最前線の子育て論byはやし浩司(1〜100)


(001〜100)
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最前線の子育て論byはやし浩司(001)

●だらしない子ども

ある母親からの相談。「うちの子ども(中二男子)は、何をしてもだらしなくて、困っ
ています。風呂へ入っても、タオルや石鹸は、そのまま。脱いだ服もそのまま。学校帰
りに飲んだ缶ジュースの空き缶は、玄関の下駄箱の上に。トイレも、汚しっぱなし。食
事をしても、片づけすらしません」と。

 こういうケースでは、まず三つのことを考える。@行為障害。A過干渉。それにB親自
身の子どもへの愛情。

 何ごとにもだらしなくなるというのは、行為障害の一つとみてよい。このタイプの子ど
もは、万事に、例外なく、だらしなくなる。そのためほかにも、たとえば回避性障害(人
との接触を避ける)、摂食障害(過食、拒食など)、無駄な買い物グセなどの症状が、見ら
れることが多い。

つぎに親の異常な過干渉や、過関心が、乳幼児期から慢性的につづくと、子どもは、内
面化(精神の発達)が遅れ、自分で考えて、自主的に行動できなることがある。このタイ
プの子どもは、いわゆる(とんでもない行為や行動)をすることが多い。カーテンやのれ
んに、ライターで火をつけて遊んでいた子ども(中一男子)などがいた。

 三つ目に疑ってみるべきは、親自身の問題。子どもへの愛情が不足し、何らかの大きな
わだかまりがあると、親は、子どものすべての行動が気になるようになる。本来なら、大
きな問題ではないことまで、ことさら大げさに悩んでしまうなど。「だらしない」という基
準をどこに置くかで、子どもの見方も、大きく変わってくる。

 こういうときは、まず、近所や知りあいの親に、「あなたのうちでは、どうですか?」と
聞いてみるとよい。たいていどこの家の子どもも、だらしないもの。とくに中学生ともな
ると、学校や友人との間で、神経をすり減らすことも多い。そのため、家の中では、かえ
ってぞんざいな態度をとることが多い。つまり子どもは、無意識のうちにも、外の世界で
神経を使った分だけ、家の中で、だらしなくなる。心のバランスをとる。

 最後に、人というのは、(もちろん親も)、他人の行動には気がついても、自分の行動に
は気がつかないもの。人が、(もちろんこどもが)、だらしないと感じたら、「では、自分は
どうなのか?」と考えてみるとよい。結構、自分自身も、だらしないもの。

 私も自分が結構、だらしないので、あまり他人のことはとやかく言わない。言われるの
も好きではない。

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以前書いた原稿を、ここに掲載します。
(中日新聞投稿済み)
+++++++++++++++++

●帰宅拒否をする子ども

 不登校ばかりが問題になり、また目立つが、ほぼそれと同じ割合で、帰宅拒否の子ども
がふえている。S君(年中児)の母親がこんな相談をしてきた。

「幼稚園で帰る時刻になると、うちの子は、どこかへ行ってしまうのです。それで先生
から電話がかかってきて、これからは迎えにきてほしいと。どうしたらいいでしょうか」
と。

 そこで先生に会って話を聞くと、「バスで帰ることになっているが、その時刻になると、
園舎の裏や炊事室の中など、そのつど、どこかへ隠れてしまうのです。そこで皆でさがす
のですが、おかげでバスの発車時刻が、毎日のように遅れてしまうのです」と。

私はその話を聞いて、「帰宅拒否」と判断した。原因はいろいろあるが、わかりやすく言
えば、家庭が、家庭としての機能を果たしていない……。まずそれを疑ってみる。

 子どもには三つの世界がある。「家庭」と「園や学校」。それに「友人との交遊世界」。幼
児のばあいは、この三つ目の世界はまだ小さいが、「園や学校」の比重が大きくなるにつれ
て、当然、家庭の役割も変わってくる。また変わらねばならない。

子どもは外の世界で疲れた心や、キズついた心を、家庭の中でいやすようになる。つま
り家庭が、「やすらぎの場」でなければならない。が、母親にはそれがわからない。S君の
母親も、いつもこう言っていた。「子どもが外の世界で恥をかかないように、私は家庭での
しつけを大切にしています」と。

 アメリカの諺に、『ビロードのクッションより、カボチャの頭』(アメリカの劇作家のソ
ロー)というのがある。つまり人というのは、ビロードのクッションの上にいるよりも、
カボチャの頭の上に座ったほうが、気が休まるということを言ったものだが、本来、家庭
というのは、そのカボチャの頭のようでなくてはいけない。あなたがピリピリしていて、
どうして子どもは気を休めることができるだろうか。そこでこんな簡単なテスト法がある。

 あなたの子どもが、園や学校から帰ってきたら、どこでどう気を休めるかを観察してみ
てほしい。

もしあなたのいる前で、気を休めるようであれば、あなたと子どもは、きわめてよい人
間関係にある。しかし好んで、あなたのいないところで気を休めたり、あなたの姿を見る
と、どこかへ逃げていくようであれば、あなたと子どもは、かなり危険な状態にあると判
断してよい。もう少しひどくなると、ここでいう帰宅拒否、さらには家出、ということに
なるかもしれない。

 少し話が脱線したが、小学生にも、また中高校生にも、帰宅拒否はある。帰宅時間が不
自然に遅い。毎日のように寄り道や回り道をしてくる。あるいは外出や外泊が多いという
ことであれば、この帰宅拒否を疑ってみる。

家が狭くていつも外に遊びに行くというケースもあるが、子どもは無意識のうちにも、
いやなことを避けるための行動をする。帰宅拒否もその一つだが、「家がいやだ」「おもし
ろくない」という思いが、回りまわって、帰宅拒否につながる。

裏を返して言うと、毎日、園や学校から、子どもが明るい声で、「ただいま!」と帰って
くるだけでも、あなたの家庭はすばらしい家庭ということになる。
(040121)(はやし浩司 だらしない だらしない子ども)

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

最前線の子育て論byはやし浩司(002)

●文字という「個性」

 インターネットの時代になって、今まで経験しなかった現象が、私の心の中で起きつつ
ある。文体の好き嫌いは、前からあったが、その文体そのものが、個性をもち始めたとい
うこと。文章として書いてあることではない。中身ではない。文体、である。

当然のことながら、相手が男性か、女性かによっても違うが、極端な言い方をすれば、
文体にも、顔に似た個性があるということ。

 文体を見て、相手を、好感をもつこともあれば、反対に、そうでないこともある。

 そこで実験をしてみる。同じことを、いろいろな言い方で書いてみる。みなさんは、そ
れぞれの文章を読んで、どのような印象をもつだろうか。その印象を、さぐってみてほし
い。

【文体A】

 今日は曇り。低い雲が、窓から見える。その向こうに、ぼんやりとした太陽の光。風は
なく、音もない。遠くで、新築の家の工事。ときおり、コンコンと、コンクリートをたた
くような音が聞こえてくる。ああ、たった今、バイクに乗った人が、家の前を通りすぎた。

【文体B】

 今日は、曇りなんだ。知らなかったよ。窓をあけてみて、わかったよ。で、太陽もどこ
か元気なさそう。静かだしさ。あの家、まだ工事してるの? コンコンと、音が聞こえて
いるよ。ブルルンって、今、バイクが通ったところ。

【文体C】

 今日は、曇り空です。窓のカーテンをあけて、はじめて気がつきました。太陽は、低い
雲に隠れて、鈍い光を放っています。静かな昼下がり。今も、あの家の工事はつづいてい
るのでしょうか。忘れたころ、湿った空気を通して、コンコンと音が聞こえてきます。あ
あ、今、バイクの音が聞こえたところです。

【文体C】

 今日は曇りで、カーテンをあけるまで、それに気づかなかったが、見ると、太陽がそこ
にあって、雲の向こうにぼんやりとした輪を作っていた。音はないし、どうも風ないよう
で、庭に木々の葉っぱも動きを止めているといった感じ。近くの家の工事がつづいていて、
ときどきコンコンという音が聞こえてくるものの、どこか音も湿って、重たそう。

 (文体A)が、私が、そのままの自然体で書いた文体。当然のことながら、自分の書い
た文章が、一番、読みやすい。が、だからといって、同じような文体で文章を書く人が、
好きというわけではない。

 ただこういうことは言える。

 インターネットでは、文章は、できるだけ短くするほうがよい。たとえば「私は今日は、
ワイフは、テニスクラブへ行っているので、手伝う仕事もなく、こうして書斎で、原稿を
書いています」ではなく、つぎのように書く。

 「ワイフは、今日は、テニスに。私は手伝う家事もないので、書斎でひとり。こうして
原稿を書く」と。 

 どういうわけか、インターネットだと、ダラダラとした長い文章は、読みにくい。印刷
された本では、そういうことは、感じないのだが……。

 また、一つの文章と、つぎの文章の間には、できるだけ空白(空行)をつくったほうが
よい。文章がぎっしりと詰まっていると、それだけで拒絶反応を起こしてしまう人もいる。

 ……というようなことで、文体にも、相性があることが最近、わかってきた。そしてそ
の微妙な違いから、私のばあい、その人の個性を感ずるようになってきた。文章の中では
なく、文体に、だ。こうした経験は、インターネットをするようになって、はじめてした。

 そう言えば、コオロギのメスは、オスのコオロギのヒゲの長さに、恋をするそうだ。何
かの本で読んだ話なので、本当かウソか知らないが、ありえない話ではない。つまり、そ
れとよく似ている?

 同じように、インターネット時代になって、文体によって、その人の好みが決まるよう
になるかもしれない。「あなたの文体が好きです。『〜〜よ』という言い方が、セクシーで
す。恋をしました」とか、何とか。

まあ、そこまで進む前に、やがて、動画や音声つきのメールが当たり前になるだろうか
ら、こうした現象は、一過性のものかもしれない。

 しかし今の段階では、ありえる?

 今朝も、パソコンを開くと、四〜五通のメールが入っていた。どの人も会ったこともな
いし、顔を知らない人ばかりだが、文章を読んでいるうちに、その向こうに個性を感じて
しまった。そして「この人はすてきな人だな」とか、「ネチネチしていて、いやだな」とか。

 多分、みなさんも、そうではないか。勝手にこう決めてかかってはいけないが、しかし
それほど、ここに書いたことは、まちがってはいないと思う。

 さて、みなさんは、私の文体に、どのような印象をもっているだろうか? ジジ臭いの
は、許してほしい。書けと言われれば、つぎのような文体でも書けなくはないが、どうも
私の肌には、合わない。

++++++++++

 今日は、一日座ってたって、感じ。。。

 というわけで、ずぅ〜っと、運動不足だし、そろそろって、考えてるわっけ。
 散歩に行こうか、近くのドラグストアに行こうか、あるいはこのあたりを一周しようか
って考えてるわけだけどぉ。。。

 やっぱ、お金、使わないほうがよいかなぁって、私的には、そんな感じ。。。どうもムダ
買いばかりしているしぃ〜???

+++++++++

 今じゃ、直木賞もこういう感じで書かないと受賞できない、らしい……。
(040121)

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

最前線の子育て論byはやし浩司(003)

【近況アラカルト】

● 白髪

「このところ急に、白髪がふえたわね」と、ワイフが言った。教室でも、生徒のだれか
が、そう言った。 

 ワイフは、風呂へ入るたびに、髪の毛を染めている。しかし私は、まったく気にしない。
「まあ、長くもったほうだ」と、自分では、そう思っている。五六歳だ。この年齢で、毛
根が、まだしっかりと頭皮にくっついているだけでも、恩の字。感謝しなければならない。
はげることを思えば、白髪など、何でもない。


● 床板

このところ、台所の床が、歩くたびに、ギシギシと音をたてるようになった。

家というのは、冬場になると、乾燥するためか、あちこちが、おかしくなる。日本間に
つづく引き戸も、柱から、一センチ前後、浮くようになってしまった。そのすき間から、
冷たい風が入ってくる。かえって換気になるのでは……と、思いつつ、あきらめる。

 要するに大切なことは、万事、あきらめながら生きるということ。それができる人を、
賢人という。それができなくて、あくせくする人を、愚人という。


● 甘党

私は、甘い食べ物が好き。ぜんざいや、おしる粉を、よく食べる。が、皮肉なことに、
甘い食べ物を、たくさん食べると、頭が重くなる。

 とくにチョコレートがダメ。少し食べると、その数時間後くらいから、偏頭痛が始まる。
だから、チョコレートは、めったに食べない。

 ほかに……。「ぼくは、何を食べられないかね?」と聞くと、ワイフは、「鳥肉でしょ!」
と。

 若いころは、鳥肉をほとんど食べなかった。生きている鳥が好きだったから。食べても
どうということはないが、「おいしい」と思ったことはない。

 嫌いな食べ物は少ない。ワイフが、横で、「あなたの嫌いなのは、グラタンね」と言った。
そう言えば、グラタンはどうしても、好きになれない。どうしてか?

 そうそうコーヒーは、一滴も飲めない。一杯も飲むと、そのあとゲーゲーと、吐いてし
まう。胃が、拒絶反応を起こす。どうしてか?


● 偏頭痛

その偏頭痛で思い出したが、私は偏頭痛もち。若いころは、原因がわからず、苦しんだ。
病院でみてもらったが、専門のドクターでも、わからなかった。しかしそのうち、偏頭痛
のメカニズムが解明され、治療法も、そして個人的な対処法も、わかるようになってきた。

 三〇歳代のはじめころは、年に数回、はげしい発作が起きた。ふとんの中で、四転八転
した。ふつうの頭痛薬は、胃が受けつけない。のんだとたん、ゲーゲーとあげてしまう。
ひどいときは、「頭を切り落としてくれ」と、叫んだこともある。

 しかも偏頭痛のタチの悪いのは、たとえば休日になったりして、気がゆるんだとたんに、
出ること。「さあ、これからみんなで、旅行だ」と思ったその日の朝に、偏頭痛が起きたり
する。

 やがて、偏頭痛と仲よく暮らすようになった。どんなとき、どのような状態になると、
偏頭痛が始まるかも、わかるようになった。また、その前兆もわかるようになった。その
前兆の前兆もわかるようになってきた。大切なことは、その前兆とわかった段階で、うま
く回避すること。

 前兆の中で、一番重要なのは、頭重感。何となく頭が重くなり、こめかみあたりが、ズ
シンとしてくる。気分も、どこか重くなる。

 たいていそういうときは、何か、心をふさいでいるものが、ある。しかしこの段階で、
それを取りのぞこうとしても、簡単ではない。ペタリと心に張りついたような状態になる。
いわゆる心も、うつ状態になる。

 私のばあい、こういう状態になったら、水分をたくさんとって、何らかの方法で、汗を
かく。水分をたくさんとるのが、ミソ。

偏頭痛というのは、血管がゆるんで、周囲の神経を圧迫して起こるという。水分を多量
にとると、一時的には血管を拡張する。しかしそのあと尿量がふえると、一挙に、血管が
収縮する……?

 これは私が勝手に考えた、治療のメカニズム。実際、水分を多量にとると、そのあと楽
になる。もっとも、私のばあい、血圧が低いので、そのせいもあるのかもしれない。

 で、その前兆の状態が、数日とか、もっと長くつづくときがある。簡単には、とれない。
そういうときは、奥の手を使う。

 エンジン付の草刈り機で、バリバリと、草を刈る。半時間もしていると、全身、ビッシ
ョリと汗をかく。あるいは、熱い風呂に、さっと入る。と、同時に、頭重感は消える。(た
だし、そのタイミングがむずかしい。ある一定の症状を超えた段階で、それをすると、か
えってひどくなるときがある。)

 で、それでも、症状が進んだら……。

 病院で処方された薬をのむ。どういう薬かは知らないが、これがよくきく。のんだあと、
しばらくすると、髪の毛がかゆくなる。そのかゆさが消えるころ、偏頭痛も、急速に消え
る。

 が、大きな問題がある。この薬をのむと、胃がやられる。のんだあと、半日は、胃の中
が、ムカムカとする。だからこの薬をのむときは、消化のよい食べ物を食べながら、のむ。
そして同時に、病院で処方してくれた胃薬も、のむ。

 この薬ができてから、偏頭痛になる回数が、ぐんと減った。「いざとなったら、あの薬を
のめばいい」という思いが、かなり気分を楽にした。しかし、それで偏頭痛がなくなった
わけではない。今でも、年に数回、その薬の世話になっている。

 職業がら、今は、そういう季節。気が滅入ることはあっても、明るい話題は、少ない。
楽しいことも、あまりない。それに忙しい。今は、その前兆の、そのまた前兆というか、
どこか気分がはっきりしない。それに今日は、午後から、講演も入っている。

 こういうときは、菜食主義にする。これは私の特効薬だが、アロエ+ヨーグルトのジュ
ースを飲む。もう一つは、トウガラシ漬けにしたニンニクを、少し焼いて食べる。肉類や、
チョコレート類は、厳禁。ストレス、心配ごとも、厳禁。

 要するに、ムダな神経は、使わないこと。わずらわしい話には、首をつっこまないこと。
無責任と言われようが、いいかげんと非難されようが、気にしないこと。偏頭痛になるよ
うな人は、もともと責任感が強く、まじめな人が多い。(ホント!)だから、よけいに、ズ
ボラになることを考えたらよい。クヨクヨするのが、何よりも、悪い。


● N03

先日、パソコンショップで、「N03」というソフトを買ってきた。ホームページ制作用
のソフトである。

 買う必要はなかったのだが、何となく、買ってしまった。私のばあい、分厚いマニュア
ルを手にししただけで、ゾクゾクとした快感を覚える。(これはビョーキか?)

 しかしそのソフトを、インストールするかどうかで、今、迷っている。たいていこの種
のソフトをインストールすると、旧版でつくったファイルが、使えなくなる。表が破壊さ
れたり、リンクの位置が、めちゃめちゃになったりする。

 で、あれこれ別のパソコンで、予備的な実験を繰りかえしている。今も、このパソコン
の横で、その実験をしている。しかし、こうした実験も、また楽しい。別にあわてる作業
ではない……。

 その旧版と、N03の大きな違いは、N03では、ビデオが公開できるということ。「ス
トリーミング」とか何とか、言うのだそうだ。つまり画面を開いたとき、同時に、映像が
動き出す。

 今度は、これに挑戦してみたい。おもしろそうだ。(そのうちマガジンのHTML版のほ
うで、紹介したい。乞う、ご期待!)

【追記】
N03をインストールしてみたところ、やはり、画像が乱れてしまった。この原稿を書い
ている現在、私のホームページは、そんなわけで、故障中。今のところ、29日まで、大
きな休みはとれないので、しばらくは、このまま。ごめんなさい。


● 餓死者、数十万人!

K国の餓死者が、すでに数十万人になったという。ロンドンに本部を置く、国際アムネ
スティが、そう報告した(21日)。また月刊誌「S」によれば、人口2100万人のうち、
300万人に対して、この一月から、食糧の配給が止まっているという。

 このままでは、餓死者は、さらにふえそうな勢いである。アメリカを含むいくつかの国
が、緊急に食糧援助をすることになったが、それがK国に届くのは、早くても三月とか。
家族や近親者がK国にいる人は、こういう話を聞くと、身を切られるほど、つらいに違い
ない。 

 それにしても、あのK国は、いったい、どうなっているのか? ピョンヤンに住む、ほ
んの一部の特権階級だけが、それなりの生活をしているという。韓国系の「朝鮮N報」は、
つぎのように伝える。

 「(K国の)中央テレビは美しい雪景色がピョンヤン市の各地で見られ、伝統名節(旧正
月)を控えて人々に、より多くの希望や抱負、ロマンチックな情緒を与えていると報じた」
(同日)と。

 このギャップというか、違いは、いったい、どこからくるのか? 一方で、数十万人の
餓死者を出しながら、「より多くの希望や抱負、ロマンチックな情緒」とは! K国もK国
なら、こうしたK国の情報を、鵜(う)のみにして世界に配信する、韓国も韓国だ。

 金XXの生活は、さらに現実離れしているにちがいない。

 国際アムネスティは、つぎのように報告している。

 「飢えから、食糧を盗んだ住民を、公開処刑させている。しかもそれを子どもにまで見
せている」(同日、同報告)と。

 餓死者が数十万人と、簡単に言うが、その一歩手前の老人や子ども、弱い女性は、その
また何倍もいるにちがいない。そして今、この時点において、そういう人たちが、想像を
絶する、地獄絵図を繰り広げているにちがいない。

 ある脱北者は、こんなことを語った。

 ある日、ある家から子どもがいなくなった。親が必死にその子どもをさがしたら、その
子どもの肉が、ヤミ市場で、売買されていたという。見覚えのある、小さな子どもの手が、
そこに並べられていたという。

 金XXよ、少しは、自分に恥じろ!


● 読者の方へ、賛助会へのお願い

 このマガジンや、私のHPは、賛助会に協力してくださる読者の方の善意で、運営して
います。これからも長く、この活動をつづけていきたいと考えています。

 もしみなさんの中で、協力してもよいと思ってくださる方がいらっしゃれば、どうか、
賛助会にご入会ください。とくに特典などはありませんが、何かのとき、誠心誠意、相談
にのらせていただきます。

 賛助会への入会は、マガジンの末尾に「賛助会」のコーナーをつくってありますので、
そこからお進みください。

 何かときびしい折、恐縮ですが、よろしくご協力くださいますよう、この場を借りて、
お願いします。これからもみなさんが、子育ての最前線で役にたつ記事を、どんどん提供
していくつもりでいます。

 賛助会費としては、一口1000円ですが、年会費的な意味をこめて、一人、2000
円(月額計算で170円)ほどを、ご負担、ご協力くだされば、うれしく思います。規約、
送金方法など、こまかい細目は、賛助会のコーナーに書いておきました。どうかそちらの
ほうを、お読みください。

 以上、よろしくお願いします。


● 養護学級(特殊学級)

数日前、ある小学校の校長と、学習障害児の話をした。

 三〇年ほど前の昔は、知能テストなどで、IQが、70前後の子どもを、境界線児など
と言った。が、今は、そういう言い方はしない。「学習障害児」(LD児)と呼ぶ。

 学習障害児というのは、脳のどこかに機能的、機質的な問題のある子どもをいう。前に
も書いたが、全体としてそうなっている子どもも、いないわけではない。しかしたいてい
は、ある一部がそうなっているケースが多い。

 読解力はふつうだが、数の概念だけが、まったくない、など。

 現在、このS件では、ふだんのテスト結果などを参考に、ふだんの生活ぶりを観察しな
がら、それとなく診断するという方法がとられている。が、もちろん診断基準が、あるわ
けではない。(一部のモデル校では、知能テストをしたり、経過観察をしながら、判断する
という方法が、とられている。)

 で、そういう子どもと判断されたときは、親に、養護学級(特殊学級)への、入級を勧
める。しかしこれは強制ではない。あくまでも、親の判断にゆだねられる。

 が、ここで最大の問題にぶつかる。

 ほとんどのばあい、この段階で、親が猛烈に、それに反対する。狂乱状態になる親もい
る。学校側としても、親の「入級願い」(あくまでも親のほうが、「願う」という形をとる)
がないかぎり、行動できない。

 この「入級願い」が、その校長と、話題になった。

校長「本来なら、学校独自の判断だけで、それができるといいのですが……。実際には、
一年の終わりとか、二年の終わりに、様子をみて、親を説得します」
私「日本では、簡単には進まないでしょうね」
校「集団から、はずれるということが、親にとっては脅威なのですね。それはわかります
が、一日中、ボーッと無表情のままでは、子どもがかわいそうです」

私「思考が停止したような状態になりますからね」
校「そうですね。考えようとする前に、自らをカラの中に押しこんでしまいますから……」
私「で、そういうとき、親には何と言うのですか?」
校「まず、養護学級を、見学してもらいます。つぎに大切なのは、子どもの笑顔です。そ
れを説明します」

私「このタイプの子どもは、思い切って、学年をさげるという方法もあるのですが……」
校「そうですね。自分でも理解できる授業内容だと、突然、表情も明るくなります」
私「しかし学年をさげるというのも、日本では、現実的では、ありませんね」
校「だから、親を説得するしかないです。養護学級を見学してもらいます。みんなが楽し
そうにしているのを見ると、親も納得します。大切なのは、子どもの笑顔ですから」と。

 最後に校長が、「大切なのは、子どもの笑顔ですから」と言ったのが、印象に残った。

 私も三五年近く子どもたちと接してきたが、すべての結論は、ここに行きつく。教育に
おいては、すべてが、子どもの笑顔で始まり、すべてが、子どもの笑顔で終わる。それ以
外に、何も、ない。


●二男の英語力

 外国に、何年も住んだから、きちんとした文章が、英語で書けるようになるわけではな
い。

 ある知人は、ニューヨークで、寿司職人とて、一〇年以上、生活をした経験がある。も
ちろん英会話は、ペラペラである。しかしそんな彼でも、手紙を書くことはできなかった。

 そういう意味で、(話す能力)と、(文章で、ものを書く能力)は、別と考えてよい。

 たとえば二男の書いた文章を見ると、きわめてアメリカ的な、きわめて英語的な英語を、
書く。表現力もある。しかしこまかいところで、語法的なミスが目立つ。

 先日も、二男は、床屋で髪の毛を切ってもらったという。そのときも、「I cut my hair.」
と書いていた。正しくは、「I had my hair cut.」である。そのことをメールで伝えると、「ぼ
くの英語は、ダメだから」と。

 しかしこれは二男の英語力というよりは、日本語がわざわいしているとみたほうがよい。

 たとえば日本では、「今日は、学校がある」というような言い方をする。「プールがある」
というのもそれ。

 「今日は、学校で、授業がある。休みではない」「水泳の授業がある」という意味で、「学
校がある」「プールがある」と言う。

 こうした日本語独特の表現が、そのまま英語になってしまうことがある。

 もう一つの例としては、「家を建てる」というのが、ある。建築会社に、家を建ててもら
うときでも、日本人は、日本語で、「家を建てる」と言う。正確には、「建ててもらう」で
ある。

 それが英語でも、「I build my house.」となる。そしてそれを口にすると、向こうの人は、
「オー、あなたは、大工もできるのか!」と驚いたりする。

 日常的に英語で、何も考えないで会話をしていると、日本語での言い方が、そのまま英
語になってしまうことがある。そしてそれが語法的なミスにつながることがある。……と
いうことで、私は改めて、二男に、日本語で書かれた英語の文法書を送ることにした。

【追記】昨日、書店へ行くと、高校生の参考書コーナーに、よいのがあった。二男は、高
校生のとき、ほとんど勉強をしなかった。週に一、二度という回数で、私が英語を教えた
が、その程度。その参考書を手にしたとき、私は、ふと、また高校生を教えてみたくなっ
た。

 高校生を教えるときのおもしろさは、勉強だけではなく、いわゆる人間的な話がたがい
にできるということ。もちろん一生つづく、人間関係も、できる。一方、幼児教育には、
それがない。

 が、ここ五、六年、高校生からは遠ざかっている。体力的に限界を感ずるようになった。
それに、高校生のばあい、どうしても受験教育になってしまう。私はそうでなくても、親
や生徒は、それを求めてくる。それが私には、つらい。


●学習塾を閉鎖する友人へ

 数年前から、「生活がきびしい」と訴えていた友人がいた。彼は、近くのK市の駅前で、
中学生を相手に、学習塾を開いている。私とのつきあいは、もう、二〇年以上になる。そ
の彼が、「今年度(三月)いっぱいで、学習塾を閉鎖する」と。

 1995年あたりから、全国の学習塾は、斜陽産業に入った。塾数、講師数ともに、こ
のころを境に、減少に転じた。少子化、不況、それにエリートの凋落(ちょうらく)など
が、理由として、あげられる。

 そこで大手進学塾は、対象年齢をさげる、週のレッスン日をふやすなどの対策をとって
きた。かくして、一部では、受験競争は過熱している。

 が、その下の中小塾は、のきなみ経営危機に立たされた。ちなみに現在、浜松市内でも、
個人の学習塾は、ほとんど、つぶれた。今、残っている個人塾も、このあと数年は、もた
ないだろうと言われている。

 それはちょうど、旧商店街にある個人の商店が、今、のきなみ経営危機に立たされてい
るのに似ている。価格力、宣伝力など、どれ一つをとっても、大手のスーパーや、大型店
に勝ち目はない。

 そこでその友人は、学習塾とは別に、おとな相手のパソコン教室などを開いた。が、そ
のうちそれも行きづまり、A運送業の運転手なども、パートで、するようになった。で、
これが数年前。一時は、生き残りをかけて、NPOの活動にも力を入れ始めたが、長つづ
きしなかった。

 加えて、一〇年前に大改装した塾の改装費が、ここへきて、大きな負担になってきた。
銀行への返済だけで、利益のほとんどが消えてしまうようになったという。もちろん生徒
数は、毎年、10〜30%ずつ減少した。数年単位で、半分になった計算である。

 しかしこれは、近未来の私の姿でもある。来年か、再来年か、それはわからないが、私
もそうなる。今は、かろうじてがんばっているが、それを支えるエネルギーも、このとこ
ろ、急速に弱くなった。

 人間というのは、おかしなもので、そういうとき、これまたおかしな慰め方をする。

 「私も、五六歳だ。昔ならとっくの昔に定年退職している年齢である。それに大学の同
窓生たちも、役人になったのはのぞいて、みな、リストラにあっているではないか。そう
いうことを考えれば、今でも、仕事をつづけられていることだけでも、ありがたいこと。
感謝しようではないか」と。

 実は、ワイフもそう言っている。

 いろいろあったが、今まで、ほぼ無事に生きてこられた。今も、何とか、無事。だから、
それに感謝して、先のことは、あまり悩まないでおこう、と。

 もちろん、こういう慰め方をしたところで、問題は、何も解決しない。事情も変らない。
どこまでいっても、「私は私」だ。私は、その友人に、こんなメールを書いた。

 「ぼくらは、健康です。まず、それに感謝しようではないですか。これから先のことは
わかりませんが、今は、ともかくも、健康です。

 もし不治の病をかかえたということであれば、また別の考え方をしなければなりません
が、健康であることだけでも、ありがたいことです。

 ぼくも、そのうち今の幼児教室を閉鎖することになるでしょう。いくら心の中で、「ぼく
は日本でも最高の幼児教室をしている」と叫んでも、その声が、世間に届かなければ、そ
れでおしまいです。

 実のところ、もうぼくには、この日本に対する未練は、ほとんど、ありません。期待も
していません。こと幼児教育について言うなら、手間ひまかけた、濃縮された教育よりも、
親たちは、ファーストフードの料理のような教育のほうが、よいと言います。そういう世
の中です。

 で、こうしてグチを言うのも情けないから、ぼくは、もうこの日本には、期待しないこ
とにしました。「なるように、なれ」とです。

 あとは、今までの自分の記録を、できるだけたくさん残しておくだけです。今、懸命に
原稿を書いているのも、そのためです。一応マガジンを、1000号までつづけるという
目標をもっていますが、それまで健康がつづけば、それだけで、恩の字ですよね。

 ただ今は、三男の学費のこともありますから、何とか、あと三年は……と、思っていま
す。そのあとのことは、わかりません。いつか夢に描いたように、最後の晩年は、オース
トラリアで過ごすようになるかもしれません。(あるいは、そのまま老人ホームへ? ハハ
ハ!)

 加えて、ぼくの家にも……(省略)……。

 君も、よくここまでがんばったと思っています。先月、君の学習塾の前の通りを歩くこ
とがありましたが、時間がなくて、寄れませんでした。ごめん。しかし事情がわかってい
れば、寄って、励ますべきだったですね。重ねて、ごめん。

 何とか、転職のほう、うまくいくとよいですね。ぼくにもう少し力があれば、ぼくの仕
事を手伝ってもらうことも考えられるのですが、今のぼくには、その力もありません。何
といっても、この不況。どうしようも、ないです。(ぼくも、君と同じ、2000円亭主で
す。ハハハ!)

 まあ、ぼくもやるだけのことはやってみます。幸か不幸か、ぼくのワイフは、ああいう
楽天的な人ですから、いつも、「家と土地を売れば、老後の資金にはなるわよ」と言ってい
ます。もともと六畳一間のアパートで、同棲を始めた間がらですから、またもとに戻って
も、悔いはありません。

 「がんばろう!」という言葉は、もう言いたくありません。ぼくらは、もうじゅうぶん、
がんばってきました。やりつくすだけ、やりつくしたという感じです。それでいいですよ
ね。まあ、ぼくもそうするでしょうから、君も今は、ゆっくりと遊んで、好きなことをす
ればよいと思います。

 君は、中国派だから、中国へでも行ってきてはどうでしょうか。船旅でもよいし、鉄道
であちこちへ行くのもよいかもしれません。ぼくなら、オーストラリアへ行きます。そし
てあのマレー川を、何日もかけて、船でくだります。

 そしてあとは……。静かに、ぼくの運命に、身をゆだねます。どうあがいても、鳥は水
の中を泳ぐことはできません。どうあがいても、魚は空を飛べません。どうあがいても、
ぼくには、ぼくの運命があります。それに身をゆだねます。

 何とも湿っぽいメールになってしまいましたが、奥さんに、くれぐれもよろしくお伝え
ください。また転職のほうが落ちついたら、また連絡してください。その日を待っていま
す。

                              はやし浩司」と。


● 悲しき束縛(?)

静岡県K町といえば、昔から、お茶の産地として知られたところである。そのK町にあ
る先生(小学校教師男性)が、こう言った。

 「このあたりでは三世代(同居家庭)が、ふつうです。そういうこともあって、いまだ
に長子相続の考え方が、根強く残っています。

 農家の長男だと、『君は、おとなになったら何になる?』と聞いたりすると、みな、『ぼ
くは、茶畑を継ぎます』などと答えるんですよ。まだ小学二年生の子どもが、ですよ。そ
れも直立不動の姿勢で、そういう言うのですよ」と。

 小さいうちから、祖父母から、「お前は、おとなになったら、この家の農業を継ぐことに
なる」と言われつづけているのだろう。それはしかたのないことかもしれないが、問題は、
女性。母親。嫁。嫁といっても、そのための嫁であることも多い。

 「子どもを産めないため、離婚させられた女性もいます」とも。

 同じようなことは、このH市周辺でも起きている。周辺の農村へ行くと、あと取りが、
そこの家庭でも深刻な問題になっている。代々つづいたミカン農家。しかしそのあとを継
ぎたがらない息子たち。

 加えて、一昔前のように、老人たちがいばる時代は、もう去った。どこの家庭でも、嫁
と姑、嫁と舅(しゅうと)の問題をかかえている。一触即発という家庭も少なくない。あ
るいは、今では、同じ敷地内別居も、当たり前。

 が、それはさておき、こんなこともある。

 そのため祖父母たちが、息子や娘たちに、(学問をつけさせる)ことに反対しているとい
うのだ。

 「勉強なんかできると、かえって農家を継ぎたがらなくなってしまうから、勉強させて
ほしくない」と。

 2004年の現代、信じられないような話だが、これは本当の話。だからその祖父母は、
その先生に、こう言ったという。「うちの孫は、K農業高校でじゅうぶん。それ以外の道は、
考えていない」と。

 それぞれの家庭には、それぞれの事情がある。そしてそれぞれの親は、それぞれの思い
の中で、子育てをしている。

 しかし子どもの人権を考えるなら、日本はまだまだ後進国。甘やかしたり、好き勝手な
ことをさせることが、子どもの人権を守ることだと考えている人は多い。そのため「日本
は、子どもの人権を守っている」と、誤解している人は多い。

 子どもの人権を守るということは、子どもの意思や考え方、さらには、その生きザマを
尊重すること。……と考えて、私は、ここでハタと考えてしまった。

 子ども自身が、「ぼくは、農家を継ぎます」と言ったばあいは、どうなるのか、と。

 しかしこのばあいでも、子どもは自分で考えてそう言っているのではない。言わせられ
ているだけ。つまり子どもの人権を守るということは、こうした押しつけがあってもいけ
ないということになる。

 もしこのことがわからなければ、あのK国を見ればわかる。

 幼稚園児たちが、鉄砲のおもちゃをもって、「将軍様を死守します!」などと、合唱して
いる。何でもあのK国では、日本人を見ると、子どもはそれだけで、泣き出して逃げてい
くという(「週刊文春04年1月」)。

 そういう子どもの姿を見て、あなたは、子どもが本当に自分でそう考えて、そう言って
いると思うだろうか。答は「ノー」のはずである。

 これから先、しばらくこの「子どもの人権」について、考えてみたい。
(040123)

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司


最前線の子育て論byはやし浩司(004)

他人の死を笑わない

 こんなことは、三〇代や四〇代のころは、思ってもみなかった。しかし五〇歳になるこ
ろから、おかしな感情が生まれるようになった。それには、いろいろいきさつがあるが、
それについては、あとから書くとして、こんな感情だ。

 「死」というものが、身近になったせいもあるのか。たとえばだれかが死ぬと、心のど
こかがふと、軽くなったように感ずるようになることがある。とくに、どこかうるさく感
じていた人が死ぬと、そうだ。

 その死を喜ぶというわけではない。何というか、気が楽になるのである。

 たとえば近所に、口うるさい人がいたとする。あれこれ私の生活に干渉してきて、あれ
これ言ってきたとする。そういう人が死ぬと、心のどこかで「やれやれ」と思うのである。

 若いころは、そういうふうに、人の死を考えたことがない。「死」そのものが、無縁の世
界のできごとだった。しかし自分の「死」を考えるようになったとき、同時に、他人の「死」
をも考えるようになった。それまでは(ありえない死)だったのが、(ありえる死)になっ
た。と、同時に、「死」を、問題を解決するための方法の一つと考えるようになった。

 極端な言い方をすれば、「あいつは、もういい年だから、もうすぐ死ぬ」「早く死ねばい
い」と。そういうふうに思うかどうかは別として、ほうっておけば、それに近い思いにな
るのではないかと思えるような、思い方である。(回りくどい言い方で、すみません。)

 実は、今朝もそうだった。

 ワイフが、「最近、あのMさん、姿を見ないけど、どうしたのかね?」と言ったときのこ
と。Mさんというのは、何かと問題のある人だった。ガンコジジイというか、いじけてい
るというか、近所でも、嫌われ者として名が通っている人である。

 そのときふと、「そう言えば、先月、救急車が止まっていたけど、何かあったかもしれな
いね」と思った瞬間、「早く、あんなヤツ死んでしまえばいい」と、心のどこかで思った。
……思ってしまった。

 こうしたものの考え方は、概して言えば、老人特有の考え方といってもよい。子どもの
ころ、近所に、そういうことばかりを言っている老人(女性)がいた。

 「あの人は、ああいう人だから、決して、いい死に方はしないよ」
 「あの人が死ぬと、喜ぶ人も多いはず」
 「あの人が死んで、せいせいした」
 「憎まれっ子何とかと言うけど、ああいう人にかぎって長生きするもんだよ。いやな世
の中だね」と。

 私の耳に、そういう言葉が残っている。しかしそのときは、私は、「何て、いやな言い方
をするのだろう」と思った。子どもながらに、不愉快だった。「人の死を楽しんでいるみた
いだ」と。

 しかしそれから四〇年以上。いつしか私も、同じように考え、同じように思い、そして
同じような言葉を口にするようになった。つまり私自身が、いつの間にか、その(いやな
言い方をする人)になりつつあるのを知った。

 この考え方は、たいへん危険な考え方である。

 他人の死を、楽しむということは、自分の死を、だれかに楽しまれることを意味する。
しかしここで「危険」というのは、そういうことではない。

 こんな老人がいた。

 その老人はことあるごとに、自分より先に死んでいく人を、「あわれなものだ」「ザマー
ミロ」と喜んでいた。葬式などでは、それらしく、しおらしい顔をしていたが、家に帰っ
てくると、「死んだ」「死んだ」「あいつは死んだ」と喜んでいた。

 が、今度は、自分の番になったときのこと。玄関先で倒れたのだが、最後の最後まで、「救
急車を呼ぶな」とがんばった。その老人は、自分が笑われると思った。……らしい。近所
の人は、「他人にそこまで気を使うのかね?」と言ったが、そうではなかった。

 他人の死を笑う者は、他人も、自分の死を笑うと思っている。(本当は、だれも笑ってい
ないのだが……。)そう、自分で、思いこむ。

 つまりこうして、他人の死を笑う人は、自分で自分を、窮屈で、暗い世界へと、追いこ
んでいく。

 聖書では、『憐れみ深い人は、幸いなれ』と教える。それだけ他人の憐れみをうけるから
である。

 この言葉を反対に解釈すると、『他人に冷たい人は、不幸である。冷たくした分だけ、い
つか自分も冷たくされる』ということになる。

 だから決して、他人の死を喜んだり、笑ったりしてはいけない。楽しみにしてはいけな
い。他人の死は、扱いようによっては、酒の肴(さかな)にすら、なる。だからこそ、他
人の死をもてあそんではいけない。

 ある知人は、私にこう言った。

 「林君、ぼくはね、新聞でも、毎日、死亡者欄だけは、欠かさず見ているよ」と。「どう
して?」と私が聞くと、「いえね、商売柄ね」と。

 つまり彼は、そういう形で、他人の死を楽しんでいた。「こいつは、五六歳で死んだのか」
「この人は、九〇歳か。文句ないよな」と。で、その彼がどうかというと、実に醜悪な顔
つきをしていた。つまり、そうなる。

 ワイフが、そう言ったとき、私はふと、「Mさんは、もう長くないかもよ」と言いかけた
が、やめた。そして少しだけ、自分の本心をねじまげて、「何ともなければいいけど。あん
な人でもいなくなると、さみしくなるからね」と。

 つまりこういう形で、自分の中にひそむ、邪悪な気持ちと戦うしかない。私はもともと、
生まれも育ちもよくない。性格もゆがんでいる。このところ、グチばかり言っている。顔
つきも、ますます醜悪になってきた。

 しかし子どものころ見た、ああいう心の貧しい老人にはなりたくない。だから今から、
そうならないよう、戦うしかない。
(040123)

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司
 
最前線の子育て論byはやし浩司(005)

【近況、いろいろ】

●ホームページの引っ越し

 昨日、ホームページの引っ越しをした。98のノートパソコンから、XPのノートパソ
コンへ。ホームページ制作ソフトを、NINJAから、NINJA2003へ。さらに同
時に、WBS社からCOOL社へと、プロバイダーもかえた。しかし、これがたいへんな
作業だった。

 私のホームページは、40MBもある。一度、ファイルを開くだけでも、30分以上は
かかる。CDに焼いて、ファイル形式で保存するのに、1時間以上はかかる。さらに終了
して、保存が終わるまでに、2時間以上!

 プロバイダーの変更操作だけで、軽く30分以上……などなど。この作業の繰りかえし。

 で、やっとできたと思って、ファイルを開いたら、表が崩れるは、図形がゴチャゴチャ
になるは……。その上、FTP送信したら、途中で、「ファイルが見つからない」と、スト
ップしてしまう始末。

 ここに説明するのも、いやになるほど。つまり、それほど、たいへんな作業だった。朝
の四時から始めて、約八時間。それでも、まだ途中。理由や原因は、いろいろあるが、こ
こには、書ききれない。

 自分でやってみて、こんなにたいへんな作業だとは思わなかった。昼ごろ、ある程度の
作業は終わったが、しかし、ゲンナリ。パソコンを見るのも、いやになった。

 しかしよい頭の体操には、なった。「ああでもない」「こうでもない」と考えている間は、
本当に楽しい。「いざとなったら、もとのパソコンと、もとのソフトに戻せばよい」という、
最後の切り札もある。

 しかしパソコンは、まだ未完の大器。ものすごい可能性を秘めた、新生児のようなもの。
「うまく動いていたら、余計なことはするな」は、パソコンを扱うときの、大鉄則。

【追記】

 現在、「はやし浩司のホームページ」は、メチャメチャ。工事中の工事現場のよう。興味
のある人は、どうか見てほしい。よい機会だから、このあたりで、ホームページを大改造
してみようと考えている。


●読者の方より

はやし先生のマガジンは、とても勉強になってます。母親同士のつきあい、先生とのつき
あい、自分の家族との関係、子どもの伸ばし方……。これからもたくさん生きるヒントを
ください。

我が家の近くにも先生のような方が教室を経営してくれていたら、どんなに良いだろうと
思います。

浜松までは遠いので、いつか家族旅行でもしながら(日程を調整し)、先生の講演会、行き
たいです。

毎回とってもマガジン楽しみにしています。寒いですので(浜松はそうでもないかな?)
お体ご自愛ください。

東京都・Kより

【Kさん、ありがとうございました】

 ここ数日、咳(せき)がひどく、どうも調子がよくありません。で、昨夜は、土曜日と
いうこともあって、生ニンニクを、白いご飯にのせて、食べました。

 ハーハー。

 臭いでしょう? だから今日は、外出をひかえねばなりません。家の中で、のんびりし
ています。こうしてコタツの中に入って、キーボードをたたいていると、眠くなってきま
す。今も、その眠さをこらえながら、画面をにらんでいる状態です。

 励まし(?)のメール、ありがとうございました。このところ、読者の方からの反応が
ほとんどなく、いろいろな意味で、勇気づけられました。こうしてマガジンを発行しなが
ら、自分でも、ときどき、なぜこんなことをしているのか、わからなくなるときがありま
す。

 自己満足?
 自己鍛錬?
 自己主張?

(この間、10分ほど、うたた寝)

 おかしな夢を見ました。

 ローソクが何本か立っていて、そのうちの数本は、太いローソクで、火がついていまし
た。細いローソクも何本かありました。

 たったそれだけの夢でしたが、ローソクは、バケツの中にありました。細いローソクは、
誕生日のケーキの上にのせるような、細くて、小さなものでした。

 フロイトなら、夢判断で、こういう夢をどう判断するだろうな、と、今、考えています。

 ローソクは、何を意味するのか?
 なぜ、太いローソクには、火がついていたのか?
 バケツの中にあったのは、なぜか?

 何とも意味のない夢ですね。何とも意味のない文章ですね。ホント!

 自分でも、こういう意味のない文章は書きたくないと思っているのですが、今の脳ミソ
の働きは、こんなものです。

 うららかな日差しが、カーテン越しに、部屋の中に入ってきます。のどかな日曜日。も
うすぐその時刻ですから、でかけます。これから町内の人たちと、ゴミの集積場所の移動
工事です。

 息が臭いから、マスクでも、して行きましょう。(自分では、臭いはわからないのですが
……。)

 では、Kさんも、よい日曜日をお迎えください。メール、ありがとうございました。


●Zシティも、大赤字!

 浜松市の駅前に、超豪華な、高層ビルがある。建設費だけでも、二〇〇〇億円とも三〇
〇〇億円も言われている。複雑な経理のカラクリがあって、いったいいくらの税金が使わ
れたのか、あるいは使われなかったのか、いまだによくわからない。

 そのビルですら、今は、どこも閑古鳥が鳴いている。少し前まで、最上階には、展望台
があったが、今は、結婚式場にかわった。

 おまけに今度は、Zシティ。中心部のはずれに、これまた超豪華な、「Zシティ」という
名前の、ショッピングセンターが、二、三年前にできた。今日(二三日)の新聞によれば、
このショッピングセンターもまた、数十億円の負債をかかえたとか※! 

 H市も、よくもまあ、こういうムダなものばかり、作るものだ。そしてつぎからつぎへ
と、赤字を出して、平気でいられるものだ。が、それよりも不思議なのは、だれも怒る人
もいなければ、責任をとる人もいないということ。

 不思議国、日本だが、そのしくみが、実にうまくできている。何といっても、歴史が古
い。一五〇〇年もある。「もの言わぬ従順な民」が、日本人の国民性にもなっている。言い
かえると、その一五〇〇年もつづいた日本人の意識を変えるのは、容易なことではない。

 結局、日本は、やがて行きつくところまで、行くしかないのでは……? 私の今の気持
ちは、読者のみなさんと、同じ。……知ったことかア!

 ……と言うのは、ウソ。これからも命のつづくかぎり、私は、吠えつづける。吠えつづ
けてやる。負けるものかア!


※ ……「Zシティ浜松中央館」の再開発組合が、36億円の負債をかかえて、資金難にお
ちいっている。そのため市が、資金援助も含めた公的支援を検討しているという。その
援助の学は、10億円前後になるとみられる。

このZシティは、市の補助金を柱に、金融機関からの借り入れ金を含め、約190億円
もかけて、01年10月にオープンした。

市の説明によると、「再開発組合は、バブル期に作られた当初計画では、商業施設を売
却し、地権者らでつくる有限会社に事業を引き継いで解散する予定だった。だが商業地
の買い手がつかず、テナントの賃貸料も伸びなかったため、負債が残り、再開発組合は、
昨年市に、支援を要請した」とのこと(Y新聞報道)。


 この記事を読んでおかしいと思うのは、第一に、01年は、バブル経済が終わって、す
でに10年以上もたっているということ。そんなときに、「バブル期に作られた当初計画で
は……」という。建設が始まったとき、すでに、日本は、大不況になっていたはず。だっ
たらなぜ、「バブル期に作られた当初計画」を、見なおさなかったのか?

 そこで市は、その対策として、今後、「学識経験者らによる非公開の検討会を作り、支援
の可否や方法などを検討することにした」(同新聞)と。

 浜松市のみなさん! この「学識経験者」というのが曲者(くせもの)ですよ!

 たいていは、市の行政に暗い、イエスマンのことを言う。どういう基準で、だれがだれ
を選考するのか、その基準すら示されていない。そういう連中を、「非公開」で集めて、市
の方針にそった答申をさせる。(たいていは、会議の内容、進行は、行政側がお膳立てし、
それを座長と呼ばれる、イエスマンにさせる。)

 あとは、その答申に沿って、行政側はしたい放題!

 これが日本の官僚制度の中における、責任逃れのシステムです。おわかりですか?

 10億円と簡単に言うが、浜松市民60万人で割っても、一人当たり、1700円弱。
が、これで終わるわけではない。この先、その負債額はもっとふえる。しかも毎年、毎年、
繰りかえし、ふえる。

 だいたいにおいて、あの西武百貨店ですら撤退した跡地に、それよりもニーズの少ない、
若い女性向けのショッピングセンターを作って、うまくいくはずがない。

 同じその西隣にある、Zシティ・西館。目を見張るような大理石張り、エスカレーター
つきの螺旋(らせん)階段をおり、分厚いガラスの戸をくぐったら、その向こうは、たこ
焼き屋。スーパー。それに100円ショップ。

 こういうのを税金の無駄づかいと言わなくて、何という!

 もうやめよう! こんな無駄づかい。豪華な道路や、豪華な建物ばかり作っている。そ
のため国民は、青息吐息。これから先、膨大な維持費が、孫の代まで、ひ孫の代までのし
かかってくる。

 この浜松だけではない。全国津々浦々、あらゆる場所で、それがなされている。おかげ
でたまりにたまった借金が、もうすぐ1000兆円。国民一人当たり、約1000万円! 
(人口を1億で計算)

 ……にもかかわらず、「ないよりは、あったほうがまし」という論理だけで、相も変らず、
無駄なものばかり作っている。いったい、この国の政治家たちは、何を考えているのか!
(040125)

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

最前線の子育て論byはやし浩司(006)

●回顧性と展望性

 過去をかえりみることを、「回顧」という。未来を広く予見渡すことを、「展望」という。

 概して言えば、若い人は、回顧性のハバが狭く、展望性のハバが広い。老人ほど、回顧
性のハバが広く、展望性のハバが、狭い。

 幼児期から少年、少女期にかけて、展望性のハバは広くなる。数日単位でしか未来を見
ることができなかった子どもでも、成長とともに、数か月後、数年後の自分を見渡すこと
ができるようになる。つまりそのハバを広げていく。

 言いかえると、展望性と回顧性のバランスを見ることによって、その人の精神年齢を知
ることができる。つまり未来に夢や希望を託す度合が、過去をなつかしむ度合より大きけ
れば、その人の精神年齢は、若いということになる。そうでなければ、そうでない。

 ある女性(八〇歳くらい)は、会うと、すぐ、過去の話をし始める。なくなった夫や、
その祖父母の話など。こうした行為は、まさに回顧性の表れということになるが、こうし
た回顧性は、老人の世界では、ごくふつうのこと。広く見られる。

 一方、若い人は、未来しかみない。時間は無限にあり、その未来に向かうエネルギーも、
永遠のものだと思う。それは同時に、若さの特権でもあるが、問題は、そのハバである。

 自分の未来を、どの範囲まで、見ているか?
 一年後はともかくも、二〇年後、三〇年後は、見ているか?

 いくら展望性があるといっても、それが数か月どまりでは、どうにもならない。「明日も
何とかなる」では、どうにもならない。

 そこで、このことをもう少しわかりやすくまとめてみると、こうなる。

(1) 回顧性と展望性のハバが広い人……賢人
(2) 回顧性のハバが広く、展望性のハバが狭い人……老人一般
(3) 回顧性のハバが狭く、展望性のハバが広い人……若い人一般
(4) 回顧性と展望性のハバが狭い人……愚人

 (1)〜(3)は、比較的、わかりやすい。問題は(4)の愚人である。

 過去を蹴(け)散らし、その場だけの享楽に身を燃やす人は、ここでいう愚人というこ
とになる。

 このタイプ人は、過去に対して、一片の畏敬(いけい)の念すらない。同時に、明日の
こともわからない。気にしない。その日、その日を、「今日さえよければ」と生きる。健康
も、またしかり。

 暴飲暴食を繰りかえし、今だけよければ、それでよいというような考え方をする。もち
ろん運動など、しない。まさにしたい放題。

 で、問題は、どうすれば、そういう子どもにしないですむかということ。一歩話を進め
ると、どうすれば、子どもがもつ展望性のハバを広くすることができるかということ。

 ためしに、あなたの子どもと、こんな会話をしてみてほしい。

親「あなたは、おとなになったら、どんなことをしないか?」
親「そのために、今、どんなことをしたらいいのか?」
親「で、今、どんなことをしているか?」と。

 以前、こんな女の子がいた。小学三年生の女の子だった。たまたまバス停で会ったので、
近くの自動販売機で、何かを買ってあげようかと提案したら、その女の子は、こう言った。

 「私、これから家に帰って夕食を食べます。今、ジュースを飲んだら、夕食が食べられ
なくなるから、いいです」と。

 その女の子は、自分の未来を、しっかりと展望していた。で、その女の子で、もう一つ、
印象に残っていることで、こんなことがあった。

 正月のお年玉として、かなりのお金を手にしたらしい。その女の子は、それらのお金を
すべて貯金すると言う。

 そこで私が、その理由を聞くと、「お金を貯金して、フルートを買う。そのフルートで、
音楽を練習して、私はおとなになったら、音楽家になる」と。

 一方、そうでない子は、そうでない。お金を手にしても、すぐ使ってしまう。浪費して
しまう。飲み食いのために、使ってしまう。

 少し前だが、タバコを吸っている女子高校生とこんな会話をしたことがある。

私「タバコって、体に悪いよ」
女「知ってるヨ〜」
私「ガンになるよ」
女「みんな、なるわけじゃ、ないでしょう……?」

私「奇形出産のほとんどは、タバコが原因でそうなるっていう話は、どう?」
女「でも、そんな出産したという話は、聞かないヨ〜」
私「みんな、流産という形で、処置してしまうから……」
女「結婚したら、やめるヨ〜」

私「で、タバコって、おいしいの?」
女「別においしくないけどサ〜。吸ってないと、何となく、さみしいっていうわけ」
私「だったら、やめればいいじゃん」
女「また、病気にでもなったら、そのとき、考えるわ」と。

 先の「フルートを買う」と答えた子どもは、ハバの広い展望性をもっていることになる。
しかしタバコを吸っていた子どもは、ほどんど、その展望性のハバがないことになる。

 こうしたちがいが、なぜ起きるかと言えば、結局は、私の説く「自由論」に行き着く。「自
らに由(よ)る」という意味での、自由論である。

 それについては、すでに何度も書いてきたので、ここでは省略する。しかし結局は、子
どもは、(自分で考え、自分で行動し、自分で責任をとれる子ども)にする。展望性のハバ
の広い子どもになるかどうかは、あくまでもその結果の一つでしかない。
(040125)(はやし浩司 回顧 展望 老後論 自由論)

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

最前線の子育て論byはやし浩司(007)

●ドロ沼の母親狂騒曲

 埼玉県在住の、Tさん(母親、年長男児をもつ)から、こんなメールが、届いた。

 「うちの住んでいるところは、新興住宅地。文化性は、まったく、なし。母親のステー
タスも、ダンナの職種で決まる。

 S放送局や、T銀行、N自動車に勤めるダンナが多いこともある。で、そういうところ
に勤めるダンナをもつ、妻たちが、いばるわけ。

 で、近くに、このあたりでも有名な、……というか、名門というか、そういう小学校が
ある。名前はSS小学校。入試が近づくと、その話ばかり。『どうして、あんな子が受ける
の?』『あんな子が合格するくらいなら、私、この町を出る!』『幼稚園には、内緒で、S
Sを受けるそうよ。先生に言いつけてやる』と。

 出るは出るは、低次元な話ばかり。若い母親たちが、集まれば、こんな話ばかりしてい
る。あとはそしてお決まりの、悪口、中傷。

 『あの人、子どもが受験するならするで、一言、言ってくれればいいのに、礼儀知らず。
今度は、○○会から、排除よ』
 『Xさんは、幼稚園へ迎えに行くだけなのに、いつもY車(大型の外車)よ。歩いても、
五分もかからないのに。でも、幼稚園への寄付は、たったの一万円だったそうよ』

 このあたりでは、SS小学校に合格した子どもを、『勝ち組』。落ちた子どもを、『負け組』
といって、差別する。そこらの学習塾でも、差別する。SS小学校の子どもだと、ハイハ
イと言って、即、入塾。

 しかしそれ以外の小学校の生徒だと、塾長もとつぜん、ふんぞりかえって、『うちはア…
…』と、しぶってみせる。

 イヤーな雰囲気の地域。

 私は転勤族だから、北は函館から、南は、博多まで、みんなよく知っている。しかし埼
玉県のここは、最低。最悪。『このあたりが地球の中心』と思っているような人ばかり。バ
カみたい。外から見れば、ただの新興住宅地なのに。

 私、奈良にも住んだことあるが、奈良は最高! 京都も近いし。ああいうところの、奥
深い文化に接したことがない連中ばかり。

 子どものことで、見栄やメンツを張るなんて、つまらない。私は、自由人。そういう目
で見ると、みんな????。本当に、いやになってしまう。先生、こういう地域を、どう
思う?」
(たいへん過激な文章だったので、林の方で、要約)

++++++++++++++++++++

 親が子どもを育てるのではない。子どもが親を育てる。……私が、このことを知ったの
は、こうした親どうしの、ドロドロのウズに巻き込まれたとき。

 それは想像を絶するほど、低次元な世界だった。

 しかしTさん、そういう親でも、二年、三年と、子育てで苦労すると、やがて人間的な
丸みや深みができてくる。つまり、親が子どもを育てるのではない。子どもが親を育てる。

 だから大切なことは、(今の母親たち)を見て、それがすべてとは思ってはいけないとい
うこと。大切なことは、そういう母親たちが、少しでも、前に向って、伸びることを、手
助けすること。どの母親も、そういう意味では、すばらしい母親になる可能性をもってい
る。

 私も、幼児教育をして、三五年になるが、当初より、「幼児教育は、母親教育」というこ
とを、見抜いていた。(ここが、私のすごいところ。エヘン!)

 だから今、あなたがなすべきことは、そういう母親たちを、つまりは反面教師として、
自分の姿を見ていくこと。すでにあなたは、そういう視点をもっている。つまりあなたは、
そういう意味で、ほかの母親たちを、一歩、リードしている。

 もしあなたがリードしていなければ、あなたは今、ほかの母親たちと同じことをしてい
たかもしれない。あなたは子どもを育てながら、実は、その向こうにある、(人間)を見て
いる。そしてその反射的効果として、(自分)を見ている。

 今のあなたのまわりの(現状)を否定するのではなく、まず(現状)とは、そういうも
のであることを知る。すべては、そこから始まる。わかりやすく言えば、「今の若い母親た
ちは、ダメだ」と、言うのではなく、あなたの立場で言うなら、そういう母親たちの中に、
自分の愚かな姿を見て、それをバネとして、前に進むこと。

 私は、もう、そういう修羅場を、五万と見てきた。恐らく、一歩離れたところにいる、
学校や園の先生たちは、そういう世界を知らないだろう。どの母親も、先生の前では、別
人のように振る舞ってみせる。

 しかし、ね、Tさん。それが人間のドラマのおもしろさということになる。私たちは、
不完全で、どうしようもない人間。その人間が、懸命に、無数のドラマを展開している。
そこでどうだろう。

 「同じ人間」と思うのではなく、こちらのほうが一歩上に出て、あたかも自然動物園の
中の動物を観察するような目をもってみたら。そうすれば、母親どうしの醜い狂騒も、こ
れまた、ほほえましく見えてくるもの。

 より高い視点に立ってみると、それまでの世界が、小さく、つまらないものに見えてく
る。「自分を伸ばす」ということは、そういうことをいう。

 およばずながら、私は、あなたのような人のために、こうした文章を書いている。どう
か、どうか、これからも私のマガジンを読んでほしい。私はいつか、必ず、この荒野の先
に何があるか、それを見てやる。そしてみなさんに、報告してやる。

 さあ、あなたも、魂の自由人として、心の中の荒野を歩いてみたら……。その世界は、
スリリングで、楽しい。実に、楽しい。いっしょに、前に向って、歩いていこう。

 So take my hands 
 To walk this land with me.
 To walk this golden land with me.
(ポールニューマン主演、パットブーンが
歌った、「栄光への脱出」より)

(はやし浩司 狂騒 母親狂騒 受験 子どもの受験)
++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司


最前線の子育て論byはやし浩司(008)

●仮面

 心を開かない人とは、どういう人を言うのか?

 数日前、「からくり人形」をテーマにした、バラエティ番組(NHK)を見た。一本、一
本を矢を矢立から抜いて、弓にこめ、その矢を射って、的に当てる……。そんなからくり
人形もあった。

 あるところまではテレビ局側で説明し、「では、これは?」というような問いかけで、番
組は、進行した。よくある、バラエティ番組形式である。

 で、私は、その出演者の中の、T氏という男性に注目した。昔から時代劇の俳優として
活躍している人である。そのT氏は、新しいからくり人形が紹介されるたびに、「ほほう!」
とか、「これは!」と言って、ことさら驚いてみせていた。

 で、私は、やがてそれが演技であることを知った。(私は、さも驚いています)というよ
うな驚き方なのである。それが実に、おおげさ。不自然。ときどき、視線が、チラチラと、
カメラかテレビ画面のほうへ走るのも、わかった。

 私も、そのからくり人形を見て、驚くには驚いた。しかしそういったものを見るのは、
決して、はじめてではなかった。最近では、G社という出版社が、書店やおもちゃ屋で、
そういったからくり人形を、完成品で売っている。

 が、私の驚き方は、静かなものだった。たまに「ほう!」というような声をあげること
はあったが、あとはニンマリと笑う程度。T氏のような「芸能」の世界を渡りあるいてい
る人なら、その程度のからくり人形なら、どこかで見たことがあるはず。「ああまで、どう
して驚くのかな?」と、むしろ、そちらのほうを不思議に思った。

 ……と書いて、何も、私は、T氏を批判しているのではない。そういった演技的な驚き
方が、まずいと言っているのでもない。私は、ワイフと、その番組を見ながら、こんな会
話をした。

私「いいか、このT氏を見てごらん。このT氏は、おおげさに驚いてみせている。だけど、
決して、驚いてはいない」
ワイフ「そうね。番組を盛りたてているだけよ」
私「つまりね、番組に合わせて、同調しているだけ。しかし心は、まったく開いていない」

ワ「私にも、わかるわ」
私「こういう人が、近くにいると、それだけで疲れるよ。たとえば何かのパーティで、(パ
ーティでは、こういうことをするものだ)と思いこんで、騒ぐ人がいる。ギャーギャーと、
ね。そういう人が近くにいると、こちらも、そうしなければならないという思いに、追い
たてられる。だから、疲れる」

ワ「つまり、自分で自分を作っているのね。本当の自分は、どこかへ置いておいて、その
場の、雰囲気に合わせて、みなが喜ぶように騒ぐってことね」
私「そうだよ。一見、心を開いているかのように見えるが、その実、心は開いていない。
計算ばかりしている」
ワ「どこか不自然ね」
私「そうだ。心を開いていない人の言動は、どこか不自然になる」と。

 子どもの世界にも、愛想のよい子どもというのがいる。相手にへつらう、相手の機嫌を
とる、相手に取り入る、調子を合わせる、など。何か珍しいものを見せたりすると、おお
げさにそれに驚いてみせたり、びっくりした様子を見せたりする。つまりそういう形で、
相手を喜ばせようとする。

 このタイプの子どもは、一見親しみをもちやすい。しかしその実、心は開いていない。
いつも「自分が、周囲の者に、どう見られているか」「どうすれば、いい人間に見られるか」
「見せることができるか」と、そんなことばかりを気にしている。

 自分というものが、どこにあるかさえわからない。たとえばここにあげたT氏が、そう
である。ここにも書いたように、(私は、さも驚いています)というような驚き方で、驚い
てみせる。

「こういう人は、疲れるだろうな」と私。「番組が終わって、ホテルへでも入ったら、グ
ッタリよ」とワイフ。

 私はそのT氏を見ながら、「心を開かない人というのが、どういう人か、それを知りたけ
れば、こういう番組を見ればいい」と思った。

 そのあとその番組では、いくつかのからくり人形を紹介していた。そしてそこに、日本
人のもの作りの原点があるというようなことを言っていた。番組自体は、おもしろく、興
味深い内容だった。
(040126)(はやし浩司 仮面)

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

子育て随筆byはやし浩司(009)

●受験という魔物

 子どもの受験が、受験だけに終わらないのは、そこに親がからむから。この親どうしの、
醜い、実に愚劣な戦いが、そこでくりひろげられる。それが子どもの受験競争を、かぎり
なく複雑にする。

 私はこうした、ドロ沼の、底の、その底まで、見てきた。

 人間というのは、不思議なもので、三〇歳になると、一〇歳の子どもも、一五歳の子ど
もも、同じに見える。一五歳の子どもが、小さな子どもをさして、「あんなガキが」と言っ
たりすると、「自分だって、そんなに変らないではないか」と思ったりする。

 同じように、四〇歳になると、今度は、二〇歳の子どもも、一〇歳の子どもも、同じに
見える。さらに五〇歳になると、三〇歳の子どもも、一〇歳の子どもも、同じに見える。

 そんなわけで、今の私には、三〇歳の女性も、一〇歳の女の子も、同じに見える。少し
まわりくどい言い方をしたが、つまり、親どうしの、こうした戦いを見ていると、私には、
実に子どもじみて見える。

 一〇歳の女の子が、自分の持ち物をひけらかして、得意になる。それを見て、別の子ど
もが、ひがむ。ひがんだついでに、ねたむ。そして意地悪をする。そしてたがいに、ささ
いなことで、言ったの言わないのと、喧嘩(けんか)を始める。

 三〇歳の母親に、「あなたがたがしていることは、一〇歳の子どものしていることと同じ
ですよ」と言っても、恐らく、理解できないだろう。私だって、三〇歳のときには、そう
は思わなかった。もしだれかが、三〇歳のときの私に、「お前のしていることは、一〇歳の
子どもがしていることと同じ」と言ったとしたら、猛然と、それに反発しただろうと思う。

 しかし、今の私は、はっきりと断言できる。「人間というのは、あるところまでくると、
それほど、進歩しないものだ」と。そしてその「あるところ」というのは、一七、八歳の
思春期までのころを言うのではないか、と。

 もちろんこうして、ここにあげた数字には、根拠はない。話の内容をわかりやすくする
ために、「例」としてあげた。

 で、私は、あるとき、それに気づいた。そしてそのときから、「親」を客観的に見ること
ができるようになった。と、同時に、あのドロ沼から、足を洗うことができた。

 今も、このH市の、どこかの小さな幼稚園では、醜い親どうしの、それこそ熾烈(しれ
つ)な戦いが繰りかえされている。「あの子が、合格? ウッソー!」「どうして、あんな
子が、合格したの?」「ええっ! あの子が、不合格! どうなってるのオ!」と。

 こんな電話を、親たちが、夜中の間、ずっと、たがいにかけあっている。うわさしあっ
ている。そして、(合格組)は、ことさらその優越感を味わい、(不合格組)は、その分だ
け、失意と落胆の世界に、たたき落とされる。

実際、この時期、自分の子どもが不合格になったことが原因で、寝込んでしまう親は、
少なくない。それがこじれて離婚騒動になったケースさえ、ある。中学生の息子が不合格
になったあと、自殺を試みた母親すら、いる。

 外部の人が見れば、まさに笑い話だが、しかし当の本人たちには、わからない。一年先、
二年先どころか、数日先のことすらわからない。見えるのは、ほんの目先のことだけ。そ
の目先のことすら、わからない人も少なくない。

 つまりこういう姿を見ていると、私には、その親たちが、一〇歳、あるいはそれ以下の
子どもと同じに思えてくる。親にはなった。子どもも育てている。しかし中身は、まった
く子どものまま、と。

 こうしたドロ沼から抜け出る方法は、ただ一つ。その人自身が、自ら考える人間になる
ことでしかない。考えて考え抜いて、自分の時点を高くもちあげる。そして高い視点から、
まわりの世界を見る。

 そうすればちょうど地図を見るように、迷った道から抜け出ることができる。ドロ沼か
ら、這い出ることができる。

 今、自分の子どもだけを見据えて、じっくり子育てができる親は、いったい、どれだけ
いるだろうか。「私は、私。うちの子は、うちの子」と考えて、じっくり子育てができる親
は、いったい、どれだけいるだろうか。

 子育ての問題とは言いながら、その実、周囲の雑音、騒音に、振りまわされているだけ。
今、子どものドロ沼の受験戦争に巻き込まれて、勝ち組になってはしゃいでいる親も、反
対に負け組になって落ちこんでいる親も、一度、じっくりと、自分を見つめてみてほしい。
(040126)

● 親どうしのつきあいは、『如水淡交』が、原則。決して深い入りしない。つきあいは事
務的に。「あぶない」と感じたら、さっとかわす。

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

最前線の子育て論byはやし浩司(010)

【近況、あれこれ】

●風邪

 今年はインフルエンザの予防注射を受けた。それで油断していたら、数日前から、咳(せ)
き込むようになった。

 熱はない。ほかに症状はない。そして日中は、咳かない。しかし、夜、床に入って横に
なったとたん、断続的に、咳がつづく。これが結構、苦しい。いや、咳が苦しいのではな
く、なかなか寝つかれないのが、苦しい。

 おかげで、今は、のどがガラガラ。ワイフも、「今の声、あなたの声じゃ、ないみたい」
と言う。自分では、それがよくわからないが……。


●回顧と展望

 先日、「回顧性と展望性」についての原稿を書いた。この二つの言葉は、発達心理学の世
界では、常識的な言葉だが、このところ、これらの言葉について、いろいろ考えさせられ
る。

 過去をあれこれ回顧するのは、別として、このところ、未来をあれこれ展望することが、
とみに少なくなってきたように感ずる。つまりそれだけ「思想の老化」が、始まっている
ことになる。

 私の知人(女性、八〇歳くらい)は、会うたびに、仏壇の仏具をみがいている。そして
話すことと言えば、過去のことばかり。そういう女性を見ると、「ああはなりたくないな」
と思うと同時に、「老人というのは、そういうものかな」と思ったりする。

 しかしいくら平均的な老人がそうであるからといって、だれも、それが理想の、つまり
はあるべき老人の姿だとは、思わない。要は生きザマの問題。ほかにも、別の生き方があ
るはずである。

 私たちは、無意識のうちにも、自分の親たちの老後を見ながら、そこに自分の老後を映
(うつ)してみる。とくに日本人は、自分の親を、絶対視する傾向が強い。だから、仮に
親の生きザマがおかしいと感じても、それを自ら否定してしまう。そして自分の中に、親
の生きザマを、引き入れてしまう。

 以前、私の家の近所に、金の亡者のような男性がいた。靴屋を営んでいたが、話すこと
と言えば、お金の話ばかり。ときどき私の家にやってきては、いくら儲けただの、損をし
ただの、そんな話ばかりをしていた。

 他人をだまして、小銭を稼ぐことなど、朝飯前。またそういうことをしても、みじんも、
恥じない人だった。それこそ、盗品で仕入れたような靴でも、平気で売っていた。

 その男性は、私が三〇歳くらいのときに死んでしまったが、最近、その男性の息子氏に
会うと、その息子氏は、こう言った。

 「私の父は、すばらしい人でした。ほら、子は、親の背中を見て育つと言うでしょ。私
も、父から学んだものは多いです」と。

 何も、その息子氏の父親が、つまらない人だったと言うつもりはない。その人はその人
で、戦後のあのドサクサ期を、懸命に生きてきた人だ。しかし私は、その息子氏の話を聞
きながら、その息子氏が、父親を、必要以上に美化しているのに気づいた。盲目的である
とさえ言ってもよい。

 たとえ父親であっても、冷静に判断する目だけは、失ってはいけない。でないと、親の
呪縛から、抜け出られなくなってしまう。いくらがんばっても、その親を、超えることが
できなくなってしまう。つまり、その親どまりの人間で、終わってしまう。

 実は、回顧性のこわいところは、ここにある。

 人は回顧することによって、自ら、自分の限界を、その中で、正当化してしまう。そし
てその限界を、自ら、どんどんと小さくしてしまう。小さくしながら、自分が小さくなっ
ていることにさえ気がつかなくなってしまう。それこそ、毎日仏壇の仏具をみがきながら、
それが人間として、そして人生の大先輩として、あるべき姿だと、思いこんでしまう。

 私はその息子氏に、こう言いたかった。

 「あなたのオヤジさんは、実につまらない、愚劣な人でした。小ずるくて、小心で、一
片の思想も、私は、感じなかった。タバコの帯を口で、パラパラとほどいて、そのまま包
装紙を、ぺっと道路へはき捨てるような人でした。そういうオヤジさんを、決して、あな
たの目標にしてはいけない」と。

 もちろんそんなことは言わなかった。「そうですね。おもしろい人でしたね」とは言った
が、それだけだった。

 私たちは、いかにして、未来への展望を持ちつづけるか。これはこれから先、老後を迎
える人にとっては、大きなテーマになるのではないだろうか。

 ゲオルギウというルーマニアの作家がいる。一九〇一年生まれというから、今、生きて
いれば、一〇三歳になる。そのゲオルギウが、「二十五時」という本の中で、こう書いてい
る。

 『どんなときでも、人がなさねばならないことは、世界が明日、終焉(しゅうえん)す
るとわかっていても、今日、リンゴの木を植えることだ』と。

 こういう生きザマなら、私にも、参考になるのだが……。


●意外な結果

 韓国にとって、もっとも脅威となっている国は、どこか? このほど、その調査結果が、
公表された。しかし、その結果は、意外なものだった。

 現在、あのK国は、韓国との国境沿いに、数万門もの大砲を配置している。化学兵器も
もっているし、生物兵器ももっている。おまけに核兵器ももっていると言われている。し
かし……。

 「韓国の安全保障にとって最も脅威となる国はどこか」という質問に対して、韓国の人
たちは、つぎのように答えている。

   アメリカ……39%
   北朝鮮 ……33%
   中国  ……11・6%
   日本  ……7・6%

 (韓国の世論調査会社が一月五日、全国の成人を対象に、米国、北朝鮮、日本、中国の
中から「最脅威国」を選ぶ方法で電話調査)

 今、アメリカは、体を張って、その最前線で、韓国をK国から守っている。その兵士の
数は、少し減ったとはいえ、三万五〇〇〇人。にもかかわらず、つまり韓国の人たちは、
あのK国よりも、アメリカのほうが、脅威であると感じているというのだ。

 この世論調査の結果からわかることは、韓国の人たちは、「アメリカが韓国を守ってい
る」とは、思っていないということ。むしろ自分たちは、アメリカの犠牲になっている、
と思っているということ。

 こうした意識は、日本人にも共通している。

 これはあくまでも結果論だが、もしあの戦争で、敗戦日があと一週間遅れていたら、日
本の九州と北海道は、旧ソ連の領土になっていただろうということ。「38度線は、本州と
九州の間に引かれていただろう」と主張する学者は多い。

 だからといって、アメリカでよかったとは思っていないが、もし日本が、中国や旧ソ連
の占領下に入っていたら、日本は、今ごろ、どうなっていただろうか。それを考えると、
心底、ゾーッとする。

 いろいろ言いたいことはあるが、政治の話は、ここまで。マガジンの読者の一人から、「政
治の話は、してほしくない」という意見をもらった。そう、政治の話は、こういうマガジ
ンでは、嫌われる。

(付記)1月26日付けの朝刊によれば、「韓国は、中国、日本の軍事的脅威に対抗するた
め、2015年までに、原子力潜水艦を開発する」ということだそうだ。私には韓国の考
えていることが、まったく理解できない。韓国イコール、K国の一部ということなら、理
解できるが……。


●読者の方より

 愛知県にお住まいの、Yさんという方から、マガジンについての感想が届いた。

 「毎日、許して忘れるだけを、実行しています」と。

 簡単なメールだったが、うれしかった。何というか、心の友ができたような、うれしさ
だった。

 この言葉以上の、子育てはない。またこの言葉を忘れて、子育ては、ありえない。私も、
自分の子育てをしながら、何度、この言葉に救われたことか。

 みなさんも、もしどこかで子育てで、行きづまりを覚えたら、この言葉を思い出してみ
てほしい。きっと、心が軽くなるはず。


●夜の街中を歩く

 今夜は、夕食を求めて、夜の繁華街を歩いた。こういう寒い夜は、焼きソバ(広島焼き)
と、決めている。

 それにしても、冷たい風だった。頬を切るというか、風が頬をなでると、そこが痛かっ
た。私は子どものころから、寒いのが、苦手。寒いと身も心も、凍りついたように、動か
なくなる。

 血圧が低いということもあるのかもしれない。それにずっと、菜食中心の食事に心がけ
てきた。体の中のエネルギーそのものが、不足している。

 しかし人通りのない街中を、トボトボと歩くのも、みじめなもの。「みんなは、こういう
寒い夜を、どうやってやり過ごしているのか」と、何度も、考える。

 ブティックも、飲食店も、どこもガラガラ。客はいない。しゃれたファーストフードの
店だけが、そこそこの若者たちで、にぎわっている。その横を通りすぎながら、急ぎ足で、
焼きソバ屋へ向かう。

 何度か、咳(せき)が出る。そのたびに、ハンカチで、口を押さえる。いつもなら時間
を見ながら、あちこちを寄り道するのだが、今夜は、その元気がない。そそくさと歩き、
そそくさと焼きソバ屋のあるビルへと入った。

 ドアの取っ手に手をかけた瞬間、おかしなことだが、私は、その夜、フトンの中に入っ
て、寝ることを考えた。

 電気毛布をうんと熱くしておいて、その中に体をすべりこませる。ぶ厚いフトンで、頭
まで隠して、ゆっくりと身を丸める。昨日の夜も、おとといの夜も、そうしたはずなのに、
そういう温もりが、懐かしくてならない。

 店のドアを引きながら開けると、そこにいつもの若い店員が立っていて、こう叫んだ。

 「いらっしゃいませ!」と。私は、ふと、そのフトンの中に足を入れたかのような、錯
覚にとらわれた。そしていつもの席に、座った。


●子どもの体力

 何かの調査で、逆上がりのできない子どもや、長距離走をしても、途中で座りこんでし
まう子どもが、ふえていることがわかったそうだ。

 (「三年生の四つのクラスで、逆上がりをさせたところ、できた児童は、一クラスあたり、
わずか4〜5人。腕力不足から、自分の体を支えることができない子どももいた」(日教組、
教育研修全国集会))

 こういう調査で注意しなければならないのは、「昔はできたが……、今はできない」とい
う論法である。いつも、その「昔」に基準をおく。

 三〇年ほど前には、ナイフで、鉛筆を削れない子どもが問題になった。そのあと少しし
て、ソロバンができない子どもが問題になった。そのころすでに電卓が、広く使われるよ
うになっていたから、私は、こう思った。「ソロバンの時代は、終わったのに……」と。

 時代は、変わる。子どもも、変わる。そこで大切なのは、(できなくなった)ことを、退
化ととらえるか、それとも、変化ととらえるか、その視点を見失ってはいけないというこ
と。この視点を見失うと、何がなんだか、わけがわからなくなってしまう。

 実は私も、子どものころ、鉄棒だけは、苦手だった。逆上がりにしても、たしか小学二
年生の終わりまで、できなかったような記憶がある。どうしてもコツが、のみこめなかっ
た。しかし、だ。

 どうして逆上がりなど、できなければいけないのか?

 私は腕白少年で、活動的だった。敏捷(びんしょう)性もあった。ハンドテニス、軟式
ボールの野球(ワンバウンド野球)など、どれも得意だった。泳ぐのも、うまかった。し
かし鉄棒だけは、苦手だった。あるとき、「あんなサルのようなマネなど、できるか!」と、
思ったことさえある。

 今、子どもたちの体力は、どんどんと落ちている。私にも、それがわかる。夏場になる
と、クーラーなしでは、呼吸も楽にできない子どもさえいる。青白い顔をして、ハーハー
とあえぐ。胸をかきむしる。

 決して無視してよい問題ではない。ある意味で、深刻な問題である。しかし反対に、で
は逆上がりができるようになれば、こうした問題が解決するかといえば、そうでもない。
問題の「根」は、深く、大きい。

 そこで学校では……、という話は書きたくない。子どもの問題を、すべて学校で解決し
ようという発想そのものが、まちがっている。仮に体力が落ちたとしても、それは学校の
責任ではない。このことは反対の立場で考えてみればわかる。

 教育はもちろん、しつけ、心理、衛生、家庭教育、もろもろの指導、健康に安全教育な
どなど。すべて学校の先生に押しつけるほうが、おかしい。まちがっている。こういう発
想がつづくかぎり、問題は、何も解決しない。しないばかりか、つぎからつぎへと、新し
い問題が起きてくる。そしてそのたびに、教育現場が混乱する。

 学校の先生にしても、もうこれ以上、仕事を引き受けないことだ。できないことは、で
きないとはっきり言えばよい。上から言われるまま、すべての問題を背負い込んでしまう
から、疲れる。神経をすり減らす。あるいはかえって、教育そのものが、なおざりになる。

 今度の調査でも、いろいろな学校の取り組みが紹介されていた。『忍者修行』を取り入れ
ている学校の話も書いてあった。方法としては、いろいろあるのだろうが、しかし……。

 結局は、「家庭教育がなっていない」ということを言いたいのだろう。この報告をした、
S教師は、「幼少期に遊びの中で、基礎的な体力をつけていない子がふえている」と説明し
ている。考えてみれば、当たり前の結論だが……。

 
●受験競争(2)

 「家でまったく勉強しない高校生が、約四割」(某調査)。しかし一部の親や子どもたち
の間では、かえって受験競争は、過熱化している。

 長引く不況の中で、生活は、ますます苦しくなる一方。大本営発表では、「景気は上向い
ている」とのこと。しかし本当に、そうか? 日本経済全体では、昨年度は、約10兆円
の利益をあげたという(03年度の貿易統計。貿易黒字は、10・2兆円)。しかしその大
半は、公務員や準公務員のふところへと消えた。

 なぜ、こうしてまた、受験競争が、過熱化しているか? 理由など、改めて言うまでも
ない。

 日々の生活をとおして、親たちは、この日本の社会にはびこる不公平を、いやというほ
ど、見せつけられている。この不公平が、こうした受験競争の温床になっている。言いか
えると、この不公平感がなくならないかぎり、受験競争は、なくならない。

 あるコンピュータのソフト会社の社長と、昼飯をいっしょに食べたときのこと。その社
長の話題は、もっぱら、いかにして県や市の補助金を手に入れるか。いかにして公的な仕
事を引き受けるか。そういう話ばかりだった。

 こうした現象は、今、あらゆる業種におよんでいる。しかも全国津々浦々。日本は奈良
時代の昔から、官僚主義国家。行政改革など、どこ吹く風。ここへきて、公務員や準公務
員の世界は、むしろ肥大化している。

 もちろん一人ひとりの公務員や準公務員の方に、責任があるわけではない。日本の社会
機構というか、そういうシステムそのものに問題がある。そしてその責任はといえば、私
たち自身の、「自分さえよければ……」という利己主義。「さわらぬ神に……」という、こ
となかれ主義にある。

 こういう不公平を見せつけられても、それを問題とする前に、「あわよくば、私も……」
「せめてうちの子も……」と考えてしまう。こういう日和見(ひよりみ)主義的なものの
考え方が、ここでいう不公平にますます拍車をかける。

 日本を本当によくしたいと考えるなら、私たち一人ひとりが、問題意識をもつしかない。
つまりは、賢くなるということ。もっと言えば、考える人間になること。体制に流される
まま、流されていたのでは、この日本は、絶対に、よくはならない。この先、一〇〇年で
も二〇〇年でも、こうした官僚主導型の社会機構は、変わらない。と、同時に、日本型の
受験競争は、なくならない。
(040127)

+++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

最前線の子育て論byはやし浩司(011)

●愚人と賢人

 ずいぶんと昔だが、私に面と向かって、こう言った女の子(中三)がいた。

 「あんた(=私のこと)も、くだらねエ仕事、してるねエ。私やア、おとなになったら、
あんたより、もう少し、マシな仕事をすっからア」と。

 私は、その女の子を見ながら、怒るよりも先に、「なるほどなア」と思った。私のしてい
る仕事は、その程度だということは、自分でも、よくわかっている。しかし私は、その女
の子の前では、本当の私の姿を見せていない。見せる必要も、ない。

 まただからといって、その女の子を、責めているのでもない。最近の若い人たちは、多
かれ少なかれ、みな、そうだ。何も、彼女が、特別というわけでもない。この時期の子ど
もは、生意気になることで、自分を主張しようとする。

 それに、多分、今でも、子どもたちから見る私は、バカで、ドジで、どこかダサイ、初
老の男なのだろう。私も、あえて子どもたちの前で、そういう男を演じてみせている。

 で、私は、一つの事実に気がついた。

 愚人には、賢人がわからない。どの人が賢人であるか、その区別さえできない、と。

 たとえばこんなことがある。

 幼児クラスで、私が、わざと、「3+4」の問題を、まちがえてみせたとする。すると、
子どもたちは、「先生、ちがう!」と騒ぎだす。常識で考えれば、(あくまでもおとなの常
識でだが……)、私という人間が、そんな簡単な足し算で、まちがえるはずはない。

 しかし子どもたちには、それがわからない。中には、本気で怒ってしまう子どもさえ、
いる。「あんた、本当に、先生!」と。

 しかし賢人には、愚人がよくわかる。あたかも手に取るかのように、よくわかる。何を
どう考え、どう思っているか。そしてその先、どういう結論をだすかまで、わかる。この
足し算のケースでいうなら、子どもが怒りだすところまで、わかる。

 つまり冒頭にあげた女の子は、そのレベルの子どもということになる。(私が賢人である
かという話は、別にして……。)少なくとも、私は、その女の子よりは、賢人である。だか
ら、「なるほどなア」と思った。またそう思うことで、自分の心を、処理した。

 で、私は、そのあと、その女の子と、こんな会話をした。

私「君は、将来、どんな仕事をするの?」
女「まあね、いろいろ」
私「たとえば……」
女「まあね。でもね、先生、私も将来、何もすることがなくなったら、塾の講師でもすっ
から。そのときは、先生、よろしくね」と。

 つまりその女の子は、対、私との関係では、愚人ということになる。自分が愚人である
とさえ、気づいていない。(だから、愚人ということになるが……。)だから私が、どうい
う人間であるかさえ、わからない。理解もできない。

 こうして私は、一つの結論を導いた。それが、つぎの一文である。

 『愚人は、決して、自分を愚人と思わない。しかし賢人は、いつも自分を愚人と思う。
そして愚人からは、賢人がわからない。自分と同じ人間だと思う。が、賢人からは、愚人
がよくわかる。これが愚人と賢人のちがいである』である。

●愚人論

 簡単な例では、『堂々巡り』という言葉がある。あるいは、『小田原評定』というのもあ
る。同じことを繰りかえし考えるだけで、前に進まないことをいう。これを、「思考のルー
プ」という。

 一度、このループ状態にはいると、進歩が止まるのみならず、ばあいによっては、後退
する。

 たとえば昨夜、私はテレビのチャンネルをかえるとき、あるバラエティ番組をのぞいて
みた。夜の九時台だった。

 見ると、お笑いタレントとしてよく知られている、Sという男が、ペラペラと何かをし
ゃべっていた。軽妙なタッチで、若い人たちには、それなりに受けはよい。しかし私は、
ふと、こう思った。「この男は、五年前にも、そして一〇年前にも、同じことを言っていた
ぞ」と。

 実のところ、同じかどうかはわからない。しかし昔、彼がしゃべったのを何度か聞いた
ことがあるが、どの一つも、記憶に残っていない。何かしら、いっしょに笑ったような覚
えはあるが、それだけ。

 お笑いタレントのSが、ループ状態に入って、同じようなことをしゃべるのは、構わな
い。それが彼の仕事である。問題は、それを見たり聞いたりする、視聴者である。実は、
この視聴者も、ループ状態に入る。

 もう少しわかりやすい例で考えてみよう。

 たとえばプロ野球が、ある。

 私はあるとき、プロ野球を見ながら、こう考えたことがある。

 「毎年、毎年、こうしてプロ野球は、繰りかえされる。しかし中身は、同じではないか」
と。

 もちろん中身は、ちがう。試合の内容も、ちがう。しかし三〇年前のプロ野球も、最近
のプロ野球も、プロ野球は、プロ野球。パターンこそちがうが、「プロ野球」という全体の
ワクは、同じ。

 ワイフと、こんな会話をした。

私「たとえばその日の献立を考える。そのとき、『何を食べようか』と考える。考えながら、
頭の中で、いくつかの料理を思い浮かべる。そのとき思い浮かべる料理の内容はちがうか
もしれないが、献立を考えるというワクは、同じ」
ワ「だから、どうなの?」
私「思考も、これによく似ている。いろいろなことを考えるが、一定のワクができると、
そのワクの中だけで、同じようなパターンを繰りかえすようになる。しかしこうなると、
思考は、進歩を停止する」

 思考が停止した状態になると、明日も今日と同じ、あさっても、その明日と同じという
状態になる。しかしこうなれば、その人は、死んだも同然。

私「人間は考えるから、人間なのだ」
ワ「いつものあなたのセリフよ」
私「そうだ。考えることによって、前に進むことができる」
ワ「考えなかったら……?」

 私は、老人たちの会話を例にあげた。どこかの公園に集まって、毎日、毎日、同じ会話
を繰りかえしている、あの老人たちである。

 もちろんそれが悪いというのではない。人は、人、それぞれ。またほとんどの人は、み
な、そうなる。しかし若い人は、そうであってはいけない。

私「若い人でも、思考のループに入ってしまう人はいくらでもいる」
ワ「そういう人は、死んでいるの?」
私「思考的には、そういうことになる」

 そこで問題は、どうすればそのループ状態から、抜け出ることができるかということ。
いや、その前に重要なことは、自分が、ループ状態にあることに気がつかなければならな
い。

 たとえば、今のあなたを、一〇年前のあなたとくらべてみればよい。二〇年前のあなた
とくらべてみればよい。が、それがわからなければ、あなたの近くにいる、叔父や叔母を
一人選んで、その人を外から観察してみればよい。

 あなたなら、あなた。その人なら、その人が、一〇年前と同じ、あるいは二〇年前と同
じというのであれば、あなたや、その人は、ループ状態にいるとみる。このタイプの人は、
一〇年一律なことばかりを、口にする。そして同じことを、同じパターンで繰りかえす。

 では、どうするか。そういうループ状態から抜け出るには、どうするか。このことを、
あの釈迦は、『精進(しょうじん)』という言葉を使って説明した。つまり常に、今のカラ
を破り、前に進む。そこに生きる、人間の尊さがある。人間の価値がある、と。

私「大切なことは、考えること。この一語に、行きつく」
ワ「どう考えるの?」
私「いいか、思想というのは、言葉でできている。だから考えるということは、ものを書
くことということにもなる。人間は、書きながら考え、考えながら、書く。そうすると、
荒野の荒地に、ときどき小さな、光るものを見つけることがある。あとは、その光るもの
を、どこまでも追いつづければいい」と。

ワ「それが精進ってことね」
私「そう。あえて言うなら……」
ワ「何よ……」
私「先へ進めば進むほど、相対的に、まわりの人が、幼稚に見えてくる」
ワ「愚かに見えてくるということ?」

私「はっきり言えば、そういうことになるかもしれない。だから一〇年前、あるいは二〇
年前につきあった人と、会ってみればいい。そういう人と会って話してみたとき、自分が、
昔のままだと感じたら、たがいにループ状態にいるとみていい。しかし相手が愚かに見え
たら、自分はループ状態から、抜け出たとみていい」と。

 こうして人間は、死ぬまで、歩きつづける。求めて、求めて、歩きつづける。もちろん
ゴールは、ない。そう言いきるのは危険なことかもしれない。しかしゴールは、ない。荒
野は、どこまでも果てしなく、つづく。そしてゴールだと思っても、必ず、その先は、あ
る。

 最後にもう一度。

 愚人は、決して、自分を愚人と思わない。しかし賢人は、いつも自分を愚人と思う。そ
して愚人からは、賢人がわからない。自分と同じ人間だと思う。が、賢人からは、愚人が
よくわかる。これが愚人と賢人のちがいである。
(040127)(はやし浩司 愚人 賢人 愚人論 賢人論)

+++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

最前線の子育て論byはやし浩司(012)

●子どもの受験勉強

 この日本では、受験勉強を、避けて通ることはできない。現実に、受験競争は、そこに
ある。だから子どもの受験勉強も、そこにある。

 で、その受験勉強を、三〇年以上にわたって私は、指導してきた。私自身は、「受験」を
意識したことはあまりないが、しかし親たちは、当然のことながら、受験を考えて、子ど
もを私に任す。

 で、概して言えば、その受験で、成功するグループと、そうでないグループがあるのが
わかる。

 成功するグループの親は、どっしりと落ちついている。子ども自身がもつ、大きな波を
しっかりととらえ、さざ波程度では、動揺しない。

 一方、失敗するグループの親は、そのつど右往左往して、つかみどころがない。大きな
波を見ることができず、そのつどさざ波程度で、動揺する。

 理由がある。

 子どもを伸ばすという意味は、二つある。一つは、伸ばすこと。これは当然だが、もう
一つは、つぶすようなことは、しないということ。わかりやすく言えば、親自身が、子ど
もの伸びる芽をつんでしまうことがある。それをしないことを、いう。

 さざ波で動揺する親というのは、動揺しながら、子どもの伸びる芽をつんでしまう。い
ろいろな例がある。

 よくあるケースは、子どもが受験期にさしかかると、超難解な参考書や、ワークブック
をどっさりと買いこんで、子どもに与えること。しかも、問題量そのものが多い。

 こういう参考書なり、ワークブックをかかえたら最後、子どもの勉強は、にっちもさっ
ちもいかなくなる。あくまでも子どもの能力に合わせたものを選ぶのがよい。……という
より、最初は、一レベルも二レベルも、子どもの能力より下にあるものを選ぶ。

 ほかに、無理、強制、条件、比較がある。これを「学習の動機づけの四悪」と、私は呼
んでいる。これについては、たびたび書いてきたので、ここでは省略する。

 で、「さざ波」というのは、そのつど、子どもの周囲で起こる、変化のことをいう。少し
成績があがったりすると、ぬか喜びし、さがると、取り越し苦労をする。あるいは、ささ
いな問題を、ことさら大げさに取りあげたり、騒いだりする。子どもとの間で、騒動を繰
りかえす。「勉強しろ!」「うるさい!」と。

 こうした親の動揺は、子どもの学習には、まさに百害あって一利なし。子どもの成績と
いうのは、半年単位。短くても、三か月単位でみる。一か月や二か月、勉強したくらいで
成果など、出るはずもない。

 ……という否定的な意見はさておき、では、親として、どう構えたらよいのかというこ
とになる。

 一つは、子どもの中に、大きな流れを感じたら、その流れに、身を任すということ。あ
なたが、ごくふつうの人(失礼!)であるように、あなたの子どもも、また、ごくふつう
の子ども(失礼!)。

 「うちの子は、やればできるはず」と思ったら、「やってここまで」と思いなおす。「ど
うしてうちの子は、できないの」と思ったら、「うちの子は、うちの子なりに、よくがんば
っている」と思いなおす。

 こうして大きな流れの中に、子どももおき、あとは、一に様子をみ、二に様子をみる。
さざ波には、動揺しない。万事、おおらかにかまえて、子どもをワキから支える。

 私も、子どもと同じ数だけの、親たちを見てきた。そして今も、多くの親たちと、毎日
のように接している。で、結論として言えることは、子どもを伸ばすのも親なら、子ども
の伸びる芽を摘んでしまうのも、親だということ。だから子どもを伸ばすことを考えたら、
まず、親自身が、子どもの伸びる芽を摘んでしまっていないか、それを謙虚に反省する。

 最後に一言。ここで「成功」「失敗」という言葉を使ったが、これは私の本意ではない。
こういう言葉は、こうして書くだけでも、不愉快である。
(040127)

+++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司※

最前線の子育て論byはやし浩司(013)

●思考の老化

 体が衰えるように、思考も、老化する。「古くなる」ということではない。老化する。

 その第一の症状。融通性がなくなり、小回りがきかなくなる。がんこになり、自分の考
えに、固執する。相手に対して、許容範囲が狭くなる。

 こうした老化を防ぐためには、若い人と接するとよい。とくに子どもが、よい。子ども
といっしょになって、騒いだり、笑ったりすると、よい。

 思考が老化すると、当然のことながら、若い世代の人たちと、コミュニケーションが、
うまくとれなくなる。が、問題は、それだけではない。

 私が「思考の老化」を感じたのは、こんな事件があったときのこと。ある日、事務所で、
ひとりでぼんやりとしていると、三五歳くらいの女性が、突然、やってきた。そしてこう
言った。

 「先生、南京虐殺事件では、日本軍は、三〇万人も、殺していません。せいぜい、三万
人だそうです。どうして中国は、こうまで日本を悪く言うのでしょうか。許せません」と。

 当時、マスコミで、南京虐殺事件が話題になっていた。そしてある月刊誌が、「南京虐殺
事件はなかった。三〇万人説は、中国側のでっちあげ」と、報道していた。その女性は、
その記事を読んだらしい。

 しかし、私はこう言った。「三万人でも、問題でしょう。三〇〇〇人でも、三〇〇人でも、
問題でしょう。どうしてそのとき日本軍が、南京にいたのですか?」と。

 するとその女性は、ますます血相を変えて、こう叫んだ。「それは、中国が日本を攻めた
からです!」と。

 残念ながら、明治以後、中国は、今にいたるまで、日本という国に対して、一度だって、
爆弾を落としたことはない。ただの一度もない。私がそれを言うと、その女性は最後には、
「あなたはそれでも、日本人ですかア!」と、言いはなった。

 実に不愉快だった。それは私の全人格を否定されたかのような、不快感だった。その女
性が帰ったあとも、私は、しばらく心の中の胸騒ぎを消すことができなかった。

 で、しばらくして、つまり冷静になってから、私は、その女性のことを、あれこれ思い
浮かべてみた。決して、「古さ」を感じさせるような女性ではなかった。都会的なファッシ
ョンで、身を包んでいた。六〇代や七〇代の、戦争を経験した人が、そう言うなら、まだ
わかる。しかしその女性は、私より、ずっと、若かった。

 私も、実は、「三〇万人説」は、でっちあげだと思う。たった数日で、それだけの人を殺
そうと思ったら、想像を絶する作業になってしまう。あのドイツのアウシュビッツ収容所
ですら、一日、数万人が限度だったという。

 しかし残虐な殺し方であったことは事実のようだ。生き埋めにして、家族に、その上か
ら足で踏みつけさせたという。地の中からは、生き埋めになった人の肺が、ボスンボスン
と、はぜる音が聞こえたという。

 ……ということがきっかけで、私は「思考の老化」について、考えるようになった。

 その女性は、私より、はるかに若かった。しかしどこか身勝手で、かたくなだった。そ
ういう姿勢を見ながら、「今時、老人だって、そんな考え方はしないのに……」と思った。
そしてそれが、「思考の老化」を考える、きっかけになった。

 思考が老化すると、相手の立場でものを考えられなくなる。このことは、反対に、発達
心理学の立場で考えてみればわかる。

 子どもは、成長するにつれて、相手に対する同調性や協調性を身につける。そしてそれ
がさらに進むと、相手の立場で、仮に自分が経験していなくても、相手の悲しみや苦しみ
を、共有することができるようになる。これを「共有性」という。

 しかしここで注意しなければならないことは、どの子どもも、みな、平等にそうなるわ
けではない。共有性どころか、同調性や協調性も未発達なまま、おとなになってしまう子
どもも、少なくない。

 私は、学生時代に、すでにその南京虐殺事件のことは、本で読んで知っていた。実にお
ぞましい事件で、自分が同じ日本人であることを、のろったことさえある。そういう思い
が基盤にあるから、「三〇〇〇人でも問題でしょう」という言葉が、自然と、口から出てく
る。

 が、その女性は、「(たった)三万人!」と言う。

 つまりこれが私が言う、「思考の老化」である。

 思考というのは、老化すればするほど、同調性や協調性、さらには、共有性まで失う。「が
んこ」という言葉で表現されるような、簡単なことではない。相手の立場で、ものを考え
ることができなくなってしまう。もっとはっきり言えば、他人の悲しみや苦しみが、理解
できなくなってしまう。

 子どもたちと接していると、彼らがもつ生命力に、はっと驚くことがある。その生命力
は、ものすごい。たとえ私が落ちこんでいても、その生命力に触れたとたん、気分そのも
のが晴れてしまう。それこそ、小さな魚が死んだだけで、涙をポロポロとこぼしたりする。
そういった「心の若さ」がなくなった状態が、「思考の老化」ということになる。

 老人になればなるほど、他人の悲しみや苦しみが理解できるようになると考えるのは、
ウソ。むしろ思考そのものが、老化してしまい、かえって鈍感になってしまう人のほうが、
多い。それはちょうど、健康に似ている。健康を維持するために、いつも体を鍛えるよう
に、思考もまた、鍛えなければならない。
(040128)(はやし浩司 思考の老化 脳の老化 老化論)

【追記】

 ワイフにこのことを話しているとき、ふと「思考も英語の単語と同じ」と言ってしまっ
た。ワイフは、「?」というような顔をしていたが、こういうこと。

 英語の単語も、使わなければ、忘れてしまう。一度、覚えたからといって、ずっと記憶
の中に残るというわけではない。

 思考力も、それと同じで、常に、磨かないと、すぐ鈍ってしまう。と、同時に、そのと
きから、思考の老化が始まる。

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

最前線の子育て論byはやし浩司(014)

●思考の老化(2)

 古いことを言うから、老化していることにはならない。反対に、新しいことを言うから、
老化していないということにはならない。

 たとえばその人が武士道を説き、明治の英雄をたたえたからといって、その人の思考が、
老化しているということにはならない。反対に、コンピュータを使って、ロックのCDを
聞いているからといって、老化していないということにはならない。

 思考が老化している人には、つぎのような特徴がある。

(1) がんこ……自分の考え以外は、受けつけない。「自分は絶対正しい」という、きわめ
て強い自己中心性がみられる。

(2) 単一性……行動、言動が、単一化、ワンパターン化する。日々の行動、月単位の行
動、さらに年単位の行動が、単調になる。またそうでないと、気が休まらない。

(3) 鈍感性……繊細(せんさい)な会話ができなくなる。ものの考え方が、おおざっぱ
で、いいかげん。相手の立場で考えて、こまかい気配りができない。

(4) 非融通性……その場、その場で、臨機応変に行動ができなくなる。自分の興味のあ
る範囲だけに関心をもち、年齢とともに、その範囲が、より狭くなる。

(5) 思考力の減退……感情論や、その場の雰囲気で、ものを言う。他人の受け売り的な
意見が多くなる。自分で考えることができない。

 要するに柔軟な思考性をなくすことをいう。そしてその結果として、それまでの自分に
固執するあまり、新しい世界を否定したりするようになる。

 R氏(七〇歳男性)も、その一人。

 玄関を入ると、織田信長と徳川家康の肖像画が飾ってある。江戸時代には武家だったと
かで、その奥には、古びた鎧(よろい)兜(かぶと)が、並べてある。

 今、R氏の家では、R氏と息子氏との、争いが絶えない。R氏の住んでいる地域には、
昔からの儀式が、あれこれ残っている。毎月のように、それがある。「それをしろ!」と迫
るR氏。「いやだ!」とこばむ息子氏。

 息子氏は、こう言う。「軒につける飾りつけ一つをとっても、位置がおかしいとか、ずれ
ているとか、とにかくうるさくて困る」と。

 そのR氏は、このところ、ますますがんこになってきた。「最近の若いものたちは、先祖
を粗末にする」が、口グセにもなっている。

 そのR氏に、意見を言うものは、いない。いや、以前、一人、隣の村に住む、甥(おい)
が、意見を言ったことがある。そのとき、その甥氏は、R氏に怒鳴りつけられた上、大き
なナタで、追いまわされたという。

 思考が老化すると、結局は、だれにも相手にされなくなる。しかしR氏には、そういう
さみしさそのものが、わからない。「自分は絶対に正しい」と思うのは、R氏の勝手だが、
その返す刀で、「お前は、まちがっている!」と言う。

 その思考の老化を防ぐために、いろいろな方法が考えられる。旅行がよいとか、趣味が
よいとか、多くの人と接するとよいとか、など。

 しかしそれも必要条件かもしれないが、それだけでは、思考の老化を防ぐことはできな
い。思考の老化を防ぐためには、常に、その思考力をみがかねばならない。またみがくた
めの環境を用意しなければならない。

 私は、個人的には、幼児や子どもと接するとよいと思っているが、みながみな、そうい
う環境を求められるわけではない。

 思考力というのは、油断をすると、すぐ停滞する。停滞するならまだしも、退化する。
そしていつの間にか、愚にもつかないようなことを口にするようになる。どういった人物
であったかを、自分で検証することもなく、「信長」だの、「家康」だのと言っている人は、
たいていこのタイプの人とみてよい(失礼!)。

 反対に、思考が若い人は、柔軟性があると同時に、繊細(せんさい)さがある。デリケ
ートな話をしても、スーッと、心にしみていくのがわかる。つまりは、そういう人は、思
考力が若いということになる。

 ……と書いて、この問題は、私自身の問題でもある。

 このところ自分でも、思考力が老化しているのがわかる。その一、感受性が、たしかに
弱くなった。その二、考えが堂々巡りする。その三、がんこになった。その四、集中力が
なくなり、サエが弱くなった、その五……。いろいろある。

 とくにサエがなくなってきたのが、気になる。数年前に書いた原稿と、最近書いた原稿
を、読みくらべてみると、それがわかる。このところ、書いている文章は、どこか、かっ
たるい? 甘い? 浅い?

 それにこのところ、他人の悲しみや苦しみに、鈍感になってきた。そのため、失敗する
ことが多くなった。人をキズつけるようなことを、平気で書いてしまう。言葉の使い方も、
乱暴になってきた。こまかい気配りが、苦手になってきた……。

 こうして人は、老いていくものなのか。あるいはこの問題は、老いていくとき、避けら
れないものなのか。ちょうど皮膚にシワができ、足腰が弱くなるように、だ。いくらがん
ばって運動しても、若いときのような健康は、取りもどすことはできない。

 最後に、数年前、こんな人に会った。ほぼ三〇年ぶりに会ったのだが、まったく会話が
かみあわなかった。

 その人(男性、私と同年齢)は、こう言った。

 「毎日、会社と自宅を往復するだけ。夜は、スポーツ新聞を読んで、野球の中継を見る。
休みは、天気のよい日は、魚釣り。雨の日は、パチンコ」と。

 しかしこういう人生に、いったい、どういう意味があるというのだろうか。人も、平凡
にかまけると、そういう生活を送るようになる。
(こういう失礼なことを、平気で書くようになったこと自体、私の思考も老化を始めてい
るということになるのだが……?)
(040128)

+++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

子育て随筆byはやし浩司(014)

●不安

 世の中には、収入の心配をしなくてもよい人というのが、いる。そういう人には、収入
が不安定な人がもつ不安感など、理解できないだろう。しかし不安は、不安。それは自営
業の人がもつ、宿命のようなもの。いくら「私は、自由だ!」と叫んだところで、この不
安感だけは、どうしようもない。

 私も、この三五年間、ずっと不安だった。今も不安だし、これからも不安なままだろう。
私は、若いころ、ある人に、こう言ったことがある。

 「サラリーマンの人が給料として手にする二〇万円と、自営業の人が手にする二〇万円
とでは、同じ二〇万円でも、中身がちがう」と。

 サラリーマンの人には、来月も、来年も、ほぼその額がもらえるという安心感がある。
しかし自営業の人には、それがない。来月のことはわからない。来年のことは、さらにわ
からない。

 「だから、自営業の人が、サラリーマンの人と同じだけの安心感を得ようと思ったら、
少なくとも、その二倍の四〇万円はないと、無理だ」と。

 が、あるときから、私は、その不安と戦うことをやめた。その不安を、心の中に受け入
れるようにした。しかしそれは決して、楽な決断ではなかった。

 「もし、今の仕事がダメになったら、家と土地を売ればいい。それで何とか、しばらく
の間は食いつないで、あとは年金と貯金で、暮らせばいい」と。

 そこまで割り切ったとき、この不安感の大部分は、解消された。

 ……で、今夜も、自転車で家に帰るとき、ふと、こんなことを考えた。「ぼくは、健康じ
ゃないか。家に帰れば、暖かい家庭もある。何が、不足なのだ」と。

 私はもう、「林家」という、「家」には、こだわっていない。私とワイフが死んだとき、
この家や、そして「はやし浩司」という名前が、この世から消えていても、どうというこ
とはない。「墓」には、さらにこだわっていない。

 つまりこの不安を心の中に受け入れるということは、自分を、そこまで納得させなけれ
ばならない。

 今、多くの人が、その不安の中で生きている。「来月は、どうなるのだろう?」「来年は、
どうなるのだろう?」と、思い悩んでいる人は、いくらでもいる。私もその一人だから、
偉そうなことは言えないが、ただこれだけは、言える。そういう不安感をかかえているの
は、あなた一人ではない。みんな、そうなのだ、と。

 だから……。

 みなさん、がんばって生きていこう。生きられるだけ、がんばって、生きていこう。そ
の先に何があるか、私にもわからないが、とにかくがんばって生きていこう。

+++++++++++++++++++++

以前、こんな原稿を書きました。この原稿を
書いていて、思い出しましたので、ここに掲
載しておきます。

+++++++++++++++++++++

●悲しき人間の心

 母親に虐待されている子どもがいる。で、そういう子どもを母親から切り離し、施設に
保護する。しかしほとんどの子どもは、そういう状態でありながらも、「家に帰りたい」と
か、「ママのところに戻りたい」と言う。それを話してくれた、K市の小学校の校長は、「子
どもの心は悲しいですね」と言った。

 こうした「悲しみ」というのは、子どもだけのものではない。私たちおとなだって、い
つもこの悲しみと隣りあわせにして生きている。そういう悲しみと無縁で生きることはで
きない。家庭でも、職場でも、社会でも。

 私は若いころ、つらいことがあると、いつもひとりで、この歌(藤田俊雄作詞「若者た
ち」)を歌っていた。

 ♪君の行く道は 果てしなく遠い
  だのになぜ 歯をくいしばり
  君は行くのか そんなにしてまで

 もしそのとき空の上から、神様が私を見ていたら、きっとこう言ったにちがいない。「も
う、生きているのをやめなさい。無理することはないよ。死んで早く、私の施設に来なさ
い」と。

しかし私は、神の施設には入らなかった。あるいは入ったら入ったで、私はきっとこう
言ったにちがいない。「はやく、もとの世界に戻りたい」「みんなのところに戻りたい」と。
それはとりもなおさず、この世界を生きる私たち人間の悲しみでもある。

 今、私は懸命に生きている。あなたも懸命に生きている。が、みながみな、満ち足りた
生活の中で、幸福に暮らしているわけではない。中には、生きるのが精一杯という人もい
る。あるいは生きているのが、つらいと思っている人もいる。まさに人間社会というワク
の中で、虐待を受けている人はいくらでもいる。が、それでも私たちはこう言う。「家に帰
りたい」「ママのところに戻りたい」と。

今、苦しい人たちへ、
いっしょに歌いましょう。
いっしょに歌って、助けあいましょう!

 若者たち

             
       君の行く道は 果てしなく遠い
       だのになぜ 歯をくいしばり
       君は行くのか そんなにしてまで

       君のあの人は 今はもういない
       だのになぜ なにを探して
       君は行くのか あてもないのに

       君の行く道は 希望へと続く
       空にまた 陽がのぼるとき
       若者はまた 歩きはじめる

       空にまた 陽がのぼるとき
       若者はまた 歩きはじめる

            作詞:藤田 敏雄

 そうそう、学生時代、NK彦という友人がいた。一〇年ほど前、くも膜下出血で死ん
だが、円空(えんくう・一七世紀、江戸初期の仏師)の研究では、第一人者だった。

その彼と、金沢の野田山墓地を歩いているとき、私がふと、「人間は希望をなくしたら、
死ぬんだね」と言うと、彼はこう言った。「林君、それは違うよ。死ぬことだって、希望だ
よ。死ねば楽になれると思うのは、立派な希望だよ」と。

 それから三五年。私はNK君の言葉を、何度も何度も頭の中で反復させてみた。しかし
今、ここで言えることは、「死ぬことは希望ではない」ということ。今はもうこの世にいな
いNK君に、こう言うのは失敬なことかもしれないが、彼は正しくない、と。

何がどうあるかわからないし、どうなるかわからないが、しかし最後の最後まで、懸命
に生きてみる。そこに人間の尊さがある。生きる美しさがある。だから、死ぬことは、決
して希望ではない、と。

……いや、本当のところ、そう自分に言い聞かせながら、私とて懸命にふんばっている
だけかもしれない……。ときどき「NK君の言ったことのほうが正しかったのかなあ」と
思うことがこのところ、多くなった。今も、「若者たち」を歌ってみたが、三番を歌うとき、
ふと、心のどこかで、抵抗を覚えた。「♪君の行く道は 希望へと続く……」と歌ったとき、
「本当にそうかなあ?」と思ってしまった。

++++++++++++++++++++++

 しかし、ね、みなさん。

 未来の子どもたちのために、まじめな人が、安心して暮らせる社会を、今、つくりまし
ょう。明日や、あさってではない。今、です。

 正直者が、損をする。小ズルイ人だけが、得をする。そんな社会と、みんなで力をあわ
せて、戦いましょう。

 いえね、決して、むずかしいことではありません。簡単なことです。

 ルールを守る。迷惑をかけない。ウソをつかない。約束を守る。自分に正直に生きる。
たったこれだけのことで、今、そういう社会を、私たちは手にすることができます。

 そのあとのことは、そのあとの人たちに任せればよいのです。私たちは、今、すべきこ
とを懸命にする。それでよいのです。
(040128)

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩
司 

子育て随筆byはやし浩司(015)

【近況あれこれ】

●KG議員の学歴詐称事件

 今(1月28日現在)、衆議院議員KG氏(民主党・福岡二区)の学歴詐称事件が、話題
になっている。アメリカのP大学を出たとか、出なかったとか。マスコミは、鬼の首でも
とったかのように、はしゃいでいる。

 もちろん学歴詐称は、許されない。許されないが、KG氏についていうなら、それほど
の大事件かというと、そうでもない。

 その第一。すでに三〇年前には、大学の単位は、アメリカでは共通化されていた。単位
を合算して、それが卒業に必要な単位数になっていれば、大学を卒業したことになる。

たとえばA大学で取った10単位と、B大学で取った10単位と、C大学で取った10
単位を、合計して、30単位とし、それでどこかの大学で、学位として認定されれば、そ
の大学を卒業したことになる。

(欧米では、落第は当たり前だから、仮に卒業していなくても、取得した単位や単位数が、
学歴として評価される。どうもわかりにくい話に聞こえるかもしれないが、大学のシステ
ムそのものが、ちがう。

 たとえば私の友人のR君などは、メルボルン大学に八年間在籍したが、学位は認定され
なかった。だから卒業したことにはならないが、準卒業者として、つまり大卒として、そ
の後、専門の仕事をしている。)

 どこの大学で、学位や修士号、あるいは博士号の認定を受けるかは、これはまったくの
別問題だが、ともかくも、大学名にこだわる理由など、どこにもない。ふつう、日本でい
う「卒業証書」というのは、その認定書をいう。

(有名な大学で、学位の認定を受けるのは、当然のことながら、たいへんむずかしい。
それだけ審査がきびしいということになる。だから欧米では、どこの大学で学んだかより
も、どこの大学で学位を認定されたかが、重要となる。)

 そこで問題だが、いわゆる「認定書がないから、卒業と書いたのは詐称」と騒ぐのは、
おかしい。日本人は、学歴に、ことさらこだわる民族だから、こうした事件を、重大に考
える。しかしKG氏は、大学に学籍を置いていたのは事実だし、ある程度は、ちゃんと勉
強もしたらしい。

 それに詐称したとされるP大学は、「詐称」「詐称」と騒がねばならないほど、有名な大
学でもないようだ。ハーバード大学を出たとか、MITを出たとか、そういう大学を卒業
したという話なら別だが、そういう大学でもないようだ。P大学というのは、田舎の小さ
な、どこかの宗教団体が経営する大学のようである。

 「出た、出た」と、誇るような大学でもないし、「出てない、出てない」と、非難するよ
うな大学でもない(失礼!)。

 ご存知ない方も多いと思うが、アメリカでは、博士号すら、お金で売っている大学は、
いくらでもある。教授職すら、お金で売っている大学も、いくらでもある。ウソではない。

 私のところにも、ときどき、「XX万円出せば、あなたを名誉教授にする」「YY博士号
を授与する」という、手紙が、ときどきくる。決してインチキな大学ではない。(インチキ
だが……。)ちゃんと名前の通った大学である。

 現に今、教育評論家として活躍している、Z氏などは、A国で、博士号を授与したこと
を、前面に出して活躍している。Z氏が、どうやってその博士号を手にしたかは知らない
が、問題は、どこの大学で、その博士号が認定されたか、だ。本当にZ氏は、その大学で
修士課程を経たあと、博士論文を評価されて、博士号を授与されたのだろうか?

 ここにも書いたように、教授職すら、お金で売っている大学がある! もちろんある程
度のお膳立てと、中身は必要だが、あなただって、その気にさえなれば、手に入れること
ができる。

 KG氏自身も、学歴にこだわった。正直に、「〜〜大学留学」と書けばよかったものを、
「〜〜大学卒業」と書いたため、問題になった。それに学歴にこだわるマスコミが、乗っ
た。つまりこの事件は、日本的な、どこまでも日本的な事件である。

 さてさて、これからどうなるか? 結局は、KG氏は、辞職に追いこまれることになる
だろう。日本という社会は、KG氏のような議員の存在を、許さない。私も、KG氏には、
同情はするが、KG氏は、基本的な部分で、正直さに欠けていた。やはり、衆議院議員と
しては、KG氏は、残念ながら、失格だと思う。


●ドキドキ、ハラハラの一週間

 ホームページが、めちゃめちゃになってしまった。新しいソフトで、新しいパソコンに
乗りかえるとき、ヘマをした。

 そこでこの一週間、悪戦苦闘。一時は、もうダメかとあきらめた。つまりまた、一から、
作りなおしと、そこまで覚悟した。実際、別のところで、新しく、ホームページを、作り
始めていた。

 で、最後の手段。本当に、最後の手段。……それを書いたら、長くなってしまうので、
省略。とにかく、その最後の手段を試みた。

 が、ナ、何と、正常にアプロードできるではないか!

 ファイル数、1494。約40MB。膨大なホームページである。ほとんどが、文字情
報のホームページだから、原稿用紙になおしたら、A4サイズで、1万枚以上! 

 その間、いつまたFTP送信が中断するかと、ハラハラ、ドキドキ。本当に、おっかな、
びっくり。そのときだけは、さすがの私も、肝を冷やした。冷や汗も流した。

 こうして待つこと、約15分。送信の様子が、パラパラと、グラフで示されるようにな
っている。私は、それを見ながら、こう考えた。

 「私も、なかなか、やるじゃん」と。

 ホント。このところ、たいていのトラブルなら、自分でなおせるようになった。ひょっ
としたら、そこらの専門家より、私のほうが、よく知っているかも。(これはウヌボレ!)
またまた私は自信をもった。ますますパソコンが好きになった。ははは。もう一回、はは
は。

 一週間分のUXXが、どっと出たような気分だった。(そういう経験は、ないが……。)
この爽快感は、たまらない! 本当に、たまらない!

 全国のみなさん、ありがとう!(あまり関係ないか……?)


●夜中に咳こむ

 体を起こしていると、ほとんど咳は出ない。しかし横になったとたん、咳が出る。

 花粉症のとき、ときどきぜん息になったことがある。そのときも、そうだった。だから
体を半分、起こして、寝る。枕や、座布団を、フトンの下に、高く敷いて寝る。

 ここ数日、その咳がひどい。自分の咳で、たびたび目をさます。から咳だが、のどの奥
が、痛がゆい。はげしく咳こむと、息が苦しい。そして一度、咳こむと、数回、つづけて
はげしいのが、つづく。

 そんなわけで、今は、午前三時。横で寝ているワイフに、申し訳ないので、起きて、書
斎へやってきた。

 これ以上、とくに書くことはないので、この話は、ここまで。どうやら、今度の風邪は、
こういう風邪らしい。あるいはインフルエンザかも? 一応、予防注射はしているので、
こういうおかしな症状になったのかもしれない。

 そうそう、SARS騒動が終わったと思ったら、今度は、鳥インフルエンザだそうだ。
自然界でも、つぎからつぎへと、いろいろなウィルスが現れている。気をつけよう!


●読者の方の反応

 ワイフに、こう言った。「読者の方の意見を募集したけど、返事をくれたのは、二人だけ
だった」と。

 するとワイフは、「あなたのマガジンは、まじめすぎるから」と。

 意味がよくわからないが、どうも私のマガジンは、そういう(?)マガジンらしい。チ
ャットルームも作ったが、読者の方と交信したのは、この一年間で、数回だけ。

 ほかのHPをのぞいてみると、みなさん、毎晩のように、はげしく交信している。私の
マガジンの、どこがいけないのか?

 「ヘタなこと書くと、あなたは、全部、原稿にしてしまうからね。みんな、それがこわ
いのかもよ」と。

 それはあるが、しかし一度だって、その個人が特定できるようなことは、書いたことは
ない。当然と言えば、当然だが、この部分については、いつも細心の注意を払っている。

 そんなわけで、もうあきらめた。読者の方は、読者の方で、あれこれと忙しいのだろう。
私は私で、マイペースで、原稿を書くしかない。ただひたすら、前向きに!


●被害妄想

 ワイフから聞いた話。

 X氏と、そのX氏と道をはさんで住んでいる、Y氏が、この10年、喧嘩(けんか)ば
かりしているという。で、最近、その喧嘩がエスカレートしてきたようだ。

 X氏は、「Y氏が、自分の家の中をのぞいている」と主張する。Y氏は、「そんなことは
していない」と言う。

 X氏は、家の窓ガラスを、すべて、すりガラス(型ガラス)にかえた。一方、Y氏は、
カーテンを、遮光カーテンにかえた。

 私は、Y氏の味方。Y氏はよく知っているが、X氏のことは、よく知らない。Y氏は、
こう言っている。

 「X氏は、昔から、私の家の中をのぞいてばかりいます。自分がそういうことうをして
いるから、他人もそうしていると思うのですね。こういうのを、被害妄想というのですか。
私は、X氏には興味はないし、家の中をのぞいたことは、ありません」と。

 昔から『泥棒の家は、戸締まりが厳重』という。こういうケースは、子育ての場でも、
いくらでもある。少しまわりくどい話になるが、こんなこともある。

 他人を学歴で評価する人は、自分の子どもの勉強に、うるさい。あるいは、学歴コンプ
レックスをもっている人ほど、自分の子どもの勉強に、うるさい。

 つまり人というのは、自分が気にしていることを、他人も自分に対して気にしていると
思いやすい。本当はだれも気にしていないのだが、自分で、そう思いこんでしまう。

 昔、息子(中学一年)の、SS中学校の一次試験の合格書を、もち歩いていた母親がい
た。その息子は、二次の抽選で落ちたのだが、よほど、それがくやしかったのだろう。つ
まり、その母親は、他人に、落ちたと思われるのがいやだった。だからことあるごとに、
その合格書を他人に見せていた。

 「うちの息子は、受験で落ちたのではありません。二次の抽選で落ちたのです。だから
その力はあったのです」と。

 その母親は、いつも他人の子どもを、学歴で判断していた。つまり自分が、他人の子ど
もの受験や結果を気にしていたから、他人も、自分の子どもの受験や結果を気にしている
と思った……らしい。

 この世界には、『他人の子どもを笑うな。他人の子どもを笑えば、笑った分だけ、いつか
自分の子どもが笑われる』という大教訓(?)がある。

 「笑う」とか、「笑わない」というレベルの話ではなく、そういう話には、近づかないこ
と。あなたの周囲で、だれかが、そういう話をしても、耳を傾けないこと。この種の話は、
あなたの心を腐らせる。

あなたはあなただし、あなたの子どもは、あなたの子どもなのだ。もっと言えば、他人
の子どもの学歴など、関心をもたないこと。もったところで、どうしようもない。

 で、そのY氏は、こう言う。「Xさんも、かわいそうな人です。成人した子どもは二人い
ますが、ほとんど、家には帰ってこないようです。数年に一回、あるかないかではないで
すか。そのため孤独になり、だからよけいに、私の家のことが気になるのですね」と。

 要するに、他人の家の中は、のぞかないこと。こういう行為は、ここにも書いたが、あ
なたの心を、腐らせる。
(040129)


●同窓会

大学の同窓会が近く、ある。
その同窓会があるたびに、三年前の正月を思い出す。
学生時代も遠い昔なら、その三年前も、遠い昔に思える。
なぜか?

+++++++++++++++++

●三一年目の約束

ちょうど三十一年前の卒業アルバムに、私はこう書いた。

「二〇〇一年一月二日、午後一時二分に、(金沢の)石川門の前で君を待つ」と。

それを書いたとき、私は半ば冗談のつもりだった。当時の私は二十二歳。ちょうどアー
サー・クラーク原作の「二〇〇一年宇宙の旅」という映画が話題になっていたころでもあ
る。私にとっては、三十一年後の自分というのは、宇宙の旅と同じくらい、「ありえない未
来」だった。

 しかし、その三十一年が過ぎた。一月一日に金沢駅におりたつと、体を突き刺すよう
な冷たい雨が降っていた。「冬の金沢はいつもこうだ」と言うと、女房が体を震わせた。と
たん、無数の思い出がどっと頭の中を襲った。話したいことはいっぱいあるはずなのに、
言葉にならない。細い路地をいくつか抜けて、やがて近江町市場のアーケード通りに出た。

いつもなら海産物を売るおやじの声で、にぎやかなところだ。が、その日は休み。「初売
りは五日から」という張り紙が、うらめしい。カニの臭いだけが、強く鼻をついた。

 自分の書いたメモが、気になり始めたのは数年前からだった。それまで、アルバムを
見ることも、ほとんどなかった。研究室の本棚の前で、精一杯の虚勢をはって、学者然と
して写真におさまっている自分が、どこかいやだった。

しかし二〇〇一年が近づくにつれて、その日が私の心に重くのしかかるようになった。
アルバムにメモを書いた日が「入り口」とするなら、その日は「出口」ということか。し
かし振り返ってみると、その入り口と出口が、一つのドアでしかない。その間に無数の思
い出があるはずなのに、それがない。人生という部屋に入ってみたら、そこがそのまま出
口だった。そんな感じで三十一年が過ぎてしまった。

 「どうしてあなたは金沢へ来たの?」と女房が聞いた。「…自分に対する責任のような
ものだ」と私。あのメモを書いたとき、心のどこかで、「二〇〇一年まで私は生きているだ
ろうか」と思ったのを覚えている。が、その私が生きている。生きてきた。時の流れは、
時に美しく、そして時に物悲しい。

フランスの詩人、ジャン・ダルジーは、かつてこう歌った。「♪人来たりて、また去る…」
と。

部分的にしか覚えていないが、続く一節はこうだった。「♪かくして私の、あなたの、彼
の、彼女の、そして彼らの人生が流れる。あたかも何ごともなかったかのように…」と。

何かをしたようで、結局は、私は何もできなかった。時の流れは風のようなものだ。ど
こからともなく吹いてきて、またどこかへと去っていく。つかむこともできない。握った
と思っても、そのまま指の間から漏れていく。

 翌一月二日も、朝からみぞれまじりの激しい雨が降っていた。私たちは兼六園の通り
にある茶屋で昼食をとり、そして一時少し前にそこを出た。が、茶屋を出ると、雨がやん
でいた。そこから石川門までは、歩いて数分もない。

歩いて、私たちは石川門の下に立った。「今、何時だ」と聞くと、女房が時計を見ながら
「一時よ…」と。私はもう一度石川門の下で足をふんばってみた。「ここに立っている」と
いう実感がほしかった。

学生時代、四年間通り抜けた石川門だ。と、そのとき、橋の中ほどから二人の男が笑い
ながらやってくるのに気がついた。同時にうしろから声をかける男がいた。それにもう一
人……! 

そのとたん、私の目から、とめどもなく涙があふれ出した。

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司


最前線の子育て論byはやし浩司(016)

【近況あれこれ】

●ゴミ捨て場

 私の家の近くに、ゴミの集積所がある。このあたり、約八〇世帯が、その集積所を使っ
ている。

 で、このところ、区域外の住民の、不法投棄が目立つようになってきた。夜中に車でや
ってきて、サッと捨てていく。今でも、ゴミの収集日を無視して、そのあたりに適当に捨
てていく人がいる。

 そこで自治会で話しあって、きびしくそれを規制しようということになった。正式に決
まったわけではないが、自治会長が、そう言った。

 しかしきびしくすれば、今度は、空き地にゴミがふえるだけ。私の家の横は、竹やぶに
なっている。そのため、その竹やぶの中に、ゴミを捨てていく人が、あとを断たない。ポ
リ袋に入った家庭のゴミだけではない。引っ越しで出た、大きなゴミまで捨てていく。

 空き缶や、弁当クズは言うにおよばず、物干し台のコンクリートの台座、ベッド、ソフ
ァ、雑誌類、自転車など。いつしかそういったものを清掃するのは、私の仕事のようにな
ってしまった。

 が、事件が起きた。

 (ここは、地主の悪口になるので、省略。)

 以来、その空き地の清掃をするのが、すっかり、いやになった。実際には、この一年間、
ほとんど、していない。

 おかげで、ゴミはたまる一方。道路沿いはともかくも、一歩、竹やぶに足を踏み入れる
と、ゴミの山。

 ふつうは、そういうゴミの中には、個人を特定できるようなものは、混ぜないようにす
るものだと思うが、そうではない。名前の書いたガソリンスタンドの請求書などが、堂々
と入っている。つまり犯罪でいえば、確信犯。

 「きびしく規制しても、かえって、環境が悪くなるだけです」と言うと、自治会長は笑
っていた。

 結局は、住民意識の問題ということになる。しかし一言。

 こうしたルールを平気で破る人は、そのときは、それで楽をするかもしれないが、それ
と引きかえに、もっと大切なものをなくす。やがて醜悪な人間になる。『真理から遠ざかる」
と言えば、少しおおげさに聞こえるかもしれないが、その人がそれに気づくころには、そ
の人の人生は、終わっている。


●おかしなビジネス

 息子が、一枚のパンフレットをもらってきた。見ると、「ニュージーランドで、フライト
スクールに通いながら、英語の勉強」というものだった。

 「学校の先生の家で、ホームステイ。週末は、毎週二時間のフライト・レッスン」と。

 価格を見て、驚いた。一か月で、39万円。2か月で、75万円!

私「これは高いよ!」
息子「……?」
私「いいか、オーストラリアでもニュージーランドでも、ホームステイは、週160〜1
80ドルが相場だよ。日本円で一か月、5〜6万円が相場だよ」
息「そんなに安いの?」
私「食事つきで、そんなものだよ。飛行機の操縦ができるといっても、横に座るだけだと
思うよ。それも週末の2時間だけ。それで75万円! 往復の旅費を入れたら、90万円
だろ!」

 今、大学生のまわりにとりついて、あの手、この手で、お金を儲けようとする業者が、
五万といる。そこで調べてみると、パンフレットには、飛行機を乗せてくれるというフラ
イトスクールの名前すら、書いてない。

私「どこのスクールか、その名前もないよ」
息「電話で聞いたら、ニュージーランド航空と提携していると言っていたよ」
私「そういう話は、信じてはだめだよ。もしそうなら、名前ぐらい、書くものだよ」
息「そうだよね……」

 私が驚いたのは、そのことよりも、息子が航空大学へ転学するという情報が、いとも簡
単に外に漏れているということ。合格して、一週間目には、そういう案内が、息子のとこ
ろに届いたという。恐らくどこかで、そういう情報が、売買されているにちがいない。

私「外国の語学校へ入りたかったら、自分で手続きをすることだよ。ただでできるからね。
業者に頼むと、100万円単位の費用を請求されるよ」と。

 今では、インターネットで、即時に、申し込み手続きができるしくみになっている。業
者に頼むくらいなら、行かないほうがよい。つまりそういう姿勢では、英語など、身につ
くはずもない。自分で手続きするところから、すでに英語の勉強は始まっている。

 今、ワルの間では、「大学生をカモにせよ」が、合言葉になっている。勉強ばかりをして
いきた大学生は、どこか常識が欠けている。そういう欠けた部分をねらって、この種の悪
徳業者が、あれこれ攻撃をしかけてくる。

 みなさんも、どうか注意してほしい。

【追記】
● 語学校への入学のしかた
 
(1) オーストラリア、ニュージーランド、カナダの大学に附属している語学校を選ぶ。
(2) インターネットでアクセスして、願書(申込書)をダウンロードして、プリント
アウトする。
(3) 必要事項を書き込み、願書を郵送する。
(4) インターネットで、授業料(送金額)などを連絡してくるので、その額を銀行で
振り込む。
(5) 入学許可書が届くので、それを添えて、学生ビザを取得する。これで入学は完了。

 語学校を終了したあと、成績がよければ、そのまま大学へ編入できる。そのためにも、
大学に附属している語学校を選ぶとよい。あとは本人の能力と努力しだい。ちなみに、ア
メリカのばあい、学位を取って卒業できる学生は、留学生のうち、約5%前後。20人の
うちの1人。当然のことながら、そんなに簡単ではないので、甘くみないほうがよい。


●不況と人間性

 不況がこわいのは、人間性を破壊すること。あるいはそれまで隠れていた邪悪な人間性
が、外に出てくること。

 私が学生時代に聞いた講義の中で、印象に残っているのに、こんなのがあった。

 「貧困は、公害の一つだ」と。

 教授の名前は忘れた。たしかイギリスから来ていた教授だと思う。「イギリス人らしい、
ストレートな意見だ」と、そのときは、そう思った。

 貧困がつづくと、心がむしばまれる。そしてそれが集合すると、「公害になる」と。

 先日、姉に電話をすると、姉がこんな話をしてくれた。姉の近くに、昔からの小さな町
がある。その町の一つの通りが、商店街になっている。しかしこのところ、その商店街が、
軒並み、店を閉め始めたという。近くに、大型スーパーができたためだという。

 「みんな、生活ができなくなると、夫婦仲まで、おかしくなってしまうのね。夫婦喧嘩
の絶えない家もあるのよ」と。

 つまり「店を閉める」までにいたる過程の中で、あれこれ騒動が起きるという。その騒
動が、夫婦関係まで、おかしくするという。

 このことは、たとえば離婚問題と似ている。「離婚」そのものは、子どもの心に、ほとん
ど影響を与えない。離婚にいたる、夫婦の間の騒動が、子どもの心に影響を与える。だか
ら離婚するにしても、そういう騒動を子どもに見せることなく、サラッと離婚するのがよ
い……。

私「収入が減ると、家庭の中が、ギクシャクしてくるからね」
姉「生活のレベルをさげるのは、簡単なことではないから。一度、ぜいたくを覚えると、
さげることができなくなるのね」
私「そのさげるとき、いろいろと問題が起きてくる」
姉「気分も、むしゃくしゃするからね」
私「それが騒動になる?」
姉「そうね」

 しかしこうした騒動が一時的なものなら、夫婦は、それを乗り越えることができる。個
人差もあるのだろうが、それが長期に、しかもジワジワとつづくと、人間性そのものまで、
ゆがめる。それこそ悪いことでも、平気でするようになる。人をだますようなことでも、
平気でするようになる。

私「ぼくの知っている人でも、親類や、友人までだました人がいるんだよ」
姉「ふつうなら、親類や、友人は、だまさないのだけれどね」
私「そう。しかし人間性が狂ってくると、それもわからなくなるみたい」
姉「貧乏って、こわいね」
私「いや、貧乏が原因じゃあ、ないと思う。それまでの人間性の問題だと思う」

 平和で生活も順調なときは、そうではない。しかしその平和が乱されたりすると、自分
の中の邪悪な部分が、外に出てくる。貧乏は、その引き金にすぎない。

 たとえば今、ここに、裕福で、何ひとつ不自由のない生活をしている人がいる。そうい
う人が、柔和な笑みを浮かべて、「お金では、幸福は買えません。大切なのは、心の豊かさ
です」と話したとする。

 しかしそれは、仮面。金持ちの仮面。その人の(心の豊かさ)が、本当にためされるの
は、その人が、貧乏のどん底に叩き落されたときだ。そのときでも、その人が同じセリフ
を口にしたとしたら、その人は、すばらしい人だ。

 今、この日本では、多くの人が、不況の嵐の中で、あえいでいる。苦しんでいる。そし
てそれは、ただみなが、貧乏になったというだけではない。貧乏になることで、心がむし
ばまれ、そして人間性まで、破壊されつつある。不況の本当のこわさは、そこにある。

私「貧乏になるとき、邪悪な部分が、少しずつ顔を出し始める。あとは、それとどこまで
戦うかだと思う」
姉「なるほど。戦えない人もいるわけね」
私「その戦いに敗れた人は、一挙に総崩れとなり、そのまま邪悪な人になってしまう」と。

 そんなわけで、その人の人間性というのは、どん底に落とされたとき、はじめて試され
る。そのときでも、すばらしい人間性を保つことができれば、その人は、本当にすばらし
い人ということになる。


●醜い老人、清楚(せいそ)な老人

 老人を観察するとき、その老人が、どういう人生を送ってきたかを、みるとよい。地位
や、肩書きではない。業績でもない。中身だ。人間性だ。

 老人になると、その人の生きザマが、そのまま外に、現れてくる。「隠そう」という意欲
が弱くなる。「ごまかそう」という気力が弱くなる。だから、ありのままが、外に、現れて
くる。

 そういう目で見てみると、醜いというか、実に醜悪な老人がいる一方で、清楚(せいそ)
な老人もいるのがわかる。しかしそうしたちがいは、実は、ささいなことから始まる。し
かもそうしたちがいというのは、子どものころからの積み重ねで決まる。

 まさに日々の積み重ねが、月となり、月々の積み重ねが、年となる。その年が積み重な
って、その人の人格となる。

 むずかしいことではない。ほんのささいなことだ。その瞬間々々、誠実であるとか、ウ
ソをつかないとか、ルールを守るとか、そういうことで、決まる。マザーテレサがしたよ
うな偉大な愛を実践したから、清楚になるとか、あるいは、実践しなかったから、醜悪に
なるということではない。

 もちろん名誉や地位や肩書きではない。そうでないことは、政治家を見ればわかる。見
るからにヘドが出そうな顔つきの政治家は、いくらでもいる。

 で、最近、私は、こういうことに気がついた。

 学問の世界で、業績を残した人がいる。それこそ大学で、教授や学長職を歴任したよう
な人である。で、少し前まで、学問の世界で道をきわめた人というのは、それなりに人格
的にも高邁(こうまい)な人だと、思ってきた。(今も、そう思いたい気持ちは、強いが…
…。)

 しかし(勉強ができる子ども)イコール、(人格者)ではないのと同じように、(学問を
きわめた人)イコール、(人格者)ではない。むしろ中には、仮面の上に仮面を塗りかため
たような人さえいる。

 若いころは、そういう人を見ぬくことができなかった。しかしそういう人たちと同年齢
になってみると、そうではないということがわかってきた。

 もちろん大半の人は、すばらしい人である。しかしそうでない分野にも、同じように高
邁な人は、いくらでもいる。私たちは、江戸時代の身分制度という亡霊を、いまだに引き
ずっているから、どうしてもその人を、地位や肩書きで、見てしまう。

 反対にたとえば農業を営んでいるような人に、高邁な精神をもった人を見たりすると、
心底、はっと驚くことさえある。なぜ驚くかといえば、私自身の中に、その亡霊がいるか
らにほかならない。

 そんなわけで、このところ街を歩いていても、老人が気になってしかたない。レストラ
ンなどで、横に老人がすわったりすると、その老人を、しげしげと見てしまう。そしてそ 
の老人の中に、キラリと光るようなすばらしさを見つけたときには、「どうしてこの人はこ
うなったのだろう」と考える。反対に、何か醜悪なものを感じたときには、「どうしてこの
人はこうなったのだろう」と考える。

 しかしそれは決して、ただ単なる観察ではない。「私自身は、どうなのか」という問題。
「私自身は、どうあるべきか」という問題。そういった二つの問題が、その観察にからん
でくる。

 このままいけば、私は、実に醜悪な老人になる。それが自分でも、わかっている。だか
らこそ、今、よけいに老人が気になるのかもしれない。


●立ち読み

 立ち読みで仕入れたネタで、ものを書くのは、本意ではない。しかし買ってまで、それ
について書いてみたいという内容でもなかった。

 読んだのは、月刊誌の「G」。その中でも、経済記事に目がとまった。

 いわく、「恐慌(きょうこう)が近い」

 日本政府は、「景気は上向いている」という。しかし日本政府は、どこをどう見て、そう
言っているのだろうか。これだけお金をバラまいているのだから、少しはよくなって当然
なのだろうが、冬の寒さと平行して、日本の景気は、冷えついたまま。

 「銀行封鎖は、時間の問題」ともあった。銀行を封鎖して、預金を凍結するというわけ
である。アメリカ発の恐慌が引き金となって、世界恐慌が誘発される。そしてその直後、
日本政府は、銀行を封鎖する、と。

 何ともおどろおどろしい話だが、ありえない話というよりは、今では、それを否定する
経済学者は、ほとんどいない? アメリカ経済も、日本経済も、無理に無理を重ねて、さ
らにその上で、たがいにもたれあいつつ現状を維持しているだけ? つまり日本経済は、
いつ、コケても、おかしくない。

 で、その「G」の中で、某経済学者は、こう忠告している。紙幣は、価値がなくなるか
ら、お金は、金地金(じがね)か、優良な不動産に、かえておけ、と。

 そう言えば、このところ、金地金の売買価格が、ジワジワと上昇をつづけている。(逆に
日本では、円高になっているので、日本での価格は、それほど、上昇していない。)どうや
ら世界の経済は、危険水域に入ったようである。

 この先のことは、私には、わからない。その雑誌を読み終えたあと、何とも言えない胸
騒ぎを覚えた。


●読者の方からの相談より……
 
 今回も、何人かの人たちから、いろいろな相談をもらった。
 
 一人は、夫婦の問題。身近に離婚寸前の人がいるが、どうしたらいいか、と。

 夫婦の問題は、なるようにしかならない。またならないようには、ならない。他人が介
入したからといって、解決する問題ではない。しかし介入しなくても、解決するときは、
すんなりと解決する。

 幸福な夫婦は、みなよく似ている。しかし不幸な夫婦は、それこそ千差万別。みな、ち
がう。

 しかし夫婦の問題は、夫婦の問題。夫に殴られても、蹴られても、それでもその夫から
離れられない妻がいる。あるいは家庭内別居で、この数年、セックスがなくても、それな
りにうまくやっている夫婦もいる。

 だから身近で、こういう問題が起きたら、ただひたすら、暖かく無視してやるのがよい。
へたに首をつっこむと、ヤケドする。

 もう一人の読者の方からの相談は、その母親自身についての相談。心に大きなキズをも
っている。そのため、息子につらくあたってしまう。だから「どうしたらいいか」と。

 しかしその母親は、すでに問題のほとんどを、解決している。「キズがある」と気づくだ
けでも、たいへんなこと。ほとんどの親は、キズがあることにさえ気づかない。気づかな
いまま、同じ失敗を繰りかえす。

 子どもを愛するということは、どこまで子どもを許し、忘れるかということ。その度量
の深さによって、親の愛の深さが決まる。ただひたすら、「許して忘れる」。これを繰りか
えす。あとは、時間が解決してくれる。


●読者の方へ

 正直に書きます。

 読者の数を気にしていないというのは、ウソです。できるだけ気にしないでおこうとは
思っていますが、やはり気になります。

 今朝も、このところ、何かと不愉快なことがつづいて、気分が落ちこんでいました。で、
パソコンに向かって、電源を入れるまで、「今日は原稿を書くのをやめようか」と思ってい
ました。実のところ、その朝に、読者の方の数がふえていなかったりすると、とたん、書
きたいという意欲が、半減します。読者の方の数が、減ったときは、なおさらです。

 そういうとき、私は、「1000号が目標だ。読者の数ではない」と、自分に言ってきか
せます。今朝もそうでした。このところ、読者の数が、あまりふえなかったこともありま
す。それに……、まあ、いろいろありました。

 しかし今朝、いつものように、やや恐る恐るそのページを開いてみてみると、新しい読
者の方が、四人、ふえているのが、わかりました。とたん、モリモリとやる気が出てきま
した。そして思わず、モニターに向かって、「ありがとう!」とつぶやいてしまいました。

 一月三〇日の朝、新しく購読者になってくださった方へ、ありがとうございました。そ
れにずっとこのマガジンを読んでくださっているみなさん、ありがとうございます。今日
も、こうしてみなさんに、励まされながら、原稿を書き始めました。これからも、よろし
くお願いします。

 もしみなさんのお近くで、このマガジンに興味をもってくださいそうな方がいらっしゃ
ったら、「こういうマガジンがある」と、話していただけませんか。話していただくだけで、
結構です。よろしくお願いします。みなさんのご協力に、重ねてお礼申しあげます。
(040129)

+++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩


最前線の子育て論byはやし浩司(017)

失意、絶望との戦い

●絶望論

 巨大な隕石が地球に向かっている。もしそれが地球と衝突すれば、地球そのものが、破
壊されるかもしれない。もちろん地球上の、あらゆる生物は死滅する。

 SF映画によく取りあげられるテーマだが、もしそういうことになったら……。人々は、
足元をすくわれるような絶望感を味わうに違いない。自分が何であるかさえわからない絶
望感と言ってもよい。だれと話しても、何を食べても、また何をしても、自分がどこにい
るかさえわからない。そんな絶望感だが、しかしこうした絶望感は、隕石が地球に衝突す
るという大げさな話は別として、つまり大小さまざまな形で、人を襲う。そしてそのつど
人々は何らかの形で、日々に、その絶望感を味わう。

 仕事がうまく、いかないとき。人間関係が、つまずいたとき。大きな病気になったとき。
社会情勢や、経済情勢が不安定になったとき。国際問題が、こじれたとき、など。人間に
は、希望もあるが、同時に絶望もある。しかしこの二つは、対等ではない。希望からは絶
望は生まれないが、希望は、絶望の中から生まれる。人々はそのつど、絶望しながら、そ
の中から懸命に希望を見出そうとする。そしてそれが、そのまま生きる原動力となってい
く。

 SF映画の世界では、たいてい何人かの英雄が現れて、その隕石と戦う。ロケットに乗
って、宇宙へ飛び出す。観客をハラハラさせながら、隕石を爆破する。衝突から軌道をは
ずす。そしてハッピーエンド。

 が、現実の世界では、こうはいかない。大きくても、小さくても、絶望は絶望のまま。
ハッピーエンドで終わることなど、十に一つもない。たいていは何とかしようともがけば
もがくほど、そのままつぎの絶望の中へと落ちていく。そしてそのたびに、身のまわりか
ら小さな希望を見出し、それにしがみついていく……。

 何とも暗い話になってしまったが、そこでハタと、人々は気づく。絶望を、絶望と思う
から、絶望は絶望になる。しかし最初から、「望み」がなければ、絶望など、ない。つまり、
「今」をそのまま受け入れて生きていけば、絶望など、ないことになる、と。わかりやす
く言えば、そのつど、「まあ、こんなもの」と、受け入れて生きていえば、絶望することは
ない。

 仕事がうまくいかなくても、結構。人間関係が、つまずいても、結構。大きな病気にな
っても、結構。社会情勢や、経済情勢が不安定になっても、結構。国際問題が、こじれて
も、これまた結構、と。

少し無責任な生き方になるかもしれないが、こうした楽天的な、とらえ方をすれば、絶
望は絶望でなくなってしまう。ということは、絶望は、まさに人間自らがつくりだした、
虚妄(きょもう)ということになる。

いや、こう書くと、「林め、何を偉そうに!」と思う人がいるかもしれないが、「絶望は
虚妄である」と言ったのは、私ではない。あの魯迅(一八八一〜一九三六・中国の作家、
評論家)である。彼は、こんな言葉を残している。

『絶望が虚妄なることは、まさに希望と同じ』(「野草」)

 「希望も、そして絶望も、人間が自ら生み出した幻想、つまり虚妄である。希望が虚妄
であるのと同じように、絶望もまた虚妄にすぎない」と。

が、そうは言っても、究極の絶望は、いうまでもなく、「死」である。この死だけは、そ
のまま受け入れることはむずかしい。死の恐怖から生まれる絶望も、また虚妄と言えるの
か。あるいは死にまつわる絶望からも、希望は生まれるのか。実のところ、これについて
は、私はまだよくわからない。が、こんなことはあった。 

 昔、私の友人だった、N君は、こう言った。「林君、死ぬことだって、希望だよ。死ねば
楽になれると思うのは、立派な希望だよ」と。私が彼に、「人間は希望をなくしたら、つま
り、絶望したら、死ぬのだろうね」と言ったときのことだ。しかしもし、絶望が虚妄であ
るとするなら、「死ねば楽になれるという希望」もまた、虚妄ということになる。つまり「死
に向かう希望」など、ありえない。

もっとわかりやすく言えば、「死ぬことは、決して希望ではない」ということになる。こ
の点からも、N君の言ったことは、まちがっているということになる……? もう一度、
この問題は、頭を冷やして、別のところで考えてみたい。

●一年後に……

 上の原稿を書いてから、ちょうど一年になる。改めて、自分の書いた「絶望論」を読み
なおしてみる。

 その前に、「絶望」とは、何かという問題がある。

 がっかりしたり、落胆することは、絶望ではない。似ているが、絶望ではない。ただ異
質のものかというと、そうでもない。『落胆は、絶望の母』と言った、キーツ(「希望につ
いて」・イギリスの詩人)がいる。『失敗は、成功の母』をもじった言葉である。

 改めて考えてみるきっかけとなったのは、子どもの受験で失敗して、落ちこんでしまっ
たという母親からの電話である。

 世間の人は、「たかがそれくらいのことで……」と思うかもしれないが、その母親にとっ
ては、そうではない。子どもの受験に、生涯のすべてをかける。そしてその結果をみて、
子どもの情来のすべてを判断をする。

 どんな母親にとって、子どもの将来は、最高に輝くものでなければならない。ふつうの
未来、平凡な未来というのは、母親にとっては、敗北でしかない。そのため、子どもが受
験に失敗したとき、母親は、強い敗北感を味わう。そしてそれが絶望感へと変る。

 二〇年ほど前だが、息子(中三)が、高校受験に失敗したとき、自殺を試みた母親がい
た。一度目は、未遂で終わったが、そのあと、一か月ほどしてから、今度は別の方法で、
本当に自殺してしまった。

 ただその母親のばあい、いろいろな薬ものんでいたし、ほかにもいくつかの問題があっ
た。また一度目の自殺のときは、交通事故として片づけられた。二度目の自殺のときは、
……(この話は、ここには書けない)……ということで、片づけられた。

 だから子どもの受験が、直接自殺に結びついたとは考えにくいが、大きな引き金になっ
たことは事実である。私はその母親から、たびたび相談を受ける立場にあった。

 しかし希望にせよ、絶望にせよ、それはその人間が、勝手につくりだした虚妄であるこ
とには、ちがいない。

 つぎに書いたのが、「希望論」。先の「絶望論」と同じころ、書いた。
 
●希望論

 希望にせよ、その反対側にある絶望にせよ、おおかたのものは、虚妄である。『希望とは、
めざめている夢なり』(「断片」)と言った、アリストテレス。『絶望の虚妄なることは、ま
さに希望と相同じ』(「野草」)と言った、魯迅などがいる。

さらに端的に、『希望は、つねに私たちを欺く、ペテン師である。私のばあい、希望をな
くしたとき、はじめて幸福がおとずれた』(「格言と反省」)と言った、シャンフォールがい
る。

 このことは、子どもたちの世界を見ているとわかる。

 もう一〇年にもなるだろうか。「たまごっち」というわけのわからないゲームが、子ども
たちの世界で流行した。その前後に、あのポケモンブームがあり、それが最近では、遊戯
王、マジギャザというカードゲームに移り変わってきている。

 そういう世界で、子どもたちは、昔も今も、流行に流されるまま、一喜一憂している。
一度私が操作をまちがえて、あの(たまごっち)を殺して(?)しまったことがある。そ
のときその女の子(小一)は、狂ったように泣いた。「先生が、殺してしまったア!」と。
つまりその女の子は、(たまごっち)が死んだとき、絶望のどん底に落とされたことになる。

 同じように、その反対側に、希望がある。ある受験塾のパンフレットにはこうある。

 「努力は必ず、報われる。希望の星を、君自身の手でつかめ。○×進学塾」と。

 こうした世界を総じてながめていると、おとなの世界も、それほど違わないことが、よ
くわかる。希望にせよ、絶望にせよ、それはまさに虚妄の世界。それにまつわる人間たち
が、勝手につくりだした虚妄にすぎない。その虚妄にハマり、ときに希望をもったり、と
きに絶望したりする。

 ……となると、希望とは何か。絶望とは何か。もう一度、考えなおしてみる必要がある。
キリスト教には、こんな説話がある。あのノアが、大洪水に際して、神にこうたずねる。「神
よ、こうして邪悪な人々を滅ぼすくらいなら、どうして最初から、完全な人間をつくらな
かったのか」と。それに対して、神は、こう答える。「人間に希望を与えるため」と。

 少し話はそれるが、以前、こんなエッセー(中日新聞掲載済み)を書いたので、ここに
転載する。

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子どもに善と悪を教えるとき

●四割の善と四割の悪 

社会に四割の善があり、四割の悪があるなら、子どもの世界にも、四割の善があり、四
割の悪がある。子どもの世界は、まさにおとなの世界の縮図。おとなの世界をなおさない
で、子どもの世界だけをよくしようとしても、無理。子どもがはじめて読んだカタカナが、
「ホテル」であったり、「ソープ」であったりする(「クレヨンしんちゃん」V1)。

つまり子どもの世界をよくしたいと思ったら、社会そのものと闘う。時として教育をす
る者は、子どもにはきびしく、社会には甘くなりやすい。あるいはそういうワナにハマり
やすい。ある中学校の教師は、部活の試合で自分の生徒が負けたりすると、冬でもその生
徒を、プールの中に放り投げていた。

その教師はその教師の信念をもってそうしていたのだろうが、では自分自身に対しては
どうなのか。自分に対しては、そこまできびしいのか。社会に対しては、そこまできびし
いのか。親だってそうだ。子どもに「勉強しろ」と言う親は多い。しかし自分で勉強して
いる親は、少ない。

●善悪のハバから生まれる人間のドラマ

 話がそれたが、悪があることが悪いと言っているのではない。人間の世界が、ほかの動
物たちのように、特別によい人もいないが、特別に悪い人もいないというような世界にな
ってしまったら、何とつまらないことか。言いかえると、この善悪のハバこそが、人間の
世界を豊かでおもしろいものにしている。無数のドラマも、そこから生まれる。旧約聖書
についても、こんな説話が残っている。

 ノアが、「どうして人間のような(不完全な)生き物をつくったのか。(洪水で滅ぼすく
らいなら、最初から、完全な生き物にすればよかったはずだ)」と、神に聞いたときのこと。
神はこう答えている。「希望を与えるため」と。

もし人間がすべて天使のようになってしまったら、人間はよりよい人間になるという希
望をなくしてしまう。つまり人間は悪いこともするが、努力によってよい人間にもなれる。
神のような人間になることもできる。旧約聖書の中の神は、「それが希望だ」と。

●子どもの世界だけの問題ではない

 子どもの世界に何か問題を見つけたら、それは子どもの世界だけの問題ではない。それ
がわかるかわからないかは、その人の問題意識の深さにもよるが、少なくとも子どもの世
界だけをどうこうしようとしても意味がない。たとえば少し前、援助交際が話題になった
が、それが問題ではない。問題は、そういう環境を見て見ぬふりをしているあなた自身に
ある。そうでないというのなら、あなたの仲間や、近隣の人が、そういうところで遊んで
いることについて、あなたはどれほどそれと闘っているだろうか。

私の知人の中には五〇歳にもなるというのに、テレクラ通いをしている男がいる。高校
生の娘もいる。そこで私はある日、その男にこう聞いた。「君の娘が中年の男と援助交際を
していたら、君は許せるか」と。するとその男は笑いながら、こう言った。

「うちの娘は、そういうことはしないよ。うちの娘はまともだからね」と。私は「相手
の男を許せるか」という意味で聞いたのに、その知人は、「援助交際をする女性が悪い」と。
こういうおめでたさが積もり積もって、社会をゆがめる。子どもの世界をゆがめる。それ
が問題なのだ。

●悪と戦って、はじめて善人

 よいことをするから善人になるのではない。悪いことをしないから、善人というわけで
もない。悪と戦ってはじめて、人は善人になる。そういう視点をもったとき、あなたの社
会を見る目は、大きく変わる。子どもの世界も変わる。(中日新聞投稿済み)

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 このエッセーの中で、私は「善悪論」について考えた。その中に、「希望論」を織りまぜ
た。それはともかくも、旧約聖書の中の神は、「もし人間がすべて天使のようになってしま
ったら、人間はよりよい人間になるという希望をなくしてしまう。つまり人間は悪いこと
もするが、努力によってよい人間にもなれる。神のような人間になることもできる。それ
が希望だ」と教えている。

 となると、絶望とは、その反対の状態ということになる。キリスト教では、「堕落(だら
く)」という言葉を使って、それを説明する。もちろんこれはキリスト教の立場にそった、
希望論であり、絶望論ということになる。だからほかの世界では、また違った考え方をす
る。

冒頭に書いた、アリストテレスにせよ、魯迅にせよ、彼らは彼らの立場で、希望論や絶
望論を説いた。が、私は今のところ、どういうわけか、このキリスト教で教える説話にひ
かれる。「人間は、努力によって、神のような人間にもなれる。それが希望だ」と。

 もちろん私は神を知らないし、神のような人間も知らない。だからいきなり、「そういう
人間になるのが希望だ」と言われても困る。しかし何となく、この説話は正しいような気
がする。言いかえると、キリスト教でいう希望論や絶望論に立つと、ちまたの世界の希望
論や絶望論は、たしかに「虚妄」に思えてくる。つい先日も、私は生徒たち(小四)にこ
う言った。授業の前に、遊戯王のカードについて、ワイワイと騒いでいた。

 「(遊戯王の)カードなど、何枚集めても、意味ないよ。強いカードをもっていると、心
はハッピーになるかもしれないけど、それは幻想だよ。幻想にだまされてはいけないよ。
ゲームはゲームだから、それを楽しむのは悪いことではないけど、どこかでしっかりと線
を引かないと、時間をムダにすることになるよ。カードなんかより、自分の時間のほうが、
はるかに大切ものだよ。それだけは、忘れてはいけないよ」と。

 まあ、言うだけのことは言ってみた。しかしだからといって、子どもたちの趣味まで否
定するのは、正しくない。もちろん私たちおとなにしても、一方でムダなことをしながら、
心を休めたり、癒(いや)したりする。が、それはあくまでも「趣味」。決して希望ではな
い。またそれがかなわないからといって、絶望する必要もない。大切なことは、どこかで
一線を引くこと。でないと、自分を見失うことになる。時間をムダにすることになる。

●絶望と希望

 人は希望を感じたとき、前に進み、絶望したとき、そこで立ち止まる。そしてそれぞれ
のとき、人には、まったくちがう、二つの力が作用する。

 希望を感じて前に進むときは、自己を外に向って伸ばす力が働き、絶望を感じて立ち止
まるときは、自己を内に向って掘りさげる力が働く。一見、正反対の力だが、この二つが 
あって、人は、外にも、そして内にも、ハバのある人間になることができる。

 冒頭にあげた、「子どもの受験で失敗して、落ちこんでしまった母親」について言うなら、
そういう経験をとおして、母親は、自分を掘りさげることができる。私はその母親を慰め
ながらも、別の心で、「こうして人は、無数の落胆を乗り越えながら、ハバの広い人間にな
るのだ」と思った。

 そしていつか、人は、「死」という究極の絶望を味わうときが、やってくる。必ずやって
くる。そのとき、人は、その死をどう迎えるか。つまりその迎え方は、その人がいかに多
くの落胆を経験してきたかによっても、ちがう。

 『落胆は、絶望の母』と言った、キーツの言葉の意味は、そこにある。
(040130)

+++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩


最前線の子育て論byはやし浩司(018)

●受験戦争のウズの中で……

 今年も、受験シーズンは、そろそろ終盤戦。残すは、高校入試だけとなった。

 このH市では、どこの高校を卒業したかで、その人のステータス(?)が決まるという。
昔からこのH市に住んでいる、Sさんという母親が、そう教えてくれた。

 江戸時代の身分制度の名残か? はたまた亡霊か?

 実に愚かな風潮なのだが、その愚かしさを疑う前に、親から子へと、代々と、バトンタ
ッチしてしまう。だからこうした風潮は、そのまま残る。

 だったら、進学校を毎年、持ちまわり制にすればよいのだが、そういうことはしない。「今
年はA高校を進学校として、重点指導します。来年は、B高校です」と。多分、OBが許さ
ないだろう。有名進学校を卒業したOBたちは、自らのより所を、その出身校に託す。

 しかしこの時期も、やがて終わる。四月になるころには、それぞれがそれぞれの思いを
残したまま、あたかも何ごともなかったかのように、また新しい「時」が、始まる。しか
し今は、まだ狂乱のとき。

 志望校の受験倍率に一喜一憂し、子どもの成績を見比べながら、ため息をもらす。やり
ようのない不安と焦燥感。所詮(しょせん)、どんぐりの背比べ(失礼!)なのだが、その
ときどきの親には、それがわからない。まさに髪をふりかざして、子どもの受験競争に狂
奔する。

 もちろんそれがムダというわけではない。くだらないと言っているのでもない。考えて
みれば、人間の社会は、総じてみれば、その受験戦争のようなもの。人間が自ら作り出し
た幻想と幻覚の中で、人間は、右往左往しているだけ。

 それがわからなければ、静かに目を閉じてみればよい。そして闇の向こうに見える、深
遠なる宇宙を、思いやってみればよい。あなたもやがて、こう気がつくときがやってくる
だろう。

 私たちは、光と時間のなす空間で、ただ踊らされているだけ、と。

 かく言う私も、日々の生活の中で、踊らされているだけ? 本能と欲望、希望と絶望。
そういったものが無数に交錯する現実の中で、ただ操られているだけ。どこに本当の私が
いるのかさえ、わからない。わからないまま、何となく懸命に生きている。

 ああ、私は自由になりたい。こうした無数のクサリを自分から解き放ち、自由になりた
い。しかしその日は、いつかくるのか? あるいはこないのか?

 受験シーズンの中で、もがき苦しんでいる親や、子どもを見ていると、それはそのまま、
今を生きる、自分の姿であることを知る。
(040130)

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司


最前線の子育て論byはやし浩司(019)

●今を生きる

 今を生きることの大切さは、言うまでもない。こんな議論がある。

 ある仏教系の宗教団体の信者が、こう言った。「キリストは、最期は、はりつけになった。
無残な最期である。つまりそれこそが、キリスト教がまちがっているという証拠だ」と。

 その教団では、「結果」を重要視する。「結果を出せ」が、信仰の柱になっている。しか
し、本当に、そうか?

 遠い昔、戦前のことだが、北海道で、こんな事件があった。

 あるとき、あるところで、ブレーキが故障して、列車が坂を暴走し始めた。そのまま放
っておけば、大事故につながる。そこで車掌は、とっさの判断で、自分の体を、線路と車
輪の間に投げ出し、自分の体を犠牲にして、その列車を止めたという。

 もしその宗教団体の教えが正しいとするなら、その車掌は、まちがっていたことになる。
その車掌は、無残な死に方をした。しかし私が仏なら、(神でもよいが)、そういう車掌を、
イの一番に、天国に迎え入れる。

 生きることに、「結果」はない。もしあるとするなら、日々の生活の、一瞬、一瞬が、そ
の結果である。

 もし(財産ができた)、(地位を得た)、(大学に合格した)ということが、「結果」という
のなら、その結果のあとに、何がくるというのか。まさか、それで終わりというわけでも、
ないだろう。

 その教団では、「その人の結果は、臨終の姿(死に際の様子)を見ればわかる」とも教え
る。そして葬式が終わると、「いい死に顔だった」「すばらしい死に顔だった」と、たがい
に言いあう。

 しかし長い間、たとえばがんなどで苦しんだ人の死に顔は、決して美しいものではない。
はげしい痛みと、苦痛が、その人の死に顔を、そういう様相にする。

しかしがんで死ぬかどうかは、確率の問題。その信仰をしたから、がんにならないとか、
しなかったから、がんになるとか、そういうことは、ありえない。あるいは、その教団の
信者には、がんになった人はいないとでもいうのだろうか。

 私たちが将来、どんな死に方をしたとしても、それまでの人生が、それで総括されるわ
けではない。大切なのは、「今」だ。今というときを、どう生きるか、だ。それでその人の
人生は決まる。

 以前、こんな原稿を書いた(中日新聞掲載済み)。

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●今を生きる子育て論

 英語に、『休息を求めて疲れる』という格言がある。愚かな生き方の代名詞のようにもな
っている格言である。「いつか楽になろう、なろうと思ってがんばっているうちに、疲れて
しまって、結局は何もできなくなる」という意味だが、この格言は、言外で、「そういう生
き方をしてはいけません」と教えている。

 たとえば子どもの教育。幼稚園教育は、小学校へ入るための準備教育と考えている人が
いる。同じように、小学校は、中学校へ入るため。中学校は、高校へ入るため。高校は大
学へ入るため。そして大学は、よき社会人になるため、と。

こうした子育て観、つまり常に「現在」を「未来」のために犠牲にするという生き方は、
ここでいう愚かな生き方そのものと言ってもよい。いつまでたっても子どもたちは、自分
の人生を、自分のものにすることができない。あるいは社会へ出てからも、そういう生き
方が基本になっているから、結局は自分の人生を無駄にしてしまう。「やっと楽になったと
思ったら、人生も終わっていた……」と。

 ロビン・ウィリアムズが主演する、『今を生きる』という映画があった。「今という時を、
偽らずに生きよう」と教える教師。一方、進学指導中心の学校教育。この二つのはざまで、
一人の高校生が自殺に追いこまれるという映画である。

この「今を生きる」という生き方が、『休息を求めて疲れる』という生き方の、正反対の
位置にある。これは私の勝手な解釈によるもので、異論のある人もいるかもしれない。し
かし今、あなたの周囲を見回してみてほしい。

あなたの目に映るのは、「今」という現実であって、過去や未来などというものは、どこ
にもない。あると思うのは、心の中だけ。だったら精一杯、この「今」の中で、自分を輝
かせて生きることこそ、大切ではないのか。子どもたちとて同じ。子どもたちにはすばら
しい感性がある。しかも純粋で健康だ。そういう子ども時代は子ども時代として、精一杯
その時代を、心豊かに生きることこそ、大切ではないのか。

 もちろん私は、未来に向かって努力することまで否定しているのではない。「今を生き
る」ということは、享楽的に生きるということではない。しかし同じように努力すると言
っても、そのつどなすべきことをするという姿勢に変えれば、ものの考え方が一変する。

たとえば私は生徒たちには、いつもこう言っている。「今、やるべきことをやろうではな
いか。それでいい。結果はあとからついてくるもの。学歴や名誉や地位などといったもの
を、真っ先に追い求めたら、君たちの人生は、見苦しくなる」と。

 同じく英語には、こんな言い方がある。子どもが受験勉強などで苦しんでいると、親た
ちは子どもに、こう言う。「ティク・イッツ・イージィ(気楽にしなさい)」と。

日本では「がんばれ!」と拍車をかけるのがふつうだが、反対に、「そんなにがんばらな
くてもいいのよ」と。ごくふつうの日常会話だが、私はこういう会話の中に、欧米と日本
の、子育て観の基本的な違いを感ずる。その違いまで理解しないと、『休息を求めて疲れる』
の本当の意味がわからないのではないか……と、私は心配する。

++++++++++++++++++++

 ある母親は、息子(中三)が高校受験に失敗した日のこと、私にこう言った。

 「先生、すべてがムダでした。あの子を小さいときから、英語教室や、算数教室に通わ
せましたが、結局はムダでした……」と。

 結果だけをみて、人生を判断する人は、そういう考え方をする。日本の仏教そのものが、
結果を重視する。だから、日本人は、多かれ少なかれ、何かにつけて結果をみて、ものご
とを判断する。そういう傾向が強い。

 しかし結果などというものは、放っておいても、あとから必ずついてくる。その結果が
どうであれ、大切なことは、今を懸命に生きること。あとのことは、あとに任せばよい。
あのアインスタインも、こう言っている。

「私は未来のことについては、決して何も考えない。未来はやがてきっとやってくるか
ら」(「語録」)と。

旧約聖書の中にも、こうある。『汝、明日のことを語るなかれ。それは一日の生ずるとこ
ろの如何なるを、知らざればなり』(箴言27−1)と。

 最初の話に、もどる。

 私やあなただって、明日、交通事故か何かで、無残な死に方をするかもしれない。しか
しだからといって、今、懸命に生きている私やあなたが、否定されるわけではない。

 もっと身近な例では、事業に失敗したとか、あるいは会社をクビになったからといって、
その人の人生すべてが、否定されるわけではない。その人が、懸命に生きてきたという事
実までは、だれにも消すことはできない。

 大切なのは、「今」なのだ。どこまでいっても、「今」なのだ。繰りかえすが、今、どう
生きているか、なのだ。結果は、放っておいても、必ず、あとからついてくる。
(030131)

+++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩


最前線の子育て論byはやし浩司(020)

●展望性と回顧性(2)

 自分の未来や将来は、どうなのか。どうあるべきなのか。それを頭の中で組み立てるこ
とを、展望性という。未来や将来に、夢や希望をはせらすことも、それに含まれる。

 一方、自分の過去は、どうであったのか。どこにどんな問題があったのかを反省するこ
とを、回顧性という。思い出にひたったり、過去をなるかしむのも、それに含まれる。

 賢人は、ハバ広い展望性と、回顧性を、いつも同時にもつ。しかし愚人は、そのどちら
もハバが狭い。その場だけを、享楽的に過ごす。それでよしとする。

 概して言えば、若い人は、よりハバの広い展望性をもち、老人は、よりハバの広い回顧
性をもつと言われている。そこであなた自身の展望性と、回顧性が、どの程度のハバをも
っているかを知るとよい。それによって、あなたの精神年齢を、推定することができる。

 もしあなたが今でも、未来に向かって、目標や目的をもち、生き生きとしているなら、
展望性のハバは広いということになり、あなたは精神的に若いということになる。しかし
いつも過去をなつかしんだり、過去の栄華や、過去の思い出にひたってばかりいるという
のであれば、あなたの精神年齢は、老人のそれということになる。

 その展望性と回顧性は、満60歳前後を境として、入れかわると言われている。つまり
満60歳を過ぎると、展望性よりも回顧性のほうが、強くなるという(心理学者のB・ボ
ナーら)。

 実は、私も何かにつけて、このところ回顧性が強くなったように思う。昨夜も、ある飲
食店で、オーストラリアの旅行案内書を読んでいたときのこと。その一頁に、ジーロン(メ
ルボルンの南にある町)から、ローン(避暑地)を経て、アデレード(南オーストラリア
州の州都)にのびる街道のことが、書いてあった。

 「グレート・オーシャン・ロード」という名前の道路である。第一次大戦の退役軍人ら
が建設した道と聞いている。

 その街道の記事が、その本に載っていた。

 その記事を読んでいたときのこと、いつしか私の目は、涙で、うるんできてしまった。
私には、思いで深い街道だった。今でも、私の机の上には、その街道の写真が飾ってある。

 「また行きたいな」という思いと、「もう死ぬまで行けないかもしれない」という思いが、
その記事を読んでいるとき、複雑に交錯した。

 つまりそのとき、自分の心の中で、ここでいう展望性と回顧性が、同時に交錯したこと
になる。もちろん若いときは、そういう感情をもつことは、なかった。「もう死ぬまで……」
などとは、考えもしなかった。未来は、永遠につづくように思っていた。

 だからといって、回顧性をもつことが悪いということではない。若いころの自分を回顧
することで、私の中の心のハバを広くすることができる。ただ、それにひたりすぎるのは、
よくない。あくまでも、過去は過去。未来を、よりよく生きるために、過去は、ある。

 あえて言うなら、こうして過去を回顧することによって、生きることにまつわる「いと
おしさ」のようなものを知ることができる。生きることのすばらしさというか、美しさと
いうか、そういうものである。おかしな感覚だが、懸命に生きてきた、自分が、どういう
わけか、かわいい。いとおしい。そして当然のことながら、なつかしい。

 が、そのままここに、立ち止まるわけには、いかない。

 私は、今、こうしてここに生きている。そして、まだまだ生きなければならない。生き
ることをあきらめるわけには、いかない。そこで大切なのは、いかにして、展望性のハバ
を広くするかということ。

 一〇年後も、二〇年後も、今日と同じように、「今」はある。青い空がそこにあって、冬
であれば、冷たい風が吹いている。そのとき、私は、いったいどうなっているだろうか。
今のままなら、多分、一〇年後も、今と同じように元気で、生きていると思う。しかし二
〇年後は、わからない。そのときも、私は今の私のように、まだ心の荒野の中を、前に向
って進んでいるだろうか……。健康や生活は、どうだろうか……。

 展望性と回顧性。この二つには、より心豊かに生きるための、重要なカギが隠されてい
るように思う。今は、その程度のことしか、わからないが、この先、機会があれば、また
ゆっくりと考えてみたい。
(040201)

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

最前線の子育て論byはやし浩司(021)

人間は、知的生物?

●火星

 【ワシントン31日共同】米航空宇宙局(NASA)は、米東部時間1月31日朝(日
本時間同日夜)、火星に着陸した無人探査車の2号機オポチュニティーを、着陸用の台から
火星の表面に降ろす作業に成功した。

 何でも、オポチュニティーの近くには、(水があったことを示す)痕跡が確認されたとい
う。これからその分析を始めるそうだが、もし水があったことが確認されたら、宇宙の歴
史は、ひっくり返るかもしれない。

 その一。水があったということは、火星の気温は、0度から100度までの範囲であっ
たということになる。もちろん大気もあったということになる。そうであれば、そこには、
何らかの生物が住んでいた可能性が、きわめて高くなる。

 その二。水も大気もあった火星が、なぜ今のような火星になってしまったかということ。
火星でも、たとえば今の地球が経験しているような温暖化現象が、あったとでもいうのだ
ろうか。その可能性もきわめて、高くなる。

 もっとも私のような素人がこんなことを論じても、意味はない。しかし空想することは、
私でも、できる。こうした空想は、何も、専門家の特権ではない。

 一説によれば、火星にも、昔、知的生物がいたという。そしてその生物が進化して、地
球の人間のような知的生物になったという。その知的生物が、化石燃料(石油や石炭)な
どを燃やし、温暖化を引き起こした?

 こういう話は、おもしろいと同時に、ぞっとする。火星の過去と現在は、まさに地球の
未来でもあるからである。あるいは本当に、いつか、地球も、今の火星のようになってし
まうのだろうか。現に今、地球の温暖化は、不気味なほど、確実に、かつ急速に進行しつ
つある。日本は、海に囲まれた島国だから、それほど温暖化を感じないが、オーストラリ
アでは、そうではない。

 去年の夏も暑かったそうだが、今年も、あのメルボルン市でさえ、連日40度を超える
猛暑がつづいたという。35年前には、世界でも、一年をとおして、気候がもっとも温暖
なところとして知られていた都市である。

メルボルン市のことを、別名、「ガーデン・シティ(田園都市)」という。市の三分の一
が、公園。町の中に公園があるというよりは、公園の中に町があるといった感じの都市で
ある。そのメルボルン市ですら、ここ五、六年、たいへん住みにくくなってきているとい
う。

ほかの国々における異常気象については、いまさら言うまでもない。

 どこかの科学者が、こう言っていた。「火星を知るということは、地球の未来を知ること
だ」と。

なぜ火星が今のような火星になってしまったかがわかれば、そのこと自体が、人類に対
する大きな警鐘になることだけは、まちがいないようだ。


●中途半端な知的生物
 
 「知的生物」について、一言。

 人間は、一応、知的生物ということになっている。しかし本当に知的生物かというと、
それは疑わしい。火星に探査ロケットを打ち上げる能力をもっている一方で、サルでもし
ないような愚劣なこともしている。

 そういう意味では、人間は、中途半端な知的生物ということになる。

 しかし何ごとも、中途半端であることが、一番、悪い。危険。たとえばこんなことがあ
る。

 山荘へ行く途中に、小さな山がつづくところがある。国道からそれて、山のわき道に入
ったところだが、その山の一角からは、いつも、モクモクと黒煙があがっている。晴れの
日も、雨の日も、一年中である。

周囲には、工事現場から出たと思われる廃材が、山のようになっている。

一度私たちは車を止めて中へ入ってみたが、人影はなかった。一角だけが、高い塀で囲
まれ、その中で、廃材を燃やしていた。黒煙は、いつもそこから出ている。

 ここに人間の愚劣さが、ある。(サルでもしないような愚劣なこと)というのは、そうい
う行為をいう。恐らくというより、まちがいなく、その業者は、モグリである。モグリで
廃材を処理している。いくら生きるためとはいえ、そんな形で、公害をまき散らしたら、
この地球は、いったい、どうなる? 

 しかしそういう人たちを、責めても、意味はない。この私とて、そしてあなたとて、同
じ立場に置かれたら、同じことをするかもしれない。あるいは日常的に、同じようなこと
をしているかもしれない。つまり私がいう、(中途半端)という意味は、そこにある。

 つまりこの中途半端さがなくならないかぎり、人間は、決して知的生物には、なりえな
い。言うなれば人間は、今、動物園に住む動物たちと、いわゆる知的生物の中間あたりを、
フラフラしているような状態ではないか。冒頭に書いたように、火星に探査ロケットをあ
げながら、その一方で、サルでもしないようなことをしている。

 言うまでもなく、人間が知的生物になるためには、考えること。ただひたすら考えるこ
と。考えて、考え抜くこと。まず考える。行動は、必ず、あとからついてくる。そしても
し、広く、人間教育というものがあるとするなら、それは考える習慣を、どうやって身に
つけるかということに行き着く。

 以前、子どもの教育に関して、こんな原稿を書いた(中日新聞掲載済み)。

++++++++++++++++

知識と思考を区別せよ!

思考と情報を混同するとき 

●人間は考えるアシである

パスカルは、『人間は考えるアシである』(パンセ)と言った。『思考が人間の偉大さをな
す』とも。よく誤解されるが、「考える」ということと、頭の中の情報を加工して、外に出
すというのは、別のことである。たとえばこんな会話。

A「昼に何を食べる?」、B「スパゲティはどう?」、A「いいね。どこの店にする?」、B
「今度できた、角の店はどう?」、A「ああ、あそこか。そう言えば、誰かもあの店のスパ
ゲティはおいしいと話していたな」と。

 この中でAとBは、一見考えてものをしゃべっているようにみえるが、その実、この二
人は何も考えていない。脳の表層部分に蓄えられた情報を、条件に合わせて、会話として
外に取り出しているにすぎない。もう少しわかりやすい例で考えてみよう。

たとえば一人の園児が掛け算の九九を、ペラペラと言ったとする。しかしだからといっ
て、その園児は頭がよいということにはならない。算数ができるということにはならない。

●考えることには苦痛がともなう

 考えるということには、ある種の苦痛がともなう。そのためたいていの人は、無意識の
うちにも、考えることを避けようとする。できるなら考えないですまそうとする。

中には考えることを他人に任せてしまう人がいる。あるカルト教団に属する信者と、こ
んな会話をしたことがある。私が「あなたは指導者の話を、少しは疑ってみてはどうです
か」と言ったときのこと。その人はこう言った。「C先生は、何万冊もの本を読んでおられ
る。まちがいは、ない」と。

●人間は思考するから人間

 人間は、考えるから人間である。懸命に考えること自体に意味がある。デカルトも、『わ
れ思う、ゆえにわれあり』(方法序説)という有名な言葉を残している。正しいとか、まち
がっているとかいう判断は、それをすること自体、まちがっている。こんなことがあった。

ある朝幼稚園へ行くと、一人の園児が、わき目もふらずに穴を掘っていた。「何をしてい
るの?」と声をかけると、「石の赤ちゃんをさがしている」と。その子どもは、石は土の中
から生まれるものだと思っていた。おとなから見れば、幼稚な行為かもしれないが、その
子どもは子どもなりに、懸命に考えて、そうしていた。つまりそれこそが、パスカルのい
う「人間の偉大さ」なのである。

●知識と思考は別のもの

 多くの親たちは、知識と思考を混同している。混同したまま、子どもに知識を身につけ
させることが教育だと誤解している。「ほら算数教室」「ほら英語教室」と。

それがムダだとは思わないが、しかしこういう教育観は、一方でもっと大切なものを犠
牲にしてしまう。かえって子どもから考えるという習慣を奪ってしまう。もっと言えば、
賢い子どもというのは、自分で考える力のある子どもをいう。

いくら知識があっても、自分で考える力のない子どもは、賢い子どもとは言わない。頭
のよい悪いも関係ない。映画『フォレスト・ガンプ』の中でも、フォレストの母はこう言
っている。「バカなことをする人のことを、バカというのよ。(頭じゃないのよ)」と。ここ
をまちがえると、教育の柱そのものがゆがんでくる。私はそれを心配する。

(付記)

●日本の教育の最大の欠陥は、子どもたちに考えさせないこと。明治の昔から、「詰め込み
教育」が基本になっている。

さらにそのルーツと言えば、寺子屋教育であり、各宗派の本山教育である。つまり日本
の教育は、徹底した上意下達方式のもと、知識を一方的に詰め込み、画一的な子どもをつ
くるのが基本になっている。もっと言えば「従順でもの言わぬ民」づくりが基本になって
いる。

戦後、日本の教育は大きく変わったとされるが、その流れは今もそれほど変わっていな
い。日本人の多くは、そういうのが教育であると思い込まされているが、それこそ世界の
非常識。

ロンドン大学の森嶋通夫名誉教授も、「日本の教育は世界で一番教え過ぎの教育である。
自分で考え、自分で判断する訓練がもっとも欠如している。自分で考え、横並びでない自
己判断のできる人間を育てなければ、二〇五〇年の日本は本当にダメになる」(「コウとう
けん」・九八年)と警告している。

●低俗化する夜の番組

 夜のバラエティ番組を見ていると、司会者たちがペラペラと調子のよいことをしゃべっ
ているのがわかる。しかし彼らもまた、脳の表層部分に蓄えられた情報を、条件に合わせ
て、会話として外に取り出しているにすぎない。

一見考えているように見えるが、やはりその実、何も考えていない。思考というのは、
本文にも書いたように、それ自体、ある種の苦痛がともなう。人によっては本当に頭が痛
くなることもある。また考えたからといって、結論や答が出るとは限らない。そのため考
えるだけでイライラしたり、不快になったりする人もいる。だから大半の人は、考えるこ
と自体を避けようとする。

 ただ考えるといっても、浅い深いはある。さらに同じことを繰り返して考えるというこ
ともある。私のばあいは、文を書くという方法で、できるだけ深く考えるようにしている。
また文にして残すという方法で、できるだけ同じことを繰り返し考えないようにしている。

私にとって生きるということは、考えること。考えるということは、書くこと。モンテ
ーニュ(フランスの哲学者、一五三三〜九二)も、「『考える』という言葉を聞くが、私は
何か書いているときのほか、考えたことはない」(随想録)と書いている。ものを書くとい
うことには、そういう意味も含まれる。

+++++++++++++++++++

 今、人間は、たいへんな危機的な状況にあると考えてよい。まさに地球そのものが、亡
びるかもしれないという状況である。言うなれば、人間の知的能力が、まさにためされて
いるときということになる。

 そこでどうだろう、こう考えてみたら。

 つまり人間は、知的生物ではないという前提で、人間を自らながめてみる、と。もっと
はっきり言えば、私たち人間は、自分たちを知的生物と思いこんでいるだけ、と。そうい
う前提で、もう一度、私たち自身を、見なおしてみる。

 火星はともかくも、この宇宙には、無数の知的生物がいるとされる。この地球上で、人
間だけが決してゆいいつの生物でないのと同じように、宇宙では、この人間だけが決して、
ゆいいつの知的生物ではない。

 しかも人間というのは、ひょっとしたら、宇宙に住む知的生物たちから見たら、きわめ
て原始的な生物かもしれない。そういう視点をもって、もう一度、人間自身をみてみる。
わかりやすく言えば、私たちのもつ知的レベルに対して、謙虚になるということ。すべて
は、そこから始まる。

 はからずも、私は昨日、市の動物園へ行ってみた。そしていつも、あのサルの集団を見
ると、考えさせられる。実は、昨日も、そうだった。

 あのサルたちは、絶対に、自分たちは、バカだと思っていない。自分がバカだとわかる
のは、自分自身がそのつど、はるかに高い視点をもったときである。しかしその高い視点
をもつことができないサルには、それがわからない。

 同じように、ほとんどの人間は、自分がバカだとは思っていない。それがわかるだけの
高い視点すらもっていない。

 では、どうするか? ……結局は、先のエッセーの中に書いたように、「考える」こと。
すべては、ここへ行き着く。考えて、考え抜く。そうすることで、人間は、ほんの数セン
チかもしれない。数ミリかもしれない。しかしそれでも、ほんの少しだけ、高い視点から
自分を見ることができる。それまでの自分が、バカだったと気づくことができる。

 何ともこみいったエッセーになってしまったが、要するに、私たち人間は、実に中途半
端な知的生物であるということ。私は、それが言いたかった。
(040201)

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

最前線の子育て論byはやし浩司(022)

●自己紹介

【はやし浩司のわけ】

 改めて、自己紹介します。

 本名は、「林 浩司」といいます。「はやし・ヒロシ」と読みます。

 大学時代、みなは、私のことを、「はやし・コージ」と、呼びました。いつの間にか、そ
うなりました。しかし正しくは、「はやし・ヒロシ」です。

 で、ペンネームは、「はやし浩司」です。

 「林」を、「はやし」にしたのには、二つの理由があります。

 幼稚園で働いているころ、いつも私は、自分の名前を、「はやし」とひらがなで書いてい
ました。それで、「林」より、「はやし」のほうに、なじみができてしまったこと。

 もう一つは、同じ町内に、同姓同名、同じ読み方をする人が、住んでいたこと。この方
は一〇年ほど前になくなりましたが、私の名前ほど、ありふれた名前もありません。

 現在でも浜松市内には、電話帳で調べただけでも、「林・ヒロシ」「林・コージ」という
人は、七、八人もいます。約200倍すれば日本の人口になりますから、この日本には、
「林・ヒロシ」「林・コージ」という人は、1500人くらいはいるという計算になります。

 それで「はやし浩司」にしました。

 私は、このペンネームが、とても気にいっています。「林」という文字は、どこかトゲト
ゲしいので、あまり好きではありません。

【住んでいるところ】

 住所は、浜松市のI町というところです。(インターネットでは、あまり個人情報を漏ら
さないというのが、原則になっていますから、この程度でごめんなさい。私自身は、住所
を明かしても構わないと思っていますが、中には、悪い人もいますので……。)

 I町だけでも、一万世帯近くも住んでします。昔からの、大きな町です。私は、このI
町に住んで、今年(04)でちょうど二七年目になります。浜松へ来てからは、三三年目
になります。

 私の家は、浜松市の中心部と、浜名湖のちょうど中間あたりのところにあります。やや
丘の上、新興住宅地の一角です。新幹線で、そのあたりを通ったら、北の方を見てくださ
い。線路からは、二キロくらい離れたところです。 

 いつもさんさんと、太陽の陽光がさしているところが私の家……というのは、ウソです
が、私の家は、日当たりのよいところにあります。

【私のこと】

 ときどき私は、どんな人間なのだろうと考えます。

 しかし本当のところ、自分のことは、よくわからないでいます。まじめな人間なのか、
そうでないのかさえわかりません。だいたいにおいて、まじめな人間というのは、どうい
う人間をいうのか、その基準は何なのか、と。そんなことまで考えていくと、ますますわ
からなくなってしまいます。

 まあ、あえていうなら、ふつうの人間ではないのかなと思いますが、「ふつう」という意
味も、これまたよくわかりません。

 それにいろいろな面が、あります。混在しているというか、めちゃめちゃ。気が小さい
くせに、意外と、大きなこともしてしまう……。趣味にしても、そのつど、コロコロ変る。
正義感は結構強いくせに、どこか小ずるいところがある、などなど。

 だから自分のことを、どう書いたらよいのでしょうか。別のところで、自己紹介の記事
を書いておきましたので、興味のある方は、またそちらを読んでください。(私のHPのト
ップページから、左上、「思想」)

 外見は、数字で表すことができます。

 身長は166センチ。このところ体を丸めて歩くことが多くなったので、見た目には、
それよりも低く見えるはずです。

 体重は、今は67キロ(04・2)。顔は、写真のとおりですが、みなは、「年齢にして
は、若く見える」と言ってくれます。

 メガネをかけた、ダサイ感じの男です。自分でも、それがよくわかっています。ラブロ
マンスなど、私には無縁でした。一、二度、それらしきことは、あったかなあ、という感
じです。三枚目で、ドジ。おっちょこちょい。笑わせ名人で、ひょうきんものです。

 今のところこれといった病気もなく、健康です。生涯において、病院のベッドの上で、
寝たことは、一度もありません。

血圧は低く、上が100前後。下が60前後です。脈は遅いです。健康診断では、いつ
もひっかかります。

 私の健康法は、ただひたすら毎日、自転車で走ること。あとは食べ物には、何かと注意
しています。

【生活信条】

 「生活信条」と、自分で書いて、ウーンと、今、うなってしまいました。

 「そんなもの、あるのかア?」と思っています。毎日、惰性で生きているだけという感
じです。これといった主義や主張も、ほとんど、ありません。精神力はもともと軟弱だし、
情緒も不安定。行動力もこのところ、どんどん鈍ってきています。

 まあ、あえていうなら、今は、もう自分を飾らないで生きていこうと思っていることか
な。ありのままの自分を、そのままさらけ出していこうと、です。

 私は、ずっと、自分を偽って生きてきたように思います。「どうすれば優等生に見られる
だろう」「どうすれば、相手にいい人だと思われるだろう」と、そんなことばかりを考えて、
生きてきたように思います。

 だから、そういう自分と、はやく決別したいです。私は私のまま、自分の人生を、生き
たいです。残りの人生も、短くなってきたことだし……。

 愛想よくしたり、相手の機嫌をとったり、へつらったり、そういうことだけは、しない
ようにと、心がけています。

 そんなわけで「信条」と言えるかどうかはわかりませんが、今は、「自分に正直に生きる」
が、ひとつの目標になっています。
(新HP用)
(040201)(はやし浩司 紹介 自己紹介 自叙)

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司
 
子育て随筆byはやし浩司(023)

●ピーターパン・シンドローム

ピーターパン症候群という言葉がある。日本では、「ピーターパン・シンドローム」とも
いう。いわゆる(おとなになりきれない、おとな子ども)のことをいう。

この言葉は、シカゴの心理学・精神科学者であるダン・カイリーが書いた「ピーターパ
ン・シンドローム」から生まれた。もともとこの本は、おとなになりきれない恋人や息子、
それに夫のことで悩む女性たちのための、指導書として書かれた。

 症状としては、無責任、自信喪失、感情を外に出さない、無関心、自己中心的、無頓着
などがあげられる。体はおとなになっているが、社会的責任感が欠落し、自分勝手で、わ
がまま。就職して働いていても、給料のほとんどは、自分のために使ってしまう。

 これに似た症状をもつ若者に、「モラトリアム人間」と呼ばれるタイプの若者がいる。さ
らに親への依存性がとくに強い若者を、「パラサイト人間」と呼ぶこともある。「パラサイ
ト」というのは、「寄生」という意味。

 さらに最近の傾向としては、おもしろいことに、どのタイプであれ、居なおり型人間が
ふえているということ。ピーターパンてきであろうが、モラトリアム型であろうが、はた
またパラサイト型であろうが、「それでいい」と、居なおって生きる若者たちである。

 つまりそれだけこのタイプの若者がふえたということ。そしてむしろ、そういう若者が、
(ふつうのおとな?)になりつつあることが、その背景にある。

 概して言えば、日本の社会そのものが、ピーターパン・シンドロームの中にあるのかも
しれない。

 国際的に見れば、日本(=日本人)は、世界に対して、無責任、自信喪失、意見を言わ
ない(=感情を外に出さない)、無関心、自己中心的、無頓着。

 それはともかく、ピーターパン人間は、親のスネをかじって生きる。親に対して、無意
識であるにせよ、おおきなわだかまり(固着)をもっていることが多い。このわだかまり
が、親への経済的復讐となって表現される。

 親の財産を食いつぶす。親の家計を圧迫する。親の生活をかき乱す。そしてそれが結果
として、たとえば(給料をもらっても、一円も、家計には入れない)という症状になって
現れる。

 このタイプの子どもは、乳幼児期における基本的信頼関係の構築に失敗した子どもとみ
る。親子、とくに母子の関係において、たがいに(さらけ出し)と(受け入れ)が、うま
くできなかったことが原因で、そうなったと考えてよい。そのため子どもは、親の前では、
いつも仮面をかぶるようになる。ある父親は、こう言った。「あいつは、子どものときから、
何を考えているか、よくわかりませんでした」と。

 そのため親は、子どもに対して、過干渉、過関心になりやすい。こうした一方的な育児
姿勢が、子どもの症状をさらに悪化させる。

 子どもの側にすれば、「オレを、こんな人間にしたのは、テメエだろう!」ということに
なる。もっとも、それを声に出して言うようであれば、まだ症状も軽い。このタイプの子
どもは、そうした感情表現が、うまくできない。そのため内へ内へと、こもってしまう。
親から見れば、いわゆる(何を考えているかわからない子ども)といった、感じになる。
ダン・カイリーも、「感情を外に表に出さない」ことを、大きな特徴の一つとして、あげて
いる。

 こうした傾向は、中学生、高校生くらいのときから、少しずつ現れてくる。生活態度が
だらしなくなったり、未来への展望をもたなくなったりする。一見、親に対して従順なの
だが、その多くは仮面。自分勝手で、わがまま。それに自己中心的。友人との関係も希薄
で、友情も長つづきしない。

 しかしこの段階では、すでに手遅れとなっているケースが、多い。親自身にその自覚が
ないばかりか、かりにあっても、それほど深刻に考えない。が、それ以上に、この問題は、
家庭という子どもを包む環境に起因している。親子関係もそれに含まれるが、その家庭の
あり方を変えるのは、さらにむずかしい。

 現在、このタイプの若者が、本当に多い。全体としてみても、うち何割かがそうではな
いかと思えるほど、多い。そしてこのタイプの若者が、それなりにおとなになり、そして
結婚し、親になっている。

 問題は、そういう若者(圧倒的に男性が多い)と結婚した、女性たちである。ダン・カ
イリーも、そういう女性たちのために、その本を書いた。

 そこでクエスチョン。

 もしあなたの息子や、恋人や、あるいは夫が、そのピーターパン型人間だったら、どう
するか?

 親のスネをかじるだけ。かじっても、かじっているという意識さえない。それを当然の
ように考えている。そしてここにも書いたように、無責任、自信喪失、感情を外に出さな
い、無関心、自己中心的、無頓着。

 答は一つ。あきらめるしかない。

 この問題は、本当に「根」が深い。あなたが少しくらいがんばったところで、どうにも
ならない。そこであなたがとるべき方法は、一つ。

 相手に合わせて、つまり、そういう(性質)とあきらめて、対処するしかない。その上
で、あなたなりの生活を、つくりあげるしかない。しかしかろうじてだが、一つだけ、方
法がないわけではない。

 その若者自身が、自分が、そういう人間であることに気づくことである。しかしこのば
あいでも、たいていの若者は、それを指摘しても、「自分はちがう」と否定してしまう。脳
のCPU(中央演算装置)の問題だから、それに気づかせるのは、容易ではない。

 が、もしそれに気づけば、あとは時間が解決してくれる。静かに時間を待てばよい。
(040201)(はやし浩司 ピーターパン シンドローム)

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

子育て随筆byはやし浩司(024)

●カルトに気をつけよう

 大不況、温暖化、国際情勢の不安定化、鳥インフルエンザ、SARSなどなど。私たち
を取り巻く環境は、ますます悪化しています。

 当然のことながら、人々の心は、それに並行して、不安定になります。私もそうですが、
あなたも、そうではないでしょうか。

 こういうとき、あやしげなカルト教団が、一挙に勢力を伸ばします。戦後直後の日本、
旧東ドイツ崩壊後のドイツ、旧ソ連崩壊後のロシアに例を見るまでもありません。

 現に今、私のまわりにも、実にあやしげなカルト教団が、近づきつつあります。たいて
いは終末論や末法論を唱え、「この信仰をしたものだけが救われる」などと、説きます。

 みなさん、常識を信じましょう!

 私たちが数十万年という長い年月を経て、身につけた常識です。その常識に従って、判
断し、行動しましょう。いえ、決して、むずかしいことではありません。おかしいものは、
おかしいと思えばよいのです。たったそれだけのことです。

 もし私たちがすることがあるとすれば、その常識をみがくことです。本を読み、映画を
見て、音楽を聞く。自然の中を歩き、人と会い、ごく日常的な生活をする。奇をてらった
修行をしたから、その境地に達せれるとか、しなかったから、達せられないとか、そうい
うことではありません。

 野に遊ぶ動物や、同じく野に咲く花を見れば、それがわかるはずです。動物や、花が、
そんなことを、しているでしょうか。私たち人間も、まさに自然の一部です。だったら、
自然に生きていきましょう。自然とともに、生きていきましょう。

 たしかにいろいろな問題が、起きてきています。そしてそのつど、私たちは、不安にな
ります。私たちだけのことならともかくも、子どもの未来を考えると、暗澹(あんたん)
たる気持ちになります。

 しかしそのときでも、常識に従って生きていきましょう。人間として、人間の道を生き
ていけば、それでよいのです。

 その結果、人間は、どうなるか? それは私にもわかりませんが、同時に、私は、人間
がもつ知恵や勇気、英知や努力を信じます。みんながそういう力を結集すれば、そういう
問題を、ひとつひとつ克服できるはずです。逃げるのではなく、絶望するのではなく、最
後の最後まで、戦うのです。

 みなさん、常識を信じましょう!

 つぎの詩は、五年ほど前に書いた詩です(中日ショッパー掲載済み)。今でも、私のこの
心は、まったく変わっていません。

++++++++++++++++++++++

●子どもたちへ

 魚は陸にあがらないよね。
 鳥は水の中に入らないよね。
 そんなことをすれば死んでしまうこと、
 みんな、知っているからね。
 そういうのを常識って言うんだよね。

 みんなもね、自分の心に
 静かに耳を傾けてみてごらん。
 きっとその常識の声が聞こえてくるよ。
 してはいけないこと、
 しなければならないこと、
 それを教えてくれるよ。

 ほかの人へのやさしさや思いやりは、
 ここちよい響きがするだろ。
 ほかの人を裏切ったり、
 いじめたりすることは、
 いやな響きがするだろ。
 みんなの心は、もうそれを知っているんだよ。
 
 あとはその常識に従えばいい。
 だってね、人間はね、
 その常識のおかげで、
 何十万年もの間、生きてきたんだもの。
 これからもその常識に従えばね、
 みんな仲よく、生きられるよ。
 わかったかな。
 
そういう自分自身の常識を、
 もっともっとみがいて、
 そしてそれを、大切にしようね。
(詩集「子どもたちへ」より)
 
+++++++++++++++++++++++

 あの釈迦も、法句経の中で、こう言っています。『己(おのれ)こそ、己のよるべ。己を
おきて、誰によるべぞ』と。

 生きていくのは、私であり、あなたです。そういう人たちが、常識という輪の中で、力
を合わせて生きていく。そこに人間の尊さがあるのではないでしょうか。

 その釈迦の言葉で思い出したのが、つぎの原稿です。少し趣旨が脱線しますが、ぜひ、
読んでいただきたい原稿(中日新聞掲載済み)です。

++++++++++++++++++++++++
 
●己こそ、己のよるべ

 法句経の一節に、『己こそ、己のよるべ。己をおきて、誰によるべぞ』というのがある。

法句経というのは、釈迦の生誕地に残る、原始経典の一つだと思えばよい。釈迦は、「自
分こそが、自分が頼るところ。その自分をさておいて、誰に頼るべきか」と。つまり「自
分のことは自分でせよ」と教えている。

 この釈迦の言葉を一語で言いかえると、「自由」ということになる。自由というのは、も
ともと「自らに由る」という意味である。つまり自由というのは、「自分で考え、自分で行
動し、自分で責任をとる」ことをいう。好き勝手なことを気ままにすることを、自由とは
言わない。子育ての基本は、この「自由」にある。

 子どもを自立させるためには、子どもを自由にする。が、いわゆる過干渉ママと呼ばれ
るタイプの母親は、それを許さない。先生が子どもに話しかけても、すぐ横から割り込ん 
でくる。

 私、子どもに向かって、「きのうは、どこへ行ったのかな」
母、横から、「おばあちゃんの家でしょ。おばあちゃんの家。そうでしょ。だったら、そ
う言いなさい」
私、再び、子どもに向かって、「楽しかったかな」母、再び割り込んできて、「楽しかっ
たわよね。そうでしょ。だったら、そう言いなさい」と。

 このタイプの母親は、子どもに対して、根強い不信感をもっている。その不信感が姿を
変えて、過干渉となる。大きなわだかまりが、過干渉の原因となることもある。ある母親
は今の夫といやいや結婚した。だから子どもが何か失敗するたびに、「いつになったら、あ
なたは、ちゃんとできるようになるの!」と、はげしく叱っていた。

 次に過保護ママと呼ばれるタイプの母親は、子どもに自分で結論を出させない。あるい
は自分で行動させない。いろいろな過保護があるが、子どもに大きな影響を与えるのが、
精神面での過保護。「乱暴な子とは遊ばせたくない」ということで、親の庇護のもとだけで
子育てをするなど。子どもは精神的に未熟になり、ひ弱になる。俗にいう「温室育ち」と
いうタイプの子どもになる。外へ出すと、すぐ風邪をひく。

 さらに溺愛タイプの母親は、子どもに責任をとらせない。自分と子どもの間に垣根がな
い。自分イコール、子どもというような考え方をする。ある母親はこう言った。「子ども同
士が喧嘩をしているのを見ると、自分もその中に飛び込んでいって、相手の子どもを殴り
飛ばしたい衝動にかられます」と。

また別の母親は、自分の息子(中二)が傷害事件をひき起こし補導されたときのこと。
警察で最後の最後まで、相手の子どものほうが悪いと言って、一歩も譲らなかった。たま
たまその場に居あわせた人が、「母親は錯乱状態になり、ワーワーと泣き叫んだり、机を叩
いたりして、手がつけられなかった」と話してくれた。

 己のことは己によらせる。一見冷たい子育てに見えるかもしれないが、子育ての基本は、
子どもを自立させること。その原点をふみはずして、子育てはありえない。

+++++++++++++++++++++++

 私たちは、人間として、相手がたとえ神であろうが、仏であろうが、過干渉されてはい
けないのです。過保護にされてもいけないし、溺愛されてもいけない。

 これから先、あなたのところにも、あやしげなカルトが忍び寄ってくるはずです。どう
か、みなさんも、どうか、くれぐれも、ご注意ください。
(040201)(はやし浩司 常識 常識論)

● われ思う、ゆえに、われあり。(デカルト「方法序説」)

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司


最前線の子育て論byはやし浩司(025)

【愚かさの自覚】

●動物園で

 動物園で、サルの集団を見ていたときのこと。ふと私はこう思った。「この世界が、すべ
てサルになってしまったら、私はどうすればいいのか」と。

 多分、私には、孤独な世界になることだろう。言葉が通じない。ある程度のコミュニケ
ーションはとれるとしても、それ以上の会話ができない。音楽や絵画の美しさを、どう表
現し、どう伝えたらよいのか。人生や宇宙について、どう語ったらよいのか。

 そのとき、また、こうも思った。

 私から見れば、サルは愚かに見える。本当に愚かかどうかは別にして、そう見える。し
かし肝心のサルたちは、そうは思っていないだろう、と。

 その人が愚かかどうかは、その人より高い視点をもってはじめて、それがわかる。自分
のことについても、そうだ。

 自分が愚かかどうかは、そのときはわからない。しかし自分が、より高い視点をもった
とき、はじめて、それまでの自分が、愚かだったとわかる。

●たとえば……

 たとえば幼稚園児の前で、「3+4」の問題を、わざとまちがえて見せる。「ええと、答
は、6だったかな?」と。すると、子どもたちは、ムキになって、それに反発する。「先生、
7だよ」「7だよ」と。

 もちろん私は演技でまちがえているのだが、子どもたちには、それがわからない。私が
本当にまちがえたと思っている。

 子どもたちにしてみれば、「3+4」の問題は、最高度に高度な問題ということになる。
その先に、無限に広がる数学の世界があることなど、知る由もない。だから子どもたちは
子どもたちのレベルで、私を判断する。

 ある子どもは、こう言った。「あんた、それでも、本当に先生?」と。女の子だったが、
彼女の私を見る目は、冷たかった。

 こうした例は、本当に多い。つまり自分が愚かだったということは、自分がより賢くな
ってはじめてわかる。そのときの自分には、わからない。そのときどきにおいて、どんな
人も、自分が最高だと思っている。だからよけいに、わからない。

●再びサルの話

 そこでサルの話にもどる。

 サルは、自分が愚かだとは思っていない。恐らく人間が、賢い動物だとも思っていない。
そもそも、自分の愚かさをはかるための尺度をもっていない。またそれ以上に、人間の賢
さを知るための尺度を、もっていない。

 しかし、問題は、このことではない。

 問題は、私たち自身のことである。つまり今の私は、自分では、愚かだとは思っていな
い。その愚かさを知るための尺度をもっていないからだ。

 しかしその一方で、私のばあい、こうして毎日、ものを書き、いつも何かを発見してい
ると、過去の自分が愚かに見えることがある。たとえば今、十年前に書いた文章を読み返
してみたりすると、それがよくわかる。

 「どうして、こんなバカなことを書いたのだろう」「まちがいだらけではないか」と。

●愚かな人には、賢い人がわからない

 いつか私は、こう書いた。賢い人からは、愚かな人が、愚かとよくわかる。しかし愚か
な人は、賢い人を見ても、その賢さが理解できない。そればかりか、自分と同等の人間だ
と思ってしまう、と。

 このことは、愚かな人と会話をしていると、よくわかる。愚かな人は、明らかに自分を
基準にして、ものを話す。最近でも、こんなことがあった。

 ある女性(六〇歳くらい)が、こう言った。「Aさんって、知ってるかね。あの人も、出
世したもんだよ。さぞかし死んだ、ご両親も、墓の中で喜んでいることだろうね」と。

 こういう話はよく聞く。しかしその女性は、そのあと、私にこう言った。「トラは死んだ
あと、革(かわ)を残すというじゃないですか。あんたも、そうなるよう、努力しなさい
よ」と。

 いろいろ言いたいことはあったが、あまりにも大きな距離を感じて、私はだまって聞く
しかなかった。その女性の思考能力は、恐らく二〇歳とか、三〇歳とか、そのあたりで停
止したとみてよい。あるいは一〇歳前後かもしれない。

●そこで私自身の問題

 そこで私自身の問題。つまり私は、どうすれば、自分の愚かさを知ることができるかと
いうこと。方法としては、より高い視点に自分を置くしかないが、しかし今のこの時点に
おいては、不可能ということになる。

 それはちょうど、たとえて言うなら、この空間を飛びかうテレビの電波を見ろというよ
なもの。まだ存在しない「脳みそ」で、今の愚かさなど、わかるはずもない。繰りかえす
が、自分の愚かさというのは、自分がより高い視点に立ったとき、はじめてわかる。それ
までは、どんなに逆立ちしても、わからない。

●謙虚になる

 だから、こういうことは言える。

 私たちは愚かだという前提で、自分を見るということ。つまり自分自身に謙虚になると
いうこと。「私はバカなんだ」「私には、まだ知らないことが山のようにあるのだ」と。

 決して慢心をもってはいけない。決して自分が最高だと思ってはいけない。決して自分
が正しいと思ってはいけない。

 そこで私は、一つの教訓を、手に入れた。

 賢い人は、自分が愚かだと知っている。しかし愚かな人は、自分が愚かだとは、思って
いない、と。

 サルはいつになったら、自分の愚かさに気づくだろうか。しかしサルがそれに気づくこ
とはない。だからサルは、やはり、愚かということになる。

 ついでに誤解がないように言っておきたいことがある。知識があるからといって、賢い
ということにはならない。このことについては、もう何度も書いてきたので、ここでは省
略する。
(040201)(はやし浩司 愚かさの自覚 愚人論)

+++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩


最前線の子育て論byはやし浩司(026)

●愚かさの自覚

 毎年、新しい母親に、会う。新しい母親に会うたびに、私は、こう思う。「どうして、人
は、こうまで毎年、同じことを繰りかえすのか」と。

 そして私は、同じ、指導を繰りかえす。10年前と同じ、指導を繰りかえす。20年前
と同じ、指導を繰りかえす。そして30年前と同じ、指導を繰りかえす。

 そんなわけで、私は、新しい母親の相談を受けながらも、その先の先まで、よくわかる。
それぞれの母親は、「私の子どもは特別」「この問題は私だけの問題」と考える。が、人間
がかかえる問題というのは、細かい部分はさておき、それほど、ちがうものではない。

 かなり特殊なケースでも、私には、そうではない。過去にいくつか、似たような事例を
経験している。だから私はそういう過去の事例に当てはめながら、母親を指導する。が、
それすらも、新しい母親には、理解できない。

 たとえばかん黙症の子どもがいたとする。このタイプの子どもは、簡単にはなおらない。
またなおそうと思ってはいけない。その子どもに合わせながら、自然体で接するのがよい。
だから私は新しい母親に、こう言う。

 「そういう子どもだと思って、のんびりやりなさい。どんな子どもでも、一つや二つ、
親の意に添わないことがあるものですよ」と。

 しかし新しい母親には、それがわからない。あちこちの病院を巡ったり、無理な指導を
繰りかえす。あげくのはてには、「幼稚園の先生の指導が悪い」などと言い出したりする。
そして子どもの症状を、かえって悪化させてしまう。

 そして再び、私のところへ……。

 実はこうした一連の行為についても、その新しい母親を見た瞬間、私には、わかる。「こ
の母親は、私の言うことなど、聞かないだろうな」「つぎにこういう行動に出るだろうな」
と。私が失望するときというのは、そういうときをいう。「どうせ、私など、相手にされて
いないのだ」と。

 ……と書きながら、実は、私が書きたいのは、このことではない。

 これは新しい母親についての話だが、「人生」という場において、私たちは、みな、ここ
でいう新しい母親と同じことをしている。

 だれか遠くに、人生を、何度も経験した人がいたとする。そういう人から見れば、今の
私の行動など、あたかも手に取るようにわかるにちがいない。

 しかしどんな人も、自分の人生を、一度しか経験しない。子育てでたとえて言うなら、
私たちは、みな、新しい母親なのだ。だから私たちはみな、「私の人生は特別」「私の問題
は、私だけのもの」と思う。

 そこで私はこう考えた。

 もし新しい母親が、何らかの方法で、自分の愚かさを知ることができたとする。「無知の
自覚」ということになるのかもしれない。それができたとする。そのとき、その方法がわ
かれば、それを、自分の人生に、応用することができる、と。

 少しわかりにくい話になったので、もう少し、かみくだいて考えてみよう。

 若い母親は、はじめて母親になったような人たちである。だからすべての経験が、はじ
めての経験で、自分のかかえる問題を、客観的に見ることができない。

 しかし私には、わかる。毎年、同じような母親に接し、同じような問題をいっしょに考
えてきた。

 同じように、私は、今、一つの人生を生きている。すべての経験が、はじめての経験で、
自分のかかえる問題を、客観的に見ることができない。

 そこでもし若い母親が、自分の愚かさ、つまり無知であることを自分で知る方法が見つ
かれば、その方法を、今度は、私が自分の人生を知る方法として、応用できる。自分のか
かえる問題を、客観的に見ることができる、と。

 そこで新しい母親たちを観察すると、謙虚な母親と、そうでない母親がいることがわか
る。

 謙虚ということは、つまりは、心のどこかで、無意識であるにせよ、自分の愚かさを自
覚していることを意味する。しかしそうでない母親は、そうでない。何か私が説明しよう
としても、「あんたごときに何がわかるの」というような態度をして見せる。

 つまり、ここに一つのヒントがある。

 自分の愚かさを知るためには、まず謙虚になること、と。「私はバカだ」と思うのもよい。
「この世界には、私の知っていることよりも、知らないことのほうが、はるかに多い」と
思うのもよい。ともかくも、そういう形で、謙虚になる。

 たとえば新しい母親でも、少し謙虚になれば、私のような指導者の助けを借りなくても、
自分で問題を発見して、それを解決できるはず。同じように、私自身も、この人生を生き
る上で、少し謙虚になれば、だれかの助けを借りなくても、自分で問題を発見して、それ
を解決できるはず。

 しかし「謙虚になる」ということは、同時に、それまでの人生に対して、敗北を認める
ことにもなる。「私は正しい」と思って生きるのは、それ自体が、生きる自信につながる。
しかし「私はまちがっているかもしれない」と思って生きるのは、不安だ。心配だ。

 また謙虚になるといっても、具体的には、どうしたらよういのか、などなど。問題はつ
づく。

 ……これらの問題は、どうクリアしたらよいのか。それについては、また別のところで
考えることにして、ともかくも今は、「謙虚になる」。謙虚になることによって、自分の愚
かさを知ることができる。そしてそれがわかったとき、人は、つぎのステップへと進むこ
とができる。
(040202)

【今日の発見】

● 自分が愚人であると知っている人を、賢人という。自分が愚人であると気づいていない
人を、愚人という。賢人は、どこまで謙虚で、自分を知ろうとする。しかし愚人は、傲
慢で、自分を知ろうとしない。

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

最前線の子育て論byはやし浩司(027)

●人格の完成度

 子どもの人格の完成度は、つぎの五つをみて、判断する。

(1) 協調性……ほかの子どもたちと協調して、いっしょに行動できる。
(2) 同調性……ほかの子どもの苦しみや悲しみが理解できる。
(3) 和合性……集団の中で、なごんだ雰囲気をつくることができる。
(4) 独自性……誘惑に強く、「私は私」という信念を感ずることができる。
(5) 自尊性……自分を大切にしている。将来に対して展望をもっている。
(6) 自立性……単独で行動ができる。
(7) 自律性……道徳規範や倫理規範がしっかりとしている。

 人格の完成度の高い子どもは、年齢に比して、どこかどっしりとした落ちつきがある。
おとなびて見える。そうでない子どもは、そうでない。どこかセカセカとしていて、幼い
感じがする。(ただし子どもによっては、仮面をかぶるケースもあるので、必ずしも外見だ
けでは、判断できない。)

 しかし、つまり人格の完成度は、子どもだけの問題ではない。「では、私はどうだったの
か?」「今の私はどうなのか?」という問題と、からんでくる。

(1) 協調性……私は若いころから、あまり協調性がない。人から、「君はイノシシみたい
だ」と、よく言われた。たまたま私がイノシシ年(昭和22年生まれ)だったから、
そう言われたのかもしれない。何でもやりだしたら、とことんする。また私は、昔
から、団体旅行が、あまり好きではなかった。数人もしくは、一、二人の友人とブ
ラブラと旅をするのは、好きだった。

(2) 同調性……他人の苦しみや悲しみが、理解できるようになったのは、最近のことで
はないか。たとえば友人の父親や母親が死んだときも、わりとクールだった。「ああ、
そう」という感じだった。その友人の気持ちになって、いっしょに泣くというよう
なことは、しなかった。できなかった。

(3) 和合性……笑わせ名人で、ひょうきんなところはあったが、みんなと仲よくやろう
という気持ちは、あまりなかった。正義感だけは、やたらと強く、そのためよく敵
をつくった。殴り合いの喧嘩をしたことも、ときどきある。


(4) 独自性……私はもともと、誘惑に弱い。その場で、すぐ相手に迎合してしまうよう
なところがある。そのため、あとで、後悔することも多い。たとえば私は、政治家
にはなれないと思う。目の前にワイロを積まれたら、それを断る勇気はない。……
と思う。

(5) 自尊性……自分を大切にするという意味では、たしかに大切にしている。とくに「は
やし浩司」の名前は、大切にしている。当たり前のことだが、一度だって、他人の
文章や、内容を盗用したことはない。だれかがどこかで同じようなことを言ってい
るときには、私のほうから、自分の意見を取りさげる。そういうことはよくある。


(6) 自立性……今、私は見た目には、単独行動を繰りかえしている。しかしだからとい
って、自立性があるわけではない。もし今、ワイフがいなくなったら、私はガタガ
タになると思う。病気になったりしても、同じ。

(7) 自律性……自分を律する力は、弱い。いつもそういう弱い自分と戦っている。ふと
油断すると、悪いことばかりを考えている。だから自分で、いくつかの教条をつく
り、それに従って行動している。あとで、あれこれ悩んだり、後悔したくないから
である。

 以上のようなことを並べて考えてみると、私の人格は、きわめて軟弱なことがわかる。
とても人に誇れるようなものではない。原因と理由は、いろいろあるが、それについては、
またの機会に考えるとして、こうした人格は、かなりはやい時期に、その方向性が決まる
と考えてよい。

 私の経験では、小学校に入学するまでには、ほとんどその形が決まるのではないかと思
っている。つまりそのころまでの家庭教育が、人格の形成には、きわめて重要な意味をも
つということ。決して、安易に考えてはいけない。
(040202)(はやし浩司 子どもの人格 子供の人格 人格論)

+++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩


子育て随筆byはやし浩司(028)

最後の審判(SF小説)

●宇宙の支配者たち

 有機体生物が活躍した時代は、もう、遠い昔に終わった。「昔」という言い方は、正しく
ないかもしれない。この世界には、時間という概念は、ない。ここでは地球時間で、10
0年も、一瞬のうちに過ぎてしまう。その一方で、地球時間で、数秒のうちに、何十世代
もの世代が交代する。

 ここは、無機質の世界。光と電子の交錯する世界。遠い、宇宙の片隅にある惑星の、そ
の地下、数千メートルにある。かたい岩盤にかこまれ、永遠の闇に閉ざされた世界。

 宇宙の支配者たち。それが、何の変哲もない、ガラスのようなかたまりであるとしたら、
だれしも驚くにちがいない。私たち人間が想像する支配者は、映画「ET」に登場するよ
うな宇宙人だった。「インディペンデス・デイ」に出てくるような宇宙人でもよい。あるい
はグレイと呼ばれるような、やたらと目の大きな宇宙人かもしれない。

 しかし宇宙の支配者たちは、たしかにガラスのような、かたまりでしかなかった。

●コピー脳

 かつて遠い昔。本当に遠い昔。この宇宙を支配した知的生物たちがいた。彼らは、地球
に住む人間に似た有機体生物だった。主体となる組成物質は違ったが、しかしそのちがい
に、どれほどの意味があるというのか。

 その有機体生物たちは、自分たちの脳をコピーする技術を手に入れた。そして自分たち
の脳を、そのまま、しかもつぎからつぎへとコピーした。一人の有機体生物のもつ、あら
ゆる情報と知識を、小さなチップにつめこんだ。これを「コピー脳」と、彼らは、呼んだ。

 そしてつぎに、その有機体生物は、これらの無数のコピー脳を、ユニットとして、一体
化した。とたん、そのコピー脳は、知的生物として、活動し始めた。たがいに無限の情報
を共有し、瞬時に数億ケタの計算をするようになった。

 やがて、……というより、すぐにコピー脳のユニットは、別のユニットと結合を繰りか
えし始めた。と、同時に、特殊な周波数の電磁波を放出することによって、自分たちの創
り主である有機体生物自体を、コントロールできることを知った。そして有機体生物を、
逆に、自分たちの支配下においた。

●支配者たちの構造

 コピー脳の世界では、時間も、空間もない。もう少しわかりやすく説明しよう。

 今、あなたの脳を、小さなマッチ箱くらいのマイクロチップに、すべてそのまま、そっ
くりとコピーできたとしよう。すると、そのマイクロチップは、チップというより、あな
た自身ということになる。

 事実、そのマイクロチップに、スピーカーと、マイクと、カメラをつければ、そのマイ
クロチップは、あなたとして考え、話し始める。

 ただしそのマイクロチップと、あなたが会話をできるかというと、それはない。マイク
ロチップの世界では、瞬時が、あなたにとっては、永遠の世界なのだ。あなたが数十年か
けて計算するような問題でも、マイクロチップの脳は、瞬時に、それをやり終えてしまう。

 あなたが一年もかかって読む本でも、マイクロチップは、やはり瞬時に読んでしまう。
あなたが会話をしたくても、それはできない。あなたが一年かけて話すことでも、マイク 
ロチップは、やはり瞬時に話してしまう。早口? とんでもない。マイクロチップが、ピ
ッとしゃべっただけで、人間が読む新聞の一年分に相当する。

 そのマイクロチップ同士が、結合したとする。そしてたがいに情報を交換したとする。
それはたとえて言うなら、あなたと隣人が、脳にたくわえられた情報を、共有するような
ものだ。とたん、「私」という概念は、消える。

 またそのチップ同士が、結合すれば、空間という概念も、消える。正確には、意味がな
くなる。たとえばアメリカにあるチップと、中国にあるチップが、光通信で結ばれた状態
を想像すればよい。

 それが宇宙の支配者たちの、基本的な構造である。

●その奴隷たち

 仮にこの宇宙に、有機体生物がいるとしたら、それはすべてこの支配者たちの奴隷にす
ぎない。

 もちろんこの地球の、ありとあらゆる生物も、それに含まれる。

あるときこの宇宙の支配者たちによって、生物の種が、地球に植えつけられた。意図的
なものというよりは、気まぐれに近いものだった。ちょうど人間が、庭先に、花の苗を植
えるようなものだった。

 ただし地球を選んで、そうしたわけではない。彼らは無数の種を、いつも、宇宙のあら
ゆる方向に向って放出している。その一つが、たまたま地球という惑星に到達した。

 その目的は、わかりきっている。この殺風景な宇宙をにぎやかにすること。彼らとて、
遠い昔、有機体生物に創られた。そういう思い出も、ないわけではない。宇宙に種をまく
ことで、それぞれの惑星を、生物で、飾ることができる。

 が、問題がないわけではない。

 コピー脳がもっとも、恐れるのは、あるときそれ相当の知能をもった生物が、自分たち
の惑星にやってきて、自分たちを破壊すること。コピー脳たちは、そのための警戒網と、
攻撃力をもつことも、忘れてはいなかった。

●最後の審判

 地球人の情報は、すでにコピー脳には、届いていた。そして人間がもつあらゆる情報は、
すべて吟味(ぎんみ)されつくしていた。方法は、簡単だ。

 かつて彼らが創られたように、人間の脳を、つぎからつぎへとコピーした。老いも若き
も。あらゆる人種について。人間の脳みそなど、かつてかれらを創った創造主の有機体生
物にくらべれば、おもちゃのようなもの。脳の容量にしても、数万分の一にも満たない。

 しかし凶暴さでは、人間は、ほかのあらゆる知的生物体を、しのいでいる。コピー脳た
ちが人間を恐れる理由は、そこにあった。人間は、彼らが創造した有機体生物の中でも、
ひときわ、貪欲で、攻撃的だった。

 深い、岩盤の底。無数の光と電子が交錯する世界。そこで今、最後の審判がくだされよ
うとしている。

 「地球の人間を、生かすべきか、抹殺すべきか」と。

 すでにあなたの脳も、コピーされている。私の脳も、コピーされている。コピー脳たち
は、すでに数億の人間の脳をコピーした。しかもこの一〇〇年にわたって。一〇〇〇年に
わたって。

 審判は、瞬時になされる。無数のコピー脳たちが、蓋然性(がいぜんせい)を計算する。
そして、その結果……。

 「地球の人間を……」

 その結果は、やがて現れる。地球時間で一〇年後か。それとも一〇〇年後か。審判は瞬
時でも、その結果は、数百年後かもしれない。もともと時間と空間のない世界。暗い、闇
に包まれた世界。人間の運命は、その宇宙の支配者たちの審判に握られている。

 さあ、人間たちよ、あなたは生き残る資格ありやと判断するか。その価値ありやと判断
するか。

 それとも生き残る資格なしやと判断するか。

 宇宙の支配者たちは、今、静かに、その最後の審判をくだそうとしている。あのガラス
のようなかたまりの中で……。
(040202)

+++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩


最前線の子育て論byはやし浩司(029)

●今日一日だけでも……

今日一日だけでも、
何も考えず、楽しく、明るく、
仕事をしてみたい。

収入や、お金の計算をすることもなく、
損や、得を考えることもなく、
精一杯、誠実に仕事をしてみたい。

今日一日だけでも、
だれとも、仲よく、ほがらかに
話をしてみたい。

うらみや、怒りを感ずることもなく、
わだかまりや、こだわりを捨てて、
さわやかに、つきあってみたい。

今日一日だけでも、
懸命に、ただひたすら懸命に
生きてみたい。

一瞬一秒を無駄にすることなく、
「がんばって生きた」という実感を、
心の底から感じてみたい。
(040203)

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

最前線の子育て論byはやし浩司(030)

【近況・あれこれ】

●日本の一流研究者いわく……

 「一流の研究者を生むのは、スパルタ教育ではなく、親や教師にはぐくまれた、知的な
好奇心」だ、そうだ(Y新聞2・3)。

 ノーベル賞や、アメリカ医学界の最高賞「ラスカー賞」といった、国際的な科学賞の受
賞者に対して、このほど、文部科学省科学技術政策研究会が、アンケート調査をした。そ
の調査結果である。

 「小中高校時代に注目し、研究者をめざした動機をたずねたところ、53人が、『両親や
親戚、教師ら周囲のおとなの話などから、知的刺激を受け、好奇心が芽生えた』との趣旨
の回答を得た」(同新聞)と。

 「一方、周囲から勉強を強制された人は、ほとんどいなかった。ただ、自由であれされ
ばよいわけではなく、『家族でテレビのバカ番組をみているようではだめ』との痛烈な意見
も寄せられた」とも。

 「テレビのバカ番組」とは、何か。もう言うまでもない。

 もっとも、こうした研究者になった人たちは、もとから恵まれた環境にあるのも事実。
そういう環境が基盤にあって、その上で、研究者として、花を咲かせることができる。も
ちろんすぐれた知的能力も、必要である。

 ただそうした研究者が、人格者であるかどうかということは、別問題。子どもにせよ、
おとなにせよ、「人格」は、別の角度から論じられるべき問題である。総じてみれば、一流
の研究者と呼ばれる人ほど、これは私の個人的な印象だが、人格的には、どこかおかしな
人が多い?

 一方、ほとんどの研究者は、異口同音に、こう言う。「研究ほど、すばらしい職業はない」
と。こうし感想は、研究者になってみてはじめてわかることで、そのため研究者の親たち
は、自分の息子や娘を、同じ研究者にすることが多い。

 こうしたアンケート調査の裏には、こうした事情があることを忘れてはならない。だれ
しも研究者になれるわけではない。子育てには目標をもつことは大切だが、しかしそれを
子どもに強要してはいけない。子どもの進路は、あくまでも、子ども自身が決めることで
ある。

 で、ついでに一言。「テレビのバカ番組」について。

 こういった番組は、それから得るものよりも、それを見る時間の分だけ、時間をなくす
ことのほうが、問題である。時間は、決して永遠のものではない。生きる時間がかぎられ
ている分だけ、有限である。

 多くの人は、死の危機がせまってから、時間のもつありがたさに気づく。しかしそれか
らでは遅い。

懸命な人は、その価値を、なくす前に気づく。愚かな人は、その価値を、失ってから気
づく。健康しかり、子どものよさしかり。そして時間しかり。要は、ああした興味本位の、
意味のない番組は、見ないこと。


● アメリカの財政赤字

アメリカの財政赤字が、2004年度には、最悪5210億ドルになるとみられている。
日本円になおすと、約55兆円である。

 日本も約30〜35兆円あまりの赤字国債を毎年発行して、財政赤字を補填(ほてん)
しているから、偉そうなことはいえない。しかしこれとは別に、アメリカは、膨大な貿易
収支の赤字をかかえている。

 わかりやすく言えば、アメリカ一家は、借金に借金を重ねてやっとのことで家計を補っ
ている。しかもダンナは、お金を使うだけで、稼ごうとしない。

 そのアメリカがなぜコケないかといえば、軍事力があるからである。日本の例を出すま
でもなく、世界は、その軍事力の威光にすがって、せっこらせっこらとお金を稼いでは、
そのお金で、アメリカのドルを買い支えている。

 本来なら、アメリカドルは、1ドル、50〜60円程度が相場ではないのか。あるいは、
もっと低い?

 しかしこういう無理は、やがて、本当にコケる。その時期は、いろいろ言われているが、
あとになればなるほど、被害は大きくなる。で、そのとき、実は、日本も、同時にコケる
と言われている。もしそうなれば、日米同時発の、世界大恐慌! ギョッ!

 アメリカの財政赤字の問題には、そういう深刻な問題も、含まれる。


●あやしげな勧誘

 この原稿を書いているとき、またまた電話。この電話番号は公表していない。しかしど
こでどう調べてくるのか?

 昨日は、S市にあるという、XX投資会社から。そして今は、N市にあるという、YY
美容品会社から。

 最近のこうした電話の特徴としては、すぐに要件を切り出さないこと。長々と自己紹介
をしたあと、「実はですね……」と。それまで何となく、重要な電話かもしれないと思わせ
るところが、ニクイ。

 昨日のXX投資会社の電話は、こうだった。

 「私はですね、S市に住んでいます、AAという者です。今度、S市にですね、わが社
の支店をつくりましてですね、こちらへやってきたというわけです」
「それで浜松におられる、あなた様に、一言、あいさつを思いまして」
「で、S市にはよく来られますか」「浜松にもわが社の支店があればよいのですが、こう
いう時勢ですから、支店をつくるというのも、たいへんでして……」
「で、今回、そちらへ行くことがありましてね、一度、お会いしていただけないものか
と思いまして」「いえ、この話は、あなた様にも、きっと、有利な話でして、喜んでいただ
けるものと思います」と。

 長々と話がつづくので、「で、要件は何ですか?」と聞くと、「はあ、投資の件です。林
様は、投資には興味ありますか?」と。

 今の電話は、ワイフが出たので、内容はわからないが、ここに書いた内容に近いものだ
ったらしい。「途中で、じれったくなってしまった」と、ワイフも言っていた。

 で、こうした電話は、きっぱりと断るにかぎる。ヘタに話を聞いたり、あいまいな返事
をしたりすると、あとがたいへん。

 ワイフは、さかんに「結構です」「結構です」と答えていたが、この「結構です」という
言葉も、使わないほうがよい。英語では、「OK」という意味にもなる。事実、「結構です」
と言ったため、セールスマンが押しかけてきた例もある。「あなたが結構ですと言ったから、
来たのです」と。

 みなさんも、くれぐれも、注意してほしい。


●有料版・電子マガジン

 先ほど、M社に、有料マガジンの登録を申請した。しかしすぐ受理されるわけではない。
「審査に1〜2週間ほど、かかる」とのこと。

 今度、M社から、有料マガジンを出すことにした。購読料は、一か月200円。

 あくまでも予定なので、おづなるかわからない。がんばって書いてみる。

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●「子育て最前線の育児論」(有料版)のお願い

 読者のみなさんへ、

 新しく有料版の発行を考えています。みなさんには、毎月200円(予定)
 のご負担をお願いすることになると思います。

 また改めて、ご連絡申しあげます。そのときは、よろしくお願いします。
 無料版のほうも、今しばらく、このまま発行する予定でします。どうか
 よろしくお願いします。

                        はやし浩司

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●カラス

 山鳩のためにエサをまいておいたら、このところカラスがくるようになった。しかしカ
ラスは、お呼びではない。

 こういうのを「差別」というのか。

 しかしあのカラスだけはどうしても、好きになれない。頭がよすぎる分だけ、いたずら
をする。ゴミをあさったり、そのゴミを散らかしたりする。それだけではない。

 カラスが出没するようになると、小鳥が消える。山鳩もいなくなる。巣を荒らすからだ。
それにうるさい。まだ夜が明けきらないうちから、ガーガー、カッカッと鳴く。

 そんなわけで、庭先で、カラスを見つけたときは、すぐ花火で追い払うようにしている。
ロケット花火というのだ。それで、シューッ・パンとやる。

 たった今、それをしてきたところ。
 それで気がついたが、外は曇天。肌寒い風が、ヒューヒューと吹いている。今日も自転
車でがんばるぞ!


●携帯電話店へ行ったら……

 携帯電話のカバーをなくした。着脱式になっていた。それで近くの「Dショップ」へ。「カ
バーはありますか?」と聞くと、「ある」と。値段は、1000円。

 すると前に座った女性が、「電話番号は?」と。
 「?」と思いながら、それに答えると、「お名前は?」と。

 私は遠慮がちに、こう言った。「林 浩司です。……あのう、カバーを買いにきただけで
すが……」と。

 すると、「あなたのお名前では、お届けありませんが……」と。

 私「ワイフの名前かもしれません。林晃子です」
 女「奥さんの生年月日は?」
 私「??……昭和XX年X月XX日……」

 女「あなたのお名前は……?」
 私「あのう、私は、カバーを買いにきただけですが……」
 女「確認だけです」

 私「私は、林浩司です」
 女「どんな字を書きますか」
 私「あのね、私はカバーを買いにきただけですよ」

 女「わかっています。確認です」
 私「サンズイヘンに、『告』です。それに『司』です」
 女「免許証か何か、お持ちですか?」

 私「あのね、私、カバーを買いにきただけですが……」
 女「だから、確認のためです」
 私「何のために……ですか???」

 実に不愉快な会話だった。カバーを買いにきただけだが、最後は、免許証の提示まで求
められた。いくら確認のためとはいえ、ここまでは、やりすぎではないのか……と思いつ
つ、店を出た。

 それにしても、小さなカバー一枚が、1000円とは。「さすが、もとNTT」と、へん
なところで、へんな感心をした。


●考える力

 考える力は、能力というより、習慣。その習慣がある子どもは、深く考える。そうでな
い子どもは、考えない。

 たとえば今日、積み木(立方体)を、900個くらい積んだ図を見せて、小四の子ども
たちに数えさせてみた。

 正解率は10%前後とみるが、答があっているかどうかは、重要ではない。子どもたち
が、どのような様子を見せるかが、重要である。

 そのとき、一生懸命に考えようとする子どもと、そうでない子どもがいるのがわかる。
考える習慣のある子どもは、こうした問題を与えると、そのとたん、ツンとした緊張感を
ただよわせる。そうでない子どもは、調子がよいだけ。どこかフワフワした感じになる。

 もちろん考える習慣があるからといって、この種の問題が解けるわけではない。今度は、
能力の問題がからんでくる。

 よく誤解されるが、知的な能力は、決して平等ではない。とくにこの種の問題、つまり
空間図形弁別では、差が大きく現れる。そんなわけで考える習慣もあり、かつ能力に恵ま
れた子どもは、こうした問題をスイスイと解いていく。それがここでいう10%の子ども
ということになる。

 こうした考える習慣を伸ばすのは、容易ではない。習慣というのは、そういうもので、
それこそ乳幼児期からの習慣が、大きく影響する。しかし方法が、ないわけではない。た
とえば私のところでは、パズル的な問題を、ときどきさせる。それを通して、考えること
のおもしろさを教えるようにしている。

 長い目でみたとき、たとえば10年とか、20年とか長い目でみたとき、この習慣のあ
る子どもと、そうでない子どもは、大きくちがってくる。能力ではない。習慣である。考
える習慣のある子どもは、伸びる。そうでない子どもは、伸び悩む。

 それは健康論に似ている。運動する習慣のある子どもは、健康を維持できる。しかし運
動する習慣のない子どもは、せっかくよい素質をもっていても、やがて健康を維持できな
くなる。

 だからこの時期は、考えるという習慣づくりを大切にする。その習慣があれば、それで
よし。問題が解ける、解けないは、つぎのつぎの問題。(「つぎのつぎ」というのは、一が
習慣、二が能力。三が、解ける、解けないの問題ということ。)
(040204)


++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司


最前線の子育て論byはやし浩司(031)

●のぞく

 他人の不幸を、のぞいては、いけない。
 他人の不幸を、話題にしてはいけない。
 他人の不幸を、笑ってはいけない。

 あなたがそれをすればするほど、
 あなたはいつか、自分の不幸をのぞかれる。
 あなたはいつか、自分の不幸を話題にされる。
 あなたはいつか、自分の不幸を笑われる。

 あなたはのぞいた分だけ、
 あなたは話題にした分だけ、
 あなたは笑った分だけ、
 
 いや、その何十倍も、今度は、
 自分が苦しむことになる。

+++++++++++++++++++++

 他人の不幸が、ことさら、好きな人がいる。そしてどこからそういう話題を集めてくる
のか、それを人に話す。

 「あのXXさんの、ご主人ね、何でも、重い病気なんですって……」
 「あのYYさんの息子さんね、C高校に落ちたんですってね……」
 「あのZZさん、あるところで万引きをして、つかまったそうよ」とか。

 こういうのを『のぞき見主義』という。

 私が、この不快感に気づいたのは、反対に、あれこれ他人に話題にされたときだ。世の
中には、いろいろなことを言う人がいる。私の家の中をのぞいては、他人に話す人もいた。

 「林先生の息子さん、B高校ですってね。林先生の息子さんだから、S高校かって、思
いましたのよ」と。

 しかしそうした『のぞき見主義』は、私自身にもあった。

 それを自覚したのは、ごく最近のことではないか。いや、のぞき見主義を自覚したので
はなく、いつごろから、そういう自分ができたかを自覚したのは、だ。

 私は、子どものころは、他人のことには、ほとんど関心をもたなかった。いわんや、他
人の家をのぞくというようなことはしなかった。

 しかしそういう私に、(いやな自分)が生まれたのは、あのはげしい受験競争のころでは
なかったか。ライバルの友人たちの動向が、気になった。そしてそれがいつの間にか、私
の中に、(ものの見方)の一つとして、定着してしまった。

 『のぞき見主義』は、実に不愉快なものだ。される立場で考えてみると、それがよくわ
かる。

 今の今でも、私のマガジンを必要もないのに購読して、その中から、自分や知人に関係
ある記事を見つけては、あれこれ話題にしている人がいる。しかもコピーまで、して!

 「あの林が、こんなことを書いていますよ!」と。

 こうしたマガジンは、そういう読者もいるという前提で、書かねばならない。しかしい
やな連中であることには、ちがいない。(G県のSさん、もう購読をやめていただけません
か。よろしくお願いします。あなたの子育ては、とっくの昔に、終わっているはずですが
……。)

 しかし、これは私自身の問題でもある。

 私もふと、油断すると、他人の私生活をのぞいてしまう。もちろん興味本位である。し
かし同時に、それをすると、心の中がザワザワするのがわかる。何とも言えない、不快感
である。自分の心がけがされるかのような、不快感である。

 「私は私」と思って生きるのは、その一方で、「他人のことは干渉しない」という生きザ
マを意味する。他人の生活をのぞき見るというのは、その「私は私」という生き方に、ケ
チをつけることを意味する。

 先日も電車に乗ったら、前に座った五〇歳前後の女性たちが、こんな会話を始めた。

A「あのXXさん、あわれなもんですな。昔は、あのあたりでも、一の財産家だったのに、
今は、落ちぶれてしまって……」
B「何でも、今は、3DKのアパート住まいだそうですよ」
A「ああ、あわれなもんですな。本当にあわれなもんですな」と。

 この二人は、そのXXさんのことを、心配しているのではない。同情しているのでもな
い。落ちぶれたことを、一見、同情しているフリをしながら、喜んでいる。見ると、二人
とも、実に醜悪な顔つきをしていた。

 今は、受験シーズンも終わり、この種の話題が、ちまたをにぎわせている。

 「AAさんの息子さん、どうして落ちたのオ! 信じられない!」
 「BBさんの娘さんが、S高校を受験したなんてエ! 本当!」
 「CCさんの家ね、家庭教師を二人もつけているそうよオ。ウッソー!」と。

 しかしこういう話題を口にすればするほど、今度は、その人自身が、他人の口に苦しむ
ことになる。だから、冒頭に書いたように、『他人の不幸を、のぞいてはいけない』。これ
は自分の人生を、美しく生きるための大原則である。
(040204)

● あなたのまわりにも、愚劣な話題で、あなたの興味を誘うという人がいるはず。そうい
う人には、近づかない。あなたがだれかの悪口やうわさを聞いたとすると、今度は、あ
なたの悪口やうわさが、その人から、ほかの人に伝えられる。そういう人には、警戒し
たほうがよい。こういうのを、「バトン人間」という。運動会のリレーで使うバトンの
ように、人の悪口やうわさを、人から人へと、たがいに伝える。

● またそういう話には、決して、相槌(あいづち)を打ってはいけない。へたに相槌を打
つと、今度は、「あなたが言った話」として、他人に伝わってしまう。くれぐれも、ご
注意。

● 「バトン人間」たちは、ゴシップ好き。あなたにゴシップを話すことで、今度は、あな
たのゴシップをさがす。だからそういうバトン人間には、心を許してはいけない。「あ
んただけにね……」とか、「ここだけの内緒の話よ……」というような話し方をする人
ほど、警戒したらよい。相手にしないこと。ついでに自分のことを、話さないこと。

● 要するにバトン人間は、「これだけの秘密を話すのだから、あなたも何か秘密を話しな
さいよ」と、迫ってくる。一方、他人の秘密を聞いた人(=あなた)は、「自分は、そ
れだけ信頼されているから、そういう話をしてもらえる」と錯覚する。しかしこれは錯
覚。うかつにだれかの秘密や、あなたのことを話すと、今度は、それが広まってしまう。

● 男の世界でいうなら、平気で愛人をつくたり、浮気する男の話など、信用してはいけな
い。妻でさえ平気で裏切るような人間である。あなたを裏切ることなど、朝飯前。だれ
しも「自分だけは特別」「自分だけは特別あつかいされている」と考えがちだが、それ
はまったくの幻想。

● 同じように、友人の秘密を平気でバラすような人間は、信用してはいけない。それを聞
いたほうは、「自分がより信頼されているから」と思いがちだが、それも幻想。あなた
が話した話や、あなたの秘密は、同じように、その人を介して、他人にバラされる。

● はっきり言おう。この世界には、こうしたバトン人間が、何割かという割合でいる。そ
してあなたのスキを、虎視眈々(こしたんたん)と、ねらっている。要は、そういう人
間には、近づかないこと。ほかの世界でならともかくも、子どもがからんだ世界では、
この種の問題は、一度こじれると、とことんこじれる。

● バトン人間と感じたら、水のように、淡く交際するのがよい。話としても事務的なこと
がらだけにとどめる。

● なお、ついでに一言。こういう人間と、こういう会話をしても、あなたにとって得にな
ることは何もない。はっきり言えば、時間のムダ。まったくのムダ。やがてあなたも、
時間の大切さに気づくときがくる。そしてそのとき、そういう人たちとつきあった自分
を、必ず、後悔するときがくる。そういうことも、心のどこかで考えるとよい。

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

子育て随筆byはやし浩司(032)

●母親の世界

 五〇歳を超えるころから、一〇歳の小学生も、三〇歳の母親も、同じように見えるよう
になった。「子ども」という言い方は、たいへん失礼な言い方になるかもしれない。しかし
本当に、そう見える。

 「おとな」というと、それなりに完成された人間を想像しがちだが、実際には、そうで
はない。反対にときどき、一〇歳の小学生をみると、「この子は、この先、あまり伸びない
だろうな」と思うことがある。

 だからといって、三〇歳の母親が、子どもというわけではない。また、それが悪いと言
っているのでもない。人間の進歩というのは、そういうもの。何か特別なことがないかぎ
り、ある時点を境に、人格もまた、ループ(繰りかえし)状態に入る。

 よく誤解されるが、(情報量が多いこと)イコール、(すぐれた人)ではない。つまり人
は、おとなになればなるほど、自分のもつ情報量を、飛躍的に増大させる。で、一見、賢
くなったように錯覚する。自分もそう錯覚するし、他人もそう錯覚する。しかし情報量と、
人格の完成度は、まったく関係ない。

 たわいもない友人関係で、ドタバタする一〇歳の小学生。一方、これまたたわいもない
人間関係で、ドタバタする三〇歳の母親。さらにこうした状態は、油断すると、四〇歳に
なっても、五〇歳になってからもつづく。

 そんなわけでいつしか私は、母親たちの世界も、子どもの世界と、どこもちがわないと
思うようになった。少なくとも、私には、ほとんど区別がつかない。だからよく、一人の
母親が、自分の娘を、「勉強しなさい」と叱っているのを見ると、ついこう言いたくなる。
「自分も勉強したらいいのに……」と。

 さて私自身のこと。

 私自身の二〇代のころと、今の自分をくらべて、私は、人格的には、どれだけ進歩した
のだろうかとときどき思う。しかしいつも結論は、同じ。「何も変っていない」。むしろ退
化した部分のほうが、大きいのでは……。

 しかしこういうことは言える。ときどき二〇代のころの自分を思い出すが、「あのころの
私はバカだったなあ」と。そう思うことは多い。いつもバカなことばかりしていた。自分
が無知であることにさえ、気づいていなかった。

 それに二〇代のころの私は、本当に時間を粗末にした。貧乏になってはじめてお金のあ
りがたさがわかるように。そしてお金を浪費した自分を、後悔するように、今、私は、あ
のころの自分を、後悔している。「どうしてもっと早く、スタートしなかったのか」と。

 今からでは、何をするにも遅すぎる。こうして今書いていることについても、私は、せ
めて三〇代、四〇代のころ、書くべきだった。

 もし若い母親たちに、今、アドバイスできることがあるとすれば、ここに私が書いたこ
とを参考に、「では、私はどうなのか?」と、一度考えなおしてみてほしいということ。そ
の人がもっている時間には、限りがある。死の恐怖が近づいてから、時間の価値に気づい
ても、遅すぎるということ。

 もしあなたが今、健康なら。そして今、幸福なら、今からでも、決して早くない。これ
からの時間を有効に使ったらよい。つまりそうすることが、今のあなたの人格のカベを破
る、一つの方法ということになる。

 あなたは今、「私は一〇歳のころの私よりは、進歩した」と、本当に、自信をもって言え
るだろうか。

 たいへん生意気なエッセーになってしまったが、許してほしい。
(040204)

【追記】
 「時間」は、重要さでは比較にならないが、「貯金」と似ている。

 稼ぎが、支出より多いときは、貯金も、それほど意味をもたない。しかし支出が、稼ぎ
より多くなると、改めて貯金のありがたさがわかる。

 これと同じように、「時間」に限りを感ずるようになると、時間がもつ有限性というか、
それがよくわかるようになる。

 時間は、決して無限にあるものではない。人もある時期を過ぎると、その時間を、あた
かもわずかな貯金を少しずつ切り崩して生きるように、切り崩しながら、生きるようにな
る。

 つまらないことで時間をムダにしたりすると、「しまった!」と思うこともある。反対に
「今日こそは!」と考えることも多い。

 その「時間」を、どう使うか。これは。まさにきわめて限られた予算をどう使うかとい
う問題と似ている。

● 砂時計

若いときの砂時計の砂は、ただの砂。
年をとると、それが銀の粉になり、
さらに年をとると、それが金の粉になる。

サラサラと、上から下へ落ちる砂時計。
その砂がすべてなくなったとき、
私の人生は、消える。

いくら叫んでも、砂時計の砂は、
落ちるのをやめない。
起きているときも、
眠っているときも、
そしてどんなに幸せなときも……。

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

最前線の子育て論byはやし浩司(033)

【近況・あれこれ】

●Yさんからの相談

 A県に住んでいるYさんから、こんな相談があった。

 「他人の言ったささいなことが気になります。そういうときどうすればいいですか。コ
ツを話してほしい」(掲示板)と。

 私も、もともと神経質で、感覚も繊細なところがあり、人の言ったことを、よく気にし
ます。で、まず、私のばあいは、攻撃か、無視か、そのどちらかを選択します。こちらが
逃げることができないときは、攻撃しかありません。「何で、そんなことを言うのか!」と、
相手にぶつかっていきます。

 しかし一定の距離をおける相手なら、無視します。

 そのほか、相手をのむという方法もあります。だいたにおいて、その人の言ったことを
気にするというのは、自分がその人と、同レベルであることを意味します。相手が自分よ
りはるかに「下」か、あるいは「上」のときは、気にしないもの。

 そこで悶々とし始めたら、私のばあいは、文章を書くことで、相手を乗り越えるように
します。(ときどき、腹いせのようなエッセーを書くのは、そのためです。)

 それでも気になったら、自分のうつ病(症)を、疑ってみます。実は、私は、そのうつ
症で、よくあれこれ悩みます。

 そこでこうしています。

 まず、身辺をきれいにします。そういう人たちとのかかわりを、できるだけ少なくしま
す。スキを与えないということでしょうか。『君子、あやうきに、近寄らず』です。

 そのために、自分の中から、邪悪な性質を消すようにしています。たとえば他人の生活
に干渉しない、他人の生活をのぞかない、他人の不幸を笑ったり、話題にしたりしないな
ど。

 人間関係は、わずらわしいですね。本当にわずらわしい。だからその危険のある人とは、
交際しないようにしています。イギリスの格言には、『二人の人には、いい顔はできない』
というのがあります。

 だから交際する人と、しない人を分けます。はっきり言えば、人も、ある年齢に達した
ら、交際する人を決めるということです。「だれとでも仲よく」という、八方美人的な交際
をしていると、疲れるだけです。それに時間のムダになります。

 あとは、自分の正直に生きます。かっこうづけたり、よい人ぶってはいけない。しかし
これはたいへんむずかしいことです。あなたの乳幼児期にまで、その「根」をほりさげて
みなければ、ならないからです。

 私もいつしか、仮面をかぶるようになってしまいました。人前では、よい人ぶるわけで
す。その仮面に気づいたのが、三〇歳のころ。そしてその仮面と戦って、やっと自分らし
くなれたと感じたのは、四〇歳を過ぎてからです。

 それくらいたいへんなことです。がんばってください。

 また最近の私の傾向としては、口で言われたときは、それほど気になりませんが、文に
書いて言われると、気になります。グーグルで「はやし浩司」を検索してみてください。
中には、私のことを、口汚くののしっている連中がいます。

 たいていは、どこかの宗教団体に属する人たちです。最初は、そういう批判が気になり
ましたが、しかし今は、完全に無視するという方法で、対処しています。相手にしてもし
かたないでしょう。

 で、そういう批判する人と戦うためには、その百倍、理論武装するしかありません。つ
まりかえって、私にとっては、よいバネになっているわけです。つまりこれも、そういう
弱い自分と戦うための、一つの方法かもしれませんね。何かの参考になれば、うれしいで
す。


●風邪のひきなおし?

 咳がとまってヤレヤレと思っていたら、その咳が、また再発。子どもと接する仕事で、
一番つらいのは、こうした流行病を、いち早く、うつされること。

 ウィルスにせよ、ばい菌にせよ、その毒性には、おとなも、子どももない。子どもはむ
とんちゃくだから、「先生!」と近寄ってきて、ゴホンゴホンと、咳いたりする。そのとた
ん、私は、感染!

 そんなわけで、どこか病気ぽい子どもには、警戒する。しかしほとんど、打つ手なし。
防御方法なし。もうあきらめている。

 で、おもしろいことに、それぞれの症状には、特徴がある。自分で咳き込みながら、「こ
の咳は、XX君からうつされたもの」「この咳は、YYさんからうつされたもの」と、それ
がわかる。

 今のこの咳は、あのZZさんだ。私の横にやってきて、まともに、ゴホンと咳いた。ど
こか、のどの奥にひかかったような、乾(かわ)いた咳だった。今、私は、その咳をして
いる。カタカナで、表示すると……

 クホンクホン、クックッ、クホンクホン……。


●生徒の出入り

 二月、三月は、忙しい。教室をやめる人、入る人。その動きが、あわただしくなる。今
日も、三人やめた。同時に、三人、入った。

 私の教室は、受験塾ではないから、その年齢になると、子どもたちは、受験塾へと移動
していく。それを私は「卒業」と呼んでいる。

 別に悪口を言うつもりはないが、受験塾へ入ったからといって、成績が伸びるというの
は、まったくのウソ。伸びる子どもも、いるにはいる。上位20〜30%の子どもについ
ては、そうだろう。

しかしむしろその途中で、キズつき、もがき、そしてかえって成績をさげる子どものほ
うが、はるかに多い。こういう事実を、いったい、どれだけの親が知っているだろうか。
その季節になると、こうした進学塾は、「SS高校、XXX名合格」などと、新聞などで発
表しているが、その一方で、どれほど多くの子どもが、涙を流していることやら?

 進学塾にとっては、できる子どもは大切。看板になる。しかし中間以下の子どもは、ま
さに金儲けの道具。

たとえば、「月謝2万5000円」というのは、まっかなウソ。入塾費、教材費、テスト
代、模擬テスト代、特別補習、夏期講座、光熱費などなど、そのつど、数万円単位で、「ガ
クヒ」がのしかかってくる。銀行通帳をみても、「学校のガクヒ」なのか、「塾のガクヒ」
なのか、わからないしくみになっている。

 が、この時期に、子どもが受験競争を経験するのは、悲劇的ですら、ある。子どもは、
あっという間に、暖かい、人間的な心をなくす。本当に、あっという間だ。数か月で、別
人のようになることもある。

(勉強ができる)ことで、(自分は優秀)と、錯覚し、その一方で、(勉強ができない)
ことイコール、(あいつはダメ人間)というレッテルを張る子どもとなると、いくらでもい
る。

 私はそういう子どもの心の変化を、今まで、いやというほど、見せつけられてきた。し
かしそれが日本の現状なのだ。また、こういう話を受験生をもつ親にしても、意味はない。
親自身が、そういう学生時代を経験している。冷たい心をもちながら、その「冷たさ」に、
気がついていない。

 ある母親は、こう言った。「こまかいことは、どうでもいいのです。あの子が、SS高校
へ入ってくれさえすれば」と。こういう親の心のスキをねらって、今夜も、進学塾の明か
りだけは、こうこうとついている。

【追記】

 私も若いころ、進学塾で、講師をしたことがある。中学生を相手にした塾だったが、悪
どさという点では、今の進学塾にひけをとらなかった。私も含めて、教育理念の「リ」の
字もないような講師たちが、親や子どもたちを、ただひたすら焚(た)きつけ、それを金
儲けにつなげていた。

 今、思い出しても、それは、ぞっとするような経験だった。

 点数だけを見て子どもを指導することぐらい、簡単なことはない。そんなことは、そこ
らの「サル」でもできる。いや、サルでも、そんな馬鹿なことはしない。

 子どもは子どもで、点数だけで、判断される。人格まで判断される。いや、その点数で、
人格まで否定される。ある進学塾では、点数に応じて、席順が決まる。こういうアホな教
育を受けて、それを教育と思い込み、そして有名高校や大学へ入ることだけが、「善」と信
じ込まされる子どもたち。

 いつか自分の愚かさに気づけばよいが、大半の人は、その愚かさに気づくこともないま
ま、生涯を終える。定年退職してからも、半世紀前の学歴をぶらさげて生きている人は、
いくらでもいる。

 馬鹿メ!

 ……追記のつもりで書き始めたが、少し頭が熱くなりすぎたので、この話は、ここまで。
つづきは、また別の機会に。


●イレズミ

 友人の息子(オーストラリア人)が、イレズミをしたという。夏にニュージーランドへ
遊びに行き、そこでイレズミをしてきたという。

 友人は、叱ったが、息子はかえって居なおってしまい、最近では、これ見よがしに、ノ
ースリーブズのシャツを着て歩いているという。

 息子は、二三歳。「うちにもいろいろな問題がある」と、友人は、悩んでいる。「大工の
仕事を、一応しているが、生活費は、ワイフのほうからこっそりともらっている」と。

 こういう話を聞いて、いつも信じられないのは、あれほどすばらしい自然環境の中に住
んでいて、どうして、人は、そうなるのかということ。友人の家も、何エーカーもある広
い土地の中にある。一角には、周囲が、数百メートルもあるような池まである。
 
 まさに「天国(ヘブン)」というにふさわしい。しかし親子の問題は、起きる。天国とは、
関係なしに起きる。友人からのメールを読んで、いろいろ考えさせられる。
 
 We say in Japan, there's a upper floor above the upper floor, and at the same time 
there's a lower floor under the lower floor. This means that sometimes we have got 
depressed to see we are at the bottom of the floor, but there are more people who are 
under the bottom. See your son from the point of view of the bottom. This does not mean 
that "see the bad point of your son", but just remember that there are more people who 
have more serious problems than your son. Yep, you have a good saying, one is that 
"every cloud has its own silver lining" or "forgive & forget". So why don't you forgive him 
and forget him, in order to GIVE him love and to GET love from him? Your son has been 
seeking his way to go now. I am sure he will do it very soon. I know you hate tattoo but it 
means nothing if you see it from the bottom of the floor, since no one could erase it. He 
will know how stupid he was whenever he sees it and it will guide him away from the 
stupidity to be a wise man.

(友人Xへ

 日本には、「上の床にはさらに上の床があり、下の床には、さらに下の床がある(上見て
きりなし、下見てきりなし)」という言い方があるよ。つまり落ちこんでいるときは、ぼく
たちは、底の床にいると思いがちだけど、しかしその下には、さらに下の床があるという
こと。さらにその下の床にいる人は、いくらでいる。君の息子を、その下の底から見たら
いい。これは「君の息子の悪い点を見ろ」ということではない。ただもっと深刻な問題を
かかえた人がいるということを、頭の中で描いたらいいということ。そういえば、君の国
には、こんな言い方があるよ。「どんな雲にも、銀のふちどり」※というのが、ね。それに
「許して忘れろ」というのもあるじゃないか。君の息子に愛を与えるために許し、君の息
子から愛を得るために忘れろということ。君の息子は、自分の道を見つけるために、今、
模索しているんだよ。そのうち、自分の道を見つけるよ。もし君が、底から見れば、イレ
ズミなんて、何でもないことがわかると思うよ。君の息子は、イレズミを見るたびに、い
かに自分が愚かだったかを知り、その愚かさからのがれるために、今度は自ら賢い人にな
るよ。

※「どんな雲にも、銀のふちどり」……どんなに悪く見えるもの(=雲)でも、希望(=
銀のふちどり)があるという意味。決して希望を捨ててはいけないということ。


●地獄の果てまでも……

 アメリカのブッシュ大統領が、あぶなくなってきた。今度の中間選挙では、民主党の大
統領に政権の座を奪われそうな雰囲気になってきた。しかし、日本にとっては、これは深
刻な問題である。

 民主党は、かねてから、K国との間に、相互不可侵条約を結んでもよいという立場をと
っている。ジミー・カーター元大統領もそうだったし、ビル・クリントン前大統領もそう
だった。

 となると、日本は、たいへん危機的な立場に置かれることになる。

 かねてからK国は、「核兵器は、日本に向けたもの」と言明している。そのK国が、何よ
りも恐れるのは、日本を攻撃したばあいの、アメリカからの報復攻撃である。日本とアメ
リカとの間には、日米軍事条約(通称「安保条約」)がある。この条約のおかげで、K国は、
日本に対して、手も足も出せないでいる。

 つまりK国が、アメリカとの間に、相互不可侵条約を結びたがっている真意は、ここに
ある。だいたいにおいて、常識で考えてみればよい。今のK国に、アメリカ本土を攻撃す
る能力など、どこにもない。金XXも、そんなことは百も承知である。K国にとっての敵
は、あくまでも、日本なのである。

 (金XXにすれば、ただ一つ、戦争する大義名分がたつ国が日本である。また利益のあ
る国が、日本であることを、忘れてはならない。今の状態では、アメリカや韓国と戦争し
ても、一文の得にもならない。)

 そういうアメリカが、イラクで苦戦を強いられている。そういうアメリカを横で見なが
ら、「何もしません」では、スジが通らない。自衛隊のイラク派遣に反対する人も多い。し
かしそうならそうで、いざとなったとき、アメリカに対して、「助けてください」などと、
日本が、どうして言うことができるだろか。

 日本政府が、自衛隊をイラクに派遣した真意というか、底意は、そこにある。中には、「イ
ラクの国内問題など、日本には関係ない」「アメリカのために、どうして日本が戦争をしな
ければならないのか」と言う人もいる。しかしこれはとんでもない暴論。戦後日本が、か
ろうじてであるにしても、安定的に原油を、中東から買うことができたのは、ひとえにア
メリカと、イギリスのおかげである。

 この地域で、アメリカの軍事的プレゼンス(威光)がなかったら、日本は、原油を、安
定的した価格で、買うことはできなかっただろう。たしかにアメリカのやっていることに
は、無理がある。それにアメリカは、ズルイ。しかしそのアメリカの上にのって、戦後の
安定を築いてきたのは、ほかならぬ、この日本なのである。

 今、日本は、たいへんな危機の中にある。「友人は、アメリカだけ」という状態である。
そういう中、どこのどの国が、日本の味方となって、働いてくれるというのか。少なくと
も、日本のために、あの金XXの野心を、どこのどの国が、おさえてくれるというのか。
中国か、ロシアか。答は、「ノー」。韓国にいたっては、もはやK国の仲間とみてよい。

 政治、なかんずく国際政治は、現実的に考えなければならない。「現実的に」だ。この視
点を踏みはずすと、本当にこの日本は、たいへんなことになる。

 今の日本は、悲しいかな、ブッシュ大統領に、地獄の果てまで、ついていくしかないの
である。


●ショック!

 昨日の午後のこと。マガジン購読のメンバーになっているはずの、Aさん、Bさんと、
立ち話をする。で、「マガジンを読んでくれていますか?」と声をかけると、二人とも、「忙
しくて……」「あまり……」と。

 ついでに生徒の母親のCさんにも聞くと、「めったにパソコンは、開きませんので……」
と。

 心底、がっかり。本当に、がっかり。

 で、今日は、まったく、原稿を書く気がしない。久しぶりに、テレビを見たり、ビデオ
を見たりして、時間をつぶす。

 これから先、マガジンをどうしようかと、あれこれ考える。

(グチになるので中略!)

 がんばるしかない。がんばるしかないのだ!

++++++++++++++++++++++

 こういう状態に置かれると、人間は、さまざまな考え方を、同時にする……ものらしい。

(1)「じゃあ、マガジンなんか、やめてしまおう。どうせムダなこと」と考える考え方。
(2)「がんばって、今までどおり、つづけよう。マガジンを出すというのは、あくまでも
私自身のためではないか」と考える考え方。
(3)「たとえ少数でも、読んでくれる人がいるかもしれない。そういう人たちのためにな
ればいい」と考える考え方。

 私は子どものころから、少しいじけたところがあるので、(1)のように考えることが多
い。何かのことでつまずいたりすると、自暴自棄になって、ほうり出してしまう。これに
は貧弱な幼児期、少年期の家庭環境が、影響している。

 そういう自分がいやで、ときどき、「これではいけない」と思うことがある。そういう意
味では、私は、もともとは、短気でわがままなのかもしれない。

 で、Aさん、Bさん、Cさんに会った直後には、(1)のような考え方をしたが、しばら
くすると、(2)になり、さらに時間がたつと(3)のようになってきた。

 で、今は、今までどおりにがんばってつづけようと考えている。今まで、多くの皆さん
に、はげましてもらった。つい先日も、「恋人からのラブレターのように、(マガジンを)
楽しみにしている」と、書いてくれた人もいる。(ホントだぞ!)

●みなさん、いろいろ迷ったり、悩んだりすることもありますが、これからも、どうかよ
ろしくお願いします。

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●「子育て最前線の育児論」(有料版)のお願い

 読者のみなさんへ、

 新しく有料版の発行を考えています。みなさんには、毎月200円(予定)
 のご負担をお願いすることになると思います。

 また改めて、ご連絡申しあげます。そのときは、よろしくお願いします。

 無料版のほうも、今しばらく、このまま発行する予定でします。どうか
 よろしくお願いします。

                          はやし浩司

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++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司


最前線の子育て論byはやし浩司(034)

私論

●自分さがし

 自分がひねくれているか、いじけているか、それを知っている人は少ない。しかしそれ
を知る、方法がないわけではない。

 すなおでない子どもは、そのつど、さまざまに心が変化するのがわかる。また変化する
から、「すなおでない」ということになる。

 たとえば少し前、こんなことがあった。

 ある母親に「私のマガジンを読んでくれていますか?」と聞いたときのこと、その母親
は、こう言った。「めったにパソコンは、開きませんから……」と。つまり「読んでない」
と。

 そのとき私の心の中では、さまざまな変化が起きた。

 最初に、がっかりした。それは当然だが、そのあと、すぐに、「もう、マガジンなんか、
出すのをやめよう」と思った。 

 ここである。

 私は子どものころから、何かのことでつまずくと、すぐ自暴自棄になるところがある。
たとえばこんなことがあった。

 小学五年生のとき、好きな女の子がいた。しかし、いくらモーションをかけても、私に
は、見向きもしてくれなかった。そのころのこと。私は、ある日、その女の子がいないと
き、その女の子の机から、勝手にノートを取り出し、落書きをしてしまった。

 そういう事実から、私は、かなりいじけた子どもであったことがわかる。(もし、今、私
の目の前で、私がしたことと同じことをする子どもがいたら、私は、そう思うだろう。)

 そのとき、私の中には、二人の自分がいた。

 ひとりの自分は、「アハハハ、ザマーミロ!」と笑っている自分。もう一人は、「どうし
てそんなことをするのだ」と、自分を責める自分。私はその二人の自分を、今でも、はっ
きりと覚えている。

 このとき、「アハハハ」と笑っている自分が、ここでいう自暴自棄になりやすい自分とい
うことになる。

●変化する「私」

 しかし時間がたつと、少しずつ、気持が変化してきた。最初は、「マガジンなんか、出す
のをやめよう」と思っていたが、そのうち、「中には、読んでくれる人もいるかもしれない
し……」と考えるようになり、さらには、「マガジンを出すのは、自分のためではないか」
と考えるようになった。

 こうした変化は、つまりは、(いじけた自分)から、(私という自分)に戻る過程と考え
てよい。

 つまり「私」という私が、私の中にいる。その「私」を取り巻く形で、いろいろな「私」
がいる。その取り巻いている私が、ひねくれた私であり、いじけた私ということになる。

 言いかえると、こうした変化を自分の中にとらえることによって、自分が、どういう人
間であるかを知ることができる。

 もし私が、すなおな私であれば、こうした変化は、起きないはず。最初から、「マガジン
は自分のため」と考えて、そうした母親の意見を、笑って聞くことができたはず。もちろ
ん心の動揺も、なかったはず。

●そこであなた自身は、どうか……

 その人が、すなおかどうかは、心の状態(=情意)と、外に現れている状態(=表情)
が、一致しているかどうかをみればよい。

 うれしいときには、うれしそうな顔をする。悲しいときには、悲しそうな顔をする。い
やだったら、「いや」と、はっきりと言うことができる、など。

 もう一つは、心のゆがみのないことを、「すなお」という。

 そしてここでいう「ゆがみ」というのは、実は、(私であって、私でない部分)をいう。
私の例で言うなら、自暴自棄になってしまう自分をいう。もう二年近くつづけてきたマガ
ジンである。そういうマガジンでも、「やめてしまう!」と。

 言いかえると、この時点で、本来の「私」が、別の、つまりすなおでない「私」に左右
されたとになる。

 もっとも、こうした現象は、すなおな人には理解できないだろうと思う。私のワイフな
どは、結構いじけたところがある割には、ものの考え方がストレート。すなお。そのワイ
フが、こう言う。

 「どうして、そんなふうに考えるの? 中には、熱心に読んでくれている人も、きっと
いるわよ」と。私のそうした、いじけた部分が、ワイフには理解できないらしい。

●乳幼児期までさかのぼる

 こうした「私」であって、私でない「私」は、恐らく、乳幼児期というきわめて初期の、
そのころに、その人の中にできるものとみてよい。

 私のばあいも、そのいじけた部分は、かなり早い時期にできた。もの心つくころには、
私はそうなっていたから、五歳とか、六歳ではない。もっと前である。ただそのころにな
ると、記憶がないので、(実際には、想起できないだけだが)、よくわからない。しかしい
じけていたのは、事実だ。

 だれかが何かをくれても、わざと「そんなものいらない」とか、「そんなもの、たくさん
もっている」というようなことを言った記憶が、どこかに残っている。

 そういう自分が、今でも心のどこかに残っていて、顔を出す。それが、冒頭に書いた、
マガジンの話である。私はそのとき、本当に、「マガジンを出すのを、もうやめよう」と思
った。心底、自分のしていることが、バカバカしく思えた。「毎日、何のために書いている
のか」とさえ思った。

 私は自分の中の「私」の声を、静かに、すなおに聞くことができなかった。

 つまり、あなた自身も、もし同じような立場に置かれたとき、私でない「私」に左右さ
れることがあるというのであれば、あなた自身の心の中を旅をしてみるとよい。なぜあな
たはすなおではないのか。またその原因は、何か、と。

●診断

 何かのことで心が動揺することは、よくある。そのとき、自分が、どのように動揺する
かを、冷静に観察してみるとよい。

 いじけた性格の人……ちょっとしたことでも、それを悪いほうへ、悪いほうへと考えて
しまい、自分自身をも悪いほうに向けてしまう。

 すねた性格の人……「どうしたの?」と声をかけてもらったりすると、相手に心配をか
けてはいけないと思いつつ、反対に、かえって相手をさらに心配させてしまうようなこと
を口にしてしまう。

 つっぱった性格の人……だれかがやさしくしてくれても、それを拒絶してしまう。ある
いはその裏を見ようとする。「こんなことをしてくれるのは、何か、魂胆があるからだ」と。

 ひねくれた性格の人……他人が、何かをほめたり、たたえたりすると、すぐそれを否定
するような言葉を投げかけてしまう。

 こうした自分というのは、自分では、なかなか気がつかないもの。あるいは自分で気が
つくということは、まず、ない。脳のCPU(中央演算装置)の問題だからである。仮に
そうであっても、このタイプの人は、どの人も、自分と同じだとか、あるいは、自分のよ
うに思わないほうがおかしいと考えてしまう。

 つまりいつも、基準を、自分に置いてしまう。だから、よけいに、気づかない。

●さて私のこと

 私は、「もう、マガジンなんか、出すのをやめよう」と、確かに思った。思っただけでは
なく、本気で、そうしようと思った。

 しかしそのあと、いくつかの「思い」が、あれこれ思い浮かんでは消えた。そしてやが
て、自暴自棄になった私のほうが、おかしいとわかった。

 そのときのこと。

 私は女の子のノートに落書きをした「私」を思い出した。一人は、笑っている私。もう
一人は、私を責める私。

 私は今まで、あのときのことを思い出すたびに、「私の中には二人いた」と思っていた。
しかし実際には、そうではなく、落書きをしたときは、「ザマーミロ!」という私がいた。
しかし時間がたつにつれて、「どうしてそんなことをしたのか」と、自分を責める私に変化
した。それが思い出の中では、混ぜんとして、あたかも二人の自分がいるかのように思っ
てしまった……?

 記憶というのは、そういう点では、実にあいまいなもの。つまりそのときから、(あるい
はそれ以前から)、私の中には、私でない私もいたということになる。

 それはさておき、今回はからずも、小さな事件だが、改めて「私」を知るきっかけとな
った。

 そこで私は、断言する。

 私はたしかに、いじけている。ひねくれている。

それが今、改めてわかった。
(040206)

+++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩


子育て随筆byはやし浩司(035)

●パソコンのピィー子

 現在、計6〜7台のパソコンを使っている。それぞれに仕事を分担させている。インタ
ーネットは、インターネット用に。ホームページは、ホームページ用に、と。安全のため
もあるが、そのほうが能率がよい。

 が、その中でも、私は、とくにP社製の、「レッツ・ノート」という機種が気に入ってい
る。2000年の9月に購入した機種だが、キーボードがよい。

 ただし、少し古い機種なので、性能は、イマイチ。OSは、「98」だし、メモリーも最
大で、192MB。(その192MBを実装。)

 が、このパソコンだと、頭の中で考えたままが、そのまま活字となって、画面に現れて
くる。何というか、脳細胞と、キーボードがそのままつながっている感じ。だから当然の
ことながら、このパソコンで文章を書くと、ほかの機種より、ずっと速い。デスクトップ
の、あのカチャカチャと音を出すキーボードより、二倍程度は、速いのでは……?

 そのためこのP社製のパソコンで、文章を書いていると、気持よい。本当に気持よい。
指先から、陶酔感さえ伝わってくる。

 そう、人間の指先には、そういう感覚がある。

 たとえば目の前に、すばらしい女性がいたとする。裸でいたとする。そのとき、男とい
うのは、思わず手で触れたくなるもの。(そうでない男もいるかもしれないが……。)それ
はその肌の感触を、指先で楽しみたいからではないか。

 私は、それと同じではないないかと思う。指先から伝わった感触が、脳のどこかを刺激
する。そしてその脳内で、モルヒネ様の物質が放出される。エンドロフィン系、エンケフ
ァリン系の物質である。それが脳の中に、陶酔感を引き起こす。このメカニズムは、セッ
クスをしたとき、あの陶酔感を引き起こすメカニズムと、それほどちがわない。

 だから文章を書かないときも、指先は、キーボードの上を、さまよう。さまよいながら、
あちこちを、なで回す。

 そういうパソコンだから、手放せない。古くなったから、買いかえるという人もいるよ
うだが、私のばあいは、できない。キーが、やや擦(す)りへって、ピカピカになった分
だけ、指になじんでいる。

 つまりこうして私のまわりには、パソコンが、6〜7台にもなってしまった。(うち一台
は、ほとんど使っていない。それで、6台とも書けないし、7台とも書けない。6〜7台
ということになる。)

 そこで秘密の暴露。

 実は、私は、これら6台のパソコンには、すべて名前をつけている。

 このP社製のパソコンは、そのまま「ピィー子」。ほかに、「藤子」(富士通社製のパソコ
ン)、「ラビ子」(NEC社製のパソコン)、「メル子」(シャープ製のパソコン)など。すべ
て女性の名前をつけている。(パソコンショップにも、女性の名前をつけている。ワイフに
は、「これからギガ子に会いにいってくる」などといって、でかける。ギガ子というのは、
近くの「G」とい名前のパソコンショップのこと。その名前をもじった。)

 しかしやはり、このピィー子が。一番よい。さわっているだけで気持よい。女性にたと
えていうなら、……?

 またまた少しピンクぽい話になってきたので、この話はここまで。少し油断をすると、
私の話は、すぐピンクぽくなる。先日、ある読者に叱られたばかり。「はやし先生のマガジ
ンは、教育マガジンらしからぬ」と。

 ああ、これから仕事。仕事に行かねばならない。このピィー子と離れるのがつらい。い
つまでも、こうしてさわっていたい。ついでに文章も書いていたい。(これはビョーキか?)

 私にとって、パソコンというのは、そういう存在なのだ。
(040206)

+++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩


子育て随筆byはやし浩司(036)

子どもの学習

●子どもの判断基準
 
 A先生と、B先生が、何かちがったことを言ったとする。そのとき子どもは、A先生と、
B先生のどちらの意見に従うだろうか。子どもは、選択を迫られるわけだが、しかし、問
題は、どちらを選択するかではなく、何を基準にして、どちらを選ぶか、である。以前、
こんなことがあった。

 中学一年生の女の子に、英語を教えているとき、その女の子が、「I walk in 
the park.」という英文を、「公園の中を散歩しているわ」と訳した。

 そこで私が、「『私は公園の中を歩く』と訳しておきなさい」と言うと、その女の子は、
猛然とそれに反発した。「先生の日本語は、おかしい」「この絵(テキストの挿絵)では、
この人は、散歩してる」と。

 その女の子は、長い間、英会話教室に通っていた。先生は、日本人と外人の、半々くら
いの教室だった。市内でも、有数の大規模校であった。

 こういうケースでは、子どもは、まず、その大規模校の先生の意見に従う。つまり私の
言うことなど、聞かない。

私「『〜〜している』という言い方は、また別のところで勉強するから、今は、『歩く』と
訳しておきなさい。いつか、その理由を話してあげるから」
女「でも、おかしい。その日本語」
私「もともと英語がおかしいのだよ。君たちのレベルにあわせて、テキストを作ってある
のだから」

女「ふつう、公園の中を歩いているとき、『私は公園の中を歩く』なんて、わざわざ言うか
しら?」
私「しかたないよ。そう書いてあるのだから」
女「そんな日本語、おかしいわよ。今度、X先生(大規模校の先生)に聞いてみる」
私「ああ、聞いてみてごらん」と。

 実際には、子どもがこのような形で、反発するようになると、指導は、もうできない。
教育に必要な信頼関係そのものが消える。

 それはともかくも、子どもは、@規模の大きな方の先生の意見により従う。わかりやす
く言えば、中身よりも、外見で、先生を判断する。

 ……と書いても、それは当然のことである。子どもには、まだ中身を見る力も、能力も
ない。しかしこの問題には、もう一つ深刻な問題が、隠されている。

●謙虚さをなくす子どもたち

 この時期の子どもは、いろいろな意味で、生意気になる。生意気になるのが、悪いので
はない。子どもは、生意気になることで、背伸びをする。背伸びをすることによって、自
己主張を繰りかえす。

 しかし学ぶことに対して、謙虚さまで、なくしてしまったら、おしまい。日本語には、「ナ
メル」という言い方がある。この言葉にかわる正しい言葉を知らないので、その言葉をそ
のまま使う。先生をナメルようになってしまったら、おしまい。

 子どもは自ら、自己中心的な世界へと入っていく。そして自分のまわりに、厚いカベを
作ってしまう。同時にものの考え方が自閉的になる。つっぱり症状が現れることもある。

私「だから今は、『私は公園の中を歩く』としておいてよ」
女「ウッセエナー。しとけばいいんでしょ、しとけば……」
私「まあ、君がそれでいいというなら、それでもかまわないけど……」
女「だったら、最初から、そう言ってくれればいいじゃん。すなおに……」と。

●原因は、無理な学習+過剰期待

 抑圧された緊張状態が長くつづくと、子どもの心は、確実にゆがむ。(子どもでなくても、
当然だが……。)

 その抑圧された緊張状態の第一は、言うまでもなく、無理な学習と親の過剰期待。ある
いは親の過剰期待と無理な学習。どちらが先でもよいが、こういう環境で、子どもは、心
をゆがめる。そしてそれが慢性的につづくと、独特の症状を示すようになる。

 なげやりな態度。
 無視的な反応。
 独特の歩き方(肩をいからせる。鋭い目つき。腕を下へブラブラさせる)。

 少しぐらい成績があがっても、決して親は満足しない。「もっと」「もっと」と子どもを
追いたてる。「うちの子はやればできるはず」という、信仰に似た考え方をもっている。子
どもの能力を信ずることは大切だが、親の過剰期待ほど、子どもを苦しめるものはない。

 子どもはやがて、その欲求不満の矛先(ほこさき)を、学校の教師や、塾の教師に向け
る。本来なら親に矛先を向けるのがよいが、このタイプの子どもは、親の前では、むしろ
おとなしい。仮面をかぶる。

 「やればできるはず」と親に思わせることで、自分の立場を守ろうとする子どももいる。
以前、ある子ども(小五男児)に、「君の力は、君が一番よく知っているはずではないか。
だったら、お母さんに正直にそう言いなさい」と言ったことがある。しかしその子どもは、
自分の力のことは、決して母親に話さなかった。

 話せば話したで、自分のわがままが通らなくなる。つまりその子どもは、親に、「ぼくは
やればできるはず」と期待させることで、自分の立場を守っていた。

 こうしたケースは、教室でもよく経験する。たとえば、私は以前、『悲しきピエロ』とい
う原稿を書いた。その中で、勉強のできない子どもが、わざとちょろけて見せて、皆を笑
わせる子どものことを書いた。皆を笑わせることによって、自分を隠すから、『悲しきピエ
ロ』と呼んだ。

 「勉強ができない(バカ)」と思われるより、「おもしろい男」と思われるほうが、まだ
気が楽だからである。

 親に「やればできるはず」と思わせる子どもの心理も、これに似ている。

●子どもの能力を知る

 子どもの能力を正確に知るということは、家庭学習の基本中の基本。そこでいくつかの
鉄則がある。

(1)「やればできるはず」と思ったら、「やってここまで」と思いなおす。
(2)「まだがんばれる」と思ったら、その一歩手前でやめる。
(3) ほどほどのところであきらめ、子どもをほめる。「よくやった」と。

 しかし実際には、これがむずかしい。親にしても、自分が見る子どもは、せいぜい自分
の子どもを含めて、一人か二人。子どもの能力というのは、多くの子どもと比較してみて、
はじめてわかる。

 はっきり言おう。子どもの知的能力は、決して平等ではない。たとえば小学五、六年生
でも、中学生でもなかなか解けないような、連立方程式の問題でも、独自の解き方で解い
てしまう子どもがいる。しかも瞬時に、スラスラと解いてしまう。

 その一方で、学習障害の子どもは別として、分数の意味すら理解できない子どももいる。
こうした「差」は、一生の間に、開くことはあっても、縮まることは、絶対にない。いわ
んや、その時期の一、二年の間に、縮まることは、絶対にない。

 にもかかわらず、つまり分数の意味も、まだよくわかっていないような子どもに、東京
の私立中学の入試問題集を与えて、「やりなさい!」は、ない。

 多かれ少なかれ、どの親も、こうした無理を重ねる。そして結果として、子どものやる
気を奪い、成績をさげ、あげくのはてには、子どもの心まで破壊する。

●子どものリズムを見る

 どんな子どもにも、その子どもの学習リズムというものがある。このリズムを見守り、
それを育てていく。

 もし家庭での子どもの学習指導に王道があるとするなら、これが王道である。

 しかしこのリズムを作るのがたいへん。たとえば読書指導にしても、子どもが自然な形
で、読書を楽しむようになるまでに、数年はかかる。毎週、図書館通いをしても、それく
らいの時間はかかる。

 もっと簡単な例では、毎日の家庭学習がある。毎日学校から帰ってきて机に向かうとい
う習慣をつくるのにも、やはり数年はかかる。30分、毎日、書き取りや計算練習をさせ
るのも、そうだ。

 それを親がある日、子ども叱って、「本を読みなさい」「勉強しなさい」と。私から見れ
ば、もうメチャメチャな指導なのだが、その(メチャメチャさ)が、親にはわからない。

 しかもこのリズムは、たいへんもろい。作るのには、数年かかっても、こわすのは、た
った一週間でよい。数日でよい。一日でよい。

 「明日から進学塾で、週3回、勉強!」と。

 たったこれだけのことで、こなごなに破壊される。

 しかし親にはそれがわからない。わからないばかりか、破壊したという意識すら、ない。
それがわからなければ、反対の立場で、考えてみることだ。

●自分のこととして……

 あなたにはあなたの生活のリズムがある。仕事をもっているなら、なおさらだ。そうい
うところへ、ある日だれかが入りこんできて、「明日から、毎日、30分、内職をしなさい」
「来週から、時間をつくって、週3回、清掃奉仕活動をしなさい」と言ったら、あなたは
どうなるだろうか。どうするかではなく、どうなるか、だ。

 あなたの生活のリズムは、それでまったく狂ってしまう。ばあいによっては、何も家事
が手につかなくなってしまう。

 さらに子どもは、学校という場で、毎日、八時間労働をしている。その労働の上に、さ
らに夜の労働である。親は、子どもを、スーパーマンか何かのように思うかもしれないが、
あなたと同じ、人間である。ある意味で、あなたより、ずっとか弱い。

 夜の学習でがんばれば、その分だけ、昼間の学習(学校)が、おろそかになるだけ。ど
うして、世の親たちよ、こんな簡単なことがわからないのか!

 子どものリズムを感じたら、そのリズムを大切にする。守る。そしてそのリズムの上に、
つぎのリズムを重ねていく。これが王道である。

 中には、その時期になると、(やらせればやらせるほどいい)と考えて、塾のかけもち、
プラス家庭教師……と、もうメチャメチャの上に、さらにメチャメチャな勉強を、子ども
に強いるケースもある。

 しかしこうなれば、失敗は、時間の問題。やがて子どもは、行き着くところまで行き、
そこでプッツン。大きな精神的なダメージを受けることも少なくない。

 そういう意味で、親というのは、因果な存在だ。自分で、行き着くところまで、行かな
いと、気がつかない。そして気がついたときには、すべてが終わっている。

 子育てには失敗はつきものだが、その失敗を、事前に食い止めるのは、賢い親。行き着
くところまで行って、はじめて気がつくのは、愚かな親ということになる。今、その愚か
な親が、あまりにも多すぎる。
(040207)

【追記】

 今朝も、新聞の折込広告に、どこかの進学塾のものが入っていた。

 「新学習指導要領導入による学力低下を防止し、真の学力を身につけます」と、それに
はあった。

 広告には、若い講師が、熱心に黒板に向って教えている写真が載っていた。しかしその
姿は、30年前の、私の姿でもある。

 ただ成績を伸ばせばよいというだけに指導が、いかに危険なものであるか。私はそれを
いやというほど、思い知らされている。その若い講師が、それに気づくのは、いつのこと
か。あるいは、一生、それに気がつくことはないかもしれない。たいていの講師は、二〇
年を待たないで、そのまま転職していく。この世界では、ジジ臭い、中年講師は、お呼び
ではない。若さが勝負。

 友人のF氏。進学塾元講師、講師歴一六年。現在、コンピュータソフト会社経営は、こ
う言った。「もう、あんな仕事は、コリゴリ。二度としたくない」と。まじめに考える人な
ら、皆、そう思うようになる。
 
+++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩


最前線の子育て論byはやし浩司(037)

●非行の下地

 やがて非行に走る子どもになるかどうかは、小学四、五年生のころの子どもをていねい
に観察すればわかる。

 すさんだ態度、投げやりな行動、乱暴で短絡的なものの考え方、独特のしぐさなど。

 こうした兆候が見られたら、できるだけ早く親は、家庭環境のあり方を、猛省しなけれ
ばならない。しかし、親には、それがわからない。

 この時期は、ちょうど子どもの受験期にも重なる。親にしてみれば、「それどころではな
い」ということになる。またそういう兆候を見たとしても、たいていの親は、「まだ、何と
かなる」「そんなはずはない」と、自ら否定してしまう。

 どの親も、こと子育てについては、まったくの無知の状態で始める。そして無知のまま、
子育てをつづける。それはしかたないとしても、なぜ、私のようなものが言う発言に、少
しは耳を傾けないのか?

 親は、私が「有知」であることすら、気づいていない。「うちの子のことは、私が一番よ
く知っている」と、思いこむ。思いこんで、私の意見を、無視する。

 つい先日も、子どものことであれこれ相談してきた母親がいた。「学校の先生がきびしす
ぎる」「友だちから仲間はずれにされる」「あちこちから乱暴したと、苦情を言われる。う
ちの子は、何もしていないのに……」と。

 しかしその子ども(小五)は、一見しただけで、ADHD児とわかった。意味もなく手
首を、パシッパシッと、振って、落ちつかない様子を見せていた。しかし私が、そんな子
どもも区別できないで、こんな仕事をしているとでも、思っているのか! ただ立場上、
そうした診断名を口にすることができないだけだ!

 その親は、子どもに大きな期待を寄せているようだった。具体的には、今度新しくでき
たS中学への入学を考えているようだった。で、そのために、どうしたらよいか、と。

 私はその話を聞きながら、内心では、「問題は、別のところにあるのに……」「もっとほ
かの部分を、冷静に見たらいいのに……」と思った。そしてその親子が帰ったあと、「どう
して親は、こうまで無知なのか」とさえ、思った。

 非行の問題も、まったく同じ。私には、その子どもの将来が、手にとるように、よくわ
かる。わかりすぎるほど、わかる。しかしそれを私のほうから言うのは、タブー。言う必
要もないし、また言ってはならない。ただひたすら、親のほうから相談があるまで、待つ
しかない。

 親がその兆候に気づき、「どうしたらいいか?」という相談があれば、そのときこそ、私
の出番である。しかしそういう親ほど、子どもに盲目。そしてその兆候を、みすみすと、
見逃してしまう。そしてあとはお決まりの……。

 ……とまあ、不毛なエッセーを書いても意味はない。

 こうした非行には、下地がある。その下地があるところに、何かの誘惑があると、子ど
もは、何の抵抗もなく、非行への道へと入っていく。

 よく誤解されるが、子どもが非行の道に入るのは、非行の誘惑があるからではない。子
どもが非行に走るようになるのは、@その下地があり、Aそれに対する抵抗力がないから
である。

 非行への誘惑など、そこらにあるばい菌のように、子どものまわりにウヨウヨとある。
そのばい菌に毒されるか毒されないかのちがいは、この抵抗力による。言いかえると、こ
の抵抗力さえ、しっかりとつけておけば、子どもは、非行に走ることはない。

 そういう観点で書いたのが、つぎの原稿である(中日新聞投稿済み)。

+++++++++++++++++++++

抵抗力のある子ども

 怪しげな男だった。最初は印鑑を売りたいと言っていたが、話をきいていると、「疲れが
とれる、いい薬がありますよ」と。私はピンときたので、その男には、そのまま帰っても
らった。

 西洋医学では、「結核菌により、結核になった」と考える。だから「結核菌を攻撃する」
という治療原則を打ち立てる。

これに対して東洋医学では、「結核になったのは、体が結核菌に敗れたからだ」と考える。
だから「体質を強化する」という治療原則を打ち立てる。人体に足りないものを補ったり、
体質改善を試みたりする。これは病気の話だが、「悪」についても、同じように考えること
ができる。

私がたまたまその男の話に乗らなかったのは、私にはそれをはねのけるだけの抵抗力が
あったからにほかならない。

 子どもの非行についても、また同じ。非行そのものと戦う方法もあるが、子どもの中
に抵抗力を養うという方法もある。

たとえばその年齢になると、子どもたちはどこからとなく、タバコを覚えてくる。最初
はささいな好奇心から始まるが、問題はこのときだ。たいていの親はしかったりする。で、
さらにそのあと、誘惑に負けて、そのまま喫煙を続ける子どももいれば、その誘惑をはね
のける子どももいる。

東洋医学的な発想からすれば、「喫煙という非行に走るか走らないかは、抵抗力の問題」
ということになる。そういう意味では予防的ということになるが、実は東洋医学の本質は
ここにある。東洋医学はもともとは「病気になってから頼る医学」というよりは、「病気に
なる前に頼る医学」という色彩が強い。あるいは「より病気を悪くしない医学」と考えて
もよい。ではどうするか。

 子育ての基本は、自由。自由とは、もともと「自らに由(よ)る」という意味。つま
り子どもには、自分で考えさせ、自分で行動させ、そして自分で責任を取らせる。しかも
その時期は早ければ早いほどよい。

乳幼児期からでも、早すぎるということはない。自分で考えさせる時間を大切にし、頭
からガミガミと押しつける過干渉、子どもの側からみて、息が抜けない過関心、「私は親だ」
式の権威主義は避ける。暴力や威圧がよくないことは言うまでもない。

「あなたはどう思う?」「どうしたらいいの?」と。いつも問いかけながら、要は子ども
のリズムに合わせて「待つ」。こういう姿勢が、子どもを常識豊かな子どもにする。抵抗力
のある子どもにする。

++++++++++++++++++++

 最後に「非行の下地」は、かなり早い時期に、できる。小四、五年生前後までは、子ど
もらしい、明るい子どもだったのが、五、六年ごろから急に変化し始め、中学校へ入るこ
ろには、やがて手がつけられなくなる。

 たいていの親は、そのころ、やっと気がつくわけだが、しかしそのころ、非行の下地が
できるわけではない。

 「勉強さえできればよい」という短絡的な、子育て感。「少しぐらい心が犠牲になっても
かまわない」という、無責任な育児姿勢。子どもの心を無視して、子どもをあちこちの塾
や進学塾を連れまわす。「もっと……」「まだ何とかなる……」「少しでもいい学校へ……」
と。

 子どもの心が親から遊離し始めても、それに気づかない。無視する。わざと見て見ぬふ
りをする。そして「そんなはずはない……」という誤解と錯覚で、子どもの心を、ますま
す見失ってしまう。

 これが非行に走る「下地」である。やがて子どもの心は、臨界状態に達する。そして爆
発する。「このヤロー、このクソババア!」「てめエー、オレをこんなオレにしやがって
エ!」と。

 今、こうして失敗していく親は、本当に多い。何割の親がそうであると言ってもよいほ
ど、多い。ひょっとしたら、あなたもそうかもしれない。あなたの子どもにも、すでにそ
ういう下地と、兆候が見られるかもしれない。だとするなら、今一度、家庭教育のあり方
を、猛省してみたらよい。
(040207)(はやし浩司 非行 子供の非行 子どもの非行 非行論)

+++++++++++++++++++++

友だちの問題

Q このところ、うちの子が、よくない友だちと交際を始めています。交際をやめさせたいのです
が、
どう接したら、いいでしょうか?(小六男)

A イギリスの教育格言に、『友を責めるな、行為を責めよ』というのがある。これは子ど
もが、よくない友だちとつきあい始めても、相手の子どもを責めてはいけない。責めると
しても、行為のどこがどう悪いかにとどめるという意味。

コツは、「○○君は、悪い子。遊んではダメ」などと、相手の名前を出さないこと。言う
としても、「乱暴な言葉を使うのは悪いこと」「夜、騒ぐと近所の人が迷惑をする」と、行
為だけにとどめる。そして子ども自身が、自分で考えて判断し、その子どもから遠ざかる
ようにしむける。

 こういうケースで、友を責めると、子どもに「親を取るか、友を取るか」の二者択一を
迫ることになる。そのとき子どもがあなたを取れば、それでよし。そうでなければ、あな
たとの間に、深刻なキレツを入れることになる。さらに友というのは、子どもの人格その
もの。友を否定するということは、子どもの人格を否定することになる。

 またこういうケースでは、親は、そのときのその状態が最悪と思うかもしれないが、あ
つかい方をまちがえると、子どもは、「まだ以前のほうが、症状が軽かった…」ということ
を繰り返しながら、さらに二番底、三番底へと落ちていく。よくあるケースは、(門限を破
る)→(親に叱られる)→(外泊するようになる)→(また親に叱られる)→(家出する)
→(さらに親に叱られる)→(集団非行)と。

が、それでもうまくいかなかったら…。そういうときは、思いきって引いてみる。相手
の子どもを、ほめてみる。「あの○○君、おもしろい子ね。好きよ。今度、このお菓子、も
っていってあげてね」と。 

 あなたの言ったことは、あなたの子どもを介して、必ず相手の子どもに伝わる。それを
耳にしたとき、相手の子どもは、あなたの期待に答えようと、よい子を演ずるようになる。
相手の子どもを、いわば遠隔操作するわけだが、これは子育ての中でも、高等技術に属す
る。あとはそれをうまく利用しながら、あなたの子どもを導く。

 なおこれはあくまでも一般論だが、少年少女期に、サブカルチャ(非行などの下位文化)
を経験した子どもほど、おとなになってから常識豊かな人間になることがわかっている。
むしろこの時期、無菌状態のまま、よい子(?)で育った子どもほど、あとあと、おとな
になってから問題を起こすことが多い。

だから、親としてはつらいところかもしれないが、言うべきことは言いながらも、今の
状態をそれ以上悪くしないことだけを考えて、様子をみる。あせりは禁物。短気を起こし
て、子どもを叱ったり、おどしたりすればするほど、子どもは、二番底、三番底へと落ち
ていく。
(雑誌「ファミリス」04年3月号投稿済み)

+++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩


最前線の子育て論byはやし浩司(038)

● 夫婦の問題

読者の方から、こんな書き込みがあった。

「はやし先生こんにちは。メルマガ読者のNGです。
今回は相談したいことがあるので、こちらにお邪魔します。
下に2・7配信分のメルマガの一部を抜粋させていただきます。


『読者の方からの相談より……

身近に離婚寸前の人がいるが、どうしたらいいか

だから身近で、こういう問題が起きたら、ただひたすら、
暖かく無視してやるのがよい。へたに首をつっこむと、ヤケドする』

……という部分ですが、実はこの部分が今の私に
あまりにもピッタリで驚きました。
そして同時に先生のお考えも聞かせていただきたいと思いました。

私の場合、(離婚問題をかかえているのは)私の夫の姉夫婦です。
夫の姉が7月に4歳になる息子を連れて実家に戻っています。
書類は未提出,息子に何も話していない、こんな状態ですが
時期が時期だけに実家の近くの幼稚園への入園準備を
少し進めているところです。はっきり言って、私は心穏やかでいられません」


 NGさんは、「他人なら暖かく無視もできるが、身内だと、それはむずかしい」と言って
いる。しかしやはり、夫婦の問題は、夫婦に任せる。「暖かい無視」が、一番、よい。

相手の女性(=夫の姉)には、いろいろ言いたいこともあるだろう。聞きたいこともあ
るだろう。おまけに説教してやりたいこともあるだろう。しかしそれでも、「暖かい無視」
が、一番、よい。理由が、ある。

 夫婦の問題は、超の上に超がつく、プライベートな問題。言葉で語りつくせない問題も
ある。外に現れていない問題もある。またそういう問題のほうが、多い。だから他人が、(た
とえ身内でも)、干渉しても、意味はない。また解決しない。

 「愛」の問題、一つとりあげても、愛の消えた二人をくっつけるのは、愛しあう二人を
別れさせるより、もっとむずかしい。

 さらに、夫に蹴られても、殴られても、その夫がよいと、その夫についていく妻もいる。
五年間、セックスレスで、家庭内別居状態でも、それなりにうまくやっている夫婦もいる。
幸福な夫婦は、みな、よく似ているが、不幸な家庭は、まさに千差万別。定型がない。そ
の定型がない分だけ、外の人が、「定型」を求めても意味は、ない。

 で、仮にそういう問題にクビをつっこんだとしよう。

 相手は、極度の緊張状態にある。あなたがどんな言い方をしても、相手は、それを (い
らぬ節介)ととる。何も問題は解決しない。「口を出すことくらいなら、だれにでもできる。
本当に助ける気があるなら、金を出せ」と。

 こういう状態では、結果がどうなっても、あなたは生涯にわたって、うらまれるだけ。
どうころんでも、あなたとの人間関係は、こなごなに破壊される。あなたの実姉ならとも
かくも、義姉なら、なおさらだ。これを俗世間では、「ヤケド」という。 

 言うべきことがあるとするなら、「いろいろたいへんだったのね」という、ねぎらいと、
慰めの言葉だ。まちがっても、「あんた、どういうつもり」式に、相手を責めてはいけない。
相手から具体的に相談があるまで、そっと、暖かく見守ってあげる。このケースでは、「子
どもを預かってあげようか」と言ってあげる。そういうやさしさが、義姉の心を溶かす。
説教するのは、つぎのつぎ。

 いくら喧嘩しても、一晩、裸で抱きあえば、また仲なおりする。そういう夫婦もいる。
年がら年中、離婚騒動を繰りかえしながら、それでもうまくやっている夫婦もいる。夫の
浮気を、容認しながら、自分は自分で、好き勝手なことをしている妻もいる。実のところ、
夫婦の仲ほど、外からわからないものはない。

 似たような離婚騒動で、すったもんだのあげくの果て、夫が迎えにきただけで、スーッ
とついていってしまった妻もいる。あっけにとられたのは、まわりの人たち。

 だから、ここは慎重に。やはり暖かく無視してあげるのがよい。が、それでも……とい
うのであれば、あとは、自分で考えて行動したらよい。知〜ラナイ。
(040207)


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●「子育て最前線の育児論」(有料版)のお願い

 読者のみなさんへ、

 新しく有料版の発行を考えています。みなさんには、毎月200円(予定)
 のご負担をお願いすることになると思います。

 また改めて、ご連絡申しあげます。そのときは、よろしくお願いします。
 無料版のほうも、今しばらくは、このまま発行するつもりでいます。
 これからも末永く、ご愛読ください。心から、よろしくお願いします。

                             はやし浩司

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++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司
 
最前線の子育て論byはやし浩司(039)

【近況・あれこれ】

●ビデオ「TAKEN」を、6巻まで見る

 ビデオ「TAKEN」の、4〜6巻が出たので、さっそくみる。S・スピルバーグ製作
総指揮のビデオである。

 で、4、5巻目あたりから、やっと物語の大きな流れがわかるようになった。5巻目の
終わりに、UFOが姿を人々の前に現す。そして6巻目の終わりに、主人公の女の子が登
場する。

 最初は、「?」と思って見始めたビデオだが、6巻までくると、もう、ド・ウ・ニ・モ、
止まらなア〜い。

 しかしいろいろ言いたいことはある。5巻の最後に、キンキラキンに光る、UFOが登
場するが、本物のUFOは、ああではない。色は、黒もしくは、それに近い、ジミな色。
それに飛び去るときは、空に溶け込むように消えていく。

 これは別の日に、私たち夫婦が見たのと同じUFOを見た人の証言だが、「ブヨブヨと、
形がゆがんだかと思うと、そのまま空に溶け込むように消えていった」とのこと。

 私たちが見たUFOは、突然、加速度的に速度をあげ、(信じられないほどの高速で)、
そして空に溶け込むように……、つまり透明になった感じで、消えていった。UFOを目
で追っていたとき、そのUFOの黒いシルエットのところに、その向こうにある星々が、
スーッと浮かんできた。と、同時に、そのUFOは消えた。

 たとえば自動車や飛行機が、遠ざかって、そのまま小さくなって消えるというような消
え方ではなかったということ。最後は物体というよりは、透明のフィルムのようになって、
消えていった。

 こういう話をウソと思う人は、勝手にそう思えばよい。ウソを書いても、私には一文の
得にもならない。かえって、私の正気が疑われるだけ。しかし見たものは、見た。大きさ
は、よくわからないが、ハバ1〜2キロはあった。巨大な「く」の字型のUFOだった。

 で、その女の子は、宇宙人の血のまざった子どもということになる。最後にイルカがあ
いさつするところは、結構、感動的。UFOに興味のある人には、おもしろいビデオ。今
回は、★★★★。(★五つが、満点)


●UFOの目的は何か?

 これは「TAKEN」の中でも、大きなテーマになっている。つまりUFOが、地球へ
やってくる目的は何か?

 もし宇宙人が、地球人に敵意をもつ生物であるなら、人類は、とっくの昔に滅ぼされて
いたはず。

ビデオの中でも、そういうセリフが出てくるが、人間のこまやかな感情は、脳の中の辺
縁系と呼ばれる組織の中で生まれる。その辺縁系という組織がないとするなら、宇宙人に
は、人間がもつような感情は、ないということになる。そのため、もし人間が、自分たち
にとって危険な生物だとわかれば、宇宙人は、情け容赦なく、人間を滅ぼしていたはず。

 S・スピルバーグは、つづく7〜10巻の中で、それをしだいに明らかにしていくのだ
ろう。(TAKENの原作者は、トマス・H・クック。)で、それを見る前に、私なりの推
論を書いておこう。

 UFOが地球を頻繁に訪れる理由と目的は、ズバリ、人類の飼育、である。

 これには三つの目的がある。まず体格的、肉体的な進化。知的能力の進化。そして精神
文化の進化である。そしてその結果として、人類を、自分たちのパートナー、もしくは、
奴隷とする。

 しかしパートナーであるにせよ、奴隷であるにせよ、人類は、たいへん危険な生物であ
ることには、ちがいない。

 奴隷にすれば、人類は、それに徹底的に反抗するであろう。またパートナーにすれば、
人類は、いつなんどき、宇宙人のイスを奪おうとするかもしれない。そういう意味では、
人類は、きわめて凶暴な性質をもった生物である。

 だからその前の段階として、宇宙人は、人類を、地球という「檻(おり)」の中に閉じこ
めておこうとするだろう。仮に外に出すとしても、決して彼らがもつ最終的な科学技術ま
では、公開しない。公開したら、それこそ、この宇宙は、たいへんなことになる。

 ……と、まあ、こうして空想を楽しむのは、悪くない。宇宙に視点をおいてものを考え
ると、この地球上のあらゆるできごとが、小さく思えてくる。

 実は、私の近くにも、一匹、エイリアンがいる。誠司という名前の孫である。生まれた
ときから、目だけがやたらと大きく、エイリアンみたいである。今日もワイフとドライブ
しながら、話題が、その誠司になった。

 「誠司のヤツ、あいつはエイリアンかもしれないな」と私。
 「ホント。どこをどう見ても、私にも、あなたにも、まったく似てないわ」とワイフ。

 しかしこれは、もちろん、冗談。


●一事が万事

 今日、スーパーで、こんな光景を見た。

 一人の男(45歳くらい)が、車をとめた。土曜日ということで、少しは混雑していた
が、スーパーの入り口の、まん前。もちろんそこは駐車場には、なっていなかった。

 つぎにその同じ男を見たのは、レジの外だった。買い物かごから、ポリ袋に、買ったも
のをつめなおすところだった。が、私はその光景を見て、またまた唖然(あぜん)とした。

 その男は、ロールになった小さな袋を、つぎつぎとちぎっては、ポリ袋につめていた。
その小さな袋は、たとえば魚とか、そういったものを、小分けにして入れる袋である。

 私が見ていただけでも、3〜40枚の袋をちぎっては、つめていただろうか。あとでま
た振りかえってみると、さらにちぎっていたので、計5〜60枚は、ちぎったかもしれな
い。いくらタダとはいえ、しかしそれにしても、何ともあさましい光景!

 普段着の男だったが、ごくふつうのサラリーマンといった感じの男だった。私はワイフ
にこう言った。

私「一事が万事というだろ。車の止め方、袋の盗み方、すべてが一貫している」
ワ「どうしてああいうことができるのかしら?」
私「そこなんだ。人間性というのは、そういうもの。つまりあの男の人間性は、すでに崩
壊している」

ワ「そうね。ああいう人を見ると、こちらまで、さみしくなるわ」
私「でね、ああいう人が自分の愚かさに気がつけばいいが、気がつかないでいると、いつ
かやがて、だれにも相手にされなくなるよ」

 私の実家の近所に、昔、そういう女性がいた。そのとき年齢は七〇歳くらいだったが、
よそのものを、平気で盗んでもっていってしまうのである。近所の人は、「あの人は、ボケ
た」と話していたが、そうではなかった。その女性は、昔から、そういう女性だった。た
だ若いときは、こっそりとそれをしていた。また盗んだものを、人目につくようなところ
には、置かなかった。

 ただ年齢とともに、自分をごまかすというか、そういういやな面を隠すだけの気力が弱
くなってきた。それでその女性は、その本性を、外にさらけ出すようになってしまった。

私「今から、ああだと、やがてそういう本性が、だれの目にもわかるように、外に出てく
るようになる。そのとき、あの男の人が気がついても、もう遅いということ」
ワ「隠しとおせないわね」
私「そうだ。もう自分を変えることはできない……」と。

 心と健康は、似ている。健康は、日々の節制と、運動によって維持される。同じように、
きれいな心は、毎日の、ほんのささいな行動の積み重ねで、つくられる。

 人が見ているとか、見ていないとか、そういうことではない。見ていないところから、
それを始める。そういう(自分)の積み重ねが、やがてその人の人格となる。

 本当に今、あの男の姿を思い出しても、ぞっとする。何というか、自分の中のいやな部
分を、えぐり出されたような不快感である。私の中にも、そういういやな面が、たしかに
ある。ないとは思わない。

そういういやな面と、私は、私なりの方法で戦っている。しかしあの男は、それを私に
見せつけた! 見せつけながら、こう言った。「お前ごときががんばっても、自分のいやな
面は消せないよ」と。つまりそんな感じがした。

 本当に、ぞっとするような、はっきり言えば、何ともおぞましい光景だった。


●ヒラリー夫人の自伝

 アメリカの前大統領の奥さんのヒラリー夫人が、自伝を出した。さっそくワイフが、ど
こかで読んできたらしい。

 しかし私は、ヒラリー夫人の名前を聞くと、いつもこのジョークを思いだす。

+++++++++++++++

 ある冬の寒い日のことだった。ビル・クリントン大統領が、いつものように、ホワイト
ハウスの寝室から出て、バルコニーの前に立ってみると、外は、一面の雪景色だった。

 クリントン大統領は、その美しい純白の世界を、しばし見回していたが、ふと気がつく
と、足元の庭の一角に、黄色の文字で、なにやら書いてあるのがわかった。

 まわりには、いくつかの足跡もあった。

 だれも入り込めない、中庭の、その中でもとくに警戒が厳重な、寝室の前の庭である。
クリントン大統領は驚いて、その文字のところまでおりていってみた。そしてそれを読ん
で、驚いた。そこには、こう書いてあった。

 「YOU BLOODY MOTHER FUCKER,BILL」(クソッたれ、ビ
ル!)と。

 すぐさまクリントン大統領は、FBIの長官を呼びつけ、だれがそれを書いたか、調査
させた。

 ……で、それから二日後のこと。FBI長官が、神妙な様子で、クリントン大統領のと
ころへやってきた。そしてこう言った。

 「大統領、よいニュースと、悪いニュースがあります。どちらから報告しましょうか?」
と。

 するとクリントン大統領は、こう言った。「いいニュースから、先に言いたまえ」と。

 FBI長官は、さらに神妙な顔つきになって、こう言った。

 「大統領、あの小便を分析しましたところ、小便は、ゴア副大統領のものと、わかりま
した」と。
 
 クリントンは、「あいつめ……」と言ったあと、「で、悪いほうのニュースは、何か」と、
FBIの長官に聞いた。

 するとFBI長官は、ますます神妙な顔つきになって、こう言った。

 「大統領、小便は、ゴア副大統領のものでしたが、筆跡は、奥様のヒラリー夫人のもの
とわかりました」と。
(040207)

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司


最前線の子育て論byはやし浩司(040)

●青春・再来

 できのよい息子や娘をもつと、もう一度、人生を楽しむことができる。しかしできの悪
い息子や娘をもつと、老後は憂うつで、死んでも死にきれない。

 その「ちがい」は、どこから生まれるのか。

 結局は、子どもの「自立」の問題ということになる。子育ての最終目標は、子どもを、
よき家庭人として、自立させること。子育ては、「自立」に始まって、「自立」に終わる。
 
 我が家も、私が50歳をすぎたころから、家計が急速にきびしくなった。若いころは、
無理ができた。その無理をしながら、がんばることができた。しかし50歳をすぎてから
は、その無理ができなくなった。その上に、不況が重なった。

 こういう仕事は、一品ずつ、手作りの料理を売るような仕事である。大量生産はできな
いし。一品ずつ、その場で、でき・ふできが判断される。できが悪ければ、そのまま見捨
てられる。権力や権威とは、まったく無縁。

 いくら私が、心の中で、「私がしていることは、ほかとはちがう」と叫んでも、親たちが、
それを評価してくれなければ、それでおしまい。

 そんなわけで、私は、おそらくどんな人もそうだろうが、50歳をすぎるころから、「老
後」をどんと感ずるようになった。

 が、そんなとき、ちょうど、息子や娘が、青春時代にさしかかる。

 こんなことがあった。

 ある朝、息子の部屋の前を通りすぎると、ドアが半分、開いていた。私はそのドアを閉
めるつもりで、ふとベッドのほうを見ると、枕元に二つの顔が並んでいるではないか。瞬
間私は、乱視かと思った。目をこすった。

 が、よく見ると、一つは息子の顔。もう一つは、見たこともない女の子の顔だった。そ
の二つの顔が、頬を寄せあって、眠っている。それ以上は、よく見なかったが、二人とも
うっとりするほど、満足そうな顔をしていた。

 居間へおりていき、ワイフに、「なあ、お前、あのな、女の子がいるぞ」と話すと、ワイ
フは、「あの子がねえ……」と笑った。

 実のところ、私も学生時代、よくガールフレンドの家に忍びこんで、一夜をすごしたも
のだ。今のワイフの部屋にも、何度か、窓から忍びこんだこともある。そんな私たちだか
ら、どうして息子を叱ることができるだろうか。

私「あいつのやることは、何でも、ぼくより2年、早い」
ワ「そういうものよ。時代が時代だから……」と。

 しかし私は何というか、自分自身がそのとき、息子といっしょに、その青春時代に生き
ているような錯覚にとらわれた。心の中が、ポッと暖かくなったのを感じた。

 少し話はそれるが、青春とは、何か?

ウィリアム・シェークスピアの「ロメオとジュリエット」の中で、ロメオとジュリエッ
トがはじめてベッドで朝を迎えるとき、どちらかだったかは忘れたが、こう言う。

 「A jocund day stands tip-toe on a misty mountain-top」と。「喜びの日が、モヤのかか
った山の頂上で、つま先で立っている」と。

本来なら喜びの朝となるはずだが、その朝、見ると山の頂上にモヤにかかっている。モ
ヤがそのあとの二人の運命を象徴しているわけだが、私はそのシーンになると、たまらな
いほどの切なさを覚える。

そう、オリビア・ハッセーとレナード・ホワイティングが演ずる「ロメオとジュリエッ
ト」はすばらしい。本当にすばらしい。私はあの映画を何度も見た。ビデオももっている。
サウンドトラック版のCDももっている。その映画の中で、一人の若い男が、こう歌う。
ロメオとジュリエットが、はじめて顔をあわせたパーティで歌われる歌だ。

 「♪若さって何?
   衝動的な炎。
乙女とは何? 
氷と欲望。
世界がその上でゆり動く……」
 
 この「ロメオとシュリエット」については、以前、「息子が恋をするとき」というエッセ
ーを書いたので、このあとに添付しておく。

 子育てをしていて、「すばらしい」と思うことがよくある。自分の命よりも大切なものが、
教えられるとき。たとえミニチュアな世界であるにせよ、神の愛や仏の慈悲を、実感でき
るとき。

 そして、こうしてもう一度、自分の青春を確認できるとき。

よく誤解されるが、青春は、決して人生の出発点ではない。青春は、人生の目標であり、
ゴールなのだ。人は年をとる。年をとることで、知識や経験を身につける。しかしそうい
た知識や経験に、どれほどの意味があるというのか。人は、青春から遠ざかれば遠ざかる
ほど、結局は、その青春にもどっていく。

 理由は簡単だ。

 知識や経験が多くなればなるほど、それが雑音となって、人は、あのころの純粋で、美
しい心を忘れる。あるいはそれがわからなくなる。見失う。しかし息子や娘の青春時代を
通して、改めて、自分の青春時代を思い知ることができる。

 子どもの「自立」を書いているうちに、いつの間にか、こんな話になってしまった。し
かしこれも、親だけが知りえる、親の気持かもしれない。どこか切なく、どこかほろ苦く、
どこか甘美。

 そう、息子や娘が、その青春時代を終えるころ、私やあなたも、その人生を終える。つ
まりは二度目の青春時代とともに、この世から消えるということ。願わくは、そういう人
生であってほしい。「死んでも死にきれない」のではなく、豊かな思い出とともに、この世
から消えたい。それ以上、私は、人として、親として、何を望むことができるのか。

 何ともまとまりのないエッセーになってしまったが、結論は、同じ。

 できのよい息子や娘をもつと、もう一度、人生を楽しむことができる。しかしできの悪
い息子や娘をもつと、老後は憂うつで、死んでも死にきれない。

++++++++++++++++

●息子が恋をするとき 

 栗の木の葉が、黄色く色づくころ、息子にガールフレンドができた。メールで、「今まで
の人生の中で、一番楽しい」と書いてきた。それを女房に見せると、女房は「へええ、あ
の子がねえ」と笑った。その顔を見て、私もつられて笑った。

 私もちょうど同じころ、恋をした。しかし長くは続かなかった。しばらく交際している
と、相手の女性の母親から私の母に電話があった。そしてこう言った。

「うちの娘は、お宅のような家の息子とつきあうような娘ではない。娘の結婚にキズが
つくから、交際をやめさせほしい」と。

相手の女性の家は、従業員三〇名ほどの製紙工場を経営していた。一方私の家は、自転
車屋。「格が違う」というのだ。この電話に母は激怒したが、私も相手の女性も気にしなか
った。が、二人には、立ちふさがる障害を乗り越える力はなかった。ちょっとしたつまづ
きが、そのまま別れになってしまった。

 「♪若さって何? 衝動的な炎。乙女とは何? 氷と欲望。世界がその上でゆり動く…
…」と。

オリビア・ハッセーとレナード・ホワイティングが演ずる「ロメオとジュリエット」の
中で、若い男がそう歌う。たわいもない恋の物語と言えばそれまでだが、なぜその戯曲が
私たちの心を打つかと言えば、そこに二人の若者の「純粋さ」を感ずるからではないのか。

私たちおとなの世界は、あまりにも偽善と虚偽にあふれている。年俸が一億円も二億円
もあるようなニュースキャスターが、「不況で生活がたいへんです」と顔をしかめてみせる。
一着数百万円もするような着物で身を飾ったタレントが、どこかの国の難民の募金を涙な
がらに訴える。暴力映画に出演し、暴言ばかり吐いているタレントが、東京都やF国政府
から、日本を代表する文化人として表彰される。

もし人がもっとも人間らしくなるときがあるとすれば、電撃に打たれるような衝撃を受
け、身も心も焼き尽くすような恋をするときでしかない。それは人が人生の中で唯一つか
むことができる、「真実」なのかもしれない。そのときはじめて人は、もっとも人間らしく
なれる。

もしそれがまちがっているというのなら、生きていることがまちがっていることになる。
しかしそんなことはありえない。ロメオとジュリエットは、自らの生命力に、ただただ打
ちのめされる。そしてそれを見る観客は、その二人に自分自身を注入し、身を焦がす。涙
をこぼす。

しかしそれは決して、他人の恋をいとおしむ涙ではない。過ぎ去りし私たちの、その若
さへの涙だ。あの無限に広く見えた青春時代も、過ぎ去ってみると、まるでうたかたの瞬
間でしかない。歌はこう続く。「♪バラは咲き、そして色あせる。若さも同じ。美しき乙女
も、また同じ……」と。

 相手の女性が結婚する日。私は一日中、自分の部屋で天井を見つめ、体をこわばらせて
寝ていた。六月のむし暑い日だった。ほんの少しでも動けば、そのまま体が爆発して、こ
なごなになってしまいそうだった。

ジリジリと時間が過ぎていくのを感じながら、無力感と切なさで、何度も何度も私は歯
をくいしばった。しかし今から思うと、あのときほど自分が純粋で、美しかったことはな
い。そしてそれが今、たまらなくなつかしい。

私は女房にこう言った。「相手がどんな女性でも温かく迎えてやろうね」と。それに答え
て女房は、「当然でしょ」というような顔をして笑った。私も、また笑った。(中日新聞投
稿済み)
(040208)

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

最前線の子育て論byはやし浩司(041)

【無料マガジンは、今までどおり発行します!】

 仙台のSTさん、浜松のKYさん、東京都練馬区のKMさん、そして結城市のMTさん、
励ましのメール、ありがとうございました。それに多くの読者の皆さん、ありがとうござ
いました。

 皆さんに、いらぬ心配をかけてしまったようですが、これからもがんばって、マガジン
を発行していきます。

 で、あれこれ迷ったことに対して、そのあと、STさん、KYさん、MTさんから、励
ましのメールをいただきました。お叱りのメールもいただきました。「こらっ、林、元気出
せ!」(STさん)というのも、ありました。

おかしなことに、乾いた、まっ白な砂漠で、小さな花を見つけたような気分でした。思
わず涙ぐんでしまったと言えば、少し、おおげさでしょうか。

 本当に、ありがとうございました。

 マガジンも皆さんのおかげで、回数も350回を超え、また、読者の方も、毎回少しず
つですが、ふえています。

 読者の方の数は気にしないでおこうとは、いつも思っていますが、実際には、読者の数
がふえるということは、大きな励みになります。

たとえばその朝起きてみて、2人とか3人とか、読者の方がふえていたりすると、その
2人とか3人の方に、がっかりさせたくなくて、原稿を書き始めます。「何だ、こんなマガ
ジンだったのか」と思われるのが、いやなんですね。

 ですから読者の皆さんにお願いすることがあるとするなら、このマガジンのことを、一
人でも多くの方に、話してほしいということです。「試し購読」という方法もあります。ま
た購読の解約は、簡単にできるようになっています。(マガジンの末尾にURLを添付して
います。そこをクリックすれば、解約できます。)

お知りあいの方で、興味をもってくださいそうな方がいらっしゃれば、くれぐれも、よ
ろしくお伝えください。

 なお、これからも、元気がつづくかぎり、できるだけ、こうしてマガジンを発行してい
きます。これからも、よろしくお願いします。

仙台のSTさん、浜松のKYさん、東京都練馬区のKMさん、そして結城市のMTさん、
本当に、ありがとうございました。今度ばかりは、本当に励まされました。これからもよ
ろしくお願いします。

 ここまでがんばれたのも、皆さんという読者の方がいらっしゃったおかげです。心から
お礼申しあげます。ありがとうございました。
(040208)

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

最前線の子育て論byはやし浩司(042)

●小さな心構え

 公園の前に、小さな車が止まった。「?」と思って見ていると、一人の女性(35歳くら
い)が、ゴミのつまったポリ袋をもって出てきた。さらに「?」と思って見ていると、そ
の女性は、そのポリ袋を、公園の中に設置してある、ゴミ箱の中に入れた。

 かなり手なれた様子だった。いつもそうしているのだろう。

 こういう人は少なくない。小ズルイというか、コスイというか……。「コスイ」というの
は、郷里のG県の言葉で、人の目を盗んで、要領よく立ちまわることをいう。

 しかしそういう人たちは、わずかな「便利」と引きかえに、もっと大切なものをなくす。
そしてその大切なものは、一度なくすと、それを取りもどすのは、容易ではない。つまり、
誠実な心をなくす。

私「お前は、ああいうことを、しない女性だね」
ワ「私は、ああいうことはできないわ」
私「どうして?」
ワ「父さんが、いつも、そう言っていた。そういうズルイことをするな、ってね。子ども
のときから……」

 私は、ワイフに、私が子どものころ見た、一人の女性(当時、40歳くらい)の話をし
た。いつだったか、町内で、遠足か何かに行ったときのことだった。

 その女性は、ゴミを、クルクルと手でまるめると、そのゴミをもったまま、その手を、
木の植えこみの中に突っこんだ。食事のあとか何かにできたゴミだったと思う。そのとき
も私は、「?」と思いながら、それを見ていた。が、その女性が、つぎに、手を植えこみか
ら抜いたときには、そのゴミは、その女性の手から、きれいに消えていた。

 それはまさに手品みたいだった。早業(はやわざ)というか、ほんの瞬間のできごとだ
った。

私「あの女性のことは、よく知っているよ」
ワ「その女性は、どうなったの?」
私「つい先日、なくなったということだそうだが、実に見苦しい人だったよ」
ワ「そうなっても、おかしくないわね」

 私も、小ズルイという点では、ほかのだれにもひけをとらなかった。当時は、そういう
時代だった。戦後の混乱期で、親たちにしても、食べていくだけでも、精一杯だった。

 しかし私は、そういうことはしなかった。私の小ズルさというのは、もっと商人的なも
のだったように思う。10円で買ったおもちゃを、友だちに15円で売りつけるなど。父
親が商人だったからではないか。そういう知恵だけは、よく働いた。

 しかしゴミを、そうでないところに捨てたことはない。当時は、ゴミについては、それ
ほどうるさく言わなかったが、それでも、しなかった……と思う。そういうことをすると
いう、思考回路そのものが、頭の中には、なかった。

 だから私が誠実な人間というわけではないが、今、冒頭に書いたような女性を見ると、
心底、ゾッとする。そのときも、車からおりて、その女性を叱りたい衝動にかられた。し
かしよくよく考えてみれば、その女性などは、まだよいほうだ。

 私の家の横にある、竹やぶなどは、まさにかっこうのゴミ捨て場。一歩、竹やぶの中に
入ると、そこはポリ袋のゴミだらけ。いくら立て札を立てても、意味はない。立て札その
ものが、抜かれて捨てられる。ずいぶんと前だが、「偉そうなことを言うな」という落書き
がしてあったこともある。

 で、私は考えた。考えて、行動に出た。

 私は家に帰ると、竹やぶの清掃を始めた。ほぼ一年ぶりである。以前は、毎月のように
していたが、去年の冬、地主といざこざがあってから、するのをやめた。だから、そのと
きから、竹やぶは、ゴミの山! 

竹やぶの清掃は、決して楽ではない。細い竹、太い竹が、無数に生えていて、それを行
く手をはばむ。少し油断をすると、枯れた細い枝が、顔や目をつつく。痛い。

が、その清掃が終わったころ、あの女性に対する怒りは消えていた。心地よい、さわや
かな汗を感じた。それをぬぐいながら家に入ると、ワイフがこう言った。「日本ソバでも食
べる?」と。私は、「ウン」と言って、小さなノコギリを棚にしまった。

 食べているとき、またあの女性の話になった。

私「一事が、万事だね」
ワ「きっとあの女性は、いつも見苦しいことをしていると思うわ」
私「でもね、ぼくたちだって、あの女性と、それほど違わないと思うよ」
ワ「……」
私「それをするかしないかは、ほんの小さな心構えで決まるから」と。
 
 そう、ほんの小さな心構えで決まる。それが積もり積もって、一つの行動パターンがで
きる。そしてその行動パターンが、いつか、その人の人格をつくる。そしてその人格が集
合して、国民性となり、さらに大きく集まって、人間性となる。

 ソバを食べ終わるころ、私は、こう言った。「いつか、人間がみな、その小さな心構えを、
自然に守れるようなれば、この地球は、本当に住みやすくなるのにね。むずかしいことで
はないんだよね。ほんの小さな心構えだよ」と。

 ワイフも、それに同意した。
(040208)

【教訓】
 あなたはあなたの子どもの目の前で、決して、見苦しい姿を見せてはいけない。しかし
油断をすると、無意識のうちに、見苦しい姿を見せてしまうことがある。では、どうする
か?

 子どもがいるとかいないとか、あるいはだれかが見ているとか見ていないとか、そうい
うことは、関係ない。あなた自身の問題として、他人の目を意識することなく、常日ごろ
から、自分の行動を律する。

 約束は守る。ルールは守る。人に迷惑をかけない。ウソをつかない。自分に正直に生き
る。

 何でもない、こうした行為の積み重ねがあって、やがてあなたは、(あなた)をつくる。
そういう(あなた)があってはじめて、あなたは、子どもに、自分の見苦しい姿を、見せ
ないですむ。

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

最前線の子育て論byはやし浩司(043)

●あなたは善人か?

 善人ぶることぐらい、簡単なことはない。それらしい顔をして、それらしくふるまえば
よい。

 そんな演技なら、そこらの三文役者にだって、できる。

 しかし演技は、演技。長つづきしない。息が切れたとき。気力が薄れたとき。ボロが出
る。

 実は、あなたも同じ。一生というスパン(時間的幅)で、あなたや私を見ると、同じよ
うなことが起きる。

 若いときは、集中力もあり、注意力もある。日ごろはそうでなくても、人前では、それ
なりによい人ぶることはできる。自分の悪い面は、できるだけ人に見せないようにするこ
とができる。

 が、人も、50歳をすぎるころから、その集中力や注意力が、急速に衰えてくる。と、
同時に、その人の中身が、外にモロに出てくるようになる。自分を隠そうとか、飾ろうと
か、あるいはごまかそうとか、そういう意識そのものが、弱くなる。

 そうなったとき、あなたは、それに耐える自信があるか。つまりモロに出してもよいだ
けの、自分が、できているか。

 実は、これは私にとっては、切実な問題である。

 私は生まれも育ちも、それほど、よくない。子どものころは、人の目を盗んで、コソコ
ソと悪いことばかりしていた。相手の機嫌をとるために、愛想もよかった。ウソもよくつ
いた。口もうまかった。

 そういう自分に気がついたのは、学生時代だったが、それと本気で戦うようになったの
は、40歳を過ぎてからではなかったか。つまり、気がつくのが、あまりにも遅すぎた。

 今は、何とか、まだ自分を隠している。飾っている。ごまかしている。外の世界では、
結構、善人ぶっている。しかしそんな自分が、いつまでつづくことやら……?

 たとえば自転車に乗っていて、信号が黄色から赤になったとする。そのとき私は、道の
両側を見て、車がないときには、思わず、信号を無視して、道路を渡りたくなる。

 私はそういうとき、自分にこう言って聞かせねばならない。「浩司、ルールを守れ」と。

 つまりそういうふうに、自分に言って聞かせねばならないところに、私自身の問題があ
る。誠実な人なら、そんなことを、自分に言って聞かせるということもないだろう。ごく
自然な形で、すなおにルールに従うにちがいない。

 しかし私には、それができない。

 たとえば昨日も、公園のゴミ箱の中に、家庭でできたゴミを捨てていく女性を見た。そ
のとき何とも言えない不快感に襲われた。しかしそう感じたのは、自分自身の中にある、
(いやな部分)を、見せつけられたためではないのか。

 こういうのを心理学では、反動形成という。教会の牧師が、セックスの話を、ことさら
嫌ってみせたり、女遊びばかりしている父親が、自分の娘の交際には、ことさらきびしく
したりするのが、それにあたる。

 私とて、ふと油断をすると、その女性と同じことをするかもしれない。だから口では、
その女性を非難し、善人ぶっているが、中身は、ほとんど、ちがわない。

 だから今、私は、努めて、自分を作りなおそうとしている。約束は守る。ルールは守る。
人に迷惑をかけない。ウソをつかない。自分に正直に生きる、と。

 しかし自分の中にしみこんだ体質を変えるのは、容易なことではない。体質というのは、
そういうもので、もともと意識でコントロールできるようなものではない。いや、コント
ロールはできるかもしれないが、その「しみ」までは、消すことができない。

 やがて私は、見苦しい老人になるだろう。自分でも、それがわかっている。道路にペッ
とつばをはいたり、ゴミを道路に、ポイと捨てたりするようになるだろう。ウソもつくよ
うになるだろうし、ヘラヘラと相手の機嫌をとったりするようにもなるかもしれない。私
は、もともとは、そういう人間なのだ。

 だから今でも、かんでいたガムなどを、ふと道路に吐き捨てたくなるときがある。「だれ
も見ていないからいいではないか」と。しかしそういうときでも、私は、「それをしたらお
しまい」と、自分に言って聞かせなければならない。ぐいとがまんしなければならない。

 そうでない人が聞いたら、バカな話に聞こえるかもしれないが、あえて、ぐいと構えな
ければならないところが、私自身の人間性の限界ということにもなる。

 そこで教育論ということになるが、もしあなたがあなたの子どもに、私が今しているよ
うな苦労をさせたくなかったら、あなた自身が、今、この時点で、自分を律することだ。
あなたが今、そうであるのは、しかたないとしても、その悪癖(へき)を、決して、あな
たの子どもに伝えてはいけない。

 こう書くとバレてしまうが、今の「私」をつくったのは、私のまわりに、そういう家庭
環境があったからにほかならない。だれとはここには書けないが、ともかくも、そういう
ことになる。

 さてさて、あなたは、本当に善人か。一度、自分の心の中をのぞいてみるとよい。そし
てもしあなたの中に邪悪なものがあれば、今からでも、それと戦ったほうがよい。そうす
ることは結局は、あなた自身のため、ということになる。
(040209)

【追記】
 今のところ、私は、この30年以上、人からモノやお金を借りたことがない。またこの
30年以上、ゴミや空き缶を、捨ててはいけないところに捨てたことがない。ツバについ
ては、1968年の夏以来、道路やそういうところに吐いたことがない。ツバについての
エピソードは、また別のところで書きたい。

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

最前線の子育て論byはやし浩司(044)

●痰とツバ

 人には、それぞれ、思い出すだけでも不愉快な、おぞましいできごとがある。その話に
なると、思わず、顔をそむけたくなるような、できごとである。

 この話も、そうだ。

 あれは、もう夏も終わりに近づいたころのことだった。私は、そのとき、ひとりで、会
議室の中にいた。みなが、やがてその部屋にやってくるのを、窓のところに立って、待っ
ていた。

 どうしてそのとき、ひとりでいたのかは知らないが、ともかくも、私はひとりでいた。

 私はUNESCOの交換学生として、そのとき、韓国のどこかの工業団地に招かれてい
た。日本の経済援助で作られた工業団地である。その会議室は、その団地の一角の、三階
建てビルの二階にあった。

 今でこそ、日本と韓国の間には、国交もあり、ほぼ自由に行き来できる。が、当時はま
だ、その国交そのものがなかった。私たちは、一度、UNESCO、つまり国連に籍を置
き、その代表という形で、韓国に渡った。

 韓国は、そのとき、あとになって、「漢江の奇跡」と呼ばれる、大発展をつづけていた。
一九六八年の八月のことだった。

 が、それは決して楽しいものではなかった。プサン港へ着いたときこそ、ブラスバンド
で迎えられたが、歓迎されたのは、その日一日だけ。あとはどこへ行っても、日本攻撃の
矢面(おもて)に立たされた。

 当時の、(今も基本的には同じだが)、韓国の人たちの日本人への憎悪感には、想像を絶
するものがあった。

 そんなある日、私たちは、その工業団地に招かれた。当時、毎日のように、あちこちの
団体や経済団体からの招待を受けていたので、それがどういう団体だったかは、覚えてい
ない。しかし、私はそのとき、その会議室の中にいた。

 窓の外は、林になっていた。そしてその向こうには、別の工業団地が、並んでいた。私
は窓のふちに両手を置き、外の景色を見ていた。が、そのとき、ふと、何気なしに、本当
に何気なしに、からんだのどを、一度、カッとうならせて、痰を口の中まで吐き出した。
と、同時に、痰とツバを、ペッと窓の外に吐いた。が、そのとき、私の呼吸に合わせるか
のように、強い風がヒューと吹いた。

 痰とツバは、風に半ば押し戻されて、半開きになった大きなガラス窓に、ペタリと張り
ついた。

 「まずい」と思ったが、私にはどうすることもできなかった。廊下をゾロゾロと人が歩
いてくる気配がした。私は窓から離れると、別の方向にあった机の前に立った。とっさの
判断だった。

 四、五人の仲間と、その会社の社長以下、十人前後が、何やら笑いながら、部屋に入っ
てきた。が、そのあとのことは、よく覚えていない。

 私はその会議の間中、ずっと、小さくなっていた。ただ、うしろのほうでだれかが、そ
の窓に張りついた痰とツバに気づいたのは、覚えている。韓国語だったから、意味はわか
らなかったが、上司が、部下を叱っているような言い方だった。私は、ますます小さくな
った。

 生きた心地がしないというのは、ああいうときの心境を言うのだろう。私は、一応、日
本の学生を代表して、その場にいた。それはよくわかっていた。わかっていたから、ます
ます小さくなった。

 そのときから、私は、痰はもちろん、ツバを道路に吐くのをやめた。やめたというより、
できなくなってしまった。それ以前の私はというと、痰とツバについては、平気で、道路
に吐いていたと思う。「思う」というのは、そういう意識もないほど、平気に、吐いていた
ということ。

 今でもあの日のことを思い出すと、ゾッとする。何というか、その日の記憶を、自分の
中から消し去りたい衝動にかられる。

 で、そのおかげというか、それで学んだというか、以来、36年になるが、私はただの
一度も、痰やツバを、道路や、そういうところへ吐いたことはない。当然といえば、当然
だが、私は、そういうときは必ず、ハンカチかティシュ・ペーパーで受けている。

 これが私のツバに関する、いやな思い出。本当にいやな思い出。先にも書いたが、思い
出すだけでも、ゾッとする。

 以上、この話は、これでおしまい。二度と話すことはないと思う。
(040209)

【追記】この話は、この36年間、ワイフ以外のだれにも話したことがない。以前、一度、
マガジンの原稿に書こうと思ったことがあるが、そのときは、できなかった。どうしてか?

 今、こうして告白してみたが、反対に、ではなぜ、今まで人に話せなかったのかと、不
思議な感じもする。こうしてはじめて告白してみたが、どこか胸の中のつっかえが取れた
ような感じがする。

 一つには、このところ自分のことを書きながらも、「私」というよりは、その「私」を超
えた、「人間」という立場で、ものを書いているからではないか。私という人間を、より客
観的に見ることができるようになったためかもしれない。

 そのためもう、私には、自分を飾ろうという意識は、ほとんど、ない。あるがままの「私」
を語るということは、同時に、あるがままの「人間」を語ることにもなる。そういう意識
が、強くなった。

 もう一つには、こういう形で、自己開示をすることによって、私は「私」を取り戻そう
としている。ありのままの自分を、ありのままに語る。それはまさに(さらけ出し)にほ
かならない。

 私は他人を信じなかった。同時に、他人に信じられることを恐れた。だれかが私を信じ
ているようなことを言っても、私は、その言葉すら、信じなかった。そういう意味では、
私は孤独な人間だったと思う。

 しかしこうして(さらけ出し)をすることで、私は、読者のみなさんと、心のつながり
を求めるようになった。言うまでもなく、人間の信頼関係を結ぶ、第一歩は、この(さら
け出し)である。私は、若いころ、その(さらけ出し)をすることができなかった。

 いつも他人を疑う反面、自分を隠した。しかしこれでは、たがいの信頼関係は、結べな
い。私は、いつまでたっても、孤独なままで終わってしまう。

 少しおおげさな感じがしないでもない。「たかが痰とツバの話ではないか」と思う人もい
るかもしれない。しかしごく最近まで、私は、こんな話すら、他人にすることができなか
った。これは大きな変化であると同時に、私にとっては、大きな収穫でもある。

 心のどこかには、この原稿は、ボツにしようかという思いもないわけではない。ワイフ
に見つかると、「ここまで書かなくてもいい」と言うかもしれない。が、思い切って発表し
てみることにする。みなさんは、このエッセーを読んで、どのように思うだろうか。

+++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩


子育て随筆byはやし浩司(045)

【近況あれこれ】

●みんなで変えていこう、日本の子育て

 4月からの講演会の問い合わせが、少しずつ、入るようになりました。が、今は、閑散
期。こうしてのんびりと原稿を書けることを、喜んでいいのか、悲しんでいいのか……。

 今度、静岡県教育委員会・静岡県出版文化会の、派遣講師の一人に選任されました。も
しお近くの小学校や中学校、あるいは幼稚園で、講演会を予定なさるようなことがあれば、
どうか、一度、学校、幼稚園、もしくは、出版文化会のほうへ、問い合わせてみていただ
けませんか。

 みなさんのお近くへ、講師として、おうかがいできることを、楽しみにしています。

 問合せ先……054−255−4451(静岡県出版文化会・代表)

 「出版文化会派遣、講師の件で」と、おっしゃってくだされば、話がつながるようにな
っています。

 みんなで力を合わせて、日本の子育てを少しずつ、変えていきましょう!


●がんの3・2%が、診断時における放射線被爆による!

 日本国内で、がんにかかる人の、何と3・2%は、X線レントゲンや、CT(コンピュ
ータ断層撮影法)による、放射線被爆によるものだという。このたびそんな調査結果が、
公表された(2月10日)。この割合は、世界各国とくらべても、ダントツに大きい。
 
 (調査したのが、日本の研究機関ではなく、イギリスのオックスフォード大学というの
も、ショッキングなことだ。)

    日本  ……約3・2%
    ドイツ ……約1・5%
    カナダ ……約1・1%
    アメリカ ……0・9%
    イギリス ……0・5%ほか

 私が子どものころには、どこでどんな診察を受けても、ことあるごとに、X線レントゲ
ンの検査を受けた。

 最近でも、歯科医院へ行くたびに、その検査を受ける。私のばあい、幸いなことに、C
Tは受けたことがないので、被爆量は、平均的かもしれない。(CTのばあい、X線レント
ゲンの放射線量より、多い。)

 しかし診断時における検査で、がんになるとは! しかも3・2%と言えば、約25人
に一人ではないか! こんな数字をつきつけられると、何のための検査か、わからなくな
ってしまう。

 で、言うまでもなく、子どもには、X線レントゲン検査や、CTは、受けさせないほう
がよい。今では、園で、頭を少し打っただけでも、すぐCTを受けさせる親がいる。「きの
う、CTを受けてきましたが、何ともありませんでした」と。しかしことは慎重に。

 Y新聞によると、「撮影するほど、医療機関の収入になる。設備投資を回収しようと、過
剰な検査をする場合もある」とのこと。どこか控え目な言い方だが、しかし医療機関の経
営的な事情で、私たちや、子どもたちが、がんにさせられたら、たまらない。


●どうして学長が……!

 福井県と石川県の県境にある、大長山(おおちょうざん)で、遭難事故があった。

 遭難事故を起こしたのは、関西にある、K大学のワンダーフォーゲル部の男子部員14
人。これらの学生たちは、昨日(2・9)、ヘリコプターによって、無事救出された。理由
はともかくも、私は、今朝(2・10)の朝刊を見て、驚いた。

 そこには、K大学のH学長が、5、6本も並ぶマイクの前で、深々と、頭をさげて謝罪
する写真が掲載されていた。

 コメントには、こうあった。「全員救出後の記者会見で、頭をさげるH学長(兵庫県N市
のK大学で)」と。

 しかしどうして学長が、頭をさげて、謝罪しなければならないのか?

 アメリカでもヨーロッパでも、大学の単位は、ほぼ共通化された。どこの大学で講義を
受けても、どこの大学でも、通用するようになった。だから学生たちは、季節の衣服を脱
ぎかえるように、自由に、大学間を、渡り歩いている。

 去年まで、A私立大学だった学生が、今年からB州立大学で勉強しているということは、
ザラ。そういう国々では、どこの大学の属しているかということは、ほとんど、意味がな
い。

 大学にしても、大学の外で起きた事件には、いっさい、責任を取らない。取る必要もな
い。これは高校についても、同じ。

 もう少しわかりやすい例で説明しよう。

 あなたが今、S総合病院へ、何かの病気で通院していたとしよう。そのあなたが、その
病院から帰る途中で、交通事故を起こしたとしよう。そのとき、S病院の院長が、「私の責
任です」などと、マスコミに向って、頭をさげるだろうか。……というのは、少し極端す
ぎるかもしれないが、国際的に見れば、それほど、中身は、違わない。

 私はこの写真を見て、「日本の学歴社会は、こんなところにも生きている」と思った。つ
まり学校という一つのワクが、「身分制度のよりどころになっている」と。

 たしかに遭難事故は起きた。しかしその事故を起こしたのは、大学生たちである。たま
たまK大学のワンダーフォーゲル部の部員たちであったというだけで、それ以上にも、そ
れ以下にも、大学とは関係ない。少なくとも、大学教育とは、関係ない。

 百歩話を譲って、もし、この日本でも、大学での単位が共通化されたら、こういう謝罪
光景は、ありえるかという問題がある。だいたいにおいて、大学名など、ことさら誇らし
げにかかげて、登山する学生など、いなくなる。

 もともと大学名など、どうでもよい。(もっとも、アメリカなどにも、自分が在籍する大
学名を大きく印刷したTシャツを着て、得意になっているバカは、いくらでもいるが……。)
いちいち大学の看板を背負って、登山に行く必要など、どこにもない。

 日本人は、自分の身分や、よりどころ、心のルーツを、在籍大学や、出身大学に寄せる
ことで、自分のアイデンテティを、明確にしようとする。それはまさに、江戸時代の身分
制度の名残と考えてよい。

 そこの大学に在籍する学生もそうなら、またそれを受け入れる大学側もそうだ。だから、
学長自らがマスコミの前に現れて、深々と、頭をさげる……。

 何とも、日本的な光景である。もし学長がしていることが正しいとするなら、つづいて、
親が頭をさげればよい。さらにS市の市長も出てきて、頭をさげればよい。ついでに県知
事も出てきて、頭をさげればよい。みんな、頭をさげればよい。

 ……というのは、言いすぎだが、大学側にも、「ウチの学生」という、(ウチ意識)があ
ることだけは、事実。私はこの(ウチ意識)が、日本的だと言っている。そしてこの(ウ
チ意識)が、そのまま日本の学歴社会の温床になっている。私は、それが問題だと言って
いる。


●Zセンターの破綻

 少し前、市内にある、Zセンター(通称「Zシティ」、ショッピングセンターの中央館)
の経営破綻について書いた。負債額が40億円弱。

 そこでこのH市は、急きょ、10億円を拠出して、経営を援助することになった。「市の
活性化を守る」というのが、大義名分らしい。

 しかしもともと今回の破綻は、目に見えていた。Sデパートという、それこそ生き馬の
目を抜くような経営で知られた、あのSデパートが退去した、そのあと地にできた、Zセ
ンターである。役人とか、町の商店主とか、そういう素人たちが、少しくらいの知恵をし
ぼたくらいで、成功するはずはなかった。

 私は、このZシティの中にある、子ども館にも、問題があると思う。広報などによれば、
H市は、約5億円をかけて、この子ども館をつくったという。(5億円だぞ!)

 で、今は、ご多分にもれず、閑古鳥が鳴いている。今は知らないが、開館当時は、17
人の専属職員と、同じ数のボランティア職員がいた。(私が実際、数えてみた。)

 私も外国へ行くたびに、その地域にある、子ども館をのぞくようにしている。しかし日
本の子ども館は、そういう子ども館とくらべてみると、まったく「心」が入っていないの
が、わかる。

 ただ作りました……というだけの子ども館。設備だけは、やたらと豪華。(HTML版の
ほうでは、外国の子ども館の写真を載せておく。)しかし豪華なだけ。子どもの心が、どこ
にも感じられない。

 まさに税金の使い道に困って作ったというのが、実は、このZセンターであり、子ども
館ということになる。(内情はどうか知らないが、客観的に見れば、そうなる。)

 しかもその上、今後、経営がおかしくなるたびに、H市民の血税が、そこに注ぎ込まれ
ることになる。しかしどうして、私たちが、そういう一部地域の、一部商店主らを守るた
めに、税金を払わねばならないのか。

 それともあなたは、今、そうした商店主らがあなたの家にやってきて、「あなたの家は5
人家族ですから、1700x5イコールの、8500円払ってください」と言ってきたら、
それをすぐに払うとでもいうのだろうか。しかも、恐らく……というより、まちがいなく、
これから先、市の財政がパンクするまで、毎年!、それがつづく。

 しにせのMデパートは、2年前に経営破綻した。そして倒産した。今は、そのデパート
は、「幽霊ビル」と呼ばれている。重厚な化粧をしたが、今ではそれがかえって、アダとな
った。不気味な黒い影を、そのあたりにまき散らしている。

 そのことを思えば、Zセンターの破綻など、何でもない。思い切って破綻させて、その
責任を、追及すべき人や団体に、しっかりと追及すべきではないのか。今のまま、ズルズ
ルと、先延ばしにすればするほど、結局は、そのしわ寄せは、私たち市民にのしかかって
くる。現に今、このH市でも、国民保険料がつりあげられようとしている。 

 道路や、建物や、そんなものばかり作っている。この原稿を読んでいるあなたの地域で
も、同じことが起きているはず。ボロボロの民家が並ぶところにさえ、場違いなほど立派
な、公的な建物が立っている。それはまさに、土建国家、日本の象徴ということにもなる。

 そんな予算があったら、そういうお金は、もっと、教育に使え。文化に使え。20年、
30年後の日本のために……。
(040210)

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司


最前線の子育て論byはやし浩司(046)

●「ウチ意識」

 どこからどこまでが、「ウチ」で、どこから先が、「ウチ」でないのか。よく学校の先生
が、この言葉を使う。「ウチの生徒が、不祥事を起こしました」「ウチの生徒が、○○賞を
受賞しました」と。

 こういう意識を、「ウチ意識」という。内側の「内」という意味である。

 このウチ意識は、さまざまな形で、さまざまな方向から、一人の子ども(人間)をしば
る。数年前も、こういうことがあった。

 一人の中学生が、何かの英語のスピーチコンテストで、優勝した。全国大会での優勝で
ある。そのときのこと。

 その子どもが通っていた英会話教室の前を見たら、その子どもの写真と、新聞記事を大
きく引き伸ばした写真が、誇らしげに飾ってあった。「ウチの子ども」とは書いてなかった
が、「GG君が、見事、優勝!」と。

 同じころ、その子どもが通う中学校の先生も、こう言った。「ウチの生徒が……」と。

 もちろん親にしてみれば、「ウチの子ども」ということになる。しかし問題は、このこと
ではない。

 こうした「ウチ意識」には、両面性がある。(しばる側)と、(しばられる側)である。
つまりウチ意識によって、親や教師を子どもをしばる。しかしその一方で、しばられる側
は、ウチ意識によって、親や教師に、しばられる。しばられながら、自ら、親や教師に帰
順しようとする。そしてそれが高じた状態が、「忠誠」ということになる。

 その中身と言えば、保護と依存の関係ということになる。もちろん保護と依存の関係が
悪いというのではない。親子の間には、ある程度、保護と依存の関係があって、当たり前
である。教師と生徒の間でも、そうだ。しかし問題は、その程度。

 言うまでもなく、保護と依存の関係が強ければ強いほど、子どもの自立は、遅れる。そ
こで親は、子育てをしながら、その保護意識を弱めていかねばならない。同時に、子ども
の依存性を、はねのけていかねばならない。

 そこで最初のウチ意識の話にもどる。

●ウチ意識の正体
 
このウチ意識の正体は何かというと、保護を超えた、支配意識であることがわかる。「ウ
チ」という言葉を使って、親や教師は、子どもを私物化する。私物化した上で、子どもを
支配する。

 一方、子どもの側は、私物化された上で、親や教師に帰属する。ばあいによっては、隷
属する。

 ここで誤解してはいけないのは、帰属する側にとっては、帰属することは、決して不快
なことではないということ。人間関係をうまく結べない人(子ども)は、よく、相手に隷
属することによって、自分にとって居心地のよい世界を作ろうとする。たとえば集団非行
が、それにあたる。

 隷属することは、それ自体、甘美なことでもある。ほかによく見られるのは、どこかの
カルト教団の信者が、その教団に隷属するケースである。

 こうした信者は、教団に、徹底的に隷属することで、まず「考える」という習慣を放棄
する。そして一方的に、まさに上意下達(かたつ)方式で、思想を注入してもらう。それ
はたいへん楽な世界でもある。

 子どもは、隷属することで、自分にとって居心地のよい世界をつくる。そしてそれが(し
ばられる側)の、「ウチ意識」をつくる。子ども自身までが、「ウチの学校は……」と言い
出す。

●日本人独特の意識 

 今、気づいたが、これは言葉の問題か。

 よく日本では、自分の母校を指さして、「あれは、ぼくの学校」というような言い方をす
る。しかし英語では、そういう言い方をしない。「あれは、ぼくが通った学校」というよう
な言い方をする。

 学校の先生にしても、日本では、「ウチの生徒が……」というような言い方をする。しか
し英語では、「この学校に通う生徒が……」というような言い方をする。

 私も一度、失敗したことがある。

 オーストラリアの友人に、私の母校(高校)の写真を送り、「This is my school.(これは
ぼくの学校だ)」と書いてしまった。その友人は、その学校を、私が所有する学校と勘ちが
いしてしまった。

 しかしこれはどうやら言葉だけの問題でもなさそうだ。

 日本人は、いまだに江戸時代の身分制度の亡霊を引きずっている。少し前までは、職業
で、その人の価値が判断された。「少し前」というのは、私が学生時代のことだ。

 ウソだと思うなら、現在、60代、70代の人と、ていねいに話しあってみるとよい。
ほとんどの人が、そういう意識を、もっているのがわかる。

 私もあるとき、ある男(現在70歳)に、こう言われたことがある。「君は、学生時代、
学生運動か何かをしていて、どうせロクな仕事にありつけなかったのだろう」と。つまり
「幼稚園での講師は、ロクな(=たいした)仕事ではない」と。

 そこで日本人独特の、学歴意識が生まれ、つづいて大企業意識が生まれた。わかりやす
く言えば、どこのどういう団体に属しているかで、その人の身分や、価値が決まった。そ
れはまさしく、江戸時代の亡霊以外の、何ものでもない。

 そしてそういう意識から、「ウチ意識」が生まれた。

 少し飛躍した考え方のように思う人がいるかもしれない。しかしこうした意識は、日本
に生まれ育ち、日本だけしか知らない人には、理解できないかもしれない。脳のCPU(中
央演算装置)の問題だからである。

 一つの例としてよくあげられるのは、こんな話である。

 ブラジルで、現地の人に、私自身が、聞いた話である。

 ドイツ人は、ブラジルへ移住してくると、彼らは、好んで、人里離れた場所に、ひとり
で住みたがる。しかし日本人は、ブラジルへ移住してくると、すぐ日本人どうしが集まり、
そこでグループをつくる、と。

 ドイツ人の移民は、移住したそのつぎの日から、「ぼくはブラジル人だ」というが、日本 
人は、二世になっても、三世になっても、「ぼくは日本人だ」「日系人だ」と、言いつづけ
る、と。

 当然のことながら、「ウチ意識」が強ければ強いほど、そうでない世界の人を排斥する。
そして自分でも、新しい社会に、同化できなくなる。

●ウチ意識がもつ問題 

 「ウチ」、つまり「内」の反対が、「外」。「ウチ意識」の反対側にいる人間を、日本では、
「ガイジン(外人)」という。

 今では、そういう意識もないまま使うことが多いが、「ガイジン」という言葉は、少し前
までは、差別用語として使われていた。

たとえば日本に住む外国の人たちは、どういうわけか、自分たちが、「ガイジン」と呼ば
れるのを、嫌う。心のどこかで、その差別を感ずるからではないのか。

 先にも書いたように、この「ウチ意識」には、(守りあう)という意味のほか、その外の
世界の人を、排斥するという意味も含まれる。と、同時に、その意識が強ければ強いほど、
その人自身も、外の世界に同化できなくなる。

 たとえばカルトと呼ばれる宗教団体では、ほかの宗教団体との接触を、きびしてく禁じ
ているところが多い。もう30年ほど前のことだが、こんな事件があった。

 中学校の修学旅行で、京都のどこかの神社へ行ったときのこと。一人の子ども(男子)
が、神社の鳥居の前で、かがんで、動かなくなってしまったという。引率の教師が見ると、
その子どもは、青い顔をして、体をワナワナと震わせていたという。

 あとで聞くと、その中学生一家は、ある仏教系宗教団体に属していた。そしてその宗教
団体では、「神社へ行くだけでも、バチが当たる」と、信者に教えていた。つまりその中学
生は、その「バチ」におびえた。

 これは極端な例だが、「ウチ」という言葉には、そういう意味も含まれる。

●ウチ意識との戦い

 自分の中にひそむ「ウチ意識」と、どう戦っていくか。それはとりもなおさず、自由へ
の戦いということになる。

 あなた自身も、そのウチ意識という無数の糸に、しばられている。あるいは反対の形で、
あなたの家族や、職場の人を、無数の糸でしばっているかもしれない。

 こうした問題は、私の教室でも、ないことはない。

 冒頭にあげた、GG君というのは、実は、私がそのときまでに、11年間教えてきた子
どもである。幼稚園の年中児のときから、中学三年までだから、そういう計算になる。

 本当のことを言えば、私は堂々と、「ウチの生徒」と言いたかった。しかし学校の先生が、
先に「ウチの生徒」と言い出してしまった。つづいて、英会話教室の先生が、先に、「ウチ
の生徒」と言い出してしまった。

 しかし実際には、私は、そうした成果(?)を、誇ったことは、過去に一度もない。子
どもたち(生徒たち)だって、そうは思っていない。

 私は親から委託された仕事を、忠実にこなすだけ。お金をもらっているのだから、それ
は当然のことではないか。だからその成果があっても、それはある意味で当たり前のこと
で、誇るべきことではない。

 最近でこそ、少し元気がなくなったが、私の教室の進学率は、どこの進学塾にも、負け
なかった。はじめて教えた四人の女子高校生たちは、全員、東京女子、お茶の水女子大、
慶応大、フェリス女子大などの大学へと進学していった。こうした実績(?)は、それか
ら10年あまりもつづいた。今から、33年前のことである。

 しかし私は、「ウチの生徒」という言い方をしたことがない。それは私自身が、「ウチ」
という言葉で、がんじがらめに、しばられているからにほかなからない。そしてその不快
感を、いやというほど、感じているからにほかならない。

 で、この問題は、やがて、親子の問題へと、もどってくる。

●泣き明かした母親 

 K氏(52歳・男性)が、私に、こんな話をしてくれた。

 「私の母は、私が結婚した夜、『悔しくて、悔しくて、泣き明かした』というのですね。
最近になって、叔母から、その話を聞きました。私の前では、変った様子は見せなかった
のですが、私の知らないところで、母が、叔母にそんな話をしていたと知り、ショックを
受けました」と。

 K氏の母親が、なぜ泣き明かしたか。理由など言うまでもない。K氏の母親は、息子を、
嫁に取られた悔しさから、泣いた。

 こうした例は、少なくない。日本人なら、心情的に共感を覚える人も、多いはず。しか
しこの母親の意識の中に、日本人がもつ、独特の「ウチ意識」の原型をみる。その母親に
してみれば、K氏は、「私の息子」をはるかに超えた、「ウチの息子」なのだ。

 しかし同時にここで理解しなければならないのは、K氏自身が感じたであろう、不快感
である。K氏は、「ぞっとした」とか、「もういいかげんにしてほしいと思った」などと、
どこか笑いながら言った。が、そんな生(なま)やさしいものではなかったというのが、
正しい。

 K氏は、こうも言った。「私はね、ストーカーにねらわれる女性の気持ちが、はじめてわ
かりました」とも。

 つまりそれに似た不快感を、K氏は、味わったという。「ウチ意識」も、高ずると、そこ
まで相手をしばる。そしてその意識に、相手も、しばられる。

●私は私論

 この「ウチ意識」と戦うためには、どうするか。自分がしばられるのは、しかたないと
しても、自分自身の中にある「ウチ意識」と、どう戦うか。

 その一つの方法が、「私は私論」がある。

 どこまでいっても、「私は私。あなたはあなた」をつらぬく。こうして私を確立すること
によって、その結果として、相手をからめる糸を切る。しかしこれには、大きな条件があ
る。

 糸を切るためには、自分を、それなりに、高めなければならない。「ウチ意識」そのもの
は、低次元な意識である。それはまちがいないが、その低次元さがわかるまで、自分を高
めなければならない。

 よい例が、進学塾の、自己宣伝である。「04年度、SS高校XXX名、合格!」と。

 恐らく進学塾の経営者は、そういう低次元な宣伝をしながらも、それを低次元とは思っ
ていないだろう。あるいは、誇らしくすら思っているかもしれない。

言うまでもなく、そう思うのは、自分自身が低次元だからである。知的能力はともかく
も、人間的には、どうしようもないほど、低次元である。そうした低次元性に、まず、気
がつかねばならない。

 相手が低次元であるということは、自分がより高い山に登ってみてはじめてわかること。
つまり私が私であるためには、その私を高めなければならない。でないと、どこかのカル
ト教団の本部へ、どこかアホじみた笑顔(失礼!)をつくって参拝する、あのオジチャン
やオバチャンと、同じようなことをすることになる。

 「私は私」という意識は、その結果として、その人にもたらされる。そしてそれを土台
として、自分の中にひそむ「ウチ意識」と戦うことができる。

●自由への道

 ウチ意識があるかぎり、その人の魂の自由はない。「ウチの息子」「ウチの娘」「ウチの財
産」「ウチの名誉」「ウチの地位」などなど。

 それはちょうど、金持ちが、泥棒を恐れるのに似ている。へたにお金があるから、泥棒
をこわがる。心配する。どこかへ旅行にでかけても、気が休まらない。

 しかしもしその財産がなければ、どうなるか。昔からこう言う。『無一文の人は、泥棒を
心配しない』と。盗まれるものが、ないからだ。

 同じように、へたに「ウチ意識」があるから、その人は、その人自身の「ウチ意識」に
しばられてしまう。そして身動きがとれなくなってしまう。が、もしその人から、「ウチ意
識」を取ったら、どうなるか。

 そうなれば、もうこわいものはない。と、同時に、その人の魂は、解放される。その人
は、真の自由を手に入れることができる。

 「ウチ意識」……だれでももっている、ごく何でもない意識だが、この意識には、さま
ざまな問題が隠されている。そしてこの問題を考えていく過程で、私は、「真の自由」への
道のヒントを得た。

 まだこの問題については、考えなければならない点もいくつかある。思想的にも、不備
な点もある。それはまた別の機会に考えるとして、ひとまず、ここで筆をおく。みなさん
の生きザマの何かの、参考になれば、うれしい。

 ついでに一言。

真の自由を手に入れるために、一つの方法としては、「ウチの……」というような言い方
をしたら、どんなときそう言うのか、そのときの心の中身を、さぐってみるとよい。

もしそのとき、ふと、その言葉に戸まどいを覚えたら、あなたはすでに、自由への一歩
を踏み出したことになるのでは……。ここから先のことは、まだ私にも、よくわからない
ので、ここまでにしておく。
(040211)(はやし浩司 うち意識 ウチ意識 うち論 ウチ論)

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

最前線の子育て論byはやし浩司(047)

【近況・あれこれ】

●権威主義

 息子は、今、ホームステイ先のことで、オーストラリアのF総合大学と連絡をとってい
る。しかし昨夜、その息子から、「まだ決まらない……」と不安そうな電話がかかってきた。

 そこで昨夜、その学長あてに、メールを打った。そしてその返事が、今朝早く来た。学
長自身からのメールである。いわく、「飛行機便が決まれば、教えてほしい。私のほうで手
配する」と。

 日本では、いくらインターネット時代とはいえ、こういうことは、考えられない。大学
の学長が、一個人のために、ここまで、(気楽に)返事を書くだろうか。つまりここに、日
本とオーストラリアの大きなちがいがある。

 「日本は権威主義社会」とよく言われる。それはそのとおりで、それは、外国へ行って
みると、よくわかる。いまだにあの『水戸黄門』が、日本人の国民的番組になっているこ
とでもわかる。

 どうして葵の紋章を見せつけられたくらいで、頭をさげなければならないのか。その前
に、どうして水戸黄門が、偉いのか。だいたいにおいて、「偉い」というのは、どういう意
味なのか。

 ワイフにそのメールのことを話すと、ワイフも、こう言った。「日本では、考えられない
わね」と。

 権威を認める、日本人。権威を求める、日本人。権威の中に、腰をおろす日本人。権威
をかさに威張る日本人。

 しかし今、こうした権威が、音をたてて崩れ始めている。よいことだ。そう、権威主義
なんて、クソ食らえ!

 どうして男が上で、女が下なのか。どうして親が上で、子が下なのか。どうして先生が
上で、生徒が下なのか。どうして夫が上で、妻が下なのか。こうしたバカげた権威主義は、
私たちの時代で、終わらせねばならない。


●幼稚園児の不登校

 愛知県のAさんという、マガジン読者の方より、相談が届いた。あまり詳しいメールで
はなかったので、事情はよくわからない。いわく、「幼稚園へ行くのをいやがります。どう
したらいいでしょうか」と。

 今、不登校児だけではなく、不登園児がふえている。当然のことながら、園児について
も、不登校児に準じて考える。集団恐怖症や、対人恐怖症なども、考えられる。ほかに、
かん黙症や、自閉傾向など。

 赤ちゃんがえりがこじれて、不登園になるケースもあるし、家庭教育の失敗が原因で、
そうなることもある。それはちょうど、病気のときの発熱と似ている。不登園という症状
だけをみて、一つの原因に結びつけることは、できない。

 しかし不登校にせよ、不登園にせよ、本当の問題は、学校や園へ行かないことではない。
たいてい、その前後で、親自身が、子どもの症状をこじらせてしまうこと。しかもよかれ
と思って、そうしてしまう。もちろん、こじらせているという意識は、親にはない。

 「このまま不登校児になってしまったら、どうしよう」「小学校へ行けるかしら」と。そ
ういう不安ばかりが先にたち、子どもには、無理をする。それこそ泣き叫んで抵抗する子
どもを、無理やり車に押しこんで、園へつれていったりする。

 しかしこの「一撃」が、症状を、かぎりなく悪化させる。本来なら、一過性ですんだは
ずの不登校が、一年、二年とつづく。

(Aさんへ、詳しくは、私のHPの「不登校」「学校恐怖症」、もしくはインターネットデ
ィスク(HPの「ビデオでごあいさつ」)に収録の、学校恐怖症を参考にしてください。ト
ップページから、進んでいただけます。トップページ→「タイプ別子育て論」もしくは、「ビ
デオでごあいさつ」へ。http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/)

 そして親をして親を不安にする原因は、言うまでもなく、学歴信仰である。「学校へ行け
ないこと」イコール、(落ちこぼれ)と、とらえる。日本人は、「学校」という言葉に、神
話というにふさわしいほどの、独特のヒビキを感ずる。その呪縛(じゅばく)から逃れる
のは、容易ではない。その容易ではない分だけ、子どもが幼稚園へ行かなくなったりする
と、親は、大あわてする。

 幼稚園など、行きたくなかったら、行かなくてもよい。……というのは、少し暴論に聞
こえるかもしれないが、それくらいの意識を、心のどこかで用意しておくことは、大切な
ことである。

 私がこの浜松市へ来たころには、一年保育と二年保育が主流だった。この浜松市でさえ、
約5%の子どもは、幼稚園にすら通っていなかった。それが3年保育となり、4年保育と
なった。さらに幼保一元化の流れを受けて、まさに幼稚園は、保育園の仕事までするよう
になった。

 それとも、たったこの30年で、日本人は、またまた進化したとでもいうのだろうか。

 その相談してきた親には、理解できないかもしれないが、私が親なら、息子にせよ、娘
にせよ、こう言う。

 「ああ、そう。行きたくないなら、行かなくてもいいよ。自分で好くなことをしなさい。
そうだ、これから二人で、動物園でも行ってこようか」と。

 実際、私とワイフは、自分の息子たちに、よくそうした。多いときは、毎月のように、
そうした。今でも、あの解放感を、忘れることができない。

で、そしてつぎに、子どもには、こう言う。

 「そのうち、行きたくなったら、行けばいいよ」と。

 どうして日本人には、こういう余裕がないのか。自分の子どもの心を守る前に、自分の
子どもを、社会のワクの中に、押しこめようとする。そしてそのワクの中に入らないから
といって、わめいたり、泣き叫んだりする(失礼!)。

 学校以外に道はなく、学校を離れて道はない。そういう道だけが、本当に、あるべき道
なのか。幸福になる道は決して、一つではない。同じように、おとなになる道は、決して
一つではない。

 アメリカでは、ホームスクーラーが、200万人を超えた。そしてホームスクーラーど
うしが、グループをつくって、交遊したり、活動したりしている。望めば、家庭まで、州
政府が先生を派遣してくれる。

 一方、この日本はどうかというと、これまた驚いた。先日、不登校児を指導するNPO
(Non-Profit Organization・特定非営利活動法人)のホームページを見たが、そこには、
こう書いてあった。

 「私たちの目的は、子どもを再び、学校へ行けるようにすることです。だから現在、生
徒数が少ないことを、喜んでいます」と。

 NPO自体が、学校神話にとりつかれている? 学校へ行けない子どもを、落ちこぼれ
と、無意識の世界で、そう思っている? であるとするなら、何がNPOだ! 

 短い相談だったが、私はそのメールを読みながら、そんなことを考えた。


●異常な負けず嫌い

 何かのゲームや試合で負けたり、算数の問題なのでまちいを指摘されたり、あるいは人
前で失敗したりすると、異常な、つまりふつうの子どもなら見せないような反応を示す子
どもがいる。

 ワーッと興奮的に泣き出したり、かたまってしまったり、かたまったまま、涙をポロポ
ロとこぼしたりする。

 他人との接触が、うまくできない子どもに見られる症状であることから、自閉症、もし
くは自閉傾向とも考えられるが、自閉症の子どもが、集団生活が困難なのとちがい、この
タイプの子どもは、集団生活が、できなくない。(自閉症には、言語の発達障害が見られる
が、このタイプの子どもには、見られない。)

 自閉症の三大症状は、@対人相互交渉ができない、Aものごとに異常にこだわる(固執 
行動)、B言語の発達障害である。

 これに対して、どこか自閉症的ではあるが、Bの言語の発達障害の見られない子どもを、
アスペルガー障害児という。オーストラリアの小児科医のアスペルガーがつけた、名前で
ある。

 で、子どものばあい、「障害」というレベルではなくても、それを薄めた症状を示すこと
はよくある。たとえばADHD児についても、出現率は、約5%と言われているが、その
傾向のある子どもも含めると、ずっと、多くなる。10人に1人は、いる。

 で、このアスペルガー障害についても、その傾向の見られる子どもは、少なくない。圧
倒的に男子に多いとされるが、兄弟で、似たような症状を示すことも多いので、遺伝的な
要素がからんでいるとみてよい。

 で、このタイプの子どもは、ある特定のことがらに、ふつうでない興味と関心を示す。
たとえば図鑑を、すべて読破して、暗記してしまうなど。科目でいえば、算数なら算数に、
特異な才能を示すこともある。

 一般論から言えば、「かたまる」という行為は、子どもの世界では、決して好ましいこと
ではない。「がんこ」というのが、それ。

 子どもは自らをカラの中に押しこみ、外との世界を遮断することがある。遮断すること
によって、自分の心を防衛しようとする。これを心理学の世界では、防衛機制という。よ
く知られた例としては、かん黙症がある。

 この(がんこ)は、(意地)、もしくは(わがまま)と区別して考える。意地には、理由
がある。わがままにも、それなりの理由がある。しかしがんこには、理由が、ない。

 で、自閉症はもちろん、アスペルガー障害にせよ、またそれを薄めた形の症状を示す子
どもにせよ、治療法は、まだ確立されていない。(効果的な指導法というのは、熱心な教育
者たちによって、提唱され、実践されてはいるが……。)

 だから指導法としては、そういう子どもであることを認めた上で、無理をしないで、そ
の上で、指導法を組み立てるしかない。無理をすれば、かえって症状をこじらせる。

 そのため、まず自分の子どもの心が、どういう状態であるかを、正確に知る。一番こわ
いのは、無知なまま、我流の指導法なり、治療法を子どもに押しつけること。たとえばA
DHD児に対して、半暴力的な指導を繰りかえすなど。

 かん黙児にしても、家の中ではふつうに会話をしたりするため、親が、それに気づくこ
とは、まずない。外の世界では、いつもどこか意味のわからない柔和な笑みをたたえてい
ることが多い。そのため、子どもを叱ったり、ばあいによっては、「園が悪い」「先生が悪
い」と言い出したりする。

 がんこな子どもも、そうである。

 このタイプの子どもは、叱れば叱るほど、ますますかたまってしまう。そしてつぎに同
じような状況になったとき、症状は、さらにこじれる。

 ある男の子は、2年間、お迎えの先生にあいさつをしなかった。また別の男の子は、自
分の席でないと、ぜったいに座ろうとしなかった。またさらに別の男の子は、毎日決まっ
たズボンでないと、幼稚園へは行かなかった。

 大切なことは、あきらめて、子どもの見えない意識に従うしかない。あとは時間が解決
してくれるのを、待つ。たとえば満10歳くらいから、自己意識が急速に発達してくる。
自分で自分をコントロールしようとする意識と考えてよい。

 この意識が育ってくると、子どもは、自己コントロールするようになり、症状的には、
つまり、見た目には、わかりにくくなる。

 で、冒頭の話だが、もしそそのような症状が見られたら、そういうものとあきらめて、
その場をそれとなくやりすごすのがよい。「うちの子は、負けず嫌い」と思えば、それでよ
い。「プライドが強い」と思うのも、よい。ここにも書いたように、満10歳前後を過ぎる
と、こうした症状は、急速に姿を消す。


●見えない意識

 子どもの行動を支配する意識に、二つ、ある。見える意識と、見えない意識である。

 私はそのことを、母子分離不安の子どもを見ていて、気がついた。ずいぶんと前のこと
である。

 母親の姿が見えなくなっただけで、ワーッと興奮状態になったり、反対に極度にオドオ
ドしたりする子どもがいる。「捨てられるのでは」という被害妄想が、かぎりなく頭の中で
広がってしまい、思考そのものが、パニック状態になる。

 子どもは、一度、そうなると、理性の声を、受けつけない。なだめても、理由を説明し
ても、子どもは、それを理解しようとしない。そういうとき、私は、子どもの中に、あた
かも二人の子どもがいるように感じる。

 一人は、その子ども自身がコントロールしている子ども。もう一人は、その子ども自身
でもコントロールできない子ども。

 この子ども自身でもコントロールできない子どもを操っている意識を、私は、いつしか
「見えない意識」と呼ぶようになった。

 実は、この見えない意識というのは、だれにでもある。潜在意識ともいうが、その潜在
意識ともちがう。明らかに意識的行動なのだが、教える側からすると、その意識がつかめ
ない。分離不安の子どもにしても、「ママがいない!」「ママがいない!」と叫ぶ。どうし
てパニック状態なのか、その理由が、ちゃんとあるのである。

 これ対して、潜在意識というのは、人の心をウラから操るため、外からは見えないばか
りか、その理由さえ姿を現さない。よく知られた例として、「転移」という現象がある。

 嫌いな人が乗っている車と、同じ車に乗っている人を見たりすると、不愉快に感ずるこ
とがある。これは心が、(嫌いな人が乗っている車)→(同じ車)→(不快感が起こる)→
(その車に乗っている人に、悪印象をもつ)というふうに作用することによる。

 こういうのは、まさに潜在意識がなさるわざだが、ここでいう(見えない意識)という
のは、少し、ちがう。そこに症状が出ているのだが、子ども自身も、そして指導する私自
身も、つかみどころのない意識をいう。

 もっとも心理学の研究家でもない私が、こんなことを言っても、意味はない。しかしこ
うして書くのは自由だ。それに現場では、役にたつ。みなさんも、子どもをみるとき、ど
こかでこの(見えない意識)の話を思い出してみてほしい。「なるほど」と思うときが。必
ずあるはずである。


●人間の心理

 人間の心理は、基本的には、もっと単純ではないかと思う。たとえば太古の昔に、自分
を置いてみればわかる。人間が下等な哺乳動物であった時代にまで、さかのぼってみよう。

 人間は、ほかの動物たちと同じように、食うか、食われるかの立場にあった。もちろん
天敵もいて、人間を容赦なく襲った。一方、人間は、スキさえあれば、他の弱い動物を襲
った。

 この(食うか・食われるか)の関係から、人間の二つの基本的な心理状態が、形成され
た。

 @防衛機能と、A攻撃機能である。
 
 この防衛機能を、マイナス型と、私は呼んでいる。また攻撃機能を、プラス型と、私は
呼んでいる。

 人間の心理は、すべて、大きく分けて、この二つの集約され、そして分類される。たと
えばよく知られた防衛機制に、かん黙症がある。子どもは、かん黙することによって、他
人との接触を遮断し、自分の心の状態を守ろうとする。他人と接することによって、緊張
状態が一挙に、自分の心理状態を不安定にすることを、知っているからである。

 このかん黙症は、まさにここでいうマイナス型ということになる。そしてこのマイナス
型の反対側にあるのが、プラス型である。かん黙児に対して、そう状態の子どもを、想像
すればよい。

 ほかにたとえば引きこもりを、マイナス型とするなら、集団を作って暴走行為をするよ
うな非行は、プラス型ということになる。

 こうして分類していくと、一見、複雑に見える子どもの心理も、簡単に理解できるよう
になる。もう一つの例だが、たとえばつい先日、私は、ピーターパン・シンドロームにつ
いて書いた(マガジン投稿済み)。

 もっともらしい症状と、もっともらしい原因が、あちこちで議論されているが、あれな
ども、大人拒否症、もしくは、親拒否症の一つとして理解すると、何でもなくなってしま
う。
 
 このタイプの子どもは、おとなになること自体を拒否している。あるいは親に対して、
何らかのおおきなわだかまり(固着)をもっている。それが原因で、親を拒否している。
つまりピーターパン・シンドロームは、恐怖恐怖症や高所恐怖症、さらに対人恐怖症や集
団恐怖症の一つと考えられる。

 それをマイナス型というか、プラス型というかの判断は別として、こうした恐怖症もま
た、人間がまだ原始動物の時代に見につけた感覚ということになる。言うまでもなく、襲
いくる危険から身を守るためである。(もちろん防衛という意味では、マイナス型になるが
……。)

 そこで私は、サルやイヌよりも原始的な動物を、念頭において、人間の心理を考えてみ
た。恐らく、こうした試みしたのは、世界でも、私がはじめてではないかと思う。私は、
ほかに例を知らない。それが冒頭に書いた、(食うか・食われるか)の関係から生まれた、
人間の二つの基本的な心理状態である。

 この先は、もう少し煮つめてから、文章にしてみる。たいへんおもしろい考え方ではな
いかと、どこか自画自賛ぽいが、自分ではそう思っている。


●攻撃と防衛

 人間の行動は、(攻撃)と(防衛)の二つに、大別できる。そして同時に、それを支える
心理も、(攻撃的心理)と、(防衛的心理)の二つに大別できる。

 ほどよい心理状態の人は、常にこの二つの心理を、同時に働かせて、バランスをとる。
その作用のし方は、交感神経、副交感神経の働きに、どこか似ている。

 (攻撃的心理)が亢進しても、また(防衛的心理)が減退しても、見た目には、子ども
(人)は、プラス型の心理状態になる。

 一方(攻撃手心理)が減退しても、また(防衛的心理)が亢進しても、見た目には、子
ども(人)は、マイナス型の心理状態になる。

これらを表にすると、こうなる。

(1)(++型)(攻撃的心理と防衛的心理が亢進した状態)

 たとえば、かんしゃく発作

(2)(+―型)(攻撃的心理が亢進し、防衛的心理が減退した状態)

 たとえば、非行、活発型自閉症

(3)(―+型)(攻撃的心理が減退し、防衛的心理が亢進した状態)

 たとえば、引きこもり、かん黙症

(4)(−−型)(攻撃的心理と防衛的心理が減退した状態)

 たとえば、うつ

 ここにあげた(例)は、あくまでも、おおざっぱに考えてみただけで、正確ではない。
しかし子ども(人)の心理の分類のし方のひとつとして、参考にしてみてほしい。

 今は、まだ、よくわからない点もあるが、私は、人間の心理は、それほど、複雑ではな
いのではないかと思い始めている。宇宙の方程式が、アインスタインによって、簡単な方
程式で表されたように、人間の心理も、意外と簡単な方程式で表されるのかもしれない。

 それについては、これからも考えていくとして、子ども(人)の心理の一つの見方とし
ては、先にも書いたように、役にたつ。「あの子は、+−型だね」とか、そんなふうに、で
ある。
(040212)(はやし浩司 防衛 攻撃)

++++++++++++++++++++++

【読者の皆さんへ】

 今後、マガジンを発行する上において、財政的な問題もあり、
 今度、マグマグ社から、有料マガジンを発行することに
 しました。

 一か月、200円、最初の一か月は無料、お試し購読という
 ことで、皆さんへの負担ができるだけ少なくなるように、考
 えました。

 どうか、有料マガジンの購読をお願いします。
 
マガジンの案内、および、お申し込みは……
 http://bwhayashi.cool.ne.jp/page034.html
です。

今後、有料マガジンのほうで、より充実した内容のエッセー、
子育て論を、展開していくつもりでいます。

どうかよろしくご協力くださいますよう、心からお願いします。

なお申しこみは、今からできます。配信は、3月1日からです。

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

最前線の子育て論byはやし浩司(048)

【BW教室から……】

 教室では、一回注意すると、子どもに、一枚のイエローカードを、渡すことにしている。
古い教室では、ランプで、それを表示していた。今は、黄色い磁石で、それを表示してい
る。(一回注意したら、黄色い磁石を、黒板に一個張りつける。)

 「FF君、注意! イエローカード!」というような言い方で、子どもを注意する。

 このイエローカードが、三枚で、その場で教室から、退場。プラス、次回のレッスンは、
出場停止。(ほかにレッドカードというのもある。教室内で、喧嘩をしたり、ほかの子をキ
ズつけるような暴言を吐いたようなときに、渡す。)

 しかしその途中で、まじめに勉強したり、何かよい成果を出したときは、そのイエロー
カードを、取りさげることにしている。「今の君の意見は、すばらしい。イエローカードを
一枚、減らします!」と。

 だからめったに、私は、子どもを退場させたことは、ない。子どもも、イエローカード
を一枚渡すと、とたんに神妙になる。が、先日、こんな失敗をした。

 そのとき私はFF君(小2)のイエローカードは、一枚だと思っていた。だから、「FF
君、注意。これで君は、イエローカードは二枚になった」と言った。が、とたん、クラス
の子どもたちが、大騒ぎ。

 「先生、FF君は、三枚だ! 三枚だ!」と。

 振りかえって黒板を見ると、黄色い磁石がたしかに計三個になっていた。

 ……こういうとき、どうするか。教える側も決断を迫られる。いいかげんな判断をすれ
ば、そのつぎから、このイエローカードは、権威(効力)を失う。しかし子どもを、本当
に罰するのは、私の本意ではない。

 しかし私は、その前後にFF君が、いつもより騒いだこともあり、こう言った。

 「FF君、今すぐ、勉強道具を片づけて、廊下に出なさい。それと、来週は、この教室
には来ないように!」と。

 FF君は、しょんぼりした様子で、教室を出ていった。

 で、それからちょうど一週間後。(私の教室は、週1回が基本になっている。)教室が始
まる少し前、FF君のお母さんから、電話があった。いわく、「うちの子が、BW(私の教
室)に行きたいと、泣いていますが、どうしましょうか」と。

 私はFF君が、私の言葉を本気にするとは、思っていなかった。そこで笑いながら、「イ
エローカードは、ほとんど冗談のようなものです。だから、気にしないでおいでください」
と。

 FF君は、そんなわけで、いつもより、一〇分ほど、遅刻して教室にやってきた。どこ
かうれしそうに、どこか照れくさそうに……。そして私にこう言った。

 「うちのママが、先生も、ジジ臭くなったねって、言ってたよ」と。

 それがFF君の、精一杯の抵抗のようだった。お母さんにも、それなりに叱られたよう
だ。

私「本当に、そう言ってたのか?」
F「そうだよ。ジジ臭いって」
私「ショックだなあ」
F「どうして?」
私「君のお母さん、すてきな人だから、前から好きだった」
F「やめときな、あんな鬼ババ!」と。

 とたん、教室の子どもたちが、パッと笑った。私も笑った。で、それでこの話はおしま
い。FF君も、いつものように楽しそうに、勉強を始めた。
(040212)

+++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司※


最前線の子育て論byはやし浩司(049)

【近況・あれこれ】

●有料マガジンについて

 今度、有料マガジンを発行することになった。

 読者の中には、有料マガジンを考えている人も多いと思う。そこで今の感想を、ここに
記録しておきたい。

 私が加入したのは、M社というマガジン配信会社(これを「マガジンスタンド」という)。
いくつかマガジン配信のための会社があるが、その中でも、一番、信用がおける会社であ
る。

 お金が動く以上、「あやしげな会社」、では困る。これは当然だ。しかしその分、M社の
審査はきびしい。どういう審査基準があるのかは知らないが、いいかげんなマガジンだと、
発行元のM社自身が、迷惑をこうむる。

 たとえば読者がお金を払ったが、マガジンが届かない……ということが起こると、マガ
ジン社に責任はないとはいえ、マガジン社は、大きく、信用をなくす。

 しかし私には、M社での発行実績がない。ふつうは、無料マガジンで実績を積んだあと、
有料マガジンへと移行するものらしい。

 用意するものは、マガジンの見本など。それを自分のホームページに張りつける。

 この審査に一週間ほどかかった。

 で、無事、審査をパス。が、そのあと、結構、作業がたいへんだった。ある程度、HT
ML言語の知識がないと、タグに自分の画像を張りつけることすらできない。その作業を
しながら、「うちのワイフでは、無理だろうな」と思った。

 で、私のホームページにその宣伝文を書いたり、あちこちを訂正したりして、その作業
に、その日の、午前5時から11時までかかった。何と6時間!

 私のばあい、マガジンの購読料を、200円(月額)に設定した。週1回の発行で、3
00〜500円が相場だから、もちろん、最低の価格。その200円から、まずM社が、
40%を、差し引く。残りの代金から、さらに税金なども引かれる。手取り、100円と
いうことか。

 しかし今回、有料マガジンを申し込んでみて、私の心が、大きく変化したのがわかる。「無
料」と、「有料」とでは、緊張感がまるでちがう。当然といえば、当然だが、まるで、ちが
う。

 無料のときは、何となく、書けばいい、出せばいい、という感じだった。しかし有料と
なると、そうはいかない。今もこうして原稿を書いているが、心のどこかで、ツンとした
緊張感を覚える。もっとも、この緊張感があるから、書くのも、楽しい。今は、どこかの 
講演会場で、講演に先立って、主催者に、紹介されているような気分だ。演壇に座って、
自分の時間を待っているような気分だ。

 マガジンの世界は、まさに戦国時代。雨後の竹の子のように新しいマガジンが生まれ、
それと同じ数だけのマガジンが、また消えていく。読者が、100人を超えるまでが、一
苦労。1000人を超えるまでが、これまた一苦労。

 もっとも私のばあい、1000人を超えるまで、読者の数のことは、あまり考えなかっ
た。その実感も、あまりなかった。「500人」と言われても、ピンとこなかった。「10
00人」と言われても、ピンとこなかった。

それ以上に、私は、「1000号まで出す」という目標を、大きくかかげた。……今も、
かかげている。それが、よかったのでは? いつもマイペースで、原稿を書くことがで
きた。

 反対に読者の数を気にしたら、とてもマイペースでは、原稿は書けなかっただろうと思
う。私は、読者が、20〜30人のときから、毎回、A4サイズで20枚分程度の原稿を
書いてきた。

 さて今、Eマガ社での読者数が、1050人くらいになった。ランキングでみると、上
位84番(2・12現在)。こういう私が出しているような、硬派のマガジンで、これだけ
の読者がいるのは、きわめてマレなことだそうだ。

 しかし一言。ここまでこうして原稿を書いてこられたのは、読者のみなさんの、暖かい
理解と励ましがあったからにほかならない。何度もくじけそうになったことがある。しか
しそういうとき、私の文章の微妙な変化をとらえて、励ましてくれた読者が、たくさんい
た。

 もしそういう人の励ましがなかったら、とても今日まで、マガジンの発行を、つづける
ことはできなかったと思う。

 そういう人たちの恩に報いるためにも、これからも、力のつづくかぎり、Eマガと、マ
グマグ(有料版)を、発行していく。

 そうそう、こんな感じもある。

 私は「自由」を口にするようになってから、「ボス」の存在を否定してきた。「私を雇う
ものは、だれもいない」と、偉そうなことを言ってきた。しかし今度、有料版を出すにつ
いて、はじめて、「雇われた」という気分を感じている。

 200円といっても、こういうご時勢。みなさんの負担になるかもしれない。もし「協
力してもよい」ということであれば、どうか、有料版のご購読を、お願いしたい。

 もちろん今までどおり、Eマガ(無料版)を、ご購読くださってもよい。どちらのマガ
ジンでも、はやし浩司は、絶対に、手を抜かない。

(本来なら、「〜です」「〜ます」調で書かねば、ならない文章ですが、どうか、お許しく
ださい。どこか高飛車な感じがするのは、文体によるもので、私の本意ではありません。

たとえば最後のところも、こう書くべきかもしれません。

 「……200円といっても、こういうご時勢ですから、みなさんの負担になることでし 
ょう。「協力してもよい」ということでしたら、どうか、有料版のご購読を、お願いします。

 もちろん、今までどおり、Eマガ(無料版)を、ご購読くださっても、結構です。どち
らのマガジンでも、はやし浩司は、絶対に手をぬきません」と。

 文体によって、ずいぶんと感じがちがうものですね。あとに書いたほうが、今の、私の
気持ちです。これからもよろしくお願いします。)
(040212)

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

最前線の子育て論byはやし浩司(050)

●一人っ子の問題

 よく一人っ子が、話題になる。「一人っ子の問題点は何か?」と。

 もちろん子どもが一人であることによる、問題が、ないわけではない。しかしそれ以上
に、大きな問題は、子どもの問題ではなく、親の問題である。

 よく『子どもも、三人、育てて、親も一人前』という。それはそのとおりで、親も、二
人目、三人目になって、はじめてうまく子育てができるようになる。その一方で、たいて
い、長男(長女)の子育てでは、失敗する。

 手をかける、時間をかける、お金もかける。そして毎日が、不安の連続。「無事、幼稚園
へ入れるだろうか」「無事、小学校へ入れるだろうか」と。

 親を責めているのではない。その親にとっては、何もかも、はじめて。昔なら、そばに
祖父母がいて、あれこれアドバイスしてくれた。しかし、今は、それもない。

 が、二人目、三人目となると、親のほうに、心の余裕ができてくる。何か問題が起きて
も、「まあ、こんなもの」と乗りきることができる。そうした親側の余裕が、一方で、子ど
もを、伸びやかにする。

 つまり、一人っ子は、まさに下に弟や妹がいない、長男もしくは、長女ということにな
る。

 が、ここで誤解してはいけないのは、そのときでも、子どもに問題があるのではなく、
親の育て方に問題があるということ。

 こういう例は、本当に、多い。

 過干渉と溺愛で、ハキのない子どもにしておきながら、「どうしてウチの子は、元気がな
いのでしょう」と相談してくる、親がいる。

 無理や強制を、重ねるだけ重ね、子どもを勉強嫌いにしておきながら、「どうしてウチの
子は、勉強しないのでしょう」と相談してくる、親がいる。

 親は、子どもに何か問題が起きると、その子どもを、何とかしようとする。「なおす」と
いう言葉を使う人も多い。

 しかし問題は、繰りかえすが、子どもにあるのではな。親の育て方にある。どうして、
世の親たちよ、それに気づかない!

 で、一人っ子についても、同じ。一人っ子の問題は、総じて、親の問題と考えてよい。
こんなことがあった。

 小五の女の子に、Rさんという子どもがいた。行動的で、頭もよい。利発で、その上、
性格も安定していた。そのRさんについて、Rさんの母親が、ある日、こう言った。

 「毎日、大喧嘩です。生意気で、私の言うことなど、まったく聞きません。その上、家
では勉強しなくて、困っています」と。

 このケースのばあい、Rさんには、まったく問題はなかった。Rさんの母親は、ほかに、
「今に非行少女になるのでは……」「今に構内暴力事件を起こすのでは……」とも、言って
いた。

 しかしその心配は、まったくなかった。そんなことは、少し子どもを見る目の人なら、
すぐわかる。

 問題は、Rさんの母親にあった。

 Rさんは、親離れを始め、思春期の反抗期にさしかかっていた。この時期、子どもの精
神状態は、いつも緊張した状態になる。ささいなことで、突発的にピリピリしたりする。
むしろ、そうした反抗期のない子どものほうが、心配なのである。

 が、Rさんの母親には、それが理解できなかった。何しろ、「すべてが、はじめての経験」
である。だからRさんのささいな言動をとらえては、母親は、ことおさら大げさに、それ
を悩んだ。問題にした。

 しかも一人っ子ということで、親の関心が、どうしても、その子どもだけに集中してし
まう。つまり日常的に過関心状態になる。

 だから一人っ子のときは、親が過保護傾向にあると、極端な過保護に走りやすくなる。
過干渉、溺愛についても、そうである。

 Rさんのケースでも、Rさんには、何も問題はなかった。問題は、母親にあった。しか
し母親は、それに気づいていなかった。会うたびに、顔を曇らせて、「どうしてでしょう?」
「どうしてでしょう?」と、相談してきた。

 そこで教訓。

 一人っ子のときは、親は、さらに人一倍、子どもについての知識をもたねばならない。
何ごとも、一回かぎりの、まさに一発勝負。子どもにかかわりあう時間が多いだけに、失
敗するときは、失敗する。しかも一度失敗すると、その失敗も、大きい。子どもに対する
期待が大きいと、なおさら、そうだ。

 そして子どもに何かの問題を感じたら、子どもの問題と思うのではなく、親自身の問題
と思うこと。そして「子どもをなおそう」と考えたら、「自分をなおそう」と思うこと。つ
まり一人っ子の問題は、かぎりなく、親自身の問題と考えてよい。
(040212)(はやし浩司 一人っ子 一人っ子の問題)

+++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩


最前線の子育て論byはやし浩司(051)

●ポジティブな指導法

 この浜松市では、黄信号は、「行け、行け信号」と言う。黄信号で、車を止める人は、絶
対にいない。赤信号になっても、隣の車が動き出さなければ、「行け、行け信号」。へたに
黄信号で車を止めようものなら、うしろからブーブーと、クラクションを鳴らされる。あ
るいはうしろの車に追い越される。

 そのため、この静岡県は、交通事故率ナンバーワン。その中でも、この浜松市は、ナン
バーワン。(どういうところを見て、ナンバーワンというかについては、議論もある。これ
については、数か月前のマガジンに書いた。)

 で、その取り締まり風景を、先日、テレビで報道していた。

警察官、赤信号で突っ走ってきたドライバーを止めながら、「何かのことで、急いでいたん
だねえ。時間は、貴重だからねえ。しかしね、あぶないよなあ。信号を無視しちゃあ……。
黄色で止まれなかったのかねえ」と。
と。

 それに答えて、ドライバーが、「すみません。へたに止まると、うしろの車に追突される
もんで……」と。

 なかなかうまい言い方である。いや、警察官の言い方が、である。恐らく、そういうマ
ニュアルか何かが用意してあるのだろう。しかもそのマニュアルは、一級の心理学者によ
って編集されているにちがいない。警察官は、多分、そのマニュアルにそって、そう言っ
た。

 同じようなことだが、子どもを指導するときにも、ネガティブな言い方と、ポジティブ
な言い方がある。

 たとえば子どもが学校のテストで、悪い点を取ってきたとする。子どもの答案用紙を見
ると、ミスだらけ。

 こういうとき、「何よ、この点数は! こんなことでどうするの!」と、子どもを叱るの
は、ネガティブな言い方ということになる。

 一方、「きっと、調子が悪かったんだね。でも、このむずかしい問題ができているから、
点数はよくなくても、あなたはよくがんばったね」と、子どもを諭(さと)すのは、ポジ
ティブな言い方ということになる。

 あるいは点数を見て、「さっさと勉強しなさい。今度の日曜日は、サッカーに行ってはだ
め」というのは、ネガティブな言い方ということになる。

 反対に、「そうね、お母さんといっしょに、この問題を解いてみようか。買い物に行った
ついでに、いっしょに、本でも買ってこようか」というのが、ポジティブな言い方という
ことになる。

 このネガティブな言い方は、子どもを否定し、かえって伸びる芽をつんでしまう。が、
ポジティブな言い方は、相手を前向きに、伸ばす力がある。「親は自分のために、そう言っ
てくれるのだ」と思うからである。

もっとわかりやすく言えば、ポジティブな言い方をすることによって、子どもは心を開
く。開くから、親は、子どもの心の中に、入ることができる。

この「相手の心の中に入る」ということは、とても重要である。説得力が、当然のこと
ながら、まるでちがってくる。

 話はそれるが、私が、南米のある国へ行ったときのこと。向こうの日系人は、私が日本
人と知ると、どの人も、親しげに話しかけてくる。私も、つい心を許して、あれこれ甘え
てしまう。

 これは「同胞である」という意識が、たがいの心を開いたために起こる現象である。

 一方、子どもを病院へつれていくと、たいていの子どもは、その場でかたくなってしま
う。そして一度こういう状態になると、あれこれ説得しても、ムダ。「何かをされるのでは
ないか」と、子どもは、すべてを、疑いの目で見るようになってしまう。

 これは「こわい」という思いが、子どもの心を閉ざしたために起こる現象である。

 そこで相手の心を溶かすためには、一度、相手の心の中に、自分が入るとよい。その一
つの方法が、ここでいうポジティブな言い方ということになる。

 私もその時間がくると、生徒たちに、こう言う。「あれ、もうこんな時間か。もう、そろ
そろ勉強を、始めようか。どうだ、調子は?」と。

 このとき、「さあ、時間だ。サッサと座れ」と言えば、とたんに雰囲気が悪くなる。子ど
もだって、気分を悪くする。

 その点、先の警察官の言い方は、うまい。実にうまい。参考になる。この段階で、警察
官が、「バカヤロー。信号は赤だろ。お前にはそれが見えないのか!」と言えば、相手のド
ライバーは、態度を硬化させてしまう。

 そうなれば、たがいの間は、険悪なものになる。警察官にしても、つぎからつぎへと、
こうしたドラーバーと接しなければならない。いちいちカッカしていては、心がもたない。
仕事そのものが成りたたなくなる。

 そこで警察官は、一度、相手の心の中に入る。「何か、急いでいたんだね」と。

 そう言われたドライバーは、その瞬間に、機先をそがれてしまう。構えていた心が、と
たんに溶かされてしまう。こうなると、あとは、警察官の言うがまま。気持ちよくとまで
はいかないかもしれないが、おとなしく、罰金を払うことになる。(交差点で信号無視をす
ると、6000円の罰金に、原典。念のため。)

 で、これで浜松市の交通事故が減るとは思わない。何しろ、これは浜松市民のいわば、
「質」のようなもの。長い時間をかけてできた「質」。それだけに、簡単にはなおらない。
警察官の努力だけでは、どうにもならないのでは……?

 どうか浜松市の人も、たまに浜松市へ来る人も、交通事故には、くれぐれも、気をつけ
てほしい。ついでに、子どもを指導するときは、ポジティブな言い方にしたらよい。取り
締まりをしている警察官を、テレビで見ていたとき、ふと、そんなことを考えた。
(020412)(はやし浩司 ポジティブ ポジティブな指導 子どもを伸ばす)

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最前線の子育て論byはやし浩司(052)

●ドラ息子について……

 こんな相談があった(掲示板)。

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先生の「ドラ息子」の記事を読みました。
私の息子(小3)も、ドラ息子だと思います。

決められたこと、目標など、何度言ってもやりません。
決められたことは、簡単なことで、たとえば、
学校の手紙を見せるとか、そういうことです。

それで怒ったり、説教をしたり、一緒に考えたり・・・
この半年間、ずっと戦ってきましたが、まったくダメです。

親が強い態度に出ると、一応聞くふりをしますが、約束を、すぐに破ります。
ですが、学校の先生の話はよく聞き、約束なども守ります。

主人は、「そういうときは、相手にしなければいい」と言いますが、
怒られたときの週末は、部屋にこもって、出てこないときもあり、
食事も取らず、お風呂にも入らず、そのまま過ごすこともあります。

それを外で、「ご飯を食べさせてもらえない」と言って、
近所の人にお菓子をもらったり、
落ちている物を、拾って食べたりするので、困っています。

先生、どうしたらよいのでしょう?

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 子どもには、大きく分けて、三つの世界がある。「家庭」を中心とする、第一社会。「学
校」を中心とする、第二社会。それに「友人」を中心とする、第三社会。

 子どもは、これら三つの社会で、自分を使い分ける。とくに、小学三年生という年齢は
、子どもが、親離れを始める時期でもある。たとえば女児でも、それまでは父親といっし
ょに風呂へ入っていたのが、このころになると、急速に、それをいやがるようになる。

第二、第三社会の比重が大きくなるにつれて、家庭の役割も、相対的に小さくなり、同
時に、家庭の役割も変ってくる。

 それまでは家庭は、しつけや教育の場であったのが、この時期になると、家庭は、「憩い
の場」「安らぎの場」と、変ってくる。子どもは、外の世界で疲れた体や心を、家庭の中で、
いやすようになる。

 「学校のことを話さなくなった」というのは、この時期の子どもの変化としては、よく
あることである。

 で、相談の件。

 「ドラ息子かどうか」は、心をみて、判断する。

 ドラ息子症候群については、たびたび書いてきたので、ここでは省略する。(興味のある
人は、私のHPのトップページより、「タイプ別育て方」に進んでほしい。)

 その中でもとくに注意しなければならないのは、心の変化である。たとえば、@他人の
心の動きに鈍感になる(ほかの子どもが悲しんでいても、理解できない)、A他人の心を平
気で、キズつける(「バカ」とか、「アホ」とか、暴言を吐く)、B自己中心的なものの考え
方が、支配的になる(自分以外の人間には、価値がないと思う)など。

 目標が守れない、規則が守れないというのは、広く「退行症状」として考えられている。
もちろんドラ息子にも見られる症状だが、その退行症状があるからといって、ドラ息子と
いうことにはならない。

 (「ドラ息子」というのは、俗に、そう言うだけで、必ずしも、明確な定義があるわけで
はない。要するにわがままで、自分勝手、それに自己中心的な子どものことをいう。)

 この相談の方の子どもがそうであるかないかという話は別として、仮に自分の子どもが
ドラ息子であるとしても、それは子どもの責任ではない。親の責任である。わかりやすく
言えば、家庭教育の失敗が原因。

 そういう失敗の原因を自分に向けることなく、「子どもが悪い」「子どもをなおそう」
「どうしたらいい」と悩んでも、こういうケースでは、ほとんど、意味がない。改めるべ
きは、子どもではなく、家庭教育そのもののあり方である。

 で、母親は、こう言っている。「……ですが、学校の先生の話はよく聞き、約束なども守
ります」と。

 であるとするなら、それほど、問題はないのではないのか。どこの世の中に、今どき、
父親や母親が作った規則や目標を、従順に守る子どもなど、どこにいるだろうか。もしそ
うなら、この世の中、すべてみな、優等生……ということになってしまう!

 気になる点もないわけではない。

・部屋にこもって、出てこないことがある。
・食事も取らず、お風呂にも入らず、そのまま過ごすこともある。
・外で、「ご飯を食べさせてもらえない」と言う。
・近所の人にお菓子をもらう。
・落ちている物を、拾って食べたりする。

 どこか強圧的な家庭環境の中で、子ども自身が、常識をなくしているのではないかと思
われる。自分で考えて、自分で行動するという雰囲気にも、欠けるのでは? とくに、「落
ちているものを、拾って食べる」という点が、気になる。(私は、道路に落ちているものを
食べるというふうに、解釈したが……。)

 子どもへの接し方が、過干渉になっていないかを、反省する。そしてもしそうなら、一
度、子どものリズムに合わせた生活習慣にする。(と言っても、これはたいへんむずかしい。
生活のリズムというのはそういうもので、簡単には変えられない。)

 全体として受ける印象では、この母親は、たいへん親意識(親風を吹かしやすいという
意味で、悪玉親意識)が強いように思われる。自分自身も、そういう家庭環境で育ってき
たからと考えてよい。

 結論としては、この中で、父親が言っている言葉が正解だと思う。(情報量が少ないので、
何とも言えないが……。)

 「そういうときは、相手にしなければいい」。

 へたに相手にするから、子どものほうも、ムキになる。子どもの世界には、こんな鉄則
もある。『男の子のことは、父親に任せ』と。母親にとって、男児は、異性である。その異
性であるという戸まどいが、ときとして、親子関係をギクシャクさせる。

 私は、そのギクシャクした様子を、この母親の家庭に感じる。いくつか参考になりそう
な原稿を、添付しておく。
(040213)

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親子の断絶が始まるとき 

●最初は小さな亀裂

最初は、それは小さな亀裂で始まる。しかしそれに気づく親は少ない。「うちの子に限っ
て……」「まだうちの子は小さいから……」と思っているうちに、互いの間の不協和音は
やがて大きくなる。そしてそれが、断絶へと進む……。

 今、「父親を尊敬していない」と考えている中高校生は五五%もいる。「父親のようにな
りたくない」と思っている中高校生は七九%もいる(『青少年白書』平成一〇年)(※)。

が、この程度ならまだ救われる。親子といいながら会話もない。廊下ですれ違っても、
目と目をそむけあう。まさに一触即発。親が何かを話しかけただけで、「ウッセー!」と、
子どもはやり返す。そこで親は親で、「親に向かって、何だ!」となる。あとはいつもの
大喧嘩!

……と、書くと、たいていの親はこう言う。「うちはだいじょうぶ」と。「私は子どもに
感謝されているはず」と言う親もいる。しかし本当にそうか。そこでこんなテスト。

●休まるのは風呂の中

あなたの子どもが、学校から帰ってきたら、どこで体を休めているか、それを観察して
みてほしい。そのときあなたの子どもが、あなたのいるところで、あなたのことを気に
しないで、体を休めているようであれば、それでよし。あなたと子どもの関係は良好と
みてよい。

しかし好んであなたの姿の見えないところで体を休めたり、あなたの姿を見ると、どこ
かへ逃げて行くようであれば、要注意。かなり反省したほうがよい。ちなみに中学生の
多くが、心が休まる場所としてあげたのが、@風呂の中、Aトイレの中、それにBふと
んの中だそうだ(学外研・九八年報告)。

●断絶の三要素

 親子を断絶させるものに、三つある。@権威主義、A相互不信、それにBリズムの乱れ。


権威主義……「私は親だ」というのが権威主義。「私は親だ」「子どもは親に従うべき」
と考える親ほど、あぶない。権威主義的であればあるほど、親は子どもの心に耳を傾け
ない。「子どものことは私が一番よく知っている」「私がすることにはまちがいはない」と
いう過信のもと、自分勝手で自分に都合のよい子育てだけをする。子どもについても、自
分に都合のよいところしか認めようとしない。あるいは自分の価値観を押しつける。一方
、子どもは子どもで親の前では、仮面をかぶる。よい子ぶる。が、その分だけ、やがて心
は離れる。

相互不信……「うちの子はすばらしい」という自信が、子どもを伸ばす。しかし親が「心
配だ」「不安だ」と思っていると、それはそのまま子どもの心となる。人間の心は、鏡のよ
うなものだ。イギリスの格言にも、『相手は、あなたが思っているように、あなたのことを
思う』というのがある。つまりあなたが子どものことを「すばらしい子」と思っていると、
あなたの子どもも、あなたを「すばらしい親」と思うようになる。そういう相互作用が、
親子の間を密にする。が、そうでなければ、そうでなくなる。

リズムの乱れ……三つ目にリズム。あなたが子ども(幼児)と通りをあるいている姿を、
思い浮かべてみてほしい。(今、子どもが大きくなっていれば、幼児のころの子どもと歩い
ている姿を思い浮かべてみてほしい。)そのとき、@あなたが、子どもの横か、うしろに立
ってゆっくりと歩いていれば、よし。しかしA子どもの前に立って、子どもの手をぐいぐ
いと引きながら歩いているようであれば、要注意。今は、小さな亀裂かもしれないが、や
がて断絶……ということにもなりかねない。

このタイプの親ほど、親意識が強い。「うちの子どものことは、私が一番よく知っている」
と豪語する。へたに子どもが口答えでもしようものなら、「何だ、親に向かって!」と、
それを叱る。そしておけいこごとでも何でも、親が勝手に決める。やめるときも、そう
だ。

子どもは子どもで、親の前では従順に従う。そういう子どもを見ながら、「うちの子は、
できのよい子」と錯覚する。が、仮面は仮面。長くは続かない。あなたは、やがて子ど
もと、こんな会話をするようになる。親「あんたは誰のおかげでピアノがひけるように
なったか、それがわかっているの! お母さんが高い月謝を払って、毎週ピアノ教室へ
連れていってあげたからよ!」、子「いつ誰が、そんなこと、お前に頼んだア!」と。

● リズム論

子育てはリズム。親子でそのリズムが合っていれば、それでよし。しかし親が四拍子で、
子どもが三拍子では、リズムは合わない。いくら名曲でも、二つの曲を同時に演奏すれ
ば、それは騒音でしかない。

このリズムのこわいところは、子どもが乳幼児のときに始まり、おとなになるまで続く
ということ。そのとちゅうで変わるということは、まず、ない。たとえば四時間おきに
ミルクを与えることになっていたとする。そのとき、四時間になったら、子どもがほし
がる前に、哺乳ビンを子どもの口に押しつける親もいれば、反対に四時間を過ぎても、
子どもが泣くまでミルクを与えない親もいる。

たとえば近所の子どもたちが英語教室へ通い始めたとする。そのとき、子どもが望む前
に英語教室への入会を決めてしまう親もいれば、反対に、子どもが「行きたい」と行っ
ても、なかなか行かせない親もいる。こうしたリズムは一度できると、それはずっと続
く。子どもがおとなになってからも、だ。

ある女性(三二歳)は、こう言った。「今でも、実家の親を前にすると、緊張します」と。
また別の男性(四〇歳)も、父親と同居しているが、親子の会話はほとんど、ない。ど
こかでそのリズムを変えなければならないが、リズムは、その人の人生観と深くからん
でいるため、変えるのは容易ではない。

●子どものうしろを歩く

 権威主義は百害あって一利なし。頭ごなしの命令は、タブー。子どもを信じ、今日から
でも遅くないから、子どものリズムにあわせて、子どものうしろを歩く。横でもよい。決
して前を歩かない。アメリカでは親子でも、「お前はパパに何をしてほしい?」「パパはぼ
くに何をしてほしい?」と聞きあっている。そういう謙虚さが、子どもの心を開く。親子
の断絶を防ぐ。

※ ……平成一〇年度の『青少年白書』によれば、中高校生を対象にした調査で、「父親を
尊敬していない」の問に、「はい」と答えたのは五四・九%、「母親を尊敬していない」
の問に、「はい」と答えたのは、五一・五%。また「父親のようになりたくない」は、
七八・八%、「母親のようになりたくない」は、七一・五%であった。

この調査で注意しなければならないことは、「父親を尊敬していない」と答えた五五%

の子どもの中には、「父親を軽蔑している」という子どもも含まれているということ。また、
では残りの約四五%の子どもが、「父親を尊敬している」ということにもならない。この中
には、「父親を何とも思っていない」という子どもも含まれている。白書の性質上、まさか
「父親を軽蔑していますか」という質問項目をつくれなかったのだろう。それでこうした、
どこか遠回しな質問項目になったものと思われる。

(参考)
●親子の断絶診断テスト 

 最初は小さな亀裂。それがやがて断絶となる……。油断は禁物。そこであなたの子育て
を診断。子どもは無意識のうちにも、心の中の状態を、行動で示す。それを手がかりに、
子どもの心の中を知るのが、このテスト。

あなたは子どものことについて…。

★子どもの仲のよい友だちの名前(氏名)を、四人以上知っている(0点)。
★三人くらいまでなら知っている(1点)。
★一、二人くらいなら何となく知っている(2点)。
★ ほとんど知らない(3点)。


学校から帰ってきたとき、あなたの子どもはどこで体を休めるか。

★親の姿の見えるところで、親を気にしないで体を休めているる(0)。
★ あまり親を気にしないで休めているようだ(1)。
★親のいるところをいやがるようだ(2)。
★ 親のいないところを求める。親の姿が見えると、その場を逃げる(3)。


「最近、学校で、何か変わったことがある?」と聞いてみる。そのときあなたの子どもは
……。

★学校で起きた事件や、その内容を詳しく話してくれる(0)。
★少しは話すが、めんどう臭そうな表情をしたり、うるさがる(1)。
★いやがらないが、ほとんど話してくれない(2)。
★即座に、回答を拒否し、無視したり、「うるさい!」とはねのける(3)。


何か荷物運びのような仕事を、あなたの子どもに頼んでみる。そのときあなたの心は…。

★いつも気楽にやってくれるので、平気で頼むことができる(0)。
★心のどこかに、やってくれるかなという不安がある(1)。
★親のほうが遠慮し、恐る恐る……といった感じになる(2)。
★拒否されるのがわかっているから、とても頼めない(3)。


休みの旅行の計画を話してみる。「家族でどこかへ行こうか」というような話でよい。
そのときあなたの子どもは…。

★ふつうの会話の一つとして、楽しそうに話に乗ってくる(0)。
★しぶしぶ話にのってくるといった雰囲気(1)。
★「行きたくない」と、たいてい拒否される(2)。
★家族旅行など、問題外といった雰囲気だ(3)。


15〜12点…目下、断絶状態
11〜 9点…危険な状態
8〜 6点…平均的
5〜 0点…良好な関係

++++++++++++++++++++++++

●ドラ息子症候群

 英語の諺に、『あなたは自分の作ったベッドの上でしか、寝られない』というのがある。
要するにものごとには結果があり、その結果の責任はあなたが負うということ。こういう
例は、教育の世界には多い。

 子どもをさんざん過保護にしておきながら、「うちの子は社会性がなくて困ります」は、
ない。あるいはさんざん過干渉で子どもを萎縮させておきながら、「どうしてうちの子はハ
キハキしないのでしょうか」は、ない。もう少しやっかいなケースでは、ドラ息子という
のがいる。M君(小三)は、そんなタイプの子どもだった。

 口グセはいつも同じ。「何かナ〜イ?」、あるいは「何かほシ〜イ」と。何でもよいのだ。
その場の自分の欲望を満たせば。しかもそれがうるさいほど、続く。そして自分の意にか
なわないと、「つまんナ〜イ」「たいくツ〜ウ」と。約束は守れないし、ルールなど、彼に
とっては、あってないようなもの。他人は皆、自分のために動くべきと考えているような
ところがある。

 そのM君が高校生になったとき、彼はこう言った。「ホームレスの連中は、人間のゴミだ」
と。そこで私が、「誰だって、ほんの少し人生の歯車が狂うと、そうなる」と言うと、「ぼ
くはならない。バカじゃないから」とか、「自分で自分の生活を守れないヤツは、生きる資
格などない」とか。こうも言った。

「うちにはお金がたくさんあるから、生活には困らない」と。M君の家は昔からの地主
で、そのときは祖父母の寵愛を一身に集めて育てられていた。

 いろいろな生徒に出会うが、こういう生徒に出会うと、自分が情けなくなる。教えるこ
とそのものが、むなしくなる。「こういう子どもには知恵をつけさせたくない」とか、「も
っとほかに学ぶべきことがある」というところまで、考えてしまう。そうそうこんなこと
もあった。

受験を控えた中三のときのこと。M君が数人の仲間とともに万引きをして、補導されて
しまったのである。悪質な万引きだった。それを知ったM君の母親は、「内申書に影響す
るから」という理由で、猛烈な裏工作をし、その夜のうちに、事件そのものを、もみ消
してしまった。そして彼が高校二年生になったある日、私との間に大事件が起きた。

 その日私が、買ったばかりの万年筆を大切そうにもっていると、「ヒロシ(私のことをそ
う呼んでいた)、その万年筆のペン先を折ってやろうか。折ったら、ヒロシはどうする?」
と。そこで私は、「そんなことをしたら、お前を殴る」と宣言したが、彼は何を思ったか、
私からその万年筆を取りあげると、目の前でグイと、そのペン先を本当に折ってしまった!
 

とたん私は彼に飛びかかっていった。結果、彼は目の横を数針も縫う大けがをしたが、
M君の母親は、私を狂ったように責めた。(私も全身に打撲を負った。念のため。)「ああ、
これで私の教師生命は断たれた」と、そのときは覚悟した。

が、M君の父親が、私を救ってくれた。うなだれて床に正座している私のところへきて、
父親はこう言った。「先生、よくやってくれました。ありがとう。心から感謝しています。
本当にありがとう」と。

(はやし浩司 ドラ息子 親子の断絶 断絶)

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

最前線の子育て論byはやし浩司(053)

●夢と希望、そして目的

・泣き崩れた母
 
「人はパンのみにて生くるにあらず」と言ったのは、イエスだが、そのとおり。ただ生き
ているだけでは、本当に生きているとは、言えない。

 人が生きるためには、夢や希望と、そして目的が、必要である。反対に、パンがなくて
も、人は、夢や希望、それに目的があれば、生きていかれる。仮にそれで命を落すことが
あっても、悔いはない。

 そのため人は、生きながら、同時に、そのつど、夢や希望、そして目的をさがす。どん
な絶望のどん底に落とされても、そのどん底で、夢や希望、そして目的をさがす。それは
生きることにまつわる、最後の砦(とりで)のようなものではないか。この砦を失えば、
その人を待っているのは、もはや「死」でしかない。

 私が母に、「浩ちゃん、あんたは道を誤ったア!」と、言われたとき、私は、まさに絶望
のどん底へと、叩き落とされた。私が「幼稚園で働く」と言ったときのことだ。母は、そ
う言って、電話口の向こうで、泣き崩れてしまった。

 その夜のこと。私は、道を歩きながら、「浩司、死んではだめだ」と、自分に自分で言っ
て聞かせねばならなかった。当時の常識では、(今でも、そうだが……)、総合商社をやめ
て、幼稚園の講師になるということは、考えられなかった。
 
 (今でこそ、保育士という資格が認められているが、当時は、保母、つまり女性しか、
保育士にはなれなかった。保父が認められたのは、私が三〇歳くらいのときだった。)

・しかしオーストラリアの友人は……

 その私が、最後の砦を失わなかったのは、オーストラリアの友人たちが、励ましてくれ
たからにほかならない。D君(現在、M大教授)は、こう言った。「浩司、すばらしい選択
だ」と。つまり彼のその言葉が、私にとっては、まさに「希望」だった。

 そこで私はいつしかこう心に決めた。「じゅうぶん、お金がたまったら、オーストラリア
へ移住しよう」と。そのころの私には、日本に対する未練は、もうなかった。今から思う
と、それが私にとって、「夢」であり、「目的」だったかもしれない。私は、それにしがみ
ついた。

 ところで今、私は、老後の夢や希望、そして目的をさがし求めている。つまりそれは、「こ
れからの老後をどう生きていこうか」という問題でもある。

 仮に今、年金生活者になって、年金だけで生きている人を、私はうらやましいとは思わ
ない。現に近所にも、そういう人がいる。毎日、何かをするでもなし、しないでもない。
一日中、家の内と外で、ブラブラしている。

 来客も、ほとんど、ない。しかし自分の家の前に、だれかが無断で車を駐車したりする
と、写真をとって、警察へ届ける。あるいはパトカーを呼ぶ。その車に張り紙をする。

 私は、いくら悠々自適な年金生活とは言っても、そういう老後が決して、理想的な老後
だとは、思わない。思わないばかりか、そういう老人をかわいそうにすら思う。

 そういう老人にとっての夢とは何か。希望とは何か。そして生きる目的とは何か。

・私の変化

 私のばあい、このところ何をしても、「今さら……」という思いが強くなったように思う。
仮に夢や希望、そして目的らしきものをもったとしても、「それがどうなんだ」とか、「だ
からどうしたんだ」とか、そんなふうに考えてしまう。そして、その先の先まで、自分で
見てしまう。

 その点、恩師のT教授は、すばらしい。五〇歳を過ぎたころから、中国語の勉強を始め
た。そしてあの中国で、日本人を代表して、いくつかの国際会議で、中国語で、講演まで、
している。私がしている講演などとは、スケールがちがう。

 しかし今となってみると、そのときは、すごいことだと、あれほど強烈に思ったはずな
のに、やはり、「それがどうした……?」と、思ってしまう。夢や希望、そして目的は、生
きるためには必要だとはわかっているが、その夢や希望、そして目的が、年齢とともに、
質的に変化してしまった?

 たとえば若いときは、歌手になり、一躍有名になって……と、考える。ある子ども(小
5)は、いつか、こう言った。「ぼくの夢は、スーパーマンになることだ」と。そして「ス
ーパーマンになれたら、三〇歳で死んでもいい」と。

 ちょうどそのころ、私はその三〇歳だったから、その言葉を聞いて、驚いた。そしてそ
の子どもに、こう言った。

 「あのな、三〇歳なっても、人生は、ここにあるんだよ」と。

 そう、何歳になっても、人生は、ここにある。どこにも、ない。ここにある。が、夢や
希望、そして目的だけが、どんどんと、勝手に変わっていってしまう。それまで夢や希望、
それに目的だったものが、そうでなくなってしまう。

・ひとつの選択

 そこで人は、一つの選択に迫られる。

 夢や希望、そして目的を、さがし求めつづけるか。さもなければ、放棄するか、と。

 夢や希望、そして目的を放棄することは、それほど、むずかしいことではない。要する
に、ノーブレインになればよい。もっとわかりやすく言えば、バカになればよい。何も考
えずに……。ただひたすら、毎日、同じことだけを繰りかえせばよい。

 しかし、私には、それができない。つまり選択としては、私は、自分で、夢や希望、そ
して目的をさがしつづけるしかない。

 そういう視点で、今の自分をながめてみる。私にとっての、夢や希望、そして目的とは
何か、と。

 ……目を閉じて静かに、暗い空間を思いやると、そこに見えてくるのは、荒涼たる原野
だけ。心の原野。

 私はその手前に立って、その原野を見つめている。方向を示すものは、何もない。地上
のように、原野を照らす太陽もない。

 そういう世界では、夢や希望など、もうないのかもしれない。しかし目的はないわけで
はない。ただひたすら毎日歩いて、前に進むこと。一歩でも、先へ進むこと。そう、夢や
希望ということになれば、その途中で、それまで知らなかったことを、見つけることかも
しれない。

 実際、それまで知らなかったことを発見するのは、実に、スリリングで楽しい。おもし
ろい。それはたとえて言うなら、恐竜学者が、どこかで恐竜の骨を見つけるようなもので
はないか。あるいはもっと身近な例では、魚を釣っている人が、それまでに見たこともな
い、珍しい魚を釣るようなものではないか。

 が、ここにも大きな限界がのしかかってくる。

・もう時間がない!

 私はそれを楽しむというよりは、いつも時間に追われているような気分になる。脳の老
化は、自分でもわかる。ボケることは、今のところなさそうだが、明日あたり、ひょっと
したら脳梗塞(こうそく)か何かになるかもしれない。もしそうなれば、私は、その最後
の砦すら、失うことになる。

 若い人にとっては、夢や希望、そして目的は、華やかに明るく輝くものだが、しかし、
年をとると、それらは、急速に輝きを失う。しかしいくら輝きを失っても、私はそれを放
棄することはできない。そういう意味では、今は、模索のとき。心の転機のとき。

 それはまさしく、私にとっては、生きるための戦いと言ってもよい。
(040213)

【追記】

 たまたま私の横にいた、中学二年生の女の子に、こう聞いてみた。「君の夢はなにか?」
と。

 すると、その女の子は、こう言った。「……とお……、何とは決まっていなんだけど、舞
台に立つのが好きだったから、(おとになったら)、その舞台にかかわって生きたい」と。

 私は「なるほど……」と言って、そのまま黙った。

+++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩
司 

最前線の子育て論byはやし浩司(054)

●なおった? 

 私たちの世界では、それとわかっていても、診断名をつけることは、タブーになってい
る。たとえばその子どもが、「〜〜症」とわかっていても、それを口にすることはできない。
これは当然のことである。

 ただ親から相談があったときは、「〜〜症ではないと思います」というような否定的な意
見を言うことは、許される。

 しかしこんな仕事を34年もしていると、その子どもが、「〜〜症」であるかどうかは、
その子どもに会った瞬間にわかる。

 で、その子ども(年中男児)が、そうだった。F君といった。

 会った瞬間、かん黙児とわかった。柔和な笑みを浮かべてはいたが、決して心を開こう
とはしなかった。みなが笑ったり、はしゃいだりするときも、じっとそれを怪訝(けげん)
そうに見ているだけ。

 こういうケースでは、まず親に、それとなく、子どもの心の(ふつうでなさ)を理解し
てもらわねばならない。しかしこれがむずかしい。

 どんな親も、いわば白紙の状態で、子育てを始める。白紙であることが悪いというので
はない。そういった指導を受けたことがないのだから、これは当然と言えば、当然である。
そのために、私のような人間がいる。

 しかし親の理解と協力がなければ、このタイプの子どもの指導は、うまくいかない。た
とえば教室で、子どもがかん黙症状を示したりすると、たいていのばあい、親のほうが先
に怒り出してしまう。「どうして、話せないの!」と。

 あるいはその矛先を、私に向けてくることがある。「あなたは、うちの子ども指導には、
向いていない」と。少し前だが、「うちの子を、あんな子にしてしまった!」と怒ってきた
父親すら、いた。(ホント!)

 無知ほど、こわい敵はない。

 で、F君も、そうだった。しかしそのF君のばあい、お母さんが、たいへん忍耐強い人
だった。(……と思う。)そういうF君を見ながら、いつも「そのうち……」と考えていた。
そして私には、いつも「ありがとうございます」と、深々と頭をさげていた。

 私は、F君を笑わすことだけに全力を注いだ。みなが腹をかかえて笑わせる。そのウズ
の中に、F君を巻きこむようにした。

 しかしかん黙症が、それでなおるということは、まず、ない。なおる時期を早めること
はあっても、それにも一年以上はかかる。

 が、である。そのF君が、(なおった!)、のである。

 私は、「小学校に入るまでに、なおればいい」と思っていた。が、一年を待たずして、F
君が、しゃべりだしたのである。これには、私も驚いた。ある日、ふと気がつくと、その
F君が、みなといっしょに、しゃべっていたのである。

 そしてみながドッと笑うようなとき、決して大声ではないが、自分も、いっしょに笑っ
ていた。しかもどこか意味のわからない笑みではなく、表情をこまかく変えながら、明ら
かに笑っていた!

 そのとき、私は、うれしかった。本当にうれしかった。 

 ……で、こう書くのは、たいへん危険なことは、よく承知している。しかし、私は、「笑
うことには、不思議な力が隠されている」と、改めて実感した。

 私の教室では、その「笑い」を、何よりも、大切にしている。「教える」のではなく、子
どもを「笑わせる」のである。こうした笑いのもつ不思議な力は、これから先も、大脳生
理学の分野で研究されるのだろうが、ここでは、その事実だけを、書きとめておくことに
する。
(040214)

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

最前線の子育て論byはやし浩司(055)

【近況・あれこれ】

●またまた暴論!

 以前、こんなことを書いた、どこかの教授がいた。

○ 墓参りしたら、故人の遺骨を見せろ。子どもに生命の尊さを教える、よい機会である。
○ 夫婦喧嘩は子どもに見せろ。意見の対立を教えるのに、よい機会である。
○ 親子のきずなを深めるために、遊園地では、わざと子どもを迷子にせよ。
      (以上、100万部を超えるベストセラー書をもつ、T教授)
○ 子どもには、ナイフを渡せ。子どもを信頼しているという証(あかし)になる。
      (日本でも、著名な、S評論家)

 とんでもない暴論であることは、一読してわかる。

 そしてまたまた最近……。今度は、「絵本は、暗闇で読んでやれ」などということを書い
た本を出版した元教授がいる。

 何も、私が正しくて、彼らがまちがっているというのではない。ただ、こういうことは
言える。

 幼児教育をしたこともない連中が、こうしたメチャメチャな本を書くのだけは、やめて
ほしい。どこかの研究室の奥にひっこんで、想像だけで幼児教育を考えると、こういう本
を書く。

 それともあなたは、どこかの大学の教授が、(助教授でも、講師でもよいが……)、幼稚
園や保育園で、園児を直接指導している姿を見かけたことがあるとでも、言うのだろうか。

 多分、その元教授は、「暗闇という、空想のキャンバスに、子どもが自由に空想の絵がか
けるように……」という思いから、そう書いたのだろう。しかしその元教授は、本当に、
そういう指導をしたことがあるのだろうか。だいたいにおいて、親は、その暗闇の中で、
どうやって本を読むというのだろうか。

 あるいは、もしそうなら、昼間に本を読んで聞かせることは、まちがっていることにな
るのだろうか?

 こういう否定的なことばかりを書いては、意味がない。そこで私の意見。

 もし子どもに本を読んでやるなら、それをテープレコーダーに録音しておくとよい。子
どもは、それを繰りかえし聞くことで、内容を、暗記してしまう。またこれにまさる国語
教育は、ない。

 その方法なら、たとえば子どもが床についたあと、暗闇の中で、子どもに聞かせること
ができる。また親も、楽だ。つまりそういう指導なら、私にもわかる。

 この方法は、すばらしい。私の三男だったが、小学一年生くらいのとき、芥川龍之介の
「高瀬舟」をテープに読んで録音してやったことがある。あの難解な「高瀬舟」である。

 最初は、軽い実験のつもりだった。しかし二、三か月後には、三男は、そのほぼ全文を、
ソラで言うようになってしまった。これには、私も驚いたが、朗読には、そういう力もあ
る。

 子どもに本を読んでやるときは、子どもを、ひざに抱いて、暖かい息を吹きかけながら
読んでやるのがよい。明るいとか、暗いとか、それは重要な要素ではない。実際には、親
も忙しい。

 そういうときは、テープレコーダーを利用すればよい。

++++++++++++++++++++

【Eマガ、メルマガ、「子育て最前線の育児論」を、ご愛読くださっている、読者のみなさ
んへ……】

 いつも、小生発行のマガジンをご購読くださり、感謝しています。早いもので、このマ
ガジンも、360号を超えました。ほとんど、一日おきに配信してきましたので、この間、
約二年ということになります。

 これも、みなさんの暖かい声援と、励ましがあったからだと、心から感謝しています。

 ありがとうございました。

 で、このたび、マグマグ社から、「子育て最前線の育児論」の、プレミア(有料)版を、
発刊することになりました。マグマグ社というのは、日本でも、もっとも信用のおけるマ
ガジンスタンドです。

 つきまして、もしよろしかったら、プレミア版をご購入していただけないものかと思い、
このようなご案内を、させていただくことにしました。

 定価は、月額、200円です。

 プレミア版のほうでは、できるだけ、つまり時間が許すかぎり、HTML版(写真やイ
ラスト)を添えて、みなさんに、マガジンをお届けしたいと考えています。またHTML
版も、本格的なしあがりになるよう、目下、創刊号発刊に向けて、準備をつづけています。
読者のみなさんに、きっと、ご満足いただけるものになると、確信しています。

 なお、最初の一か月は、「試し購読期間」ということで、購読料は、無料になっています。
お気に召さなければ、同じ登録コーナーで、簡単に解約できるようになっています。

 そんなわけで、一度、ご購入ご登録をしていただけないものかと思っています。時節柄、
何かと心苦しいですが、よろしくお願い申しあげます。

 今後とも、なおいっそう、内容を充実させ、みなさんのご期待にそえるよう、努力いた
します。よろしくご理解の上、ご協力くださいますよう、お願いします。

 マグマグ・プレミア版の詳しい内容などにつきましては、下の各ページをごらんくださ
れば、うれしく思います。何か、おわかりにならないようなことがあれば、はやし浩司ま
で、メールをください。喜んでお答えいたします。

  マグマグ・プレミア申し込みコーナー…… 
      http://bwhayashi.cool.ne.jp/page034.html

  マグマグ・プレミアQ&Aコーナー……
      http://bwhayashi.cool.ne.jp/page034.html

  マグマグ・プレミアHTML版(サンプル)……
http://bwhayashi.cool.ne.jp/page039.html


  (注、マグマグ・プレミア版では、TEXT版が基本です。)

 では、みなさんの、ご登録を、心よりお待ちしています。どうk、どうか、よろしくお
願いします。

                                はやし浩司

+++++++++++++++++++++

【マグマグ有料マガジン、創刊のごあいさつ】(創刊号巻頭より)

 創刊号から、マグマグ版「子育て最前線の育児論BYはやし浩司」を、ご購読くださり、
ありがとうございます。みなさんを、私の一生の友として、皆さんのご家庭での子育てを、
側面から支援することを、ここに約束します。(大げさではなく、本気です。)

 このマグマグ版には、私自身の子育て論の集大成として、私の知識とノウハウ、それに
私がしてきた経験の、すべて注ぎます。どうかご期待ください。これから先、長いおつき
あいになると思いますが、どうか、末永く、ご購読くださいますよう、お願いします。

 今まで、無料版をご愛読くださっていた方も多いと思いますが、この有料版のほうは、
「有料である」という点で、それから受ける私の緊張感は、まるでちがいます。

 たとえば発行予定日に、マガジンを発行しなかったりすると、このマガジンは、登録が
取り消されたりします。ほかにも、いろいろ罰則があります。が、それだけではありませ
ん。

「有料」という言葉の重みというか、それからくる責任感を、私はズシリと感じていま
す。今までも、決していいかげんなことを書いてきた覚えはありませんが、しかし今ま
で以上に、いいかげんなことは書けないという思いにかられています。こうした重みを、
何らかの形で、マガジンの中に反映できればと願っています。

なお、有料マガジンは、休祭日をのぞいた、毎週月、水、金曜日に配信します。毎回、
できるだけHTML版をそえるつもりでいます。写真やイラストも、そちらで楽しんで
いただけるようになっています。

 これから先、重ねて、よろしくお願いします。

                            はやし浩司

【追記】

 マグマグ・プレミアム(有料版)は、今までのマガジンとは、発行形式がちがうため、
しばらくの間、何かと、失敗があるかもしれません。

たとえば今まではWORDで文書を作って、それを張りつけるだけでしたが、こちら
はTEXT版で直接、張りつけなければなりません。TEXT版で文章を書くというのは、
私にとっては、はじめての経験です。

 どうかご理解の上、そういう失敗があっても、お許しください。漸次(ぜんじ)、改善し
てまいります。

+++++++++++++++++

★3月1日(創刊号)の主なメニュー★

● 子育てポイント
● 特集
● 世にも不思議な留学記(HTML版のみ)
● 心を考える
● 今、考えていること

HTML版のほうでは、そのつど、あちこちでとってきた写真や
孫の誠司(現在満1歳と6か月)の写真などを、載せます。どう
か、お楽しみに!

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司


最前線の子育て論byはやし浩司(056)

●文字で絵を描く

 今まで、Eマガ社のほうで、無料マガジンを発行してきた。

 で、そのマガジンのイラストには、パナソニック・パソコン付録の、フリー・イラスト
を流用させてもらってきた。無料マガジンだったから、それで問題はなかった。が、有料
マガジンのほうでは、それをそのまま使うことはできない。「販売」行為にあたるからであ
る。

 そこで新しく、「まぐまぐ・プレミア(有料版)」のために、イラストを考えなくては、
ならなくなった。何しろ、しばらく、私のマガジンの看板になるイラストだから、……と
意気ごむこともない。

 この作業が、けっこう、楽しかった。まだ試作段階だが、こんなのを、考えてみた。

    
  mQQQm
Q ⌒ ⌒ Q  ♪♪♪……
QQ ∩ ∩ QQ
 m\ ▽ /m 彡彡ミミ
         ⌒ ⌒        
 みなさん、   o o β      
  こんにちは!(″ ▽ ゛  ○    
         =∞=  // 
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子育て最前線の育児論byはやし浩司   04年 月 日(No. )
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HTML(カラー・写真)版もどうぞ! (毎週月・水・金発行)

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(1)子育てポイント**************************

(2)今日の特集  **************************

(3)心を考える  **************************

(4)今を考える  **************************
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 はやし浩司のホームページ http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/
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Planned & edited, and all copyrights are reserved by Hiroshi Hayashi
          bwhayashi@vcs.wbs.ne.jp
                     
                       *※※
※※  ***※
*※※…※}※**   
                       **++ ※))
                       {※}※※ /
                        ※*… /mQQQm
                      **/| |Q ⌒ ⌒ Q  Bye
                        = | QQ ∩ ∩ QQ
!   m\ ▽ /m
   〜=〜
                            ○ 〜〜〜○
=========================
    どうか、みなさん、お元気で!
  ===========================

いわばこれがマガジンの原稿用紙ということになる。この原稿用紙をコピーして、あと
はそれに毎回、原稿を張りつけていけばよい。


●わけがわかなア〜い!

 2月14日、日朝会談が、終わった。日本側は、拉致(らち)家族を、日本へ返せと主
張したという。

それに対して、K国は、@「拉致問題を六か国協議で取りあがるなら、日本の参加を断
固、拒否する」、A「日本の植民地時代の朝鮮人強制連行に対する、謝罪と補償を求める」、
B「K国を脱出して日本に戻った日本人妻や、元在日朝鮮人の送還を、日本側に要求する」
と、主張したという(中日新聞)。

 この中で、とくにわからないのが、三番目である。K国は、「K国を脱出した、日本人妻
や元在日朝鮮人を、K国へ返せ」と言ったという。

 私はこの要求に、「?」マークを、10個くらい、つけたい。

 日本から出たくもない人たちを、K国は、拉致して、K国へ連れていった。それが今、
問題になっている。が、それに対して、K国は、K国がいやで、K国を脱出した人を、「返
せ」と。

 K国が、日本より、すばらしい国なら、まだ話もわかる。しかしこの一月には、140
万人、二月に入ると、300万人に対する、食糧配給が止まったという。さらに3月には、
600万人もの人たちに対して、食糧配給が止まるだろうと言われている(WFP)。

 そういうK国である。

 私は、このニュースを読みながら、こう考えた。

 人間の意識というのは、狂うときには、狂う。しかもその狂ったとき、それに気づく人
は、まず、いない、と。

 言いかえると、今、私やあなたがもっている意識ですら、絶対的ではないということ。
まちがっているとまでは言わないが、しかし疑ってみる価値は、じゅうぶん、ある。

 こんなことがあった。

 ある夫(45歳)は、ある日、妻に向って、こう言ったという。「母をとるか、お前を(妻)
をとるかと言われれば、オレは、母をとる。文句があるなら、お前なんか、この家から出
て行け」と。

 ふつう、マザコン性のある男性が、そのマザコン性に気がつくことは、まず、ない。マ
ザコン的であることを、自ら、正当化する。正当化しながら、「私は、親思いのいい子ども」
と、思いこむ。

 それは確信というより、信仰に近いものである。

 私は、このタイプの男性を、数多く、知っている。しかし意識というのは、そういう意
味で、恐ろしい。ときとして、自分の姿を見失ってしまう。

 一方、親は、親で、こんな親がいた。

 息子が結婚式をあげた夜、その母親は、「悔しくて、悔しくて、眠れなかった」と言った。

 その母親は、息子を、嫁に取られたと思ったらしい。実際、そういうふうに思う親は、
少なくない。娘が結婚したことについて、「娘を取られた」と思う父親となると、いくらで
もいる。

 そこで少しだけ、あなたの意識を、のぞいてみてほしい。

 あなたの息子(娘)が、いつか結婚して家を出て行くとき、あなたはそれを、@巣立ち
と思って、せいせいするだろうか。それともA親を捨てたと感じて、それを嘆き悲しむだ
ろうか。

 この二つは、極端なばあいだが、どちらに近いかということ。もちろん、その中間もあ
る。

 で、ここでは、どちらであるかは、問題ではない。どちらが正しいかも、問題ではない。
世の中には、@のような意識をもつ人もいるということ。その一方で、Aのような意識を
もつ人もいるということ。
  
 問題は、そうした意識の対立が起きると、たがいの立場が、まったく理解できなくなる
ということ。それこそたがいに、「?」マークを、10個くらいつけあう。

 そこで冒頭のK国の話。

 恐らく……というより、まちがいなく、K国の高官たちには、日本人が今もっている意
識を、理解できないだろうということ。日本人が、なぜ拉致被害者の家族を返せと言って
いるのかも、理解できないだろう。ちょうど、私たちが、K国の高官の意識が理解できな
いように、である。

 私は、日朝会談のニュースを読みながら、「子育ての場でも、同じようなことはよくある」
と思った。それについては、またの機会に書くことにして、こういう問題で大切なことは、
ときどきは、自分とちがった意識をもっている人の立場で、ものを考え、相手の意識を理
解しなければならないということ。

 それができる人を、賢者といい、それができない人を、愚者という。……と書いてみた
が、今の私には、いくら頭を働かせても、K国の高官たちの考えていることが、どうにも、
こうにも、理解できない。わからなア〜イ。
 

●環境論

 なぜ受験生が、受験勉強をするかといえば、それは、自分の周囲の「環境」を変えたい
からである。中学生は、中学生であるという環境を、高校生は、高校生であるという環境
を、それぞれ変えたいからである。

 どこか突飛もない話に聞こえるかもしれないが、「変えられない」立場で、考えてみると、
それがよくわかる。

 A君(小学六年生)は、それなりに勉強がよくできた。水泳が得意で、水泳の世界では、
よく市の大会や、そしてときどき、県の大会にも、顔を出した。が、それほど、頭のキレ
る子どもではなかった。

 が、父親と母親は、そんなA君の能力を誤解した。

 受験が近づくと、進学塾へ入れ、さらに家庭教師を二人つけた。が、A君は、とたんに
オーバーヒート。家庭教師をしたX氏(30歳くらい)の話によると、その時間の間、何
かをするでもなし、しないでもない、ただダラダラと時間をつぶしていたという。

 で、結果は、無残なものだった。

 S中学の入試に失敗し、つづいて、A中学の入試にも失敗した。この時期の子どもには、
過酷過ぎるほどの経験である。A君は、とたんに、無気力状態になってしまった。つまり
「環境」に対して戦う気力をなくしてしまった。

 こういうのを心理学では、「学習性無気力症状」という。何度か失敗を重ねるうち、「環
境」にのみこまれてしまう。

 こうして多くの人は、環境に対して従順な人間へと、なっていく。昔の言葉を借りるな
ら、「もの言わぬ従順な民」へと、育てられていく。

 実は、教育のこわいところは、ここにある。「伸ばす」というよりも、その一方で、子ど
もに容赦なく、「あきらめ」を押しつけていく。そして無意識であるにせよ、子ども自身も、
自ら、「ダメ人間」のレッテルを張っていく。

 それはそれとして、私が言う「環境」というのは、そういう意味である。子どもたちに
は、子どもたちを包む環境がある。そしてどんな子どもも、その環境を自ら、変えたいと
思っている。

 受験勉強は、まさに、その一つの現れでしかない。スポーツでがんばる子どもも、そう
だし、非行グループに入って、暴力行為を繰りかえす子どもだって、そうだ。あなただっ
て、私だって、そうだ。

 たとえば今、私は、こうして懸命にものを考え、ものを書いている。なぜそうするかと
いえば、今の私のおかれた環境を変えたいからである。この年齢になると、もう「有名に
なりたい」とか、「力がほしい」などとは、思わない。思ったとたん、別の私が、「それが
どうした」と、それを打ち消してしまう。

 こういう状態になると、「環境」のもつ意味が、ズシリとわかる。今の、私の心境は、ま
さに受験生の心境とどこも、ちがわない。


●破壊された人間性

 こんな話を聞いた。 

 あの男性は、今年60歳になるという。生活力がないため、ずっと、弟夫婦からの仕送
りを受けて、生活している。その弟氏は、現在、58歳。

 その弟氏が、こう話してくれた。

 「私の妻が、兄貴をこわがるのですね。私が近くにいないと、妻に抱きついたりするか
らです」と。

 ふつうに抱きつき方ではない。口を先にとがらせて、ほっぺたに唇をつけてくるという。
「だから、絶対に、兄貴と妻が、一対一になるような状況は、つくらないようにしていま
す」とも。

 ふつうなら……、という言い方は、慎重にしなければならないが、ふつうなら、兄貴氏
は、そういうことは、しない。してはならない。自分の生活のめんどうをみてくれている、
弟夫婦である。しかし人間性が破壊されると、そういうことでも、平気でするようになる。

 あるいは最近、こんな話も聞いた。

 ある女性が、郷里の母親を、三日間、自分の家にとめてやったという。たまたまその女
性の夫が、海外出張とかで、家をあけていた。その女性は、53歳。母親は、80歳にな
ったところだった。

 が、あるとき気がつくと、床の間の横にあった、鋳物の置き物がなくなっていた。そこ
でその女性は、母親に、「お母さん、知らない?」と何度も聞いたという。が、その母親は、
知らぬ顔をして、テレビを見ていたという。

 が、母親が帰るとき、カバンを車にのせようとしたら、カバンの底から、ゴツンという、
音が聞こえたという。「もしや……」と思って中を見ると、その鋳物の置き物が、そこにあ
ったという。

 そこでその女性が、その鋳物の置き物をカバンから取り出し、「これは?」と母親に聞く
と、その母親は、表情一つ変えないで、やはり知らぬ顔をしていたという。

ふつうなら……、という言い方は、慎重にしなければならないが、ふつうなら、母親氏
は、そういうことは、しない。してはならない。三日間も、世話をしてくれた娘である。
そういう娘の家から、ものを盗むということは、してはならない。しかし人間性が破壊さ
れると、そういうことでも、平気でするようになる。

 人間性というのは、そういうもの。

 これらのケースで、先の兄貴氏にしても、母親氏にしても、当の本人たちはそれでよい
かもしれないが、そのため、まわりの人たちが、苦しむ。「そんな兄でも……」とか、「そ
んな母でも……」とか言って、いくつも高いハードルを、越えなければならない。それは
想像を絶する、苦しみと言ってもよい。その経験のない人には、絶対に理解できない苦し
みである。

 いかにじょうずに、老いていくか。一見、簡単なようだが、実際には、むずかしい。子
育てを考えたら、同時に、自分自身の問題として、それを考えてみるとよい。


●老いを受けいれる

 ある女性は、80歳をすぎた今も、美容院で、定期的に髪の毛を染めている。決して裕
福な家庭ではない。わずかな老齢年金と、夫が遺産として残した、蓄(たくわ)えを切り
崩しながら、生活をしている。

 私はその話を聞いたとき、「どうして?」と思った。思いながら、ワイフに、「どうして
女性は、髪の毛を染めるの?」と聞いてみた。

 ワイフも、いつも風呂の中で、髪の毛を染めている。

 ワイフは、こう言った。「いつまでも若く見られたいからよ」と。

 しかしこの論理は、どう考えてもおかしい。

 仮に40歳のとき、35歳に見えたとしても、45歳になれば、40歳に見られるだけ。
50歳になれば、45歳に見られるだけ。どうあがいても、年齢をごまかすことは、でき
ない。

 だったら、40歳のときは、すなおに、40歳に見られればよい。ムダな努力というか、
抵抗は、やめたらよい。……とまあ、合理的に考えると、そういうことになる。が、そう
はいかないところが、女性の心理らしい。

私「あるときがきたら、老いを認めればいい」
ワ「女性は、そうはいかないのよ」
私「皇后陛下だって、髪の毛は、真っ白だよ」
ワ「あの方は、すばらしい方よ。そういう生き方を、尊敬するわ」
私「だったら、お前も、そうすればいい。お前の白髪は、きっとすてきだよ」
ワ「……?」と。

 「老い」というラベルを、自ら張ることもない。が、そのときがきたら、すなおに、そ
れを受け入れればよい。顔や体のシワなど、いくらごまかしても、ごまかしきれるもので
はない。またごまかしたからといって、それがどうだというのか。

 以前、顔を真っ白にしていた女性がいた。マスコミでも騒がれ、日本でも有名人になっ
たが、私には、その女性は、化け物にしか見えなかった(失礼!)。が、それ以上に、その
人がテレビに出るたびに、私は、何かしら、人間の愚かさを見せつけられているような気
分になった。

 「私」がない人の生きザマは、自然と、そうなる。「私」というものがないから、外見ば
かり、とりつくろうようになる。見栄(みえ)、メンツ、世間体ばかりを気にするようにな
る。しかし見方によっては、それほど見苦しい生き方もない。

 こんな歌詞を作った。

♪(デカンショ節で……)

デカンショ、デカンショで、半年暮らす。ヨイヨイ。
あとの半年や、寝て暮らす。アラヨ〜イヨ〜イ、デッカンショ。

ワイフと、やるときゃ、電気を消すよ。ヨイヨイ。
暗いところじゃ、年、見えぬ。アラヨ〜イヨ〜イ、デッカンショ。

たれた乳を、のばして、吸うよ。ヨイヨイ。
たれたチンチと、ごアイコよ。アラヨ〜イヨ〜イ、デッカンショ。

 何とも、ジジババ臭い歌で、すみません。


●三男のこと

 三男が、今度、オーストラリアへ、語学留学することになった。大学へは、休学届けを
出した。

 私も三男だった。そしてちょうど、同じ年齢のとき、オーストラリアへ渡った。そんな
こともあって、このところ、何だか、私まで、どこかうきうきしている。

 親は子どもの青春を見ながら、自分も、もう一度、その青春時代を、疑似体験できる(?)。
もっともそれができるのは、幸せな親だ。

私「ぼくが朝起きて、恐る恐る、飛行機の窓をあけると、突然、その下に、真っ赤な大地
が見えてきた。ぼくは驚きと感動で、思わず、ウォーッと声をあげてしまった」
ワ「赤いの?」
私「そう、オーストラリアは赤かった。……それでね、目をこらしてみると、その赤い大
地に、点々と、黒いしみのようなものが見えるんだ」

ワ「何だったの?」
私「それをね、ぼくは、最初、湖か何かだと思った。で、オーストラリアは、湖だらけだ
と思った。でもね、それは湖ではなかった。雲の影だった。ぼくはその大地を見ながら、『こ
の下では、みんなが英語を話しているんだ』と、そんなふうに考えた。ぼくにとっては、
そのときのことが、生涯で、最高の思い出だよ」と。

 ワイフと二人で、旅行会社のビルを出たとき、「今ごろ、あいつ(三男)は、ルンルン気
分だろうね。その気持がよくわかる」と私が言うと、ワイフも、「そうね」と。

私「ぼくらも、オーストラリアへ行こうか?」
ワ「いいわ」と。


【世にも不思議な留学記・番外編】

 メルボルンの空港へ着くと、小雨が降っていた。それに夕方だった。ポツンとひとり、
空港の出口のところにたっていると、一人、スチュワーデスが、走り寄ってきた。そして
いきなり、私に、早口な英語で話しかけてきた。キャセイ航空の制服を着ていた。

 英語は、さっぱりわからなかった。が、ところどころに、「フィフティ、フィフティ(5
0、50)」という言葉が混ざっている。「どうやら街まで、タクシーを割り勘で行こう」
ということらしい。私は、同意した。

 私が先にタクシーに乗ると、スチュワーデスは、なれた様子で、前の席にすわった。私
は、乗るやいなや、ドライバーに、「241(ツー・フォー・ワン)、ローヤルパレード通
り」と告げた。実のところ、私は、英語の自信を、すっかりなくし始めていた。

 メルボルンへ来る前、シドニーで半日過ごした。しかし私の英語は、まったく通じなか
った。彼らも、また何を言っているか、まったくわからなかった。日本で学んだ英語など、
現地では、まったく通用しなかった。

 高校時代でも、担任の英語教師が、こう教えてくれた。「これはパース。つまりPASS。
これもパース。つまりPURSE。発音がちがう」と。しかし私には、まったく同じ発音
に聞こえた。

 私が学んだ英語というのは、そういう英語だった。

 やがてタクシーは、静かな住宅地へと入っていった。緑の芝生がつづき、その間に点々
と、しゃれた赤い屋根の家が並ぶ。それが私には天国に見えた。「これが同じ地球上の景色
か」とさえ思った。

 スチュワーデスは、私への義理などすっかり忘れて、さも親しげに、ドライバーと話し
こんでいた。ときどき卑猥(ひわい)そうな笑い声を出して、会話を楽しんでいた。

 夕暮れはさらに進み、人の顔もはっきりと見えなくなっていた。雨は、そのときは、や
んでいた。突然、視界が開け、広い公園が、ぱっと目に飛びこんできた。色鮮やかな緑。
それに白いフェンス。と、そのとき、一人の学生風の男が、その公園のまわりの歩道をジ
ョギングしているのが、見えた。

 とたん、ドライバーは、スチュワーデスとの会話をやめ、うしろを振りむいて、こう叫
んだ。

 「ユア・フレンド、ユア・フレンド(あんたの友だち、あんたの友だち)!」と。

 私はそのとき、天にも昇るような気分だった。そしてその気分が最高潮に達したとき、
私は自分に、こう言って聞かせた。「とうとう、来たぞ!」と。

 時は、1970年。3月のことだった。
(040215)


●米韓同盟の崩壊?

朝鮮日報とアメリカン・エンタープライズ研究所(AEI)、および対外経済政策研究院
(KIEP)の共催で、今月12日〜13日(現地時間)の2日間、ワシントンで、シン
ポジウムが開かれた。

その席で、米韓関係問題も浮上し、米国防部の政策に影響力を持つリチャード・アレン
国防政策委員(元ホワイトハウス国家安保補佐官)は「韓米関係が破綻するかもしれない
状況にまで悪化している」と主張した。歓迎されない場所に米軍を駐屯させないという米
国の立場を、説明したという(「朝鮮日報」要約)。

 わかりやすく言えば、アレン氏は、「韓国人に嫌われてまで、アメリカは、韓国には駐在
しない。そのため、米韓関係が崩壊してもかまわない」と。

 しかしこれは当然のことではないか。今、韓国では、あのK国より、アメリカのほうを
嫌っている人が多いという。世論調査でも、「K国より、アメリカのほうを脅威と感じてい
る」と答えた人のほうが、多い★。

 私も、韓国の人たちが、何を考えているか、よくわからない。しかしそのことは、その
ままこの日本についても言えることである。

 ごく最近まで、あのA新聞や、社会党の流れをくむS党などは、「拉致問題は、日本政府
のデッチあげ」というような論陣を張っていた。そしてことあるごとにK国をたたえ、ア
メリカを嫌った。

 しかし米韓同盟が崩壊すれば、それこそK国の、思うツボ。今の韓国の人たちには、そ
んなこともわからないのか。

 今、K国は、プルトニウム爆弾どころか、それよりも破壊力が強烈な、ウラニウム爆弾
まで製造しているという。わかりやすく言えば、原爆と水爆のちがいということになる。
破壊力は、格段に、ちがう。パキスタンのカーン博士が、それを暴露した。

 かねてから私が指摘しているように、K国の目的は、アメリカとの間で相互不可侵条約
を結んだあと、戦争でおどして、日本から、金を巻きあげることである。もっとも日本は、
それなりの悪いことをしたのだから、ある程度の補償は、しかたない。しかし今のK国に、
日本が金を渡したら、どうなる?

 K国には、その金で、さらに大量の武器を、ロシアや中国から買うだろう。で、そうな
ったら、日本は、どうなる? 核兵器だけが問題ではないのだ。

 この記事が配信されたあと、六か国協議が、北京で始まる。ロシア、中国は、会議の成
功をねらうだろう。韓国は、K国寄り。しかしアメリカと日本政府は、会議を成功させる
意図は、最初から、ない。(だからといって、私が、それを望んでいるわけではない。誤解
のないように!)

失敗させたあと、つまりそれを中国に思い知らせたあと、国連安保理に事案を提出する。
そして国際的に、全体としてK国に制裁を加え、金XX政権を崩壊させる。

その協議の成りゆきに、注目したい。

★「韓国の安全保障にとって最も脅威となる国はどこか」という質問に対して、韓国の人
たちは、つぎのように答えている。

   アメリカ……39%
   北朝鮮 ……33%
   中国  ……11・6%
   日本  …… 7・6%

 (韓国の世論調査会社が一月五日、全国の成人を対象に、米国、北朝鮮、日本、中国の
中から「最脅威国」を選ぶ方法で電話調査)

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

最前線の子育て論byはやし浩司(057)

●あせる親たち
 
 子どもが受験期にさしかかると、たいていの親は、言いようのない不安に襲われる。あ
る母親は、こう言った。「進学塾の電気が、こうこうとついているのを見ただけで、カーッ
と頭に血がのぼりました」と。

 学歴信仰とは、よく言ったもので、それは、まさしく「信仰」のなさるわざ。「私は無神
論で、だいじょうぶ」と思っている人でも、学歴信仰の信者は、いくらでもいる。しかし
この信仰は、日本に生まれ育ち、日本に住んでいる人には、わからない。それはたとえて
言うなら、アメリカ人が、「アメリカは、キリスト教国ではない」と主張するのに、似てい
る。

 だれが見てもアメリカは、キリスト教国なのだが、肝心のアメリカ人は、そうは思って
いない。

 問題は、なぜあせるかではなく、どうやったら、その「あせり」と戦うことができるか、
だ。

 ある母親から、こんなメールが届いた。「友人の家に行ったら、その友人の子どもの、む
ずかしそうな問題集や参考書が、ぎっしりと並んでいました。毎日、友人が、自分の子ど
もに、個人レッスンしているそうです。それを知ったとき、ものすごい焦燥感を覚えまし
た」と。

 「うちの子はだいじょうぶかしら?」という思いが、やがて「おとなになったら、どう
なるのかしら?」という思いに変る。そしてそういう不安が、やがて心の中に、エアーポ
ケット(空白)をつくる。このポケットの中に、学歴信仰が、スーッと忍びこむ。

 その精神構造は、カルト教団に身を寄せる信者のそれと、それほど、ちがわない。ある
いはまったく同じ。「自分はまとも」と思いつつ、どんどんと、(まともでない世界)へと、
入っていく。

 そして気がついたときには、愚にもつかないような、とんでもない、つまりは常識ハズ
レなことをし始める。

 これからは勉強だけが、すべての時代ではない。韓国や中国、それに台湾やシンガポー
ルは別として、世界は、すでにそういう方向に動いている。日本だけが、先進国(?)で
ありながら、いまだに、旧態依然の学歴社会を、引きずっている。

 ……とまあ、否定的なことばかりを書いても意味がないので、正論を書く。

【大切なのは、勉強グセ】

 小学生のうちならまだしも、五、六年生、さらには中高校生になったら、大切なのは、
勉強グセである。

 自分で教科書を開き、自分で読み、自分で理解する力である。

 私は生徒が、五、六年になったら、自分でそれができるように指導する。よく進学塾を
見ると、講師が、黒板の前に立って、ガンガンと授業している風景をみかける。しかしあ
んな授業で効果があるのは、せいぜい、小学五、六年まで。

 常識で考えてみればよい。みなが、同じレベルの子どもならまだしも、(できる子ども)
にとって、できる問題の説明など意味はない。一方(できない子ども)にとっては、そん
な説明、一回や二回程度聞いたぐらいでは、頭に入らない。

 仮に問題を解くにしても、自分で解いてみて、つまずいたところで、解答を見ればよい。
そのままそれでその勉強は終わる。時間にすれば、5分もかからないだろう。

 それを30分とか40分とか講師は、説明する。親たちは、そういった時間のロスを、
計算してみたことがあるのだろうか。

 つまり大切なのは、(勉強グセ)。これをいかにつけるかが、重要。またその勉強グセさ
えしっかりしていれば、仮に中学受験や高校受験で失敗しても、その先で、伸びる。大学
受験で失敗しても、さらにその先で、伸びる。

 反対に、今、目的の中学や高校へは入学はしたものの、そのまま燃え尽きてしまう子ど
もの多いこと、多いこと。市内でもナンバーワンと言われている、S進学高校でも、約5%
の子ども(高一)が、そのタイプの子どもだそうだ。

燃え尽きないまでも、入学と同時に、戦意をなくす子どもとなると、何割かがそうであ
るという。ある高校の教師が、こっそりと、私に、そう話してくれた。

 が、親には、それがわからない。いや、わからないことを責めているのではない。だれ
だって、白紙の状態で、子育てを始める。とくにこういう不安な世の中になると、さらに
大きな心のエアーポケットができる。

 そこで親が考えるべきことは、(勉強グセ)ということになる。そのクセをどう育てるか
だけを考えて、子どもの勉強を組みたてる。一日単位のリズム、一週間単位のリズム、一
か月単位のリズム。さらに学期単位のリズム、一年単位のリズムなど。

 そういうリズムを感じたら、それを大切に守り育てていく。子どもに勉強グセをつける
には、その方法しかない。とくに低学年の間は、「勉強させよう」とか、「いい成績を」と
いう考え方は、最小限におさえる。そのかわり、子どもの中に、「勉強は楽しい」という前
向きな印象だけを育てていく。この前向きな印象が育てば、あとは子どもは、自分で自分
の道を選択していく。伸びていく。

 そのための方法については、これから先、追々、説明するとして、子どもの勉強のこと
で、不安になったり、心配になったら、自分自身の育児ノイローゼを疑ってみることも忘
れてはならない。へたをすれば(うつ)になり、さらにへたをすれば、その影響は、モロ
に子どもに伝わる。


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●Eマガ、メルマガ読者のみなさんへ、

 現在、無料電子マガジンは、Eマガ社と、メルマガ社の二社から、配信さ
せていただいています。その二誌について、つぎのように案内させていただ
きます。

 マガジンは、この2月23日号をもちまして、しばらくお休みすることに
しました。まぐまぐ・プレミア(有料版)の、発行準備と予約のためです。

 次回は、3月1日号を予定していますが、どうか当方の事情をご理解の上、
勝手をお許しください。

 まぐまぐプレミア版は、予定どおり、3月1日(月曜日)から、毎週、月、
水、金と、週3回ずつ発行していきます。

 すでに多くの方に再登録していただき、やる気満々といったところです。
この場を借りて、心からお礼申しあげます。

 ありがとうございました。

 なお、メルマガ(BIGLOBE版)につきましては、たびたびご案内申
しあげましたように、3月以降は、随時(ときどき)発行ということにさせ
てください。

 今後も無料版をご希望の方は、どうかEマガのほうへ、ご移動くださいま
すよう、お願いします。できるかぎり、今後も、今までどおり、発行してい
くつもりでいます。

 またカラー・写真つきのHTML版は、まぐまぐプレミア版のほうでは、
できるだけ毎回、付録として、添付させていただきます。Eマガについては、
今のところ、まったく未定です。時間に余裕があれば、楽天の無料HPを利
用して、またみなさんに、お届けできるようにいたします。

 長い間のみなさんのご愛読と、励ましに感謝しています。

 重ねて、お礼申しあげます。ありがとうございました。これからもよろし
く、お願いします。

                       04年 2月15日
 
                          はやし浩司
● まぐまぐ・プレミア版(一か月200円)の
お申し込みは……
http://bwhayashi.cool.ne.jp/page034.html
です。よろしくお願いします。

HTML版……カラーで、写真つきのマガジンをいいます。
TEXT版……白黒の文字情報だけのマガジンをいいます。

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++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

最前線の子育て論byはやし浩司(058)

●自分らしく生きるために……

 自分らしく生きるためには、@負けを認める。A限界を認める。B自分をさらけ出す。
C見栄、メンツ、世間体を捨てる。D生きていることを原点に、ものを考える。そしてこ
こが一番重要だが、E自分の生きザマを、確立する。

@ 負けを認める。

 虚勢を張り、虚栄で身を飾っている間は、自分の姿をとらえることはできない。昔、私
が住んでいた実家の近くに、いつもサイフに、札束を入れて歩いている女性(70歳くら
い)がいた。貧しい人だったが、心は、さらに貧しかった。虚栄で身を飾る人は、そこま
で神経をつかう。

A 限界を認める。

 できないことを「できない」と言うのは、恥ずかしいことでも何でもない。「まだ何とか
なる」と思っている間は、決して安穏たる日々はやってこない。

 「まあ、こんなもの」という割りきりが、心に風穴をあける。そしてその人の生きザマ
を、すがすがしくする。

B 自分をさらけ出す。

 相手にもよるが、自分をすなおに表現する。言いかえると、心を開くということ。自分
をすなおに表現できる人のことを、勇気がある人という。

 自分をごまかしてはいけない。相手にへつらったり、相手の機嫌をとったりしてはいけ
ない。あなたはどこまでいっても、あなた。あなた以外に、あなたはいない。そしてその
あなたは、あなたである前に、一人の人間だ。

 仮にあなたに、何か恥ずかしいことがあるとしてしも、それは人間であるがゆえに感ず
るもの。さあ、あなたも勇気を出して、自分をさらけ出してみよう。手始めに、あなたの
夫(妻)に。あなたの子どもに。あなたの家族に、すべてをさらけ出してみよう。

C 見栄、メンツ、世間体を捨てる。

 自分のない人ほど、他人の目を気にする。しかしそんなものは、クソ食らえ! 他人が、
あなたに何をしてくれる? 他人が、あなたに、何をくれる?

 他人が、どう思おうと、そんなこと、気にすることはない。どうせたった一度しかない
人生だから、自分の人生を、思う存分、生きればよい。

 そのために、あなた自身も、他人のことや、他人の生活には、干渉しないこと。気にし
ないこと。人は人。そういうふうに割り切ることによって、あなたも、見栄、メンツ、世
間体から決別できる。

D 生きていることを原点に、ものを考える。

 行きづまったり、袋小路に入ったら、「生きている」という源流に自分を置いて、考えて
みる。

 「私は生きている」と思うだけで、ほとんどの問題は解決するから不思議である。キリ
スト教にも、「生きていること自体が、奇跡である」というような説話がある。何が奇跡か
といって、今、こうして一人の人間として生きていること自体が、奇跡である、と。つま
り、それ以上、何を望むのか、と。

E自分の生きザマを、確立する。

 私が私であるための、最終仕上げは、生きザマの確立である。

 そのために、人は、考える。考えて考えて、考え抜く。そこに人が生きる価値がある。
生きる目的や、意味もある。

 ここで誤解してはいけないのは、その人がもっている情報が多いからといって、その人
が、考える人間であるとはかぎらないということ。たいていの人は、自分のもっている情
報を、右から左へと流しているだけ。またそうすることが、考えることだと誤解している。

 「考える」ことには、ある種の苦痛がともなう。それは寒い夜のジョギングのようなも
の。だからたいていの人は、できるだけ考えないですまそうとする。しかしそれでは、自
分の生きザマを、確立することはできない。

 最初は、どんなささいなことでもよい。それをテーマに、考えてみる。できればそれを
文にしてみる。言うまでもなく、思想は、言葉で成りたつ。その言葉で、自分を表現する
のは、まさに生きザマを確立する、第一歩ということになる。

 ずいぶんと偉そうなこと書いてしまったが、実は、これはそのまま、あなたの子育てに
ついても言えることである。

 あなたも、子育てをしていて、何かと不安なことや、心配なこともあるだろう。しかし
そのとき、「私の子どもは、私の子ども」と、子どもの「自分らしさ」を認めれば、多少な
りとも、その不安や心配は、解消されるのではないだろうか。

 つまりは、ここに書いた六つの方法は、自分らしい子育てを確立するための鉄則という
ことにもなる。

 今、子育てをしていて、何かと不安だ、心配だと思う人は、ぜひ、一度、参考にしてみ
てほしい。
(040215)

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

最前線の子育て論byはやし浩司(059)

【BW教室から……】

 今週は、時計の勉強をした。

 まず、お絵かき歌。

 ♪丸かいて、ちょん。
  上、下、横、横、
  チョチョンが、チョンチョン
  チョチョンが、チョンチョン
  1,2,3,4,5,6,7,8,9,10,11,12

 何の絵になるか、わかりますか?

 実は、この歌で、時計がかけます。「上、下、横、横」は、それぞれ、12時、6時、3
時、9時の位置を表します。「チョチョンが、チョンチョン」というのは、その間に、二つ
ずつの目盛りを入れていくことを意味します。

 しかしこの歌、私が、25年以上も前に作ったのですが、今では、全国の小学校などで
歌われています。いろいろな雑誌に発表したこともあるからです。(一度、どこかで作者不
詳というふうに紹介されていました。バカめ。私が作者だ!)

 つぎに(長い針君)と、(短い針君)の登場です。

長い針「やあ、君、何ていう名前?」
短い針「ぼく、ジっていう名前だよ」
長「フ〜ン。ジかア? ぼくは、フンっていう名前だよ」と。

 考えてみれば、「ジ」とか、「フン」とか、へんな名前ですね。子どもたちもそう言いま
した。そしてそのうち、私を見て、「ジジィ」とかなど。

 一応怒ったフリをしながら、「ところでさア、みんなジ(痔)っていう病気しっている?」
と。

 これは私一流の、(おふざけ)です。

 「あのね、ウンチの出口のところに、こんなスイッチができるんだ。そのスイッチにね、
ウンチがだんだん近づいてくるんだよ。ジャア〜、ジャン、ジャジャジャジャジャジャン
……(映画「ジョーズ」風に……)。

 そのスイッチにウンチがさわるまでは、何ともないんだよ。でもね、ジャジャジャ……
そのウンチが、このスイッチにさわったとたん、お父さんやお母さんは、ギャーッと声を
あげるだよ」と。

 そこで思いっきり、私はギャーッと声を出してやりました。子どもたちは、大笑いです。
ただ参観していた母親たちは、みな、神妙な顔をしていました。みなさん、多分、ご経験
がおありなんですね。

 こういう演技が自然とできるようになったのも、私が、それだけのジジィになったから
ではないでしょうか。ハイ。

 しかしこのジ(痔)の話は、今回の学習とは、関係ありません(もちろん)。

 ただね、みなさん、幼児教室ではね、つい油断すると、母親たちが、すぐピリピリして
しまいます。そこでこうした(おふざけ)は、教室の雰囲気をやわらげるためにも、必要
なんです。これは私が、この30年間で学んだ、教育技術の一つなんですよ。

 子どもが笑う。つづいて親が笑う。それですべて、めでたし、めでたし、です。
(040215)

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

最前線の子育て論byはやし浩司(060)

● ある相談から……

静岡市に住んでいる、MMさんから、長女(小1)について、こんな相談があった。

+++++++++++

「家の外と、中では、まるで別人のように、様子がちがいます。

 学校などでは、優等生で、何も問題がないと、先生にもよく言われます。しかし家の中
では、がんこで、わがままで、生活態度も横柄です。

 何か、私が注意したり、叱ったりすると、最後の最後まで、ああでもない、こうでもな
いと、さからいます。私はうちの子は、ひねくれています。先のことを考えると、心配で
なりません。どうしたらいいでしょうか。

 ちなみに、うちには、ほかに、2歳年下の弟と、4歳年下の妹の、二人の子どもがいま
す」(以上要約)と。

++++++++++++

 ほかにもいろいろ症状が書かれていた。

 で、文面から判断すると、長女(Aさんとする)は、下の子どもが生まれたことにより、
慢性的な欲求不満に陥ったものと思われる。それが原因で、心をゆがめたものと思われる。

 対処法としては、「子どもの欲求不満」に準じて、考える。私のHPの、「タイプ別」を
参照してほしい。

 実際、かなり強度のひねくれ症状が出ているが、これはここに書いた、慢性的な欲求不
満が原因と考えてよい。このタイプの子どもは、まさに(ああ言えば、こう言う)式の反
抗をする。

母、娘が、茶碗を割ったことについて、「気をつけてよ!」
娘、すかさず、「こんなところに、ママが茶碗を、置いておくから、いけないのよ!」と。

 下の子どもが生まれると、上の子どもは、嫉妬から、さまざまな形で、心をゆがめやす
い。これについても、同じくHPの「タイプ別」→(赤ちゃんがえり)を、参照してほし
い。

 嫉妬は、きわめて原始的な感情であるだけに、それをいじると、子どもの心は、ゆがむ。
Aさんも、母親の気づかないところで、かなり心をゆがめた。

 で、その欲求不満のはけ口として、Aさんは、仮面をかぶるようになったと考えられる。
一般論として、人との交わりがうまくできない子どもは、攻撃型、同情型、依存型、内閉
型のどれかのパターンを、とることがわかっている。

 Aさんも、そのうちのどれかのパターンをとっているものと思われる。文面から察する
と、家の中では、攻撃型。家の外では、同情型のような気がする。外の世界では、無理に
よい子ぶって、関心を集めようとする。(あくまでもいただいたメールの範囲内での判断だ
が……。)
 
 で、母親の相談だが、「先が、心配だ」と。

 このタイプの子どもは、外の世界でいい子ぶる、つまり無理をする分だけ、家の中では、
荒れやすい。暴力行為に出るプラス型と、グズグズ、ネチネチするマイナス型に分けて考
える。

 Aさんは、プラス型かもしれないが、つまり子どもは、こうして心のバランスをとる。

 そこでつぎのように、するとよい。

@「ああ、うちの子は、外の世界でがんばっている。だから家の中では、心と体を休めて
いる」と理解してあげること。多少、ぞんざいな態度や、横柄な態度をしても、大目に見
る。

A「求めてきたときが与えどき」と考えて、子どもが、スキンシップ(甘えたり、体の接
触)を求めてきたようなときは、こまめに、ていねいに、濃厚に、子どもが満足するまで、
それを与えること。

BCA,MGの多い食品、たとえば海産物を主体とした食生活にこころがける。とくに緊
張性の、情緒不安症状がみられたらそうする。どこかピリピリしているとか、ささいなこ
とで、カーッとなるようなときに、効果的である。

 残念ながら、この時期、こうした方向性を一度見せると、子どもの心は、そのまま一生、
つづく。ひとつの性格として、定着してしまうからである。

 しかし文面から察すると、外の世界ではがんばっているようなので、それほど、心配し
なくてもよいのでは……。むしろ、そういうよい面をほめ、それを伸ばすようにしたらよ
い。(外の世界でも、荒れるようであれば、心配だが……。)

 ポイントは、今より症状を悪化させないことだけを、考える。そして一年単位で、様子
をみる。あせってなおる問題ではない。また叱ったり、説教しても、意味はない。「根」は、
深い。

 一つ心配なのは、親子関係が、かなりぎくしゃくしているように感じたこと。たがいに
不信感をもち始めているような雰囲気である。

 今が、その正念場と考えてよい。このまま親子が断絶していくか。それとも、親子関係
を修復するか。

もし悩んだり、行きづまったら、「許して忘れる」の言葉を、念じてみてほしい。それだ
けで、ずいぶんと心が軽くなるはずである。
(040215)

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

================以下まぐまぐ=================

最前線の子育て論byはやし浩司(061)

【心の洗濯・さわやかに生きる】

●他人の生活をのぞかない

 他人の子どもの学歴や、進学先、成績などは、気にしないこと。それはその他人のため
というよりは、あなた自身のためである。

 少し話がそれるが、こんな事件が身近であった。

 10年ほど前だろうか、近所に住むA氏(40歳、当時)から、こんな相談があった。
何でも、そのA氏の自宅の東側に住むB氏(50歳、当時)が、A氏の家の中を、いつも 
のぞいているというのだ。それでA氏の妻が、気味悪がって、不眠症になってしまった、
と。

 そこでA氏が、B氏に、「そういうことは、やめてほしい」と注意すると、B氏は、猛然
とそれに反発して、こう言ったという。

 「お前こそ、オレの家をのぞいているではないか。オレのウチは、そのため、すべての
窓ガラスを、型ガラスにかえたんだぞ!」と。

 A氏には、まったく身に覚えのない話だった。つまりB氏は、いつもA氏の家の中をの
ぞいていた。それでB氏は、自分もA氏にのぞかれていると思ったらしい。これに似た話
は、よくある。

 たとえば他人の私生活を気にする人は、同時に、自分が世間からどう見られているかを
気にする。つまり他人の生活をのぞく人は、のぞいた分だけ、今度は、自分の生活がのぞ
かれているのではないかと恐れる。あるいはそういった被害妄想を、もちやすい。冒頭に
あげたB氏が、そういう人だった。

 だから他人の子どもの学歴や、進学先、成績などは、気にしないこと。気にすればする
ほど、今度は、あなたが、自分の子どものことで、他人の目を気にするようになる。

 25年ほど前のことだが、いつも娘(高校生)を、車で送り迎えしていた母親がいた。「近
所の人に、娘の制服を見られるのが、恥ずかしかったから」というのが、その理由らしい。
あるいは、(これはホントの話だぞ……)、駅で制服を着替えてから、学校に通っていた子
どもさえいた。

 世間の目を気にする人は、そこまで気にする。

 私は私。他人は他人。そのためにも、まずあなた自身の心をつくりかえる。つまり他人
の生活は、のぞかない。それは、このどろどろした世界を、さわやかに生きるための鉄則
でもある。


●家庭問題には、かかわらない
 
 こういう仕事をしていると、ときどき、横ヤリが入ることがある。つい先日も、ある女
性(60歳くらい)から、こんな電話が入った。

 「うちの嫁(=生徒の母親)が、孫(=私の生徒)をつれて、実家へ帰ってしまった。
ついては、あなた(=私)のほうで、何とか、孫だけでも、取りかえしたい。ついては協
力してもらえないか」と。

 その生徒は、私のところへ、何も変わりなく、通っていた。その女性(=祖母)は、そ
の機会をとらえて、孫(=生徒)を、取りかえそうと考えていた。

 こういうケースでは、私は、いつもはっきりと断ることにしている。「私は、母親(=嫁)
から委託を受けて仕事をしています。その母親を、裏切ることはできません」と。

 しかし問題は、そのあとだ。こうした電話があったことを、その母親に告げるべきかど
うかで迷う。

 で、私のばあい、こうした電話は、そのまま無視することにしている。いつしか、そう
いう処世術を身につけてしまった。まさに『さわらぬ神にたたりなし』である。

 へたに介入すると、やがて抜き差しならない状態になる。実際、こじれた人間関係ほど、
わずらわしいものはない。また介入したところで、どうにもならない。それぞれの家庭に
は、言葉に言いつくせない問題が、「クモの巣」(=英語の表現)のようにからんでいる。

 相手から相談があれば、話は別だが、これも、さわやかに生きるための鉄則である。


●人の悪口は、自分で止める

 母親どうしのトラブルは、日常茶飯事。「言った」「言わない」が、こじれて、裁判ざた
になることもある。

 で、私の耳にも、そういった話が、容赦なく、飛びこんでくる。しかしそういうときの
鉄則は、ただ一つ。『ただ聞くだけ。そしてその話は、絶対に、人には、伝えない』

 たとえばAさんが、こう言ったとする。

 「あのBさんね、祖母の老齢年金を、とりあげているそうよ。そしてそのお金を、自分
の息子の塾代にあてているんですって」と。

 こういう話は、聞くだけで、絶対に人に伝えてはいけない。あなたのところで止めて、
そのまま消す。そして忘れる。相づちを打ってもいけない。

だいたいにおいて、そういう話が飛びこんでくるということは、あなた自身も、そのレ
ベルの人ということになる。だから、よけいに、相手にしてはいけない。

 ……と、偉そうなことを書いてしまったが、実は、私も無数の失敗をしている。たとえ
ば以前、こんなエッセー(中日新聞投稿済み)を書いたことがある。

+++++++++++++++++++++++

●父母との交際は慎重に

 教育の世界では、たった一言が大問題になるということがよくある。こんな事件が、あ
る小学校であった。

その学校の先生が一人の母親に、「子どもを塾へ四つもやっているバカな親がいる」と、
ふと口をすべらせてしまった。その先生は、「バカ」という言葉を使ってしまったのだが、
今どき、四つぐらいの塾なら、珍しくない。英語教室に水泳教室、ソロバン塾に学習塾な
ど。

そこでそれぞれの親が、自分のことを言われたと思い、教育委員会を巻き込んだ大騒動
へと発展してしまった。結局その先生は、任期の途中で転校せざるをえなくなってしまっ
た。が、実は私にも、これに似たような経験がある。

 母親たちが五月の連休中に、子どもたちを連れてディズニーランドへ行ってきた。それ
はそれですんだのだが、そのあと一人の母親に会ったとき、私が、「あなたは行きましたか」
と聞いた。するとその母親は、「行きませんでした」と。

そこで私は(連休中は混雑していて、たいへんだっただろう)という思いを込めて、「そ
れは賢明でしたね」と言ってしまった。が、この話は、一晩のうちにすべての母親に伝わ
ってしまった。

しかもどこかで話がねじ曲げられ、「五月の連休中にディズニーランドへ子どもを連れ
ていったヤツはバカだと、あのはやしが笑っていた」ということになってしまった。数日
後、ものすごい剣幕の母親たちの一団が、私のところへやってきた。「バカとは何よ! あ
やまりなさい!」と。

 母親同士のトラブルとなると、日常茶飯事。「言った、言わない」の大喧嘩になることも
珍しくない。そしてこの世界、一度こじれると、とことんこじれる。現に今、市内のある
小学校で、母親同士のトラブルが裁判ざたになっているケースがある。

 そこで教訓。父母との交際は、水のように淡々とすべし。できれば事務的に。できれば
必要最小限に。そしてここが大切だが、先生やほかの父母の悪口は言わない。聞かない。
そして相づちも打たない。相づちを打てば打ったで、今度はあなたが言った言葉として、
ほかの人に伝わってしまう。「あの林さんも、そう言っていましたよ」と。

 教育と言いながら、その水面下では、醜い人間のドラマが飛び交っている。しかも間に
「子ども」がいるため、互いに容赦しない。それこそ血みどろかつ、命がけの闘いを繰り
広げる。

一〇人のうち九人がまともでも、一人はまともでない人がいる。このまともでない人が、
めんどうを大きくする。が、それでもそういう人との交際を避けて通れないとしたら……。
そのときはこうする。

 イギリスの格言に、『相手は自分が相手を思うように、あなたのことを思う』というのが
ある。つまりあなたが相手を「よい人だ」と思っていると、相手もあなたのことを「よい
人だ」と思うようになる。反対に「いやな人だ」と思っていると、相手も「いやな人だ」
と思うようになる。

だから子どもがからんだ教育の世界では、いつも先生や父母を「よい人だ」と思うよう
にする。相手のよい面だけを見て、そしてそれをほめるようにする。

要するにこの世界では、敵を作らないこと。何度も繰り返すが、ほかの世界のことなら
ともかく、子どもが間にからんでいるだけに、そこは慎重に考えて行動する。

++++++++++++++++++++++++

 英語にも、『同じ羽の鳥は、いっしょに集まる』という格言がある。私は、どこか低劣な
話が耳に入ってきたときには、相手は、私もその低劣な人間とみているのだなと思うよう
にしている。

 相手から見れば、私も低劣に見える。だからそういう低劣な話を、私にするのだ、と。

 しかし実際には、幼児相手の仕事をしていると、いつも低劣に見られる? 先日もいき
なり電話がかかってきて、こんなことを言う母親がいた。

 「おたく、幼児教室? あら、そう。今、うちの子を、クモンへ入れるか、あんたんど
こへ入れるか、迷っているんだけど、どっちがいいかなア?と、思って……」と。

 私はそれに答えて、「はあ、うちは、一〇問(ジューモン)教えますので……」と。

 この答え方は、昔、仲間のI先生が教えてくれた言い方である。(クモンと、ジュウーモ
ンのちがいですが、わかりますか?)

 いかにして、この世界で、さわやかに生きるか。これはとても重要なテーマのように思
う。いつもそれを心のどこかで考えていないと、あっという間に、泥沼に巻きこまれてし
まう。

それを避けるためのいくつかの鉄則を書いてみたが、これらの鉄則は、そのまま母親ど
うしの人間関係にも、応用できるのでは。ぜひ、応用してみてほしい。
(040216)

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

最前線の子育て論byはやし浩司(062)

●お人好(よ)しVS.自分勝手 

 お人好しの人から見れば、自分勝手な人が、バカに見える。しかし自分勝手な人から見
れば、お人好し人は、バカに見える。

 ……実は、これは私の中の二人の自分についてで、ある。

 私の中には、二人の人間がいる。お人よしの私と、自分勝手な私である。そしてその二
人の人間が、私の中で、交互に、揺れ動く……。

 どちらの私がよいかということになれば、当然、お人好しの私のほうが、よいに決まっ
ている。しかしそのお人好しの私は、いつも人に裏切られ、キズつく。で、そういう自分
を、もう一人の自分勝手な私が見て、「そら、見ろ!」と笑う。

 こういうとき私は、どこに着陸点を見つけたらよいのか。

 お人好しをつづけるのも、実際、疲れる。私のばあい、かなり努力をしないと、できな
い。もともと私という人間は、素性があまりよくない。

 たとえば近所のゴミを拾うとき。電話で、子育ての相談を受けるとき。何かの支援団体
の集会に出るとき、など。心のどこかで、かすかだが、自分に対する怒りを感ずる。「どう
して、お前が、こんなことをしているんだ!」「そなければならいんだ!」と。

 もっともそのお人好しの私が、それなりに報われるなら、まだ救われる。しかし実際に
は、報われるケースなど、十に一つもない。百に一つもあれば、まだよいほうかもしれな
い。逆に、世の中には、お人好しの人たちを、たくみに利用して、自分の利益につなげて
いく人がいる。

 そこでますますガードをかたくする。とたん、また自分勝手な私が顔を出す。今度は、「ザ
マー、見ろ!」と。

 しかしここで私は、気がついた。これは私の中の、善と悪の戦いではないか、と。お人
好しの私を、善とするなら、自分勝手な私は、悪ということになる。その自分勝手な私は、
どこまでも冷徹で、合理的。ものごとを、何でも、損得の計算にからめてしまう。

 で、ワイフに相談すると、ワイフは、こう言った。「お人好しで、いいんじゃなア〜い」
と。「最初から、期待しなければいいのよ。期待するから、裏切られたとか、キズつけられ
たとか、そういうふうに言うようになるのよ。お人好しを、つらぬけばア〜」と。

 ワイフの答は、いつも明快で単純。単純すぎるところが気になる。世の中、そんな単純
ではない。甘くない。

私「お人好しだけでは生きていけないよ。お金を稼ぐためには、どこかで自分勝手になら
ないといけない」
ワ「いいじゃない? それで……。そのうち、みんなわかてくれるわよ」と。

 そこで私はわかった。実は、これは私の問題ではなく、みんなの問題だ、と。つまりこ
ういうこと。

 どこかにお人好しの人がいたとする。大切なことは、そういう人を守り育てていくこと
だ、と。つまりその人を、裏切ったり、さらには、キズつけたりしてはいけない。つまり
そういう人を大切にすることが、即、自分の中の善なる心を守ることになる。

 あなたのまわりにも、お人好しの人はいるはず。裏切られても、裏切られても、意に介
せず、人のために働いている人が、いるはず。そういう人を大切にする。

 実のところ、私の義理の兄に、そういう人がいる。若いときから、人に頼まれると、い
やと言えない性分らしい。そのため、繰りかえし、繰りかえし、人にだまされている。一
時は、友人の身元保証人になり、全財産を失ったこともある。

 しかし今、その義理の兄は、神々しいほどの人格者になっている。すばらしい人という
のは、そういう人のことをいう。

 お人好しであるにせよ、自分勝手であるにせよ、どうせこの世で生きている時間は、短
い。そのときどきでは、時間を、結構、長く感ずるが、終わってみると、まさに一瞬。昨
夜見た、夢のよう。

 ならば、善にしがみついて生きるほうが、得策。回り道をしない分だけ、人生を有意義
に生きることができる。それを実践するのは、なかなかむずかしいことかもしれないが、
しかし生きる目標にかかげて、何ら、遜色(そんしょく)はない。「私は、お人好しで生き
るぞ!」と。

 ……と書きながらも、心のどこかで、むなしさを覚えるのは、やはり、この世の中がそ
れだけ、狂っているということか。とても残念なことだが……。
(040216)

+++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩


最前線の子育て論byはやし浩司(063)

【今週のBW教室から】

私「3人に、2個ずつ、ミカンをあげました。全部で、ミカンは、いくつかな?」
A君(年長児)「6個!」
B君(年長児)「6個!」

私「A君、君は、すばらしい!」
B君「オレだ、オレだ。オレの方が先だ!」
私「そういうのを、オレオレ詐欺って、言うんだよ」と。

私「3個ずつ、あげると、全部で、いくつかな……?」
C子(年長児)「ハーイ」
私「C子さん!」
C子「……1、2、3、4、5、6……」
私「何だ? まだ答がわかっていなかったの? 答がわかってから手をあげなさい。そう
いうのを空手形って、言うんだ!」と。

私「じゃあ、2人に、3個ずつあげると、全部でいくつかな……? D君、君、元気ない
ねエ。どうしたの?」
D君(年長児)「……ママがいない……」
私「あのね、君はまだ若いから、青春時代を思い出して、元気を出してごらん」
D君「セイシュン・ジダイって?」
私「すべてが輝いている、あのすばらしいときだよ。君にだって、そういう時代があった
んだろ?」
D君「うん、わかった……」と。

私「4人に2個ずつわけると、全部でいくつかな……?」
Eさん「……7個!」
私「正解。すばらしい!」
ほかの子どもたち「先生、8個だよ。8個!」
私「いいの。7個で。Eさんが、7個だというなら、それでいいじゃない」
ほかの子どもたち「でも、8個だ!」
私「いいよねえエ〜、Eさん、7個で……」
Eさん「ううん、やっぱり、8個……」
私、ムッとしてみせて、「……君は、ぼくを裏切るのか?」と。

 こうしたテンポを崩さず、リズミカルにレッスンを進める。10〜20分もつづけてい
ると、やがて子どもたちは、興奮状態になる。しかしそれこそ、私のねらい。

 この時期は、何かを教えこむのではなく、子どもの頭を熱くすることだけを考えて、レ
ッスンを進める。今まで使ったことがない脳の神経細胞を、どんどんと刺激していく。そ
の結果として、子どもの思考能力は、高まる。柔軟性をもつようになる。そしてさらにそ
の結果として、子どもの頭はよくなる。

 レッスンが終わったとき、参観の母親たちに、そっと、こう言う。「子どもの頭に手をお
いてみてください」と。どの親も、その熱さに、驚く。「子どもの頭が、こんなに熱くなる
なんて!」と。
(040216)

+++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩


最前線の子育て論byはやし浩司(064)

【近況・あれこれ】

●講演

 みなさんの小中学校で、PTA主催の教育講演会を考えておれらませんか? もしそう
なら、どうか、私を講師として、呼んでください。(今度、補助金対象になる、対象講師に指名さ
れました。)

静岡県教育委員会の出版文化会を通してくださると、県のほうから、出文教育講演会講師紹
介あっせん事業の一環として、補助金が支給されますので、格安で、(こんなことを自分で言う
のもおかしいですが……)、私を利用していただけます。

 詳しくは……
http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/page291.html
 
 浜松市は、東海道の宿場町から発展した工業都市ですが、意外と意外。日本の中でも、
比較的保守的な地域として知られています。少し前ですが、近くのある町で講演をしたら、「あ
なたは、みな(=大半が農家の若い母親)が、ハハハと笑うような話をしてくれればいい。嫁さ
んに自立をうながすような話はしないでくれ」と言った、某団体の課長がいました。(これは控え
めに書いていますが、本当の話です!)

 「今どき……」というのが、私の実感です。こうした「古さ」は、年齢とともに、より鮮明にわかる
ようになりました。みなさん、こうした「古さ」と、もっと正面から、正々堂々と戦っていきましょ
う!


●チャット

 昨夜(2月16日)、チャットルームで、チャットしました。(←どこか奇異な感じがする日本語で
すね。)一年前に、サニーさんとして以来、はじめてのチャットでした。

 長野県のTさんや、東京、埼玉の方、それに地元浜松市の方と……。少年のように、ワクワ
ク・ドキドキ……。太陽さん、長ぐつさん、低脂肪牛乳さん、それにマリソルさん、みなさん、どう
もありがとうございました。

 実のところこの一年間、(一回だけ忘れたことがありますが……)、毎週、みなさんのご来訪
をお待ちしていました。で、はじめてのチャット!

 読者の方と、直接話ができるなんて、本ではできない、まさにインターネットの利点ですね。本
のばあいは、本の中に、読者カード(ハガキ)を入れるのですが、S出版社の編集長(文庫本担
当)が、いつか、こう話してくれたことがあります。

 「ハガキが返ってくるのは、1000冊に1枚とみています」と。

 つまり1万部発行して、10枚ということだそうです。その数字とくらべると、信じられないほど
の反応(?)です。

 どうかみなさんも、ご自由に時間を決めて、おいでください。私は毎週月曜日、午後10時SH
ARPに、のぞくようにしています。

+++++++++++++++++

チャットルームの中で話した、「ハンゲコウボク湯」についてですが、昨日の朝(2月16日)、T
先生から、こんなメールが届きました。

 「(DNAの修復作用があると言い出したのは)、東大の元薬学部長(学士院賞受賞者)の、M
氏です。現在84歳ですが、元気です。テニス仲間は、みんなのんでいます。手術を受け、あと
2年と言われていた人でも、5年たちますが、今でもピンピンしています。のむ量は、舌の先で
溶かしてのむので、毎晩、耳掻き一杯程度でよいそうです。私は2回のんでいます」(要約)と
のこと。

 T先生は、日本化学会元会長。T先生も日本学士院賞を受賞しています。
 あとは、みなさんのご判断にお任せします。


●まぐまぐ・プレミア版 

 どうも、緊張してしまいます。今までは、どこか無責任な書き方だったように思うのですが、
「有料」という言葉に、ズシリとした重みを感じます。どうしてでしょう……?

 心のどこかで、気負ってしまうのですね。「読者の方の期待に答えなくては……」とか、「いい
ことを書かなくては……」と。

 そのうち慣れるとは思いますが、今は、まだ緊張のうち。この原稿は、3月1日号か、3日号
に掲載する予定です。まぐまぐ・プレミア版は、45日先の分まで、配信予約できます。ですか
ら、3月1日までに、できれば2週間分の原稿を書いておきたいです。

 有料であるだけに、たとえば配信をしないでおいたりすると、ペナルティーが科せられます。
(こわいですね……。)もともと法科出身なものですから、こういうことには、敏感に反応してしま
います。


●3月7日の講演会 

 3月7日(日曜日)に、遠鉄不動産主催の講演会をもちます。場所は、新浜松駅前の「ブライ
トタウン・上島販売センター」です。

【GOOD NEWS!】

 先着、50人様に、ホテルコンコルド特製の「イチゴタルト」、10人様に、小生の本が、無料贈
呈されます。

 いろいろな講演会をしてきましたが、こうしたおみやげつきの講演会は、はじめてです。当日
は、参加自由(無料+駐車場あり)ですから、どなたでも、おいでになれます。お近くの人は、ど
うか+ぜひ、おいでください。

 詳しくは、当日もしくは、その前日に、新聞に折り込み広告が入るとのこと。

     時間は、午後2:00〜3:30です。
     場所は、上島販売センター(遠州病院駅前下車)
     演題は「あなたの子どもを伸ばしてみませんか?」
(子どもの方向性を決める四つの秘訣)
詳しくは、また追って、連絡します。



●浜松市の予算

 浜松市が新年度の予算を発表した。総額、約1800億円。土木費が、約15%削減され、そ
の分、民生費(5%増)、公債費(2%増)などが、提示されている(04年2月)。

 土木費については、削減されたといっても、全体の21%。約362億円を占める。少し前ま
で、25%前後を推移していたから、多少、改善されたとみてよい。それにしても、だれが見て
も、ムダな工事が多すぎる。ホント!

 15年ほど前だが、私の家の北側にある、O団地の大規模造成工事が始まったときのこと。
その中の何本かの道路が現れたり、消えたり……。そこで市役所で働く友人に、それとなく問
い合わせると、その友人は、こう教えてくれた。

 「ああ、あれね、土木工事を業者に、工事を、平等にやらせるためですよ」と。

 つまり土木業者に仕事をつくるための工事だった、と。ほかに何かの事情があったのかもし
れない。しかしこうした工事は、日本全国のいたるところで、目につく。

 ご存知のように、どこの国へ行っても、土木工事は、質素。日本ほど、ド派手な国はない。数
年前だが、オーストラリアの友人に、「日本では、土木建設費に、約25%の予算を使っている」
と話したら、心底、驚いていた。

 先進国の平均は、10〜15%前後とみてよい。(計算方法によっても、かなりちがうが…
…。)

 これに対して、「日本では、建設コストが、他の先進国にくらべて、1・3〜1・4倍は高いから」
(建設省報告)と説明する。「高い」からではなく、「わざと高くしている」からでは、ないのか。

 民家は、ボロ家。公共施設は、超豪華。あとは、ひ孫の代まで、莫大な維持費。こんなことを
繰りかえしていたら、日本は、本当にダメになる!

ついでながら、日本の対GNP比における、国の教育費は、世界と比較してもダントツに少ない
(ユネスコ調べ)。

欧米各国が、7〜9%(スウェーデン9・0、カナダ8・2、アメリカ6・8%)。日本はこの10年間、
毎年4・5%前後で推移している。

大学進学率が高いにもかかわらず、対GNP比で少ないということは、それだけ親の負担が大
きいということ。

日本政府は、あのN銀行という一銀行の救済のためだけに、4兆円近い大金を使った。4兆円
だぞ! 行員2000人足らずの銀行だったから、行員一人あたり、20億円という計算になる。
20億円だぞ! それだけのお金があれば、全国200万人の大学生に、一人当たり200万円
ずつの奨学金を渡せる!
(040217) 

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

最前線の子育て論byはやし浩司(065)

●溺愛論

 溺愛は、「愛」ではない。溺愛は、つまりは、自分の心のすき間を埋めるために、子どもを利
用する、親の身勝手な愛。その愛の中身は、ストーカー行為を繰りかえす、あのストーカーの
愛(?)に似る。

 ある母親は、自分の息子が、結婚して横浜に住むようになったことを、「悔しい、悔しい」と嘆
いていた。「横浜の嫁に、息子を取られた」とも言った。

 こうした溺愛は、親自身は、気づかない。むしろ「私は子どもを深く愛している」と錯覚する。こ
の心理も、ストーカーの心理と似る。相手は迷惑しているのだが、迷惑していることにすら、気
づかない。

 こうして溺愛された子どもは、溺愛児になる。それについては、たびたび書いてきたので、こ
こでは、その先を書く。

 溺愛された子ども自身が、その溺愛に気づくことがある。「ぼくは、母に溺愛された」と。しかし
そのとき、その子どもが、母親に感謝するということは、ない。その反対である。ある男性(45
歳くらい)は、こう言った。

 「自分が母親のおもちゃであったことに、あるとき、気づきました。そのとき以来、70歳をすぎ
ても、子離れできない母親を見ると、ぞっとします」と。何でもその母親は、いまだに「○○ちゃ
ん、○○ちゃん」と、その男性に、甘えてくるという。

 もう一つ、溺愛が愛でないという、その証拠になるような話がある。

 ある母親は、自分の息子を溺愛する一方、その息子が、自分から離れていくのを、絶対に許
さなかった。息子の進学する高校ですら勝手に決めてしまい、さらに自分から離れて住むこと
を許さなかった。

 その息子氏(現在50歳くらい)は、こう言う。

 「母の言い方は、実にたくみなんですね。たとえばこういう言い方をします。

 たとえば近所に、遠く離れて住むようになった息子がいたとしますね。そういう息子について、
わざと私に聞こえるようなところで、こう言うのです。

 『あの息子は、親不孝者だ。親を捨てて、遠くに住んでいる。ああいう息子は、地獄へ落ち
る。今に、その結果が出る。ああいう息子は、世間の笑いものだ』と。

 つまり母は、そう言いながら、その一方で、『お前は、そういうことをするなよ』と私を、脅(お
ど)しているのですね」と。
 
 もっとも、その溺愛に気づく人は、まだよいほうだ。大半の人は、親に溺愛されたことにすら
気づかない。気づかないまま、それを「親の深い愛」と誤解する。

 こうしてマザコンタイプの子どもが生まれる。

 信じられないような話かもしれないが、70歳の母親と、いまでも手をつないで寝ている息子
(40歳くらい)がいる。(ホントだぞ!)

 このマザコンタイプの子どもは、自分のマザコン性を正当化するために、ことさら、親を美化
したりする。「私の母は、毎晩、夜なべして、私を育ててくれました」「私の母は、世の人の傘に
なれよと教えてくれました」と。

 このタイプの人にとっては、親は、まさに絶対。だれかが親を批判しただけで、猛然と、それ
に反発する。またそうすることが、子どもの務めと誤解する。

 溺愛は、決して、愛ではない。真の愛は、子どもをどこまで、「許して忘れるか」、その度量の
深さで、決まる。しかしそれは、同時に、さみしくも、つらい愛である。

 決して子どもを、自分のなぐさみものに、利用してはいけない。
(040217)

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司
※ 
最前線の子育て論byはやし浩司(066)

●勉強が楽しい

 小学校の高学年児で、「勉強が楽しい」と思っている子どもは、約20%(グラフより)にすぎな
い。

 このほど、地元のI小学校での、調査結果が公表された(04年02月)。それによると、勉強
が楽しいと答えた子どもは、4年、5年、6年生では、20%しかいない。(小1で、40%)。

 私はその数字もさることながら、こうした調査結果を公表した、I小学校の校長に、敬意を表し
たい。まさに勇気ある行為である。

 少し前までなら、「学校の恥」と、こうした結果は、公表されなかった。しかしI小学校の校長
は、あえてこうした結果を公表し、世間に、問題の「根」の深さ、そして深刻さを訴えた。

 ほかにもいくつかの調査結果が、公表されている。

 「先生が楽しい」と答えた子ども……小1で、約32%(グラフより)
                  小6で、約13%(グラフより)

 わかりやすく言えば、学年を経るごとに、子どもたちは勉強嫌いになり、先生嫌いになるとい
うこと。しかし「勉強が楽しい」という子どもが、たったの20%とは!

 で、この20%という数字と、符合する事実がいくつかある。

 「中学生で、勉強している子どもは、約20%とみる」
 「中学生で、勉強していない子どもは、約60%とみる」
 「中学生で、約60%の子どもは、勉強ではなく、部活動でがんばって、推薦で高校へ入りた
いと考えている」
 「高校生で、本格的に受験勉強している子どもは、10〜20%程度である」
 「高校生で、家でまったく勉強していない子どもは、約40%はいる」など。

 これらの数字は、今までに、あちこちの学校の校長と話していたときに出てきた数字である。
正確な調査結果ではないが、おおむね、これらの数字は正しいとみてよい。

 つまり子どもの勉強に対する方向性は、小学6年生ぐらいまでには決まるということ。そして
それが最終的には、大学受験にまでつづくということ。そういう意味では、この年齢までの(動
機づけ)が、その子どもの一生を左右すると考えてよい。

 しかし……。

 私の教室では、子どもたちに、「勉強は楽しい」という意識を、徹底的に植えつける。実際、年
長児の終わりで、ほぼ100%の子どもが、「勉強、大好き!」と答える。

 これはウソでも、誇張でもない。このマガジンの読者の中には、教室の多くの父母がいるか
ら、ウソは、書けない。

 つまりここまでは、うまく、いく。しかし子どもたちが、学校へ入り、三年生、四年生となっていく
と、私の教室でも、とたんに、勉強嫌いの子どもがふえてくる。

 一見、学校の責任のように思う人も多いかもしれないが、原因は、家庭教育の失敗にある。
もっと言えば、原因は、母親や父親にある。つまり親の欲やあせりが、子どものやる気を容赦
なくつぶしていく。

 よい例が、進学塾だ。私の教室でも、小学三年生になるころから、みな、進学塾へ移ってい
く。(何も、それに反対しているのではない。念のため!)それはそれでかまわないが、そうした
親の安易な判断が、同時に、子どもから、やる気を奪っていく。

 たしかに上位20〜30%の子どもにとっては、それなりの効果がある。それは認める。しかし
問題は、それにつづく子どもたちである。その子どもたちの心が、無残にも破壊されていく。

 「何よ、この成績は!」「もっと、勉強しなさい!」「A君が、5番だって! あの子に負けて、悔
しくないの!」と。

 ご存知のように、進学塾では、容赦なく、点数で子どもを評価する。それがすべてと言っても
よい。教育理念の「リ」の字すら、ない。あるいは塾長自らが、学歴信仰の亡者。(そう断言して
よい。)

 そしてその結果が、「勉強が楽しい」と答えた子どもが、20%という数字である。

 せっかくI小学校の校長が、勇気をもって公表したのだから、私たちは、その勇気に答えなけ
ればならない。そして問題の「根」を理解し、私たちの家庭教育に、それを生かしていかねばな
らない。

 多分、あなた自身も、子どものころ、勉強でいやな思いをしたはず。ユーウツな思いをしたは
ず。そこで少しだけそんな時代を思い出してみてほしい。つまりそういう時代が、今のあなたに
とって、本当に役にたっているか、と。あなたの中で、光り輝いているか、と。

 だからといって、私は何も勉強を否定しているのではない。ただどうせしなければならないも
のなら、楽しくしたほうがよいということ。そのほうが、子どもも、伸びる。いやいやでは、子ども
も、じゅうぶん能力を発揮できない。それだけのこと。
(040217)(はやし浩司 子どもの勉強 勉強 学習 動機付け 動機づけ)

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

最前線の子育て論byはやし浩司(067)

●ガム(短編小説)

 寒い夜だった。冷たい風が、頬を切った。人通りは、少ない。数人の男たちと、少し前すれち
がった。みな、酒でも飲んだのか、赤い顔をしていた。大声で、何やら言いあっていた。が、そ
れだけだった。ほかに歩いている人はいなかった。

 私は自転車のペダルをこいだ。こぎながら、舌の先で、ガムをまるめた。小さなガムだった。
それを奥歯で、かんだ。

 冷気が口の中に入った。ガムが、かたくなった。縮んだような感じがした。私は、ペダルをこ
ぎながら、ガムをかんだ。ゆるいが、しばらくダラダラ坂がつづく。その坂を、少しだけ、力を入
れてこいだ。

 二年前、同じようにしてガムをかんでいたら、虫歯の詰め物が、はずれてしまった。ガムをか
みながら、ふと、それを思い出した。それで三万円! 治療費が、三万円! ガムをかむ力を
ゆるめた。ガムは、ますますかたくなった。ガムをかむ力を抜いた。

 「道路へ捨ててはだめだ」と、自分に言って聞かせた。強い誘惑を感じた。通りには、だれも
いない。あたりは、暗い。やがて今度は、くだり坂。ペダルに足をのせたまま、全身で、冬の風
を受ける。

 気がつくとガムは、ガムというより、かたいゴムのようになっていた。私は、走りながら、道の
そばのゴミ箱をさがした。自動販売機の空き缶入れが見えた。不要乾電池を入れる、カゴも見
えた。しかし通りすぎた。

 ガムを包む、紙をもっていなかった。私は、相変わらず舌の先で、ガムをころがしていた。こ
ろがしながら、ときどき力を入れて、自転車をこいだ。

 そう、私は、この三〇年間、ガムのみならず、ゴミを道路へ捨てたことはない。何度か、そう
いう場面はあったが、しなかった。「一度が二度、二度が三度……」。やがて歯止めがなくな
る。それが私にもわかっていた。

 自転車は、やがて、広い歩道へ出た。横には、できたばかりの大通りがつづく。その歩道へ
自転車をのりあげる、私はいくぶんか、スピードを落した。あとはゆっくりと走ればいい。そう考
えた。

 このあたりまでくると、冷気も気持ちよい。シャツの一番したから、さわやかな汗が、遠慮がち
にじみ出てくるのがわかる。私は、ガムを冷気にあてた。もうそのころになると、ガムというより
は、小石だった。かんでも味がない。かむと、ゴチリと歯にあたった。

 「捨てようか」と思った。しかしすかさず、「家までもっていこう」と。あとはその繰りかえし。「ど
うして自転車に乗る前に捨てなかったのか」とも。しかし自転車を、ガムをわざわざ捨てるため
に止めるのも、気が引けた。

 やがて二つ目の信号を渡ったときのこと。うしろから一人の女性がを追いぬいた。若い女性
だった。髪の毛が、風に乗って、大きくゆらいでいた。私は、その女性の、尻を見た。サドルに
埋もれて、ムチッとした肉が、外にはみ出ていた。私は、その尻を見ながら、ペダルに思わず
力を入れた。

 オスざるは、メスざるの尻を見て、発情するという。一説によると、赤い尻であればあるほど、
よいらしい。オスざるにもてるらしい。それも、しわくちゃのほうが、もてるとか。ふと、頭の中
で、そんな話を思い出した。

 しばらく私は、うしろをついて走った。しかしその女性の自転車は、折りたたみ式の自転車だ
った。スピードは出ない。軽くこいだだけで、今にも追いぬきそうになる。それに私は、もう30年
以上も自転車に乗っている。最近でこそ負けるようになったが、少し前まで、高校生と競争して
も、負けなかった。そんな自負心もあった。

 しばらく走って、四つ目の信号にさしかかったときのこと。信号が赤になっていた。が、その女
性は、信号を無視して、道を横切った。「信号無視だ」と思いながらも、私は自転車を止めた。
そしてそのまま信号が変わるのをまった。

 女性は数百メートルくらい先を走っていた。反対側から走ってくる車のライトで、その姿がとき
どき見えなくなった。信号が青になったとき、私は、どういうわけか、猛烈な勢いでペダルをこぎ
だした。「どういうわけか?」……実のところ、理由など、書く必要はない。私は、その女性の尻
が、また見たくなった。

 体を立たせ、両腕でハンドルを引きつけ、ペダルを全身の体重をかけて押す。そして今度は
思いっきり、ハンドルを、手前に引き寄せる。こういうのを英語では、ダッシュというう。私はそ
のダッシュを、リズミカルに繰りかえした。

 みるみるうちに、距離がせばまった。やがてその女性の姿をとらえ、またあの尻もきれいに
見えるようになった。派手な花模様の、がらパンツをはいていた。先ほどは気がつかなかった
が、よく見ると、赤、青のモザイク模様だった。

 私はスピードを落したが、しかしそのままその女性を追いぬいてしまった。その瞬間、その女
性は、私を警戒したような様子を見せた。私は、そ知らぬ顔をして、前に出た。顔を見たかった
が、がまんした。きっと、美しい女性にちがいない。

 こういうとき、振りかえるのは、タブー(?) あらぬ下心を疑われる。それに私は昔から、こう
いうシチュエーションに弱い。不器用というか、センスがないというか……。私はそれまでの勢
いで、どんどんと前に出た。……出てしまった。

 やがて大きな交差点にさしかかった。その向こうは、大きなショッピングセンターになってい
る。が、そういうときほど、信号は青。私は、何食わぬ顔で、道を横切った。が、そこで信号は、
黄色。そして赤に……。そのときはじめてうしろを振りかえった。が、その女性の姿は消えてい
た。「しまった!」と思った。

 とたん、それまでがまんしていた息が、堰(せき)を切ったかのように、はげしく肺から吹き出
した。ハーハーと。とたん、あろうことか、あのガムが、その息にまざって、外に! ポロリという
より、プイといった感じだった。再び、「しまった!」と思った。

 私は、この30年間守り抜いた何かを、その瞬間、なくしたような気がした。善なる心か。はた
また道徳か。それとも倫理か。

 もどって拾うことも考えたが、足だけは、勝手に動きつづけた。戻ったところで、この暗闇で
は、どこにあるかさえもわからないだろう。そんな言い分けを、自分に言って聞かせた。しかし
気分はよくなかった。気まずい思いが、胸をふさいだ。

 何といっても、あの女性が悪い。私を誘惑した。そのおかげで、私は、ガムを、道路に捨てる
ハメに! 

 家に帰ってワイフに、「今夜は、ガムを道路に捨ててしまった」と、ポツリと告げると、ワイフ
は、夕食を用意する手を休めずに、「あら、どうして? あなたが?」と。

 しかし私は、理由を話せなかった。だからそのまま夕刊の中に顔をうずめて、遅い夕食に箸
をつけた。そしてしばらくして、こう言った。

 「いつでも道徳を破壊するのは、人間の欲望だ」と。

 何ともさまになった結論だった。そう思いながら、口を閉じて、夕食をかんだ。
(040217)

【追記】

短編小説に挑戦してみました。意味のない小説ですが、そのときの状況が、みなさんの頭の中
に浮かんでくれば、うれしいです。これから先、ときどき書いてみようと思っています。
 
+++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩

 
最前線の子育て論byはやし浩司(068)
 
【近況・あれこれ】

●あのパソコンが……

 ほぼ半年ぶりに、近所の奥さんが、助けを求めてきた。「パソコンが動かなア〜い」と。

 見にいくと、あのパソコンは、そのまま。PEN4つきの、ものすごく性能のよいパソコン。……
だった。しかし昨日見ると、それほどでも……という感じになっていた。この世界、まさに日進月
歩。

 「プリンターがこわれた」「文字がおかしい」「ワードが使えない」など、会うとあれこれ言いだし
た。

 プリンターを調べると、ドライバーが、こわれているのがわかった。文字がおかしいというの
は、(ひらがな変換)になっていた。ワードが使えないというのは、ショートカットが消えていた。
どれも初歩的なミスである。

 驚いたのは、今まで書いた文章が、ファイル形式で、そのままデスクトップに並んでいたこと。
それがズラリと、ところ狭しと並んでいた。「奥さん、こんなところに保存してはだめだ」と言いか
けたが、やめた。

 私が「ドライバーがこわれている……」ともらすと、奥さんは、すかさず保証書を見せた。「じゃ
あ、電気屋さんにきてもらう」と。

私「これは保証書の問題ではなく、パソコンの使い方の問題だから……」
奥「でも、こわれているんでしょう?」
私「いや、デバイスマネージャーで、ドライバーを更新すればすぐなおります」
奥「すぐですかア?」
私「すぐといっても、5分ほど、かかりますよ」と。

 以前、「ドライバーの入ったCDディスクがありますか?」と聞いたら、その奥さん、本物のドラ
ーバーをもってきた! 本物の、ネジ回しのドライバーだぞ!

 あれこれ設定をしなおしていると、「林さんは、神様みたい」と、さかんに言った。しかしそう言
われて、悪い気はしない。しかしこういうのを、『宝の持ち腐(ぐさ)れ』、という。心の中で、何度
も、「もったいないなア〜」と思った。

 設定しなおしながら、こんなことを思った。

 ずいぶんと前の話だが、私も、私のパソコンをなおしてくれる人を、神様のように思ったこと
がある。で、その人が、私のパソコンをなおしながら、こう聞いた。

 「林さんは、たとえばこうした修理をしてくれる人に、いくらなら払いますか。いえ、私に払えと
言うのではありません。いくらくらいなら、払ってもいいとお考えですか?」と。

 そこで私は、こう言った。「状況にもよりますが、せっぱつまっていたら、一万円でも払うでしょ
うね。まあ、一回、5000円程度かな」と。

 しばらくするとその人は、その販売会社をやめ、H市内で、パソコンの救急病院を始めた。
「電話一本で、24時間、おうかがいします」というのが、その会社のキャッチフレーズだった。
で、それからさらに数年。その人の会社は、今では、あちこちに支店をもつまでの会社になっ
た。

 あれこれなおしてあげて、時計を見ると、一時間はすぎていた。帰ろうとすると、奥さんは、
「お茶も出さないで……」と、あやまった。あやまりながら、こう言った。「また何かあれば、助け
てくださいね」と。

 私は、「ハア〜」と言っただけで、つぎの言葉が出てこなかった。


●口のうまい人

 世の中には、口のうまい人というのが、いる。大阪商人系の人は、たいていそう。つまり、口
をうまく使って、商売をする。「あら、ダンナさん、今日は、いい服を着てらっしゃいますねえ。似
あいますよ」とか何とか。

 しかし相手をほめるだけではない。従兄(いとこ)から、こんな話を聞いた。

 何でもその従兄の義母が、その口のうまい人だというのだ。従兄は、「天才的にうまい」と言
ったが、たとえば……。

 いつも従兄には、こういうと言う。「Xさんとこの息子は、薄情なもんや。親のめんどうをみるの
がいやだと言って、親を、老人ホームへ入れたそうや」と。

 つまりその義母は、そう言いながら、従兄に、「あんたは、私にそういうことをするなよ」と。

 また、今度、従兄が、義母のために、庭先に、八畳間の離れの部屋を増築した。で、その離
れが完成した。予定よりも一か月も早く、完成した。それで、お金の工面(くめん)に苦労してい
ると、義母が、横から、「悪いが、カーテンだけは、私に買わせてほしい」と。

 つまり「カーテン代しか、払わないぞ」と。

 従兄はこう言って、笑った。「ぼくは、ただ、工事が早く終わったので、まだお金の用意ができ
ていないと言っただけなのですがね」と。

 一事が万事。口のうまい人は、あらゆる面で、うまい。それがその人の、生きる処世術のよう
にもなっている。しかしそのうまさは、一度、見抜かれると、急速に、神通力を失う。

 私も、その大阪商人の流れをくむ人間の一人である。若いころだが、そんなわけで、「林さん
は、口がうまいね」と、ある人にたしなめられたことがある。以来、私は、努めて、そういった言
い方をひかえている。

 しかし人間の心にしみついた「質」は、そう簡単には消えない。油断すると、つい、そういった
ことを、口にしてしまう。

が、悪いばかりではない。そういう「質」があるから、反対に、口のうまい人を、すぐ見抜ける。
「ああ、この人は、本心で、そう言っているのではないぞ」と。

 まあ、結論から先に言えば、口のうまいのは、商売で使うのは構わないが、ふつうの人間関
係では、避けたほうがよい。信用をなくす。人から相手にされなくなる。


●考えることの大切さ

 学生時代のことだが、こんなことがあった。

 伊豆半島を、ひとり旅していたときのこと。その日は、午後早くに、堂ヶ島の民宿に着いた。

 で、私は着くとすぐ、散歩に出た。海岸線に沿って、岩の上を歩き始めた。そのときのこと。

 しばらく歩いて行くと、黒い岩の向こうに、赤い岩の山が見えた。私は立ち止まって、「?」と考
えた。

 岩の種類が違うのだろうか。
 岩が、海面から飛び出したのだろうか。
 どうしてあのあたりの岩だけが色が違うのだろうか、と。

 私は近くまで、恐る恐る、歩いていった。そして赤い岩の前までくると、その中の石ころの一つ
を手に取ってみた。そしてしばし、それをながめていた。と、そのとき、突然、目の前に、ドドー
ッと、上から赤い岩のかたまりが落ちてきた。

 見あげると、上の通りから、ダンプが、土砂を海を捨てるところだった。私はとっさの判断で、
身をひるがえし、数歩、うしろへジャンプした。

 私やあやうく一命を落すところだった。しかもその土砂の下敷きになるところだった。もしあの
とき、「?」と思わないで、そのまま歩きつづけていたら、まちがいなくそうなっていた。

 人の運命は、無数の偶然が折り重なって、決まる。しかしそのときでも、もし「考える」という習
慣が身についていたら、その運命を、自分の力で変えることができるかもしれない。その日の
できごとは、それを確信させるのに、じゅうぶんなできごとだった。

 ……こう書きながら、今でもあの日のことを思うと、ゾーッとする。恐らく私は、行方不明のま
ま、処理されただろう。あれだけの土砂だから、姿形なく、その土砂の下敷きになっていたは
ず。それに今の時代とは、ちがう。たいした捜索もしないまま、事件は処理されていたはず。

 考えるということは、そういうことをいう。だから私は、生徒たちにこう言う。「考える人間にな
れ。どんなことでもいい。それが運命を変えることだって、ある」と。

 あまりよい例ではないかもしれないが、私がそう思うようになった、その一つのきっかけが、
あの日のできごとだった。
(040218)

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司


最前線の子育て論byはやし浩司(069)

●死の恐怖

死に際して、生の尊さがわかるのは、ごく自然なことではないのか。そんなことは、今、健康な
人でも、少し想像力を働かせば、わかること。

(重い病気をもっている方には、たいへん失礼な言い方になるかもしれないが、このエッセーの
テーマではないので、許してほしい。)

それはそれだが、しかしその死に際して、常人の常識では、理解できないことが、ときどき起こ
る。こんな事例がある。

 A氏とB氏は、長い間、はげしい隣人戦争を繰りかえした。今も繰りかえしている。もっともし
かけてくるのは、いつもB氏。これはA氏の話だから、そのまま信ずるわけにはいかない。しか
し、A氏は、こう言った。

 「やられましたね。車のタイヤには、穴をあけられるわ、クーラーのカバーは、割られるわ、あ
げくの果てには、植木鉢を、カベにぶつけられるわ……。いろいろありました。うちへ来る客
が、隣の玄関横に、車を止めただけで、パトカーまで呼びつけられました」と。

 ここまでの話なら、よくある。隣人どうし、仲がよいケースは、意外と少ない。うちの近所だけ
をみても、仲がよいのは、三軒に一軒くらい? 程度の差もある。

 しかし昨年、そのB氏が、がんで入院した。春に手術をして、秋にもう一度、入院した。今は、
抗がん剤のせいか、「エビをゆでたような赤い顔」(B氏談)をしているという。

 が、そのB氏。A氏へのいやがらせが、それで終わったかというと、そうではない。ますますは
げしくなったという。

 ……実は、ここが私には、理解できないところである。B氏は、何度も死の恐怖を味わったは
ず。がんで手術するということは、そういうことだ。毎日抗がん剤をのむというのは、そういうこ
とだ。

 が、「相変わらず、いやがらせをつづけている」と。

 私なら……という言い方は、たいへん危険な言い方になるかもしれないが、もう、そういうくだ
らないことはしない。そんなことをしているヒマはない。もっと、別の考え方をするだろう……と
思う。自信はないが……。あるいは死の恐怖を味わうと、ますますそういうことを、執拗(しつよ
う)にするようになるのだろうか。

 その上、A氏の話によると、B氏は、年金生活者。奥さんも元気で、その奥さんは、莫大な遺
産を相続している。何一つ、不自由ない生活をしている。

 ゆいいつ考えられるのは、B氏からみれば、健康なA氏が、ねたましいのではないかというこ
と。被害妄想の強い人だったら、自分を、隣人が、「ザマー見ろ!」と笑っていると思うかもしれ
ない。

 ともかくも、私にはB氏の心理状態が、理解できない。

私「病院で、夜寝られないからといって、看護婦さんの詰め所の前で、座って眠っている人の話
を聞いたことがある」
ワイフ「死ぬということは、さみしいことなのね」
私「そういう話なら、わかる。しかしその一方で、ますます我欲にとりつかれる人もいる」
ワ「そうね。そこがわからないところね」
私「死ぬ間際になって、土地の取りあいで、裁判を起こした人さえいる」と。

 まだまだ私には、わからないことが山のようにある。今度、B氏に会って、ゆっくりと話を聞い
てみたい。
(040219)

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

最前線の子育て論byはやし浩司(070)

【雑感・あれこれ】

●風船

 この二週間、教室では、風船づくりを楽しんだ。早く来た子どもたちのために、風船を用意し
た。が、それが思わぬ結果に……。

 一応、ポンプで風船を、ふくらませるのだが、そのポンプが、かたい。ギコギコ、シューシュ
ー、ギコギコ、シューシューと。

 毎日、何十個と作っているうちに、最初は、筋肉痛。そのうち腕の腱を痛めて、鈍痛に合わ
せて、腕が動かなくなってしまった。

 しかし子どもたちは、許してくれない。「もっと作れ」「もっと作れ」と、せがんでくる。しかたない
ので作るのだが、腕がそのたびに、ますます痛くなる。ああ〜!

 やったことがない運動をすると、とたんに体が故障する。これも年のせいか。

 で、この原稿を書いている今日、やっと、風船が底をつき始めた。よかった。ほっとした。もう
風船遊びは、したくない。

 しかし来週からは、何をしようか。日曜日に、またどこかの店に行って、何かおもしろそうなも
のをさがそう。


●幼児をもつ母親対象の懇話会

 今度、E鉄道・E不動産会社のイベント会場で、懇話会の講師をすることになった。

 子どもを伸ばす、4つの鉄則という話をする。

 骨子は、(1)好奇心旺盛な子どもにする。つまりやる気のある子どもにする。……これは、
W・H・ホワイトの「コンピテンス論」を、柱にする。

 (2)心がすなおな子どもにする。……これは、母子の基本的信頼関係について話せばよい。
(さらけ出し)と(受け入れ)の話である。私が得意とする分野である。

 (3)知的能力をのばす。……これは大脳生理学での最新の研究を柱にして、話せばよい。
頭の良し悪しは、柔軟性で決まる。わかりやすく言えば、頭のやわらかい子どもは、伸びる。そ
うでない子どもは、伸び悩む。

 (4)役割形成。……これは私の体験もまぜて、役割形成の大切さを説く。つまりこの形成が
しっかりとできている子どもは、道をふみはずさない。悪への抵抗力も、そこから生まれる。

 若いお母さん方が中心の会ということだから、あまり専門的な話をしても、理解してもらえない
だろう。こうした懇話会では、どこでどのように笑いを入れるかが、ポイントとなる。

 興味のある方は、ぜひ、講演会に来てほしい。

 ケーキと、本の無料プレゼントつき。(先着50人と10人)

 日時  3月7日(日曜日)  14:00〜15:30
 場所  ブライトタウン上島販売センター・モデルルーム
詳しくは……遠鉄鉄道まで。0120−388−378
(場所が、まだはっきりしていませんので、おいでの方は、
 どうか、電話で確認してください。あのあたりには、
 遠鉄不動産のマンションが、たくさんありますので……。)


●長男がまた失業!

 長男の勤める会社が、倒産の危機にあるという。それで、ということなのだろう。長男の方
が、一応退職届を出したという形になってはいるが、リストラされてしまった。

 今は、そんなわけで、長男は、職業安定所に通っている。多少の手当てが出るらしく、悲壮感
はない。のんびりと好き勝手なことをしている。

 そういう意味では、独身というのは、よいものだ。生活に対する責任感がない。切迫感もな
い。(私もないが……)もともとは身体障害者のために仕事をしたいと思って入社した会社だ
が、そんなに世間は、甘くはなかった。

 まあ、いろいろあるようだ。私が知らないところで、長男は長男なりに、悩んでいるのかもしれ
ない。親としては、暖かく無視するしかない。その会社に勤めているときは、毎朝6時に起きて
仕事にでかけていた。ここらあたりで、休憩するのもよいのではないか。

 どういうわけか、長男は、よい仕事に恵まれない。その会社にも、二年ほどいたが、その前
の会社も、この不景気で、どうかなってしまった。

 オーストラリアから日本へ帰ってきたときには、仕事がなくて、道路工事の旗振りの仕事をし
ていた。それは、半年くらいしかしなかったが、私が、「もう少し楽な仕事をしたら?」と言うと、
「ぼくは、一番つらい仕事で、自分をためしてみたい」と。

 長男は、子どものときから、へんなところで、へんにがんばる。

 そのうち、自分の仕事を見つけるだろう。人生は、まだまだ長い。本当は、私の仕事を手伝っ
てもらいたいが……。自分から「やりたい」と言うまで、様子を見ることにしている。


●ダイヤモンドの星

 最近知ったニュースの中で、傑作(けっさく)なのは、これ。

 何と、直径4000キロもの大きさの、ダイヤモンドでできた星が見つかったというのだ。アメリ
カのハーバード・スミソニアン天体物理学センターの研究者が2月17日、発表した。

 その星というのは、地球から50光年の、ケンタウルス座にあるBPM37093。恒星が燃えつ
き、冷え固まった「白色わい星」という星の一つだそうだ。

 直径4000キロだぞ! ハハハ。4000キロだ! 北海道の北端から、九州の南端までが、
約2000キロ! その2倍だ!

 宇宙のすることは、さすがスケールが、でっかい。で、私はまたまた考えさせられた。では、
今、地球人がもっているダイヤモンドの指輪は、何か、と。

 ものの価値というのは、そういうもの。今でこそ安くなったが、私が学生のころは、ダイヤモン
ドといえば、あらゆる「価値」の中で、王者の中の王だった。涙の一しずくのようなダイヤモンド
でさえ、当時は、100万円以上もした。(サイズ、色、キズなどで、ダイヤモンドの価値は決まる
が……。)

 それが4000キロとは! 想像するだけで、楽しい。

 言いかえると、今、私たちは、ひょっとしたら、価値があるものを、価値がないと思いこまされ
ているだけかもしれない。反対に、価値のないものを、価値があると思いこまされているだけか
もしれない。 

 もともと人間が作り出した価値などというのは、幻想と錯覚のかたまりのようなもの。子どもが
楽しむカードゲームと、どこもちがわない。ほんの少し見方をかえただけで、その価値が一転
するということは、よくある。

 昔、ある寺で、信者たちが白い手袋をはめて、彼らがいうところの「仏様」の世話をしている
のを見たことがある。それはそれは、ぎょうぎょうしい儀式だった。「仏様」の近くにいる信者た
ちは、みな、白いマスクまでしていた。息をふきかけないため、ということだった。

 信者でない私には、「?」が、10個くらい並ぶような儀式だったが、当の信者たちは、みな、
真剣そのもの。ピンと張りつめた緊張感すら、感じた。(だからといって、そういう宗教的儀式を
否定しているのではない。どうか誤解のないように!)

 ダイヤモンドに価値がないというのではない。ただダイヤモンドを散りばめた王冠をかぶった
王者が、それなりに威張ってみせたりすることには、意味がないということ。いわんやダイヤモ
ンドの指輪をしただけで、幸福感に包まれるというのであれば、その幸福感は、エセというこ
と。

 何といっても、4000キロだぞ! ハハハ。

 これは生涯、ダイヤモンドとは、ほとんど無縁で過ごした、私のひがみのようなもの。ハハ
ハ。直径、4000キロだア! 


●コンピテンス(相互交渉能力)

 子どもというのは、何かの作業が終わったようなとき、「センセー!」と言って、それを、先生
のところにもってくる。

 こうした働きかけの原動力となる能力を、心理学の世界では、「コンピテンス」(W・H・ホワイ
ト)と呼ぶ。日本語では、「相互交渉能力」という。

 つまり子どもは、そういう形で、自分を主張し、自分の存在感を、まわりに訴えようとする。環
境とのかかわりと求めようとする。が、それだけではない。

 子どもが「センセー!」と言ってもってきたとき、たとえば先生が、それを無視したりすると、そ
の子どもは、とたんにやる気をなくす。

 あまりむずかしい心理ではないので、「なるほど」と思う人も多いかと思う。つまり子どもは、
先生に認めてもらうことイコール、まわりの環境に働きかけることで、自ら、やる気を引き出
す。「環境を動かした」という自信が、つぎの行動の原動力となる。こうした達成感を、「自己効
力感」という。

 もう少しわかりやすい例で説明してみよう。

 最近、私の友人が、電子マガジンの発行をやめてしまった。読者の数が、150人前後になっ
たところで、伸びが止まってしまったからだという。「書いても、書いても、読者がふえないと知っ
たとき、急に、やる気をなくした」と。

 その友人は、マガジンを発行することで、まわりの環境に働きかけた。しかしその環境が、そ
の友人を認めなかった。だからその友人は、やる気をなくした。

 では、子どものやる気を引き出すには、どうすればよいか。もう答は、出たようなもの。子ども
が、まわりの環境に何らかの働きかけをしてきたら、すかさず、それにていねいに答えてあげ
る。

 たとえば子どもが、何か新しいことを発見したり、何か新しいことができるようになったような
ときなど。「ママ〜、見てエ〜!」と言ってきたようなときは、それにていねいに応じてあげる。
「あら、じょうずにできるようになったわね」と。

 教室では、生徒が、「センセ〜!」と言ってきたようなときが、それにあたる。

 そのとき大切なことは、先生が、「これはすごいね」と前向きにほめてやること。たったそれだ
けのことだが、そうした行為が、子どもからやる気を引き出す。

 そしてさらに、W・H・ホワイトによれば、こうしたコンピテンスは、実は、赤ちゃんにもあるとい
う。赤ちゃんは手足をバタつかせ、懸命になって親に向かって、何かを訴えようとすることがあ
る。そういうとき、赤ちゃんのそうした行動に、親が、適切に反応してあげると、子どもは、(やる
気のある子ども)になる、と。

 決して、むずかしいことではない。

 『求めてきたとき、訴えてきたときが、与えどき』と覚えておくとよい。

 親側から、あえて、つまりわざとらしく、ほめたりする必要はない。子どもが、「見て!」「見
て!」と言ってきたようなとき。赤ちゃんで言えば、少しぐずって、おっぱいを求めるようなしぐさ
を見せたようなとき、すかさず、親がそれに答えてあげる。

 言うまでもなく、子どもが、「見て!」「見て!」ともってきたとき、「何だ、これ!」「もっと、じょう
ずにできるでしょ」式の、マイナスの反応を示すことは、タブー中のタブー。絶対にしてはいけな
い。


●読者の方より……

 今日(19日)、Mあんという方から、掲示板に書き込みがあった。そしてそれには、「先生の
文章は、いつもより力強く感じた」とあった。

 そういう批評をもらうと、私は、もう一度、自分の書いた文章を、最初から最後まで読みなお
す。

 実際のところ、こういう批評が、一番、うれしい。

 ものを書く人間は、書いたものを読んでもらうことで、生きがいを覚える。つまりこうした批評
は、私の文章をじっくりと読んでくれた人だけが、できる。Mさんは、「20分かかりました」と書
いている。「20分も、読んでもらえた」と思うだけで、さらにうれしさがます。

 Mさん、ありがとう!

 しかし先週は、別の読者の方から、「このところ、元気がないですね。落ちこんでおられる様
子が、よくわかります」というのを、もらった。たしかにそのときは、落ちこんでいた。

 それについて直接書かなくても、マガジン全体として、そういう印象を、そのつど読者の方に
与えるようだ。気をつけよう。


●最終講義

 Y大のNN氏という教授(紫綬褒章受賞)が、その大学で、最終講義をするという。恩師のT教
授(日本学士院賞受賞)の弟子だそうだ。

 で、T教授が、その最終講義の前に、あいさつをすることになった。たまたま私の息子が、そ
のY大の学生だったから、「お前も、最終講義を聞いてこい」と言ったら、「春休みで、講義はな
いヨ〜」と。

 バカなことを言っている。「最終講義」というのは、退官に先立って、その教授が、その大学
で、最後にする講義のことをいう。

 で、そのことを、T教授に話すと、「ぜひ、(あなたの息子に)会いたいから、来るように。その
あとの懇親会に招待したい」と。

 願ってもないチャンスだ。東大だけでも、T教授の弟子が、現在、8人も、教授をしているとい
う。またNN氏というのは、あのゾルゲ事件で逮捕された、NN氏の娘である。

私「世界のトップクラスの知性に触れるということは、とても重要なことだ。会ってこい」
息子「時間があればね……」
私「お前には、その価値がわからないのか。万難を排して行け!」
息子「行けたら、行くよオ〜」と。

 私の息子のような息子を、バカ息子という。「知性」というものが、どういうものか、その価値
が、まるでわかっていない。


●最高の知性

ノーベル賞受賞者たちが、ときおり世界からやってきて、いっしょに寝泊りした。それがあのメ
ルボルン大学の、インターナショナルハウスだった。

 もっとも、当時は、(今も基本的には同じだが……)、ノーベル章受賞者というのは、世界中に
ゴロゴロしていて、それほど、珍しくなかった。アメリカだけでも、200人を超える。ヨーロッパ全
体では、もっと、多い。メルボルン大学にせよ、アデレード大学にせよ、それぞれ7〜10人の
受賞者がいた。

 日本人がなかなかその賞を取れなかったのは、言葉の問題と、それに国際的な政治力の問
題があったからだという。当時、だれからか、そういう話を聞いたことがある。

 しかし慣れというのは、恐ろしいものだ。私はそういう人たちと、毎日のように接しながら、そ
れが特別なことだとは、まったく思わなかった。

 そんな中、たまたまローマ会議から帰ってくる途中、ハウスに寄っていった科学者がいた。ロ
ーマ会議というのは、世界のトップクラスの科学者たちが、それぞれの分野について話しあう
会議である。

 その科学者の名前は忘れたが、何でもその会議には、公開するための公開会議と、そうで
ない秘密会議があるというような話をしてくれた。そして実は、その秘密会議のほうが、重要
だ、と。
 
 いろいろな話を聞いた覚えがあるが、その一つに、食糧問題があった。「このままでは、あと
20年で、世界の食糧は、枯渇(こかつ)する」と。

 当時、日本にも、そして世界にも、食糧は豊富にあるように見えた。だから私はその話を聞
いたとき、「まさか!」と思った。しかし現実には、それから10年後には、世界中で食糧問題が
大きなテーマとなった。さらに現実には、今、それから34年になるが、「枯渇すること」は、なか
った。

 しかし今から思うと、あれが「知性」だったのかな、と思う。「人類は……」「地球は……」と、2
0年後、100年後に、自分の視点を置いて考える。さまざまなデータを集めて、そして一つの未
来像を作りあげていく。そしてその未来像を変えるようなことまでする。

 そう言えば、その科学者も、こう言っていた。「研究(STUDY)ほど、すばらしい職業はない」
と。

 残念ながら、私は、今、そういった知性とは無縁の生活をしている。ある意味で、知性など、
あまり必要のない生活といってもよい。しかし「知性」のもつすばらしさだけは、よく知っている。

 知性は、まさに神の世界に入るための切符のようなもの。遺伝子工学にみるまでもなく、そ
れが正しいかどうかという議論はさておき、今では、生命そのものまでつくりだすことができる。

そのローマ会議からの帰り道に寄った科学者も、見るからに神々しい人だった。もの静かな人
だったが、キラリと光る、鋭い目つきをしていた。で、おかしなもので、名前は忘れたが、その
人の部屋に入ると、壁にこんな紙が張りつけてあったことだけは、よく覚えている。

 「To Smokers, Smoke, considering other people's health and convenience」と。「喫煙者たち
よ、他人の健康と、快適さを考慮に入れて、タバコを吸え」と。

 当時はまだ、禁煙が、今ほどうるさくは叫ばれていなかった。くだらないことだが、今、ふと、
そんなことを思い出した。

 で、もう一度、息子にメールを送った。「万難を排して、NN教授の最終講義を聞くように」と。


●愚劣な人々

 こうした知性とは、対照的な位置にいるのが、愚劣な人々である。こんなメールをくれた女性
(埼玉県在住)がいた。

 「私の息子は、地域のサッカークラブに入っています。そのクラブの、監督のマナーの悪さに
は、困っています」と。

 その女性が言うには、その監督は、道路に痰を吐く、ゴミを捨てる、タバコの吸殻を捨てる、
さらに身障者用の駐車場に、平気で車を止めるなどの行為をするという。「目にあまる行為が
多すぎる」と。

 その監督は、年齢は60歳くらいだという。

 しかしこういうケースでは、その監督に、それを注意しても、意味はないということ。それは人
間そのものがもつ、「質」のようなもの。まさに一事が万事。そうしたマナーの悪さは、生活のあ
らゆる場面におよぶ。

 だから一部だけを見て、それを注意しても、意味はない。

 私もときどき、そのタイプの人に出会う。先日も、そのタイプの人に、車で、送り迎えをしても
らった。

 その人は、車内でタバコを吸っていたが、灰は、窓の外に捨てていた。また吸殻は、指先で
丸めて小さくたあと、窓の外に、やはり捨てていた。

 私が、気がつかないとでも思っていたのだろうか。しかしそういう行為は、目立つ。窓の外で、
吸殻を指先で丸めている様子まで、腕の動きでわかった。

 で、そういうとき、私は、そういう行為を無視する。注意する必要はない。また注意したところ
で、どうこうなる問題ではない。ただ、私のばあい、そういうレベルの低い人(失礼!)とは、そ
れを最後に、できるだけ、つきあわないようにしている。

 『バカなことをする人を、バカというのよ。(頭じゃないのよ)』(フォレスト・ガンプ)と。

 こういう愚劣な人が無数に集まって、環境を悪くし、人間社会を破壊する。大切なことは、一
人ひとりの人が、心して、良心の声に耳を傾けるということ。マナーを守ることも、その一つ。そ
ういう力が集合され、大きくなったとき、人間がかかえるあらゆる問題は、自然に解決する。
(040219)

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

最前線の子育て論byはやし浩司(071)

善と悪(2)

●良心の声

 おかしいことは、おかしいと思う。たったそれだけのことが、あなたの中の良心を育てる。あと
はその良心に従って、行動すればよい。

 善人と悪人のちがいは、その良心の大きさによって決まる。良心が比較的大きな人を、善人
といい、比較的小さな人を、悪人という。つまり善人にも、悪人的な要素はあり、悪人には、善
人的な要素がある。

 純粋な善人というのは、いない。一方、純粋な悪人というのは、いない。あるいはどんな善人
でも、またどんな悪人でも、その時と場合において、悪人になったり、善人になったりする。

 そのことは、子どもを見ているとわかる。

 昔、どうしようもないほど、ワルの子ども(小五男児)がいた。母親は、毎週のように学校に呼
びだされていた。その子どものことで、私と母親が話しあっているときのこと。

私はその子どもが近くにいることも意識して、「○○君は、乱暴な子どもに見えるかもしれませ
んが、本当は心のやさしい子どもです。おとなになると、大物になる子どもだから、今はがまん
しましょう」と言った。

 で、その数日後のこと。その子どもが、いつもより30分も早く、教室へ来た。「どうしたの?」
と聞くと、「先生、肩もんでやるよ。先生、肩こりしないか?」と。

 心理学では、こういうのを「好意の返報性」という。子どもというのは、自分を信じてくれる人の
前では、自分のよい面を見せようとする。反対に、そうでない人の前では、そうでない。おとな
の私たちですら、自分を疑っている人の前へ行くと、自分の邪悪な部分を、自然な形で、出して
しまうことがある。言わなくてもいいようなことを言ってしまったり、してはいけないようなことま
で、してしまう。

 この私だって、かなり無理をして善人ぶっている。が、一皮むけば……。あまりむいたことが
ないのでよくわからないが、しかしだれかが私を善人だと言ったら、私は、吹きだしてしまうだろ
う。私は、悪人ではないが、しかし決して、善人ではない。

 そこで大切なことは、どんな人にも二面性があるということ。まずそのことを知る。つぎに大切
なことは、善人である自分を育て、悪人である自分を、否定すること。そのために、いつも、自
分の良心の声に耳を傾ける。

 ……と言っても、何が善なのかは、実のところわかりにくい。が、何が悪なのかは、わかりや
すい。そこで冒頭の話。「おかしいことは、おかしいと思う」。たったそれだけのことだが、それ
があなたの中の良心を育てる。

 (そういう意味でも、善と悪は、決して平等ではない。善人ぶることなら、だれにでもできる。暴
力団の親分にだってできる。しかし自分の中から、「悪」を消すことは、容易なことではない。

 『悪と善は、神の右手と左手である』という有名な言葉を残したのは、ベイリー(「フェスタス」)
だが、そんな単純なものではないということ。)

++++++++++++++++++++++

この善と悪について、以前書いた原稿を、
手なおしして掲載します。

++++++++++++++++++++++

善と悪(1)

●神の右手と左手

 昔から、だれが言い出したのかは知らないが、善と悪は、神の右手と左手であると、言われ
ている。善があるから悪がある。悪があるから善がある。どちらか一方だけでは、存在しえな
いということらしい。

 そこで善と悪について調べてみると、これまた昔から、多くの人がそれについて書いているの
がわかる。よく知られているのが、ニーチェの、つぎの言葉である。

 『善とは、意思を高揚するすべてのもの。悪とは、弱さから生ずるすべてのもの』(「反キリス
ト」)

 要するに、自分を高めようとするものすべてが、善であり、自分の弱さから生ずるものすべて
が、悪であるというわけである。

●悪と戦う

 私などは、もともと精神的にボロボロの人間だから、いつ悪人になってもおかしくない。それを
必死でこらえ、自分自身を抑えこんでいる。トルストイが、『善をなすには、努力が必要。しかし
悪を抑制するには、さらにいっそうの努力が必要』(『読書の輪』)と書いた理由が、私には、よ
くわかる。

もっと言えば、善人のフリをするのは簡単だが、しかし悪人であることをやめようとするのは、
至難のワザということになる。もともと善と悪は、対等ではない。しかしこのことは、子どもの道
徳を考える上で、たいへん重要な意味をもつ。

 子どもに、「〜〜しなさい」と、よい行いを教えるのは簡単だ。「道路のゴミを拾いなさい」「クツ
を並べなさい」「あいさつをしなさい」と。しかしそれは本来の道徳ではない。人が見ていると
か、見ていないとかということには関係なく、その人個人が、いかにして自分の中の邪悪さと戦
うか。その「力」となる自己規範を、道徳という。

 たとえば道路に、一〇〇〇円札が落ちていたとする。そのとき、まわりにはだれもいない。拾
って、自分のものにしてしまおうと思えば、それもできる。そういうとき、自分の中の邪悪さと、ど
うやって戦うか。それが問題なのだ。またその戦う力こそが、道徳なのだ。

●近づかない、相手にしない、無視する

 が、私には、その力がない。ないことはないが、弱い。だから私のばあい、つぎのように自分
の行動パターンを決めている。

たとえば日常的なささいなことについては、「考えるだけムダ」とか、「時間のムダ」と思い、でき
るだけ神経を使わないようにしている。社会には、無数のルールがある。そういったルールに
は、ほとんど神経を使わない。すなおにそれに従う。

駐車場では、駐車場所に車をとめる。駐車場所があいてないときは、あくまで待つ。交差点へ
きたら、信号を守る。黄色になったら、止まり、青になったら、動き出す。何でもないことかもし
れないが、そういうとき、いちいち、あれこれ神経を使わない。もともと考えなければならないよ
うな問題ではない。

 あるいは、身の回りに潜む、邪悪さについては、近づかない。相手にしない。無視する。とき
として、こちらが望まなくても、相手がからんでくるときがある。そういうときでも、結局は、近づ
かない。相手にしない。無視するという方法で、対処する。

それは自分の時間を大切にするという意味で、重要なことである。考えるエネルギーにしても、
決して無限にあるわけではない。かぎりがある。そこでどうせそのエネルギーを使うなら、もっと
前向きなことで使いたい。だから、近づかない。相手にしない。無視する。

 こうした方法をとるからといって、しかし、私が「(自分の)意思を高揚させた」(ニーチェ)こと
にはならない。これはいわば、「逃げ」の手法。つまり私は自分の弱さを知り、それから逃げて
いるだけにすぎない。本来の弱点が克服されたのでも、また自分が強くなったのでもない。そこ
で改めて考えてみる。

はたして私には、邪悪と戦う「力」はあるのか。あるいはまたその「力」を得るには、どうすれば
よいのか。子どもたちの世界に、その謎(なぞ)を解くカギがあるように思う。

●子どもの世界

 子どもによって、自己規範がしっかりしている子どもと、そうでない子どもがいる。ここに書い
たが、よいことをするからよい子ども(善人)というわけではない。たとえば子どものばあい、悪
への誘惑を、におわせてみると、それがわかる。印象に残っている女の子(小三)に、こんな子
どもがいた。

 ある日、バス停でバスを待っていると、その子どもがいた。私の教え子である。そこで私が、
「缶ジュースを買ってあげようか」と声をかけると、その子どもはこう言った。「いいです。私、こ
れから家に帰って夕食を食べますから」と。「ジュースを飲んだら、夕食が食べられない」とも言
った。

 この女の子のばあい、何が、その子どもの自己規範となったかである。生まれつきのものだ
ろうか。ノー! 教育だろうか。ノー! しつけだろうか。ノー! それとも頭がかたいからだろう
か。ノー! では、何か?

●考える力

 そこで登場するのが、「自ら考える力」である。その女の子は、私が「缶ジュースを買ってあげ
ようか」と声をかけたとき、自分であれこれ考えた。考えて、それらを総合的に判断して、「飲ん
ではだめ」という結論を出した。

それは「意思の力」と考えるかもしれないが、こうしたケースでは、意思の力だけでは、説明が
つかない。「飲みたい」という意思ならわかるが、「飲みたくない」とか、「飲んだらだめ」という意
思は、そのときはなかったはずである。あるとすれば、自分の判断に従って行動しようとする意
思ということになる。

 となると、邪悪と戦う「力」というのは、「自ら考える力」ということになる。この「自ら考える力」
こそが、人間を善なる方向に導く力ということになる。釈迦も『精進』という言葉を使って、それ
を説明した。言いかえると、自ら考える力のな人は、そもそも善人にはなりえない。

よく誤解されるが、よいことをするから善人というわけではない。悪いことをしないから善人とい
うわけでもない。人は、自分の中に潜む邪悪と戦ってこそはじめて、善人になれる。

 が、ここで「考える力」といっても、二つに分かれることがわかる。一つは、「考え」そのもの
を、だれかに注入してもらう方法。それが宗教であり、倫理ということになる。子どものばあい、
しつけも、それに含まれる。

もう一つは、自分で考えるという方法。前者は、いわば、手っ取り早く、考える人間になる方
法。一方、後者は、それなりにいつも苦痛がともなう方法、ということになる。

どちらを選ぶかは、その人自身の問題ということになるが、実は、ここに「生きる」という問題が
からんでくる。それについては、また別のところで書くとして、こうして考えていくと、人間が人間
であるのは、その「考える力」があるからということになる。

 とくに私のように、もともとボロボロの人間は、いつも考えるしかない。それで正しく行動できる
というわけではないが、もし考えなかったら、無軌道のまま暴走し、自分でも収拾できなくなって
しまうだろう。もっと言えば、私がたまたま悪人にならなかったのは、その考える力、あるいは
考えるという習慣があったからにほかならない。つまり「考える力」こそが、善と悪を分ける、
「神の力」ということになる。

●補足

 善人論は、むずかしい。古今東西の哲学者が繰り返し論じている。これはあくまでも個人的
な意見だが、私はこう考える。

 今、ここに、平凡で、何ごともなく暮らしている人がいる。おだやかで、だれとも争わず、ただ
ひたすらまじめに生きている。人に迷惑をかけることもないが、それ以上のことも、何もしない。
小さな世界にとじこもって、自分のことだけしかしない。

日本ではこういう人を善人というが、本当にそういう人は、善人なのか。善人といえるのか。

 私は収賄罪(しゅうわいざい)で逮捕される政治家を見ると、ときどきこう考えるときがある。
その政治家は悪い人だと言うのは簡単なことだ。しかし、では自分が同じ立場に置かれたら、
どうなのか、と。目の前に大金を積まれたら、はたしてそれを断る勇気があるのか、と。

刑法上の罪に問われるとか、問われないとかいうことではない。自分で自分をそこまで律する
力があるのか、と。

 本当の善人というのは、そのつど、いろいろな場面で、自分の中の邪悪な部分と戦う人をい
う。つまりその戦う場面をもたない人は、もともと善人ではありえない。小さな世界で、そこそこ
に小さく生きることなら、ひょっとしたら、だれにだってできる(失礼!)。

しかしその人は、ただ「生きているだけ」(失礼!)。が、それでは善人ということにはならない。
繰り返すが、人は、自分の中の邪悪さと戦ってこそ、はじめて善人になる。

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【付録】

 あまり関係ないかもしれませんが、この
原稿を書いているとき、以前、書いた、「尾崎豊の
卒業論」を思い出しました。ついでにここに掲載
しておきます。

 この原稿は、私は好きなのですが、新聞社の方
には、嫌われました。読んでいただければ、その
理由がわかると、思います。

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●尾崎豊の「卒業」論(中日新聞発表済み)

学校以外に学校はなく、学校を離れて道はない。そんな息苦しさを、尾崎豊は、『卒業』の中で
こう歌った。

「♪……チャイムが鳴り、教室のいつもの席に座り、何に従い、従うべきか考えていた」と。

「人間は自由だ」と叫んでも、それは「♪しくまれた自由」にすぎない。現実にはコースがあり、
そのコースに逆らえば逆らったで、負け犬のレッテルを張られてしまう。尾崎はそれを、「♪幻
とリアルな気持ち」と表現した。

宇宙飛行士のM氏は、勝ち誇ったようにこう言った。「子どもたちよ、夢をもて」と。しかし夢をも
てばもったで、苦しむのは、子どもたち自身ではないのか。つまずくことすら許されない。

ほんの一部の、M氏のような人間選別をうまくくぐり抜けた人だけが、そこそこの夢をかなえる
ことができる。大半の子どもはその過程で、あがき、もがき、挫折する。尾崎はこう続ける。「♪
放課後街ふらつき、俺たちは風の中。孤独、瞳に浮かべ、寂しく歩いた」と。

●若者たちの声なき反抗

 日本人は弱者の立場でものを考えるのが苦手。目が上ばかり向いている。たとえば茶パツ、
腰パン姿の学生を、「落ちこぼれ」と決めてかかる。しかし彼らとて精一杯、自己主張している
だけだ。それがだめだというなら、彼らにはほかに、どんな方法があるというのか。

そういう弱者に向かって、服装を正せと言っても、無理。尾崎もこう歌う。「♪行儀よくまじめな
んてできやしなかった」と。彼にしてみれば、それは「♪信じられぬおとなとの争い」でもあった。

実際この世の中、偽善が満ちあふれている。年俸が二億円もあるようなニュースキャスター
が、「不況で生活がたいへんです」と顔をしかめて見せる。いつもは豪華な衣装を身につけて
いるテレビタレントが、別のところで、涙ながらに貧しい人たちへの寄金を訴える。

こういうのを見せつけられると、この私だってまじめに生きるのがバカらしくなる。そこで尾崎は
そのホコ先を、学校に向ける。「♪夜の校舎、窓ガラス壊して回った……」と。

もちろん窓ガラスを壊すという行為は、許されるべき行為ではない。が、それ以外に方法が思
いつかなかったのだろう。いや、その前にこういう若者の行為を、誰が「石もて、打てる」のか。

●CDとシングル盤だけで二〇〇万枚以上!

 この「卒業」は、空前のヒット曲になった。CDとシングル盤だけで、二〇〇万枚を超えた(CB
Sソニー広報部、現在のソニーME)。「カセットになったのや、アルバムの中に収録されたもの
も含めると、さらに多くなります」とのこと。

この数字こそが、現代の教育に対する、若者たちの、まさに声なき抗議とみるべきではないの
か。

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【結論】

 何が正しくて、何がまちがっているのか。つきつめて考えていくと、ますますわからなくなりま
す。

 正しいことをしているようで、まちがっていることをしていることがあります。まちがったことをし
たと思っていても、それが結果として、正しかったということもあります。

 そこで人間は、「考える」という行動に出ます。言いかえると、考えることによって、人は、自分
の中の良心に近づくことができます。つまり、良心イコール、知性。知性イコール、真理というこ
とになります。

 私にはまだよくわかりませんが、この良心を、知性によって追求することによって、人は真理
に到達できるのではないでしょうか。

 かなり飛躍した論法なので、「?」と思われる方も多いと思いますが、このつづきは、また別
の機会に考えてみたいと思います。
(040219)

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

最前線の子育て論byはやし浩司(072)

●子どもの役割を認めてあげよう

 それぞれの子どもには、それぞれの役割がある。自然にできる方向性といってもよい。その
役割を、親は、もっとすなおに認めてあげよう。

 よく誤解されるが、「いい高校へ……」「いい大学へ……」というのは、役割ではない。それは
目的ももたないで、どこかの観光地へ行くようなもの。行ったとたん、何をしてよいのかわから
ず、子どもは、役割混乱を引き起こす。

 たとえば子どもが、「花屋さんになりたい」と言ったとする。そのとき大切なのは、子どもの夢
や希望に沿った言葉で、その子どもの未来を包んであげるということ。

 「そうね、花屋さんって、すてきね。おうちをお花で飾ったら、きっと、きれいね」と。

 そして子どもといっしょに、図書館へ行って花の図鑑を調べたり、あるいは実際に、花を栽培
したりする。そういう行為が、子どもの役割を、強化する。これを心理学の世界では、「役割形
成」という。

 つまり子どもの中に、一定の方向性ができる。その方向性が、ここでいう役割ということにな
る。

 が、親は、この役割形成を、平気でふみにじってしまう。子どもがせっかく、「お花屋さんにな
りたい」と言っても、子どものたわごとのように思ってしまう。そして子どもの夢や希望をじゅうぶ
ん聞くこともなく、「あんたも、明日から英語教室へ行くのよ!」「何よ、この算数の点数は!」と
言ってしまう。

 一般論として、役割が混乱すると、子どもの情緒は、きわめて不安定になる。心にすき間が
できるから、誘惑にも弱くなる。いわゆる精神が、宙ぶらりんの状態になると考えると、わかり
やすい。

 そこで「いい高校」「いい大学」ということになる。

 もう何年か前のことだが、夏休みが終わるころ、私の家に、二人の女子高校生が遊びにき
た。そしてこう言った。

 「先生、私、今度、○○大学の、国際関係学部に入ることにしました」と。

 ○○大学というのは、比較的名前が、よく知られた私立の大学である。で、私が、「そう、よか
ったね。……ところで、その国際カンケイ学部って、何? 何を勉強するの?」と聞くと、その女
子高校生は、こう言った。

 「私にも、わかんない……」と。

 こういう状態で、その子どもは大学へ入ったあと、何を勉強するというのだろうか。つまりその
時点で、その子どもは、役割混乱を起こすことになる。それはたとえて言うなら、あなたがある
日突然、男装(女装でもよいが……)して、電車の運転手になれと言われるようなものである。

 ……というのは、少し極端だが、こうした混乱が起きると、心の中は、スキだらけになる。ちょ
っとした誘惑にも、すぐ負けてしまう。もちろん方向性など最初からないから、大学へ入ったあ
とも、勉強など、しない。

 子どもの役割を認めることの大切さが、これでわかってもらえたと思う。子どもが「お花屋さん
になりたい」と言ったら、すかさず、「すてきね。じゃあ、今度、H湖で、花博覧会があるから行き
ましょうね」と話しかけてあげる。

 そういう前向きな働きかけをすることによって、子どもは、自分でその役割を強化していく。そ
してそれがいつか、理学部への進学とつながり、遺伝子工学の研究へとつながっていくかもし
れない。 

 子どもを伸ばすということは、そういうことをいう。
(040219)

【追記】

●こうした役割形成は、何も、大学へ進学することだけで達成されるものではない。大学へ進
学しないからといって、達成されないものでもない。それぞれの道で、それぞれが役割形成を
する。

 昔は、(いい大学)へ入ることが、一つのステータスになっていた。エリート意識が、それを支
えた。

 大学を卒業したあとも、(いい会社)へ入ることが、一つのステータスになっていた。エリート意
識が、それを支えた。

 しかしいまどき、エリート意識をふりかざしても、意味はない。まったく、ない。今は、もう、そう
いう時代ではない。

 今、子どもたちを包む、社会的価値観が大きく変動している。まさにサイレント革命というに、
ふさわしい。そういうことも念頭に置きながら、子どもの役割形成を考えるとよい。

 まずいのは、親の価値観を、一方的に、子どもに押しつけること。子どもは役割混乱を起こ
し、わけのわからない子どもになってしまう。

●誘惑に強い子どもにする。……それはこの誘惑の多い社会を生きるために、子どもに鎧(よ
ろい)を着せることを意味する。

 この鎧を着た子どもは、多少の誘惑があっても、それをはね返してしまう。「私は、遺伝子工
学の勉強をするために、大学へ入った。だから、遊んでいるヒマはない。その道に向かって、ま
っすぐ進みます」と。

 そういう子どもにするためにも、子どもが小さいときから、役割形成をしっかりとしておく。

 ここにも書いたように、「何のために大学へ入ったのか」「何を勉強したいのかわからない」と
いう状態では、誘惑に弱くなって、当たり前。もともと勉強する目的などないのだから、それは
当然のことではないか。

(はやし浩司 役割 役割形成 役割混乱 自我 自我の同一性)

+++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩


最前線の子育て論byはやし浩司(073)

●頭のよい子ども

 頭がよい子どもというのは、たしかにいる。しかしそういう子どもは、ズバ抜けて、頭がよい。
ふつうの頭ではない。「ズバ抜けて」だ。

 それはそのとおりだが、しかし問題は、それにつづく子どもたちである。頭はよい。しかしズバ
抜けてというほどではない。成績はよいが、しかしそれは、努力によるところが大きい。そういう
子どもたちである。

 よく能力平等論を説く人がいる。「人間のもつ能力は、平等である」と。「それぞれの子どもに
は、それぞれ特有の能力が、総じて、平等にある」と。

 それもそのとおりだが、しかしこと、受験勉強という世界においては、平等ではない。たとえば
数学にせよ、英語にせよ、頭のよい子どもは、努力というものをほとんどしなくても、スイスイと
理解し、受験競争を、通り抜けていく。

 一方、そうでない子どもは、いくら努力をしても、学校の勉強についていくだけで、精一杯。実
際には、ついていくことさえできない。

 このときも、問題は、ここに書いたように、ほどほどに頭はよいが、それほどでも……という子
どもたちである。親がそれに早く気づけばよいが、そうでないと、過剰期待や過負担から、この
タイプの子どもは、すぐオーバーヒートしてしまう。

 もっとも、オーバーヒートする程度なら、それほど問題はないが、その過程で、その子どもは、
もがき、苦しむ。そのため、ときには、情緒や、精神に、深刻な影響を与えることもある。もしそ
うなれば、それこそ、家庭教育の大失敗というもの。

 そこであなたの子どもについてだが、あなたの子どもは、つぎのどちらのタイプだろうか。

(1)たびたび学校の先生でさえ舌を巻くほど、鋭い切れを示す。学校の勉強にしても、簡単す
ぎて、話にならないといったふう。幼いときから、「できて当たり前」と、周囲の人たちにも、一目
置かれていた。

(2)学校の成績は、悪くない。いつもコツコツと努力をしているようだ。勉強は嫌いではなさそう
だが、教えてもらったことは、そこそこにできる。しかし教科書から少し離れた問題だと、歯が
たたない。

 (1)と(2)のどちらに近いだろうか。もし(1)のほうなら、別の方法で、子どもを伸ばす。(2)
のほうなら、親の過剰期待、過負担を、ひかえめにする。……というふうに、杓子定規(しゃくし
じょうぎ)に、指導法を決めてかかるのは、正しくないかもしれない。

 しかし(2)のタイプの子どもほど、家庭教育で失敗しやすいのも、事実。

 一般論として、親が最初からあきらめているケース。子どもが親を超えて、はるかに優秀であ
るばあい。この二つのケースについては、失敗は、ほとんどない。失敗するのは、子どもが、そ
の中間にいるときである。

 要は子どもの実力を、どのあたりで見定めるかである。言うまでもなく、正確であればあるほ
どよいが、しかしどこかに「無理」を感じたら、早目に手を引いたらよい。無理を重ねれば重ね
るほど、その反動として、失敗したとき、その被害も大きくなる。
(040219)

【追記】

 しかし実際には、親は、行きつくところまで行かないと、気がつかない。よくあるケースは、「ま
だ、何とかなる」「うちの子は、やればできるはず」「せめてもうワンランク上の学校を……」と、
無理を重ねるケース。

 親の期待が高い位置にある分だけ、親は満足しない。だから子どもには、知らず知らずのう
ちに、「あなたはダメな子」式の、マイナスの働きかけを、かけてしまう。そしてその結果として、
親自身が、子どもが伸びる芽を摘んでしまう。

 こういう失敗は、今、本当に多い。少子化の時代になって、かえってこの種の失敗がふえた
のではないか。警告の意味もこめて、この原稿を書いた。

+++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

最前線の子育て論byはやし浩司(074)

●歌で覚える

 私の教室では、算数のポイントを、歌で覚えるようにしている。こうして作った、歌が、50番近
くまである。その中のいくつかを、紹介する。

(1)(♪スチャラチャ、チャチャチャン、スチャラチャ、チャチャチャンの音頭のあと……)
 イッ・キュウ
 ニイ・ハチ
 サン・ナナ
 ヨン・ロク
 ゴー・ゴー
 ロク・ヨン
 ナナ・サン
 ハチ・ニ
 キュ・イチ

(1−9,2−8,3−7……)と、(あわせて10の数)を、掛け算の九九のように暗記させてしま
う。これは繰り上がりのある足し算、繰り下がりのある引き算では、必須の知識である。

(2)(♪スチャラチャ、チャチャチャン、スチャラチャ、チャチャチャンの音頭のあと……)
 足し算、ワー(和)
 引き算、サー(差)
 掛け算、セキセキ(積)
 割り算、ショー(商)

足し算の答を、「和」、引き算の答を、「差」という……ということを教えるときに使う。

(3)(♪スチャラチャ、チャチャチャン、スチャラチャ、チャチャチャンの音頭のあと……)
 掛け算、割り算、先にやる、
 かっこの中を、先にやる

計算の約束を教えるときに、この歌を教える。体をくねらせて踊るのがミソ。子どもたちは結
構、楽しそうに踊ってくれる。

(4)(♪スチャラチャ、チャチャチャン、スチャラチャ、チャチャチャンの音頭のあと……)
 0度、180度、90度
 (パチンと手をたたいて)
 ぐるっと回って、360度

分度器の勉強をするときに、この歌を歌う。「0度」「180度」「90度」……と言いながら、両手
でそれを表現しながら、踊る。

(5)(♪スチャラチャ、チャチャチャン、スチャラチャ、チャチャチャンの音頭のあと……)
45、45、90度
30、60、90度

これは三角定規の角度を教えるときに使う歌。この歌を歌うときも、手と腕で、その形を表現し
ながら踊る。

 こうしてこの34年間に、50番近い歌を作った。中には、すでに全国で歌われている歌もあ
る。

学年が進むにつれて、子どもたちは歌わなくなる。そういうときは、「君たち、童心にかえって、
歌いなさい!」と指示する。それでも歌わないときは、「お母さんのおっぱいを飲んでいる人は、
歌わなくていい」などと、からかってやる。とたん、みな、元気に歌いだす。

 何ごとも、楽しく学ぶのが一番。……ですね。
(040219)

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司


最前線の子育て論byはやし浩司(075)

【今朝、気づいたこと】(2月20日)

●初版荒らし

 ときどき書店で、定期購読雑誌が新発売になる。そういった雑誌は、たいてい第1号は、記
念価格ということで、値段が安い。ふだんは980円の雑誌でも、第1号だけは、250円とか、3
50円で売りに出される。

 私はどういうわけか、そういった第1号だけは、買うようにしている。(あるいは買わされてい
るのかもしれないが……。)

 昨夜もいろいろなのを4冊ほど買った。日本の歴史や、花に関するものだった。全部で100
0円と少し。(安い!)

 アメリカに住んでいる二男に送るためである。

 以前は、いろいろな食べ物を送っていたが、今年に入ってから急にきびしくなった。テロを警
戒するためだという。あらかじめインターネットで登録しておかないと、食品類は、送れなくなっ
てしまった。

 それで本とか、孫へのおもちゃが多くなった。

 私のような人間を、「初版荒らし」というらしい。もともと初版しか買う意思がなくて、初版を買う
人間をいう。出版社としては、「どうかためしに買ってみてください」ということで、第1号を安くし
ている。つまり私のような客は、最初から、お呼びではない。

 しかしインターネットの時代になったせいか、このところ、豪華な写真刷りの雑誌がふえたよう
に思う。

 情報は、インターネットで、格安に手に入る。そこで雑誌社は、インターネットでは手に入りに
くい、豪華な写真雑誌に手をつけ始めた。私は、そんな印象をもった。

 しかし……だ。これも、はかない抵抗のように思う。

 私が出版社で仕事を手伝っていたころには、1ページを編集制作するだけでも、何日もかか
った。写真にしても、カメラでとって、それを一枚ずつ、編集して、張りつけなければならなかっ
た。

 文字も、一字ずつ、ポイントを指定して、写植屋に指示しなければならなかった。それが今で
は、つまり、こうした一連の作業が、インターネット上では、瞬時にできる。

 しかもペーパーレス。紙をいっさい、使わない。その上、読者に届くのが早い。それこそまさ
に、瞬時!

 インターネットにもいろいろ問題点はある。しかしそうした問題は、やがてすぐ解決されるだろ
う。そればかりか、インターネットで配信する情報には、動く映像や、音楽、BGMも、挿入でき
る。

 出版社も、あの手この手といろいろ考えているのだろう。その結果が、ここに書いた、豪華な
写真雑誌ということになる? 私にはよくわからないが……。


●老人と自己中心性

 老人になればなるほど、行動範囲が狭くなる。それは当然だ。運動量そのものが、減ってく
る。

 しかしそのとき、同時に、老人は、自分の住む、精神的世界まで、狭くしてしまう。限られた人
と、限られた交際をし、限られたことしかしなくなる。それもある意味で、当然だ。

 こうした環境的変化は、しかたのないとしても、こうした変化から、老人特有の、脳の老化も
あいまって、いろいろな症状が現れてくる。その一つが、自己中心性である。

 老人になればなるほど、自分が住んでいるところが、世界の中心と考えるようになる。こうし
た傾向は、若い人でもないわけではないが、老人になると、それが極端になる。

 ある女性(65歳くらい)は、その村から出て行った人を、「出て行った人」と呼んでいた。「出て
行った人」というのは、その村では、「落伍者」という意味である。

 そこで知人が、「町の中に家を建て、村から出たのなら、出世ではないか」と、その女性に説
明したのだが、その女性には、それが理解できなかったという。その女性にしてみれば、「村が
世界の中心」ということになる。

 そこでさらにこの自己中心性が進むと、老人は、自分のことしかしなくなる。

 私もこの住宅団地に住んで、27年目になるが、いつも「?」と思うことが、一つ、ある。

 このあたりは、元公務員という人たちの年金生活者が、多い。それほどぜいたくな生活をして
いるようにも見えないが、しかし、それなりにリッチな生活をしている。どの人も、平均して、月
額30〜35万円の年金を受け取っている。

 それはそれだが、そういう人たちだから、それなりに社会に何かを還元しているかといえば、
そうではない。事実として話すが、私は、この20年以上、そういう人たちが、道路わきのゴミを
拾ったとか、草を刈ったとか、そういう姿を、ただの一度も、見かけたことがない。(だからとい
って、そういう人たちを非難しているのではない。誤解のないように!)

 退職後も仕事をしている人もいるが、大半は、そのまま優雅な、趣味三昧(ざんまい)。一
度、その中の一人に、「いい身分ですね……」と話しかけたことがある。が、その人は、こう言っ
た。「私ら、働いて国に納めた分を、返してもらっているだけです」と。

 税金ということをいうなら、私のような自営業のほうが、ずっと、たくさん払っているのだが…
…。

 こうした自己中心性も、やはり老化のなせるわざなのか。もちろん中には、老人になっても、
すばらしい活動をしている人もいる。子ども会で、子どもの指導をしたり、公民館のスポーツク
ラブで、スポーツの指導をしたり。

 私のワイフが通っているテニスクラブの「先生」などは、50歳を過ぎてからテニスを始めた人
だが、退職後はずっと、テニスのコーチをしている。84歳になった今でも現役で、そのクラブ
で、その先生の名前をつけた、「〜〜杯」というものまで、もっている。

 さらに80歳を過ぎてからなお、乳幼児の医療費無料化運動に取り組んでいる女性もいた。

 そういうすばらしい老人がいる一方で、そうでない老人もいるということ。そのちがいは、いっ
たい、どこから生まれるのか。つまりそれがわかれば、老人特有の自己中心性と戦う方法が、
見つかるかもしれない。

 そこで趣味三昧のX氏(70歳)と、活動的なY氏(70歳)を比較してみる。

【X氏、元公務員】

★人との交際をほとんどしない。人の出入りが、ほとんどない。
★退職前の肩書きを、いまだに引きずっている。威張っている。
★趣味のハバが限られている。毎日、まったく同じことを繰りかえしている。


【Y氏、元会社員】
 
☆いつも何かの会合に出ては、酒を飲んでいる。家を訪れても、ほとんど家にいない。
☆だれに対しても低姿勢で、どこかヘラヘラしているが、親しみがもちやすい。
☆これといって、決まった趣味もなく、多芸多才。自治会の仕事が生きがいのよう。


この中で、ポイントは、「人との交流」である。自己中心的だから、交流をしないのか。あるいは
交流をしないから、自己中心的になるのか。それはわからないが、結果としてみると、「人との
交流」が、どうやらそのカギを握っているような気がする。

 ……といっても、この先を書くのは、ここではひかえたい。ここまで考えたこと基礎に、しばら
く、あちこちで話を聞いたり、本を読んだりして、もう少し情報を集めてみることにする。

 その上で、いつか、この先を書いてみたい。


●電話相談

 たいへん申しわけありませんが、電話による相談は、このところ、お断りすることにしていま
す。

 電話だと、あっという間に、短くても一時間は過ぎてしまいます。それに、電話による相談に
は、昼夜がありません。深夜だったり、あるいは早朝だったりします。そのたびに、時間調整
が、狂ってしまいます。

 「10時に、マガジンの発信予約を入れて、それで今日の仕事は終了」と考えているところに、
電話がかかってきたりします。

 実は、今朝もありました。女性からのものでした。ありのままを書きます。

女(いきなり)「以前、相談をしたものです。で、また相談に乗っていただきたいと思いましたの
で……」
私「どちら様ですか」
女「……名前を言わなければなりませんか。以前は、名前を言わなくても、相談にのっていた
だきましたが……」
私「はあ、しかし、お名前だけでも……。どちら様でしたか?」
女(口ごもったあと)「鈴木です」
私「どんなことですか?」

 相談内容は、その女性自身のことでした。で、30分ほど話を聞いたあと、

私「私は、子どものことはよくわかりますが、おとなのことはよくわかりません。もしそういう心の
問題で悩んでおられるなら、精神科のドクターに相談なさってはいかがでしょうか」
女「それがいやだから、今、先生に、こう相談しているのです」
私「しかし私には、何も指導できません。あなたが子どもなら、こうしなさいとか、ああしなさいと
か言うことはできますが……」

 こういう電話では、電話を切るタイミングを見つけるのがたいへんです。私が切りたくても、相
手の女性が、それを許してくれません。それでそのあと、また20分ほど。

 で、やっとのことで、電話が終わりました。

 力になれなかったという思いが、心をふさぎます。しかし私のできることには限界があります。
子どもの話ならともかくも、おとなの女性についての情報は、ほとんどもっていません。それに
私の立場では、診断名をつけることはできません。いわんや治療行為らしきことを口にするの
は、絶対、禁止です。

 が、それから二時間ほど。遅れた、マガジンの発信予約を入れて、ほっとしていると、そこへ
また電話。

女「小学5年生の娘のことで、相談したいのですが」
私(聞き覚えのある声だったので……)「先ほど、電話をくださった方ではありませんか?」
女「……いえ、しませんでした」

 妙に明るい声だったが、先ほどの声と、よく似ていました。

私「どちら様ですか?」
女(一瞬、とまどった様子で……)「加藤といいます」
私「小学5年生の方ですね……。どんなことでお悩みですか?」
女「実は、夜も、トイレへこわいから、行けないと泣くのです」

 こうした相談では、ふつうなら私は名前など聞きません。聞いても本名を言う人は、まずいな
いからです。相手の人が、自分から言うばあいは、別ですが……。

私「どちらの方ですか……?」
女(また口ごもりながら……)「SS町のものです」
私「先ほど、電話をくださった方ですね」
女「はあ、実は、そうなんです」

 その女性の苦しみは、よくわかります。偽名を使ったり、ウソをつきたい気持ちもよくわかりま
す。しかしそういう相談を受けることによって、私は、もっとキズつくのです。相手の人は、懸命
にウソをつきながら、何かのヒントを得ようとします。

 それはその人の勝手ですが、そのウソを真に受けて、こちらはこちらでまじめに、その相談
にのります。しかしそれがウソだとわかったら、私は、どう対処したらよいのでしょうか。名前は
ともかくも、相談内容まで! 先ほど、1時間ほど受けた相談は、いったい、何だったというので
しょうか。

 ……というような怒りを感じていたら、相手の方の相談にのることができません。相手の方も
必死なのです。必死だから、そういうウソをつくのです。

 しかしそのあとの電話は、何がなんだか、さっぱりわけのわからない電話になってしまいまし
た。押し問答でもないし、そうかといって、私が意見を言う場面も、ほとんどありませんでした。

 相手の女性は、ほとんど一方的に、自分の苦しみや悲しみを訴えるだけです。

 ……じつは、こうしてまた1時間ほど、時間が過ぎてしまいました。

 そんなわけで、これからはもっと、厳格に、電話によるご相談は、お断りすることにしました。
もちろん、BW関係の方や、お顔やお名前を知っている人は、別です。賛助会の方も、別で
す。そういうかたは、今までどおり、何かあれば、どうか、お電話をください。お待ちしています。

 以上、グチのような、エッセーで、どうもすみませんでした。
そう、少しだけ、グチってみたかったのです。どうか、お許しください。こういう現実も、一方にあ
るということを、少しだけわかってもらいたかったのです。
(040220)

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

最前線の子育て論byはやし浩司(076)

●なまけのメカニズム

 こうしてぼんやりと、コタツの中に入っていると、身も溶かすような眠気が、時おり、襲ってく
る。そのまま夢の中に、吸いこまれるような眠気である。

 このとき、脳の中では、どういう現象が起きているのだろうか。感じとしては、セックスが終わ
って、ほっと一息ついたとき感ずる、あの甘美な陶酔感に似ている。それほど、ちがわない。脳
の構造は、一見単純に見えて、複雑。複雑に見えて、単純。意外と、陶酔感をつかさどる中枢
は、一つなのかもしれない。

 このままコタツの中でうたた寝をしてしまえば、私は、なまけ者ということになってしまう。

 そこで改めて、実験。この状態のとき、無理に体を起こして、居間まで行って、何かの家事を
したらどうなるか……?

 と、言っても、この陶酔感を切り離すのは、容易なことではない。それはセックスをしている最
中に、仕事の電話が入るようなもの。しかし脳の中枢には、快感を起こすメカニズムはある
が、不快感を起こすメカニズムはないはず。

 が、それでは、実験にならない。

(この間、20分ほど。居間まで行ったら、ワイフが、ちょうど朝ごはんを出すところだった。新聞
を読んで、朝ごはんを食べてきた。)

 本来なら、ここで不快感を起こすメカニズムが働いて、私は不快になっていなければならな
い。しかし、その不快感がない。……ということは、やはり、人間の脳の中には、不快感を起こ
すメカニズムはないということになる。

 むしろ今、居間まで行って、新聞を読み、食事をしたことで、頭の中がスッキリとしている。気
持ちがよいということはないが、とくに悪いということもない。

 そこでこんなふうに考えられる。

 陶酔感に溺れた状態を、「なまけ」という、と。

 ……ここまで書いて、ふと、頭の中で、こんなことを考えた。かなり飛躍した話になるが、許し
てほしい。

 ラジコン飛行機を飛ばすときは、基本的には、3チャンネルで、操縦する。まずエンジンの出
力を決める。そのために1チャンネル。つぎに方向を決めるエルロンを操作する。これが2チャ
ンネル。つぎに飛行機の上下を決めるエレベーターを操作する。これが3チャンネル。

 ところが子どものおもちゃでは、2チャンネルで、操縦するものがある。プロペラの回転数を
変えることによって、飛行機の上下を決める。これが1チャンネル。つぎに飛行機の方向を決
めるラダーを操作する。これが2チャンネル。

 が、何と、私が学生のころは、何と、ラジコンの飛行機を、1チャンネルで操縦していた。

 ボタンを、カチと1回押すと、右旋回。カチカチと2回押すと、左旋回。エンジンは、成りゆきま
かせ。上下も成りゆきまかせ。当時は、いかに風に乗せてうまく飛行機を飛ばすか……という
のが、ラジコン飛行機の操縦法だった。

 このラジコンの話と、陶酔感の話は、実は、関係がある。

 本来、人間の感情をコントロールするためには、二つの作用がなければならない。快感と不
快感である。

 しかし人間の脳は、快感を覚えるメカニズムはあるが、不快感を覚えるメカニズムはない。人
間の脳は、快感のみによって、不快感も表現しなければならない。そこで人間の脳は考えた。
どうしたらよいか、と。

 私がコタツの中で、身も溶かすような陶酔感を覚えたとき、その陶酔感を切り離すのは、容
易なことではなかった。その「容易でない」と思うことで、脳は、不快感を表現しようとした。つま
り「意思の弱さ」を利用した。

 陶酔感を覚えている状態は、脳の中で、モルヒネ様の物質が放出されている状態をいう。そ
れはここにも書いたように、気(け)だるいほど、甘美な陶酔感である。

 そこへ意思の力が、介入してくる。「この甘美な陶酔感は、ニセモノである。だから早く、目を
さませ」と。

 しかしこのとき、意思の強さは、それほど強くない。計算されている。あるいはこの甘美な感
覚は、意思そのものの力を弱くする。だからふつうの意思では、コントロールできない。そのた
め人は、そのまま陶酔感に溺れてしまう。

 そこで最後の意思をふりしぼって、その陶酔感から逃れようとする。と、そのとき、相対的に、
逃れること自体が、不快に思われるようになる。それこそセックスをしていて、これからクライマ
ックスというときに、横で赤ん坊が泣き出すようなものである。

 つまり本来は、まったく不快でも何でもない。しかし快感が、同時に、相対的に不快感を生み
出す。ラジコンで言えば、たった1チャンネルで、2チャンネル分の操作をするのと同じというこ
とになる。(この論法には、少し無理があるかな?)

 その証拠に、この陶酔感からさめ、居間で食事をしてきた私は、本来なら、不快感を覚えな
ければならないはずなのに、実際には、何とも、ない。むしろ、さわやか。つまりこの状態という
のは、快感がなくなったというだけで、まさにふつうの状態ということになる。

 そこで私は、いくつかの教訓を得た。

(1)なまけというのは、基本的には、陶酔感によって起こる。
(2)その陶酔感は、意思の力よりもつ力よりも強い。あるいは意思よりも優勢。
(3)陶酔感から離れるのは、容易ではない。そしてその離れるとき、相対的な不快感を覚え
る。しかしそれは脳の中に、不快感を起こすメカニズムが働くからではなく、あくまでも相対的な
もの。
(4)陶酔感からさめれば、またもとの状態にもどる。
(5)意思の強さは、どれだけ、その陶酔感に対して、コントロール能力があるかで決まる。
 
 こうして考えていくと、子どもの指導にも応用できる。よく「うちの子は、家の中ではだらしな
い」とか、「勉強しないで、ゴロゴロしている」、だから「どうしたらいいか」という相談をもらう。

 こうした子どもの状態というのは、何かのことで、疲れた心をいやすために、脳が自ら脳の中
でモルヒネ様の物質を放出し、脳をいやしている状態ということになる。

 だらしないとか、ゴロゴロしているというのは、あくまでもその結果にすぎない。

 そこで親が、子どもに、何かを命令したとする。「勉強しなさい」「宿題をしなさい」と。すると、
子どもは、それに反発する。しかしそれは、不快だからではなく、その陶酔感からさめることに
対する抵抗から、そうする。それが反発という形になって、外に現れる。

 だからどうしたらよいのかということについては、また別のところで考えることにして、「なまけ」
のメカニズムは、こうして説明される。
(040220)(はやし浩司 なまけ なまける子ども 怠惰 怠ける子ども 子供)

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

最前線の子育て論byはやし浩司(077)

【読者の皆さんからの質問に答えて……】

 毎週、たくさんの方から、質問や相談をいただきます。手紙やメールの内容を、直接引用す
ることはできませんので、ここではテーマとして、皆さんの質問や、相談を考えて見ます。それ
ぞれのお立場で、参考にしていただければうれしいです。

++++++++++++++++++++++

●子どもは、母親が育てる

 時間が許すかぎり、子どもは、母親が育てる。これは、子育ての大原則である。「父親ではだ
めか?」という議論もあるが、母親がいるなら、母親が育てる。

 たとえば生後6か月ほどまで母親が育て、そのあと、何らかの事情で、母親から切り離され
た子どもがいる。生後6か月というと、(顔見知り、後追い)が始まる時期でもある。

 この時期、母親と切り離された子どもは、「周囲との接触を拒否する。睡眠障害。体重減少。
緩慢動作などの症状を示す」(スピッツ)ということがわかっている。

 さらに切り離しが、3か月以上におよぶと、「外界からの刺激に反応しなくなる」(同スピッツ)
そうだ。

 この時期の母子関係が、いかに重要かが、これでわかる。

 そこで「保育園はどうか?」という問題がある。今では、職業をもつ女性が多くなり、中には、
生後まもなくから、子どもを、保育園や保育所へ預けるケースが目立つ。

 結論から言えば、最低でも、生後2年間は、母親が主体となって、子どもを育てる(WHO)。
保育園や保育所へ子どもを預けるのは、できるだけ最小限にしながら、同時に、子どもの心の
ケアをしっかりとする。

 ポイントは、子どもの側からみて、親の愛情に不安をいだかせないようにすること。つまり絶
対的な安心感を与えるようなくふうをする。「絶対的」というのは、「疑いを、まったくいだかない」
という意味である。

 会ったときに、ぐいと抱くとか、あるいは子どもがスキンシップを求めてきたら、それにていね
いに応じてあげる、など。

 この時期、母子関係が不安定になると、子どもは、「不安」を基底としたものの考え方をする
ようになる。生涯にわたって、精神状態が不安定になることもある。

 子どもの心というのは、親(とくに母親)の絶対的な愛情に包まれて、はじめて豊かにはぐくま
れる。「どんなことをしても守られる」「どんなことをしても許される」という安心感が、子どもの心
を伸ばす。


●基底不安

 「何をしていても、不安だ」「だれとあっても、心配でならない」「たまの休みになっても、考える
のは、仕事のことばかり」……という人は、少なくない。

 すべての生きザマの基底に、不安がある。こういう不安感を、「基底不安」という。その原因
は、乳幼児期の、母子関係の不全と考えてよい(フロイト理論による)。

 乳幼児期に、母子の間で、絶対的な信頼関係を結べなかった子どもは、精神的なより所を失
う。その結果として、不安を基底とした、生きザマを身につけてしまう。

 もっとも、母子といっても、「子」に原因があるわけではない。「母親」のほうに原因があると考
えてよい。

 無視、冷淡、拒否的態度、暴力、虐待など。あるいは母親自身が、心を開けないケースもあ
る。子どもの側から見て、安心して、自分をさらけ出すことができないという不安感が、そのま
ま、ここでいう基底不安の原因になる。

 ウンチをしても、オシッコをしても、わがままを言っても、すべて許されるという安心感が、子ど
もの心をはぐくむ。仮に親が子どもを叱るときでも、それがある一定のワクの中に収まってい
れば、問題は、ない。(ワクを超えて、子どもに恐怖感や絶望感を与えるような叱り方は、タブ
ー。)

 言うまでもなく、母子の信頼関係は、(完全なさらけ出し)と、(完全な受け入れ)が基本となっ
て、その上に築かれる。


●赤ちゃんでも目が見える

 ついでに、生後直後の赤ちゃんは、目が見えないと言われていた。しかしそれは誤解であ
る。一説によると、生後10分ほどで、赤ちゃんは、目でものを見る能力を身につけるという。そ
しておとなの私たちが想像する以上に、濃密に、まわりの情報を、記憶しているという。

 見たものだけではない。五感を通して入ってくる、あるとあらゆる情報を、である。

 こうして赤ちゃんは、つぎに自分が親になったとき、赤ちゃんにどう接すればよいかを学んで
いく。言いかえると、この時期、人間の手を離れて育てられた子どもは、将来、自分では子育て
ができないと考えてよい。

 それだけではない。

 野生児(生後まもなくから、人間の手を離れて、野生で育てられた子ども)は、言語能力のみ
ならず、人間らしい感情すら、失ってしまうという。インドやフランスで見つかった野生児が、そう
だった。

 そんなわけで、新生児や乳幼児に記憶がないというのは、ウソ。

 記憶は、記銘(脳にきざまれる)→保持(その記憶を保つ)→想起(思いだす)というメカニズ
ムを経て、外に取り出すことができる。新生児や幼児の記憶は、想起できないというだけで、脳
にしっかりと、きざまれている。

 この時期の子育ては、「人間の基本を作っている」と考え、もっと、慎重にしたらよい。


●空の巣症候群

 子どもが巣立ったあと、心の中にポッカリと穴があいてしまい、うつ症状を訴える人がいる。こ
うした状態から生まれる、一連の症状を、「空の巣症候群」という。

 うつ病の一形態ということになっている。

 それまで子育てを生きがいにし、懸命に子育てをしてきた人ほど、なりやすい。

 症状としては、言いようのない不安感、恐怖感、抑うつ状態、不眠、頭痛、早朝覚醒、便秘、
下痢など。感情の起伏がはげしくなったり、反対に鈍化するなど。

 その前の段階として、(拒絶)→(抵抗)→(落ち込み)という経過をたどることが多い。ある母
親は、自分の息子(中三)が初恋をしただけで、狂乱状態になった。そしてその息子の通う塾
の先生に頼んで、息子と彼女を引き離そうとした。これはここでいう(拒絶)と(抵抗)の段階と
考えてよい。

 その時期が一巡すると、その無力感から、ここでいう「空の巣症候群」を示すようになる。

 子育ては子どもを自立させることが目標だが、同時に、自分自身をも自立させることを忘れ
てはならない。(はやし浩司 空の巣 空の巣症候群)


●山荘にて……

 2月X日。H町での講演会のあと、この山荘に回る。途中、Xというレストランで食事をする。お
いしかったが、量が少なかった。山荘へつくやいなや、雑炊と作って食べる。が、今度は、食べ
過ぎ。とたん、眠くなる。

 居間の座椅子にすわったまま、居眠り。まさに「居眠り」。途中、太陽の光線を熱く感じて、目
をさます。気持よかった。

 何か夢を見ていたよう。しかし今、どうしてもその内容を思い出せない。

 私にとって、夢は、いわば短編の映画のよう。ときどき、夢そのものを楽しむ。夢が見たくて、
わざと居眠りすることもある。

が、がんばって体を起こす。一度、ワイフをさがして、再び、居間へ。ワイフは、コタツに入っ
て、テレビを見ていた。

雨戸を半分しめて、太陽の光線を、さえぎる。外は、すっかり春の陽気。春霞(がすみ)なの
か。風にそよぐ木々の葉が、どこか白っぽい。さあ、これからが、山荘ライフ、本番!

 とりあえずしなければならないこと。

(1)屋根の上の枯れた木の枝を取り除くこと。
(2)トイレのタンクの清掃。
(3)西側斜面の草刈り。

 いろいろある。そうそう庭にたまった枯れ枝の始末もしなければならない。毎年今ごろは、杉
の木の枯れた枝が、あたり一面に落ちてくる。それにもちろん枯れた葉も。今年はまだ、一度
もしていない。つまり、清掃を、一度もしていないということ。私も、なまけものになったものだ。
「今度やろう」「今度やろう」と思いつつ、もう2月も終わり。

 来週は、絶対にやるぞ! ……そう、心に誓って、帰りじたくを、始める。時刻は、4時を少し
回ったところ。

 そうそう山荘の電話をどうしようかと、迷っている。ほとんど使っていない。それに今は、携帯
電話をもっている。

 ワイフに相談すると、「基本料金だけの1600円程度」とのこと。

 ついでに必要経費を計算してみる。

電気代は、月に2000〜3000円。ガス代も、月に2000〜3000円。水道は、Kさん(地主)
に毎月2000円を、謝礼で払っている。そんなわけで、電話代を入れて、ちょうど、1万円弱。

今日のようにレストランで食事をすると、結構、お金がかかるが、今日は、特別。山荘で自炊す
れば、一回の食事代は、質素な家庭料理と同じくらい。私たちは、400〜500円の弁当を、二
人で分けて食べている。つまり全体としてみると、かえって安あがりになるのでは。休みになる
たびに、「どこへ行こうか」と、迷う必要もない。

 こうした生活様式は、私が、オーストラリア留学時代に学んだもの。向こうの人たちは、その
ほとんどが、別荘をもっている。週日は街の中で仕事をし、週末は、別荘で過ごす。それがか
れらの標準的な生活様式になっている。

「別荘」というと、ぜいたく品のように思う人が多いと思うが、そんなにぜいたくな家ではない。質
素な建物が多い。ただ環境は、すばらしい。海が一望できるような海沿いに、それがあったり
する。私も学生時代、それを見ながら、「いつかぼくも……」と思った。その結果が、今の山荘
ライフである。

 で、改めて考えてみた。

 都市で働く人は、最低限の生活ができるだけのマンションかどこかに住む。もちろん交通の
便などが、よいところがよい。

 そして週末は、郊外の別荘で生活をする。

 私の知っている人の中には、すでに何人か、そういう生活を実行している人がいる。中には、
奥さんと子どもを、ニュージーランドに住ませ、自分は、毎週、日本とニュージーランドの間を往
復している人もいる。「航空運賃を入れても、そのほうが、日本で生活するよりも、安くできま
す」と、その人は言っていた。

(ただしこの話を聞いたときは、1ドルが40円程度のころ。今は、1ドルが80円くらいになって
しまったから、かなり事情が変わったかもしれない。)

 子どもが小さいうちに、こうした二重生活を始めるのがコツ。子どもが中学生くらいになると、
もう山荘には、興味をもたなくなる。

 反対に子どもが小さいうちは、それこそバンガローでも、子どもたちには天国。一つだけアド
バイスするとしたら、こんなことがある。

 土地や古家を郊外に求めるときは、いざとなったら、すぐ売れるような物件をさがすこと。そう
でないと、結局は、お金を失うことになる。つまり「売りやすい土地や古家を買う」ということ。い
らぬおせっかいかもしれないが……。


●東京のMSさんより

 東京都にお住まいの、MSさんより、こんなメールが届きました。掲載の了解をいただきまし
たので、紹介させていただきます。

++++++++++++++++++++

ここのところ、「異常な負けず嫌い」「ひとりっこの育て方」を、たて続けにマガジンで取りあげて
いただきありがとうございました。

両方に共通して言えることは、「笑って、許して、忘れる、そして子どもを使う」ですね。10歳くら
いまで、やり過ごすことにしました。

私の力がここのところぬけてきたのが通じたようで、娘も「かたまった」としても、5分くらいで気
持ちを泣きながら話してくれるようになりました。

私のほうで、「ママは、あなたが悪い子しちゃっても、許して忘れるママになるよ」と宣言もしまし
た。以前の私からは想像できなかったようで、娘も一週間くらい、信じてくれませんでした。

何回か、実現するうち、少しずつ、伝わりはじめたかも。先生がマガジンで「年単位で待つこと」
といろいろな場面で教えてくださったので、気長に待ちます。

 ファミリスと有料マガジン、申し込みました。

これからはやし先生ワールドが、どんどん我が家に浸透すると思うと、日々の生活が前向き
に、明るくなってきます。

 私の夢は先生の講演会を聞きに行くことです。

では先生、お仕事やマガジンの発行でお忙しいとは思いますがお体お大切に。

                         東京都MSより

++++++++++++++++++++

【MSさんへ……】

 責任重大ですね。これからも体と脳ミソの健康にじゅうぶん注意しながら、がんばります。ホ
ント! MSさんからメールを、いただいて、またまたズシリと、大きな宿題を与えられたような
感じです。

 もともと私は、偉そうなことを言うくせに、気が小さいのです。もしMSさんに、まちがったことを
言ってしまったら、どうしようかと、正直なところ、それを考えたら、心が重くなりました。

 ここで「脳ミソの健康」という言葉を使いましたが、本当にそうですね。

 この脳ミソというのは、すぐ病気になってしまいます。自分が病気になるのは、かまわないの
ですが、それでまちがったことを言ってしまったら、たいへんです。あとで、その脳ミソの病気に
ついて書いてみます。

 いえね、以前、私の所属する寺に、何だかんだと、顔を出していたときのこと。そこへ、です
ね。それはそれは、ものすごい形相の女性が、ときどき来ていました。私が40歳くらいで、そ
の女性は45歳くらいでした。

 その女性にキリッとにらまれると、あたりがシーンと静まりかえってしまうのです。で、その女
性がですね。ときどき、わけのわからないことを口にするのです。

 「仏の道は、天道の分かれ道……」とか、何とかね。

 私は、正直に告白しますが、その女性のことを、たいへんな人だと思ってしまいました。高徳
で、ひょっとしたら仏の……?、ともです。で、その女性が口にする言葉を、あれこれ考えてみ
たのですが、やはりよく意味がわかりませんでした。

 しかしそれは私の不勉強が理由だと思っていました。

 が、ある日のこと。その寺の僧侶に、恐る恐る、「あの女性は、どういう人ですか?」と聞いて
みました。

 そしたら僧侶が、こう話してくれました。「林さん、あの女性は、相手にしてはダメだ。あの女
性はね、近くの精神病院からときどき勝手に抜け出して、この寺に来ているのです」と。

 脳ミソの健康というのは、そういうことを言います。たいへんきわどい話なので、これ以上のこ
とは書けませんが、要するに、そういうことです。

 脳ミソの健康を守るためには、ごくふつうの人として、ふつうの生活をすることが大切です。音
楽を聞いたり、散歩したり、人と話したり、できれば若い人や、子どもたちと接する。

 そういうふうに、ごくふつうの人として生きることで、脳ミソの健康は保たれます。

 おかしな人とは、つきあわない……ということも、大切です。……と言っても、おかしな人と、
そうでない人を見分けるのも、むずかしいですね……。

 私のばあい、自分の常識を信じます。そのために、いつも自分の常識をみがきます。本を読
んだり、ビデオを見たり……。恩師のT先生は、「いつもトップクラスの人とつきあえ」と言ってい
ます。

 しかし私には、そういう環境がありません。(T先生のばあい、天皇陛下自身ともお知りあい
で、私など、とてもまねできません。ホント!)

 ですからやはり、本を読んだりするしかありません。しかしね、MSさん。実は、もっとすばらし
い先生がいるのですね。すぐそばに……。

 それが子どもたちです。

 私たちはともすれば、「たかが子どもではないか……」と思いがちですが、それはとんでもな
い誤解です。

 人間が本来的にもつ、心の純粋さ、美しさは、実は、子ども自身がもっているのですね。私た
ちはおとなになるにつれて、知識や経験をもちますが、同時に、もっと大切なものをなくしてい
きます。そのなくしたものを教えてくれるのが、子どもたちということになります。

 あとはそれに謙虚に耳を傾ければよいということになります。

 「あとで脳ミソの病気について書く」と書きながら、脳ミソの病気について、書いてしまいまし
た。

 最後に、私の好きな詩を、MSさんに送ります。

 ワーズワースという詩人が書いた詩です。
 なおつぎの原稿は、以前、中日新聞に掲載してもらった記事です。
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●子どもは、人の父

イギリスの詩人ワーズワース(一七七〇〜一八五〇)は、次のように歌っている。

  空に虹を見るとき、私の心ははずむ。
  私が子どものころも、そうだった。
  人となった今も、そうだ。
  願わくは、私は歳をとって、死ぬときもそうでありたい。
  子どもは人の父。
  自然の恵みを受けて、それぞれの日々が、
  そうであることを、私は願う。

 訳は私がつけたが、問題は、「子どもは人の父」という部分の訳である。原文では、「The 
Child is Father of the Man. 」となっている。

この中の「Man」の訳に、私は悩んだ。

ここではほかの訳者と同じように「人」と訳したが、どうもニュアンスが合わない。詩の流れから
すると、「その人の人格」ということか。つまり私は、「その人の人格は、子ども時代に形成され
る」と解釈したが、これには二つの意味が含まれる。

一つは、その人の人格は子ども時代に形成されるから注意せよという意味。もう一つは、人は
いくらおとなになっても、その心は結局は、子ども時代に戻るという意味。

誤解があるといけないので、はっきりと言っておくが、子どもは確かに未経験で未熟だが、決し
て、幼稚ではない。子どもの世界は、おとなが考えているより、はるかに広く、純粋で、豊かで
ある。しかも美しい。

人はおとなになるにつれて、それを忘れ、そして醜くなっていく。知識や経験という雑音の中で、
俗化し、自分を見失っていく。私を幼児教育のとりこにした事件に、こんな事件がある。

 ある日、園児に絵をかかせていたときのことである。一人の子ども(年中男児)が、とてもてい
ねいに絵をかいてくれた。そこで私は、その絵に大きな花丸をかき、その横に、「ごくろうさん」
と書き添えた。

が、何を思ったか、その子どもはそれを見て、クックッと泣き始めたのである。私はてっきりう
れし泣きだろうと思ったが、それにしても大げさである。そこで「どうして泣くのかな?」と聞きな
おすと、その子どもは涙をふきながら、こう話してくれた。「ぼく、ごくろうっていう名前じゃ、な
い。たくろう、ってんだ」と。

 もし人が子ども時代の心を忘れたら、それこそ、その人の人生は闇だと、私は思う。もし人が
子ども時代の笑いや涙を忘れたら、それこそ、その人の人生は闇だと、私は思う。ワーズワー
スは子どものころ、空にかかる虹を見て感動した。そしてその同じ虹を見て、子どものころの感
動が胸に再びわきおこってくるのを感じた。そこでこう言った。

「子どもは人の父」と。

私はこの一言に、ワーズワースの、そして幼児教育の心のすべてが、凝縮されているように思
う。
(040220)

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

最前線の子育て論byはやし浩司(078)

【虐待】

●虐待にもいろいろ

 一般論として、子どもに虐待を繰りかえす親は、自分自身も、虐待を受けた経験があるとい
われている。約50%が、そうであるといわれている。

 その虐待は、暴力だけにかぎらない。

 大きく、この(1)暴力的虐待のほか、(2)栄養的虐待、(3)性的虐待、(4)感情的虐待に、
分けられる。暴力的虐待は、肉体的虐待、言葉の虐待、精神的虐待に分けられる。

 順に考えてみよう。

(1)肉体的虐待……私の調査でも、約50%の親が、何らかの形で、子どもに肉体的な暴力を
バツ(体罰)として与えていることがわかっている。そしてそのうち、70%の親(全体では35%
の親)が、虐待に近い暴力を加えているのがわかっている。

 日本人は、昔から、子どもへの体罰に甘い国民と言われている。

 「日本人の親で、『(子どもへの)体罰は必要である』と答えている親は、70%。一方アメリカ
人の親で、『体罰は必要である』と答えている親は、10%にすぎない」(村山貞夫)という調査
結果もある。

 体罰はしかたないとしても、たとえば『体罰は尻』ときめておくとよい。いかなるばあいも、頭に
対して、体罰を加えてはいけない。
 
(1−2)言葉の虐待……「あなたはダメな子」式の、人格の「核」に触れるような言葉を、日常
的に子どもにあびせかけることをいう。

 「あなたはバカだ」
 「あなたなんか、何をしてもダメだ」
 「あんたなんか、死んでしまえばいい」など。

 子どもの心は、親がつくる。そして子どもは、長い時間をかけて、親の口グセどおりの子ども
になる。親が「うちの子はグズで……」と思っていると、その子どもは、やがてその通りの子ども
になる。

 しかし言葉の暴力がこわいのは、その子どもの人格の中枢部まで破壊すること。ある男性
(60歳)は、いまだに「お母さんが怒るから」「お母さんが怒るから」と、母親の影におびえてい
る。そうなる。

(1−3)精神的虐待……異常な恐怖体験、過酷な試練などを、子どもに与えることをいう。

 ふつうは、無意識のうちに、子どもに与えることが多い。たとえば子どもの前で、はげしい夫
婦喧嘩をして見せるなど。

 子どもの側からみて、恐怖感、心配、焦燥感、絶望感を与えるものが、ここでいう精神的虐
待ということになる。

 子どもの心というのは、絶対的安心感があって、その上で、はじめてはぐくまれる。その基盤
そのものが、ゆらぐことをいう。

(2)栄養的虐待……食事を与えないなどの虐待をいう。私自身、このタイプの虐待児について
接した経験がほとんどないので、ここでのコメントは、割愛する。

(3)性的虐待……今まで、具体的な事例を見聞きしたことがないので、ここでは割愛する。

(4)感情的虐待……親の不安定な情緒が与える影響が、虐待といえるほどまでに、高じた状
態をいう。かんしゃくに任せて、子どもを怒鳴りつけるなど。

 『親の情緒不安、百害あって一利なし』と覚えておくとよい。少し前だが、こんな事例があっ
た。

 その母親は、交通事故をきっかけに、精神状態がきわめて不安定になってしまった。しかし
悪いときには、悪いことが重なる。その直後に、実父の他界、実兄の経営する会社の倒産と、
不幸なできごとが、たてつづけに、つづいてしまった。

 その母親は、「交通事故の後遺症だ」とは言ったが、ありとあらゆる体の不調を訴えるように
なった。そしてほとんど毎日のように病院通いをするようになった。

 その母親のばあいは、とくに息子(小2)を虐待したということはなかった。しかしやがて子ども
は、その不安からか、学校でも、オドオドするようになってしまった。先生にちょっと注意された
だけで、腹痛を訴えたり、ときには、みなの見ているところで、バタンと倒れてみせたりした。

 このように精神に重大な影響を与える行為を、虐待という。暴力的虐待も、暴力を通して、子
どもの精神に重大な影響を与えるから、虐待という。

 この虐待がつづくと、子どもの精神は、発露する場所を失い、内閉したり、ゆがんだりする。
そしてそれが心のキズ(トラウマ)となって、生涯にわたって、その子どもを苦しめることもある。
(040220)(はやし浩司 虐待 子どもの虐待)

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以前、つぎのような原稿を書きましたので
送ります。(中日新聞投稿済み)

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●虐待される子ども
                    
 ある日曜日の午後。一人の子ども(小五男児)が、幼稚園に駆け込んできた。富士市で幼稚
園の園長をしているI氏は、そのときの様子を、こう話してくれた。

「見ると、頭はボコボコ、顔中、あざだらけでした。泣くでもなし、体をワナワナと震わせていまし
た」と。虐待である。逃げるといっても、ほかに適当な場所を思いつかなかったのだろう。その
子どもは、昔、通ったことのある、その幼稚園へ逃げてきた。
 
カナーという学者は、虐待を次のように定義している。(1)過度の敵意と冷淡、(2)完ぺき主
義、(3)代償的過保護。ここでいう代償的過保護というのは、愛情に根ざした本来の過保護で
はなく、子どもを自分の支配下において、思い通りにしたいという、親のエゴに基づいた過保護
をいう。

その結果子どもは、(1)愛情飢餓(愛情に飢えた状態)、(2)強迫傾向(いつも何かに強迫され
ているかのように、おびえる)、(3)情緒的未成熟(感情のコントロールができない)などの症状
を示し、さまざまな問題行動を起こすようになる。

 I氏はこう話してくれた。「その子どもは、双子で生まれたうちの一人。もう一人は女の子でし
た。母子家庭で、母親はその息子だけを、ことのほか嫌っていたようでした」と。

私が「母と子の間に、大きなわだかまりがあったのでしょうね」と問いかけると、「多分その男の
子が、離婚した夫と、顔や様子がそっくりだったからではないでしょうか」と。

 親が子どもを虐待する理由として、ホルネイという学者は、(1)親自身が障害をもっている。
(2)子どもが親の重荷になっている。(3)子どもが親にとって、失望の種になっている。(4)親
が情緒的に未成熟で、子どもが問題を解決するための手段になっている、の四つをあげてい
る。

それはともかくも、虐待というときは、その程度が体罰の範囲を超えていることをいう。I氏のケ
ースでも、母親はバットで、息子の頭を殴りつけていた。わかりやすく言えば、殺す寸前までの
ことをする。そして当然のことながら、子どもは、体のみならず、心にも深いキズを負う。学習
中、一人ニヤニヤ笑い続けていた女の子(小二)。夜な夜な、動物のようなうめき声をあげて、
近所を走り回っていた女の子(小三)などがいた。

 問題をどう解決するかということよりも、こういうケースでは、親子を分離させたほうがよい。
教育委員会の指導で保護施設に入れるという方法もあるが、実際にはそうは簡単ではない。

父親と子どもを半ば強制的に分離したため、父親に、「お前を一生かかっても、殺してやる」と
脅されている学校の先生もいる。あるいはせっかく分離しても、母親が優柔不断で、暴力を振
るう父親と、別れたりよりを戻したりを繰り返しているケースもある。

 結論を言えば、たとえ親子の間のできごととはいえ、一方的な暴力は、犯罪であるという認識
を、社会がもつべきである。そしてそういう前提で、教育機関も警察も動く。いつか私はこのコ
ラムの中で、「内政不干渉の原則」を書いたが、この問題だけは別。

子どもが虐待されているのを見たら、近くの児童相談所へ通報したらよい。「警察……」という
方法もあるが、「どうしても大げさになってしまうため、児童相談所のほうがよいでしょう。その
ほうが適切に対処してくれます」(S小学校N校長)とのこと。

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【付録】

●虐待について 

 社会福祉法人「子どもの虐待防止センター」の実態調査によると、母親の五人に一人は、
「子育てに協力してもらえる人がいない」と感じ、家事や育児の面で夫に不満を感じている母親
は、不満のない母親に比べ、「虐待あり」が、三倍になっていることがわかった(有効回答五〇
〇人・二〇〇〇年)。

 また東京都精神医学総合研究所の妹尾栄一氏は、虐待の診断基準を作成し、虐待の度合
を数字で示している。妹尾氏は、「食事を与えない」「ふろに入れたり、下着をかえたりしない」
などの一七項目を作成し、それぞれについて、「まったくない……〇点」「ときどきある……一
点」「しばしばある……二点」の三段階で親の回答を求め、虐待度を調べた。

その結果、「虐待あり」が、有効回答(四九四人)のうちの九%、「虐待傾向」が、三〇%、「虐
待なし」が、六一%であった。この結果からみると、約四〇%弱の母親が、虐待もしくは虐待に
近い行為をしているのがわかる。

 一方、自分の子どもを「気が合わない」と感じている母親は、七%。そしてその大半が何らか
の形で虐待していることもわかったという(同、総合研究所調査)。「愛情面で自分の母親との
きずなが弱かった母親ほど、虐待に走る傾向があり、虐待の世代連鎖もうかがえる」とも。

●ふえる虐待

 なお厚生省が全国の児童相談所で調べたところ、母親による児童虐待が、一九九八年まで
の八年間だけでも、約六倍強にふえていることがわかった。(二〇〇〇年度には、一万七七二
五件、前年度の一・五倍。この一〇年間で一六倍。)

 虐待の内訳は、相談、通告を受けた六九三二件のうち、身体的暴行が三六七三件(五
三%)でもっとも多く、食事を与えないなどの育児拒否が、二一〇九件(三〇・四%)、差別的、
攻撃的言動による心理的虐待が六五〇件など。

虐待を与える親は、実父が一九一〇件、実母が三八二一件で、全体の八二・七%。また虐待
を受けたのは小学生がもっとも多く、二五三七件。三歳から就学前までが、一八六七件、三歳
未満が一二三五件で、全体の八一・三%となっている。

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司
 
最前線の子育て論byはやし浩司(079)
 
●疑問

 都会に住む子どものばあい、その学年になると、三つや四つの受験は、当たり前。高校生で
はない。中学生でもない。小学生である。

 まだ社会のしくみもよくわからない小学生が、三つも四つも、中学入試を経験する。中には、
五つとか六つとか……そういう子どももいる。

 それでどこかの学校に合格できればよいが、できなかったら、どうする? 親はそれで、「うち
の子は、勉強に向いていない」と、あきらめるだろうか。

 しかし実際には、そうして子どもを受験勉強にかりたてた親ほど、あきらめない。「まだ何とか
なる」「つぎがある」、無理に無理を重ねる。

 しかし少しは、子どもの立場で考えてみたらよい。

 その時点で子どもの心は、ボロボロ。そういった状態になりながらも、なおかつ、親から、「勉
強をつづけなさい」と、言われたら、いったい、子どもは、どうすればよいのだ。

 身近でも、中学入試に失敗した子どもがいる。二つの入試で失敗したあと、戦意喪失。やる
気をなくしたのは当然だとしても、このところ、心が荒れ始めた。家の中だけならともかくも、そ
うした「荒れ」が、外の世界でも出てくるようになると、心配。子どもの心は、一挙に荒廃する。
非行に走るようになるのは、もう時間の問題。

 子どもを受験させるのは、親の勝手だが、しかし、失敗したあとのことも、少しは考えてほし
い。

 以前、こんな中学生がいた。ここ一番、というときになると、決まって、それを避けてしまうの
である。自信がないというか、逃げ腰というか。

 そこで私がある日、こう聞いた。「どうしてがんばらないのか?」と。するとその女の子は、こう
言った。「どうせ私、S小学校の入試で落ちたもん」と。

 その女の子は、その六、七年前に小学入試で失敗したことを、そのときもまだ、気にしてい
た。そういう後遺症も残る。

 子どもの勉強をみるとき、親は、子どもの成績しかみないが、もっと大切なことは、子どもの
もつ限界を知ることである。あなたがごくふつうの人(失礼!)であるように、子どもも、またごく
ふつうの子どもである。

 あなたに限界があるように、子どもにも、限界がある。

 ふつうであることが悪いのではない。ふつうであることは、すばらしいことである。そういう視
点で、もう一度、あなたの子どもを、ながめてみる。

 ずいぶん前の話だが、こんなこともあった。

 その子どもは、四歳から五歳にかけて、かなり深刻な心の問題をかかえた。で、それが何と
か収まり、幼稚園へもふつうどおりに通うようになった。ふつうなら(……こういういい方は適切
ではないのかもしれないが……)、小学入試どころではなかったはずだった。

 しかしその子どもが回復したとたん、(本当は完全に回復したのではなかったが……)、親は
今度は、小学入試に狂奔し始めた。私はそのときほど、「親」が、わからなくなったときはない。

 「親って、そういうものかなあ」と思ってみたり、「どうしてそういう心理になれるのかなあ」と思
ってみたりした。あるいは、「子どもが病気になったことで、この親は、いったい、何を学んだの
か」と。日本の受験制度は、それ以上に、親の心を狂わせるということか。

 もともとその「力」のない子どもに、はじめから不合格がわかっている試験を受けさせることほ
ど、酷なことはない。

 そういう意味でも、子どもの勉強をみるときは、どう伸ばすかということに合わせて、子どもの
限界を知る。あとは、それを受け入れ、謙虚に、それに従う。それは子どもの受験戦争をみる
ときの、鉄則でもある。

【付記】

 私は、だからといって、受験勉強を否定しているのではない。大切なことは、子ども自らが、
前向きに勉強するようにもっていくこと。そしてその結果として、子どもが「がんばる」と言った
ら、それはそれとして、つまり親として、応援する。それは当然のことではないか。

 私も、三男が、今のY大学を中退して、M航空大学を受験すると言いだしたとき、こう言った。
「受験するならするで、きちんと予備校へ通え」と。

 三男は、学費も高いこともあって、最初は、それをこばんだ。「自分で勉強するからいい」と。
学費は、半年で、40万円ほどだった。私にも、決して楽な額ではなかった。

 しかし心のどこかで、それは親の義務のように感じた。子どもが前に進むと言ったら、その前
の雑草は、取り除いてやる。しかし子どもが望みもしないのに、雑草を取り除いてやり、そちら
へ進めと、子どもに命令するのは、まちがっている。

 小学受験はもちろんのこと、中学受験くらいのことで、子どもたちがワイワイと話題にしている
のを見たりすると、私は、「これでいいのかなあ?」と思う。まるでゲームの世界のよう。異常な
世界なのだが、その異常さがわからないほど、今の日本の子育ては狂っている。

 いつか、その狂いに、日本人が気がつくときが、やってくればよいのだが……。
(040221)

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司


最前線の子育て論byはやし浩司(080)

●親戚づきあい

 三重県に住む、KM氏(53歳)から、こんな相談があった。

 「もう15年以上も、音信のなかった従兄(いとこ)から、突然、電話。『息子が結婚するから、
結婚式に出てほしい』と。

 15年前に、親族の遺産トラブルが原因で、私のほうは、縁を切ったつもりですが、その従兄
は、私の気持を、理解していないようです。あるいはとぼけているだけなのかもしれません。

 私は親戚づきあいにこだわっていません。またその息子さんにも、会ったこともありません。
しかし従兄は、どこか古風な人で、そういうことにこだわるタイプです。

 先生なら、こういうときどうしますか?」と。

 いまだに、結婚式を、(家)と(家)の結婚式と考えている人は、多いですね。本来、結婚式と
いうのは、一人の花婿と一人の花嫁のためにするものです。それを祝うのが、両親であり、家
族ということになります。

 しかしこれも一つの価値観にすぎません。相手の人には、相手の価値観があります。こちら
は、「ムダ」と思っていても、相手は、そうは思っていません。これはいわば、宗教戦争のような
ものです。脳のCPU(中央演算装置)がからんでいるだけに、ことは簡単ではありません。

 大切なことは、あなたがどこまで妥協するか。妥協できるかという問題ですね。くだらないと思
えば、欠席すればよいでしょう。さらにくだらないと思えば、相手をのんだうえで、出席すればよ
いでしょう。もともと、深刻に考えねばならない問題でも、ないようです。

 はっきり言えば、どうでもよい問題です。

 しかし出席したくない気持も、私には、よく理解できます。そのあたりの微妙な気持が私には
よくわかりませんので、これ以上のことは、ここに書くことはできません。

 今、若い人たちを中心に、考え方が二極化しているようです。こうした結婚式は必要だと考え
る人。必要ないと考える人です。本来なら、そうしたあり方は、結婚する当人たちが決めればよ
いわけです。

 しかし私の実感としては、「式」には、親族のジジババ族が、顔を出してもよいと思うのです
が、あの「披露宴」にまで出席するのは、必要ないと思います。ジジババ族は、飾りにもなりま
せん。若い人たちにとっても、ジジババ族は、かえっていないほうが、よいのではないでしょう
か。

 結婚式に出るたびに、そう思います。

 あえて言うなら、日本人は、ムラ社会が好きなんですね。みんながみんなに依存しあいなが
ら、仲よく生きていく。長いものには巻かれ、出る釘はたたきながら、みんなで、いっしょに橋を
渡る。そうすればこわくない。「和」をもって尊しとなす。そんな生きザマです。

 言いかえると、あなたが言う「古風な人」というのは、そういう依存型社会を肯定する人たちの
ことを言います。だからこの際ですから、その従兄氏が、どのような考え方をしているか、観察
してみるのも、おもしろいのではないでしょうか。「相手をのむ」ということには、そういう意味も
含まれます。

 恐らく相手の従兄の方は、あなたとの和解を望んでいるのではなく、結婚式でのハク付という
か、自分を飾るために、あなたに声をかけたのでしょう。見栄や世間体を重視する人は、家族
や親類を、平気で利用しますから。とくに権威主義的なものの考え方をする人は、そうです。

 私の意見としては、「親戚づきあい」にこだわるのではなく、もっと、自分の正直に生きたらよ
いと思います。いえ、あなたが、ではなく、日本人全体が、です。日本人は、ともすれば、自分を
ねじまげてでも、親戚づきあいを優先します。

 それがよいのか、悪いのか? この問題は、日本の文化そのものにかかわる問題なので、
あとは、個々別々に考えて判断するしかないかもしれませんね。

 まったく回答になっていません。ごめんなさい。ただ言えることは、今、あなたの生きザマが、
問われているということ、です。(少し大げさかな?)何かの結論が出たら、また教えてくださ
い。
(040222)

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司
 
最前線の子育て論byはやし浩司(081)

【父親論】

 父親の役割は、二つ、ある。(1)母子関係の是正と、(2)行動の限界設定である。これは私
の意見というより、子育ての常識。

●母子関係の是正

 母親と子どもの関係は、絶対的なものである。それについては、何度も書いてきた。

 しかし父親と子どもの関係は、「精液一しずくの関係」にすぎない。もともと母子関係と、父子
関係は平等ではない。

 その子ども(人間)のもつ、「基本的信頼関係」は、母子の間で、はぐくまれる。父子の間では
ない。そういう意味で、子育ての初期の段階では、子どもにとっては、母親の存在は絶対的な
ものである。この時期、母親が何らかの理由で不在状態になると、子どもには、決定的とも言
えるほど、重大な影響を与える。情緒、精神面のみならず、子どもの生命にも影響を与えるこ
とさえある。

 内乱や戦争などで、乳児院に預けられた赤ちゃんの死亡率が、きわめて高いということは、
以前から指摘されている。

 では、父親の役割は、何か。

 父親の役割は、実は、こうした母子関係を調整することにある。母子関係は、ここにも書いた
ように、絶対的なものである。しかしその「絶対性」に溺れてしまうと、今度は、逆に、子どもにさ
まざまな弊害が生まれてくる。マザーコンプレックスが、その一つである。

 一般論から言うと、父親不在の家庭で育った子どもほど、母親を絶対視するあまり、マザー
コンプレックス、俗にいう、マザコンになりやすい。40歳を過ぎても、50歳をすぎても、「ママ」
「ママ」と言う。

 ある男性は、会社などで昇進や昇給があると、妻に話す前に、母親に電話をして、それを報
告していたという。また別の男性(50歳)は、せとものの卸し業を営んでいたが、収入は一度、
妻ではなく、すべて母親(80歳)に手渡していたという。

 また、ある男性(53歳)は、「母の手一つで育てられました」と、いつも人に話している。一度
講演会で、涙声で、母に対する恩を語っているのを聞いたことがある。

 その男性は、その母と、自分の妻が家庭内で対立したとき、離婚という形で、妻を追いだした
と聞いている。しかし自分の中の、マザコン性には、気づいていないようだ。

 常識で考えれば、おかしな関係だが、マザコンタイプの人には、それがわからない。そうする
ことが、子どもの務めと考えている。

 そしてマザコンタイプの子どもの特徴は、自分のマザコン性を正当化するために、母親をこと
さら、美化すること。「私の母は偉大でした」と。そしてあげくの果てには、「産んでいただきまし
た」「育てていただきました」「女手一つで、育てていただきました」と言いだす。

 マザコンタイプの男性は、(圧倒的に男性が多いが、女性でも、少なくない)、親の悪口や、批
判を許さない。少し批判しただけで、猛烈に反発する。依存性が強い分だけ、どこかのカルト
教団の信者のような反応を示す。(もともとカルト教団の信者の心理状態は、マザコンタイプの
子どもの心理と、共通している。徹底した隷属性と、徹底した偶像化。妄信的に、その価値を
信じこむ。)

 そこで父親の登場!

 こうした母子関係を、父親は、調整する。もっとわかりやすく言えば、母子関係の絶対性に、
クサビを入れていく。

 ここに母子関係と、父子関係の基本的なちがいが、ある。つまり母子関係は、子どもの成長
とともに、解消されねばならない。一方、父子関係は、子どもの成長とともに、つくりあげていか
ねばならない。つまり、それが父親の役割ということになる。

 ……という話は、子育ての世界では、常識なのだが、しかし問題は、父親自身が、マザコンタ
イプであるとき。

 こういうケースでは、父親自身が、父親の役割を、見失ってしまう。いつまでも母親にベタベタ
と甘える自分の子どもをみながら、それをよしとしてしまう。そしてなお悪いことに、それを代々
と繰りかえしてしまう。

 問題は、そうした異常性に、母親や父親が、いつ、どのような形で、気づくかということ。

 しかしこの問題は、脳のCPU(中央演算装置)の問題であるだけに、特別な事情がないかぎ
り、それに気づく母親や父親は、まずいない。(この原稿を読んだ方は、気づくと思うが……。)

 そこで一つの方法として、私がここに書いたことを念頭に入れて、あなたの周囲の人たちを、
見回してみてほしい。よく知っている親類の人とか、友人がよい。このタイプの人が、何人か
は、必ずいるはずである。(あるいは、ひょっとしたら、あなたや、あなたの夫がそうであるかも
しれない。)

 そういう人たちを比較しながら、自分の姿をさぐってみる。たとえば父親不在の家庭で育った
子どもほど、マザコン性をもちやすい。そういうことを手がかりに、自分の姿をさぐってみる。

 
●行動の限界設定

 もう一つ、父親の大きな役割は、子どもの行動に、限界を設定すること。わかりやすく言え
ば、行動規範を示し、いかに生きるべきか、その道徳的、倫理的規範を示すこと。さらにわか
りやすく言えば、「しつけ」をすること。

 しかし、これはむずかしいことではない。

 こうした基本的なしつけは、ごく日常的な、ごく基本的なことから始まる。そして、ここが重要だ
が、すべてはそれで始まり、それで終わる。

 ウソをつかない。
 人と誠実に接する。
 約束やルールは守る。
 自分に正直に生きる。

 さらに一歩進んで……

 家族は大切にする。
 家族は守りあう。
 家族は教えあう。
 家族はいたわり、励ましあう。

 さらに一歩進んで……

 自分の生きザマをつらぬく。
 
 こうした生きザマを、ごくふつうの家庭人として、ごくふつうの生活の中で、見せていく。見せる
だけでは足りない。しみこませておく。そしてそれに子どもが反したような行動をしたとき、父親
は、それに制限を加えていく。

 こうした日々の生きザマが、週となり、月となり、そして年となったとき、その子どもの人格とな
る。

 その基礎をつくっていくのが、父親の役目ということになる。

 一見簡単そうに見えるが、簡単でないことは、父親ならだれしも知っている。こうした父親像と
いうのは、代々、受けつがれるもの。その父親が作るものではないからである。

 そういう意味で父親から受ける影響は、無視できない。たとえばこんなことがある。

 私には、三人の息子がいる。年齢は、それぞれ、ちょうど三年ずつ、離れている。

 そういう三人の息子を比較すると、それぞれが、私のある時期の「私」を、忠実に受けついで
いるのがわかる。(もちろん息子たち自身は、そうは思っていないが……。)

 一番特徴的なのは、それぞれの息子たちが、年長児から小学二、三年生にかけて私が熱中
した趣味を、受け継いでいるということ。

 長男がそのころには、私は、模型飛行機やエアーガン、その種のものばかりで遊んでいた。
だから、長男は、こまかいものを、コツコツと作るのが趣味になってしまった。

 二男のときは、パソコン。三男のときは、山荘作り。今、それぞれが、その流れをくむ趣味を
もっている。父親が子どもに与える影響というのは、そういうものと考えてよい。みながみな、そ
うということでもないだろうが、大きな影響を与えるのは、事実のようだ。

 まあ、もしあなたがあなたの子どもを、よい人間に育てたいと思っているなら、(当然だが…
…)、まず、自分の身のまわりの、ごく簡単なことから、身を律したらよい。「あとで……」とか、
「明日から……」というのではない。今、この瞬間から、すぐに、である。

 この瞬間からすぐに、

 ウソをつかない。
 人と誠実に接する。
 約束やルールは守る。
 自分に正直に生きる。

 たったこれだけのことだが、何年かたって、あるいは何十年かたって、今のこの時を振りかえ
ってみると、この時が、子育ての大きな転機になっていたことを知るはず。

 ただし……。私は生まれが生まれだから、こういうことは、あえて努力しないと、できない。ふ
と油断すると、ウソをついたり、自分を偽ったりする。へつらったり、相手の機嫌をとったりす
る。そういう自分から早く決別したいと思うが、それが、なかなかむずかしい。

 がんばろう! がんばりましょう! 父親の役割というのは、そういうもの。
(はやし浩司 父親の役割 行動の限界設定 父親論 お父さんの役割 役割)
(040222)

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

最前線の子育て論byはやし浩司(082)

【近況・あれこれ】

●年齢

 子ども(年長児)たちに聞いた。
 「先生(=私)は、何歳に見えるかな?」と。

 するとA君が、「40歳!」と。

私「ほう、そうかね。ぼくは、40歳に見えるかね?」
A「ううん、でもよく見ると、80歳」
私「80歳! ハ、ハ、ハチジュ〜?」
A「わからない……」と。

私「じゃあ、君たちのお父さんは、何歳?」
子どもたち「知イ〜らない」
私「お母さんは?」
子「……言ってはダメって……」

私「じゃあ、知っているの?」
子「うん……」
私「じゃあ、聞かない」
子「34歳!」と。

 子どもというのは、親が「言ってはダメ」と言うことほど、よく覚え、そして人に話す。

私「君たちのお父さんと、先生(=私)は、どちらがかっこいい?」
子どもたち「パパ!」「パパ!」
私「先生は……?」
子「ゼンゼン……。ジジ臭い」

私「そう、先生は、じいさんなんだア?」
子「そう。先生は、おじいさん。ママが、先生も、じいさんになったねって、言ってたよ」
私「ホント?」
子「そう、先生も、じいさんになったよって……。ママが、先生には、言ってはダメって、言ってた
よ」と。

 
●『エデンの彼方へ』を見る

 アメリカがもっとも栄えた、アメリカンドリームの時代。1960年代、後半。幸福の絶頂にある
と見える夫婦に、深刻な危機が、ある日突然、訪れる。

 夫が、同性愛に目覚める。それを知った妻は、その乾いた心といやそうと、黒人の庭師と親
しくなる。そしてお決まりの誤解と偏見。

 しかし夫婦はやがて破局を迎える。夫は、愛人(男性)との同居を決める。妻は、ますます黒
人男性に、ひかれていく。

 実にスローテンポの、どこかかったるいホームドラマ風のビデオ。私の評価は、★★(五つ星
が、満点。)ワイフの具合がよくないので、ホットケーキを焼きながら、見るともなし、見ないとも
なしという状態で見た。

 二男に、いつか、こう聞いたことがある。「(アメリカの)C市では、人種差別はないのか?」
と。

 すると二男は、いともあっさりと、「あるよ」と言った。

 アジア人は、その黒人より、下に見られている。少なくとも、人種偏見主義者は、そう位置づ
けている。

 ビデオの内容より、むしろそんなことを、別の頭で考えながら、見る。

 「マジソン郡の橋みたいね」とワイフは言ったが、『マジソン郡の橋』のような、わかりやすい感
動は、覚えなかった。その『マジソンの橋』は、★★★★★。

私「このあと、アメリカは、ベトナム戦争を経験する。そのベトナム戦争でつまずいたあと、ヒッ
ピー運動にみる、文化の大変革が始まる。同時にアメリカンドリームの時代は、終えんする」
と。

 あまりにもリッチな、あまりにも、どこか現実離れした、そんな世界でのできごと。アメリカらし
い風景を楽しみながら、「どこもよく似た町だな」と思いながら見る。それだけ。見終わったあと
の感想は、★一つ。(少しきびしいかな。ワイフの評価は、★★。)

 何となく、時間をムダにした感じ……。


●愛知万博の起工式

 愛知万博(EXPO 2005)の起工式に招待された。私以外は、そうそうたるメンバーで、出
席するのも、気が引ける。(私は、人選ミスで選ばれた。ホント!)

 解剖学者の養老氏とか、テレビキャスターの草野氏、それにアーティストの藤井氏など。宇宙
学者の松井氏もいるし、哲学者の山折氏もいる。いつも「どうして私が?」と思いつつ、顔を出
す。

私「どうしようか?」
ワイフ「いいじゃん、出れば」
私「しかし、場違いだよ」
ワ「いいじゃん、一応、選ばれたんだから……」と。

 ……この問題は、あまり考えたくない。考えれば考えるほど、自分がなさけなくなる。ホント。
旅費も日当も出ることだから、行ってみるか……とは、思っている。

3月24日(水曜日)。朝10時から。そちらのテレビでは、大々的に報道されると思うので、気が
ついた人は、テレビを見てほしい。

 いつも藤井フミヤ氏の横(アイオウエ順なので、私がいつも彼の横に座る)に、ひげをはやし
て、しょぼくれて座っているのが、私。

ああ、私も一度でいいから、若い女性たちに、キャーキャーと騒がれてみたい! ホント!


●とうとう怒鳴る

 午後になって、ワイフが、風邪で(?)、倒れる。はげしい頭痛。吐き気。それに悪寒。最初は
コタツの中で丸くなっていたが、そのうち、自分でパジャマに着替えた。かなり重症らしい。

 ワイフは、昔から、がまん強い。めったなことで、弱音をはかない。

 そんなとき、あの(焼きいも屋)が来た。時計を見ると、6時50分。あたりま真っ暗。

 「焼きイモ〜、イモ! 早くこないと、行っちゃうヨ〜」と。

 愛知県なまりの、ひどい日本語だ。「イモ」も、「イメ」と聞こえる。私は、元合唱団。こういう発
音には、うるさい。

 が、あろうことか、その焼きいも屋、うちのすぐ東隣の空き地に、車を止めた。そしてボリュー
ムいっぱいの、大音響!

 私はまさか私の家の横の空き地に止めているとは、知らなかった。だから「そのうち、どこか
へ行くだろう」と思っていた。が、大音響は、そのままつづいた。

 私は左の耳の聴力を、完全になくしている。だから音の方向も、そして動きもわからない。

 「この近くを、ぐるぐる回っているのだろう」と思った。しかしそれにしても、長い。5分、10分
……。あのわけのわからない日本語が、ガンガンと書斎に、容赦なく流れこんでくる。

 私は、ワイフが、頭痛で寝ているのを、そのとき思い出した。とたん、イスからはね起きた。起
きて、窓をあけて見ると、なんと、焼きいも屋が、目の下に! うしろのドアを大きくあけて、赤
いちょうちんをぶらさげていた。

 私は大声で叫んだ。

 「ウ・ル・サ〜イ!」

 瞬間、男と視線があった。男は、パッとスピーカーを切った。同時に、また私は叫んだ。「ボリ
ュームを、さげたらどうだア!」と。

 何ともいやな雰囲気だった。相手も、さぞかし、不愉快に思ったことだろう。彼らだって、生活
がかかっている。それはわかる。が、怒鳴るほうだって、同じくらい、不愉快なもの。

 窓をしめて、イスに座ると、不快感がました。「もっと、別の言い方をすればよかった」と。

 たとえばにこやかな表情を浮かべながら、「すみません。今夜は暖かいですね。しかし、ひと
つお願いがあるのですが。実は、ワイフが、風邪で休んでいますので、少しボリュームをさげて
いただけませんでしょうか」とか、何とか。

 私もいきなり叫ぶつもりはなかったが、目の下にそれがあるのを見たとき、思わず、カーッと
なってしまった。まさかそこにいるとは、思わなかった。

 胸のざわつきを抑えながら、ワイフの枕元に行くと、ワイフは、こう言った。「うるさかったわ
ね」と。

私「ぼくが、叫んだの、聞こえた?」
ワ「近所中に、聞こえたわよ」
私「うるさかったからね」
ワ「あの人たちも仕事だから……」
私「それはわかるけど、だからといって、みんなに迷惑をかけていいということではないよ」

ワ「田舎のほうでは、みんながまんするそうよ」
私「もう、ぼくは、がまんしないよ。うるさかったら、うるさいと言うよ」
ワ「暴力団の人だったら、あとで仕返しにくるかもしれないわ」
私「すぐ警察に電話するよ」と。

 そのとき、かなり遠くで、再び、あの声が聞こえだした。妙に甘たるい、妙に鼻にかけた、あの
声だ。

 焼きイモ〜、イモ! 早くこないと、行っちゃうヨ〜!

 私はそれに合わせて、こう叫んだ。「早く、行きたければ、行け!」と。


●こわい絵をかく子ども

 メールで、「うちの子(小5男児)は、がいこつや、死人など、いつもぞっとする絵ばかりをかき
ます。どうしたらよいでしょうか」という質問をもらった(大阪府・SEさん)。

 心理学の世界には、「投影法」と呼ばれる、心理テスト法がある。何かの絵をかかせて、その
絵を手がかりに、内面に隠された心理をさぐるという方法である。

 で、SEさんの相談によれば、子どもは、見た目には、おとなしく、静かな子どもだという。しか
しその子どものかくものは、「いつも、ぞっとするほど不気味な絵だ」と。

こうした絵をかく子どもは、ふつう、つぎの二つのケースに分けて考える。

 ひとつは、潜在的な願望を表している。言葉には表現されないが、絵で表現することによっ
て、自分の内面世界を、外に出すケース。これを「絵画的非言語的表出」と呼ぶ人もいる。(こ
れを「前者のケース」という。)

 もう一つは、そうして表現することによって、内面にたまった欲求不満を、解消しようとするケ
ース。これはいわば、実際にそうなるのを、その前に、絵で表現することによって、発散させる
ための行為と考えるとわかりやすい。心の防衛機制とも言えるもので、子どもは、心の中にた
まった欲求不満を、絵をかくことによって、発散させようとする。(これを「後者のケース」とい
う。)

 SEさんのケースでは、「見た目には、おとなしく、静かな子どもだ」という。

 私は、ここでいう後者のケースではないかと思う。(圧倒的に、後者のケースが多いこともあ
る。)

 以前、お父さんの顔をかかせていたときのこと。あるところまでかくと、突然、そのお父さんの
顔を、真っ黒に塗りつぶしてしまった男の子(年中児)がいた。

 あとでお母さんにその理由を聞くと、何でもその前日の夜、父親が、蒸発してしまったとのこ
と。その蒸発にいたる、はげしい家庭内騒動が、その男の子の心をゆがめたらしい。

 後者のケースであれば、子どもの心を日常的に抑圧しているものが、何であるかをさぐる必
要がある。過負担、親の過関心や過干渉など。しかし環境を改めたからといって、症状がすぐ
消えるわけではない。私の経験では、平均して、3年から5年(あるいはそれ以上)、尾を引くと
考えてよい。

 中には、それが趣味として、定着してしまうケースも少なくない。マンガやアニメでも、そうした
不気味なものを好んで求めたりする。

 心が変調していることは事実。安易に考えてもいけないが、しかしそれほど、深刻に考える必
要もない。最近の子どもたちには、多かれ少なかれ、こうした不気味なものを好む傾向がみら
れる。

 前者のケースについては、私も、ほんの数例しか経験がないので、何とも言えない。投影法
の絵画テストで、ときどき発見されるというような話は聞いたことがある。何かのふつうでない犯
罪を引き起こした子どもが、そういう絵をかいていたという話も聞いたことがある。

 しかし前者のばあいは、「絵」の範囲には、とどまらないと考えてよい。ふつう、何らかの随伴
症状をともなう。

 私が経験した例では、こんな例がある。

 ある日、子ども(年長男児)の服のポケットを見ると、そのポケットの上に、きれいにビーズ玉
が並んでいた。が、それはよく見ると、ビーズ玉ではなかった。コオロギの頭だった。

 その子どもは、コオロギをつかまえると、まずそのコオロギに、ポケットの上のフチを、かませ
る。かんだところで、体をひねって、体をちぎっていた。

 私は、心底、ゾーッとした。その男の子も、絵といえば、その種の、ゾーッとするような絵ばか
りをかいていた。

 あの淳君殺害事件を起こした、少年Aも、あの大事件を引き起こす前に、ネコを殺していたと
いう報告もある。決して安易に考えてはいけないが、しかしそういうケースは、まれ。まずあなた
の子どもには、ないと考えてよい。
(はやし浩司 ぞっとする絵・こわい絵・子どもの絵) 


●離婚の危機

 離婚する夫婦には、一定のパターンがあるという。湯沢雍彦という学者は、つぎのような兆候
が見られたら、離婚の危機がせまっていると考えてよいと書いている。

(1)夫婦の間に共通の目的が焼失し、それぞれの目的が、(もう一方に)優先する。
(2)すべての共同的な努力が止まる。
(3)相手へのサービスが、控えられる。
(4)ほかの社会集団に対する家族の位置づけが変ってくる。

 よく「離婚する夫婦は、会話がない」という。会話、つまりコミュニケーションの欠如が見られた
ら、赤信号と考えてよい。

 しかし私は、その前の段階として、信頼関係の崩壊をあげる。

 信頼関係は、いうまでもなく、(完全なさらけ出し)と、(完全な受け入れ)という基盤の上に構
築される。仮に会話がなくても、また湯沢氏がいうように、共通の目的がなくても、その信頼関
係があれば、離婚にはいたらないのではないか。

 湯沢氏があげた(1)〜(4)の状態にある夫婦など、いくらでもいる。ほとんどのサラリーマン
家庭では、そうではないのか。

 言いかえると、夫婦であることで、もっとも重要な要素は、この信頼関係である。さらに言いか
えると、たがいに(完全なさらけ出し)と、(完全な受け入れ)をしているなら、かなりの離婚はふ
せげるはず……ということになる。

 そのためにも、あなたがもし妻なら、今日からでも遅くないから、夫の前で、自分をもっとさら
け出してみるとよい。

 飾らない。偽らない。機嫌をとらない。へつらわない。ただひたすら自分を、ありのまま、正直
に表現してみる。それが仮に、夫婦喧嘩という衝突に発展するとしても、それがそのまま離婚
につながるということは、絶対に、ない。

 いやだったら、「いや」と言えばよい。したいことがあったら、「したい」と言えばよい。そういう
(さらけ出し)を、徹底的にする。一時的には、夫も、当惑し、抵抗するかもしれない。が、反対
に夫の立場で、夫もそうであるべきということが、やがて夫にも、わかるはず。そして夫は、夫
で、あなたに対して、(さらけ出し)をしてくる。

 こうして夫婦の信頼関係の基盤をつくる。

 そんなわけで、湯沢氏にならって、私が、離婚の危機を、四か条にまとめると、こうなる。

(1)夫(妻)の前で、言いたいことも言えない。したいこともできない。
(2)夫(妻)の前で、ウソを言ったり、自分をごまかしたりする。
(3)夫(妻)に対して、話していないことや、話せないことが多い。
(4)夫(妻)に対して、遠慮することもある。心を開けない。

 さて、あなたのばあいは、どうだろうか。

 しかしよくよく考えてみると、この「離婚」の問題は、そのまま、「親子断絶」の問題と、同じとい
うことに気づく。立場はちがっても、夫婦も、親子も、人間関係という観点では、同じということに
なる。

 おもしろいテーマなので、また別のところで、ゆっくりと考えてみたい。
(040222)(はやし浩司 離婚 離婚の危機 離婚の前兆)

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最前線の子育て論byはやし浩司(083)

●ギャング集団(エイジ)

 満5歳から6歳にかけて、子どもは、幼児期から、少年少女期へと移行する。急に生意気に
なり、親にも口答えするようになる。

親「新聞をもってきて」
子「自分のことは、自分でしな」と。

 それまではどちらかというと、友だちを特定せず、だれとでも遊べた子どもでも、少年少女期
へ入ると、気のあった、仲間を選ぶようになる。そしてその仲間と、好んで遊ぶようになる。

 特定の集団をつくって遊ぶことから、この時代を、心理学の世界では「ギャング集団」、ある
いは「ギャングエイジ」と呼ぶ。

 子どもは、この時代を通して、社会のルールを身につける。統率、反抗、離反、規律、友情、
差別などなど。いわゆるおとな社会に入るための、その基礎を、この時代に、身につけると考
えると、わかりやすい。

 多くの親たちは、子どもの教育は、学校という場で、教師対子どもの関係で、身につくものだ
と誤解している。しかしそれ以上に重要なものを、子どもは、学校の外で、学ぶ。

 『人生で必要な知識はすべて砂場で学んだ』を書いたのはフルグラムだが、こうした実感は、
学校を卒業し、人生も晩年になると、わかるようになる。

 私のばあいも、学校からの帰り道、友だちと遊んだ経験や、毎日真っ暗になるまで、寺の境
内で遊んだ経験が、今の私の基礎になっている。もっとも、それがわかるようになったのは、
(そうでない子ども)に出会ってからである。

 中には、親の異常なまでの過保護のもと、ギャング集団を、ほとんど経験しないで、育てられ
る子どもがいる。このタイプの子どもは、社会性がほとんど身についていないから、ときとして、
とんでもないことを、しでかす。してよいことと、悪いことの区別もつかない。

 友だちの誕生日プレゼントにと、腐った酒かすを箱に入れて送った子ども(小3)や、解剖した
カエルの死骸を、女の子の筆入れに入れた子ども(小4)などがいた。

 この子どもは、そういうことをすれば、かえって仲間に嫌われるということさえわからない。

 またこの時期、よく仲間はずれや、いじめが問題になる。決して仲間はずれや、いじめを肯
定するわけではないが、そういうことを経験することによって、子どもは、その一方で、集団の
中における、ルールを学ぶ。

 親としてはつらいところだが、しかし目を閉じるところは、しっかりと閉じないと、かえって子ど
もを、ダメにしてしまうことも、あるということ。

 さらに最近では、テレビゲームや、パソコンゲームの発達とともに、仲間と遊ばない子ども
が、ふえている。これについてはまた別のところで書くことにして、つまり、ギャング集団をとお
して、子どもは、おとなになるための社会性の基礎を身につけるということ。

 それについて以前、書いたのが、つぎの原稿である。

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●遊びが子どもの仕事

 「人生で必要な知識はすべて砂場で学んだ」を書いたのはフルグラムだが、それは当たらず
とも、はずれてもいない。

「当たらず」というのは、向こうでいう砂場というのは、日本でいう街中の公園ほどの大きさがあ
る。オーストラリアではその砂場にしても、木のクズを敷き詰めているところもある。日本でいう
砂場、つまりネコのウンチと小便の入りまざった砂場を想像しないほうがよい。

また「はずれていない」というのは、子どもというのは、必要な知識を、たいていは学校の教室
の外で身につける。実はこの私がそうだった。

 私は子どものころ毎日、真っ暗になるまで近くの寺の境内で遊んでいた。今でいう帰宅拒否
の症状もあったのかもしれない。それはそれとして、私はその寺で多くのことを学んだ。けんか
のし方はもちろん、ほとんどの遊びもそうだ。性教育もそこで学んだ。

……もっとも、それがわかるようになったのは、こういう教育論を書き始めてからだ。それまで
は私の過去はただの過去。自分という人間がどういう人間であるかもよくわからなかった。い
わんや、自分という人間が、あの寺の境内でできたなどとは思ってもみなかった。しかしやはり
私という人間は、あの寺の境内でできた。

 ざっと思い出しても、いじめもあったし、意地悪もあった。縄張りもあったし、いがみあいもあ
った。おもしろいと思うのは、その寺の境内を中心とした社会が、ほかの社会と完全に隔離さ
れていたということ。

たとえば私たちは山をはさんで隣り村の子どもたちと戦争状態にあった。山ででくわしたら最
後。石を投げ合ったり、とっくみあいのけんかをした。相手をつかまえればリンチもしたし、つか
まればリンチもされた。

しかし学校で会うと、まったくふつうの仲間。あいさつをして笑いあうような相手ではないが、し
かし互いに知らぬ相手ではない。目と目であいさつぐらいはした。つまり寺の境内とそれを包
む山は、スポーツでいう競技場のようなものではなかったか。競技場の外で争っても意味がな
い。つまり私たちは「遊び」(?)を通して、知らず知らずのうちに社会で必要なルールを学んで
いた。が、それだけにはとどまらない。

 寺の境内にはひとつの秩序があった。子どもどうしの上下関係があった。けんかの強い子ど
もや、遊びのうまい子どもが当然尊敬された。そして私たちはそれに従った。親分、子分の関
係もできたし、私たちはいくら乱暴はしても、女の子や年下の子どもには手を出さなかった。

仲間意識もあった。仲間がリンチを受けたら、すかさず山へ入り、報復合戦をしたりした。しか
しそれは日本というより、そのまま人間社会そのものの縮図でもあった。だから今、世界で起
きている紛争や事件をみても、私のばあい心のどこかで私の子ども時代とそれを結びつけて、
簡単に理解することができる。

もし私が学校だけで知識を学んでいたとしたら、こうまですんなりとは理解できなかっただろう。
だから私の立場で言えば、こういうことになる。「私は人生で必要な知識と経験はすべて寺の
境内で学んだ」と。

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●ギャング集団

 子どもは、集団をとおして、社会のルール、秩序を学ぶ。人間関係の、基本もそこで学ぶ。そ
ういう意味では、集団を組むというのは、悪いことではない。が、この日本では、「集団教育」と
いう言葉が、まちがって使われている。

 よくある例としては、子どもが園や学校へ行くのをいやがったりすると、先生が、「集団教育に
遅れます」と言うこと。

このばあい、先生が言う「集団教育」というのは、子どもを集団の中において、従順な子どもに
することをいう。日本の教育は伝統的に、「もの言わぬ従順な民づくり」が基本になっている。
その「民づくり」をすること、つまり管理しやすい子どもにすることが、集団教育であると、先生
も、そして親も誤解している。

 しかし本来、集団教育というのは、もっと自発的なものである。また自発的なものでなければ
ならない。

たとえば自分が、友だちとの約束破ったとき。ルールを破って、だれかが、ずるいことをしたと
き。友だちどうしがけんかをしたとき。何かものを取りあったとき。友だちが、がんばって、何か
のことでほめられたとき。あるいは大きな仕事を、みなで力をあわせてするとき、など。

そういう自発的な活動をとおして、社会の一員としての、基本的なマナーや常識を学んでいくの
が、集団教育である。極端な言い方をすれば、園や学校など行かなくても、集団教育は可能な
のである。それが、ロバート・フルグラムがいう、「砂場」なのである。もともと「遅れる」とか、「遅
れない」とかいう言葉で表現される問題ではない。

 だから言いかえると、園や学校へ行っているから、集団教育ができるということにはならな
い。行っていても、集団教育されない子どもは、いくらでもいる。集団から孤立し、自分勝手で、
わがまま。他人とのつながりを、ほとんど、もたない。こうした傾向は、子どもたちの遊び方に
も、現れている。

 たとえば砂場を見ても、どこかおかしい? たとえば砂場で遊んでいる子どもを見ても、みな
が、黙々と、勝手に自分のものをつくっている。私たちが子どものときには、考えられなかった
光景である。

 私たちが子どものときには、すぐその場で、ボス、子分の関係ができ、そのボスの命令で、バ
ケツで水を運んだり、力をあわせてスコップで穴を掘ったりした。そして砂場で何かをするにし
ても、今よりはスケールの大きなものを作った。が、今の子どもたちには、それがない。

 こうした問題について書いたのが、つぎの原稿である。なおこの原稿は、P社の雑誌に発表
する予定でいたが、P社のほうから、ほかの原稿にしてほしいと言われたので、ボツになった経
緯がある。理由はよくわからないが……。今までここに書いたことと、内容的に少しダブルとこ
ろもあるが、許してほしい。

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●養殖される子どもたち

 岐阜県の長良川。その長良川のアユに異変が起きて、久しい。そのアユを見続けてきた一
人の老人は、こう言った。「アユが縄張り争いをしない」と。武儀郡板取村に住むN氏である。
「最近のアユは水のたまり場で、ウロウロと集団で住んでいる」と。

原因というより理由は、養殖。この二〇年間、長良川を泳ぐアユの大半は、稚魚の時代に、琵
琶湖周辺の養魚場で育てられたアユだ。体長が数センチになったところで、毎年三〜四月に、
長良川に放流される。人工飼育という不自然な飼育環境が、こういうアユを生んだ。しかしこれ
はアユという魚の話。実はこれと同じ現象が、子どもの世界にも起きている!

 スコップを横取りされても、抗議できない。ブランコの上から砂をかけられても、文句も言えな
い。ドッジボールをしても、ただ逃げ回るだけ。先生がプリントや給食を配り忘れても、「私の分
がない」と言えない。

これらは幼稚園児の話だが、中学生とて例外ではない。キャンプ場で、たき火がメラメラと急に
燃えあがったとき、「こわい!」と、その場から逃げてきた子どもがいた。小さな虫が机の上を
はっただけで、「キャーッ」と声をあげる子どもとなると、今では大半がそうだ。

 子どもというのは、幼いときから、取っ組みあいの喧嘩をしながら、たくましくなる。そういう形
で、人間はここまで進化してきた。もしそういうたくましさがなかったら、とっくの昔に人間は絶滅
していたはずである。が、そんな基本的なことすら、今、できなくなってきている。核家族化に不
自然な非暴力主義。それに家族のカプセル化。

カプセル化というのは、自分の家族を厚いカラでおおい、思想的に社会から孤立することをい
う。このタイプの家族は、他人の価値観を認めない。あるいは他人に心を許さない。カルト教団
の信者のように、その内部だけで、独自の価値観を先鋭化させてしまう。そのためものの考え
方が、かたよったり、極端になる。……なりやすい。

 また「いじめ」が問題視される反面、本来人間がもっている闘争心まで否定してしまう。子ども
同士の悪ふざけすら、「そら、いじめ!」と、頭からおさえつけてしまう。

 こういう環境の中で、子どもは養殖化される。ウソだと思うなら、一度、子どもたちの遊ぶ風
景を観察してみればよい。最近の子どもはみんな、仲がよい。仲がよ過ぎる。砂場でも、それ
ぞれが勝手なことをして遊んでいる。

私たちが子どものころには、どんな砂場にもボスがいて、そのボスの許可なしでは、砂場に入
れなかった。私自身がボスになることもあった。そしてほかの子どもたちは、そのボスの命令に
従って山を作ったり、水を運んでダムを作ったりした。仮にそういう縄張りを荒らすような者が
現われたりすれば、私たちは力を合わせて、その者を追い出した。

 平和で、のどかに泳ぎ回るアユ。見方によっては、縄張りを争うアユより、ずっとよい。理想的
な社会だ。すばらしい。すべてのアユがそうなれば、「友釣り」という釣り方もなくなる。人間たち
の残虐な楽しみの一つを減らすことができる。しかし本当にそれでよいのか。それがアユの本
来の姿なのか。その答は、みなさんで考えてみてほしい。

++++++++++++++++++++

 総じて言えば、今の子どもたちは、管理されすぎ。たとえば少し前、『砂場の守護霊』という言
葉があった。今でも、ときどき使われる。子どもたちが砂場で遊んでいるとき、その背後で、守
護霊よろしく、子どもたちを監視する親の姿をもじったものだ。

 もちろん幼い子どもは、親の保護が必要である。しかし親は、守護霊になってはいけない。た
とえば……。

 子どもどうしが何かトラブルを起こすと、サーッとやってきて、それを制したり、仲裁したりする
など。こういう姿勢が日常化すると、子どもは自立できない子どもになってしまう。せっかく「砂
場」という恵まれた環境(?)の中にありながら、その環境をつぶしてしまう。

 が、問題は、それで終わるわけではない。それについては、別の機会に考えてみる。

++++++++++++++++++++

 最後に、ピアジエは、小学校の低学年期には、「子どもは幼児期から脱し、論理的な思考を
するようになる」。高学年期には、「子どもは、抽象的なことについても、思考するようになる」と
説明している。

 「論理的」というのは、A=B、B=C、だから、A=Cという考え方ができることをいう。たとえ
ば「犬は、卵をうまない。人間も、卵を生まない。だから犬と、人間は、仲間だ」というように考え
るなど。

 また「抽象的」というのは、「心の平和とは何か」「暖かい家庭とは、どんな家庭をいうのか」
「友情とは何か」というテーマについて、自分なりの考えを、説明できることをいう。

 私の印象では、ピアジエの時代よりも、現代は、数年、子どもの発達が早まっているのでは
ないかと思う。(天下のピアジエを、批判するのも、勇気のいることだが……。)ここでいうギャ
ング集団についても、幼稚園の年長児期には、すでにその「形」が見ることができる。

 当然のことながら、このギャング集団の時期になると、子どもは、急速に、親離れを始める。
女の子だと、早い子どもでは、小学3、4年生ごろには、初潮を迎え、父親といっしょに風呂に
入ったりするのをいやがるようになる。

 この時期、子どもは、ときに幼児になり、ときにおとなのまねをしてみたりと、心が揺れ動く。
そういう意味で、精神的には、不安定な時期と考えてよい。
(040223)(はやし浩司 ギャングエイジ ギャング集団 フルグラム ピアジェ ピアジエ)

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

最前線の子育て論byはやし浩司(084)

●家族コンプレックス

 昨夜(2・22)、民放テレビを見ていたら、親離れする子どもの心理について、報道していた。
断絶した親子を、どうすれば、またもとの状態に戻せるか、と。

 「もとの状態」というのは、「幼児のころのように、いっしょにプールで水遊びしたような状態」
(ある父親の言葉)をいうのだそうだ。そういう風景をとったビデオを見ながら、一人の父親は、
ポツリと、こう言う。

「あのころの娘は、どこへ行ったのでしょうかねエ……」と。(多分、ディレクターかだれかに、そ
う言うようにしむけられたのだろうが……。)

 子どもが親離れをする。……しかしそれはある意味で、当然の結末である。テレビ局側の報
道姿勢も、コメンテイターも、「そうであってはいけない」という大前提で、この問題を論じてい
た。が、しかし、どうして、そうであってはいけないのか。

 子どもは思春期が近づくと、「家族」というワクから離れて、「自分」というものを確立するよう
になる。これを心理学では、『個人化』と呼んでいる。

 この個人化は、人間の成長には、必要不可欠なものであり、この個人化がうまくできないと、
精神的に未熟な、ナヨナヨとしたおとなになってしまう。つまり「家族」というワク、あるいは足か
せが、ときとして、この個人化を、阻害してしまうことがある。

 私の知人の中には、50歳をすぎても、親戚づきあいを第一に考えている人がいる。何かに
つけて、「親戚」「親戚」と、「親戚」という言葉を、口にする。そうした生きザマが、まちがってい
るとは思わないが、そうした心理状態は、広い意味で、マザーコンプレックス(マザコン)の人が
もつ心理状態に似ている。

 そのマザコンという言葉をもじるなら、「家族」や「親戚」というワクの中から出られないでいる
状態は、「ファミリー・コンプレックス(家族コンプレックス)」、あるいは、「親戚コンプレックス」と
いうことになる。(注、この二つの名前は、私がつけた。)

 徹底した依存関係を、家族どうし、あるいは親戚どうしの間に求めようとする。

 しかしこうした依存性は、当然のことながら、その人の精神的自立を阻害する。その結果、こ
こに書いたように、精神的に未熟な人間になる。

 一般論から言えば、マザコンタイプの人ほど、親戚づきあいを、重要視する。「依存性」という
部分では、心理状態が共通するからである。

息子や娘のために、遠い親戚にまで声をかけ、派手な結婚式をしたがる、など。盆暮れの実
家の墓参りを、最重要のこころがけと位置づけることもある。

 もっとも、その人が自分だけでそうするのは構わない。が、このタイプの人にかぎって、そうで
ない人を、徹底的に非難する。自己中心性が強く、「自分は正しい」と思う、その返す刀で、「あ
んたは、まちがっている」「人間として、失格だ」と言う。

 その報道番組でも、そうした表現が、ずいしょに見られた。一人、「親に向かって……」という
ようなことを言っている、父親もいた。いまどき、「?」な表現である。

 家族は、大切だが、しかしその家族が、子どもの自立の足かせになってはいけない。それは
子どもにとっては、母親は絶対的なものではあるが、同時に、子どもを、マザコンにしてはいけ
ないという論理に似ている。

 が、問題は、それだけに終わらない。

 この日本では、そういう形であるにせよ、親に反発する子どもを、「悪」と決めてかかる風潮が
強い。「できそこない」とか、「非行」とかいうレッテルを張ることもある。

 その結果、子どもは、その罪悪感を覚えるようになり、生涯にわたって、心のキズ、あるいは
負い目としてしまうことがある。

 そんなわけで、「家族」や「親戚」は、大切にしなければならないものだが、だからといって、そ
れを子どもに押しつけてはいけない。こうした問題では、親は、子どもから一歩退いて考える。
そういう姿勢が、子どもの成長をうながすことになる。
(040223)(個人化 家族コンプレックス 親戚コンプレックス 親類コンプレックス)

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【追記(1)】

 この原稿を書いているとき、では、どういう人が、(たくましい人)であり、どういう人が、(未熟
な人)であるかということを考えた。

 たくましい人というのは、イメージとしては、荒野を野宿しながら、ひとりで生きていくような人
をいう。

 未熟な人というのは、いつも何かに依存しながら生きていく人をいう。名誉や地位、肩書きや
財産など。過去の学歴や、職歴にぶらさがって生きていく人も、それに含まれる。さらに、父親
や母親をことさら美化して、それに依存する人。親戚づきあいを第一に考えて、親戚に依存す
る人も、それに含まれる。

 未熟な人というのは、何かにつけてものや人に依存しやすいので、このタイプの人は、たいて
いこれらすべてのものに、同時に、依存しながら生きていることが多い。

 両親や、親戚づきあいは、当然のことながら、それなりに大切にしなければならないものであ
る。しかしことさらそれを強調する人というのは、自分の依存性(=精神的な欠陥)をごまかす
ために、強調することが多い。

 あなたの周囲にも、このタイプの人は、必ずいるので、観察してみるとおもしろいのでは…
…。

【追記(2)】

 子どもは親から、生まれる。しかし子どもは子どもであって、決して、親のモノではない。だか
らその子どもが、親の思いどおりにならないからといって、親は、それを嘆く必要はない。いわ
んや、子どもを責めてはいけない。

 依存性の強い親ほど、子どもの依存心に甘くなる一方、自分は、自分で、今度は、子どもに
依存しようとする。「産んでやった」「育ててやった」「大学まで出してやった」と。

 そして親にベタベタと甘える子どもイコール、かわいい子イコール、よい子として、その依存性
を、見すごしてしまう。

 こうした日本人独特の依存性は、まさに日本という島国に生まれた土着性のようなもの。日
本人の体質の中に、しっかりとしみこんでいるので、それに気づく人は少ない。

 どこかのだれかが、涙ながらに、「私は母に産んでいただきました。女手一つで育てていただ
きました」などと話したりすると、「?」と思う前に、それを美談として、安易にもてはやしてしま
う。

 ここに書いた、家族コンプレックス、親戚コンプレックスも、同じように考えてよい。
(はやし浩司 家族コンプレックス 親類 親戚 コンプレックス)
++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司


最前線の子育て論byはやし浩司(085)

●親不孝を悔やむ人

 「私は、親不孝者でした」と、悔やんでいる人は多い。「親にさんざん苦労をかけながら、その
恩がえしができなかった」と。

 日本では、ことさら親孝行がもてはやされる。親孝行を売り物にしている倫理研究団体も、い
くつかある。その中には、何十万人という会員を集めているのもある。

 そういう風潮の中で、多くの日本人は、親孝行を美徳とし、その一方で、親孝行をしない者
(?)を、「人間のクズ」と、排斥する。

 それが日本の文化だから、私は、それを受け入れるしかない。まただからといって、私は、親
孝行を否定しているのではない。

 ただこうした風潮の中で、親孝行ができなかった人、あるいは親孝行をしなかった人が、自
分で自分を責めるケースも、少なくない。さらにそれが進んで、自分を否定してしまう人もいる。
自分で自分のことを、人間のクズと思いこんでしまう。

 子どもの世界でも、これに似た現象がよく起きる。

 たとえばある子どもが、親に、小さいころから、「いい大学へ入りなさい」「いい大学へ入らな
ければ、いい生活ができない」と、さんざん言われつづけたとする。そういう子どもが、そのまま
その(いい大学)は入れれば、問題はない。

 しかしその(いい大学)は入れなかったとしたら、その子どもは、どうなるのか? その子ども
は挫折感から、自らにダメ人間というレッテルを張ってしまう。

 こういう状態になると、子どもは、現実に適合できなくなり、「現実検証能力」を失うと言われて
いる。自信喪失から自己嫌悪におちいることもある。わかりやすく言えば、ハキのない、ナヨナ
ヨとした人生観をもつようになってしまう。

 私も、幼稚園で働くと母に告げたとき、母は、電話口の向こうで、オイオイと泣き崩れてしまっ
た。私は、母の声を聞いたとき、どん底にたたき落とされたように感じた。たいへんなことをして
しまったと感じた。実際には、それから十年以上、私は、外の世界で、自分の職業を隠した。

 私たちは、ともすれば、子どもに向かって、「こうあるべきだ」と、言いがちである。しかしそう
いう言葉の裏で、子どもに、別の負担を課してしまうことがある。そしてその負担を感じて、こど
も自身が、自らを追いこんでしまう。冒頭に書いた、親孝行もその一つということになる。

 つまり子育てを、ある一定のワクの中で考えると、どうしても、そのワクを子どもに押しつけよ
うとする。そしてその結果、そのワクが、子ども自身を押しつぶしてしまうことがある。しかもた
いていは、そういうふうにしながらも、親自身に、その自覚がない。

 ……ということで、いきなり結論。

 こうした押しつけは、慎重に。それから一言。いくらあなたの子どもが、親不孝の息子や娘で
あっても、その息子や娘が苦しむようなことだけは、避けたい。そのためにも、親は、いつも、
無条件の愛をつらぬく。見かえりを求めない。そういうサバサバした生き方が、子どもの未来
を、明るくする。つまりそういう未来を用意してあげるのも、親の務めということになる。

 子どもが、「私は親不孝者」と、自ら苦しむような状況だけは、つくってはいけない。
(040223)

+++++++++++++++++++
以前、こんな原稿(中日新聞掲載済み)を
書きました。
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●生きる源流に視点を
      
 ふつうであることには、すばらしい価値がある。その価値に、賢明な人は、なくす前に気づ
き、そうでない人は、なくしてから気づく。青春時代しかり、健康しかり、そして子どものよさも、
またしかり。

 私は不注意で、あやうく二人の息子を、浜名湖でなくしかけたことがある。その二人の息子が
助かったのは、まさに奇跡中の奇跡。たまたま近くで国体の元水泳選手という人が、魚釣りを
していて、息子の一人を助けてくれた。

以来、私は、できの悪い息子を見せつけられるたびに、「生きていてくれるだけでいい」と思い
なおすようにしている。が、そう思うと、すべての問題が解決するから不思議である。

とくに二男は、ひどい花粉症で、春先になると決まって毎年、不登校を繰り返した。あるいは中
学三年のときには、受験勉強そのものを放棄してしまった。私も女房も少なからずあわてた
が、そのときも、「生きていてくれるだけでいい」と考えることで、乗り切ることができた。

 私の母は、いつも、『上見てきりなし、下見てきりなし』と言っている。人というのは、上を見れ
ば、いつまでたっても満足することなく、苦労や心配の種はつきないものだという意味だが、子
育てで行きづまったら、子どもは下から見る。「下を見ろ」というのではない。下から見る。「子ど
もが生きている」という原点から、子どもを見つめなおすようにする。

朝起きると、子どもがそこにいて、自分もそこにいる。子どもは子どもで勝手なことをし、自分
は自分で勝手なことをしている……。一見、何でもない生活かもしれないが、その何でもない生
活の中に、すばらしい価値が隠されている。つまりものごとは下から見る。それができたとき、
すべての問題が解決する。

 子育てというのは、つまるところ、「許して忘れる」の連続。この本のどこかに書いたように、フ
ォ・ギブ(許す)というのは、「与える・ため」とも訳せる。またフォ・ゲット(忘れる)は、「得る・た
め」とも訳せる。

つまり「許して忘れる」というのは、「子どもに愛を与えるために許し、子どもから愛を得るため
に忘れる」ということになる。仏教にも「慈悲」という言葉がある。この言葉を、「as you like」と英
語に訳したアメリカ人がいた。「あなたのよいように」という意味だが、すばらしい訳だと思う。こ
の言葉は、どこか、「許して忘れる」に通ずる。

 人は子どもを生むことで、親になるが、しかし子どもを信じ、子どもを愛することは難しい。さ
らに真の親になるのは、もっと難しい。大半の親は、長くて曲がりくねった道を歩みながら、そ
の真の親にたどりつく。楽な子育てというのはない。

ほとんどの親は、苦労に苦労を重ね、山を越え、谷を越える。そして一つ山を越えるごとに、そ
れまでの自分が小さかったことに気づく。が、若い親にはそれがわからない。ささいなことに悩
んでは、身を焦がす。

先日もこんな相談をしてきた母親がいた。東京在住の読者だが、「一歳半の息子を、リトミック
に入れたのだが、授業についていけない。この先、将来が心配でならない。どうしたらよいか」
と。こういう相談を受けるたびに、私は頭をかかえてしまう。

+++++++++++++++++++

●家族の真の喜び
   
 親子とは名ばかり。会話もなければ、交流もない。廊下ですれ違っても、互いに顔をそむけ
る。怒りたくても、相手は我が子。できが悪ければ悪いほど、親は深い挫折感を覚える。

「私はダメな親だ」と思っているうちに、「私はダメな人間だ」と思ってしまうようになる。が、近所
の人には、「おかげでよい大学へ入りました」と喜んでみせる。今、そんな親子がふえている。

いや、そういう親はまだ幸せなほうだ。夢も希望もことごとくつぶされると、親は、「生きていてく
れるだけでいい」とか、あるいは「人様に迷惑さえかけなければいい」とか願うようになる。

 「子どものころ、手をつないでピアノ教室へ通ったのが夢みたいです」と言った父親がいた。
「あのころはディズニーランドへ行くと言っただけで、私の体に抱きついてきたものです」と言っ
た父親もいた。

が、どこかでその歯車が狂う。狂って、最初は小さな亀裂だが、やがてそれが大きくなり、そし
て互いの間を断絶する。そうなったとき、大半の親は、「どうして?」と言ったまま、口をつぐんで
しまう。

 法句経にこんな話がのっている。ある日釈迦のところへ一人の男がやってきて、こうたずね
る。「釈迦よ、私はもうすぐ死ぬ。死ぬのがこわい。どうすればこの死の恐怖から逃れることが
できるか」と。それに答えて釈迦は、こう言う。

「明日のないことを嘆くな。今日まで生きてきたことを喜べ、感謝せよ」と。

私も一度、脳腫瘍を疑われて死を覚悟したことがある。そのとき私は、この釈迦の言葉で救わ
れた。そういう言葉を子育てにあてはめるのもどうかと思うが、そういうふうに苦しんでいる親を
みると、私はこう言うことにしている。

「今まで子育てをしながら、じゅうぶん人生を楽しんだではないですか。それ以上、何を望むの
ですか」と。

 子育てもいつか、子どもの巣立ちで終わる。しかしその巣立ちは必ずしも、美しいものばかり
ではない。憎しみあい、ののしりあいながら別れていく親子は、いくらでもいる。

しかしそれでも巣立ちは巣立ち。親は子どもの踏み台になりながらも、じっとそれに耐えるしか
ない。親がせいぜいできることといえば、いつか帰ってくるかもしれない子どものために、いつ
もドアをあけ、部屋を掃除しておくことでしかない。

私の恩師の故松下哲子先生*は手記の中にこう書いている。「子どもはいつか古里に帰ってく
る。そのときは、親はもうこの世にいないかもしれない。が、それでも子どもは古里に帰ってく
る。決して帰り道を閉ざしてはいけない」と。

 今、本当に子育てそのものが混迷している。イギリスの哲学者でもあり、ノーベル文学賞受
賞者でもあるバートランド・ラッセル(一八七二〜一九七〇)は、こう書き残している。

「子どもたちに尊敬されると同時に、子どもたちを尊敬し、必要なだけの訓練は施すけれど、決
して程度をこえないことを知っている、そんな両親たちのみが、家族の真の喜びを与えられる」
と。

こういう家庭づくりに成功している親子は、この日本に、今、いったいどれほどいるだろうか。
(*浜松市青葉幼稚園元園長)(はやし浩司 ラッセル 許して忘れる)

+++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩


最前線の子育て論byはやし浩司(086)

【近況・あれこれ】

●孫の誠司

 おかしなもので、毎日誠司の顔を、写真でだが、見ていると、誠司の顔が、日本人の顔に見
えてくるようになった。

 はじめて誠司の写真を見た人は、みな、「ハーフの顔ですね」という。しかし私には、そうは見
えない。

 もっとも生まれた直後の写真では、たいしかに目は青かった。しかしつぎの写真からは、濃い
茶色になっていた。恩師のT先生に、「DNAが狂ったのかもしれません」という添え書きをつけ
て、誠司の写真を送ると、その先生までもが、「思わず笑いました」と、返事をよこした。

 あの先生は、本当に、いつも、口が悪い。

 私には、かわいい顔に見えるが、そう思うのは、私だけかもしれない。どこのジジババ様も、
「孫は、かわいい」と言う。私も、その一人。

 もう少し、どこか私に似ていれば、それなりにまた別の考え方もできるのだろうが、しかしまっ
たく、似ていない。T先生も、「似ても似つかぬ……」と書いてきた。しかし本当のことを言うと、
誠司は、このところ、少しずつ、私に似てきたと思う。

 そう思うのは、私だけだが……。

 これは誇張でも何でもない。本心から、そう思うので、こう書く。誠司の顔は、どこからどう見
ても、日本人の顔である。白人の顔とは、まったくちがう。

 ここまで書いたあと、ワイフに聞いたら、「そういえば、誠司、だんだん、あなたに似てきたわ
ね」と。まあ、どちらでもよいが……。


●性欲

 性欲には、二面性がある。

 「生」と「死」である。

 つまりセックスをすることで、あらゆる動物は、子孫を後世に残そうとする。それが「生」。しか
し同時に、その役目が終わったとき、あらゆる動物は、そのまま「死」に向う。実際、交尾を終
えたあと、死ぬ動物は、少なくない。魚のサケなどは、よい例だ。

 人間も、基本的には、それらの動物と、同じ。性欲に応じて、人間もセックスをする。このと
き、人間は、(あらゆる動物もそうだろうが)、「生」をも乗りこえるだけの快感を覚える。つまり
「もう死んでもいい」と言えるほどの快感である。

 これを「クライマックス」という。

 そのクライマックスの瞬間というのは、まさに「生」と「死」を同時に感ずる瞬間といってもよ
い。とくに、女性にとっては、そうかもしれない。またそれがあるからこそ、女性は、それにつづ
く、長くてつらい妊娠、出産、育児という難業を受け入れることができる。

 反対に、それがなければ、人類は、とっくの昔に、絶滅していたことになる。

 そう言えば、あのサケという魚は、海を回遊したあと、自分たちが生まれた源流にもどり、そ
こで交尾して、その生涯を終えるという。

 恐らくサケたちが感ずる、交尾によるクライマックスは、「もう死んでもいい」と言えるほど、強
烈で、濃密なものにちがいない。気のせいかもしれないが、カメラでとらえたサケのオスやメス
の目からは、涙さえ流れいる? (川の中で涙など流すのかという疑問もあるが……。)

 基本的には、人間の性欲も、それに準じて、考えてよい。


●異常気象

 オーストラリアの友人のB君から、こんなメールが届いた。何でも南オーストラリア州のアデレ
ード近郊で、気温が45度を超えたという。それで町の人たちが、総出で、ブッシュファイア(山
火事)の警戒にあたったという。

 あのあたりでひとたびブッシュファイアが起こると、小さいのでも、関東平野全体ほどの規模
で、燃え広がる。大きいのだと、州全体にまたがって、燃え広がる。スケールがちがう。

 が、そのメールをくれた夜、「やっと雨が降った」(2月22日)と。

 しかしそれにしても、45度なんて、メチャメチャ。同じ日、東京でも、気温が21度まであがっ
た。2月というのに、5月中旬の気温である。いったい、地球の気温は、どうなってしまったの
か。

 ……というような回りくどい言い方は、やめよう。地球の温暖化は確実に進行している。そし
てその速度は、予測をはるかに超えたものになっているらしい。2100年までに、地球の平均
気温は、四、五度あがるということになっているが、今では、だれもそんな数字を、信じない。

 仮にその数字でも、日本のように中緯度帯にある国々では、気温が、さらにあがるという。そ
のころになると、この日本でも、真冬でも、夏日がつづくようになるかもしれない。

 しかし、こう書くと、世界の人に叱られそうだが、日本は、ラッキーな国である。四方を海に囲
まれ、列島の中央には、高い山脈がつらなる。世界で、もっとも温暖化の影響を受けない国と
いうことになれば、この日本をおいて、ほかにない。

 局地的に渇水は起こるかもしれないが、日本全体が砂漠化するということは、考えにくい。

 世界中が砂漠化しても、日本だけは、生き残る……。日本人だけは、生き残る……。私やあ
なたの子どもだけは、生き残る……。

 ここまでを中学生たちに読んで聞かせたら、T君がこう言った。

「でも、南極の氷が溶けるんでしょう。そうなったら、どうなるの?」と。

 たしかに海面は上昇する。今の予測では、2100年までに、1メートルくらい上昇すると言わ
れている。もちろん日本の平野部のほとんどは、それで水没する。しかしここにも書いたよう
に、日本には、山がある。その山を、うまく利用すればよい。

 ……ということで、この話はやめよう。書けば書くほど、気が重くなる。まあ、そのために科学
がある。人間の英知がある。いろいろな解決方法も考えられている。地球の大気圏の外側を、
亜硫酸ガスでおおうという方法もあるそうだ。つまり地球にカサをかける。そうして直射日光を
避ける。

 私は、そういう人間の英知を信ずる。しかし45度とはねえ……。


●新しい英語学習(?)

 これは私が考案した、英語学習の方法。英語のワードオーダー(語順)で、話をする。子ども
にそのワードオーダーを理解させる方法としては、すぐれていると思う。

 たとえば今日、教室で、子どもたちに、つぎの日本語を、読んできかせた。

「むかし、むかし、浦島太郎、いた。太郎、歩いた、そば、海岸。
 こどもたち、いじめていた、かめ。
 太郎、言った、に、子どもたち。するな、いじめる、かめ。
 子どもたち、やめた、いじめる、かめ。

 ある日、太郎、釣っていた、魚。
 そこへ、かめ、来た。かめ、言った、に、太郎。
 太郎、乗れ、私の、背中。太郎、のった、背中、の、かめ。
 
 太郎、来た、へ、竜宮城。乙姫様、迎えた、太郎。
 太郎、食べた、たくさんの、ごちそう。太郎、見た、踊り、の、タイやヒラメ。
 太郎、過ごした、たのしいとき」と。

 こうした言い方を少し教えると、子どもたちも、すぐまねをして、こう言った。

 「私、好き、ママ。私、嫌い、先生」と。

 ときどき、「英語では、そういう言い方をするんだよ」とか、あるいは、「(私)(する)(テニス)
を、正しい日本語にしてごらん」などと言って、指導する。

 あなたも、簡単な言い方のものを、子どもにしてみせるとよい。「英語では、こういう言い方を
するのよ」と、前もって、説明しておくとよい。

 「私、つくる、夕食。パパ、帰る、から、会社。みんな、食べる、夕食、いっしょに」と。

 少し練習すると、結構、スラスラと言えるようになる。ためしてみてほしい。


●スランプ

 この一週間で、「まぐまぐプレミア」用の原稿、6日分、つまり2週間分を書き終えた。(毎週、
月・水・金発行)。

 とたん、そのあと、スランプ状態になってしまった。「やっと書いた」という思いと同時に、「こん
なことしていて、何になるのだろうか」という、思い。その「何になるのだろか」という思いが、支
配的になってしまった。

 やはり無料のまま、マガジンを発行すべきだったのか。損得を考えたとたん、心がにごったよ
うに感じた。そしてそれが、今、大きな迷いになりつつある。

 で、こういうときというのは、何を書いても、むなしい。悶々とした、つかみどころのないテーマ
だけが、つぎつぎと現れては消える。ワイフは、そういう私の気持を察してか、さかんに、「旅行
に行こう」と、誘いをかけている。

 そう言えば、軽い頭痛がする。風邪をひいたのかもしれない。体が、だるい。コタツに入って
いても、背中に、悪寒を覚える。ゾクゾクする。スランプ状態になったのは、風邪のせいかもし
れない。

 しかしこういう状態になると、自分のしていることが、ますます小さく思えてくる。そしてなさけな
くなる。

 多分、一眠りすれば、また心も回復するだろう。頭が、少し疲れたせいだと思う。このところ、
毎日、五、六時間は、パソコンに向っていた。明日は、ワイフと、久しぶりに、近くのイタリアン
レストランで、ステーキでも食べよう。

 私は、負けないぞ!
(040224)

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

最前線の子育て論byはやし浩司(087)

●心のバランス感覚

駅構内のキオスクで、週刊誌とお茶を買って、レジに並んだときのこと。突然、横から二人の女
子高校生が割りこんできた。

 前の人との間に、ちょうど二人分くらいの空間をあけたのが、まずかった。

 それでそのとき私は、その女子高校生にこう言った。「ぼくのほうが、先ですが……」と。する
とその中の一人が、こう言った。「私たちのほうが、先だわよねえ」と。

 私「だって、私は、あなたたちが、私のうしろで、買い物をしているのを、見ていましたが……」
 女「どこを見てんのよ。私たち、ずっと前から、ここに並んでいたわよねエ〜」と。

 私は、そのまま引きさがった。そして改めて、その女子高校生のうしろに並んだ。

 で、そのあと、私がレジでお金を払って、駅の構内を見ると、先ほどの二人の高校生が、10
メートルくらい先を、どこかプリプリした様子で、急ぎ足に歩いていくところだった。

 事件は、ここで終わった、が、私は、この一連の流れの中で、自分の中のおもしろい変化に
気づいた。

 まず、二人の女子高校生が、割りこんできたときのこと。私の中の二人の「私」が、意見を戦
わせた。

 「注意してやろう」という私と、「こんなこと程度で、カリカリするな。無視しろ」という私。この二
人の私が、対立した。

 つぎに、女子高校生が反論してきたとき、「別の女子高校生と見まちがえたのかもしれない。
だからあやまれ」とささやく私と、「いや、まちがいない。私のほうが先に並んだ」と怒っている
私、。この二人の私が、対立した。

 そして最後に、二人の女子高校生を見送ったとき、「ああいう気の強い女の子もいるんだな。
学校の先生もたいへんだな」と同情する私と、「ああいう女の子は、傲慢(ごうまん)な分だけ、
いろいろな面で損をするだろうな」と思う私。この二人の私が対立した。

 つまり、そのつど、私の中に二人の私がいて、それぞれが、反対の立場で、意見を言った。
そしてそのつど、私は、一方の「私」を選択しながら、そのときの心のあり方や、行動を決め
た。

 こういう現象は、私だけのものなのか。

 もっとも日本人というのは、もともと精神構造が、二重になっている。よく知られた例としては、
本音と建て前がある。心の奥底にある部分と、外面上の体裁を、そのつど、うまく使い分ける。

 私もその日本人だから、本音と建て前を、いつもうまく使い分けながら生きている。こうした精
神構造は、外国の人には、ない。もし外国で、本音と建て前を使い分けたら、それだけで二重
人格を疑われるかもしれない。

 そこで改めて、そのときの私の心理状態を考えてみる。

 私の中で、たしかに二人の「私」が対立した。しかしそれは心のバランス感覚のようなものだ
った。運動神経の、行動命令と、抑制命令の働きに似ている。「怒れ」という私と、「無視しろ」と
いう私。考えようによっては、そういう二人の私が、そのつどバランスをとっていたことになる。

 もし一方だけの私になってしまっていたら、激怒して、その女子高校生を怒鳴りつけていたか
もしれない。反対に、何ら考えることなく、平静に、その場をやりすごしていたかもしれない。

 もちろんそんなくだらないことで、喧嘩しても、始まらない。しかし心のどこかには、正義感も
あって、それが顔を出した。それに相手は、高校生という子どもである。私の職業がら、無視で
きる相手でもなかった。それでどうしても、黙って無視することもできなかった。

 こうした状態を、「迷い」という。そしてその状態はというと、二人の自分が、たがいに対立して
いる状態をいう。だからこうした現象は、私だけの、私特有のものではないと思う。

もともと脳も、神経細胞でできている。運動に、交感神経(行動命令)※と副交感神経(抑制命
令)があるように、精神の活動にも、それに似た働きがあっても、おかしくない。

 そして人間は、その二つの命令の中で、バランスをとりながら、そのつどそのときの心の状態
を決めていく。そのとき、その二つの命令を、やや上の視点から、客観的に判断する感覚を、
私は、「心のバランス感覚」と呼んでいる。つまりそのバランス感覚のすぐれた人を、常識豊か
な人といい、そうでない人を、そうでないという。

 キオスクから離れて、プラットフォームに立ったとき、私はそんなことを考えていた。
(040224)(はやし浩司 心のバランス感覚 心のバランス)

※交感神経……心臓の働きを促進し、胃腸の運動や胃液分泌を抑制し、血管の促進、汗の
分泌の促進などの機能を営む、自律神経。(日本語大辞典)

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司


最前線の子育て論byはやし浩司(088)

●性の厳粛さ

 男性は、射精した直後。女性は、クライマックスを感じた直後、「死」を体験する。それはまさ
に「生」の絶頂期から、まっさかさまに、「死」の淵(ふち)へと転落する瞬間と言ってもよい。

 あらゆる動物は、この一瞬のために、すべてをかける。中には、その直後、あえて死を選ぶ
動物もいる。「生きること」、それはすべて、「生」を、つぎの世代に伝えることを目的とする。
「性」イコール、「生」である。

 もっとも人間は、その「性」を、快楽、つまりエロスの道具としてしまった。それ自体は悪いこと
ではないが、しかし同時に、「性」のもつ厳粛さを、忘れてしまった。もし、あの魚のサケが、生
まれ故郷の源流へもどることなく、その途中の海で、適当にパートナーを見つけて、性を楽しむ
ようになったら、どうなる? サケは、そのまま絶滅することになる。

 もちろん人間とサケは、ちがう。それはわかる。しかし人間も、過去何十万年もの間の、その
ほとんどを、そのサケとはほとんどちがわない生活をしてきた。そうした人間は、「性」から、「エ
ロス」を分離し、さらに「エロス」をもって、それが「性」であると、誤解してしまった。

 諸悪の根源は、すべてここから始まった。

 たとえば避妊や中絶が、今ほど、一般的でなかった時代には、とくに女性は、妊娠に慎重に
なった。そして当然のことながら、性に慎重になった。そのため男女の関係を、もっと厳粛なも
のととらえた。

 しかし今、その歯止めが、なくなってしまった。安易な避妊や中絶が、エロスだけを、性からよ
りわけてしまった。そしてそのエロスの追求だけが、「性の解放」と、誤解されるようになってし
まった。

 その結果が、今の状態ということになる。

 ……だからどうしたらよいのかということについては、私は、わからない。また「性」をどう考え
るべきかということについては、私は、わからない。しかし、これだけは言える。

 性を安易に考えるものは、生きることそのものを、安易に考えることになる。性を厳粛に考え
るものは、生きることそのものを、大切に考えることになる。そういう意味で、決して、性を、安
易に考えてはいけない。性の快楽を、安易にむさぼってはいけない。

 生きることが、いつも厳粛であるように、性もまた、いつも厳粛でなければならない。
(040224)(はやし浩司 エロス 性)

+++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

最前線の子育て論byはやし浩司(089)

●行き着くところまで、行く

 子育ては、頭で考えてするものではない。また考えたところで、そのとおりできるものでもな
い。ある母親は、こう言った。「頭の中ではわかっていても、いざ、その場になると、つい、カー
ッとして……」と。

 子育ては、そういう意味で、条件反射のかたまりのようなもの。脳のCPU(中央演算装置)が
からむ問題であるだけに、よほどのことがないかぎり、コントロールすること自体、むずかしい。

 その結果として、子育てというのは、行き着くところまで、行く。それは子育てがもつ、宿命の
ようなもの。たとえば、子育てというのは、一度、悪循環の環(わ)の中に入ると、途中で止まる
ということは、まず、ない。

 たいていの親は、そういう状態になりながらも、「そんなはずはない」「まだ何とかなる」「うちの
子にかぎって」と、無理をする。とくに子どもの心がからんだ問題では、そうである。

 もう十数年も前のことだが、こんなことがあった。

 D君という中学一年生になったばかりの男子がいた。まじめな子どもで、学校の成績も、それ
ほど、悪くなかった。が、その子どもが中学一年生になると同時に、彼の生活環境は、ガラリと
変った。

 週三日制の進学塾へ通うになり、家庭教師も二人ついた(その中の一人が、私)。土日は、
父親の特訓を受けた。それに加えて、D君は、サッカー部に入部した。

 そのD君が、おかしくなり始めたのは、夏休み前からだった。D君は、数か月先の学力テスト
を心配し始めた。

 私が、「そんな先のテストのことは、心配してはだめだ」と言うと、D君は、こう言った。

 「先生、ぼくは、がんばっている。だから今度のテストで悪い点を取ると、ぼくは自信をなくして
しまう。ぼくは、それがこわい」と。

 D君は、彼の中に住む、もうひとりのD君の影におびえていた。

 実際、D君のスケジュールは、過酷なものだった。朝は、朝練習。そして夏場になると、サッカ
ーの練習は、毎日、暗くなるまでつづいた。その上での、進学塾であり、家庭教師である。D君
は、私と対峙して座っていても、いつもコックリ、コックリと、居眠りばかりしていた。

 で、案の定というか、予想通りというか、2学期に入ってからあった、学力テストは、さんたん
たる結果で終わった。そして私が心配していたように、そのテストをきっかけに、D君は、無気
力状態になってしまった。「燃え尽きた」と私は、感じた。

 で、私は、ある夜、母親に家に来てもらった。D君の様子を説明したあと、私は、こう言った。

 「勉強は、もうあきらめたほうがいい。このままだと、さらに勉強しなくなる」と。

 すると母親は、「今、ここで勉強をやめたら、あの子の将来は、真っ暗になる」と、がんばっ
た。「何とか、あきらめないで、家庭教師をつづけてほしい」と。

 D君は、それからも私のところへやってきた。そのころ、ちょうど大学受験の生徒が一人いた
ので、その生徒といっしょに、勉強させた。私がときどき席をたったようなとき、その高校生が、
D君をあれこれ励ましてくれていたようだ。(そういうふうに私が頼んだこともある。)

 が、その高校生ですら、私にこう言った。「先生、D君の様子がおかしいから、やはりお母さん
に言ったほうがいいよ」と。

 私はドクターでないので、診断名をつけることは許されない。しかしだれがみても、D君は、う
つ状態にあった。精神科へ行けば、うつ病と診断されただろう。

 無気力、無感動、無反応の状態がつづいた。数分おきに、ため息ばかりついていた。私が話
しかけても、ていねいな言葉がかえってくるだけで、つかみどころがなかった。

 冬になって、再び、母親に来てもらった。私は、家庭教師をおりるつもりでいた。が、母親は、
半ば泣きながら、それに反対した。「あの子にとって、先生だけが、ゆいいつの救いなのです。
どうか、やめないでください」と。

 私は、そのとき、母親に、神経症(心身症)のテストを受けてもらった。私が独自に考案した、
心理テストである。そのテストで、母親は、異常なまでの高得点をとった。平均点が、4〜5点。
しかしその母親の得点は、20点を超えた。母親自身の心も病んでいた。が、母親は、その結
果をみながらも、まだことの重大さに気づいていなかった。

 そのD君が、ある日突然、学校へ行かなくなってしまったのは、それから数か月後のことだっ
た。

 ……というようなケースは、本当に多い。何割かの親子がそうでないかと思えるほど、多い。
あるいはそれ以上? どの親も、自分で失敗してみるまで、それが失敗だったと気づかない。
中には、失敗してからも、その失敗を認めない親もいる。「学校が悪い」「先生が悪い」「友だち
が悪い」と。

 だから私の出番ということになるが、実際のところ、私のような立場のものが、あれこれ意見
を言っても、それを真に受けてくれる親は、まず、いない。子育てには、その親の人格や人生
観すべてがからんでくる。私に意見に耳を傾けるということは、そうした人格や人生観すべての
軌道修正をすることを意味する。

 たとえば学歴信仰をしている人に向かって、「勉強よりも大切なものがあります」と説いたとこ
ろで、意味はない。子育てには、そういう宿命が、いつもついて回る。

 それがここでいう「行き着くところまで、行く」という意味である。
 
 少し前、「太陽さん」「マリソルさん」という方と、チャットをしていたとき、この話が出たので、少
し考えてみた。
(040224)

+++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

最前線の子育て論byはやし浩司(090)

●善玉家族意識、悪玉家族意識

 家族意識にも、善玉と、悪玉がある。(善玉親意識と、悪玉親意識については、前に書い
た。)

 家族のメンバーそれぞれに対して、人間として尊重しようとする意識を、善玉家族意識とい
う。

 反対に、「○○家」と、「家(け)」をつけて自分の家をことさら誇ってみたり、「代々……」とか
何とか言って、その「形」にこだわるのを、悪玉家族意識という。

 これは極端な例だが、こんなケースを考えてみよう。

 その家には、代々とつづく家業があったとする。父親の代で、十代目になったとする。が、大
きな問題が起きた。一人息子のX君が、「家業をつぎたくない。ぼくは別の道を行く」と言い出し
たのである。

 このとき、親、なかんずく父親は、「家」と、「息子の意思」のどちらを、尊重するだろうか。父
親は、大きな選択を迫られることになる。

 つまりこのとき、X君の意思を尊重し、X君の夢や希望をかなえてやろう……そういう意味で、
家族の心を大切にするのが、善玉家族意識ということになる。

 一方、「家業」を重要視し、「家を守るのは、お前の役目だ」と、X君に迫るのを、悪玉家族意
識という。

 それぞれの家庭には、それぞれの事情があって、必ずしもどちらが正しいとか、まちがってい
るとかは言えない。しかし家族意識にも、二種類あるということ。とくに私たち日本人は、江戸
時代の昔から、「家」については、特別な関心と、イデオロギー(特定の考え方の型)をもってい
る。

 中には、個人よりも、「家」を大切にする人もいる。……というより、少なくない。それは多分に
宗教的なもので、その人自身の心のよりどころになっている。だからそのタイプの人に、「家制
度」を否定するような発言をすると、猛烈に反発する。

 しかしものごとは、常識で考えてみたらよい。「家」によって、その人の身分が決まった江戸時
代なら、いざ知らず。今は、もうそんなバカげた時代ではない。またそういう時代であってはい
けない。そういう過去の愚劣な風習をひきずること自体、まちがっている。

 ……という私も、学生時代までは、かなり古風な考え方をしていた。その私が、ショックを受け
た経験に、こんなことがある。

 オーストラリアでの留学生活を終えて、日本に帰ってきてからしばらくのこと。メルボルンの校
外に住んでいたR君から、こんな手紙をもらった。彼は少し収入がふえると、つぎつぎと、新し
い家に移り住み、そのつど、住所を変えていた。「今度の住所は、ここだ。これが三番目の家
だ」と。

 それからも彼はたびたび家をかえたが、そのときですら、「R君は、まるでヤドカニみたいだ」
と、私は思った。

 そのことを知ったとき、それまでの私の感覚にはないことであっただけに、私は、ショックを受
けた。「オーストラリア人にとって、家というのは、そういうものなのか」と。

 ……と書いても、今の若い人たちには、どうして私がショックを受けたか、理解できないだろう
と思う。当時の、私の周辺に住んでいる人の中には、私の祖父母、父母含めてだが、だいたい
において、収入に応じて家をかえるという発想をする人は、いなかった。私のばあいも、そうい
うことを考えたことすら、なかった。

 しかもR君のばあいは、より環境のよいところを求めて、そうしていた。15年ほど前、最後に
遊びに行ったときは、居間から海が一望できる、小高い丘の上の家に住んでいた。つまり彼ら
にしてみれば、「家」は、ただの「箱」にすぎない。

 そう、「家」など、ただの「箱」なのである。ケーキや、お菓子の入っている箱と、どこもちがわ
ない。ちがうと思うのは、ただの観念。子どもが手にする、ゲームの世界の観念と同じ。どこも
ちがわない。

 さらに日本人のばあい、自分の依存性をごまかすために、「家」を利用することもある。田舎
のほうへ行くと、いまだに、「本屋」「新屋」「本家」「分家」という言葉も聞かれる。私が最初に
「?」と思った事件に、こんなのがある。

 幼稚園で教え始めたころのこと。一人の母親が私のところへきて、こう言った。

 「うちは本家(ほんや)なんです。息子には、それなりの学校に入ってもらわないと、親戚の人
たちに顔向けができないのです」と。

 私はまだ20代の前半。そのときですら私は、こう言った記憶がある。「そんなこと気にしては
だめです。お子さん中心に考えなくては……」と。

 このように今でも、封建時代の亡霊は、さまざまな形に姿を変えて、私たちの生活の中に入
りこんでいる。ここでいう悪玉家族意識もその一つだが、とくに冠婚葬祭の世界には、色濃く、
残っている。前にも書いたが、たとえば結婚式についても、個人の結婚というよりは、家どうし
の結婚という色彩が強い。

 それはそれとして、子どもの発達段階を調べていくと、子どもはある時期から、親離れを始め
る。そして「家庭」というワクから飛び出し、自立の道を歩むようになる。それを発達心理学の
世界では、「個人化」※という。

 それにたとえて言うと、日本人は、全体として、まだその個人化のできない、未熟な民族とい
うことになる。その一つの証拠が、ここでいう悪玉家族意識ということになる。

※個人化……子どもがその成長過程において、家族全体をまとめる「家族自我群」から抜け
出て、ひとり立ちしようとする。そのプロセスを、「個人化」という(心理学者、ボーエン)。
(040225)(はやし浩司 個人化 悪玉家族意識 善玉家族意識 冠婚葬祭)

【追記】

 この年齢になると、それぞれの人の生きザマが、さらに鮮明になる。たとえば私には、60人
近い、いとこがいるが、そういういとこだけをくらべても、「家」や「親戚づきあい」にこだわる人も
いれば、まったくそうでない人もいる。

 で、問題は、こだわる人たちである。

 こだわるのは、その人の勝手だが、そういう自分の価値観を、何ら疑うことなく、一方的に、
そうでない人たちにまで、押しつけてくる。問答無用のばあいも、多い。「当然、君は、そうすべ
きだ」というような言い方をする。

 一方、それに防戦する人たちは、(私も含めてだが)、それにかわる心の武器をもっていな
い。だからそういうふうに非難されながら、「自分の考え方はおかしいのかな」と、自らを否定し
てしまう。

 それはたとえて言うなら、何ら武器をもたないで、強力な武器をもった敵と戦うようなものであ
る。彼らは、「伝統」「風習」という武器をもっている。

 これも子どもの世界にたとえてみると、よくわかる。

 子どもは、その年齢になると、身体的に成長すると同時に、精神的にも成長する。身体的成
長を、「外面化」というのに対して、精神的成長を、「内面化」という。

 日本人は、子どもを「家族」(=悪玉家族意識)というワクでしばることにより、この内面化を
はばんでしまうことが多い。あるいは中には、内面化すること自体を許さない親もいる。親に少
し反発しただけで、「親に向かって、何だ、その口のきき方は!」と。

 このとき、子どもの側に、それだけの思想的武器があればよいが、その点、親には太刀打ち
できない。親には、経験も、知識もある。しかし子どもには、ない。

 そこで子どもは、自らに、ダメ人間のレッテルを張ってしまう。そしてそれが、内面化を、さら
にはばんでしまう。

 これと同じように、家や親戚づきあいにこだわる人によって否定された、武器持たぬか弱き
人たちは、この日本では、小さくならざるをえなくなる。

 「家は大切にすべきものだ」「親戚づきあいは、大切にすべきものだ」と、容赦なく、迫ってく
る。(本当は、そう迫ってくる人にしても、自分でそう考えて、そうしているのではない。たいてい
の人は、過去の伝統や風習を繰りかえしているだけ。つまりノーブレイン(脳なし)。)

 そこでそう迫られた人たちは、自らにダメ人間のレッテルを張ってしまう。

 しかし、もう心配は、無用。

 今、私のように、過去の封建時代を清算しようと、立ちあがる人たちが、ふえている。いろい
ろな統計的な数字を見ても、もうこの流れを変えることはできない。その結果が、ここに書い
た、「鮮明なちがい」ということになる。

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

最前線の子育て論byはやし浩司(091)

●老齢期の性格特性

 老人になると、それまでの生きザマや性格が、だれの目からも、より鮮明にわかるようにな
る。老人といっても、その性格的な特性は、決して、一様ではない。が、おおまかに分類する
と、つぎのようになる。

あくまでも健康で、それなりに生活が保障されている老人を念頭に、分類してみた。

(1)攻撃型……「今の若いものは!」式の攻撃を、いつもしかける。「私は正しい」「世の中の
人間は、私を認めない。バカばかりだ」と。

 この攻撃型は、他人に向けられるのが一般的だが、自分に向けられることもある。このタイ
プは、「自虐型」ということになる。猛烈に自分を痛めつけながら、自分の過去を清算しようとす
る。

 十年ほど前になくなった人だが、晩年は、ある宗教団体の攻撃に執念を燃やしていた。「私
の人生を返せ」と。その人は、若いとき、その宗教団体の活動のために、その人生の大半を
「ムダにした」(その人の言葉)。

 あるいは古いしきたりにこだわり、「先祖を大切にしないものは、亡びる」などと、さかんに言
っている人もいた。子どもや孫を、いつも「下」に置こうとする。もともと封建主義的な考え方を
する、悪玉親意識の強い人が、そうなりやすい。


(2)依存型……だれかに依存することだけを、考えて、自分の老後を組みたてる。たいてい
は、自分の息子や娘であることが多い。

 このタイプの人は、息子や娘が、経済的に苦しくても、あまりそういうことは考えない。もともと
自己中心的なものの考え方をする人に、多い。「親の老後のめんどうをみるのは、子の努め」
というような考え方をする。

 息子から、平然と(本当に「平然と」)、金品をまきあげていた母親が、以前、いた。


(3)同情型……このタイプの老人は、独特の言い方をする。子どもに向かって、「お母さんも、
年をとったからねえ……(だから何とかしろ!)」と。相手に同情させながら、自分の立場を確
保する。ことさら老人ぶってみたり、体の不調を訴えたりする。

 自分の組みせる相手だと、ネコなで声の、弱々しい言い方をする。

 子「お母さん、生活はだいじょぶなのか?」
 母「いいんだよ、いいんだよ、心配しなくても。母さんは、毎日、近所の人がくれる、イモを食っ
ているからねえ」と。

 もともと恩着せがましい子育てをする人が、そうなりやすい。

 母「徹夜して、手袋編んでやったよ。赤ぎれがひどいときは、ミソを塗りこんでいるよ」と。


(4)服従型……子どもや自分の世話をしてくれる人に徹底して、服従するタイプ。自分の意思
や考え方を、そのまま押し殺してしまう。もともとノーブレインの人(=思考力のない人)が、そう
なりやすい。


(5)悔恨型……「オレは、何をしてきたのだ」「私の人生は、失敗の連続だった」と、悔やみな
がら、生きるタイプ。仕事の失敗、リストラ、会社の倒産など、大きな挫折感を覚えたあとに、そ
うなることが多い。

 生きザマ全体が、どこかうつ病的。


(6)抵抗型……70歳を過ぎても、ミニスカートをはいてみたり、顔中を真っ白けに化粧してみ
せたりする。髪の毛も、いつも真っ黒に染めていないと、気がすまない。

 若いころ、「美人だ」などと騒がれた人が、そうなりやすい? いつまでも過去の亡霊にしがみ
つく。

 男性だと、定年前の職歴や肩書きに、固執する。会社が倒産して、なくなってしまっていても、
そういう現実を、受け入れようとしない。

 そして自分の価値(?)を認めないものに対しては、容赦なく、攻撃を加える。精神的に未熟
な人がそうなりやすい。


(7)理想型……理想型は、私にも、よくわからない。理想的な老人というものが、よくわからな
いせいかもしれない。

 しかしこれからのテーマであることだけは、まちがいないようだ。


 以上、老人の性格特性を、7つのパターンに分けてみた。もちろんこれらの複合型というのも
ある。同情型と依存型が並存するケースは、よく見られる。攻撃型と悔恨型も、そうだ。

 あるいは同じ老人でも、ときとばあいによっては、攻撃型になったり、同情型になったりする。

 しかしこうした傾向は、実は、40歳くらいから、はっきりしてくる。そして50歳を過ぎるころに
は、方向性がしっかりと見え、さらに60歳を過ぎると、定着する。

 そこで大切なことは、自分の方向性をしっかりと見きわめ、老後において、自分がどうあるべ
きかを、若いときから考えることである。

 このところ、幼児教育をずっとしてきたせいか、老人の心理にも興味をもつようになった。幼
児と老人。多くの点で、共通点が見られるのは、実におもしろいことだ。
(040225)(老人 性格特性 性格 特性 老後のパターン)

【私の理想の老後】

 私にとって、理想の老後とは何か……。毎日好きな思索ができて、健康で、生活の心配がな
い老後。頭のボケがない、老後。

 死ぬときは、心臓発作か何かで、「朝起きてみたら、死んでいた」と、人が言うような死に方を
したい。だれにも心配をかけたくない。めんどうもかけたくない。静かに死にたい。葬式など、い
らない。葬儀など、しないでほしい。

 お別れ会のようなものは、気が向いたらしてほしい。期待はしていない。またしないからといっ
て、化けて出るようなことは、絶対にしない。あえて言えば、フトンの上で死にたい。

 「〜〜回忌」などという儀式は、まったく不要。

 もしできれば、ワイフより先に死にたい。息子や孫たちが、ふつうの生活をしているのを見届
けてから死にたい。

 あとは、ほんの数センチでも、数ミリでも、社会に貢献してから死にたい。死んでからも貢献
できれば、そんなすばらしいことはない。

 死んだあとのことは考えていない。ワイフや息子たちに任す。墓地も墓碑もいらない。遺灰
は、一部を、山荘周辺に。一部を、太平洋に。一部を、あのメルボルンのパークビルの公園
に、まいてほしい。

ただできれば、こうして私が書いたものが、何年か、何十年か先に、だれかが読んでくれれば
と思っている。文章は、まさに私の「命」。もし死後の世界があるとするなら、私にとっては、人
の心の中をいう。私が死んだあと、私の文章を読んで、はやし浩司を思いやってくれる人がい
れば、それが死後の世界ということになる。

 そう、原稿の管理だけは、だれかに頼んでおこうと思う。(一応著作権というのがあるので、
無断で、転載、引用は、絶対に許しませんぞ! 私も心が狭いのかなあ? 私は過去におい
て、ただの一度も、盗作や盗作に類することはしたことがないぞ。当たり前のことだが……。そ
れが私のプライドだア!)

 人と争うこともなく、日々を平穏、無事に最後まで生きる。私にとっての「理想型の老後」とい
うのは、そういう老後をいう。

(有料マガジンを発行することで、少しお金がたまったら、私は、第一に、最新型のパソコンを
買うつもり。そのパソコンを使って、バンバンと原稿を書きます。良質の情報を、ドンドンと提供
します。みなさん、どうか、有料マガジンを、購読してくださア〜い!)

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

最前線の子育て論byはやし浩司(092)

【近況・あれこれ】

●親戚コンプレックス

 いきなり親戚づきあいを、押しつけてくる。問答無用。「それがあるべき、親戚の姿」と言わん
ばかりの姿勢で、迫ってくる。

 そういう人は、日本の文化と伝統を盾(たて)に取っているから、強い。自分で考えて、そうし
ているのではない。たいていは、ほとんど、何も考えていない。考えないまま、過去を踏襲(とう
しゅう)している。

 和歌山県に住んでいるKさんは、今、そうした親戚づきあいに苦しんでいる。Kさんの実家で
は、冠婚葬祭に合わせて、法事を、ことさら派手にするらしい。それでKさんは、そういうこと
を、もっと質素にしたいと考えている。お金の問題ではない。

 その地域では、何かにつけて、遠い親戚の人まで、呼ぶならわしになっているという。「甥(お
い)や姪(めい)はもちろんのこと、いとこ、さらには、はとこまで呼ぶのです」と。

 呼ぶのは、まだよいとしても、そんなわけで、Kさんは、年に、5、6回は、何だかんだと顔を
出さねばならない。言い忘れたが、Kさんの実家は、遠く、山口県にあるという。そのたびに、
旅費だけでも、数万円。保育園で保育士をして、家計を助けているKさんにとっては、決して楽
な出費ではない。

 で、今度は、いとこの息子の結婚式があるという。「いとこの息子の結婚式にまで、出なけれ
ばいけないのですか?」と聞くと、「私の家が本家で、父が今、体をこわして伏せているからで
す」と。その結婚式が、今度、下関市であるという。

 「私の息子と娘の結婚式は、こっそりと、しました。山口県から、わざわざ皆さんに来てもらう
のは悪いと思いましたから……」と。

 一方、こうした文化と伝統に対して、それに抵抗する人たちは、抵抗するだけの武器、つまり
理論をもっていない。いわば裸のまま、敵の攻撃にさらされることになる。弱いというか、最初
から、勝ち目がない。へたにさからえば、親戚中から、仲間はずれにされてしまう。

 「親戚といっても、たがいに詮索し、干渉しあうだけで、助けあうということは、ほとんどしませ
ん。一度、母に、『口を出すくらいなら、お金を出してもらったら』と言ったほどです。母も、いろ
いろな場面で苦しみました。

 たとえば親戚が、盆暮れに集まると、母は、まさに家政婦でした。あるいはそれ以下だったか
もしれません。おまけに父には、愛人がいて、ある期間、家にはほとんど、お金を入れなかった
こともあります」とも。

 親戚づきあいには、そういう問題もある。

 で、最後にKさんは、こう結んでいる。「私の息子と娘には、そういう苦痛を与えたくありませ
ん。親戚は大切なものですが、しかしそれにしばられるのは、正しくないと思います。それより
も、近くに住む友人を、これからは大切にしていきたいです」と。

 旧態依然の家制度。それから派生する、意味のない親戚づきあい。こういうものが、まだこ
の日本には、色濃く残っている。そういうものとどう戦っていくか。そのためにも、武器として、ど
のようにして理論をもつか。それもこれからの大きな課題の一つだと、私は、思う。
(040225)(はやし浩司 親戚づきあい)

+++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩


最前線の子育て論byはやし浩司(093) 

●Depression(落ちこみ) 

 どうして人は、ときとして、落ちこむのか。
 どうして人は、ときとして、希望をなくし、自信をなくすのか。
 どうして人は、ときとして、前途を悲観し、絶望するのか。

 何もかも、むなしい。何かも、いやになる。生きて、息をすることさえ、めんどうになる。わずら
わしいと言えば、人間関係ほど、わずらわしいものは、ない。同じ人間なのに……。その人間
がいなければ、もっとさみしいはずなのに……。どうして人は、その関係に、悩み、苦しむの
か。

 この世の中は、いやなことばかり。国際情勢も不安だし、日本の経済もおかしい。おまけに地
球の温暖化。この先、10年後は、どうなるんだろう。100年後は、どうなるんだろう。私、個人
のことについて言えば、今年、私は、どうなるんだろう。来年、私は、どうなるんだろう。

 私のことなら、まだよい。しかし私の息子たちや、その孫は、どうなるんだろう。

 考えれば考えるほど、ゆううつになるだけ。心が重くなるだけ。何も問題はないはずのに、し
かしまわりは、問題だらけ。とにかく健康だけはと思ってみても、その健康も、どうもあてになら
ない。

 自分が、かぎりなく小さく見える。自分のしていることが、かぎりなく小さく見える。何かしら、ム
ダなことを、懸命にしているだけ。そんな感じすらする。私は本当に、道の真ん中にいるのだろ
うか。私は本当に、まっすぐ前に向って、歩いているのだろうか。

 まわりは、真っ暗。その上、地図もない。こんな世界を、私は、どうやって歩いていったらよい
のだ。

 弱音を吐いたら、私の負け。しかしそういう私自身が、今にも崩れそうになる。いや、もう本当
のところ、崩れてしまっている。この心の中を、スースーと通りぬける風が、その証拠。この空
虚感が、その証拠。

 だれかが、こうささやく。「浩司、もうやめろ。お前ごときが考えて、どうなる。だれがお前を相
手にするか。だれも、お前なんか、相手にしない。世の中を見ろ。すべてがお前の手の届かな
いところで、動いている。なのに、どうしてお前は、ひとりで、いきがっているのか」と。

 私は、もう、とっくの昔に、負けを認めた。仮にこの先、いくらがんばっても、小さな丘一つ、登
れない。目の前には、巨大な山脈が連なっているというのに……。時間もない。能力もない。気
力や知力も、このところ、どんどんと薄れている。

 今夜、コタツの中で、思わず、私はワイフの手を握った。そうしたところで、どうにもならないこ
とは、よくわかっている。何も、問題は、解決しない。しかし、今の私に、そうすること以外、何
か、救いを求める方法があるのか。

 ワイフはこう言う。「健康なんだから、それでいいじゃない」と。「あなたはもう、やれるだけのこ
とをしたんだから、いいじゃない」と。

 このさみしさは、いったい、どこからくるのか。懸命に生きながら、生きていることそのもの
が、つらい。この無力感。この虚脱感。

 「明日になれば、また日は昇るよね」と私。「そうよ」とワイフ。こういうときは、早めに寝たほう
がよい。今日もいろいろあった。疲れた。多分、そのせいだろう。今夜の私は、たしかに落ちこ
んでいる。

 みなさん。今夜は、これで失礼します。おやすみなさい!
(040225)

【翌朝……】

 音はない。遠くでカラスが鳴いた。しかしそれも、すぐ消えた。
 目を開くと、うっすらと白い光。カーテンのふちから、朝日がもれている。
 穏やかな朝。静かな朝。

 心のざわめきはない。心をふさいでいた、重石(おもし)もない。
 軽やかな朝。すがすがしい朝。ふと思い出すと、時計の音だけが、
 どこか乾いた空気を、やさしく揺るがす。

 その音に耳をすます。そう、今朝、私は、二男の夢を見た。
 私のために、コーヒーをたててくれるという。
 古いコーヒーミルをもってきて、それをクルクルと回していた。

 「ぼくはコーヒーを飲まないよ」と言いかけたが、やめた。
 やめて、二男を、両手で、右の肩にのせた。二男は、私の頭に手を回した。
 小さな二男だった。年齢は、5歳くらいだっただろうか。3歳くらいだっただろうか。

 不思議と、二男の肌のぬくもりを感じた。その二男が、こう言った。
 「ぼく、今度、大学へ入るよ」と。それに答えて、私は、こう言った。
 「大学はね、もっと、もっと、大きくなってから入るんだよ」と。

 二男のぬくもりが消えたとき、目が覚めた。朝だった。暗い朝だった。
 私はどこかひんやりする空気に顔をさらしながら、頭の下で手を組んだ。
 「やっぱり、朝は来たんだ」と思った。思って、そのまま時間が過ぎるのを待った。

 みなさん、おはようございます。今日も、元気で、がんばりましょう!
 私たちの目的は、成功することではないのです。ころんでも、ころんでも、
 ただひたすらめげないで、前に進むことです、……ね(スティーブンソン)。
 とにかく、朝は、必ずやってくるのです。がんばりましょう!
 
(はやし浩司 落ち込み 朝 詩 ポエム)
++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司


最前線の子育て論byはやし浩司(094)

●父親の役割

 ある雑誌を読んでいたら、ある評論家が、父親の役割について、書いていた。かなりトンチン
カンなことを書いていた。

 ……と批評することは、簡単なこと。どうトンチンカンかということについては、ここには書けな
い。しかしかなりトンチンカンだった。「へえ?」と、私は、へんに感心してしまった。その評論家
は、「今こそ、父親の威厳が大切」というようなことを説いていた。

 たしかにそういう面もある。が、そうした対症療法的な「父親論」では、問題の本質を、見失っ
てしまうのではないだろうか。もちろん、実際の子育てでは、役にたたない。「威厳とは何か」
「どうすればその威厳を保てるのか」「そもそも威厳のない父親に、威厳をもてといっても無理
ではないのか」と、そこまで論じて、はじめて役にたつ。

 とくに私など、まさに威厳のない父親の代表格のようなものだから、そう言われると、ハタと困
ってしまう。本当に、困ってしまう。私など、息子たちの前では、いつもヘラヘラとしている。いつ
もバカにされている。

 そんなとき、別の読者から、母子家庭の問題点についての質問があった。それで、ここでは、
父親の役割について考えてみる。

+++++++++++++++++

【父親の役割】

●母子関係の是正

 母子関係は、絶対的なものである。それは母親が、妊娠、出産、授乳(育児)という、子ども
の「命」にかかわる部分を、分担するためである。

 同じ親でも、母親と父親は、そういう意味においても、決して平等ではない。はっきり言えば、
父親がいなくても、子どもは生まれ、育つ。

 が、ここでいくつかの問題が生まれる。

 その第一は、精神の発育には、父親の存在が、不可欠であるということ。それには、つぎの
二つの意味が含まれる。

(1)父親像の移植
(2)母子関係の是正

 人間は、社会的な動物である。そしてその「社会」は、「家族」という、無数の共同体が集合し
て、成りたっている。世界のあちこちには、大家族制度や、かつてのヒッピー族が経験した、集
団家族制度のような家族形態をとっているところもある。

しかしこの日本では、一人の父親と、一人の母親が結婚して、家族を構成する。それが家族の
基本であると同時に、子育ての基本となっている。(だからといって、そうであるべきと言ってい
るのではない。誤解のないように!)

 そうした家族形態の中における、父親の役割を、子どもに教える。「父親というのは、こういう
もの」「父親というのは、こうあるべき」と。これが父親像の移植である。子どもは、父親に育て
られたという経験があってはじめて、その父親像を、自分のものとすることができる。

 しかしこれに加えて、もう一つ、重要な役割がある。それが、(2)の母子関係の是正である。

 このことは、離婚家庭や、父親不在家庭の子どもをみれば、わかる。

 父親像がない状態で育った子どもは、母子関係がどうしてもその分、濃密になり、母親の影
響を大きく受けやすい。そのためマザーコンプレックスをもちやすいことは、すでにあちこちで
指摘されているとおりである。

 子どもは、その成長過程において、母子関係から離脱し、社会性を身につける。これを「個
人化」という。その個人化が、遅れる。あるいは未発達なまま、おとなになる。三〇歳を過ぎて
も、四〇歳を過ぎても、さらに五〇歳をすぎても、母親なしでは、生きられない状態を、自ら、つ
くりだす。

 六〇歳をすぎても、「お母さん」「お母さん」と、甘えている男性など、いくらでもいる。

 しかしこうした依存性は、決して、一方的なものではない。

 ふつう子どもが、依存性をもつと、子どもの側だけが問題になる。しかし実際には、子どもの
依存性を許す、甘い環境が、その子どもの周辺にあると考える。もっとはっきり言えば、母親
自身が、依存性が強いことが多い。

だから母親自身が、子どもの依存性を見落としてしまう。あるいは子どもに、自分がもっている
依存性と同じものを、もたせてしまう。

たとえば依存性の強い母親は、親にベタネタ甘える子どもイコール、かわいい子イコール、よ
い子、としてしまう。反対に、親に反抗したり、自立心が旺盛な子どもを、「親不孝者」と、排斥し
てしまう。

 こうしてベタベタに甘い、母子関係が、生まれる。

 そのベタベタになりがちな母子関係を制限し、修復するのが、父親の役目ということになる。

 具体的には、(1)行動に制限を教える。(2)社会的人間としての、父親の役割を教える。

 たとえば溺愛ママと呼ばれる母親がいる。

 このタイプの母親は、母親と子どもの間にカベがない。だから子どもが何かの不祥事を起こ
したりすると、自らが責任をかぶることにより、子どもの責任をあいまいにしてしまう。

 子ども(中3男子)が、万引き事件を引き起こして補導されたとき、一夜にして、あちこちをか
けずりまわり、事件そのものをもみ消してしまった母親がいた。

 つまりそういうことをしながら、子どもの精神的な発育を、母親自身が、むしろ、はばんでしま
う。

 こうした母親の行動にブレーキをかけるのが、父親の役目ということになる。もともと父子関
係は、「精液一しずく」の関係にすぎない。しかしこうした父親のもちうる客観性こそが、父親像
の特徴ということにもなる。

 つぎに(2)社会的人間としての、父親の役割だが、これは、現代の社会構造と、深く結びつ
いている。たとえば少し前まで、この日本では、「男は仕事」という言葉が、よく使われた。「男
が仕事をし、女が家庭を守る」と。(だからといって、こうした考え方を、私が肯定しているわけ
ではない。誤解のないように!)

 こうした「男」と「女」のちがいは、さまざまな形で、社会の中に組みこまれている。そのちがい
を、教えていくのも、実は、父親の役割ということになる。

 父親は、決して、母親にかわることはできない。またかわる必要もない。母親には母親の、そ
して父親には父親の限界がある。その限界をたがいに、補いあうのが、父親の役目であり、母
親の役目ということになる。

 その役割を混乱させると、子育てそのものが、混乱する。

 よくあるケースは、(1)父親の母親化。(2)母親の父親化。(3)それに父親の不在(疑似母
子家庭)である。こういう家庭では、子育てそのものが、混乱しやすい。

 父親の母親化というのは、父親自身が、女性化していることをいう。子どもを、溺愛ママよろ
しく、息子や娘を溺愛する父親は、決して珍しくない。

 つぎに母親の父親化も、ある。このばあい、その影響は、子どもに強く現れる。本来なら、母
子関係ではぐくまれねばならない、基本的な信頼関係(絶対的なさらけ出しと、絶対的な受け
入れ)が、結べなくなる。その結果、子どもの情緒、精神の発育に、深刻かつ重大な影響を与
える。

 一般的に言えば、母親が父親化すれば、子どもは、愛情飢餓の状態になり、心の開けない
子どもになる。

 さらに父親の職業などで、疑似母子家庭と呼ばれるようなケースになることもある。夫の長期
にわたる、単身赴任が、その一例である。

だからといって、母子家庭が悪いと言っているのではない。ただこうした問題があるというの
は、事実であり、そういう事実があるということを知るだけでも、母親は、自分の子育てを、軌
道修正できる。母子家庭が本来的にもつ問題を、克服することができる。

 まずいのは、こうした問題を知ることもなく、母子関係だけに溺れてしまうケースである。この
原稿は、そういう目的のために書いたのであって、決して、母子家庭には問題があると書いた
のではない。どうか、誤解のないようにしてほしい。
(040225)(はやし浩司 父親役割 母子家庭 問題 エディプス コンプレックス)

【追記】

 母子家庭でなくても、母親が、日常的に父親を否定したり、バカにしたりすると、ここでいう父
親像のない子どもになることがある。

 このタイプの子どもは、言動に節制がなくなったり、常識ハズレになったりしやすい。あるいは
マザコンになりやすい。

 マザコンタイプの子どもの特徴は、自分のマザコン性を正当化するために、ことさら親(とくに
母親)を、美化するところにある。「私の母親は、偉大でした」「世のカサになれと、教えてくれま
した」と。そして親を批判したりする人物がいると、それに猛烈に反発したりする。

 こうしたマザコン性から子どもを救い出し、父親像をインプットしていくのが、実は、父親の役
目ということになる。これを心理学の世界では、「個人化」という。もともと個人化というのは、家
族どうしの依存性から脱却することを言う。つまりわかりやすく言えば、「自立化」のこと。

 マザコンタイプの人は、その個人化が遅れる。ベタベタとよりそう関係を、かえって美化するこ
ともある。親は、「親孝行のいい息子」と思いこみ、一方、子どもは、「やさしく、すばらしい親」と
思いこむ。

 簡単に言えば、父親の役目は、子どもを母親から切り離し、子どもを自立させていくこと。

 もちろんその過程で、子どもの側にも、さまざまな葛藤(かっとう)が起きることがある。エディ
プスコンプレックス※も、その一つということになる。

 が、最近の問題として、父親自身が、じゅうぶんな父親像をもっていないことがあげられる。
父親自身が、「父親」を知らないケースである。

 さらに父親自身が、マザコンタイプであったりして、ベタベタになっている母子関係を見なが
ら、それに気がつかないということもある。あるいはさらに、父親自身が、母親の役割にとって
かわろうとするケースもある。

 溺愛パパの誕生というわけである。

 このように、現代の親子関係は、今、混沌(こんとん)としている。しかし今こそ、改めて、父親
の役割とは何か、母親の役割とは何か。それを冷静に判断してみる必要はあるのではないだ
ろうか。でないと、これから先、日本人のそれは、ますますわけのわからない親子関係になって
しまう。

 ここに書いたことが、あなたの親子関係をわかりやすいものにすれば、うれしい。

++++++++++++++++++++

※エディプス・コンプレックス……

 ソフォクレスの戯曲に、『エディプス王』というのがある。ギリシャ神話である。物語の内容は、
つぎのようなものである。

 テーバイの王、ラウルスは、やがて自分の息子が自分を殺すという予言を受け、妻イヨカスタ
との間に生まれた子どもを、山里に捨てる。しかしその子どもはやがて、別の王に拾われ、王
子として育てられる。それがエディプスである。

 そのエディプスがおとなになり、あるとき道を歩いていると、ラウルスと出会い、けんかする。
が、エディプスは、それが彼の実父とも知らず、殺してしまう。

 そのあとエディプスは、スフィンクスとの問答に打ち勝ち、民衆に支持されて、テーバイの王と
なり、イヨカスタと結婚する。つまり実母と結婚することになる。

 が、やがてこの秘密は、エディプス自身が知るところとなる。つまりエディプスは、実父を殺
し、実母と近親相姦をしていたことを、自ら知る。

 そのため母であり、妻であるイヨカスタは、自殺。エディプス自身も、自分で自分の目をつぶ
し、放浪の旅に出る……。

 この物語は、フロイト(オーストリアの心理学者、一八五六〜一九三九)にも取りあげられ、
「エディプス・コンプレックス」という言葉も、彼によって生みだされた(小此木啓吾著「フロイト思
想のキーワード」(講談社現代新書))。

つまり「母親を欲し、ライバルの父親を憎みはじめる男の子は、エディプスコンプレックスの支
配下にある」(同書)と。わかりやすく言えば、男の子は成長とともに、母親を欲するあまり、ライ
バルとして父親を憎むようになるという。(女児が、父親を欲して、母親をライバル視するという
ことも、これに含まれる。)

 この説話から、一般に、成人した男性が、母親との間に強烈な依存関係をもち、そのことに
疑問をもたない状態を、心理学の世界では、「エディプスコンプレックス」という。母親からの異
常な愛情が原因で、症状としては、同年齢の女性と、正常な交友関係がもてなくなることが多
い。

 で、私も今までに何度か、この話を聞いたことがある。しかしこうしたコンプレックスは、この
日本ではそのまま当てはめて考えることはできない。

その第一。日本の家族の結びつき方は、欧米のそれとは、かなり違う。その第二。文化がある
程度、高揚してくると、男性の女性化(あるいは女性の男性化といってもよいが)が、かぎりなく
進む。現代の日本が、そういう状態になりつつあるが、そうなると、父親、母親の、輪郭(りんか
く)そのものが、ぼやけてくる。

つまり「母親を欲するため、父親をライバルとみる」という見方そのものが、軟弱になってくる。
現に今、小学校の低学年児のばあい、「いじめられて泣くのは、男児。いじめるのは女児」とい
う、逆転現象(「逆転」と言ってよいかどうかはわからないが、私の世代からみると、逆転)が、
当たり前になっている。

 家族の結びつき方が違うというのは、日本の家族は、父、母、子どもという三者が、相互の依
存関係で成り立っている。三〇年ほど前、それを「甘えの構造」として発表した学者がいるが、
まさに「甘えの関係」で成り立っている。子どもの側からみて、父親と母親の境目が、いろいろ
な意味において、明確ではない。

少なくとも、フロイトが活躍していたころの欧米とは、かなり違う。だから男児にしても、ばあい
によっては、「父親を欲するあまり、母親をライバル視することもありうる」ということになる。

 しかし全体としてみると、親子といえども、基本的には、人間関係で決まる。親子でも嫉妬(し
っと)することもあるし、当然、ライバルになることもある。親子の縁は絶対と思っている人も多
いが、しかし親子の縁も、切れるときには切れる。

 また親なら子どもを愛しているはず、子どもならふるさとを愛しているはずと考える、いわゆる
「ハズ論」にしても、それをすべての人に当てはめるのは、危険なことでもある。そういう「ハズ
論」の中で、人知れず苦しんでいる人も少なくない。

 ただ、ここに書いたエディプスコンプレックスが、この日本には、まったくないかというと、そう
でもない。私も、「これがそうかな?」と思うような事例を、経験している。私にもこんな記憶があ
る。

 小学五年生のときだったと思う。私はしばらく担任になった、Iという女性の教師に、淡い恋心
をいだいたことがある。で、その教師は、まもなく結婚してしまった。それからの記憶はないが、
つぎによく覚えているのは、私がそのIという教師の家に遊びに行ったときのこと。川のそば
の、小さな家だったが、私は家全体に、猛烈に嫉妬した。家の中にはたしか、白いソファが置
いてあったが、そのソファにすら、私は嫉妬した。

常識で考えれば、彼女の夫に嫉妬にするはずだが、夫には嫉妬しなかった。私は「家」嫉妬し
た。家全体を自分のものにしたい衝動にかられた。

 こういう心理を何と言うのか。フロイトなら多分、おもしろい名前をつけるだろうと思う。あえて
言うなら、「代償物嫉妬性コンプレックス」か。好きな女性の持ち物に嫉妬するという、まあ、ゆ
がんだ嫉妬心だ。

そういえば、高校時代、私は、好きだった女の子のブラジャーになりたかったのを覚えている。
「ブラジャーに変身できれば、毎日、彼女の胸にさわることができる」と。そういう意味では、私
にはかなりヘンタイ的な部分があったかもしれない。(今も、ある!?)

 話を戻すが、ときとして子どもの心は複雑に変化し、ふつうの常識では理解できないときがあ
る。このエディプスコンプレックスも、そのひとつということになる。まあ、そういうこともあるとい
う程度に覚えておくとよいのでは……。何かのときに、役にたつかもしれない。

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

最前線の子育て論byはやし浩司(095)

【近況・あれこれ】

●まじめ

 このところワイフが、さかんに、こんなことを言う。「あんたのマガジンは、まじめすぎる」「あん
たのマガジンを読む人は、ごくかぎられた、まじめな人だけ」と。つまり「今のままでは、読者
は、ふえない」と。

 しかし、今、自分の人生を、まじめに考える人が、少なくなった。未来を展望することも、過去
を懐古することもない。健康だって、どこかいいかげん。ヘビースモーカーの友人がいたので、
「体によくないよ」と声をかけると、こう言った。

 「人間、死ぬときは、死ぬよ。まあ、いいじゃないか」と。

 半分は、じょうだんなのだろう。あるいはみな、今を生きるだけで、精一杯ということか。この
不況下、明日を考える余裕すらなくしつつある?

 が、そんなことを言っていても、しかたない。読者あっての、マガジン。このまじめさを、打破す
るためには、どうしたらよいのかと、考える。

 文体を変えようか。話題を広げようか。それとも、もっと赤裸々な自分を、語ってみようか。

 いろいろ考えるが、どうも、よい考えが、浮かばない。


●ふまじめ

 小学六年生の生徒たちに聞いた。「ふまじめになるためには、どうしたらいいか?」と聞いた
ら、こう言った。

 「へんなことをする」
 「常識ハズレなことをする」
 「言われたことをしない」
 「はしゃげばいい」
 「ふざければいい」

 そこで「どんなことが、へんなことか?」と聞くと、U君が、こう言った。「先生が、いつもやって
るじゃん」と。

 そう、私は、決してまじめな教師ではない。おかまのマネをしたり、暴力団のマネをしたりす
る。いろいろな虫を食べたフリをして、ふざけることも多い。私の文章からは、想像もできない
かもしれないが、私は、子どもを笑わすことについては、天才的な能力がある。(ホントだぞ!)

 今日も、年長児のクラスでこんなことがあった。

 Sさんが、レッスンの途中で、トイレに立った。トイレは、一度、廊下に出た、その先にある。
私は、残った子どもたちに、こう言った。

 「Sさんが帰ってきたら、みんなで、『お帰り!』と言って、手をたたいてあげよう。何しろ一週間
ぶりのトイレだから……」と。

子「一年ぶりって?」
私「一年じゃ、ない。一週間ぶりだ」
子「フ〜ン、一週間ぶりかア?」
私「そうだよ。体重が、2キロは、減ってるよ」と。

 そこへSさんが、もどってきた。とたん、みなが、うれしそうに、手をたたいた。叫んだ。「お帰
り!」「お帰り!」と。

 うれしそうに、Sさんは、笑った。ほかの子どもたちも笑った。

子どもたち「一年ぶりだね、Sさん!」
S「何がア……?」
私「一年じゃない。一週間ぶりだ」
S「そう、一週間ぶりよ」
子どもたち「おめでとう!」「おめでとう!」

 Sさんも、子どもたちも、何も意味はわかっていない。その場の雰囲気だけで、うれしそうに、
笑った。私も笑った。

 こういうのを、(ふざけ)という。私は、いつもいつも、まじめに考えているわけではない。だか
ら、決して、おもしろくない人間では、ないのだが……。


●原始心理

 「原始心理」という言葉は、私が考えた。

 人間も、もとを正せば、原始生物。もし心理というものがあるとすれば、その生物の時代か
ら、あったはず。

 そこで私は、人間の心理の基本になっている原動力を、(1)生殖本能と、(2)食欲本能とし
た。ともに生存には、不可欠な本能である。この二つを合わせて、生存本能とする。

 この生存本能には、二つの方向性がある。攻撃性と、防御性である。

 私はこのことを、庭をはう、ミミズを観察していて発見した。

 ある秋の午後のことであった。庭の砂利道になっているところを、大きな、体長20センチくら
いのミミズがはっていた。

 ミミズでも、大きくネグラをかえるときは、地表面をはっていく。そのときのこと。私がいたずら
で、ミミズの頭をつついてやると、とたんミミズは、防御モードになり、頭をすくめた。

 このときのミミズの心理を分析すると、ミミズは、生きるために、ネグラをかえようとした。これ
はいわば攻撃的な生存本能ということになる。しかしミミズにしてみれば、実の無防備な移動で
ある。あたりには、野鳥がいっぱい住んでいて、いつ外敵に襲われるかもしれない。

 で、私が頭をつついた。そのときミミズは、頭を引っこめた。つまりここに書いたように、防御
モードになった。

 こうした行動の背景で、ミミズの脳の中で、いろいろな心理が働いたにちがいない。それが私
がいう、原始心理である。つまり人間の心理も基本的には、このミミズの心理と同じと考えてよ
い。

 そういう原始心理が基本にあって、さまざまなバリエーションが、それから生まれた。行動が
複雑になればなるほど、その心理的作用も、複雑になった。しかし言いかえると、人間の心理
も、集約し、統合していくと、やがてこうした原始心理に集約、統合されていく。その可能性は、
きわめて高い。

 端的に言えば、人間の心理は、(生存本能)を中心として、攻撃性心理と、防御性心理とい
う、きわめて単純な構造で、できあがっている。図式化すると、つぎのようになる。

      (攻撃性心理)←【生存本能】→(防御性心理)

 このことは、幼児、さらには乳幼児の心理を観察していると、よくわかる。

 たとえばおなかがすけば、赤ちゃんは、ミルクを求めて、泣く。それはつまりは、生存するた
めに、攻撃性のある心理が、脳の中で、作用したためと考えられる。

 ほかにもいろいろ書きたいことはあるが、このつづきは、また別の機会に。

 しかしこういうふうに、まだだれも考えたことのないテーマで、自分の考えを書くことは、実に
楽しい。「新発見」というほど、大げさなものではないかもしれないが、それに近い。
(はやし浩司 原始心理 原始的心理 攻撃性心理 防御性心理)


●Cエッグ

 このところ、Cエッグ(まわりを卵形のチョコでくるんだ、カプセルに入った、おもちゃ)に、ハマ
っている。

 中に、飛行機の模型が入っている。一応、組み立て式になっているが、数分もあれば、組み
立てられる。こまかい部分まで、ていねいに塗装されている。それに値段が安い。コンビニで、
145円で売られている。

 私は何かを買うついでに、つい、そのCエッグまで買ってしまう。おかげで、私のまわりには、
その飛行機のおもちゃだらけになってしまった。

 よく知られた実験に、スキナーという人がした実験に、「条件行動に関する実験」がある。

 ラットを箱の中に閉じこめる。そのとき、ラットが、あるレバーに触れると、エサが出るようして
おく。

 やがてラットは、箱の中で動きまわるうちに、偶然そのレバーに触れるようになり、エサを手
にいれるようになる。ラットは、レバーを動かすことで、エサを手に入れることができることを学
ぶ。これを「学習(オペラント条件づけ)」という。

 ラットは、エサを手に入れることを、学習したことになる。学習して身につけた能力だから、
「条件反射反応」とは、区別される。

 で、そのあと、そのラットは、連続してレバーに触れるようになる。これを「連続強化」という。
ラットは、常にレバーに触れ、常にエサを手に入れようとする。

 ここまでは、よく知られた実験である。

 私はスキナーの、「条件行動に関する実験」を、そのCエッグを買いながら、思い出した。

 私はコンビニで何かを買うとき、ある日偶然、そのCエッグを見つけた。最初は、「どうせ子ど
ものおもちゃだから」という思いで、その中の一つを買った。ここにも書いたように値段も、安か
った。「粗悪品でも、値段が値段だから……」と。

 しかし買ってみたら、意外と、よくできていた。つまりここで、私は、箱の中のラットと同じよう
に、「学習」したことになる。

 そこでコンビニへ行くたびに、Cエッグを買うようになった。これはいわば、……というより、ま
さに「連続強化」ということになる。「今度は、どんな飛行機が出るだろう」という期待が、それに
拍車をかけた。

 が、そのうち、同じ飛行機が出るようになったり、反対に、ほしい飛行機がなかなかでないこ
とがわかってきた。が、こうなると、つぎつぎと、Cエッグを買い求めるようになる。こうした心の
作用を、心理学の世界では、「連続強化」に対して、「部分強化」という。「今度こそ……」という
思いが、その原動力になる。

 こうした心理は、たとえばパチンコ依存症の人がもっている心理と共通する心理で、決して、
好ましいものではない。

 そこで私は、自分の心理を観察すると同時に、自分の行動に制限を加えるようになった。そ
のままハマってしまえば、パチンコ依存症と同じようになってしまう。が、一度身についた、オペ
ラント条件づけは、簡単には消えない。つい油断すると、ほとんど無意識のうちに、Cエッグを
いくつかカゴの中に入れてしまう。

 では、どうすればよいのか?

 私はつぎにこんな実験をしてみた。

 こうしてできた飛行機を、つぎつぎと、生徒たちに与えてみた。心の中では、「もったいない」と
思った。つまり「損をした」という強烈な喪失感を、自分の心に与えてみた。

 こうした手法は、子育ての場では、よく用いる方法である。

 たとえば買い物グセという、「クセ」がある。「買ってはいけない」と思っているのに、ついつい
買ってしまうという、あれである。そういうときは、そのものを、思い切って、捨ててみる。つまり
「捨てる」という強烈な喪失感が、その買い物グセを、是正する。

 子どもの食生活がゆがんでいるときには、この方法を、母親たちにすすめている。たとえば
肥満状態の子どもがいる。しかしその原因はといえば、母親のゆがんだ買い物習慣にあること
が多い。

 で、その結果だが、どうだろう。つぎにコンビニへ行ってみると、Cエッグに手をのばす瞬間、
別の心が、「お金のムダだからやめよう」というブレーキが働くではないか。

 私はそのブレーキを、自分の心の中で、はっきりと自覚した。とたん、そのオペラント条件づ
けを、消すことができた。

 しかしあのCエッグは、よくできている。中身もさることながら、こうした人間の心理を、実にう
まく利用している。聞くところによると、Cエッグの販売個数は、すでに一億個を超えたという(N
HKテレビ)。

 私がハマったように、ハマっている人が、それだけ多いということになる。
(はやし浩司 条件反射 オペラント 条件付け 条件づけ)


●会社人間

 その人が、その会社をやめたあと、どれだけの人が、彼の友人として、残るだろうか。それに
ついて、私の姉は、こう言った。「ほとんど残らないよ」と。姉は今年、62歳になる。

 たとえばある会社で、かなりの地位にいた人がいるとする。当然、その人のまわりには、ペコ
ペコと頭をさげる人が集まってくる。しかしみなが、頭をペコペコとさげるのは、その人が、それ
だけすばらしい人だからではない。その人のもつ、地位や肩書きに対して、頭をさげるにすぎ
ない。

 こうした現実を、「会社人間」と呼ばれている人たちは、いったい、どれだけ認識しているだろ
うか。

 しかし本当の問題は、このことではない。本当の問題は、そのあとにやってくる。

 私の知人の中にも、定年退職してからも、退職前の地位や肩書きをぶらさげて、いばってい
る人がたくさんいる。本当は、「ただの人」(ただの人であることが、悪いというのではない。み
な、ただの人である)にすぎないのだが、そのただの人であることが、わかっていない。

 もっともいばる相手が、仕事上、その人と関係のあった人に対してなら、まだ話もわかる。近
所の人や、親戚の人、さらには、中学時代や高校時代の人に対して、いばる。だから話が、お
かしくなる。

 だからますます人は去っていく。が、それでも、このタイプの人には、その現実が理解できな
い。

 そんなわけで、仮に会社人間となっても、そうであるときから、地位や肩書きなど、無視する
こと。「何のために仕事をし、何のために収入を得るか」、その原点を、いつも踏みはずさない
こと。

 そして定年退職したら、過去のそうした亡霊と、いち早く、手を切る。そうした世界から、足を
洗う。

私「しかし、それもさみしい人生だね」
姉「みんな、仕事だけで、つきあっているだけよ」
私「仕事では、友情は育たないと考えていいのかな」
姉「どうしても損得計算が、先にたつからね」と。

 よく似た人に、昔、こんな人がいた。

 いつも、札束を見せびらかし、「オレは、先週、三日間で、200万円もうけた」「500万円もう
けた」と。

 その人は、「だからオレは、すばらしいだろう」と言いたかったのだろう。しかしそう思うのは、
その人の勝手。しかし、だれも、その人のことを、すばらしい人などとは、思わない。(いくらか
でも、おこぼれを、くれるのなら、話は別だが……。)

 会社人間にも、それによく似た面がある。その会社の中で、いばるのなら、まだ許される。し
かし一歩、会社を離れたら、会社のことなど忘れたらよい。あるいは地位や肩書きなど、忘れ
たらよい。

 それは結局は、その人自身のためである。

【付記】

 しかし会社人間として、一生を捧げた人にとっては、退職前の地位や肩書きは、その人の
「人格」そのもの。それを頭から否定すると、その人は、それに猛反発する。だからこういう話
は、ここだけの話。

つまりそういう人に向って、「つまらない人生でしたね」と、決して言ってはならない。言う必要も
ない。その人は、その人として、そっとしておいてあげるのも、思いやりということになる。

 とくに現在、50代、60代の、戦後の経済高度成長期にがんばってきた人には、このタイプの
人が多いので、注意する。

【付記2】

 この話を、教室へ参観に来ていた母親たちに話すと、一人の母親が、こう言った。「私の義父
がそうです。困っています」と。

 その義父は、今年68歳。元銀行員。現役のときは、15年間ほど、あちこちの支店で、支店
長をしていたという。が、いばっているだけで、家事などを、まったくしないという。

 「ものの考え方が、権威主義的です。いばるのは義父の勝手ですが、だれにも相手にされま
せん。みな、遠巻きにしているだけで、近寄ってこないのですね。しかし本人は、それは自分の
威厳のせいだと思いこんでいるのです。

 今でも散歩から帰ってくると、義母に向って、『おい、お茶! メシは、まだか!』ですよ。信じ
られますか? まるで、マンガの世界です」と。


●今日(2・23)は、A教祖の判決の日
 
 今日は、あの地下鉄サリン事件を引き起こした、元O教団、A教祖の判決の日である。もちろ
ん極刑が予想される。が、それにしても、判決までに、10年近くもかかるとは。これでもふつう
の裁判よりは、急いだほうだという。

 今度の裁判で、批判されるべきは、弁護団。まるで重箱の隅(すみ)をほじるような、ノロノロ
審理を繰りかえした。どうでもよい枝葉末節にこだわり、検察側に、そのつど、ああでもない、こ
うでもないと、いちゃもんをつけた。何度も、月刊誌や週刊誌で、問題になった。

 それで10年!

 本来なら、ああした教団は、解散させるべきだった。しかし当時、妙に人権派の弁護士がい
た。そういう人たちが、これまた安っぽいヒューマニズムをふりかざして、それをさせなかった。
その結果、今でもあのO教団は、名前を変えて活動している。マスコミの報道によれば、その
信者たちは、相変わらず、A教祖を信奉しているという。

 が、何よりも心配されるのは、そのA教祖が、死刑になったあとのこと。あるいはその当日で
もよい。多くの信者による、あと追い自殺が予想される。そういうことも考えるなら、やはりあの
とき、徹底的に解散させるべきだった。


●書斎

 私は、主に、自分の書斎で、原稿を書く。しかしときどき、気分転換のために、居間におりて
いって原稿を書く。言い忘れたが、私の書斎は、二階の一部屋。居間は、一階にある。

 が、本当のところ、一番思考力が活発になるのは、実際、子どもの姿を見ているとき。おかし
なもので、土日になると、かえって何も書けなくなる。ものを書くときは、日常的な刺激がない
と、どうも、だめなようだ。

 つまり、その刺激を求めるために、居間へ行く。そこには、ワイフがいる。

 そう、ワイフは、貴重な情報源。あれこれ雑誌や新聞を読んで、それを私に話してくれる。私
はそれを聞いて、興味をもった記事について、今度は、自分で調べる。

 私がこうしてものを書くとき、一番気を使うのは、私は道の中央にいるだろうかということ。そ
れに、まっすぐ前に向って進んでいるだろうかということ。

 その点、ワイフは、たいへん貴重な存在である。常識豊かな女性だと思う。情緒も安定してい
る。私とちがって、ものの考え方が、楽天的。

しかしそれ以上に、私にとって貴重な存在は、実は、生徒という子どもたちである。

 よく政治家が、自分の宣伝ポスターなどに、子どもを使うことがある。今度のアメリカの大統
領の予備選挙でも、あちこちに子どもたちが登場する。それはつまり、(子ども)が、常識の象
徴であるからにほかならない。

 しかし私は、そういう(飾り)としてではなく、毎日、その(子ども)に囲まれて生活をしている。
これは、ものを書く上において、とても重要なことだと思う。

 その一。子どもの心は、よごれていない。その二。子どもは、私のゆがみに、敏感に反応す
る。その三。子どもは、いつも私に、(原点)を教えてくれる。

 (原点)というのは、私が何であるかということ。少し前だが、私が「今度、講演で東京へ行く
よ」と話したときのこと。その女子中学生は、驚いた顔をして、こう言った。「どうして、あんたな
んかがア〜?」と。つまり「どうして私のような男が、東京まで行って、講演をするのか」と。

 子どもたちは、そういう原点を、いつも私に教えてくれる。あるいはそういう原点に、いつも私
を、引きもどしてくれる。

 もし私が、大先生か何かになって、豪邸の奥に引っこんでしまったら、私はもう教育論は書け
ないのではないかと思っている。実際、そういう評論家は多い。そういう人の教育論は、空理空
論というか、どこか現実離れしている。
 
 そろそろ、居間へ行って、新しい情報を頭に入れてこなければならない。そう思いながら、こ
の原稿を書いた。
(040227)

●みなさんも、童心にかえって、子どもたちといっしょに遊んでみたら? 子どもを教えるので
はなく、子どもたちに教えられるつもりで、そうしてみたら? 子育てが、ずっと、楽しくなります
よ!

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司


最前線の子育て論byはやし浩司(096)

●自転車のパンク

 ある自転車屋の前を通ったら、その張り紙には、こう書いてあった。

 「よそで買った自転車は、パンクの修理はいたしません」と。

 つまりその自転車屋で買った自転車でないと、パンクの修理はしない、と。

 ワイフが最初にそれを見つけて、「あら、いやだ」と言った。「意地悪ね」と。

しかし私には、その自転車屋の気持が、痛いほど、よくわかった。昔、私の父は、逆に、店先
にこう書いていた。

 「よそで買った自転車でも、パンクの修理をいたします」と。

 今、自転車は、大型スーパーでも、売られるようになった。値段は、1万円というのもある。4
0年前の価格よりも、安い。そのため、ほんの一部の自転車屋をのぞいて、ほとんどの自転車
屋は、軒並み、店を閉めた。

 その結果が、「パンクの修理は、いたしません」(文句があるなら、アフターサービスのでき
る、うちで買え!)である。

 自転車屋の言い分はこうだ。

 「パンク修理だけでは、やっていけない。自転車も買ってほしい。パンク修理は、あくまでもア
フターサービスの一部」と。

 本来ならパンクの修理費を、あげればよいのだが、しかしこの世界には、「組合」というもの
があって、それもままならない。修理代の金額は、その組合の取り決めで、決まっている。

私「自転車屋というのは、いろいろな職業の中でも、下に見られているからね」
ワ「そうではないわよ。自転車は、必需品よ」
私「手が油でよごれる仕事というのは、昔から、そう見られている」
ワ「……」と。

 しかしそういう張り紙を出すようになったら、その店もおしまい。やがて来るべき客も、来なくな
る。心の狭さを感ずるからだ。

 もっとも私の父は、逆の張り紙をした。それは、それだけ経営が苦しかったからだ。それに当
時は、まだ、客にも、律義(りちぎ)なところが残っていた。「パンクは、買った店でなおしてもら
う」と、客のほうが、そう考えていた。

 たとえば私の子どものころには、自転車屋にも縄張りがあった。よく父が、「あそこの町内
は、○○自転車屋さんの縄張りだから……」と言っていたのを覚えている。

 しかし今、そういう人が本来的にもつ(やさしさ)が、消えてしまった。大型店は容赦なく中小の
店を食いつぶし、それまで民衆が、長い時間をかけてつくりあげた慣習を、ぶちこわしてしまっ
た。道徳まで、ぶちこわしてしまった。

 その結果が、その張り紙である。一見、「?」と思う張り紙だが、その自転車屋の、精一杯の
抵抗運動のようにも見える。どうせ勝ち目のない、はかない抵抗だが、私には、そう見える。

 がんばれ、自転車屋さん! 客がよそで買った自転車のパンクなんか、ぜったいに、修理す
るなよ!


●花粉うつ

 今、私の心は、ふさいでいる。不平、不満だらけ。むしゃくしゃする。理由は、いくらでもある。
今は、そういうとき。

 時刻は、3時15分前。もうすぐ年中児の子どもたちがやってくる。ワイワイと騒ぎながら、やっ
てくる。

 子どもたちが、私の心を洗ってくれるはず。本当は、こういうときは、ひとりで静かにしていた
い。仕事はしたくない。で、ここで自分の心の変化を観察してみる。

 今までの経験では、子どもの顔を見たとたん、パッと気が晴れるはず。

 最初にM君がきた。心静かな子どもだ。さっそくプレイテーブルで、粘土遊びを始めた。しば
らくして今度は、Sさんがやってきた。活発な女の子で、粘土を見つけると、さっそく飛びついて
きた。

 つぎにKさん、もう一人、Uさん……。
 こうしていつの間か、私は、ざわめきの中に引きこまれていく。そして自分を忘れる。

 しかし今日は、どういうわけか、あまり心が晴れない。どうしてだろう。花粉症が少し始まった
せいかもしれない。昨夜、少しくしゃみが出た。熱はないが、どこか寒気がする。

 ふつうなら、こういう状態になると、生徒たちといっしょになって、ワイワイと騒ぎだすのだが…
…。

 (この間、約1時間……)

 やっと今、静かになったところ。最後に残っていた子どもも、母親にうながされて、帰っていっ
た。イギリスの格言に、『子どもは見るもの。聞くものではない』というのが、ある。子どもは見て
いる間は、かわいいものだが、しかし聞くものではない。うるさい。

 幼児教育をするものは、まず、幼児のうるささに耐えること。それができない人は、幼児教育
には向いていない。

 ……しかしこれも、そのときのコンディションによる。今日のように、どこか調子が悪いとき
は、子どもの声が、ガンガンと頭の中にひびく。やはり、花粉症が少し始まったようだ。

 この10年、症状は消えたが、ただ花粉が飛散し始める最初の1週間程度は、まだ症状が出
る。その1週間が、結構、つらい。

 この時期の過ごし方。まず内科医院で、花粉注射を受ける。つぎにシソの葉エキスというジュ
ースを飲む。こうして1週間ほど養生すると、そのまま花粉症の症状は消える。……はず。

【私のうつ】

 毎年、春先になると、私はこうしてうつ状態になる。ちょうど花粉の飛散時期と重なるので、
「花粉うつ」と、私は呼んでいる。

 以前は、鼻づまり、悪寒、くしゃみ、咳などの症状が出た。ひどいときは、顔が赤くなるほど、
熱も出た。それが20年以上もつづいたから、心のほうは、それを覚えていて、その習慣を繰り
かえしているのかもしれない。つまり精神も、花粉症になるということ。それが「うつ」というわけ
である。

 こういうときは、何をしても、また何を考えても、暗くなる。気分が晴れない。何を考えても、悪
い方へ、悪い方へと考えてしまう。どこか頭も重い。ああ、いやだ。この季節よ、早く去れ!


●純粋な心

 私は、ごく最近まで、気がつかなかった。しかし子どもに、これほどまでの力があったとは!

 子どもには、おとなの心を洗う力がある。子どもと接しながら、心を開いていると、そのままス
ーッと、こちらの心が、晴れ晴れしてくるのがわかる。そのとたん、こちらが感じている邪悪な心
が、吹き飛んでしまう。

 その力は、恐らく、どんな高徳な聖職者がもっている力よりも、神聖で、強力ではないのか…
…? ウソだと思うなら、あなたも一度、童心にかえって、子どもたちと遊んでみるとよい。たっ
たそれだけのことで、あなたは、あなたが忘れかけていた何かを、思い出すはず。

 そのとき、一つのコツがある。

 決して自分を、子どもたちに対して、「上」だとか、「親」だとか、思ってはいけない。友として、
対等の立場に立つ。あなたが優越感を覚えたとたん、子どもは、そのまま心を閉ざしてしまう。
そうなれば、いくらいっしょに遊んでも、子どもはあなたに対して、心を開くことはない。開くこと
がなければ、あなたの心が、洗われることもない。

 ところで私には、こんな不思議なことが起きている。

 どこかで子どもに会ったとする。そういうとき、その子どもが、私を見て、にっこり笑ったり、手
をふったりするのである。もちろん見知らぬ子どもである。
 
 たとえば私が自転車に乗っていて、車とすれちがったとする。そのとき後部座席かどこかに
子どもが座っていたとする。その子どもと視線があうと、その子どもが、私に向って手をふる。

 子どもというのは、みな、そうするものだとばかり思っていた。が、ワイフに聞くと、「ふつう、子
どもは、そんなこと、しないわよ」と。

 私はもともと心を開くことが苦手な男である。しかし相手が子どもだと、自然な形で、心を開く
ことができる。こういう仕事を、34年近くもしてきた。そのせいだと思う。目と目があった瞬間
に、子どものほうが、それがわかるのではないか。

 そして最近、わかったことは、つぎのこと。

 子どもと接したあと、ふつうのおとなのと話したりすると、その人の心のにごりが、よくわかる。
当然と言えば当然ということになるが、その「ちがい」がわかるということは、そのとき、私の心
が、子どもたちによって洗われていたということになる。

 よく誤解されるが、(本当によく誤解されるが)、子どもぽいということは、決して恥ずべきこと
ではない。また子どもぽいということは、未熟で幼稚という意味ではない。

 子どもぽいというのは、心が純粋で、清純であるという意味である。人は、おとなになるにつ
れて、知識や経験を身につけるが、同時に、子どもらしい純粋で、清純な心をなくす。子どもに
接していると、それを取りもどすことができる。

 さあ、あなたも勇気を出して、童心にかえってみよう。子どもと心を開いて、遊んでみよう。

 さあ、あなたも勇気を出して、子どもに心を開いてみよう。かっこうつけたり、威張ったりして
はいけない。

 そのあと、あなたも、私がここで言っている意味が、わかるはず。
 
【追記】

 今週は、お遊びとして、粘土で、ケーキづくりをした。子どもたちと、いろいろなケーキを作っ
た。ワイワイと騒ぎながら作っていると、我を忘れてしまう。(実際には、参観にきている母親た
ちの視線を意識するため、途中でやめてしまう。サボっているように思われるのは、つらい。)

 しかし驚いたのは、こんなのを作った子ども(小一男児)がいたこと。

 その子どもは、緑と青い粘土で、細い紐(ひも)状のものを作った。何をするのかと思って見
ていると、おもちゃの包丁で、それをななめにきざみ始めた。「それは何?」と聞くと、「ネギ!」
と。

 つぎに黄色い粘土を、幾重にも重ねて、小さなボール状のものを作った。そしてそれも、同じ
ようにおもちゃの包丁で、切り始めた。「それは?」と聞くと、「タマネギ!」と。

 こうしていくつか食材を用意したあと、それをおもちゃの皿に盛りつけ始めた。

 黄色で、細い紐のようなものもある。そこでさらに、「それは何?」と聞くと、「先生、これはね、
からしマヨネーズだよ」と。

 さいごに(それ)ができあがったので、「何ができたの?」と声をかけると、「冷やし中華」と答
えた。

 それを見て、ほかの子どもたちが、「おいしそう」と言って笑った。私も、「食べられそう」と言っ
て笑った。

 子どもの純粋さに触れるというのは、そういうことをいう。

【追記2】

 ここまで書いてワイフの読んで聞かせると、ワイフがこう言った。

 「あんた、同年代の男の人と、会話をしたくないの?」と。

 そこでハタと私は考えこんでしまった。
 
 私は、女性や子どもと話すのは得意だ。それに好きだ。しかし男性は、苦手。講演でも、女性
が多いときは、のりまくって話をすることができる。しかし男性が多いと、とたんに緊張してしま
う。

 何年か前、市内のRクラブで講演をさせてもらったことがある。聴衆は、全員、男性だった。
そのときのこと。講演ではめったに、あがったことのない私だったが、そのときだけは、あがっ
てしまった。

 自分でも何を話しているかわからない状態で、講演が終わってしまった。

 私「ぼくは、酒を飲めないから……」
 ワ「それがどうしたの?」
 私「だから、男たちとは、心を開いて、話しあうことができないよ」
 ワ「お酒なんか、関係ないでしょ」と。

 考えてみれば、これは私の欠陥かもしれない。だから私がここに書いたことが、絶対に正し
いとは思わない。……ということも、少しは考えなければいけないのか。しかし今さら、酒を飲
めるようになれと言われても……。さてさて、どうしたものか?


●別れ

 2月末。進学塾へ移っていく子どもが、何人か、私の教室を去っていった。私は、それを「卒
業」と思って、見送る。さみしい瞬間だが、私は、もう、なれた。

 そういうとき、親はともかくも、子どものほうが不安そうな表情をする。それがわかるから、私
は、子どもには、こう言う。「心配しなくてもいいよ。君は、どこへ行っても、ちゃんとできるから
ね。また戻ってきたくなったら、いつでも戻っておいでよ」と。

 そんなわけで、今でも、私の教室をやめたあとも、ときどき、私の教室にやってくる子どもが
いる。だまって入ってきて、しばらく遊んだあと、また、だまって帰っていく。

 ただ、親に、こう言われるのは、つらい。「今度、○×進学塾に入ることにしました。そちらでう
まくいかなかったら、また先生、そのときは、よろしくお願いしますね」と。

 私は、神様でも、仏様でもない。そういうときは、率直に、断ることにしている。「申し訳ありま
せんが、うちは、そういうことはしていませんので」と。

 25年ほど前のことだが、こんな事件があった。

 毎日、学校の帰るとき、私の教室の窓の外に立って、私の教室の中をのぞいている子ども
(小3)がいた。そこである日、その子どもにこう言った。「もし、この教室に入りたいのだった
ら、お母さんに頼んでみてあげるよ」と。

 その子どもは、うれしそうだった。そして私に、名前と電話番号を教えてくれた。が、電話をす
ると、母親は、いきなり、私にこう怒鳴った。

 「勝手に、うちの子を、塾なんかに誘わないでほしい!」と。

 あとで聞いたら、父親も、母親も、中学校で教師をしていた。私が子どもを、直接勧誘したの
は、そのときが、はじめてで、そして最後だった。

 ただその子どものばあいは、もう一つ大きな事件が重なった。たまたまその子どもの裏に住
む子どもが、私の教室の生徒になった。で、その母親から聞いた話は、意外なものだった。

 その子どもは、つまり「塾なんかに誘わないでほしい」と叫んだ母親の子どもだが、その子ど
もは、そのあと、中学校へ入るころから、はげしい家庭内暴力を繰りかえすようになったとい
う。

「家中のガラスというガラスは、すべてはずした。父親も母親も、廊下などは、這っていかない
と、許してもらえなかった。母親は、そのため中学校を退職した」と。

 家庭内暴力にもいろいろあるが、相当な家庭内暴力だったようだ。ときどき、真夜中でも、近
所中に響き渡るような、子どもの叫び声が聞こえてきたという。私は、その話を聞いて、そのと
きは、「どうしてあんな静かだった子どもが!」と、驚いた。

 子育てで成功する親と、失敗する親。それははっきりしている。

 子育てで成功する親は、いつも、子どもの心に耳を傾けている。そうでない親は、「子どもの
ことは私が一番よく知っている」と、いつも、子どもの心を、親が決めてしまう。

しかし、私の仕事は、親というスポンサーあっての、仕事。親の意向に逆らうことはできない。
親が「やめる」と言えば、それに従うしかない。いくら内心で、「ここをやめたら、たいへんなこと
になるのに……」と思っていても、それは言えない。

だから子どもには、こう言う。「またいつでも、戻ってきたくなったら、戻っておいでよ」と。

それは、本当にさみしい瞬間だが、私は、もうなれた。

【小さな一言が子どもの心を開く】

 今日からでも遅くないから、何かあるたびに、子どもに向かって、「あなたはどう思うの?」を
口ぐせにしてみるとよい。

 この一言が、長い時間をかけて、子どもの心を開く。子どもを、考える子どもにする。


●第二回、六か国協議

 今日は、2月28日。(このマガジンが配信されるのは、3月22日号の予定)

 その2月28日、北京で行われた、K国の核をめぐる六か国協議は、ほとんど成果らしい成果
もなく、終了した。懸案は、すべて先送り。喜んでいいのか悪いのか。まったくの私の予想どお
りだった。

 韓国には韓国の立場もあるのだろうが、ことごとくアメリカに反発している。そのため米韓関
係は、今、崩壊の瀬戸際に立っている(アメリカ政府高官)。

一方、K国は、「核兵器開発は日本に対してのもの。アメリカではない」と、かねてより発言して
いる。またアメリカは、核兵器が、中東のテロリストたちに渡るのを、何よりも恐れている。

 その中心にいる、K国は、狂っている。少なくとも、まともではない。

 ああ、日本は、どうしたらよいのか。仮に日朝戦争ということになれば、韓国すら、統一旗を
あげて、K国に加担するだろう。アメリカだって、そうは簡単には助けてくれない。中国やロシア
など、まったく、アテにならない。

だからやはり、日本としては、国際世論に働きかけていくしかない。具体的には、国連安保理
への提訴である。もっともこの点については、アメリカと、意見が一致している。「話しあいの時
期は、もう過ぎた。残るは、国連による制裁」と。

 ゆいいつの望みは、K国が、自己崩壊すること。しかしそうなれば、今度は、韓国が困る。だ
から土壇場になると、いつも韓国が、なんだかんだと、K国を助ける。

仮に国連による制裁ということになっても、韓国は、それに応じないだろう。しかしそれがまた、
日本やアメリカとの間に、キレツを入れる原因になっている。

日本としては、ここは『さわらぬ神に、たたりなし』。あんなK国と戦争をしてもつまらない。正義
をつらぬかねばならないような相手ではない。はっきり言えば、国のXX(禁止用語)。だからノ
ラリクラリと、自己崩壊するのを待つのがよい。

3月に入れば、K国では、600万人分の食糧配給が停止するという(WFP)。しかしその一方
で、ピョンヤンの食糧倉庫には、日本から送られた米などが、手つかずのまま、山積みになっ
ているという(脱北者の証言)。だから食糧援助をしても、意味がない。


●メルマガ(BIGLOBE版)の読者の方へ

 2月末に、BIGLOBE版のメルマガを、随時発行にすると、読者の方々に連絡した。「Eマガ、
もしくはまぐまぐプレミアへの移動をお願いします」と。

 しかし、一時的には、読者の数は減ったものの、またふえ始めた。その連絡以後、新規に登
録した人たちではないかと思う。

 以前にも、一度、こういうことがあった。多分、メルマガのほうはメルマガのほうで、私のマガ
ジンを宣伝していてくれるのだろう。

 そんなわけで、つまり新規に登録してくれた読者の方を、がっかりさせたくないから、またメル
マガを、以前のように配信している。

 (ただEマガは、一か月先まで。まぐまぐプレミアは、45日先まで配信予約できるが、メルマ
ガは、たったの一週間。そのため同時に配信予約を入れることができない。

 またバックナンバーについては、Eマガは、数か月過去の分まで、保持していてくれる。しかし
メルマガは、過去数回分しか保持してくれない。

 ほかにEマガは、毎回、A4サイズの原稿用紙で、20〜30枚分を配信してくれる。Eマガ社
が特別に、そうしてくれている。が、メルマガは、それにくらべて、配信容量が少ない。だからた
いていいつも、2回に分けて配信しなければならない。

 マガジンスタンドによって、サービスが、かなり違う。)

 メルマガ(BIGLOBE版)を、購読してくださっている読者の方は、できるだけ、Eマガもしくは、
まぐまぐプレミアのほうへ、ご移動ください。よろしくお願いします。

【今後、ご自分でマガジンを発行してみようと考えている方へ……】

●マガジンスタンド(マガジンを発行する会社)の選択は、慎重に!

 私は、ほとんどこの世界を知らないまま、マガジンを発行し始めました。ですから私の選択が
正しかったとは思っていません。

 サービスの内容は、各社ちがいます。

 私が利用しているのは、Eマガ、メルマガ、まぐまぐ社の三社です。それぞれに特徴があり、
サービスの内容が違います。

 ですから、ご自身でマガジンを発行しようと考えている人は、自分のマガジンの性質にあった
マガジンスタンドを選ぶことが、大切です。

 Eマガ社は、私のマガジンのように原稿量が多いマガジンに適しています。それに過去100
回分近く、バックナンバーを保持しておいてくれるのも、助かります。

 配信の方法は、ウソのように簡単です。

 ワープロで書いた原稿を、そのまま張りつけて、「送信」ボタンをクリックするだけ。文章を保
存する程度の手間だけで、できます。(本当に驚きですね!)

 みなさんも、ぜひマガジンを発行してみてください。おもしろいですよ。
(040228)

+++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩


最前線の子育て論byはやし浩司(097)

●結婚

 してはいけない結婚に、つぎのような結婚がある。たまたま今朝、ワイフと、そんな話が出た
ので、自分なりにまとめてみた。

(1)妊娠結婚(できちゃった婚)……妊娠したから結婚する。
(2)犠牲結婚……「私一人ががまんすれば……」と言って結婚する。
(3)同情結婚……「あの人は、一人では生きていかれないから」と、同情して結婚する。
(4)衝動結婚……「結婚でもしてみるか」と、いわば思いつきで結婚する。
(5)見栄結婚……派手な結婚式などをして、自分の力を誇示するために結婚する。
(6)代用結婚……好きな人を忘れるために結婚する。
(7)妥協結婚……「年齢も年齢だから……」と言って、結婚する。
(8)復讐結婚……好きだった男(女)に、復讐するために結婚する。
(9)穴埋め結婚……自分の心のすき間(孤独)をうめるために、結婚する。
(10)家督結婚……世継ぎ、跡取りを求めて結婚する。
(11)政略結婚……別の意図、目的があって、結婚する。
(12)マザコン結婚……母親の世話をするための家政婦として、妻を利用する。

 こうした結婚を、一組の男女がするのは、その男女の勝手。うまくいかなければ、離婚すれ
ばよい。何も「結婚」とか、「離婚」とかいうワクに、とらわれることはない。

 しかし問題は、その結果、子どもが生まれたばあい。こうした無責任な結婚姿勢は、そのまま
子育てに反映される。そしてその影響は、確実に、子どもに現れる。

 『子はかすがい』とは言うが、子どもがいてもいなくても、離婚する人は離婚する。しかし誤解
してはいけないのは、離婚が、悪いのではない。離婚にいたる、家庭騒動が悪い。その騒動が
子どもの心に、深刻な影響を与える。

 そんなわけで、離婚するにしても、「明るく、さわやかに」!

 結婚相手というのは、最初の印象で、決まるのではないか? その相手に、電撃的な衝撃を
感ずる。その衝撃が、やがて結婚という形に発展する。映画『タイタニック』の中の、ジャックと
ローズが、そうだった。

 あとはその衝撃を信じて、結婚すればよい……と書くのは、危険なことだが、結婚というの
は、そういうもの。深く考えずに結婚するのも、また考えすぎて結婚するのも、よくない。

 もっとも、ここにあげたような結婚をしたからといって、不幸になるというわけではない。多か
れ少なかれ、ほとんどの人は、ここに書いたような結婚のうちの、どれかをしている。ジャックと
ローズが感じたような衝撃を覚えて、結婚する人は、マレ?

 そういう意味では、結婚は、ゴールではなく、スタートにすぎない。いろいろな賢人が、結婚に
ついて書き残している。

 あのソクラテスは、かなり不幸な結婚をしたらしい。『結婚すべきか、いなか。どちらにせよ、
汝は、後悔することになろう』(卓談)と。ほかにも無数にある。『悪妻をもたば、汝、哲学者とな
らん』とも、どこかに、書いている。(自分は、哲学者なのに!)

●『よい結婚というものが、きわめて少ないことは、それがいかに貴重で、偉大なものであるか
という証拠である』(モテーニュ「随想録」)

●『男は退屈から結婚する。女は、物好きから結婚する。そしてともに失望する』(ワイルド「何
でもない女」)

●『三週間、たがいに研究しあい、三か月間愛しあい、三か年間喧嘩をし、三十年間がまんし
あう。そして子どもたちがまた、同じことをし始める』(テーヌ「トマ・グランドルジェの生活と意
見」)(以上、明治書院「世界名言辞典」より)

 全体としてみると、否定的な意見のほうが多いのでは……。もともと結婚というのは、そういう
ものかもしれない。つまり、幻想をいだかないこと。

 結婚する前は、たがいにしっかりと見つめあう。しかし結婚したら、たがいに遠くの前だけを
見て、友として、いっしょに歩く。

 ……これが、夫婦を、長くつづけるためのコツではないか。

私たち夫婦も、喧嘩をするたびに、「離婚してやる」「別れましょう」と言いあっている。あまり偉
そうなことは言えない。まあ、たがいに過大な期待はしないこと。「10年後も、20年後も、今の
まま」と、そんなふうに、割り切って生きるのがよいのでは……。
(040228)(はやし浩司 結婚 離婚 結婚観)

【追記】

 私たち夫婦も、周期的に夫婦喧嘩をしている。このところ周期はやや長くなったが、(倦怠
期)→(不平不満期)→(忍従期)→(爆発期=夫婦喧嘩)→(冷却期)→(円満期)→(倦怠期)
というサイクルを繰りかえしている。

 おもしろいのは、そうしたサイクルが、ちゃんとあること。そしてそのときどきにおいて、「今
は、倦怠期だな」「今は、円満期だな」とわかること。

 そういう意味では、夫婦喧嘩というのは、いわば退屈しのぎのようなもの。夫婦も喧嘩をしなく
なったら、おしまい。もともと結婚というのは、そういうもの?

●『幸福な結婚というのは、婚約のときから死ぬときまで、決して退屈しない、永い会話のよう
なもの』(モロア「幸福な結婚」)と。

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

最前線の子育て論byはやし浩司(098)

【読者の方より……】

 今週も、たくさんの方より、メールをいただきました。ありがとうございました。その中から、一
つを選んで、ここでテーマとして考えてみたいと思います。

++++++++++++++++++++

●ハキのない子ども

 「ハキのない子どもです。どうしたらいいですか」(埼玉県Yさん)という相談があった。

 しかしハキのあるなしは、教育でどうこうなる問題ではない。また家庭のしつけで、どうこうな
る問題でもない。

 むしろ学校も、家庭も、何もしないほうが、よい。そのほうが、子どもは、ハキのある子どもに
なる。へたにあれこれするから、子どもは、自信をなくし、ハキのない子どもになる。とくに注意
したのが、母子関係。

 母子関係は、心身の発育のためには、きわめて重要な役割を担(にな)う。それは事実だ
が、ある時期を過ぎると、その母子関係が、かえって子どもにとっては、弊害となることがあ
る。そのため母親が、子どもの自立を、はばんでしまう。

 ハキがない原因の多くは、親の過干渉、過保護、過関心と考えてよい。過剰期待や過負担
が、子どもの自我をつぶしてしまうこともある。

そしてここがこわいところだが、一度つぶれた自我は、簡単には、もとにもどらない。少年少女
期(学童期)につぶれたりすると、その子どもは、ほぼ一生、ナヨナヨした子どものままになる。

 発達心理学の世界では、「動機づけ」「自我の同一性」「強化の原理」などという言葉を使っ
て、子どものやる気を説く。で、そのやる気のカギをにぎるのが、「私は私」という自我である。

自我の強い子どもは、ハキがあるということになる。自我が弱い子どもは、そうでないということ
になる。では、どうするか?

わかりやすく言えば、(あるがままの子どもを認め、子ども自身がもつ、力を引き出す)というこ
と。人間には、もともとそういう力が宿っている。

 しかし実際には、ここにも書いたように、一度自我はつぶれると、その回復は容易ではない。
それこそ一年単位の根気が必要である。「去年とくらべてどうだ?」「おととしとくらべてどう
だ?」というような見方をする。

 あせったところで、どうにもならない。またこうした問題が起きると、親は、「子どもをなおそう」
と考える。しかしなおすべきは、親自身である。この視点をもたないと、それこそそのナヨナヨと
した状態は、一生の間、つづくことになる。ご用心!

+++++++++++++++++++++++++

【参考】

子どもの自我がつぶれるとき

●フロイトの自我論 

フロイトの自我論は有名だ。それを子どもに当てはめてみると……。
 
自我が強い子どもは、生活態度が攻撃的(「やる」「やりたい」という言葉をよく口にする)、もの
の考え方が現実的(頼れるのは自分だけという考え方をする)、創造的(将来に向かって展望
をもつ。目的意識がはっきりしている。目標がある)、自制心が強く、善悪の判断に従って行動
できる。

 反対に自我の弱い子どもは、ものごとに対して防衛的(「いやだ」「つまらない」という言葉をよ
く口にする)、考え方が非現実的(空想にふけったり、神秘的な力にあこがれたり、まじないや
占いにこる)、一時的な快楽を求める傾向が強く、ルールが守れない、衝動的な行動が多くな
る。たとえばほしいものがあると、それにブレーキをかけることができない、など。

 一般論として、自我が強い子どもは、たくましい。「この子はこういう子どもだ」という、つかみ
どころが、はっきりとしている。生活力も旺盛で、何かにつけ、前向きに伸びていく。反対に自
我の弱い子どもは、優柔不断。どこかぐずぐずした感じになる。何を考えているかわからない
子どもといった感じになる。

●自我は引き出す

その自我は、伸ばす、伸ばさないという視点からではなく、引き出す、つぶすという視点から考
える。つまりどんな子どもでも、自我は平等に備わっているとみる。子どもというのは、あるべき
環境の中で、あるがままに育てれば、その自我は強くなる。

反対に、威圧的な過干渉(親の価値観を押しつける。親があらかじめ想定した設計図に子ども
を当てはめようとする)、過関心(子どもの側からみて息の抜けない環境)、さらには恐怖(暴力
や虐待)が日常化すると、子どもの自我はつぶれる。

そしてここが重要だが自我は一度つぶれると、以後、修復するのがたいへん難しい。たとえば
幼児期に一度ナヨナヨしてしまうと、その影響は一生続く。とくに乳幼児から満四〜五歳にかけ
ての時期が重要である。

●要は子どもを信ずる

 人間は、ほかの動物と同様、数一〇万年という長い年月を、こうして生きのびてきた。その過
程の中でも、難しい理論が先にあって、親は子どもを育ててきたわけではない。

こうした本質は、この百年くらいで変わっていない。子育ても変わっていない。変わったと思うほ
うがおかしい。要は子ども自身がもつ「力」を信じて、それをいかにして引き出していくかという
こと。子育ての原点はここにある。

++++++++++++++++++++
 
●マイナスのストローク(弱化の原理)

 記録には、こうある。

 「A君。年中児。何を指示しても、『いや』『できない』と逃げてしまう。今日も、絵を描かせよう
としたが、もぞもぞと、何やらわけのわからない模様のようなものを描くだけ。積み木遊びをし
たが、A君だけ、作ろうともしない。一事が万事。先日は、歌を歌わせようとしたが、『歌いたくな
い』と言って、やはり歌わなかった」(19XX年9月)と。

 このA君が印象に残っているのは、母親の視線が、ふつうではなかったこと。母親は、一見お
だやかな表情をしていたが、視線だけは、まるで心を射抜くように強かった。ときにビリビリとそ
れを感じて、授業がやりにくかったこともある。

 こうしたケースで困るのは、まず母親にその自覚がないということ。「その自覚」というのは、A
君をそういう子どもにしたのは、母親自身であるという自覚のこと。つぎに、私はそれを母親に
説明しなければならないのだが、どこからどう説明してよいのか、その糸口すらわからないとい
うこと。A君のケースでも、私と母親の間に、私は、あまりにも大きな距離を覚えた。

 が、母親は、こちらのそういう気持など、まったくわからない。「どうしてうちの子は……?」と
相談しつつ、私の説明をロクに聞こうともせず、返す刀で、子どもを叱る。「もっと、しっかりしな
さい!」「あんな問題、どうしてできないの!」「お母さん、恥ずかしいわ!」と。

 あのユング(精神科医)は、人間の自覚について、それを、意識と、無意識に区別した。そし
てその無意識を、さらに個人的無意識と、集合的無意識に区別した。個人的無意識というの
は、その個人の個人的な体験が、無意識下に入ったものをいう。フロイトが無意識と言ったの
は、この個人的無意識のことをいう。

 集合的無意識というのは、人間が、その原点としてもっている無意識のことをいう。それにつ
いて論ずるは、ここでの目的ではないので、ここでは省略する。問題は、先の、個人的無意識
である。

 この個人的無意識は、ここにも書いたように、その個人の個人的な体験が、無意識の世界
に蓄積されてできる。思い出そうとすれば、思い出せる記憶、あるいは意図的に封印された記
憶なども、それに含まれる。問題は、人間の行動の大半は、意識として意識される意思による
ものではなく、無意識からの命令によって左右されるということ。わかりやすく言えば、この個人
的無意識が、その個人を、裏から操る。これがこわい。

 A君(年中児)の例で考えてみよう。

 A君の母親は、強い学歴意識をもっていた。「幼児期から、しっかり教育すれば、子どもは、
東大だって入れるはず」という、迷信とも言えるべき信念さえもっていた。そのため、いつも「子
どもはこうあるべき」「子育てはこうあるべき」という、設計図をもっていた。ある程度の設計図
をもつことは、親として、しかたのないことかもしれない。しかしそれを子どもに、押しつけては
いけない。無理をすればするほど、その弊害は、そのまま子どもに現れる。

 一方、子どもの立場でみると、そうした母親の姿勢は、子どもの自我の発達を、阻害する。自
我というのは、「私は私という輪郭(りんかく)」のこと。一般論として、乳幼児期に、自我の発達
が阻害されると、どこかナヨナヨとした、ハキのない子どもになる。何をしても自信がもてず、逃
げ腰になる。失敗を恐れ、いつも一歩、その手前で止めてしまう。ここでいうA君が、まさに、そ
ういう子どもだった。

 これについて、B・F・スキナーという学者は、「オペラント(自発的行動)」という言葉を使って、
つぎのような説明している。

 「条件づけには、@強化(きょうか)の原理と、A弱化(じゃくか)の原理がある」と。

 強化の原理というのは、ある行動を人がしたとき、その行動に、プラスのストローク(働きか
け)が加わると、その人は、その行動を、さらに力強く繰りかえすようになるという原理をいう。

 たとえば子どもが歌を歌ったとする。そのとき、まわりの人が、それを「じょうずだ」と言ってほ
めたり、自慢したりすると、それがプラスのストロークとなって、子どもはますます歌を歌いたが
るようになる。

 これに対して弱化の原理というのは、ある行動を人がしたとき、その行動にマイナスのストロ
ークがかかると、その人は、その行動を繰りかえすのをやめてしまうようになるという原理をい
う。あるいは繰りかえすのをためらうようになる。

 たとえば子どもが歌を歌ったとする。そのとき、まわりの人が、「こう歌いなさい」と言って、け
なしたり、笑ったりすると、それがマイナスのストロークになって、子どもは歌を歌わなくなってし
まう。

 A君のケースでは、母親の神経質な態度が、あらゆる面で、マイナスのストロークとなって作
用していた。そしてこうしたマイナスのストロークが、ここでいう個人的無意識の世界に蓄積さ
れ、その無意識が、A君を裏から操っていた。親の愛情だけは、それなりにたっぷりと受けてい
るから、見た目には、おだやかな子どもだったが、A君が何かにつけて、逃げ腰になってしまっ
たのは、そのためと考えられる。

 が、ここで最初の、問題にもどる。そのときのA君がA君のようであったのは、明らかに母親
が原因だった。それはわかる。が、私の立場で、どの程度まで、その責任を負わねばならない
のかということ。与えられた時間と、委託された範囲の中で、精一杯の努力をすることは当然と
しても、しかしこうした問題では、母親の協力が不可欠である。その前に、母親の理解がなけ
れば、どうしようもない。

 そこで私はある日、意を決して、母親にこう話しかけた。

私「ご家庭では、もう少し、手綱(たすな)を、緩(ゆる)めたほうがいいですよ」
母「ゆるめるって……?」
私「簡単に言えば、もっとA君を前向きにほめるということです」
母「ちゃんと、ほめています」
私「そこなんですね。お母さんは、その一方で、A君に、ああしなさいとか、こうしなさいとか言っ
ていませんか?」
母「言っていません。やりたいようにさせています」
私「はあ、そうですか……」と。

 実際のところ、問題意識のない母親に、問題を提起しても、ほとんど意味がない。たいてい
は、「うちでは、ふつうです」「幼稚園では、問題ありません」などと言って、私の言葉を払いのけ
てしまう。さらに、何度かそういうことを言われたことがあるが、こう言う母親さえいる。「あんた
は、黙って、うちの子の勉強だけをみてくれればいいです」と。つまり「余計なことは言うな」と。
 
 ……と、書いて、私も気づいた。私にも、弱化の原理が働いている、と。問題のある子どもの
母親を前にすると、「母親に伝えなければ」という意思はあるのだが、別の心がそれにブレーキ
をかけてしまう。この仕事というのは、報われることより、裏切られることのほうが、はるかに多
い。いやな思い出も多い。さんざん、不愉快な思いもした。そうした記憶が、私を裏から操って
いる? 「質問があるまで、黙っていろ」「あえて問題を大きくすることもない」「言われたことだ
けをしていればいい」「余計なことをするな」と。

 「なるほど……」と、自分で感心したところで、この話は、ここまで。要するに、子どもは、常に
プラスのストロークをかける。かけながら、つまりは強化の原理を利用して、伸ばす。とくに乳幼
児期はそうで、これは子育ての大原則ということになる。
(040228)(はやし浩司 強化の原理 弱化の原理 自我論 ハキのない子ども スキナー 
オペラント)

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司


最前線の子育て論byはやし浩司(099)

●愛

===============
昨夜、ワイフと、ふとんの中で、
こんな会話をした。

「愛にも、いろいろあるね」と。

たとえば溺愛ママと呼ばれる人の中には、、
自分の息子が初恋でもしたりすると、
半狂乱になる人がいる。

溺愛は、愛ではない。自分勝手で、
わがままな愛……。それはわかるが、
では、溺愛ママは、なぜ子どもを溺愛するのか?

そこでもう一度、愛について、
考えなおしてみる。
================

 以前、自分の息子が結婚した夜、「悔しい」「悔しい」と泣き明かした母親がいた。あるいは嫁
いで出た娘に、ストーカー行為を繰りかえしていた母親がいた。その母親は、娘に、「お前をの
ろい殺してやる」と言っていた。

 そしてこんなこともあった。

 ある夏の日のことだった。一人の母親が、私のところに来て、こう言った。「息子が恋をしまし
た。何としてもやめさせてほしい。今は、高校受験をひかえた大切なときですから」と。

 相手の女性は、五、六歳年上の女性だという。本屋で店員をしていた。

 で、私が「恋の問題だけは、私でも、どうにもなりません」と言うと、その母親は、バッグの中
からその女性の写真を何枚か出し、こう泣き叫んだ。「こんな女ですよ!」「こんな女のどこが
いいのですか!」と。

 それはまさに嫉妬に狂う、女の姿だった!

+++++++++++++++++++

 「愛」にも三種類、ある。本能的な愛、代償的愛、それに真の愛である。

 さらに、心理学者のリーは、人間がもちうる恋愛感情を、つぎの六つに分けた。

(1)エロス……肉感的な愛。女性の乳房や、男性の男根に強い性欲を覚える。
(2)ストーゲイ……異性との友情的な愛。
(3)アガペ……絶対的な献身を誓う愛。命すらも捧げる愛。
(4)ルダス……遊びとしての愛。ゲーム感覚で、恋愛を楽しむ。
(5)マニア……愛がすべてになってしまう。はげしい嫉妬や恋慕をいだくことが多い。
(6)プラグマ……実利的な目的をもって、損得の計算をしながら、異性とつきあう愛。

 これは異性間の恋愛感情だが、親子の間の愛も、同じように分類することができる。

(1)エロス……息子や娘を、異性として意識する。肉欲的な感情を、自分の子どもに覚える。
(2)ストーゲイ……自分の子どもと、友情関係をもつ。子どもというより、対等の人間として、子
どもをみる。
(3)アガペ……子どものためなら、すべてを捧げる愛。命すらも惜しくないと感ずることが多
い。
(4)ルダス……子育てをしながら、毎日、子どもと人生を楽しむといったふう。いっしょに料理を
したり、ドライブに行ったりする。
(5)マニア……子どもを自分の支配下におき、自分から離れていくのを許さない。
(6)プラグマ……家計を助ける。あるいは老後のめんどうをみてくれる存在として、子どもを位
置づける。

 これは私が思いつくまま考えた愛なので、正しくないかもしれない。しかしこうして親が子ども
に感ずる愛を分類することによって、自分が子どもに対して、どんな愛をいだいているかを、知
ることができる。

 ふとんの中で、ワイフが、こう言った。

ワ「私は、息子たちに恋人ができたときでも、嫉妬しなかったわ」
私「あたりまえだ。しかしぼくたちに娘がいて、その娘に恋人ができたら、ぼくは、どうだっただ
ろうね」
ワ「あなたのことだから、嫉妬したと思うわ」
私「そうだな……」

ワ「愛があるから、嫉妬するの?」
私「いろいろな愛があるからね。親の世界にも、代償的愛というのがある。いわば愛もどきの
愛ということになる。自分の子どもを、自分の支配下において、自分の思いどおりにしたいとい
う愛をいう。子どもの受験勉強に狂奔している親というのは、たいていこの種類の親と考えてい
い。代償的愛というのは、もともと身勝手なものだよ」

ワ「じゃあ、どういうのが、真の愛なのかしら?」
私「親子の愛というのは、実感しにくいものだよ。しかし子どもが、大きな病気になったり、事故
にあったときなどに、それがわかる」
ワ「ふつうのときは?」
私「要するに、どこまで子どもを許し、どこまで子どもを忘れるか。その度量の深さこそが、愛
の深さということになるよ」

ワ「じゃあ、私が、あなたに、『私にほかに好きな人ができました。離婚してください』と言った
ら、どうなるのかしら?」
私「『お前の幸福のためなら、ぼくは、引きさがるよ』というのが、真の愛ということになるのか
な。ぼくには、できないけど……」
ワ「そりゃあ、そうでしょう。そうすると、夫婦の愛と、親子の愛は、ちがうのかしら?」

私「ぼくの印象では、人間の脳は、それほど器用にできていないと思う。だから愛を使い分ける
ことはできないはず。同じと考えていいと思う」
ワ「じゃあ、夫婦の間でも、溺愛夫婦というのが、いるのかしら?」
私「いると思うよ。たがいにベタベタの夫婦がね」
ワ「でも、そういう夫婦は、真に愛しあっていることにはならないわね」

私「その可能性は、高い。たがいにたがいの心のすき間を埋めるために、愛しあっているだけ
かもしれない」
ワ「そういう夫婦のときは、どちらか一方が、不倫でもしたら、たいへんなことになるわね」
私「そうかもね……」と。

 実のところ、私は、本当にワイフを愛しているかどうかということになると、あまり自信がない。
だからときどき、ワイフにこう聞くときがある。

 「お前は、ぼくのために犠牲になっているだけではないのか?」「無理をするなよ」と。するとワ
イフは、いつもこう答える。「私は、家族のみんなが、それぞれ幸せなら、それでいいの」と。

 いつかそういうワイフを見て、二男が、こう言った。「ママの生き方はすばらしい」と。しかし私
には、そういう犠牲心というのは、あまりない。リーの分類法によれば、私がもっている愛は、
マニア(嫉妬しやすい愛)と、プラグマ(実利的な愛)を合わせたようなものかもしれない。

 日本的に言えば、独占欲の強い、自分勝手な愛ということになる。

 そこで育児論。

 本能的な愛については、さておき、ほとんどの親は、代償的愛をもって、真の愛と誤解してい
る。つまりは、薄っぺらい愛なのだが、問題は、いつ、その「薄っぺらさ」に、気がつくかというこ
と。

 自分の息子が結婚した夜、「悔しい」「悔しい」と泣き明かした母親。あるいは嫁いで出た娘
に、ストーカー行為を繰りかえしていた母親。

 こうした母親は、そういう意味では、実に薄っぺらい。しかしこうした母親にかぎって、「私は息
子を愛している」「娘を愛している」と公言して、はばからない。

 あのマザーテレサは、こう書いている。

●We can do no great things; only small things with great love.
(偉大なことなど、できませんよ。ただ偉大な愛をもって、小さなことができるだけ。)
 
●I have found the paradox, that if you love until it hurts, there can be no more hurt, only 
more love. 
(それがあなたをキズつけるまで、人を愛するとね、もう痛みはなくなるものよ。ただより深い愛
が残るだけ。皮肉なパラドックスね。)

 恋人であるにせよ、夫婦であるにせよ、そして親子であるにせよ、真の愛というのは、そうい
うものかもしれない。

 子どもの受験勉強で、カリカリしているお父さん、お母さん。少しだけ立ち止まって、今、本当
にあなたは、自分の息子や娘を、愛しているのか、それを考えてみてほしい。

 ひょっとしたら、あなたはただ、自分が感じている不安や心配を、息子や娘にぶつけているだ
けかもしれない。しかしそれは、もちろん、ここでいう真の愛ではない。

 ……ということで、「愛」についての話は、ここまで。問題は、あとは、それをどう実行していく
かということ。それがむずかしい。ホント!

+++++++++++++++++

●子どもを愛するために……

あなたの疲れた心をいやすために、
もう、あきらめなさい。あきらめて、
あるがままを、受け入れなさい。

がんばっても、ムダ。無理をしても、ムダ。
あなたがあなたであるように、
あなたの子どもは、あなたの子ども。

あとは、ただひたすら、許して、忘れる。
あなたの子どもに、どんなに問題があっても、
どんなにできが悪くても、ただ許して、忘れる。

問題のない子どもは、絶対にいない。
その子は、どの子も、問題がないように見える。
しかしそう見えるだけ。みんな問題をかかえている。

あとは、あなたの覚悟だけ。
あなたも、一つや二つ、三つや四つ、
十字架を背負えばよい。

「ようし、さあ、こい!」と。そう宣言したとたん、
あなたの心は軽くなる。子どもの心も軽くなる。
そのとき、みんなの顔に微笑みがもどる。

あなたはすばらしいい親だ。
それを信じて、あとは、あきらめる。
それともほかに、あなたには、
まだ何かすることがあるとでもいうのか?
(040229)(はやし浩司 愛 真の愛 リー エロス アガペ)


【子どもを愛せない親たち】

 その一方で、子どもを愛せない親がいる。全体の10%前後が、そうであるとみてよい。

 なぜ、子どもを愛することができないか。大きくわけけて、その理由は、二つある。

 一つは、自分自身の乳幼児期に原因があるケース。もう一つは、妊娠、出産に際して、大き
なわだかまり(固着)をもったケース。しかし後者のケースも、つきつめれば、前者のケースに
集約される。

 乳児には、「あと追い、人見知り」と言われるよく知られた現象がある。生後5〜7か月くらい
から始まって、満1歳半くらいまでの間、それがつづく。

 ボウルビーという学者は、こうした現象が起きれば、母子関係は、健全であると判断してよい
と書いている。言いかえると、「あと追い、人見知り」がないというのは、乳児のばあい、好まし
いことではない。

 子どもは、絶対的な安心感の中で、心をはぐくむ。その安心感を与えるのは、母親の役目だ
が、この安心感があってはじめて、子どもは、他者との信頼関係(安全感)を、結ぶことができ
るようになる。

 「あと追い、人見知り」は、その安心感を確実なものにするための、子どもが親に働きかけ
る、無意識下の行動と考えることができる。

 で、この母子との間にできた基本的信頼関係が、やがて応用される形で、先生との関係、友
人との関係へと、広がっていく。

 そしてそれが恋愛中には、異性との関係、さらには配偶者や、生まれてきた子どもとの関係
へと、応用されていく。そういう意味で、「基本的(=土台)」という言葉を使う。

 子どもを愛せない親は、その基本的信頼関係に問題があるとみる。その信頼関係がしっかり
していれば、仮に妊娠、出産に際して、大きなわだかまりがあっても、それを乗りこえることが
できる。そういう意味で、ここで、私は「しかし後者のケースも、つきつめれば、前者のケースに
集約される」と書いた。

 では、どうするか?

 子どもを愛せないなら、愛せないでよいと、居なおること。自分を責めてはいけない。ただ、一
度は、自分の生い立ちの状況を、冷静にみてみる必要はある。そういう状況がわかれば、あな
たは、あなた自身を許すことができるはず。

 問題は、そうした問題があることではなく、そうした問題があることに気づかないまま、その問
題に引き回されること。同じ失敗を繰りかえすこと。

 しかしあなた自身の過去に問題があることがわかれば、あなたは自分の心をコントロールす
ることができるようになる。そしてあとは、時間を待つ。

 この問題は、あとは時間が解決してくれる。5年とか、10年とか、そういう時間はかかるが、
必ず、解決してくれる。あせる必要はないし、あせってみたところで、どうにもならない。

【この時期の乳児への対処のし方】

 母子関係をしっかりしたものにするために、つぎのことに心がけたらよい。

(1)決して怒鳴ったり、暴力を振るったりしてはいけない。恐怖心や、畏怖心を子どもに与えて
はならない。
(2)つねに「ほどよい親」であることに、心がけること。やりすぎず、しかし子どもがそれを求め
てきたときには、ていねいに、かつこまめに応じてあげること。『求めてきたときが、与えどき』と
覚えておくとよい。
(3)いつも子どもの心を知るようにする。泣いたり、叫んだりするときも、その理由をさぐる。
『子どもの行動には、すべて理由がある』と心得ること。親の判断だけで、「わがまま」とか、決
めてかかってはいけない。叱ってはいけない。

 とくに生後直後から、「あと追い、人見知り」が起きるまでは、慎重に子育てをすること。この
時期の育て方に失敗すると、子どもの情緒は、きわめて不安定になる。そして一度、この時期
に不安定になると、その後遺症は、ほぼ、一生、残る。

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

最前線の子育て論byはやし浩司(100)

【近況・あれこれ】

●第100号

 1月21日に、「最前線の子育て論」の第1作を書き始めて、今日で、100作目。今日は、ちょ
うど2月最後の2月29日。1月21日から2月29日。約40日で、100作、原稿を書いたことに
なる。

 A4サイズの原稿用紙(40字x36行)で、約450枚の分量である。単行本にすれば、約3〜4
冊分ということになる。(ふつう、A4サイズで、120枚程度もあれば、1冊の本になる。)

 そのほとんどが、ダ作だが、中には、「もっと掘りさげて書いてみたい」と思う原稿もある。新し
い発見も、いくつか、した。しかし何よりもよかったのは、こうして毎日、原稿を書くことで、生活
に、メリハリができたこと。

 たいていは、朝早く起きて、原稿を書き始める。その時間が、3〜4時間。だいたいその間
に、15枚前後、書く。

 で、それがすむと、朝食。そして仮眠。たいていは1〜2時間で、また起きる。そのあと、マガ
ジンの編集をしたり、配信予約を入れたりする。これに毎日、1時間程度、かかる。

 中には、熱心に読んでくれる読者もいる。それはわかっている。が、しかし私は、もうアテにし
ていない(失礼!)。アテにすれば、自分が悲しくなる。私は、私のために書く。あと何年、こん
なことがつづけられるか、私にはわからない。しかしそれまで書く。

 悲しくなる……? そう、悲しくなる。だからといって、そういう読者の方を怒っているのではな
い。責めているのでもない。しかしこの一週間だけでも、こんなメールが届いた。

 「久しぶりに、マガジンを読んでみました」
 「今回は、じっくりと、最初から最後まで、マガジンに目を通してみました」
 「1か月もパソコンを開かないでいたら、先生のマガジンが、山のようになってしました」などな
ど。

 みなさん、私を励ますつもりで、そう書いてくださるのだろう。決して悪気があって、そう書いて
いるのではない。それは、わかる。しかし私は、そのつど、あの悲しさと戦わねばならない。

 だかもう、アテにしない。そう、心に決めた。読んでくれる人がいても、いなくても、私は書く。
私は、私のために書く。

 それはちょうど、ひとりでするジョギングのようなものかもしれない。私は、ただひたすら、前に
向って走る。ギャラリーがいても、いなくても、私には、関係ない。あとの判断は、あとの人に任
せればよい。それを読む人に任せればよい。

 私の目的は、成功することではない。失敗にめげず、前に進むことである。

 ……とつぶやきながら、自分をなぐさめる。(それとも、これは、私のグチか?)


●その人のパーソナリティ

 フロイトは、その人のパーソナリティを決める要素として、つぎの三つのものをあげた。

 (自我)、(超自我)、それに(エス)。

 わかりやすく言うと、(合理的パーソナリティ)、(道徳的パーソナリティ)、(破滅的パーソナリ
ティ)ということになる。

 その人のパーソナリティは、これら三つのうち、どれが強くて、どれが弱いかで決まる。またそ
のときどきに、どのように変化するかで決まる。(……と、フロイトは、言う。)

 たとえば(合理的パーソナリティ=自我)の強い人は、ものごとを、合理的に判断して、そのつ
ど状況に応じて、的確に行動する。

 (道徳的パーソナリティ=超自我)の強い人は、道徳的観念、倫理的抑制感が強く、いつもそ
の道徳や倫理にのっとった行動をする。

 (破滅的パーソナリティ=エス)の強い人は、わがままで、エゴイスト。ものの考え方が幼稚
で、退行的。約束や目標が守れない。

 たとえば車で走っていたとき、信号にさしかかったとする。そのとき、黄信号になったとする。
車が道路を渡るころには、信号が赤になるタイミングである。そういうとき……。

 (自我)の強い人は、まず、左右の道路を見る。そして車がいないことを確かめて、「赤になっ
てもだいじょうぶだ」と判断して、そのまま道路をわたる。

 (超自我)の強い人は、黄信号になったとき、ブレーキを踏む。「ルールは守るべき」と、無意
識のうちにも、判断するからである。

 (エス)の強い人は、左右を見て、そこに車がいないときは、赤信号でも、道路をわたろうとす
る。

 こうした三つのパーソナリティのうち、どの部分が、ほかの部分よりも優勢であるかによって、
その人のパーソナリティが決まるという。

 で、私のばあいは、もともと、フロイトがいう(エス)が強い人間ではないかと思う。しかしそうい
う私を、(自我)や、(超自我)が、コントロールしているといったふう。ときどき、無理をする。

 たとえば自転車に乗っていて、信号が、赤になりかけていたとする。そのとき、左右に車がな
いと、思わず、そのままわたってしまおうかという衝動にかられる。

 本当の私は、そのまま道路をわたりたいはずなのに、そこで無理をする。「それをしたら、私
は、おしまい」と。つまり歯止めがなくなる。一度、崩れると、どこまでも崩れていく。そんな感じ
がして、その場に止まる。

 だから私は見た目には、フロイトがいう、(超自我の強い人)ということになる。しかし、本当の
私は……。そういう問題もある。

 こうした性格分類は、いろいろな学者がしている。ほかによく知られているのは、オルポート
の人格特性論、ギルフォードの性格検査などがある。
(はやし浩司 自我 超自我 エス)


●ギルフォードの性格検査

 そのギルフォードの性格検査で思い出した。ギルフォードは、その人の性格を、抑うつ症、回
帰性傾向、劣等性、神経質など、13の項目に分類している。

 その中には、ほかに、客観性の欠如、協調性の欠如、思考的外向性などもある。これら三つ
は、とくに私にあてはまるものである。

 (客観性の欠如)というのは、わかりやすく言えば、自己中心的な考え方をし、自分の価値観
だけで、他人を判断することをいう。

 たとえばだれかが私に親切にしてくれたとする。そのとき、私はすなおにそれを喜ぶ前に、そ
の理由や意図を考えてしまう。そして自分がそうであるからという理由だけで、相手もそうであ
ると判断してしまう。

 (協調性の欠如)というのは、要するに、他人を信じないことをいう。友人や、配偶者、さらに
は自分の子どもまでも信じない。

 これは深刻な問題である。やがてすぐ私も老人になり、介護が必要な人間になる。そうなった
とき、他人を信じられないというのは、致命的な欠陥になる可能性がある。私は、そういう老人
を、何人か知っている。「私はそうなりたくない」「ああは、ならない」と思っても、性格(パーソナ
リティ)というのは、そうは簡単には、変えられない。

 (思考的外向性)というのは、いつも何かのことで、外に向って考えていることをいう。

 私は、いつも何かを考えていないと落ちつかない。……というより、いつも何かを考えている。
それはそれでよいのだが、そのうち、頭が、パンパンにつまってくる。たとえて言うなら、頭の中
にゴミがたまるようなもの。それを吐きださないと、苦しくさえなる。

 そこでそれをこうして文章などにして、吐きだす。

 こういう性格に反対あるのが、(のんきさ)ということになる。この(のんきさ)も、ギルフォード
は、性格特性の一つにあげている。

 (のんきさ)の強い人は、あまり考えない。深く考えない。私に欠けるのは、この(のんきさ)か
もしれない。

 このギルフォードの性格検査法を、日本式に改良したのが、谷田部ギヅフォード人格検査法
である。

 参考までに、インターネットで、情報を検索してみた。
(はやし浩司 ギルフォード 性格検査 人格検査)

+++++++++++++++

YーG性格検査(矢田部・ギルフォード性格検査)

D(抑うつ性)
C(回帰性傾向)
I(劣等感)
N(神経質)
O(客観性欠如)、
CO(協調性欠如)
AG(愛想が悪い)
G(一般的活動性)
R(のんきさ)
T(思考的外交)
A(支配性)
S(社会的外交)

これら以上の12の尺度ごとに10の質問がされ、「はい」「わからない」「いいえ」の三者択一で
答える。結果として(1)平均型、(2)不安定積極型、(3)安定消極型、(4)安定積極型、(5)不
安定消極型の5つの性格類型を導きだす。(堀尾英範「私の保健学」より)

+++++++++++++++++

●パソコンが2台もふえた!

 三男が、Y大学を中退して、今度、オーストラリアへ行くことになった。(一応、休学届けを出し
たので、休学ということにはなっているが……。)そのため、その荷物を、横浜から、もって帰っ
てきた。

 その中には、シャープ社製のパソコンと、DEL社製のパソコン、2台が含まれていた。入学当
時、シャープのパソコンを買ってやったのだが、やがてすぐ、「使いものにならない」と言いだし
た。それでしかたないので、昨年の春、DEL社製の、巨大な(私には巨大に見える)パソコンを
買ってやった。

 しかし二つとも、オーストラリアへもって行くことはできない。

 DEL社製のパソコンは、たしかに、すごい。まだ性能を調べていないので、よくわからない
が、ハードディスクだけでも、120Gはある。もちろん高性能なグラフィックボードも、搭載ずみ。
今までできなかった、フライトシミュレーターのゲームも、バンバンできそう。

 喜んでいいのやら、悲しんでいいのやら。これで我が家のパソコンは、自宅だけでも、6台に
なってしまった。教室と事務所に置いてあるのを入れると、9台。さらに山荘にも1台あるので、
ナ、何と、10台!

 いくらなんでも、これではパソコンだらけ。体は一つしかないというのに! いや、たくさんある
ということが、悪いというのではない。こんなにたくさんあると、新しいパソコンが買えなくなる。
ワイフが、お金を出してくれない。「また、買うのオ〜」と。

 春休みになったら、どう使うか、また考えよう。


●「育児書なんて、いらない」(ギョッ!)

よほど、ひねくれているのか、不勉強な人なのかは、知らない。しかしあちこちの電子マガジン
を調べていると、この種のタイトルのマガジンに、よく出会う。

 「育児書なんて、いらない」「育児論は、役にたたない」と。中には「育児論には、だまされない
ぞ」(M社・仮題)というタイトルのマガジンもあった。(ゾーッ!)

つまり私のような育児アドバイザーの意見など、価値がない、と。

 若者の中には、おとなの意見に、アレルギー(拒否)反応を示す人がいる。まったく耳を傾け
ようとしないばかりか、何かを言っても、それを即座に否定してしまう。こういうのを拒否的態度
という。脳の機能の変調説が、有力である。心の抑圧状態が長くつづくと、そういう反応を示す
ようになる。

かわいそうな若者たちだ。どこか心がひねくれている。そういうマガジンを出している人は、そう
いう若者と、同じ? あるいは、ちがわない?

 このことは、反対の立場で考えてみるとわかる。

 そういったマガジンを書く人は、いったい、何人の子どもを見てきたというのだろうか。一人
か、二人。多くても、三人? そういう人にかぎって、「子育てをしたのは、自分の子どもだけ」と
いう人が多い。つまり「自分の子どもに合わなかったから、育児家の書いた、育児書は役にた
たない」と。

 たしかに私たちの書く育児論には、限界がある。はっきり言えば、子どもの数だけ、育児論
がある。

 しかしそういう育児論を、集約し、一つの「論」として、まとめあげていく。それが、私たちの仕
事である。「不完全であるから、ダメだ」というのは、あまりにも短絡的な意見でしかない。

 それとも、あなたは、たった一人の子ども(あるいは多くて、数人)しか、子どもを育てたことが
のない人の育児論に、耳を傾けるだろうか。参考にはなるが、それを「すべて」と思うのは、あ
まりにも危険である。

 あまりにも自己中心的。被害妄想的。私は、そう感じた。

 あとは、みなさんの判断ということになる。私は、そういう人たちものみこんで、前に進むしか
ない。がんばろう。がんばります!

【注】
だからといって、そういう人の書いた育児論が、まちがっているというのではない。ただものごと
には、もう少し謙虚であってほしい。

 もちろん育児家の中には、(私も含めて?)、とんでもないことを言ったり、したりする人がい
る。それは事実。

数年前のことだが、不登校の子どもや、その親に向かって、怒鳴り散らして、「なおす」という、
どこか(?)な女性がいた。もう10年以上になるが、心の病んだ子どもを、ヨットから突き落とし
て、それを「なおす」という、どこか(?)な男性もいた。

 だから反省すべきところは反省しなければならない。が、これだけはわかってほしい。

 こうしたどこか(?)な育児論を展開する人ほど、マスコミ受けがよいということ。怒鳴って不登
校をなおすという女性も、ヨットから突き落としてなおすという男性も、当初、テレビ番組などで、
派手に紹介されていた。

反対に、まともであればあるほど、マスコミの関心をひくことは少ない。子育てというのはそうい
うもの。教育論というのは、そういうもの。もともと地味な世界である。

 私としては、それがわかってもらえなくて、歯がゆくてしかたないのだが……。

(この原稿は、ボツにしようかと、最後まで、迷いましたが、マガジンに掲載することにしました。
かなりきわどい内容の原稿であることには、ちがいないようです。)


●今週のBW教室

 今週は、いろいろなゲームを用意した。先週は、粘土遊びを用意したが、これは失敗だっ
た。

 粘土は、こまかい粒となって、床に散る。床には、ジュータンが敷いてある。すぐ掃除をすれ
ばよいが、その粘土を、子どもたちがスリッパで、踏みつける。

 あとの掃除がたいへんだった。幸いにも、もともと小麦粉でできた粘土だったから、よかっ
た。油性の粘土だったら、そうはいかない。毎日、洗剤をつけたスポンジで、床を洗った。

 子どもにしても、しばらく遊んでいると、手がベタベタになる。だからレッスンの前に、濡れたタ
オルで手をふいてあげたり、あるいは手を洗ってあげたり……。ドタバタしている間に、時間だ
けが過ぎていった。

 だから今週は、ゲームにした。

 プラスチックのグラスを、積み重ねていくというゲームなど。「こんなもので、子どもは遊ぶの
かな?」と思っていたが、結構、子どもたちは、楽しそうだった。

 要するに、「私」の好みだけで、子どもの心を判断してはいけないということ。私は男だし、そ
れにおとなだ。だから子どものことは、子どもに聞く。それが一番。

 しかし子どもは何も言わない。そこであれこれ「環境」をつくってあげて、その反応をみるしか
ない。

 で、一人、Kさんという小学二年生の女の子が、実にきれいにグラスを積みあげた。色の配
色も考えていた。一段ごとに、色をかえ、さらにそれに模様を入れた。これも一つの才能であ
る。

 「あなたはデザイナーだね」と声をかけると、Kさんは、うれしそうに笑った。

 ……といっても、つまり私は男だが、子どものころは、女の子の遊びも、こっそりと隠れてし
た。リリアンという、編んでヒモをつくる遊びがあった。結構、得意だった。ほかに人形遊びもし
た。ままごとも、嫌いではなかった。

 ただ当時は、女の子の遊びをすると、みなに、「女たらし」と、バカにされた。(私も、バカにし
たが……。)しかし「女たらし」と呼ばれることぐらい、不名誉なことはなかった。だからあくまで
も、「隠れて」だ。

 そういう意味で、「男の子遊び」「女の子の遊び」と、分けて考えるのは、正しくない。男の子で
も、女の子の遊びをすればよいし、その反対でも、かまわない。

 ただし一言。「遊び」にも、男女差があるという説がある。たとえばアンドロゲンという副腎皮
質ホルモンがある。このホルモンが多く分泌されると、女の子でも、おてんばになることが知ら
れている。

たとえば出生前に、母親の胎内で、先天性副腎過形成になると、アンドロゲンが、多量に分泌
されるようになる。すると女の子でも、男の子が好んで遊ぶような、自動車とか、飛行機などの
おもちゃで遊ぶようになるという(新井康允氏)。

 そういうことはあるが、しかしやはり、男も、女も関係ない……というのが、私の考えである。
子育ては、あくまでも自然体で。「男だから……」「女だから……」と、『ダカラ論』で、子どもをし
ばるのは、最小限にしたい。
(はやし浩司 おてんば アンドロゲン 副腎皮質ホルモン 遊びの男女差)


●情報を買う

 オーストラリアの友人が、こんな話をしてくれた。

 「インターネットで、ほしい情報を買っている」と。

 「買う」というのは、画面上で、ほしい情報をクリックすると、その情報を、相手が届けてくれる
ことをいう。たとえばニュースの一覧表の中から、読みたい記事をクリックする。すると、その情
報だけが、新聞のようにモニターに表示されるという。

 「一つ、5セントだよ」と笑っていた。日本円になおすと、4円くらい。だから毎日、10個くらい
ニュースを読んで、40円ということになる。

 「日本人は、情報は買わないよ。モノは買うけどね」と私。

 そう、昔から、日本人の情報に対する感覚は、欧米人とちがう。日本人にとって、情報、つま
りソフトウエアは、買うものではなく、ただで奪うもの。ただであげたり、もらったりするもの。私
が若いころでさえ、そうだった。

 へたに、「知りたければ、お金を出しな」などと言おうものなら、それだけで軽蔑された。今で
も、こうした傾向は強く残っている。

 正直に言うと、この傾向は、女性ほど、強い。モノには、惜しみなくお金を使う女性でも、情報
には、お金を払わない。感覚の構造が、男性とはちがうようだ。欧米人とは、さらに、ちがうよう
だ。

 ある新聞社の文化センターで、子育てのカウンセリングをしている男性(40歳)が、こう言っ
た。

 「一応、一回のカウンセリングは、30分以内でと、お願いしているのですが、その30分では
すみません。中には、2時間とか3時間とか、ねばる人がいます。しかしそういう人でも、帰ると
きは、『はい、さようなら』です」と。

 小児科医院の医師も、同じようなことを言っていた。「カウンセリングまでしていたら、お金に
なりません」と。そこでその小児科医院では、心理療法士をおいて、その仕事をさせているとい
う。30分の相談で、5000〜8000円が、相場だという。

私「日本でも、そういうサービスを始めたところがある」
オ「オーストラリアでは、それがふつうだよ」
私「日本ではね、本屋でも、立ち読みをして情報を得るというのが、ふつうになっている」
オ「オーストラリアでも、立ち読みをしている人はいる。でも、雑誌(マガジン)だけだよ。本は、
読めないようにカバーがしてある」と。

 日本では、本は、特殊なルートで、特殊な方法で販売されている。「返本制度」(売れない本
は、返本する)というのもそうだし、「再販禁止制度」(中古の本を安く売るのは禁止)というのも
そうだ。だから日本では、立ち読みが自由に(?)できる。

 だからこうした傾向が、結局は、日本人全体の文化のレベルを、さげることになる。お金を払
わないから、情報の価値が、あがらない。質も、あがらない。

 しかしそのうち、日本も、オーストラリアのようになるだろう。読みたい情報だけをクリックし
て、お金を払う……。今は、その黎明(れいめい)期ということになる。
(040301)

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司


最前線の子育て論byはやし浩司(101)

【近況・あれこれ】

●子どもを笑わせる

 昨日は、どのクラスも、子どもたちを笑わせるだけ、笑わせてやった。おもしろかった。子ども
というのは、そういうもの。一度、笑いグセがつくと、私が咳をしただけでも、ゲラゲラ笑う。

 この「笑う」という行為には、不思議な力がある。未知の力といってもよい。私は、この30年
以上の幼児教育の中で、それを繰りかえし、繰りかえし、実感している。

 「なおす」という言葉は使えないが、ゲラゲラと、腹をかかえて笑わせるだけでも、たいていの
情緒障害はなおってしまう。子どもたちも笑うことにより、心を開くから、それだけ学習効果も、
高い。が、それだけではない。

 笑うことにより、前向きな姿勢が生まれてくる。私はこの方法で、子どもを勉強好きにし、また
勉強嫌いの子どもを、なおしている。

 (「なおす」という言葉を、私は、親の前では使ったことがない。「直す」「治す」の二つの意味
がある。念のため!)

 昨日も、D君という、勉強が苦手な子ども(小1男児)がいた。数か月前に、BW教室(私の教
室)にやってきたが、とくに引き算が、苦手だった。引き算というだけで、拒否反応を示してい
た。

 で、子どもというのは、一度、そうなると、その心を溶かすのは、容易ではない。が、昨日は、
本当に笑わせた。参観にきていた母親ですら、ゲラゲラと笑い、居場所がなくなって、外へ出て
行ったほどである。

 そのあとのことである。私がサラリと、引き算の問題を出すと、そのD君が、それを喜んでして
いるではないか!

 私は、これには驚いた。つまり「笑う」という行為には、そういう効果もある。つまりかたまった
心を溶かす。

 『笑えば、伸びる』……それが、私の教育の「柱」になっている。しかしそれができるのも、私と
親たちの間に、太いパイプができているからに、ほかならない。つまり信頼関係がある。(ふつ
うの学校だったら、それだけでクビが飛ぶようなジョークを言いあっているぞ!)

 私は、過去30年以上、教室を公開している。いつも、親たちに見てもらっている。そういう前
提があるから、こうした笑いが許される。

 子どもというのは、引っ張っては、ダメ。押しても、ダメ。子ども自身がもつ力を、子ども自身
が前向きに伸ばすように、指導する。すべては、そこから始まり、そこで終わる。


●これも時代?

 息子たちの学生生活は、私たちの学生生活と、質的に、大きくちがう。時代が変ったのだか
ら、それは当然。それはわかる。しかしそういう息子たちの学生生活をみていると、「では、わ
たしの学生生活は何だったのか?」と、そこまで考えさせられる。

 たとえば今、三男が、たまたま家に帰ってきている。しかし一日中、のんびりとしていること
は、めったにない。つぎからつぎへと、友だちに会いにいく。そしてたいていそのまま、一、二
日、帰ってこない。

 そして昨日は、関西方面へ行くと言い残して、旅行に行ってしまった。私の家まで、彼の友人
が、迎えにきてくれた。

 行動力と行動半径、そのものが、ちがう。それに豊かになった。私が学生だったころには、金
沢から新潟まで遊びにいくだけでも、たいへんだった。とくに私は毎月、下宿代しか送ってもら
えなかった。生活費や、遊興費は、自分で稼がねばならなかった。だから旅行など、めったに
したことがなかった。

 貧弱と言えば、貧弱だが、しかし、時代が変っただけで、こうまで質的に、学生生活までも
が、変るものなのか。三男の交遊関係をみていると、私のそれよりも、10倍、あるいは、それ
以上に広い。

 私がワイフに、「あいつは、少しは、親の苦労がわかっているのかね?」と聞くと、「わかって
いるわよ」とは、言う。しかし本当のところは、どうか?

 私などは、毎月の下宿代を送ってもらうだけで、母に、ああでもない、こうでもないと、恩着せ
がましいことを言われた。うるさいほど、言われた。最後には、「大学を出してやった」「お前に
は、ずいぶんと金を使った」と、言われた。だから私は、息子たちには、そういうことを言ったこ
とがない。

 そう、親にも二種類ある。

 自分がいやな思いをしたから、子どもたちには、同じ思いをさせたくないと考える親。もうひと
つは、自分がいやな思いをした分だけ、それを今度は、自分の子どもに求める親。

 私は前者のタイプの親だと思う。しかし今になってみると、ふと、心のどこかで、「それでよか
ったのか?」と思うことがある。いつか恩師のT教授は、こう言った。「林君の考え方は、現実的
ではない」と。自分の老後のことを考えると、そういう迷いが、起きないわけではない。

 しかし私は、自分の息子たちが、幸福そうなら、それでよい。私は、息子たちに、不要な心配
はかけたくない。めんどうは、さらに、かけたくない。子どもたちは子どもたちで、自分の人生
を、まっとうすればよい。私は私で、自分の老後は、自分で考える。すでに老人ホームへ入るこ
とも、具体的に考え始めている。


●日本、大ピンチ!

 ブッシュ大統領の旗色が、ぐんと悪くなってきた。それにかわって、今度の中間選挙では、民
主党のケリー上院議員が、大統領になりそうな気配になってきた。そのケリー氏だが、この前
(2月末)、対立候補のエドワーズ氏との討論会の席で、こう答えている。

「そのときの国際情勢を総合的に考えて判断する」と。

「日本が、危険な状態になったら(=K国に攻撃されたら)、どうするか?」という質問に対して、
である。

 ブッシュ大統領は大統領になったとき、こう答えていた。「日本などの同盟国が攻撃された
ら、ただちにアメリカは、報復攻撃をする」と。

 このブッシュ大統領の言葉と比較してみるとわかるが、ケリー氏は、「日本など、アメリカ人の
血を流してまで、守らない」と言っているに等しい。ケリー氏は、「アメリカ軍の配置も考える(=
日本からアメリカ軍の撤退も考える)」とも、言っている。アメリカとしては、当然の意見である。

 たとえば今の今、ハイチで政変が起きている(3月2日)。アメリカは、アメリカ軍を派遣した
が、日本は、何もしない。何もしようとしない。そういう日本を、どうしてアメリカが守らなければ
ならないのか。

 一方、日本と韓国の間には、大きなすきま風が吹き始めている。もともと反米親北をかかげ
て大統領の座についたノ政権だから、当然といえば、当然。ノ大統領は、将来的には、K国と、
共和制国家の樹立をもくろんでいるとさえ言われている。

 そうなれば、アメリカ軍は、韓国から撤退する。同時に、韓国は、中国の経済圏に編入され
る。もともと朝鮮族と呼ばれる民族は、中国とのかかわりが、きわめて深い。

 そうなったとき、では、この日本は、どうしたらよいのか。どうなるのか。

 日本のすぐ横に、強大な軍事国家ができることになる。しかも日本に対する敵意は、ふつうで
はない。K国は、かねてより、「日本という国は、この世に存在してはいけない国だ」などと、繰
りかえし、主張している。何かの、ちょっとしたきっかけで、大戦争になる可能性は、きわめて
高い。

 そうなったとき、日本は、日本人は、「私たちは平和を守ります」などと、のんきなことを言って
おれるだろうか。

 国際政治は、どこまでも現実的でなければならない。どこまでも、どこまでも、現実的でなけ
ればならない。観念論や理想論では、子どもたちの未来は、守れないということ。それだけは、
はっきりと肝に銘じて、今の国際情勢を考えなければならない。

 では、どうするか?

 日本が今、第一に考えなければならないのは、韓国や中国との、関係修復である。そのため
にも、K首相のY神社参詣はもちろんのこと、軍国主義を容認するような発言は、極力、ひかえ
てほしい。日本人は、「そんなことをするのは、日本人の勝手」と、思うかもしれないが、韓国や
中国の人にとっては、そうではない。そうでないということを、日本人は、しっかりと認識しなけ
ればならない。

 つぎにアメリカとの同盟関係である。

 今の日本には、友と呼べるのは、アメリカだけ。そればかりか、K国の核開発を、止められる
のは、アメリカしかいない。中国やロシアではない。アメリカである。K国の高官は、アメリカの
高官に対して、「核兵器開発は、日本に対してのもの。(アメリカではない)」と、はっきりと明言
している。

 日本人は、こうした現実を、はたして本当に認識しているのだろうか。

 ただ幸いなことに、今のK国は、満足に戦争もできないほどまでに、疲弊しきっている。食糧
もなければ、エネルギーもない。今年に入ってから、K国北部では、20日間も、停電したままだ
ったという(朝鮮日報)。

 おまけに、経済は破綻状態。当然、人心も乱れ、世相も混乱している。日本としては、そうい
う形で、K国を、自然死させるのが、一番望ましい。それもできるだけ早く。それもできるだけ短
期間に。長引けば長引くほど、K国の国民そのものが、苦しむ。

 韓国は、K国の暴発を極度に心配しているようだが、もうそろそろ、K国は、その暴発する力
さえ、なくす。私たち日本人は、それをじっと、待つしかない。苦しい戦いだが、すでに戦争は、
始まっている。

【追記】
 
 平和主義には、二種類ある。「いざとなったら戦争も辞さない」という平和主義。もう一つは、
「殺されても、文句は言いません」という平和主義。ただ戦争するのがいやだからと言って、逃
げてまわるのは、平和主義でも何でもない。そういうのは、ただの卑怯(ひきょう)という。


●正直

 京都府にある、A農産F農場(養鶏場)で、鳥インフルエンザが発生した。同時に、大量のニ
ワトリが、死んだ。

 その農場では、そのときすでに数千羽のニワトリが、不審な死に方をしていたにもかかわら
ず、それをあえて無視して、ニワトリを出荷しつづけたという※。そのため、その二週間後に
は、鳥インフルエンザウィルスは、ほぼ西日本全域に広がってしまった(3月2日朝刊※)。

 当の責任者は、「まさか鳥インフルエンザだとは思わなかった」「静かに眠るように死んでいっ
たので、おかしいなとは思っていたが……」などと、テレビの報道記者に答えている。

 しかし同じころ、つまりその養鶏場で、ニワトリが不審な死に方をしていたころ、私の地元の
小学校でも、鳥インフルエンザの話は、子どもたちでさえ知っていた。学校で飼っていたニワト
リが死んだだけで、学校は、そのニワトリを、保険所へ届けていた。いわんや、養鶏場のプロ
が、そんなことを知らぬはずはない。「おかしいな?」ではすまされない話なのである。

 ……という話を、書くのがここでの目的ではない。

 人間の正直さは、どこまで期待できるかという問題である。朝食をとりながら、ワイフと、それ
について話しあった。

私「もしぼくだったら、正直に届け出ただろうか?」
ワ「いつ?」
私「最初にニワトリが死に始め、鳥インフルエンザにかかっているかもしれないと思ったときだ」
ワ「むずかしいところね」と。

 新聞の報道によれば、「通報の遅れが、被害を拡大させた」(Y新聞)ということらしい。そして
農水省の次官も、「(通報が遅れたのが)残念でならない」とコメントを出している。さらに京都
府の知事は、「被害について、県のほうで補償することになっているが、しかし(補償するのは)
考えざるをえない」と述べている。

 「不正直もはなはだしい」ということになるが、本当に、そうか?

 はっきり言えば、日本人は、子どものころから、そういう訓練を受けていない。アメリカの親な
どは、子どもに、「正直でありなさい(Be honest.)」と、日常的によく言う。しかしこの日本で
は、そうでない。むしろ「ずるいことをしてでも、うまく、すり抜けたほうが勝ち」というような教え
方をする。そのさえたるものが、受験競争である。

 それはさておき、今でも『正直者は、バカをみる』という格言が、この日本では、堂々とまかり
とおっている。『ウソも方便』という言葉さえある。「人を法に導くためには、ウソも許される」と。
どこかの宗教団体の長ですらも、「ウソも100ぺんつけば、本当になる」などと言っている。

 これらのことからもわかるように、世界的にみても、日本人ほど、不誠実な民族は、そうはい
ない。ほかにも、たとえば、日本人独特の、「本音(ほんね)と建て前論」がある。

 つまり口で言っていること(=建て前)と、腹の中(=本音)は、ちがう。またそういう本音と建
て前を、日本人は、うまく使い分ける。だから反対に、アメリカ人やオーストラリア人と接したり
すると、「どうしてこの人たちは、こうまで、ものごとにストレートなのだろう」と思う。

 つまりそう「思う」部分だけ、日本人は、正直でないということになる。

 誤解がないように言っておくが、「建て前」とういうのは、「ウソ」ということ。とくに政治の世界
には、この種のウソが多い。

 本音は「銀行救済」なのだが、建て前は、「預金者保護」。本音は「官僚政治の是正」なのだ
が、建て前は、「構造改革」などなど。言葉のマジックをうまく使いながら、たくみに国民をだま
す。

 が、その原因を掘りさげていくと、戦後の日本の金権体質がある。もともと金儲けの原点は、
「だましあい」である。とくに商人の世界では、そうである。そういう「だましあい」が、集合して、
金権体質になった。(……というのは、少し乱暴な意見に聞こえるかもしれないが、大きくみれ
ば、そういうことになる。)

 というのも、この話になると、私より古い世代の人は、みなこう言う。「戦前の日本人のほう
が、まだ正直でしたよ」と。「正直というより、「純朴」だった? どちらにせよ、まだ温もりを感じ
た。

 私が子どものころは、相手をだますにしても、どこかで手加減をした。が、今は、それがな
い。だますときは、徹底的に、相手をだます。それこそ、相手を、丸裸にするまでだます。

 つまり「マネー」万能主義の中で、日本人は、その「心」を見失ったというのだ。

 いろいろ意見はあるだろが、もしあなたなら、どうしただろうか。飼育していたニワトリが何千
羽も死んだ。行政側に報告すれば、処分される。鳥インフルエンザではないかという疑いはあ
る。しかしはっきりしているわけではない。今なら、売り逃げられる。うまく売り逃げれば、損失
をかなりカバーできる。そんなとき、あなたなら、どうしただろうか。

 正直に、行政側に報告しただろうか。それとも、だまってごまかしただろうか。

 こうした一連の心理状態は、交差点で赤信号になったときに似ている。左右の車はまだ動き
出していない。しかし今なら、走りぬけることができる、と。それともあなたは、交差点で、信号
を、しっかりと守っているというのだろうか。

 もしそうなら、あなたは多分、F農場のような立場におかれても、行政側に報告したかもしれ
ない。報告するとはかぎらないが、報告する可能性は高い。

しかし赤信号でも、「走れるうちは走れ」と、その信号を無視するようなら、あなたは100%、行
政側に報告などしないだろう。あなたは、もともとそういう人だ。

つまりこれが、私が前から言っている、『一事が万事論』である。

 日々の行いが月となり、月々の行いが年となる。そしてその年が重なって、その人の人格と
なる。そしてそれが集合されて、民族性になり、さらに人間性になる。

 その日々の行いは、「今」というこの瞬間の過ごし方で決まる。

私「ぼくなら、F農場の責任者のように、だまっていたかもしれない。もともと、そんな正直な人
間ではない」
ワ「でも、やはり正直に報告すべきよ」
私「わかっている。だからぼくは、できるだけ、そういう状況に、自分を追いこまないようにして
いる」と。

 おかしな話だが、私は、道路を自転車で走っているときも、サイフらしきもの(あくまでも、…
…らしきもの)が落ちていても、拾わないで、そのまま走り去ることにしている。拾うことにより、
そのあと迷う自分がこわいからだ。正直に交番へ届ければ、それですむことかもしれない。
が、それもめんどうなことだ。

 だからそのまま見て見ぬフリをして、走り去る。「あれは、ただのゴミだった」と。

 だから私は、F農場の責任者を、それほど責める気にはなれない。責める側に立って、さも
善人ぶるのは簡単なことだが、私には、それができない。「とんだ災難だったなあ」「かわいそう
に……」と、同情するのが、精一杯。

それが私の本音ということになる。
(040302)(はやし浩司 正直)

※……「同農場は2月20日から鶏の大量死が始まっていたのに、府に届けず、25、26日に
は生きた鶏計約1万5000羽を兵庫県の食肉加工会社処理場に出荷、感染の拡大につなが
り、強い批判を浴びていた」(中日新聞)

「当初、行政側が把握していた情報は、結果的にどれも誤りでした。実際にはA農産の養鶏場
から大量死が発覚した後の、先月25日と26日に、あわせておよそ1万羽の生きたニワトリが
兵庫県八千代町の鳥肉加工業者「AB」に出荷されていました。
 
 「AB」で加工された1万羽は、京都、兵庫、島根など14の業者に出荷され、ほとんどは返品
されたり、業者が廃棄しましたが、少なくとも150キロの肉がスーパーや飲食店などに、卸され
ていました」(TBS inews)と。

●『金によってもたらされた忠実さは、金によって裏切られる』(セネカ「アガメムノン」)

【追記】

 正直に対する、国民の意識は、国によって、かなりちがう。オーストラリアでは、親は、いつも
子どもに向かって、「正直でいなさい」と言っている。うるさいほど、それを言っている。

 しかしこの日本で、私は、親が子どもにそう言っているのを、聞いたことがない。「あと片づけ
しなさい」とか、「静かにしなさい」というのは、よく聞くが……。

 これは「誠実さ」に対する感覚が、国によってちがうためと考えてよい。

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

最前線の子育て論byはやし浩司(102)

子どもの希望

 98年から99年にかけて、日本青年研究所が、興味ある調査をしている。「将来、就(つ)き
たい職業」についてだが、国によって、かなり、ちがうようだ。

★日本の中学生
    公務員
    アルバイト(フリーター)
    スポーツ選手
    芸能人(タレント)

★日本の高校生
    公務員
    専門技術者  
    (以前は人気のあった、医師、弁護士、教授などは、1割以下)

★アメリカの中高校生
    スポーツ選手
    医師
    商店などの経営者 
    会社の管理者
    芸術家
    弁護士などの法律家

★中国の中学生
    弁護士や裁判官
    マスコミ人
    先端的技術者
    医師
    学者

★中国の高校生
    会社経営者
    会社管理者
    弁護士

★韓国の中学生
    教師
    芸能人
    芸術家

★韓国の高校生
    先端的技術者
    教師
    マスコミ 

 調査をした、日本青少年研究所は、「全般的に見ると、日本は、人並みの平凡な仕事を選び
たい傾向が強く、中国は経営者、管理者、専門技術者になりたいという、ホワイトカラー志向が
強い。韓国は特技系の仕事に関心がある。米国では特技や専門技術系の職業に人気があ
り、普通のサラリーマンになる願望が最も弱い」と、コメントをつけている。

この不況もあって、この日本では、公務員志望の若者がふえている。しかも今、どんな公務員
試験でも、競争率が、10倍とか、20倍とかいうのは、ザラ。さらに公務員試験を受けるための
予備校まである。そういう予備校へ、現役の大学生や、卒業生が通っている。

 今では、地方の公務員ですら、民間の大企業の社員並みの給料を手にしている。もちろん退
職金も、年金も、満額支給される。さらに退職後の天下り先も、ほぼ100%、確保されている。

 知人の一人は満55歳で、自衛隊を退職したあと、民間の警備会社に天下り。そこに5年間
勤めたあと、さらにその下請け会社の保安管理会社に天下りをしている。ごくふつうの自衛官
ですら、今、日本の社会の中では、そこまで保護されている。(だからといって、その人個人を
責めているのではない。誤解のないように!)
 
もちろん、仕事は楽。H市の市役所で働いている友人(○○課課長)は、こう言った。「市役所
の職員など、今の半分でもいいよ。三分の一でも、いいかなあ」と。

 これが今の公務員たちの、偽らざる実感ではないのか。

 こういう現実を見せつけられると、つい私も、自分の息子たちに言いたくなる。「お前も、公務
員の道をめざせ」と。

 本来なら、公務員の数を減らして、身軽な行政をめざさねばならない。しかしこの日本では、
今の今ですら、公務員、準公務員の数は、ふえつづけている。数がふえるだけならまだしも、
公務員の数がふえるということは、それだけ日本人が、公務員たちによって管理されることを
意味する。自由が奪われることを意味する。

 恐らく、国民が、公務員たちによって、ここまで管理されている国は、この日本をおいて、ほ
かにないだろう。ほとんどの日本人は、日本は民主主義国家だと思っている。しかし本当に、
そうか。あるいは、今のままで、本当によいのか。日本は、だいじょうぶなのか。

あなたが公務員であっても、あるいは公務員でなくても、そういうことには関係なく、今一度、
「本当に、これでいいのか」と、改めて考えなおしてみてほしい。
(040302)(はやし浩司 将来の職業 職業意識 アメリカの高校生 公務員志望)

【付記】
ついでに同じく、その調査結果によれば、「アメリカと中国の、中高校生の、ほぼ全員の子ども
が、将来の目標を『すでにはっきり決めている』、あるいは『考えたことがある』と答えた。日本
と韓国では2割が『考えたことがない』と答えている」という。

 アメリカや中国の子どもは、目的をもって勉強している。しかし日本や韓国の子どもには、そ
れがないということ。

 日本では、大半の子どもたちは今、大学へ進学するについても、「入れる大学の、入れる学
部」という視点で、大学を選択している。いくら親や教師が、「目標をもて」と、ハッパをかけて
も、子どもたちは、こう言う。「どうせ、なれないから……」と。

 学校以外に道はなく、学校を離れて道はない……という現状のほうが、おかしいのである。

 人生には、無数の道がある。幸福になるにも、無数の道がある。子どもの世界も、同じ。そう
いう道を用意するのも、私たち、おとなの役目ではないだろうか。

 現在の日本の学校教育制度は、子どもを管理し、単一化した子どもを育てるには、たいへん
便利で、能率よくできている。しかし今、それはあちこちで、金属疲労を起こし始めている。現
状にそぐわなくなってきている。明治や大正時代、さらには軍国主義時代なら、いざ知らず、今
は、もうそういう時代ではない。

 それにもう一つ重要なことは、何も、勉強というテーマは、子ども時代だけのものではないと
いうこと。仮に学生時代、勉強しなくても、おとなになってから、あるいは晩年になってから勉強
するということも、重要なことである。

 私たちはともすれば、「子どもは勉強」、あるいは「勉強するのは子ども」と片づけることによっ
て、心のどこかで「おとなは、しなくてもいい」と思ってしまう。

 たとえば子どもに向かって、「勉強しなさい!」と怒鳴る親は多いが、自分に向って、「勉強し
なさい!」と怒鳴る親は少ない。こうした身勝手さが生まれるのも、日本の教育制度の欠陥で
ある。

 つまりこの日本では、もともと、「学歴」が、それまでの身分制度の代用品として使われるよう
になった。「勉強して知性」をみがくという、本来の目的が、「勉強して、いい身分を手に入れる」
という目的にすりかわってしまった。

 だから親たちは、こう言う。「私は、もう終わりましたから」と。私が、「お母さん、あなたたちも
勉強しないといけませんよ」と言ったときのことである。

 さあ、あなたも、勉強しよう。

 勉強するのは、私たちの特権なのだ。新しい世界を知ることは、私たちの特権なのだ。なの
に、どうして今、あなたは、それをためらっているのか?

【付記2】

 江戸時代から明治時代にかわった。そのとき、時の為政者たちは、「維新」という言葉を使っ
た。「革命」という意味だが、しかし実際には、「頭」のすげかえにすぎなかった。

 幕府から朝廷(天皇)への、「頭」のすげかえである。

 こうして日本に、再び、奈良時代からつづいた官僚政治が、復活した。

 で、最大の問題は、江戸時代の身分制度を、どうやって、合法的かつ合理的に、明治時代に
温存するかであった。ときの明治政府としては、こうした構造的混乱は、極力避けたかったに
ちがいない。

 そこで「学歴によって、差別する」という方式をもちだした。

 当時の大卒者は、「学校出」と呼ばれ、特別扱いされた。しかし一般庶民にとっては、教科書
や本すら、満足に購入することができなかった。だから結局、大学まで出られるのは、士族や
華族、一部の豪族にかぎられた。明治時代の終わりでさえ、東京帝国大学の学生のうち、約7
5〜80%が、士族、華族の師弟であったという記録が残っている。

 で、こうした「学校出」が、たとえば自治省へ入省し、やがて、全国の知事となって、派遣され
ていった。選挙らしいものはあったが、それは飾りにすぎなかった。

 今の今でも、こうした「流れ」は、何も変わっていない。変っていないことは、実は、あなた自身
が、一番、よく知っている。たとえばこの静岡県では、知事も、副知事も、浜松市の市長も、そ
して国会議員の大半も、みな、元中央官僚である。(だから、それがまちがっていると言ってい
るのではない。誤解のないように!)

 ただ、日本が本当に民主主義国家かというと、そうではないということ。あるいは大半の日本
人は、民主主義というものが、本当のところ、どういうものかさえ知らないのではないかと思う。

 つまり「意識」が、そこまで高まっていない? 私もこの国に住んで、56年になるが、つくづく
と、そう思う。

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つぎの原稿は、1997年に、私が中日新聞に
発表した原稿です。
大きな反響を呼んだ原稿の一つです。

若いころ(?)書いた原稿なので、かなり過激
ですが、しかし本質は、今も変わっていないと
思います。
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●日本の学歴制度

インドのカースト制度を笑う人も、日本の学歴制度は、笑わない。どこかの国のカルト信仰を笑
う人も、自分たちの学校神話は、笑わない。その中にどっぷりとつかっていると、自分の姿が
見えない。

 少しかたい話になるが、明治政府は、それまでの士農工商の身分制度にかえて、学歴制度
をおいた。

 最初からその意図があったかどうかは知らないが、結果としてそうなった。

 明治11年の東京帝国大学の学生の75%が、士族出身だったという事実からも、それがわ
かる。そして明治政府は、いわゆる「学校出」と、そうでない人を、徹底的に差別した。

 当時、代用教員の給料が、4円(明治39年)。学校出の教師の給料が、15〜30円、県令
(今の県知事)の給料が250円(明治10年)。

 1円50銭もあれば、一世帯が、まあまあの生活ができたという。そして今に見る、学歴制度
ができたわけだが、その中心にあったのが、官僚たちによる、官僚政治である。

 たとえて言うなら、文部省が総本山。各県にある教育委員会が、支部本山。そして学校が、
末寺ということになる。

 こうした一方的な見方が、決して正しいとは思わない。教育はだれの目にも必要だったし、学
校がそれを支えてきた。

 しかし妄信するのはいけない。どんな制度でも、行き過ぎたとき、そこで弊害を生む。日本の
学歴制度は、明らかに行き過ぎている。

 学歴のある人は、たっぷりとその恩恵にあずかることができる。そうでない人は、何かにつけ
て、損をする。

 この日本には、学歴がないと就けない仕事が、あまりにも多い。多すぎる。親たちは日常の
生活の中で、それをいやというほど、肌で感じている。だから子どもに勉強を強いる。

 もし文部省が、本気で、学歴社会の打破を考えているなら、まず文部省が、学歴に関係なく、
職員を採用してみることだ。

 過激なことを書いてしまったが、もう小手先の改革では、日本の教育は、にっちもさっちもい
かないところまで、きている。

 東京都では、公立高校廃止論、あるいは午前中だけで、授業を終了しようという、午後閉鎖
論まで、公然と議論されるようになっている。それだけ公教育の荒廃が進んでいるということに
なる。

 しかし問題は、このことでもない。

 学歴信仰にせよ、学校神話にせよ、犠牲者は、いつも子どもたちだということ。今の、この時
点においてすら、受験という、人間選別の(ふるい)の中で、どれほど多くの子どもたちが、苦し
み、そして傷ついていることか。そしてそのとき受けた傷を、どれだけ多くのおとなたちが、今
も、ひきずっていることか。それを忘れてはいけない。

 ある中学生は、こう言った。

 「学校なんか、爆弾か何かで、こっぱみじんに、壊れてしまえばいい」と。

 これがほとんどの子どもの、偽らざる本音ではないだろうか。ウソだと思うなら、あなたの、あ
るいはあなたの近所の子どもたちに、聞いてみることだ。

 子どもたちの心は、そこまで病んでいる。
(はやし浩司 華族 士族 東京帝国大学 自治省)

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●教えずして教える

 教育には教えようとして教える部分と、教えずして教える部分の二つがある。

たとえばアメリカ人の子どもでも、日本の幼稚園へ通うようになると、「私」と言うとき、自分の鼻
先を指さす。(ふつうアメリカ人は親指で、自分の胸をさす。)

そこで調べてみると、小学生の全員は、自分の鼻先をさす。年長児の大半も、自分の鼻先をさ
す。しかし年中児になると、それが乱れる。つまりこの部分については、子どもは年中児から年
長児にかけて、いつの間にか、教えられなくても教えられてしまうことになる。

 これが教えずして教える部分の一つの例だが、こうした部分は無数にある。よく誤解される
が、教えようとして教える部分より、実は、教えずして教える部分のほうが、はるかに多い。ど
れくらいの割合かと言われれば、一対一〇〇、あるいは一対一〇〇〇、さらにはもっと多いか
しれない。

私たちは子どもの教育を考えるとき、教えようとして教える部分に夢中になり、この教えずして
教えてしまう部分、あまりにも無関心すぎるのではないのか。あるいは子どもというのは、「教え
ることで、どうにでもなる」と、錯覚しているのではないのか。しかしむしろ子どもの教育にとって
重要なのは、この「教えずして教える」部分である。

 たとえばこの日本で教育を受けていると、ひとにぎりのエリートを生み出す一方で、大半の子
どもたちは、いわゆる「もの言わぬ従順な民」へと育てあげられる。だれが育てるというのでも
ない。受験競争という人間選別を経る過程で、勝ち残った子どもは、必要以上にエリート意識
をもち、そうでない子どもは、自らに「ダメ人間」のレッテルをはっていく。

先日も中学生たちに、「君たちも、Mさん(宇宙飛行士)が言っているように、宇宙飛行士にな
るという夢をもったらどうか」と言ったときのこと。全員(一〇人)がこう言った。「どうせ、なれな
いもんね」と。「夢をもて」と教えても、他方で子どもたちは別のところで、別のことを学んでしま
う。

 さてあなたは今、子どもに何を教えているだろうか。あるいは何を教えていないだろうか。そし
て子どもは、あなたから何を教えられて学び、教えられなくても何を学んでいるだろうか。それ
を少しだけここで考えてみてほしい。
(はやし浩司 もの言わぬ 従順な民) 
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日本人と民主主義

●騒音

 日本人ほど、騒音に無頓着な民族はいない? 私が住むこの地域は、一応、第二種住宅地
域ということになっているが、早朝から深夜まで、その騒音が絶えない……。

 まず朝、五時五五分、きっちりとその時刻に、裏の隣人が、雨戸を開ける。ふつうの開け方
ではない。いっせいに、勢いよく、ガラガラ、ガラガラと開ける。ここに住むようになってから、二
五年間、私たち夫婦は、春夏秋冬、一度、その音で目をさまされる。

 少し時間がたつと、このところ、隣の空き地が、下水道工事の集結場になっていて、工事の
男たちがやってきて、あれこれ作業を始める。

昨日は、あの削岩機で、バリバリと何かを削っていた。ものすごい音だった。窓をしめても、家
中のカベがガタガタ揺れる感じだった。で、そのころになると、前の隣人が、趣味の宝石の研
磨を始める。歯科医院で歯を削られるような音だ。しかもその研摩を、プレハブの小屋の中で
するから、ちょうど全体として、ギターの箱のような共鳴作用を引き起こす。ものすごい音だ。そ
の騒音がガリガリ、ガリガリと、終日、断続的につづく。

 もちろん道路を走る車の騒音も聞こえる。五〇メートルくらい離れたところが、大通りになって
いて、そこをひっきりなしに、車が走る。ふつうの車はそれほど気にならないが、暴走族が乗る
ような改造車だと、それこそバスンバスンと腹に響くような低周波振動が響いてくる。

そうそう道路をはさんで西隣のアパートに、最近一人の学生が入ったらしい。その友人らしき
男が、ときおり、その種の車でやってくる。これもけっこう、うるさい。

 が、それだけではない。断続的に、物干し竿売りや、ワラビ餅売りがやってくる。これがスピ
ーカーの音量を最大限にして、あの声を流す。ほかに粗大ゴミ回収業者、オートバイ回収業者
など。もっともこれは日中の一時期だから、そのときをやり過ごせば、何とかなる。

 私は部屋にこもって、こうして文書を書くのが仕事(?)のようになっているから、こうした騒音
は、つらい。いやいや、最近は、夜中だって、騒音(?)が消えることはない。数軒前の隣人の
飼い犬がこのところ、急にボケだして、一晩中、グニャーグニャーと、おかしなうめき声をあげ
ている。

それがちょうどさかりのついた雄ネコのような声に聞こえる。私の家はともかくも、近所の人た
ちは、さぞかし眠られない毎日を過ごしていることだろう。

●騒音の精神的ルーツ

 そこで私は考える。こうした日本人独特の無頓さは、いったいどこから生まれるのか、と。公
共精神ということになると、少なくとも、このあたりの人たちは、自分のテリトリーの範囲のこと
は大切にするが、しかし一歩、その範囲を離れると、何もしない。

たとえば私がここに住むようになって、この二五年間、近所の空き地のゴミ拾いをしているの
は、私だけ。このあたりは元公務員の人たちが、優雅な年金生活をしている。しかしそういう人
たちがゴミ拾いしているのを、私は見たことがない。そういう意味では、みんな、自分勝手。こ
の勝手さは、いったいどこからくるのか?

 アメリカやオーストラリアと比較するのもヤボなことだが、欧米では、その地域の景観すら、地
域住民がたがいに守りあっている。その地域全体の家の形のみならず、屋根や家の色まで統
一しているところも少なくない。

自分の家だけ芝生を伸び放題にしておくことなど、言語道断。オーストラリアでも、そうだ。ある
日、友人がこう言った。

「(土地の値段は安いので)、いくらでも土地は買えるが、しかし管理がたいへんだから、適当
な広さがあればいい」と。

自治体ぐるみで看板の設置を規制しているところも多い。あるいは看板の色を規制していると
ころも多い。先日、アメリカから帰ってきた二男ですら、クモの巣のように空をおおう電線を見
て、こうこぼした。「アメリカでは考えられない」と。いわんや、騒音をや! 基本的なところで、
考え方がまったく違う。

 日本人に公共心がないのは、日本の社会制度にもよる。明治以来、あるいはそれ以前か
ら、「教育」と言えば、「もの言わぬ従順な民づくり」が、基本になっている。

日本は奈良時代の昔から、現在にいたるまで、カンペキな官僚主義国家である。今の今でも、
日本が民主主義国家だと思っているのは、日本人だけ。ウソだと思うなら、一度、外国に住ん
でみることだ。日本でいう民主主義は、彼らがいう民主主義とは、まったく異質なものであるこ
とがわかる。

この日本では、「国あっての民」と考える。国民(この「国民」という漢字すら、それを表している
が……)、は、国の道具でしかない。

一方、欧米では、フランス革命以来、「民あっての国」と考える。この違いは大きい。たとえばこ
んなことがある。

 南オーストラリア州にある友人の家へ遊びに行ったときのこと。ボーダータウンという小さな
田舎町だが、その町を案内しながら、友人がいちいちこう説明してくれた。

「ヒロシ、あの道路整備に、税金を一二〇〇万ドル使った。しかし経済効果は、七〇〇〇万ド
ルしかない。税金のムダづかいだ。いいか、ヒロシ、それだけの税金を使うなら、穀物倉庫を
作り変えたほうがいい。経済効果は、二倍以上になる」と。

こうした会話を、私はこの日本で聞いたことがない。いや、反対に、あってもなくてもよいような
高速道路ばかりつくり、一方、住民は、「作ってもらった」「作ってもらった」と喜ぶ。こうした日本
人の意識が、一八〇度ひっくりかえるためには、この日本では、まだ五〇年はかかる。あるい
はもっとかかる。

●そろそろ意識を変えるべきとき?

 さて騒音の話。かく言う私も、こうした騒音に耐えて、二五年になる。あるいは子どものころか
ら、「生活」というのは、そういうものだと思い込まされている。しかし、もうそろそろ、日本人も
意識を変えるべきときにきているのではないか。

 「社会は私たちがつくるのだ」「国は私たちがつくるのだ」という意識である。もうひとつ、つい
でに言わせてもらうなら、「教育は私たちがつくるのだ」という意識もある。

何でもかんでも、一方的に国から与えられるだけというのでは、あまりにもさみしいのではない
か。あまりにも受け身すぎるのではないか。日本人が周辺の騒音に無頓着なのも、そのひとつ
ということになる。教科書も制度も、中身も。そんな国は、民主主義国家ではない。またそんな
国では、民主主義など、育たない。ちがうだろうか?
(040303)(はやし浩司 日本人の意識 騒音意識 民主主義)


++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司


最前線の子育て論byはやし浩司(103)

【近況・あれこれ】

●アメリカ人の子ども観

 国民性のちがいなのか? アメリカでは、「恥ずかしがり屋」の子どもを、問題児ととらえる。
英語では、「ナーバス(nervous)」「シャイ(shy)」という。

 「日本では、恥ずかしがるのは、美徳(virtue)だ」と話すと、そのアメリカ人の先生(小学校)
は、かなり驚いていた。国がちがうと、子どもの見方も、大きくちがうようだ。

 そのためか、アメリカでは、ワーワーと自己主張する子どもほど、(できのよい子ども)ととらえ
る。反対に、静かで、謙遜する子どもを、(できの悪い子ども)ととらえる。

 もちろん教育にも、大きな影響を与えている。

 アメリカでは、いつも先生が生徒に、「どう思う?」「それはすばらしい」と言って、授業を進め
る。日本では、「わかったか?」「ではつぎ!」と言って、授業を進める。

 「教育」と言っても、中身は、まるでちがう。そういうことも考えて、子どもの教育を考える。(も
ちろんそれぞれに、一長一短があるが……。)


●右は妹、左はぼく!

 母親は、男児の育児にとまどう?

 ある母親からだが、こんな相談があった。

 小学五年生の男の子だが、「いまだに、私のおっぱいに、さわりたがります」と。

 妹は、4歳。

 そこで母親は、「右が妹、左がお兄ちゃん」と決めているそうだ。私はその相談を受けたとき、
その母親の胸を、まじまじと見てしまった。

 「どうして?」と聞いたら、何を勘違いしたのか、その母親は、左の胸を前に突きだしながら、
こう言った。「左のほうが、ほら、少し大きいでしょう!」と。

 そのあたりの年齢になると、母親も、やや羞恥心をなくすようだ。胸の豊満な母親だったの
で、ハハハと笑いながら、内心では、その子ども(兄)が、うらやましく思った。そしてこう思っ
た。

 「私だって、男だぞ!」と。

 もうこの年齢になると、私を「男」と見てくれる母親はいない。自分でも、それがよくわかる。ま
あ、あきらめるか! 

私は56歳。ヤング・オールド・マンだ! 略して、YOM。(私がつくった、新語)

【YOMの特徴】

 老人にもなりきれず、しかし青春にも決別できない、中途半端な年代層。ときどき、老人にな
った自分を知り、ときどき、それに反抗してみる。

 ちょうど中間反抗期の子どもの心理的変化に似ている。ときどき、おとなぶってみたり、反対
に幼児がえりを起こしてみる。どっちつかずの不安定な年齢。

 YOMについては、あとで、もう少し、掘りさげて考えてみることにする。おもしろそうなテーマ
だ。


●改心

 ふと、今、思い出した。

 昔、子どものころ見た、チャンパラ映画の中で、「改心」という言葉がよく使われたのを、思い
出した。

 とんでもない極悪人が、あるとき、ふとしたことがきっかけで、心を入れかえ、それ以後は、別
人のように、善人になったりすることをいう。

 子どもながらに、「心というのは、そういうものかなあ」と思ったことがある。

 しかしそれからほぼ、半世紀。私は、そういうふうに、改心した人を見たことがない。人間の
心というのは、いわば体にしみついた「シミ」のようなもので、そう簡単には、変えられない。

何らかの方法で、ごまかすことはできても、それは化粧のようなもの。しかし、化粧は、化粧。
何らかのきっかけで、すぐボロが出る。もしそんなことが簡単にできるなら、精神科の医師など
いらないということになる。

 私だって、「心の質」は、それほど、よくない。もともと小ズルイ男で、小心者。(私とつきあう人
は、そういう意味で、用心したほうがよい。ホント!)

 そういう私が、かろうじて「私」なのは、私には、ドン底経験があるからだ。

 幼稚園講師になって、すべてをなくしたと感じたとき、私は死ぬことさえ、考えた。毎晩、「浩
司、死んではダメだ」と、自分に言って聞かせた。

 そのときのこと。私は、人間は、ドン底を経験すると、二種類に分かれることを学んだ。その
まま悪人になっていく人間と、善人になっていく人間である。私はあのドン底経験のあと、自分
でもおかしいと思うほど、まじめになった。

 タバコもやめたが、女遊びもやめた。ウソをつくのも、約束を破るのも、ごまかすのもやめ
た。何もかもやめた。やめて、ただひたすら、まじめ(?)に生きるようになった。

 そんな私だが、しかし、では、私の質が変ったかというと、そういうことはない。ただごまかして
いるだけ。自分でも、それがよくわかる。ふと油断すると、もともとの私が、すぐ顔を出す。

 今は、そういう私と戦っているだけ。押さえこんでいるだけ。だから、やはり、「改心」などとい
うことは、ないと思う。

チャンパラ映画の中では、よく使われたテーマだが、ああいうことは、ありえない。それが、この
半世紀を生きて私が知った、結論である。


●T社のレポーターのレベルは、この程度?

 T者のインターネットnewsを見ていて、思わず笑ってしまった。

 何でも中国沿岸部の水位が、一年前とくらべて、平均で、60ミリ前後上昇しているという。上
海沿岸では、66ミリ前後も、上昇しているという。

 それはそうだろう。しかしそのあとの報道が、「?」。

 インターネットニュース(テレビで報道されたものと同じ)では、1960年代に撮影された写真
と、現在の様子を比較しながら、レポーターがこう言っていた。

 「60年代にとられた写真では、この建物のこの窓は、歩道を歩く人の、はるか頭の上にあり
ました。しかし今は、頭の下にあります。これを見ると、上海の地盤沈下を、実感することがで
きます」と。

 バカめ!

 窓の位置がさがったように見えるのは、それだけ、上に上にと、道路を塗りかためたため。こ
んなことは、道路工事の経験がある人なら、だれでも知っている常識。

 ふつう道路の舗装工事をするときは、旧面を削り、その上に、新しい舗装工事をする。それ
をしないと、道路だけが、どんどんと高くなってしまう。ちなみに、ローマのコロセウムの前の通
りの道は、ローマ時代よりも、3メートルも高いという。しかしそれは地盤沈下や海面上昇によ
るものではなく、道路を上に上にと、塗りかためたからにほかならない。

 映像で見ても、60年代の歩道と、現在の歩道は、どうもちがうような感じがする。(同じ歩道
なら、そうした比較をしても、意味があるが……。)

 それに地下水のくみあげによる地盤沈下は、全体として起こるもの。建物だけが、極端に沈
下するということは、ありえない。建物だけが沈むということもないわけではないが、そのとき
は、その前に建物が傾いたり、壁が割れたりする。

 T社のインターネットnewsはいつも見ているニュースだが、私は、これには笑った。(失礼!)

 それにしても、1年で、60ミリとは! 6センチである。このまま進めば、50年で、3メート
ル! 中国の平野部の大半が、水没することになる。

 今、予想より、はるかに早いピッチで、地球の温暖化が進んでいるようだ。ゾーッ!
(しかし中国の調査報告も、あまりアテにならないし……。失礼!)


●解約できなア〜い!

 どこでどう申しこんだのか知らないが、G社のコマーシャル・マガジンが、頻繁に届く。コマー
シャルをクリックすると、ポイントがたまるというマガジンである。

 それがうるさい。そこで購読の解約!
 
手続きに従って、そのG社のトップページへ。が、どこにも解約コーナーがない! マガジンを
よく読むと、(トップページ)→(サービス)→(購読)→(解約)へ進んでくれとある。

 で、やっとのことで、そのページにたどりつくと、IDと、パスワードの入力を求められる。しかし
そんなもの、登録した覚えはない?

 そこでまず仮のIDを発行してもらう。つぎにまた、元の画面にもどって、今度は、そのIDを打
ちこんだあと、パスワードを発行してもらう。この手間が、たいへん。

 で、やっとのことで、解約ページに。が、ここでも、「これから先、いっさい、サービスを受けら
れなくなります」「今まで稼いだポイントが、ゼロになります」「今後2か月は、再登録ができなく
なります」という警告文。無視してクリックすると、さらに、「あなただけに特典があります。どうか
もう一度、解約の考えなおしをお願いします」と。

 ……今、この手のマガジンが、ふえている。会社名も、まぎらわしい。G社というのも、よく見
ると、検索エンジンの「GG社」をまねた名前であることがわかる。

そう言えば、前にもひっかかった。その会社の名前は、「松下K産業」。私はてっきり「パナソニ
ック社の松下産業」だと思っていた。(当時は、パナソニック社のパソコンをメインに使ってい
た。)

 その「松下K社」のときも、最終的には、その会社まで電話して、購読を解約してもらった。

 みなさんも、くれぐれも、お気をつけください。ちなみに、私のマガジンは、どれも、末尾のアド
レスをクリックして、みなさんのEメールアドレスを、入力すれば解約できることになっています。
どうか、ご安心ください。


●都会の中の、田舎人

 都会に住んでいるから、都会的なものの考え方をするようになるというのは、ウソ。幻想。

 都会に住んでいる人でも、田舎の人以上に、田舎の人はいくらでもいる。都会に住んでいて
も、世間的なメンツや見栄にこだわり、過去の風習や、封建時代の亡霊にこだわっている人
は、いくらでもいる。

 意外と、よく見られるのは、転勤に転勤を重ねてきたサラリーマンの人たち。

このタイプの人たちは、その都会に同化する前に、つまり転勤で同化できない分だけ、田舎に
自分のルーツ(根)をおく。そのため、かえって田舎的なものの考え方を、心の中で、増幅させ
てしまう。

 さみしい孤独な都会生活が、かえってその人をして、そうさせるとも考えられる。

 反対に、田舎に住んでいても、都会的な人は、いくらでもいる。私の知人の中には、その村の
水利問題にからんで、行政訴訟を起こしている女性もいる。「おいしい飲み水を、子どもたちに
残したい」というのが、その理由である。

 が、その女性のばあい、本当の敵は、トンネル工事をしている行政(村)ではない。彼女の夫
や、近所の人たちである。そういう人たちが、つまりは、(ことなかれ主義)から、その女性の行
動に、ブレーキをかけている。都会的といえば、そういう女性の生きザマのほうが、よほど、都
会的である。

 要するに、どこに住んでいようが、それは生きザマの問題ということ。それを決めるのは、環
境ではなく、その人自身がもつ問題意識ということになる。


●風習

 日本には、まだ、おかしな風習が、あちこちにはびこっている。姉がこんなことを言った。

 「去年の秋に、大阪に住む、義理のいとこの息子の結婚式に行ってきた」と。

「義理のいとこの息子の結婚式!」 ……私が驚いていると、「うちは、本家スジだから、出なけ
ればいけないのね」とも。

 「本家スジ!」 今でも、そういう言葉を使う人がいる。決して少なくない。その人にとって本家
にあたる家筋のことを、「本家スジ」という。

私「江戸時代でもないでしょう?」
姉「そうは、いかないのよ。このあたりでは……」
私「姉さんも、たいへんだね」
姉「親戚の少ない人だったから……」と。

 昔は、「家あっての個人」ということになっていた。その人の身分は、その「家」で決まった。そ
れはわかる。しかしそうした風習を、何も疑うことなく、繰りかえすことは、本当に正しいことなの
か。必要なことなのか。

 姉は「頭数(あたまかず)をそろえるために、出るのよ」と言っていたが、そういうのを、見栄と
いう。しかし、そんなところで見栄を張って、どうするのか?

 ……と言うのも、ヤボなこと。「私はカルトとは無縁」と思っている人でも、カルト的風習に、ど
っぷりとつかっている人は、いくらでもいる。そうしたカルト的風習は、こうした冠婚葬祭に、とく
に色濃く現れる。

 要は、無視するか。さもなければ、妥協するか。その二つに一つである。しかしいつかだれか
が、こうした風習にブレーキをかけないと、それはいつまでもつづくことになる。

 そのあと、私とワイフは、こんな会話をした。

私「ぼくらは、気にしないね」
ワ「大切なのは、本人。本人の幸福よ。こちら側の親戚が、たったひとりでも、私は構わない
わ」
私「ぼくも、構わない。それで相手が、ぼくらのことをおかしく思うようなら、思わせておけばい
い。あくまでも本人どうしの問題だからね」と。

 いつだったか、二男がアメリカから帰国したとき、地元の中学校で、講演会に、講師として、
招かれたことがある。そのとき、二男は、穴のあいたTシャツに、よれよれのズボンをはいて行
った。

 私が、「もう少し、マシな服を着ていけよ」と声をかけると、「ぼくは、ありのままの自分で行く
よ」と。そういう二男の姿を見たとき、私は、父親として、率直に言って、うれしかった。二男は、
私をはるかに超えた、(おとな)に成長していた。
 
 いろいろな考え方がある。それもわかる。しかし日本人に、何が欠けているかといえば、自分
で考えて、自分で行動する力ではないだろうか。私は姉との会話の中で、そんなことを感じた。

【補足】

 家族には家族としての機能がある。助けあい、認めあい、励ましあい、教えあい、守りあうと
いう役割である。しかしその家族は、同時に、個人の自立を、はばむことがある(心理学者の
レイン、クーパーほか)。

 最近では、(近代的自我)という言葉が使われる。未来志向型の個人の確立をいう。その近
代的自我の確立に、ときとして、家族は、足かせになるという(レイン、クーパー)。

 こうした親戚づきあいというのは、一見温もりのある社会だが、その弊害も、また大きい。つ
まりは、そうした依存型社会にどっぷりと、つかることにより、たがいの自我の確立を、監視し、
干渉し、かつ押さえこんでしまう。言うまでもなく、この日本では、親戚というのが、その個人に
とっては、巨大な家族として、機能する。

 この問題は、大きな問題なので、テーマとして、別のところで考えてみたい。
(040304)(はやし浩司 近代的自我)

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

最前線の子育て論byはやし浩司(104)
 
【家族論】

●家族の限界

 家族には、家族としての機能がある。助けあい、認めあい、励ましあい、教えあい、守りあうと
いう役割である。

しかしその家族は、同時に、個人の自立を、はばむことがある(心理学者のレイン、クーパー
ほか)。

最近では、(近代的自我)という言葉が使われる。未来志向型の個人の確立をいう。その近代
的自我の確立に、ときとして、家族は、足かせになるという(レイン、クーパー)。

 そのレインやクーパーは、人間には、二つの志向性があるという。(個人志向)と(共同体志
向)である。

 (個人志向)というのは、「だれにもじゃまされず、自分の道を進みたい」という、志向性をい
う。

 (共同体志向)というのは、どこかの共同体に属し、その共同体とともに、運命を共有したいと
いう、志向性をいう。日本では、家族。さらには、親戚、近所づきあいが、その共同体ということ
になる。

 私やあなたという、一人の人間をみたばあい、こうした志向性が、混在しているのがわかる。
人に干渉されるのを嫌う反面、他人には、干渉しようとする。その反対に、無視されるのを嫌う
反面、他人の行動を、無視しようとする。

●孤独論

 こうした心理的反応の根幹にあるのが、「孤独」である。

 個人志向が強ければ、人は、孤独を感ずる。だから共同体とかかわりをもとうとする。反面、
共同体志向が強ければ、孤独はいやされるが、あれこれ干渉されて、それをうるさく感ずる。

 こうした孤独感は、どこからくるのか?

 それは恐らく、人間が魚であった時代から、始まっているのではないか? ……というのも、
かなり飛躍した考え方に見えるかもしれないが、魚の群れを見ていたとき、私は、そう思ったこ
とがある。

 あの魚は、たいてい、群れをつくって行動する。つまり「群れ」をつくることで、自分たちの安全
性を確保する。だからそれぞれの魚にとって、群れをはずれて行動することなど、考えられな
い。その(群れ意識)の根底にあったのが、(群れからはずれる恐怖)、つまり孤独ということに
なる。その(恐怖感)が、(孤独)のもつ恐怖感の原点になった?

 もちろん人間と魚はちがう。しかしその人間は、遠い昔、魚から、進化した。現に、胎児は、
母親の胎内で、一度は、魚に似た形になる。人間の心の中に、(魚的意識)が残っていたとこ
ろで、何も、おかしくはない。

 もっとつきつめていくと、知的動物としての人間は、(個人志向)を求める。しかし原始的動物
としての人間は、(共同体志向)を求める。このハザマで、人間は、右往左往する。さらにつき
つめていくと、知的動物としての、自我の確立を、レインやクーパーのいう、(近代的自我)の確
立と呼んでもよいのではないか。

 ただ、ここで一つ、大きな問題にぶつかる。

●家族意識

 欧米と日本とでは、「家族」に対する意識が、かなりちがう。さらに欧米と日本とでは、「親戚」
「近所」に対する意識が、かなりちがう。また欧米と言っても、広い。また日本といっても、都会
と田舎では、まるで別世界のように、ちがう。

 だからいっしょくたにして考えることはできない。が、レインやクーパーは、「家族が、近代的
自我の確立に障害になる」と言ったが、この日本では、その家族に、親戚や近所を含めてもよ
いのでは。

 実際、農村部に住んでみると、息苦しいまでの重圧感を覚えることがある。人間関係が、た
がいにクモ巣のようにからんでいて、たがいにたがいを、密接に、かつ濃密に干渉しあってい
る。話は、少し、それるが、こんな例がある。

 私の友人が、岐阜県のS町のはずれに、小さな酒屋を開いた。それまで都会に住んでいた
が、田舎暮らしにあこがれ、そこに家族ともども、移住した。

 が、一年たっても、ほとんど客はこなかった。ときどき街道を通る人が、買い物をする程度だ
った。値段を安くし、さらにおまけまでつけたが、それでもダメだった。

 一年もたったころ、やっと、その理由がわかった。

 そのS町には、もう一軒、酒屋があった。昔からの酒屋で、その酒屋は、その村の有力者が
経営していた。つまりほかの村人たちは、その有力者に遠慮して、友人の酒屋では買い物をし
なかった。

 この例で、友人がもった意識、つまり(都会から脱出して、田舎暮らしをしてみたい)という意
識が、ここでいう(近代的自我)ということになる。しかしその(近代的自我)をはばんだのが、村
という共同体のもつ、(共同体意識)ということになる。

 村の人たちは、自分たちの(共同体志向)を優先させるため、その友人の(近代的自我)を、
はばんだということになる。

 こうした現象は、家族の中でも、起こりえる。それが冒頭に書いた、「近代的自我の確立に、
ときとして、家族は、足かせになる」という意味である。

 つまり私たちは、子どもを育てながら、「育てる」ことばかりを考えるあまり、私たちという親
が、子どもの自我の確立を、はばむことがあるということ。過干渉もそうだが、ほかに、過関
心、過保護、溺愛、過剰期待などもある。

●親自身の問題

 しかしそれ以上に、深刻に考えなければならないのは、親自身が、自我の確立ができていな
いばあいである。そういう親に向かって、「子どもの自我を尊重しなさい」と言っても、ムダであ
る。そもそもそれを理解するだけの、「下地」ができていない。

 はからずも、私は、最近、こんな経験をした。

 姉との電話の中で、姉が、「頭数をそろえるために、義理のいとこの息子の結婚式にかりだ
された」と言ったときのこと。私は、「どうしてそんなムダなことをするのか?」と、思わず言って
しまった。

 しかしその義理のいとこ氏にとっては、それが彼の価値観であり、その価値観は、さらに奥深
い、彼自身のカルト的信仰と結びついている。だからそういう義理のいとこ氏に向って、「ムダ
ですよ」と言っても、意味がない。親が親だから、今度は、その先の義理のいとこの息子氏に
向って、「見栄を張るのは、やめなさい」と言っても、さらに意味がない。

 意識というのは、そういうもの。もっとわかりやすく言えば、子どもの自立論を説く前に、親自
身が、自立していなければならないということ。もっとわかりやすく言えば、近代的自我の確立
ができていない親に向かって、「あなたの子どもの自我を確立させましょう」と言っても、ムダ。
まったくの、ムダ。

 そもそも日本人というのは、慣れあい社会の中で、相互に依存しながら、生きている。もちろ
んすべてが悪いばかりではない。そういった慣れあいが、独特の温もりをつくっているのも事
実。

 しかしその一方で、そうした慣れあい社会が、レインやクーパーのいう、(近代的自我)の確
立をはばんでいるのも事実である。それがよいのか悪いのか。あとは、それぞれの人が判断
すればよいということになる。

●止められない「流れ」

 ただ、これだけは言える。

 今、日本は、そして日本人は、国際化の波にもまれながら、レインやクーパーの言う、(金内
的自我)の確立をめざして、一歩、前に踏み出そうとしている。そしてその流れは、若い人たち
から始まり、もうその流れを変えることはできないということ。

 私の二男は、こう言った。「パパ、ぼくは、ありのままのぼくで行くよ。それをみんなに見てもら
うよ」と。

 二男が出身校の、地元の中学校での講演会で、講師として招かれたときのことである。二男
は穴のあいたTシャツに、ヨレヨレのジーパン姿だった。見るに見かねて、私が「もう少し、マシ
な服を着ていけ。人前に立つのだから……」と言ったときのことだった。

 これからは、こういう若者がふえてくる。もっともっと、ふえてくる。そういう流れは、もう、私や
あなたに、止めることはできない。
(040304)(はやし浩司 近代的自我 レイン クーパー 家族論 個人志向 共同体志向 
孤独 孤独論 孤独の原点 原R)

【異論・反論】

 この私の意見に対して、ある人(女性、50歳くらい)に話すと、その女性は、こう言った。

 「群れと、共同体とは、ちがうのでないかしら?」「都会には、人がたくさんいるけど、孤独を感
ずる人は、感ずるのでは?」と。

 ナルホド! 鋭い! 忘れていた!

発達心理学の世界でも、「群れ」と、「共同体」は、分けて考える。「群れ」には、相互意識がな
い。「共同体」は、人間の、複雑にからみあった相互意識が、ある。

 私は、この原稿を書きながら、「魚の群れ(=相互意識がない)」と、「共同体(=相互意識)」
を、混同している。これは致命的なミスである。

 しかし「孤独感」の原点といえば、「孤独にまつわる恐怖感」をいう。そしてその「恐怖感」は、
人間が魚だった時代から、もっていたのではないかという点については、まちがいないと思う。

 この原稿の中にも書いたように、人間も、母親の胎内の中では、一度は、魚だった。つまり
「群れ」から離れるということは、そのまま「死」を意味した。つまり、それが孤独から感ずる、恐
怖感の原点であるように思う。

 なお、子どもの世界では、「群れ」と「共同体」は、分けて考える。ただ子どもどうしが集まって
いるのは、「共同体」とは言わない。だから子どもを、群れの中に入れただけでは、集団教育に
は、ならない。これについては、また別のところで考えてみたい。

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司


最前線の子育て論byはやし浩司(105)

【雑感・あれこれ】

●きわどい話

 幼児を教えていると、ときとして、きわどい話が出てくる。親たちが参観していなければ、それ
ほど気にすることもないのだが、しかし私の教室は、例外なく、公開している。

 昔、年中児のクラスで、「君の、一番好きなものは、何ですか?」と聞いたときのこと。S君(彼
の名前は、忘れない)が、勢いよく手をあげながら、こう言った。「オンナ!」と。

 私は、自分の耳を疑った。だからもう一度、聞いた。「何だってエ?」と。するとS君は、臆面
(おくめん)もなく、また、「オンナ!」と。

 多分、父親が、口グセのようにそう言っていたのではないか。S君は、それをまねた?

 あるいは、こんなことも。

 一人の女の子(年中児)が、勝手にペラペラと、となりの子に話し始めた。

 「昨日の夜、パパとママが、裸で、レスリングしてた」と。

 そういう話になったら、すかさず私はストップをかける。

 私自身の失敗もある。

 カタカナを、書いて、どちらのカタカナが多いか、それを子どもたちに当てさせる。たとえば
「ア」と「イ」を、それぞれ、4個、5個と書いて、「どちらが多いかな?」と。

 で、順にやっていくと、あるとき、「チ」と「ツ」になった。とたん、子どもたちが、「チ」「ツ」「チ」
「ツ」と言い出した。

 こういう言葉には、本当に冷や汗をかく。

 ほかに似たような話だが、「リスが、クリを食べました」というような話には、一瞬、ドキッとす
る。カードを何枚か見せて、話作りをするようなときである。反対に読めば、「クリ」と「リス」にな
る。

 さらに英語を教えているとき、「6」を、「セックス」と読む子どもがいる。そこで私は、息をたくさ
ん吐き出して、「シィークス」と教えるのだが、息をたくさん出させると、日本人のばあい、どうし
ても、「セックス」になってしまう。

 こういうのは、本当に困る。

 まあ、そういうときは、とぼけてレッスンを進めるにかぎる。参観に来ているのは、圧倒的に
母親が多い。

 最近でも、こんなことがあった。小学六年生の男の子が、教室へ来て、いきなり、「先生、今
度、フランスのコンドームが、なくなるんだってねえ」と。

 ギョッとしていると、どうやら、その男の子は、「コンコルド」のことを、「コンドーム」と、まちがえ
ていることがわかった。

私「あのね、あれは、コンコルドって言うんだよ」
子「コンコルドかあ……ハハハ」と。

 
●YOM(Young Old Men)

 老人にもなりきれず、その手前で、どこか不完全燃焼のまま。さりとて、もう青春時代は、は
るか、かなた。

 そういう世代を、YOM世代(若き老人世代)という。つまり私の年代層の人たちをいう。

 このYOMの特徴をあげれば、キリがない。子育てという面においては、子どもたちが巣立ち
をした状態。まだお金はかかるが、親子の接触は、ほとんど、ない。

 人生は、完成期にきているはずなのに、その実感は、あまりない。何かをやり残したようでい
て、それでいて、まだ何かできるのではという期待も捨てきれない。

 体力的には、今までごまかしてきた持病が、どんと吹きだしてくる。無理ができない。疲れも
ぬけない。体力に、自信がもてない。そういう状態になる。先日も、大学の同窓会に出てみた
が、三人に一人が、がんなどの大病を経験していたのには、驚いた。

 性的には、まだまだと思っていても、若いときのように、「いつも」というわけにはいかない。そ
のタイミングをつかむのがむずかしい。そのタイミングをはずすと、とたんに性的な興味を失
う。

 仕事は、職種にもよるのだろうが、無理ができない分だけ、下向きになる。とくに私のような
自営業は、そうだ。だから何かと、落ちこみやすくなる。この年齢というのは、うつ病になりやす
い。私も、その予備軍の一人?

 さてさてそのYOM世代。その一方で、若い人たちを見ると、「これではいけない」と思う。「もう
少し、がんばってやろうか」という気持ちも、そこから生まれる。ただ、かわいそうなのは、上
(親)に取られ、下(子ども)に取られるという、まさに「両取られ」の世代であること。

 私の年代というのは、親に貢ぐのが当たり前だった。しかし子どもたちは、私という親には、
貢がない。今では、結婚式の費用から、新居の費用まで、親が出す時代である。

 我ながら、YOM世代は、本当にかわいそうな世代だと思う。ホント!

 加えて、夫婦関係も、おかしくなる。もっとも私の世代になると、夫婦も、つぎのようなパターン
に分かれる。

(1)円満夫婦
(2)仮面夫婦
(3)家庭内別居夫婦
(4)離婚寸前夫婦
(5)妥協夫婦
(6)あきらめ夫婦
(7)友だち夫婦、など。

 それまでの結婚生活の総決算が、この時期、どんとやってくる。そのまま離婚してしまう人
も、少なくない。それもたいていは、妻のほうから、離婚の請求があるという。(私もあぶな
い?)

 ある妻(55歳)は、夫(60歳)にこう叫んだという。「私の人生は何だったのよ。私の人生を、
返して!」と。妻に対して権威主義的で、仕事一筋だった夫ほど、あぶないらしい。

 では、どうしたらよいのか。どうすべきなのか。

 YOMの研究は、今、始まったばかり。何しろ、この「YMO」という言葉は、私が考えた。(こん
なことを、自慢するほうも、どうかしているが……。)これから先、じっくりと、腰を落ちつけて、考
えてみたい。


●QUIZ

【Q1】

 A子さんと、B子さんは、同じお母さんから、同じ日に生まれた。今年の3月1日に、二人とも、
満6歳になる。それにA子さんと、B子さんは、顔がそっくりである。他人が見ても、区別が、つ
かない。しかし私が、お母さんに、「双子(ふたご)ですか?」と聞くと、お母さんは、笑いながら、
こう言った。「いいえ、双子ではありません」と。A子さんと、B子さんは、双子ではないという。こ
んなことがあるのだろうか。

【Q2】

 A君とB君は、兄弟である。A君の名前は、サトシ。10歳。B君の名前も、サトシ。5歳。ところ
が、である。私が母親に、「どうして、二人とも、同じ名前なのですか?」と聞くと、母親は、こう
言った。「????????」と。

 母親は、何と言ったのだろうか。

(Q1、生徒たちから、聞いた問題。Q2は、オーストラリアの友人から、聞いた問題。)

************
この答は、この少し先に
書いておきます。
************

こうした問題は、一定の固定観念にしばられると、何がなんだか、わけがわからなくなってしま
う。頭をぐんと、やわらかくして、考えなければならない。

 Q1の問題は、最初、子どもたちから聞かれたとき、私は、「生まれた年がちがうのだろう」
「お父さんがちがうのだろう」「年齢がちがうのだろう」と、聞いた。が、子どもたちは、そのつ
ど、「ちがわないよ」と答えた。

 で、ますますわからなくなってしまった。「同じお母さんから生まれたの?」と聞くと、「うん、そう
だよ」と。しかし、双子ではないという。どう考えたらよいのか?

 (Q2)の問題は、オーストラリアの友人から、聞いた話をもとに、私が、作った。

 何でも、その家には三人の息子がいるという。三人とも、しかし「エドワード」という名前だとい
う。

 そこである人が、「不便ではありませんか」と聞くと、その母親は、こう言った。

 「いいえ、便利です。『エドワード、助けて』と言うと、三人が、みな、いっしょに助けてくれます」
と。

 そこでその人が、「では、三人を、別々に呼ぶときはどうするのですか」と聞くと、その母親
は、こう言ったという。

 「父親が、みな、ちがいますから、セカンド・ネームで呼びます。長男が、エドワード・ランダ
ン、二男が、エドワード・ウィルソン、三男が、エドワード・ジャクソンです。ですから長男だけを
呼びたいときは、『ランダン、こっちへ来て』と言います」と。

 ここまで書いたら、Q1の答が、わかってしまうが……。


●3月31日号

 この原稿は、マガジンの3月31日号に掲載する予定です。昨日、3月29日号の配信予約を
すませたところです。ちょうど、約1か月先まで、原稿の配信予約をすませたことになります。

 何となく、本格的になってきたぞ、という感じです。

 そこで読者の方に、お願い。

XXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXX

(1)どうか、こういうマガジンの興味をもってくださいそうな方に、このマガジンのことを話してい
ただけませんか?

(2)現在、有料マガジンをまぐまぐ社のほうから、発行しています。月額の料金は、200円で
す。もしよろしかったら、どうか、そちらで、マガジンをご購読ください。まぐまぐプレミア版のほう
では、そのつど、HTML版(写真つき、カラー版)を、提供しています。

(3)BW教室の生徒さんを募集しています。4月からの新年中児、新年長児のみなさんに来て
いただければ、うれしいです。新小1〜3の方も、ご希望であれば、お声をかけてください。

(4)賛助会への協力をお願いしています。マガシンの運営費として、協力していただけるような
ら、よろしくお願いします。子育て相談など、何かと便宜をはからせていただきます。

XXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXX

 こうしたみなさんのご協力を得て、マガジンを発行しています。よろしくご理解の上、ご協力く
ださいますよう、お願い申しあげます。

 で、まぐまぐプレミア版を発行して、一か月(本当は、一週間)になります。やっと、落ちついて
きたといったふうです。つまり以前のリズムにもどった感じです。「有料」ということで、最初は、
かなり緊張しましたが、私にとっては、よい経験になりました。

 今しばらくは、Eマガのほうも、同じように発行していくつもりでいますが、5月ごろから、Eマガ
のほうは、簡略版にさせていただければと思います。(あくまでも予定です。そのときの精神的
負担をみながら、考えさせてください。)

 BIGLOBE社の(メルマガ)のほうは、3月から、ときどき(随時)発行ということにさせていた
だいています。もし末永く読んでくださるということであれば、まぐまぐプレミア版の購読を、お願
いします。こちらのほうは、最優先で、発行していきます。

 以上、お願いすることばかりですみません。これからも、今までどおりに、マガジンを発行して
いくつもりです。分量が多すぎるという苦情は、よくいただきますが、そのうち私も元気がなくな
れば、減ってくるものと、思います。今しばらく、がまんをお願いします。

 そういえば、今朝(3月5日)、あの長嶋茂雄元ジャイアンツ監督(ミスター・ジャイアンツ)が脳
卒中で倒れたというニュースが飛びこんできました。私が子どものころ、私にとっては、あこが
れのヒーローであっただけに、ショックでした。ああいう人には、いつまでもがんばってほしいと
願っています。

 みなさんも、どうか、お体を大切に。


●ピグマリオン効果

 昔、キプロス島に、ピグマリオンという若い王子がいた。その王子は、彫刻家で、やがて一人
の美しい女性像を彫りあげる。

 が、ピグマリオンは、その像のあまりの美しさに、心を奪われ、やがてその像に恋をするよう
になる。

 その熱心さにほだされ、天から見ていた神が、その像に命を吹きこむ。やがてピグマリオン
と、その人間となった女性は結婚し、子どもをもうける。

 何ごとも、熱心に思い願えば、やがてかなうということを、この物語は教えているが、それか
ら、『ピグマリオン効果』という言葉が生まれた。

 子どもの世界でも、『子どもは信ずれば伸びる』という大鉄則がある。「あなたはすばらしい
子」と親が、心底思っていると、その子どもは、必ず、すばらしい子どもになる。

 ただし本心でそう思うこと。ウソではいけない。ウソだと、それがバレたとき、その子どもはか
えってキズつき、自ら伸びる芽をつんでしまう。

 こういうことは、教育の現場では、よくある。

 初対面のとき、「この子は、むずかしそうな子だな」と思うと、その子どもは、やがて伸び悩
む。それだけではない。長い時間をかけて、私を嫌うようになる。

 反対に、「この子は、いい子だな」と思うと、その子どもは、やがて伸び始める。表情も、明るく
なる。

 だから私は初対面のときから、「この子は、いい子だ」と、自分に言って聞かせるようにしてい
る。それは子どものためというより、自分の職場を楽しくするためでもある。

 そういうふうに思って子どもに接していると、一年後、二年後には、たいへん伸びやかで、明
るい子どもになる。

●受験指導

 受験指導の一番いやなことは、生徒との間に、豊かな人間関係が、できないこと。子ども自
身も、求めて来ているからではないからだ。

 たとえば英語を教える。そのとき、子どもは英語の楽しみを味わう前に、「テストの点は何点
だった?」と、親に言われる。それはたとえて言うなら、旅をしながら、その旅の風景を楽しむ
前に、進んだ距離を問われるようなものである。

 よく誤解されるが、「いい高校」「いい大学」へ入るというのは、目的でも何でもない。「入って
どうする」という部分がないまま、子どもたちは、受験競争へとかりたてられていく。

 しかもその高校や、大学は、「入れる高校」「入れる大学」「入れる学部」という視点で、選んで
いく。もともと目的がないから、大学へ入っても、勉強しない。そんな珍現象が、この日本で起
きている。

 どうして日本の親たちは、こんなことがわからないのかと思うときがある(失礼!)。

 目的というのは、自分の志向性にそったゴールをいう。子どもの志向性を知り、その志向性
をうまく伸ばしていく。それが教育である。

 今でも、勉強しかしない。勉強しかできない。よい点数を取ることだけが趣味になっているよう
な、どこか「?」な受験生は、いくらでもいる。もちろんこういう受験生ほど、今の受験体制の中
では、有利。もちろん大半は、すばらしい受験生たちである。しかし全部が全部、そうだという
わけではない。

 こうした受験生が悪いとは思わないが、しかし本当にそのままでよいとは、だれも思っていな
い。つまりそういった疑問と戦うのも、受験指導の一つになっている。

 一部の人が、エリート意識をもつのは、その人の勝手だが、しかしその人がエリート意識をふ
りかざせばかざすほど、そうでない人たちが、不必要に、小さくならなければならない。

 エリート意識をもっている人も、学歴コンプレックスをもっている人も、一度、自分の心の中
を、しっかりとのぞいてみてほしい。「あなたは幻想に溺れていないか」、あるいは「幻想にだま
されていないか」と。


●コンプレックス

 日本で、「コンプレックス」というと、「劣等感」のことと思う人が多い。しかし英語では、劣等感
というのは、正確には、「inferior complex(劣等性コンプレックス)」という。

 もともと「コンプレックス」というのは、「自分では、どうにも抑制できない心的反応」(心理学辞
典)のことをいう。

 マザーコンプレックス、エディプス・コンプレックス、カイン・コンプレックス、ロリータ・コンプレッ
クスなどが、よく知られている。

 よく誤解されるので、ここで改めて、念を押しておきたい。

++++++++++++++++++++++

【Q1の答】

 A子さんと、B子さんは、三つ子のうちの二人であった。だから「双子(ふたご)」ではない。(論
理的には、四つ子でも、五つ子でもよい。)


【Q2の答】

 母親は、サトシという名前の子どもを連れて、サトシという名前の子どもをもった男性と再婚し
た。

 ほかにもいろいろ考えられる。

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司
 

最前線の子育て論byはやし浩司(106)

●カナダにお住まいの、Kさんからのメール

 カナダに住んでいる、Kさん(女性、32歳)から、こんなメールをもらった。いろいろと考えさせ
られるメールだった。今夜は、このメールをテーマに、いろいろ考えてみたい。

 Kさんは、10年ほど前、日本へ旅行にやってきた、カナダ人の男性と結婚。現在、夫とともに
モントリオール校外に住んでいる。現在、娘さんが、二人(上が7歳、下が4歳)いる。

 Kさんの夫は、日本でいう老人ホームのようなところで、介護士をしている。

【Kさんからのメール】++++++++++++++

 いろいろご心配をおかけしました。
 母は、くも膜下出血でした。応急処置が、よかったのか、一命をとりとめました。
 ありがとうございました。

 母が倒れたと聞いた、その2日後に、飛行機のチケットが取れましたので、藤枝のほうへ、
(カナダから)、帰ってきました。
夫の仕事のこともありましたから、二人の娘も連れてきました。

しかし病院へかけつけてみると、父と姉が、はげしく言い争っていました。
病院の治療費、保険、それに父の借金のことなどが、原因のようでした。
で、その日は、父とはあまり話をしないで、家にもどりました。

翌日、朝、姉から電話がありました。
そしていきなり、「父さんは、K子(=Kさんのこと)に、一目会わせたら、母さんは死んでもいい
と言っている。私も楽にさせてあげたい」と。

 私は、この言葉に驚きました。それが四年ぶりにあった、姉の言う言葉でしょうか。
 実の娘が、「死んでもいい」と、言うのです。

 で、そのあともたいへんでした。病院のほうから、「二週間後に、治療費の、43万円を払って
ほしい」と言われました。「そんなお金は、ない」と私が言うと、姉が、「あんたは、今まで親のめ
んどうをみてこなかったから、それくらい払うべき」と言うのです。

 モントリオールにいる夫に電話すると、夫も、驚いていました。
 「日本では、そんなにお金がかかるのか」と、です。

 結局、母の治療費の大部分は、保険でカバーされることがわかりました。

 で、こうしてバタバタしている間に、一週間が過ぎてしまいました。二人の娘のうち、下の子の
花粉症がひどくなったので、一度、カナダへ帰ることにしました。

 で、帰るとき、姉の嫁ぎ先(栃木県のF町)へ、姉にあいさつに行きました。
 そこでのことです。

 姉の義理の父親が、私の顔を見るやいなや、こう言いました。

 「この親不孝者。親が、死ぬかもしれないというときに、お前は、病院を離れて、家で寝てい
たというじゃないか。

 お前は、だれに育ててもらったと思っているのか。そういうときは、お前は、死んでもかまわな
いから、命がけで、母親の看病をすべきだ。

 カナダで、のうのうと暮らしている自分が、恥ずかしくないのか!」と。

 私は、その言葉を聞いて、涙がポロポロと出てきました。

 今も、母は、藤枝市のF中央病院で、呼吸器をとりつけたまま、昏睡状態です。脳にたまった
血は、うまく取れたのですが、意識は、まだもどりません。

 カナダを離れることもできませんし、さりとて、日本へ戻っても、することがありません。
 父も、私とは、口をききたくないようです。今の夫と結婚するについても、母は、納得してくれ
ましたが、父は、猛反対でした。

 一度、「お前は、親を捨てた」「オレも、お前を捨てた」と言われたこともあります。

 私たちの家族は、そんな家族です。

こんなこと書いても、何ら、問題は解決しませんが、気が楽になりました。
 最後まで読んでくださり、ありがとうございました。

+++++++++++++【以上、Kさんからのメール】

 このメールの内容を、車の中でワイフに話すと、ワイフは、こう言った。

 「それじゃ、子どもは、まるで、親のモノあつかいね」と。

 そう、私も、そう思う。たしかに私も、三人の息子を、育てたが、「育ててやった」という意識
は、ほとんど、ない。むしろ、人生を楽しませてもらった。感謝しこそすれ、息子たちに、私に感
謝しろと思ったことはない。

 まったく「ない」とは言わないが、しかしそれを口にしたら、おしまい。……と思っている。

 私とワイフは、息子たちを、望んで産んだ。しかし産んだ以上は、育てるのは、親の義務では
ないのか。どこまでいっても、親の義務。私はワイフに、こう言った。

 「栃木の義理の父親ね、卑怯だと思う。そういうふうに、自分の実娘でもない人向って、『親不
孝者!』と怒鳴るのは、おかしい。いえね、そういうふうに、怒鳴りながら、自分では、正論を言
っているつもりなんだろうね。

 そしてね、そういう言葉の裏で、嫁、つまりKさんの姉に、『お前は、オレには、そういうことを
するなよ』って、言っているんだよ。昔風の親が、よく使う手だよ。

 ぼくの知っている女性(75歳くらい)は、いつも、息子や娘たちに、いつもこう言っているよ。

 『Aさんとこの息子は、偉いもんじゃ。今度、母親を、沖縄へ連れていってやったそうだ』『Bさ
んとこの息子は、ひどいもんじゃ。親のめんどうをみるのがいやで、親を、老人ホームへ追い
やったそうだ』と。

 つまりそういう間接的な言い方をしてね、『お前も、ワシを、温泉へ連れて行け』『お前は、ワ
シを老人ホームへ入れるな』と言っているんだね。

 卑怯な言い方だよ」と。

ワ「Kさんという娘さん自身の、幸福は、どうなるのかしら」
私「いろいろな考え方があると思うけど、ぼくが、その親なら、娘のKさんに、こう言うだろうね。
『カナダから、わざわざ来なくてもいい。来られるときに来ればいい。心配するな』と」
ワ「私も、そうよ。……でも、日本では、親の死に目に会わない子どもは、親不孝者ということに
なっているでしょう」

私「ぼくは、かまわないよ。死ぬとき、お前だけがいてさえくれればね。ほかの人たちは、うるさ
いだけ」
ワ「私もかまわないわ。でも、できたら、息子たちにだけは会いたいわ」
私「だから、今のうちに、うんと会っておけばいい。どうせ死ぬときは、わからないよ」

ワ「そうよ。わからないわよ。その栃木の義理の父親ね、いやな人ね。自分の娘でもない、嫁
の妹に、そんなふうに言うなんて!」
私「きっと、権威主義的な人なんだよ。何も考えず、過去を繰りかえしているだけ。ノーブレイン
の人だよ。今でも、そういう人は、多いよ」
ワ「まだまだ、日本人も、後進国的ね」

私「そうだよ。世界的に見ると、日本人のしていることは、アフリカの原住民のしていることと、
そうはちがわないよ。少なくとも、世界の人は、日本人をそういう目で見ている。それがわから
ないところが、日本人の悲劇だね」
ワ「でも、Kさん、その言葉でキズついたと思うわ」
私「かわいそうだね。ぼくなら、『何も心配しなくてもいい。お母さんの心は、もう安らかだよ。葬
式ということになってもたいへんだから、日本へはこなくてもいいよ。こちらで、しっかりとしてお
くから』と言ってあげるよ」

ワ「私も、そう思うわ。カナダからだと、20時間は、かかるしね」
私「たいへんだよ。大切なのは、今、生きている人が、心穏やかに、安らかに生活することだ。
死んでいく人は、そういう人の幸福を、じゃましてはいけない」
ワ「たとえ、親でも?」
私「そうだよ。ぼくは、子どもに心配をかけたくない。負担もかけたくない。最後の最後までね…
…」

ワ「でも、あなたの葬式は、どうするの?」
私「だれも、来なくても、かまわない。本当に、かまわない。お前だけがいればね。静かに、だ
れにも知られずに、死にたい。通夜(つや)もいらない。あんな儀式、ムダだと思う。葬式なん
て、もっとムダだと思う。大切なことは、それまで、『今』を懸命に生きることだよ」
ワ「私が先に、死んだら……?」

私「ぼくが、ひとりで葬式をしてあげるよ。それとも、みんなに来てほしいかい?」
ワ「そうね、息子たちだけは、来られたら来てほしいわ」
私「わかった。一応、声はかけてみるよ。あとの判断は、息子たちに任せればいい」
ワ「そうね。無理を強いないでね。S(アメリカに住む二男)は、遠いし。いつかヒマなとき、来てく
れればいいわ」
私「そういうふうに言っておくよ」と。

 話をもとに戻すが、子どもは、決して、親のモノではない。

 どうして日本人よ、そんな簡単なことがわからないのか。子どもといっても、一人の人格をもっ
た人間だ。決して、モノと、見てはいけない。

 いつか日本人の意識が変って、親が、子どもを一人の人間としてみるときがきたら、この日
本も、やっと一人前の国になる。私たちが今、親としてすべきことは、そういう日本をめざして、
一歩でも、二歩でも、前に向って歩くこと。

【Kさんへ】

 今度、日本へ来て、大きなカルチャーショックを受けられたみたいですね。
 でもね、振り向かなくてもいいですよ。栃木の義理の父親の言っていることのほうが、おかし
いのです。まちがっているのです。

 そういうノーブレインな人がいるかぎり、日本は、よくなりません。日本は、まだ、あの江戸時
代という、封建時代の亡霊を、色濃く、引きずっているのです。

 過去の因習をもちだす人は、何も考えない、ノーブレインな人という意味です。「過去が正し
い」という前提でものを言うから、話になりません。一見、正論に見えますが、正論でも何でもな
いのです。ただの亡霊です。

 そういう亡霊とは、私のような人間が戦います。あなたはあなたで、前向きに生きていけばい
いのです。

 今どき、「親孝行」だの、「親不孝」だの、そんなこと言っているほうが、おかしいのです。それ
とも、そんな単語が、英語やフランス語にありますか? 

 だいたい「孝行論」を説くのは、子どもをもった、おとなたちです。おかしいですね。自分の子
どもに向かって、「自分を大切にしろ」と教えるのですから……。

 もちろん子どもが、自分で考えて、そうするなら、話は別です。しかしね、Kさん、親子というの
は、ひとつのワクにすぎません。親子といえども、そこは純然たる、一対一の人間関係です。

 もともと強い立場にいる親が、もともと弱い立場にいる子どもに向かって、「産んでやった」
「育ててやった」と、恩を着せるほうが、おかしいのです。日本人は、いつになったら、そのおか
しさに気づくのでしょうか。

 あなたはじゅうぶん、娘として、義務を果たしました。今は、お母さんは、意識がないので、何
とも言いませんが、きっと、私と同じことを考えていると思いますよ。

 「もう苦しまなくてもいいのよ」って、そう言っていると思いますよ。

 だからKさん、勇気を出して、前に進んでください。応援します。

 栃木のお父さんね、あんな人は、無視しなさい。化石のような人ですから。それからお姉さん
の件ですが、あまり気にしないように。お母さんが倒れて、きっと気が動転していたのだと思い
ます。

 仮に関係がおかしくなっても、しかたないでしょう。イギリスの格言にも、『二人の人に、いい顔
はできない』というのがありますね。

 しかたないことです。人生を長く生きれば生きるほど、味方になる人もいれば、敵になる人も
いるのです。私は、あなたの味方になります。ですから、こんなちっぽけな島国のことなど気に
せず、二人の娘さんを、カナダ人として、たくましく育てることだけを考えてください。

 どうか、がんばってください。またメールをください。
(040305)(はやし浩司 家族論 原S)

【付記】

 自分の子どもを育てながら、「私は、子どもの犠牲になっている」と感ずる、親は、少なくな
い。

 理由は、いろいろある。望まない結婚であったとか、望まない子どもであったとか、など。古い
因習を引きずっていることもある。昔は、子どもを、家の財産と考えた。

 日本の親がよく口にする、「産んでやった」「育ててやった」という言葉は、そういうところから
生まれる。

 で、さらにそれが進むと、「大学を出してやった」という言葉にもなる。

 たしかに今、子どもを大学へ送ると、かなりの負担が、親にのしかかってくる。そのため、ほと
んどの家庭では、まさに爪に灯をともすようにして、家計を切りつめ、子どもの学費を送る。

 そのとき、親子関係が、それなりに円満なものであれば、親も、苦労を喜びにかえることがで
きる。しかしそうでないときに、そうでない。

 中には、親のメンツのために、子どもを大学へ送るケースもある。こういうとき子どもは子ども
で、「(親がうるさいから)、大学へ行ってやる」などと言う。

 実際、そういうケースを、私は、知っている。

 アメリカなどでは、この点、親のスネをかじって大学へ通う子どもなど、さがさなければならな
いほど、少ない。奨学金を得るか、さもなければ、自ら借金をしながら、大学へ通う。

 そういうシステムが、完成している。

 で、Kさんのケースでは、Kさんの父親は、Kさんに向って、「親を捨てた」と言う。カナダ人と
結婚して、カナダに住むようになったことを、「捨てた」と。

 しかし、今、そういう時代ではない。「日本だ」「カナダだ」と言っているほうがおかしい。もっと
もKさんの父親が言っている「捨てた」という意味は、「親のめんどうをみる範囲から、離れた」
という意味と考えてよい。「自分のめんどうをみてくれない。だから捨てた」と。

 子ども自身の幸福を考えたら、絶対に出てこない言葉である。だいたい、これほど島国的な
言葉も、ない。またそんなことを言われたら、一番、キズつくのは、Kさん自身である。

 人間というのは、もともと孤独な存在だ。しかしその人間は、結婚し、子どもをもうけることで、
その孤独を忘れることができる。

 しかし孤独が消えるわけではない。「忘れることができる」だけ。やがて子どもたちが巣立つこ
ろ、再び、その孤独が、そこに見えるようになる。そのとき、その孤独に、しっかりと耐えるの
も、まさに親の役目ということになる。

 決して、子どもが、その孤独をもたらすのではない。子どもに向かって、「お前は、親を捨て
た」という暴言を吐く親は、その事実に気がついていない。

 そう、昔、まだ息子たちが小さかったころのこと。仕事の帰りに町で、おもちゃを買って帰るの
が、私の日課になっていた。

 そんなとき、自転車のカゴの中で揺れるおもちゃの箱を見ながら、どれほど、家路を急いだこ
とか。

 家へ帰ると、息子たちがみな、「パパ、お帰り!」と、飛びついてきた。

 私は、息子たちのおかげで、自分の人生を、本当に楽しむことができた。教えられたことも多
い。教えたことよりも、教えられたことのほうが、多いのでは……?

 今、その子育てを、ほとんど終えたが、そういう自分の過去を振りかえってみて、私は、息子
たちのために、犠牲になったという思いは、ミジンもない。

 むしろ、息子たちのおかげで、生きることに張りあいが生まれた。生きがいも生まれた。もし
息子たちがいなかったら、私は、こうまでがんばらなかっただろうと思う。その生きる原動力さ
え、私は息子たちからもらった。

 現に今。私は56歳。体力的にも、限界に近づきつつある。しかし三男が大学を卒業するま
で、まだ三年もある。その三年について、「どんなことをしてでも、あと三年はがんばるぞ」という
思いで、ふんばっている。毎日、健康を維持するために、運動にでかけるのも、そのためだ。

 そういう力も、結局は、息子たちが、くれた。もし私とワイフだけなら、きっと今ごろは、何をす
るでもなし、しないでもなし。そこらの年金生活者と同じような、意味のない人生を繰りかえして
いるだろうと思う。

 こう書きながらも、この日本には、Kさんの姉の、その義理の父親(栃木の父親)のような人も
いる。Kさんの父親のような人すら、いる。また、それなりにうまくいっている親子も、少なくな
い。(それが悪いと言っているのではない。誤解のないように!)

 それは事実だし、そういう人たちの意識を変えることは、容易ではない。あるいは不可能かも
しれない。

 が、今、この日本は、大きく変わろうとしている。フランス革命のような派手な革命ではない
が、しかし今、それに匹敵するような、意識革命が、日本人の心の奥で、深く静かに、進行して
いる。

 こうした流れを、『サイレント革命』と呼んでいる人もいる。日本人の意識が、あらゆる面で、
大きく変わりつつある。

 家族の意識、夫婦の意識、親子の意識、結婚の意識、親戚の意識、「家」に対する意識、職
業意識などなど。すべてが、変りつつある。

 もうこの流れを止めることは、だれにもできない。

 さあ、あなたも、あなたの子どもに、こう言ってみよう。

 「私は、あなたの友だちよ。いっしょに、人生を楽しみましょう!」と。

 たったそれだけのことが、あなたの中に巣くっている、古い意識を、こなごなに破壊する。そし
てあなたの意識が、ちょうどドミノ倒しのドミノのように、日本の中に残っている封建時代の亡霊
たちを、こなごなに破壊する。

 話がどこかバラバラになってしまったが、犠牲心があるということ自体、あなたの子育ては、
どこかおかしいということになる。その「おかしさ」に、できるだけ、早く気づくこと。それはあなた
の子どものためというよりは、あなた自身の、豊かな老後のためである。

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司


最前線の子育て論byはやし浩司(107)

●ふと、昔のことを……

だれかが、記憶の向こうで、私の名前を呼んだ。
「声」というのは、おもしろいものだ。
いくら記憶でも、その人の声とわかる。
それだけ、しっかりと脳に、きざまれているためか。

「浩司!」「浩司!」と。
姉か。私の名前を呼んだのは、姉か。

私は、子どものときから、暖かい家庭に、飢えていた。
父がそこにいて、母がそこにいて、家族がそこにいて、
みんなが、笑って、コタツにでも入って、どこか楽しそうに、
話しあう、そんな暖かい家庭に、飢えていた。

しかし私の家には、私の居場所すら、なかった。
一応、私の部屋は、あてがわれていたが、二方を大通りに面した、
冬は、寒く、夏は、暑い、そんな部屋だった。
落ちつかなかった。何をしても、落ちつかなかった。

それでも、当時としては、まだよいほうだったのかもしれない。
南隣のOさんの家は、六畳二間と、土間しかなかった。
そんな家に、両親と、三人の子どもが住んでいた。

道をはさんだ、Iさんの家は、六畳ていどの小さな店と、
その奥に一間しかないような家だった。
そんな家に、祖父と、両親と、一人息子の四人が住んでいた。

だから私たちは、みんな、真っ暗になるまで、近くの寺や、
道路で遊んだ。公園や、山の中で遊んだ。毎日が、そうだった。

缶けり、ぞうり隠し、ゴム跳び、鬼ごっこ、隠れんぼ、
パンコ、コマ回し、人生ゲーム、ワンバウンドテニス、
紙鉄砲、模型作り、野球版ゲーム、ワンバウンド野球などなど。

親は親で、私たちのことなど、かまっていなかった。
喧嘩をしてケガをしようが、またケガをさせようが、
そんなことは、すべて、私たち、子どもの問題だった。

小遣いは、一日、五円がよいところ。五〇銭というコインも、
まだ使われていた。たしか画用紙が一枚、その五〇銭だった。
私は五〇銭をもらうと、その画用紙を買い、絵を描いたり、
そのあと、今度は、切ったりつないだりして、何かを作って遊んだ。

しかし私の心は、いつも、モヤがかかったように、ふさいでいた。
夕方になると、ほとんど毎日、言いようのない不安感に襲われた。
そう、その夕方になると、父が、近くの酒屋で、酒を飲んだ。
私は、それがいやだった。いやで、いやで、たまらなかった。

ふだんは、つまり酒を飲んでいない父は、静かで、ひょうきんな父だった。
しかし、ひとたびアルコールが、入ると、人が変わった。
本当に変った。顔つきも、様子も、歩き方も、そしてしゃべり方も、
すべて変った。変って、怒鳴ったり、家の中のものを、こわしたりした。

いつかその父の顔が、夏の日の夕日を浴びて、真っ赤だったのを覚えている。
酒を飲んだ顔だったかもしれない。だから私はいつごろからか、
夕日が、こわくなった。あの赤い夕日を見ると、今でも、
あのときの父の顔と重なり、背筋がこおる。体がちぢむ。

とっくに忘れてよいはずなのに、どうして今になって、
あのころの私が、これほどまでに鮮明に思い出されるのか。
どうしてこの年齢になっても、夕日が、嫌いなのか。こわいのか。

今日も、小学一年生の生徒たちの顔を見ながら、私は、
自分のその時代を思い浮かべていた。そして「この子たちは、
私のあの時代の中に生きているのだな」と思った。
が、その瞬間、そこに遠い、遠い、時の流れを感じた。

「君たちは、家に帰るのが楽しいか?」と聞くと、みな、
「うん、そうだよ」と笑った。屈託なく、笑った。
「お父さんと、お母さんは、仲がいいか?」と聞くと、みな、
「ラブラブだよ」「仲がいいよ」と、笑った。

目の前にいるこの私は、いまだに重い過去をひきずっているというのに、
この明るさは、いったいどこからくるのか。
「今の子どもたちは、いいなあ」と思ってみたり、その一方で、
「私の子ども時代は、いったい、何だったのかなあ」と思ってみたりする。

時代が、時代だったのか?
私たちは、いつも、おなかをすかしていた。
食べるものはあったが、どれも、私の空腹感を満たさなかった。
大根の煮付けや、ひじき、イモ、豆腐……。そんなものばかりだった。

おかしなことだが、私は、学校の給食が、大好きだった。
学校では、ミルクを飲めた。スープも飲めた。
パンや大学イモを食べることができた。
これらは、家では、絶対に食べることができないものばかりだった。

私にとっては、あの時代が、すべてが暗いトンネルの、
その向こうの世界のように見える。
しかし今、この青い空の下に、そのころの私が、ここにいる。
だからもう一度、小学一年生たちに聞いてみる。

「君たちは、いつか、先生のような、おじいさんになるのかな?」と。
すると、先ほどよりも、さらに大きな声で笑いながら、こう言った。
「ぼくたちは、おじいさんには、ならないよ」と。

子どもたちにしてみれば、彼らの老後など、遠くの、遠くの、
そのまた遠くの、暗闇の中の世界なのだ。
トンネルのこちら側と、むこう側に立って、
私と、子どもたちが、たがいに顔を合わせながら、笑っている。

「先生が子どものころはね、どこの家も、
ボットン便所だったんだよ」と言うと、「何、それ?」と。
「先生が子どものころはね、みんなね、
ゴム靴だったんだよ」と言うと、「何、それ?」と。

で、さらに、「みんなは、いいなあ。やさしいパパと、ママがいるから……」と、
声をかけると、「ううん。ママは鬼ママだよ」と。一人がそう言うと、
みながこれまたつられて笑った。「うちのママも、鬼ママだよ」と。

年をとればとるほど、そのトンネルは長くなる。どんどん長くなる。
今、そのトンネルの向こう側を、懸命にのぞきながら、
私の子ども時代を、今の子どもたちを見ながら、さぐる。

また、だれかが私の名前を呼んだ。
「浩司!」「浩司!」と。
今度も聞き覚えのある声だった。顔も見える。
祖父だ。茶色い着物を着た、祖父だ。


++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

最前線の子育て論byはやし浩司(108)

●予算案、衆議院を通過

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以下、時事評論的で、あまりおもしろくないので、興味の
ない方は、とばしてください。すみません。

私の性格としては、こういう文章が得意で、書くのが好き
なのです。

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 04年度の国家予算案が、衆議院を通過した。

 それによると……という話では、よくわからない。
 そこで、わかりやすく説明すると、こういうことになる。

 たとえて言うなら、今の日本の国家経済は、年収が420万円の人が、借金に借金を重ねて、
820万円の生活を維持しているようなもの。(税収42兆円。一般合計82兆円)

 で、そのたまりにたまった借金が、8130万円。(来年度で、810兆円)つまり年収の、約20
倍! 

(実際には、地方財政、公団、公社の借金もある。あの旧国鉄債務だけでも、プラス20兆円も
ある。特殊法人の負債額だけでも、255兆円(00年)。これらを合計すると、軽く1000兆円を
超える。つまり一家にたとえると、1億円以上の借金ということになる。ゾーッ。1億円の借金だ
ぞ!)

 老人(年金受給者)をかかえているため、420万円のうち、半額以上が、その老人の生活費
のために使っている。しかたないので、今年も、1620万円(国債発行額は、162兆円)の借
金。

 年収420万円の人が、その2倍もかかる生活をつづけ、毎年、1620万円も借金をしたら、
どうなるか? 少し、家計簿をつけたことのある人なら、わかるはず。それにしても、8130万
円とは! そんな借金、どうすればいいのだ!

 ……実は、これが日本の現状である。

 が、オヤジも、同居老人も、仕事はしない。かろうじてがんばっているのは、民間会社に勤め
る、息子夫婦。少しは貯金もたまったようだ。オヤジも、同居老人も、それをアテにして、道楽
ざんまいの生活。今年も、庭や、玄関先を美しくするために、お金をかけることにした。その
額、320万円!

 あああ……という思いで、今日は、「日本の官僚主義」について、考えてみたい。

 念のため申しあげるなら、こうしたムダな生活のツケは、すべて、つぎの世代の子どもたち
が、払うことになる。

わかっていますか? 全国の、お父さん、お母さん!

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 月末のある日の、午後。郵便局で、立ったまま並んで待っていると、五、六人の老人たちが、
それぞれが、100万円近い、札束を、手づかみで、袋に入れてもって帰る。

 年金受給者たちである。しかもその額からして、みな、元公務員の人たち。ごくありふれた光
景かもしれないが、この世相のなかで見ると、どこか異様な感じがする。

 現在、現役の公務員(国家公務員と地方公務員)だけで、この日本には、450万人もいる。
が、実際には、これだけではない。

国家公務員と地方公務員の数だけをみれば確かにそうだが、日本にはこのほか、公団、公
社、政府系金融機関、電気ガスなどの独占的営利事業団体がある。

これらの職員の数だけでも、「日本人のうち7〜8人に一人が、官族」(徳岡孝夫氏)だそうだ。
が、これですべてではない。

この日本にはさらに、公務員のいわゆる天下り先機関として機能する、協会、組合、施設、社
団、財団、センター、研究所、下請け機関がある。この組織は全国の津々浦々、市町村の
「村」レベルまで完成している。あの旧文部省だけでも、こうした外郭団体が、1800団体近くも
ある。

 もうめちゃめちゃな数といってよい。しかも驚いていけないのは、この「数」は、今の今も、肥
大化している。まさに日本が、官僚主義国家といわれるゆえんは、こんなところにある。

 以前、こんな原稿を書いた。一部、重複するが、許してほしい。

++++++++++++++++++

●日本は官僚主義国家

 日本が民主主義国家だと思っているのは、日本人だけ。学生時代、私が学んだオーストラリ
アの大学で使うテキストには、「日本は官僚主義国家」となっていた。「君主(天皇)官僚主義国
家」となっているのもあった。

日本は奈良時代の昔から、天皇を頂点にいだく官僚主義国家。その図式は、二一世紀になっ
た今も、何も変わっていない。首相も、野党第一党の党首も、みな、元中央官僚。

全国四七の都道府県のうち、二七〜九の府県の知事は、元中央官僚。七〜九の県では副知
事も元中央官僚。七〜九の県では副知事も元中央官僚(〇〇年)。さらに国会議員や大都市
の市長の多くも、元中央官僚(筆者、調査)。

たとえばこの静岡県でも、知事も副知事も、みんな元中央官僚。浜松市の市長も、元中央官
僚。この地域選出の国会議員のほとんども元中央官僚。「長」は、中央から、ありがたくいただ
き、その長に仕えるというのが、このあたりでも政治の構図になっている。(だからといって、そ
れがまちがっているというのではない。誤解のないように!)

その結果、どうなった? 

 今、浜松市の北では、第二東名の道路工事が、急ピッチで進んでいる。その工事がもっとも
進んでいるのが、この静岡県。しかも距離は各県の中ではもっとも長い(静岡県は、太平洋岸
に沿って細長い県)。

実に豪華な高速道路で、素人の私が見ただけでもすぐわかるほど、金がかかっている。現存
の東名高速道路とは、格段の差がある。もう少し具体的にデータを見てみよう。

 この第二東名は、バブル経済の最盛期に計画された。そのためか、コストは、一キロあた
り、236億円。通常の一般高速道(過去五年)の5・1倍のコストがかかっている。一キロあたり
236億円ということは、一メートルあたり2300万円。総工費11兆円。国の年間税収が約42
兆円(04年)程度だから、何とこの道だけで、その四分の一も使うことになる。

片側三車線の左右、六車線。何もかも豪華づくめの高速道路だが、現存の東名高速道路にし
ても、使用量は、減るか、横ばい状態(02年)。つまり今の東名高速道路だけで、じゅうぶんと
いうこと。

国交省高速国道課の官僚たちは、「ムダではない」(読売新聞)と居なおっているそうだが、こ
れをムダと言わずして、何という。何でもないよりはあったほうがマシ。それはわかるが、そん
な論理で、こういうぜいたくなものばかり作っていて、どうする?

静岡県のI知事は、高速道路の工事凍結が検討されたとき(02年)、イの一番に東京へでか
け、先頭に立って凍結反対論をぶちあげていたが、そうでもしなければ、自分の立場がないか
らだ。

 みなさん、もう少し、冷静になろう! 自分の利益や立場ではなく、日本全体のことを考えよ
う。私とて、こうしてI知事を批判すれば、県や市関係の仕事が回ってこなくなる。損になること
はあっても、得になることは何もない。またこうして批判したからといって、一円の利益にもなら
ない。

 あの浜松市の駅前に立つ、Aタワーにしても、総工費が2000億円とも3000億円とも言わ
れている。複雑な経理のカラクリがあるので、いったいいくらの税金が使われたのか、また使
われなかったのか、一般庶民には、知る由もない。

が、できあがってみると、市民がかろうじて使うのは、地下の大中の二つのホールだけ。あの
程度のホールなら、400億円でじゅうぶんと教えてくれた建築家がいた。事実、同じころ、東京
の国立劇場は、その400億円で新築されている。豪華で問題になった、東京都庁ビルは、た
ったの1700億円!

浜松市は、「黒字になった」と、さかんに宣伝しているが、土地代、建設費、人件費のほとんど
をゼロで計算しているから、話にならない。が、それでムダな工事が終わるわけではない。そ
の上、今度は、静岡空港!

 これから先、人口がどんどん減少する中、いわゆる「箱物」ばかりをつくっていたら、その維
持費と人件費だけで、日本は破産してしまう。このままいけば、2100年には、日本の人口は、
今の三分の一から四分の一の、3000〜4000万人になるという。

日本中の労働者すべてが、公務員、もしくは準公務員になっても、まだ数が足りない。よく政府
は、「日本の公務員の数は、欧米と比べても、それほど多くない」と言う。が、これはウソ。まっ
たくのウソ!

国家公務員と地方公務員の数だけをみれば確かにそうだが、日本にはこのほか、公団、公
社、政府系金融機関、電気ガスなどの独占的営利事業団体がある。これらの職員の数だけで
も、「日本人のうち7〜8人に1人が、官族」(徳岡孝夫氏)だそうだ。が、これですべてではな
い。

この日本にはほかに、公務員のいわゆる天下り先機関として機能する、協会、組合、施設、社
団、財団、センター、研究所、下請け機関がある。この組織は全国の津々浦々、市町村の
「村」レベルまで完成している。あの旧文部省だけでも、こうした外郭団体が、1800団体近くも
ある。

 ちなみに、今の今、公務員(国家、地方公務員)だけでも、450万人もいる! 450万人だ
ぞ!

 今、公務員の人も、準公務員の人も、私のこうした意見に怒るのではなく、少しだけ冷静に考
えてみてほしい。「自分だけは違う」とか、「私一人くらい」とあなたは考えているかもしれない
が、そういう考えが、積もりに積もって、日本の社会をがんじがらめにし、硬直化させ、そして日
本の未来を暗くしている。

この大恐慌下で、今、なぜあなたたちだけが、安穏な生活ができるか、それを少しだけ考えて
みてほしい。もちろんあなたという個人に責任があるわけではない。責任を追及しているのでも
ない。

が、日本がかかえる借金は、1000兆円を超えた。国家税収がここにも書いたように、たった
の42兆円(04年)。国家税収の25倍以上! あなたたちの優雅な生活は、その借金の上に
成り立っている! 

 元公務員の人たちも、そうだ。毎年、「年金の支払いなどのため、一般会計の半額以上が、
特別会計(借金)に組み入れられている」(読売新聞)という事実を、あなたがたは、いったい、
どう考えているのか。わかりやすく言えば、あなたがたが手にする、月額30万円前後の年金
の半額以上は、国が借金に借金を重ねて、払っているということ。

 こういう私の意見に対して、メールで、こう反論してきた人がいた。「公共事業の70%は、人
件費だ。だから公共事業はムダではない」と。

 どうしてこういうオメデタイ人がいるのか。やらなくてもよいような公共事業を一方でやり、その
ために労働者を雇っておきながら、逆に、「70%は人件費だから、ムダではない」と。

これはたとえていうなら、毎日5回、自分の子どもに、やらなくてもよいような庭掃除をさせ、そ
のつどアルバイト料を払うようなものだ。しかも借金までして! それともあなたは、こう言うとで
もいうのだろうか。「アルバイト料の70%は、人件費だ。だからムダではない!」と。

 日本が真の民主主義国家になるのは、いつのことやら? 尾崎豊の言葉を借りるなら、「しく
まれた自由」(「卒業」)の中で、それを自由と錯覚しているだけ? 政府の愚民化政策の中で、
それなりにバカなことをしている自由はいくらでもある。またバカなことをしている間は、一応の
自由は保障される。

巨人軍のM選手が、都内を凱旋(がいせん)パレードし、それに拍手喝さいするような自由は
ある。人間国宝の歌舞伎役者が、若い女性と恋愛し、チンチンをフォーカスされても、平気でい
られるような自由はある(02年)。しかし日本の自由は、そこまで。その程度。しかしそんなの
は、真の自由とは言わない。絶対に言わない。

 少し頭が熱くなってきたから、この話は、ここでやめる。しかし日本が真の民主主義国家にな
るためには、結局は、私たち一人ひとりが、その意識にめざめるしかない。そしてそれぞれの
地域から、まずできることから改革を始める。政治家がするのではない。役人がするのではな
い。私たち一人ひとりが、始める。道は遠いが、それしかない。

●官僚政治に、もっと鋭い批判の目を向けよう!
●ムダなことにお金を使わず、子どもの養育費、学費の負担を、もっと軽くしよう!

+++++++++++++++++++++++

●公務員志望が、ナンバーワン

 02年度の冬のボーナスの結果が、出た。それによると、民間企業は、昨年度より、全体に4
〜5%の下落。しかしこの大恐慌下にあっても、公務員のボーナスだけは、反対にふえつづけ
ている。全体に3〜4%の増加!

 数年前、財団法人日本青少年研究所(千石保理事長)などが東京、ソウル、ニューヨーク、
パリの中学二年生と高校二年生、計約3700人を対象に実施。その結果、希望する職業は、
日本では公務員や看護婦などが上位。米国は医師や政治家、フランスは弁護士、韓国は医
師や先端技術者が多かった。

人生の目標では、日本の生徒は「人生を楽しむ」が61・5%と最も多く、米国は「地位と名誉」
(40・6%)、フランスは「円満な家庭」(32・4%)ということがわかった(〇〇年七月)。

 それぞれの公務員の人に、責任があるわけではない。またそういう人の、責任を追及してい
るわけでもない。ただしかし、このままでよいかということ。こうまで日本で、公務員や準公務員
がふえ、またこうまでこうした人たちが優遇されると、日本の社会そのものが、活力をなくしてし
まう。もちろん経済力も落ちる。そのことは、旧ソ連を見ればわかる。今の北朝鮮をみればわ
かる。

元公務員の人たちも、そうだ。毎年、「年金の支払いなどのため、一般会計の半額以上が、特
別会計(借金)に組み入れられている」(読売新聞)という事実を、あなたがたは、いったい、ど
う考えているのか。わかりやすく言えば、あなたがたが手にする、月額30万円前後の年金の
半額以上は、国が借金に借金を重ねて、払っているということ。
 
お金は天から降ってくるものではない。地からわいてくるものでもない。しかしこの日本では、そ
んなわかりきったことすら、わからなくなってきている? H市の市役所に勤めるE氏(四五歳)
は、はからずもこう言った。「デフレになったおかげで、私ら、生活が楽になりました」と。

●知事も市長も、国会議員も、元官僚

 本来なら、政治によって、日本の流れを変えなければならないが、その政治そのものが、官
僚の思うがままに、動かされている。

総理大臣以下、野党の党首すら、元中央官僚。全国四七の都道府県のうち、27〜9の府県
の知事は、元中央官僚。7〜9の県では副知事も元中央官僚。7〜9の県では副知事も元中
央官僚(〇〇年)。さらに国会議員や大都市の市長の多くも、元中央官僚。明治の昔から、全
国の津々浦々まで、官僚が日本を支配するという構図そのものが、すでにできあがっている。
こういう国で、構造改革、つまり官僚体制の是正を期待するほうが、おかしい。

その結果、国の借金だけでも813兆円(国の税収は42兆円)(04年)。そのほか、特殊法人
の負債額だけでも255兆円(〇〇年)。「日本は新しいタイプの社会主義国家」と言う学者もい
る。が、だ。さらに驚くべきことは、こういう日本にあっても、公務員や準公務員、さらに官僚体
制にぶらさがる団体の職員数は、減るどころか、今の今も肥大し続けている!

●日本はこれでよいのか?

 この国がこれから先、どうなるか、そんな程度のことなら、中学生や高校生でもわかる。日本
は、やがて行きつくところまで、行く。が、こうなってしまったのは、結局は、日本人が、そのつ
ど、「考える」ということを放棄してしまったからではないのか。その責任は、政府にあるのでは
ない。官僚にあるのでもない。私たち自身にある。

もう一五年も前になるだろうか。明日は国政選挙の日というとき、一人の子ども(小五男児)
が、こう言った。「明日は、浜名湖で、パパとウィンドサーフィンをする」と。私が「お父さんは、選
挙には行かないのか?」と聞くと、「あんなの行かないって、言っている」と。こういう無関心が、
積もりに積もって、今の日本をつくった。

 選挙のたびに、低投票率が問題になるが、その低投票率をもっとも喜んでいるのは、皮肉な
ことに、官僚たちではないのか。国民の政治意識が薄くなればなるほど、好き勝手なことがで
きる。

 また私のようなものが、こんなことを訴えても、何にもならない。彼らにしてみれば、その立場
にない私の意見など、腹から出るガスのようなものだ。その立場にある人でも、この日本では、
反官僚主義をかかげたら、それだけで、排斥されてしまう。仕事すら回ってこない。

あるいはこれだけ公務員や準公務員が多くなると、あなたの家族の中にも、一人や二人は、
必ずそういう人がいる。あるいはあなた自身がそうかもしれない。そういう現実があるから、内
心ではおかしいと思っていても、だれも反旗をひるがえすことができない。へたに騒げば、自分
で自分のクビをしめることになる。

 公務員が、人気業種ナンバーワンというのは、そういう意味でも、実に悲しむべき、現象と考
えてよい。あなたもこの問題を、一度、じっくりと考えてみてほしい。

【追記】

すこし前、K県A高校の校長が、「フリーター撲滅論」を唱えた。「フリーターというのは、まともな
仕事ではない」と。「撲滅」というのは、「たたきつぶす」という意味である。私はこの言葉に、猛
烈に反発した。

その校長が言うところの、「まともな仕事」というのは、どういう仕事のことを言うのか。仕事にま
ともな仕事も、まともでない仕事も、ない。

私は幼稚園講師になったとき、さんざんこの言葉を浴びせかけられた。母にも言われた。叔父
にも言われた。高校時代の担任にも言われた。その言葉で、私はどれほど自信をなくし、キズ
ついたことか。具体的には、30歳をすぎるまで、自分の職業を隠した。

しかし社会的なきびしさという点では、自分で選んだ道とはいえ、その校長とは、比較にならな
い。そういうきびしさが、日本を下から支えているのだ。決して、こういう校長が、日本を下から
支えているのではない。それがわからなければ、一度でよいから、この大不況下で、職業安定
所を出入りする元サラリーマンの気持ちになって考えてみることだ。

それともリストラにあった人は、「まともな人間ではない」とでも、言うのだろうか?


++++++++++++++++++++++

●公務員国家

 子どもをリーダーにするために……と書いて、ハタと困ってしまった。親たちがそれを望んで
いないケースも多い。いろいろな調査結果をみても、最近の親たちは、「子どもたちに就(つ)い
てほしい仕事」として、「公務員」を選んでいるのがわかる。理由は、「安定」と「楽」。

 しかし「教育」というのは、「個人」の立場と、「全体」の立場の二つで考えなければならない。
全体というのは、現時点では、「国」ということになる。国の未来を考えるなら、「競争」と「きびし
さ」がないと発展しない。つまり今までの日本がここまで発展できたのは、その競争ときびしさ
があったからである。またこれから先、日本の未来が暗いのは、その競争ときびしさが、どこか
へ消えてしまったからである。

たとえば今、アジアの経済拠点は、シンガポールに移ってしまった。2015年を境に、日本と中
国の立場は逆転するだろうと言われている。今の今、かろうじて日本が今の日本の立場を守
ることができるのは、日本全体が、いわば世界のサラ金的な役割をしているからにほかならな
い。

 そういう世界情勢も一方でにらみながら、教育を考えなければならない。もっとはっきり言え
ば、仮にこれ以上、(すでに限界を超えて肥大化しているが……)、公務員がふえて、そういう
人たちが、権利の王国に安住するようになったら、日本は、おしまいということ。

国家公務員、地方公務員の数だけで、450万人前後と言われている。が、それだけではな
い。電気ガス事業団体、公団、公社、さらにはこうした人たちの天下り先機関まで含めると、日
本人の労働者のうち、7〜8人に一人が、公務員もしくは、準公務員と言われている。

 それぞれの人には、もちろん責任はない。しかし公務員というのは、本来的にリーダーシップ
をもちにくい職種の人たちである。それはわかる。また組織上、そういうリーダーシップをもて
ばもつほど、集団からは敬遠されるしくみになっている?

 こうした現状を打破するには、二つの方法がある。一つは、思い切って公務員の数を減ら
す。もう一つは、公務員の世界にも、競争ときびしさの原理を導入する。あるいは二つを、同時
進行させる。

公務員になったから、死ぬまで安泰という制度のほうが、おかしい。少なくとも、日本を取り巻く
世界の国々は、そういう常識では動いていない。
(040306)(はやし浩司 公務員 準公務員 原S)

【後記】

 こういう意見を述べると、「林は、共産党員か」と言う人もいる。しかし私はここで、はっきりと
明言しておく。

 私は、共産党員でも、何でもない。「おかしいことは、おかしい」と言う、ただの常識人である。

 それに私が信奉するのは、共産主義ではない。民主主義である。むしろ今の日本の社会
は、「新しいタイプの社会主義国家」と評する学者がいる。これだけ公務員社会が肥大化してく
ると、それもまちがっていない。私は、その「新しいタイプの社会主義国家」にすら、反対してい
るのである。

 どうか、誤解のないように。

 それに同じ公務員でも、学校の先生たちは、まったく別。忙しさという点だけでも、一般公務
員とは、比較にならない。

今、全国の自治体では、教員だけは、約20%アップの給料体系をとっている。しかしそれで
も、足りないのではないのかというのが、私の実感である。

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もう一つ、ショッキングな事実を、掲載しておきます。

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日本の教育を考える     

●遅れた教育改革

 少し、古い資料で恐縮だが、二〇〇二年一月の段階で、東証外国部に上場している外国企
業は、たったの三六社。この数はピーク時の約三分の一(九〇年は一二五社)。

さらに二〇〇二年に入って、マクドナルド社やスイスのネスレ社、ドレスナー銀行やボルボも撤
退を決めている。

理由は「売り上げ減少」と「コスト高」。売り上げが減少したのは不況によるものだが、コスト高
の要因の第一は、翻訳料だそうだ(毎日新聞)。悲しいかな英語がそのまま通用しない国だか
ら、外国企業は何かにつけて日本語に翻訳しなければならない。

 これに対して金融庁は、「投資家保護の観点から、上場先(日本)の母国語(日本語)による
情報開示は常識」(同新聞)と開き直っている。

日本が世界を相手に仕事をしようとすれば。今どき英語など常識なのだ。しかしその実力はア
ジアの中でも、あの北朝鮮とビリ二を争うしまつ。日本より低い国はモンゴルだけだそうだ(TO
EFL・国際英語検定試験で、日本人の成績は、一六五か国中一五〇位・九九年)。

日本の教育は世界の最高水準と思いたい気持ちはわからないでもないが、それは数学や理
科など、ある特定の科目に限った話。日本の教育水準は、今ではさんたんたるもの。今では分
数の足し算、引き算ができない大学生など、珍しくも何ともない。「小学生レベルの問題で、正
解率は五九%」(国立文系大学院生について調査、京大・西村)だそうだ。

●日本の現状

 東大のある教授(理学部)が、こんなことを話してくれた。「化学の分野には、一〇〇〇近い
分析方法が確立されている。が、基本的に日本人が考えたものは、一つもない」と。

オーストラリアあたりでも、どの大学にも、ノーベル賞受賞者がゴロゴロしている。しかし日本に
は数えるほどしかいない。あの天下の東大には、一人もいない。(退職教授でも、たったの一
人だけ。)

ちなみにアメリカだけでも、二五〇人もの受賞者がいる。ヨーロッパ全体では、もっと多い。

「日本の教育は世界最高水準にある」と思うのはその人の勝手だが、その実態は、たいへん
お粗末。今では小学校の入学式当日からの学級崩壊は当たり前。はじめて小学校の参観日
(小一)に行った母親は、こう言った。「音楽の授業ということでしたが、まるでプロレスの授業で
した」と。

●低下する教育力

 こうした傾向は、中学にも、そして高校にも見られる。やはり数年前だが、東京の都立高校
の教師との対話集会に出席したことがある。その席で、一人の教師が、こんなことを言った。

いわく、「うちの高校では、授業中、運動場でバイクに乗っているのがいる」と。すると別の教師
が、「運動場ならまだいいよ。うちなんか、廊下でバイクに乗っているのがいる」と。そこで私が
「では、ほかの生徒たちは何をしているのですか」と聞くと、「みんな、自動車の教習本を読んで
いる」と。

さらに大学もひどい。大学が遊園地になったという話は、もう一五年以上も前のこと。日本では
大学生のアルバイトは、ごく日常的な光景だが、それを見たアメリカの大学生はこう言った。
「ぼくたちには考えられない」と。

大学制度そのものも、日本のばあい、疲弊している! つまり何だかんだといっても、「受験」
が、かろうじて日本の教育を支えている。もしこの日本から受験制度が消えたら、進学塾はも
ちろんのこと、学校教育そのものも崩壊する。

確かに一部の学生は猛烈に勉強する。しかしそれはあくまでも「一部」。内閣府の調査でも、
「教育は悪い方向に向かっている」と答えた人は、二六%もいる(二〇〇〇年)。九八年の調査
よりも八%もふえた。むべなるかな、である。

●規制緩和は教育から

 日本の銀行は、護送船団方式でつぶれた。政府の手厚い保護を受け、その中でヌクヌクと
生きてきたため、国際競争力をなくしてしまった。しかし日本の教育は、銀行の比ではない。護
送船団ならぬ、丸抱え方式。教育というのは、二〇年先、三〇年先を見越して、「形」を作らね
ばならない。

が、文部科学省の教育改革は、すべて後手後手。南オーストラリア州にしても、すでに一〇年
以上も前から、小学三年生からコンピュータの授業をしている。メルボルン市にある、ほとんど
のグラマースクールでは、中学一年で、中国語、フランス語、ドイツ語、インドネシア語、日本語
の中から、一科目選択できるようになっている。

もちろん数学、英語、科学、地理、歴史などの科目もあるが、ほかに宗教、体育、芸術、コンピ
ュータの科目もある。芸術は、ドラマ、音楽、写真、美術の各科目に分かれ、さらに環境保護
の科目もある。もう一つ「キャンプ」という科目があったので、電話で問い合わせると、それも必
須科目の一つとのこと(メルボルン・ウェズリー・グラマースクール)。 

 さらにこんなニュースも伝わっている。外国の大学や高校で日本語を学ぶ学生が、急減して
いるという。カナダのバンクーバーで日本語学校の校長をしているM氏は、こう教えてくれた。

「どこの高等学校でも、日本語クラスの生徒が減っています。日本語クラスを閉鎖した学校もあ
ります」と。こういう現状を、日本人はいったいどれくらい知っているのだろうか。

●規制緩和が必要なのは教育界

 いろいろ言われているが、地方分権、規制緩和が一番必要なのは、実は教育の世界。もっと
はっきり言えば、文部科学省による中央集権体制を解体する。地方に任すものは地方に任
す。せめて県単位に任す。

だいたいにおいて、頭ガチガチの中央に居座る文部官僚たちが、日本の教育を支配するほう
がおかしい。日本では明治以来、「教育というのはそういうものだ」と思っている人が多い。が、
それこそまさに世界の非常識。あの富国強兵時代の亡霊が、いまだに日本の教育界をのさば
っている!

 今まではよかった。「社会に役立つ人間」「立派な社会人」という出世主義のもと、優良な会社
人間を作ることができた。「国のために命を落とせ」という教育が、姿を変えて、「会社のために
命を落とせ」という教育に置きかわった。

企業戦士は、そういう教育の中から生まれた。が、これからはそういう時代ではない。日本が
国際社会で、「ふつうの国」「ふつうの国民」と認められるためには、今までのような教育観は、
もう通用しない。いや、それとて、もう手遅れなのかもしれない。

 いや、こうした私の意見に対して、D氏(六五歳・私立小学校理事長)はこう言った。「まだ日
本語もよくわからない子どもに、英語を教える必要はない」と。つまり小学校での英語教育は、
ムダ、と。

しかしこの論法がまかり通るなら、こうも言える。「日本もまだよく旅行していないのに、外国旅
行をするのはムダ」「地球のこともよくわかっていないのに、火星に探査機を送るのはムダ」
と。私がそう言うと、D氏は、「国語の時間をさいてまで英語を教える必要はない。しっかりとし
た日本語が身についてから、英語の勉強をしても遅くはない」と。

●多様な未来に順応できるようにするのが教育

 これについて議論を深める前に、こんな事実がある。アメリカの中南部の各州の小学校で
は、公立小学校ですら、カリキュラムを教師と親が相談しながら決めている。

たとえばルイサ・E・ペリット公立小学校(アーカンソー州・アーカデルフィア)では、四歳児から
子どもを預かり、コンピュータの授業をしている。近くのヘンダーソン州立大学で講師をしてい
る知人にそのことについて聞くと、こう教えてくれた。

「アメリカでは、多様な社会にフレキシブル(柔軟)に対応できる子どもを育てるのが、教育の目
標だ」と。

事情はイギリスも同じで、在日イギリス大使館のS・ジャック氏も次のように述べている。「(教
育の目的は)多様な未来に対応できる子どもたちを育てること」(長野県経営者協会会合の
席)と。

オーストラリアのほか、ドイツやカナダでも、学外クラブが発達していて、子どもたちは学校が
終わると、中国語クラブや日本語クラブへ通っている。こういう時代に、「英語を教える必要は
ない」とは!

●文法学者が作った体系

 ただ英語教育と言っても、問題がないわけではない。日本の英語教育は、将来英語の文法
学者になるには、すぐれた体系をもっている。数学も国語もそうだ。将来その道の学者になる
には、すぐれた体系をもっている。理由は簡単。

もともとその道の学者が作った体系だからだ。だからおもしろくない。だから役に立たない。こう
いう教育を「教育」と思い込まされている日本人はかわいそうだ。子どもたちはもっとかわいそ
うだ。たとえば英語という科目にしても、大切なことは、文字や言葉を使って、いかにして自分
の意思を相手に正確に伝えるか、だ。

それを動詞だの、三人称単数だの、そんなことばかりにこだわっているから、子どもたちはま
すます英語嫌いになる。ちなみに中学一年の入学時には、ほとんどの子どもが「英語、好き」と
答える。が、一年の終わりには、ほとんどの子どもが、「英語、嫌い」と答える。

●数学だって、無罪ではない 

 数学だって、無罪ではない。あの一次方程式や二次方程式にしても、それほど大切なものな
のか。さらに進んで、三角形の合同、さらには二次関数や円の性質が、それほど大切なものな
のか。

仮に大切なものだとしても、そういうものが、実生活でどれほど役に立つというのか。こうした教
育を正当化する人は、「基礎学力」という言葉を使って、弁護する。「社会生活を営む上で必要
な基礎学力だ」と。

もしそうならそうで、一度子どもたちに、「それがどう必要なのか」、それを説明してほしい。「な
ぜ中学一年で一次方程式を学び、三年で二次方程式を学ぶのか。また学ばねばならないの
か」と、それを説明してほしい。

その説明がないまま、問答無用式に上から押しつけても、子どもたちは納得しないだろう。現
に今、中学生の五六・五%が、この数学も含めて、「どうしてこんなことを勉強しなければいけ
ないのかと思う」と、疑問に感じているという(ベネッセコーポレーション・「第三回学習基本調
査」二〇〇一年)。

●教育を自由化せよ

 さてさきほどの話。英語教育がムダとか、ムダでないという議論そのものが、意味がない。こ
ういう議論そのものが、学校万能主義、学校絶対主義の上にのっている。

早くから英語を教えたい親がいる。早くから教えたくない親もいる。早くから英語を学びたい子
どもがいる。早くから学びたくない子どももいる。早くから英語を教えるべきだという人がいる。
早くから教える必要はないという人もいる。

要は、それぞれの自由にすればよい。今、何が問題かと言えば、学校の先生がやる気をなくし
てしまっていることだ。雑務、雑務、その上、また雑務。しつけから家庭教育まで押しつけられ
て、学校の先生が今まさに窒息しようとしている。

ある教師(小学五年担任、女性)はこう言った。「授業中だけが、体を休める場所です」と。「子
どもの生きるの、死ぬのという問題をかかえて、何が教材研究ですか」とはき捨てた教師もい
た。

そのためにはオーストラリアやドイツ、カナダのようにクラブ制にすればよい。またそれができ
る環境をつくればよい。「はじめに学校ありき」ではなく、「はじめに子どもありき」という発想で
考える。それがこれからの教育のあるべき姿ではないのか。

また教師の雑務について、たとえばカナダでは、教師から雑務を完全に解放している。教師は
学校での教育には責任をもつが、教室を離れたところでは一切、責任をもたないという制度が
徹底している。

教師は自分の住所はおろか、電話番号すら、親には教えない。だからたとえば親がその教師
と連絡をとりたいときは、親はまず学校に電話をする。するとしばらくすると、教師のほうから親
に電話がかかってくる。こういう方法がよいのか悪いのかについては、議論が分かれるところ
だが、しかし実際には、そういう国のほうが多いことも忘れてはいけない。

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

最前線の子育て論byはやし浩司(109)

●受験シーズン

 今日は、国公立大学前期の合格発表の日(3月6日)。午後12時。ラジオのニュースは、そ
のことばかり。

 「S県の、K県立大学では、合格に喜ぶ受験生たちが、たがいに胴上げをして祝っています」
と。

 ついでレポーターが、合格した受験生にマイクを向けたらしい。

レポーター「だれに、報告しましたか?」
合格した受験生「両親に、電話をしました。それと、部活の顧問の先生です」
レ「喜んでくれましたか?」
受「みんな喜んでくれました。電話をしている間に、涙が出てきました」と。

 私は、そのニュースを聞きながら、K君のことを、心配した。東北にあるT国立大学を受験し
たはずである。

私「K君は、どうだったのだろう?」
ワイフ「合格したかしら?」
私「あの大学は、むずかしいから……」と。

 K君は、幼稚園の年中児のときから、私の教室へ来てくれた。そしてつい数か月前の、昨年
の11月まで、通ってくれた。

 途中、父親が胃がんで倒れ、そのまま他界。それから5、6年。父親がわりとは言わないが、
私は、その何百分の一かの思いをもって、週一回の家庭教師をつづけてきた。

 月謝は、14年前の月謝の半額。率直に言えば、1万円だった。

 本当は、ただでもよかったが、そうすれば、かえってK君やK君の母親が、負担に感じてしま
う。だから1万円だけ、もらった。学生のアルバイトでも、3〜5万円が相場である。医学部の学
生だと、7〜10万円が相場である。

ワ「K君は、心のやさしい子だったわね」
私「そう、ああいう子どもが成功しないようでは、この世はおしまいだよ」
ワ「本当に、そうね」と。

 が、その日、数時間待ったが、K君からは、何も連絡はなかった。何度も、留守番電話をの
ぞいてみたが、伝言も入っていなかった。

 そんなとき、書斎にいると、ワイフから、「○○町のAさんから、電話!」と。

 電話口に出ると、Aさん(A子さんの母親)が、興奮したおももちで、「先生、うちの娘が、AA大
学に合格しましたア!」と。

 Aさんというは、やはり幼稚園の年中児のときから、中学三年生まで教えた生徒である。頭の
中で、Aさんのことを懸命に思い出しながら、「よかったですね」と。喜んでみせるものの、どこ
か気分が晴れない。

 私は、もともとそんな器用な人間ではない。一応、その場をとりつくろうのはうまいが、しかし
心の中身まで、変えることはできない。やはりK君のことが気になる。

 夕方になって、青い空が色を失い始めたころ、昼のニュースを思い出していた。そして、ふ
と、こう思った。

 「あのラジオの受験生は、部活の顧問の先生に報告したという。そしてその顧問の先生は、
その子どもの合格発表を、喜んだという。しかしそれは本当だろうか」と。

 とくに思い入れの深かった子どもは別として、10人の受験生のうち、5人が合格して、5人が
不合格だったら、その先生は、どんな気分になるのだろうか。先生にもよるのだろうが、私の
ばあい、不合格になった子どものほうが、合格した子どもよりも、何倍も、気になる。

 合格した子どもと、不合格になった子どもが、半々のときは、喜びと落胆が半々になるという
わけではない。いや、そういうことはありえない。9人合格しても、1人不合格になれば、喜び
は、帳消しになる。

 合格した子どもの電話を受け取って、喜んでみせる。が、その直後、今度は、不合格になっ
た子どもの電話を受け取って、悲しんでみせる。そんな器用なこと、できるのだろうか。

 夜になっても、K君からは電話がなかった。私もワイフも、そのことについては話さなかった。
どこか気分がふさいだままだった。

 そんな私から、みなさんへ、一言。

 私のような仕事をしているものが、本当にうれしいのは、子どもの合格ではない。本当にうれ
しいのは、不合格になった子どもが、電話をしてきて、「先生、だめでした」と言ってくれること。

 不合格になったのがうれしいのではない。不合格になっても、それを乗りこえて、「がんばりま
す」と言ってくれるのが、うれしい。

 私の幼児クラスの生徒たちも、毎年一月に、地元のS小学校の入学試験を受ける。私自身
は、入試の結果については、いっさい、関知しないようにしている。が、それでも、合否の情報
は、否応なしに、耳に入ってくる。

 私がいくら、「BW(=私の教室)は、受験塾ではありません」と言っても、その段階で、教室を
去っていく人は、何割かいる。合格したので、去っていく人。不合格だったので、去っていく人。
しかしそういう人の中で、不合格になっても、来てくれる人がいる。

 私は、そういう生徒をみると、本当にうれしい。どういうわけか、うれしい。私の指導方針を本
当に理解してくれる人というのは、そういう人をいう。だから、うれしい。

 そういうとき、私は、心の中で、こう叫ぶ。「あなたが来るというなら、いつまでも、どんなことが
あっても、教えてあげるからね」と。

 K君も、そういう子どもだった。みんなが受験塾へ移るときも、彼だけは、残ってくれた。また
K君は、高校入試では、地元でもナンバーワンと言われているS高校の受験にも失敗してい
る。それでも来てくれた。

 だから私は、最後の最後まで教えた。たった一人の生徒だったが、教えた。それが私のやり
方だった。

 夜、九時になった。電話はなかった。

 だから、私から、電話をしてみることにした。私のほうから、こういうことで電話するのは、この
10年で、はじめてのことだった。

 最初、電話には、K君の母親が出た。

母「大学は、東北大学をやめて、東工大にしました。で、結果発表は、10日なんです。今のと
ころ、慶応と、東京理科の両方に受かっています」と。

 つぎにK君が出た。

私「センター(試験)では、何点取ったのか?」
K「900点満点中、748点、取れました」
私「エーッ、すごいじゃないか。よくがんばったね」
K「うん」と。

 センター試験で、700点取れば、国公立大学の医学部にさえ進学できる。K君は、748点だ
という。

私「東工大は、心配ないね」
K「うん」と。

 よほど自信があるのか、声は明るかった。

 私は、ほっとした。うれしかった。本当に、うれしかった。何と言っても、私が14年間、教えた
子どもである。それも最後まで私の教室に残ってくれた。

 私はいつもそのK君を教えながら、「高校生を教えるのは、K君が最後だ」と、心に言い聞か
せていた。そう、K君が、その最後の生徒になった。これで私は、高校生の指導から、心置きな
く、引退できる。

 3月6日。今日は、国公立大学入試の合格発表の日。今、時刻は、9時20分になったとこ
ろ。やっと、心の霧が晴れた。
(040306)(はやし浩司 最後の高校生 久保田君 大学入試 原E)

【高校生を教えるとき】 

 K君は、私にとって、最後の高校生になった。

 その高校生を教えるときの、最大のコツは、「教えないこと」。
 本人のやりたいように、やらせ、あとは、暖かく無視すること。もちろん質問をしてきたとき
は、別である。そのときは、教える。しかし、暖かく無視するのが、一番、よい。理由がある。

 週1回、2時間程度、家庭教師をしたくらいでは、絶対に、成績は、伸びない。大切なのは、
教えることではなく、勉強グセをつけること。

 よく予備校のコマーシャルか何かで、講師が、ガンガンと、がなって指導している風景が紹介
される。

 しかし高校生のばあい、そういう指導で、効果があるのは、低いレベルの学生と考えてよい。
K君のように、トップクラスをねらうときは、大切なのは、「勉強グセ」。教える側は、ただ静か
に、それを見守る。

 あとは、方向性だけは、つけてあげる。参考書の選び方や、勉強方法など。そう、教えるの
は、「方法」であって、「中身」ではない。

 本人は、そういう教え方を、不安に思ったりするかもしれない。そういうときは、受験指導では
なく、今度は、人間的な指導をする。人生論や、哲学や心理学の話をする。それをするから、
「指導」という。

 要するに、安心感を与えるということか。K君も、勉強というよりは、どこか息抜きにきていた
ようなところがある。とくに高校三年生になってからは、そうだった。

 年末に近づいたとき、私は、K君に、こう言った。

 「もう、時間がもったいないと思ったら、来なくていいよ。自分で判断するんだよ」と。

 しかしK君は、最後まで来てくれた。そしてこれはあとからK君のお母さんから聞いた話だが、
K君は、「毎晩、かわいそうなくらい勉強しました」とのこと。つまり自分でそうするように、子ども
を誘導していく。

 が、実際、高校生を教えるのは、決して、楽ではない。まさに体力と知力の勝負。このところ、
その限界を強く感ずる。だから、私は、K君を最後に、高校生の指導からは、手を引くことにし
た。

 もしみなさんの中で、家庭教師にせよ、何であるにせよ、高校生を指導することがあったら、
ここに書いたことを、思い出してみてほしい。きっと、役にたつと思う。

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

最前線の子育て論byはやし浩司(110)

【近況・あれこれ】

●ゴミの中に咲く花

 ワイフとドライブしているときのこと。

 少し複雑な、六つ角(五本の道が、複雑に、三叉路と四つ角をつくっているところ)へ、さしか
かった。私たちは、進入してくる車のために、かなり手前に車をとめた。

 するとそこへ右のほうから、車がやってきて、その車も、かなり手前で、車を止めた。やはり
進入してくる車のためである。

 ふだんだと、その六つ角は、ギリギリまで車を寄せあうところである。そしてそのたびに、不愉
快な思いをするところである。ときに、進入してくる車と、「どけ!」「お前こそ、どけ!」と、喧嘩
になることもある。

 また手前に車を止めると、うしろからクラクションを鳴らされることもある。「前につめろ」という
合図である。あるいはさらにそういう止め方をすると、右方向からつぎつぎと車がやってきて、
自分たちの車は、大通りへ出られないこともある。

 しかし私たちは、いつも、かなり手前に、車をとめる。するとたいてい、右側からきた車が、そ
こへ割りこんでくる。しかし、昨日は、ちがった。右側の車も、かなり手前に止めた。

「珍しいね」と私が言うと、ワイフもそれに気づいたのか、「そうね」と。

 で、やがて信号が、青になった。車が一斉に、動き出した。そのときのこと。私たちが遠慮が
ちに車を走らせると、右側の車も、どこか遠慮がちに、こちらの動きをうかがっているといった
ふうだった。

 で、そういうふうに、たがいに遠慮がちに車を走らせながら、私たちの車が先になって、大通
りへ出た。

「ああいう、いいドライバーもいるんだね」と私。
「本当に、いいドライバーね。この浜松では、珍しいわね」とワイフ。

 この浜松では、ここ数年、本当に、ドライバーのマナーが悪くなった。信号が黄色になって、
車を止める人は、まず、いない。赤になっても止めない。さらに隣の信号が、青になっても、止
めない。

 そのため、交差点は、あぶなくてしかたない。横断歩道でも、青になったから……と、自転車
で走りかけると、その前を、猛スピードで、車が走りぬけたりする。

 そういうとき、そういうドライバーを見ると、うれしくなる。車の中で、私が、「ゴミの山の中で、
小さな花を見たようだ」と話すと、ワイフは、「少しおおげさじゃあない」と。

 しかし、私は、そう感じた。


●日本語の不思議

私は、「草」と「臭い」は、関係があると思う。「草の臭いがするから」「臭い」。つまり「臭い」の「ク
サ」は、「草」からきている、と。

 もともと日本語があったところへ、あとから中国語(漢字)がやってきた。こういう例は、少なく
ない。

 「カミ」というときは、「紙」「神」「髪」「上」など、いろいろに意味する。しかし全体としてみると、
上にあるものを、「カミ」という。「紙」にしても、昔は、高価なものであったらしい。あるいは祭事
のときに、使われたのかもしれない。

 ほかにもこうした例はある。

 「車で、来る」など。「車」の「クル」は、「来る」から派生したとも考えられる。(どこか苦しいが
……。)

 「木を切る」も、そうだ。「木」の「キ」と、「切る」の「キ」も、どこかつながっている。「木を切る」
から、「木る」となり、それに、漢字の「切」をつけた。

 もともと日本語というのは、そういう意味で、単純な言語である。こういう例は、世界を歩いて
みると、よくある。

昔、タイの学生が、「タイの大学では、理科は、英語で勉強している」という話を聞いたことがあ
る。「どうして?」と聞くと、「タイには、そういう専門用語が、まだないから」と。

 語彙(ごい)の数が、不足しているというわけである。

 で、単純ということは、未完成ということにもなる。「私は東京へ行く」でも、「行くのよ、私、東
京へ」と言うこともできる。「東京へさ、行く、私」と言うこともできる。語法など、あってないような
もの。

 つまりそれだけ、いいかげん。あいまい。

 で、今という時点においても、日本語が、どんどんと変化しているのがわかる。最近では、文
の終わりに、「シー」をつける子どもが多い。

 「ぼくは、行きます」というのを、このあたりの子どもは、「ぼく、行くシー」という。おかしな日本
語だが、みなが使うようになると、そのおかしさが消える。つまり日本語は、今の今も、進化中
ということになる。(あるいは退化中?)

 しかしこれだけはげしく変化すると、私ですら、ついていけなくなる。「きちんとした日本語で、
話せ」と言うと、「先生の言っていること、おかしいシー」と。

 とくに乱れているのが、インターネットの世界。(正確には、携帯電話の世界というべきか。)

「オイラのHPへの訪問ありがとうございます^^
人間ドックって体大丈夫なんですかぁ??^^;
ご家族のためにも健康でいてくださいね^^
でわまたのご訪問お待ちしていま〜す」と。

 無断で、あるサイトのBBSから拾ってみた。しかしまだこれなどは、よいほうなのかもしれな
い。意味がわかる。

 ところで私の書いている文体を、みなさんは、どう思うだろうか。古臭いと思うだろうか。多
分、そうだろう。私も若いころ、50代、60代の人が書いた文章を、読むことができなかった。
恐らく、みなさんも、そういう印象をもっているかもしれない。

 つまり日本語は、それくらいハ早いスピードで、変化しているということ。こんな例は、ほかに
は、ないのではないかと思う。つまりそれだけ、日本語は、原始的ということ。少なくとも、まだ
言語として完成されていない。

 最初に私があげた、同音異義の言葉が多いというのも、その理由の一つと考えてよい。


●自己効力感

 自己効力感……わかりやすく言えば、達成感のこと。「ヤッター」「できたあ!」という思いが、
子どもを伸ばす、原動力となる。

 つまり子どもは、まわりの環境に対して、変化を与えることの喜びを感ずる。いいかえると、
子どもは、いつも、何らかの形で、周囲に、働きかけようとする。これをW・H・ホワイトという学
者は、『コンピテンス』と呼んだ。わかりやすく言うと、「環境に対する交渉能力」ということにな
る。

 この能力をじょうずに育てることが、子どもをやる気のある子どもにするコツ、ということにな
る。

 といっても、むずかしいことではない。

 『求めてきたときが、与えどき』と覚えておくだけでよい。

 たとえば乳児であれば、おっぱいを求めてきたら、すかさず、ていねいに答えてあげる。さら
に大きくなって。何か新しいことができるようになったら、「よくできたわね」とほめてあげる。

 こういう環境の側からの反応を見ながら、子どもは、達成感を覚える。この達成感が、自己
効力感となり、その子どもを伸ばす。

 好奇心の旺盛な子どもは、こうして生まれるが、好奇心のあるなしは、子どもの行動を、少し
観察すれば、わかる。

 たとえばそっと、ひとり遊びをさせてみてほしい。そのとき、自分のまわりから、つぎつぎと新
しい遊びを発見したりしていくようであれば、好奇心の旺盛な子どもということになる。そうでな
い子どもは、遊びも単一化され、固定化される。ひとり遊びをさせると、「退屈ウ〜」「おうちへ
帰ろうウ〜」とか言って、ぐずりだす。

 もちろん過干渉、過関心などによって、親の趣向をおしつけてはいけない。子どもは子どもで
あって、あなたとは、別の人格をもった人間である。

 そういう一歩退いた見方が、子どもを伸ばす。


●子育て論と健康論

 子育て論は、どこか健康論に似ている。

 子育てがうまくいっている人には、子育て論は、必要ない。日々の子育てが、自然な形で、で
きていく。

 同じように、健康な人に、健康論は、必要ない。日々の健康が、自然な形で、できていく。

 子育て論にせよ、健康論にせよ、それが必要になるのは、何か、問題が起きたとき。が、問
題がなければ、必要ない。

 そこで子育て論にせよ、健康論にせよ、どうすれば、必要がなくなるか。実は、それについて
話すのが、究極の子育て論であり、健康論ということになる。

 たとえばざっとみても、難解な(私が説くような)子育て論など、まったく知らないような人でも、
実にじょうずに子育てをしている人がいる。

 一方、頭の中に、子育て論がいっぱい入っているはずなのに、子育てで失敗している人もい
る。

 それはたとえて言うなら、健康論に似ている。

日々に、とくに気をつかっているふうでもないのに、健康な人がいる。しかし健康に気をつかい
ながら、毎週のように、あちこちの病院に通っている人もいる。

 こうしたちがいは、どこから生まれるか?

 それを知るためには、「原点」にもどればよい。

 野に遊ぶ鳥や動物たちは、だれに教わるわけでもないのに、じょうずに子育てをする。もちろ
ん健康である。

 同じように人間も、過去数十万年の間、そのほとんどの期間、子育て論も、健康論も、必要
なしに生きてきた。つまり私たちの内部に潜む、「原点」にもどればよい。

 ただ今は、社会や、親や子どもたちを包む環境が、あまりにも複雑になりすぎてしまった。つ
まりその「複雑になりすぎた」分だけ、子育て論が、複雑になってしまった。しかし健康論の原
点が一つであるように、子育て論の原点も、一つである。

 むずかしいことではない。自然体にもどればよい。親も、子どもも、自然体にもどればよい。
あるがままの状態の中で、あるがままの子どもを認め、あるがままに子育てをする。無理をし
てはいけない。へたにがんばってはいけない。それこそ、「トビをワシにする」ようなことはして
はいけない。

 あとは自然の成りゆきにまかす。

 健康だって、そうだ。不自然な生活をするから、病気になる。本来、体を動かすべきときに、
動かさないから、病気になる。鍛えるべきときに、鍛えないから、病気になる。すべきことをしな
いから、病気になる。あるいは、愚かな人は、タバコを吸ったりして、自ら病気になっていく。

 このところ、「子育てって、もっと簡単なはずなのに」と思うことが多くなった。いろいろな親か
ら、相談を受けるたびに、そう思うようになった。極端な例だが、たとえばある母親が、「どうす
れば、もっと勉強ができるようになるでしょうか?」という相談をしてきたとする。

 そういうとき私は、ふと、「あきらめて、今の状態で満足しなさい」と言いそうになる。しかし考
えてみれば、これにまさる正論はない。その正論をねじまげようとするから、話が、おかしくな
る。複雑になる。

 私の健康を維持するために、私には、むずかしい医学論など、必要ない。私は今日も、自分
の健康を心のどこかで確認しながら、日課としての運動をこなせばよい。だからよけいに、こう
思う。

子育て論は、どこか健康論に似ている、と。

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司




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大学法文学部卒 はやし浩司 教育評論家 幼児教育評論家 林浩司 静岡県 浜松市 幼
児教育 岐阜県美濃市生まれ 金沢大学法
文学部卒 教育評論家 はやしひろし 林ひろし 静岡県 浜松市 幼児教育 岐阜県美濃市
生まれ 金沢大学法文学部卒 教育評論家
 はやし浩司・林浩二(司) 林浩司 静岡県 浜松市 幼児教育 岐阜県美濃市生まれ 金沢
大学法文学部卒 教育評論家 Hiroshi 
Hayashi / 1970 IH student/International House / Melbourne Univ. writer/essayist/law 
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