. There are 
many kinds of slavery and many kinds of freedom. But reading is still the path. - Carl Sagan
「フレドリック・ダグラスは、読み書きの能力は、奴隷を解放する道だと教えた。いろいろな種類
の奴隷制度があり、いろいろな種類の自由があるが、読書は、まさにその道である」(C・サガ
ン)

★I hear and I forget. I see and I remember. I do and I understand. - Confucius
「私は聞いて、そして忘れる。私は見て、そして覚える。私は行動して、そして理解する」(孔子)

★The true genius shudders at incompleteness - and usually prefers silence to saying 
something which is not everything it should be. - Edgar Allen Poe
「真の天才は、未完成さに、身震いする。つまり真の天才は、それがすべてでない何かを語る
よりも、沈黙をふつう、好む」(E・A・ポー)

★To know what to leave out and what to put in; just where and just how, ah, THAT is to 
have been educated in the knowledge of simplicity. - Frank Lloyd Wright
「どこにどのように、何を捨て、何を取り入れるか……つまりそれが、単純な知識として、教育さ
れるべきことである」(F・L・ライト)

★You cannot teach a man anything; you can only help him find it within himself. - Galileo 
Galilei
「あなたは人に教えることなどできない。あなたはただ、人が彼の中にそれを見つけるのを、助
けることができるだけである」(G・ガリレイ)

★What office is there which involves more responsibility, which requires more qualifications, 
and which ought, therefore, to be more honourable, than that of teaching? - Harriet 
Martineau 
「教育の仕事以上に、責任があり、資格を必要とし、それゆえに、名誉ある仕事が、ほかのど
こにあるだろうか」(H・Martineau)

★A child's wisdom is also wisdom - Jewish Proverb
「子どもの智慧も、これまた智慧である」(ユダヤの格言)

★The teacher, if indeed wise, does not bid you to enter the house of their wisdom, but 
leads you to the threshold of your own mind. - Kahlil Gibran
「本当に賢い教師というのは、あなたを決して彼らの智慧の家に入れとは命令しないもの。しか
し本当に賢い教師というのは、彼ら自身の心の入り口にあなたを導く」(K・ギブラン)

★We have to continually be jumping off cliffs and developing our wings on the way down. - 
Kurt Vonnegut
「私たちはいつも、崖(がけ)から飛び降りる。飛び降りながら、その途中で、翼を開発する」
(K・Vonnegut)

★Just as iron rusts from disuse, even so does inaction spoil the intellect. - Leonardo Da 
Vinci
「鉄がさびて使い物にならなくなるように、何もしなければ、才能をつぶす」(L・ダビンチ)

★Truth is eternal. Knowledge is changeable. It is disastrous to confuse them. - Madeleine L'
Engle
「真実は永遠である。知識は、変化しうるもの。それらを混同するのは、たいへん危険なことで
ある」(M・L'Engle)

★Never let school interfere with your education. - Mark Twain
「学校を、決して、あなたの教育に介在させてはならない」(M・トウェイン)

★Education is an admirable thing, but it is well to remember from time to time that nothing 
that is worth knowing can be taught. - Oscar Wilde
「教育は、賞賛されるべきものだが、しかしときには、価値ある知識は教えられないということ
も、よく覚えておくべきである」(O・ワイルド)

★You must train the children to their studies in a playful manner, and without any air of 
constraint, with the further object of discerning more readily the natural bent of their 
respective characters. - Plato
「あなたは子どもを、遊びを中心とした方法で指導しなければならない。強制的な雰囲気ではな
く、彼らの好ましい性格の自然な適正を、さらに認める目的をもって、そうしなければならない」
(プラト)

★In every man there is something wherein I may learn of him, and in that I am his pupil. - 
Ralph Waldo Emerson
「どんな人にも、彼らの中に、私が学ぶべき何かがある。そういう点では、私は生徒である」
(R・W・エマーソン)

★We, as we read, must become Greeks, Romans, Turks, priest and king, martyr and 
executioner, that is, must fasten these images to some reality in our secret experience, or 
we shall see nothing, learn nothing, keep nothing. - Ralph Waldo Emerson
「読書することによって、私たちは、ギリシア人にも、ローマ人にも、トルコ人にも、王にも、殉教
者にも、死刑執行人にも、なることができる。つまり読書によって、こうした人たちのイメージ
を、私たちの密かな経験として、現実味をもたせることができる。読書をしなけば、何も見るこ
とはないだろうし、何も学ぶことはないだろうし、何も保持することはないだろう」(R・W・エマー
ソン)

★Education is a sexual disease, IT makes you unsuitable for a lot of jobs and then you have 
the urge to pass it on. - Terry Pratchett
「教育は、性病だ。つまり教育によって、ジョークがわからなくなり、そのためそれをつぎつぎ
と、人にうつしてしまう」(T・プラシェ)

★I am always doing what I cannot do yet, in order to learn how to do it - Vincent Van Gogh 
「私はいつも、まだ私ができないことをする。それをいかにすべきかを学ぶために」(V・V・ゴッ
フォ)


【考察】

●これらの教育格言の中で、とくにハッと思ったのが、エドガー・アラン・ポーの「真の天才は、
未完成さに、身震いする。つまり真の天才は、それがすべてでない何かを語るよりも、沈黙を
ふつう、好む」という言葉である。

 わかりやすく言えば、「ものごとを知り尽くした天才は、自分の未熟さや、未完成さを熟知して
いる。だから未熟なことや、未完成なことを人に語るよりも、沈黙を守るほうを選ぶ」と。私は天
才ではないが、こうした経験は、日常的によくする。

 私のばあい、親と私の間に、どうしようもない「隔たり」を感じたときには、もう何も言わない。
たとえば先日も、こんなことを言ってきた母親がいた。

 「先祖を粗末にする親からは、立派な子どもは生まれません。教育者としても失格です」と。

 30歳そこそこの若い母親が、こういう言葉を口にするから、恐ろしい。何をどこから説明した
らよいかと思い悩んでいると、そのうち私の脳の回路がショートしてしまった。火花がバチバチ
と飛んでいるのがわかった。だから私は、「ハア〜?」と言ったまま、おし黙ってしまった。

 私自身は、先祖を否定したようなことは、一度もないのだが……。(念のため。)

●つぎに「私たちはいつも、崖(がけ)から飛び降りる。飛び降りながら、その途中で、翼を開発
する」と言った、K・Vonnegut。英語では、何と読むのだろうか。それはともかくも、これは私の
持論でもある。以前私は、「人間の創意工夫は、絶壁に立たされて、はじめて生まれる」と書い
た。

 少し前だが、ある教育審議会のメンバーをしたこともあるF氏から、相談を受けた。「学校教
育に蔓延(まんえん)している沈滞感は、どうしたら克服できるか」と。

 それに対して私は、「教師を絶壁に立たせないと、ダメです」と。

 こう書くと学校の先生は、不愉快に思うかもしれないが、ここは怒らないで聞いてほしい。

 学校の先生たちは、たしかに忙しい。同じ公務員でも、給料が20%増しという理由も、そこに
ある。納得できる。しかしそれでも、一般世間の、つまりは民間企業に働く労働者とは、待遇や
職場環境が、基本的に違う。

 たとえば私立幼稚園にしても、今、少子化の波をもろにかぶり、どこも四苦八苦している。経
営のボーダーラインといわれている、200人(園児数)を割っている幼稚園は、いくらでもある。
もっとも経営者自身は、それほど深刻ではない。すでにじゅうぶんすぎるほどの財力を蓄えて
いる。悲惨なのは、そこで働く保育士の先生たちである。安い給料の上、いつリストラされるか
と、ビクビクしている。中には、園児獲得のノルマを、先生たちに課している幼稚園もある。(ほ
とんどの幼稚園が、そうではないか?)

 だから毎年、10月前後になると、先生たちは、案内書や簡単なみやげをもって、幼児のいる
家を、1軒ずつ回っている。「教える」だけではなく、生徒集めにまで、神経をつかっている。し
かも、その先は、まさに絶壁!

 こうした危機感があるから、当然のことながら、教えることについても、ある種の緊張感が生
まれる。その緊張感が、教育の質を高める。もし本当に、教育の質を高めようと思うなら、こう
した緊張感を、人為的につくるしかない。

 残念ながら、それから先の方法については、私もわからない。しかしこれだけは言える。学校
の先生たちも、勇気を出して、崖から飛び降りてみてほしい。翼、つまり創意工夫は、飛び降り
ている間に生まれる。


●三つ目に、アリストテレスの、「子どもをよく教育するものは、両親より、称えられる。なぜな
ら、両親は、命を与えるだけだが、子どもをよく教育するものは、生きる技術を与えるから」とい
う言葉。

この訳は正確ではないと思う。思うのは、冒頭の「Those」を、「親」と訳すべきか、「教師」と訳
すべきかで、意味がまるで変わってくる。

「親」とみると、「だれでも子どもを産めば親になるが、生きる技術を与えて、親は、真の親とな
る」と解釈できる。

 一方「教師」とみると、「生きる技術を与える教師は、親よりすばらしい」と訳せる。どちらが正
しいかわからないという意味で、「この訳は正確ではないと思う」と書いた。

 一般論として、欧米の教育の「柱」は、ここにある。どの人に会っても、彼らは、「教育の目標
は、「子どもに生きる技術を与えること」と言う。オーストラリアの友人(M大教授)も、かつてこう
教えてくれた。

 「教育の目標は、私たちのもつ知恵や経験を、子どもたちがつぎの世代を、よりよく生きてい
くことができるように、それを教え伝えることだ」と。

 つまり「実用的なのが教育」ということになっている。しかしこの日本には、むしろ実用的であ
ってはならないという風潮すらある。日本の教育は、将来学者になるためには、すぐれた体系
をもっている。しかし、だ。みながみな、学者になるわけではない。あるいは将来、学者になる
子どもは、いったい何%、いるというのか。

 英語にしても、数学にしても、将来、英語の文法学者や、数学者になるには、すぐれた体系
をもっている。しかしそのため、おもしろくない。役にたたない。しかしこんなことは、30年前
に、すでにわかっていたことではないか。最近になって、やっと「役にたつ」という言葉が聞かれ
るようになったが、それにしても、30年とは!

 要するに、子どもを産むだけでは、親ではないということ(失礼!)。自分の生きザマを、子ど
もに示してこそ、親は、親になる。そしてそれが親の役目ということになる。


+++++++++++++++++++

【新しい教育】

 教育を考えるときは、当然のことながら、年齢別、学年別に考えなければならないことは、言
うまでもない。

 その中でも、とくに幼児教育の重要性については、私は、たびたび書いてきた。

 それはともかくも、今度は、子ども自身がもつ、方向性にあわせた教育を考えなければならな
い。

 将来、すぐれた研究者になるための教育もあれば、その研究を利用した分野で活躍する人
材を育てるための教育もある。どちらが正しいとか、有用とかいうのではない。どちらかの立場
で、一方的に、相手に押しつけるのは、正しくないということ。

 そこで登場するのが、「教育の多様性の問題」である。アメリカの小学校を例にあげて考えて
みよう。


●アメリカの小学校

 アメリカでもオーストラリアでも、そしてカナダでも、学校を訪れてまず驚くのが、その「楽し
さ」。まるでおもちゃ箱の中にでも入ったかのような、錯覚を覚える。

たとえば、アメリカ中南部にある公立の小学校(アーカンソー州アーカデルフィア、ルイザ・E・ペ
リット小学校。児童数370名)。教室の中に、動物の飼育小屋があったり、遊具があったりす
る。

 アメリカでは、教育の自由化が、予想以上に進んでいる。

まずカリキュラムだが、州政府のガイダンスに従って、学校が独自で、親と相談して決めること
ができる。オクイン校長に、「ガイダンスはきびしいものですか」と聞くと、「たいへんゆるやかな
ものです」と笑った。

もちろん日本でいう教科書はない。検定制度もない。たとえばこの小学校は、年長児と小学一
年生だけを教える。そのほか、プレ・キンダガーテンというクラスがある。四歳児(年中児)を教
えるクラスである。費用は朝食代と昼食代などで、週六〇ドルかかるが、その分、学校券(バウ
チャ)などによって、親は補助されている。

驚いたのは4歳児から、コンピュータの授業をしていること。また欧米では、図書室での教育を
重要視している。この学校でも、図書室には専門の司書を置いて、子どもの読書指導にあたっ
ていた。

 授業は、1クラス16名前後。教師のほか、当番制で学校へやってくる母親、それに大学から
派遣されたインターンの学生の3人であたっている。アメリカというと、とかく荒れた学校だけが
日本で報道されがちだが、そういうのは、大都会の一部の学校とみてよい。周辺の学校もいく
つか回ってみたが、どの学校も、実にきめのこまかい、ていねいな指導をしていた。

 教育の自由化は、世界の流れとみてよい。たとえば欧米の先進国の中で、いまだに教科書
の検定制度をもうけているのは、日本だけ。オーストラリアにも検定制度はあるが、それは民
間組織によるもの。しかも検定するのは、過激な暴力的表現と性描写のみ。「歴史的事実につ
いては検定してはならない」(南豪州)ということになっている。

アメリカには、家庭で教えるホームスクール、親たちが教師を雇って開くチャータースクール、さ
らには学校券で運営するバウチャースクールなどもある。行き過ぎた自由化が、問題になって
いる部分もあるが、こうした「自由さ」が、アメリカの教育をダイナミックなものにしている。

 ドイツでは、中学生にしても、たいていは午前中だけで授業を終え、そのまま、それぞれのク
ラブに通っている。

 運動クラブだけではない。科学クラブもあれば、それぞれの趣味に合わせたクラブもある。そ
してそうした費用は、「チャイルドマネー」と呼ばれている補助金によって、まかなわれている。

【後書き】

内閣府の調査でも、「教育は悪い方向に向かっている」と答えた人は、二六%もいる(二〇〇
〇年)。九八年の調査よりも八%もふえた。むべなるかな、である。

 もう補習をするとかしなとかいうレベルの話ではない。日本の教育改革は、三〇年は遅れ
た。しかも今、改革(?)しても、その結果が出るのは、さらに二〇年後。そのころ世界はどこま
で進んでいることやら! 

日本の文部科学省は、いまだに大本営発表よろしく、「日本の教育レベルはそれほど低くはな
い」(※1)と言っているが、そういう話は鵜呑みにしないほうがよい。今では分数の足し算、引
き算ができない大学生など、珍しくも何ともない。

「小学生レベルの問題で、正解率は五九%」(国立文系大学院生について調査、京都大学西
村和雄氏)(※2)だそうだ。

 あるいはこんなショッキングな報告もある。世界的な標準にもなっている、TOEFL(国際英語
検定試験)で、日本人の成績は、一六五か国中、一五〇位(九九年)。「アジアで日本より成績
が悪い国は、モンゴルぐらい。北朝鮮とブービーを争うレベル」(週刊新潮)だそうだ。

オーストラリアあたりでも、どの大学にも、ノーベル賞受賞者がゴロゴロしている。しかし日本に
は数えるほどしかいない。あの天下の東大でも、たったの一人。ちなみにアメリカだけでも、二
五〇人もの受賞者がいる。ヨーロッパ全体では、もっと多い(田丸謙二氏指摘)。

 「構造改革(官僚主導型の政治手法からの脱却)」という言葉がよく聞かれる。しかし今、この
日本でもっとも構造改革が遅れ、もっとも構造改革が求められているのが、文部行政である。
私はその改革について、つぎのように提案する。

(1)中学校、高校では、無学年制の単位履修制度にする。(アメリカ)
(2)中学校、高校では、授業は原則として午前中で終了する。(ドイツ、イタリアなど)
(3)有料だが、低価格の、各種無数のクラブをたちあげる。(ドイツ、カナダ)
(4)クラブ費用の補助。(ドイツ……チャイルドマネー、アメリカ……バウチャ券)
(5)大学入学後の学部変更、学科変更、転籍を自由化する。(欧米各国)
(6)教科書の検定制度の廃止。(各国共通)
(7)官僚主導型の教育体制を是正し、権限を大幅に市町村レベルに委譲する。
(8)学校法人の設立を、許認可制度から、届け出制度にし、自由化をはかる。

 が、何よりも先決させるべき重大な課題は、日本の社会のすみずみにまではびこる、不公平
である。

この日本、公的な保護を受ける人は徹底的に受け、そうでない人は、まったくといってよいほ
ど、受けない。わかりやすく言えば、官僚社会の是正。官僚社会そのものが、不公平社会の温
床になっている。この問題を放置すれば、これらの改革は、すべて水泡に帰す。今の状態で教
育を自由化すれば、一部の受験産業だけがその恩恵をこうむり、またぞろ復活することにな
る。

 ざっと思いついたまま書いたので、細部では議論もあるかと思うが、ここまでしてはじめて「改
革」と言うにふさわしい。


(※1)
 国際教育到達度評価学会(IEA、本部オランダ・99年)の調査によると、日本の中学生の学
力は、数学については、シンガポール、韓国、台湾、香港についで、第五位。以下、オーストラ
リア、マレーシア、アメリカ、イギリスと続くそうだ。理科については、台湾、シンガポールに次い
で第三位。以下韓国、オーストラリア、イギリス、香港、アメリカ、マレーシア、と。

この結果をみて、文部科学省の徳久治彦中学校課長は、「順位はさがったが、(日本の教育
は)引き続き国際的にみてトップクラスを維持していると言える」(中日新聞)とコメントを寄せて
いる。東京大学大学院教授の苅谷剛彦氏が、「今の改革でだいじょうぶというメッセージを与え
るのは問題が残る」と述べていることとは、対照的である。

ちなみに、「数学が好き」と答えた割合は、日本の中学生が最低(四八%)。「理科が好き」と答
えた割合は、韓国についでビリ二であった(韓国五二%、日本五五%)。学校の外で勉強する
学外学習も、韓国に次いでビリ二。一方、その分、前回(九五年)と比べて、テレビやビデオを
見る時間が、二・六時間から三・一時間にふえている。

で、実際にはどうなのか。東京理科大学理学部の澤田利夫教授が、興味ある調査結果を公表
している。教授が調べた「学力調査の問題例と正答率」によると、つぎのような結果だそうだ。

この二〇年間(一九八二年から二〇〇〇年)だけで、簡単な分数の足し算の正解率は、小学
六年生で、八〇・八%から、六一・七%に低下。分数の割り算は、九〇・七%から六六・五%に
低下。小数の掛け算は、七七・二%から七〇・二%に低下。たしざんと掛け算の混合計算は、
三八・三%から三二・八%に低下。全体として、六八・九%から五七・五%に低下している(同じ
問題で調査)、と。

 いろいろ弁解がましい意見や、文部科学省を擁護した意見、あるいは文部科学省を批判し
た意見などが交錯しているが、日本の子どもたちの学力が低下していることは、もう疑いようが
ない。

同じ澤田教授の調査だが、小学六年生についてみると、「算数が嫌い」と答えた子どもが、二
〇〇〇年度に三〇%を超えた(一九七七年は一三%前後)。反対に「算数が好き」と答えた子
どもは、年々低下し、二〇〇〇年度には三五%弱しかいない。原因はいろいろあるのだろう
が、「日本の教育がこのままでいい」とは、だれも考えていない。

少なくとも、「(日本の教育が)国際的にみてトップクラスを維持していると言える」というのは、も
はや幻想でしかない。

+++++++++++++++++++++

(※2)
 京都大学経済研究所の西村和雄教授(経済計画学)の調査によれば、次のようであったとい
う。

調査は一九九九年と二〇〇〇年の四月に実施。トップレベルの国立五大学で経済学などを研
究する大学院生約一三〇人に、中学、高校レベルの問題を解かせた。結果、二五点満点で平
均は、一六・八五点。同じ問題を、学部の学生にも解かせたが、ある国立大学の文学部一年
生で、二二・九四点。多くの大学の学部生が、大学院生より好成績をとったという。)

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

最前線の子育て論byはやし浩司(343)

●The important thing is not to stop questioning. - Albert Einstein
「重要なことは、問いつづけることをやめないことだ」(A・アインスタイン)

 「考える教育」が、重要なことは言うまでもない。しかし「考える」という概念ほど、これまた抽
象的で、わかりにくい概念もない。

 そこでアインシュタインの言葉。

The important thing is not to stop questioning. 

 アインシュタインは、こう言っている。「重要なことは、問うことをやめないことである」と。

 つまり子どもに向かって、「考えなさい」と言っても、あまり意味はない。しかし子どもが何かの
ことで問うことにたいして、その問うことを、励まし、伸ばすことはできる。「ほほう、それはおもし
ろい質問だね」「なかなか鋭いね」と。

 たったそれだけのことで、子どもを、より深く、考える子どもに誘導することができる。つまり
「より考える子どもにしたい」と考えたら、「より質問を繰りかえす子どもにすること」を考えれば
よい。

 むずかしいことではない。

 子どもは、満4・5歳から5・5歳にかけて、「なぜ?」「どうして?」を繰りかえす時期にさしかか
る。乳幼児の思考的特徴(自己中心性、物活論、人工論など)からの脱却を、はかる。そして
その結果として、子どもは、より分析的なものの考え方や、より論理的なものの考え方をするこ
とができるようになる。

 この時期というのは、乳幼児から、少年、少女期への移行期にもあたる。

 この時期をうまくとらえれば、その「問う」という行為を、じょうずに引き出すことができる。が、
そうでなければ、そうでない。

 私としては、その重要性というか、幼児教育の重要性が理解してもらえなくて、歯がゆくてなら
ない。はっきり言えば、そのあとの、小中高、それに大学教育など、そのころできた方向性の、
燃えカスのようなもの。……というのは、少し言い過ぎかもしれないが、しかし、一度、この時期
にできた方向性が、その子どもの将来を、決定づける。またこの時期にできた方向性は、一度
できると、それ以後、なかなか変えることはできない。

 昨今、小学校教育の場でも、「より考える深く子ども」が、大きなテーマになっている。「総合的
な学習」というのも、そういう視点から、取り入れられたものである。それはそれとして評価され
なければならないが、もっと大切なことは、その(方向性づくり)である。

 そのために、(問う)という姿勢を伸ばす。テーマは何でもよい。どんなささいなことでもよい。

 日本では、「わかったか? では、つぎ」が、教育の基本になっている。しかしアメリカでは、
「君は、どう思う?」「それはすばらしい」が基本になっている(T先生、指摘)。そういう部分か
ら、つまりもっとベーシックな部分から、教育というより、子育てのあり方そのものを考えなお
す。

 それが結局は、日本の教育を変えていく、原動力になる。


【付録】

●ついでに、A・アインシュタインの語録を、集めてみた。(イギリス「Quote Cache」より)

It's not that I'm so smart, it's just that I stay with problems longer. 
(私は頭がきれるのではない。私はただ、その問題に、より長くかかわっているだけだ。) 

The physicist's greatest tool is his wastebasket. 
(物理学者のもっともすばらしい道具は、ごみ箱である。)

There are only two ways to live your life. One is as though nothing is a miracle. The other is 
as though everything is a miracle. 
(人生を生きるためには、たった二つの方法しかない。一つは、奇跡など、どこにもないと思う
生き方。もう一つは、すべては奇跡だと思う生き方。)

It was, of course, a lie what you read about my religious convictions, a lie which is being 
systematically repeated. I do not believe in a personal God and I have never denied this but 
have expressed it clearly. If something is in me which can be called religious then it is the 
unbounded admiration for the structure of the world so far as our science can reveal it. 
(私の宗教的な確信について、あなたが読んだことは、ウソである。つまり、意図的に繰り返さ
れてきたウソである。私は、個人的な神の存在を信じていないし、このことを否定したことは一
度もない。それについては、ここではっきりしておきたい。もし私の中に、宗教的なものがあると
するなら、それは、科学が明らかにした部分について、世界の構造について、無限の崇拝の念
でしかない。

We should take care not to make the intellect our god. It has, of course, powerful muscles, 
but no personality. 
知性的な人を神にしないよう、注意しなければいけない。もちろん知性的な人には、筋肉はあ
るが、人間性はない。

Fantasie ist wichtiger als Wissen. 

If my theory of relativity is proven succesful, Germany will claim me as German and France 
will declare that I am a citizen of the world. If my theory should prove to be untrue, then 
France will say that I am a German, and Germany will say that I am a Jew. 
もし私の相対性理論が正しいと証明されるなら、ドイツ人とフランス人たちは、私が世界市民で
あると宣言することについて、文句を言うだろう。もし私の理論がまちがっていると証明される
なら、フランスは私をドイツ人と呼び、ドイツは、私をユダヤ人と呼ぶだろう。

Any fool can make things bigger, more complex, and more violent. It takes a touch of genius-
-and a lot of courage--to move in the opposite direction. 
バカが、ものごとを、誇大し、複雑にし、暴力的にする。その反対方向にものごとを進めるため
には、転載的なひらめきと、勇気が必要である。

Great spirits have always encountered violent opposition from mediocre minds. 
偉大な精神というのは、いつも二流の精神からの猛烈な抵抗に出会うもの。

The human mind is not capable of grasping the Universe. We are like a little child entereing a 
huge library. The walls are covered to the ceilings with books in many different tongues. The 
child knows that someone must have written these books. It does not know who or how. It 
does not understand the languages in which they are written. But the child notes a definite 
plan in the arrangement of books--a mysterious order which it does not comprehend, but 
only dimly suspects. 
人間というのは、宇宙の構造を把握することはできない。それは小さな子どもが、巨大な図書
館に入ったようなもの。壁には、床から天井まで、異なった言語で書かれた本でおおわれてい
る。子どもは、だれかがこれらの本を書いたことはわかる。しかしだれが、どうやって書いたか
までは、わからない。それらが書かれた言語も理解できない。しかし子どもは、本の並び方の
中に、一定の秩序があることに気がつく。つまり、神秘的な秩序だ。はっきりとわかるわけでは
ないが、おぼろげながら、疑うことはできる。

The important thing is not to stop questioning. 
重要なことは、問うことをやめないことだ。

Few are those who can see with their own eyes and hear with their own hearts. 
ほとんどの人は、自分の心で見て、聞くことができない。

The pioneers of a warless world are the youth that refuse military service. 
戦争のない世界をつくるパイオニアたちは、軍務を拒否する若者たちだ。

Reality is merely an illusion, albeit a very persistant one 
現実は、ただの幻想でしかない。が、研究は、とても忍耐を必要とするものだ。

It is not enough for a handful of experts to attempt the solution of a problem, to solve it 
and then to apply it. The restriction of knowledge to an elite group destroys the spirit of 
society and leads to its intellectual impoverishment. 
一つの問題を解決し、それを応用するためには、一握りのエキスパートだけでは、じゅうぶんで
はない。一つのエリート集団に、知識を制限することは、社会の精神を破壊し、社会を、知的な
貧困へと導くことになる。

A country cannot simultaneously prepare and prevent war. 
一つの国というのは、戦争を同時に、準備し、避けることはできない。

I am enough of an artist to draw freely upon my imagination. Imagination is more important 
than knowledge. Knowledge is limited. Imagination encircles the world. 
私はイマジネーションによって、自由に絵を描く画家と言ってもよい。イマジネーションは、知識
よりも重要である。知識には、限界がある。イマジネーションは、世界をかけ回る。

True art is characterized by an irresistible urge in the creative artist. 
真の芸術は、想像的な芸術家による、抵抗しがたい欲求によって、特徴づけられるものであ
る。

The most beautiful thing we can experience is the mysterious. It is the source of all true art 
and science. 
私たちが経験できるもっとも美しいものは、神秘である。それはすべての芸術と化学の源泉で
ある。

I do not believe in the immortality of the individual, and I consider ethics to be an 
exclusively human concern without any superhuman authority behind it. 
私は人間の不死を信じない。そして私は、その背後に超人的な権威のない、倫理こそが、人
間唯一の関心ごとであると考える。

Only two things are infinite, the universe and human stupidity, and I'm not sure about the 
former. 
たった二つのものだけが、永遠である。この宇宙と、人間の愚かさである。そして私は、その前
者である宇宙については、あまりよく知らない。

Life is a mystery, not a problem to be solved 
人生(生命)は、神秘である。それは解かれねばならない問題ではない。

Nothing will benefit human health and increase the chances for survival of life on Earth as 
much as the evolution to a vegetarian diet. 
菜食主義ほど、人間の健康に恩恵をもたらし、命の存続をふやすものはない。

Creativity is contagious. Pass it on. 
創造力は、伝染しやすい。ままにさせておけ。

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司


最前線の子育て論byはやし浩司(344)

●惰性

 ほとんどの人は、ひょっとしたら、あなたや私も、毎日を惰性で生きている。今日は、昨日と
同じ。そして明日も、今日も同じ、と。この惰性のこわいところは、いくつか、ある。

○退化

 ほとんどの人は、年齢をとればとるほど、経験が豊かになり、その分、人格も高邁になると考
える。しかし、これは誤解。幻想。

 記憶が薄れるというだけではない。以前はできたことが、できなくなることだって、珍しくない。
英語の単語だって、どんどんと忘れていく。とくに30代や、40代のころ覚えた単語ほど、そう
だ。

 感受性も、弱くなる。思考力も、弱くなる。もちろん、記憶力も、弱くなる。つまりすごし方をま
ちがえると、能力だけではなく、人格そのものも退化する。はっきり言えば、愚かになる。もっと
はっきり言えば、バカになる。

○露呈化

 若いころは、演技力がある。その演技力をつづける気力がある。だから、自分を飾ったり、よ
い人間に見せようとすることができる。自分をごまかすこともできる。

 しかし年齢をとると、その気力が弱くなる。と、同時に、それまで隠してきた、「地」が、表に現
れるようになる。その「地」が、よいものであれば問題はないが、そうでないと、そうでない。見
苦しい部分が、容赦なく、外に出てくる。
 
 実際、自分をごまかして生きるというのは、たいへんなこと。神経をつかう。疲れる。だから、
年齢をとると、それができなくなる。それはどこか、持病に似ている。若いときは、持病があって
も、体力でそれをカバーすることができる。しかしその体力がなくなると、持病が、どんと、表に
出てくる。

○固定化

 人間の感性にせよ、理性にせよ、いつも、刺激を与えながら、みがいていかないと、すぐサビ
つく。融通がきかなくなり、その範囲だけで、ものを考えるようになる。

 これを固定化という。

 この固定化に老化現象が加わると、いわゆるガンコになる。一つのことがらに固執し、相手
の意見に耳を貸さなくなる。自分だけの価値観で、ものを判断するようになる。「私は正しい」と
思うのは、その人の勝手だが、その返す刀で、「あなたはまちがっている」と、相手を切りつけ
る。

 脳ミソの健康も、肉体の健康とよく似ている。毎日、鍛錬(たんれん)してこそ、その健康は、
維持できる。

○狭小化

 年齢をとればとるほど、住む世界が小さくなる。自ら、小さくすることもある。人間関係も、か
ぎられてくる。こうした流れの中で、保守主義、利己主義が生まれる。さらに人によっては、ニヒ
リズムが生まれる。

 「どうせ、命は長くない。あとのことは知らない」という、あのニヒリズムである。が、一度、この
ニヒリズムの世界に入ると、あとは、ころげ落ちるように、悪循環の底なしの、ドロ沼に落ちてし
まう。孤独地獄というドロ沼である。

 あなたのまわりにも、自分のことしかしない、かわいそうな老人がいるのではないか。サンプ
ルには、ことかかない。

 では、どうするか……ということではなく、実は、これは私の問題である。しかも切実な問題で
ある。

 私は、どんどん、そのバカになっている。ボロも出しつつある。しかも、住む世界が、どんどん
と小さくなってきている。毎日が、孤独との戦いであるといってもよい。だからこの話は、ここま
で。

 しかしね、みなさん。私がなぜ、こうまでゆがんだ人間になったかといえば、やはり、あの戦争
が悪いのですよ。私たちは、まさに、あの戦後のドサクサの中で、生まれ、育った。家庭教育
の「カ」の字もなかった。あの時代は、そういう時代でした。親たちも、食べていくだけで、精一
杯。だから私のような人間が生まれてしまった……。この年齢になると、それがよくわかりま
す。

 だから、戦争は、してはいけない。その後遺症は、何世代にもわってつづく。だから、戦争
は、してはいけない。……と思っています。


●心のキズ

 子どもは、キズまるけになりながら、成長する。親としては、つらいところだが、そこは、ぐっと
がまんするしかない。

 わかりやすい例で、説明しよう。

 インターネットという怪物がある。

 このインターネットがもたらした世界は、それまでの人類が、経験しなかった世界である。つ
まりこと、インターネットを前にしたときの心理は、おとなでも、その状態は、幼児のそれと同じ
と考えてよい。

 で、インターネットで、メールを交換するようになると、やがて気になるのは、迷惑メール。どこ
でどう調べたのか、こちらのアドレスに、意味もないメールを、送り届けてくる。

 そのとき、私たちは、言いようのない不快感を覚える。そこでその相手に、文句を言ったり、
配信を止めるように言ったりする。

 すると、中には、反対に、かみついてくる人がいる。あるいはかえって、迷惑メールがふえた
りする。こちらのアドレスが、どこかで売買されるためである。

 こうして私の心にキズがつく。

 もちろん迷惑メールだけではない。ウィルス入りメール、インチキメール、詐欺メールなど。い
ろいろある。

 しかしそれも一巡すると、つまり、なれてくると、今度は、平気で削除することができるようにな
る。削除といっても、当初は、「どうしてこんな作業をしなければならないのか」と思ったりする。
が、やがて、そういう、つまりかすかに残った怒りも消える。

 さらに、それが進むと、「インターネットというのは、そういうもの」という、あきらめというより
は、割り切りができるようになる。

 こうして無数のキズがつくうちに、やがてインターネットの使い方がわかってくる。

 子どもの成長過程を見ていると、これと同じような現象がよく起きるのがわかる。最初は、さ
さいなことで、(あくまでも、おとなの私から見た判断だが……)、子どもは悩んだり、苦しんだり
する。もちろんそのとき、心にキズがつくこともある。

 しかしそういったキズが無数にふえてくると、どれがキズで、どれがキズでないか、わからなく
なる。そしてその結果として、その子どもは、たくましい子どもに、成長していく。

 心のキズとは、そういうもの。親としては、つらいところだが、子どもの心にキズがつくことを恐
れてはいけない。

 しかし、これは子どもだけの問題ではない。

 以前、ある小学校で、こんな事件が起きた。

 小学1年生になったばかりの子どもが、学校の帰り道に、小学2年生の子どもたちに、何か
のことでからかわれた。石も投げられた。

 それを聞いた、その小学1年生の子どもをもつ母親が、学校に抗議に行った。その母親は、
それを「いじめ」と、とらえた。「うちの子が、学校から帰ってくるとき、上級生にいじめられてい
る。何とか、してほしい」と。

 しかしそれに答えて、担任の教師が、「学校としては、帰宅途中のことまでは、管理できませ
ん」と答えた。当然である。

 しかしその母親は、納得しなかった。今度は、校長室まで行き、校長に、直接、抗議した…
…。

 こういう事件は、多い。本当に、多い。親自身に、キズに対する免疫力がない。そのため、さ
さいな問題を、ことさら大げさにとらえては、騒ぐ。

 しかしそんな親でも、そういう形で、無数の経験をするうち、今度は、親として成長する。その
うち、その程度のトラブルなど、何でもないと知る。繰りかえすが、心のキズというのは、そうい
うもの。

 むしろまずいのは、無菌状態のまま、そのキズを経験しないで、体だけが大きくなること。そ
のため、この社会で生きていくための、社会性そのものが、身につかなくなってしまう。そうなれ
ば、その犠牲者は、結局は、その子ども自身ということになる。

 そこで……

 子どもの心にキズがついたときは、親は、まず一歩、引きさがる。そして子どもの横に立ち、
子どもの立場で、そのキズを考える。「学校へ行って、文句を言ってやる」と考えるのではなく、
子どもに向かって、「つらかったのね」「よくがんばったわね」と、やさしく話しかけてやる。

 こういう親の姿勢が、その子どもを、たくましい子どもに育てる。


●足の指で、鉄棒にぶらさがる(?)

 私のワイフの得意技(わざ)は、足技。
 とくに、足の親指と第2指の、握力(?)が強い。その握力について、昔、ワイフがこう言った。

 「私、子どものころ、足の指で、鉄棒にぶらさがったことがある」と。

 しかし、本当に、そんなことができるのか? そこで昨夜、ふとその話を思い出して、ワイフ
に、こう聞いた。「なあ、お前、あの話は、本当か?」と。

 するとワイフは、「もう忘れた……」と。

私「忘れたって、お前が言ったんだよ」
ワ「だから、覚えていない」
私「じゃあ、あの話は、ウソか?」
ワ「そんな話を、したかしら?」と。

 そしてそのあと、こう言った。「あんたに話すと、何でも、マガジンに書かれてしまうから、い
や。本当のことは話さない」と。

 私は、かなり信用をなくしているらしい。

 で、そのワイフ。私のマガジンの熱心な読者(?)。その理由を、先日、たずねると、こう言っ
た。

 「別に読みたくないけど、私のことをあれこれ書いているのが気になるから、読んでいるだけ」
と。ナーンダ。そういうことだったのか! ……とそのときは、少しがっかりした。

 で、今日もまたワイフのことを書いてしまった。ますますこれで、信用をなくすことだろう。


●外発的動機づけ

 無理、強制、条件、比較は、確実に、子どもから、やる気を奪う。一時的には効果があって
も、あくまでも一時的。

 このように、外部から、子どもを脅したり、条件をつけたりして、子どもにやる気を引き出す方
法を、外発的動機づけという。

 子どもに、本当にやる気を出せせるためには、子ども自身の中から、そのやる気を引き出さ
ねばならない。

 このように、子ども自身が、自分でやる気を起こすことを、内発的動機づけという。

 子どもからやる気を引き出すためには、子ども自身を、その気にさせねばならない。イギリス
の格言にも、『馬を水場につれて行くことはできても、水を飲ませることはできない』というのが
ある。最終的に、やる・やらないと決めるのは、子ども自身ということになる。

 ……と、いろいろな説があるが、やる気の問題は、私たち自身の問題でもある。

 子育てをしていても、がんばれるときと、がんばれないときがある。たとえば子どもが、何か
のことで懸命になっている姿を見ると、親の私たちも、がんばろうという気持ちになる。

 しかし何もせず、ぐうたらしている子どもを見ると、やる気も、消える。「どうして、親の私が、
子どものためにがんばらなくては、いけないのか」と。

 こうした心理は、子どもも、同じ。そこで、どうすれば、子どものやる気を引き出すことができ
るかということになる。

  大脳生理学の分野でも、子どものやる気は、大脳辺縁系の中の、帯状回がコントロールし
ているという説もある(伊東正男氏、新井康允氏ほか)。この部分が、大脳からほどよい信号を
受け取ると、やる気を引き起こすという。もう少し具体的には、帯状回が、モルヒネ様の物質を
放出し、それが脳内に、心地よさを引き起こすということか。つまり、大脳からのほどよい信号
こそが、子どものやる気を決めるというわけである。

 この説に従えば、子どもからやる気を引き出すためには、子どもが何かをしたら、何らかの
心地よさを、子ども自身が感じるようにすればよいということになる。

 その一つが、達成感ということになる。達成満足感と言いかえても、よい。「やったア!」「でき
たア!」という喜びが、子どものやる気を引き出す。つまりは、そういう喜びを、いつも子どもが
感じるように指導する。

 方法として、つぎのことに注意したらよい。


●成功率(達成率)は50%

子どもが、2回トライして、1回は、うまくいくようにしむける。毎回、成功していたのでは、子ども
も楽しくない。しかし毎回失敗していたのでは、やる気をなくす。だから、その目安は、50%。
その50%を、うまく用意しながら、子どもを誘導していく。そしていつも、何かのレッスンの終わ
りには、「ほら、ちゃんとできるじゃ、ない」「すばらしい」と言って、ほめて仕あげる。


●無理、強制

無理(能力を超えた負担)や強制(強引な指導)は、一時的な効果はあっても、それ以上の効
果はない。そればかりか、そのあと、その反動として、子どもは、やる気をなくす。ばあいによっ
ては、燃え尽きてしまったり、無気力になったりすることもある。そんなわけで、『伸びたバネ
は、必ず縮む』と覚えておくとよい。無理をしても、全体としてみれば、プラスマイナス・ゼロにな
るということ。


●条件、比較

「100点取ったら、お小遣いをあげる」「1時間勉強したら、お菓子をあげる」というのが条件。
「A君は、もうカタカナが読めるのよ」「お兄ちゃんが、あんたのときは、学校で一番だったのよ」
というのが、比較ということになる。条件や比較は、子どもからやる気を奪うだけではなく、子ど
もの心を卑屈にする。日常化すれば、「私は私」という生き方すらできなくなってしまう。子ども
の問題というよりは、親自身の問題として、考えたらよい。(内発的動機づけ)


●方向性は図書館で

どんな子どもにも、方向性がある。その方向性を知りたかったら、子どもを図書館へ連れてい
き、一日、そこで遊ばせてみるとよい。やがて子どもが好んで読む本が、わかってくる。それが
その子どもの方向性である。たとえばスポーツの本なら、その子どもは、スポーツに強い関心
をもっていることを示す。その方向性がわかったら、その方向性にそって、子どもを指導し、伸
ばす。(役割形成)


●神経症(心身症)に注意

心が変調してくると、子どもの行動や心に、その前兆症状として、変化が見られるようになる。
「何か、おかしい?」と感じたら、神経症もしくは、心身症を疑ってみる。よく知られた例として
は、チック、吃音(どもり)、指しゃぶり、爪かみ、ものいじり、夜尿などがある。日常的に、抑圧
感や欲求不満を覚えると、子どもは、これらの症状を示す。こうした症状が見られたら、(親
は、子どもをなおそうとするが)、まず親自身の育児姿勢と、子育てのあり方を猛省する。


●負担は、少しずつ減らす

子どもが無気力症状を示すと、たいていの親は、あわてる。そしていきなり、負担を、すべて取
り払ってしまう。「おけいこごとは、すべてやめましょう」と。しかしこうした極端な変化は、かえっ
て症状を悪化させてしまう。負担は、少しずつ減らす。数週間から、1、2か月をかけて減らす
のがよい。そしてその間に、子どもの心のケアに務める。そうすることによって、あとあと、子ど
もの立ちなおりが、用意になる。


●荷おろし症候群

何かの目標を達成したとたん、目標を喪失し、無気力状態になることを言う。有名高校や大学
に進学したあとになることが多い。燃え尽き症候群と症状は似ている。一日中、ボーッとしてい
るだけ。感情的な反応も少なくなる。地元のS進学高校のばあい、1年生で、10〜15%の子
どもに、そういう症状が見られる(S高校教師談)とのこと。「友人が少なく、人に言われていや
いや勉強した子どもに多い」(渋谷昌三氏)と。


●回復は1年単位

一度、無気力状態に襲われると、回復には、1年単位の時間がかかる。(1年でも、短いほうだ
が……。)たいていのばあい、少し回復し始めると、その段階で、親は無理をする。その無理
が、かえって症状を悪化させる。だから、1年単位。「先月とくらべて、症状はどうか?」「去年と
くらべて、症状はどうか?」という視点でみる。日々の変化や、週単位の変化に、決して、一喜
一憂しないこと。心の病気というのは、そういうもの。


●前向きの暗示を大切に

子どもには、いつも前向きの暗示を加えていく。「あなたは、明日は、もっとすばらしくなる」「来
年は、もっとすばらしい年になる」と。こうした前向きな暗示が、子どものやる気を引き起こす。
ある家庭には、4人の子どもがいた。しかしどの子も、表情が明るい。その秘訣は、母親にあ
った。母親はいつも、こうような言い方をしていた。「ほら、あんたも、お兄ちゃんの服が着られ
るようになったわね」と。「明日は、もっといいことがある」という思いが、子どもを前にひっぱっ
ていく。


●未来をおどさない

今、赤ちゃんがえりならぬ、幼児がえりを起こす子どもがふえている。おとなになることに、ある
種の恐怖感を覚えているためである。兄や姉のはげしい受験勉強を見て、恐怖感を覚えるこ
ともある。幼児のときにもっていた、本や雑誌、おもちゃを取り出して、大切そうにそれをもって
いるなど。話し方そのものが、幼稚ぽくなることもある。子どもの未来を脅さない。


●子どもを伸ばす、三種の神器

子どもを伸ばす、三種の神器が、夢、目的、希望。しかし今、夢のない子どもがふえた。中学
生だと、ほとんどが、夢をもっていない。また「明日は、きっといいことがある」と思って、一日を
終える子どもは、男子30%、女子35%にすぎない(「日本社会子ども学会」、全国の小学生3
226人を対象に、04年度調査)。子どもの夢を大切に、それを伸ばすのは、親の義務と、心
得る。
(はやし浩司 外発的動機付け 外発的動機づけ 内発的動機付け 内発的動機づけ)


++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

最前線の子育て論byはやし浩司(345)

【近ごろ・あれこれ】

●少人数校の問題

 よく少人数校が問題になる。昨日、講演をしたT小学校のI校長も、それを話題にした。

 そのT小学校のI校長は、こう言った。「親は、よく少人数校を問題にします。中学になって、大
規模な学校へ進学したときに、困ることはないのかとです。しかし、そういう問題は、入学時の
ときだけです。子どもたちは、すぐ新しい環境になれます」と。

 この日本で、小規模校や大規模校が問題になること自体、おかしい。総じてみれば、日本の
学校は、どこも、大規模校。国際的な水準でみれば、そうなる。

 オーストラリアの学校と比較するのもヤボなことだが、オーストラリアには、「無線学校(エアー
スクール)」というのもある。小学3年生ごろまでは、家庭で、無線で勉強する。スクーリングも、
週に1回程度。しかも集まって、10名前後。

 で、そういうところの子どもたちが、どこかおかしいかといえば、そういうことはない。むしろ、
人間関係が濃密で、その分だけ、人とのつながりを大切にする。私自身が、それを友人の家
で、体験している。

 一方、すさまじいのが、東南アジアの国々の学校。昔、香港で、中学生らしき子どもたちがゾ
ロゾロとビルの中へ入っていくのを見たことがある。日本の都会にあるような、ビルである。

 「何ごとか?」と思って見ると、それが中学校だった。もちろん校庭など、ない。「どこにある
か?」と聞くと、「運動は、屋上でする」とのこと。

 そういう学校とくらべると、日本の学校は、恵まれている。

 ……というようなことを総合すると、私の結論は、ただ一つ。小規模校であるからといって、問
題は、何もない。ただし、1クラス10人以下になると、子どもたちのもつエネルギーが、消沈し
てしまうのではないか? 私の経験では、1クラス12〜15人。1人の教師が、ほどよく把握で
きる。この人数だと、問題のある子どもの出現率も、だいたい1クラス1人程度におさえられ
る。


●浮気性

 インターネットをしていると、つぎつぎと、新しいサービスが始まる。電子マガジンサービスや
ネットタウンサービス、それに携帯電話HPサービスなど。これらは、古いほうだが、それだけで
はない。今度は、F社から、「F・ネットワーク」というのが、始まった。

 いわゆる仲間づくりのためのサービスと考えると、わかりやすい。

 おもしろそうだったので、入会してみた。

 で、この世界、日進月歩というか、新しいサービスだけに、使いやすい。画面も見やすい。そ
れでついつい、「Fネットワーク」に、ハマってしまった!

 しかし我が身は、一つ。パソコンに向える時間にも、限りがある。そこで一つのサービスに熱
中し始めると、別のサービスが、おろそかになる。

 こうしておろそかになったものに、チャットがある。今は、ほとんど、していない。つぎに掲示板
もおろそかになってきた。今は、かろうじて、電子マガジンを発行しているが、会員数がふえな
い日がつづいたりすると、とたんに、やる気をなくす。

 仕事としてしていれば、そういうこともないのだろうが、もちろん仕事ではない。サービスという
より、ボランティア。ボランティアというより、脳ミソのジョギング。何とか、1000号までは、つづ
けたい。

 こうして考えてみると、私は、かなりの浮気性である。一つのことに夢中になり、それが一巡
すると、つぎのものへと興味の対象が、移動していく。

 ホームページにしても、今は、新しく、「はやし浩司の書斎」というのを、つくっている。もうす
ぐ、みなさんの目の届くところに置くつもりだが、今は、それが楽しい。

 ただ問題がある。

 それぞれのサービスを通して、それぞれの世界の人たちと知りあい(?)になる。それはそれ
で楽しいことだが、やがてどの人がどの人だったのか、わからなくなってしまう。それにせっかく
一つのサービスで知りあった人でも、そのサービスから遠ざかると、そのまま、疎遠になってし
まう。

 人間関係が希薄になったというか、なりつつある。もともと顔を見たこともない人たちだし、声
も聞いたことがない人たちである。だから忘れるのも早い。とくにこのところ、初老性のボケも
あるのか、よけいに早く忘れる。数週間も間をおいたりすると、「そんな人、いたかな?」(失
礼!)と思ってしまう。

 こうしたインターネットがもつ欠陥を克服するためには、どうしたらよいのか。いろいろ考える
が、妙案が浮かばない。というのも、これは私だけの問題ではないからだ。相手の人にとって
も、立場は同じ。私は忘れたくなくても、相手の人は、私のことなど、すぐ忘れる。

 そこで今は、こう割りきっている。

 相手の人も、私のことなど、すぐ忘れるだろう。だから、はじめから、何も期待しない、と。考
えてみれば、さみしい世界。ホント!

【補記】

 しかし、もう、電子マガジンの時代は、終わったのかもしれない。ある時期、つまりマガジンの
全盛期には、どのマガジンも、爆発的に、読者をふやすことができたという。が、私がマガジン
を発行したのは、その時期が過ぎて、下火になったころ。

 が、このところ、ますます下火になってきたのではないか?

 こうまでいろいろなサービスが出まわってくると、マガジンを出す意味が、どんどんと薄れてく
る。私自身も、ときどき、何かしらムダなことをしている気持ちに襲われる。

大きな流れとしては、発行者と読者との、相互コミュニケーション型のサービスの方に人気が
移りつつあるのではないか? またそういう方向に進んでいるのではないか? あくまでもそう
思うだけだが……。

 「マガジン」という以上、もう少し、雑誌型のマガジンにしてもよいのではないか。読み物あり、
コラムあり、と。今のやり方は、どちらかというと、報告書を、読者のみなさんに、ただ一方的に
送りつけているだけ。そんな感じがする。

 今日もまた、「これでいいのかなあ?」と疑問のまま、マガジンの発行予約を入れる。

 ……そうそう、もう一つ、問題点が浮かんできた。

 以前は、朝起きるとすぐに、パソコンにスイッチを入れ、ほとんどそのまま原稿を書き始める
ことができた。

 しかし今は、あちこちのサイトをチェックしたり、あるいは書いた原稿を、あちこちのサイトに
転送したりする手間に、かなりの時間をとられるようになってしまった。実際には、朝起きてか
ら、原稿を書き始めるまでに、何だかんだと、1時間ほど、時間がとられてしまう。

 これはかなりの時間のロスと考えてよい。

 そんなわけで、やはり、どこか一本に、活動の本拠地を、しぼらねばならない。浮気ばかりし
ていると、それこそ、わけがわからなくなってしまう。

 そういうことで、1000号までは、電子マガジンに、精力を傾けることにした。改めて、今、そ
う、自分に言ってきかせた。


●子どもや孫とのつきあい

 老後になったら、子どもや孫と、どのようにつきあえばよいのか?

 内閣府が、平成12年に調査した、「高齢化問題基礎調査」によれば、子どもや孫とのつきあ
いについて、日本人は、つぎのように考えていることがわかった。

(1)子どもや孫とは、いつもいっしょに、生活ができるほうがよい。

      日本人   …… 43・5%
      アメリカ人 ……  8・7%
      スウェーデン人…… 5・0%

(2)子どもや孫とは、ときどき会って、食事や会話をするのがよい。

日本人   …… 41・8%
      アメリカ人 …… 66・2%
      スウェーデン人……64・6%

 日本人は、欧米人よりも、はるかに「子どもや孫との同居を望んでいる」。それがこの調査結
果からもわかる。一方、欧米人は、老後は老後として、(1)子どもたちの世話にはならず、(2)
かつ自分たちの生活は生活として、楽しみたいと考えている。

 こんなところにも、日本人の依存性の問題が隠されている。長い歴史の中で、そうなったとも
考えられる。

 「老後は、子どもや孫に囲まれて、安楽に暮らしたい」と。

 そうそう、こんな話もある。

 このところ、その女性(48歳)の母親(79歳)の足が、急に弱くなったという。先日も、実家へ
帰って、母親といっしょに、レストランへ行ったのだが、そこでも、その母親は、みなに抱きかか
えられるようにして歩いたという。

 「10メートル足らずの距離を歩くのに、数分もかかったような感じでした」と。

 しかし、である。その娘の女性が、あることで、急用があって、実家に帰ることになった。母親
に連絡してから行こうと思ったが、あいにくと、連絡をとる間もなかった。

 で、電車で、駅をおりて、ビックリ!

 何とその母親が、母親の友人2人と、駅の構内をスタスタと歩いていたというのだ! 「まるで
別人かと思うような歩き方でした」と。

 が、驚いたのは、母親のほうだったかもしれない。娘のその女性がそこにいると知ると、「しま
った!」というような顔をして、突然、また、弱々しい歩き方で歩き始めたという。

 その母親は、娘のその女性の同情をかうために、その女性の前では、わざと、病弱で、あわ
れな母親を演じていたというわけである。

 こういう例は、多い。本当に、多い。依存性の強い人ほど、そうで、同情をかうために、半ば
無意識のうちにも、そうする。

 しかし、みながみなではない。

 反対に、子どもの前では、虚勢を張る親も、いる。「子どもには心配をかけたくない」という思
いから、そうする。

 どこでそう、そうなるのか? どこでどう、そう分かれるのか?

 私などは、いくら疲れていても、ワイフや息子たちの前では、虚勢を張ってみせるほうだか
ら、反対に、同情をかう親の心が、理解できない。気持ちはわかるが、しかしそれでよいとは思
わない。

 ひょっとしたら、この問題も、冒頭にあげた調査結果で、説明できるのではないか。少し脱線
したような感じだが、それほど大筋から離れていないようにも、思う。


●コンフリクト(葛藤)

 二つのことがらから、一つの選択を迫られたようなとき、心の中では、葛藤(コンフリクト)が
起きる。これがストレスの原因(ストレッサー)になる。

 コンフリクトには、(1)接近型、(2)回避型、(3)接近・回避型の3つがあるとされる。

 たとえば、旅行クーポン券が、手に入った。一枚は、3泊4日のグアム旅行。もう一枚は、2泊
3日のカナダ旅行。どちらも行きたい。しかし日が重なってしまった。どうしたらいいか。

 このばあい、グアム旅行も、カナダ旅行も、その人にとっては、正の方向から、ひきつけてい
ることになる。そのため、葛藤(コンフリクト)する。これを(1)の接近型という。

 反対に、借金がたまってしまった。取立て屋に追われている。取立て屋に追われるのもいや
だが、さりとて、自己破産の宣告もしたくない。どうしたらいいか。

 このばあいは、取り立て屋の恐怖も、自己破産も、その人にとっては、負の方向から、ひきつ
ける。そのため、葛藤(コンフリクト)する。これを(2)の逃避型という。

 また、グアム旅行のクーポン券が手に入ったが、このところ、体の調子がよくない。行けば、
さらに体の調子が悪くなるかもしれない。どうしたらいいのか……と悩むのが、(3)の接近・回
避型ということになる。「ステーキは食べたい」「しかし食べると、コレステロール値があがってし
まう」と悩むのも、接近・回避型ということになる。

 正の方からと、負の方からの、両方から、その人を、ひきつける。そのため、葛藤(コンフリク
ト)する。

 ……というような話は、心理学の本にも書いてある。

 では、実際には、どうか?

 たとえば私は、最近、こんな経験をした。

 ある人から、本の代筆を頼まれた。その人は、「私の人生論をまとめたい」と言った。知らな
い人ではなかったので、最初は、安易な気持ちで、それを引き受けた。

 が、実際、書き始めると、たいへんな苦痛に、襲われた。代筆といっても、どうしても、そこに
私の思想が、混入してしまう。文体も、私のものである。私はその人の原稿をまとめながら、何
かしら、娼婦になったような気分になった。

 お金のために体を売る、あの娼婦である。

 そのとき、私は、(3)の接近・逃避型のコンフリクトを経験したことになる。お金はほしい。し
かし魂は、売りたくない、と。が、実際には、コンフリクトと言うような、たやすいものではなかっ
た。心がバラバラになるような恐怖感に近かった。心というより、頭の中が、バラバラになるよう
な感じがした。

 あたかも自分の中に、別々の2人の人間がいて、けんかしあうような状態である。

 それはたいへんなストレスで、結局、その仕事は、途中でやめてしまった。つまりここでいうコ
ンフリクト(葛藤)というのは、そういうものをいう。

 ほかにも、いろいろある。

 たとえば講演などをしていると、私の話など聞かないで、ペチャペチャと、おしゃべりしている
人がいる。

 本人たちは、私がそれに気づかないと思っているかもしれないが、講師からは、それが実に
よくわかる。本当に、よくわかる。

 そういうとき、「そのまま話しつづければいい」という思いと、「気になってしかたない」という思
いが、頭の中で、衝突する。とたん、ものすごく神経をつかうようになる。実際、そういう講演会
が終わると、そうでないときよりも、何倍も強く、どっと疲れが、襲ってくる。

 自分でもそれがよくわかっているから、ますます、気になる。

 そこで、私のばあい、そういうふうにペチャペチャとおしゃべりする人がいたら、その場で、や
さしく、ニンマリと、注意することにしている。「すみませんが、おしゃべりをひかえてくださいね」
と。

 そうすることで、講演会のあとの疲労感を軽減するようにしている。これはあくまでも、余談だ
が……。

【補記】

 ストレスの原因(ストレッサー)を感じたら、あまりがまんしないで、ありのままを、すなおに言
ったらよい。そのほうが、自分のためにもなるし、相手のためにもなる。

 ここに書いたように、最近は、公演中にペチャペチャと話している人を見たら、私は、できる
だけ早く、注意するようにしている。本当は、「さっさと、出て行け!」と叫びたいが、そこまでは
言わない。

 で、おもしろいと思うのは、もともと私の話など、聞いていないから、数度、注意しても、知らぬ
顔をして、ペチャペチャと話しつづけている。そこで私も、その人たちが気がつくまで、数度、あ
るいは何度も、注意する。が、それでも気がつかない。

 すると、まわりの人たちが、そのおしゃべりをしている人のほうを、にらむ。おしゃべりしてい
る人は、どうして自分たちがにらまれているかわからないといった表情を見せる。

 このとき私は、改めて、言う。「すみませんが、少し、静かにしていてくださいね」と。

 しかし、本音を一言。だれかの講演に行って、私語をつづけるようなら、外に出たらよい。迷
惑といえば、迷惑。失礼といえば、失礼。これは講演を聞きに来た人の、最低限、守るべき、マ
ナーのように思う。

 もっとも、私の講演のように、つまらない講演なら、しかたないが……。


【最近の話題から】

●厚労省・社保庁、監修料は約10億円

厚労省・社保庁が、監修料として受け取った、その総額は、過去5年間で、職員のべ1475人
に対し、およそ9億8800万円であることがわかったという(0410月)。監修料は、個人に支払
われたという。

 10億円を、1500人で割ると、一人当たり、約66万円ということになる。

 しかしこんなおかしな話は、ない。

 あなたが今、自費出版の本をどこかの出版社に頼んだとする。そのとき、できあがった原稿
を見て、あなたが出版社から、監修料という名目で、お金を受け取るようなもの。

 しかも66万円、とは!

 仮に原稿のチェックをするにしても、それは仕事の範囲ではないのか? どうもよくわからな
い。

 もちろんその監修料なるものは、もともと、私たちが納める年金の積み立て金。それが回りま
わって、監修料になる。

 まあ、社保庁のみなさん、やりたい放題のことを、していますね。ホント!


●アメリカ大統領選挙

 もうすぐ、アメリカの大統領選挙。ブッシュ氏か、ケリー氏か?

 私の予想では、ブッシュ大統領が再選されると思うが、どたん場で、何か、事件でも起きれ
ば、ケリー氏が、大統領になると思う。ブッシュ氏の立場は、決して、磐石(ばんじゃく)ではな
い。

 仮にブッシュ氏が負けるようなことがあれば、世界のテロリストたちは、そしてもちろんK国の
金XXも、「私たちの勝利だ」と、小躍(おど)りして喜ぶにちがいない。だからといって、戦争を
望むわけではないが、一方で、繁栄する国があれば、それをねたんで戦争をしかける国があ
る。

 日本が、繁栄しているという事実を忘れて、「戦争、反対!」を叫んでも、意味はない。それは
たとえて言うなら、車で山の中を走りながら、「自然保護」や「環境保護」を訴えるようなもの。
「豊かな国と、貧しい国があるのは、当たり前」「何もしなければ、相手も、何もしてこないはず」
と考えるのは、あまりにも、甘い。

 平和というのは、そのために積極的に戦うという意思があって、はじめて守れる。一見、おか
しな論理に聞こえるかもしれないが、平和を守るための戦争というのも、ありえる。「戦争はい
やだ」と、ただ逃げてまわるのは、平和主義者でも何でもない。ただの卑怯(ひきょう)という。

 ただブッシュ大統領は、性急すぎた。あのとき、つまりイラクへ侵攻するとき、一歩手前で、ア
メリカは軍を止めるべきだった。核査察がすんだら、そのまま引きあげるべきだった。事実、私
は、そういう内容のエッセーを当時、書いていた。

 しかしイラク戦争を起こしてしまった。そうなった以上、日本は、できるかぎり、アメリカに協力
するしかない。よく「アメリカはずるい」と言う人がいる。しかし日本は、そのずるいアメリカの上
にのって、戦後の繁栄を築いた。原油が、そのよい例である。日本は、アメリカが築いた石油
戦略の上にうまくのって、今、中東から原油を輸入している。

 そんなわけで、豊かな生活を一方でしながら、反米を唱えるのもどうかと、私は、思う。……と
いう、この私の意見は、少し、右翼的かな?
(041023)

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司


最前線の子育て論byはやし浩司(346)

●息子や娘の結婚

 息子や、娘の結婚について。結婚というより、その結婚相手について。最初、息子や娘に、そ
の相手を紹介されたとき、親は、何というか、絶壁に立たされたかのような、孤立感を覚える。

 これは、私だけの感覚か。

 最初に聞きたいのは、通俗的な言い方だが、どんな家庭環境に生まれ育ったかということ。
……ではないか?

 「まとも」という言い方は、あまり好きではないが、こと、結婚ということになると、保守的にな
る。「まともな家庭環境」という言葉が、自然な形で、口から出てくる。

 もちろん結婚というのは、当人たちの問題だし、その段階で、あれこれ口を出しても、意味が
ない。

 そこで、あえて聞かない。聞いたところで、どうにかなる問題ではないし、かえって取り越し苦
労をすることにもなりかえない。当人たちが、幸福になれば、それでよい。

 で、親は、そういうとき、(1)相手の家族構成、(2)相手の親たちの仕事、(3)生まれ育った
環境が、気になる。どんな教育を受けたかということで、(4)学歴も気になる。が、何よりも気に
なるのは、(5)その相手の性格、である。

 おだやかで、やさしい性格ならよい。情緒や、精神的に安定していれば、なおさら、よい。すな
おな心であれば、さらによい。

 ……と、相手ばかりに求めてはいけない。それはよくわかっているが、どうしても、それを求
めてしまう。

 ただ、これは私の実感だが、女性も、25歳をすぎると、急に、いろいろなクセが身につくもの
か? 18〜25歳までは、画用紙にたとえるなら、白紙。しかし25歳をすぎると、いろいろな模
様が、そこに現れるようになる。

 つまり計算高くなったり、攻略的になったりする。だからというわけではないが、どうせ結婚す
るなら、それまでの時期に、電撃的な衝撃をたがいに受けて、結婚するのがよい。映画『タイタ
ニック』の中の、ジャックとローズのように、である。


●結婚式(PART2)

 数日前、結婚式について、エッセーを書いた。それについて、何人かの人たちから、コメント
が届いている。

 「おかしい」「考えさせられた」と。1人、結婚式場で働いていたことがあるという女性からは、
こんなものも……。

 「結婚式場って、儲かるのですよ。何でも、追加料金で、すみますから」と。

 で、昨日、オーストラリアの友人の長男が、その結婚式をした。日本円で、総額、40万円程
度とのこと。それでも、豪華なほうだという。写真を、HTML版のほうに、添付。

 二男も、数年前、アメリカで結婚式をしたが、総額で、30万円程度。貸衣装などに、10万
円。教会(チャペル)と牧師さんへの費用が、10万円。そのあとの飲み食いパーティに、10万
円程度。計、総額で、30万円弱。

 もう一度、数日前に書いた原稿を、ここに載せておく。

++++++++++++++++++

●結婚式に、350万円プラス150万円!

 知人の息子が結婚式をあげた。市内のホテルであげた。費用は、350万円プラス150万
円!

 これでも安いほうだそうだ。

 知人いわく、「最初、350万円と聞いていたので、その範囲ですむかと思ったていたら、それ
は基本料金。テーブルクロス一つにしても、ピンからキリまであり、値段も、みな、ちがってい
た。追加料金で、150万円も取られた」と。「あんなのサギだ」とも。

 日本のみなさん、こんなバカげた風習は、もうやめよう! みんなで、1、2の3でやめれば、
それですむ。

 あんな結婚式に、どれほどの意味があるというのか。意味だけでは、ない。まったくのムダづ
かい! 新郎新婦のほうは、祝儀でその費用をまかなえると思っているかもしれないが、世間
に甘えるのも、ほどほどにしたらよい。

 大切なのは、2人だ。中身だ。

 ……というのは、少し過激な意見かもしれない。しかしもう少し、おとなになれば、こうした結
婚式が、いかにつまらないものか、わかるはず。聖書すら読んだこともない2人が、にわかクリ
スチャンになりすまし、張りぼての教会で、ニセの祭儀をあげる。もちろん牧師もニセモノ。

 ワイフは、こう言った。「狭くても、みすぼらしくても、自分の家で、質素に、本当に岩ってくれる
人だけが集まって、結婚式をすればいい」と。

 私もそう思う。日本人独特の、「家」意識。それに見栄、メンツ、世間体が融合して、今に見
る、日本歌型結婚式の「形」ができた。もし、それでもハデな結婚式をしたいというのなら、自分
たちで稼いで、自分たちですればよい。

 どこまで親のスネをかじったら、気がすむのだ!

 知人の息子の結婚式の話をしながら、さらにワイフは、こう言った。「今では、祝儀も、3万円
から5万円。夫婦で出席すれば、その倍よ。みんな、そんなお金、出せないわよ」と。

 ……と、書いたが、これはあくまでも、参考意見。かく言いながらも、私は、今まで、数え切れ
ないほどの結婚式に、出席してきた。それに私の息子たちはともかくも、相手の女性の両親
が、「そういう結婚式をしたい」と言えば、それに従わざるをえない。へんにがんばっても、角が
立つ。

 妥協するところは妥協しながら、あまり深く考えないで、ナーナーですますのも、処世術の一
つかもしれない。ハハハ。(ここは、笑ってごまかす。)

++++++++++++++++

【追記】

 結婚式場では、「○○家」「△△家」と、書くならわしになっている。私は、あれを見るたびに、
「結婚式って、何だろう?」と考えてしまう。

 昔の武家なら、それなりの意味もあるのだろう。そこらの町民や農民が、武家のマネをして、
どうなる? どうする? こんな伝統や文化、本当に、それが日本人の伝統や文化なのだろう
か。守らなければならないような、伝統や文化なのだろうか。

 アメリカ人の友人に、こう聞いたことがある。「どうして、アメリカには、日本のような、結婚式
のような結婚式がないのか?」と。アメリカでは、結婚する2人が、自分たちで、ほとんどを準備
する。

 すると、その女性(30歳)は、こう言った。

 「カルフォニア州の大都市なんかへ行くと、そういうビジネスもあるようだけど、アメリカには、
定着しないでしょうね」と。

 そして結婚式と言えば、お決まりの、ヨイショ。ただ騒々しいだけの、ヨイショ。新郎、新婦の
友人たちが集まって、ギャーギャーと、騒ぐだけ。安物のバラエティ番組風。「祝う」という意味
が、ちがうのではないのか?

 いろいろ考えさせられる。

 ちなみに、私たち夫婦は、その結婚式をしていない。貯金が、当時、10万円しかなかった。
それでワイフに、「結婚式をしたいか。それとも、このお金で、香港へ行きたいか」と聞いたら、
「香港へ行きたい」と。それで、おしまい。

 毎月、収入の半分を、実家へ仕送りしている身分だった。どうして、親のスネをかじることな
ど、できただろうか。
 

●もう一人の私

 情意(心)と、表情が遊離してくると、人間性そのものが、バラバラになる。

わかりやすく言うと、本心と外ヅラを使い分け、表ヅラばかりとりつくろっていると、本当の自分
がわからなくなってしまう。つまりこうして、自分の中に、もう一人の、自分でない自分が生まれ
てくる。

 こうした二面性は、その立場にある人に、よく見られる。ある程度は、しかたのないことかもし
れないが、そういう立場の中でも、もっともその危険性の高いのが、実は、教師ということにな
る。

心理学の世界にも、「反動形成」という言葉がある。みなから、「あなたは先生だ」と言われてい
るうちに、「そうであってはいけない、ニセの自分」を、その反動として、作ってしまう。

 たとえば牧師という職業がある。聖職者ということで、「セックス(性)」の話を、ことさら、嫌っ
てみせたりする。本当にそうなのかもしれないが、中には、自分をつくってしまう人がいる。

 まあ、どんな職業にも、仮面というものが、ある。みんな、それぞれ何らかの仮面をかぶりな
がら、仕事をしている。「コノヤロー」「バカヤロー」と思っても、顔では、にこやかに笑いながら、
その人と応対する。

 実は、教育の世界には、それが多い。教育というよりは、教師という職業は、もともとそういう
もの。反対に、もし教師が、親や生徒に本音でぶつかっていたら、それこそ、たいへんなことに
なってしまう。

 たとえば私は、幼児教育にたいへん興味がある。しかし「幼児が好きか?」と聞かれれば、そ
の質問には、答えようがない。医者が、「病人が好きか」と聞かれるようなものではないか。あ
るいは、仕事を離れては、幼児の姿を見たくない。それはたとえて言うなら、外科医が、焼肉を
嫌うのと似ている。(焼肉の好きな外科医もいるが……。)あるいは、ウナギの蒲焼き屋のおや
じが、ウナ丼を食べないのに、似ている?

 しかし一度、幼児に、仕事として接すれば、幼児教育家モードになる。子ども、とくに幼児の世
界は、底なしに深い。奥が、深い。そういうおもしろさに、ハマる。私にとっての幼児教育という
のは、そういうものである。

 ただ、もう一つ、誤解してほしくないのは、同じ教育の中でも、幼児教育は、特殊であるという
こと。いくら人間対人間の仕事といっても、相手は、幼児。いわゆる、ふつうの世界でいう人間
関係というのは、育たない。

 話が少し脱線したが、私が、自分の中に、こうした二面性があるのを知ったのは、30歳くら
いのことではなかったか。

 自分の息子たちに対する態度と、他人の子どもたちに対する態度が、かなりちがっていたか
らだ。ときには、冒頭にも書いたように、自分の人間性が、バラバラになっているように感じた
こともある。「コノヤロー」「バカヤロー」と言いたくても、顔では、ニッコリと笑って、別のことを言
う。毎日が、その連続だった。

 しかし脳ミソというのは、それほど、器用にはできていない。二つの自分が、たがいに頭の中
で衝突するようになると、疲れるなどというものではない。情緒不安、精神不安、おまけに偏頭
痛などなど。まさにいいことなしの状態になる。

 だから、結局は、(ありのままの自分)にもどることになる。

 が、これとて、簡単なことではなかった。それこそ数年単位の努力が、必要だった。私は、ま
さに反動形成でつくられた(自分)を演じていただけだった。高邁で、高徳で、人格者の教師
を、である。

 しかし本当の私は、まあ、何というか、薄汚い、インチキ男……とまでは、いかないが、それ
に近かったのでは……。

 そこで(ありのままの自分)を出すことにしたが、悲しいかな、(ありのままの自分)は、とても
外に出せるようなものではなかった! そこで私は、(ありのままの自分)を出すために、別の
意味で、(自分)づくりをしなければならなかった。

 今も、その過程の途中にあるということになる。

 で、その今も、もう1人の私が、私の中に同居している。いやな「私」だ。できれば早く別れた
いと思っている。ときどき、「出て行け」と叫びたくなる。そんな「私」だ。妙に善人ぶって、自分を
飾っている。

 どこかのインチキ牧師みたいで、ああ、いやだ! ホント!

 ……ということで、本当の自分を知ることを、むずかしい。この文章を読んでいる、みなさん
は、はたして、どうだろうか? ありのままの自分で、生きているだろうか?


●ギルフォードの立体知能モデル

 ギルフォードは、知能因子を、4x5x6=120の立体モデルで、表現した。1967年のことだ
った。

 私が、最初に、その立体モデルの模式図を見たのは、ある出版社でのこと。そこの編集部員
が、「林さん、こんなのがありますよ」と言って見せてくれた。

 それが1978年ごろのころではなかったか。私は、その立体モデルを見たとき、強い衝撃を
受けた。

 そこで私は、その120の知能因子にそった、教材というか、知恵ワークを考えた。それらは
すぐ、学研の『幼児の学習』という雑誌に、採用された。その雑誌は、やがて、『なかよし学習』
という雑誌とともに、毎月47万部も売れた。

 ギルフォードの「立体知能モデル」。

 今では、もう古典的なモデルになっている。というのも、縦軸に、認知能力、記憶、拡散的思
考……、横軸に、図形、記号、言語……、高さに、単位、類、関係……と分けているが、具体
性が、ほとんどなかった。

 今から思うと、「どこか思いつき?」という印象すら、もつ。しかしそれはともかくも、知能因子
を、このように分けた意義は大きい。

 というのも、それまでは、知能因子は、スピアマンの「知能因子、2因子説」や、サーストンの
「多因子説」などがあった程度。知能因子のとらえ方そのものが、まだばくぜんとしていた。

 それを120の知能因子に分けた! それ自体、画期的なことだった!

 で、それから25年以上。今では、この分野の研究が進み、IQとか、さらにはEQという言葉も
生まれ、常識化している。さらには、これらの数値では、測定できない、つまり因子と言えない
因子も考えられるようになった。

 たとえばヒラメキや、直感力、直観性、創造性、思考の柔軟性など。そこで教育の分野だけ
ではなく、大脳生理学の分野でも、因子についての研究が、始まっている。昨今、右脳教育と
いう言葉がもてはやされているが、それもその一つ。

 今の段階では、知能の内容も、複雑で、奥が深いということ、その程度しか、ここに書くことが
できない。あるいはもともと思考の内容を、パターン化しようとするほうが、無理なのかもしれな
い。

 人間の脳の中には、約100億個の神経細胞がある。そしてそれぞれの神経細胞が、10万
個のシナプスをもっている。つまりこれだけで、10の15乗のシナプスの数になる。その数は、
10の9乗〜10乗と言われているDNAの遺伝情報の数を超えている! 思考の可能性を、ワ
クの中で考えることのほうが、おかしい。

 ギルフォードの立体知能モデルを見るたびに、そう思う。
(はやし浩司 ギルフォード 立体知能モデル 神経細胞 シナプス)


●幻惑からの脱出

 テレビ局のレポーターが、一人の少女に話しかけた。

レポーター「学校は、行っているの?」
少女「行ってない」
レ「いつから?」
少「もう、3か月になるかなア」

レ「中学生でしょう?」
少「一応ね」
レ「お父さんや、お母さんは、心配してないの?」
少「心配してないヨ〜」

 東京の、あるたまり場。まわりでは、それらしき仲間が、じっと二人の会話を聞いている。そ
の少女は、埼玉県のA市から来ているという。家出をして、すでに3か月。居場所も転々と、か
えているらしい。

レ「おうちに電話してみようかしら?」
少「ハハハ、無駄よ」
レ「無駄って?」
少「だって、さア〜」と。

 「家族」には、家族というひとつの、まとまりがある。そのまとまりは、ある種の束縛をともな
う。それを「家族自我群」という。しかしその束縛というか、それから生まれる束縛感には、相当
なものがある。

 たとえば親子という関係で考えてみよう。

 いくら親子関係がこじれたとしても、親子は親子……と、だれしも考える。そのだれしも考える
ところが、「家族自我群」というところになる。

 しかしさらにその関係がこじれてくると、親子は、その幻惑に苦しむようになる。こんな例があ
る。

 ある父親には、生活力がなかった。バクチが好きだった。そこでその父親は、生活費が必要
になると、息子の勤める会社まで行って、小遣いをせびった。息子は、東京都内でも、大企業
のエリートサラリーマンだった。父親はそこで、息子が仕事を終えて出てくるのを待っていた。

 息子は、そういう父親に苦しんだが、しかし父親は父親。そのつど、いくらかの生活費を渡し
ていた。

 多分、「お父さん、もう、かんべんしてくれよ」、「いや、今度だけだよ。すまん、すまん」というよ
うな会話をしていたのだろうと思う。もちろん、その反対の例もある。

 ある息子(30歳)は、道楽息子で、放蕩(ほうとう)息子。仕事らしい仕事もせず、遊びまわっ
ていた。いつも女性問題で、両親を困らせていた。

 そういう息子でも、息子は息子。両親は、息子にせびられるまま、小遣いを渡し、新車まで買
い与えていた。

 これらの例からもわかるように、親子であるがゆえに、それが理由で、そのどちらかが苦しむ
ことがある。「縁を切る」という言葉もあるが、その縁というのは、簡単には切れない。もちろん
親子関係も、それなりにうまくいっている間は、問題は、ない。むしろ親子であるため、絆(きず
な)も太くなる。が、そうでないときは、そうでない。ときには、人格否定、自己否定にまで進んで
しまう。

 ある地方では、一度、「親捨て」のレッテルを張られると、親戚づきあいはもちろんのこと、近
所づきあいもしてもらえないという。実際には、郷里にすら帰れなくなるという。

 反対にある男性(現在、50歳くらい)は、いろいろ事情があって、実の母親の葬儀に出ること
ができなかった。以後、その男性は、それを理由にして、ことあるごとに、「自分は人間として、
失格者だ」と、苦しんでいる。

 家族自我群から発生する幻惑というのは、それほどまでに強力なものである。

 が、親子の関係も、絶対的なものではない。切れるときには、切れる。行きつくところまで行く
と、切れる。またそこまで行かないと、親であるにせよ、子どもであるにせよ、この幻惑から、の
がれることはできない。

 冒頭の少女は、何とか、レポーターに説得されて、母親に電話をすることになった。これから
は、私が実際、テレビで聞いた会話である。そうでない親子には信じられないような会話かもし
れないが、実際には、こういう親子もいる。

少女「やあ、私よ…」
母親「何よ、今ごろ、電話なんか、してきて…」
少「だからさあ、テレビ局の人に言われて…」
母「それがどうしたのよ。あんたなんか、帰ってこなくていいからね」

 その少女の話によれば、父親は、ごくふつうのサラリーマン。家庭も、どこにでもあるような、
ごくふつうのサラリーマン家庭だという。

 そこで少女にかわって、レポーターが電話に出た。

レポーター「いろいろあったとは思うのですが、お嬢さんのこと、心配じゃありませんか?」
母親「自分で勝手に、家を出ていったんですから…」
レ「そうは言ってもですねえ、家出して3か月になるというし…。まだ中学生でしょう?」
母「それがどうかしましたか? あなたには、関係のないことでしょう。どうか、私たちのことは、
ほうっておいてください」と。

 こうした幻惑から逃れる方法は、ただひとつ。相手が親であるにせよ、子どもであるにせよ、
「どうでもなれ」と、最後の最後まで、行きつくことである。もちろんそれまでに、無数のという
か、常人には理解できない葛藤というものがある。その葛藤の結果として、行きつくところま
で、行く。またそうしないと、親子の縁は切れない。

 「もう、親なんて、クソ食らえ。のたれ死んでも知るものか」「娘なんて、クソ食らえ。どこかで殺
人事件に巻きこまれても知るものか」と、そこまで行く。行かないと、この幻惑から逃れることは
できない。

 が、問題は、そこまで行かないで、その幻惑の中で、悶々と苦しんでいる人が多いというこ
と。たいへん多い。ある女性は、見るに見かねて、自分の母親のめんどうをみている。母親
は、今年、80歳を超えた。

 その女性が、こう言った。

 「近所の人に、あなたは親孝行な方ですねと言われるくらい、つらいことはない。私は、何も、
親孝行をしたくて、しているのではない。ただ見るにみかねて、そうしているだけ。本当は、あん
な母親は、早く死んでしまえばいいと、いつも思っている。だから親孝行だなんてほめられる
と、かえって、みんなに、請求されているみたいで、不愉快」と。

 あなたは、この女性の気持ちが理解できるだろうか。もしできるなら、親子の問題に、かなり
深い理解力のある人と考えてよい。

 もしあなたが今、相手が親であるにせよ、子どもであるにせよ、ここでいう幻惑に苦しんでい
るなら、方法はただひとつ。徹底的に行きつくところまで行く。そしてそのあとは割り切って、つ
きあう。それしかない。

 この家族自我群による幻惑には、そういう問題が含まれる。

 で、ここまで話したら、ワイフがこう言った。

 「夫婦の間にも、同じような幻惑があるのではないかしら?」と。つまり夫婦でも、同じような幻
惑に苦しむことがあるのではないか、と。

 いくら夫婦げんかをしても、どこかで相手のことを心配する。もし心配しなければ、そそのと
き、夫婦関係は終わる。そのまま離婚ということになる、と。

ワイフ「夫婦のばあいは、最終的には、別れることができるからね。でも、親子ではそれができ
ないでしょう。少なくとも、簡単にはできないわ。だから、よけいに、苦しむのね」と。
私「ぼくも、そう思う。つまりそれくらい、家族自我群による幻惑は、強力なものだよ」と。

 幻惑……今も、多くの人が、家族という(しがらみ)(重圧感)の中で苦しんでいる。しかしそれ
は、どこか東洋的。どこか日本的。

 あなたという親が幻惑に苦しむのは、しかたないとしても、あなたの子どもは、この幻惑から
解放してやらねばならない。具体的には、子どもが、親離れを始める時期には、親自身が、子
どもに親離れができるように、仕向けてあげる。

 こうすることによって、将来、子どもが、その幻惑に苦しむのを防ぐ。まちがっても、ベタベタ
の親子関係で、子どもをしばってはいけない。親孝行を子どもに求めたり、それを強要しては
いけない。いつか子ども自身が自分で考えて、親孝行をするというのであれば、それは子ども
の問題。子どもの勝手。

 世界的にみても、日本人ほど、親子の癒着度が高い民族はそうはいない。それがよい面に
作用することもあるが、そうでないことも多い。それが本来あるべき、(人間)の姿かというと、
そうではないのではないか。議論もあるだろうと思うが、ここで、一度、家族自我群というものが
どういうものか、考えてみることは、決して無駄なことではないように思う。

 先の少女について、ワイフはこう言った。「実の娘でも、そこまで言い切る母親がいるのね。
何があったのかしら?」と。

【付記】

 心理学の世界でも、「幻惑」という言葉を使う。家族という、強力な束縛感から生まれる、重圧
感をいう。

 この重圧感は、ここにも書いたが、それで苦しんでいる人にとっては、相当なものである。

 ある女性(35歳)は、その夜、たまたま事情があって、家に帰っていた。その間に、父親が、
息を引き取ってしまった。「その夜だけ、5歳になる娘のことが心配で、家に帰ったのですが…
…」と。

 そのことを、義理の父親が、はげしく責めた。「父親の死に目にも立ち会えなかったお前は、
人間として、失格者だ」「娘なら、寝ずの看病をするのが、当然だ」と。

 以来、その女性は、ずっと、そのことで悩んでいる。苦しんでいる。そう言われたことで、心に
大きなキズを負った。

しかし、だ。その義理の父親氏は、そういう言い方をしながら、「自分のときは、そういうことを
するな」と言いたかったのだ。家族自我群をうまく利用して、子どもをしばりつける人が、よく用
いる話法である。自分の保身のために、である。だから私は、その女性にこう言った。

 「そんな老人の言うことなど、気にしないこと。私があなたの父親なら、こう言いますよ。『ま
た、あの世で会おうね。ゆっくり、おいで』と」と。

 この自我群は、親・絶対教の基本意識にもなっている。つまり、カルト。それだけに、扱い方
がむずかしい。ひとつまちがえると、こちらのほうが、はじき飛ばされてしまう。だから、適当
に、妥協するところはして、そういう人たちとつきあうしかない。そういう人たちに抵抗しても、意
味はないし、この問題は、もともと、あなたや私の手に負えるような問題ではない。

 ただつぎの世代の人たちは、この家族自我群でしばってはいけない。少なくとも、子どもが、
いつか、自我群で苦しむような下地を、つくってはいけない。

 いつか、あなたの子どもが巣立つとき、あなたは、こう言う。

 「たった一度しかない人生だから、思う存分、この広い世界を、はばたいてみなさい。親孝
行? くだらないことは考えなくていいから、前だけを見て、まっすぐ、進みなさい。家の心配?
 バカなことは考えなくていいから、お前たちは、お前たちの人生を生きていきなさい」と。

 こうして子どもの背中をたたいてあげてこそ、親は、親としての義務を果たしたことになる。

 親としては、どこかさみしいかもしれないが、そのさみしさにじっと耐えるのが、親の愛というも
のではないだろうか。

【付記2】

 家族自我群から生まれる幻惑を、うまく使って、親としての保身をはかる人は多い。このタイ
プの親は、独特の言い方をする。

 わざと息子や娘の聞こえるようなところで、ほかの親孝行の息子や娘を、ほめるのも、それ。
「Aさんとこの息子は、偉いものだ。親に、今度、離れを新築してやったそうな」とか。

 さらにそれがすすむと、親の恩を着せる。「産んでやった」「育ててやった」「大学まで、出して
やった」と。「だから、ちゃんと、恩をかえせ」と。あるいは生活や子育てで苦労している姿を、
「親のうしろ姿」というが、わざと、それを子どもに見せつける親もいる。

 が、それだけではない。最近、聞いた話に、こんなのがあった。

 一人の娘(50歳くらい)に、その母親(75歳くらい)が、こう言ったという。「○夫(その母親の
長男)に、バチが当たらなければいいがね」と。

 その長男は、最近、盆や暮れに、帰ってこなくなった。それをその母親は、「バチが当たらな
ければいい」と。つまりそういういい方をして、息子を、責めた。

息子にバチが当たりそうだったら、だまってそれを回避してやるのが親ではないのか……とい
うようなことを言っても、ヤボなこと。もっとストレートに、息子に向って、「(私という)親の悪口を
言うヤツは、地獄へ落ちるぞ」と、脅した母親もいる。

 中には、さらに、実の娘に、こう言った母親ですら、いた。この話は、ホントだぞ!

 「(私という)親をそまつにしやがって。私が死んだら、墓場で、あんたが、不幸になるのを楽し
みに見ていてやる!」と。

 もちろん大半の親子は、心豊かな親子関係を築いている。ここに書いたような親子は、例外
とまではいかないが、少数派にすぎない。が、そういう親子がいると知るだけでも、他山の石と
なる。あなた自身が、よりよい親子関係を築くことができる。

 それにしても、世の中には、いろいろな親がいる。ホント!

【付記3】

 毎日、たくさんの方から、メールや相談をもらう。そしてその中には、子育てというより、家族
の問題についてのも、多い。

 そういう人たちのメールを読んでいると、「家族って、何だ?」と考えてしまうこともある。「家
族」という関係が、かえってその人を苦しめることだって、ある。

 東京都のM区に住んでいるH氏(50歳くらい)は、こう書いてきた。

 「父親の葬式が終わったときは、心底、ほっとしました。もう葬式は、こりごりです。息子がい
ますが、息子には、そんな思いをさせたくありません」と。

 H氏は、葬式を問題にしていた。しかし本音は、「父親が死んでくれて、ほっとした」ということ
か。何があったのかは、わからない。しかしそういうケースもある。

 私たちは、子であると同時に、親である。その親という立場に、決して甘えてはいけない。親
は親として、自分の生きザマを確立していかねばならない。つまり親であるということは、それく
らい、きびしいことである。それを忘れてはいけない。


【近況・あれこれ】

●除草剤

 今日は、曇天で、少し不安だったが、山荘のまわりに、除草剤をまいた。「不安だった」という
のは、少し、小雨が降っていたこと。雨が降れば、除草剤は、そのままムダになってしまう。

 その除草剤、数年前までは、1本、2000円近くもした。今は、ほぼ同じものが、250円弱
で、買える。が、安いから、それでよいというものでもない。除草剤は、土壌を荒らす。環境を汚
染する。が、ここ数年、その除草剤に頼ることが多くなった。

 雑草を放置しておくわけにはいかない。さりとて、草刈り機を回すだけの時間がない。そこ
で、やはり除草剤ということになる。「いいのかなあ?」と迷いつつ、今日は、3本もまいた。


●昼ごはん

 山荘での食事は、いつも質素。また、そのほうが、おいしい。

 で、今日のメニューは、うどんの煮込みと、山菜ご飯。全部で、つまり2人分で、600円弱で、
あげた。

 もちろん料理は、私がした。山荘では、私が炊事をする。……ことになっている。

あとは音楽を聞いて、ひたすら昼寝。そのせいか、夕方、体重をはかったら、64・5キロ!

またまた1キロも、ふえていた。ダイエットしているときは、リバウンドが、こわい。細胞がすべ
て、乾いた砂漠のようになっている。ほんのわずかな栄養分でも、ドンドンと吸収されてしまう!

 しかたないので、夕ご飯は、焼きソバ、半人前。そうそう、あとは、キーウィを3、4個。明日の
朝は、どうなっていることやら?

 そういえば、Hさんという、お母さんが、数日前、私を見て、こう言った。「先生、おやせになり
ましたわね。若くなった感じですよ」と。

 うれしかった。焼きソバを食べながら、ふと、そんなことを思い出した。しかしこの話は、ワイフ
には、内緒!


●離婚

 ワイフがこう言った。

 「女っていうのはね、離婚するときは、夫に体にちょっと触れられただけでも、気分が悪くなる
ものよ」と。

 そこですかさず私が、ワイフの太ももに触ると、ワイフは、さっと、体をよけた。

私「ははあ、ぼくに触られるのが、いやなんだ?」
ワイフ「ちがうわよ。くすぐったいからよ」
私「ちがう、ちがう、今のはいやがっているみたいだった」
ワイフ「ちがうってば」と。

 私の立場は、きわめてあぶないようだ。明日あたり、離婚を申し出られるかもしれない(10月
24日)。


●新潟の地震

 きのうの夜、新潟県で、大地震が起きた。決して、人ごとではない。「今度は、静岡県だ」と、
このあたりの人は、みな、そう言っている。

 今のところ、不気味な静けさを保ってはいるが……。

 それにしても、台風、洪水、そして地震と、日本は、災難つづき。今度、K国の金XXが、「呪
術のろい軍団」を編成した? K国中から、超能力者を集めて、アメリカや日本に、災害が起き
るように、のろいをかけている?

 ……というのは、冗談だが、今度の台風24号の動きを見ていると、そんな感じすらする。今
年は、もう10個も台風が、日本に上陸している。その上、さらに、24号(10月25日)。

南方の海上、はるか遠くにあったので、「やれやれ」と思っていたら、そこで急カーブ。とんでも
ない急カーブ。どうしても日本へ来なくてはいけないといった、動き方だ。気象庁が発表した、
予想図を見たとき、思わず、「ウッソー」と叫んでしまった。

そんな話を食事のときすると、長男は、ヘラヘラと笑っていた。

 そのK国だが、食糧がいよいよ窮してきたようだ。今のままだと、来年の春には、90年来、
最悪の状態になるという。現在、首都のP市においてですら、白米1キロの値段が、1000ウオ
ン近くまで、値上がりしているという(朝鮮N報)。一般労働者の平均賃金は、2500ウオンとい
うから、1か月の給料で、たった2・5キロしか買えないことになる。

 ところで、ここ10年近く、K国の農産物が不作なのは、地上オゾンの増加によるものだという
説がある。ある大学の教授が、こっそりと、私に、そう話してくれた。「原因は、中国からの工場
ばい煙。そのため、K国の農産物の収穫が、5〜10%前後、減っている。多分、K国は、その
事実に、まだ気がついていないのではないでしょうか」と。

 K国だけではない。「風の流れで、沖縄も影響を受けている」とも。

 今こそ、世界が力をあわせて、地球環境の問題と戦わねばならない。本来なら、6か国協議
など、やっているばあいではない。そんなヒマはない。これでは、目の前に巨大な猛獣がいる
のに、それには背を向けて、ネズミ退治をしているようなもの。

 みんな、仲よくしたいね! ホント! もうやめようよ。こんなバカげた言い争いは! 


●キーウィの収穫

 今年も、庭のキーウィの収穫をした。ダンボール箱で、1・8杯分ほど、収穫できた。もう、25
年になる古い木だが、まだ実をつける。元気な木だと思う。

 そのキーウィだが、ここ10年ほどは、野鳥や、ハクビシン、カラス、それにアライグマのエサ
になっていた。それにサルも! 本当だぞ!

 しかし今年は、ほぼ10年ぶりに、人間様の私たちが、先に、収穫した。おかげでこのところ、
毎日、食卓に、キーウィが並ぶ。


●これからS町で講演。

 これからS町のS小学校で、講演をすることになっている。JR東海でK駅まで。そこから車
で、S町まで。片道、約2時間。

 今日は天気もよさそうだ。美しい景色をたくさんカメラに収めてくるつもり。楽しみだ。

 で、講演に行くときは、電車が一番よい。まず渋滞その他で、遅刻することがない。それに疲
れない。さらに、万が一、電車が遅れたばあいには、そちらに責任を転嫁することができる。

 といっても、私のばあい、それもいやだから、1、2本、前の電車に乗ることにしている。昨年
だが、そのおかげであやうくセーフという、事件があった。愛知県のT市での講演会でのこと。
私の乗ったつぎの電車に、人が飛び込み、その電車が止まってしまった。

 私が会場へ着いたときには、てんやわんやの大騒ぎ。そこへ私が時間どおり、ひょっこり現
われたものだから、みな、びっくり! 「どうかしましたか?」と私のほうが、聞いたほどだった。

 今日も、1、2本、前の電車に乗って、K駅でブラブラするつもり。その写真は、近く、またマガ
ジン(HTML版)のほうで、紹介。乞う、ご期待!

 では、元気で、行ってきます!

 
●自分の子どもの心を読む

 「うちの子のことは、私が一番よく知っている」と言う親ほど、本当のところ、子どもの心がわ
かっていない。

 反対に、「うちの子のことがよくわからない」と言う親ほど、本当のところ、子どもの心が、よく
わかっている。

 心というのは、おとなであれ、子どもであれ、そんなに簡単にわかるものではない。「よく知っ
ている」と言う親ほど、知ろうと、努力しない。だから、ますます子どもの心を見失う。

 反対に、「よくわからない」と言う親ほど、子どもに謙虚になる。子どもの心に耳を傾ける。だ
から子どもの心が、読める。

 まずいのは、親の判断だけで、子どもの心を決めつけてしまうこと。こうした決めつけが習慣
化すると、子どもは自分の意思を自分で表現できなくなってしまう。もちろんその時点で、親子
の間に、深刻なキレツが入ることになる。

 子どもの心を見失う親の特徴としては、つぎのようなものがある。

(1)独断性

 子どもに対してというより、日常生活全般にわたって、独断性が強い。がんこで、人の話を聞
かない。他人に何か言われると、その何倍も、反論したりする。

(2)狭小性

 自分の世界が、小さい。限られた人たちと、限られた範囲でしか、交際しない。当然、人の好
き嫌いがはげしい。

(3)偏見性

 独得の価値観をもっていることが多い。「A高校の出身者には、いい人はいない」とか、など。
ものの考え方が、極端であったり、どこか偏屈であったりする。

(4)無学性

 人間の脳ミソというのは、常に刺激していかないと、刺激を止めたときから、退化し始める。
それは健康に似ている。運動をやめたときから、体の調子は、悪いほうに向かう。

 このタイプの人は、そういう意味での、刺激を嫌う。勉強しない。本も読まない。それ以上に、
考えない。知的な意味で、進歩がない。

(5)過干渉性

 子どもの価値観まで、親が決めてしまう。私が子どもに向かって、「楽しかった?」と聞いて
も、親が、すぐその会話に割りこんでくる。「楽しかったでしょ。だったら、楽しかったと言いなさ
い!」と。

(6)威圧性

 威圧的な育児姿勢は、百害あって一利なしと覚えておくとよい。悪玉親意識の強い人、権威
主義的傾向の強い人、親風を吹かす人、家父長意識の強い人は、その子どもに対する育児
姿勢が、どうしても威圧的になりやすい。 

そしてあとは、お決まりの言葉。「うちの子のことは、私は一番よく知っている」と。そして長い時
間をかけて、親子の間に、大きなミゾをつくる。

 あなたも、もし、「うちの子のことは、私が一番よく知っている」と思っているなら、本当にそう
か、一度だけ、自問してみるとよい。


【おわび】

 このところ、毎日、多くの方からメールをいただきます。加えて、10月。さらに月末。みなさん
のメールに目をとおすだけで、精一杯という日々がつづいています。

 さらにインターネットの限界というか、私のボケの始まりというか、一度に数人の方と、メール
を交換していると、だれがどの人だったか、わからなくなってしまいます。心理学でいう、個人化
というか、逆・個人化ができなくなっています。

 一度、どこかでお会いしたことがあるとか、お声を聞いたことがあるというのであれば、こうい
うこともないのでしょうが、まさに頭の中は、大混乱。さらに、私のばあい、みなさんからいただ
いたメールを保存するにあたって、内容を変えたり、住所、名前を、置きかえたりしています。
これは後日の、万が一のための措置です。

 だからよけいに、だれがどの人だったか、わからなくなってしまいます。

 そんなわけで、返事を書くのも、おっくうになってしまいます。どうか、私の勝手と、限界を、お
許しください。いろいろ不愉快な思いをしている方も多いと思いますが、重ねてお許しくださいま
すよう、お願い申しあげます。


●人格の完成

 人格の完成度は、(1)共鳴性、(2)自己管理能力、(3)社会性の三つをみる(EQ論)。これ
は常識だが、これら3つには、同時進行性がある。

 共鳴性、つまりいかに利己から脱して、利他になるか。自己管理能力、つまりいかに欲望と
戦い、それをコントロールするか。さらに社会性、つまり、いかに他者と、良好な人間関係を築
くか。

 これら3つが、できる人は、自然な形で、それができる。そうでない人は、そうでない。

 自己中心的な人は、それだけ自己管理能力が弱く、他者と、良好な人間関係を、築くことが
できない。あるいは自己管理能力の弱い人は、長い時間をかけて、ものの考え方が自己中心
的になり、そのため、他人から、孤立しやすい。さらに社会性が欠落してくると、自分勝手でわ
がままになる、など。

 これら3つは、相互に、からんでいる。そして全体として、その人の人格の完成度を、決定す
る。

 が、やはり、キーワードは、「自己中心性」である。

 その人の人格の完成度を知りたかったら、その人の自己中心性をみればわかる。もしその
人が、自分のことしかしない。自分だけよければ、それでよいと考えているなら、その人の人格
の完成度は、きわめて低いとみてよい。

 これには、老若男女は関係ない。地位や名誉、職業には、関係ない。まったく、関係ない。

 つぎに自己管理能力。わかりやすく言えば、ここにも書いたように、それには、欲望の管理が
含まれる。性欲、食欲、所有欲など。

 こうした欲望に溺れても、よいことは何もない。もちろん心の病気が原因で、溺れる人もい
る。セックス依存症の人にしても、節食障害の人にしても、それぞれ、やむにやまれぬ精神的
事情が、その背景にあって、そうなる。

 だから肥満の人が、即、自己管理能力のない人ということにはならない。(一般社会では、そ
う見る向きもあるが……。)

 3つ目に、社会性。
 
 人間は、他者とのかかわりをもってはじめて、その人らしさを、つくる。その(その人らしさ)
が、良好であること。それが人格の完成度の、3つ目の要件ということになる。

 いくら高邁でも、他者とのかかわりを否定して生きているようでは、そもそも、人格の完成度
は、問題にならない。

 たとえば小さな部屋にひきこもり、毎日絵ばかり描いている画家がいたとする。すばらしい才
能をもち、すばらしい絵を描いている。が、個展を開いて、それを発表することもない。同業の
人との、交流もない。

で、そういう人を、人格の完成度の高い人かというと、そうではない。EQ論では、そういう人を、
評価しない。(もちろんその人の芸術性の評価は、別問題である。)

 言いかえると、私たちは日々の生活の中で、これら3つを、いかにして鍛錬していくかというこ
とが、重要だということ。

 いかにすれば、自分の中の自己中心性と戦い、欲望をコントロールし、そして他者と、良好な
人間関係を築いていくか。つまりは、そこに、私たちが、日々に務めるべき、努力目標がある。

 がんばりましょう! がんばるしかない!


【今日、あれ・これ】

●すべて、事後報告

 三男がオーストラリアから帰ってきた。そして数日が、たった。そしてこう言った。

 「スカイダイビングもした。ついでにバンジージャンプもしたよ」と。

 すべて事後報告。

 「前もってパパに言えば、どうせ反対されたから……」と。

 私「……!」


●ワイフ

 このところ、妙に、ワイフが、やさしい(?)。何か、あるぞ(?)。

 私が「お前、やさしくなったね」と言うと、「私は、昔から、やさしいわよ」と。

 何か、たくらんでいるにちがいない。何だろう?

 一般的には、(やさしい)というのは、相手に気をつかうことをいう。もともとやさしい人もいる
が、そういう人は別として、やさしくなったということは、気をつかい始めたということ。

 このところ、私のほうが、何かにつけてピリピリしているせいかもしれない。気をつけよう。

(付記)

 そうそう、男も女も、不倫を始めると、その初期段階では、妻や夫に、やさしくなるという。不
倫でなくても、恋心をいだくと、そうなるそうだ。それを悟られないように、自分の心にカバーす
るためである。


●もうすぐ57歳だ!

 私は、もうすぐ57歳だ! 誕生日だ!

 ……と書いても、あまりうれしくない。今まで、無事、生きてこられたことについては、感謝して
いる。だれに感謝しているというわけではないが、感謝している。が、しかし、歳をとるというの
は、いやなことだ。

 いやいや、歳は関係ない。何歳になっても、私は私。しかしどんどんと、ものの考え方が、先
細りになっていくのは、いやだ。と、同時に、今年もまた、悔恨。「何もできなかった」という悔
恨。それがいやだ。

 ワイフはときどき、こう言う。「これから先、何があるかわからないけど、今まで、無事にやって
きたんだから、私たちは、幸福だったのよ」と。

 こういう世界で、「無事」というのは、ほんとうに、ありがたいこと。「ありがたい」というのは、も
ともと「あり・がたし」(=なかなか、ありえない)という意味だそうだ。それが転じて、「Thank y
ou」という意味になったという。

 ありがたい! ……と思いながら、もうすぐ57歳になる。


●衝動的行動

 突発的に、衝動的な行動を繰りかえす子どもは、少なくない。

 10人に、1人はいる。

 突然、だれかの耳のそばで、大声をあげておどかしたり、あるいは突然、カバンを、思いっき
り振り回したりするなど。イス引きなども、それにあたる。

 力加減をしないのが特徴。

 衝動的であるため、そこに、子どもの意思を感じない。だから、叱っても意味がない。考える
とか、考えないとかいうレベルの話ではない。本人は、何も考えないまま、きわめて、突発的
に、かつ衝動的に行動する。そんな感じの行動を、小刻みに繰りかえす。

 私の印象では、その瞬間、子どもの目から生彩が消え、死んだ魚の目のように、動きを止め
る。不気味になる。何も考えていない子どもの目になるように思う。

 このタイプの子どものこわいところは、相手に、ケガをさせたりすること。そのため、相手の子
どもの耳の鼓膜を破るという事件が、起きることもある。

 こうした衝動的な行動を繰りかえす子どもを観察してみると、日常的に、多動性が見られると
いうこと。それに注意力も散漫。どこかADHD児にも似ているが、しかしふだんの生活の中で
は、そこまで症状は顕著ではない。活発で、どこかチャカチャカした子どもといった程度の印象
でしかない。

 原因としては、いろいろ考えられている。最近では、脳の微細障害説、テレビゲーム説なども
ある。

 実は私も、ときどき、このタイプの子どもに、ケガをさせられることがある。警戒していても、ふ
と、油断したようなときに、それをされる。私ならともかくも、ほかの子どもにケガをさせることも
ある。

 あまり表では問題にならないが、しかし、深刻な問題の一つであることにはちがいない。


●報道の自由度、42位

パリ発10月26日の時事通信によれば、日本の報道自由度は、昨年と比べわずかにランクア
ップしたものの、先進7カ国中最低の42位だったという。報道の自由の擁護を目指す国際団
体、「国境なき記者団」(RSF、本部パリ)は、世界167カ国の報道の自由度の順位を発表し
た。

 最上位は、デンマークやアイルランドなど北欧を中心とする欧州8カ国。最下位はランクづけ
発表当初から3年連続で、北朝鮮だったという。 

 日本では、一応、報道の自由が確保されているかのように見えるが、国際的にみれば、どう
も、そうではないということのようだ。

 くだらないゴシップ記事のような報道については、たしかに、自由はある。何を書いてもよいと
いう、つまりは無責任な姿勢はある。しかし報道の自由といっても、あくまでも、そのレベル。

 日本の外で、よく問題にされるのが、皇室報道。さらには官僚批判。私も、いろいろなテーマ
についてものを書くが、こうしたテーマでものを書くときは、いつもどこかで、何かしらの(息苦し
さ)を覚える。

 この(息苦しさ)こそが、日本の報道の自由の限界ということになる。日本は、世界に名だた
る、官僚主義国家。日本の中だけに住んでいる人には、それがわからない?

 あのK国が最下位だったということについては、異論はない。しかしあのK国の人たちは、自
分たちではそうは思っていない。「外の世界のほうが狂っている」と思っている。その国の人が
もっている、国民意識というのは、そういうもの。

 しかしそれにしても、42位とは! この数字には、いろいろ考えさせられる。

 
●ボランティア精神・段階論

 何らかのボランティア活動を始めると、ふつうでは経験しない、心の変化を感ずる。その変化
を段階的に考えてみた。

【第一段階・とまどい】

 たいていは、何らかのきっかけでボランティア活動を始める。だれかの指導によることもあ
る。仕事や趣味の延長で始めることもある。

 「何となくしている」と言った感じで、始まることが多い。同時に、やり始めたころは、他人の目
が気になる。少し油断をすると、「してやっている」「してあげている」という思いにとりつかれる。

【第二段階・快感】

 他人が喜ぶのを想像することは、楽しい。実際、喜ぶかどうかは、別にして、想像するだけ
で、楽しい。

 しかしそういう思いをしたことがない人には、それはわからない。あるいはなかなかこの第二
段階まで、くることができない。

 が、一度、どこかでそれを経験すると、別のボランティア活動をしても、意外と簡単に、この段
階まで、くることができる。思考プロセスが、できあがっているためと考えられる。

【第三段階・葛藤】

 しばらくつづけていると、「何のために?」「どうして?」という疑問がわいてくる。みながみな、
活動を正当に評価してくれるわけではない。

 草を好意で刈っていたら、そこへ見知らぬ他人がやってきて、「もっときれいに刈れ」と言わ
れるようなことは、この世界ではよくある。

その相手も、何らかのボランティア活動をしていたというのなら、まだ納得できるが、そうでない
人のほうが、多い。そういう人たちの、心ない言動で、キズついたりする。

【第四段階・無我】

 意識しないまま、つまりボランティア活動をしているという意識がないまま、自然な形で、そうし
た活動ができるようになる。

 何も考えず、何も求めず、何もキズつかず、無私の状態で、それができるようになる。それ自
体が、生活の一部になる。

 以上、私の憶測も含めて、段階論を書いてみた。私自身、何か大きなボランティア活動をして
いるわけではない。あえて言えば、電話相談、講演会、子育て相談などが、そうした活動の一
部ということになる。

 ただ講演会というと、多額の報酬を想像する人も多いと思うが、それは中央で活躍する有名
人の話。

 いかに少ない額かは、近くのPTAの役員の人たちに聞いてみるとよい。もし金額のことを考
えるなら、講演会の講師を務める人など、いないだろう。私は、講演を、ボランティア活動の一
つと考えながら、している。

 電話相談や子育て相談は、もちろん無料である。

 しかしそうした活動についても、あれこれ文句を言ってくる人がいる。ときどき、やりきれなくな
るときがある。

 理由の一つとして、こうしたボランティア活動そのものが、日本の社会に定着していないこと。
つぎに、それをしている人が、まだまだ少数派であること。ボランティア活動をしている人を、お
人好しのバカと見る風潮さえある。

 こうした日本人の意識を変えないかぎり、日本人全体は、成長しないと、私は思う。

 しかし、ボランティア活動には、その活動を超えた、何かがある。たとえて言うなら、ボランティ
ア活動をしていない人は、小さな画用紙の中で、絵を描いているようなもの。が、ボランティア
活動をしている人は、その画用紙をかぎりなく大きくすることができる。

 このことは、あなたの近所に住む、高齢者たちを見ればわかる。

 自分のことしかしない。自分のことしかできない。自分勝手でわがままな高齢者を見ている
と、その(小ささ)に驚くことがある。

 一方、地元の世話役などになり、無私で活動している高齢者を見ると、反対にその(大きさ)
に驚くことがある。私がここでいう「画用紙」というのは、そういう意味である。


●からむ人、からんでくる人

 どんな世界にも、どんなことでも、ささいなことを理由に、からむ人、からんでくる人がいる。

 先日、ある小学校の教頭が、こんな話をしてくれた。

 その学校で、ある教師が、学年便りを出した。毎月1回発行しているものである。その中で、
その教師が、こう書いた。「子どもを、すこやかに育てましょう」と。

 しかし1人の母親が、それにかみついた! 「すこやかな子どもとは、何だ!」と。

 たまたまその母親の子どもが、学校でいじめ(?)にあい、不登校を繰りかえしていた。その
母親は、自分の子どものことを意識して、その教師が書いたのだと、思いこんでしまったらし
い。

 「うちの子を、すこやかな子どもでないと書いた」と、である。

 もちろん、その母親がそう思ったのは、その母親の被害妄想であった。その教師は、ほとん
ど何も考えないで、つまりその子どものことなど、まったく意識しないで、そう書いた。が、その
母親の怒りは、収まらなかった。

 校長室へやってきて、こう怒鳴ったという。

 「この学校では、うちの子のような子どもを、どう考えているのか」「うちの子を、すこやかでな
いとは、失礼だ」「だいたいすこやかな子どもというのは、どういう子どもを言うのか」と。

 私も、こういう仕事をし、こういう原稿を書いているので、よくからまれる。しかし今は、ある一
定の割合で、そういう母親というか、女性がいるという前提で、つきあっている。いちいち気にし
ていたら、仕事そのものが、できなくなる。

 ただこの話を、その教頭から聞いたとき、こう思った。「その子どもが不登校を繰りかえしてい
るのは、友だちのいじめが原因ではなく、ひょっとしたら、その母親自身が原因ではないか」
「家庭という場が、子どもにとって、心の休まる場所として、機能していないのではないか」と。

 もう少し母親自身に、心の余裕がないと、子どもだって、気が休まらない(?)。それが原因
で、親子関係がぎくしゃくしている(?)。……そんな感じがした。


●母親どうしのトラブル

 この世界では、母親どうしのトラブルは、日常茶飯事。日常茶飯事ということは、日常茶飯
事。言った、言わないが、裁判沙汰になることだって、珍しくない。

 そうでない人には、そうでないが、この世界には、子どもの教育がすべてという、母親がい
る。明けても暮れても、考えることは、子どものことばかりという母親である。すべての神経が、
子どもに集中する。

 だから、母親自身が、とんでもない袋小路に入って、その中で迷走し始める。が、ふつうは、
それだけでは終わらない。そのとばっちりは、その周囲の人たちにおよぶ。

 「うちの子が、学校に行きたがらないのは、あの子どものせいだ」
 「先生の宿題の出し方が悪いせいで、うちの子は、漢字の成績がさがった」
 「あの子にそそのかされたから、うちの子が、万引き事件に巻きこまれた」と。

 さらに悪質になると、ライバル(?)の子どもの、足を引っ張るというようなことまでする。あら
ぬうわさを、ことさらおおげさに騒いだりする。たとえば、さも、同情しているかのようなフリをし
て、こう言う。

 「Aさんはかわいそうですね。お子さんが、今度、万引きをして、つかまったというじゃあ、あり
ませんか。私、Aさんの親友なんです。Aさんのことを思うと、かわいそうでなりません……」と。

 つまりその母親は、こうして、Aさんの息子が起こした万引き事件を、あちこちに言いふら
す! 顔をしかめ、ときに、泣き出しそうな声で、そう言う。このタイプの母親が、よく使う手であ
る。

 そこで大鉄則。母親たちとのつきあいは、如水淡交! 清らかな水のように、淡々とつきあう
のがよい。もちろん大半の母親たちには、問題はない。ないが、しかし、実際には、その見き
わめがむずかしい。どの人がそうで、どの人がそうでないか。それを知ることは、本当にむず
かしい。だから如水淡交!

 できれば母親たちとのつきあいは、自分の子どもとは関係のない世界でする。他の学校の母
親とか、何かのおけいこ塾の母親とか……。正直に告白するが、私は昔から、「女性づくし」の
世界で、仕事をしている。その女性たちを相手にして、仕事をしている。

 その女性の世界の(恐ろしさ)を、私は、いやというほど、経験している。ある時期(20代〜3
0代のころ)は、女性恐怖症、母親恐怖症にもなった。(ホントだぞ!)だから親しくなったからと
いっても、決して、深入りはしてはいけない。

 もちろん、3年とか、5年とか、つきあってみて、それで人間関係が良好なままなら、問題はな
い。その相手を知るためには、最低でも、それくらいの年月は必要である。

 が、それでもトラブルが起きてしまったら……。

 そのときは、ただひたすら、(1)穴にこもって、(2)時の流れに、身を任す。同時に(3)負ける
が勝ちと心得る。

 ほかの世界のことならともかくも、一番、大切なことは、子ども自身が、楽しく、わだかまりな
く、学校へ通うということ。だから親のほうが、1歩、2歩と、引きさがる。どうせくだらない世界
のくだらない事件(失礼!)ではないか。そう考えて、カリカリしないこと。

 もしそんなヒマがあったら、世界(国際情勢)や、宇宙の問題(環境問題)に、関心をもてばよ
い。そういう形で、エネルギーを消耗する。この種のトラブルのこわいところは、そういう相手と
接すると、こちらまで、その世界に、引きずりこまれてしまうということ。そしていつの間にか、同
じレベルにまで、落ちてしまうということ。

 母親が、子育てに介入するのは、子どもが、小学3、4年生ごろまで。それ以後は、今度は、
父親に、子育てを任す。子どもにとって、母親は絶対的な存在かもしれないが、しかしそこに
は、限界がある。母親では、(狩のし方)は、教えられない。

 子どもどうしのトラブルは、その(狩)の世界で起こること。母親としては、つらくて、きびしい時
代に入るが、その(狩)を感じたら、その世界から、いさぎよく引きさがるしか、ない。

【補記】

 このまま行けば、やがて日朝戦争ということにもなり、みなさんの子どもの頭の上に、核兵器
が落ちてくるかもしれない。さらにこのまま行けば、地球の気温は、10度、20度とあがり、人
類というより、すべての生物が滅亡するかもしれない。

 そういうさしせまった問題が、そこまで来ている。どうか、世の母親たちよ、目を開いて、外の
世界を見てほしい! ……と書いても、こうしたトラブルの解決法には、結びつかないが……。


●読んで、びっくり!

 いろいろな日記サービスがある。毎日の日記を、そこへ書きこむと、ホームページとして、紹
介される。

 で、ある日記サイトにヒット……。

 が、驚いたのなんのって、その日記では、自分の子どもの成績のことばかり! 毎日、その
成績のことしか書いてない!

 子どもは、小学6年生。男児。

 が、何日か分、読んでいるうちに、気がついた。わかった。一般の読者は、ごまかせても、私
はごまかせない。

 どこかの、全国規模の、ある大手進学塾の、隠れサイトだった! 

 ところどころに、●●進学塾の名前が出てくる。「今日は、勉太(息子名)を、●●塾へ連れて
いった。特別に、参観させてもらった……」などというふうに書いてある。ふつうなら、こういうと
ころには、塾名など、書かない。

 「1クラス8人だ。それでも先生は、たいへんそう。こういうキメのこまかい指導は、学校では
無理だろうな」とか、書いてある。ナルホド!

 で、ずっと、過去の日記を読んでいくと、ところどころ、●●進学塾のところが、MONTA進学
塾(仮名)と実名になっていたりする。つまりわざと、ミスで、実名を書いてしまったかのように見
せかけている。

 姑息(こそく)!

 こういう手法は、どこかのカルト教団が好んで使う。しかしあの、だれでも知っているMONTA
進学塾まで! ……といっても、確証があるわけではない。本当に、どこかの父親が、日記とし
て書いているのかもしれない。その可能性が、ないとは言えない。

 しかしもしそうなら、毎日、毎日、息子の成績だけを、こうまで書くだろうかということになる。し
かも学校の成績ではない。●●進学塾の模試の成績や、何とか検定試験の成績。さらにその
勉強ぶりなど。そのままは、引用できないので、まねをして紹介すると、こんなぐあいである。


「10月xx日

 今日は、勉太を、●●進学塾へ、連れていった。玄関先に、緊急報告。見ると、英検4級の
合格者の名前が書いてあった。小6で、合格者が、8人もいたのには、驚いた。10人、受験し
て、8人というのは、すごい。

 次回は、勉太も受験することになっている。担任に相談すると、『単語ブックを、80%、こなし
てくれ』とのこと。さっそく、今夜から、特訓することに。勉太も、目標ができて、やる気満々とい
ったところか。


10月xx日

 ●●進学塾のすばらしいところは、教材を、各学年、4種類ずつ用意していること。子どもの
能力にあわせて、そうしているらしい。

 学校で言えば、教科書を、4種類、用意しているようなものだ。キメのこまかい指導に、感謝。
1クラス10人までの少人数だし、こちらも、親として、いろいろ注文をつけることもできる。

 今日は、特別に、授業を参観させてもらった。講師は、全員、国立大学を出て、教員免許を
もっているという。安心した」と。

 なかなか、やるね!

 しかし、これがどこかのカルト教団となると、さらに手がこんでくる。まったくふつうの、タウン
誌を装っていることもある。が、カルトの「カ」の字も感じさせない。

 が、とこどき、「幸福になるためのチャンス。特別講話の会」などという案内が入ったりする。
あるいは「市価の90%引き、バザー開催」とか、など。そういう機会をとおして、信者を獲得し
ようとする。

 本当に、この世界、油断もスキもあったものではない……と思う。


●10時10分

 10時10分。

 これをどう読むか。

 「ジュー時、ジュッ分」?

 それとも

 「ジュー時、ジッ分」?

 正解は、「ジュー時ジッ分」(小2)だそうだ。

 このことについて、私が30歳くらいのとき、話題になったことがある。ある出版社で、教材を
作っているときのこと。その教材用に、ショートエッセーを書くように頼まれた。そのとき、「ジュ
ッ分なのか、ジッ分なのか」、それについて、書いてくれと言われた。そこで私は、私なりに調べ
てみた。

 私は、正しくは、「ジュッ分」だと思った。しかしNHKのアナウンサーたちは、「ジッ分」と言って
いるように聞こえた。(ときどき、「ジュッ分」と言っているように聞こえることもあったが……。)

そこでNHKのアナウンサー室に問いあわせると、わざわざハガキで、返事をくれた。いわく、
「NHKでは、ジッ分と読むように統一しています」と。

 それからほぼ25年。今では、「ジッ分」と読むのが、正解(?)ということになった。国語のテ
ストにも、そういう問題が出たりする。

 しかし私個人としては、「ジュッ分」のほうが、正しいと思うのだが……。いまだに、どういうわ
けか、こだわっている。
(041028)

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司


最前線の子育て論byはやし浩司(348)

【近況・あれこれ】

●チョコレート

 昨日、BW教室で、チョコレートを食べてしまった。先週、子どもたちに、「来週は、アイスクリ
ームを買ってあげるよ」と約束した。しかしこの寒さ。ここ数日、急に気温がさがった。そこでア
イスクリームを、チョコレートにかえた。

 アーモンドを、粉チョコでまぶした、おいしそうなチョコレートだった。が、私は、チョコレートを
食べることができない。食べると、偏頭痛が起きる。が、1個だけだが、食べてしまった。「1個く
らいならいいだろう」と思った。

 が、今朝、起きると、頭の右側から、後頭部にかけて、痛い! 偏頭痛である。「しまった!」
と思ったが、もう、どうしようもない。

 今朝は、起きてから、お茶を飲んだ。ガブガブと飲んだ。幸い、軽い頭痛なので、そのうち消
えるだろうと思う。思いながら、この文を書いた。


●読書

 読書しない人がふえているという。昨日、そんな調査結果が、発表された。詳しい数字は忘
れたが、1か月の間に、1冊も、本を読まない人も、多いという。たしか6〜7割の人が、読んで
いないというような数字だったと思う。(いいかげんな数字で、ごめん。)

 その結果を見ながら、私は、ワイフにこう言った。「しかしね、何も、本だけが読書じゃあ、な
いしねエ……」と。

 つまり、本を読まないからといって、読書をしていないということには、ならない。たとえば今
は、インターネットがある。今、この私の文章を読んでいる人だって、読書をしていることにな
る。

 読書といっても、もう(紙製の)本にこだわる時代ではない。

 私も、この数年、図書館へ行く回数が、めっきりと減った。以前は、毎週のように図書館へ通
ったが、少なくとも、この半年の間は、1、2度しか行っていない。雑誌などは、書店で読んでい
るし、調べものは、すべてインターネットを介して、している。

 そういう時代である。

 が、その読書で、その読書以上に、深刻な問題は、新聞離れ。若い人を中心に、新聞を読ま
ない人がふえてきた。新聞をとっていない世帯もふえてきたと聞いている。もっとも、今の新聞
は、9割がムダ。本当に読む記事など、1割もないのではないか。

 しかしだからといって、新聞が不要と言っているのではない。実は、その9割の部分で、私た
ちは、常識を養う。目をとおすだけでも、じゅうぶん。もし、読みたい記事しか読まず、それ以外
のことに関心をもたなくなってしまったら、その人は、かたよった人間になってしまう(?)。

 「ああ、世の中には、こんな問題もあるのか」と思うだけでも、その常識が、養われる。常識
が、修正される。実は、それが新聞の使命だと思う。

 私は、この2年間、1冊も、本を出版していない。どうせ出しても、売れない。

そのかわり、電子マガジンに、力を入れてきた。ものを書くというエネルギーが、本から、マガジ
ンに移動したことになる。

 そのマガジンも、もうすぐ500号になる。本離れはしかたないと思うが、どうか、私のマガジン
だけは、読んでほしい。これからも、よろしく!


●信じがたい話
 
 友人の兄のA氏(64歳)が、シルバーの仕事をしている。仕事といっても、奉仕活動に近い。
清掃活動や、草刈りなどが、主な仕事である。

 そのA氏は、こまめな人で、ときどき、近所の草刈りなども、している。しかしこのばあいは、
無料。無報酬。A氏は、「仕事がないときは、運動をかねてしています」と言っていた。

 それを知った、近所のXさん(女性、40歳くらい)が、A氏に、草刈りを頼んだ。A氏は、それを
喜んで引き受けた。が、それからがたいへんだった。

 A氏は、「1日、8000円の日当がほしい」と言った。Xさんは、一度は、それに同意した。

 が、その草刈りには、2日を要した。で、A氏は、Xさんに、2日分の、1万6000円を、請求し
た。が、Xさんは、こう言った。

 「仕事といっても、あなたは休んでばかりいた。半日でできるような仕事を、2日もかかってし
た。それにあなたは、あちこちでは、無料で草を刈っているというではないか。うちも無料で、や
ってほしかった。

 それにシルバーに頼めば、5000円程度ですむという。私は、1日分の5000円しか払わな
い」と。

 信じがたい話だが、こういう話は、よくある。ボランティアで何かの仕事をしていたら、「もっと
働け」と言われるような話である。実は、この私にも、よくある。

 もう、5、6年前のことだが、ある夜、突然、1人の女性から、電話がかかってきた。子育て相
談である。で、私は、「子育て相談は、午前中にお願いします」と、それを断った。

 実際、口頭で断ったのは、私ではなく、ワイフだったが、その女性は、「どうしても、林を出
せ!」と電話口の向こうで、息巻いた。

 そこで私が電話に出ると、「子育て相談をするという看板を出している以上、その責任を取っ
てほしい」と。(私は、そうした看板を出した覚えはないのだが……。)つまり、「ちゃんと相談に
のれ!」と。

 もちろん無料である。かつて一度だって、私は、そうした相談で、金銭を受け取ったことは、な
い。そういう私に、そう言って、かみついてくる!

 あとでワイフが、「あなたは、カスミか何かを食べて生きている、神様のように思ってくれてい
るのよ」と、なぐさめてくれたが、あのとき感じた、むなさしは、今でも忘れない。

 もちろん大半の人は、よい人だし、私の活動を理解し、支持してくれた。しかしその一方で、
心ない人が、こうした善意を踏み荒らしてしているのも、事実。今でも、相談のメールに返事を
書かなかったりすると、あれこれイヤミを言ってくる人は、多い。本当に、多い。とても残念なこ
とだが、ボランティア活動をする人は、そういう問題も乗り越えなければならない。

 友人の兄は、こう言っているという。「日本の社会は、老人に冷たいね」と。


●車のホィールが、盗まれる

 昨日、ショッピングセンターの駐車場に車を駐車しておいたら、私の車のホィールが盗まれ
た。あとで見ると、金具で、こじあけたあとが残っていた。

 かわいそうな人だ。

 盗んだときは、「得をした」と思うかもしれない。が、その分だけ、その人は、人生の真理から
遠ざかる。そういう醜い心を消すためには、その数倍も、努力しなければならない。あるいはそ
のまま醜悪な老後を送ることになる。

 人生は、長いようで短い。そんなことで寄り道をしているヒマはない。

 さっそく、T社の販売店に電話する。「明日には、届きます」とのこと。しかし値段は、5000
円! 「少し高いかな?」と思ったが、これも事故のようなもの。しかたない!


●満57歳!

 満57歳になった。

 この1年を振りかえって、今年の8月ごろほど、苦しい時期はなかった。体調を崩した。風邪
もひいた。それにあの暑さ。毎日、その苦しさとの戦いだった。

 8月の終わりごろ、体重計にのってみたら、何と、69キロ! ふだんより、3キロもオーバー。
そこでダイエット開始。とたん、体の調子が、もどった。「ああ、よかった!」と、そのときは、そう
思った。

 で、その57歳になった今、何も、変化なし。心して運動しているおかげか、その8月以前よ
り、体の調子は、よくなった感じがする。朝起きたときの、足の痛みも消えた。頭重感も消え
た。気分は、明るく、爽快。

 人間は、何もなくても、夢と希望と目的。この三つがあれば、生きていかれる。

 とりあえずの夢……オーストラリアで、1、2年、のんびりと好き勝手なことをしてみたい。ビク
トリア州の南端にある、アポロベイという町で、絵を描いたり、エッセーを描いたりしてみたい。

 とりあえずの希望……私のホームページが、静岡県HPコンテストで、人気投票第7位になっ
た。中日新聞社賞もとった。私のしていることが、少しは、役にたっているようだ。うれしかっ
た。

 とりあえずの目標……マガジンを1000号まで出すこと。三男を、無事、大学を卒業させるこ
と。65歳までは健康で生きて、そのあと、老人ホームへ入ること。

 この1年間、思想的にはかなり前に進むことができたと思う。しかしその一方で、どんどんと、
前に考えたことを忘れていく。1年前に書いた原稿を読みなおしたりすると、「去年のほうが、頭
がサエていた」と思うことがある。だからプラスマイナスを計算するなら、ほんのわずかな進歩
しかできなかった。

 しかし健康も思想も、毎日、精進(しょうじん)しなければ、すぐサビつく。「完成」などということ
は、ありえない。がんばるしかない。

 で、今日(10月29日)は、57歳の誕生日記念に、あとで、ハナと中田島砂丘まで、散歩に行
くつもり。記念という記念にはならないかもしれないが、ほかに思いつくことがない。

ワイフは、今日は、テニスクラブの活動で、一日、家にいない。

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

最前線の子育て論byはやし浩司(349)

●子どもの非行

 大分県K市に住んでいる母親から、こんな相談が届いた。

++++++++++++++++++++

 息子(中2)について、相談します。

 小学5、6年ごろから、学校へは行かず、そのまま市内の

 たまり場で、友だちと過ごすことが多くなりました。

 そのつどきびしく説教したりしましたが、効果はありませんでした。

 中学に入ってからは、さらにひどくなり、私や担任の先生に、

 暴言を吐いたり、暴力をふるうようになりました。

 こんなことをつづけていると、私のほうが、参っていまいそうです。

 週末になると、そのままどこかへ行き、寝泊りしています。

 家には、ときどき、悪友を連れてきます。

 何か、よい、アドバイスをください。

 現在、私は、私と息子の二人暮しです。

 大分県K市、TMより(以上、要約)

++++++++++++++++++++

 問題のない子どもはいないし、問題のない子育てはない。その問題も、「何とかなる」「何とか
しよう」と考えているうちに、どんどんと、深みにはまってしまう。別の方向に進んでしまう。そし
て気がついたときには、袋小路。にっちもさっちも、いかなくなってしまう。

 TMさんは、その袋小路に入っている。

 非行、不登校、暴力、家庭内暴力……。加えて親子関係の断絶。TMさんは、メールの中
で、「(小学生のころ)、きびしく叱ったりしたのが、悪かった」と反省している。そして、「こうした
非行は、インフルエンザのようなものだと、(林は)言うが、本当に、そう考えてよいか?」と。

 しかしこういう相談を受けると、私は、もう一つ別の視点から、ものを考えるようになってしまっ
た。年齢のせいかもしれない。

 「TMさん自身は、ともかくも、TMさんの両親は、さぞ、つらい思いをしているだろうな」という
こと。あるいはTMさんと、両親の関係も、すでに冷え切っているのかもしれない。ともかくも、私
も、この年齢になったせいか、今度は、息子夫婦や、その孫のことを心配するようになった。
「何とか、夫婦仲よく暮らしてほしい。孫を、すこやかに育ててほしい」と。

 恐らく今のTMさんには、そこまで気が回らないだろう。というのは、私のばあい、息子や娘、
そしてその孫の相談も、結構、あるからである。決して、少なくない。

 「娘が離婚して、孫と二人で生活している。その孫が、非行に走り、学校にも行っていない。ど
うしたらいいか」と。

 私は、TMさんの立場もさることながら、そうした祖父母の立場で、ものを考えてしまう。つまり
TMさんは、自分と息子の問題として、またその範囲でものを考えているが、それだけでは足り
ないということ。またそうした視点では、この問題は、解決しないということ。

 人間というのは、無数のつながりの中で、生きている。英語の表現を借りるなら、「クモの巣」
の中で、生きている。決して、親子という1本だけの世界ではない。TMさんの息子にしても、息
子と友人、息子と担任という世界がある。

 この時期の子どもは、決して、楽しいから、そうした非行を繰りかえしているのではない。その
子どもは、その子どもなりに、苦しみ、悩んでいる。自尊心もある。プライドもある。できるなら、
もっと正当な方法で、自己主張し、他人に認めてもらいたい。が、それができない。いや、それ
以上に、このタイプの子どもは、うまく人間関係を結ぶことができない。

 だから攻撃的な姿勢になる。暴力的になる。

 TMさんも、すでに気がついていると思うが、現在、母と子だけの世界ということ自体が、子ど
もには、暗い影を落としている。あるいはTMさんの気がつかないところで、つまりそれにまつ
わる騒動が、子どもの心をキズつけたのかもしれない。

 負い目や劣等感を覚えているのかもしれない。つまり子どもは子どもで、クモの巣に体をから
まれ、もがき苦しんでいる。

 が、TMさんは、メールでみるかぎり、自分のことしか考えていない? ……というのは言い過
ぎかもしれないが、メールで知る範囲では、自分のことしか考えていないように思う。子どもの
苦しみや悲しみを、置き去りにしたまま、今に至っている(?)。

 たとえば週末になると、子どもが家をあける。そのことについても、「なぜ、そうするのか?」と
いうことを、考えてみてほしい。もし家庭が家庭としての機能を保っているなら、子どもは子ども
なりの方法で、自分の羽を家庭の中で休める。しかしとても残念なことなのだが、子どもは、そ
の家庭では、羽を休めることができないでいるのではないか。

 これは私の自身の経験でもある。

 私は小学生のころ、毎日、真っ暗になるまで外で遊んだ。学校から帰ってくるときも、まっすぐ
家に帰ったことはなかった。

 そういう自分を、今から思い出してみると、私は、明らかに帰宅拒否児だった。で、その理由
は、言うまでもなく、私の家には、私の居場所がなかった。家の中では、どこにいても、落ちつ
かなかった。

 しかし当時は、みな、戦後の混乱期ということもあって、食べていくだけで精一杯。家庭教育
の「カ」の字もなかった。もちろん、今でいう「暖かい雰囲気」など、どこにもなかった。

 しかし今から思うと、とても残念なのは、そういう私という子どもの心を、だれも理解してくれな
かったということ。帰りが遅くなると、叱られた。叱られるだけならまだしも、「お前を産んでやっ
た」「育ててやった」と、それこそ耳にタコができるほど、恩を着せられた。

 わかりやすく言えば、「あなたはダメな子」という視点で考えるのではなく、「あなたも、つらい
思いをしているのね」という視点でものを考えること。時間はかかるかもしれないが、そういう視
点をもったとき、いつか必ず、TMさんの子どもは、立ちなおる。

 現に今、TMさんと同じような過去をもちながら、そして同じような親子関係をもちながら、す
ばらしい家庭を築いている人は、いくらでもいる。5万もいる。5万どころか、10万も20万もい
る。

 私の知人(57歳)も、同じような問題をかかえ、毎日のように学校に呼び出されたという。し
かし今、その知人は、親子で、美容院を経営し、その地方では、名士にもなっている。子育て
には、失敗はつきものだが、その失敗が転じて、その人の人格の基礎になるということは、こ
の世界では、珍しくない。

 一般論から言えば、今のTMさんには、理解しがたいことかもしれないが、こうしたサブカルチ
ャ(非行などの下位文化)を経験した子どもほど、あとあと、常識豊かな人間になることが知ら
れている。

 だからといって非行を奨励するわけではないが、悪いことばかりではない。そうした視点をも
つことも、重要だということ。


【TMさんへ】

 子どもはいつか親から巣立っていきますが、その巣立ちは、いつも美しいものとはかぎりませ
ん。

 親を罵倒しながら巣立っていく子どももは、いくらでもいます。しかし巣立ちは、巣立ちです。メ
ールによれば、「小遣いを渡さなかったりすると、ボコボコに殴られる」とありました。たいへん
だろうなと思うと同時に、どうしてそこまでこじれてしまったのかとも考えてしまいます。

 家庭内暴力ということであれば、子どもの心の病気も、疑ってみなければなりません。この時
期、子どもは、持続的に、心の緊張感を覚えるようになります。将来に対する不安や心配、そ
れに恐怖心などが原因です。

 そういう緊張状態のところに、何かのきっかけで、不安や心配ごとが入ってくると、それを解
消しようと、一気に、情緒は不安定になります。そのとき、暴力的になる子ども(プラス型)や、
反対に、人との接触をこばんでしまう子ども(マイナス型)などに分かれます。

 ほかにも、同情型や、依存型になる子どももいます。どのタイプにせよ、他人との信頼関係
が、うまく結べない。もっと言えば、心を開いて接することができないということになります。です
から、同じような心の問題をもった仲間と、(わかりあう)ということになります。

 ですから、頭から、「あの子は悪い」とか、「悪友」とか決めつけて考えないで、TMさん自身
が、その悪友と仲間にあるつもりで、いっしょに、心を開きあってみてはどうでしょうか。コツは、
『友を責めるな、行為を責めよ』です。

 相手の子どもの行為について、どこがどう悪いと言うことはあっても、決して、相手の名前を
出さないことです。たとえば「タバコを吸うのは、体によくない」とは言っても、「XX君は、悪い子
ども」とは、言ってはいけません。

 子どもにとって、友は、その子ども自身の人格です。友を否定するということは、その子ども
の人格を否定することになります。もしそのとき、あなたの子どもが、あなたを取ればよし。しか
し友を取れば、その時点で、あなたとあなたの子どもの関係は、断絶します。

 それにあなたは、「今が、最悪」と思っているかもしれませんが、こうした問題には、さらに二
番底、三番底があります。今、対処の仕方をまちがえると、さらに、二番底、三番底へ落ちてい
くということです。

 そこで重要なことは、(1)今の状態を維持しながら、(2)1年単位で様子をみる。そして(3)あ
きらめるべきことは、あきらめ、あとは、許して、忘れる、です。

 いろいろご事情は、あったかと思いますが、しかしこれからは、前だけを見て進みます。あな
たも苦しいかもしれませんが、あなたの子どもは、もっと苦しんでいます。ただ、その苦しみ方
が、どこかゆがんでいるだけです。

 私の印象では、おとなにもなりきれず、まだ子どもとして甘えたい……。そんな葛藤を繰りか
えしているのではないかと思います。

 今日、子どもと顔をあわせたら、こう言ってみてください。

 「あなたも苦しんでいるのね。あなたはよくがんばっているわ」と。

 そういう言葉が、あなたの子どもの岩のようになった心を、溶かします。すぐにというわけに
は、いきませんが、必ず、溶かします。

 では、今日は、これで失礼します。

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

最前線の子育て論byはやし浩司(350)

●マイナス・プラスの人間関係

 まったく初対面の人を、ゼロ・レベルの人間関係とする。そのゼロ・レベルの人間関係を基準
として、良好な状態の人間関係を、プラス・レベルの人間関係という。反対に、険悪になってい
る人間関係を、マイナス・レベルの人間関係という。

 これをわかりやすくしたのが、下の数直線である。

(マイナス・レベル)++++(ゼロ・レベル)++++(プラス・レベル)

 ゼロ・レベルから、プラス・レベルの人間関係をつくるのと、マイナス・レベルから、ゼロ・レベ
ルの人間関係にもどす、エネルギーは、同じということ。わかりやすい例で、説明しよう。

 まったく初対面の人と会って、話をする。親しくなる。よい人間関係をつくる。そのとき使うエネ
ルギーを、(+1)とする。

 すでに険悪な関係になった人と会って、誤解を解いたり、その関係を修復したとする。そのと
き使うエネルギーを、(+1)とする。

 単純に、こうして数字で表現するのは正しくないかもいれない。こうも、単純ではないかもしれ
ない。しかし、人間関係は、こうした力学の上になりたっている。よい人間関係をつくるのも、ま
た人間関係を修復するのも、それなりに努力と時間が必要だということ。

 この考え方によると、マイナス・レベルの人間関係を、プラス・レベルの人間関係にもちあげ
るためには、(+2)のエネルギーが必要ということになる。マイナスからゼロ、そしてさらにゼロ
からプラスへ、と。

 そこで(+2)のエネルギーを使うということになれば、同じエネルギーで、二人の人と、ゼロ・
レベルからプラス・レベルの人間関係をつくることができるということになる。

 ……ということを考えていくと、「どうせエネルギーにかぎりがあるとするなら、有効に使いた
い」と思うようになる。「一度人間関係がこわれた人と、つきあうよりは、今そこにいる人たちと、
よりよい人間関係を築きたい」と思うようになる。エネルギーだけではない。時間にもかぎりが
ある。

 以前、HIVに感染して、エイズを発症。余命いくばくもない若者の手記を読んだことがある。そ
の若者は、こう書いていた。

 「自分の人生を短く感じたとき、もうムダな人とは、ムダなつきあいはしたくないと考えるように
なった」と。

 つまり人生に限界を感じたとき、人は、一つの選択を迫られる。「幅広く、いろいろな人とつき
あおう」という考え方。もう一つは、この若者のように、「ムダなつきあいはやめよう」という考え
方。

 私はまだそういう選択をする場に迫られたことはないので、どちらが正しいのか、よくわから
ない。しかしその若者手記を読んだとき、「そのとおりだろうな」と思った。

 その若者は、病室へいろいろな人が見舞いにくるのさえ、こばむようになった。そしてかぎら
れた、心の許しあえる人だけと、最後のときをすごした。それでよかったのかどうかは、私にも
わからない。しかし、その若者の生きザマは、一つのヒントにはなる。

 そういう意味では、人生は、長いようで、短い。余命がいくらあるかという問題についても、そ
れは主観的なものにすぎない。10年を長いと思う人もいれば、短いと思う人もいる。

 私は、10年でも短いと思う。20年でも短いと思う。だから時間とエネルギーにかぎりがあると
するなら、それを有効に使いたいと思う。とくにこのごろは、できるだけ時間を有効に使いたい
と思う。

 反対に、くだらないことで時間をムダにしたりすると、「しまった!」と思うことがある。意味の
ないテレビやビデオを見たとき。つまらない人と会って話をしたときなど。同時に、無意味に、
時間を過ごした若いころを悔やむことがある。つまらない人のために、つまらない仕事をしたこ
とも、そうだ。

 私がまだ30歳になったころ、恩師の田丸先生は、私にこう言った。

 「林君、ライフワークを始めなさい」と。ライフワークというのは、その人が死んだあとにも残
る、業績をいう。そこで私は、「ぼくは、まだ30歳ですよ」と言うと、先生は、こう言った。

 「今からでも、早過ぎるということは、ありません」と。

 それから20年以上。私は、結局は、ライフワークはできなかったし、これから先も、できそう
もない。そういう立場に立たされてみると、時間がますます貴重になる。

 そう言えば、去年も、同じテーマで悩んだような気がする。しかし今年もまた、あの年賀状の
季節になった。

 この年賀状という習慣をどうしたらよいのか。ここでも二つの考え方が、対立する。

 「ムダなつきあいはやめろ」という考え方。もう一つは、「幅広く、多くの人と、つきあっておけ」
という考え方。年賀状にそうした意味を考える必要はないと説く人もいる。私のワイフなども、そ
の一人。もっと気楽に考えたらよい、と。

 もともと年賀状は、当時の国策として、国民に奨励され、そして私たちの生活の中に浸透して
いった。もちろん当時の郵政省のフトコロを肥やすために、である。私が子どものころには、年
末になると、学校でも、まさに年賀状づくしといった感じだった。

 版画づくり、年賀状づくり、など。年が明けてからは、今度は、年賀状コンクールなど。そうい
う流れの中で、私たちは踊らされているだけなのかもしれない。その証拠に、若い人たちほど、
年賀状にこだわっていない。

 だから「もっと気楽に考えたらよい」と。ワイフなどは、私とちがって、年賀状に、それほど、こ
だわっていない。

 話はそれたが、残りのエネルギーを、どこでどう使っていくか? 人間関係をテーマにして、そ
れを考えてみた。で、私の今の心境としては、もうマイナス・レベルの関係にある人とは、つき
あわないということ。ムダではないが、それだけのエネルギーが残っているなら、そのエネルギ
ーは、もっと別のことに使いたい。

 人生を生きていくには、それなりのニヒリズムと、居なおりも、必要ということか。そういう視点
から、このエッセーを書いてみた。


●QV−10

 先日、書庫の中をさがしていると、古い、デジタルカメラが出てきた。見ると、カシオのQV−1
0だった。

 日本で最初の、市販型デジタルカメラである。当時の値段で、5万円近くしたのではなかった
か。先日、ある雑誌で、このカメラのことが紹介されていた。

 ……ということからもわかるように、私は何でも、新しものが好き。そのときも、まっさきに、デ
ジタルカメラに飛びついた。

 ただ性能は、使い物にならなかった。撮影枚数が少ないし、電池はすぐなくなるし、画像は、
あらい。その上、プリンターの性能にも限界があった。同じように、当時、5万円近くもするE社
のプリンターを買ったが、はっきり言って、どうしようもなかった。

 それでしばらく使ったあと、書庫入りに……。

 が、今、ひょっとしたら、骨董的価値が出てきたのかもしれない。雑誌でも、ときどき取りあげ
られるようになった。そう思いながら、乾いた布で、ていねいにみがいてやった。そのカメラも、
私の一部であることには、ちがいない。


●ものを書く

 ものを書くというのは、まさに真剣勝負。その真剣勝負性がないと、文もうまくならない。また
いくら書いても、意味のある文章は、書けない。

 ……とまあ、偉そうなことは言えない。しかし反対に、思いついたまま、軽い文章を書いたとし
ても、そういう文章には、人に訴える力はない。ただのおしゃべり。ただのひとり言。

 そういう意味では、文章を書くということと、絵を描くということは、基本的な部分で、大きくち
がう。文章を書くのは、論理と分析の世界。脳みその中でも、左脳がつかさどる。一方、絵画
は、感性の世界。つまり右脳がつかさどる。

 ものを書くときは、難解な数学の問題を前にしたときのような、緊張感を覚える。それが、私
がここでいう「真剣勝負性」ということになる。

 が、それでも、こうして書いた文章のうち、99%は、駄作。駄文。「これは!」というような文章
を書くのは、めったにない。読むたびに、そのときの情景がありありと目の前に浮かんでくるよ
うな文章となると。さらに少ない。

 ……とまあ、いっぱしの作家気取りのようなことを書いたが、私にとって、ものを書くというの
は、そういうことをいう。ついでながら、この文章は、駄文中の駄文。読んでくれた人には申し訳
ないが、何の意味もない。


●文化勲章に、異義あり!

 今年も、文化勲章の受章たちが発表された(10月29日)。

 しかし今年も、いかにも、そういう賞をもらいそうな人たちが、受賞者に選ばれた。トップは、
歌舞伎俳優の、N氏。それに書道家のK氏、日本画家のF氏ほか。

 が、なぜ、歌舞伎俳優なのか? 生まれながらにして家元制度に守られ、生涯にわたって、
超特権階級を渡り歩いてきた人である。(個人的に、N氏に反感を覚えているのではない。誤
解のないように!)

 あとは、それぞれの世界で、財をなし、名誉を得て、地位を得た人ばかり……! そういう人
たちに、その上、文化勲章?

 私がその責任者なら、たとえば5人の子どもを苦労して育て、それぞれの子どもを大学まで
出した親とか、その年に、人々に生き勇気と希望を与えた人に、文化勲章を授与する。何かし
ら、「文化」に対する考え方が、少しちがうように思う。一般庶民と官僚と、感覚が、ズレている
ように思う。

 そこで改めて、文化論。

 日本で「文化」というと、「権威」の象徴としての文化でしかない。言うまでもなく、「お上」の威
光によって、一般庶民を従わせるための文化である。たとえば好き嫌いもあるのだろうが、私
は何度も見ても、あの歌舞伎は、どうしても好きになれない。退屈。つまらない。

 ……というのは、少し言い過ぎ。それはわかっている。が、その「ズレ」について、今日、こん
な話が、伝わってきた。発信人は、今度の地震で被害にあった、KJ市役所でボランティア活動
をしている人らしい。地元のネット通信を経由して、私のところにも届いた。

 「転送自由」ということなので、ここに掲載する。

++++++++++++++

どうか助けて下さい。OJ市役所、小学校での救援物資の配給や、炊き出し
などを手伝っていますが、現場はまだまだ混乱しているし、人出も足りていま
せん。

そんな状況下で、マスコミの取材陣が50人近く現場付近を陣取っています。
OJ市役所の正面に車を止めている為に、救援物資を運ぶトラックは遠くに止
めることしか出来ず、ボランティアの人達がせっせと現場に物資を運んでいま
すが、報道陣はそれを手伝う気配すらありません。心労と肉体的疲労が積もっ
ている被災者の方々に当然のようにマイクを向け、24時間カメラをまわし続け
る神経もさっぱり理解できません。

(中略)

今日はこのあと、OJ小学校に小泉首相が来るということで、マスコミ報道
人の数はさらにふくれあがり、「毛布の配給が出来ないので、小泉さんが帰る
まで待つように‥」という連絡が入りました。一体何の為の視察なんでしょう?
午前中にも数名の政治家さんが小学校に来ましたが、トイレはどこかとたずね
られ、仮設トイレを案内したところ、「私に仮設トイレを案内するつもりかね?」
と、言われたそうです。いったいこの国は、どうなっているんでしょう? 

(中略)

 〒94x−xxxx 新潟県OJ市 OJ市役所あて

++++++++++++++++++++++

 とても残念な話だが、日本の文化勲章は、こういう話の延長線上にあるような気がしてならな
い。

 もちろんこうした否定的なものの見方が正しいとは、思わない。KJ市役所で、ボランティア活
動をしている人にしても、神経が高ぶっているのかもしれない。イライラしているのかもしれな
い。

 しかしこの日本に住んでいると、こうした「ズレ」をいたるところで感ずる。文化勲章も、その一
つだと私は思うのだが、みなさんは、どう考えるだろうか。


●QV−10

 先日、書庫の中をさがしていると、古い、デジタルカメラが出てきた。見ると、カシオのQV−1
0だった。

 日本で最初の、市販型デジタルカメラである。当時の値段で、6万円近くしたのではなかった
か。先日、ある雑誌で、このカメラのことが紹介されていた。「世界のデジタルカメラは、QV−1
0から始まった」と。日本で最初の、いや、世界で最初のデジタルカメラである。

 ……ということからもわかるように、私は何でも、新しものが好き。そのときも、まっさきに、デ
ジタルカメラに飛びついた。

 ただ性能は、使いものにならなかった。撮影枚数が少ないし、電池はすぐなくなるし、画像
は、あらい。その上、プリンターの性能にも限界があった。同じように、当時、5万円近くもする
E社のプリンターを買ったが、はっきり言って、どうしようもなかった。

 それでしばらく使ったあと、書庫入りに……。

 が、今、ひょっとしたら、骨董的価値が出てきたのかもしれない。雑誌でも、このように、とき
どき取りあげられるようになった。そう思いながら、乾いた布で、ていねいにみがいてやった。
そのカメラも、私の一部であることには、ちがいない。


●ものを書く

 ものを書くというのは、まさに真剣勝負。その真剣勝負性がないと、文もうまくならない。また
いくら書いても、内容のある文章は、書けない。

 ……とまあ、偉そうなことは言えない。しかし反対に、思いついたまま、軽い文章を書いたとし
ても、そういう文章には、人に訴える力はない。ただのおしゃべり。ただのひとり言。

 そういう意味では、文章を書くということは、絵を描くということとは、基本的な部分で、大きく
ちがう。文章を書くのは、論理と分析の世界。脳みその中でも、左脳がつかさどる。一方、絵画
は、感性の世界。つまり右脳がつかさどる。

 ものを書くときは、難解な数学の問題を前にしたときのような、緊張感を覚える。それが、私
がここでいう「真剣勝負」ということになる。

 が、それでも、こうして書いた文章のうち、99%は、駄作。駄文。「これは!」というような文章
を書けるのは、めったにない。読むたびに、そのときの情景がありありと目の前に浮かんでくる
ような文章となると、さらに少ない。

 ……とまあ、いっぱしの作家気取りのようなことを書いたが、私にとって、ものを書くというの
は、そういうことをいう。ついでながら、この文章は、駄文中の駄文。読んでくれた人には申し訳
ないが、何の意味もない。


●10月30日の山荘

 孫の誠司が、カードを送ってくれた。名前のところに、ぐるぐると鉛筆で丸が描いてあった。何
かの絵のつもりらしい。顔だけ見ていると、少年ぽくなったが、まだ2歳は2歳。……そんなこと
を思いながら、今朝は、目がさめた。

 朝食は、先日、掛川市の駅構内で買った、干物。それを小さな七厘(しちりん)の上で焼いて
食べた。おいしかった。

 で、そのあとお茶を飲んでいると、ワイフが、横から、「ねえ、あんた、ゆうべ、聞いた?」と。

 何でも、窓の外で、動物がいる気配がしたという。このあたりには、キツネ、タヌキ、イノシシ、
ハクビシンなどがいる。もちろん犬もいるし、ネコもいる。サルもいる。何がいても、おかしくな
い。

 「人間じゃなかったか?」と聞くと、「人間だったかも……」と。

 私も最初のころは、そうした物音が気になって、眠れなかった。が、今は、平気。

 ところで、どうして七厘は、「七厘」なのか?

 広辞苑で調べてみると、こうあった。「昔は、価が、七厘の炭で、料理ができたので、七厘とい
った」と。つまり、炭をムダにせず、効率よく、七厘という炭の値段で料理できたから、七厘とい
った、と。ナルホド! (七厘という値段については、実感がないが……。おもしろいネーミング
だと思う。)

 外は、寒々とした曇天。秋の空。小雨も、時折パラついている。今日は、浜北市の奥まで行く
ことになっていたが、とりやめ。私は子どものころから、寒いのが苦手。


●されど、年賀状

 で、今年も、やはり、100枚程度、年賀状を減らすことにした。こうした虚礼に、あまり意味を
感じなくなった。

 ごく親しい人、今年、世話になった人などにだけ、出すことにした。

 私がこうまで、年賀状にこだわるのには、理由がある。そのように、子どものころ、洗脳され
たからである。覚えているのは、中学生くらいのときのこと、「アメリカには年賀状がない」と知
って、驚いたことである。

 それまで、全世界すべての人が、年賀状を交換しているものとばかり、思っていた。

 で、最近、こんなことを知った。

 老人でも、ボケ始めると、異常なまでに、生活が規則正しくなることがあるという。一日単位、
週単位、月単位、それに年単位に、規則正しくなることがあるという。

 毎日、決められた時間に、食事をしないと機嫌が悪くなったりする。毎月、決められた日に、
墓参りをしないと機嫌が悪くなったりする。毎年、正月に、決められたことをしないと、機嫌が悪
くなったりする。

 それだけその人の思考が、硬直化していることを示す。

 で、改めて年賀状。私がなぜ、こうまで年賀状にこだわるかといえば、それだけ思考が硬直
化しているからである。もっと、フレキシブルに考えてよいのではないか。

 子どもでも、思考の柔軟な子どもは、そのつど、臨機応変に、多彩な活動をする。ものの考え
方も、より自由。融通がきく。で、そういう子どもほど、あとあと、よく伸びる。

 反対に頭のカタイ子どもは、伸びない。がんこになったり、かたくなになったりする。とくに幼児
のばあい、ものごとに、固着したり、執着したりするようなら、要注意。たとえば同じ洋服でない
と、外出しないとか。

 そこで、もう一度、自分の脳ミソを観察してみる。

 ……(この間、数分)……

 やはり、かなり硬直化しているようである。小回りがきかなくなった。わがままになった。回顧
性が強くなったし、昔のやり方に、こだわるうようになった。

 そこで、考えた。

 どうせ年賀状を出すなら、(今までも、そうしてきたが)、ありきたりの年賀状ではなく、より個
性的な年賀状にする。決めたぞ! 

 ……ということで、年賀状の話は、ここまで。

 今は、インターネットの時代だし、ね。もうすぐ、その年賀状が、発売になるという。

ワイフが、「何枚、注文する?」と、また聞いた。

私は、「xxx枚でいいよ」と答えた。
 
*************************************

以上で、350号まで、終了!

*************************************

【350号のあいさつ】

 301〜350号で、A4サイズ原稿用紙(40字x36行)で、571ページになった。単行本にす
れば、これだけで約4〜5冊分の分量(四六判、240ページ前後の単行本)になる。

 問題は、これだけ分量が多いと、HPに掲載するのに、苦労するということ。そうでなくても、H
Pには、すでにぼう大な量の原稿を収録してある。パソコンでファイルを読み出し、編集し、そ
れを保存するという工程だけで、5時間以上もかかってしまう!

 そのため、写真を減らしたりしている。が、そうなると、殺風景なHPになってしまう。ほかの人
のHPのように、いろいろ遊びも入れてみたい。動画やビデオ、さらには音声も入れてみたい。

が、私のプロバイダーでは、60MBまでの契約になっている。それを超えると、また別料金。も
っと安いプロバイダーもあるというが、HPやインターネットを乗りかえるのも、楽ではない。

 家族がそれぞれ、私の枝番号を使っている。

 ……ということだが、ともかくも、今日で、350号になった。ここまで書けたのも、読者のみな
さんの励ましがあったから。

 みなさん、本当に、ありがとうございました。

 時は、2004年11月30日 午後8時20分。外は雨。肌寒い風が、吹いている。

 


 はやし浩司 林浩司 林浩 子供の悩み 幼児教育論 育児論 子育て論 はやし浩司 林
浩司 教育評論家 評論家 子供の心理 幼
児の心理 幼児心理 幼児心理学 子供の心理 子育て問題 はやし浩司 子育ての悩み 
子供の心 育児相談 育児問題 はやし浩司
 幼児の心 幼児の心理 育児 はやし浩司 育児疲れ 子育てポイント はやし浩司 静岡
県 浜松市 幼児教育 岐阜県美濃市 金沢
大学法文学部卒 はやし浩司 教育評論家 幼児教育評論家 林浩司 静岡県 浜松市 幼
児教育 岐阜県美濃市生まれ 金沢大学法
文学部卒 教育評論家 はやしひろし 林ひろし 静岡県 浜松市 幼児教育 岐阜県美濃市
生まれ 金沢大学法文学部卒 教育評論家
 はやし浩司・林浩二(司) 林浩司 静岡県 浜松市 幼児教育 岐阜県美濃市生まれ 金沢
大学法文学部卒 教育評論家 Hiroshi 
Hayashi / 1970 IH student/International House / Melbourne Univ. writer/essayist/law 
student/Japan/born in 1947/武義高校 林
こうじ はやしこうじ 静岡県 浜松市 幼児教育 岐阜県美濃市生まれ 金沢大学法文学部
卒 教育評論家 ハローワールド(雑誌)・よ
くできました(教材) スモッカの知恵の木 ジャックと英語の木 (CAI) 教材研究  はやし浩
司 教材作成 教材制作 総合目録 はやし
浩司の子育て診断 これでわかる子育てアドバイス 現場からの子育てQ&A 実践から生まれ
たの育児診断 子育てエッセイ 育児診断
 ママ診断 はやし浩司の総合情報 はやし浩司 知能テスト 生活力テスト 子どもの能力テ
スト 子どもの巣立ち はやし浩司 子育て
診断 子育て情報 育児相談 子育て実践論 最前線の子育て論 子育て格言 はやし浩司
 子どもの問題 子供の問題 育児相談 子
どもの心 子供の心 子どもの心理 子供の心 はやし浩司 不登校 登校拒否 学校恐怖症
 はやし浩司 子育て実例集 子育て定期
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司 子どもの生活指導 子供の生活 子ども
の心を育てる 子供の心を考える 発語障害 浜松中日文化センター BW教室 はやし浩司
の才能教室 幼児教室 幼児知能教室 浜
松市 BWこどもクラブ はやし浩司 子育て診断 育児アドバイス 子育てアドバイス 子育て
情報 育児情報 育児調査 はやし浩司 子
育ての悩み 育児問題 育児相談 はやし浩司 子育て調査 子育て疲労 育児疲れ 子ども
の世界 中日新聞 Hiroshi Hayashi 
Hamamatsu Shizuoka/Shizuoka pref. Japan 次ページの目次から選んでください はやし浩
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の経歴 はやし浩司 経歴 人物 子どもの叱り方 ポケモンカルト ポケモン・カルト 子ども
の知能 世にも不思議な留学記 武義高・武
義高校同窓会 古城会 ドラえもん野比家の子育て論 クレヨンしんちゃん野原家の子育て論
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はやし浩司 子どもの指導法 子どもの学習指導 家族主義 子どものチェックシート はやし
浩司 はやしひろし 林ひろし 林浩司 静
岡県浜松市 岐阜県美濃市 美濃 経済委員会給費留学生 金沢大学法文学部法学科 三
井物産社員 ニット部輸出課 大阪支店 教
育評論家 幼児教育家 はやし浩司 子育てアドバイザー・育児相談 混迷の時代の子育て
論 Melbourne Australia International House
/international house/Hiroshi Hayashi/1970/ はやし浩司 ママ診断 過保護 過干渉・溺愛 
過関心 教育論 子どもの巣立ち論 メル
マガ Eマガ はやし浩司 子育て最前線のあなたへ・子育てはじめの一歩 子育て はじめの
一歩・最前線の子育て論 子育て最前線の
育児論 はやし浩司 入野町 林浩司 林 浩司 東洋医学基礎 目で見る漢方・幼児教育評
論家 子育てアドバイザー 子どもの世界 
子供の世界 育児如同播種・育児相談 子育てアドバイス 教育相談 はやし浩司・はやしひ
ろし 林ひろし 林浩司 林こうじ 浜松市入
野町 テレビ寺子屋 最前線の子育て論 子育てストレス 最前線の子育て はやし浩司 著
述 執筆 評論 ファミリス ママ診断 メルボ
ルン大学 はやし浩司 日豪経済委員会 日韓交換学生 三井物産元社員 子どもの世界 
子供の世界 子育ての悩み 育児一般 子
供の心 子どもの心 子育て実戦 実践 静岡県在住 はやし浩司 浜松 静岡県浜松市 子
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供の心 はやし浩司 心理 心理学 幼児教育 BW教室 はやし浩司 子どもの問題 子供
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司 静岡県 浜松市 幼児教育 岐阜県美濃市生まれ 金沢大学法文学部卒 教育評論家 はやしひろし 林ひろし 静岡県 浜松市 幼
児教育 岐阜県美濃市生まれ 金沢大学法文学部卒 教育評論家 はやし浩司・林浩二(司) 林浩司 静岡県 浜松市 幼児教育 岐
阜県美濃市生まれ 金沢大学法文学部卒 教育評論家 Hiroshi Hayashi / 1970 IH student/International House / Melbourne Univ.
writer/essayist/law student/Japan/born in 1947/武義高校 林こうじ はやしこうじ 静岡県 浜松市 幼児教育 岐阜県美濃市生まれ
 金沢大学法文学部卒 教育評論家 ハローワールド(雑誌)・よくできました(教材) スモッカの知恵の木 ジャックと英語の木 (CAI) 
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